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2012年5月16日 (水)

網野善彦氏の『日本中世に何が起きたか』が再刊

 網野さんの『日本中世に何が起きたか』が洋泉社新書y』で再刊になる。解説を頼まれて書いた。

 網野さんの仕事は、いま、原発震災を目の前にして、読み直されねばならないと思う。

 本書でもそうであるように、晩年の網野は、「二一世紀の人類社会は、未経験の”壮年時代”に入ろうとしている。ここを無事に乗り切るためには、”無主・無縁の自然”を見つめることを中心に人類史をふり返るほかない」と述べて倦まなかった。
 たしかに、いま日本列島の自然と社会は、これまで経験したことのない時空に入ろうとしている。二〇一二年三月一一日の東日本太平洋岸地震は、地震による福島第一原発の爆発をともなう大震災となった。この事態の本質は、同年八月、福島県二本松市のゴルフ場が東京電力に対して放射能の除染を求めた訴訟に対して、東電側が「放射性物質は、そもそも無主物であったと考える」として拒否したことに象徴されている。「無主・無縁の自然」にあいた「穴」から様々な「物」がみえる時代になったのである。
 洋泉社MC新書の解説で述べたように、網野は、本書において、「無縁論」の原点から出発して、何をどう考えてきたかを情熱的に述べている。再読してみると、いま現在を歴史の深みから考えるためにこそ、網野善彦の「無縁論」はあったといっても過言ではないように感じる。
 網野が第一部の「境界に生きる人々」において、「日本の社会に宗教がない」といわれることをどう考えるべきかという論点を提出していることも重大だろう。網野は、この論点を十分に展開する前に世を去り、網野が、「人間の力を超えた自然の力について、われわれが認識を深めることと、宗教の問題は深い関わりがあると思います」と述べたことの意味は、まだ解かれていない。これをふくめて人類史における人間の力を超えた自然=無縁の自然をどうとらえるかについて考えるべきことは山積している。網野の終生のテーマであった「海」にそくしていえば、すでに「海は広いな大きいな」ではすまない時代に入っているのである。網野の仕事は、この時代の省察を迫られている人々にあらためて訴えるものをもっていると思う。
 二〇一二年五月一一日      保立道久

2012年5月13日 (日)

武田清子先生

Takedakiyoko_2   久しぶりに自転車で。千葉の青葉の森公園から星久喜の都川支流の自転車ルートにでて、もどって、都川水の里公園の休み所でおにぎり・きゅうりで昼食。目の前では「里の田」を耕耘機で代掻きをしている。雷雨の予報があるので、適当に切り上げて帰る予定。
 4月28日の朝日新聞に母校の国際キリスト教大学の武田清子先生の御元気な写真。もう94歳になられたと知る。私は国際キリスト教大学の出で、大学時代は先生をアドヴァイザーとしていて心配をかけた。毎学期、成績のチェックに面談がある。ギリギリの成績で卒業したので、怖い先生であった。ICUから都立大学大学院にまわったので、武田先生から都立の戸田芳実先生に紹介状のようなものがまわり、ブリリアントなところのある子であるというように書いてあったと戸田先生に聞き恐縮した。そのほか、ほめようがなかったのだろう。
 ブログには書きにくいような迷惑をかけた。その上、先生は社会科学研究会リベルテというクラブの顧問で、私はその部員だったので、この点でも御世話をかけた。一昨年だったと思う。クラブの同窓会で久しぶりにお会いした。昨年の同窓会は予定と重なって失礼をした。大学紛争の時代であり、ICUは「革マル」が強く、このクラブは、結局つぶされてしまった。私がほぼ最後である。長い伝統のあるクラブなので申し訳ないように思う。
 先生は神戸女学院の御出身。ただ、お母さんに「あなたは我が強いから宗教が必要です。これからは英語が話せて海外で交流できるようになったほうがよろしい」といわれて神戸女学院に行き、洗礼をうけて留学したという話ははじめて聞く。一度、御宅にうかがったことがあるが、個人的な話はまったくお聞きしたことがない。
 先生の恩師は、ラインホルト・ニーバー。私も大学時代にはニーバーを読んだが、十分残っていない。先生の授業も真面目にきかなかったように思う。ただ、先生の配慮で(ときいている)ICUに授業に来てくれた一橋の種瀬茂先生の授業で『資本論』を読んだ。種瀬先生が武田先生と話されている様子を覚えている。そういえば、そのすぐ側に大塚久雄先生の研究室があったのである。先生たちの研究室は狭かった。そして、もう御一人、武田先生の推薦で、天理大学の宗教史の先生が来られ、授業をうけた。『古事記』『日本書紀』の講義で、これはともかくも勉強をしたという感じが残っている。けれども、授業を最後まではキチンとはきかず、先日のブログに書いた羽仁五郎の「神話学の課題」を種にして感想文をかいてすませた。ノートをなくしてしまい、かつ先生の御名前も失念している。これが苦い記憶である。
 朝日には、日米開戦の後に、ニーバーから保証人になるからアメリカにとどまるようにといわれたが、最後の交換船で帰国した。「日本は負けるとわかっていました。灰になるのなら、そこにいなければならない。愛国心というより、アイデンティティの問題でした」とある。御一人で生活されていると伺った。御元気ですごされるようにと思う。

2012年5月 7日 (月)

入来院遺跡の保存と稲垣泰彦・石井進

 5月5日(土)。職場で私物を片づけた帰り。総武線の中。
 机の中から下記のような鹿児島県入来院の景観保存問題についての要望書がでてきた。そのころの学会誌をみても記録されていないようなので掲載しておく(以下、子供にいれてもらう。ありがとう)。

入来院史跡保存に関する要望書

鹿児島県薩摩郡入来町一帯は、周知のように中世以来近世まで脈々と続いた在地武士入来院氏の支配の舞台となった場所であり、かつて米国イエール大学教授朝河貫一氏が『ドキュメンツ・オブ・イリキ』として入来院関係文書を翻訳・解説されてから、世界的にも注目を浴びてきました。欧米における日本中世と武士団についての在来の知識は、その主要部分を「入来文書」と朝河氏の研究に負っているといっても決して過言ではありません。
「入来文書」をひもとくならば、われわれはそこに日本武士団の構造や農村支配の様態、農民の村落生活の実態にいたるまでを比類ないまでに詳細に知ることが出来ます。しかしそれにもまして重要なのは、当地に残る領主居館址や家臣団の屋敷・農民の屋敷・寺社・墓地等々のまことに豊富な遺跡・遺構が、生き生きと過去を再現してくれることであります。それらは、「入来文書」とあわせてまさに他に類例を求められぬ貴重な史的価値を有しております。
ところが現在計画中の国道三二八号線の拡張工事にともない、領主居館址・馬場・船着場・家臣団屋敷などをはじめとする主要な遺跡に大がかりな破壊の危険がせまっていると伝えられております。われわれは上述した当地の重要性にかんがみ、このような史跡破壊をともなう計画の進行に強い危惧の念を表明せざるをえません。この計画原案に対し、地元で史跡保存をよびかけている方々の、計画線を「麓」集落の東方に変更するようにとの要望に、われわれも全面的に賛成いたします。この案であれば、貴重な史跡の破壊を最小限にくいとめることが可能だと考えるからであります。
今回の計画原案をみとめて取りかえしのつかぬ史跡破壊の事態を招くことにならぬよう、我々日本史研究に携わる者はこゝに関係当局の責任ある解決を強く要望するものであります。
昭和五十年六月二十三日

東京大学  教授   阿部 善雄
東京大学  助教授  石井  進
東京大学  教授   稲垣 泰彦
東京大学  教授   弥永 貞三
京都大学  助教授  大山 喬平
大阪大学  教授   黒田 俊雄
早稲田大学 教授   竹内 理三
神戸大学  教授   戸田 芳美
一橋大学  教授   永原 慶三
北海道大学 助教授  義江 彰夫
殿

 呼びかけ人の方々のうち、御元気なのは大山さんと義江さんだけだ。
 いままで忘れていたが、このとき、私は史料編纂所に入ったばかりの時で、同室の稲垣泰彦先生から、この保存問題についての声明への賛同署名を集め、文化庁や鹿児島県などに送る作業をする事務局をやれといわれた。その事務局書類一括が袋に入ってでてきた。
 中をみるといろいろ入っていて、署名の集約は稲垣さんに送れということになっているが、署名を送ってくれた人の中には、村井章介・保立道久の連名宛てに送ってくれた人もいるので、そのころ史料編纂所にいた村井章介氏と事務局を一緒にやったらしい。またこの声明を起草したのは石井進さんであったことが、石井さんの几帳面な字でかかれた原案がでてきたことからわかる。また、現地の保存要望の中心となった本田親虎氏から石井さんへの礼状も袋の中に残っている。思い出してみると、この署名運動の代表は稲垣さんだが、実際の実務は石井さんであった。石井さんが古文書の部屋に来て稲垣さんに頼み、その後に、打ち合わせのようなことをしたのを思い出した。このころの稲垣さんは、有名な池田荘の保存問題で重要な経験をされた後で、遺跡保存問題を重視しておられたように記憶する。
 本田さんからの礼状は石井さんあての私信であるが、事務局にまわった公的なものであり、内容も史料的な意味があるので、ここに記録しておきたい。

