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2016年8月29日 (月)

ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺

ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺

 「私たちのつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。私たちは、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている」。これはオバマ大統領の二〇〇九年の就任演説の一節である。アメリカにおける民族の多様性がアメリカという国家にとって一つの「強み」に展開した、また民族差別(「人種=マイノリティ差別」)が消滅した、あるいは消滅の方向が決定的であるという宣言である。
 たしかにオバマが大統領になったことは、一九六〇年代初頭に始まった公民権運動の一つの到達点を示している。しかし、それはまた、ブッシュ(子)政権においてコリン・パウエルとコンドリーサ・ライスの二人のアフリカン・アメリカンが続けて国務長官となり(おのおの二〇〇一年~二〇〇五年、二〇〇五年~二〇〇九年の在任)、中東戦争を主導したことの直接の延長線上に生まれた事態なのである。オバマも中東における戦争の責任者であって、中東の人々からいえばパウエル・ライス・オバマはほとんど区別はつかないであろう。植民帝国のトップが奴隷主によって占拠されていた一九世紀前半までと比べれば、アフロ・アメリカンの人々がアメリカの国家中枢のトップを占めたということは、たしかに世界史のなかで奴隷的な民族差別はかならず消滅していくことの証拠であるが、しかし、それが自己を戦争責任者とするところに展開したことは深刻な問題である。パウエルは、それを実感しているに相違ない。パウエルは国務長官として「イラクが大量破壊兵器を開発している」という虚偽をイラク戦争の開戦理由として主張したが、それが恥辱的な誤りであったことを認めた。
 ただ、ここでとくに紹介しておきたいのはライスである。彼女はアラバマ州バーミンハムの豊かな牧師と教師を親とし、縁の深い知人の縁戚にコリン・パウエルがおり、恩師はパウエルの前の国務長官マデレーン・オルブライトの父親というアフリカン・アメリカンのエリートを絵に描いたような女性である。しかし、バーミンハムの位置するアラバマ州は一九六二年に人種差別主義者として有名な民主党のジョージ・ウォレスを知事として圧倒的な得票で当選させた州である。知事選においてウォレスが掲げたスローガンが「今こそ黒人を隔離せよ! 明日も、さらに永遠に!」というものであった。
 そして、バーミンハム自体が白人暴徒の爆弾テロが日常茶飯事で「ボミングハム(爆弾の町)」という異名をもつ町であった。そういう状況のなかで、公民権運動の昂揚にともなって、一九六三年、マーティン・ルーサー・キング牧師をリーダーとする南部キリスト教指導者会議が行動を起こした。実は、バーニンハムの警察・消防署長は、南部のレーシスト犯罪集団、クー・クラックス・クラン(K・K・K)のメンバーであったが、彼がバーミンハム市長に立候補して穏健派に敗北を喫するというチャンスをねらって、選挙直後、四月に大規模な非暴力行動を開始したのである。それは「南部キリスト教指導者会議」(SCLC)全体の意思統一にもとづく行動で、行動参加者は、非暴力を誓約して効果的な抗議の仕方と自分の身体の守り方を訓練するという徹底したものであった。
 しかし、問題の警察署長は市長が交代したにもかかわらず、その職に居直り、警察とK・K・Kが一体になって非暴力の運動参加者に殴りかかるという狂気をあらわにした。その映像が全世界に流れて大きな衝撃をあたえるなかで、キング牧師は、これに抗して、南部を中心として全国各地から暴力の停止、人間的な自由と仕事を要求するワシントン行進を行うことを宣言した。そして、八月二八日、キングはワシントンのリンカーン記念堂の前で有名な演説「I have a dream」を行ない、圧倒的な迫力をもってアメリカの国家権力を抑え込んだのである。その演説の一節には「この瞬間の緊急性を見過ごし、黒人の固い決意を見損なったら、国家は致命傷を負うでしょう」とあり、時の大統領ケネディも、それを支持する態度を明らかにした。ケネディは問題がアメリカの国家としての体面に関わるものとなったことを確認し、ここではっきりと梶を切ったのである。
 さて、説明がながくなったが、パウエルやライスにとっても、このバーミンハムにおける対決が決定的な意味をもっていたことは明らかであろう。とくにライスは、このなかで友人の少女をK・K・Kに殺害されている(New York Times 2000年12月18日付)。ワシントン行進の翌九月、クー・クラックス・クランが、公民権運動の関係者の教会であるというだけで、バーミンハムの一六番街バプティスト教会に時限爆弾を設置したのである。聖歌隊の衣装に着替えるために更衣室にいただけの少女が殺されたのである。その葬儀にはキング牧師が説教している。ライスは「両親の励ましがあったおかげで、大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」と子供時代について語るが、そこにはキングの「私には夢がある」という声が響いていたに違いない。

ケネディ暗殺とベトナム戦争

 キング牧師の説得力は圧倒的なものがあった。もちろん、アメリカの支配層のなかに根強く存在したレーシスト(人種主義)勢力は暴力を行使し続けたが、公民権運動はこのとき、アメリカの国家権力を抑え込むことに成功したのである。
 しかし、問題は、このときベトナムにおいてアメリカが決定的な間違いをおかしていたことである。つまり、第二次大戦後のインドシナ内戦は、一九五四年のジュネーブ協定はフランスの植民地宗主権を否定し、ホーチミンに率いられたベトナム民主共和国と南ベトナムのバオダイ王権(フランスによって傀儡として担ぎ出された旧阮王朝の王)の間での和平にもとづいて二年後に統一選挙に入ることが合意されていた。しかし選挙でベトナム民主共和国が勝利することは確実とみたアイゼンハワー大統領はジュネーブ協定をやぶってバオダイ王権の首相ゴ・ジン・ジェムを居すわらせ、ベトナムに介入したのである。
 ところが、ゴ・ジン・ジェム政権はもっぱら王朝的な私欲と無秩序という正体を現して、ベトナム民衆の反発をうけ、南ベトナム解放戦線の結成によってジェム政権は崩壊の道に入った。そのなかで、ケネディは、一九六一年初頭、大規模な軍事顧問団を派遣してベトナムへの介入をエスカレートさせたのである。アメリカは、国防長官マクナマラが後に自己批判とともに述べているように、東アジアの歴史について無知なまま、ホーチミンの北をもっぱらソ連や中国の手先と見誤っていた(マクナマラ回顧録)。そもそも、日本とフランスからのベトナム独立を主導したホーチミンは、インドシナへのアメリカの介入をもっとも恐れており、それもあってベトナム独立宣言をアメリカ独立宣言の「すべて人間は平等に造られ、造物主によって一定の奪いがたい権利を付与され」という一節の引用で始めたという深慮遠謀の政治家である。現実の政治においては援助を確保する関係で、ソ連と中国という「社会主義」両帝国との関係に配慮したとはいえ、ホーチミンは最後までアメリカとの軍事対決をさけジュネーヴ協定にもとづく平和を追究していた。しかし、アメリカには自己がジュネーヴ協定を破り、国際法上の不正義を行っているという常識はなかった。マクナマラの回顧録にもそのような言及は一言もない。
 アメリカはアジアを包括的に支配しようという巨大な野心に目がくらんでいた。問題はそれがソ連にとっても同じことであったことであって、このころ、この二つの帝国は危険な意地の張り合いをヒートアップさせていた。まずケネディの大統領就任の前年、ソ連領空に潜入していたアメリカの覆面偵察機U2が撃墜された。そしてケネディが就任した一九六一年にはソ連が有人衛星による地球一周に成功し(ガガーリン搭乗、ヴォストーク一号)、さらに核実験を再開する。そしてそれに対して、アメリカも有人ロケット第一号を打ち上げ、核実験を再開する。核軍拡は宇宙軍拡に及んだ。そして、一九六一年に東ドイツがベルリンに「壁」の建設を開始し、翌一九六二年一〇月にはソ連がキューバにミサイル基地を建設していることが発覚し、状況は核戦争の一歩手前までいったのである。
 現在からみればソ連の「社会主義」なるものはソ連帝国の全体主義的性格を飾るものに過ぎず、アメリカの「自由」なるものは国内の民族差別を解決しないままの大言壮語に過ぎなかったことは明らかである。しかし、このときは、両方とも、相手のこけおどしのイデオロギーを恐怖し、実態とは異なる虚像に踊らされていたのである。とくにアメリカの側は「社会主義圏」なるものを過大評価し、それが一枚岩となって全世界でアメリカの権益を狙っているという過大な恐れ、いわゆる反共主義によって自己呪縛の状況にあった。ケネディは早い時期にベトナム介入の判断の誤りを自覚したといわれるが、こういう文脈にとらわれてベトナムをみていた以上、その道を引き返すことは困難であった。
 決定的であったのは、一九六三年、ベトナム仏教会がジェム政権の仏教弾圧に対して、サイゴン街頭で僧侶が焼身自殺するという激しい抗議行動に立ち上がったことであった。これは、バーミンハムの警察とK・K・Kが公民権運動に暴力を振るっていた、まさにこの時のことである。アメリカとベトナムは一つのカオスのなかに投げ込まれた。そして、しばらく後、アメリカとジェム政権の関係が不透明になるなかで、駐アメリカ大使を実質上の後援者として、一一月、ゴ・ジン・ジェム政権はベトナム軍のクーデターによって崩壊したのである。ケネディ政権は事態の掌握すらできていないという最低の状態で、このニュースを聞いて顔面蒼白となり、ベトナム政策の見直しを指示したという。
 しかし、一九六三年一一月二二日、翌年の大統領選挙をひかえて、南部での公民権法への支持が決定的だと考えて、テキサスにむかったケネディは、ダラスの町をパレードしている最中、熟練したスナイパーによって殺害された。ケネディは、あたかもその死をもって公民権法をあがなったかのようにさえみえる。奴隷解放宣言を発した後に暗殺されたリンカーンと重なるイメージである。ケネディ暗殺の背後にはケネディが公民権運動に明瞭に賛同する立場に梶を切ったことに反発する凶暴な人種主義勢力があったことは確実である。

