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2018年1月14日 (日)

世界史の波動の図。

 この図は「世界史の波動の図」と名づけましたが、宮崎市定の『東洋的近世』と『アジア史概説』にのっている図を合成し、地域区分を若干変更し、王朝名を入れ、野生という時代を設定し、古代を神話時代とし、中世を「文明(宗教)とし、近世を文明(物質)としたものです。

 宮崎は「世界史はこれ以上簡単にできない」といっているが、たしかにそう思う。ここにはアメリカ大陸が書けないが、できれば、地球の反対側、アメリカ側も入れて、地球儀に貼り付けたものを使って小学校から教えたい。小学校でプレートテクトニクスを教えるための地球儀(プレートを記入してある物)の上に、これを重ねられるといい。子どもが世界史を一望することはきわめて重要。


20191014


 
 以下は、簡単な説明です。

 人類史というのはサル類ヒト科として半ば野生の時代が非常に長いのですが、それがおわってやはり長い神話時代があった。そこを抜けた文明の時代がいつ始まったかは色々な議論があると思いますが、哲学者のヤスパースが釈迦・ソクラテスなどの哲学思想の発生した時代は人類史の同時代を横軸のように貫いているといっていて、これが一番分かりやすいと思うのですね。だいたい紀元前五世紀から四世紀です。それは西アジアで始まり、ギリシャや中国でも同じ時代ということです。中国では孔子そして遅れて老子ですね。これと連続して、仏教、キリスト教や中国でいうと老子をうけた道教のような世界宗教が生まれて、宗教文明の時代になった。

 次は七世紀頃のイスラム文化圏の中で近代科学の原型が生まれた時代が鍵になって、物質文明の時代に入っていく。それがヨーロッパに受け継がれ、中国でもほぼ同じ時期に大きな技術の発展がある。小島毅『中国思想と宗教の奔流』で生き生きと描かれていますが、火薬にしても、印刷術にしても、この時代の中国で大きく発展する。

 これまでは人類史の発展の先端はつねに西アジアであった訳ですが、この図の上には遊牧民の動きが一貫して存在。それを通じてユーラシアの東西はつねに連動していた。匈奴が秦漢帝国におわれてフンとしてゲルマン民族大移動のきっかけをつくったのは有名な話しです。歴代の中国王朝で遊牧民の陰がないのは、漢・宋・明だけ。隋唐が鮮卑族であるというのは歴史常識のなかにないですが、ヨーロッパは二度目(ヴァイキング)で外からの民族移動がなくなった。一種の長期の平和を保障されたのが非常に大きいというのはブロック『『封建社会』』が強調するところです。これは端的にいうと中国が遊牧民族を受け入れ、そこから新しい世界と富を作っていったから、そのおかげでヨーロッパの平和があったのだと思います。ヨーロッパは、その中で外に対して積極的となり、アラビアから科学を受け入れ、他方で十字軍という攻撃的行動にでて、その延長線上でアフリカ・アメリカにでていく。コロンブスのアメリカ航路出発はグラナダ攻略とユダヤ人抑圧と同じ年であることはよく知られるようになりました。

 こうしてはヨーロッパが中心になって世界資本主義の時代がくる。一六世紀の大航海時代で地球が丸くなって、アフリカ・アメリカ・東アジアの富が大きくヨーロッパに奪われていき、それによって資本の大規模な強蓄積が行われたということになります。

 さて、宮崎のアジア史論は、戦争中に文部省が企画した『大東亜史概説』が原型で、宮崎の西アジアを中心に世界史をみるというのは(日本神話を中心にアジアを論ぜよという)日本中心主義への抵抗であったが、同時に大川的なイデオロギーによって容認されたものだろうと思う。一種の西域趣味もあった。

 アジア太平洋戦争を結果した大アジア主義の主唱者は大川周明であったが、アジア主義がアカデミーに残した最良のものは、井筒俊彦のイスラム研究と宮崎市定のアジア史論であったろう。これは文脈としては(井筒の場合は人脈の上でも)大川のイデオロギーの影響があったと思う。もちろん、日本学士院による『明治前シリーズ』(科学史・産業史など)も大きいが、これらには、やはり未発の契機というべきものがあったと思う。
 

2018年1月 2日 (火)

『老子』第一章。星々を産む宇宙の女神の衆妙の門

 新年の御挨拶に。さきほど訂正を終えた原稿。

 普通に行く道と、ここでいう「恒なる道」はまったく違うものだ。普通に名づけることができる名と、ここでいう「恒なる名」もまったく違う。宇宙における万物の始めの段階では、混沌としたものには「恒なる名」はないが、そこに登場した万物を産む母が、物に形をあたえ「恒なる名」をあたえる。同じように、「恒なる道」には最初は「欲」がなく、その様子は微かに渺々(びょうびょう)としているが、「恒なる道」が「欲」にふれれば物ごとが曒(あきらか)にみえるようになる。この「恒なる道」と「恒なる名」は同じ場をもち、字は違うが同じ意味である。この二つの黒く奥深い神秘がつながるのが万物を産む母の衆妙の門である。

*道可道也、非恒道也。名可名也、非恒名也。
無名、万物之始也。有名、万物之母也。
故恒無欲也、以観其眇。恒有欲也、以観其所曒。
兩者同出、異名同謂。玄之又玄、衆妙之門。
 *本章のテキストはとくに帛書によった。

道の道(ゆ)くべきは、恒なる道に非(あら)ざるなり。名の名づくべきは、恒なる名に非ざるなり。名無きは万物の始めなり。名有るは万物の母なり。故に恒なるものに欲無くんば、観(み)るに以てそれ眇なり。恒なるものに欲有るにいたれば、観るに以てそのところ曒(あきらか)なり。両者は同じく出でて、名を異にするも謂うところ同じ。玄(げん)のまた玄、衆妙の門なり。

解説
 本章は現行本『老子』の第一章であり、冒頭に「道」とあることが以下第三七章までを『老子』「道篇」と呼ぶ理由となっている。しかし、それだけ有名な章で有りながら、従来行われてきた本章の解釈はきわめて曖昧であって、しかもほとんど同じものはないといっていいほど相互に違っている。

 それでも、人々は本章からきわめて強い印象をあたえられてきた。たとえば『ゲド戦記』『闇の左手』などを書いた小説家、アーシュラ・K・ルグィンは小さいころから『老子』の謎のような文言に惹かれていたというが、本章冒頭の一節を、彼女のファンタジー『幻影の都市』の中で、主人公が人格崩壊の危機を生き抜くための呪文として使っている。英語でいうと、"The way that can be gone isn't the real way. The name you can say isn't the real name."となり、たしかにきわめて神秘的な印象をあたえる。しかし、呪文のように聞こえるとしても、私は、これは一種の宇宙論ではないかと思う。そしてそう考えれば本章の意味は一挙に明晰になる。

そこで問題の冒頭の一節、「道の道(ゆ)くべきは、恒なる道に非(あら)ざるなり」の解釈から行くと、まず老子は普通に行くような道(「道の道(ゆ)くべき」)は「恒なる道」ではないという。「道の道(ゆ)くべきは」はこれまで「道の道(i)うべきは」(「道」の「言う」という動詞用法)、あるいは「道の道とすべきは」(「道」を名詞それ自体と読む)と読まれているが、もっとも素直なのは「通る、行く」であろう。普通に行く道と、「恒なる道」とは違うというのである。普通の道とはまずは儒教のいう「仁義」の規範としての「道」のことであろう。そして「恒なる道」が、老子のいう「道」、つまり自然と社会の中に存在する不可視・不可聴・不可触な公理、道理のことであるのはいうまでもない。

 また「名の名づくべきは、恒なる名に非ざるなり」というのも同じ語法で、普通に名づけられる「名」は「恒なる名」ではないというのである。普通の「名」を代表するのは、儒教のいう「名分」、つまり社会的な身分秩序や体面のことであろう。「名」という言葉自体は、老子の語法では、名をつけること、そして名をつけることができる万物の形とその差異があることをいうが、ここでは儒教のいう「名分」どころか、そういう一般的な意味での「名=形=差異」もどうでもいい、ここで問題とするのは「恒なる名」であるというのである。老子は「恒なる名」という用語で、差異が生まれる直前の状態、あるいは差異を産む世界の構造それ自体のことをいっている。

 問題は、老子が、この恒なる「道」「名」を一挙に「万物の始め」という宇宙生成の場にもっていくことである。「名無きは万物の始めなり。名有るは万物の母なり」というのは明らかに宇宙の始源の混沌がイメージされているのである。つまり、「名」とは万物の差異のことだから、「名無き」というのは、万物に名を付与するべき差異や形がないということであり、「名無きは万物の始めなり」というのは、宇宙と万物の始めは形のない混沌であるというのである。その逆に「名有るは万物の母なり」というのは万物に形態があたえられ、「名」をつけることが可能になった状態である。「万物の母」とは宇宙生成の最初に混沌から名と形を作り出す力をもった存在、つまり「恒なる名」をいうのであろう。老子は宇宙の原始に母性を想定しているのである。

