BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2019年1月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

2019年1月19日 (土)

松村武雄『日本神話の研究』の意義

松村武雄『日本神話の研究』の意義

 松村の『日本神話の研究』は地震神話研究の必要がでたときに購入した。購入して良かったが、こういう古典本は本はやはり政府の出版援助で買えるようにしておいてもらうと同時に、全文データベースにして、そこで自由に検索ができ、そしてPDFに飛べるといいと思う。
 
 日本はたとえ間違った解釈であったとしても「神話」を掲げて戦争をしたのだから、それを考えるための古典くらいは大事にしてもバチはあたらないと思う。バチ当たりな政治家、伝統などというのは口だけの「低劣」な存在には無理な話だが。
(「低劣」というのは、松村が使った戦争を推進した官権への罵りです。穏和な神話学者とおもっていたものが驚いた)。


神話学の松村武雄は、第二次大戦の敗戦直後、一九四七年に名著『日本神話の実相』を刊行して日本を戦争に導いてきた国家が神話を政治利用してきたことを正面から批判した。松村は、戦争中の「官権」は、(1)皇祖神アマテラス、(2)皇祖と国土の一体性、(3)アマテラスの詔命による天皇の統治権限、(4)皇統は尊厳にして永遠などの観念のみを神話として扱ったという。しかし、松村によれば、これは「天皇氏観想」のレヴェルでの神話であって、倭国神話においては二次的(後次的)なものにすぎない。問題は、それより根源的・一次的な神話、本来の民族生活から生み出された神話を明らかにし、考説することにあるのであるが、国家は、「天皇氏観想」レヴェルの神話のみを国民的信念として広めることに狂奔し、それ以外のことをいう神話学者を些細な語句をあげつらって「不忠者・非国民」呼ばわりをしたという。松村が、そのような官権の低劣・無知を、極めて厳しい筆致で非難するのは、そのような国定神話が「我が国民に空前にして恐らく絶後である惨敗の苦杯を満喫せしめた」という苦い事実を神話を研究するものとして認めざるをえなかったためであろう。

 松村のこのような立論は津田の議論に対して、一面賛成、一面では反対ということになる。つまり、松村は「天皇氏観想」レヴェルの神話が朝廷などの「ある特定の少数者の意識的工夫」によって作られたことを認める点で津田と同じ立場に立つことを明言する。しかし、その上で松村は神話は「古代人が我々に残した見事な生活報告書であり、文化記録である」のであって、そこには「(祖先のもった)民族的もしくは国民的理念・理想」も読み取ることができ、そのような神話の真正な姿・意義、つまり一次的あるいは根源的な神話を明らかにしなければならないという。この津田批判は正しく、たしかに津田の学問方法は基本的に文献学であって、神話学的な思考方法はきわめて未熟であったというほかないだろう。

 松村は、このような立場に立って、大著『日本神話の研究』(一巻~四巻)を出版して、戦後における倭国神話研究の基礎を作った。松村がそこで強調したのが、倭国神話における「宇宙生成神話」の実在である。これは「天皇氏観想」の神話よりも奥底にある自然神話ということになるが、松村は倭国神話における宇宙生成神話の位置を論じて、まず「ここでは宇宙創成論は、一面においては漢土の典籍からの単なる借物であり、他面においては自生的ではあるが、太だしく簡単な神名の列挙に過ぎぬ」(『日本神話の研究』巻一①136)ことは津田の言う通りであるとする。しかし、それは「政治的に一つの中心を確立しようとする精神、もしくは該精神の下に活動したとされる神々(それは天皇氏の祖先に他ならぬ)の人物的事業を説く神話」のために「自ずからなる淪匿を強いられた」結果であるという。つまり、宇宙生成神話は「淪匿」されているのであり、それ故に、逆にいえば『古事記』『日本書紀』のなかに隠されている、より一次的・根源的な「宇宙生成神話」を発掘し、明らかにすることこそが神話学の課題であるというのである。これは津田に対する肯定と批判の二面がそのまま展開されたものといってよい。

 松村は、『日本神話の研究』において、それを前提に倭国の古典神話のなかに残る自然神話の痕跡を詳しく指摘していく。そのなかでもっとも重要なのは、津田がイザナキ・イザナミの「ミトの婚合」による列島の産出を、「土地の起源が人の生殖として語られたことは世界に類例がない」として、これは神話編者による「(中国的)潤色」であるとしたことへの異論であろう(松村武雄『日本神話の研究』(1)第三章国生神話)*3。松村は、第二次大戦直後の知識人世界のなかで、この津田の指摘が自明なことのように扱われているのに対して、神話学の方法においては国生は言葉通り女神が国を生んだことと理解しなければならないとして、(フランス領ポリネシア)のソサイェティ諸島やマルケサス諸島の神話でも太初に神が島々を生んだことを例示した。さらに国生に続く神生神話においてイザナミが火の神カグツチを生んでホトに火傷を負って死去したことは、イザナミのホトが火山火口であったことを示すとしたのである。神話学の大林太良は、それを引き継いで出産によって国や島が生まれるというスタイルの神話は、太平洋地域に広く分布していることを示している。その意味では松村が、この国生の理解において「端的直截に国々そのもの島々そのものを生みましたとして受け取るのが却って古き代の日本民族の観想思考に忠実に即する所以であろう」というのは正しいのである。

 しかし、疑問があるのは、松村が、これらの「国生・島生」を「正真正銘の生理的な島生み」とまでいうことである。つまりイザナミにそくしていえば、彼女は「国生」において「生理的な島生み」をし、神生みにおいてカグツチの出産の時にのみ、自己のホトを火口としたということになる。ポリネシアには火山が多いことはいうまでもないから、これは「国生・島生」を火山神話の表現であるとすれば首尾一貫して問題をとらえることが可能になるはずである。松村は大著『古代希臘に於ける宗教的葛藤』では、ギリシャの火山神話についても充実した仕事をしているから、なぜ、そう考えなかったかについては不思議に思える。これは第一にはおそらく当時の神話学研究においてはいわゆる自然神話学説は低調となり、火山神話という神話類型が不明確であったためであろうか。松村が小川啄治の大己貴(大国主)に地震神としての性格を想定する見解に対して拒否反応に近い態度をみせていることからしても、そのように考えられるように思う。これは「宇宙生成神話」を強調する松村の議論における大きな齟齬であるようにみえる。

 そして、もう一つ無視できないのは、松村が「国生・島生」を「正真正銘の生理的な島生み」とまでいう意味が「古き代の日本民族には『むすび』(産霊)の観念・信仰が普遍的であり且つ強烈であった。国生神話の如きも、そうした観念・信仰が迫出した一種の生殖説話であると解してもいいであろう」という点にあったことである。ここで松村は本居→平田→折口に続く産霊神学の議論にそのまま乗っかっているのである。倭国神話の研究史において松村の仕事は決定的な意味をもっているのであるが、その発想がしばしば柳田国男ー折口信夫の日本民俗学に依拠している。とくに折口の発想の鋭さに対して、松村はしばしば讃辞に近いことを述べている。私は、結局、これが「産霊」という概念に松村が乗っかってしまった理由であると思う。産霊という概念を認め、その概念にそってタカミムスヒを理解するという点で、松村は津田と同じであったことになる。

2019年1月18日 (金)

「まどこおふすま」は大嘗祭の天皇霊付着布団ではなく、火山繊維。

 『日本書紀』本文に「高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆ひて、降りまさしむ」とある天孫ニニギが包まれた真床覆衾も同じようなものであったと考えることができる。折口信夫のいうのは間違い。

 『日本書紀』には六七八年(天武七)十月に、難波に降って、松林や葦原に垂れ下がった「綿のごとき」物がみえる。この「綿のごとき」物は「長さ五・六尺(一・六㍍)、広さ七・八寸(幅二二㌢)」という相当の大きさであるが、これはハワイ火山でみられるペレーの毛といわれる繊維状の火山噴出物、あるいはそれにスポンジ状のレテイキュライトのようなものが絡まったようなものではないだろうか(ペレーはハワイの火山の女神)。

 なお、この「綿のごとき」物の長さが一・六㍍、幅が二二㌢というのは長大であるが、若干の誇張はあったとしても火山毛として異常な数値という訳ではない。今村「降毛考」*8には「馬毛」「白毛」などという呼称がみえ、一八三六年(天保七)の例では長さ三尺という。藤木久志『日本中世気象災害史年表稿』には「龍毛・馬毛」(四〇二)「氷毛」(四〇三頁)などとみえ、一六〇八年に豊前で記録された「馬毛」も「長サ三尺程アリ」とされている。

 これが大森房吉『日本噴火志』(一九一八)の第三表「降灰及ビ火山毛降下ノ記事」に掲載されていることも付言しておきたい。『日本書紀』がこのようなものが天より降るのを「甘露」として縁起のよいものとするのも、前述の火山灰を「米花」と称する意識に似てくるようにも思う。