「ブラックパワー」運動とキング牧師の暗殺

 副大統領としてケネディを引き継いだジョンソンは、ケネディより年長でフランクリン・ルーズヴェルトに引き立てられた民主党の南部ニューディーラーであった。彼は人種差別を違法として公民権運動の法的な出発点をあたえた一九五四年のブラウン判決(■■■)に対する南部連邦議員の抗議宣言に加わらなかった三人の上院議員の一人であって、公民権運動の意義は十分に理解していた。ジョンソンは、南部民主党の頑強な抵抗をおさえて、一九六四年六月、公民権法を通過させたのである。これによって投票権登録の際の読み書きテストなどが禁止され、公共施設や学校における人種差別・隔離が非合法化された。
 ジョンソンも必死であった。ジョンソンは、ケネディの死の翌年、一九六四年、次期大統領に立候補するにあたって、「偉大な社会」計画を打ち上げ「貧困との闘争」をうたった。これはジョンソンのニューディーラーとしての識見をよく示す大規模な福祉政策をふくむ構想であり、この計画は黒人の経済的・社会的条件の改善の面でも相当の意味をもったのである。ジョンソンは黒人のデモや主体的な政治参加には一貫して消極的であったから、公民権運動のなかには批判が強かったが、キング牧師は南部政治の現実の厳しい状況も勘案して大統領選挙にあたってジョンソンを支持したのである。これがケネディの死への同情とあわさってジョンソンは記録的な大差で大統領選に勝利した。
 しかし、それにも関わらず、南部では無知な白人暴徒による妨害がはげしく、黒人の投票権登録は現実にはほとんど進まなかった。とくに問題となったのが、一九六五年初頭から、バーミンハムの南のセルマの保安官が投票権登録を暴力的に抑圧したことで、駆けつけたキング牧師までが一時逮捕され、さらには州警察が公民権運動の活動家を殺害するという事件が発生した。これに対してキングらはセルマへの抗議の行進を組織したが、アラバマ州知事のウォレスの指示によって警察は催涙弾を発射し棍棒で殴りかかった。しかも、それに続いて白人暴徒がボストンから支援に入っていた白人の牧師を殴打して殺害するされて死去するという事態となる。「血の日曜日事件」である。これも大問題となり、結局、これによってジョンソンはキングの要求をうけて、投票権登録手続きを連邦政府が保護する投票権法を通過させ、それは一九六五年八月に発効したのである。
 しかし、ジョンソンの躓きは、彼がニューディラーであるとともに、第二次大戦における戦功を勲章として上昇した政治家であったことであった。ジョンソンは大統領就任直後にベトナムでの勝利を目標とすることを宣言したという。そのような立場から、ジョンソンは一九六四年に公民権法を成立させたしばらく後、トンキン湾で米軍駆逐艦が北ベトナムから、二次にわたって攻撃されたことを理由として、議会に戦争遂行権限を認めさせた、この事件は、一次目は米軍の挑発によるもので、二次目は虚報であったことが後に明らかになったが、議会では下院は全員賛成、上院では反対はあったものの三人のみという滅茶苦茶な事態であった。そして、アメリカは、一九六五年、北ベトナムに対する北爆開始し、さらに地上軍覇権という泥沼に入り込む。三〇〇万のベトナム人と五万八〇〇〇人のアメリカ兵が死ぬという無益な戦争であった。
 マクナマラが述べているように、ケネディの暗殺がなければ、戦争の泥沼化の様相は若干なりとも異なっていたかもしれない。これは一種の神話であるかもしれないが、当時を想起しつつ、この時期の記録を読んでいると、巨大なアメリカのシステムを動かしていた人々の人間的な弱さが破壊的な結果をもたらしたという歴史の偶然性に衝撃をうけるのである。
 これに対して圧倒的な正義を体現していたのがキング牧師であった。キングは、南部における公民権運動の主要な担い手であった南部キリスト教指導者会議が躊躇するなか、一九六六年一月、「クリスチャンとしては、この戦争は誤りだというほかない」と声明した。そして、一九六七年に出版した著書『我々はこれから何処へ行くのか』において、キングは成熟した社会科学者としての声をもって語る。「連邦政府は、自国内での貧困に対する戦争に勝つよりもベトナムでの無分別な戦争に勝つことに深い関心をもっている」というのである。そして彼は、公民権運動の総括をする口調で、一〇〇年の奴隷制の時代と、一〇〇年の差別の時代の根元に対して、一〇年間、攻撃をかけ、その基礎を削りとることに成功したとして、南部諸州では黒人の投票権登録は少なくとも一〇〇%、とくにバージニア州とアラバマ州ではそれぞれ三〇〇%と六〇〇%を増加させたという。しかし、キングの現状認識はきびしい。つまり「南部キリスト教指導者会議が一九六三年にバーミンハムに入っていったとき、それはその年を変えようとする計画であった」「闘争は全国的な規模で行われたのものではなかった。それをしたのは南部人だった」「北部のゲットー、北部の黒人社会には沈滞が重く立ちこめている」「もはやこれ以上引き延ばしてはならないのは北部の大都市である」「本当に高いコストを必要とするのは、これから先のことなのだ。白人の抵抗が強くなるのは、この事実を物語っている」というのがキングの分析である。
 こうしてキングは、「潜在的に爆発性をそなえ、短い導火線と長い虐待の経験をもつ北部の黒人社会」に活動の重点を移し、白人を含めた貧困との闘争に本格的に取り組み、合州国中枢を本格的に変革する道に踏み出たのである。それと同時にキングはベトナム反戦運動にもはっきりとしたイニシアティヴを示し、一九六七年四月一五日のニューヨーク、セントラル・パークでの反戦集会では全国の反戦運動と合流することを宣言した。
 キングが、ここまで踏み切ったのは、結局、黒人運動にとって何よりも重要なのは非暴力の真理であり、また信仰にもとづくものかどうかは別としても正義と博愛のパワーであるという考え方であったように思われる。つまり、この年、一九六七年、全国五九の都市で黒人の暴動が発生した。この年をふくむ九年間で数えると全国三〇〇都市で五〇万人が暴動に参加し、二五〇人が死亡、一万人が重傷を負い、六万人が逮捕されている。いわゆるブラックパワーの運動である。
 このブラックパワーという主張は、南部キリスト教指導者会議ではなく、北部にも拠点をもつ全国組織、人種平等会議(CORE)と学生非暴力調整委員会(SNCC)で優勢になった主張である。キングはSNCCでそれを主張したストークリー・カーマイケルなどに対して、暴動をあおるようなブラックパワーというスローガンが、公民権運動における最大の強みであった非暴力の思想を無効化させるものであり、無益な盲動であることを必死になって説得したが、それは届かなかったのである。たしかに、人種主義の暴力に向き合っていた人々が、ベトナムにおける戦争暴力の惨酷さを誇示するかような連邦政府に対して一種の世界観的な憎悪を増幅したことには十分な理由があった。それだけに、キリスト者であると同時に賢明な社会運動家であったキングは、これを前にして座視することはできなかったのであろう。
 そして、ここでも悲劇が起こった。公民権運動においてイスラム教の立場からキングとならぶ働きをしたマルコムXが、一九六五年二月、暗殺されたことである。マルコムXは一時期、自衛のためならば実力行使はありうるという立場を表明していたが、しかしアフリカを歴訪するなかで考えを改めてキングに近づいた人物である。それだけにキングとの間で広い連合が始まれば、それはきわめて大きな意味をもったに違いなかった。その暗殺は奇怪なもので、真相は不明である。
 このなかでキングは苦闘を重ねたが、一九六八年四月、メンフィスの清掃労働者のストライキ支援に向かい、労働者の組合運動とも連携する立場を鮮明にした。下記が、その際、キングが『新約聖書』のマタイによる福音書の山上の垂訓を引用しながら行った演説の結びの部分である。彼は翌日朝、ホテルのベランダにでたところを銃撃され倒れた。
さて、今後将来、何が起こるのかわたしたちには分かりません。将来には困難な日々が待ち構えています。でも、わたしはもう案じたりはしません。なぜならば、わたしは山上に登ったからです。もう不安はありません。みなさんと同じく、私も長生きがしたい。しかし物事には摂理というものがあります。だから今は思い悩んだりはしないのです。わたしは神の御意思に従いたいだけなのです。そうすると、神はわたしを山上に導いてくださいました。そこからあたりを見渡すと、約束の地が見えたのです。わたしは、あなたたちと一緒にそこにたどり着けないかもしれません(I may not get there with you)。しかし、今夜、このことだけは分かってほしい、われわれはひとつのピープルとして将来約束の地にたどり着くということを(We as a people will get to the Promised Land)。わたしは今夜幸せです。何も案じることはありません。どんな人間も恐ろしくありません。わたしのこの目が主の降臨を見たのだから。
 ここには、彼の宗教的信念とともに、自己の死を予知するかのような雰囲気があるが、キングは人種主義と戦争の暴力が蔓延する現状への怒りをたたえた瞳で聴衆を凝視しながら演説を終えたと伝えられている。
 アメリカ国家の中枢部に、もう少し信仰心があればと考えるのは私だけではあるまいが、しかし、そのような期待がむずかしいことを示したのは、キング暗殺の年の一一月に行われたアメリカ大統領選挙の結果であった。つまり、この年一月の南ベトナム解放戦線のテト攻勢によってアメリカ軍の勝利はほぼ不可能視され、しかもソンミの村民虐殺事件は戦争の正統性がまったくないことを世界に明らかにした。そのなかで、ジョンソンは、毎晩、共産主義に妥協した人間として石を投げつけられるという悪夢にさいなまれて大統領選への不出馬に追い込まれた。当選したのは共和党のリチャード・ニクソンであったが、彼がベトナム戦争に固執して醜悪なウォータゲート事件を起こしたことはいうまでもない。しかし、ここで確認しておくべきことは、この大統領選挙に「血の日曜日事件」を引き起こした元アラバマ州知事のジョージ・ウォレスが民主党を脱党して立候補し、アラバマ州、アーカンソー州、ジョージア州、ミシシッピ州、ルイジアナ州でトップを取り46人の選挙人を獲得したことである。日本にとっては、彼の副大統領候補が第二次世界大戦において日本本土に対する無差別爆撃を行った元空軍参謀総長カーチス・ルメイであったことも忘れることはできない。

2016年8月25日 (木)