 従来の解釈には、この部分に宇宙生成過程のイメージを読み込んでいくという発想はまったくないが、老子がそういう発想をもっていたことは、浅野裕一『古代中国の宇宙論』(岩波書店二〇〇六)に明らかであり、本書でも第二部Aで詳しくふれることになる。それはいわゆる宇宙創成神話をうけたものであるが、当時の星空と天文の観察に根付いたもので、現在の天文学の宇宙生成論を借用すれば、ビッグ・バンの理論に少し似ている。つまり、宇宙は非定常な混沌として永久に続いているが、それが特定の形態をもつのは、特定の環境条件の下で最初の衝撃、ビッグ・バンを経過した後である。『老子』本章のいう「万物の始め」における「名無き」から「名有る」への一瞬の転形が、それに似ている。「万物の母」とは、この臨界点の特定の環境をいうということになろうか。これはより近代哲学風の言葉を使えば、形のない無規定なものが特定の環境条件の中で、運動を開始し、自己を産出して、その諸側面が区別されるようになり、「形」(形態)と本質(現象的な側面と本質的な側面)をもつ事物になっていくということであろう。

 次の部分を、私は「故に恒なるものに欲無くんば、観(み)るに以てそれ眇なり。恒なるものに欲有るにいたれば、観るに以てそのところ曒(あきらか)なり」と読んだ。これまでの読みはすべて「恒」を「つねに(常に)」と読んで、「人は常に変わりなく無欲で純粋であれば、その微妙な唯一の始源を認識できるのだが、つも変わりなく欲望のとりこになっているのでは、差別と対立にみちたその末端の現象がわかるだけだ」【金谷通釈】などとして、これを人生訓として読んでしまう。これは『老子』というと「無為・無欲」とする思い込みの一例である。しかし「恒」一字で「恒なるもの、恒遠なるものと解釈するのが分かりやすい。それは決して根拠のないことではなく、『老子』とほぼ同じ時期に知られていた『恒先』『道原』など、最近発見された竹簡書に一般的な語法である。

 こう読めば、この「恒」についての句は、「名無き」から「名有る」への転形と同じ場面を、「恒なる道」の側から説明したものということになる。現代語訳に記したように、この句は、自然と社会の中に存在する「恒なる道」は、それ自体として「欲」の動きがない段階では、目に見えない眇々たるものに止まっているが、「欲」の動きが入ってくれば明らかな形をもつにいたると読めるのである。「万物の母」と「欲」は同じことであるに違いない。

 そう考える理由は、右の『恒先』に次のようにあることである。

濁気は地を生じ、清気は天を生ず。気の伸ぶるや神なるかな。云云(うんうん)相生じて、天地に伸盈(しんえい)し、同出なるも性を異にし、因りて其の欲する所に生ず。察察(さつさつ)たる天地は、紛紛(ふんぷん)として其の欲する所を復(くりかえ)す。明明たる天行、惟(こ)の復のみ以て廃せられず
(現代語訳)(最初は混然として一だった気もやがて分化し始め)濁気は沈降して地を形成し、清気は天地を形成した。気が拡延していく様は何と神妙ではないか。様々な物が互いに相手を生み出しながら、天地の間に満ち溢れた。万物は同一の気を発生源にはしているが、それぞれに性を異にしている。そこで各々の性(本性ー筆者注記)がその欲求に応じて発生してきた(以下略)

 この現代語訳は浅野裕一『古代中国の宇宙論』(岩波書店二〇〇六)によった。

 『恒先』は宇宙の原初に存在するものを「恒」としているが、それが万物に分化していく上で「欲」が決定的な位置を占めるという点も、『老子』本章と共通することは明らかであろう。この文脈からすると、この「欲」には、「万物の母」に対応する男性的な「欲」の意味がこめられているに違いない。少なくとも老子が宇宙の生成を生殖の原理をもって語っていることは明らかであって、それを「母」から語り出していることが何よりも興味をひかれることである。

 こうして本章の結論の「両者は同じく出でて、名を異にするも謂同じ。之を玄(げん)とし、有(また)玄とするは衆妙の門なり」という一節の意味も明瞭になる。まず前半の「両者は同じく出でて、名を異にするも謂同じ」というのは、「恒遠なる『道』と『名』は同じ場をもち、字は違うが同じ意味である」ということである。これも近代哲学の用語に直せば、ものごとの法則あるいは道理が存在するということは(「道」)、ものごとが発展し本質ー形態(形とは「名」である)の関係が変わっていくのと同じことだということになる。話しの筋は通っているのである。

 圧巻は最後の「玄之有玄、衆妙之門」という章句であろう。この「衆妙の門」、つまり衆(おお)くの妙(たえ)なる喜びの門とは、「ほのかな赤みを生の胎動として覗かせる黒く巨大な何者か」(福永注釈)であり、よりはっきりいえば女性生殖器のことである(加藤注釈)。「玄之有玄」という「玄」は「黒く神秘的な」という意味であって、『老子』第六章のいう谷間の奥にあるという地母神の「玄牝之門」(神秘な雌牛の性器)の「玄さ」と共通するものであろう(■■■頁)。ここではそれが天空にあるというのであるが、それは第一〇章では「天門」と呼ばれ、「天門開闔(かいこう)して、能く雌(し)と為らんか」(天空の女神の生殖の門を開け閉めして万物が生まれるときのように、世界が雌の優美な柔弱さをあらわす)という願望が述べられている。ようするに、「名有るは万物の母なり」といわれる「万物を産み形作る偉大な母」の生殖器=「衆妙の門」が宇宙にあるというのである。

 私はこれは比喩に止まるものではなく、中国の古代の諸史料で天空の星座に現実に存在していた「天門」を意味するものだと思う。それは角宿(おとめ座)の二星の間をいい、『宋書』(薜安都伝)には「夢に頭を仰いで天を視るに、まさに天門の開くを見る」とあって、実際に天門が開くという観念があったことがわかるのである(なお角星はスピカ。ギリシャ語で「穂先」の意)。また老子の「河上公注」は、右の第一〇章の「天門」を北極の星座、紫微宮を意味するものとするが、その可能性もあるだろう。星々を生み出し、万物を生み出す「天門」が天に存在するというのは、そんなに突飛な幻想とはいえないであろう。

 なお、最後に注意しておきたいことは、この第一章は古くから日本でも有名であったことである。たとえば鎌倉時代の書、『類聚神祇本源』に引用された「天地霊覚書」にはこの一章がそのまま引用されている。『類聚神祇本源』は伊勢神道の教説を集大成した書として有名なものであって、「天地霊覚書」は、道教の思想を自在に援用して神道の原理を論じた書である。そして著者の度会家行は、一二世紀に成立した伊勢神道の正統をひく伊勢神宮の神官である。家行は、吉野の南朝の側に立って北畠親房とともに戦った人物であり、その立場から家行は、この書を後醍醐天皇に進上している。その影響はきわめて大きかったろう。
 そもそも伊勢神道には『老子』の影響がきわめて強かった。『老子』を読むということは、日本の歴史と神道を身近に感じていく上でも必須の作業なのである。

2017年11月22日 (水)

『老子』33章「自(みずか)らを知る「明」と「強い志」


 人と議論するには「智」がいるが、自分自身を知るためには心の内面を照らす「明(あか)り」、「明(めい)」が必要である。人に勝つものには力があるが、自らに克(か)つことこそが本当の「強」だ。足るを知って身心(しんしん)に余裕があるものは豊かになることができるが、自分に克つ「強」をつらぬくものには「志(こころざし)」というものがあるのだ。境遇を保つことができた人は久しい命に恵まれるかもしれないが、しかし死を懸けても志を忘れないものは最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を聞くことが出来る。

知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。
不失其所者久、死而不忘(1)者壽。
(1)底本「亡」。帛書により改む。

人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり。

解説
 「自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」という言葉はたいへんに有名な言葉である。たしかに、人生にとって「自分を知る」ということはもっとも大事なことだろう。それは誰にとっても一生の仕事である。しかし、そういわれると「そんなことは分かっている」という声が自分の中から聞こえてこないだろうか。分かっていてもどうしようもないことが多い人生の実際からすると、この言葉はお説教に聞こえる。

 しかし、老子は、決して単純なお説教はしない。そこをつかむためには、まず本章が、四つの対句、つまり(1)「人を知る智」と「自(みずか)らを知る明(めい)」、(2)「人に勝つ力」と「自らに勝つ強」、(3)「足るを知る富」と「強を行う志」、(4)「所を失わざる久」と「死しても忘ざる寿(ほぎうた)」の四つの対句でできている全体の脈絡をおさえていく必要がある。老子はこの四つの対句の前句を外面的なものであるとし、後句の意味を強調する。