拝復 先生方は夏休みで、いろいろとご計画もあられることでしたろうに、当地の問題で諸種の雑用に多大の時間と労力とを御費消いただきましたことを、恐縮に存じますと共に、心から感謝申しあげております。第二次二七〇名連記という、すばらしい要望書は二十五日に参りました。この日は当地「麓上」(フモトカミ)の諏訪講の日ですが、一年ごとの廻り神は昨年八月に拙宅に来られましたので、拙宅ではこの日に、諏訪神社の祭典を行ない、講中の人々を呼んで直会をした次第です。要望書包は朝届きましたので、私は早速お諏訪様の御前に備えて拝みました。
 当地の諏訪講は四十年ばかり前までは藩政時代の通りのしきたりを守って
二十三日に注連下し(神官が来て門口と井戸に注連を張り、その祭りをする)、二十四日贄川(にえがわ、入来川で講員全員が鮎を取り神祭に使用する)、二十五日お講(諏訪神社の祭と頭屋での祭、講中の飲食、遷座)となって、三日も要したのでしたが、戦後は簡素化して、二十五日だけになっています。それでも二キロばかりを歩いて高い山中の神社まで供物の米や野菜、果物などを持って登るのは年よりどもには少々重荷になります。
 二十五日は終日このようなことで過ぎましたので、二十六日に当地道路問題での委員会を開き、今次の要望書を見せましたところ一同驚くとともに感激を新たにした次第でした。そして現地のわれわれよりはよその先生方の方がはるかに遺跡保存にご熱意があるようだから、現地の者としては全く恥ずかしいことだと口々にいい、私の方から特に石井さんをはじめ、雑務に当たって頂いた先生方によろしく御礼申し上げてくれとのことでした。
 ほんとうにありがとうございました。この大勢の先生方の御声援がどんなに大きな力を持つものかはこれからはっきりすることと信じます。
 実は数日前、当県議土木委員長原田健二郎氏を訪問しまして道路問題につき善所方お願いしましたところ、原田県議が次のようなことを話して下さいました。
「過日上京、建設省に行ったところ、道路局長から次のようにいわれた。『鹿児島の国道問題につき、大学の先生方など大変まじめな方々から史跡保存についての要望書が来ているから、現地でもよく留意して遺憾な点がないようにして頂きたい』・・・共産党などの反対とはちがうから・・・といわれました」とのことでした。
去る二十三日は文化庁文化財調査官の中野浩氏が来町されましたので、史跡を案内いたしましたが、その折「先日石井君が見えて、入来のことを話してくれましたよ」と話されました。そして
 「要望書や陳情書は上の方に出した方が効力があります。
1. 建設大臣か道路局長
2. 九州地方建設局長(福岡市)
には必ず出した方がいいでしょう」と御注意ありました。
 それで右の件はよろしく願い上げます。
3.文化庁長官  へも
 鹿児島県内のそれぞれの所へは当方で提出することにします。今日は県議会や議長、町議会や議長に提出すべく手配しました。
 去る二日に村井章介さん方八人の東大の方々が城山の藪の中野拙宅に御来訪下さいました。拙宅は入来小学校の裏門前ですから、麓の中でも一番の山の中で、さぞびっくりされただろうと思います。拙宅にはこれまで豊田武先生や本田安次先生などをはじめ義江さん等数多くの著名な方々がおいで下さいましたが、その度に藪中の陋屋は全く汗顔のいたりで、恐縮の連続でした。村井さん方は入来院墓地や黒武者、堂園などを案内しました。黒武者にあった黒武者門の跡家も、当地方では最も代表的な農民の家作りとして保存すべき建物でしたが、これも昨年新しく改築されましたので、石井さん方ごらんの当時よりは大分様子が変わりました。同封の写真は黒武者でのものです。永原先生が黒武者門をとりあげて講じて下さってから、黒武者は中世史のメッカみたいになり、来る人も来る人も、黒武者を見たいと申されます(中略)。
以上雑事を書き並べましたが、このたびの史跡保存運動についての石井さんのお骨折は、とても大変なものだったろうと、改めてここに厚く御礼申しあげます。
 先づは御礼まで、東大の方にもよろしく申し上げて下さいませ。
 残暑尚厳しい折柄ご自愛を祈ります。
敬具
 八月二十七日
本田親虎
石井進様
 玉床下

 7/8年ほど前に、私も入来をたずねたが、そのころには稲垣さんはもちろん、石井さんも、本田さんもなくなっていた。

 いま、月曜日、総武線の車中。石井さんの声明(案)、署名の御願い(案)は小学館の原稿用紙に書かれていた。石井さんが小学館の『中世武士団』を書いたのは、ちょうど、私が史料編纂所に入ったしばらく後であるから、この原稿用紙は、『中世武士団』執筆のためのものであろう。
 『中世武士団』については、戸田芳実氏の批判的コメントを聞いていたこともあって、ずっと批判的であった。そもそも戸田さんはこの小学館のシリーズの「社会集団」というくくりそれ自身に批判的であった。戸田さんのいう「歴史学は社会学的になってはならない」という議論である。この戸田さんの言葉は網野さんが「社会学的というのみで悪いかのような言い方は社会学の人の前でいえる言葉ではない」と批判し、学界では、一般にも評判が悪い。しかし、私は、歴史学は、その方法を社会学に借りるわけにはいかないと思う。

 それ以来、この本をどう位置づけるかということが頭の隅に懸かっていたのだが、二・三年前、ようやくその『曾我物語』の読みに賛成できないという意見を固めた。その趣旨にそって、先日、『歴史地理教育』に院政期における東国の平氏についての文章を書いたところである。石井さんを意識することは、そのほか今でも多い。
 研究者同士の関係では、ようするにほとんど時間はたっていないのだと思う。そこでは、往事茫々ということは本質的に存在しない。これはいわゆる「永遠の今」であるが、それは「生の哲学」的なロマンではなく、直接的な「生」の感覚の経験では、頭の中に古い物が、そして未処理のものごとがそのまま滞留しているということである。人間もかわらない(私の慌て者のところもかわらず。その文章でもうっかり「大宮」を忻子としたが、東洋文庫の解説通り多子であるのにうっかり早とちりをした)。
 ほぼ30年以上経って、やっと処理できそうな気になっているが、「頭の中にこそ執拗に古いものが残る」というのは、冷厳な事実なのだと思う。研究史から受け継いだ古いものを破砕すること。

 閑話休題。
 その深層レヴェルで考えると「意識変革」を先行させるということは人間にとって本質的に無理なのだと思う。社会全体によるすり込み、新生児のころからのすり込みの力はすさまじい。そこから抜け出すためにはなによりも現実と挫折の経験が必要である。これを考えると、我々の世代までなら通じた言い方だと、「生の哲学」ではなく、マテリアリズムということを考えざるをえないのである。

2012年5月 5日 (土)