 もちろん、もしそうだとしても、この「綿のごとき」物を供給した噴火がどの火山かは不明であるが、文献では知られない噴火の存在を想定することも必要だろう。もちろん、それは日本の火山とは限らない。火山学の谷口宏充の教示によれば、一三七三年の朝鮮の白頭山噴火では朝鮮半島に「白毛長二寸、或三四寸、細きこと馬の鬣(たてがみ)のごときもの」が降ったという(『高麗史』巻五四志第八、恭愍王二二年)。実際、一〇世紀、九四六年に同じ白頭山で噴火があったときには、白頭山の火山灰が日本にも大量に飛来したことが文献と火山灰分析によって知られている。したがって、この七世紀、六七八年の「綿の如き」物も朝鮮など他国の火山の噴出物であった可能性も否定できないだろう。

 このような火山噴出物が天から降下するものとして神秘化され、王の降臨にともなう呪物として神話のなかに取り入れられていくということは十分にありえるのではないだろうか。

 なお、この結論はすでに『物語の中世』(講談社学術文庫)のあとがきに書きましたので、この記事を掲載したものです。

2019年1月11日 (金)

火山神としてのタカミムスヒと『荘子』、そして桜島噴火

 以下は現在執筆中の論文の冒頭部分の一部ですが、基本部分は『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)、『現代語訳 老子』(ちくま新書)などで書いたもののパラフレーズですので、ブログにアップします。

 ただ、『荘子』の「天均」の理解については、ここのみのオリジナルなものです。この「天均」を、文字通り「天のろくろ」であると考えて小説の題名に使ったのがアーシュラ・K・ルグィンでした。『天のろくろ』 (1979年) (サンリオSF文庫)。この文庫の訳者、脇明子氏は、『荘子』の注釈本を点検し、どの注釈書でも、「天の平均化作用」などと抽象的な概念として説明されていたので、やむをえず、これはルグインの誤解であったかもしれないとしました。

 しかし、下記に書いた私見では、ルグィンの理解で問題はなかったことになります。これは何人かの東洋史研究者に意見を聞いたのですが、従来の注釈書が正しいというご意見でした。

 ブログに審査などがないままオリジナルな見解を載せることは(学界の現状では)さけた方がよいという原則で書くことにしています。見解の発表が早い者勝ちとなり、万が一若い方に迷惑をかけることが心配ということです。ただ、以上からすると、このような見解は東洋史では突飛なものですので実害はないと考え、掲載することにします。火山神話について一刻も早く社会の理解を求めるのは必要なことと考えますのでお許しください(半年の内にはゲラから本にする積もりです)。


火山神としてのタカミムスヒと『荘子』

 タカミムスヒの神格を示す史料としてきわめて重要なのが、だいたい五世紀末と考えてよい『日本書紀』にみえる「鎔造神」タカミムスヒという記事である。そしてそれは天孫降臨神話におけるタカミムスヒの火山神としての神格に連続してくる。

 まずこの「鎔造神」タカミムスヒの史料からみていくが、これは『日本書紀』の顕宗紀三年条に、月神と日神がおのおの託宣して、タカミムスヒを「我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔造する功有り(祖先のタカミムスヒはかって天地を鎔造するという功績があった)」と述べたという記事である。

 史料の全文は後に掲げるが、問題はこの「鎔造」とは、『和名抄』に「鎔」が「鎔<いがた>、鋳鉄の形なり」と説明され、また中国の最古の部首別文字辞書『説文解字』(AD一〇〇頃成立)にも「器を冶(い)るの法なり」とあるように、金属の器を鋳型によって鋳造するという意味であることである。月神と日神が、「我が祖」タカミムスヒが天地を鎔造したというのは、タカミムスヒが月と日の浮かぶ世界と宇宙を巨大な火炎によって作り出したのだといったと託宣したということである。

 この世界を「鎔造」する作る巨大な火は、火山の大噴火ということではないだろうか。ギリシャ神話のゼウスは巨大な雷電の神であるが、火山神ヘファイストス(ヴァルカン)を手下としていたから、雷電神であると同時に噴火神であるといえるかもしれない。またユダヤの「エホバ」の神は雷神であると同時に噴火神である。ただ、ここでは、それらの神々でなく、大林太良が紹介したインドネシアのモルッカ諸島のセラム島につたわる次のような神話を紹介したい(『神話の系譜』206頁)。これは現代神話学の基礎をつくったイェンゼンによるセラム島の神話研究からの紹介であって神話学にとってはきわめて大きな意味をもっているものである*1。

 むかし、父なる天は母なる大地の上に横になり、性交していた。天と地は、当時はまだ今日よりも小さかった。この天地の結婚から、子供としてウプラハタラが生まれ、ついで弟のラリヴァと妹のシミリネが生まれた。彼らは両親の天と地との間に住む場所がなく、ついにウプラハタラが天を上に押し上げた。すると大地震が起こり天と地は拡大して今日のように大きくなった。天と地の分離の際には、地上にはまだ暗黒が支配していた。ところが、大地震のとき、火が地中から生まれ出し、地上には木や植物が萌え出で、山々がそびえ立った。ウプラハタラは、ダンマルの樹脂で大きな球をつくって火をつけ、天にほうり上げて、日と月を作った。


 世界創造神話の中で、これだけ「火」が強調される類例はめずらしいように思うが、ここに登場する「父なる天・母なる大地」という巨神の姿自体は世界の神話にしばしば登場するものである。もっとも有名なのは、ギリシャのウラノスとガイアの神話であって、それは天空ウラノスと大地ガイアがつねに相抱擁しているので、二人の間に生まれた子供たちが鬱陶しさに苦しんでいたとはじまる。そのため、子供たちは、両親を引き離そうとしたが、結局、男子クロノスが大鎌をふるってウラノスの陽根を切り取ったので、ウラノスは苦しみ、驚いて高く遁れ退いたという。そして、これとまったく同趣旨の神話がニュージーランドのマオリ族の天父ランギと地母パパの神話であって、やはり固く抱き合っていた二人の間で暗黒の中にいた子供たちは、二人を引き離し、母なる大地ランギをみずからのものとしようとして、天父を突き上げたというのである。

 これらの神話の中でも、このセラム島の神話は火山噴火を神話化したことが容易に想定できる点で貴重なものである。インドネシアはオーストリアプレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレートの会重地帯であって、セラム島は火山島ではないが、西南で接するアンボン島は火山島であり、インドネシア南部に密集する火山帯とフィリピン諸島を南下する火山帯のちょうど交点に位置する。それを前提にすると、この神話は、地震と噴火によって天地が大きく広がり、山と大地が生まれ、そして噴火と地震にともなって地中から噴き出した「火」、大きな樹脂の珠に火をつけて天にほうり上げて、日と月を作ったというイメージであろう。

 神話学研究において火山・地震にふれたものは多くない。しかし、それは大林の依拠したイェンゼンは、このようなタイプの神話に登場する火をもっぱら焼畑農耕と深く関係するものであるに違いないとしたためである可能性が高い。つまりイェンゼンはセラム島のヴェマレ族のもとで聞き取ったハイヌヴェレ(ココ椰子の枝)から生まれた女の子が殺され、その死体の各部分から焼畑のイモが生まれたという農業起源神話に注目した。そして、これと類似した神話がインドネシアからフィリピン、さらに南米にまで、環太平洋の全域に分布していることを発見し、それをハイヌヴェレ神話と名付けたのである。しかし、ゴーガンの『ノアノア』にも男神が火の柱となって天に上るという一節があることからすると、ハイヌヴェレ神話における「火」の神話は、焼畑農耕のみでなく、環太平洋地域が地球上でもっとも顕著な火山地帯であることとの関係をみるべきではないだろうか。

 それは神話学プロパーの研究にゆだねるが、ともかく、このセラム島の神話はタカミムスヒによる天地鎔造の中で月と日が生まれたという『日本書紀』の記事が火山神話と解釈する上できわめて示唆的なものであることは明らかである。とくにこのセラム島の神話が「父なる天・母なる大地」の第一世代と、その子のウプラハタラ・弟ラリヴァ・妹シミリネの世代の第二世代からなっており、そして、子どもの世代が日月を創造したというのはきわめて興味深い。これは倭国神話にあてはめれば、タカミムスヒ・カミムスヒが「父なる天・母なる大地」であり、イザナキ・イザナミが第二世代のウプラハタラや妹シミリネなどにあたり、アマテラス・ツキヨミ・スサノヲなどは、さらに第二世代が生み出した日・月にあたるということになろうか。