 まず(1)「人を知る者は智といい、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」は、後句の「自らを知る」という「明」の意味を強調する。前句の「人を知る者は智」というのは、そのままでは意味が分かりにくいが、これは『論語』(堯曰篇)が「言を知らざれば以て人を知ること無きなり」、つまり「言語知識がなければ人を知ることは出来ず、知者ではない」と述べていることへの批判である。もちろん、老子はそういう言語知識が不要であるというのではないが、そういうものは最後には役に立たないというのである。老子は、そういう「智」ではなく、自己と語り、「自(みずか)らを知る」という内面的な能力を育てなければならないというのである。老子の趣旨は前句と後句を対照して論ずることにあるのであって、そう理解すれば了解できるところが増えるのではないだろうか。

 この「明」については最後にもう一度立ち戻ることとして、次の(2)「人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす」という対句も、前句の人と競争して勝つ外面的な力に対しては評価が低く、後句の自己に克つ内面の強さこそが大事だというのである。この「強」は五五章(通項◆番)では「心、気を使うを強と曰う」と説明されているように、自分の内面で心が気を自由に使えるということである。まさに内面の強さということであって、そこで、上記の訳文では、この「自らに勝つ」の「勝つ」については「克己心」の「克(か)つ」という字を使用した。普通、「勝」と「克」は区別されないが、「善くする。堪える。刻む。勝つ」などのニュアンスをもっている「克」の方がふさわしいからである。(なお克については五九章(通項◆番)、六七章(通項◆番)の解説も参照)。

 次の対句(3)「足るを知る者は富み、強を行うものは志有り」も、これまではそう解釈されず曖昧になっているが、曖昧前句は評価が低く、後句は評価が高いはずである。つまり前半の「足るを知る者は富み」という部分は後半の「強を行う志」にくらべて評価が低いはずである。もちろん、「足るを知る」こと自体は、前項四四章(通番6)でみたように、老子にとって重要な知恵であり、「足るを知る」とは人間が自己の自然と身体を信頼して安息にあり、それ故に余裕があるということであった。ここでいっているのは、そのような身心の余裕があれば人間は豊かさをもつことができるということである。老子は「名」「貨」「得」「欲」などに対して強い自己否定を行うが、それが「知足」の境地まで進めば生活の豊かさを享受するのは当然であるというのが、老子の考え方である。

 しかし、老子は決して、そこに止まろうとしない。「富」は外面的なものであって老子は「強を行うものは志有り」として「強を行う」「志」こそを重視するのである。これは老子の思想を消極的なという意味での「無為」と「足るを知る」だけで理解する立場からは異様に聞こえるらしい。たとえば【蜂屋注釈】はこの部分を取り上げて「前句の『強』(「自らに勝((克))つ強(きよう)」のこと、筆者注)は例外として『強行』や『志』の是認は老子らしくない。『強行』は『知足』の反対のあり方である(中略)、この句にはなんらかの誤りがある可能性がある」とまでいう。しかし、ここで「強を行う」「志」が高く評価されていることは明瞭である。ここにいるのは「強」を「志」として実現する決意に満ちた老子なのである。それは「志(こころざし)を天下に得る」(三一章、通項◆番)といわれるような「天下」に関わる「志」であることもいうまでもない。

 以上、本章は対句を重ねて「明」「強」「志」という人生への直截な意思を語っている。これまでの常識では、これは『老子』の人生論のなかでは例外であるということになってしまうが、しかし、むしろこれが『老子』の本質なのである。そう考えなければ、最後の「その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり」という対句は理解できない。【金谷注釈】は、この句を「最も難解」とするが、これは現代語訳に記したように、「最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を聞く」という一種のロマンが語られているのである。

 今、以前書いたものをブラッシュアップしている。

2017年11月21日 (火)

能「船岡山」台本(案)  2015年1月 保立道久

能「船岡山」台本(案)  2015年1月 保立道久


前ジテ(大舎人織手女。泥眼)
後ジテ(大舎人織手女。孫次郎)
シテツレ(大舎人乙名)
子方
ワキ(一休)
ワキツレ(一休従僧)
アイ(今宮神主)
前場(常磐井)
中入り(真珠庵)
後場(今宮神社)

あらすじ
 応仁の乱を逃れ住吉に退避していた一休は大徳寺の法堂再建のために戻ることとなり、応仁の乱のときに西軍の陣の置かれ、焼け跡となった大舎人の織手町を抜け、大宮通りを大徳寺にむかう。その途中で七夕の大施餓鬼の棚がならぶ常磐井のそばで休息するが、井のそばにいた女が施餓鬼の棚をみたら御経を上げよとつっかかる。女は大舎人の織手女で応仁の乱で軍馬に男児を踏み殺され、物狂いがついたと自称し、常磐井の由緒を聞いてほしいといいだす。船岡山には、平安の昔、源家の館があり、源義朝は、そこに常磐を北方として一門の上臈にもてなした。遮那王義経は、ここで生まれたと考えてよい。しかし、保元の乱で、船岡は義朝による父為義らを処刑する場所となり、これが源家の不運の始まりとなった(保立『義経の登場』。常磐井の伝承は宗敏老僧から伺った)。
 その夜、本寺再興のための足場としておいた寺庵(後の真珠庵)で就寝した一休は、その大喝とともに、星が船岡山の織姫社にしばしおりてきて、今宮の方に光り物が飛び、その光の中で常磐が成仏するという夢をみた。
 翌朝、旧知の今宮神主が真珠庵を訪れ、七夕翌朝で境内の掃除の行われている今宮に参向を促し、大舎人の乙名と妻女らとともに、今宮の竹叢に錦の裂れがあるのをみて、すべてを知る。こうして大舎人の衆の関与のもとに今宮に織り姫社が立てられ、西陣の守り神となった。


前場(常磐井)
ワキ(一休)これは大徳寺の一休にて候。戦さの都を逃れ出て、久しく摂津は住吉に候へども、本寺再興に助成せよとの懇請やみがたく、及ばずながら紫野に向かうところに候。
ワキツレ(従僧)。大舎人の織手町の西軍の陣となりて焼け野原。驚き存じ候。汝や知る 都は野辺の夕雲雀 上がるを見ても 落つる涙はとは、このことに候。すでにここは船岡山の麓。あちらにみゆるは常磐の井。本寺へ御到着の前に、井にてしばし休ませ給ふは如何に(脇座で休み)。
<前ジテ> 尊げなる和尚たるに、なんぞ、施餓鬼の棚を御覧もなきか。一節、御経を御読みあるべく候。時はおりしも七夕の大施餓鬼にて候。 <ワキツレ(従僧)>。和尚にむけて、物をとくとは何ぞ。 <ワキ> まあ。あいや女性、暑中の歩行にて意を失し候。されば、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
<前ジテ> いやいや、やいや。 <ワキツレ(従僧)> これ、そなたはいかなる女人に候ぞ。物狂な。
<前ジテ> これは大舎人の織手女に候。宿の戦陣に取りこまれ、軍馬の蹄に幼い息子を踏み殺され、物狂いのつけるよ、とや。織る手の乱れ流れては、筬杼の交ひもたどたどしい。うたてやなう。心あらん人は、とぶらひてこそ賜ぶべけれと待ちおり候。松はもとより常磐なりと申し候らはずや。我は、ときごとに、この井に通い、常磐御前の菩提を祈りて候。戦の恨めしさや。哀れや。夫は突き殺さるるといひ、愛児遮那王は兄に殺され。常磐や、哀れ。あら苦しや目まひや。この常磐井にこもる怨念をしらずや。船岡の悪の由緒を知らずや。なほ執心の、胸の苦しや。肝のやける。
<ワキツレ> 女に狂乱の心のつけるかや。中途より、声変わりてけしからず。
<地> そもそも船岡山といっぱ、源家棟梁の館、保元の昔、左馬頭義朝殿が屋敷をおき、常磐を北方に一門の上臈にもてなし、遮那王義経をもうけしところ。常磐井といい産湯の弁財天といい、都にしるきその遺跡(ゆいせき)なり。
<前ジテ、一声> 龍女になりてぞ語らんか。しかるに保元の王城合戦に勝てる褒美に父を殺せ、兄弟・甥子を殺せとのあまりの勅定、船岡の館は阿鼻叫喚の巷となれり。左馬頭殿の悲運に見舞われ、源家に悪鬼のつくはまさにこの場に始まれり。龍女の目には涙なし。見しものすべて無惨、無惨。
<ワキ>これは紫野は龍寶山、大徳寺の一休に候。そなたすべてを見しと存ずるか。しかるべからず候。北隣にすでに大燈の露柱の立ち、船岡山の龍を伏せるを知らずや。口を開けば即ち錯り、舌を動ずれば即ち乖かんか(大燈)。かーつっ。
<地>和尚の大喝に、女の鎮まるところに、夫の大舎人の首と女子の走り来て(揺れる)女を支え、しがみつく。
<シテツレ> 一休和尚とあい存じ候。これは大舎人の織手座の首(おとな)に候。妻女の男児を失いし後、物の付きたるように候。御無礼候らんか。御許しあるべく候。
<ワキ> なかなか。<シテツレ> 以前、御姿を拝し候。御寺に御戻り候はんか。身どもらにとりても祝着のことに存じ候。やい、娘、父は和尚を御寺に御送りつけまいらせる間、母者の手を引きて、戻れい。よう
<ワキ> おうおう、よい娘子じゃ。そなたも大儀な。ここにて、大事ない。明日にも菴に参られよ。
中入り(真珠庵)
<地> 旅の疲れに住坊の庭の松風更け過ぎて、和尚の夢に現るは、龍女の心の常磐にて、昔を今の物語。
<前ジテ>この路を鞍馬に送りし遮那王の、声を聞きたや、姿をみたや。乱れ心にとりつくは、なぜに大功立てし弟を、無惨に討つは、頼朝殿の、その恨めしさ限りなし。その恨めしさ限りなし。げに先年も、戦さの修羅の鬨の聲、矢叫びの音振動せり*1。聞きたうない。今に繰り返す戦の修羅ぞ、忌まわしき。かきくどき、かきくどく。
<ワキ> 汝、未だその胞胎を出でざるときの本分の事を知るか。エイ。
<ワキツレ・地?>生まれぬ前の身を知れば、憐れむべき親もなし。心を留むる子もなし。野に臥し山に泊まる身の、これぞ誠の栖なる*2。
<地>和尚の喝声の響くや、夜空の星の船岡山におりて、しばし織姫の社を照らし、大徳寺を斜交いに飛んで、女の身体を透過して今宮の社に届くと見えけり。
<後ジテ> うれしきことは船岡の使いし産湯の暖かさ。うれしきことは和尚の声。織姫の星を降ろして、我が身内(みぬち)、我が胸、我が手、熱く通して賜りしこと。ありがたや。この織手。ありがたや。常磐殿さらば。龍女成仏せられよ。なあ。