地震火山64津田左右吉の神話論と国生神話・火山

 いま、5月5日土曜。総武線の車中。私物の整理があって職場へ。
 来週水曜日にJ大学での特講で神話論を約束してあり、地震・火山神話の読み直しをやっている。我々の世代だと、歴史の研究者は神話論というとまず津田左右吉である。『津田左右吉全集』は一巻の記紀研究しかもっておらず、そのうちに全巻を購入して通読する時間があればと思っている。
 この一巻の月報には、坂本太郎の文章と森於?の文章の二つがのっている。坂本太郎氏の文章には感心しないが、森於?の文章は印象に残る。
 「私どもが先生に歴史を学んだ時が日露戦争の直前で、日清戦争から十年、台湾領有についで朝鮮も併合し、満州に驥足を伸べ、日英同盟を締結し、軍国日本の意気大いに揚がり、世界の何大強国かの一つという自信にあふれ、青少年はまず大臣大将を理想とした時代である。ある日、先生は講壇で時勢を論じ、いわゆる愛国者とはまったく別ものの悲憤慷慨をされ、ポカンとしている小僧どもを前にして、「こんなことをやっていると今に日本は世界中から袋だたきにあうぞ」と叫ばれた」。
 津田左右吉の仕事にはいろいろな批判があるだろう。私が「古代」を専門にしていないためではあろうが、津田についての文章で評判のよいものを読んだことがない。たとえば、友人の小路田泰直氏の『邪馬台国と鉄の道』(洋泉社新書y)はたいへん興味深い本だが、津田を「歴史として書かれたことには、必ず根拠があり、書かれたことからその根拠となる事実を探りあてることこそが歴史学の課題だという常識」をもたない歴史家であり、記紀神話を知識人が構成したものだというのはおかしいと切って捨てる。
 もちろん、津田の仕事に、いわゆる「脱亜論」と同じ側面があったことは事実であり、それは小路田がいう通りである。津田について根本的に考えるためには、ともかくそれらをそれを考える『津田左右吉全集』を慎重に読み、史学史を実際に考える中で意見を固めるべきこともわかっている。
 けれども、所詮、すべてを読むことはできない歴史家が、好悪の感情に左右されることはやむをえないと居直らせてもらうと、私は津田の仕事が好きである。最近の研究者は、ほとんど津田のことを身近に感じることはないのだろうと思う。たしかに、津田の記紀研究はけっして読みやすいものではない。その文章も論文体というよりも、もってまわった論理の繰り返しが多く、何か、柳田国男の文章に似て独り言のようなトーンがある。しかし、細かなことを気にせずに読み始め、その調子になれてしまえばさっと読めるものである。そして、そこにみえてくるのは、たしかに、「悲憤慷慨」する津田の精神なのである。おそらく第二次世界大戦以前の読者にとっては、そのような「悲憤慷慨」をふくめて読みやすいものだったにちがいない。「皇国史観」の時代であり、神話が事実であるかのように扱う建前があった社会であるということを頭におきながらともかく読み通すという読み方がよいと思う。
 津田のいう記紀神話の政治性、あるいは構成された政治神話であるという断言は、単にテキストの外からもちこまれたものではない。津田は記紀神話には「民間説話」、本来的な小神話の世界が編成されていることを認めている。津田は、それを承認した上で、しかし、記紀神話それ自体は、きわめて政治的な編成をとっているもので、それにそのまま「民間説話」を読み込むことは無理であるという文献学的なスタンスをとっているのである。
 そして、津田が「民間説話などは、さういう未開人の真理、未開時代の思想、によって作られたものであるから、今日からみれば非合理なことが多いが、しかし、未開人においてはそれが合理的と考えられていた」(一巻、7頁)としていることは大事だと思う。津田は、そのような「未開人の心理上の事実」を「未開民族の風俗習慣」と共通するものとして(11頁)理解するという人類学的な方法を当然のこととして議論を展開しているのである。もちろん、そこには「未開民族」の心理を「小児の心理」と同一化してしまうという傾向性があり、いわゆる人類学的なイデオロギーの影響がある。また政治的な氏姓制度(と津田のいうもの)の直接的な反映を神話世界にみてしまうというのも、私には疑問がある。
 しかし、津田は、その立場から、『日本書紀』『古事記』にすぐにそのままの事実を求めがちな江戸時代の議論を批判する。神話を強いて合理的に解釈して、その背後に「事実」を求めようとする新井白石、そして、「『古事記』の記載を一々文字どほりにそのまま歴史的事実であると考えた」本居宣長に対する批判は鋭い。両者は異なっているようにみえるが、どちらもテキストに直接に「事実」を読み込もうとする学問外的性格をもっている。ようするにどちらも屁理屈であるといのである。私はたとえば西郷信綱氏の注釈をふくめて、最近になっても本居の古事記注釈を便利に使いまわすような神話論の傾向はとても納得できない。それは津田以前への後退であり、学問の頽廃だと思う。
 そして記紀神話の全体像がイザナミ・イザナキ、スサノオ、オオナムチ、「天孫降臨」神話などの諸構成部分をあつめて「構成された」ものであることは、たとえば松前健氏の仕事にも明らかで否定しがたい。津田の政治的「結構」論の基本が神話学研究で受けとめられていることを無視してはならない。もちろん、津田の「神代史の結構」、つまり記紀神話の構成論がすべて正しいということではないが、しかし、この記紀神話のもつ体系性が「結構」されたものであるという指摘はテキスト論的にも否定できないものだと思う。
 ただ、最近、神話を研究していて、津田の自然神論について考えることが多い。それは三宅和朗氏が、最近の神話研究が日本神話における「自然神」の存在を軽視する傾向は津田左右吉の議論に一つの由来があるとしていることに関わっている。これはたしかに三宅氏のいう通りであって、津田は、記紀神話の政治性を強調する作業をまず第一の仕事とし、それは正しい研究戦略ではあったが、しかし、記紀神話が前提とした「民間説話」(原神話)が自然神話としての一定の体系性をもっていたであろうことを直接の論及の対象としていない。
 たとえばスサノオがアマテラスに会いに高天原へ上る説話について、「この命を暴風雨の神とし、この話を自然神話として見ようという説がある」(429頁)として、それは無理であるとし、スサノオの物語自身は、「皇祖神に対して反抗的態度をとったものとして説かれている」のが本質であるといのは(446頁)、文献学的には正しいといわざるをえないだろう。そして、スサノオ暴風雨説に対する批判も説得的であると思う。しかし、スサノオが水神・海神であり、その関係で「穢の神」であり、「疫神」であり、同時に人間を穢や疫病から守る神である(西田長男)、そして小川琢治、吉田敦彦がいうように、ポセイドンと同じ地震の神であるというのは説得的なものである(WEBPAGEに載せた「海の神話」についての文章を参照してください)。そう考えれば、スサノオの神格に「民間説話」(原神話)が反映していることは否定できない。津田のいうように、スサノオとオオナムチが結合したのは、そのベースがあった上でのことではないだろうか。
 問題は、記紀神話が前提とした「原神話」が自然神話として、どのような体系性をもっていたと考えるかということになるのだと思う。そして、これは津田の文献学的な方法では解くことができない問題である。
 そういう意味での津田批判の第一の出発点は、ここ、つまり自然神としての地震神論にあると思う。そして第二の出発点は自然神としての火山神論である。これはいわゆる国生神話をどう考えるかということであるが、津田は「土地の起源が人の生殖として語られたことは(世界で)他に類例がない」(344頁)「国土が子として生まれるというのは当時の思想においても無理な考え方である」(563頁)としている。これは津田の記紀神話論を通読すればわかるように、津田の基本的な前提の一つであった。
 しかし、神話学の古典業績の一つ、松村武雄の『日本神話の研究』が、国生神話を、火山の爆発によって大地が生まれることを地母神の出産にアナロジーする神話であると捉えたことによって、この前提は成立しなくなっている。また、神話学の大林太良によっても、出産によって国や島が生まれるというスタイルの神話は、太平洋地域に広く分布しているという。大林太良の挙例の中では、「父なる天」と「母なる大地」の性交によって世界ができ、大地震によって地中から生まれた火によって、地上に木や植物が萌え出で、山々がそびえ立ったというインドネシアのセラム島の神話が重要であろう。大林のいう沖縄からインドネシア、ミクロネシアまで分布する「海中に火の起源を求める神話」とは、海底火山の噴火の経験の神話化なのではないだろうか。そして、この二つをあわせれば、日本神話における噴火の神が地母神イザナミであることは明瞭になるだろう。
 そして、自然神話論からの津田批判の第三は、津田が日本神話には「天空」の神話の要素が薄いと断定していることである。これについては、以前、勝俣隆の議論を紹介した。私は、勝俣の日本神話における「星」の位置の高さという議論に賛成である。
 以上、津田左右吉の仕事が乗り越えられなければならないことは明らかである。しかし、それは津田の仕事にもう一度内在することを必要としている。

 さて、以上は、昨日、考えたことだが、津田左右吉というと、我々の世代では羽仁五郎と連想して考える。羽仁に「神話論の課題」という論文があって、大学時代には一生懸命に読んだ記憶がある。昨夜、念のため久しぶりに『羽仁五郎歴史論著作集』を引っ張り出して点検してみようとしたが、私の本は線があまりに多く、汚くなったのでは廃棄したため、相方のものをみた。どこにそんなに引かれていたのかがわからないほど抽象的で乱暴なもので、読むのに疲れた。いわゆる「戦後歴史学」のもっとも悪い側面を羽仁が代表しているように感じる。歴史学にとっては一時期の羽仁の位置は大きかっただけに、個人的ないろいろな記憶もあり、夜、何となく悲しくなった。

2012年4月28日 (土)

ゲド戦記の翻訳と「燃える木」

Dscn2403  "A Wizard of  Earth Sea"、アーシュラ・K・ル・グィンのアースシーシリーズの第一巻、いわゆる『ゲド戦記』の第一巻、邦訳名『影との戦い』(岩波書店)の清水真砂子氏の翻訳で疑問があるのは、ゲドが師匠のオギオンから杖=Staff=スタッフをあたえられるところの翻訳である。
 
 そこはこうなっている。
"There," said Ogion, and handed the finished staff to him."The archmage gave you yew-wood, a good choice and I kept to it. I meant the shaft for a long-bow, but it's better this way. Good night, my son".