アメリカは「合衆国」ではなく、やはり「合州国」が正しい

「合衆国」ではなく「合州国」
①「合衆国」と世界の「第七帝国=日本」
 アメリカの国名「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」は普通「アメリカ合衆国」と翻訳されるが、これは誤訳に近い誤りで、正確には合州国とするのがいい。このことを始めて主張したのはジャーナリストの本多勝一であるが、それ以降、日本では相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を採用している。
 建国時のアメリカを構成したのはイギリスからの移民が入植した一三のステーツであった。ステーツという言葉自体は国家ということであり、ステーツには、本来、「州」という意味はないから「ユナイテッド・ステーツ」を「合州」とは訳せないという意見があるかもしれない。しかし、たとえばヴァーモントは現在でも「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」といい、これをヴァーモント州と訳す。つまり「ステーツ=州」がユナイト(連合)したものを「合州国」と翻訳することは十分に筋が通るのである。
 これに対して、「合衆国」という翻訳はアヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしい。「合衆」というのは、中国の古典に見える言葉で、「衆人を寄せ集める。衆人を和合させる」、つまり共和という意味であって、「アメリカ合衆国」というのは「アメリカ共和国」という意味になる。福沢の『文明論之概略』(巻一・一)も「合衆政治」という言葉を民主政治と同じ意味で使っている。徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という名称が使用されたのは、この意味である。
 ここにはアメリカに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きが表現されているといってよい。つまり当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。実際、一九世紀前半までヨーロッパから伝わってきた世界の諸国家についての情報は、世界には七つの帝国とその他に幾つかの王国があるというものであった。七つの帝国とは西ローマ帝国を引き継ぐ神聖ローマ帝国(ドイツ)、東ローマ帝国を引き継ぐロシア帝国とオスマン・トルコ帝国、そしてペルシャ帝国とインドのムガール帝国、さらに東アジアでは清帝国と日本帝国の七帝国である。この七帝国の観念は一六世紀にはあったようで、日本帝国が七番目の帝国であったというのは、イエズス会の宣教師の記録にもでてくる。これが秀吉の朝鮮出兵と結びついて「日本=帝国」という観念がヨーロッパではよく知られるようになっていたのである。
 そう考えていた東アジアの人々にとっては一八世紀末に登場したアメリカが王のいない強国として発展しているのは驚異の対象であった。とくに自分の国が世界の帝国の一つであると認められていると考えていた日本は、帝王はおらず、王さえもいない三流の国家としか考えられないアメリカから、ただの軍人ペリーがやってきて対等な通商と開国を要求したことに憤激したのである。我々の国は帝国であったはずなのに、これはどうしたことかという訳である。「合衆国」という用語は、そういう中で流通した用語なのである。福沢諭吉は、『学問のすすめ』の冒頭にアメリカの独立宣言を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と翻案して掲げて人々を驚かしたが、これも同じことである。こういう経過のなかで、日本には「アメリカ=民主主義」という図式が深く根づくことになった。太平洋戦争の敗北とアメリカ占領という経過のなかで、それがさらに強化されたことはいうまでもない。
 この意味では、私たちが「合衆国」という言葉を使い続けていることは、私たちが一九世紀からの世界認識の枠組みに囚われていることの象徴であるかもしれない。これは重大な問題なので、以下、必要な限りでの歴史的説明をしておきたい。
②アメリカの北部と南部
 アメリカは、何よりもイギリスが北アメリカ大陸に設置した一三の植民地「州」の連合、植民国家として出発した。それはアメリカの地図をみれば明らかなことで、そこでは州境は自然地形ではなくほとんど直線の場合が多い。これは先住民が自由に使用していて境界が存在しない土地を上から測量して、植民地「州」権力が自分たちの領分を決めていったためである。これはヨーロッパ列強がアフリカや中近東で大規模な測量をして直線の国境線を画定し植民地体制を固めていったのと同じやり方である。合州国という表記はアメリカが、こういう「州邦」権力から始まったという経過を正しく表現している。
 アメリカ建国時の一三州とはニューイングランドといわれる北東部四州(①マサチューセッツ、②ロードアイランド、③コネティカット、④ニューハンプシャー)、中部の大西洋岸四州(⑤ニューヨーク、⑥ニュージャージー、⑦ペンシルベニア、⑧デラウェア)、そして南部五州(⑨バージニア、⑩メリーランド、⑪ノースカロライナ、⑫サウスカロライナ、⑬ジョージア)からなっていた。
 このうち、植民はまず南部から始まった。それが一六〇七年に設置された南部のヴァージニア植民地である。最初の移住者一〇五人は半数が飢えと病気で死ぬという厳しい運命に見舞われたが、そのなかで彼らはネーティヴの人々の助力をえて命をつないだ。しかもネーティヴの人々からアメリカ大陸原産のタバコの栽培法を習い、それをヨーロッパ市場にだすことによって徐々に安定していったという。そして彼らはアフリカから移送された奴隷の労働によって肥沃な南部農業地帯に農場を経営し、膨大な資本と富をアメリカにもたらしたのである。一七七〇年代の南部は北米植民地の総人口の約半数が住んでいたという。一九世紀半ばまでのアメリカの中心は北東部でも中部でもなく南部にこそあったのである。しかし、そのなかでネーティヴの人々の善意はまったく裏目にでて、彼らは先祖から守ってきた大地から放逐されるにいたった。
 これに対して、北部の植民はやや遅れて、一六二〇年、メイフラワー号にのった清教徒のピルグリム・ファーザーズが北部ニューイングランドのプリマス植民地に渡ったのが最初である。彼らの場合も、当初、大きな苦難を経験し、ネーティヴの人々に助けられながら、結局それを裏切ったのはヴァージニアと同じである。しかし、プリマスに渡ってきたのは、イギリス国教会のなかでは迫害されていて、オランダからアメリカに渡った分離派といわれる例外的な人々であった。彼らは一〇年後に渡ってきてマサチューセッツを建設した別の清教徒(イギリス国教会内部の改革派)の移民グループに統合されてしまう。北東部ニューイングランドは、南部に比べて狭く寒冷で、土地も痩せており、この時期のアメリカ全体のなかではニューイングランドの位置が軽かったことは明らかである。北部では南部のように輸出を目指して奴隷労働による農業大経営を営むことはなく、むしろ自営農業のベースの上に、漁業・造船・手工業・商業・貿易などが発達することとなった。
 なお、以前、日本では、アメリカの建国というと、ピルグリム・ファーザーズが話題の中心となることが多かった。これには色々な理由があるが、大きかったのは、メイフラワー号が到着した冬一一月を記念するという「感謝祭」(サンクス・ギヴィングデイ)が、一九四八年に、日本の新嘗祭の日程の上にかぶせる形で「勤労感謝の祝日」という祝日に定められたことであろう。本来、「感謝祭」は、本来はプリマスの地方的な祝祭であったが、南北戦争で北部が勝利したのちに、その勝利宣言のようにして「建国神話」化されたものである。今では忘れられがちなことだが、アメリカの軍事占領とともに、その建国神話が(七面鳥とともに)日本に持ち込まれたということになる。
③州の拡大とネーティヴの大地
 このように南部と北部は大きく異なっていたにも関わらず、彼らが連合した主な理由は、最初はネーティヴの人々の協力によって命をつなぎながら、すぐにそれを裏切ってネーティヴの人々の大地と富を強奪したという共通の経験にあった。北部にとっても南部にとっても、問題の中心は「州」連合とネーティヴの人々の部族国家の間での緊張した対外関係にあったのである。
 そしてそれはヨーロッパ勢力の間の関係、とくにイギリスとフランスの関係に深く関わっていた。つまり、イギリスがスペインの無敵艦隊を英仏海峡の海戦で破ったのは一六世紀末(一五八八年)であったが、一七世紀に入ると世界の覇権争いはイギリスとフランスの間にうつった。それは植民地ではアメリカとインドの二つの戦線で戦われたが、一七五五年には本格的な英仏戦争が英仏戦争が展開した。イギリスは、この戦争に勝利することによって世界の覇権を握ったのである。アメリカ大陸では、フランスは、一六〇八年、カナダのセントローレンス川河口にケベックを建設し、ネーティヴの人々との毛皮貿易を行いながら内陸に進み、さらに南にくだってミシシッピ川流域を領有してルイジアナと命名していたが、イギリス軍は、ケベックとモントリオールでフランス軍を破った。そして、アメリカ独立の動きは、このフランスへの勝利の後、イギリスがアメリカ植民地に軍費償還のための税をかけようとしたことへの反対運動から始まった。これまで、アメリカ独立の動きは、もっぱらイギリスとアメリカの関係のなかでのみ考えられがちであったが、それは、このような国際関係のなかで起きたのである。
 こういうなかで、植民地「州」の連合が最初に議論に上ったのは、英仏戦争の前年、一七五四年にニューヨークの中北部のオルバーニーで行われた討議に始まる。この会議は、フランスに対するイギリス領植民地の共同防衛を目的として開かれたものであるが、そこではオルバーニーの西、オンタリオ湖岸からカナダにかけてを本拠とするイロコイ族の人々が招かれ、フランスに対抗してイロコイ連合の友好関係を形成することが重要な議題となっていた。つまり、アメリカ「州」連合という発想はフランスを意識していたことはいうまでもないが、同時に直接に隣接するイロコイ部族国家に対する対外関係のなかで形成されたものなのである。
 ここを起点としてアメリカ「州」連合はネーティヴの人々の部族国家に対して軍事的にも社会的にも共同で対処する体制を固めた。もっとも重要なのは、従来、一三州はアパラチア山脈の西からミシシッピまでの大地を分割しておのおの領有を主張していたが、アメリカ独立戦争から合州国建国までの間にそれを放棄し、そこをアメリカ「州」連合が一括して公有地としたことである。北はミネソタ・ウィスコンシン・ミシガンから、南はミシシッピ・アラバマにいたる、ほぼ後の一〇州にもあたる、この広大な領域は、本来、チェロキー族、オジブワ族、マイアミ族などの部族国家の大地であった。これらの諸族との間で「領土条約」を結ぶという形式はとったものの、アメリカ連合はそれを実際上、一括して上から領有する体制をとったのである。ユナイテッド・ステーツとはネーティヴ・アメリカンの大地をステーツの連合によって横領することであった。
 アメリカ独立を国際的に承認したパリ条約(一七八三年)に引き続いて、アメリカ連邦は、このミシシッピ以東の領域を、順次、六マイル平方の区画(タウンシップ)に測量分割し、一部公有地を残した上で民間に払い下げる法律をつくった。そして、この計画の進行によって人口が増加すれば、各地域を準州・州に格上げして、地方議会を組織するという国土開発の大方針を決定したのである。州の組織の基礎単位が、この六マイル平方の区画(タウンシップ)にできあがったタウン・タウンシップということになる。この土地払い下げの方針によって、人々が東海岸から西に群れをなして移住していったのが有名な西漸運動であって、これによって、アメリカの国土はどこも似たような雰囲気をもつタウン(またはタウンシップ)の網の目によって覆われていった。
 これを後押ししたのがフランスからのルイジアナ購入であって、ナポレオンは、イギリスへの復讐をねらって、英仏戦争前のフランス旧領ルイジアナをスペインから取り戻し、それをアメリカに譲渡して、アメリカと組んでイギリスを包囲しようと画策した。時の大統領ジェファーソンは喜んで、この話しに乗り、一八〇三年、アメリカ連邦はフランス旧領ルイジアナを獲得したのである。このルイジアナとは、現在のミシシッピ河口部のルイジアナ州のことではなく、それを最南端として、ロッキー山脈の東山麓とミシシッピ川の間を、カナダ国境のモンタナ・ノースダコダにまでいたる広大な領域である。
 そしてやや遅れて一八四五年にはテキサスを併合し、翌一八四六年にはオレゴンをイギリスから獲得し、一八四八年にはカリフォルニア一帯をメキシコから買い取って、アメリカの領土は大西洋岸にまで到達した。これらの地域も人口増加にともない次ぐ次ぎに州として昇格していったことはいうまでもない。合州国という表記のよいのは、このように州を新設して、それを「合」併していくことによって、アメリカが膨張していった経過をも示唆できることであろう。
④一九世紀半ばまでのアメリカは資本主義ではない
 さて、このように膨張していった一九世紀のアメリカの社会構造は、普通、資本主義、資本主義国家であるとされている。たとえば、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(第一章)は、ニューイングランド植民地の小規模な農民や手工業者からなる村落は、プロテスタントの倫理を基礎として作られたものだが、それが資本主義精神の形成に意外な役割をになったという。次ぎに一部を引用した、このウェーバーの有名な学説も、アメリカが資本主義であることが前提になっているといってよいだろう。
「資本主義精神」はベンジャミン・フランクリンの生地(マサチューセッツ)ではとにかく明白に「資本主義の発達」の前提として存在したのに、隣接する南部諸州などではそうした精神がはるかに未発達であった。南部の植民地は営利を目的に大資本によって作られたものであり、それに対してニューイングランド植民地は、牧師・知識人と小市民・手工業者・自営農民の結合によって宗教的理由から創設されたものであったにもかかわらず、そうなのである。
 こういうニューイングランドの小農民や商工民の村落こそが「資本主義の精神」のゆりかごだったというウェーバーの理解に依拠すれば、一九世紀に東部から移住していった人々が網の目のように作り出していったタウンシップが資本主義の原基になって、アメリカ全域を資本主義社会としていったということになる。たしかにニューイングランドを起点として西部に広がっていったタウンの網の目を前提として、村落社会が局地的な市場圏を作り出し、産業革命の初期段階とも理解できるような「市場革命」といわれる根深い農村的な資本主義の動きが生まれたことが明らかにされている(安武秀岳二〇一一)。
 しかし、一九世紀半ばまで、南北戦争前のアメリカ社会の全体的な構造をみれば、それを資本主義社会ということはむずかしい。まずアメリカ社会の基軸をなした大地の領有関係は合州国による大地の国家的な公有にあった。これなくしてはタウンシップの計画的な開発は実現できなかったことはいうまでもない。一九世紀の植民地論者として有名なE・G・ウェークフィールドが「土地は、植民の対象となるためには未耕地であるばかりでなく、私的所有に転化されうる公有地でなければならない」(『イギリスとアメリカ』(世界古典文庫版、第二冊、一三七頁)としているように、アメリカにおける土地所有の関係は、連邦と州(States)が国家的に領有するネーティヴの人々の「未耕地」に対する所有と、移民たちがそこから割き取った私的な土地所有という二つのスタイルをもっていた。この時期のアメリカの社会構造は、ネーティヴ・アメリカンの抑圧の上にたった植民国家的な社会構成であるというほかないだろう。
 しかも、問題は、すでに述べたように、アメリカの経済的・政治的中心はアメリカ南部にあったことである。南部では、イギリス産業革命が本格化するなかで紡績の原料となる綿花のい栽培・輸出が盛んとなった。それに駆使された黒人奴隷人口は一七九〇~一八六〇年の間に約七〇万人から約四〇〇万人にも増えている。そもそも初代大統領ジョージ・ワシントンから第七代大統領アンドリュー・ジャクソンまでの大統領は、(父ジョン・アダムス、子クィンシー・アダムズの第二代・第六代大統領をのぞいて)すべて南部の裕福な農場経営者であって、多くの奴隷を所有していた。日本では南部というとややもすれば、ミシシッピ流域を考えてしまうが、ワシントン特別州はもとバージニアの北辺部なのであって、一九世紀のアメリカ合州国は、実際上、「ヴァージニア王朝」であるとさえいわれる。この時期のアメリカ合州国が「奴隷主国家」「奴隷制共和国」などといわれるのも当然なのである(安武、上杉忍)。
 ウェーバー学説のわかりやすさもあって、これまで、一九世紀前半までのアメリカはなんとなく資本主義社会と考えられていた。しかし、アメリカというと、そのすべてを資本主義あるいは資本主義の発達という図式で考えることをやめなければならない。そこから離れて自由に考えていけば、この時期のアメリカはネイティヴを抑圧する植民国家・植民帝国的な社会であり、そのトップに奴隷所有者が位置している社会構成であるというほかないのである。これまで歴史学は「奴隷制社会、封建制社会」などのシェーマがあてはまらない社会について積極的に社会構造論を考えてこなかった。しかしこの「アメリカは人種的な植民国家的な社会構成」であったという認識は、現代の世界を正確に捉えるために、どうしても必要なことであろう。
 アメリカ社会が資本主義社会となるのは、南北戦争において、北部が南部に勝利した後のことである。後に述べるようにそこではアメリカ人種的な植民国家構成から人種的な資本主義構成への変化が起きた。それと同時に、アメリカの国家は、南北戦争の後に、植民国家連合という複合的な国家ではなくなって、一つの国家となったのである。南北戦争までは、英語でUnited States of Americaを受ける動詞は複数形であったが、南北戦争の後は単数形になったことは、その一つの証拠である