後場(今宮社)
<アイ、今宮神主> これは今宮の神主に候。一休和尚はお目覚めあるか。 <ワキツレ> いままいらりょう。 <アイ> 御久しうござる。この度は無事に御到着。なによりものことでござる。すでに和尚の御到着、氏子の衆に伝わって候。
<ワキ> これはこれは御久しう。今宮の社は無為なりしか。何よりものことに候。昨日は大舎人町を道すがら、目も当てられぬ有様に候。織手の乙名にも対面して候。
<アイ> そのことに候。今朝、織手の衆の参られ候。和尚の接心によりて、乙名の妻女の女の正気に戻りて候とのことに候。 <ワキ> それはなによりに候。
<アイ> また、この夜半、空の星の船岡山におりて織姫の社を照らし、今宮の社に飛ぶと見え候とのことに候。ものに驚ける氏子の衆の、みなみな今宮に詣できて候て、和尚に時宜を申したきとのことに候。如何、御足労賜りたく候。
<ワキ> これは、みなみな懐かしや。まいろうずるにて候。
<地> 今宮は、七夕の翌朝にして、酒掃(さいそう)に参ぜる氏子の人びとのさんざめけるが、そのうちより和尚のもとに大舎人の織手の急ぎ参りてかしこまる。
<シテツレ> 昨日はまことに有り難く存じ候。織手女の第一と大舎人の町に知られたる、妻女の織手の戻れるを喜びおりまして候。
<後ジテ> 昨日の大喝、目が覚めましてありがたく存じ候。夜半、ふと身内の暖かく、瘧の落つるやうに、ほんに悲しみの胸に落ち着きまして候。和尚のおかげさまにて候。夫・娘とともに、涼(すが)しくも今宮の酒掃に出でて候。
立木台(竹)のうえに錦の反物、進入
<後ジテ> あれ、さてもさても、不思議なることの候あいだ、社殿かたわらの竹叢を御覧なされたく候。かしこに。
<アイ> これは如何なこと。見事なる錦の裂れに候。大舎人の織手の手になるものにて候か。あるいは、織り姫社より飛び来る光物とはこれなるか。不思議なることに候。
<地> そもそも大舎人の織手といっぱ、かたじけなくも内裏の北に居所をさだめ、紡織の宿に身を置き*3、都・田舎の通いを回旋し、人を助くるを業とせり。
<後ジテ、シテツレ>
これぞ織手の守り神。今宮にこそあるべけれ。
白妙のとよみてぐらをとり持て いはひぞそむる紫の野に
祝いぞそむる 織り姫のやしろ
我ら戦の修羅の場を、都の錦に織り直し、美々(びび)しく日々を紡がんか。美々しく日々を紡がんか。

2017年11月20日 (月)

エリザベス女王の夫君エジンバラ公の話と堀田善衛

 今日の東京新聞にイギリスのエリザベス女王の夫君エジンバラ公の話がのっていた。好感を呼ぶ。

 エリザベスが13歳のとき海軍の士官候補生であった夫君(18歳)に一目惚れした。そして日本が第二次大戦のき降伏文書に調印したとき、エジンバラ公が戦艦の将校として東京湾にいた。結婚はその後、1947年という経過ははじめて知った。エリザベスの政治判断力は夫君との生活も支えになっているという。
 
 エリザベスついては、堀田善衛の「ヨーロッパ、ヨーロッパ」というエッセイに、エリザベス女王がベルリンの壁を訪れた時のエピソードがある(『天上大風』)。

 「壁」をイギリス女王にみせることを政治儀式にしようとしたドイツの首相エアハルトなどの目論見に反して、女王は壁の前で車を降りたものの、すぐに車内に戻ってしまい、しばらく壁の前で「儀式」ができると考えて、車から降りて集まり始めた彼らが、予定外の女王の行動にあわててびっくりして、あたふたする様子がテレビで映ったという。堀田は、「女王の方は誰にとっても、言うまでもなく東西両ドイツの人々にとっても愉快でないものを前にして、長い時間、あるべきではないと、英国の女王として判断をしたものであったろう」と解説している。そしてそれをみている様子を儀式にするという政治的な利用を拒否するという小気味よい女王の行動を堀田は褒めている。
 関係するのは、その後のことで、以下は、堀田の文章を引用する。「女王が市中に戻って、ベルリンの市民に向けて、演説というよりも、挨拶をしはじめた。もとより英語である。その挨拶もケネディのそれのような、角もあれば険もあるといったものではなく、ドイツ国民の幸福を祈るというほどのものであった。ところがそのおわりのところで、今度は私がびっくりした。女王が、いまでもはっきり覚えているが、『ーFrom now on, I am going to Hanover, my home town. いまから私はハノーヴァーに行きます。私の故郷の町です』といったのであった。現在の英王家がドイツのハノーヴァー家に出自していることは、私も知らぬではなかったが、”マイ・ホームタウン”には、やはりびっくりさせられたのであった」「そうして、聴衆であったドイツ人諸君も、女王のこの最後の言葉を歓呼して、躍り上がって迎えていた。この女王の振る舞い方、エティケットには、つくづくと感心をさせられた。それだけに、壁が一層醜くみえた」というのである。たしかにこういうのがヨーロッパなのだと思う。

 こういう王家のあり方は、彼らがゲルマンの伝統をひく、ヨーロッパ王族の一員であることを示しているのだろう。実際に彼らの間では、相互に複雑な婚姻関係が営まれてきた。
 12月2日に九州西洋史学会で、有名なバイユーの綴れ織りについての鶴島博和先生の著書についての報告をせねばならず、急遽、西洋史の勉強である。そこで上記のことを思い出した。おそらくノルマンケストが、こういうヨーロッパ王族の汎ヨーロッパ的なあり方をつくりだしたらしい。

 『三銃士』、フランス王妃がイギリス国王と「憎からぬ」関係にあるなどということは、こういう背景の中で理解すべきなのであろう。
 
 日本史家としての問題は、いうまでもなく、東アジアにおける王家相互の関係が、このようなヨーロッパとは大きく異なっていることの理由をどう考えるかである。これはすぐには分からない。九州西洋史学会までじっくり考えたい。

 

2017年10月24日 (火)

日本史の時代名と時代区分(再論)

日本史の時代名と時代区分(再論)

 歴史科学協議会編の『歴史学が挑んだ課題』(大月書店)に「前近代日本の国家と天皇」という論文を書いて以降、日本史の時代名、つまり「古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」という時代名がおかしいという感じがきえない。

 これらの言葉を見るたびに違和感である。だいたい、時代名の付け方が、時代名を作ってきた成り行きまかせで恣意的すぎる。下手に専門知識のある人は、そんなことにこだわってもしょうがない。もっと細かいこと、高級なことに興味があるのだなどという気分の人もいるだろう。所詮、時代名などというのは符丁であって議論してもしょうがないなどというのっては、話はすべて無駄。

 これらのうち、おそらく学術的にいって問題がないのは、古墳時代くらいではないだろうか。そこで、容易に賛同をえられないであろうことは分かっているが、それらとはまったく異なったコンセプトで、「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という用語を、右の論文で提案した。