 ここのところの清水氏の翻訳は下記のようになっている。
「さあ、どうじゃ。」とオジオンは言って、できあがった杖をゲドにさしだした。「大賢人さまがそなたにイチイの木を下さったんじゃ。よい品でな、わしが大切に預かっとった。大弓の矢柄にとも思ったが、これにしてよかったわ。では、おやすみ」

 私は、この本を、最初、清水さんの翻訳で読んだので、清水さんの翻訳にはあまり違和感はない。よい翻訳だと思う。しかし、この部分は、このファンタジーの全体の理解にも関わってくるので、直すべきだと思う(あるいは最新版ではなおっているのかもしれないが、そこまでは追っていない)。
 
 こういう本を歴史家で読む人は少ないかもしれないので、前後の脈絡を説明しておくと、大賢人というのは、正規の師匠であって、その師匠からゲドという若いWizardは、「イチイの木でできた杖」を受けとった。しかし、その杖は、ゲドが異郷で追われ、傷ついたときに、失われてしまった。傷ついた、この若い魔法使いが助けをもとめて飛び帰ったのは、故郷の山であった。故郷で最初に師事し、育てられた本来の師匠、オギオンの山の上の家であった。敗北し、心身を破壊されたゲドは、そこでオギオンによって立ち直った。そして旅立ちの日の前に、オギオンは雪の降る谷間にでかけて、杖にするためのイチイの木をきってきて、それを午後一杯かけて「杖」に作り、それをあたえたというのである。それをあたえるときの場面が上記の部分である。

 清水氏の翻訳では、正規の師匠である大賢人は、ゲドに「杖」を与えながら、それが失われることを予測して、しかもそのゲドが最初の師匠のところに立ち戻ることを予測して、イチイの木をあたえてあり、オギオンは、その木を谷間に植えて大事に管理していたが、予測通りに、ゲドが戻ってきたので、大賢人との約束通りに、それを杖にしてゲドにあたえたということになる。
 けれども、上記の部分は、正しくは下記のように訳すべきであると思う。
原文をもう一度掲げる。

"There," said Ogion, and handed the finished staff to him."The archmage gave you yew-wood, a good choice and I kept to it. I meant the shaft for a long-bow, but it's better this way. Good night, my son".

 「これを」といって、オギオンはできあがった杖をゲドに手渡した。「大賢人の杖と同じイチイの木の杖だ。そなたにはイチイの木がえらばれている。わしもそれが正しいと思う。昔は、おまえに長弓の矢柄をあたえることになるのかと思ったこともあったが、結局、こういうことだったのだろう。おやすみ、我が子よ」。

 少し、直訳からずらしたが、もっと直訳すると、下記のようになろうか。

 「これを」とオギオンは言って、できあがった杖をゲドに手渡した。「大賢人はおまえにイチイの木(の杖)をあたえた。その選択は正しく、私はそれにしたがった。私は、おまえに長弓の矢柄をあたえようと考えていた。けれども、結局、これがよかったのだろう。おやすみ、我が子よ」。

 清水さんの翻訳には三つ誤りがあって、第一は"a good choice"というのを 「よい品でな」と訳したことで、これは字義通りに「よい選択」で問題ない。つまり、大賢人がイチイの木を杖の素材として選択したのは正しいということである。第二は"kept to it"を「わしが大切に預かっとった」と訳したことで、keepを預かる、保つという意味で読んだということになる。"kept to"というのは、辞書によると、判断を維持するというようなことで、"stick to"と同じような意味である。
 第三は、"I meant the shaft for a long-bow"の部分で、この部分を清水さんは、「大弓の矢柄にとも思ったが」と翻訳して、オギオンは谷間で切ってきたイチイを「杖」にするのではなく、つまり「杖」をゲドに与えるのではなく、武器をあたえようと考えたという翻訳になっている。これは微妙なところではあるが、杖をなくしたWizardにはまず杖を与えるのが必須であるし、ゲドがオギオンの家にたどり着いて、すぐに、オギオンーゲドの師弟関係が他に優先することが確認されているのであるから、木を切りに谷間に降りていくオギオンは最初から「杖」のための樹の枝を切りにいったと考えるほかない。
 そうだとすると、この部分は、オギオンは、ゲドが大賢人が「杖」を与えられた後に、特別な贈り物として「長弓の矢柄」を与えることになるかもしれないと考えていたと翻訳するほかないと思う。辞書によると"meant for"は、「物をーーに与えるつもりである」という意味で、"a new building meant for wheat storage"などという例文がある。ようするに、オギオンはゲドが何らかの戦いに面することを予測し、戦いのための武器を与えることになるのではないかと考えていたということなのではないだろうか。meantは明瞭な過去であろうと思う。

 今日、やや憂鬱なこともあって起床が遅くなり、ペーパーバックを読んでいて、このことを書こうと思って再確認。以上の訂正が正しいかどうかは別として、これを書いていて思ったのは、「翻訳というのは、ともかく原文があるので、読者に決定的なダメージを与える訳ではない。これに対して、編纂というのは、原史料から活字に起こすことなので、ダメージは大きいことになる」ということ。ゴールデンウィークに入って、しばらく編纂仕事からは解放である。

 またもう一つ考えたこと。先週、上智大学の北條勝貴氏に「樹霊はどこにゆくのか」(『アジア民族文化研究』などをいただいて、あらためて考えたが、私は、「樹木と光」ということに興味があって、ル・グウィンのファンタジーにある「杖」の様子を、そのイメージを考える参考にしていたように思う。「杖」が強い光を放つ、あるいは「杖」の上に闇を照らす光が生じるなどいうイメージである。アースシーシリーズには、光をおびた杖、燃える杖が飛翔して、閉ざされた門を打ち開くなどというイメージもある。その意味では「杖」のイメージは矢のイメージに繋がる。
 ようするに、これは「燃える樹木・枝」のイメージであるが、最初の写真は、一昨年、奈良女子大学の小路田泰直氏に案内してもらって生駒神社に行った時、階段をあがっていった右手にあった落雷を受けた樹の写真である。これを霹靂樹といい、そこに雷神が宿ったことは「腰袋と桃太郎」(保立『物語の中世』)などで述べた。日本においても雷神がすべての原点にすわるのだと思う。そして、ホトケとは熱気のことであるというのは、同じく『物語の中世』におさめた「ものぐさ太郎論」で述べたことであるが、ホトケの熱気の原型も雷神である可能性が高いように思う。これは宮田登『日本の民俗学』(講談社学術文庫』97頁)で述べた柳田・有賀・藤井などの「ホトケ」論争にふかく関わってくる。

2012年4月27日 (金)

地震火山63八世紀の地震と韓国・日本の王家の運命

 今日(水曜)はJ大学で授業。災害史・地震史で3回の特講である。
 レジュメの整理と印刷のために、まず職場による。
 本郷通で、Nさんにあう。もと本郷の角のバーの御主人、というよりもその前はタバコなどを売っていた角店の御主人。10年前くらいまで、ヘビースモーカーのころに一日2箱、そして帰りを入れれば4箱・5箱も買っていた時期があり、今でも路で会うと挨拶。人生で、顔をあわせて挨拶した回数を、もし神さまが数える術をもっていたとすると、家族を除くとトップにくるにちがいない。
 店が昨年の3,11の後、入り口部分を工事しているかと思ったら閉店。そういうことでしばらく御会いしていなかったので、コーヒーを飲みましょうと誘われてYKビルのスタンドでコーヒー。そして、しばらく話し。
 こちらも来年にはいなくなるということを御報告。昔は毎年、年末近くなると東大の教官が、2・3人、今度、定年だからと挨拶があったとなつかしそう。昔の何人かの先生のうわさ話。インド哲学で推理小説を書いたA先生、ロシア史のW先生、職場の先輩で先日亡くなられたK先生などの話はさすがに面白い。
 コーヒーをおごってもらったので、今度、本がでたら差し上げる約束をして、初めて名前をうかがう。頭文字Nさんということになる。
 国民学校三年生の時に、本郷が焼けてたいへんだった。その時は、このビルに砂糖が貯蔵されていたなどという話し。昔から商店街なので、意外と地域社会の住人は変化しておらず、店のマスターに昔の話をするが、それは親の代で知らない、云々。一挙に話が、戦前に飛ぶのが面白い。東大の教員も、華族だとか、日本でめずらしく艦砲射撃をうけた町出身だとか、騎馬の材木屋さんの息子で下町子だとかいう話し。
 小さなビルの並びに昔の隣人が住み続けている近隣関係を聞いていると、ここにも「史料」と「歴史」を発見したという感じになる。ビルの一画としかみえないところに住んでいる人々の経験してきた歴史。戦前の仏教青年会が反対側にあったという話も以前に聞いた。
 隠れていた史料(あるいは、その意味)をみつけた時の感情と相似した感情である。自分を歴史家だと思う。
 