2016年8月24日 (水)

コンドリーサ・ライスが8歳の頃、友達の少女がKKKによって殺されたこと。

 「私たちのつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。私たちは、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている」。これはオバマ大統領の二〇〇九年の就任演説の一節である。アメリカにおける民族の多様性がアメリカという国家にとって一つの「強み」に展開した、また民族差別(「人種=マイノリティ差別」)が消滅した、あるいは消滅の方向が決定的であるという宣言である。

 しかし、バーニー・サンダースが「この国では人種的偏見の根絶の道のりはまだまだ遠い」(サンダースHP、issues)としているのがアメリカの実情であろう。たしかにオバマが大統領になったことは、人種的偏見(レーシズム)を解消する動きが一歩進んだことを意味しているが、それは同時にアメリカが名実ともに「多民族帝国」というべきもの、より正確には「多頭民族帝国」になったことの表現でもある。それはブッシュ(子)政権においてコリン・パウエルとコンドリーサ・ライスの二人のアフリカン・アメリカンが続けて国務長官となり(おのおの二〇〇一年~二〇〇五年、二〇〇五年~二〇〇九年の在任)、中東戦争を主導したことの直接の延長線上に生まれた事態なのである。

 ライスはアラバマ州バーミンハムの豊かな牧師と教師を親とし、縁の深い知人の縁戚にコリン・パウエルがおり、恩師はパウエルの前の国務長官マデレーン・オルブライトの父親という経歴の女性である。彼女は「両親の励ましがあったおかげで、大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」と子供時代について語っている。しかし、バーミンハムは一九六〇年代初頭の南部における公民権運動の最大の衝突地であった。それが、彼女にとっても深刻な経験であったろうことは、八歳のころ、一九六三年九月、公民権運動の関係者も多かったバーミンハムの一六番街バプティスト教会に対して、南部のレーシスト犯罪集団、クー・クラックス・クラン(K・K・K)が時限爆弾を設置し、何の関係もないライスの友人など四人の少女が殺害されたことからわかる(この教会については公民権運動史跡巡り8を参照。http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_14.html)。
 
 この1963年は公民権運動の真っ最中でバーミンハムは、その中心地。少女たちの死をいたむミサにはキング牧師が説教をしている。しかし、南部の狂気はさらに続き、11月にはダラスでケネディが暗殺された。

 「多頭民族帝国」という規定が正しいかどうかは別として、オバマの動きが大きな意味があることは否定できないが、その意味を考え、歴史に位置づけるためには、どうしても、あの時代まで戻らなければならない。

 下記はウィキペディアより。
 
 
^ 2000年12月18日付の New York Times の記事、“The 43rd President; Rice on Power And Democracy” に引用された、ライスが1999年1月15日に Los Angeles World Affairs Council で行ったスピーチの一節。 (“...The Civil Rights Act passed 10 years later. Birmingham was a violent place in 1963-64; I lost a little friend in that church bombing in 1964, at Sixteenth Street Baptist Church. But our parents really did have us convinced that you couldn't have a hamburger at Woolworth's but you could be president of the United States...”)
^ www.racematters.org "A Lesson from Condoleezza Rice" by Derrick Z. Jackson,

2016年8月22日 (月)

アメリカの大統領制について、そもそも大統領という訳語はよくない

大統領という訳語はよくない
①プレジデントは本当は元首と訳したい
 アメリカのプレジデントを東アジアの漢字文化圏では「大統領」と翻訳する。これは、徳川時代の末期、一八五八年の日米修好通商条約に「帝国大日本大君と亜米利加合衆国大統領と親睦の意を堅くし」とあるのが始めの例であるらしい。それが東アジアに広がったのであるが、明治時代の半ばまでは「監督」「大頭領」などともいわれて固定されたものではなかったという(『明治のことば辞典』東京堂出版)。「棟梁・統領」というなじみやすい言葉に「大」をつけたのが訳語として成功した理由であろうが、しかし「統領」の大きいものという言葉は、やや大げさなだけでその具体的な職能を現さないのが欠点だろう。これは日本で早くから大統領は特別の存在だという意識がうまれたことに対応したものであろうか。ワシントンは少年の頃、斧の切れ味を試そうとして桜の木を切り倒したがそれを父に白状した。その正直さこそがワシントンを偉人にしたという話は修身の教科書にものっていてがよく知られていたのである。共和国の大統領も立派なものだという「偉人伝」である。
 こういう事情もあって大統領という訳語は完全に根付いているから、当面、変更することはむずかしい。それ故に、以下、そのまま使い続けることとしたが、ただ、本来からいえば、これは国家儀礼を主宰する職制を表現する「元首」という言葉に変えた方がよいと思う。つまり、プレジデントPresidentという言葉が国家のトップの意味で使われたのはアメリカが初めてであるが、それはアメリカに国家元首の役割を担う国王が不在であったためである。それが前例となって王が不在になった時、フランス、イタリア、ドイツなどでも元首の職名として受け入れられていった。逆にいえば、大統領制の対極にある議院内閣制は、発祥地のイギリスの例からいっても国王による首相の任命が前提になっており、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、さらに遅れて日本やスペインでも同じである。つまり、国王――議院内閣制、国王不在――プレジデントという対照があるのであって、これはプレジデントという職名の本質が元首にあることをよく示しているといってよい。
 そもそもプレジデントの語義はラテン語にさかのぼれば、pre=前にsidere(sit)=座るということである。辞書ではたとえば大学の総長、協会の会長から、ただの会議の議長までをいう。ワシントンは連邦議会の議長職としての権威を認められてプレジデントになったのである。元首の元は「はじめ」、首は「こうべ」であって、組織や集会の秩序と儀礼をつかさどるという意味だから、この点からいってもPresidentの翻訳としてふさわしいだろう。
②大統領の憲法的地位と帝国性
 以上は、プレジデントという職名をどう翻訳するかという問題だが、これは世界の諸国家の頂点部分の多様な実態を整理して、そのなかで元首の国家儀礼を主宰する機能を説明することに関わってくる。