 提案した時代名の性格は、大きく二つに分かれる。つまり前の方から言えば、「古墳時代、大和時代、山城時代」は西国国家の時代である。この時代、日本には国家は九州から近畿地方、つまり西国を中心とする国家が一つしかなかった。あず古墳時代からいけば、私は、古墳=壺型墳説にたっているので、王の魂は壺口から天に飛翔すると考えている。それにからまる神話を「前方後円墳」は表現しているのだ。前方後円墳は東北中部まで分布しているが、これは当時、神話が各地で共有されていたことを示している。この時代の国家なので、「古墳時代」でよいと思う。

 しかし、その後の「大和時代、山城時代」の二つは、西国国家の中心地域で表現するのがよい。西国国家の王都がある場所を時代名としたい。これは大王・天皇中心の国家である。王家が日本の文明化を大きく進めたことは疑いがない。そして、この時代は地方にとっては総体的に自由でいい時代であったと思う。

 山城時代(あるいは山城京時代)というのは評判が悪いが、しかし、こうすれば、長岡京以降をすべて同じ時代にできる。これはいつ奈良時代が終わるのかということがわかりにくいが、これは分かりやすい。また私は、石井進説をとって、院政時代は承久の乱(正確には後鳥羽クーデター)まで続いていると思う。たしかに、源平合戦の中で東国国家が成立するが、それが名実ともに明瞭となるのは、北条氏が後鳥羽クーデターを粉砕した後だ。その前は清盛も頼朝も性格としては変わりない。二人を基本的に区別しない。どちらも相当な「ワル」であって同じ穴のムジナというのは、研究を始めたとき以来の信念である。

 それ以降は武家国家の時代になる。これは覇権を握った武家の氏族名、つまり北条・足利・織豊で行くのがよい。もちろん、だからといって王権がすべて覇王家に移るわけではない。旧王家は長く残った。これは結局、長い西国国家の伝統に左右された事態だと思う。ともかく「鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」というのは基本的には地名主義だが、その基準は不明で恣意的すぎる。

 一つ一つ「結鎮」(けち)をつけると、まず「飛鳥時代、奈良時代」というのは、きわめて困る、理解しにくい時代名で研究者ごとに定義は違うだろう。これは欽明大王の時期に王家の血統の世襲性が明瞭になり、大和に拠点を移し、前方後円墳を作らなくなった六世紀半ばから後半以降を「大和時代」として、神話時代をおえた文明化の時代として一括するのがわかりやすい。

 次に平安時代というのはまったく無意味な言葉で、たしかに桓武が愛宕に遷都とした時の歌にあるが、これは桓武の夢におわり、すぐに激しい政争が展開し、地震と怨霊の時代にはいったことを無視する言葉だ。こういう言葉を使い続けるのは余計な言葉と偏った印象を子供にあたえる。歴史家はよく考えれば、誰でもそう考えるに違いないが、慣れというものは恐ろしい。馬鹿な言葉を歴史意識から追放するのは歴史家の役割である。

 鎌倉時代とか室町時代、あるいは江戸時代というのも地域からみれば、実に偏見に満ちた言葉だ。地名で時代を区切るのが、この時代に必要とはとても思えない。鎌倉と江戸を強調するのは、ようするに徳川将軍家から、明治国家が受け継いだ歴史イデオロギーである。これに封建制は東国からという明治の学者の考え方が化学反応してできた言葉で、現在では、これは野蛮な東京史観以外のなにものでもない。そして室町時代というのは、一種の京都史観であろうと思う。東京都と京都で時代名を2対1でわけて手打ちしましょうというようなことだ。

 井上章一氏から、こういう時代名は大阪無視ですよといわれた。これは正論だと思う。最近の大阪の政治はあまりに文化を無視しているが、これを取り戻すには、歴史観から変えていく必要があるのかもしれない。徳川・明治時代は大阪はもっとも文化の高い都市であった。

 さて、問題は、もちろん、こういう大ざっぱなことではなく、時代のより具体的なイメージをどう捉えるかということであり、それは、これらの時代の中での小区分をどうするかという問題に関わってくる。しかし、これについては、上記の論文を参照願いたいと思う。『歴史学が挑んだ課題』は専門的な歴史書にはめずらしく急速に売れているようで、三刷りになったという連絡が出版社からあった。私のものだけでなく、渡辺治氏の論文など、有益なものが多いので、ぜひ、お求めください。

2017年10月22日 (日)

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

 政治状況が激動期に入ったようだ。一九七〇年頃以来のことである。野党共闘の動きは学術的にも思想的にもきわめて興味深い事態であることは疑いをいれない。

 これは日本社会の中にある対抗関係が大きく変化したということではないかと思う。一種の二極化である。そこでは従来の「保守・進歩」という対立の図式を考え直さねばならないだろう。歴史家から賛成するという言葉を聞いたことはないが、私の年来の主張は、日本には本当の意味での保守勢力はないが、現在、歴史家は職業者としてはまずは保守でなければならないということだった(「中世の開化主義と開発」一九九〇年発表、『歴史学をみつめ直す』校倉書房所収)。さらにまた現在の政治状況の中では「左翼・右翼」という言葉を使うことも止めた方がよいのではないかと述べてきた。右翼思想には既成の知性に対する「分かったようなことをいうな」という感情的な拒否の側面があって、「極右」の暴力に走らない限り、それも当然に思想の自由の範疇に入る価値をもっていると思うのである(ブログ「保立道久の研究雑記」。2014年11月15日2014/12/14、ブロゴス 2016年08月12日)。

 しかし、歴史家の立場から問題を厳密に考えようとすると、この列島に住む人々にとって、最大の問題が何なのか、「保守」といい、「進歩」といい、「左翼」といい、「右翼」といっても、それらが向き合うべき日本社会の問題は何なのかを正確にみきわめなければ、結局、気分に流れて行ってしまうということになると思う。それらは、所詮、符丁であり、言葉である。

 そういう立場から、私は、しばしば新自由主義といわれることの実際の内容がどういうことなのかを考えてきた。ともかく「新自由主義」というのは言葉がわるい。「新しい自由」、それは普通からみればいいことじゃないかということになる。これは符丁としても決していい符丁ではない。そして、それを詰めていくと、結局、それは人種主義(レーシズム)であり、戦争好きなのではないかと考えるようになった。新自由主義というのは、もちろん、経済思想としてはミルトン・フリードマンのマネタリズムが基礎になっているが、政治思想としてはようするに「ミリタリズム」と「レーシズム」であると思うようになった。もちろん、問題は、なぜマネタリズムが「ミリタリズム」と「レーシズム」に結びつくかということであるが、そこまで十分に書けるかどうかは別にして、以下、若干、長文となるが、まず人種主義(レーシズム)について説明しておきたい。

 さて、現在、日本・アメリカ・ヨーロッパで人種主義の動きが急である。これはきわめて心配なことであるが、私は、歴史的にいうとその基礎にあるのは、やはりヨーロッパだと思う。その根はきわめて深く、十字軍の時期以来のヨーロッパによるイスラム文明に対する挑戦、「追いつけ追い越せ、奪い取れ」という対抗文化にからめとられているのではないか。その文化的気分がベースとなって、政治家による中東移民が社会の困難を作り出しているという宣伝が被害感情を生みだし、ヨーロッパに広範な「イスラム差別」が生み出されているようにみえる。

 問題は、これがきわめて曖昧で不定形の歴史意識としかいえないようなものであることである。それはいわばヨーロッパに居住する人々個々人がもつ微細な歴史意識の誤差が社会意識の歪みとして集合的に現れたものといえようか。私はそこで動いているのは現在の世界史がヨーロッパ地域に生み出した「気分」というべきものなのではないかと思う。つまり、現在の中東における戦争状態は、第二次世界大戦中からのアメリカの帝国的な中東支配が作り出したものである。アメリカこそが、中東の戦争と苦難を生み出し、大量の人間の死と故郷喪失を生み出したことは誰が見ても明らかなことである。その中でヨーロッパの人々は次のように考える。つまり、「悪いのはアメリカだ。それなのに、何故、ヨーロッパが中東の困難に関わらねばならないのか。たしかにヨーロッパは第二次大戦で大きな困難を経験し、ヒトラー・ナチスは最悪のことをした。しかし、アーリア人種主義は克服され、民主主義社会が実現された。ヨーロッパは二〇世紀のナチズムを乗り越え、償ってきた。今になって、なぜ、問題の直接の関係者にならねばならないのか。理不尽であり、理解できない。静かにさせてくれ」という意識である。

 彼らの視野には、ヨーロッパがアメリカの世界支配を利用しつつ共同で世界から利益をうけていた共犯性は入ってこない。また中東の困難の直接の歴史的由来が19世紀におけるヨーロッパの中東支配と、その最後の無責任ともいうべきイスラエル建国を推進・容認したバルフォア宣言にあることも視野には入らない。さらには16世紀以降の世界資本主義の形成がまずはアフリカと環インド洋地域からの収奪によって支えられていたという歴史認識もない。こうして彼らの意識は一挙に、ヨーロッパとイスラム世界との文化的対抗と衝突という十字軍によって象徴されるイメージにすっ飛んでしまうのである。それはその意味で世界史が生み出した「歴史気分」のようなものであり、こうして、その中核には中東の諸民族を差別する「人種イデオロギー」を中核にもつものとなるのである。