 もちろん、歴史学の立場と方法は、この神話学的な推論にそのまま依拠することを許さない。しかし、タカミムスヒの「天地鎔造」が火山噴火を意味する可能性を直接に示唆するのは、七六四年(天平宝字八)の大隅の海中火山の噴火を伝える『続日本紀』の記事である。この噴火は地質調査をふまえた歴史火山学的な研究によって、桜島の東部の鍋山を形成した噴火であることが確定している(小林哲夫「桜島火山の地質:これまでの研究の成果と今後の課題」『火山』27巻4号)。この火山噴火は「西方に声あり、雷に似て雷にあらず。烟雲晦冥して、奔電去来す」とあるから、奈良の都にまで「雷音」のようなものが聞こえ、現地は一帯が暗くなるほど煙雲が立ちこめ、雷電が走ったという大規模なものであった。、、しきりに落雷が響いたが、七日後、雲が晴れると信爾村の沖に三つの火山島ができているのがみえ、依然として噴煙が立ち上っていたという。そして、七日間ものあいだ立ちこめていた暗雲が晴れると、土砂と石が集まって三つの島ができあがっていた。現在、「三つの島」は見えないが、それは鍋山のあたりが後に噴出した溶岩によっておおわれてしまって桜島に合体したためである。ここには当時の人々が考えられる限りでの巨大な火があったといってよい。

 重大なのは、この島が「神造」の島とされて、その噴火の様子が「炎気露見すること、冶鋳の為(しわざ)のごとくなるあり」と報告されていることで、「冶鋳」とは冶金と鋳造ということであるから、ここでは火山噴火が、神が鍛冶や鋳造をいとなんだものとイメージされているのである。タカミムスヒの「鎔造」と同じことである。桜島の中腹から「炎気(=噴煙)」が上る様子を巨大な溶鉱鑪から火煙がみえるようだということになる。これにより、歴史学の立場からも、タカミムスヒの「天地鎔造」が火山噴火の神話的なイメージをいったものであることが明らかとなる。そもそも鍛冶の神=ヴァルカンVulcanと火山=ヴォルケーノVolcanoが同じ語源の言葉であることが示すように、鍛冶と火山には深い関係がある。これは洋の東西をとわないことであったに違いない。タカミムスヒの「天地鎔造」の火は、たしかに火山のマグマと噴火からイメージされた巨大な火なのである。

 この桜島史料にはじめて注目したのは益田勝実の『火山列島の思想』である。益田は倭国の神話のなかで火山神話の占める位置に注目した数少ない研究者の一人であった。しかし、益田は、残念ながら、この神の仕業が「冶鋳」とされていたことの意味にまでは立ち入らなかった。益田が注目したのは後の史料で、この噴火の結果が「大隅国海中に神ありて嶋を造る。その名大穴持神といふ。ここに至って官社となる」と記録されていることであった(『続日本紀』天平宝字八年十二月、天平神護二年六月五日、宝亀九年十二月)。増田は、この大隅の海底火山の神が「大穴持神」、つまりいわゆる大国主命の神とされていることに注目して、直接に日本列島の国造りの神としてのオオナムチの神格を明らかにするという方向に進んだのである。その仕事が倭国の神話論の中枢部分にはじめて測錘を降ろすことに成功したものであると思う。

 しかし、この問題は大国主命=オオナムチのレヴェルで扱うべきことではなく、火山噴火は世界創造神話のレヴェル、始源の神、タカミムスヒの「天地鎔造」の神格の問題として検討されなければならないことは明らかであろう。そして、その際に必要なのは、『古事記』『日本書紀』の記述のなかに入り込んでいる中国思想の表現を検討しておくことである。そもそも「鎔造」という言葉は、前述のようにすでに平田篤胤が「鎔造は漢籍どもに、造化之所鎔造也など見えて、無りし物を自然の運行に依て造化よしに言えれば、然る意を得て、本無りし天地を造出給える事にかきなされけん」(『古史伝』)とあるのである。これは改めて調べてみると、『文選』(三九巻)におさめられた任昉(じんぼう)(四六〇 -五〇八年、梁の武帝の側近)の「上蕭太伝固謝奪礼啓」という書のことである。この書は任昉が父の喪に服するために官職を辞す事情を述べたものであるが、そこに「(自分は)品庶において鎔造を均しきことを示す」とある。つまり自分は多くの人々と同様に天が鋳型に入れてつくった存在にすぎず、特別な待遇を求めないと述べたものである。そして、平田が引用したのはこの『文選』の注に「鎔造、造化の鎔鋳する所のものなり」という部分である。この時代、『文選』は日本でも必須の教養書とされていたというから、『日本書紀』のこの用例も、ほぼ『文選』によったものといってよいだろう。時期はやや降るものの、空海の著書『三教指帰』(巻中)に「洪鑪鎔鋳して憎愛の執を離る」(天地の大きな溶鉱鑪が鋳物を鎔造する際にはあれこれの憎愛の執着から離れなければならない)とあるのも典拠は同じようなものであろうか。

 中国には、古くから、天地が万物を創成する様子を鑪や橐籥(たくやく)やを用いて金属器を鋳造する作業にたとえることがあった。たとえば『荘子』(大宗師)には「天地をもって大鑪となし」という一節がある。天地とは「大鑪=鋳物の溶鉱鑪」のようなものだというのである。子来という哲人が瀕死の床に横たわったとき、悲しみ嘆く家族を遠ざけて友人に自分の心象を述べたものである。子来はこの天地を「大鑪」=巨大な溶鉱鑪であると考えれば、その中で自分の運命を「こうしてほしい、ああしてほしい」などと叫ぶのは滑稽なことである。それは溶かされる鉄が「おれを名剣にしてほしい」と躍り上がって叫ぶようなもので、鼠の肝になろうと、虫の触枝になろうと、それはどうでもいいことだ。そうではなく「造化の働きを立派な「大冶」(鋳物師)と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」(「造化をもって大冶となさば、悪(いづ)くにか往くとして可ならざらんや」)と述べたというのである。趣旨は右にみた任昉(じんぼう)の詩と同じことである。これは『荘子』であるから、一種の寓話のように語られたものであるが、それでも「天地を大鑪=巨大な溶鉱鑪と考える」という観念は明らかである。

 また『老子』には橐籥(たくやく)、つまりフイゴ(鞴)が登場する。それは「天と地との間は、其れ猶お橐籥(たくやく)のごときか。虚にして屈(つ)きず、動きて愈々(いよいよ)出ず」(五章)というもので、現代語訳すれば、「天と地との間はフイゴのようになっていて、天地が上下に運動することによって風が吹き出し、人間などは簡単に吹き飛ばしてしまう」というのである。これは『菅子』宙合篇にもほぼ同じ観念がみえるが、鋳物を造るため熔鉱炉(大鑪)に送風するためのフイゴである(参照、池田『老子』東方書店。第五章注釈)。拙著『現代語訳 老子』でふれたように、中国では殷王朝以来、青銅器の鋳造技術を極限まで発展させた。そして、春秋時代にはこれに続いて鉄の鋳造(ちゆうぞう)技術が発展した。世界の鉄器製造の歴史では、普通、鍛鉄(たんてつ)が先行するから、これは中国に独特なことであったが、それを可能にしたのが溶鉱鑪の熱を上げるための送風装置、鞴の開発であったという。天地が巨大な溶鉱鑪であり、またそれ自体、巨大な橐籥(たくやく)=鞴であるというイメージは、こういう金属鋳造の伝統の中で作られた宇宙創造神話であったというべきであろう。

 その観点でみてみると、『荘子』(庚桑楚篇)には天には「天鈞」というものがあり、学識や実力があるだとか、弁が立つだとかいって人間の限界を踏み越えるものは、この「天鈞」によってすり減らされ破壊されるとある。この「天鈞」は『荘子』の注釈では「天の平均化作用」などと抽象的な概念として説明されるだけだが、これも万物創成を金属器鋳造にたとえる思考法を示すものとしていいのではないだろうか。そうだとすれば、この「天の均(轆轤)」というのは材木をけずったり、土器を作ったりするロクロではなく、鉱石を粉砕する強力な「鈞=轆轤(ろくろ)」轆轤のイメージであろう。「天均」で粉砕した鉱石を巨大な「大鑪」に入れ、「橐籥(たくやく)」で送風し鎔解するという訳である。

 このような思想が宇宙生成を金属器鋳造にたとえる神話や老荘思想の子枠を超えて、一つの宇宙観にまで一般化していったことは、前漢の時代の儒者、賈誼(かぎ)(紀元前二〇〇~一六八)が、その「服鳥賦」に「それ天地をもって鑪となし、造化の工となり、陰陽の炭となり、万物銅となる」と述べていることに明らかである。前記の任昉(じんぼう)の詩はその発展であり、また北齊の人、杜弼の「議生滅論」で「所論福果を論ずるところ、可以性靈を鎔鑄し、弘く風教を奬むべし。益の大なること、斯れに極まることなし」とあるのも同じことである。
 私は、こういう思考法の中から、天体観測にもとづいて天空が大地の上に蓋のように覆いかぶさっている(蓋天説)、あるいは卵の殻のような天球の中央に大地が浮かんでいる(渾天説)などの一種の宇宙構造論が発達していったのではないかと思う。八世紀の日本でも、律令によれば、暦算の技術者は蓋天説の記された『周髀算経』を学ぶべきものとされていた(細井浩志「日本古代の宇宙構造論と初期陰陽寮技術緒起源」『東アジア文化環流』第一編第二号)。蓋天説は渾天説とくらべて古い学説であるというが、それが日本で正規の学説とされた理由は、おそらくあるいは六世紀末くらいから、それが日本に根付いていたためなのであろう。六世紀に百済からやってきた五経博士は、当然にこれらの宇宙論ももってきたはずである。「天地鎔造」とは、こういう宇宙の構造に「蓋」や「卵」を想定する観念を反映していたものなのであろう。