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 図に簡略に示したように、世界の諸国家の頂点部分には①王身分、②元首、③執行権者の三種類の人々が集まっている。まず①王身分の保持者のなかには、イギリスの王のように儀礼の主催者であり、執行権への関わりももつような君主的元首としての性格を残す王から、日本の天皇のように国政に関わる権限を有さず、元首でもない王(儀礼の主催権はもたず、国事行為も内閣の指示のもとに何項目かのみを行う)、さらにはスウェーデンのようにほとんど市民社会の内部にとけ込みつつある王まで、現代では多様な王身分が存在するようになっている。
 また②の国家儀礼を主宰する元首機能については、アメリカ大統領のように執行権者として元首機能を兼ね備える場合から、ドイツ・アイスランドのように名誉的プレジデント(元首)が置かれる場合、カナダのようにイギリス国王代理としてカナダ総督が名誉元首の役割を果たす場合、あるいは日本のように(前記の天皇の存在を別にして)執行権者としての首相が随時に状況に応じて儀礼的役割を果たすだけの例など、実に多様な構成となっている。ここでプレジデントを元首と翻訳すれば、アメリカのプレジデントはアメリカ国家元首、ドイツのプレジデントはドイツ名誉元首と呼べばよいことになり、様々な元首のあり方をわかりやすく表現できることになるだろう。
 そのように整理してくると、アメリカのプレジデンシー(presidential government大統領制)の独特な姿が浮き出てくる。アメリカでは大統領が行政権を握ると同時に元首の役割を果たすことが、大統領の権威と権限をきわめて強いものとしている。もちろん、憲法は大統領が行政権を握るとするだけだが(第二条)、大統領は合州国陸海軍と各州の民兵の最高司令官(Comander in Chief)であり、また条約の締結権などの外交における役割、さらに高官の任命や恩赦の権限が憲法に記されている。これらが大統領の元首機能を示すことは明らかである。また大統領は立法府に関われないとはいっても、大統領は議会の立法した法案に対する拒否権をもっている(それを押し戻すには議院の三分の二の多数か必要となる。憲法第一条七節)。最高裁判所の判事を指名する権限の位置も大きい(但し上院の助言と同意が必要。憲法第二条二節)。
 このような大統領権限の強力さは、アメリカの建国者が、アメリカを「帝国」と意識していたことに関係している。つまり、アメリカの初代大統領、ジョージ・ワシントンはアメリカを「興起しつつある帝国」と呼んでいる。またベンジャミン・フランクリンは植民地時代から死ぬまで四〇年にわたり、アメリカを「帝国」といい続けていた。アメリカ憲法の立法者たちが書いたA・ハミルトン、J・マディソンなどによる論説集『ザ・フェデラリスト』の「序論」にも憲法案の審議に「この帝国の命運」がかかっているとある。
 王のいないアメリカを「帝国」というのは漢語の語感からするとおかしいように感じるかもしれないが、英語の「エンパイアempire」は、ラテン語でいえばインペリウム、つまり、共和制時代のローマの執権者がもつ「命令・命令権」に由来する言葉である。「エンパイア=インペリウム」は王制か共和制かという問題には関わりない言葉であり、実際、彼らがアメリカを帝国という場合の範型はローマ帝国にあった。プレジデントというローマ由来の言葉を選んだのもそのためではないだろうか。トクヴィルは「共和国が一人の人間の軛につながれるとき、権力はあたかも万人の上に出るところは少しもないかのように、簡素で飾り気なく、また慎ましく振る舞い続ける。かってローマの皇帝たちが強大な力をもっていたとき、人びとはなおカエサルと呼びかけ、皇帝は友人を訪れ親しく食卓についたのである」と説明している(『アメリカのデモクラシー』第一部八章)。アメリカ大統領の地位は共和制ローマのイメージで考えるのがよいという訳である。アメリカの上院議員をセナターというのはローマの元老院にならったものであるのも同じことであろう。
 ホワイトハウスを初めとしてアメリカにギリシャ・ローマ風建築が異様に目立つのもそのためである。こういう白亜の建物は革命期のフランスではじまった「新古典主義」といわれる大仰なローマ風建築様式であるが、アメリカ建国期の指導者たちは、ギリシャ・ローマ風の様式をイギリスに対抗する共和思想の象徴として流行させたのである。その中心となったのは、独立宣言の起草を主導し、独立戦争直後にはフランス公使となった、後の第三代大統領トーマス・ジェファーソンであるが、彼は早い時期にアメリカ連邦は「広大にして肥沃な領土を自由の帝国に加える」ために存在すると述べて、ネーティヴの人々をの土地を取り上げ、さらに彼らを東へ移配することを呼びかけた。また、ジェファーソンは生涯に六〇〇人の黒人奴隷を使役したといわれるヴァージニアの奴隷制プランターであった。ジェファーソンにとっては、奴隷制の上に立って「共和制」を実現し、さらにはゲルマンの蛮族と戦ったギリシャ・ローマが一つの理想であったのであろう。しかしヨーロッパがゲルマンに発することを考えれば、ネーティヴの抑圧は根本的な不整合であって、ジェファーソンの生涯と思想には大きな矛盾がはらまれていた。現在、ワシントンにある白亜のジェファーソン記念館は、第二次大戦中にフランクリン・ルーズヴェルト大統領によって建設されたものであるが、このジェファーソンの「自由の帝国」なる思想のもつ矛盾はアメリカ史の中でいまだに解決されていない矛盾なのである。
③大統領制は民主的か
 世界では、近年、アメリカの大統領選挙は奇妙で不公正な部分が多いという認識が広がっているが、しかしそれでもアメリカ大統領が「強力なリーダーシップをもった自由世界の指導者」であるとされることは多い。とくに日本では、アメリカの大統領制度は民主主義世界における理想的な制度であるというのがいまだに一つの常識である。アメリカ大統領は国民による選挙で選出され、これを中心として行政権は大統領、立法権は議会、司法権は裁判所の専権となるという厳密な三権分立が制度化されているというのである。
 注意すべきなのは、こういう見方は徳川時代の末期からの伝統であった。福沢諭吉だけではなく、たとえば津田真道が幕府の大政奉還を前にして作った「日本国総制度」という憲法草案に徳川将軍家を元首としその名を「大頭領」としたのはアメリカの影響である。第二次世界大戦の敗戦直後に高野岩三郎が作成した「日本共和国憲法私案要綱」も大統領制を提案しているが、それは「天皇制ヲ廃止シ、之ニ代ヘテ大統領ヲ元首トスル共和制採用」「日本国ノ元首ハ国民ノ選挙スル大統領トスル。大統領ノ任期ハ四年トシ、再選ヲ妨ゲザルモ三選ヲ禁ズル」という明瞭にアメリカ合州国憲法を下敷きとしたものである。また日本の議員内閣制を首相公選制によって大統領型に変化させようという議論も自由民主党のなかには根強く存在している。
 しかし、ここでまず問題にしなければならないのは、そもそも大統領制そのものをどう考えるかということであろう。もちろん、現在の選挙システムを抜本的に正した上でということではあるが、この問題は、アメリカ大統領が世界にあたえる巨大な影響からして、どうしてもふみこんで考えておく必要がある。これはむずかしい問題であるが、やはりトクヴィルの見解が参考になる。つまりトクヴィルは「大国では一般庶民の権力欲は小国に比べて激しいが、同時にまた特定の人々の胸中には栄光を愛する気持ちが燃えさかっており、彼らは、人民の喝采を博すことこそ努力のしがいがあり、いわば自分を自分以上のものに高める恰好の目標とみなしている」「大国の方が、政府はより多くの一般的理念を掲げ、先例の繰り返しや地域の利己主義から容易に脱する。その構想には一層の閃きがあり、行動はより大胆である」と述べて、アメリカの大国性に注目しているのである。
 たしかに大統領の問題とは、アメリカのように広大な大国に特有なダイナミズムをどう考えるかにあるのであろう。大統領選挙を勝ち抜いた大統領が「自分を自分以上のものに高め」たかのように幻想し、人びとも「想像上の平等」のなかで、大統領が巨大な人格であり、自分がその一部であるかのように幻想する。そこで大統領の元首としての姿が国民の群集心理の共鳴板として大きな意味をもつことは疑いない。
 神学者のカール・バルトは、その『ローマ書講解』において、政治的な行為のすべてに潜むこのような幻想を「巨人主義」と名付けている。私は、このようなアメリカ大統領制のもつダイナミズムのすべてを、頭から拒否するべきものであるとは考えないが、しかし、それがそのままでは、やはり一つの病であることは疑いない。人間が他の人を飛び越えて一人巨人になれると考えることは神を蔑することである。それを拒否するためには、やはりアメリカの歴史における現実の大統領の行動を具体的に知って歴史的な省察を深めることであり、またアメリカの政治学者が熱心に主張しているようにアメリカ大統領制を世界の政治制度のなかで客観的に考えることであろう。こういう問題での単純なアメリカ第一主義はすでに許されるものではない。
 それを確認した上で、ここで紹介しておきたいのは、政治学のロバート・ダールが、その『アメリカ憲法は民主的か』という著作で述べた次のような感想である。
「子供時代に、私たちは大統領をその偉大さゆえに崇拝することを教わります。そして、大人になると、神話的な前任者たちのような偉大さを達成していないと、大統領をあざけるのです。大統領への両義的な見方は、アメリカ文化に深く根付いているものです。他の発達した民主国家の政治システムと比べると、私たちのシステムは最も不透明で複雑で混乱を起こしやすく理解困難なものであるという気がします。私たちは大統領制の神話的な側面にあまりに深く浸っているので、政治体制が崩壊でもしないかぎり、大統領制を変えようと真剣に考慮することはないでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、私たちアメリカ人は大統領制と一体なのです」
 私たちは、ダールのようなアメリカ政治学界の長老が、このように冷静にして痛切な感じ方をもっていることをふまえて、過不足なく大統領制についての思考を深めていきたいものである。

2016年8月12日 (金)

左翼と右翼ということについて

 私は「保守と革新」ではなく、「保守と進歩」という枠組で物ごとを考えたい。「革新」という用語は曖昧な性格をもっていて(『平安時代』で書いた)、できれば使いたくない。そして「保守と進歩(あるはもっと端的に前進というのがいいかもしれない)」の双方が必要であることは、conservativeとprogressiveと言い直せば明瞭である。歴史家は、現実の仕事としては、どちらかといえば直接には保守conservativeの仕事であるというほかない」と考えている。

 これは「左翼・右翼」という言葉の見直しにも関わってくる。この言葉は、フランス革命の時代の議場の座席から来た言葉であることはよく知られている。この「左翼・右翼」という用語も曖昧な言葉であって、そろそろ退場させた方がよいのではないだろうか。

 もちろん、一般には、左翼が進歩に結びつき、右翼が保守に結びつくということではある。しかし、現実には、問題はそんなに単純ではない。左翼・右翼というのは、ようするに「現在」に対する態度であって、「過去と未来」をふくむ「時間」には関わらない言葉である。それが「左翼・右翼」という空間に関わる表現をもっていることは、それが現在への態度を強く問う姿勢の位置を示す言葉である事情をよく示している。それはいわば「空間」に関わる言葉、自己の場所取りに関わる言葉なのである。そして左翼と右翼というのは、相互の論争を中心に組み立てられた言葉である。それは直接には現在の捉え方の論争であって、その場合、両者とも、自己を「現在」の支配的価値感情からは離れた位置に場所をとる。そういう位置からは過去も未来も直線的なものにみえてくる。よくいわゆるマルクス主義は単調な発展史観であるというが、マルクスの歴史学はそのようなものではないと思うが、しかし、「近代的な歴史観」というものがあるとすれば、たしかにそれは単調な発展史観であって、その典型がロストーなどのアメリカ流の近代化論であることは歴史学者にはよく知られていることである。

 そして、このような現在に集中する意識は19世紀・20世紀に特徴的なものではないかと思う。その意味で、左翼・右翼というのはもっとも「近代的」な言葉であって、私は安易な近代拒否には賛成しないが、しかし、この「左翼・右翼」というのは、一種の近代主義であって使用を止めたいと考えている。

 つまり左翼も右翼も社会の現状に対して突出した位置取りをする。そこには社会の現状に対する強い批判(あるいは憤懣)がかならず含まれる。その憤懣の方向が違うために、左翼・右翼の感情的な対立が生まれる。

 「左翼」は、この社会の現状批判において「知性中心主義」をとる。その知性の中身が本当に客観的なものかどうかは別として、「左翼」というものは、とかく理屈が先行するもの、「角がたつ」ものである。これに対して「右翼」の論理は「分かったようなことをいうな」という経験主義であって、熟知した共同的感情をなによりも重視する心意に立つ。その極点がナショナリズムにいく訳である。

 私は、こういう左翼・右翼という心理は、それ自体としては双方にそれなりの社会的根拠があるのではないかという考え方である。もちろん、私は学者なので、第一に知性を重視することを隠そうとは思わない。知性というのが気取っているというなら、いなおった言い方をすると、どうせ角が立つ人間であって、角を立てることを職能にしているという意味では「左翼」的心情に近いということができるだろう。学者は知性の立場に立って、社会から自立し、それに対して批判を貫き、「理屈」で「角をたてる」のがその職能的な役割である。

 批判を第一にしない学問などというのは、(それ自体の価値は別として)社会的な意味は極小になる。しかし、だからといって、共同的感情と了解可能な感覚というものをやはり重視することには変わりない。しばしば「右翼」は「左翼」的なエスタブリッシュメントに対する反感を基盤として生まれる感情であって、これは私は十分に理由があると思う。

 しかし問題は、日本のような社会で歴史学者をやっていると「右翼」であるというのはむずかしいということにある。つまり寺山修司ではないが、「身捨つるほどの祖国はありや」というのが、日本の「民族」の状況である。アジア太平洋戦争の経過からしても、また日本の戦後の支配政党(自民党)がアメリカべったりで「買弁」的、「売国」的な姿勢をとっている関係からいっても、日本には普通の右翼というものが成立する条件がほとんどといっていいほど存在しない。安倍政権の動きなどは、その矛盾に突き動かされているのだろう。それにも関わらず、アメリカ一辺倒なところはまったく変わらないから、歴史家からみると無知の骨頂で喜劇的なものにみえる。