 今、金曜夜11時30分。総武線のホームライナーの中。明日、印刷所が来るので、また。
 J大学の話だが、しかし、授業はむずかしい。やりなれていないと、どうしても「意あまって、話を積み込みすぎる」ということになる。とくに学生相手ということになると、細かく細かくとなるのが、私の癖。普通の講演の積もりでやればよかったといつも思う。
 昨日は、もう少し用意をする積もりだったが、Nさんとコーヒーを飲み、さらにJ大学で、Y先生、そして本当に久しぶりのM先生に御会いして楽しく話している内に、徐々に頭がバラバラになってきたようであった。夜、遅くまで用意したこともあって、頭の調子ももう一つ。そして、前置きが長すぎて、時間が足りなくなる。

 テーマは、8世紀の日本の王権と政治史にどう地震災害が影響したかという話し。これは、そもそも8世紀の日本の王統の矛盾についての私説を説明しないとならず、それと地震の両方をフルに説明するには時間が足りなかった。聞き難い話しだったと思って、昨日はくさる。しかし、感想には「面白かった」という意見が多く、今の学生は温かいものだと思う。
 8世紀の日本王権の王統は天武系の王統であり、天智の孫・白壁王(後の光仁天皇)のときに、それが天智系に切り替わるというのが一般の説明だが、私は、天武が天智の娘の持統と結婚していることの意味が大きいという意見。つまり、天武・持統は叔父と姪の結婚であって、8世紀の王統は、単に、天武系というのではなく、この婚姻の直系であるということが重要であると思う。これは、とくに持統の意思が働いたのではないか。父の天智の血筋を重視するという意思が持統には強かったのではないか。それによって天武天皇と大友皇子(弘文天皇、天智の息子)の争いであった壬申の乱の後の王家内部の平和・融和を希求したのではないかというのが私見。
 これは単に直系主義ということではなく、8世紀の王権の中枢は、天武の子孫であるが、同時に持統の父の天智の血を引いているものでなければならないという特殊な縛りがあったということであると思う。そうでない天武の子孫は、結局、挫折し、誅殺され、自決したというのが、8世紀の政治史である。こうして実際上、平和あるいは融和を求めた持統の意図とは逆に、天武系の王族は全滅に近い状態になってしまった。この惨酷さは、大学時代に読んだ青木和夫氏の『奈良の都』(中央公論社『日本の歴史』)にのった系図ではじめて知り、誅殺・自決の数の多さを知って驚いた記憶が鮮明である。
その情況は、上記のように説明できるのだと思う。
 私は、不比等皇胤論という『大鏡』などにみえる著名な伝承を事実を反映していると考えている。これは「古代史研究者」は無根拠とするが、しかし、不比等が天智の胤であるとすると、不比等の子供の宮子が文武とめあわせられたことは、不比等を通じて天智の血統がもう一度呼び込まれようとしたのだと理解することができる。そして、7世紀の政治は教科書などにも書いてあるように「皇親政治」といわれる王族の位置が高い国家中枢の構造をとっているが、藤原氏が実際上、准王族と考えられていたとすると、「皇親政治」の特殊な展開として藤原氏の上昇を説明できる。これは私には魅力がある。
 そしてさらに問題なのは、長屋王も天武の息子の高市と天智の娘の間に生まれた王であって、その地位が他を圧して高い理由がよくわかるということである。しかし、以上の私説を地震にふれながら短時間で説明するのは、なかなかむずかしかった。
 長屋王誅殺事件をへて、天平6年の地震は長屋王の怨霊の引き起こしたものという観念があったのではないかという点から地震と政治史の話しをしたのだが、もう一つ説得性はなかっただろうと思う。来週は、この点を追加して説明した上で、9世紀の政治史に進む予定。今度は、話題を少ししぼってよくわかるように説明したいものだと思う。
 学生が面白かったといったことで、8世紀の地震の受けとめ方と影響が、日本と韓国では違ったという話し。日本では8世紀のむしろ前半に地震が多く。それは聖武の強い意志が乗り越えた。聖武の娘の称徳で天武系王統が断絶するが、そのころの悲劇的な政治の季節には、地震が少なく、天智系への切り替えが相対的にうまくいった。
 それに対して韓国(新羅)では、8世紀後半の地震の中で恵恭王と王妃が殺害されるという事件が起こり、それ以降、新羅滅亡まで150年で20人もの王が立つという混乱状態が現出した。これは地震が何時起きたかが、日本と新羅の王権の運命に関わる問題であったということではないかと思う。
 日本には八世紀前半に地震が多く、八世紀後半には地震が静謐にむかい、そのかわり噴火が多くなるが、韓国では、8世紀後半に地震が多くなるというのは、地震学的にいって何か理由を説明できるのだろうか。ともかくこのタイムラグによって、偶然ではあれ、両王家の歴史が影響をうけたことは事実だと思う。
 
 話しは分かりにくかったはずだが、100枚以上の短文の感想を読んでいると、この点はどうにか通じたようなので、ほっとする。
 

2012年4月23日 (月)

ウナギ鮨と宇治丸

 先週の土曜日は東大の弥生講堂で行われた「低線量被曝に向き合う:チェルノブイリからの教訓」の集会に参加。奥様と娘と一緒。はじめて知ったことが多い。発生している非癌性の慢性病の量に驚く。低線量被曝について京大の今中先生のコメントでは、非癌性の細胞核、DNAの発現の機構の解明が重要のように思うというコメントがあった。かならずしも癌だけの問題ではないとなると、本当に社会的にも学術的にも研究を急がなければならないということなのだと思う。

 低線量被曝に向き合う:チェルノブイリからの教訓

チラシのPDF版をダウンロードできます

以下は、以前、ウナギ水産協会(?)の新聞でのインタヴューに答えたもの。備忘のためにあげておく(年月日と正式名称は後に)。

鰻消費の歴史を紐解く

 万葉の時代から食されていた鰻だが、当時の消費の実態は定かではない。醤油ができたのも戦国時代とされていることから今のような蒲焼きではなかったと推測され、業界の関心も高い。そうした中で、東京大学史料編纂所所長の保立道久教授に鎌倉時代の鰻食文化について話を伺い、その概要をまとめてみた(本紙発行の「日本の鰻二〇〇七データ&ダイアリー」にも掲載)。