 『日本書紀』は、こういう中国的な宇宙論的用語を借用して、タカミムスヒの火山神としての姿を描き出した訳である。中国の「天地鎔造」には火山神話の側面はなかったと思われるので、これはあくまでも流用という側面はあるが、しかし「大鑪(だいろ)」「橐籥(たくやく)」を組み合わせた「鎔造」のセットは火と風、まさに火山である。この「鎔造」という言葉が、日本における火山噴火と金属精錬技術という物語につらなうものとしてタカミムスヒの神格を表現するのに使われたのは自然なことであったろう。この点で興味深いのは、唐の天宝年間(742年—756年)の頃の人、張仲甫の『雷賦』という詩であって、そこには「粤若(エツジヤク)(ここに)古えを稽えるに、太始の初め、陰陽は和して炭となり、天地は張りて爐となり、品類を鎔鑄し、清虚を陶汰す。これを四海と名づけ、これを八區と謂う。陰陽は相い盪(うご)き、感じて雷となる乎。號して天地の鼓と曰う」とある。いちおう現代語訳しておくと、「太初の始めに、万物の「陰陽」(男性的要素と女性的要素)が合一して燃える炭となり、天地が張り切って丸くなって「爐」のようになって、その内部で様々な類のもの、万物(品類)を金属のようにどろどろに溶かして、そこから清く虚なものを淘汰した。こうして四海や、天下の八區の名ができたのである。そして陰陽が一緒に動いて感じて雷となるが、これはまさに天の鼓である」ということになる。こういうイメージを前提として、「天地鎔造」という言葉が火山の大噴火によって世界が形成されるという神話的な文脈で使用されたのである。

 こうしてタカミムスヒは巨大な火焔を象徴する神であり、より具体的には火山噴火を象徴するような天地創造の自然神であったということになる。にわかに賛同しがたいかもしれないが、しかし、ギリシャ・ローマ神話における鍛冶の神=ヴァルカンVulcanと火山=ヴォルケーノVolcanoが同じ語源の言葉であることからいっても、鍛冶と火山に深い関係があるのは自然なことではないだろうか。溝口の「タカミムスヒ=鍛冶神」論の根拠となったものであるが、実際には、これはタカミムスヒの火山神としての神格を物語るものといってよい。

2019年1月 4日 (金)

私の核時代後年号を使った年賀状です。

私の核時代後年号を使った年賀状です。

0001


2019年1月 2日 (水)

サンダースは第三党立候補に戦略を変化さぜるのかも知れない

サンダースは、今度はどうする積もりか。
エリザベス・ワレンが民主党の予備選に立候補する方向を示した。サンダースはあるいは第三党立候補に戦略を変化さぜるのかも知れないと思う。これも厳しい道だが、その方向はサンダースしか取れないだろう。
しばらく注視していくことが必要だと思う。

以下、サンダースの新年の挨拶です。

Jane and I want to take this opportunity to wish you and yours a very healthy and happy new year.

It goes without saying that 2019 will be a pivotal and momentous time for our country and the entire planet. As you know, there is a monumental clash now taking place between two very different political visions. Not to get you too nervous, but the future of our country and the world is dependent upon which side wins that struggle.

The bad news is that in the United States and other parts of the world, the foundations of democracy are under severe attack as demagogues, supported by billionaire oligarchs, work to establish authoritarian type regimes. That is true in Russia. That is true in Saudi Arabia. That is true in the United States. While the very rich get much richer these demagogues seek to move us toward tribalism and set one group against another, deflecting attention from the real crises we face.

The good news is that, all across this country, people are getting politically involved and are fighting back. They are standing up for economic, political, social and racial justice.

In the last year we saw courageous teachers, in some of the most conservative states in the country, win strikes as they fought for adequate funding for education.

We saw low paid workers at Amazon, Disney and elsewhere undertake successful struggles to raise their wages to a living wage — at least $15 an hour.

We saw incredibly courageous young people, who experienced a mass shooting in their school, lead successful efforts for commonsense gun safety legislation.

We saw diverse communities stand together in the fight against mass incarceration and for real criminal justice reform.

We saw tens of thousands of Americans, from every walk of life, take to the streets and demand that politicians respond to the global crisis of climate change.

As we enter 2019, it seems to me that we must mount a two-pronged offensive. First, we must vigorously take on the lies, bigotry and kleptocratic behavior of the most irresponsible president in the modern history of our country. In every way possible, we must stand up to the racism, sexism, homophobia, xenophobia and religious intolerance of the Trump administration.

But fighting Trump is not enough.

The truth is that despite relatively low unemployment, tens of millions of Americans struggle daily to keep their heads above water economically as the middle class continues to shrink.

While the rich get richer, 40 million live in poverty, millions of workers are forced to work two or three jobs to pay the bills, 30 million have no health insurance, one in five cannot afford their prescription drugs, almost half of older workers have nothing saved for retirement, young people cannot afford college or leave school deeply in debt, affordable housing is increasingly scarce, and many seniors cut back on basic needs as they live on inadequate Social Security checks.

Our job, therefore, is not only to oppose Trump but to bring forth a progressive and popular agenda that speaks to the real needs of working people. We must tell Wall Street, the insurance companies, the drug companies, the fossil fuel industry, the military-industrial complex, the National Rifle Association and the other powerful special interests that we will not continue to allow their greed to destroy this country and our planet.

Politics in a democracy should not be complicated. Government must work for all of the people, not just the wealthy and the powerful. As a new House and Senate convene next week, it is imperative that the American people stand up and demand real solutions to the major economic, social, racial and environmental crises that we face. In the richest country in the history of the world, here are some (far from all) of the issues that I will be focusing on this year. What do you think? How can we best work together?

Protect American democracy: Repeal Citizens United, move to public funding of elections and end voter suppression and gerrymandering. Our goal must be to establish a political system that has the highest voter turnout in the world and is governed by the democratic principle of one person — one vote.

Take on the billionaire class: End oligarchy and the growth of massive income and wealth inequality by demanding that the wealthy start paying their fair share of taxes. We must rescind Trump’s tax breaks for billionaires and close corporate tax loopholes.

Increase Wages: Raise the minimum wage to $15 an hour, establish pay equity for women and revitalize the trade union movement. In the United States, if you work 40 hours a week, you should not live in poverty.

Make health care a right: Guarantee health care for everyone through a Medicare-for-all program. We cannot continue a dysfunctional healthcare system which costs us about twice as much per capita as any other major country and leaves 30 million uninsured.

Transform our energy system: Combat the global crisis of climate change which is already causing massive damage to our planet. In the process, we can create millions of good paying jobs as we transform our energy system away from fossil fuel and into energy efficiency and sustainable energy.

Rebuild America: Pass a $1 trillion infrastructure plan. In the United States we must not continue to have roads, bridges, water systems, rail transport, and airports in disrepair.

Jobs for All: There is an enormous amount of work to be done throughout our country — from building affordable housing and schools to caring for our children and the elderly. 75 years ago, FDR talked about the need to guarantee every able-bodied person in this country a good job as a fundamental right. That was true in 1944. It is true today.

Quality Education: Make public colleges and universities tuition free, lower student debt, adequately fund public education and move to universal childcare. Not so many years ago, the United States had the best education system in the world. We must regain that status again.

Retirement Security: Expand Social Security so that every American can retire with dignity and everyone with a disability can live with security. Too many of our elderly, disabled and veterans are living on inadequate incomes. We must do better for those who built this country.

Women’s rights: It is a woman, not the government, who should control her own body. We must oppose all efforts to overturn Roe v. Wade, protect Planned Parenthood and oppose restrictive state laws on abortion.

Justice for All: End mass incarceration and pass serious criminal justice reform. We must no longer spend $80 billion a year locking up more people than any other country. We must invest in education and jobs, not jails and incarceration.

Comprehensive immigration reform: It is absurd and inhumane that millions of hardworking people, many of whom have lived in this country for decades, are fearful of deportation. We must provide legal status to those who are in the DACA program, and a path to citizenship for the undocumented.

Social Justice: End discrimination based on race, gender, religion, place of birth or sexual orientation. Trump cannot be allowed to succeed by dividing us up. We must stand together as one people.