 こういうなかで、歴史学者は、いわば「保守的左翼」という立場をとるのが普通になっていくのではないかと思う。問題は、その場合に共同的な感情性というものが、実際には取りにくくなることである。感情がゼクテ、セクト的な感情でしかなくなってしまう危険である。そうであってはならないだろう。

 そもそも、右にふれた「現在の支配的価値感情」が二重底になっている状況、つまり現状の社会意識のきわめて複雑な状況そのものを相対化することこそが第一であって、古い言い方をすれば「右も左も我が祖国」というのが歴史家としては必要な心がまえだろうと思う。ようするに左翼・右翼という二項対立的な図式で、自分の立場を表現することはできないのである。「左翼・右翼」という19世紀的な分類法は意味を失っているのではないだろうか。少なくともそういう風に問題をみたくないと思う。

2016年7月12日 (火)

土曜日に東大の本郷で、九世紀の肥後地震について講演します。

今週土曜日に東大の本郷で講演します。15時から18時です。法文1号館215教室

詳細はhttp://www.sus-humanities.l.u-tokyo.ac.jp/etc/20160716_leaflet.pdf
下記に貼り付けましたが、見えるかどうか。

 「地震古記録にサステナビリティを学ぶ」というテーマで、私は「八・九世紀の肥後地震と大地動乱の時代」というテーマです。

 都司嘉宣先生は(前東京大学地震研究所)は「過去の大地震のたびごとに現れた機転の英雄たちに学ぶ」というテーマです。

 参加無料。どなたでもご参加いただけます。ということです。

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2016年7月 9日 (土)

サンダースと連邦銀行議長グリーンスパンとの論争

 サンダースは、連邦議会議員となったときから、その鋭く熱い質問や演説は有名で、「民主的社会主義者」を自称していたこともあって、一種の名物議員であった。

 もっとも有名なのは、連邦銀行(Federal Reserve Bank, FRB)理事会の議長アラン・グリーンスパンとの論争であった(下記に引用したユーチューブは聞き物である)。

 二〇〇七年、M・レイボヴィヒは『ニューヨークタイムズ・マガジン』(JAN. 21)にサンダースの活動を追った記事を書いているが、グリーンスパンが委員会にくるたびに繰り返された、激しいやりとりは有名でいつも傍聴者が増えたという。グリーンスパンは一九八七年にレーガンによって連邦銀行(Federal Reserve Bank, FRB)理事会議長に選任されて以降、ブッシュ(父)、B・クリントン、ブッシュ(子)の四人の大統領の下で、二八年のあいだ連任し、「金融の神様」などといわれた人物である。民主党からも共和党からも議会で正面から批判を受けることはなかった。躊躇しなかったのは、唯一、サンダースだけで、サンダースは、一九九九年以降、議会で何度もグリーンスパンを追求し、「あなたは我々の国の中流や働く人びとの方をむかず、強大な企業の利害を代表してばかりいる。億万長者のカクテルパーティの方ばかり見るな。あなたは数千万の労働者が侮辱している。中流階級の崩壊、巨大な格差、普通の家庭からは大学にもいけない。これはあなたの時代に起きたことだ。それにも関わらず経済はよくなっているというのか。最低賃金を抑え、飢餓賃金を強制し、億万長者には減税、一体何をやっているのか」と激しい口調で論難した。その様子をビデオでみていると、サンダースがずっと同じことを主張しつづけていたことがよくわかる。「あなたが正直な人間であることは知っているが、現実世界で何が起きているかを知らない」という口調はほとんど叱責に近いものである(https://www.youtube.com/watch?v=WJaW32ZTyKE)。

 グリーンスパンが長く連邦銀行の議長をつとめたのは、実際には金融状況の判断力が正しいというのではなく、その篤実な人柄と常識判断によるところが多かったとはいえ、一時「マエストロ」の域にあると神秘化されたグリーンスパンを正面から批判するサンダースの政治家としての資質は相当のものである。

 サンダースの批判にもかかわらず、グリーンスパンはそのウォール街優遇や最低賃金の抑圧方針をかえず、金融緩和の単調な方針をとり続けた。しかし、結局、住宅不良債権の焦げ付きに発する二〇〇八年のリーマンショックの後、自己の誤りを認めるところに追い込まれた。議会で「あなたのイデオロギーがまずかったのではないか」と詰められ、「私のイデオロギーに欠陥があった。それがどの程度の意味をもち取り戻せないものかはまだわからないとしても、非常に苦しんでいる」といったのである。そして、当時、これはサンダースの勝利を意味するという見方がささやかれた。


 さて、グリーンスパンは、いわゆるマネタリストの立場を象徴する人物であった。彼の権威が地に落ちたのは、マネタリズム学説の象徴となったのであるが、マネタリズム(貨幣至上主義)とはミルトン・フリードマンを中心とする学派で、一二二九年の世界大恐慌の後にアメリカ経済学界を支配したケインズ派経済学を批判する立場をとって、一九六〇年代ごろから徐々に影響力を強めていた。それが、レーガン(在位一九八一~八八)の大統領府において全面的に採用されたのである。

 この時期のアメリカは自信にあふれていた。レーガンの下で、アメリカとソ連の軍拡競争はアメリカの勝利におわり、グローバル資本主義は、ソ連の社会全体主義の凋落とともに世界市場を制覇した。それとともに、労働力も商品の買い方・売り方は資本の「自由」、どのようなものであろうとその規制は「悪」であって、すべて自己責任にゆだねるべきだという「新自由主義」イデオロギーが猛威を振るった。その主張は、公共の福祉の立場から行われる公営企業を民営化し、経済への行政的関与を「規制」と称して排除し、さらには医療・教育などをふくむ人びとの生活に関わる公共財も市場化し、労働力契約においてまでもも正規雇用や最低賃金制を崩そうというものであった。

 「市場は自由な競争が行われるべき場である」ということ自体は、市場経済にとっての当然の常識である。しかし、これが「新自由主義」といわれたのは、その主張が市場原理主義ともいうべき立場に突き抜けているからであった(最初は貶称であった。中岡)。そして、この「新自由主義」を経済学の側で推進したのがマネタリスト学派(貨幣至上主義)であった。この学派は一九世紀末期のヨーロッパ、オーストリアのメンガー、スイスのワルラスなどにさかのぼる。メンガーらの学説は「新古典派」などとと呼ばれるが、ようするにアダム・スミスやマルクスの生産価値説に対して「主観的価値説」を主張して、人間の側のある財への欲求の増大・減少の量的変化を数学的に仮定すれば財の「効用」を決めることができ、そこから経済の動きを予測できるというものであった。
 この「新古典派」はヨーロッパよりもアメリカでもてはやされた。それを代表するのが、アーヴィング・フィッシャーであって、彼は「新古典派」の見解を前提として、得意な数学を生かして貨幣数量説を発展させ、貨幣の流通速度は制度的・行政的条件のみに依存して決めることができ、それは実態的な経済諸条件とは切れた関係にあると論じた。逆にいうと、社会に流通している貨幣の総量を規制することによって物価の水準の安定をはかることが可能であるという訳で、このような議論をマネタリズムというのである。

 結局、マネタリストの学説とは、政府の経済政策は原則として貨幣供給量の操作と金融政策だけに限定されるべきだという貨幣至上主義、金融至上主義である。経済学の仕事を貨幣・金融操作だけに限定するというのは、端的にいえば実体経済の動きを追認し、資本の要求通りに「規制緩和」をすれば経済はまわっていくというイデオロギーに過ぎなかったというほかない。
 ユーチューブをみていると、リーマンショック後のグリーンスパンは真面目な人だけにショックは強かったようだ。 しかし、個人はどうあれ、客観的には、ようするにマネタリズムとは無能と不作為の弁明、あるいは金融業の実務を合理化し、自己納得するための説明者にすぎない。アメリカ特有の実務学問である。

2016年7月 7日 (木)

最近の九州地方、朝鮮半島の地震とトカラ列島の小カルデラ

 7月1日に伊予灘でM4,3地震、7月4日にトカラ諸島近海で最大M4,3の連続地震が発生し、7月5日に朝鮮半島南部でM4.9の地震が発生した。

 色々なことを考えた。これまで歴史地震学では東北・関東・東海・信越、紀伊・高知に注目することは多かったが、九州への注目が不足であったように思う。歴史家には、地震の発生について具体的な予測をすることは任ではないが、しかし、一般的な意味での「予知」、歴史的知識の提供のレヴェルでの「予知」は一つの役割であろうと思う。今のアメリカ論の仕事を早くおえて、地震研究にもどらねばならない。

 足利時代までしか、私の知識はないが、伊予灘については、1180年、高倉院が参詣した時に、厳島で大地震が感知されている。これも伊予灘の地震であったのではないかと考えた。厳島の神は祇園の親戚の地震神なので高倉院にとっては大きな脅威であったろう。1180年代内戦(源平合戦)の時代も地震が多く、政治史に大きな影響をあたえたが(「平安時代末期の地震と龍神信仰」『歴史評論』750)、これは1180年代合戦の不吉な成り行きを示唆するものであったことになるだろう。

 朝鮮半島南部の地震については、9世紀と15世紀に起きた東北沖海溝大地震・大津波の後、どちらの場合も韓半島で地震や火山噴火が活発になっていることが知られる(拙著『歴史のなかの大地動乱』)。また神戸大学の大内徹氏の論文「Korea地域の地震・火山活動と東アジアのテクトニクス」( https://twitter.com/tabisaki/statu/750295474091859969…2002年)では、日本の敗戦のころに起きた東南海地震の前も韓国での地震が活発であったといいます(この大内論文は神戸大学のデータベースから落とせます)。現在が9世紀と15世紀につづく地震活動の活発期であるとすると、朝鮮半島の地震は注目すべきことだと思う。

 歴史地震学からみると、韓国の地震は日本の地震が南海トラフ地震を中心にした活動期に入ったことの証拠であると考えています。これは現在における日本と韓国の関係を考えていく上でも重要なことである。ようするに、地震には国境はないということがよくわかるように思う。


 これらは、これまで考えたことのある範囲の問題であったが、7月4日のトカラ諸島近海の連続地震には驚いた。海上保安庁は平成25年4月から5月にかけて鹿児島県奄美大島北方海域において海底地形調査を実施し、海底火山の詳細な地形データを得たという(「トカラ列島で発見された海底火山について」(http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/CCPVE/Report/115/kaiho_115_37.pdf)(図は同論文から)
Tokarakarudera


 それによれば、そこに小規模なカルデラ地形が発見できたということであって、このカルデラ地形が、まさに今回の地震の中心部にあたるのである。

 4月の熊本地震が昨年11月の沖縄トラフ北端の海底地震以降の、この地域のプレートの動きに関わる地震であるというのは、新妻信明氏のページで指摘されているが(http://www.niitsuma-geolab.net/)に記録されているが、このトカラ小カルデラの地震は、その一部であろう。

 別府島原構造線から沖縄トラフ、そして日向までの全体の変化がいつかは地震学・火山学の力でみれるようになるのだと思うし、それは国民の共通的な常識にならねばならないと思うが、想起したのは、9世紀、869年の肥後地震の5年後に薩摩開聞岳の噴火があったことである。肥後地震については、最近、このブログで記した(ただし869年肥後地震の規模は私は大きかったと思うが、地震学からはI先生をふくめ賛同が得られていない)。5年後の開聞岳の噴火については、2011年の下記の記事を採録しておく。