 その意味で、この「人種イデオロギー」は世界史的に新たに登場した独特なイデオロギーのあり方、社会意識のスタイルなのであって、そのようなものが現在の世界史の重要な構成要素となっているのである。このような独特な歴史意識、より正確にいえは世界史意識は、もちろん、ヨーロッパが一人で産みだしたものではない。それは一九八〇年代のサッチャー・レーガン時代を基点としてヨーロッパ・アメリカの国家意識の交流、そしてそのつぎには社会意識の奔流のような交流のなかで生み出されたものであるといってよいと思う。その社会経済的根源には、この時期以降、明瞭に動き出したナオミ・クラインのいうショック・ドクトリンを具備するにいたった資本主義、そして情報資本主義の急速な発展があることもいうまでもない。その中で、九・一一事件が発生し、それに対して、世界史的愚劣ともいうべきジョージ・ブッシュの「十字軍」宣言が行われ、イラク戦争が中東地域の社会政治状況を決定的に不安定化させ泥沼化させた。

 そして、現在は、ブッシュ以上の「お馬鹿」がアメリカ大統領となって赤裸々なレーシズム、白人至上主義を鼓吹しているというのが歴史の流れである。これがきわめて醜悪なのは、この人種差別がヨーロッパとは違って直近の人種差別の体制、20世紀の人種差別の由来を引いていることである。16世紀以来のネーティヴ・アメリカンの諸民族に対する「人種差別」と、一八世紀以来のアフリカン・アメリカン差別、さらには19世紀以来のユダヤ民族や東欧・ラテンアメリカからの移民に対する差別の根を深く引いていることである。現在、それが一挙に中東の人々に対する「宗教的・人種的差別」、「イスラム」差別に拡大している。アメリカは多民族構成国家でありながら、その支配イデオロギーは人種差別にあり、アメリカの多民族構成資本主義においては民族を「人種」の名の下に身分差別し、賃金を抑え、人々を分断することは根がらみのやり方であった。それは、ネーティヴ・アメリカンの人々、強制連行されたアフリカン・アメリカンの人々のみでなく、後からくる移民に対する差別をもふくんでいた。もちろん、そういう中で、一九六〇年代から七〇年代にかけてのマーチン・ルーサー・キング牧師などの動きをふくむ社会運動の中で20世紀の人種主義の根は一度断たれたかのような雰囲気をみせた。ヨーロッパと同じように、アメリカは人種主義を超克したという訳である。しかし、実はその岩盤はきわめて強固であって、後退したかのようにみえた正真正銘の人種主義が、レーガン以降、急速に肥大化した。そして、現在のトランプ政権下のアメリカにおける人種差別の実態は、その醜悪なる結果であることはいうまでもない。

 そのような直近の歴史を連続的に引いている点では、日本も同じである。つまり、「大東亜戦争」を主導した「八紘一宇」「皇国史観」という「大東亜共栄圏」のイデオロギーはナチスと同じく、「神話」によって嘉せられた日本の「現人神」たる天皇制とそれに連なる血統・人種こそが世界支配者となる使命をもつのだという明瞭な人種主義イデオロギーであった。しかも、それは、アジアでは日本のみがヨーロッパと対抗できる使命をもっており、それ故に、日本はアジアから離れて、それを支配する地位に到達しなければならないという明治時代以来の「脱亜論」をともなっていた。というよりも、この「脱亜論」によって、日本国家のアジア侵略は合理化され、それによって天皇制的人種イデオロギーが形成されたといった方が事態を正確に反映しているといえるだろう。それはまさに世界支配の思想だったのであって、それによってこそ、ナチスと日本の軍事同盟は、両者が人種主義イデオロギーにもとづいて世界分割をするという了解に達したのである。

 もちろん、日本国憲法は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と述べ、「戦争」の中で強制した「隷従、圧迫と偏狭」、ようするに人種主義を法的には廃絶する精神を含んでいる。それは、第二次世界大戦において、その中枢にいた昭和天皇自身がいわゆる「天皇の人間宣言」において、神権的な人種主義イデオロギーを基本的なところで離脱したこととセットになっていたのである。日本の王家が、ここ三〇年ほどの実際において、日本国憲法の精神にそって行動してきたこともよく知られている。

 しかし、自民党や経団連の一部などの国家中枢部には、第二次世界大戦で頂点に達した人種差別イデオロギーは根深く生き残っている。彼らは、中国・韓国から東南アジアに対する神権的な人種主義イデオロギーの強制と、それにもとづく植民地支配、戦争侵略の歴史事実を認めず、その事実を隠蔽することにいまだに固執している。彼らは第二次世界大戦において日本は敗北し、その戦争犯罪を認め、その証として日本国憲法が成立し、天皇が国政に対する権限をもたない「象徴」の地位になったことを承認しようとしない。彼らは、戦後世界秩序の公理そのものを承認しようとしないのである。

 これは事柄の性格からして人種主義イデオロギーの維持という本質をもっていることは明らかなことである。しかし、きわめて奇妙なのは、この国家の歴史意識がヨーロッパよりもさらに曖昧であって、そもそも、国家中枢に人種主義、レーシズムが存在するということがほとんど意識されていないことであろう。国民の多数は、我々は第二次世界大戦で敗戦したとはいえ、その経験を克服し、人種主義などという大層な思想とは無縁であると考えている。そもそも、大日本帝国のイデオロギーがナチスとならぶ人種主義であったという世界史についての常識も存在していないし、さらに正確に言えば、大日本帝国のイデオロギーというものがどういうものであったかはほとんどの人が知らないというのが実際である。第二次大戦前までの日本国民のほとんどが信じていて皇国史観の中枢をなした神々の物語り自体をほとんどの人々は知らない。アマテラスという名前だけは知っているが、その物語はほとんど知らず、誰でもが知っていた、アマテラスがこの国土の支配権を天皇家にあたえた天壌無窮の神勅のこともまったく知らないという脱色された世界である。国家中枢部にいて「大東亜戦争」の正統性を信じている人々さえも、実は詳しいことは知らないという奇怪さである。

 そうである以上、背後に「日本会議」があって主導したといわれる、現政権、安倍政権の国家イデオロギーもきわめて曖昧である。その中軸には大日本帝国の天皇制イデオロギーと神話史観があるはずであったが、現在の天皇家自身が現憲法秩序の一部に安定的に入っており、そういうものからは断絶している。それ故にそこにあるのは建前だけの国家史観、内容のない枠組みにすぎない。しかし、それでも、それは人種主義的なイデオロギーと雰囲気をしみ出させる。私にとって、それをあまりに反国民的・反民族的な姿において示してショックだったのは、辺野古基地拡張の反対運動を抑圧するために本土から覇権された機動隊の青年が、沖縄の人々に対して「土人」と罵ったことであった。また韓国・朝鮮・中国の人々に対するヘイト・クライムが日本社会の中には濃厚に持続していることもいうまでもない。中身のないイデオロギーが、このような行為に人々を走らせるというのは、きわめて怖いことだと思う。

 問題は、その歴史的文脈である。つまり、まずそれをささえているのが、明治時代の脱亜論と同じ、東アジアからの「分離」の意識であり、しかもそれが、今回は、アメリカの世界支配にのみ込まれることよって「脱亜」するという志向であったことである。東アジア諸民族を一括して、日本民族とは異なる、「我々は脱亜だ」という心理は民族とはことなる基準での差別、非科学的な「人種差別」の論理にならざるをえない。

 もちろん、私も、アメリカ経済への編入は敗戦国としてなかば必然的な当然の方向であったと思う。戦後社会の復興、戦後資本主義の復興につとめた経済界の動きにも尊重するべきものがあるのはいうまでもない。しかし、歴史家としては、日本資本主義の復興が朝鮮戦争特需から始まり、それ以降、アメリカの側にたって「脱亜」の立場を取ったことまで合理化することはできない。何よりも問題なのは、レーガン・ブッシュ以降の新たな戦争の危機をはらみはじめた世界情勢のなかで、日本の国家中枢が、共和党中枢からトランプにいたるアメリカ人種主義の中枢に従属する姿勢を明瞭にしたことである。日本の国家中枢部はここで、客観的には、ヨーロッパ・アメリカを席巻する新たな人種主義イデオロギーの中に、「脱亜論」を位置づけ、ヨーロッパ・アメリカの人種主義的風潮にことよせて、第二次世界大戦における日本の人種主義イデオロギーを復権するという立場に立ったのである。私は、彼らが自分たちがどういう立場に立ったのかを十分に認識できていたとは思わない。彼らは、世界の大勢ということを理由にしてアメリカに追従したにすぎない。しかし、彼らの選択した立場は、客観的にはそういうことである。