A new foreign policy: Let us create a foreign policy based on peace, democracy and human rights. At a time when we spend more on the military than the next ten countries combined, we need to take a serious look at reforming the bloated and wasteful $716 billion annual Pentagon budget.

In the New Year, let us resolve to fight like we have never fought before for a government, a society and an economy that works for all of us, not just those on top.

Wishing you a wonderful new year,

Bernie Sanders

2018年12月18日 (火)

『老子』二八章ーー英訳してみました。 

『老子』二八章ーー英訳してみました。 

女は男を知り、男は女を守り、世界の原初の谷間を開く。谷間には永遠の気が戻ってきて赤ん坊が生まれる。女が男の白い輝きを知り、男が女の黒い神秘を守れば、二人は世界の秘密を映す式盤となる。式盤には永遠の気が満ちて、無極の場所がみえる。女が男の栄誉を知り、男が女を恥辱から守れば、世界には豊かな渓谷が広がっていく。豊かな渓谷には永遠の徳(いきおい)が満ち足りて、原生林の大木(「樸(あらき)」)が戻ってくる。大木は切って器にするが、有道の士は、そのままで国を代表できる。大材を製(つく)するには、できるだけそれを割らないことだ。


Knowing man
and protecting woman,
lovers go to the riverbed of the world.
Where the eternal power
come true again in the infant baby.

Knowing light
and protecting dark,
be a horoscope of the world.
There the eternal unerring power
come back again to boundlessness.

Knowing glory
and protecting humiliation ,
be the valley of the world.
There the eternal power
come again to fulfill the forest .

Ntural wood is cut up
and made into useful things.
But wise souls are natural
to make into leaders of countries.
Just so, a great caving
is done without caving.

其の雄(おす)を知り、其の雌(めす)を守れば、天下の渓(たに)と為る。天下の渓と為れば恒徳離れず、嬰児(えいじ)に復帰す。其の白を知りて、其の黒を守らば、天下の式と為る。天下の式と為れば、恒徳は差(たが)わず、無極(むきよく)に復帰す。其の栄を知りて、其の辱を守らば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、恒徳は乃(すなわ)ち足り、樸に復帰す。樸は散じて則(すなわ)ち器を為(つく)る。聖人はこれを用いれば則ち官の長と為(な)る。故に大制(たいせい)は割(さ)かず。

知其雄、守其雌、為天下渓。為天下渓、恒徳不離、復帰於嬰児。知其白、守其黒、為天下式。為天下式(1)、恒徳不差(2)、復帰於無極。知其榮、守其辱、為天下谷。為天下谷、恒徳乃足、復帰於樸。樸散則為器。聖人用之、則為官長。故大制不割。
(1)「式」は「栻」の略。(2)底本「忒」。「差」の意。

従来の解釈、現代語訳とは相当違っていますが、主語を男女にしたことなど、詳しくは拙著『現代語訳 老子』(ちくま新書)をご覧下さい。現代語訳は新稿です。ルグィンの英訳によった部分があります。

2018年12月10日 (月)

書架散策  永原慶二著『源頼朝』

以前、永原先生について書いた小さな文章もでてきたのであげておきます。
 もう70になったので、書いたメモは上げておかないと残らないので。

書架散策  永原慶二著『源頼朝』


 私のもっている『源頼朝』は、実は従姉妹のもので、高校の頃、彼女の部屋だった田舎の土蔵の二階で手にして、勝手に貰ってしまったものである。自分の部屋をもっていなかった私は、土門拳の写真集があったその土蔵の二階が今でも懐かしい。そこで本書を読んだことが、歴史研究に進む一つの機縁であった。

 永原氏はこの夏に亡くなられたが、本書を刊行した一九五八年、氏は三六歳。その安定した達意の文章には驚くほかはない。

 永原氏は従来の頼朝論を①儒教的な名分論、②「判官贔屓」からの感情的印象論、③山路愛山以来の「平民史学」の自由な歴史叙述の伝統の三つをあげている。そして自己の立場が③にあることを明示しながら、あくまでも激動的な政治史の一部として頼朝を取り上げている。

 本書の特徴は、そういう観点から、政治史のキーとなる頼朝関係の史料を的確に選び出し、周到な説明を加えているところだろう。高校生の頃に読んで、何か読んだこと自身に一種の達成感を感じたのはそのためだったと思う。

 私は、実際にはむしろ永原氏の議論の枠組みを批判することを研究生活の目的としてきた。永原氏からは「判官贔屓」といわれかねないかもしれないが、先日、義経論を書き終わり、ようやく一つの結論をえたような気がしている。

 しかし、うらやましいと思うのは、永原氏の歴史学方法論に対する確信である。本書は政治史を社会構成史の深みから全体的にとらえる視座を正面から打ち出し、しかもそれがわかりやすい。

 どうにかしてそのレヴェルを歴史学の場に復活させたい。そのために何が必要なのかということを、本書は真剣に考えさせるのである。

『永原慶二著作選集』第九巻(歴史理論編)解説

 『永原慶二著作選集』第九巻(歴史学序説、二〇世紀日本の歴史学)解説

 永原慶二さんの著作集への解説の原稿です。
 もうずっと以前、二〇〇八年、つまり一〇年前に書いたものですので、公開してよいだろうと思います。

 ここに書きましたことで覚えているのは、永原さんの内藤湖南評価が石井進氏の内藤湖南評価を呼び起こしたと考えられるとしたことです。それがさらに勝俣鎮夫氏の内藤湖南評価を呼び起こしてたことはいうまでもありません。
 これは現在でも塾考すべき問題をふくんでいるように思います。いうまでもなく、戦後派歴史学にとって「見果てぬ夢」となっているのは、東アジア史の中で、その社会経済構造全体のなかで日本史を考えるということですが、そのとき確実に戻らなければならないのは、日本における内藤ー宮崎市定の東洋史の伝統をどう考えるかということだからです。

 これが戦後派歴史学の評価にも深く関係してくることはいうまでもありません。たとえば呉座勇一氏の『応仁の乱』の前書きには、勝俣鎮夫の内藤評価がふれられていますが、間に永原ー石井進の関係をいれてみるべきでしょう。内藤の日本史についての議論はその応仁の乱論以外にも示唆多いものがあることはいうまでもありません。
 以下、解説です。

  本巻は『歴史学序説』と『20世紀の歴史学』の二冊をおさめた。この二冊は近現代日本の歴史学の学問史、その思想と方法、その社会的位置などに関する、著者の生涯をかけての思考の筋道を示している。

 まず一九七八年に刊行された『歴史学序説』は、「Ⅰ戦後歴史学の展開」「Ⅱ視点と方法」「Ⅲ歴史教育」の三部からなる論文集である。このうち第一部の「戦後歴史学の展開」は近現代史学史の検討にあてられた二本の論文と付論からなっている。まず付論は『日本史研究入門』Ⅲ・Ⅳ(おのおの一九六九、一九七五年刊行、東京大学出版会)の巻頭総論として発表されたものをまとめたものである。この『日本史研究入門』というシリーズは、日本の歴史学の進展を総括するものとして各時代の研究者によく読まれたもので、Ⅲ・Ⅳは著者と井上光貞の共編にかかる。重要なのは、一九六九年分において、早くも、永原が、戦後歴史学の天皇制批判は国内的視野にかたより、帝国意識に対する批判が弱く、その意味で「帝国主義支配民族の歴史学」の「宿命」から自由ではなかったと述べていることである。さらに永原は、戦後歴史学の発展段階論が一国史的・単線的そして西洋中心主義的な傾向をもっていること、それ故に、当時喧伝された正真正銘の西洋中心主義史観、つまり「近代化論」を批判しきるためにも、戦後歴史学の側の自己点検が必要であることを明快に説明している。現在、このような視点は常識的なものとなっているが、この論文は、それが戦後歴史学の内部から登場してきたこと示している。

 次ぎに「歴史意識と歴史の視点」(一九七五年)は、原論文に「日本史学史における中世観の展開」という副題があったことからもわかるように、著者の専門分野である日本中世に即した史学史論である。直接の前提となったのは永原が鹿野政直とともに取り組んだ『日本の歴史家』の編集作業にあり(同書の公刊は一九七六年三月、日本評論社)、永原も原勝郎・内田銀蔵を担当している。評伝という性格もあってか、そこでは彼等への共感が表面にでているが、しかし、この論文では福沢諭吉以降の近代史学史における「脱亜」的発想を摘出し、しかもそれが戦後中世史学、またその中心をなした石母田正の領主制論においても精算されていないという厳しい指摘に連なっている。また、ここで永原が内藤湖南学説を高く評価し、その関係で戦後歴史学における石母田と鈴木良一の間の論争の意味を論じていることも注目される。これは永原が、『下克上の時代』(中央公論『日本の歴史』、■■年)以下の仕事で室町戦国時代に研究の重点をシフトさせていった事情を表現している。と同時にその背景に、この時期、石井進が展開していた鋭利な「封建制」論批判への応答があることも(永原は明記していないが)留意しておくべきだろう。この永原の内藤評価が石井の内藤評価を呼び起こしたと考えられるからである(参照、石井「中世社会論」など、『石井進著作集』六巻)。

 次の「戦後日本史学の展開と諸潮流」(一九七七年)は、戦後歴史学の全体を俯瞰した雄編である。戦後の社会変動とそれに対応する歴史学の側の課題・方法意識とそれに関わる学会の動向が、原始から現代におよぶ広い視野の下に過不足なく描きだされている。この論文が『二〇世紀の歴史学』の原型をなすことは、一読、明かであろう。「国民的歴史学運動」と、その中心となった「マルクス主義歴史学」に対する評価の厳しさ、大塚久雄・丸山真男などの学問的重みの特筆を確認されたい。また「実証主義」歴史学における個別認識の徹底を目ざす動向を「法則認識の可能性を拡大しつつあるもの」として「歴史研究の本道」と高く評価していることも目立つ。このような論調が、家永三郎が、書評において、本書をマルクス主義歴史学の「自己批判」とし、その「率直さ」を評価する理由であろう(『歴史評論』一九七九年五月号)。と同時に「マルクス主義歴史学」を精算するのではなく、その最良のものを生かそうとする永原の広やかな展望も説得的である。

 第二部の「視点と方法」は六本の論文からなっているが、最初の三本はマルクス歴史学の立場からの歴史学方法論である。まず(1)「歴史学の課題と方法」は、総論であってマルクス歴史学は社会の構造論的把握と人民闘争史的な主体的把握を統合し、さらに歴史の国際的契機を重視することによって、新しい歴史像、世界史像を構想しなければならないとしている。永原の立論はきわめて内省的であって、日本の歴史学は歴史の全体的形象に不得手であり、マルクス歴史学は「いわば孤立しつつ」それに立ち向かわねばならないという。(2)「経済史の課題と方法」は、経済史が経済学とその他の社会科学を媒介する位置にあることを確認した上で、社会構成をウクラードを基礎に論理的・体系的に把握する手法について解説している。永原がウクラードとはエレメント=要素という意味であるとしているのが注目されよう。これは永原のウクラード論が、富のエレメンタルな形態を端緒範疇とする『資本論』的方法に依拠し、封建社会の分析においても小土地所有(フーフェ)ー共同体(ゲマインデ)ー領主制(グルントヘルシャフト)という上向分析が必要であるとする高橋幸八郎のシェーマを受け止めたものであったことを示している。永原には大著『日本経済史』(本著作集第八巻)があるが、経済史の方法論それ自身に関する論文は意外と少なく、その意味できわめて重要な論文である(参照、保立「永原慶二氏の歴史学」『永原慶二の歴史学』永原慶二追悼文集刊行会編、吉川弘文館、二〇〇六年)

 (3)の「歴史認識・叙述における人間の問題」(一九七七年)は、いわゆる昭和史論争を総括した論文である。最近の『昭和史論争を問う』(大門正克編、日本経済評論社、二〇〇六)、とくに同書中の和田悠「昭和史論争のなかの知識人」などを読むと、批判をしかけた亀井勝一郎の思想と処世の実態と対比して、遠山茂樹の反批判が、的確かつ穏当なものであったことが印象づけられる。現在の観点からみれば、日本浪漫派に属したのみでなく、実際に戦争賛美の言論を行った亀井が「歴史教育の究極の目的は自己放棄を教えることにある」(亀井「現代歴史家への疑問」『文藝春秋』一九五六年三月)などと繰り返したことに内面性は感じられず、それこそが「人間不在」と思えるが、しかし、永原の総括も、遠山と同様に、不思議なほど穏やかなものである。そして、昭和史論争を試金石として展開した、歴史の「必然性」に対する「可能性」、「階級」に対する「民衆」の概念などの立論は、永原の歴史理論にとって緊要な位置をもった。なお、永原が遠山の議論に「歴史認識そのものに特定の政治的基準が無媒介に導入されてくる」ニュアンスがあると論じていることも注目される。この論文の重点は、実は遠山の議論を引き継ぐと同時に、遠山と対峙する点にあったのではないかとさえ思える。たとえば前述の『日本史研究入門』の編者がⅡからⅢで遠山茂樹・佐藤進一の共編から井上光貞・永原慶二の共編に変わっていることが示すように、永原は遠山を引き継いで戦後の歴史学界を代表する位置についた。家永教科書訴訟をはじめ、遠山・永原の二人の労苦によって第二次世界大戦後の歴史学界が支えられた面は大きく、本論文は、そのような遠山・永原の関係をふまえて読まれる必要がある。

 その他の第二部の所収論文は、おもに講演記録であるが、どれも歴史学の社会的役割にかかわって学界的共同を訴えたものである。そして六〇年代から七〇年代にかけて新しく展開された「民衆史研究」「人民闘争史研究」を理解し、それを支えようとした永原の姿勢を示す点でも共通している。現在の学界状況では、このような真っ正面からの議論に違和感をもつ人も多いかもしれないし、当時、ちょうど研究の道に進みつつあった私などは、逆にあたりまえすぎると感じた記憶もある。しかし、後に永原の講演を何度かきく機会があり、その理路整然とした、そして戦前の国家と戦争の実態を知る世代としての実感に裏打ちされた気迫に襟を正すこととなった。是非、この明解さに対峙していただきたいと思う。なお講演であるだけに、専門の中世史を例として議論を展開した部分も多く、たとえば「歴史学の方法と民衆像」には、「在地領主=中間層」論など永原理論のエッセンスを意外な言葉で語った部分があり、中世史の専攻者には熟読する価値があるものである。また、本書全体との関係では、この論文が、一九六九年四月の東京地方裁判所民事二部における教科書訴訟(第二次)における遠山証言「『歴史をささえる人々』と日ソ中立条約の記述」から説き起こしていることが重要であろう。遠山証言は、民衆史を基軸にする分析が歴史の総合的把握を可能にするという方法論が、近現代史学史に一貫していることを論じて共感をよんだ。それが永原の史学史研究に影響したことは確実である。

 『歴史学序説』の第三部「歴史教育」は、六本の論文からなる。(1)「歴史学と歴史教育」(一九六八年)は、歴史教育に対して「国家に対する愛情」の涵養を要求した一九六八年の新学習指導要領に対する全面的な批判の文章、(2)「歴史教育の自由のために」(一九七〇年)は家永三郎氏の教科書に対する検定が違憲であるという判決、いわゆる杉本判決に対する評価、(3)「歴史意識の形成と教科書叙述」(一九七六年)は教科書の執筆者としての被検定経験の記録である。これに対して、(4)「史話か通史か」(一九七六年)、(5)「歴史をめぐる事実と評価」(一九七七年)、(6)「歴史から何を学ばせるか」(一九七八年)は、相対的に短文であるが、そのうち(6)は一九七八年の新学習指導要領の点検であって、ちょうど(1)に対応している。

 第三部は、要するに一九六〇年代の最後から一九七〇年代の後半にかけての歴史教育をめぐる全体的な状況を論じたものであり、杉本判決の時期に大学時代を送った私などの世代にとっては自己の原点に関係する諸論文である。多様な内容を含んでいるが、教育論との関係で重要なのは、やはり永原の議論が遠山茂樹の歴史教育論と深く関係しながら形成された事実であろう(参照、遠山『歴史学から歴史教育へ』■■■)。これは戦後史学史における永原と遠山の先述のような位置からしても、歴史教育学の問題としても、今後、詳細な検討が必要となる問題である。なお、本著作集の第一〇巻には『歴史教育と歴史観』として著者の歴史教育論がまとめらる予定であり、歴史教育論については、それをあわせて議論が必要であることも注意しておきたい。

 そもそも永原は、本書の「はしがき」で、自己自身のことを「歴史理論そのものを専攻するものではない。従ってこうした書物をつくることを初めから目ざした訳ではなかった」としている。それにも関わらず、本書を刊行する理由は「最近数年間のあいだに生みだされた」「ほぼ一連の関心」の強さにあると説明している。実際、本書の諸論文のうちの相当部分が、その数年の短期間に執筆されている。そして、この「一連の関心」が、第三部で取り扱われた国民の歴史意識と歴史教育の問題にあることは明かである。永原は、歴史教育の国家主義化を動きを「戦前復帰」とまでは考えない論者が多いことに対して、歴史教育の目的が「教化」へとすりかえられたことの確認を要求している。実際、このような論者は今でも多いというべきであろうが、その錯誤を指摘する永原の論調にはゆずれないものがあるようにみえる。