地震火山40「火山ガスの飛散と放射能」2011年8月7日
 火山学の早川由起夫氏が、火山灰の飛散ルートの予測の技法を使って、放射能マップを作ってオープンしている。火山灰の拡散と放射能粒の拡散は同じ流体力学の法則にしたがうから、火山学の知識を応用可能であるというのに驚く。早川さんには八・九世紀の「大地動乱」をどう考えるかについて今村明恒の見解に疑義を提示した、私の見解からすると十分に検討せざるをえない重要な論文があって、それでお名前を知っていた。
 八・九世紀の噴火によって発生した火山灰の飛散を示す史料のうち、興味深いわりに、これまで注目されてないように思うのは、八八五年(仁和一)の薩摩国開聞岳の噴火と、翌八八六年(仁和二)の伊豆新島の噴火であろう。
 まず前者は、七月一二日夜と八月一一日、二回にわたっておきたもので、七月の噴火では、肥前国まで「粉土・屑砂」交じりの雨が降下し、水田・陸田の苗や草木に降り積もって、植物がいっせいに枯死直前にまでいったという。幸いに、大雨が降って、「塵砂」を洗い流したために、枯苗が再生したというが、薩摩と肥前の間の肥後国をふくめれば、相当の被害がでたことは確実であろう。とくに薩摩国では、火山灰降下が続き、八月には、砂や石が地面に五六寸から一尺ほどの厚さで降り積もり、田野が埋没して大騒ぎとなったという。七月・八月は、水田稲作にとって重要な季節であるだけでなく、養蚕や麻の収穫の季節でもあるから、「蚕・麻・穀」の損耗はきわめて大きかったという。
 翌年、八八六年(仁和二)五月二四日の伊豆新島の噴火では、噴火の翌々日、五月二六日に、安房國から「砂石・粉土」が広範囲にふり、ある場所では「二三寸」も積もり、水での苗や、山野の草木が一斉にかれてしまったという。これは伊豆から西風にのって房総半島に降下する火山灰が顕著であったということであろう。注目すべきなのは、それらの草をたべた馬や牛が多数、ばたばたと倒れ死んだということで、これは降下した火山灰、「粉土」に、火山ガスの有毒成分に共通する物質がふくまれていたということを示す珍しい史料であるといえる。地質学的には、これをどういう成分と考えることができるだろう。江戸時代などには、同様の史料があるのだろうか。

 さて、長い目でみれば、噴火は日本の自然の中では避けることができないから、こういう記録も、その地域に住む人にとっては重要な知識になるのかもしれない。小学校・中学校の頃から教えてよいことだと思う。火山についての概説をするよりも、教材として実際的だろう。
 興味があるのは、このように噴火は甚大な被害をもたらすものとして恐れられたのであるが、それが、被害不可思議な現象として「恠異」としてとらえられたことである。
 火山灰降下が「恠異」である事情は、神祗官が、右にふれた八八五年(仁和一)の開聞岳噴火を「粉土の恠、明春、彼国に、まさに災疫あるべし」と占ったということに現れている。これは広汎な火山灰の降下は疫病の直接的な原因となるという判断を前提にしているのではないだろうか。そして、翌年の伊豆諸島噴火でも、火山灰が苗・草木を枯らし、それらにおおわれた草を食べた馬牛が中毒死したことを、陰陽寮が「鬼気の御靈、忿怒して祟りをなす」、つまり悪霊が怒って祟りをしたのだと解釈し、疫病の流行を予言しているのも同じことであろう。
 これは、噴火が「奇怪」「恠異」であるという場合には、農業被害をはじめとするさまざまな生産活動に対する被害のみでなく、人畜の身体に対する直接の被害の位置への恐れが内在していたということを示している。
 永原慶二『富士山宝永大爆発』(三〇頁)が紹介しているように、新井白石の『折りたく柴の記』には一七〇七年(宝永四)富士の大噴火が、江戸の人々の間に咳病をはやらせたという記録が残っている。これは、江戸時代のみではなく、つねに起こる可能性のあることであったということができるだろう。
 火山噴火への恐れは、単に物質的な被害というだけではなく、神秘的な恐れ、「祟」への恐れがふくまれている理由は、ここら辺にあるのかもしれない。「祟り」という観念は、火山ガスや火山灰の有毒性が目に見えないことによって倍加されたに違いない。これは占いや呪術という形式をとった知識がともかくも「見えないものをみえるようにした」のである。

 私などの立場からすると、原発に「安全神話」があったというのは、言葉の使い方として、とても了解できない。神話というのは、神話の時代には、知識と経験の形式である。もちろん、神話は呪術と迷信を内部にふくんでいるが、それは一つの世界観であり、知識体系をなしている。そしてそれによって、ともかくも「みえないものがみえるようになる」のである。
 しかし、原発の「安全神話」というのは、「見えているものを見えなくする」ためのさまざまな操作である。そういうものは神話とはいわない。見えているものを見えなくするのは詐偽であって、神話ではない。「安全宣伝」というべきもの。多額な広告料によるマスコミの買収、危険を指摘する研究者への抑圧、「公共事業」の名のもとでの税金から詐取その他その他。実際にそういうことがあったことが多くの人々の目にふれてしまった。ようするにこれは、社会の中枢で権限を握っている人々による半意識的な詐欺行為である。それがなかば虚偽であることを心の片隅では知りながら自己呪縛する。これがシステムとしてあるのが怖い。

 詐欺罪を詐欺罪としてあつかえないのは、現代の日本社会には、「罪」という価値基準がないためである。日本社会は、「中枢の人々が失敗するのをみている社会」、それによって社会をイノヴェートするという戦術で庶民がやってきた社会であるというのは、内田樹『武道的思考』(284頁)の至言であるが、これは今回は、ことがことだけに通用しない困った戦術である。
 あまりに当然のことであるが、「罪」を正面からとらえる目がなければ「倫理」もない。

 「神話」というものは本質的には作ることができるものではないと思う。大学時代には羽仁五郎の神話論を正しいものとして読んだが、あれはやはりまずいと思う。ただ、神話も、その時代の社会的な利害対立を反映していることは確実である。そして、歴史学にとっては、そういう大塚先生がいう意味での「利害状況」を神話の中に読み込むのがもっとも困難な課題である。こういうものをどのようにして教育の素材としたらよいのであろう。昨年から、時間ができたら、益田勝実氏の神話教育論を読んで点検しようとしているが、時間がないままに過ぎている。この夏も駄目だろう。

2016年7月 5日 (火)

アメリカにおける労働の変容、ロバート・ライシュと中谷巌ーーネグリの『帝国』をどうよむか(2)

シンボル労働・ルーティン労働・インパースン(対人)労働

  一九八〇年代、アメリカとソ連の軍拡競争はアメリカ大統領レーガンの勝利におわり、グローバル資本主義は、ソ連の社会全体主義の凋落とともに世界市場を制覇した。問題は、それとともに、労働力も商品の買い方・売り方は資本の「自由」、どのようなものであろうとその規制は「悪」であって、すべて自己責任にゆだねるべきだというイデオロギーが猛威を振るったことである。それが「市場は自由な競争が行われるべき場である」という市場経済にとっての当然の常識を越える市場原理主義であった。そのためこのイデオロギーは「新自由主義」と呼ばれたのであるが、その主張は、公共の福祉の立場から行われる公営企業を民営化し、経済への行政的関与を「規制」と称して排除し、さらには医療・教育などをふくむ人びとの生活に関わる公共財も市場化し、労働力契約においてまでもも正規雇用や最低賃金制を崩そうというものであった。

 これを推進したミルトン・フリードマンなどのマネタリスト学派(貨幣至上主義)は一九六〇年代ごろから徐々に影響力を強めていたが、それが、この時期、レーガン(在位一九八一~八八)の大統領府において全面的に採用されたのである。マネタリスト学派というのはようするに市場原理主義をさらにつきつめたもので、政府のやることは貨幣供給量の操作だけに限定すべきだという貨幣至上主義である。そもそもケインズ経済学は恐慌と失業への対処を中心に組み立てられたものであるが、この時期のアメリカは恐慌も失業も恐れるに足らないという自信にあふれていた。

 しかし、経済学の仕事を貨幣供給量の操作だけに限定するというのはようするに無能の証明である。批判は急速で、そのようななかで二〇〇〇年に出版されたマルクシアンであるネグリの『帝国』がよく読まれるという現象が発生した。興味深いのは、日本では、日本の経済学者のなかで、新自由主義の旗を振った中心であった一橋大学の中谷巌が、二〇〇六年、それまでの主張を撤回して『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)という著作を出したことであった。そもそも中谷はハーバードに学び、日本政府の経済政策立案でもっとも大きな役割を果たした人物である。それだけに中谷が本書を「懺悔の書」と銘打ち、グローバル資本主義は「モンスター」であり、人間同士の社会的つながりやかけがえのないお自然環境を利潤のためには犠牲にして恥じない「危険思想」であるとまで述べたのだから、これは大きな衝撃をよんだ。

 世界の経済学の動向は、この時を前後して完全に潮目が変わったということができるが、経済学の内側でそのような転換のもっとも大きな前提を作ったのは、おそらくアメリカの歴史経済学者ロバート・ライシュであったろう。彼は一九九〇年に出版した『諸国民の労働』という著作で、グローバル資本主義に突進したアメリカのなかで「労働」の全システムが、どのように変容しているかということを詳細に明らかにした。本書執筆後、彼がビル・クリントン政権で労働長官をつとめたこともあって、その影響は大きかった。実は右の中谷は『諸国民の労働』の日本語版の訳者であって、中谷は、その懺悔の書でもライシュの仕事に依拠してグローバル資本主義を批判する立場に進み出ているのである。

 グローバル資本主義が資本主義の新しい段階である以上、その根底に労働の在り方の変化があることは明らかであった。ライシュは、その基本に注目して、グローバル資本主義のモンスターのような在り方に対応してアメリカでうまれた象徴アナリスト(symbolic anarysist)というべき労働の類型を抽出したのである。

 それによれば、彼らは「株式市場の相場からハリウッドやマディソン・アーヴェニューから生み出される視覚イメージにいたる広範囲な抽象的な概念とシンボルの世界に生き、シンボル情報の解釈を専門にする人びと」であるという。つまり研究科学者、設計技術者、ソフトウェア工学者などから、公共関係専門家、法律家、銀行家や様々なコンサルタント、ヘッド・ハンター、マーケティング戦略家からジャーナリスト・映像プロデューサー、さらには大学教授まで、そこには実に多様な職種が含まれるが、彼らは必ずしも専門家であることを要しない。彼らは知的資本を売る人々であって、知識や専門性は高所得を得るために必要なことではなくなった。価値があるのは臨機のアイデアと執拗さであって、そのキャリアや収入は多様で安定しないが、偶然のきっかけからブレークすることがあり、成功者は世界的な組織網を作り出す。もっとも儲かるのは金融関係と法律事務所であり、彼らは多くの場合、一人または少人数のチームで働き、ディスプレイの向こう側の半透明の舞台に意識と感覚をとぎすませている。ライシュの計算では彼らの人口はアメリカの労働人口の二〇パーセント近くを占めるという。