 このような研究に興味をもったきっかけについて、保立教授は「日本では漁業の歴史研究が少なく、二〇年前には五人もいなかった。漁業研究の先達として著名な網野善彦さんから『日本の漁業は日本の重要な文化の一つ。このままでは歴史の見方が歪む』という薫陶を受けた」と振り返る。
 自らも霞ヶ浦の土浦の出身で、コイ等内水面を含めた漁業に強い関心を持っていたことから、専門である中世史の研究で、水産業の研究に力を入れてきた。その中で「前からウナギに興味を持って調べていた」という。研究の過程において、第一に気がついたのは『永昌記』という貴族の日記の裏側に残っていた鎌倉時代初期の「宇治鱣請訴状」であった。
 この「鱣」という字は、本来は「ウミヘビ」という意味で、それがウナギの意味でも使われているのに興味をもったという。
 この中にある「鱣請」の文字は、「ウナギウケ」と読む。この文書を詳しく解釈していくと、彼らは、宇治川で「石積漁」という方法でウナギをとっていたウナギ取りの集団だった。皮に石を積み上げ、その中に「ウケ」と呼ばれる竹籠を仕掛け、中に入った鰻を捕らえるというもので、シーズンの7~8月にはこの仕掛けが川一面を覆ったという。
 また、昔、琵琶湖には多くの鰻がすんでいたようで、江戸時代には、勢多川の流出口、勢多・膳所(ぜぜ)の雨の夜には一つの梁で、一晩三〇〇〇匹以上もとれたといわれる。
 夏・秋の出水のシーズンに大量のウナギが勢多川の急流を下り、宇治のあたりで一休みをして、石組の中にこもる。それを一網打尽にするという訳である。
 興味深いのは、当時の宇治橋を描いた絵には、宇治橋の橋脚のところに橋脚を保護する為の石組みが描かれている。この石組みは、鱣請たちが、毎年、洪水の後、橋を守るために積み直していたものであるとされる。ウナギ漁民は宇治橋の橋守をかねていたことが推測される。
 また、宇治橋は宇治の平等院が管理しており、その関係で、ウナギ漁民たちは平等院の寺男(てらおとこ)でもあったということがわかる。
 ただ、寺男が「殺生」である漁をするというのは矛盾するように聞こえるものの、当時の漁業は相当の実入りのある職業で、特権でもあったから、問題視されなかったようだ。
 そもそもこの史料には同じく河川事業で大きな勢力を維持していた「氷魚(=陸封された小アユ)」の漁師が漁場の問題で鱣請と勢力争いを繰り広げたことが記されている。この「氷魚」の漁師は京都の賀茂社に奉仕する「神人」であった。
 こうした史料からも近畿地方の漁業は著名な寺社がその漁場特権を有していたことがわかる。宇治橋は平等院の近くにあるため、「氷魚」の漁師の意見よりも、鱣請が優先されたようだ。鱣請は、特別な存在で、相当の力をもっていたことになる。
 今でこそ河川事業の雄である天然アユ漁だが、文献によると簗漁や四つ手網漁等、今でも現存する漁の写真も確認できる。琵琶湖をはじめとする全国各河川での漁業は釣り、エリ、簗、四つ手網、追いさで等様々な漁法で漁獲されるアユ漁がダントツの位置付けを誇るのはあくまで現在に入ってからのことのようで、鎌倉時代には、石積み漁をメインとする「鱣漁」に圧倒されていたといえそうだ。
 更に、保立教授は「禪定寺文書」の鎌倉時代中期の一通の文書に「鱣鮨」という言葉がでてくることに気付いた。この字(写真)は活字本では、魚ヘンの隣のツクリが「面」と読まれていた。しかし、保立教授は「面」が「亶」であることを突き止めた。しかもこの字は「鱣請」の「鱣」の字と同じである。鎌倉時代には「鰻」ではなく「鱣」という文字を使うのが普通だった。
 保立教授は「ここにでてくる『鱣鮨』は、スシであるから、そのもとはウナギの白焼であろう。そして、これは室町時代になると『宇治丸』という愛称で呼ばれ、宴会等でもメインの料理として積極的に使われていたようだ」と説明する。
 そして、「宇治丸」を数える単位が「筋」となっていることから、ウナギズシ=宇治丸は、長い、「押し鮨」のような姿をしていたのではないかと推測する。
 うなぎ蒲焼は、かつてブツ切りにした鱣を串に刺して焼き上げた姿が「蒲の穂に似ている」ことから蒲焼といわれるようになったとされる。ただ、醤油の存在しない鎌倉時代において、蒲の穂のような色で焼き上げた蒲焼は勿論存在せず、白焼のみの流通であったことはいうまでもない。
 この「鱣請」が「長焼のような形態のものを使った押し鮨」のような料理だったとすれば、既に割き技術が存在していたことの証明にもなり、蒲焼の語源に対する認識が変わってくる。
 大伴家持の歌にあった鰻料理とはどのようなものであったのだろうか。こうした疑問も解き明かせることが期待されるこの研究は業界にとっても重要な意味を持つことになる。
 また、面白いのはその価格で、室町時代には、「宇治丸筋二五筋に対し、『一〇〇文を払った』という記録が残っている。一〇〇文は今でいうと一〇〇〇円ほど。今の鰻に比べると安かったかもしれない」と語る。
 ともかく、鎌倉時代から、宇治のウナギが京都などに盛んに出荷され、夏の食べ物として好まれたことは確実で、それは「平安時代からも同様の形態で消費されていたといえる」という。
 保立教授は、今後の課題として「『鱣鮨』がどのような料理だったのか、そのレシピを解明してみたい」とした上で、「それには考古学との連携が必要になっていくだろう。遺跡の中からはしばしば食べ物の残りカスがでてくるし、魚の骨も多い。その中にウナギの骨が残っているのを知っている人は知っているはずだ。考古学者に聞いて、つめていきたい」と語った。
 現在、うなぎというと「浜名湖」や「静岡」が代名詞となっているものの、当時は「宇治」がブランドとして通っていたといえそうだ。保立教授は「当時から存在した魚の産地ブランドとしては『明石のタイ』『紀州のカツオ』『越後のサケ』等が挙げられる」と語る。そのいずれもが現在もブランドとして残っている中で、「宇治」に関してうなぎのイメージは一般的とは言い難く、少々残念なことといえそうだ。

2012年4月16日 (月)

アーレント『人間の条件』と「瞑想社会論」

 今、総武線の中。日曜だが、自宅ではできない文書のドキュメンテーション作業があって、職場環境が必要で出勤途上。その方が仕事が早く、そもそも、作業で作ってきた頭のモメンタムをすぐに動かした方が、合理的。
 昨日は、家でできる公務の作業に目途がついた段階で、和室の整理。3・11で和室の本棚も倒れて、必要な整理をしていなかった。和室には、日本史のほかの本をおいてある。いわば方法論部屋。この一年、この部屋にいる余裕がほとんどなく、念願にしている歴史学方法論の再検討作業ができないままでいた。やっと「地震論」が終わったこともあって、この部屋の整理にかかる。まずは座机と座机の上の本棚の整理にかかった。

 座机の前に板を積んで簡易本棚を作っているが、それが1年前の地震で崩れた後に整理をしていなかった。この板本棚は煉瓦で台をつくってそこに板を横たえただけで、三段の棚になっている。地震の時にくずれてしまうということもあって、妻には不評だが、当面は、これで行かざるをえない。ただ、今回は、下から二段目を煉瓦三個分の幅にして、そこには文庫本をいれることにし、その上の三段目には新書・選書をおくことにした。こうなると軽い本ばかりで、しかも座机の上なので、大きな被害をあたえることもないとは思う。
 実際にやってみると、文庫本と新書が目の前に並ぶというのは別の効果もある。文庫にはどちらかといえば、古典的なもの、新書には自然科学をふくめた他分野のものが並ぶということになり、見通しがよくなる。とくに歴史学方法論に広い意味でかかわるものを机の前一列に並べると、何か仕事の枠がみえてきたような感じがする。

 よかったのは、ハンナ・アーレントの『人間の条件』がでてきたこと。先回、歴科協の会で久しぶりにあったT氏から藤田省三さんのアーレントについての座談のメモをみせてもらった。私は、藤田さんの仕事は、「支配原理」を大学の時代に読み、『安楽』も読んだが、全体としてはよい読者ではなく、真面目に読んではいない。ただ、石母田正さんが亡くなった後の追悼会の時(もう何年前になるのだろう)、懇親会の席が隣りになり、藤田さんから「今の若い人は、どう石母田さんを読むのですか」と聞かれて、「読みません」と答えたところ、藤田さんがぎょっとした顔をされたということがあった。
 私の発言の趣旨は、「読みません。石母田さんの仕事はすでにすべて読んで受けとめています。歴史学はそういう風に進んでいます」という今から思えば、これまた思いこみの強い言葉であったが、その信条を御説明したのを覚えている。「そうですか」ということだったが、その後、石母田さんの仕事の「国地頭論」に本格的に関心するということがあったのだから、その時の私の余計なミエをはったとでもいうのだろうか。しかし、その時の感じで、藤田さんが石母田さんを敬愛しているということがよく分かり、それ以来、何となく親しい感じをもっていた。T氏のメモには、藤田さんが石母田さんについて語っているメモもあって、二人の関係がよくわかったのもありがたかった。

 そういうことで、藤田さんがアーレントの『人間の条件』を高く評価している理由のようなものを考えていて『人間の条件』をこのまえから探していたのである。佐藤和夫氏などの訳した未定稿の大冊はあったのだが、肝心のこれがでてこなかった。

 いま、総武線の帰り。疲労もあって、気も散り、何よりも面倒な「離れ付箋」の処理があって思ったほど作業が進まなかった。

 さて、『人間の条件』はきちんとは読んでいないのだが、ところどころ線が引いてある。私は、国際キリスト教大学の出身なので、いわゆる「ソ連型」社会主義(あるいはいわゆる現存社会主義、自称社会主義)は、特殊な全体主義であるという論理を単にアメリカイデオロギーというのではなく(それもあったが)、それを静かに指摘するキリスト教神学の影響を知らず知らずに受けていたと考えている。いわゆる「現存社会主義」がたいへんに問題の多い、どうしようもないシステムであるというのは大学時代からそう考えていたが、それは全体主義というほかないものであると論文や講演で述べたのは、歴史学研究会の60■周年の講演会でのことであったと思う。その時に想起したのが母校での経験であり、そして(その時も十分には読んでいなかったが)アーレントの仕事であった。
 他方、歴史学方法論で、私がともかくあるところまで考えを詰めたのは労働論である。ところが、これもアーレントのいう活動(action)、労働(labour)、仕事(work)の区別にかかわる。藤田さんのアーレント評価が、ここにあることもいうまでもない。
 西洋哲学史をさかのぼり、アリストテレスから始める、アーレントの議論は労働論を素材として哲学史を切ったという意味で根本的なものであることは衆目の一致するところだろう。それが歴史語義論を素材としているという意味でも歴史家としては興味があることである。私などは三木清のアリストテレス論を思い出してしまうが、哲学の議論としても重要なものであることがよくわかる。それが一九世紀思想を越えた諸問題を追究していることは事実だと思う。これをともかく読み抜いて批判することが歴史学方法論にとっては本源的な問題と考えている理由である。そもそも、歴史学方法論において、どうしてもたたいておく必要のあるハイデカーとの関係でもアーレントを読むことは必須であると位置づけている。