 『歴史学序説』に紙幅を費やしてしまったが、以上の解説は、永原の思考の筋道が一貫しているだけに、その二五年後に執筆された『二〇世紀日本の歴史学』の解説ともなりうる側面がある。そこで以下では、紙幅の関係もあって『二〇世紀日本の歴史学』の成立事情について簡単な説明をし、若干の特徴にふれることで解説の責めをふさぎたいと思う。もちろん、『二〇世紀日本の歴史学』の扱う問題はさらに広範であり、しかも永原一流の明快さをもって書き下ろされたものである。それ故に、躊躇するところは多いが、ともかく、この解説が無用な蛇足あるいは不協和音とならないことを願うのみである。

 さて、『二〇世紀日本の歴史学』の執筆の事情は、「まえがき」に明記されているように、二〇〇一年、またも歴史教科書問題が発生したことにあった。このような事態が二一世紀になっても繰り返されたことは永原にとっては大きな衝撃であったに違いない。この問題を永原は「教科書問題を歴史学・歴史教育の歴史にさかのぼって根源的に考え、また批判するためにも、史学史への理解・認識が不可欠である」と受け止め、本書の執筆に踏み切ったという。印象的なのは、本書の巻末近く、「国家権力とそのサポーターとしての国家主義者による歴史教育の領有を見すごすことは、歴史学の研究者としては、一歩もゆずることのできないところである。今日、その危険が高まっている事態を、どこまで歴史学と歴史教育の歴史にそくして深く認識するかは、歴史研究者・教育者にとわれている良心と責任の問題である」(284頁)という文章であろう。そして、「現在をきびしく受け止める「批判」精神を堅持すると同時に、多角的に歴史をみてゆく努力のなかから、二一世紀の日本史学もまた新たな発展を生みだしてゆくであろう」という「おわりに」の文章(■■■頁)がそれに対応するものであることも明かであろう。

 この永原の期待に応えられるかどうかは、多くの研究者の意思にゆだねられている問題であるが、この明瞭なメッセージ性が独自な立論によって支えられていることに留意したい。私は、その意味での本書の独自性の第一は、永原が二〇世紀の史学史をアカデミズム歴史学の通史を中軸に描ききった点に求めることができると思う。いわゆる「戦後歴史学」には自己をアカデミズム外のものと認識する傾向があった。永原はアカデミズムのもつ「無思想性」を難詰する点では人後に落ちないが、しかし、永原はアカデミズムという用語をマックス・ウェーバーがいう「職業としての学問」という意味で、自己認識のための用語として正面から使用している。そして、永原の総括したアカデミズム史学史論は、学界の職業的な常識として受け止めるべき内容をもっている。また、永原が、歴史学という職業の日本社会おける困難さを凝視する中から、歴史学の学問の自由と責務の問題として教育問題を取り上げていることは重ねて注意を喚起しておきたい。

 第二の独自性は、筆者とほぼ同世代に属する中世史の研究者、稲垣泰彦・黒田俊雄・網野善彦・戸田芳実らに対する無視、あるいは厳しすぎるとも思える批判である。本書は研究動向を代表する個人中心に叙述にメリハリをつける方法をとっており、その意味と限界は、今後あらためて論じられねばならないであろうが、他の時代の研究者については、むしろバランスのよい評価が目立つから、いわゆる「戦後歴史学」に自己の生き方を重ねてきた同学の同僚に対する厳しい筆致は、一読不思議な感に打たれる。たとえば、永原は、網野善彦の見解は、単なるロマン主義にとどまらず戦前の日本浪漫派に通ずるものとし(227)、黒田俊雄・戸田芳実の研究は(176)、講座派的着眼ではなく労農派的論理に通ずるとまでいうのである。しかし、ここから分かることは、永原の視線が第二次世界大戦前の社会における学術と文化にすえられていることである。そこにあるのは、「はしがき」が「同時代の史学史を書くことは、自分の歴史観をすべてさらけだすことにもなるから、今はただこのような思いに免じてお許しいただく他ないと割り切った」と述べるような「同時代」を生きたもの同士の覚悟だったのであろう。笠松宏至は「網野善彦さんの思い出」という対談で本書にふれて、永原と網野の間の兄弟のように親しい特別な関係を証している(『図書』二〇〇七年五月)。そこには、たしかに後の世代には「うかがいしれない」ような内実があることを忘れないようにしたい。

 本書は、すでに多くの読者に迎えられ、かつ『歴史評論』の特集「歴史学と歴史教育ー二〇世紀から二一世紀へ」(二〇〇四年二月号)において、高橋典幸・大串潤児・今野日出晴・中村政則・鹿野政直などによる充実した批評・書評があり、また著者の逝去後に開催された追悼シンポジウムにおいても多面的な報告があり、私もそこで本書にふれて私見をのべた(前掲『永原慶二の歴史学』)。

 今後、右にかいつまんで述べた本書の独自性や、問題性をふくめ、本書をベースとして、史学史の議論が精密化することになるだろう。しかし、率直にいって、本書を越えるような史学史の書き直しは、きわめて困難な作業である。つまり、永原は、本書の「おわりに」で、戦後の歴史学の第三期、一九七〇年代以降には明瞭な歴史理論が存在しない、そして「二一世紀にむけての日本の歴史学はどのような方向に進むか。それについての答案は、研究者一人一人が書きつづけるほかはない」として、要求される「厳密な実証性と厳しい理論性」の水準を解説している。本書の書き直しは、そのような営為の先に展望するしかない課題である。それがどう展開するかが、まだ見とおせない以上、少なくとも「中世史」の研究者は、当分の間、本書を通じて、永原の声を聞き続けなければならないと思う。

2018年12月 9日 (日)

日本の国の形と地震史・火山史ーー地震史・噴火史の全体像を考える

12月8日の明治大学博物館での講演の概要。事前宣伝文書にのったもの。

 拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で書きましたのは主に八・九世紀の地震・噴火の歴史でした。私はこの時期を大地動乱の時代と考えました。

 その後、私は、日本列島での地震や火山活動の活発期は、これまでだいたい三回ほどあったのではないかと考えるに至りました。その第一は紀元前後の時期で、東北地方で今回の3,11陸奥沖海溝地震と同様の津波痕跡が確認されており、また南海トラフ地震の大きな痕跡も確定しています。第二は右の新書で取り扱った時期になりますが、第三は一五世紀に起こった3・11と相似した一四五四年の奥州津波から始まり、一七〇七年の南海トラフ巨大地震から富士噴火につながる時期になります。

 ようするに、日本列島における大地動乱期は六〇〇年ほどの相対的安定期をおいて始まって、三〇〇年ほど続くのではないかということです。ただ、このような長期の周期性が本当にあるのかどうかは、地球科学によって確定されるべきことで、これは史料からみる限りではという仮説にすぎません。

 もしそうだとすると、現在は列島が知られる限りで四度目の「大地動乱期」に入ったということになります。これは理学的に確定したことではなく仮説にすぎませんが、ただ「大地動乱の時代」というと今にも天地がひっくり返るかのような印象ですが、もし、この仮説が正しいとすると、この事態を考え、備える相当の時間が許されているということになります(もちろん、ふたたび原発事故を起こすというようなことになれば天地はひっくり返りますが)。

 なお、第一の時期については、これが倭国神話の形成期にあたるのではないか、そのために倭国神話は地震火山神話というべき性格をもったのではないかと考えています。これについては右の新書でふれましたが、現在、それを敷衍して詳しく倭国神話を考える作業をしており、それについて御話しします。その一端は最近出版しました『現代語訳 老子』(ちくま新書)にも記しましたので参照願えれば幸いです。

2018年12月 6日 (木)

八世紀末の南海トラフ大地震と最澄 2016年のもの。再掲

八世紀末の南海トラフ大地震と最澄  保立道久
原掲載、『CROSS T&T』No.52.2016.2(一般社団法人 総合科学研究機構)。
ただし、刊行論文には大きな錯誤があり、刊行直後に読んでいただいた石橋克彦氏の指摘をうけ、論の基本部分に変更を加えた。氏の教示に感謝したい。なお論の責任はすべて筆者にあることはいうまでもない。(2016,4,4)。

 よく知られているように、南海トラフ地震は、だいたい100年から150年の周期で発生するといわれている。14世紀南海トラフ地震(1361年)以降については、それを語る資料が明らかになっているが、しかし、それ以前については、その可能性のある地震は、まず265年の間をおいて11世紀(1096年)、209年の間をおいて9世紀(887年)、203年の間をおいて7世紀(684年)という間隔になってしまう。これはおもに、それらの時代では正確な文献史料が少ないことによるのであろう。しかし文献史料の読み方によっては、さらに若干の推測が可能となる。

 ここで述べるのは、八世紀末期にも南海トラフ地震があったのではないかという推定である。それは797年(延暦16)の地震であって、もし、この推定が成立するとすると、九世紀南海トラフ地震(887年)と七世紀南海トラフ地震(684年)の間で、現状、203年の間隔があるものが、90年と113年という間隔に分割されることになる。

 さて、この、地震は、菅原道真が「六国史」などを主題ごとに整理して編纂した『類聚国史』(巻171、地震)に記録されているもので、この年、8月14日に「地震暴風」があったという記録である。これによってでた被害は「左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」という相当のものであった。これはいわゆる平安遷都の直後の時期で、この時期は六国史でいえば『日本後紀』という記録があるべき時期なのであるが、この時期、『日本後紀』の伝本はなく、抄録本の『日本紀略』の同日条に「地震暴風」とあるのみである。

 問題は『日本紀略』によれば、この地震の三ヶ月前、五月一三日に「雉あり、禁中正殿に群集す」(『日本紀略』同日条)という事件があったことである。雉は雷電や地震を察知してなくという観念があって、その種本は「説文」に「雷の始動するや、雉すなわち鳴きてその頸(くび)を句(ま)げる」とあるように中国にあったが、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で論じたように日本でも、そういう史料は多い。さらに問題となるのは、この雉事件の六日後、『日本紀略』五月十九日条に「禁中并に東宮において金剛般若経を転読す、恠異あるをもってなり」と金剛般若波羅蜜経の転読が行われたことが記され、さらにその翌日、二〇日条に二人の僧侶を淡路国に派遣し、仏経を転読させて、「崇道天皇」の霊に陳謝したという記事があることである。

 この崇道天皇とは時の天皇、桓武の同母の弟で皇太子の地位にあった早良親王のことである。早良親王は、785年、大伴家持などの教唆によって、桓武の近臣、造長岡京使、藤原種継を暗殺し、謀反を起こそうとした廉で処断された。しかし、彼は最後まで罪を認めず、しばらく後になって桓武も冤罪であったとして、その霊に陳謝したのである。

 問題の「恠異」は、この崇道天皇の怨霊が起こしたものであったということになるが、その中身については、これまで「どんな恠異があったのかわからない」(村山修一『変貌する神と仏たち』人文書院、八九頁)、「宮中での不思議な出来事」(大江篤「早良親王の霊」(『史園』1号、二〇〇〇年、園田学園女子大学)などとされるのみであった。それらは右のような雉のもっている意味を見逃していたのである。そもそもこの時代、地震の怨霊は大問題であった。桓武の父、光仁天皇は、妻の井上内親王と(桓武の前の皇太子)他戸親王を迫害し死に追い込んだが、775年、彼らが幽閉された場所で死去した直後に地震が連続した。恐怖にかられた光仁は内裏に僧侶二百人を集めて大般若経の転読を行い、「風雨と地震」の「恠異」を払う大祓を行ったという。桓武もその恐怖の記憶にとらわれていたはずである。これまで早良親王の怨霊はもっぱら雷神としての性格をいわれるのみであったが、ここに早良親王の怨霊が地震を起こす霊威とも考えられていた可能性が生まれる。

 早良親王が「崇道天皇」という追号をあたえられるのは、この地震より少し後のことであるが、私は、こういう文脈で、この地震を「崇道天皇地震」と呼んでおきたいと思う。重大なのは、この地震が「左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」という、相当の大きさをもつ地震であったことである。もちろん、史料に余震がみえないのは南海トラフ地震ではしばしば余震が続くとされることからすると問題があるが、『日本紀略』も『類聚国史』も抄出にすぎないから、余震についての記載が省略されることは十分に考えられるであろう。それよりも問題なのは、「地震暴風」とあることで、そこから、被害は地震被害ではなく、実際は暴風被害であったのではないかという意見もあるかもしれない。しかし、この頃、坊門はまだ新築であった。それが左右の両京で倒壊したというのをすべて暴風とするのはむずかしい。

 もちろん、この地震の規模は、将来、考古学が葛野遷都直後、いわゆる「平安京」の最初期における坊門の発掘調査に何カ所かで成功した後になるかもしれないが、しかし、以上のような文脈のなかで考えれば、この地震を恐怖の対象となるような相当の規模のものであったと考えることは許されるだろう。私は、ここから、この地震がまさに南海トラフ大地震であったのではないかと推定したい。

 このような経過は桓武の王廷に長く続く恐怖をもたらしたらしい。800年(延暦一九)年六月には富士が噴火し、火口の光が天を照らし、雷声が轟く様子が都に伝えられるが、おそらくこれも早良の祟りと考えられたものと思われる。翌月23日に、早良に対して崇道天皇の号を追称し、淡路の墓を「山陵」と呼ぶということになったのは、おそらくそれを契機としたものではないだろうか。

 私は、この崇道天皇の怨霊から都を守るために羅城門の上に置かれたのが、現在、羅城門の近くの東寺におかれている兜跋毘沙門であったと思う。松浦正昭「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370号、1998年)によれば、この毘沙門天像は、崇道天皇号追贈の4年後、804年(延暦三)8月に遣唐僧、最澄が持ち帰って桓武に献上したものである。興味深いのは、当時、唐で大きな権威をもっていた不空(アモーガヴァジュラ、鳩摩羅什や玄奘とならぶ三大訳経家の一人。七〇五~七四)の訳した毘沙門天王経の偈の冒頭部分には、「假使(たとひ)日月の、空より地に墮ち、あるいは大地傾き覆ることあるとも、寧(やす)らかに是(か)くのごとくある事、應に少しの疑いも生ずべからず、此法は成就すること易きなり」とあることで、つまり、「大地傾き覆る」ような地震があっても、毘沙門天の経の功徳によって安らかにすごすことができるというのである。

 結局、この年末に桓武は身体の調子を崩し、翌年にかけて淡路の崇道天皇陵のそばに寺院を建てたり、「怨霊に謝す」ため、諸国に郡別に倉を作って崇道に捧げるなどの措置をとったが、3月に死去してしまう。しかし、最晩年の桓武が怨霊からの守護を求めて最澄に帰依したことの影響はきわめて大きかった。最澄が八一二・八一三年(弘仁三・四)にまとめた「長講法華経先分発願文」は、「崇道天王」を筆頭として、井上内親王、他戸親王、伊予親王・同夫人などの怨霊を数え上げている(櫻木潤「最澄撰「三部長講会式」にみえる御霊」(『史泉』九六号、二〇〇二年)。

 最澄の『顕戒論』(巻中)の一節「災を除き国を護るの明拠を開示す、三十三」が、護国仁王経の力によって、「天地の變怪、日月衆星、時を失い、度を失う」などの「疾疫厄難」を起こす「鬼神」を除き愈やすことができるとし、その天変地異の例として「日の晝に現われず、月の夜に現れず」「地に種種の災ありて、崩裂震動す」などを上げたのは、まさにこれに対応していると思う。

 さて、私は3・11の直後に東京大学地震研究所で開催された研究集会に出席したことが縁となって、2012年12月より科学技術学術審議会地震火山部会次期研究計画検討委員会に歴史学関係の専門委員として参加した。参加して驚いたのは、地震噴火の研究予算が年に4億しかなく、研究体制と人員の手当もきわめて不十分であることであった。しかも、地震学の研究をサーヴェイしてみて、3・11のような巨大な地震が起こりうることは、たとえば産総研の行った地質学・地震学の調査によって以前からはっきりしていたことを知った。

 もちろん、現在の所、何時、どこでどの程度の規模の地震が起きるということを、つねに確実に予測することは不可能である。しかし、「予め知る」という意味での「予知」は相当の確度でだされており、それに対応する警告もされていたのである。ここでは、その証拠として、日本地震学会の出版した『地震予知の科学』(東京大学出版会、2007年)に「東北から北海道の太平洋側のプレート境界では、過去の津波堆積物の調査によって、五〇〇年に一度程度の割合で、いくつかのアスペリティをまとめて破壊する超巨大地震が起きることもわかってきた」とあることをあげておきたい(前回の奥州大津波は1454年であるから、これはそろそろという予知であった)。

 政府や責任諸官庁あるいは東京電力などは、それらの警告を無視し、マスコミも、地震学の研究者を「予知」できないものを「予知」できるといって攻撃し、地震学界を一種のスケープゴードのように扱ったのである。これはとても科学先進国とはいえない事態であったというほかない。

 右の地震火山部会の建議「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について」が、大略、「地震・火山観測研究計画を地震学・火山学などの自然科学としてでなく、災害科学の一部として推進する。災害誘因(自然現象)のみではなく、災害素因(社会現象)も見通して学融合的に災害を予知する」という趣旨のものとなったのは、それを踏まえたものであった。この建議については2月刊行の『地殻災害の軽減と学術・教育』(日本学術叢書22、日本学術会議編)に詳しく解説される予定で、私も、そこに歴史学からの意見を書いたので、そちらを参照していただければと思う。

 こうして、私は、東日本大震災も東京電力の原発事故も人災であったことを詳しく知って一種の義憤にかられざるをえなかった。これを忘れずに、歴史学者として、命のある間は、歴史上の地震の問題についての研究に取り組みたいと考えている。ともかく、地震の経験と、それへの畏怖は、以上に述べたような政治史や宗教史のみならず、日本の歴史において根本的な意味をもっていることは明らかだからである。

«『竹取物語』の不審本文を読みなおす