 複雑に発達した世界的な経済過程を俯瞰して戦略をたて、問題を発見し、それを解いていくためには、こういう一見関係ないような分野の大量の人びとの個性を組み上げて、柔軟な発想と執拗な思考を準備しておくことが決定的である。それによって資源の有効な活用、金融資産の移動、時間やエネルギーの節約、そして新しい発見――新技術、革新的法律解釈、斬新な広告手法などがもたらされるのであって、そうして始めて言語から音・映像を動員して人びとの心身を虜にすることが可能になる。彼らはシンボル記号(データ、言語、音声、さらには映像)を操作するのであるが、それが人びとの心身を捉えるためには、自分自身のシンボルへの感性を高め、ある意味では自分自身をシンボルとしなければならない。ライシュのいうシンボリックな労働、シンボルワークとは、シンボルを操作すると同時に、新しいシンボル記号を作り出しあふれ出させるような創造的で劇的な労働である。

 以下、象徴アナリストというのは表記として熟さないので、シンボルワーク(記号仕事)、シンボルワーカーなどの用語を使うこととするが、ここにあるのは新しい労働の体系なのであって、ライシュは「アメリカ人の職業に何が起こっているか」という問題意識のもとに調査・研究と面談を重ね、このような記号仕事の肥大化によって、他の労働が単調なルーティン労働か、インパースン労働(対人労働)分類されるようになったことを明らかにした。

 それによると、現代のルーティン労働の大きな特徴は多くの情報処理労役が入り込んでいることである。右にいう象徴的な労働は自分自身を演者とするのに対して、このルーティン労働はそれとはまったく逆に機械に埋め込まれたプログラムに意識を支配される労働であり、あるいは記号や象徴をマニュアル通りに単純処理する労働である。シンボル労働は個室でゆっくり働くのに対して、ルーティン労働は大部屋の中での孤独な労働である。なによりも象徴的労働の視点からは創造的な仕事にみえる情報で結ばれた世界経済は、実際には、単純作業にしたがう歩兵部隊が、アカウントの管理、クレジット・カードの購入や支払い、顧客への通信、苦情処理などなど、膨大なデータの入力・校正・管理とそれにともなう事務仕事をこなすことなくして存在しないのである。このような象徴と記号に使われるルーティン労働はアメリカの労働人口の四分の一に達するという。

 それに対して、もう一つのインパースン・サービス(接人労働)とは、銀行の窓口係、店員、スチュワーデスやタクシー運転手などの接客サービス、商品の設置・修理・整備やアフターサービスに関わる人びと、守衛、病人や老人ホームや託児所の労働者などの様々な対人サーヴィスに従事する人びとである。インパースン(imperson)のim-は否定の接頭辞だからパーソナルでない、非個人的、非人称的という意味だが、そこから転じて多数の人と個人としてでなく付き合う、つまり仮面・扮装というニュアンスになる。マクドナルドのマニュアルによる接客のイメージである。これによってアメリカではチップなしの愛想というものが広がった。それも労賃の一部であるという訳である。もちろん、いま急増している私的な警察要員や私設刑務所職員などの場合は非個人的な脅威こそがインパースン・サービスということになる。ライシュの調査では、この分野で働く人はアメリカの労働人口の三〇パーセントにあたり、なお増加傾向にあるという。

 英語では、WorkとLabourは明瞭に区別された言葉である*2。一人の個人をとってもWORKは「労働」のうちの「働く」という側面、つまり目的を立てて心身を働かせる仕事=WORKの側面(目的意識的な有用労働の側面)を示し、Labourは「労働」のうちのPainstakingな「労」の側面、心身の力の没入と消耗の側面(抽象的な生理的労働、筋肉労働・神経労働の側面)を示している。かって内田義彦は「マルクスは、目的定立をし、自分の目的に従って労働の過程を指揮する営みを精神労働、それに従って神経や筋肉を動かす仕事を肉体労働と名づけています」(『資本論の世界』岩波新書)と述べたが、前者の自分で労働過程を指揮する精神労働的な面がWorkであって、それに従って神経や筋肉を動かす面がLabourはであるということができる。この観点からいうと、この三つの労働分類のうち、シンボルワーカーの記号仕事はWORKを代表し、それに対してルーティン労働と対人労働はLabourの側面を示すということになるだろう。本来は、個人の労働のなかで一緒に動いているWorkとLabourが、別々の集団の労働の特徴として現れている訳である。しかも、このような労働の区別が、一九六〇年代から一九八〇年代というきわめて短い時間の間にアメリカ資本主義の情報化のなかで急速に形成されたことに注意しなければならない。ここでは象徴労働が巨大な情報ネットワークとコンピュータの力にささえられて、労働の目的意識性や精神性を集中してしまい、他の労働からそれを剥奪して、狭い意味でのLabourに追い込んでしまったのである。アメリカ社会の現状では、それはすでになかば社会的な身分であるかのようになっている。

2016年7月 1日 (金)

グローバル経済と超帝国主義ーネグリの『帝国』をどう読むか

 ネグリの『帝国』をどう読むかを先週から考えている。ハーバートからでた『帝国』はさすがに私などには面白い。アメリカの学界が歓迎し、一時非常にはやった理由もわかるような気がする。

 例によって時季はずれだが、私自身の仕事との関係では、私は8世紀までは日本列島上の国家は「民族複合国家」であると考えているので、帝国が人種的区分を重要な要素としているという『帝国』の議論が面白いのである。訳本の247頁は歴史理論でつかえると思う。

 しかし、木畑洋一氏の『20世紀の歴史』(岩波新書)はネグリへの評価が低い。また柄谷行人氏の『世界史の構造』でも評価が低い。私も、下記のように批判はあるのだが、ネグリの議論の開拓者としての位置はあるのではないかと思う。

 下記が一応の総論のようなもので、批判が表にでるが使えるところは他にもあると思う。

 アメリカは民族複合国家であって、国民国家であったことはない。アメリカ帝国は「国民国家」として帝国であったことはないのである。アメリカが世界の帝国的な構造の中枢にいることは明らかだが、その帝国的な構造それ自体はアメリカをふくめた個別の国家を超えて、むしろ国家と国家の隙間の時空に広がっているもので、それは二〇世紀前半までの帝国主義とは異なるもの、いわば超帝国主義というべき実態をもっている。

 経済のグローバル化ということは、たとえばアメリカ・ヨーロッパ・日本などの経済が世界経済をグローバルに動かしているということではない。そこではすでに個別の国家が単位ではなく、経済活動を動かす主体自身が国際資本そのものとなっている。多国籍企業というのは、国籍を前提とした表現だが、資本はそれ自身は国籍を意識しておらず、それを超越する場、「国」と「国」の境界領域を自分たちの棲処にしている。

 こういうグローバル経済の在り方を超帝国主義と名づけるのは、それが個々の国の「帝国主義」を超える存在だからである。それはよく知られた二〇世紀後半の資本主義の情報化にともなって成立したものであって、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』が指摘したように、アメリカのように巨大な国家も、国家として現代の「帝国」=「超帝国主義」を統御している訳ではない。ネグリの言い方では、「帝国」は「権力の領域的な中心」をもたない。「帝国」はグローバルな領域の全体、その隅々にまで宿っている。「帝国」の主権の空間はグローバルに均質で滑らかであって、そういう平滑空間のなかには「権力の場所」は存在しないということになる。

 私は、このような世界資本主義の状況を「超帝国主義」という言葉で表現することができると考える。ネグリの「帝国」論には、以下に述べるような色々な問題がはらまれているが、しかし、それは超帝国主義の特徴をよく捉えたものとして画期的な意味をもっていると思う。しかし、問題は、だからといって、アメリカのような個別の国家が「帝国主義」でなくなったと結論していいのかどうかということである。私はそんなことはないと思う。ネグリのいう「帝国」=私のいう「超帝国主義」と個別の国家世界は別のレヴェルの存在なのであって、ネグリのようにすべてを「帝国」という言葉で一括してしまえば、その「帝国」が実際には複雑な構造をもっていることが見逃されてしまう。

 「帝国」=超帝国主義の側からみれば、たしかにその空間はグローバルに均質で滑らかにみえて、外側をもたずに閉じているようにみえる。しかし、その空間は透明ではあっても無色であるという訳ではない。「帝国」が国家の境界領域から発生した以上、そこには異なる出所を示す各国の国旗の青・赤・白・黄色など色の母斑が残っており、それが混じり合い、急速に動き回っているために無色・透明にみえるにすぎない。たしかに超帝国主義こそが世界的主体=主権を掌握していることはネグリのいう通りの事実であって、その前提となった個別の国家の帝国主義は表面から退いている。しかし、注意すべきことは決してそれ自身が消滅した訳ではないことである。それは論理的な筋を通すということを重視するあまり、ネグリの目から外れてしまったことだが、ネグリ自身もグローバル経済の主体=主権の位置にある「帝国」を「一つの筋に貫かれ統合された国家的であると同時に超国家的な支配組織」と説明しているように、「帝国」は、その下部に存在する複数の帝国主義的あるいは軍国主義的な国家を動かす筋を確保しているのである。そういう複数の帝国主義が実際にはいまだに実態としては強固に生き延びているという側面からいえば、「帝国」の下位空間には歴史家の栗田禎子がサミール・アミーンの提言にもとづいて議論を進めている「集団的帝国主義」というべきもの実在しているのである。歴史学としては帝国主義的なシステムが、世界的な資本主義の情報化のなかで、現在、ネグリのいう「帝国」が主権を握る方向に展開しているのだとみた方が、歴史の現実には適合的であると考えるのである。

 なお、ここでいう「超帝国主義」という概念は、二〇世紀初頭、ドイツ社会民主主義の代表であったカール・カウッキーが展開した「超帝国主義」論とは用語は同じでも内容はまったく異なっていることである。カウッキーの「超帝国主義」論は「一九世紀末期における世界全体の植民地分割の終了によって個別の帝国主義は眠り込んで、消滅して国際的な政治経済的な組織体に変身した。そこに「平和」の条件を期待することができる」というものである。それはレーニンの厳しい批判をうけたように、第一次大戦が帝国主義戦争として展開されたことを隠し、「祖国擁護」という名のもとにドイツ社会民主党が戦争協力の道に入っていく上で決定的な役割を果たした。私のいう超帝国主義とは、現代に戦争状況を惹起する根本に位置するものであって、その点でカウッキーとはまったく異なった見地である。この点で、歴史家からいえば信じられないのは、ネグリが、このカウッキーの「超帝国主義」を批判する作業をしていないことであって、それはカウッキー批判は常識だということではすまない問題であろう。ネグリの発想は、「帝国」の成立によって個別国家の帝国主義の持続を無視する点ではカウッキーと類似してくるのである。

 以上、現在の世界資本主義は、グローバルな超帝国主義と強固に生き延びていると数の帝国主義、そしてそれが超帝国主義の主権の下で統合されている国家的であると同時に超国家的な支配組織という複合的な構造をとっているのである。

 グローバル資本主義、超帝国主義の運動する空間は均質、透明・無色にみえて、外側をもたずに閉じているようにみえる。普通の生活者にはみえない世界である。そもそも生活者には経済の動きそれ自身はいざという時にならないと感知できない。たとえば日本の年金は二〇一四年より積立金の株式運用の率を倍にあげて五〇%としたため、二〇一五年には五兆以上の損失となり、イギリスのEU離脱問題もあって円高株安が予測されるなか、その損失の巨大化が恐れられている。生活者はそれによって年金財政が破綻したとき気がつくが、その時に放漫な方針を決めた政府に責任を取らせたとしても損失は取り戻せない。恐慌も同じことである。
 これに対して、グローバル資本主義に吸着している人びと、国家や民族的な経済の境界領域に棲んでいる特殊な人間は超帝国主義の均質、透明な空間を感知する能力をもっている。彼らはグローバル資本主義という透明な妖怪のような存在に吸着して、この世ならぬ「富」を吸う仕方を心得ている。

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