 しかし、私は、アーレントの仕事をそのまま認めてよいとは考えない。それをそのまま認めていては社会科学者の一分が立たない。とくにアーレントが労働(labour)、仕事(work)の区別の議論を自分の独創であるかのようにいうのは、アーレントの経済学への無理解を示すように思う。アーレントが経済学的な議論には満足できないというのはよくわかるが、これはいわばハイデカーからの脱却が十分ではないのではないかというのが、私の観測。
 アーレントの見解に反して、社会科学は、経済学的な価値論レヴェルにおける労働の二重性論から出発して行かざるをえないはずである。つまり、labour抽象的人間労働とwork具体的有用労働の区別であって、これが基本的に重要なことは、右の歴史学研究会の60■周年のシンポジウムでの講演でも述べた通りである。歴史学などの社会科学にとって問題なのは、やはり労働の二重性論から精神労働と肉体労働の対立論に進み、社会の敵対的構成にまで進んでいく体系的な歩みなのではないだろうか。アーレントの議論は、「哲学的、あまりに哲学的」で、これでは現実の社会構造を社会の基礎から解いていくということにはならないと思う。

 もちろん、アーレントの仕事の意味は大きい。彼女の問題にしたレヴェルは価値論レヴェルを越えたものである。それはむしろ精神労働と肉体労働の対立という現実の現象としての支配、精神性の剥奪という意味での人間の物化をはらむ社会的分業の現実論にかかわってくる。精神労働と肉体労働の対立論、そしてそれに関係するレヴェルでの「都市と農村」論、さらにアーレントが展開した「公的領域と私的領域」論が、経済学のレヴェルではとけていないことは事実である。これはきわめて大きな問題である。私は、これをどうにかするというのがフェミニズムの議論とならんで、20世紀思想の最大の問題であったと思う。
 私の関心は、むしろアーレントの「活動」論にある。アーレントは、活動と観照(「瞑想」)を対をなすものと考えている。そして社会生活が「活動」を中心とするものとなり、「劇(act)」となる時に、社会の中に「永遠性」、「無世界性」、網野さんの言い方では「無縁」の自然そのものが立ち現れると述べているように思う。それによって永遠への観照・瞑想が復活するという訳である。それにそって、労働(labour)、仕事(work)が永遠の相の中で位置づけられねばならない。私は、こういう考え方に賛成である。

 私は、この本、『人間の条件』が好きである。20世紀思想のうちで現実との緊張関係をもって体系的な思索を展開したのが、ボーボワールとアーレントであるというのは、ある種の必然なのかもしれないと思う。この文庫本には中年になったアーレントの写真が載っている。右の佐藤和夫氏の訳した大冊にのっているおそらく20歳前後のどこにでもいるような「夢見がちな少女」としてのハンナの写真と比べると、ナチスに追われた時代の苦闘が反映しているような中年の顔。彼女は普通の学者ではない。彼女の文章は強く訴えるものをもっていると思う。

  アーレントの言葉は力強い。たとえば、
 「科学者の政治的判断を信じないほうが賢明なのは、科学者は、言論がもはや力を失った世界の中を動いているというほかならぬ、この事実によるのである」。
 「世界を、人々が結集し、互いに結びつく物の共同体に転形するためには永続性がぜひとも必要である」「公的空間は、死すべき人間の一生を越えなくてはならないのである」。
「人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのはナザレのイエスであった。たしかに、イエスは、それを宗教的な文脈の中で発見し、宗教的な言葉で明確にした。だからといって、それを厳密に世俗的な意味で真面目に考えなくてもいいということにはならない。許しというのは活動からかならず生まれる傷を治すのに必要な救済策である」。

 今は月曜。銀杏は緑。歴史学の公的空間は永続性をもったものとして成立しているはずではあるが、さてそこに「人々が結集し、物(史料)の共同態がある」かといえばそれは疑わしい。

2012年4月12日 (木)

「簀面・液面」「断層動・地震」

 120412_120601 朝の総武線。写真は赤門脇の八重桜
 昨日は、午後、農学生命科学科の先生がいらして、紙の大規模な装置による徹底分析について御相談。その後は、朝から取りかかっていた綴葉装の帳面の復元で半日苦闘。
 綴葉装(てっちょう)というのは、現在の本やノートの作り方にもっとも近い和本の作り方で、料紙を数枚そろえて中央で縦半折りして折束を作り、その折を複数重ねて、背面に切り込みをいれて糸で閉じるやり方。とり組んだのは、これが糸がきれてバラバラになった帳面。これは紙の表裏両方に字を書く。普通は墨の通りにくい鳥子紙(雁皮)をつかうことが多いが、これはやや厚手の楮紙である。
 問題は、現在の本の製本をばらばらにした場合を想像していただければわかるが、ページ順序がわからなくなってしまっていること。しかも、料紙が折り目から切れて、前半または後半の半分しか残っていない部分がある。ページ打ちはもちろんないから、半分復元をあきらめようと思ったほど難しかったが、ともかく集中して作業。写真のコピーを作って、あれこれ製本をし、中身が整合的にならぶ順序を考える。9時までには帰宅せねばならず、ああでもないこうでもないとやっていて、帰宅直前にうまくいった。これまでも気になっていたが、とにかく結論をえなければならないので確定した時にはほっとした。今日は、その作業を原稿に反映させる仕事から再開の予定。
 キーになったのは、まず半分になった紙が右側か左側かを確定すること。紙は化粧断ちしてあるので、どちらがわに化粧断ちした切断線があるか、どちらがわが破れてしまった不規則な線かを確定する。これは各ページ七欄づつの罫線が引いてあるので、その様子でも推定する。そして、次は、紙の表裏であった。
 綴葉装では、折りを作るときに、紙の「表裏」はそろっているから、そのページの表裏を一つ一つ確定していく。それをやっていって、だいたい重ね方がわかってきた。一般に料紙はそろえて扱われるので、表裏情報が装丁の復元には有用となるのである。そして内容と照らし合わせて合理的な編成がやっとできた時にはほっとした。おわってみれば簡単なことで御報告するまでもないが、しかし考証のトリヴィアリズムのもっとも単純な例のような話。
 紙の表裏をみる目はどうにかやしなってきたので、これは助かった。紙の「表裏」というのは曖昧な言葉で、単純な定義はむずかしい。これを私は「簀面・液面」ということにしている。つまり抄紙の時に簀に接する面を簀面、逆に簀の上面にたまった紙繊維によって懸濁した液が空気にふれている面を液面と称することにしたのである。製紙科学では、簀面をwireside、液面をnon-wiresideというが、それを真似したものである。最初は簀面を簀肌面ということにした。これはいかにも簀にあたったという感じの紙の肌が残っているからで実感的な言葉としてはいまでも使う。しかし、雁皮紙の場合は竹簀に紗がかけてあるので紙に簀肌のような触感はなく、そこからすると、ただ簀面というのがよい。液面というのを「取液面」「捨液面」などという言葉もつくった。これは懸濁液を汲んだり、勢いよく捨てたりする運動が働く面ということで、意味がある呼称であるが、結局、これも「液面」という単純な言葉がよいと思う。つまり「簀面・液面」である。紙の表裏という言葉は慣用的には可能だが、考証的・物理的な厳密さを要する場合は、それがよいと思う。
 永村真によれば、古文書の編纂とは料紙に記される二次元的な情報を一次元情報に還元することであるが、紙は物体としては三次元のものなので、一次元に直すときにも、いろいろな技術(私の場合は技術というほどの本格的なものではないが)がいる。編纂という仕事をしていなければ、紙の文化財科学などについて考えることはなかったと思うが、実際上の編纂技術に関係するところもあるので、よい勉強はした。こういう文書は、若い頃だったらあきらめていたと思う。

 昨日、こういう「苦闘」をしていたとき、スマトラでM8,6のインドプレート沈み込み帯のアウターライズ地震が発生したということを考えると不思議な気持ちである。遥か昔のバラバラになった文書の復元をしている時空と、はるかスマトラの地震。
 共通しているのは、「アウターライズ地震」という専門用語と、「簀面・液面」という専門用語を飯の種にしているという自分の生業と生き方であるのかもしれない。この一年で、ともかくも「アウターライズ地震」という専門用語を曖昧にであれ理解できるようになり、その一方で、「簀面・液面」という専門用語が必要だと自分で決めてくる過程が同時進行であった。専門性というのは、所詮、用語の体系を作り出して、そのカスミを食って生きることである。現実生活とは異なるところでの「苦闘」でしかないが、こういう落ちかかる蒼穹の中空での我慢に何らかの意味はあるのであろうか。
 しかし、「アウターライズ地震」 というのは、簀面をワイヤーサイドというようなもので、海溝の外側の斜面部分に震源をもつ地震ということなのであろうから、海溝外地震といえばすむことだと思う。専門用語にすぐに外来語をもちこむというのは、それこそ奈良時代以来の日本の言語の特徴だからしょうがないが、しかし、こういうターミノロジーの問題は大事なことだと思う。とくに東アジア全域での地震の激化が予想される以上、漢字で意味が何となく通ずるというターミノロジーに意識的になることは当然のことだと思う。
 また「アウターライズ地震」というのは沈み込む海側のプレートが、沈み込みに抵抗がなくなったために引っぱられて発生する正断層地震であるというが、この正断層という言葉も人を惑わす。「引張断層」といえばいいのではないのだろうか。逆断層は「圧縮断層」でよいのではないか。
 そもそも、地震学者は「地震」と「地震動」を区別する。つまり、地震とは大地における断層運動そのものをいい、地震動は、それと区別して、大地表面の体感できる揺れをいうというのである。これもターミノロジーとしてはどうかと思う。もちろん、地震とは地中の断層活動をいうというという地震発現の機構の説明をすることは必要である。しかし、断層という言葉で「地震」を理解してほしいということならば、「断層動」(あるいは断層運動、地下断層運動)とでもいったらよいのではないだろうか。「地震」という日常的な言葉は、私たちが体感する大地の揺れの体感の表現に残しておいてほしいと思う。「断層動(断層運動、地下断層運動)・地震」という訳にはいかないのだろうか。もしそれでよいとすると、マグニチュードは「断層力・震源断層力」、震度はそのまま震度などということになるのかもしれない。7年ほど前、マグニチュードと震度の相違をしらなくて先輩に笑われたことはある無知識の私の希望である。

 さて、昔でいえば、「断層動」という言葉は「龍動」である。つまり大地の揺れを起こす原因は地中にひそむ龍が動いたためであるという「認識」が「龍動」という言葉で昔は表現されていた。それを尊重して、「断層動」というのは駄目であろうか。地震学者が地震発現機構を説明するときに、昔は同じことを「龍動」といったという説明があってもいいのではないだろうか。昔の人も、今の人も、この地震列島に棲んでいる人類という意味では同じことということをターミノロジーレヴェルで認識するということのためにも、文理融合は必要だと思う。
 「簀面・液面」「断層動・地震」「断層力・震度」など。
 前半は電車。後半は食事の後のベンチ。大学は、(いいのか悪いのかは別にして)、平和な風景である。

2012年4月11日 (水)

地震火山62地震・噴火の本を書き終わってー神話教育のこと 

地震・噴火の本を書き終わってー神話教育のこと 

 この写真は出勤の途中。電線がじゃま。


120411_090657  一昨日、気仙沼の「亀の湯」という浴場の被害と再建につてのテレビをみた。私は、ほとんどテレビというものをみないが、NHKでやった「メガクェーク」を妻におしえられてみて、その続きのようにしてみた。私のやっているような仕事が、どう役に立つのか、あるいは何らかの支えになるのかということを感じる。そのような意識は、不実践や躊躇の心理的表現であろうということは分かっているが、自分の仕事が宙にういているものであるという不安定感は、この職業につきまとうものである。
 やっと奈良・平安時代の地震と噴火についての本を書き終わり、すべて入稿した。ほぼ1年やってきたことなので、一つの荷を降ろしたような感じにはなるが、まだ経験と感情の整理はできない。
 次が「あとがき」の最初の部分。

 日本文学研究の先達の一人であった益田勝実氏に、『火山列島の思想』という本がある。私は、長くこの本の題名の意味するところを理解できないままでいたが、しかし、「はじめに」でもふれた『かぐや姫と王権神話ーー竹取物語・天皇・火山神話』という新書を執筆する中で、この書の題名の意味が「火山列島に棲むものが、この国土から受けとってきた思想、受けとらされた思想」というものであることがわかってきた。
 本書は、この経験を前提にして、益田のいう「火山列島の思想」に、さらに「地震列島の思想」をつけ加え、八・九世紀、王権中枢から地方の庶民にいたるまでの、この列島に棲むものが、大地動乱をどのように意識し、それをどのように乗り越えていったかを歴史学の立場から論じたものである。
 
 さて、益田勝実氏の仕事を、そんなに読んできたわけではないが、前から気になっていたのは、益田さんの『国語教育論集成』(筑摩文庫)にのせられた「海さち山さちー神話と教育」である。この1955年に書かれたエッセイを読むことは、歴史学の学史をたどり、追体験する上でも必須のもので、当時の神話と民族文化をめぐる情況を具体的伝えてくれる。

 「神さまの話は古代の天皇家が自分勝手にねじ曲げてつくったものだ、とだけきめこみ、それをネグレクトして進むところには、皇室神話にねじ曲げられない神話本来のものをあきらかにして、それによって祖先たちの魂の歴史をさぐり、そこに反映している祖先たちの生活のたたかいの経験を豊かに組み上げていく道はひらけない。生徒たちが(神話に)実際に魅力を感じている事実を認め、それを正しく発展させることができない。まして、子供の世代の科学的な勉強が親たちの世代へおしあげ、社会全体の歴史認識が新しい方向へ進んでいくような契機も見いだせないであろう。神話の本質を明らかにし、歴史的に正しく位置づける必要を社会科の良心的な教師たちは、いま痛感している」。

 私もその意味での教材としての神話は、「文学」教育の問題としてきわめて重要だと考える。歴史と文学では教育のあり方が違うが、文学としての『日本書紀』『古事記』神話を考えるべきことは明らかだと思う。これは領域をこえて議論すべきことである。そしてそのためにもまずは神話論を議論することが必要であるが、そのような研究を進めるためにも益田の議論を詳細に追跡することが必要であると思う。
 ちょうど同じころ、1955年ころのことであろう。歴史学の先達のIさんの奥さまに友人たちと一緒に「ヤマトタケル」を讃える歌というのを左翼の集会で歌ったという話を伺って驚いたことがあるが、それはいくらなんでもにしても、そういう雰囲気の背景にあった合理的なもの、文化の状況をよく伝えるエッセイである。
 なにより、益田の議論は、名ばかり高い石母田氏の英雄時代論よりも読みやすく、理論的にも透明な感じがするものである。石母田の仕事、とくに具体的な神話論はさすがであるが、石母田正の議論は全体としてみると、歴史家の常として史料との格闘と、さらにヘーゲル・マルクス・エンゲルスの理解の晦渋性が染みこんでいて理解しやすいものではない。おそらく今の若い歴史家は石母田正の「英雄時代論」などは読んだことがなく、ただの時代錯誤と思っているであろう。歴史学の根無し草情況は、相当に深刻なものである。この益田のエッセイを読んだ上で、石母田の仕事を読み直すのが、研究史を知るためには意味があると
 益田のエッセイには、三木清からフレイザー、マリノフスキー、そして日本の神話学の古典、松本信広・松村武雄などを読み込んだ情況がよくわかる。そして、神話論としても重要な理論的意味があるのではないかと思う。呪術=トーテム=エロティシズムの世界と神話の世界を区別し、神話のもつイマジネーションの力、文学の力を汲み上げようという議論は、呪術と神話の区別の理論的問題としても、私は賛成である。現在でもやるべきことはかわっていないようにさえ思う。この巨大な研究の停滞。
 さて、「山幸・海幸神話」に踏みこんで議論している部分をふくめて、このエッセイは、益田さんがどういう人かを知る上でもたいへんに面白いものである。ご自身の自然の中での「釣り針」をなくした経験、そして軍隊の経験などを読んでいると、私のような人間がいかに偏頗であるか、実際の体験をもっておらず、童話・民話などの受け入れのもととなる自然体験においても、根本的にブッキッシュな都市人間であるということを思い知らされる。もちろん、小学生のころ以来、大量の民話・童話を読むという経験を与えられたことは母親に感謝しているし、その豊かさは疑わないが、これが自分の人格と生活の歪みの根本にあるのであると思う。
 
 そして、もう一つ、逸することのできない文章。これは実際に読んでいただく方が早いが、一行だけ引用しておく。
  
 「原爆雨にさらされて神話を教える。これは一体何だ」

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