 こうして、日本の国家中枢部が人種主義的なイデオロギーに固執するなかで、アメリカの支配層に対する拝跪と従属を強化し、自己が無内容であるだけに、アメリカの人種主義イデオロギーに影響されるというきわめて奇妙な事態が生まれた。これは二度目の道である。これは振り返ってみれば、戦前の大日本帝国が人種主義イデオロギーを共通基盤としてヒトラー・ナチスと結合したことと同じ図式であるといわざるをえないだろう。

 日本社会にとって深刻なことは、このような国家中枢の動きが、アジア経済の拡大と変転、アジアからの経済的なキャッチアップを恐れる意識、そして巨大な中国経済に対する不能感、ダイナミックは韓国の経済と社会の動きに対する不安感などなどをベースとして生まれていることである。さらに最近、ガバナンスや透明性の欠如、企業倫理の欠如などが国際的に明らかになっているだけに、日本資本主義は失速とミスの恐怖感に襲われるようなことがあれば、この混迷はいよいよ深まることになるだろう。

 こうして、世界における人種主義の新たな登場の中心はアメリカにあったが、そのベースはヨーロッパにあり、その反対回りで、アメリカと日本の人種主義的動きが始まったということになるだろう。私は、この基礎となった最大の条件は、たとえば二〇一六年一月の世界経済フォーラムでは世界の資産保有額上位六二人の総資産額が下位五〇パーセント、つまり世界人口の半分の人々の総資産に匹敵するという異様な格差拡大の中にあった。これは世界資本主義の中心、アメリカから始まったが、ヨーロッパでも日本でも、さらにロシアでも中国でも、そのような実態は拡大している。巨大な生産諸力と富の集積のなかで発生した、巨大な階級間格差であって、これは歴史上で初めてのことであるといってよい異様な事態である。この富の集積は単なる奢侈や贅沢を諸個人に保障するというレヴェルのものでなく、富を集中した階層に一般人とはまったく異なる生態系と環境を作り出すものであって、そこには異なる動物が発生しているのである。そして富の集中が極端になれば、そのトリクル・ダウンもそれなりの規模をもつことになり、そこには様々な寄生動物、いわゆる労働貴族などが生息している。こうして、特殊な富者と普通の人間・労働者の生活・環境の相違は、両者が生態系と身体的自由の範囲が絶対的に異なる別の動物であるかのようなレヴェルに達している。1パーセント以下の超富裕層が国民の生産諸力と資産の大部分を横領するという状態が固定化するなかで、実現しているのは、下層の人々は、実際上、一種の労働種族、労働動物にすぎないというシステムである。

 一六世紀の世界資本主義の形成の時期には、ヨーロッパでも大量の人々が浮浪化した。マルクスは彼らを労働種族と呼ぶと同時に、プロレタリアートと呼んだが、これはラテン語のProlesからきたもので、人間らしい資産はなく子供を作るしか能力のない種族という意味であった。同じ時期、たとえばアフリカ・アメリカやインドなどをみれば明らかなように世界では大量の人々が人間として扱われず、死の運命に追い込まれ、あるいは殺された。現在のような巨大な階級格差の拡大という事態は、そのような人間の動物視、労働者蔑視、いわば資本主義的な人間の動物視が新たな形で現れたものといえるように思う。現在の世界史における新たな人種主義の浮上をどのように捉えるかは、たとえばネグリの『帝国』が先駆的な指摘をしているように、今後とも様々な議論があるであろうが、私は、その基礎的な条件は、このような超資本主義ともいえるような資本主義の状況にあるのではないかと考えている。

 このような状況は世界を16世紀からの長期の時間のなかでみること、それゆえに「未来」を見ること、その意味で学術の本質のところから「進歩」の立場を取ることという、歴史学にとってはきわめて困難な、しかし、もちろんそれなくしては学問としての社会的責務を最終的には果たすことができないという課題にぶち当たらせることになる。「進歩」の立場から「保守」をカヴァーする形で学術世界に貢献するという歴史学固有の役割にぶち当たらせる。

 なお、最後に人種主義(レーシズム)というもの、それ自体について確認しておきたい。ユネスコは第二次世界大戦後、この問題を重視して議論を重ね、「人類を『人種』に分類することは身分秩序(ハイアラーキー)をうみだす因習と恣意にすぎない。『人種』という関係は生物学的な問題ではなく社会的な要因から起こる。人類の集団の間の相違は彼らの文化と歴史から発するものである」と結論している(一九六七年声明)。ようするに、「人種」という言葉自身が民族間に身分秩序(ハイアラーキー)をもちこむ無根拠な言葉であるというのが、当時の段階での分子生物学、人類学、歴史学などの参加の中での結論であった。これは世界の学術世界における一種の公準というべきものである。それ故に、歴史学にとっても、人類の誕生、世界への拡散、様々な神話から説き起こして諸民族の歴史にまで説き及び、この公準を説得的なものにしていくのはもっとも重要な仕事であることはいうをまたない。

 人種差別とは、特定のエスニック集団をもっぱら、肉体的・動物的な特徴に還元するイデオロギーであって、そのエスニック集団を同じ「類」と認めないというものである。それ故に、これは一面で、身分差別のもっとも奥深い根拠になり、身分的特権や身分差別の差別の心情を増殖させる。もう一面で、これは女性と男性の肉体的相違を差別的にとらえて、人間を「第一の性」と「第二の性」に区分する男権主義と、必ずといってよいほど響き合うことになる。そしてそれは戦争好き(ミリタリズム)に接続していく。ようするにレーシズムとは身体とその欲望への嗜癖の心情全体の温床なのであり、それが民族間関係、世界的な背景の下で語られる場合はレーシズムにならざるをえないという構造になっているのであるのであるが、現代のイデオロギーはすべて直接にグローバルなものとならざるをえず、すべてが突き詰めたところでは結局人種主義に融解していかざるをえないのである。
 このようなレーシズムにたいこうするものは、単純な「人類意識」、人類は同じという事実であり、その意味でのヒューマニズムになっているのだと思う。これは19世紀とのもっとも大きな相違かもしれない。

2017年10月12日 (木)

白頭山の噴火と広開土王碑文)

一昨年に書いたものの再録です。
高句麗の神話的な建国者、朱蒙についての話で、明治大学の市民講座で話すイワレヒコ(神武)論との関係で、乗せておきます。
両方とも、いわば火山王であるという意見です。

白頭山の噴火と広開土王碑文)

 白頭山の噴火が近いのではないかという観測があり、関係国の火山学者の間での共同研究や議論が行われていると聞く。
 今回の東日本太平洋岸地震との関係で、九世紀の陸奥沖海溝地震が注目を集め、私も、ともかく研究をすることが必要であろうと考えて、専門の時代の噴火・地震の研究にとりくんでいるが、その中で白頭山と、それを含む長白山脈について若干のことを考えた。

 陸奥沖海溝地震は八六九年(なお、この地震は普通、貞観地震といわれるが、私は歴史用語から元号はできるかぎり排除すべきであるという意見なので、九世紀陸奥沖海溝地震という用語を使っている)。『三国史記』によれば、その翌年四月、新羅の王都慶州で地震が発生し、以降八七二年四月、八七五年二月の地震記録が残っている。これは一般に地震記事が少ない朝鮮の史書においては特異なことである。そして、九一五年の秋田県十和田カルデラの噴火に引き続いて九四六年に白頭山の大噴火が起きた。この噴火は、過去二〇〇〇年間のうちで世界最大の規模の噴火で、その被害はすさまじく、二〇〇キロメートル先まで火砕流を氾濫させたという。この時の大噴煙柱は世界の気候にも大きな影響をあたえたはずで、噴出したアルカリ岩質の火山灰は、日本にも大量に飛来し、青森県から北海道の全域で十和田カルデラの直上に層をなしているのが発見されている。
 東北アジアの火山分布は、第一にカムチャッカ、日本列島からインドネシアにまでつづく太平洋の火山ライン、第二に韓半島の根本から黒龍江省に東北に上昇する長白山脈、その西に斜行する大興安嶺山脈、さらにバイカル湖周辺、モンゴル高原に分布する大陸東北部に分布する火山群からなるという。
 私は、昨年執筆した『かぐや姫と王権神話』に(洋泉社新書)、この地域の諸民族は、火山神話を共有しているという仮説を述べた。「隠れた皇祖神」として有名なタカミムスヒが「天地を鎔造した日月の祖」であるというのはタカミムスヒの火山神としての性格をあらわすとし、そこを拠点として、ユーラシアに分布する鍛冶王の神話は「騎馬民族国家説」が注目して有名になったものであるが、これが実際には火山神話であることを論じたのである。その必要で村上正二先生の「モンゴル部族の族祖伝承」(『史学雑誌』七三編七・八号)がモンゴル族祖が断崖渓谷(エルグネ・クン)を破って地上に登場したという伝説についてふれているのを知って、急に読み、大学院の頃のことを思い出し、もう少し御話しをうかがっておくのであったと悔やんだ。
 この火山神話関係と考えられる史料の中で、もっとも注目したのは、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる高句麗の始祖、朱蒙の死去を伝える伝説であった。この神話は、朱蒙の死去のしばらく前、鶻嶺に山の様子が見えなくなるほどの黒雲が湧き起こり、数千人の人々が土木工事をしているような巨大な音が聞こえた。朱蒙は、これは天が自分のために作った城であると予言し、実際に、七日後、雲霧が晴れると、そこには城郭と宮台ができあがっていた。朱蒙は、そこ居を移し、しばらくして天に昇ったという。
 この史料の性格は私にはまったくわからないので、木村誠氏に教えを乞い、また末松保和氏や田中俊明氏の仕事によって、『三国史記』より時代があがる可能性のある史料であることを確認し、同時に噴火とともに朱蒙が死去したという伝説が存在したと解釈することは許されるだろうと見通しをつけた。そして、これも偶然の経過で、最近、広開土王碑文の最初の部分の鄒牟=朱蒙の伝説も、火山神話と解釈できると考えるにいたった。
 惟れ、昔、始祖鄒牟王の創基せるなり。北夫餘より出ず。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり。卵を剖きて世に降り、生まれながらにして聖を有ち、□□□□、□□駕を命じ、巡幸して南下す。路は夫餘の奄利大水に由る。王、津に臨みて言ひて曰く、「我は是れ皇天の子、母は河伯の女郎、鄒牟王なり、我が為に葭を連ね、亀を浮ばしめよ」と。声に応じ、即ち為に葭を連ね、亀を浮べ、然る後に造渡せしむ。佛流谷の忽本の西に於て、山上に城づきて、都を建つ。世位を楽しまず。天、黄龍を遣はし、来下して王を迎えしむ。王、忽本の東岡に於て、龍首を履みて、天に昇る。
(武田幸男『高句麗史と東アジア』の釈文によった)
 このうちの「佛流谷の忽本の西の山上に城を築いて、都を建てたが王位を楽しむことがなかった。しばらくして、天が黄龍を遣はし、王を迎えにきたが、王は忽本の東岡にから、龍首にのって天に昇った」という部分が、右の『旧三国史、李奎報文集巻三』に対応するものであることは明らかだと思う。

 木村氏にうかがったところだと、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる「鶻嶺」という地名が何処を意味するかは説がないということであるが、広開土王碑文の「佛流谷」は、現在の中国遼寧省の桓仁にあたる。つまり、朝鮮半島根本の白頭山のそびえる長白山脈の南端の西である(中国側)。朱蒙神話の位置については李成市氏の充実した仕事があるが、ここに火山神話が存在することは自然であると思う。
 さて、この東北ユーラシアのプレートをユーラシア・プレートと相対的に別の運動をするアムールプレートとするというのは、地震学の石橋克彦氏などが主唱する理解であるが、このプレートの運動をどう考えるか、それに関係して、この地域の火山活動をどう考えるかは、まだまだ定説がないということである。文献も私がみれたのは小山真人「歴史記録からみたアムールプレート周縁変動帯における地殻活動の時間変化」(日本地震学会1995年秋季大会ポスターセッション発表内容)くらいであった。しかし、これを読んでいると、東北ユーラシアの遊牧民族の活動地帯から、日本列島にいたるまで火山神話が分布しているという仮説は、それなりの意味があると考えるにいたった。
 火山学・地震学の東部ユーラシア全域での共同研究が東アジアの未来を考える上で緊急な必要であり、歴史学も、そこでそれなりの役割を負わねばならないと思う。それは、長期的な視野を必要とし、歴史学の側がいわゆる文理融合の体制を用意しなければならないことを意味している。そして、それとともに、これは「神話の時代」とその時代からの分岐をどう考えるかという歴史学固有の問題も提示しているように思うのである。


 以上、都立大の研究会の雑誌「メトロポリタン史学」7号に「白頭山の噴火と広開土王碑文」として載せた者。

2017年10月 3日 (火)

吉野の妹山紀行(妹背山女庭訓の妹山)

 九月三〇日。吉野の妹山をみてきた。妹背山女庭訓の妹山である。吉野川が中央構造線を離れて南に流路を変える曲がり鼻の北側にたつ標高二九九メートルほどの小山だが(吉野川川面からは九九メートルと聞いたが)、諸研究がいうようにさすがに目立つ。南側に背山があって、二つの山で本来の吉野、吉野渓谷の入り口のランドマークとなっていたことがよく分かる。ここから川の端の平地が一挙になくなる。立野口という地名は、禁制の野の入り口という意味であろうか。

 しかし、まずバスで吉野歴史資料館に行き折良く御教示をうける(ありがとうございました)。発掘では、斉明・持統の吉野宮に続き、その川よりに聖武の吉野宮が確認されている。その故地はいま草原。草原から吉野川に降りるとさすがに見事な川の風景である。象山(きさやま)とは一種の象頭山であることを了解。

 上流の岩神神社を見聞。巨大な磐座の下に神社がある。神武記の国押排(国栖の祖神)がでてきた岩という説明があるが、吉野神話の構成者が、この岩に基づいて書いたというのはありうることなのであろうと思う。さらに上流の浄見原神社には行けず。磐座の中に組み込まれているような神社であるという。また丹生神社にもいけず。

 吉野は斉明ー天智・天武の母子王朝における聖地である。吉野川の石・石床が道教的風景とされたのであろうと思う。もう一つは鉱物。まずは丹生川上神社という名に現れる水銀だろうか。飛鳥にもっとも近い水銀産地である。主産地の宇陀野とは伊勢街道で吉野はつながっている。また『万葉集』の巻13雑歌に「み吉野の御金の嶽」とでるのは後の吉野の金信仰の最初の形であろうか。

 これは道教的な聖地であろうと思う。道観を立てたという斉明の道教趣味が日本の神道のある意味での原点であろうと思う。そういう道教趣味の中でできた聖地であるというのがもっともわかりやすい。子どものうちの、弟の天武が母親の道教趣味をよく継いだ。

 問題は吉野が天武系の聖地から金峯山を中心とする修験の中心になっていく過程である。これについては「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』18号)で若干書いてある。

 吉野は遠いというのがよく言われることだが、飛鳥からは近く、長谷寺からは南に下って、談山神社、多武峯のルートを下れば、妹山にでる。そんなに遠くないというのが感想。宇陀・吉野は神武神話の舞台であることも実感。

2017年9月16日 (土)

明治大学公開講座で講演「日本の神話と地震・火山」

 明治大学の公開講座で「日本の神話と地震・火山」という講演を四回やります。
 一〇月毎週金曜日。午後3時から5時。駿河台校舎。


日本の神話と地震・火山」
 日本の神話には地震火山神話という性格が強いことを全体として説明します。「天孫降臨」神話、「神武東征」神話という、これまでの神話論では扱いにくい神話の解釈に地震・噴火のイメージを読み込む仕事です。またそれが奈良時代に怨霊信仰に変化していく様子も説明したいと思います。それを通じて、日本の国土というものを考える機会になれば幸いです。


(1)「天孫降臨」神話とタカミムスヒ
 「天孫降臨」神話が火山神話であることを『古事記』『日本書紀』の史料から説明をします。まずタカミムスヒが「天地鎔造」の神といわれていることの意味についてふれ、ついで日本神話には天空の神話が少ないという津田左右吉以来の見解について反証し、「天孫降臨」神話が磐座降下、火山灰(稲米)降下、溶岩流噴出、火山雷のアナロジーであることを説明します。
(2)「神武東征」神話と前方後円墳
 「神武東征」神話は物語の筋として「天孫降臨」神話と一体のものです。そこに雷神タカミムスヒの神話がどう入っているかを示します。その上で、前方後円墳はタカミムスヒ神話を表現しているという持論を論じてみたいと思います。私は前方後円墳=壺型説をとっていますが、それについても関説します。
(3)地震火山神話とオオクニヌシ
 スサノヲとオオクニヌシは地霊として地震の神でした。それを説明した上で、根のカタスの国が火山の地下にある国と観念されていたこと、またオオクニヌシの地下からの脱出は火山火口からの脱出として描かれていることを説明します。さらに奈良時代でもっとも格の高い畿内の神が吉野のオオクニヌシ(おおなむち)神社であったことの意味を論じます。
(4)地震火山と怨霊
 奈良時代に地震火山神話は怨霊の観念に流れ込んでいきました。たとえば七三四年地震は長屋王の怨霊と受け止められ、聖武天皇は都を守るために大仏建立を計画したことがわかります(『歴史のなかの大地動乱』)。これは桓武天皇にとっても同じことで、平安京への移転は早良親王が地震の怨霊となったことの影響が決定的であったこと説明します。

 問い合わせ、申し込みは、明治大学リバティアカデミー事務局。https://academy.meiji.jp

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八月には、今の仕事の『老子』の注釈を終えて、神話論に取りかかる積もりですので、その話をやります。

«日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて