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2019年3月 3日 (日)

元号についての考え方


 旧暦の意味をしったのは、歴史の資料を読み始めてからのことだった。小島毅『天皇と儒教思想』(二一二頁)がいっているように、日本の歴史意識に残した明治国家の最大の愚行は旧暦を一切追放してしまったことである。たとえば七夕はそのおかげでグレゴリウス暦の七月七日の梅雨真っ最中になってしまった。「銀河のみえない七夕なんて」という状態である。誰もおかしいという人はいないほど明治国家は伝統を破壊したのであるが、これは歴史のためには本当に困る。私のような歴史家の場合も、史料を読むときに頭の中で換算するのだが、もう一つ実感がともなわなくなる。こういう馬鹿なことをやったのは東アジアでは日本だけで、中国・韓国では太陰暦で季節行事は維持している。七夕は旧暦の七夕で梅雨が明けたのちにやるのである。

 明治国家はようするに伝統破壊の「西洋かぶれ」である。それを非市民的な「藩閥国家」がやったというのが悲喜劇。明治国家は自然を破壊するとともに、私たちの内面的自然の中心となる自然観や季節感、時間意識を破壊する地ならしをし、「合理」的にみえる数字で文明開化、陋習排除などといってすべてを押しつぶそうとした。そういう伝統破壊の中で、元号制度の災異改元などの伝統も壊し、一世一元制を導入し、「帝国暦」の下で(王の年齢というスタイルの中で)直線的な時間を作り出そうとした。この一世一元制は暦制・時制の明治国家による全体的改変のなかで評価されねばならず、その中で見ると、元号制においてのみ従来の「形式」を残したものの、その内容はほとんど換骨奪胎され、ここにできたのはホブズボームがいう「近代的な作られた伝統」であったということになる。

 こういう意味でも、元号の「一世一元制」は決して「伝統」ではない。これは幕末の日本的朱子学者が中国の明清帝国の一世一元を理想として、日本でもそれを主張したためである。いわゆる「作られた伝統」であることは歴史学の常識。一九七九年の元号法制化のときに、それを「民俗の伝統」などといったのは極めて無神経であった。
 
 なお、一九七五年(つまり昭和50年)には時の日経連の会長の桜田武氏は「西暦一本化には反対だ。アクセサリとして元号があった方がいい。西暦は一〇〇年単位だが、日本では五〇年ごとに変えるのがいい。五一年からは改元したらどうか。天皇の在位と年号は連結すべきでない」としている。

 ここで西暦一本化というのは、当時の東京電力会長で経済同友会代表幹事をつとめた木川田一隆の発言を意識していたのであろう。木川田氏は皇室典範によって法的な制約がない以上、世界経済との関係でも西暦統一が望ましいとしています。法的な制約がないとは皇室典範による一世一元制が廃止されたということです。元号というのはどうしても天皇と一体的なもので、その一元的使用を法律で決めるというのは、国家機構の時間管理を天皇の時間によって統御するということですから、戦後、皇室典範の元号規定がなくなった以上、こういう意見がでてきたのは当然です。 現在、経済界からはこういう発言は聞かれないが、ようするにレヴェルがおちたのだろう。

 一世一元制の意味は沖縄からみれば明瞭である。
 明治藩閥政府は「琉球処分」に際して琉球王に対し「管内一円に明治の年号を奉じ」と命令した。これは元号が支配権の表現であることを明瞭に示している。一世一元制の法的な強制は、この「琉球処分」を不問にふすものであって歴史に対する無知の表現。沖縄を定点にして歴史をみることこそ常識である。

2019年2月19日 (火)

 『老子』の原文・読み下し・現代語訳を公開することにしました。

 『老子』の原文・読み下し・現代語訳をこのブログで公開することにしました。この記事の最下欄の「老子」という茶色い字にリンクが張ってあります。基本は『現代語訳老子』(ちくま新書)で作成したものですが、さらに読みやすく簡単にしました。部分的に再検討したところもあります。解説は、この本をみてください。

 『老子』を読むようになったのは、東アジアと日本を長い歴史の時間と蓄積された文化のなかで考えるということが極端に減ってきているように思ったからです。これは決してよいこととは考えません。東アジアの共通教養というものはやはりどうしても必要ではないでしょうか。

 現在、東アジアとの文化的断絶、「脱アジア」が進むことによって、日本の文化から何が奪われるのかといえば、最大のものは宗教でしょう。

 まず神道は東アジア全域に広がっていた基底宗教で神話の時代に根をもつものです。そういう東アジアの風土に根ざした基底宗教は、紀元前後、中国で『老子』の影響をうけて道教に展開しました。この道教が朝鮮を通じて、邪馬台国以来、日本に影響をあたえ、六世紀以降、日本で神道というに近いものが生まれました。ただ、道教も神道も哲学あるいは思想として頼ったのはやはり『老子』でした。本居宣長の仕事は、それを『老子』から切り離してあらたな神道神学を作り出そうとしたものであると思いますが、それは平田篤胤によって受け継がれたものの、結局、それを継いだ折口信夫の段階でうまくいかなくなってしまいました。「むすび」の神学です。これはもう一度、伊勢神道の昔にもどって『老子』を再検討するほかないでしょう。実際、『現代語訳 老子』を書く中で、私は『老子』(そして『荘子』)を勉強することが、日本の神話や神道史を根本から理解していく上できわめて大事なことを実感しました。以上のような根っこをなくしてはなりません。

 他方、インドに発した仏教は東南アジア、中国で一度大きく変化した後、日本に圧倒的な影響をあたえました。日本の伝統文化の表側は仏教によって安定していたと思います。東アジア諸国で仏教が衰退した後も日本では仏教が維持され徳川国家はなかば仏教を国教としていたといってよい状況でした。しかし、この状態は決して東アジアと日本の関係における仏教の重大な位置を失わせたわけではありません。日本は仏教を通じて東アジア文化との生き生きとした関係を持ち続けていました。とくに重要なのは、一三世紀以来、日本で禅がきわめて大きな位置を持ったことで、これが日本の文化と宗教が20世紀の世界にもたらしたもっとも大きな事柄であったことはよく知られています。そして、仏教は、そもそも中国で『老子』の思想の普及を前提として、『老子』の思想と相似したものとして受け入れられてきたもので、それがストレートに禅につながっていきました。禅が『老子』の大きな影響を受けていることはよく知られています。私は『老子』を東アジアの普遍教養とすることはこの禅との関係でも大事だと考えています。

 問題は儒教ですが、儒教は基本的に中国の正統国家思想でした。それは奈良時代以来、日本でも同じことでした。そもそも明治維新を領導し、明治国家のイデオロギーの基本を作ったのは儒教です。幕末に流行した水戸学の文献を読めばわかるように、それは儒教そのものでした。明治維新というのは、宗教の面からみれば、徳川国家の国定宗教であった仏教に儒教がとって変わったということです。そして日本の戦前社会で儒教の影響がきわめて大きかったことはご承知の通りです。天皇制国家は天皇は神の子孫であるという皇国史観、国家神道によって作られていましたが、国家神道の中をよくみてみると、その半分以上は、むしろ儒教であったというのが事実です。たとえば「身を立て名を挙げやよ励めよ」という卒業式の歌は儒教経典の『孝経』(第一章開宗明義)の有名な一節、「身体髪膚(しんたいはつぷ)、之(これ)を父母(ふぼ)に受(う)く、敢えて毀傷(きしよう)せざるは、孝の始なり。身を立て道を行い、名を後世に揚げ、もって父母を顯わすは孝の終なり」によるものです。

 明治以降、こういう国家神道は民間の神社を組織していき、神社の側もそれに乗っていったところはありますが、しかし、素朴な神社の伝統と国家神道がきわめて大きな相違をもっていたことは南方熊楠や折口信夫がいう通りです。

 私は現在の段階で儒教のイデオロギーに共感をもつことができません。もちろん、儒教も宋代の朱子学以降、いろいろな要素をもつに至っていますから、それを十把一絡げに拒否することはできませんが、それは学者が研究しておけば基本的にすむことだと感じます。また『論語』はやはり東アジアの古典として自然な知恵を含んでいますが、それは儒教とは厳格に区別すべきものです。むしろ『論語』を読む場合も、『老子』から入って批判的に読んだ方が『論語』の内容も豊かになるのではないでしょうか。いずれにせよ、中国を儒教からのみ見てはならない。『老子』が東アジアの歴史を再考するキーとなることは明らかだと思います。

 さて、現在の日本をめぐる世界をみますと、いよいよ中国とアメリカが太平洋をはさんで大きな面積と人口をもった大陸国家の圧倒的な経済力を発揮する時代に入ったように思います。これが二一世紀の世界情勢の大きな特徴になることは明らかでしょう。他方で、中東からロシアに到る地帯は、きわめて不安定でしかも膨大な犠牲を子供たちにまで強要する時間が長く続いています。これは歴史家からしますと、第一次大戦における火薬庫バルカン半島が圧倒的に拡大し深刻が危機が深まっているようにみえます。ふたたび世界戦争の危機が来ること、偶発事件が何を招くかわからない状態になっていることを正面からみていくほかないように思います。

 とくに心配なのはいうまでもなくアメリカとイスラエルの関係が軍事産業、武器産業(いわゆる「死の商人」、というよりも現在では「死の大工業」というべきもの)の強力なネットワークの中枢にあることです。これがアメリカから太平洋へ、そしてインド洋に伸びる軍事線をなして世界の緊張を生み出しています。この中で 中国とアメリカの対抗が、中央アジアや中東の情勢を激化させるような形に展開すれば、世界大戦を避けられたとしても悲劇はさらに拡大するでしょう。

 私は、こういう中で、東北アジアと東南アジア(ASEAN)の一体化と平和化を進めることがきわめて重要だと考えます。その場合に決定的なのは東アジアでしょう。日本・韓国・中国が世界の中で東アジアの日本・韓国・中国の地域的関係がもっている政治・経済・文化の上での役割を共通に認識していき、きわめて緩いレヴェルではあっても、少なくともASEANと連携しうるようなレヴェルでの連携をもちうれば危機の拡大を押しとどめる上で、その役割は大きいと思います。そのためにはやはり(好むと好まざるに関わらず)共通の文化と教養が必要なのです。

 いうまでもなく、ASEANの動きは世界にとってきわめて有効なものとなっています。しかし、戦争と不安定化が万が一、インドシナ半島やその東まで及び、ASEANの動きが制約されるような事態を招かないための最大の保証はやはり東北アジアと東南アジア(ASEAN)の広域的な連携であると思います。それによってアメリカの動きが乱暴名方向にいかないようにし、アメリカの動きが太平洋ルートでユーラシアを越えるのを制約し、日本が東南アジアとの関係を伸ばしていくことが、結局、大事だと思います。それはいうまでもなく、日本ー沖縄のグートです。

 私は、共通教養というものを考えた方がよいということを考えるようになったのは以上の事情です。今後、21世紀に『老子』がどう読まれるようになるか。東アジア思想がどう読まれるようになるか。世界に何らかの影響をあたえるようになるのか。私には予測はできません。しかし、若干の経験から、『老子』は日本と韓国では抵抗なく広がり、読まれるようになるのではないかと期待できるように感じています。

 問題は中国です。率直にいって、『老子』の思想は現在の中国の擬似的な「社会主義」体制にとっては容認しがたい面があると思います。中国では『老子』は道教と結びついており、それは伝統的に中央国家に対する不満の根となっていました。それは現在でも変わらないのではないかと感じます。

 これは仮にも中国が「社会主義」を称する以上奇妙なことです。私は福永光司氏のように『老子』がアナキズムの書であるとは思いませんが、しかし『老子』が東アジアの諸思想のなかでは民主主義と地方分権、あるいは本来の社会主義にもっとも近い社会思想をもっていることは常識的な事実なのです。その意味では『老子』の社会思想によって「中国社会主義」が問われるのはきわめて自然なことです。もちろん、私にはまったく予測のつかないことではありますが、私は、中国もいずれ『老子』の社会思想を受け入れるようになってほしいものだと思います。なんといっても老子は中国文明のなかでもっとも影響の大きい思想家であり、哲学者なのですから。

 さて、以上が、『老子』を大事だと思った理由の一端ですが、私の現代語訳は『老子』は哲学詩であるという立場から、従来とは相当に変更しました。ただ先行する諸注釈書、福永光司『老子』(朝日選書)、蜂屋邦夫注釈『老子』(岩波文庫)、池田知久『老子ーその思想を読み尽くす』(講談社学術文庫)、小池一郎『老子訳注』(勉誠出版)』などには大変に大きなおかげをこうむりました。私も歴史学者ですので、注釈書に大きく依拠することは邪道であって、『老子』についての大量の論文を読むこと、また中国での研究史に内在することが本来は必要であることは自覚しています。ただ、これらの注釈書が相互に大きく食い違っていることが驚きで、それがこのような作業を自分でしてみようと考えたことの理由ですので、どうぞ諸先学には御赦しをいただきけるようにお願いします。
 
 さいごに拙著のあとがきの最後を引用しておきます。
 「歴史学者としては、私は『老子』を読むことは、日本に歴史主義を復興し、それによって健全な保守主義の地盤を用意することになると考えてきた。人生の時間が許せば、次は、『古事記』『日本書紀』の神話そのものの注釈をしたいと考えている」。

『老子』、全現代語訳・原文・読み下し

『老子』、現代語訳・原文・読み下し

以下では『老子』全八一章を第一部「「運・鈍・根」で生きていくこと」、第二部「星空と神話と「士」の実践哲学」、第三部「王と平和と世直しと」の三部に分けて並べ直してある。各章を説明順に1講、2講などとならべてある。その章が本来の『老子』の第何章にあたるかは、見出しの最後の( )内を参照されたい。

第一部「運・鈍・根」で生きる

第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
 もっともよく知られている老子の思想は、「無為(むい)」や「知足(ちそく)」という言葉だろう。欧米の人々には、この言葉自体を理解することが難しいらしいが、日本人は「無為」を「作為のないこと」、「知足」を「足るを知ること」と読み下すことができるから最初はわかりやすい。しかし、逆にそのために、『老子』の思想というと、消極・静観・節欲とされることが多く、極端な場合は「小狡(こずる)い」思想と誤解されてしまう。
 しかし、老子の思想は、そういうものではない。紹介しておきたいのは、作家、五味太郎の絵本『じょうぶな頭とかしこい体』である。子どもによくいう「丈夫な身体と賢い頭」というのは間違いで、修行すれば意識せずに「無為」なままでも「かしこい身体」でやっていける、そしてその身体に支えてもらって、少々鈍くても「じょうぶな頭」でやっていくのが正しいというのである。うまくいったものだと思う。これは日本人のなかに根付いた人生訓でいえば、「運(うん)・鈍(どん)・根(こん)」、つまり、少しの幸運、鈍く見えるほどの頑丈さ、そして根気があればいいという人生訓である。老子の人生訓は、これと似ている。以下、『老子』をまずそういう人生訓として読んでいきたい。

1講 象に乗って悠々と道を行く。「道」とは何か(第三五章)
 巨象にのって世の中を行けば進むのに妨げはなく、安らかで泰平である。路傍の楽の音と食餌は旅人と象の足を止めるが、道は無言のまま淡々と続く。道の距離そのものには、はない。目をこらしても見えないし、耳をすましても聞こえない。しかしその用きは無尽蔵である。
執大象天下往、往而不害、安平泰。樂与餌過客止、道之出言淡乎。其無味、視之不足見、聴之不足聞、用之不可尽。
大象を執(と)って天下を往かば、往きて害せられず、安・平・泰なり。楽と餌とは、過客を止むるも、道の言に出だすは、淡乎(たんこ)たり。それ味なく、之(これ)を視るも見るに足らず、之(これ)を聴くも聞くに足らず、之(これ)を用(はたら)いて尽すべからず。

2講 作為と拘(こだわ)りは破綻をまねく――「無為」とは何か(第六四章下)
「作為で動くと仕事は壊れてしまい、それに拘(こだわ)るとすべてを失う」という格言がある。有道の士は無為自然なので逆に仕事を駄目にしてしまうことがない。拘わらないから全てを失うことがない。大事業に取り組む場合は、終わりまで慎重に初心のままだから破綻しない。そもそも有道の士が欲するのは無欲の状態だから、得がたい財貨など貴いと思わない。さらに「学ばざる」を学ぶので人が見のがすことに気づく。万物がその自然の本性(もちまえ)にそって進むことに手を添えるが、無理はしないのだ。
為者敗之。執者失之。是以聖人無為故無敗、無執故無失。臨事之紀(1)、愼終如始、則無敗事。
是以聖人欲不欲、不貴難得之貨。学不学、復衆人之所過。以輔万物之自然、而不敢為(2)。
(1)底本「民之従事、恒於幾成而敗之」。「臨事之紀」は楚簡によった。(2)なお底本では、本章は第六四章の全体ではなく後半部のみにあたる。前半部は、■■頁で解説してあるが、両方をあわせると、この六四章は他の『老子』の諸章とくらべて長文になってしまうため、前半部と後半部は、本来、別個のものであっただろうと推測されてきた。新発見の楚簡でも実際に前半と後半が別になっていることが確認され、その推定が正しいことが確定した。
為(な)す者は之(これ)を敗(やぶ)り、執(しつ)する者は之(これ)を失う。是(ここ)を以って聖人は、 為すこと無し、故(ゆえ)に敗ること無し。執すること無し、故に失うこと無し。事に臨むの紀は、終りを慎(つつし)むこと始めの如(ごと)くんば、則(すなわ)ち事を敗ること無し。是(ここ)を以て聖人は、欲せざるを欲し、得難きの貨を貴ばず。学ばざるを学び、衆人の過(す)ぎし所に復(ふく)す。以て万物の自然を輔(たす)けて、而(しか)も敢(あ)えて為さず。

3講 勉強では人間は成長しない(第四八章)
 学を為(おさ)めれば日ごとに大きくなるというが、しかし、道を為(おさ)めるとは、日々、自分を削っていくことだ。削りに削って為(おさ)めるべきことが無くなる。無為の境地となればできないことはない。天下で用くのは、つねにこの無為・無事である。余計な事が残っていれば天下を取るのは不可能である。
為学日益、為道日損。損之又損、以至於無為。無為而無不為。
取天下、恒以無事。及其有事、不足以取天下。
学を為(な)せば日々に益(えき)し、道を為せば日々に損(そん)す。之を損して又損し、以て無為に至る。無為にして為さざる無し。天下を取るは、恒に事無きを以てす。其の事有るに及びては、以て天下を取るに足らず。

4講 大木に成長する毛先ほどの芽に注意を注ぐ(第六四章上)
安定している状況は把握しやすいし、兆(きざ)しがないうちは計画を立てやすい。脆(もろ)いうちなら割りやすいし、微(かす)かなうちは散らしやすい。事が発していない時に処置し、混乱がないときに事態を治めるようにしたいものだ。何人もの手を繋いで抱くことができる大木も毛先ほどの芽から成長するし、九層の高殿も土籠(もつこ)の土を順々に積み重ねていったものだ。千里の道も足下の一歩から始まるというではないか。
其安易持、其未兆易謀、其脆易判(1)、其微易散。為之於未有、治之於未乱。
合抱之木、生於毫末、九層之台、起於累土。千里之行、始於足下(2)。
(1)底本「泮」。判に通ず。(2)本章は従来、第六四章とされてきた長文の章の前半部である。後半部は、すでに第4講に掲げた。
その安(やす)きは持(じ)し易(やす)く、その未(いま)だ兆(きざ)さざるは謀(はか)り易し。その脆(もろ)きは判(わ)け易く、その微(かすか)なるは散(さん)じ易し。之(これ)を未だ有らざるに為し、之(これ)を未だ乱れざるに治む。合抱(ごうほう)の木も毫末(ごうまつ)に生じ、九層の台も累土(るいど)に起こり、千里の行(こう)も足下に始まる。

5講 自分にこだわる人の姿を「道」から見る(第二四章)
 つま先で立っていることはできないし、歩幅を広げすぎれば歩けない。自分だけで見ようとする人には明るさが足りない。自分だけを是としている人には是非が彰(あら)われない。自分だけで闘かうものは功をあげることができない。そして、自分だけで誇っているものは、実は長じたところはない。ゆっくりと道を行くものから見ていると、無駄な食事や道草にみえる。そういう無駄な物の気配は悪(わる)いものだ。有道の士は近づかない。
企者不立、跨者不行。自見者不明、自是者不彰。自伐者無功、自矜者不長。
其在道也、曰余食贅行。物或惡之。故有道者不処。
企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。自見(じけん)の者は明ならず、自(じ)是(ぜ)の者は彰われず。自伐(じばつ)の者は功無く、自矜(じきん)の者は長(ちよう)ならず。その道に在(あ)るや、余(よ)食(しよく)贅(ぜい)行(ぎよう)と曰う。物は或(つね)にこれ悪(わる)し。故に有道者は処らず。

6講 丈夫な頭とかしこい身体。「知足とは何か」(四四章)
 名分(名誉や地位、外見)と自分の身体(からだ)のどちらが大事か。身体そのものと財貨のどちらが大事か。物を獲得するのと、すでに自分の一部になっているものを亡くすのとどちらで悩むべきか。身体が大事で、身についているものが大事なのはあたりまえのことだろう。多く固執すればかならず多く費やし、多くため込めばすっかり失ってしまうものだ。誰も同じ身体で足りているのだから何も辱(はづ)かしいことはない。自分の世界に止まっていればだいじょうぶ。ゆっくりと永遠をみるのだ。
名与身孰親、身与貨孰多、得与亡孰病。
是故甚愛必大費、多蔵必厚亡。
知足不辱、知止不殆。可以長久。
名と身とは孰(いず)れか親しき。身と貨と孰れか多(まさ)れる。得(う)ると亡(うしな)うと孰れか病(うれい)ある。是の故に甚(はなは)だ愛(おし)めば必ず大いに費(つい)え、多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く亡(うしな)う。
足(た)るを知らば辱(はずか)しめられず、止まるを知らば殆(あや)うからず。長久(ちょうきゅう)に以(もち)うべし。

7講 自らを知る明と「運・鈍・根」の根(三三章)
 人を知り議論するのは「智」。自分の心を照らすのは「明(めい)」。人に勝つのは力があるが、自らに克(か)つのが本当の「強」である。足るを知れば豊かになるが、「強」をつらぬくのを「志」というのだ。自分の現状を大事にして命を「久」しくすることもいい。しかし死を懸けても「志」を忘れないものは最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を聞くことができる。
知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。
不失其所者久、死而不忘(1)者壽。
(1)底本「亡」。帛書により改む。
人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり。

第二課 「善」と「信」の哲学
 老子の哲学の基礎には「善」という言葉の独特な理解がある。この「善」というのは、「人間の本性は善であるか、悪であるか」という性善説、性悪説でいわれるような「善」ということではない。もちろん「善」を「良い」と読むと、「良い。公正だ」などなど、どうしても倫理規範のニュアンスが印象される。しかし、倫理規範の意味での「良い」は一つの社会的判断である。そして考えてみると、何が本当に「よい」のか、これは時と所により、時代や民族により大きく異なっている。「善」からそういう倫理規範の意味を脱色していくと、結局、それは物や人の本性(もちまえ)の自由な用(はたら)きという意味になっていく。「よい子」とは、その本性(もちまえ)を自由に現している子であるという訳である。
 そして実は、ギリシャ哲学の概念としての「善」も同じものである。「善」は、英語でいえばVirtue、ギリシャ語ではアガトンとなるが、アリストテレス『ニコマコス倫理学』も、アガトンは人や物の本性(もちまえ)の用(はたら)きの自由自在という意味としている。これは老子の哲学が、性善説を称する孟子、性悪説を称する荀子のような幼稚なレヴェルの議論とは大きく異なるものであることをよく示している。しかも、以下に述べるように、老子は、この「善=本性」という概念から出発して、「信」「徳」などの概念を次々に導いていった。

8講 無為をなし、不言の教えを行う(第二章)
 世の中の人が、みな美を美と知るのは、実は悪(みにく)いものがあるのによる。同じく皆が善を善と知るのは、実は不善があるからである。そもそも有(う)と無(む)は同時に生じ、難(なん)と易(い)は同じ仕組みであり、長と短は相同の形であり、高と下は互いに満たしあい、音と声は響き合い、前と後は一緒に並ぶ。、その中で、有道の士はつねに「無為」の側に身をおいて、不言の教えを守る。万物の成り行きを自分で治めようとはせず、行動はしても拘らず、功に居座ることはしない。最初から、そこにいもせず、立ち去ってもいないようにみえることが理想なのだ。
天下皆知美之為美、斯惡已。皆知善之為善、斯不善矣。
故有無相生、難易相成、長短相形(1)、高下相盈(2)、音声相和、前後相随。
是以聖人居(3)無為之事、行不言之敎。万物作而不治(4) 也、(5)為而不恃、功成而弗((不))居。夫唯弗((不))居、是以不去。
(1)底本「較」。楚簡により改む。(2)底本「傾」。帛書により改む。(3)底本「処」。帛書により改む。(4)底本「辞」。楚簡により改む。(5)底本ここに「生而不有」とあり、楚簡、帛書により載せず。
天下、皆な美の美たると知るは、斯(こ)れ悪已(のみ)なり。皆な善の善たると知るは、斯(こ)れ不善已(のみ)なり。故に有無(うむ)は相い生じ、難易(なんい)は相い成り、長短(ちようたん)は相い形(かたち)し、高下(こうげ)は相い盈(み)ち、音声(おんせい)は相い和し、前後(ぜんご)は相い随う。是を以て聖人は無為の事に居(お)り、不言(ふげん)の教(おしえ)を行う。万物作(おこ)るも治(おさ)めず、為(な)して恃(たの)まず、功を成して居(お)らず。夫(そ)れ唯だ居(お)らず、是(ここ)を以て去らず。

9講 上善は水の若(ごと)し(第八章)
 上善は水のようなものだ。水の善(本性(もちまえ))は万物に利をあたえ、すべてを潤して争わない。水は多くの人の嫌がる場に流れ込む。水は道に近いのである。また、住居の善は「地」に近く棲むことにあり、心の善は「淵」のように奥が深く低いことにあり、友であることの善は「仁(したしみ)」にあり、言葉の善は言を守る「信(まこと)」にあり、正しいことの善は「治(おさ)」まっていることにあり、事業の善はただ己(おのれ)の「能」事(できること)をやることにあり、行動の善はただ「時」を外さない。これらの根本は争そわないことにあり、それ故に人に尤(とが)をもっていかないことにある。
上善若水。水善利万物而不争。処衆人之所惡。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争。故無尤。
上善は水の若(ごと)し。水の善は万物を利して争わざるにあり。衆人の悪(いと)う所に処る。故に道に幾(ちか)し。居(きよ)の善は地にあり、心(こころ)の善は淵(ふか)きことにあり、与(とも)の善は仁にあり、言(ことば)の善は信(まこと)にあり。正(せい)の善は治にあり、事(こと)の善は能にあり、動(どう)の善は時にあり。それ唯(ただ)争うべからず。故に尤(とが)むること無し。

10講 「信・善・知」の哲学(八一章)
信(しん)なる言葉は美しいものではない。美しい言葉に必ず信(まこと)があるのではない。言葉の善は言い争うことにはない。言い争うのは善ではない。知の「善」は博(ひろ)いことではない。博いものは知ではない。目覚めた有道の士はものごとを後回しにしない。刻々と、すべて人々のために行動して、それでも愈いよ充実し、すべてを人々にさしだして、さらに充実していく。天道はすべての物に利をあたえ、害することはない。同じように有道の士は全力で行動するが、争わないのだ。
信言不美、美言不信。善者不弁、弁者不善。知者不博、博者不知。
聖人不積。既以為人、己愈有、既以与人、己愈多。
天之道、利而不害。聖人之道、為而不争。
信(しん)言(げん)は美ならず、美(び)言(げん)は信ならず。善は弁(あらそ)わず、弁(あらそ)うは善ならず。知は博(ひろ)からず、博(ひろ)きは知ならず。聖人は積まず。既(ことごと)く以て人の為(ため)にして、己(おのれ)は愈(いよ)いよあり、既(ことごと)く以て人に与(あた)えて、己(おのれ)は愈(いよ)いよ多し。天の道は利して害せず、聖人の道は為(な)して争わず。

11講 「善・不善」「信・不信」を虚心に受けとめる(四九章)
 有道の士は自分の心を恒遠な「道」の中において無としているので、そこに人々の心を受け入れることができる。人々の「善」はその本性(善)として受けとめ、「不善」も人々の現実の本性(善)として受けとめる。有道の士の心の徳(はたらき)は「善」だからである。その「信」は「信」として受けとめるが、「不信」も現実の「信」のあり方として受けとめる。有道の士の徳(はたらき)は「信」だからである。有道の士は世の中にあって心おだやかにこだわりを持たず、世の人のために自分の心は洗い流してしまう。人々はみな耳目を注いでくるが、有道の士はただ赤ん坊のように笑っている。
聖人恒無心(1)、以百姓心為心。
善者(2)善之、不善者亦善之。徳善。
信者信之、不信者亦信之。徳信。
聖人在天下歙歙焉、為天下渾其心。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之
(1)底本「無常心」。帛書により改む。(2)底本、この箇所にすべて「吾」あり、帛書により削除。
聖人(せいじん)は恒にして心無く、百姓(ひやくせい)の心を以て心となす。善(ぜん)はこれを善とし、不善(ふぜん)もまたこれを善とす。徳(いきおい)は善なり。信はこれを信とし、不信もまたこれを信とす。徳(いきおい)は信なり。聖人の天下に在るや、歙歙(きゆうきゆう)焉(えん)として、天下の為(ため)にその心を渾(なが)す。百姓は皆なその耳目(じもく)を注(そそ)ぐも、聖人は皆なこれ孩(わら)うのみ。

12講 民の利と孝慈のために聖智・仁義を絶する(一九章)
 為政者に「聖智」などといわせないようにできれば、民衆の利は百倍にもなる。自分は「仁義」だなどと詐(いつ)わるのをやめさせれば、民衆の家族的親愛と人への思いやりが戻ってくる。政治が経済の「巧利」の上前を取るのをやめさせれば、それが盗賊の巣であることも終わる。為政者に、この「聖智・仁義・巧利」を捨てよといっても解らなければ、言葉を続けてやろう。一度は、素絹(しろぎぬ)の自然な精細さを熟視し、山の樸(原木)を抱いた気持ちになって、私を忘れ欲を忘れてみろ。この馬鹿め。
絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盜賊無有。
此三者、以為文不足、故令有所屬。見素抱樸、少私寡欲。
聖を絶ち智を棄つれば、民の利は百倍す。仁を絶ち義を棄つれば、民は孝慈に復(かえ)る。巧を絶ち利を棄つれば、盗賊の有ること無し。此の三者、以て文足らずと為さば、故に属(つづ)く所あらしめん。素(そ)を見て樸(ぼく)を抱け。私を少なくし欲を寡(すく)なくせよ。

13講 無為の立場から「言葉の知」の病をふせぐ(七一章)
自分がものを知らないことを知っているのが人間としての上等さである。知らないのに知っているというのは病いである。病いを病いと分かっていれば、病気ではなくなる。覚悟した人間は病気をもたない。病いを病いと知って病気から自由になるのである。
知不知上、不知知病。夫唯病病、是以不病。聖人不病。以其病病、是以不病。
知らざるを知るは上なり、知らずして知るとするは病(やまい)なり。夫れ唯(た)だ病を病とせば、是を以て病あらず。聖人は病あらず。其の病を病とするを以て、是(ここ)を以て病あらず。

第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
 老子は女と男の性愛について語ることをタブーとしない。『論語』『孟子』そして『荘子』などと大きく異なるのは、この点である。
 その身体思想は女性を大事にする。儒学が「男女、夫婦、父母」などの男を先にする言葉を使うのに対して、『老子』は「雌雄・牝牡・母子」などと女を先に掲げる。『老子』を通読すれば女性的なものへの親近感も明かなことである。ただ、老子は女性的なものをもっぱら「和柔」とし、「女ー男」という対比をなかば固定化する。これは老子の族長としての保守主義的な態度であろうが、しかし、この時代、たとえばギリシャの哲学思想の中にはまったく存在しないような女性尊重の思想である。
 なお、漢の王族、劉向(BC七七~六)の『列仙伝』の老子の項に「好んで精気を養い、接して施さざるを貴ぶ」(男性精気を養い、女性に接しても精を放たない)とあるように、老子は早くからいわゆる「房中術(寝室の性の技法)」の祖とされていた。房中術は王侯の後宮から始まったもので、老子がその祖であるとは考えにくい。しかし、老子がその身体思想にもとづいて「養生」を強調しただけでなく、セックスを率直に論じたことが、この伝承の生まれる理由となったことは十分に考えられよう。

14講 女と男で身体に宿る「信」を継いでいく(第二一章)
 女性的な徳(はたらき)の深い孔のようなゆとりにそって道はただ進むだけだ。この道が物を作るのは、ただ恍惚の中でのことだ。恍惚の中で象(かたち)がみえる。その恍惚の中に物があるのだ。そしてその奥深くほの暗い中に精が孕まれる。この精こそ真に充実した存在であって、その中に信が存在する。この信が遥かな過去から現在にいたるまで一貫して存在し、つねに衆父(族長)を統括してきたのである。私が族長とはそういうものだと知ったのは、以上のようなことを私も体験したからである。
孔徳之容、唯道是従。
道之為物、唯恍唯惚。惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。自古及今、其名不去、以閲衆父*。吾何以知衆父之状哉、以此。
*底本「衆甫」。帛書により改む。
孔徳の容(よう)は、唯だ道これに従う。道の物たる、唯だ恍(こう)、唯だ惚(こつ)。忽(こつ)たり恍(こう)たり、其の中に象(しよう)有り。恍たり忽たり、其の中に物有り。窈(よう)たり冥(めい)たり、其の中に精(せい)有り。其の精甚だ真なり、其の中に信有り。古(いにしえ)より今に及ぶまで、其の名は去らず。以て衆父(しゆうほ)を閲(す)ぶ。吾れ何を以てか衆父(しゆうほ)の状を知る、此れを以てなり。

15講 女が男を知り、男が女を守り、子供が生まれる(第二八章)
 女が男を知り、男が女を守り、二人は世界の原初の谷間に行く。そこでは永遠の徳(いきおい)が赤ん坊のなかに復ってくる。女が男の白い輝きを知り、男が女の黒い神秘を守れば、二人は世界の秘密を映す式盤となる。式盤には永遠の徳が満ちて、無極の場所がみえる。こうして女が男の栄誉を知り、男が女を恥辱から守れば、世界を流れる渓川になり、谷には永遠の徳(いきおい)があふれ、その風格にふさわしい大木(「樸(あらき)」)も復ってくる。人間は、この大木を切って器にして使うのだ。しかし徳(いきおい)に満ちた有道の士は、そのままで国を代表できる。大材を製するには、できるだけそれを割らないことだ。
 Knowing man
and protecting woman,
lovers go to the riverbed of the world.
Where the eternal power
come true again in the infant baby.

Knowing light
and protecting dark,
be a horoscope of the world.
There the eternal unerring power
come back again to boundlessness.

Knowing glory
and protecting humiliation ,
be the valley of the world.
There the eternal power
come again to fulfill the forest .

Ntural wood is cut up
and made into useful things.
But wise souls are natural
to make into leaders of countries.
Just so, a great caving
is done without caving.

知其雄、守其雌、為天下渓。為天下渓、恒徳不離、復帰於嬰児。知其白、守其黒、為天下式。為天下式(1)、恒徳不差(2)、復帰於無極。知其榮、守其辱、為天下谷。為天下谷、恒徳乃足、復帰於樸。樸散則為器。聖人用之、則為官長。故大制不割。
(1)「式」は「栻」の略。(2)底本「忒」。「差」の意。
其の雄(おす)を知り、其の雌(めす)を守れば、天下の渓(たに)と為る。天下の渓と為れば恒徳離れず、嬰児(えいじ)に復帰す。其の白を知りて、其の黒を守らば、天下の式と為る。天下の式と為れば、恒徳は差(たが)わず、無極(むきよく)に復帰す。其の栄を知りて、其の辱を守らば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、恒徳は乃(すなわ)ち足り、樸に復帰す。樸を散ずれば則(すなわ)ち器と為(な)り、聖人は用いれば則ち官の長と為(な)る。故に大制(たいせい)は割(さ)かず。

16講 一人への愛を守り、壊れ物としての人間を守る(第五二章)
 天下に始めがあるとしたら、それは母から始まる。最初に母の身心を得ていれば、その子はよく分かるし、また逆に子供のことをよく知って、その母を見直すということもある。そうすれば自分が死んでも危ないことはない。そして身体の穴を閉じ、その門を猥(みだり)に開くことがなければ、一生、疲れることはない。もし、それらの穴や門を開いて、そのような事をすると救われないことになる。母子の小さな世界を見るには明るさが必要であり、その柔弱な世界を守る力こそを本当の強さというのだ。光を働かせ、つねに明朗であるようにしたいものだ。そうすれば身(み)の殃(わざわ)いが残ることはない。これこそを永遠の今、「恒」なる本性に順うという。
天下有始、以為天下母。既得其母、以(1)知其子。既知其子、復守其母。沒身不殆。塞其兌、閉其門、終身不労(2)。開其兌、濟其事、終身不救。見小曰明、守柔曰強。用其光、復帰其明、無遺身殃。是謂襲(3)恒。
 (1)底本「復」、他本は以。(2)底本「勤」。意により置き換え。(3)底本「習」。帛書による。
天下に始め有り、以て天下の母と為す。既にその母を得て、復(ま)たその子を知る。既にその子を知り、復たその母を守らば、身を没するまで殆(あやう)からず。その兌(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざさば、身を終うるまで労(つか)れず。その兌(あな)を開き、その事を済(な)せば、身を終うるまで救われず。小(しょう)を見るを明(めい)と曰(い)い、 柔(じゅう)を守るを強(きょう)と曰う。その光を用いて、その明に復帰せば、身の殃(わざわい)を遺(のこ)す無し。是を恒(こう)に襲(はい)ると謂う。

17講 赤ん坊の「徳(いきおい)」は男女の精の和から生ずる(五五章)
善の徳(いきおい)を内に蓄えている人は、赤ちゃんのようだ。赤ちゃんは蜂(はち)も蠆(さそり)も虺(まむし)も蛇(へび)も咬んだりしない。猛獣も襲わないし、猛禽も蹴爪にかけない。骨は弱く、筋(すじ)は柔らかいのに、握力は強い。まだ雌雄の交合のことも知らないのに、陽根(ようこん)が立つのは精が満ちているからだ。一日中泣いていても声がかれないのは、その「気」が和しているからだ。この「和」が永遠の今、「恒(こう)」となり、そして、その「恒(こう)」を知れば「明」になる。その中で生活が進んでいくのを「祥(さいわい)」と曰い、心がうまく「気」を使うことを「強(つよさ)」という。しかし、心気でなく、物の気のみが盛んだと衰えるのも早い。それでは道理に反するからであり、道理に反すれば早々に終りがやってくる。
含徳之厚者(1)、比於赤子。
蜂蠆虺蛇不螫、猛獸不據、攫鳥不搏。骨弱筋柔而握固。未知牝牡之合而陽怒(2)、精之至也。終日号而不嗄、和之至也。
和曰恒(3)、知恒曰明。益生曰祥、心使氣曰強。
物壯則老、謂之不道。不道早已。
(1)「者」、楚簡により補う。(2)底本「全作」。楚簡により改む。(3)底本「知和曰常」。楚簡・帛書により改む。
徳を含むことの厚き者は、赤子に比ぶ。蜂(ほう)蠆(たい)虺(き)蛇(だ)も螫(さ)さず、猛獣も據(おさ)えず、攫鳥(かくちよう)も搏(う)たず。骨弱く筋柔らかくして握ること固し。未(いま)だ牝牡(ひんぼ)の合を知らずして陽の怒(ど)すは、精の至りなり。終日号(な)いて嗄(こえか)れざるは、和の至りなり。和を恒と曰(い)い、恒を知るを明と曰う。生を益(ま)すを祥(さいわい)と曰い、心、気を使うを強と曰う。物は壮(そう)なれば則(すなわ)ち老(お)ゆ。之を不道を謂う。不道は早く已(や)む。

18講 母親は生んだ子を私(わたくし)せず、見返りを求めない(第一〇章)
 生き生きと血色のよい肉体に載(の)ってその一なる本性を抱きしめて離さないでいたい。気を整えて柔弱をきわめて赤子のようになっていたい。神秘な玄(くろ)い鏡を洗い清めて疵のないようにしておきたい。地では、人々を愛し国を穏やかにして政治の知を不要とし、天では天空の門を開閉して従順な雌の動きをとらせたい。明るく四方を照らしながら才知からは離れていたい。「道」が人間などの万物を最初に生じさせるが、それを養うのは「徳」であり、徳こそが、子を生んだ母親のように、世界を私のものとせず、為(し)てやっても見返りは求めず、生育させても支配しようとしない。これを玄徳という。
載営魄抱一、能無離乎。専気致柔、能嬰児乎。滌除玄覧、能無疵乎。愛民治国、能無以知乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無以知乎。(道)生之(徳)畜之(1)、生而不有、為而不恃、長而不宰。是謂玄徳。
(1)底本「生之畜之」。五一章に「道生之、徳畜之」とあるにより補入。
営魄に載りて一を抱きて、能く離るること無からんか。気を専らにし柔(じゆう)を致(きわ)めて、能く嬰児(えいじ)たらんか。玄覧(げんらん)を滌除(てきじょ)して、能く疵(し)無からんか。民を愛し国を治めて、能く知を以てすること無からんか。天門開闔(かいこう)して、能く雌(し)たらんか。明白にして四達し、能く知を以てすること無からんか。(道)これを生じ、(徳)これを畜(やしな)い、生じて有せず、為(な)して恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず。是を玄徳(げんとく)と謂う。

19講 男がよく打ち建て、女がよく抱く、これが世界の根本(第五四章)
 男の本性が打ち建てたものは抜けることはなく、女の本性が抱き入れたものは脱けることはなく、それ故にその子孫の祭りは止むことはない。これを自分たちの身体について実修すればその徳(はたらき)は真実のものとなる。家について実修すればその徳(はたらき)は外に餘慶を及ぼす。郷(さと)で実修すればその徳(はたらき)は郷土(ふるさと)の大地とともに長く続くだろう。また、邦(くに)で実修すればその徳(はたらき)は豊かな生活をもたらし、さらには世界全体で実修すればその徳(はたらき)は普くゆきわたる。それだから、身体と身体を向き合わせ、家と家を向き合わせ、郷と郷を向き合わせ、邦と邦を向き合わせ、そして世界が世界を内省することが大事なのだ。私は、そのような世界が来るのを必然と考える。
善建者不抜、善抱者不脱、子孫以祭祀不輟。
修之於身、其徳乃眞、修之於家、其徳乃餘、修之於郷、其徳乃長。修之於邦、其徳乃豊、修之於天下、其徳乃普。
故以身観身、以家観家、以郷観郷、以邦観邦、以天下観天下。吾何以知天下然哉、以此。
善く建てたるは抜けず、善く抱(いだ)けるは脱(お)ちず。子孫以(もつ)て祭祀(さいし)して輟(や)まず。これを身(み)に修(おさ)むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち真にして、これを家に修むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち余り、これを郷(さと)に修むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち長し。これを邦(くに)に修むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち豊かにして、これを天下に修むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち普(あまね)し。故に、身を以て身を観(み)、家を以て家を観、郷を以て郷を観、邦を以て邦を観、天下を以て天下を観る。吾、何を以てか天下の然(しか)るを知るや、これを以てなり。

20講 柔らかい水のようなものが世界を動かしている(第四三章)
 世界で最も柔らかものが世界でもっとも固いものを動かしている。柔らかい水のようなものが、すべての隙間を埋めて広がっていく。その無為な動きこそが有益なのだ。言葉を必要としない教えが、意図しないままに広がっていき、天下にはこれに敵うものがない。
天下之至柔、馳騁天下之至堅、無有入無間。吾是以知無為之有益。不言之敎、無為之益、天下希及之。
天下の至柔(しじゅう)は、天下の至堅(しけん)を馳騁(ちてい)し、無有は無間に入る。吾れ是を以て、無為の有益なるを知る。不言の教、無為の益は、天下のこれに及ぶこと希なり。

第四課 老年と人生の諦観
 老子は、だいたい紀元前三二〇年頃に生まれ、紀元前二三〇年頃に死去した人物であると考えられる。『老子』の早い時期のテキストである湖北省荊門市の郭店で発掘された竹簡本はだいたい紀元前二七五年前後に作成されたものであるとされているが、そうだとすると、老子が、この竹簡の原本となるものを執筆したのは、だいたい四〇歳頃ということになる。逆にいうと、現行の『老子』のなかで楚簡に含まれていない部分は、老子が四〇歳を超えてから、老齢に入ってからのものであったことになる。
 本課は、この仮定の上に、おもに楚簡に含まれていない諸章から、老齢になった老子の執筆にふさわしいような内容の諸章を集め、「老年と人生の諦観」と題してみた。ただ、九章だけは楚簡に全文が含まれているが、「人には器量(きりょう)の限度がある、無事に身を退くのが第一だ」という内容であるので、ここにおさめた。『老子』で説かれていることからすると、老子は国の政治に深く携わった経験があったであろうが、おそらく『老子』の執筆を本格化したころ引退の意思を固めたのではないだろうか。

21講 力あるあまり死の影の地に迷う(五〇章)
 人は生まれて死んでいく。そのうち生を普通に終える人が十人に三人、早くに死ぬ人が十人に三人だろう。そして、生き急ぐなかで死の影の地に迷う人が十人に三人いる。それは生きる力と期待が厚すぎるためだ。残りの一人はうまく生の善(本性)を握った人であり、山地を行っても犀や虎に遇わないし、戦争に動員されても甲冑と武器を身にもつけずに生き延びた。犀も角を突こうとせず、虎も爪を立てようとせず、敵兵も刃をたてる隙がない。彼は死の影の地を本能的にさけることができたのだ。
出生入死。生之徒十有三。死之徒十有三。而民生生(1)、動之死地、十有三。夫何故、以其生生之厚。
蓋聞、善執(2)生者、陵(3)行不遇兕虎、入軍不被甲兵。兕無所投其角、虎無所措其爪、兵無所容其刃。夫何故。以其無死地。
(1)底本「人之生」。帛書により改む。(2)底本「摂」。帛書により改む。(3)底本「陸」。帛書により改む。陵は山地。
生を出でて死に入る。生の徒は十に三有り、死の徒も十に三有り。而して民の生を生きんとして、動きて死地に之(ゆ)くもの、十に三有り。夫れ何の故ぞ。其の生を生きんとすることの厚きを以てなり。蓋し聞く、生を執(と)るに善なる者は、陵(やま)に行くも兕虎(さいとら)に遇わず、軍に入りて甲兵を被らず。兕(さい)も其の角を投(とう)ずる所なく、虎も其の爪を措く所なく、兵も其の刃(やいば)を容るる所なしと。夫れ何の故ぞ。其の死地無きを以てなり。

22講 私を知るものは希だが、それは運命だ(第七〇章)
私のいうことは分かりやすく、行いやすいことだが、世の中にはそれを理解する人も、実行する人もいない。言説は格もあり、事業も指揮するに足るものだ。しかし、それは知られることがなく、私も知られないままでいる。私を知るものは稀で、私に則(のつと)って行動する人はいない。これが有道の士はつねに褐色の粗末な衣を着て懐に玉を隠しているということなのであろうか。
吾言甚易知、甚易行、天下莫能知、莫能行。
言有宗、事有君。夫唯無知、是以不我知。
知我者希、則我者貴(1)。是以聖人被褐懐玉。
(1)「貴」は匱(とぼし)の略体。
吾(わ)が言は甚(はなは)だ知り易く、甚だ行ない易し。天下能(よ)く知る莫(な)く、能く行なう莫(な)し。言(げん)に宗(そう)有り、事(こと)に君(きみ)有り。夫(そ)れ唯(ただ)知ること無し、是(ここ)を以て我れを知らず。我を知る者希(まれ)にして、我に則る者は貴(とぼ)し。是を以て、聖人は褐(かつ)を被(き)て玉(ぎよく)を懐(いだ)く。

23講 老子、自分の内気で柔らかな性格を語る(六七章)
世の中の人は、私は大人物らしいが、とてもそうはみえないという。私はたしかに大人物という柄ではないが、柄でないだけは大人物というところか。もし私がいかにも大人物らしければ今よりも卑小な人間であったろう。それでも私には私なりの宝がある。それは第一に「慈」、慈(なさ)け深さであり、第二は「倹」、遠慮がちなことであり、第三は自分から世の中の先に立つのが嫌いだということである。ただ慈(なさ)け深く情に脆いので逆に勇敢になったりする。そして遠慮がちなので逆に広く共感をえることもあった。また先に立つのが嫌いなので、逆に代表の地位につかされることもあった。もし、今になって、慈(なさ)け深いという性格を捨てて勇敢であろうとし、遠慮がちな性格を捨てて気が大きくなり、後についていく性癖を捨てて先頭に立とうとすれば、私はすぐ死んでしまうだろう。ともあれ、現在、戦いに勝つためにも、守るためにも慈(なさ)け深さは必須のものだ。天が今まさに私たちを救おうとしているとすれば、それは慈を以て衛(まも)るということに現れるはずである。
天下皆謂我(1)大似不肖。夫唯不肖、故似大(2)。若肖、細久矣(3)。我有三宝、持而保(4)之。一曰慈、二曰儉、三曰不敢為天下先。慈故能勇、儉故能広、不敢為天下先、故能為成事長(5)。
今捨慈且勇、捨儉且広、捨後且先、死矣。
夫慈矣戦則勝、以守則固。天將救之、以慈衞之。
(1)底本、ここに「道」あり。帛書により不載。(2)この句、帛書(乙)による。(3)底本「久矣其細也夫」。帛書により改む。(4)底本「宝」。帛書「葆」により「保」とす。(5)底本「故能成器長」、帛書により改む。
天下皆(み)な謂う。我れは大にして不肖(ふしよう)に似たり、と。夫(そ)れ唯(た)だ不肖なり、故に大に似たり。若(も)し肖(しよう)ならば、細かきこと久しきか。我に三宝あり、持(じ)して之を保(たも)つ。一に曰く慈(じ)、二に曰く倹(けん)、三に曰く敢えて天下の先(せん)と為(な)らず、と。慈なり、故に能(よ)く勇(ゆう)なり、倹なり、故に能く広し、敢えて天下の先と為(な)らず、故に能く事を成す長となる。今、慈を捨(す)てて且(まさ)に勇ならんとし、倹を捨てて且(まさ)に広からんとし、後を捨てて且(まさ)に先んぜんとすれば、死せん。夫れ慈は、以て戦わば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。天将(まさ)に之(これ)を救わんとし、慈を以て之(これ)を衛(まも)らんとす。

24講 学問などやめて、故郷で懐かしい乳母と過ごしていたい(第二〇章)
 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人は学識を尊敬してくれるようにみえるが、こちらも人に遠慮することが多くなる。だいたい学問をやっても茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。衆人は嬉々として、豪勢な饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私の心には帰るところもないのか。みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは明快に腕を振るうが、私の仕事は煩悶(はんもん)が多い。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながら田舎住まいを続けている。しかし、そうはいっても、私は違う。私はここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。
絶学無憂。唯与訶(1)、相去幾何。美(2)与惡、相去何若(3)。人之所畏、亦不可以不畏人(4)。恍兮其未央哉。衆人熙熙、如享太牢、如春登臺。我独泊兮未兆、如嬰児之未孩。累累、若無所帰。衆人皆有餘、而我独遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨若昏。俗人察察、我獨悶悶。惚兮、其若海、恍兮若無止。衆人皆有以、而我独頑似鄙。我欲独異於人、而貴食母。
(1)底本「阿」。帛書による。(2)底本「善」。楚簡及び帛書による。(3)底本「若何」。帛書による。(4)底本「人」なし。楚簡・西漢竹書により補う。
学を絶てば憂い無し。唯(い)と訶(か)と、相去ること幾何(いくばく)ぞ。美と悪と、相去ること如何(いかん)。人の畏(おそ)るる所も亦た以て人を畏れざるべからず。恍(こう)として其れ未(いま)だ央(つく)さざるかな。衆人は熙熙(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如く、春に台に登るが如し。我れ独り泊(はく)として未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如く、累累(るいるい)として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るも、我れ独り遺(とぼ)し。我れは愚人の心なるかな、沌沌(どんどん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たるも、我れ独り昏(こん)たるが若し。俗人は察察(さつさつ)たるも、我れ独り悶々(もんもん)たり。惚として其れ海の若く、恍として止まるところなきが若し。衆人は皆な以(もち)うる有りて、我れ独り頑(がん)にして以って鄙(ひ)なり。我れ独り人に異(こと)なりて、食母(しょくぼ)を貴ばんと欲す。

25講 人には器量(きりょう)の限度がある、無事に身を退くのが第一だ(九章)
 手に持った器(うつわ)の縁(ふち)ぎりぎりまで満たすのはやめたほうがいい。刃(やいば)を鍛えて鋭くしすぎると長くはもたない。人には器量(きりょう)の限度、鋭さの限度があるものだ。そして財宝が堂に溢れるまで満たすことも同じで、これはよく守れるものではない。富貴で驕り過ぎるとかならず咎めが残る。仕事を無事に終えた身は退いていくことこそが天の道だ。
持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉滿堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。
功遂身退、天之道。
持(じ)して之を盈(み)たすは、其の已(や)むるに如(し)かず。揣(し)して之(これ)を鋭(するど)くするは、長く保(たも)つべからず。金玉、堂に満つるは、之を能く守る莫(な)し。富貴にして驕(おご)るは、自(みずか)ら其の咎(とが)を遺(のこ)す。功遂げ身退(しりぞ)くは、天の道なり。

26講 老子の処世は「狡い」か(第七章)
 天は長大であり、大地は久遠である。天地の時空が巨大で永遠である理由は、天地が自身で生じたものではないからだ。だからこそそれは永遠に続いてゆく。有道の士は、天地の時間の最後にいながら同時にその先頭におり、また天地の空間の外側にいながら同時にその中心にいることに気づく。無限の巨大を前にして私の存在は無となるが、しかしそれによって始めて自分が自由な自分になるのだ。
天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶。故能成其私。
天は長く地は久(ひさ)し。天地の能く長く且つ久しき所以(ゆえん)は、其の自らを生ぜざるを以てなり。故に能く長生す。是を以て聖人は、其の身を後にして身先(さき)んじ、其の身を外にして身存す。其の無私なるを以てに非ずや。故に能く其の私を成す。

2019年2月 6日 (水)

『老子』二九章。天下は壺の形をした神器である

天下は壺の形をした神器である(第二九章)

将に天下を取らんと欲して之を為さば、吾、その得ざるを見る已(のみ)。天下は神器(じんき)なり、為(な)すべからざるなり。為す者はこれを敗(やぶ)り、執(と)る者はこれを失う。故に物は、あるいは行き、あるいは随い、あるいは熱し、あるいは吹き、あるいは強く、あるいは羸(よわ)く、あるいは培(つち)かい、あるいは落とす。是を以て聖人は、甚(じん)を去り、奢(しや)を去り、泰(たい)を去る。

 天下を取ろうなどと思い込めば、我々は、それが不可能なことを思い知らされるだけだ。世の中は神秘な壺のなかに入っているようなものだ。この器は人の手におえるようなものではない。無理に扱えば壊れてしまうし、手に取った途端にそれを失う。この器物には生きた気があり、先に行ったり後になったり、熱くなったり冷えたり、強かったり脆かったり、部厚くなったり落っこちて毀れたりする。有道の士は、その扱いを乱暴にせず、奢らず、偉そうにしない。

將欲取天下而為之、吾見其不得已。天下神器、不可為也。為者敗之、執者失之。故物或行或隨、或熱(1)或吹、或強或羸、或培或堕(2)。是以聖人去甚、去奢、去泰。
(1)底本「歔」。帛書乙により訂。(2)底本「隳」。帛書乙により訂。


 本章で問題なのは、まず「天下は神器(じんき)なり」ということをどうイメージするかだが、これは「壺」と考えた方がよい。世の中が壺に入っているというのは日本にも影響した観念であって、前方後円墳の「壺型」はたとえば箸墓の赤色立体地図に明らかである。
 しかし、それよりも問題なのは後半の現代語訳で、これまでの注釈書では、「故に物は、あるいは行き、あるいは随い、あるいは熱し、あるいは吹き、あるいは強く、あるいは羸(よわ)く、あるいは培(つち)かい、あるいは落とす」の部分をすべて、天下を無理して取ろうとする人の行動や躊躇や失敗などを表現するものと無理して解釈している。これは冒頭の「故に物は」とある「物」をとくに根拠なく「人」と訳したためであって、これは「精気をもったもの」=「神器」と考えれば、上記のように平明な訳が可能になる。
 これまでとまったく違うので、中国思想史の方々がどうお考えになるかは知りたいところです。
 なお、「物」というのは、日本神話では「大物主」という言葉をみれば明らかなように、「精気をもったもの」、あるいは悪霊などとなります。この名前は『老子』からストレートにきていると思うのです。その感覚が上記の現代語訳の前提です。

 現代語訳の表現は、著書とは少し変えてあります。

2019年2月 3日 (日)

『老子』七四章ーー「死に神」に代わって人を殺す人間は自分を傷つける

『老子』七四章ーー「死に神」に代わって人を殺す人間は自分を傷つける

 もし民衆が死を畏れず決然としていれば、どうして死刑によって彼らを脅かすことができようか。もし民衆が死を畏れながら邪悪な罪を犯せば私が捉えて殺すほかない。私でなくて誰がしてくれよう。民衆がつねに必ず死を畏れるというのは、命を司る死に神がみえるからである。この天然の死刑執行人に代わって殺すというのは、大工の名人に代わって木を切るようなものだ。大工の名人に代わって木を切るのだから手を傷つけないことは稀である。

若民恒且不畏死、奈何以殺懼之也。
若民恒畏死、而為奇者、吾将得而殺之、夫孰敢矣。
若民恒且必畏死、則恒有司殺者。夫代司殺者殺、是代大匠斵也。夫代大匠斵者、則希不傷其手矣。
*本章は帛書によった。

若し民(たみ)、恒に且つ死を畏(おそ)れざれば、奈何(いかん)ぞ殺を以て之を懼(おそ)れしめんや。若し民恒に且つ死を畏れて、而も奇を為す者は、吾将に得て之を殺さんとす。夫れ孰(たれ)か敢(あ)えてせん。若し民恒に且つ必ず死を畏れんには、則ち恒に殺(さつ)を司どる者有るによる。それ殺を司る者に代わって殺すは、これ大匠に代わって断(き)ると謂う。夫れ大匠に代わりて断(き)る者は、その手を傷つけずに有ること希(まれ)なるか。

 本章は『老子』の全章の中で、もっとも現代語訳が難しい、意味を取るのが難しいものだと思う。拙著『現代語訳 老子』(ちくま新書)の解釈では、これは法家への強い批判であると述べた。法家に対して、御前たちは「人を殺すことの怖さがわかっているのか」と難詰したということであると思う。いわば老子の死刑批判である。ただ、老子は本章で邪悪な罪について処刑をするのも「士」の義務であると述べていると私は考えるが、しかし、人を殺すことの怖さを述べているのだと思う。これは現代的に言えば一種の死刑廃止論である。解釈はこの私見にそって考えてよいと思う。裁判官には味読していただきたいものである。
 
 しかし、それにしても気になるのは、老子が「民衆が死を畏れず決然としていれば」という場合に何をイメージしていたかである。老子は民衆の蜂起や抵抗というべきものを目撃したことがあるのだろうか。

 なお、いま改めて、後半部分については「司殺」はおそらく「司命」(星の名)に照応するものであろうと考え直した。その歳、河上公注と蜂屋邦夫注釈を参考とした。蜂屋訳とは依然として趣旨が異なる部分があるが、従来の訳でもっとも上記に近いのは蜂屋訳であるということになる。
 蜂屋先生からはほかに拙著について懇切な指摘をいただいたことに感謝している。

2019年2月 1日 (金)

首相文書アーカイブ法案の必要について

 国会では国民民主党の玉木雄一郎氏が演説草稿のためにタブレットを利用するのは当然だと主張している。野党の側がどのような文房具を使うかは野党の側の自由であろうと私も思う。
 ただ答弁する大臣及び役人の側が用意した文章は、すべて紙として残すのが行政府の義務であろう。答弁資料と口頭答弁の録音資料は行政府の国会に対する責任として保存すべきものであり、それは行政府から国会のアーカイヴズ、つまり国会図書館に引き渡すべきものであり、その際、国会図書館の側には正確な引き渡しが行われているかどうかをチェックする十分なアーキヴィストの要員が保障されなければならない。そもそも、そういう国会アーカイヴズをいつまでも国会図書館にゆだねておいていいかどうかも問題となる。これは国権の最高機関である国会にふさわしいアーカイヴズのあり方の問題である。
 こう考えてくると玉木氏の問題提起は、国務大臣の答弁資料のアーカイヴズとしての保存一般の問題に繋がっていく。玉木氏も、文房具の問題から、国政にとってより根本的な、この問題に議論を広げてほしいと思う。
 さて、国務大臣の国会関係史料という場合に、鍵になるのは首相の国会での演説と答弁などのデータアーカイヴの問題である。
 周知のように日本では国務大臣の国会での発言のために、国会前日は霞ヶ関の省庁では、終夜、電気がつきっぱなしで、また深夜帰宅のためのタクシーが客待ちをしているという。これは無駄遣いであり、そもそも異常な事態である。イギリスの国会の答弁の様子をみていると、脇から役人が助けをだすなどということはありえない席の配置になっている。そんなに広くない会議室で2メートルも離れていないところで面と向かって質問と答弁、議論が行われる。机もないからメモなども自由には使えない。事前のレクチャーは別として答弁メモなどは作ってもしょうがない訳だ。だから、霞ヶ関が終夜明るいなどと言うのは、常識的には国辱ものの風景である。内閣は無能ですということの表現のようなものだ。
 とくに問題となるのが首相の国会関係文書であろう。福田康夫前首相が首相が退任する際に公文書を保存するルールを作るべきであり、記録を残すルール作りと首相専属の「記録担当補佐官」の創設を提言した。自分の在任期の文書は段ボールに入れて持ち帰ったというのは驚きの話しで、こういうのは平安時代の役所文書の処置の仕方である。たとえば愚昧記という貴族の日記の用紙は検非違使庁の貴重な文書が使われているが、これは記主が検非違使別当をやっていたときの文書を持ち帰って自分の日記の用紙にした訳である。
 これが変わっていないというのは驚くべきことだ。福田氏はご自分の経験と見聞からして、このままでは首相文書は廃棄や散逸してしまうという。福田氏が「日本の政治、行政のトップの記録は残して当然だ」と述べるのは正論である(毎日新聞2019年1月19日)。福田首相は就任直後に公文書保存に意欲をみせた。そのとき歴史学界が大きな期待をよせたことを覚えている。
 そもそも、首相文書は国民の税金をつかって作成されたものであるから、在任中に書いたもの、口述したものはすべて公文書である。アメリカ大統領の作成文書は在任期間中のすべての行政文書が(メモもふくめて)アーカイヴされるのは有名な話である。アメリカの大統領の文書は「大統領記録法」によって細大もらさず保存される。大統領の時間はすべて公的なもので高い金で国民が買い上げたものであるから、詳細な記録が必要であり、その職務遂行に関して作成・入手された文書となれば破棄するのは犯罪である。それゆえにホワイトハウスのスタッフは大統領に関する記録を分類してファイルを作り、厳密に保存されるのだ。それをアーカイブするための大統領の名前を付けた図書館がアメリカ各地にある。
 日本でも同じものが必要である。急ぎ、首相文書アーカイブ法案を議員立法で作ったらどうであろうか。なお、首相文書の公開には主題によって一定の年限が必要になることはいうをまたない。ただし、それには例外を設定してほしい。つまり首相文書アーカイブ法案には、国会での演説・答弁に関する文書、メモなどはすべて即時にオープンすべきである。これは国民が自分たちが時間雇用している首相が何を考えているかを時々刻々正確に認識するのは当然の権利だからである。
 なお安倍首相の演説メモや答弁メモには振り仮名がふってあるというのがもっぱらの噂であるが、それがどの程度のものであるかにかかわらず、これもすべて即時に公開すべきものである。
 是非、与野党をとわず、できるだけ早く議論してほしいものだ。少なくとも「改憲」の議論よりは先であろう。

2019年1月31日 (木)

腰袋と桃太郎

 下記は『物語の中世』(講談社学術文庫)という本に掲載したものですが、そろそろ版元品切れの状態ですので、オープンしてしまいます。ただ画像は載せられませんので、読みにくいとおもいますが、どうぞ。
 歴史教育で役に立つといいのですが。

腰袋と桃太郎


 桃太郎はおばあさんに作ってもらったキビダンゴを腰につけて旅立った。絵本などでは桃太郎の腰に袋が描かれ、キビダンゴはそこに入っていることになっている。
 昔、このような袋は、「腰袋」といった。たとえば、平安時代初期に成立した日本最古の漢和辞書、『新撰字鏡』には、「タイ、■(代巾)、己志不久呂(こしふくろ)」とある。また、江戸時代初めに成立した『日葡辞書』にも「コシブクロ、腰につけて携行する袋」とある。つまり、この言葉は、その間、中世を通じて「物を入れて腰にさげる袋」の意味で使われていたのである。
 もちろん、『仮名草子』(「奇異雑談集」5・2)にも「ていしゅ、此雁を市に出して売るべしとて、こしふくろに入れてこしにつけてゆく」などとあるように、この言葉は江戸時代になっても生きている言葉であるが、私は、研究の対象として最も興味深いのは、中世の腰袋であると思う。この小論の課題は、まずは中世の絵巻物の中に、この腰袋の画像を探り、その用途や意味を明らかにすることにある。
 そして、迂遠なようにみえるかもしれないが、それを通じて、桃太郎の旅立ちを象徴する「お腰につけたキビダンゴ」のはらむ暗喩の解明にいどんでみたいと思う。柳田国男*1、石田英一郎*2をはじめとして、最近の五来重*3、滑川道夫*4、中内敏夫*5の仕事にいたるまで、民話・桃太郎については、さまざまな議論が行われてきた。それらの議論は、たいへん興味深い論点をはらんでいるが、しかし、『御伽草子』などのテキストの中に、桃太郎民話の十分な痕跡がないこともあって、少なくとも歴史論としては、どれも確実性・実証性の点で不安が残っている。そういう状況の中では、この腰袋の問題は、桃太郎民話を再検討する場合のもっとも着実なよりどころとなるのである。
Ⅰ中世民衆と腰袋
袋はヨーロッパでは金銭を携行するのに使われる。日本では貴族や兵士のそれは香料や薬品、火打石を入れるのに使われる
 これは、中世末に日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスが執筆した、有名な比較文化論の書、『ヨーロッパ文化と日本文化』*6の一節である。ここに明らかなように、日本の腰袋の中にはさまざまなものが入っていたが、その代表は最後にあげられた火打ち道具であった。そのため、普通、腰袋は火打袋といわれている。火打袋という言葉の用例のもっとも早いものは、『源平盛衰記』十六「円満院大輔登山事」の「燧・附茸・硫黄など用意して、燧袋にしつらひ入れ」という一節であろう。袋の中には燧石以下の発火用具一式が入っていたのである*7。また日蓮上人の書状に「としごろ申つる念仏は捨て候ぬとて火打袋より数珠とりいだしてすつる者あり」という一節も早い用例である。ここからは腰袋の中には数珠なども入っていたことがわかる。ようするにそれは、今でいえば、スキーや山歩きなどの時に使うベルトポーチのようなもの、男の小物入れなのである。なお、女の場合、中世では、脇や胸に護符などの入った護袋を懸けることがあったが、それも実際上は小物入れとして使用されたようである。さしずめ、男のベルトポーチに対して、女のポシェットということになるだろうか。
①腰袋・火打袋の画像
 宮本常一の執筆にかかる絵巻物の図像事典、『絵巻物による日本常民生活絵引』*8の索引には、火打袋の図像が全部で三九箇所も数え上げられている。もちろん、それは絵巻に現れる火打袋のごく一部であるが、それを時代順に並べてみると、まず『伴大納言絵詞』の一例、そして、『鳥獣戯画』から一箇所、『粉河寺縁起』から一箇所*9、『北野天神縁起』から2箇所、『一遍聖絵』から7箇所、『当麻曼荼羅縁起』から四箇所、『男衾三郎絵詞』から一箇所、『天狗草紙』から一箇所、『石山寺縁起』から四箇所、『絵師草紙』から二箇所、『春日権現験記絵』から四箇所、『融通念仏縁起』から一箇所、『法然上人絵伝』から5箇所、『福富草紙』から二箇所、『暮帰絵詞』から三箇所、となる。つまり、平安時代末期に成立した『伴大納言絵詞』以降、だいたいどの中世の絵巻にも火打袋は現れるのであるが、この三九箇所という数字は、『絵引』索引の一個の項目の中に数え上げられた頁数としてはきわめて多い方に属する。火打袋は身につける小道具としては絵巻物にもっともよく現れるのものの一つであることがわかる。
 まず、知られている限りもっとも古い図①の『伴大納言絵詞』の図像についての『日本常民生活絵引』のの解説を聞こう。
流される伴大納言を送っていく検非違使や随兵の最後にいる男。下部の一人で、長柄傘持ちである。多分は検非違使の用いる長柄傘であろう。烏帽子をかぶり短袖の着物を着、裾のきれたような四幅袴をはき、裸足ではしっている。もっともみじめな服装といえる。その腰に火打袋をさげている。火打袋のことは『古事記』に倭比売命が日本武尊に草薙剣と火打袋を与えたことが出ており、『万葉集』にも「須理夫久路」という言葉が見えている。火打袋は火打金、火打石が入れてあり、火をおこすときに用いるものであり、旅にはなくてならぬものであったから、親しい者の旅に出るときなど、これを餞別におくったのである。『紀貫之集』にも「をりをりに打ちてたく火の煙あらば心さすがにしのべとぞ思ふ」という歌がある。そのほかにも類似の歌がいくつかある。火打袋は多く皮革でつくってある。丈夫だからであろう。火打袋ははじめはこの図に見られるように刀も帯びない丸腰につけていたものであるが、後には刀の鞘につけるようになった。鞘に孔をあけ紐の付けられているのはこれを吊る紐をつけるためであった。
 さすがに要をえた解説であるが、いくつか補足すると、まず、倭比売命が日本武尊に草薙剣と火打袋を与えたというのは、いうまでもなく、小碓命(ヤマトタケル・ヤマトオグナ)が東国に出発するに際して、伊勢神宮に立ち寄り、おばの倭比売命がはなむけに草薙剣と「御嚢」を贈ったという話である。そして、相模国焼津の野で火攻めにあったヤマトオグナが、「御嚢」の中を探ってみると、そこには火打石があった。彼は草薙剣で草を薙ぎ、火打を使って向火を焼き、その場を逃れたという訳である。前近代の人々にとって「嚢」はもっとも手近な密閉空間であり、その内側に何かの神秘を求める感情は普遍的なものであったといえよう。神話世界においては、その他にも、イザナギが冥界から帰還した時の清めの際、「次に投げ棄つる御嚢に成れる神の名は、時量師神」という記事があり(『古事記』)、また彦火火出見尊を海界に案内した塩土老翁が「即ち嚢の中の玄櫛を取りて土に投げしかば、五百箇竹林に化成りぬ」ともある(『日本書紀』神代,第十段、この竹林を切って目無堅間の籠をつくった)*10。このような神話・伝説は、腰袋・火打袋がきわめて古くから男たちの腰につけられていた事実を反映しているのではないだろうか*11。ここでは、これ以上、神話の背景にあった具体的な事情を想像することはできないが、ヨーロッパアルプスの氷河の底からほとんど痛まないままの遺体が発見されたという、原始人・アイスマンの腰にもポシェットが装着されていたということである。日本でも、そのような袋の発見は行われているようであり、それにもとづいて袋の考古学的集成が進展し、さらに新たな分析が可能になることを期待したいと思う。
 また『絵引』の解説がいう『万葉集』の「須理夫久路」というのは、『万葉集』(巻一八、四一三三)の「針袋これは賜りぬすり袋今は得てしか翁さびせむ」という和歌のことである。ただ、この「すり袋」について『日本古典文学大系』頭注は、『和名抄』行旅具に「楊子漢語抄云、■(竹鹿)(竹冠の下に鹿)子、須利、竹篋也」とあるのをとって、竹の小箱と解釈している。もしそうだとすると、火打袋であるかどうかに疑義が生ずるようであるが、私も『絵引』と同様に、「すり袋」とあることを重視したいと思う。いずれにせよ、■(竹鹿)子も別の表現では燧笥(ひうちげ)といわれたもので、腰につけられていた可能性が高い。この燧笥は『大和物語』一六八話に「蓑一つ着たる法師の腰にひうちげなどゆひつけたるなん」とみえており、また『梁塵秘抄』(巻二、三〇六)に「聖の好む物」としてみえることは有名である。おそらく図②に掲げた『石山寺縁起』の男の腰の小篭のようなものがそれにあたるだろう。なお、『兼盛集』に「旅人は、すりもはたごもむなしきをはやもていましね山のとねたち」とあることからすると、「すり」には、火打袋と同様、火打道具のみでなく、何か別の小物・貴重品も入れられていた可能性があることもわかる。
 『絵引』の説明で次ぎに重要なのは「火打袋は多く皮革でつくってある」という指摘である。火打袋が革製であることは、すでに江戸時代の好事家の記述、たとえば『守貞漫稿』(喜多川守貞、第三十編雑器及嚢)、『古今要覧稿』(屋代弘賢、第二百一・二百二、火打袋)などにもみえ、『絵引』はそれらによったのであろう。たしかに、『源平盛衰記』(巻四四)は、右の日本武尊・小碓命の「嚢」について、「今の世までも人の腰刀に錦の赤皮を下げて火打袋と云ふは是故也」といっている。また『太平記』(三三)にも「虎の皮の火打袋」という言葉がみえる。たしかに中世の腰袋が革製を基本としていた可能性は高いと思う。絵巻に描かれた腰袋の画像がしばしば薄茶色であることも、それが生(き)の皮革の色に近いとすれば了解できることである。しかし、問題なのは、火打袋の作り方や仕組みがよくわからないことである。図③・④・⑤・⑥などに、火打袋の仕組みを示唆すると思われる画像をかかげてみた。図③は『一遍聖絵』からとったもので、後腰にさされた腰刀に二本の紐で装着されている様子がわかる。図④は『春日権現験記絵』からとったもので、男が口にくわえた腰刀から二本の飾紐によって腰袋がぶらさがっている。これらの紐は腰刀の下緒(さげお)であって、下緒は腰刀の鞘口のあたり*12から下がっているのである。そして、図⑤は『法然上人絵伝』からとったものである。他の図と同様、腰袋の横面に襞(ひだ)があり、その真ん中に穴があいているようにみえる。また、図⑥は比較的明瞭な図像として『慕帰絵詞』からとったものである。
 これらの画像は基本的に同一であり、そこからわかるのは、火打袋の表側にはかならず襞(ひだ)があること、、腰刀の鞘口から下がる二本の下緒が、火打袋の内部または裏面を貫通していること、しかもその緒は火打袋の下部で一度結束されているようにもみえることなどである。この二本の長い紐を利用して、袋の口を開閉して、物を入れたり出したりするのであろう。で近世の好事家たちも、このような点に興味をもったようで、たとえば、『好古小録』は
燧袋ヲ佩タル図、古画ニ散見シテ其製知ルベカラズ、一画巻ニ両面共ニ襞アルコトヲ知ルベキ図アリ、依テ試ニ一嚢ヲ製シテ博古ノ訂正ヲ俟チシニ、其後一故家伝フル所ノ古物ヲ得タリ、余ガ所製ト附合ス
として、次のような図(図⑦)を掲げている。
 『好古小録』は、このような構造であった理由として、「或云燧袋両口ニシテ、一口燧ヲ納レ、一口発火ヲ納ルト、其拠ヲ知ラザレドモ、理或ハ然ラン」と述べている。『好古小録』の著者が見た「両面共ニ襞アルコトヲ知ルベキ図」のある「絵」がどのようなものであったかは解らないが、しかし、この復元案の弱点は、腰袋を結束する二本の緒が、火打袋の内部を貫通しているようにみえる絵巻物の図像には照応しないことである。それを満足させるように火打袋の仕組みを推定してみると、次の図⑧のようになるだろうか。仕立て方はいろいろな手技とコツがあるのだろうが、それにもとづいて実際に手製してみたものの写真を図⑨にかかげてみた。この案が正しいかどうかは別として、ともかく、何よりも興味深いのはすでに近世の段階で、中世風の腰袋・火打袋が伝世しておらず、その仕組みがわからなくなっていることであり、この点も、腰袋が中世独自のものであったことを証明している。
②腰袋の中の銭
 さて先述のように、ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』には「袋はヨーロッパでは金銭を携行するのに使われる。日本では貴族や兵士のそれは香料や薬品、火打石を入れるのに使われる」とあるが、腰袋に銭を入れることがなかったかといえば、そんなことはない。
 まず文献史料では、古く奈良時代、銅銭の流通を命じた法令に、納税のために京上する人夫には「一嚢の銭」をもたせて往還の便をはかれとある(『続日本紀』和銅六年三月一九日条)。また平安時代初期、貞観永宝発行に際しての清和天皇の詔にも、当時、一種の激しいインフレーションが起きていて、銭が「嚢裏にたくわえて使いがたく、杖頭に懸けて用に乏し」い状態であったという一節がある(『三代実録』貞観一二年正月二五日条*13)。「杖頭に懸けて」、つまり杖の頭部に銭緡(ぜにさし)をひっかけて持ち歩く風俗と対になっていることからすると、この「嚢=袋」も単に貯蓄用ではなく、携帯のためのものであったことは明らかで、おそらく腰袋であったに違いない。つまり、だいたい八世紀から九世紀にかけての、いわゆる「皇朝十二銭」の時代には、銭を腰袋に入れて携行する風習があったのである。そして中世については、『太平記』(巻三五)の北条氏の被官であった鎌倉武士・青砥左衛門の話が参考になる。これは、戦前には美談として「修身」の教科書に載せられていてたいへんに有名な話であったが、廉直で知られた彼は、ある夜、幕府の役所に出仕する途次、「イツモ燧袋ニ入テ持タル銭ヲ、十文取ハズシテ、滑河ゾ落シ入タリケル」ことがあったという。今でも宇都宮辻子にあった幕府への道筋にあたる滑川のたもとには、それを記念する石碑が立っている。これが美談である所以は、彼が、近辺の町屋で五十文の続松を買って川をさらって銭を拾い出し、そして、十文を取り戻すために五十文の銭を使う無駄を嘲笑した同僚に対して、天下の廻り物の銭をなくしてはならない、続松を買った銭は商人のものとなって民を利するが、川底に沈んだ銭は永久に失われてしまうと説いたためである。やや嘘臭い話ではあるが、実は、この話も火打袋に銭を入れたことの証拠として近世の文人がすでに注目するところであり、『花鴬談』には、茶道の千宗旦がこの青戸左衛門所持と伝える火打袋をもっていたという記録さえある。また『愚得随筆』(朝倉景衡)には「横づらにくちを付たる袋なる故、紐のしまりゆるびて銭ころび出たるなるべし」という細かな観察まであって参考になるのである。
 北条氏は全国的に貨幣の流通を促進しようという政策をとっていたと考えられるふしがあり、この説話はまったくの作り話ではないかもしれない。ただ、火打袋の中に銭が入っていた証拠として、より雄弁なのは絵画史料である。
 図⑩は、『地藏菩薩霊験記絵』の一場面である。この場面では、願ってもないことに、男が火打袋を開けている様子がわかる。おそらく釣りの帰りなのだろう、肩に担った釣り竿に魚とネギを付けた男が、両手で腰の袋を開けている。これをみると、やはり横面に開閉口があるようで、しかも重要なのは、先に推定したように、二本の紐が下の方で結束されている様子が明らかなことである。『近世風俗誌』(第三十編雑器及嚢)に、「緒締は木欒子(もくれんじ)に孔に穴を穿ちて用之」とあるのが正しいとすると、ムクロジの実(四センチ大、黒色)に穴をあけ、火打袋の下部で紐を通して締めていたのであろうか。
 問題なのは、男に向かって、錫杖を持った僧形の人物が柄杓を差し出していることである。詞書によれば、実は、この僧形の人物は、左側に描かれた地藏*14の霊験によって「冥途よりかえりたる入道」であった。入道が「あ((悪))しきやまふ((病))をしてく((死カ))にて侍りしが、閻魔宮とおほしき所にまひりて侍りし程に」、この地藏に救けられて蘇ったというのである。恩返しのために何をしたらいいかと尋ねた入道に対して、地藏は「我いたる東の道、四・五町、水の流れて冬などは道行くものの嘆くなり、その道を作らんのみぞ、我身にとりて望む事にてある」と答え、「我もちたる錫杖をもちてすすめば、人もうけひく(承引)べし」といって、道作りの勧進のための証拠として錫杖をわたしたという。この場面は、その道作りの勧進の場面なのであった。
 だから、柄杓を差し出しているのは、勧進・喜捨を乞うためである。今でも、教会などで「献金」の時には小さな柄付き袋が回されるが、この『地藏菩薩霊験記』の柄杓にも銭が入れられることは明らかである。つまり、柄杓を突きつけられた男が腰袋から取り出そうとしているのは、銭であったことになる。
 こういう柄杓の使い方は、中世、きわめて一般的であり、やや時代がくだるが、寺社参詣曼荼羅の中にも、図⑪のようなヒシャクはしばしば見ることができる。さらに重要なのは、図⑫の『石山寺縁起』(巻五)である。ここには、石山寺から京都にむかう山道のほとりに小さな御堂があり、その前で、僧が柄杓をだして勧進している様子をみることができる。ということは、このような山道を通行する人も普通に小銭を持ち歩いていたことを意味し、その場合、やはり腰袋が財布の役割をしていたと考えるほかない。そして、『石山寺縁起』の成立は、正中年間(一三二四ー二六)とされているから、遅くとも鎌倉時代末期には、柄杓による銭の勧進、そして腰袋の財布としての役割があったことになる。
 ということは、つまり『一遍聖絵』などの鎌倉時代の絵巻物に描かれた庶民のつけている火打袋の中には、相当の確度で銭が入っていたのである。このことは、中世の民衆経済史の上で、実に重要な事実を示唆している。もちろん、これまでも、鎌倉時代、庶民が銭を利用していたことは指摘されていた。しかし、文献史料は、それ自体としては年貢の代銭納のための銭に関する史料であったり、断片的であったりして、民衆の中での銭流通の量や広がりを想定するには隔靴掻痒の感があった。また絵画史料だと、たとえば、『絵引』は『一遍聖絵』の備前国福岡市の場面に、銭をもって布を求める男が描かれていることなどを指摘している。しかし、男たちが日常携帯する火打袋の中に、ごく普通に小銭が入っているというのはまったく新しい問題である。
 問題は、彼らがいったいこの小銭を何に使っていたかということだが、『地藏菩薩霊験記絵』の場面をもう一度見ていただきたい。道作りの風景の後ろ、地藏の御堂の右側には、茶釜と茶臼や茶碗を置いた建物がある。正面で僧侶が茶を立てていることでもわかるように、この建物は茶屋としての機能をもっている。そして、道作りの勧進の時は無料で茶を接待することもあっただろうが、普通はいわゆる一服一銭の売茶屋になっていた可能性があるだろう。『洛中洛外図屏風』に描かれた一服一銭の茶屋については、今谷明の研究があるが*15、この茶屋の画像は、『洛中洛外図屏風』の時代をはるかに逆上る貴重な画像であるということができる。また、図⑬は『一遍聖絵』に描かれた伊豆国三島社門前の町屋の様子であるが、女が烏帽子をきた男に草鞋を差し出しているのがみえるだろう。男の前に黒い馬柄杓をもった男(左側で下馬して三島社を礼拝している侍の従者である)がいるためにわかりにくいが、渡政和もいうように*16、男は、腰のところに手をやって、あたかも代金の銭を探っているという様子である。もし、これが認められれば、この画像は火打袋に小銭が入っていたことを示す最古の史料ということになるが、いずれにせよ、街道を行く男たちは、このようにして、街道筋の町屋で小銭を使用していたのである。
 そもそも火打袋自身も、市町で商品として売っていたはずである。今のところ、それを明証する史料を提示できないが、ただ、南北朝期、一三四三年(康永二)の史料にみえる京都四条町の小物座、つまり小物を売る商店街の狭い土地に小物の女商人四人と同居していた「腰座商人四人」というのは、おそらく腰袋を商っていたのであろう。というのは、立地からして彼女らは小物の「腰」のものを取り扱っていたことになるからである。彼女らはおのおの一つづつの櫃を置いて営業する権利をもつのみの小商人であったが、南北朝期の京都にはいわば腰袋専門店が並んでいたということになる*17。また、図⑭の町屋は『福富草紙』からとったものであるが、棚の一番上の右側に草履とならんで下がっている丸いものは、『絵引』のいうように、火打袋であろうか*18。もしそうだとすると、火打袋は京都の普通の町屋でも売っていたということになる。
 さらに推定を続ければ、図⑮は『一遍聖絵』に描かれた備前の福岡市の一郭に描かれた仮屋であるが、この棚に下がっている薄茶色や赤色の丸いものも、火打袋ではないだろうか。前述のように、火打袋が、丸く切った皮・染革によって作られていたとすると、この画像を火打袋(というよりもそのための染革)とすることに違和感はない。同じ棚に緒のような赤紐が下げられているのも適合的であろう。地方にも革作、染革の職人がいたことを示す史料は、平安時代からあるが*19、鎌倉時代、幕府が「諸方地頭等并町屋沙汰人」に対して、薬染の色革を禁止しているのは、染革職人と地方の町屋の関係を示す史料である(『鎌倉遺文』⑫八六二八)。彼らが武具生産にのみ専従していたとは考えられない。腰袋が本当に皮革製品であるとすると、それは彼らの生産する庶民向けの日用製品の代表になるはずであり、地方市場でもそれが売られていたとして問題はないだろう。この福岡市の屋台は、染革座の出品をふくむ小物座の仮屋なのではないだろうか。
 このようにして、鎌倉時代後期は、貨幣の日常的携帯にもとづく消費経済が民衆の間にも深く浸透しはじめた時代なのであり、これこそが中世の貨幣経済のもっとも広範な基礎であったのである。そして、先述の青戸左衛門が落とした銭が「十文」、つまり銭十枚であったように、それが小銭使い経済であることを忘れてはならない。『沙石集』には女性が「金を五十両、守の袋に入て、首にかけて上洛しける」とか、男が道で落とした「袋」の中に「銀の軟挺六」が入っていたという話*20があるから、腰袋に金銀などが入れられる場合もあったであろうが、少なくとも庶民のレヴェルでは、貨幣の使用は卑金属少額貨幣(銅銭)が中心だったのである。
 そもそも、銅銭はかさばるものであって、しかも腰袋の中には、火打ち道具その他が入っているのだから、そんなにたくさんの銭は入らない。実際に手製してみた図⑨の火打袋などは火口(ほくち)の替わりにちり紙をパンパンにつめて、どうにか丸い感じになっているのである。その意味では、火打袋はやはり火打袋であって、銭袋ではなかったのであるから、問題を戻すようであるが、ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』が、日本の腰袋はヨーロッパにくらべて金銭というよりも香料・薬品・火打石などの小物を入れるための袋であるというのは正しい側面もあるといえるかもしれない。しかし、厳密には日本の腰袋の中にもどんなに少額であれ、銭が入っていたのである。彼我の相違は、ヨーロッパの貴金属貨幣文化と日本の卑金属貨幣文化の相違全体の問題として、今後よりいっそう広い視野から捉えていかねばならないだろう。
③腰刀と腰袋
 さて、先にかかげた腰袋の画像をみればわかるように、中世の腰袋・火打袋は一般に腰刀に付けられるようになっている。そして、この腰刀の画像は、中世の絵巻物にはきわめて一般的であって、絵画に描かれた庶民の男の腰には、ほとんどの場合、その左腰に腰刀があるといってよいほどになる。腰刀は中世の成人男子の「身分標識」ともいえるような性格をもち、黒田日出男によれば、中世は「いわば民衆が腰刀を差す作法の時代」でさえいわれるほどである*21。ただ、厳密には腰刀の携帯の風習それ自体がどのような理由でいつ頃始まったかなどの問題は未解決のままであるが*22、平安時代末期の成立といわれる『粉河寺縁起』には、多くの腰刀の画像が描かれている。数字でいうとどの程度の普及度であったかはもとより不明なものの、遅くともこの頃には腰刀の使用は一般化していたといってよいであろう。広島県の有名な川底の市町遺跡、草戸千軒から出土した腰刀(あるいはその鞘や柄)に関する分析によると*23、中世前期では、腰刀は一般に呑口式という柄が鞘にやや嵌入するするスタイルで、その長さは36センチほど(約一尺一寸余)であるという。そして、鎌倉の佐助ヶ谷遺跡でも、草戸千軒のそれと長さ・規格の点でほぼ同様の大量の腰刀が出土している。しかも草戸千軒では、鎌・鍬先などよりもはるかに多く腰刀の関係遺物が出土しており、農村ではたとえば鍬と腰刀の普及率の相対比はどうかなどは不明であるとしても、特に都市的な場所では、腰刀がきわめて一般的な道具であったことが明らかになっている。腰刀の機能は、まずは工具(木工その他のナイフ・鉈・根掘りシャベルなど)としての意味が高かったと考えられるが、護身用の武具でもあったことはいうまでもない。それのみでなく、考古学の河野真知郎が「この当時まだ料理用の庖丁というのは確立・分化していなかったようである。絵巻物でも『腰刀』と同じような小刀が描かれている。(中略)。この腰刀は万能小刀で、調理の際には庖丁にもされたらしい」と述べているように*24、腰刀には食事用・調理用の庖丁・ナイフとしての意味があった。これは男の食物配分権、家父長権を象徴するものであった可能性も高い。またさらに、中世の貴族・武士などの夫婦の寝室にはしばしば「枕太刀」が置かれているが*25、庶民の場合にも枕頭に腰刀があることを示す絵は多く、このことも腰刀と家父長権の不可分の関係を物語っているようである。
 ようするに、だいたい南北朝時代頃までの腰刀は万能小刀、万能ナイフとして、民衆の腰のあり方を特徴づけるものであったのである。問題は、この腰刀に、いつ頃から腰袋が装着されるようになったかということであるが、やはり平安時代末期の成立と想定される『鳥獣人物戯画』(丙巻)に、腰袋が腰刀に装着されている様子が描かれている例(図⑯)、また同じ時期に成立した『粉河寺縁起』の例(図⑰)が、相対的に早い事例であろう。もちろん、注意しておくべきことは、絵巻に描かれた成人男子の腰刀につねに腰袋が下がっているとはいえないことである。『絵引』の索引の腰刀の項にはその掲載頁が九三箇所あがっているが、腰袋の掲載頁は先述のように多いとはいっても三九箇所である。たとえば『粉河寺縁起』には腰刀の画像は多いが、腰刀と腰袋のセットは例外的なものであって、右の⑲の一例だけであることも留意しなければならない。また『一遍聖絵』には総ざらいしてみたところ、(武士が太刀とともに差しているものも含めて)五三ヶの腰刀の画像が描かれているが、それに対して、腰袋の画像は一六ヶでしかない。これは、腰刀は腰の前後に突き出ているから描かれやすいが、それと比べると腰袋はそもそも描かれにくい位置にぶらさがっており、腰袋の画像は、腰袋が腰の後ろに飛び出しているか、または、左向きの人物像で、よく下半身がみえる場合以外には描かれないという事情にもよっているだろう。しかし、腰刀は描かれていても、その鞘に腰袋が下がっていない場合も多いのである。
 だから、腰袋を腰刀に装着する風習が、いつ頃、どの程度に一般化したかも、現在のところ確定できないのであるが、しかし、それにしても、『粉河寺縁起』の成立した頃から約一〇〇年余がたって、鎌倉時代後期、一二九九年に成立した『一遍聖絵』になると、腰袋の画像はたしかに目立ちはじめる。たとえば、図⑱をみると、左端の乗馬の男の腰と右側の中州に脱ぎ捨てた着衣の上の二箇所に腰刀・腰袋が描かれている。『一遍聖絵』には、このように一場面の群像の中で複数の人物が腰袋を装着している例を三箇所確認することができる*26。これは男の群像を描く場合に腰刀・腰袋が必須であった事情を示しているといってよいだろう。そして、腰袋を腰につけているのは、『一遍聖絵』をみただけでも、従者・所従とおぼしき人物から、非人、下級の僧侶、下級武士にいたるまできわめて多様な身分に及んでいるのである。
 黒田日出男は、中世は「いわば民衆が腰刀を差す作法の時代」であるとしたが、もしそうだとすれば、同じ理由で、日本中世はいわば「民衆が火打袋を腰にさげている時代」ということもできるのではないだろうか。すでにみた画像が示すように、中世の絵巻の腰袋はみなほぼ同じ仕組みで、すべて腰刀への装着を前提にした製品となっているのである。その中で、たとえば今の世の男たちが「ワイシャツ」を着て「ネクタイ」をしめることと同様、成人男子たるものは、本来、腰刀と腰袋をつけているのが普通であるということになったのではないだろうか。もちろん、いわば「ワイシャツ」は着たが「ネクタイ」を付けていないというのと同じように、ちょっとそこまで行くときには、腰刀は差して行くが、腰袋はつけていかないというようなことはあったであろう。男にとっては刃物はどんな場合でも必需品だが、火打袋=財布は必ずしも持って出ない、あるいはそもそも持っていないということもあったのかもしれない。さらに、図⑲は、大工たちの建築現場での群像であるが、腰袋をつけているのは杖尺をもった棟梁だけで、他は腰刀はしていても腰袋を下げていない。このことは、腰刀・腰袋のセットには、多少なりとも正式の扮装であるという身分的なニュアンスがあったことを示すのかもしれない。
 そのような事情を具体的に説明することは、現在のところなかなかむずかしいが、中世の庶民男性にとって、腰刀=腰袋の携帯が、成人男子としての資格や身分意識にもかかわるような問題であったのことは明らかである。また、特に腰袋の携帯の一般化は、おそらく、平安末期、銭の流通が「復活」して以降の時代に属する現象で、特に鎌倉時代において貨幣の流通が拡大し、日常的に銭を携帯する風習が生まれたことが大きな条件となっていたとみるのが自然ではないだろうか。そして、鎌倉後期から室町時代にかけて貨幣流通が活発化し、銭の使用が一般化していく中では、腰袋の不所持=銭の不所持は、たとえば現代の男が財布をもつのを忘れて家を出た場合に感じるのと同じような日常意識における一つの不安をもたらすようなことになっていたのではないだろうか。
④腰刀・腰袋の消滅と太刀
 腰刀=腰袋のセットを考える上で、象徴的なのは、前掲の『一遍聖絵』の図⑱である。男は、橋のたもとで馬に水浴させるために着衣を脱ぎ捨て、その上に、烏帽子・腰刀・腰袋のセットを置いている。これらの小物にそくしたいい方をすれば、裸体の男子が着物のほかに身につけるものは、頭の「烏帽子」、腰の「腰刀」、そして「火打ち石」と「銭」の入った「腰袋」であるということになるのである。
 かって「中世民衆のライフサイクル」*27という論文で検討したように、烏帽子と腰刀と腰袋は、セットとなって男子の元服を表現している。腰刀=腰袋の装着が風習として広がり、一種の規制力ももちはじめる上では、元服のような儀礼的慣行がもった意味が大きいことは明らかである。もちろん、史料的条件もあって、庶民の元服儀礼の詳細は不明な部分が多いが、特にすぐにふれる桃太郎論との関係で注目されるのは、『御伽草子』の「ものぐさ太郎」に現れる「男は三度の晴業(はれわざ)に心つく、元服して魂つく、妻を具して魂つく、または街道なんどを通るにことさら心つくなり」という命題である。このような通過儀礼のあり方が古くから一般的であったことは、『伊勢物語』の「初冠(ういこうぶり)」の段で、初冠=元服が、狩猟と「婚」の旅でもあったことを考えれば明らかで、「元服」と「妻を具す(=婚姻)」と「街道なんどを通る(旅)」の三つは、相互に深く関係していたのである。特に問題なのは、『絵引』が「火打袋は(中略)、旅にはなくてならぬものであったから、親しい者の旅に出るときなど、これを餞別におくったのである。『紀貫之集』にも「をりをりに打ちてたく火の煙あらば心さすがにしのべとぞ思ふ」という歌がある」という通り、腰袋、火打袋には、中世人の意識にとっては旅と切っても切れない連想がはたらいていた*28。そして、中世では、火打石のみでなく、腰袋が旅の途中で支払う小銭のための財布としての役割をもっていたことはいうまでもない。もちろん、若干の小銭が入るだけとしても、腰袋は銭を携帯していることの象徴であったのである。
 このようにして、腰刀=腰袋は、元服儀礼を通じて、中世社会の庶民男性の自己意識の一部を構成していたのであるが、その対極にあるのが、武士身分を象徴する太刀(および弓)であったことはいうまでもない。逆にいえば、弓馬の士たる武士は、本来、庶民のものである腰刀=腰袋を腰に付けることはしない。彼らの腰の物で、腰袋に対応するものは太刀につけられた弦巻である。『宗五大草紙』(『群書類従』武家)に「火打袋は四十以後さぐる。但それも晴(はれ)の時は斟酌あるべし。殊に大なるはわろし。さりながら宿老入道はくるしからず」とあるように、腰袋は、身につける場合でも、武士にとって現役を引退した老人の象徴であり、「褻」の装束であり続けたのである。
 しかし、このような武士ーー庶民の身分的・階級的な差異をもふくむ価値観は、中世後期になると徐々に変容を遂げていく。まず、考古学的な分析によれば、前述のようにほぼ同じ一尺一寸の長さや仕様をもって全国的に使用されていた腰刀の規格自身が西でも東でも変化していったという。「中世前半には万能刃物として広く使われてきた腰刀が、それぞれの使用分野で用途が特定されるに従って、次第に様々な形態に分化した結果(巾広の庖丁などが出現するという)、中世後半には護身用・戦闘用としての明確な目的を持った刀(呑口式が合口式になるなど)として分離され発展し」ていき、一五世紀以降になると、遺跡からは上記の意味での万能刃物としての腰刀が(および沢山出土していたそれを研ぐための砥石も)ほぼ消失していってしまうというのである。*29。これは絵画史料でもほぼ同様であって、安土桃山時代の『洛中洛外図屏風』では、腰刀は中世前期の絵巻物のように目立つ存在ではなくなっている。腰袋も同様であって、かろうじて確認できる場合でも、図⑳にみられるように、それは腰刀に下げられずに丸腰、しかも右腰に下がっている。この画像自身は、突き出された柄杓からわかるように、腰袋に銭が入っていることを示すものとして重要なのであるが*30、よく見ると、腰袋の構造そのものがいわゆる巾着のように変化していることがわかるだろう。
 また絵画史料では、図(21)のような事例が注目される。これは室町時代後期に成立した『暮帰絵詞』の第七巻からとったものであるが、この中間風の男は烏帽子をつけず、長刀を腰に佩き、同時に腰袋付きの腰刀をも差している。おそらく同行の商人(?)の護衛ではないだろうか。このような太刀・腰刀・腰袋の三点セットは本来の中世的な武装のあり方では考えられないことである。武士が太刀と腰刀の両方を腰に差していることはありうるが、その腰刀に腰袋が下がっているというようなことはありえない。そして、このように正規の武士身分とは考えられない男が、太刀をもっていることがありえないのはいうまでもない。彼の差す太刀は、その身分が武士に近いことを示し、腰刀と腰袋はその身分の庶民性を示しているといえようか。ここには、中世的な「腰のもの」のあり方の身分的格差が流動化し、地域社会の中に、太刀の所持が浸透している状況が現れているのである。このような中世的価値観の崩壊状況の延長線上に、よく知られている織田信長の「異相」、つまり『総見記(一)』が「信長の御形儀、甚以て異相なり、不断着し給ふ明衣の両袖をほつしになされ、半袴、燧袋、色々数多着せらる」と述べているような異相(『織田軍記』、史籍集覧、通記類)があるのではないだろうか。
 問題は、室町時代後期・戦国時代の庶民社会において「太刀」が、どのように存在したかということにかかわってくるが、これについては、当面、藤木久志のいくつかの指摘が参考になるだろう。藤木は、一五六六年(永禄九)の近江国甲賀郡柏木三方同名中惣の「申合条々」が、咎人の密告者に「拾貫」と「(太刀)一振」を与えるという史料、また刑罰の執行者に対する褒美が「太刀代」と呼ばれている史料などを提示して、太刀が中世における重要な身分標識であったこと確認しつつ、これらの史料によって、地域社会の内部に「(太刀の給与による)身分変更」の状況や、「刀をめぐる共通の儀礼や慣行」の発生を推測している*31。特に後者の刑罰の執行者に「太刀代」が給与されたことを示す史料は村と地域の中における新たな「刑吏」的存在の発生を意味しているように思われ、それは後に述べるように、「武士=もののふ」身分の本質が刑吏にあったということとの関係できわめて興味深い。
 ようするに、以上のような、一方で腰刀=腰袋の日常的着用が実質的に消滅しつつあり、他方で、民衆の中から太刀を佩用する存在が登場するという事態は、中世的な「腰のもの」の身分的なあり方の全体的な変貌を意味している。中世後期における庶民の腰からの腰刀=腰袋の消失は、「物」の消失であるとともに、社会や身分状況の大幅な流動化を表現しており、同時に、「太刀」というより上位の身分の象徴物を所持する風習の下降拡大、それ故「身分上昇」とパラレルな関係にあったのである。ここに、腰刀=腰袋の時代、中世という時代は終わったということができるだろう*32。
Ⅱ桃太郎民話の諸要素
 さて、いよいよ以上の腰袋・腰刀の検討をふまえて、桃太郎民話について論じることとしたい。この場合、歴史学にとっての最大の問題は、桃太郎民話を物語る中世のテキストが一つとして存在しないことである。本書の次章で検討する「三年寝太郎」は、『御伽草子』の中に「ものぐさ太郎」というほぼ同一の筋書きをもつテキストをもっているが、桃太郎民話には、そのような好都合なテキストは残されていないのである。それ故に、研究者は、現状のような桃太郎民話が、中世に語られていたかについて懐疑的にならざるをえない。しかし私は、すくなくとも桃太郎民話を構成する要素という点からみると、そのおのおのの要素は、中世社会の中に確実に存在していたのではないかと思う。その諸要素とは、まずは「お腰につけたキビダンゴ」、そして「鬼ヶ島への遠征と鬼退治」、さらに「川上から流れてきた桃」となどとなるだろう。
 以下、まずはこれらの三つの要素に即して、順次に問題を検討していきたいと思う。もちろん、中世に桃太郎民話に相似した話が語られていたかどうかを先入観をもってみてはならないが、逆にそれが存在しなかったと頭から決めつけることもできないはずである。考えてみれば、そもそも中世社会の中で、どのように民話が語られていたのか、親や老人が子どもに昔話を語ることがあったのであろうかなどという基礎的な問題が、現在の研究段階では、我々にはほとんどわかっていないのである。
①「お腰につけたキビダンゴ」と交換
「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたキビダンゴ、一つ私に下さいな」「あげましょう、あげましょう、これから鬼の征伐についてくるならあげましょう」。
 この耳に親しい童謡が示すように、桃太郎の旅は、「キビダンゴ」によって順々に「犬」・「猿」・「雉」の関心と忠誠を買うことによって展開する。桃太郎民話の話型の興味は、「キビダンゴ」を動物たちにあたえながら旅を続けるという点にあるといってよいように思う。図(22)は江戸時代の桃太郎民話を伝える赤本からとったものであるが、少なくとも、この段階では、桃太郎の腰にはたしかに「キビダンゴ」が結い付けられているのである。
 もちろん、「キビダンゴ」が、成立期の桃太郎民話の中に存在したということを論証することはできない。しかし、おそらく桃太郎民話の中には、その成立の最初から「キビダンゴ」の話が存在していたのではないだろうか。そう考える根拠の一つは、「キビダンゴ」が民話・猿蟹合戦にもしばしば登場することである。それは、キビダンゴという「物」が特定の意味をもって語られていた可能性を示している*33。たとえば、柳田国男は豊前地方につたわる猿蟹合戦の類話で、馬方の息子が父を殺した山爺に復讐するために、キビダンゴによって栗・針・石臼・粘土などに助太刀を頼んだという話に注目している。そして柳田は、猿蟹合戦について「この交換の成立という点に、話の中心が置かれていたとも見られる」とし、「こうなると癒々もって桃太郎の方に話は近いのである」としている。柳田は、そもそも猿が蟹にあたえた「柿の種」について「柿の種は彼ら(子ども)の知っている限りの最も無価値なもの」であるとしており、これを敷衍すれば、ようするに柳田は、猿蟹合戦や桃太郎民話というのは、「交換」ということのもつ興趣、面白さを中心に作られた民話であるといっているのである*34。
 この着眼はさすがに鋭い。私は、このようなほとんど無価値なものが元手となって、幸運な交換の連鎖が始まるという種類の民話は、いわば「交換民話」「とっかえっこ民話」というべきものであると思う。そして、そういえば、想起されるのは「藁しべ長者」の説話であろう*35。いうまでもなく、藁しべ長者譚は、「門をでて最初に手にふれたものが『賜り物』である」という長谷寺の観音のお告げを受けた若い男が、長谷寺の門外で転び、そのときに手にふれたワラシベを、柑子、布、斃馬(たおれうま)(死馬)、田地と順々に交換して長者となったという話である。その成立は、『今昔物語集』(巻一六ー二八)、『宇治拾遺物語』(巻七ー五)の昔まで確実にさかのぼる。そして、この「藁しべ」が、それ自体としては無価値なもののたとえであることは明らかである。鎌倉時代のある一通の古文書には、簡単なことのたとえとして「路の柴を抑えるごとし」(『鎌倉遺文』⑭,一〇八二〇)といういい方がみえているが、そこからみると、道でころんで「藁しべ」をつかむというのは、民話のプロットである前に、一種のことわざであったともいえるであろう。つまり「藁しべ」にせよ、「キビダンゴ」にせよ、「柿の種」にせよ、ここにあるのは、通常の世界では意味のないつまらない物品が、旅や放浪という非日常的な時間・空間において特別な交換のサイクルに入り、遂には大きな結果・致富にいたるいう形の民話なのである。ワラシベ長者譚と桃太郎譚の話の内容は大きく異なっているようにみえるが、交換民話という側面からみると、両者の違いは、ワラシベがキビダンゴとなっていること、交換対象が物品ではなく身体と力の提供、「忠誠」の提供となっていることの二点に過ぎないことになる。
 このようにして、桃太郎民話における「キビダンゴ」の要素は、古くより継受されてきた基底的な話型を表現しているのである。とはいえ、藁しべ長者譚は長谷寺信仰を背景にもつ一つの霊験譚でありながらも、現実に起こりうる物語として語られていた。それに対して、桃太郎民話は、中世末期から近世初期の時代における、そのような交換民話のヴァリエーションとして、独特な笑い話・パロディー的性格をもっている。よく知られているように、藁しべ長者譚における「布」は、平安時代、現物貨幣としての性格をもっていた*36、藁しべは「柑子」という有用物に自己の姿を転化した後、さらに正式の交換物・等価形態としての「布」の姿に転変し、それによって交換の連鎖は質的に変化を遂げ、最後には中世の富の一般的形態としての「田地」にまで到達したのである。たしかに、それと同様、桃太郎民話におけるキビダンゴも、旅の費用としていわば一種の現物貨幣としての役割を果たしていたが、しかし、キビダンゴは、貨幣ではなく、藁しべのように貨幣=布に転化することもなかった。キビダンゴは、まったく貨幣としての常識から外れた存在であり、一度も貨幣の姿に変わることはなく、貨幣としては純然たるパロディーの世界に属するものである。そして、そのような「キビダンゴ」による「犬」「猿」「雉」の「忠誠」の獲得というのも、主従関係に対する一つのパロディーであったともいえるのではないだろうか。大仰ないい方ではあるが、いってみれば、キビダンゴは「鬼ヶ島征伐」という民話的世界の中で、「日本一のキビダンゴ」という特殊な交換財としての役割を負うきわめて二律背反な(アンヴィヴァレント)存在であったということになるのである。
 私は、「お腰につけたキビダンゴ」というフレーズのもつ、このようなパロディー性は、桃太郎が中世的な価値観からいえば、銭からの完全な疎外、銭の不所持と貧困を体現する存在として描かれていることに対応していると思う。前節で縷々検討したように、中世の成人男子は、旅立ちにあたっては、腰に腰袋をさげ、若干の銭を携帯するのが当然だったのであった。それに対して、「キビダンゴ」を「お腰につけた」桃太郎の姿は、直接に腰袋の不在、貨幣の不所持を寓意している。桃太郎は鬼ヶ島への旅立ちにおいて、普通の「男」の旅装ならば、当然に「腰」に携帯するべき「銭入り」の火打袋を持たない、あるいは持つことすらできない存在、卑賎で疎外された存在として設定されているのである。
②武勇と太刀
 次ぎに検討する桃太郎民話の要素は、桃太郎の鬼退治の武勇である。桃太郎は、旅立ちにさいして腰袋と銭さえももつことができない貧困で卑賎な存在でありながら、他方で、鬼退治に出発する「日本一の武勇」の持ち主として設定されている。そして、それを象徴するのが、その旅立ちの姿における太刀の佩装であることはいうまでもない。
 これが「キビダンゴ」と同様に、どのように自己矛盾的なものであるかを考えるためには、中世における「鬼退治」「鬼ヶ島征伐」の観念について簡単にふりかえっておかねばならない。まず「鬼」自身については、そもそも武士の和訓・「もののふ」の「もの」とは「鬼」のことであったことが重要である。詳細は別稿を期すほかないが、私は、古代以来、武士が「もののふ」と呼ばれたのは、彼らが王や主人を「もの=鬼」からまもることを最大の職掌とした存在であったからだと考えている。古代ではさまざまな職掌をもつ文武の百官が「物部」と呼ばれたが、それも王を「鬼」から守ることこそが官吏の最大の任務だったからであり、それが武官としての物部氏の専称となったのである。さらに重要なのは、律令制の段階では、物部とは刑部省所管の囚獄司・衛門府・東西の市司におかれた刑吏身分の下級役人のことを意味したことであり、中世の武士はこの刑吏を本質的な職能とする身分であったからこそ、「武士」=「もののふ」という呼称が一般化したのである*37。ようするに、「鬼退治」とは武士の本質にかかわる問題だったといえよう。
 そして、「鬼ヶ島」については、別稿「虎・鬼ヶ島と日本海海域史」(本書第■章)で見たように、『今昔物語集』の昔から、日本の「艮」(うしとら)(=北東)の海域を漂流していくと「鬼ヶ島」に到着するという観念が存在した。そして、それと対をなすようにして、もっとも正統的な武士は、異国に渡って「鬼退治」「虎退治」を敢行して、名を海外に挙げるべきものであるという観念が、古く『日本書紀』の時代から連綿として受け継がれてきたのである。つまり、鬼退治を仕事とする武士は、単に日本本土を防衛するのみでなく、鬼の棲む島にまで出張して征伐しなければならないという訳である。右の別稿でもふれたように、この幻想は、日本と東アジア世界の国際的関係の全体の中で成立しているものであっただけに*38、きわめて執拗なものとして、日本の前近代社会を通じて維持され、再生され続けてきた。特に「元寇」以降、「蒙古=鬼」のイメージと結びついて、この鬼ヶ島のイメージがさらに一般化していったのである。この延長線上に『御伽草子』の「天狗の内裏」「御曹司島渡」などの義経の島渡り・異島征伐説話が存在したことはいうまでもない*39。
 桃太郎は、明らかにこの鬼ヶ島幻想を引き継ぎ、その中から生まれた民話である。そこには中世後期の排外主義にとざされた民衆意識の反映があることは疑いないだろう。しかし、桃太郎民話が、民話であるのは、その主人公が銭ももたない、どこの生まれともしれない少年である点にあり、そのような男が武士の本来的任務である鬼退治を敢行するというパロディー性にある。それ故に、桃太郎は銭を入れる腰袋さえももたない人物でありながら、武士身分の象徴としての太刀をもち、主従関係契約の主体となるという二律背反(アンヴィヴァレント)な存在として登場するのである。それは「キビダンゴ」のパロディ性にピッタリと対応している。
 そして、そのような話型が大きな違和感なしに流通したという意味で、桃太郎民話は、中世的価値観が動揺の頂点に達した室町時代後期、戦国時代にふさわしい民話であるといえるかもしれない。この時代、腰刀そのものが陳腐化・消失の瀬戸際にあり、その中で腰刀=腰袋をめぐる中世的な価値観は大きく流動化し、また太刀所持の民衆社会への下降拡大が顕著になっていたことはすでに述べたとおりである、もちろん、図(22)の近世の赤本に現れる桃太郎が、腰に太刀をつけているからとって、成立期の桃太郎民話にどのような形で「太刀」が登場していたかはわからない。しかし、民話の構造上、桃太郎は武勇の存在でなければならず、それをもっとも端的に象徴するのはやはり太刀であったというべきであろう。ここに桃太郎は「キビダンゴ」につづいて「太刀」を獲得したのである。
③「桃」と鬼
 さて、桃太郎民話の第三の要素は、「桃」である。桃太郎は「桃」から生まれたという民話の形式もあり、老婆が「桃」を食べたことによって若返ったという民話の形式もあるが、いずれにせよ、「桃」は桃太郎民話と一体的な関係にある。
 「桃」に特殊な意味をもとめる幻想的な観念の淵源が、さかのぼれば中国の民俗的な思想に由来することはよく知られている。これはいわばヨーロッパのリンゴにあたる聖果・聖樹の観念ということができるであろうが、中国の道教には、桃は不老長寿や多産をもたらし、魔物を退ける力をもった仙果であるという観念が存在したのである。特に昆崙山にすむという西王母(せいおうぼ)が漢の武帝に与えたという巨大な世界樹の桃、蟠桃の伝説は有名で、たとえば日本でも、平安時代初期、仁明天皇の大嘗会の標には「王母の仙桃を偸(ぬす)む童子」の像が飾られていたという(『続日本後紀』天長一〇年一一月一六日条)。また平安時代中期、藤原師通が金峯山に捧げた願文にも「王母の桃、子を結ぶ」という一節が残されており(『平安遺文』⑪補遺二八〇。藤原師通願文)、大江匡房の漢詩序にも「昆崙万歳三宝之桃」という一節があるように(『本朝続文粋』八、『古今著聞集』(第五ー一三)、これは広く普及した観念であった。もちろん、「桃」の幻想の根拠のすべてを「西王母」伝説と中国的な道教思想に帰すべきかどうかについては疑問もあり、たとえば、記紀神話の黄泉比良坂に生えているという桃の木の伝説は、日本古代社会の中で独自に形成されてきた側面も認めなければならないだろう。『日本書紀』(神代上、第五段)には「時に、道の辺に大きなる桃の樹有り、故(かれ)、イザナギ尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて、雷(いかづち)に投げしかば、雷等、皆退走(しりぞき)きぬ、此れ、桃を用て鬼を避く縁なり、時にイザナギ尊、乃ち其の杖を投(なげう)てて曰はく、「此より以還(このかた)、雷敢(え)来じ」とあり、『古事記』には「黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃ちたまへば」とある。要するに桃の実は鬼=雷神にぶつけ、桃の木の枝は雷神に対する結界をはるための「杖」となったというのであるが、ここで呪力をもった「桃」の観念が、雷神信仰との関係で語られていることは注目すべきであろう。あるいはここには、「桃」の幻想的観念の古層をみとめるべきなのかもしれない。
 このような「桃幻想」は中世社会の中にも広く存在していた。たとえば、『今昔物語集』(巻二七ー二三)には、ある占い師=陰陽師が「此の家に鬼来たらむとす。ゆめゆめ慎み給ふべし」と予言し、「門に物忌の札を立て、桃の木を切り塞ぎて□法をしたり」という記事がみえる。また鎌倉時代の『沙石集』には、ある坊主が、貧乏神を家から追い払うために、「十二月晦日(つごもり)の夜、桃木の枝を我も持ちて、弟子にも小法師にも持たせて、呪を誦し」たという説話がみえる(『沙石集』巻七ー二二)。また『三国相伝陰陽■(車編に官)轄■■内伝金烏玉兔集』には、午頭天王の、守り札として「桃木札」がみえ*40、最近、しばしば中世遺跡から出土する「蘇民将来子孫也」という疫病除けの護符も、桃木で作成されていた可能性が高いと思われる*41。そして、さらに決定的なのは、図(23)の『病草紙』の「小法師の幻覚に悩む男」の場面に描かれた桃である。
 絵巻に痛みもあって、図が若干見にくいかもしれないが、女が病臥する男の方をむいて手に捧げている果物が、桃である。その証拠は、この果実の尻がとがっており、また女の膝の前においてある同じ果物をみると、枝についた葉も長いことである(拡大図(24)参照)。もちろん、葉の長さのみに注目すると、枇杷という考え方もなりたち、そういう解釈もあるが*42、しかし、枇杷ならば、逆に果実の尻は引っ込んでいる筈である。それに対してこの果実の尻はとがっている。中世には「桃尻」という言葉があるが、それは桃の果実の尻がとがってすわりの悪いことから、乗馬が下手で鞍に落ち着かないこと、いわゆる尻軽のことをいうのである。なお、今の桃をイメージすると、この絵の果物は小さすぎるようであるが、もちろん、この場合、今の水蜜桃を想像してはならない。現在、我々が食べる桃は、普通のもので重さ二五〇グラムにもなるが,江戸時代以前の日本原産の桃はきわめて小粒で、重さは20ー70グラムほどであったといわれるのである*43。
 そして、この女が桃を差し出している理由は、単に、それを病人に食べさせようというのではない。病臥する男は詞書きに「やまひおこらむとては、たけ五寸ばかりある法師のかみぎぬ((紙衣))きたる、あまたつれだちて、まくらにありとみえけり」とあるように、小法師が登場する幻覚神経症に悩んでいる。女が桃を差し出しているのは、その魔を払うためであった。
 ところで、このような「桃」の呪力に関係して興味深いのは、中世の遺跡、特に水溝遺構から相当数の桃の核が出土するという事実である。これは「桃」によって水を浄化しようとする呪術を意味していたのではないかというが、中世において「桃」と「水」の連想関係が現実に存在したことを明示しているのである。柳田国男は論文「桃太郎の誕生」において、桃太郎民話論を追求する上で、「無闇に子供のように桃というただ一つの特徴を把えて、桃の話ばかり捜してみよう」としてはならないと述べている*44。これは、当時の好事家的な興味関心に対する批判として傾聴するべき面があるが、しかし、桃太郎民話を実際の史料にそくして考えるという立場からすると、この考古学的事実は、川上から「桃」が流れてきたという民話の語り口の背景をなすものとして無視することはできない。柳田国男自身が、同じ論文で、次のように述べていることは、やはり重要である。
元は恐らくは桃の中から,又は瓜の中から出るほどの小さな姫もしくは男の子,即ち人間の腹からは生まれなかったといふことと,それが急速に成長して人になったといふこと,私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居るのみならず,諸社根元記の載録する倭姫古伝の破片にも,姫が玉虫の形をして筥の中に姿を現じたまふといふことがあるのである。それから今一つは水上に浮かんで来て,岸に臨む老女の手に達したといふこと,是が又大切なる点ではなかったかと思ふ.海から次第に遠ざかって,山々の間に入って住んだ日本人は,天から直接に高い嶺の上へ,それから更に麓に降りたまふ神々を迎へ祭る習はしになって居た.だから又谷水の流れに沿うて、人界に近よろうとする精霊を信じたのであった.
 つまり、柳田は桃太郎民話の直接の背景には「天から直接に高い嶺の上へ、それから更に麓へ降りたまう神々」が、さらに「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」となって訪れるという観念があるというのである。中世遺跡における「桃と水」の関係という事実を前提として、この柳田の見解をうけとめようとすると、最大の問題は、人々が「桃」とかかわって、「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」の姿を何時、どのような場で身近なものとして感じたかにあるだろう。
 和歌森太郎が「三月三日の行事全体が水の精霊祭」であると述べているように*45、おそらくそれは季節的には、三月三日の桃の節句の時期であったのではないだろうか。貴族の年中行事でこの節句が「上巳の祓」と「曲水宴」、つまり、川面に出ての祓えや川遊びの宴を内容としていたのは、この節句の水祭としての性格を示している。それは伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』や『皇太神宮年中行事』などによれば、古くから桃の花びらを浮かべた酒を飲み、草餅を食べるという風雅な節句であった。そして史料は少ないものの、庶民の間でも、その草餅をつくるための草摘みの野遊びも古くから行われていた(『文徳天皇実録』嘉祥三年五月五日条)。この春の野遊びは貴族の「曲水宴」に対応するような川遊びや潮干狩りを含んでいただろう。史料に頻出する三月三日の節料は、上記の草餅などの他、この海川の初穂を含んでいたに違いない。特に海は、この日ちょうど一年で最大の大潮の時であり、『延喜式』(内膳職)などに知ることのできる漁民の三月の節料は、引潮で現れた広大な砂洲・磯をあさった貝や海藻などからなっていた筈である。
 そして、三月は、水ぬるむ季節になるにしたがって、潅漑用水路の整備・修復が本格的に開始される季節である。この節句は潅漑労働の事始めの農休みだったのである。戸田芳実氏が解明したように、先だって二月には「二月田の神祭」が行われているが、その実態は「あらをだのなはしろみづのみなかみを かえるがえるもいのるけふかな」という和歌などが示すように、やはり山から降る流水を祭る「苗代祭り」「水口祭り」であったという*46。そして、この田の神は「右兵衛督忠公月令屏風」に、「仲春たかへする所あり、柳のもとに人々あまたいてみる、たのかみまつる」とあるように、柳の下に勧請されたものであったらしく、また、田の神の依代としての「石」が丸石から道祖神の石像や夷・大黒の像などにいたる多様な形を取り、それが民俗社会における「石」の呪力の基底に存在していたことはよくよく知られているから、おそらくそれは『信貴山縁起』に描かれた、図(25)のような「丸石」を神体とするものであったのであろう。『信貴山縁起』の石の上に立つ木が明らかに柳であることも、この想定に適合的である*47。
 そしてこの『信貴山縁起』の場面で興味深いのは、近くの人家の垣根にピンクの桃の花が咲いていることである。田の神を祭って本格的な農作業の季節に入った人々は、桃の花の開花をみながら、本格的に灌漑労働にとりかかっていったのではないだろうか。そして、人々は、桃の実の成る旧暦六月頃まで、自己自身の労働によって「水」と深く関わり合うのである。近世の神祇書によれば、「桃の守り」とは、厄病よけのために桃の若実を五月五日にとって乾燥させたものというが*48、「桃」は、そのような水の季節を連想させる果花樹であったのである。
Ⅵ桃太郎と一寸法師
①感精伝説と守宮神
 以上、「キビダンゴ」「武勇と太刀」「桃」という桃太郎民話の諸要素を個別に検討してきたが、それらを総合して中世における桃太郎民話の深層と原型を探るためには、柳田国男が「小さ子物語」と名付けたものの分析を欠くことができない。柳田は右にも引用した論文「桃太郎の誕生」の一節で、次ぎのように述べている。
私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居る。
 この柳田の「小さ子」という用語は、『日本霊異記』(上の三)にみえる,雷とともに天から「小子」が落ちてきて女を妊娠させ,頭に蛇をまとった赤ん坊が生まれて,異様に強力な男に成長したという説話などから来ていると思われる。つまり「小さ子」=雷神の精霊という図式が柳田が構想したものなのである。そして雷神が水神であることはいうまでもない。雷神は一般に「龍神」「蛇神」として表現されるが、別稿でみたように*49、中世の史料には梅雨や台風の出水にともなって多数の蛇が山から下流に下っていく様子が報告されており、人々は「蛇」、そしてその「祖」としての「龍」をもって水神と考えていたのである。私は先にみた田の神の神体としての「丸石」は、本来は、この龍のもつという「珠」「玉」を意味したのではないかと考えている。
 しかし、この「小さ子」という言葉は、それ自体としては「侏儒」=小人という意味であった(『書言字考節用集』四)*50。ようするに、「小さ子」物語とは、それ自体としては世界各地に分布する小人伝説の一つなのであって、そういう観点から割り切っていえば、桃太郎民話の中にひそむ「仙果と小人」という話型自体は、たとえば白雪姫伝説における「リンゴ」と「七人の小人」と変わらないことになるだろう。さすがにそこまではいっていないものの、そのような普遍論的な見方は、柳田の仕事を引き継いだ石田英一郎の見解では、特に強調されている。その点で、ややもすれば神秘化して受け取られる余地のある柳田の言説と対比して、石田の研究はきわめて重要な意味をもっているのであるが、石田によれば、日本の小人伝説の特徴は、王権の始祖を「龍蛇の裔」に求める東アジアから沿太平洋にひろがる古代信仰の一部であることにあった。たとえば、『南越志』には、端渓の人、温氏の媼が水中にえた不思議な卵が、守宮に変異し、さらに龍にかわって、媼のために働いたという龍母伝説が載せられており、そのような事例はきわめて多いという*51。そのもっとも著名なものが、たとえば漢王朝の始祖・劉邦(りゅうほう)は母が雷電に感じて受胎したという感精伝説であろう。そして、問題は、このような観念が日本王権の内部にも存在したことであって、たとえば,雄略天皇が后と「婚合」している最中,その場に小子部(ちひさこべ)栖軽というお付きの従者が誤って踏み入ると同時に雷がなり,ことを妨げられた天皇が激怒したという話が知られている。そして、咎められた栖軽は天皇の「汝、鳴雷(なるかみ)を請け奉らむや」という命令によって、雷雲を追跡し、「天の鳴雷神、天皇請け呼び奉る」と叫んで、落ちてきた雷神を捕まえ、それを「■(挙の下に車)籠(こしこ)」に入れて宮廷に連行したというのである*52。この説話には、一方で、雷鳴の時の性交、そしてその性交によって生まれた子どもは特別な意味をもっていること、他方で、小子部=侏儒は、雷神を統御しうる異能をもつ存在であり、その意味で雷神に通ずる存在であることなどの感精伝説にかかわる王権神話を示している*53。
 古代と比べて中世の王権は、より文明化されており、雄略天皇の場合のように明瞭な逸話は残っていないが、しかし、このような観念は中世にまで伝えられていたと考えられる。それを示唆する史料の第一は、孔雀は「雷の声を聞いて孕む」という言説との関係で、知足院関白藤原忠実が「雷するにおそれなき物」として、「人界には転輪聖王」と述べたと伝えられることである(『中外抄』上)。これは王の身体と性についての中世の仏教的言説の一部であるといってよいだろう。第二は、王の性の場所を象徴する清涼殿の塗籠・「夜の御殿」に棲み、内侍所の神鏡を守護する天皇の守護霊、「守宮神」といわれた霊威の性格であって、別稿でみたように*54、一方で、それは「夜ノ御殿ノ傍、塗籠ノウチヒラヒラトヒラメキ光りケレバ」という雷光、稲光を発散する天神としての性格をもち、他方で「七八歳バカリナル小童」の姿をとる小人神でもあったのである(『続古事談』五、諸道)。中世の王の性の周囲に雷鳴と小人の観念が残っていたことは確実であろう。第三は、鎌倉時代、ある貴族の日記に残されていた噂話であって、それによれば、京都二条堀河の武士の宿所に落ちた雷が「小法師」となって、大勢の見物人がみている前を内裏の方向に走っていったという(『平戸記』寛元三年正月一二日条)*55。後にふれるように、ここで雷神が「小法師」といわれていることは興味深い問題を示唆するが、彼が内裏の方向に走り去ったということからすると、これも王権と雷神小童の関係を示す神話の一部として理解できよう*56。
 このような神話・伝説は、江戸時代になっても,金太郎は山姥が雷鳴によって受胎してうまれた子どもであるという俗説になって残っているのであり、桃太郎民話の中に、このような伝説が流れ込んでいることは十分に了解できるのである*57。
②お椀の舟・針の刀・茶袋
 桃太郎民話、桃太郎伝説の背景には確実に中世社会の現実のイデオロギーが存在していたといわねばならないだろう。もちろん、以上の検討によっても、桃太郎民話が、はたして中世において実際に物語られていたかどうかは論証することはできない。しかし、ここまでくれば、すくなくとも桃太郎伝説に近い民話が存在していたことを想定することは許されるのではないだろうか。そして、何よりも強調したいことは、これまでの分析をふまえると、『御伽草子』の一寸法師譚を、桃太郎民話の類話としてとらえることが可能となることである*58。
 何度も参照した文章ではあるが、柳田は「私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居る」と述べている。そして、ひるがえって考えてみれば、そもそも桃太郎と一寸法師は、なによりも子どものない祖父(おじ)と祖母(おば)のもとに誕生し、鬼退治に出かけたという点で同じ設定から出発した物語である。それはどちらも中世社会において広汎に語られていたと想定される「祖父(おじ)・祖母(おば)之物語」(『異制庭訓往来』)であり、「鬼ヶ島」譚であるという点で話の枠組みを共通しているのである。また第二に重要なことは、柳田の言い方をかりれば、どちらも「水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」として共通した性格をもっていることである。つまり一寸法師も桃太郎と同様に、旅の道行きが民話の語り口の中心になっているが、それは水上の旅行であり、しかも桃太郎が桃に乗って流下したのと同様、一寸法師も「お椀の舟と箸の櫂」に乗っているのである。「桃」と「お椀」は、古代神話的ないい方をすれば、両者とも「目無堅間」の籠であって、民話的な乗り物の性格として大きく変わる物ではないであろう。そして、第三に注目すべきなのは、一寸法師の出発の扮装であって、それは次のように描かれている。
(親に嫌われ、そういうことならば)何方へも行かばやと思ひ、刀なくてはいかゞと思ひ、針を一つうばに請い給へば、取り出(いだ)したびにける。すなはち麦はら((藁))にて柄鞘をこしらへ、都へ上らばと思ひしが、自然、舟なくてはいかがあるべきとて、又うばに御器と、箸とたべと申うけ、
 『御伽草子』の一寸法師では、親に「化物風情(ばけものふぜい)」と思われ、それを口惜しがって旅に出たことになっているが、そのような筋立ては、桃太郎民話の場合にもあるので異とするには足りない。つまり、どちらの場合も、旅立ちに際して親かからは無価値なものが与えられているのである。相違は、それがキビダンゴか「針・麦わらの鞘・お椀」かであるにすぎない。そして、特に重要なのは、ここでは明瞭に「太刀」が登場していることであって、針というイミテーションであれ、「化物風情」が「太刀」をもち武勲をあげるというプロットは、桃太郎・一寸法師に共通しているのである。もちろん、この場合、桃太郎・一寸法師の背後に「鬼ヶ島」観念を自明のものとする排外主義的な観念を想定することもできるし、また人々が太刀を腰に差して立身をこころざした時代を反映しているということもできる。しかし、同時に、一寸法師譚の中に、桃太郎民話と同様、武士の象徴としての「太刀」という観念に対するパロディーをみてとることもできるのではないだろうか。私は、民話の中に隠された社会意識は、それなりに複雑なものとみなければならないと思う。
 以上を確認した上で、あらためて注目されるのは、一寸法師譚も一種の交換説話としての側面をもっていることである。管見の限りでは、これまで、一寸法師が「茶袋」を持っていたことは注目されてこなかった。彼は、その中に「精米」を蓄えていたのである。『御伽草子』を引用しよう。
あるみつもの((ママ))の精米取り、茶袋に入れ、姫君の臥しておはしけるに、謀をめぐらし、姫君の御口に塗り、さて茶袋ばかり持ちて泣き居たり、宰相殿御覧じて、御尋ねありければ、「姫君の、わらはがこの程取り集めて置候精米を、取らせ給ひ御参り候」と申せば、宰相殿大きに怒らせ給ひければ、案の如く姫君の御口につきてあり、「まことは((に))いつはりならず、かかる者を都に置きて何かせん、いかにも失なふべし」とて、一寸法師に仰せつけらるる、一寸法師申しけるは、「わらはが物を取らせ給ひて候ほどに、とにかくにも計らひ候らへとありける」とて、心のうちにうれしく思ふ事限りなし。姫君は、ただ夢の心地して、あきれはててぞおはしける。
 つまり、一寸法師は、「茶袋」に入っていた精米を姫君の口のまわりに塗り、「わらはが物を取らせ給ひて候ほどに、とにかくにも計らひ候らへとありける」と主張して、姫君の身体を手に入れたのである。茶袋とは「葉茶を入れるのに用いる小さな紙袋」(『日葡辞書』)のことであるが、これによって姫の献身を買うという点では、茶袋の精米は、桃太郎の「お腰につけたキビダンゴ」と同じ意味をもっていたのである。そして、この一寸法師のもっていた茶袋が腰袋の代替物であることは、「針」が「太刀」の貧弱な代替物であったことと同じである。この二つの小人民話、小人の武勇譚に、「太刀」と「お腰につけたキビダンゴ=腰袋」、「針」と「茶袋」という同義のものが、同じ意味をもって登場するのは、桃太郎と一寸法師の民話の深い関連性を示している。
 このようにして、両者はほとんど同じプロットの物語であるといっても何の問題もない。そしてそのことは桃太郎民話と一寸法師譚は同じ時代的背景と源流をもつこと、それ故に『御伽草子』の一寸法師が中世に物語られていたとすれば、同じように桃太郎民話も物語られていたであろうことを示している。
③法師と塗籠
 さて、最後に図(23)の『病草紙』の「小法師の幻覚に悩む男」の場面をもう一度ふりかえってみたい。病臥する男の枕頭に現れた小法師たちは、詞書きで「やまひおこらむとては、たけ五寸ばかりある法師のかみぎぬ((紙衣))きたる、あまたつれだちて、まくらにありとみえけり」と説明されている。別稿でもふれたように*59、『今昔物語集』(巻二七ー三〇)には、ある親子づれが、方違のために下京あたりの家に宿泊したところ、「夜半ばかりに、塗籠の戸を細目に開けて、其処より丈(たけ)五寸ばかりなる五位ども」が現れて、枕上を襲ったという説話がある。その様子はこの図とまったく同じもので、ちょうど「たけ五寸」という身長まで一致しているのが注目される。そうだとすると、この小人姿のものたちは、『今昔物語集』に「塗籠の戸を細目に開けて」とあるように、屋敷の納戸=「塗籠」に棲む霊、守宮神の姿をも示しているということになる。このような「小法師」姿の寝室霊が、後の座敷ボッコ、座敷童子幻想に通ずるものであったことは明らかであろう。
 特に興味深いのは、『病草紙』の詞書きが、これらの塗籠の小人を「法師」と呼んでいることである。そして、前述したように、鎌倉時代に武士の宿所に落ちた雷神も「小法師」の姿をして内裏方面に走り去ったといわれている。このことは、古くから寝室霊と雷神の双方が同じ「小法師」のイメージをもっていたことを示している。この「小法師」という言葉は、横井清の検討によれば*60、「年若い僧」という一般的な意味のほかに「中世・近世に宮中の清掃などの雑役にしたがった身分の低い人」という意味がある。これは一寸法師が、なかば賎視された奉仕者、「いっきょうなるものにて有けり」「げにもおもしろき者なり」という道化として、貴族のもとに雇用されたことに対応しているのではないだろうか。
 私は、図(23)に描かれた小人たちの姿は、明らかに『御伽草子』の「一寸法師」の名前やその姿形の由来に関係していると思う。人々は、一寸法師の姿をこのような寝室霊と二重化してイメージしていたのである。それは一種の寝室幻想であったといえよう。そして、一寸法師が、こういう寝室幻想と通底する存在であったことは、そもそも一寸法師が、子どもに恵まれない爺と婆が住吉明神に祈誓してさずかった「申し子」であったことからもいえることであると思う。
 私は中世の物語・民話の一定部分を寝室幻想(そして密室幻想)の物語として類型化することができると考えている。今、詳細を論じる用意はないが、この話型はさらに大きくわけて中世の民話の基本をなしたと考えられる祖父(おじ)・祖母(おば)の物語と、「大歳の火」「見るなの座敷」などの密室宝物物語*61に分類できるだろう。それは一つの家族の秘密としての性や富にかかわる幻想形態であって、桃太郎民話が前者の祖父祖母の物語、寝室の回春幻想に属することはいうまでもない。図(23)が示すように、塗籠・寝室の霊威と「桃」の呪力をもって関係した人々が、その幻想の中で、桃の呪力によって撃退される小人のみでなく、逆に桃の呪力を体現する小人を想像するのは自然な成り行きなのである。大きくいえば、それは王家の寝室幻想とイデオロギー的なスタイルを共通するものであり、いわば庶民的なスタイルにまで薄められた雷神感精伝説であったのである。
 柳田の説によりながら、私は、前節の最後で、人々が「桃」とかかわって、「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」の姿を何時、どのような場で身近なものとして感じたのであろうかと自問して、その季節が晩春三月の桃の節句であったのではないかと述べたが、以上が、「どのような場で」という自問に対する答えである。
  
*1柳田国男「桃太郎の誕生」『定本柳田国男集』第八巻、筑摩書房、一九三〇年の講演。
*2石田『桃太郎の母』講談社学術文庫版、一九八四年(原著は一九五六年刊行)
*3五来重『鬼むかし』角川選書、一九九一年(原著は一九八四年刊行)
*4滑川道夫『桃太郎像の変容』、東京書籍、一九八一年
*5中内敏夫「教材『桃太郎』話の心性史」『叢書 産育と教育の社会史Ⅰ 学校のない社会 学校のある社会』、新評論、一九八三年
*6岩波文庫。この史料については千々和到氏の教示を受けた。
*7ここで燧という場合には、火打石と火打金(火鎌)の両者を意味したものであろう。柳田は次のように述べている。「(火打金について)旅をする人には袋に入れて腰に下げられるように、小さく手際よくこしらえたのもあって、こういうのが三つか四つ、どこの家にも転がっていたのです」(「火の昔」『定本柳田国男集』第二一巻、筑摩書房)。また中世の鎌倉から出土している火打鉄については、「発火具で多く出土するのは『火打鉄(鎌)』と燧石である。火打鉄のほうは中央のもり上がった舟形の側面の鉄板で、丸みをもつ下端がやや厚く作られている。もり上がる上部は透かし彫りふうの唐草文で飾られる場合もあるが、頂上に一孔があり、紐か房を取りつけられるようになっている」という報告がある(河野真知郎『中世都市鎌倉ーー遺跡が語る武士の都』、講談社選書メチエ、一九九五年)。附茸というのは、火口・ホクチであるが、おそらく火打袋は、これが詰め込まれてふくらんでいたものと思う。
*8『絵巻物による日本常民生活絵引』平凡社
*9なお、『絵引』(③四一頁)は『粉河寺縁起』、第二段(第八紙、第二〇断片)のお堂の前で観音を拝む男の腰に腰袋があるとするが、これは袴の脇開の部分が丸く描かれているのを誤解したもの。図⑱にはその直前の第八紙、第一五断片の図像をかかげた。『粉河寺縁起』における腰袋の画像は、この一点のみである。
*10なおこのような袋一般の問題については、「袋」(弘文堂■■■)で研究課題の概略をのべたことがある。また保立道久「『大袋』の謎を解く」(『中世の愛と従属』、平凡社、一九八六年)、湯浅治久『』東京堂出版
*11なお、火打袋でなく、燧石自身に関わる神話・伝説の存在も注目すべきである。柳田国男は「多くの生石伝説に伊勢又は熊野から燧袋に入れて持って来た大岩を説くのも、同じ(石が成長するというー保立注)思想の変形かと思ふ」として、大岩が燧石の成長したものであるという事例を紹介し(「巫女考」『定本柳田国男集』第九巻、筑摩書房)、また火打岩がダイダラ坊の燧石であったという伝説も紹介している(「ダイダラ坊の足跡」『定本柳田国男集』第五巻、筑摩書房)。「古宮ノ岩ハ燧石ニシテ村人屡々来リテ之ヲ虧キ取ルガ為ニ、此ニハ馬蹄ノ跡ノ残レル者無キナリ」(「山島民譚集」(馬蹄石)『定本柳田国男集』第二七巻、筑摩書房)というような伝説をはらむ燧石は各地に存在したにちがいない。
*12鞘口につけられた栗形という穴のあいた刀装品から下がっているのが普通である。なお、この栗形が帯に引っかかっるので、刀はずりおちないことになる。
*13後者の「杖頭に懸けて」というのは、杖の頭部に銭緡をひっかけて持ち歩く風俗をいうのであろう。京都府加悦町の施薬寺所蔵の与謝蕪村筆「方士求不死薬像」には、そのような風俗をみることができる。この絵は、中国に題材をとった江戸時代の絵画であるが、おそらく、このような図像のもとになった中国絵画が存在するのではないかと思う(この画像は京都文化博物館の展示『ほとけ・さむらい・むら』、一九九二年七月、図録掲載番号98番でみることができる)。なお、『年中行事絵巻』巻四には、鹿杖をもった念仏聖が描かれている。図版が不鮮明で明瞭ではないが、その鹿杖には数珠・経巻の外に銭のようなものが懸けられているかのようにもみえる。数珠を杖の頭に懸ける絵はほかにもあるから、同じような形態をもつ銭緡を杖に懸けて運搬することはあったとみてよい。
*14なお、少し脇道に入るが、御堂の中の丈六の地藏自身も、土で作り、「千人の手跡をとりあつめて、御はだへをはハりたてまつり、御身の中には、両界の曼荼羅をはじめてもろくの経をかミにも石にもかきてこめたる」というものであった。このことは、この地藏自身、おそらく民衆から反古を集めて膚を塗り、経石を胎内に納めることを売り物にした広汎な勧進によって作られたものであり、勧進の成果であったのであろう。また、このことが文字文化の民衆への浸透を物語っていることも興味深い。一般に文字文化の発展と貨幣の流通は相互に支え合っているはずだからである。
*15今谷「一服一銭の茶」(今谷明『京都・一五四七年』、平凡社、一九八八年)。なお今谷の仕事によれば、史料に残る一服一銭の茶屋はほとんどが寺社の境内や門前に営まれていることも参考になる。
*16渡政和「絵画資料に見る中世の銭」、『埼玉県立歴史資料館研究紀要』一五・一六号、一九九三・一九九四年
*17書陵部所蔵、鷹司家旧蔵本■■■■■■。参照、奥野高広「京都の町座」(『歴史地理』八三巻四号、一九五二年)。豊田武『座の研究』(同著作集①、一一三頁、吉川弘文館、一九八二年高橋康夫「中世都市空間の様相と特質」(『日本都市史入門』①東京大学出版会、一九八九年)も参照。ただし腰座=腰袋座という推定は保立に責任がある。
*18なお『絵引』は「火打袋?」としている。たしかに、中世の普通の火打袋とは、若干、形が異なっており、後にふれるような巾着に似た形状をしているようにもみえる。もしそうだとすると、部分的であれ、腰袋の巾着化が『福富草紙』の成立時には進展していたことになる。
*19古代では前沢和之「古代の皮革」(大阪歴史学会編『古代国家の形成と展開』、一九七六年、吉川弘文館)があるが、中世の皮革産業については研究がない。当面、豊田武『中世日本の商業』(同著作集②、吉川弘文館、一九八二年)を参照。
*20両者とも『沙石集』(巻九)。前者の話は駿河国原中宿で女性が水浴の際に護袋を忘れたという話。後者の話は「宋朝」で評判になった事件についての「近年帰朝の僧の説」として載せられている。「袋」の中に「銀」が入れられているという細部は、日本の貨幣文化の史料として評価可能であろう。
*21黒田日出男「腰に差す物」(『姿としぐさの中世史』、平凡社、一九八六年)。なお、腰刀という用語の初見は管見の限りでは、『今昔物語集』(二五巻四)にある。また文書では『平安遺文』三三五八、『鎌倉遺文』三四、二六四九七などがある。後者は強盗に腰刀を取られたという史料。
*22なお、先に引用した火打袋に関する『絵引』の解説には「火打袋ははじめはこの図に見られるように刀も帯びない丸腰につけていたものであるが、後には刀の鞘につけるようになった。鞘に孔をあけ紐の付けられているのはこれを吊る紐をつけるためであった」という指摘がある。火打袋は丸腰につけられている形から、腰刀に下げられる形に時代的に変化するというのである。たしかに、先にふれた「皇朝十二銭」の時代の銭袋は、おそらく丸腰につけていたのではないかと思われる。また平安時代には先にもふれた「■(竹鹿)子」「燧笥」のような木製あるいは竹製の小箱・小籠もよく利用されていたようで、その場合も丸腰につけられていただろう。そして、『絵引』がいうように図①の『伴大納言絵詞』の腰袋は丸腰につけられているが、『伴大納言絵詞』を点検してみると、そこに描かれた庶民はそもそも腰刀をしていない。画家は、腰刀を差さない庶民の姿を古体な風俗として、『伴大納言絵詞』の舞台となった九世紀の応天門の変の頃にふさわしいと考えていたのかもしれない。それに対して、『絵引』も引用する紀貫之の和歌、「折くに打てたく火の煙あらば心さすかをしのべとぞ思」(『後撰集』一三〇四)にみえる「さすが」が、もし「刺刀」=「腰刀」の意味をかけていたとすると、すくなくとも貫之の頃には、腰刀と火打袋がセットとなっていたことになるだろう。ただ、この和歌は、「陸奥へまかりける人に、火うちをつかはすとて、書きつけ侍ける」という詞書きに続くものであるから、日常の姿というよりも、旅装としては腰刀と腰袋がセットになっていたということであり、また「さすが」=「刺刀」という解釈は、藤原為家の『古今為家抄、または『後撰集正義』に由縁するもので別の解釈もありうるので、確定的なことはいえない。たとえば、『古今要覧稿』(器財部、火打袋)や『古事類苑』(兵事部、刀剣三)も「さすが」=「刺刀」という同じ解釈をしているが、『CDーROM版八代集』は「心ざすか」を「『心を籠めてお送りする香』に『そうはいうものの(遠く離れたというものの)』の意の『さすが』を掛ける。貫之集には『同じ少将、物へゆく人に火打ちの具して、これにたきものを加へてやるに、よめる』とあって、『薫物』の縁で『心ざす香(私が心を籠めてお贈りする香)を偲んでください』という意であることがわかる」と解釈している。また私見では、この「さすが」は「金交具」(かこ、かねへんと交の字を横に並べた字)の一部としての刺金(さすが)(ベルトの金具環の真ん中にある金串)を意味した、つまり、この貫之の和歌で歌われている火打袋は止め金具つきの構造をもっていた可能性もあるのではないかとも思う。『伊勢物語』(一三)に「むさし鐙さすがにかけて頼むにはとはぬもつらし、問ふもうるさし」とあるが、同じ言葉の遊びではないだろうか。本稿では意味の確定はできないので、御教示を請いたい。
*23『草戸千軒町遺跡発掘調査報告』Ⅴ、一九九六年、3,金属製品、(志田原重人執筆部分)。この報告書の分析は、視野が広く、中世の腰刀についての必読文献である。また『佐助ヶ谷遺跡(鎌倉税務署用地)発掘調査報告書』一九九三年(4装身具、斉木秀雄執筆)も参照。どちらの遺跡でも腰刀を日常的に研いでいたことを想定するに足りる大量の砥石が発掘されているのも注目される。なお、腰刀の考古学的分析については、下津間康夫氏の教示を受けた。記して感謝したい。
*24河野真知郎前掲書、一八六頁
*25保立「塗籠と女の領域」、同『中世の愛と従属』所収、平凡社、一九八六年
*26『一遍聖絵』(『日本の絵巻』、中央公論社)。一六二・一六三頁、一六八頁、一八五頁の三箇所。
*27「中世民衆のライフサイクル」『講座日本通史⑦中世Ⅰ』、岩波書店、一九九三年
*28その外にも、たとえば『公忠集』に「い中へくだる人のもとにしろきふくろをあをきものしてすりて、ひうちをいれてやるとて」として、「うち見ては、おもひ出よと我やどのしのぶ草してすれるなりけり」という和歌がある。また『後撰和歌集』一三〇九にも「遠き国へまかりける友達に、火うちにそへてつかはしける」という詞書きで、「このたびも我を忘れぬ物ならばうち見むたびに思いでなん」という和歌がある。
*29前掲『草戸千軒町遺跡発掘調査報告』Ⅴ
*30この画像の腰袋に銭が入っていることの指摘は渡政和前掲論文にある。
*31藤木久志「落書・高札・褒美」同『戦国の作法』平凡社、一九八七年
*32なお、この問題は有名な「諸国百姓等、かたな・わきさし・ゆみ・やり・てつはう、其外武具のたくひ所持候琴、堅御停止候」という一五八八年(天正一六)に発布された秀吉の刀狩り令の評価とかかわってくる。刀狩令の前提となった条件こそ、上記の二重の事態であったのではないだろうか。塚本学『生類をめぐる政治』(平凡社選書、一九八三年)が近世の村にも鉄砲などの武具が存在することを指摘して、刀狩令の再検討の必要を主張したことをうけて、最近、藤木久志は、以下のような主張を展開している。中世に「武装する自力の村」が存在し、それは近世にいたっても全面的に否定されることはなかった。刀狩令をふくむ豊臣平和令の歴史的課題は、村落相互の争いによる絶えざる流血という中世的な自力の惨禍から人々を解放することであり、村落の武装権から「人を殺す権利」は剥奪したものの、自力救済権そのものを否定することはなかった。そのために、百姓はそれに同意を与えたのである、と(藤木『豊臣平和令と戦国社会』、一九八五年、『村と領主の戦国世界』一九九七年、どちらも東京大学出版会)。しかし、本稿では、中世後期の地域的武装は、一方で個人的・日常的な武具携帯の消滅、他方で地域社会内部からの「刑吏」的な武装者の簇生という、中世前期とは異なる歴史的特徴をもっていると把握している。刀狩りによって武装解除された丸腰の近世民衆というイメージが事実に反するのと同じように、少なくとも中世後期の地域社会においては、武具、腰刀、さらに太刀の所持自身が「百姓の武装権」といえるほどにまでに一般的であったとは考えられない。ここは、この問題を詳論する場所ではないが、このような事態を分析するためには、「刑」と「武」と暴力・犯罪身分の諸関連を、その階層性をふまえ、地域社会にそくして新たな形で解析することを課題としたい考えていることは付言しておきたい。
*33柳田は「餅を背中に負うて持って行って食わせたといい、或いは米を袋に携えて夜の床で共に噛んだということなども、おそらくはその婚姻の合式確実のものであったことを語るので、従って桃太郎の黍団子ないしは舌切雀の糊なども、今は童話化して全然別の目的に用立っているけれども、事によるとこれもまたかってこの語りごとの中に、求婚成功の一節があった痕跡であるのかも知れぬのである」と述べている(「田螺の長者」『定本柳田国男集』第八巻、筑摩書房)。つまりキビダンゴは婚資としての意味をもっているというのである(なお、柳田は「米を袋に携えて夜の床で共に噛んだ」というのが一寸法師の「打撒の米を入れた袋」に通ずるとしている。これは後に述べるキビダンゴと打撒米の同値性の問題にかかわる。また婚資としての意味をもつ餅の問題については、本書■章「ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」を参照)。これとは、まったく逆の発想であるが、五来前掲書は、「キビダンゴ」の原型を霊供としての粢団子のであるとし、これをもって鬼を饗したのが転じたものとする。いずれにせよ、キビダンゴに特定の意味がこめられていたことは確実である。
*34柳田国男「猿と蟹」『定本柳田国男集』第六巻、筑摩書房
*35藁しべ長者譚についても柳田国男「藁しべ長者と蜂」『定本柳田国男集』第六巻、筑摩書房、参照。
*36中世前期における価値形態の問題についての私見は、保立「中世前期の新制と沽価法ーー都市王権の法、市場・貨幣・財政」(『歴史学研究』六八七号、一九九六年)を参照。なお、藁しべ長者譚においては、『今昔物語集』においても『宇治拾遺物語』においても、男が所得した布を「脇に挟む」で歩き出すとされているのは興味深い。布は「脇に挟んで」持ち歩くものだったのである。
*37武士の本質が犯罪とかかわって発生する刑吏身分であったという考え方については、保立「日本中世の諸身分と王権」(『講座前近代の天皇』③、青木書店、一九九三年)を参照されたい。また「もの」という語素を含む言葉についての私見は、本書第■章「ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」■■■頁を参照。
*38なお、この問題については、村井章介『アジアのなかの中世日本』校倉書房、一九八八年を参照。
*39平安時代に発生した鬼ヶ島のイメージが『御伽草子』の成立時期まで、どのように「成長」していったかについては、黒田日出男「政治秩序と血ーー『御曹司島渡』のイデオロギー」および「知恵比べとしての外交と鬼ーー『吉備大臣入唐絵巻』」(両者とも黒田『歴史としての御伽草子』ペリカン社、一九九六年、所収)を参照。
*40「爰■■削桃木札、書写急急如律令文、令弾指、彼牒収賤女袂中」とある。なお、ここにいう「弾指」とは指をはじいて音を出す呪術的手技をいう。なお同じような史料としては、追儺の時に、破邪のために葦の矢とともに使用した「桃の弓」がある(『内裏式』(『群書類従』公事部)十二月大儺式に「□(門がまえに韋)司二人、各持桃弓・葦矢」、『左経記』治安二年一二月三〇日条に「陰陽寮取葦矢・桃弓等、奉上、」とある)。
*41水野正好「『護符』の成立と展開」、『歴史と地理』四四二号、一九九二年六月。なお、水野論文には蘇民将来の札の材質についての分析はない。それが桃木製であったというのは、私の推定に留まる。
*42『病草紙』解説(『日本の絵巻⑦ 餓鬼草紙 地獄草紙 病草紙 九相詩絵巻』、小松茂美執筆)。小松は「傍らから女房が枇杷の実をすすめるが、閉じた眼を開こうともしない」と解説する。
*43『週刊朝日百科・植物の世界』(モモ・アーモンド・ウメ)51号。一九九五年
*44注1前掲
*45和歌森太郎『年中行事』(日本歴史新書)
*46戸田芳実「10-13世紀の農業労働と村落」、同『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、一九九一年
*47なお、この画像は、これまでもっぱら道祖神の神体であるとされてきたが、道祖神と田の神の神格には深い関係があることはいうまでもない。そして、この丸石の回りに幤・斎串がさされている様子こそ、「右兵衛督忠公月令屏風」が「たのかみまつる」と描写した風景なのではないだろうか。そのようによく知られた画材が絵巻物にも反映している可能性は高いと思う。
*48「神祇伯家行事伝」『古事類苑』神祇三六、所引。
*49保立「中世における山野河海の領有と支配」『日本の社会史』②、岩波書店、一九八七年
*50なお、「小さ子」という言葉は『御伽草子』の「御曹司島渡り」でも使用されている。
*51前掲石田『桃太郎の母』二〇五頁
*52『日本霊異記』上の一(中田祝夫校注『日本古典文学全集』小学館)。この■籠は雷神の神座であったと考えられる。この■の訓「コシ」は興福寺本の古訓であるが、中田はこれを「竹で編んだ乗物」と解釈している。しかし、諸橋轍次『大漢和辞典』によれば、この■という字には「輿」という意味とともに、「食物を運ぶ道具、ホカイ」の意味がある。よって、『延喜式』(巻一、神祇一、四時祭上)の鳴雷(このいかつち)神条に、「祭料」の「輦籠(こしこ)一口、『延喜式』(巻三、神祇三、臨時祭)の霹靂神祭条に、「輿籠(こしこ)一脚」とあるコシコと同じものと思われる。折口信夫は、後者の『延喜式』のコシコについて「供え物を盛った器で、脚あるいは口をもって数えられるところからみると、台の助けをまたずに、じかに据えることの出来るもので、しかも甕・壺のように蓋はなく、上に口をあいていたものと思われる」(「髯籠の話」、『古代研究(民俗学編)』)と述べ、これを移動神座としての「髯籠」の原型としてる。折口は特にふれていないが、問題はこのコシコを供物の盛物、神座として利用する例は、『延喜式』では雷神に限られていることで、また上記の『日本霊異記』の説話からも、コシコ=髯籠が特に雷神の神座と観念されていたことが明らかなことである(なお霹靂神祭条には「若し新たに霹靂神あらば、件により鎮祭し、山野に移棄せよ」とある。この際にコシコが移動神座となったことは明らかであろう)。私は、『竹取物語』において、竹取りの翁が「かぐや姫」を呼び得たのも、彼の籠を編む仕事に関係していたと考える。なお、折口の髯籠論の意味については、本書第■章の「巨柱神話と『天道花』」を参照。
*53これがきわめて古くからの観念だったことは,辰巳和弘『高殿の考古学』(白水社、一九九〇年)を参照。辰巳は豪族居館の考古学的な分析を前提として、奈良の佐味田古墳から出土した家屋文鏡の図像を解析し、雷が今にも落下しようとしている高殿の中には,キヌガサがさしかけられていること,戸がしまっていることなどから首長がこもっており、彼は妃と同衾して神の来臨をまっているとした。また仁徳天皇が,ある朝,高殿の上で国中をみまわし,「民のかまどはにぎわいにけり」という歌を詠んだという話は有名だが、これも仁徳と妃の同衾の場における国見であるという。
*54保立前掲「塗籠と女の領域」。なお、現在の段階では正確なことはいえないが、「守宮神」という名前にも一定の意味があった可能性がある。というのは、「守宮神」の「守宮」とは、「ヤモリ」、つまり、しばしば人間の住居に住み着く爬虫類のヤモリを意味する。このヤモリが、平安時代初期の日本語辞書=『和名抄』では「常に屋壁に在る故に守宮と名づく也」という説明が付され、「龍子」・「蜥蜴」と同義とされているのである。もし、これを採用することができれば、ヤモリは邸宅にすむ龍の子であるということになる。石田の紹介によれば、本文でふれたように『南越志』には「守宮」=ヤモリが登場しており、このような観念は中国で成立したものである可能性が高いから、それによって直接に日本中世の童子神にかかわる意識形態を説明しうるものかどうかは問題が残るが、一応述べておきたい。
*55この史料については高橋昌明『酒呑童子の誕生』(中公新書、一九九二年)を参照。なお、本書にはその他にも「雷」についての有益な分析がある。
*56落雷が天道と王権の怒りを表現することについては、本書第■章「煙出と釜殿」を参照。
*57『前太平記』、高崎正秀著作集第七巻『金太郎誕生譚』、桜楓社、一九七一年。
*58なお、柳田は「一寸法師であれ物臭太郎であれ、ないし竹取の翁の小さき姫であれ、(桃太郎民話とは)事跡も出現の形式も著しく遠ざかっていて、ただその中間に地方採集の幾つかの口承説話を置いて見てはじめて両者の連絡を知ることが出来るのみである」(「田螺の長者」『定本柳田国男集』第八巻、筑摩書房)としているように、一寸法師と桃太郎譚の連続性を強調しており、口承説話の分析の上からは両者を一体のものとみうることをほぼ論証している。本稿は若干視角を違えて同じ作業に取り組んだものに過ぎない。
*59保立前掲「塗籠と女の領域」
*60横井清「夢と現の『小法師』たち」(同『的と胞衣ー中世人の生と死』平凡社、一九八八年)。なお、『沙石集』(巻七ー二二)に、ある僧侶が「弟子の僧一人、小法師一人」をもっていたという話があるのも参考になろう。そもそも「法師」という言葉自体、出家者全体についていうが、日常用語としては、「法師は僧の下にこそ侍るべけれ」(『選集抄』(一六)といわれ、僧の下に位置づけられ、僧への雑務の奉仕を職務とする、いわゆる「公人」的な存在であることも注意される。なお、笠松宏至はこの「法師とよばれる下級の僧侶」は一般に独身者であったが、彼らが性犯罪、強姦罪をおかした場合には、俗人の場合よりも情状酌量する慣習があったのではないかと述べている(笠松「式目はやさしいか」、同『法と言葉の中世史』平凡社選書、一九八四年)。この問題については本書第■章「秘面の女・露面の女」も参照。
*61「大歳の火」についての私見は、保立前掲「塗籠と女の領域」を参照。また「見るなの座敷」ついては、河合隼雄『昔話と日本人の心』岩波書店、一九八二年を参照。

2019年1月19日 (土)

松村武雄『日本神話の研究』の意義

松村武雄『日本神話の研究』の意義

 松村の『日本神話の研究』は地震神話研究の必要がでたときに購入した。購入して良かったが、こういう古典本は本はやはり政府の出版援助で買えるようにしておいてもらうと同時に、全文データベースにして、そこで自由に検索ができ、そしてPDFに飛べるといいと思う。
 
 日本はたとえ間違った解釈であったとしても「神話」を掲げて戦争をしたのだから、それを考えるための古典くらいは大事にしてもバチはあたらないと思う。バチ当たりな政治家、伝統などというのは口だけの「低劣」な存在には無理な話だが。
(「低劣」というのは、松村が使った戦争を推進した官権への罵りです。穏和な神話学者とおもっていたものが驚いた)。


神話学の松村武雄は、第二次大戦の敗戦直後、一九四七年に名著『日本神話の実相』を刊行して日本を戦争に導いてきた国家が神話を政治利用してきたことを正面から批判した。松村は、戦争中の「官権」は、(1)皇祖神アマテラス、(2)皇祖と国土の一体性、(3)アマテラスの詔命による天皇の統治権限、(4)皇統は尊厳にして永遠などの観念のみを神話として扱ったという。しかし、松村によれば、これは「天皇氏観想」のレヴェルでの神話であって、倭国神話においては二次的(後次的)なものにすぎない。問題は、それより根源的・一次的な神話、本来の民族生活から生み出された神話を明らかにし、考説することにあるのであるが、国家は、「天皇氏観想」レヴェルの神話のみを国民的信念として広めることに狂奔し、それ以外のことをいう神話学者を些細な語句をあげつらって「不忠者・非国民」呼ばわりをしたという。松村が、そのような官権の低劣・無知を、極めて厳しい筆致で非難するのは、そのような国定神話が「我が国民に空前にして恐らく絶後である惨敗の苦杯を満喫せしめた」という苦い事実を神話を研究するものとして認めざるをえなかったためであろう。

 松村のこのような立論は津田の議論に対して、一面賛成、一面では反対ということになる。つまり、松村は「天皇氏観想」レヴェルの神話が朝廷などの「ある特定の少数者の意識的工夫」によって作られたことを認める点で津田と同じ立場に立つことを明言する。しかし、その上で松村は神話は「古代人が我々に残した見事な生活報告書であり、文化記録である」のであって、そこには「(祖先のもった)民族的もしくは国民的理念・理想」も読み取ることができ、そのような神話の真正な姿・意義、つまり一次的あるいは根源的な神話を明らかにしなければならないという。この津田批判は正しく、たしかに津田の学問方法は基本的に文献学であって、神話学的な思考方法はきわめて未熟であったというほかないだろう。

 松村は、このような立場に立って、大著『日本神話の研究』(一巻~四巻)を出版して、戦後における倭国神話研究の基礎を作った。松村がそこで強調したのが、倭国神話における「宇宙生成神話」の実在である。これは「天皇氏観想」の神話よりも奥底にある自然神話ということになるが、松村は倭国神話における宇宙生成神話の位置を論じて、まず「ここでは宇宙創成論は、一面においては漢土の典籍からの単なる借物であり、他面においては自生的ではあるが、太だしく簡単な神名の列挙に過ぎぬ」(『日本神話の研究』巻一①136)ことは津田の言う通りであるとする。しかし、それは「政治的に一つの中心を確立しようとする精神、もしくは該精神の下に活動したとされる神々(それは天皇氏の祖先に他ならぬ)の人物的事業を説く神話」のために「自ずからなる淪匿を強いられた」結果であるという。つまり、宇宙生成神話は「淪匿」されているのであり、それ故に、逆にいえば『古事記』『日本書紀』のなかに隠されている、より一次的・根源的な「宇宙生成神話」を発掘し、明らかにすることこそが神話学の課題であるというのである。これは津田に対する肯定と批判の二面がそのまま展開されたものといってよい。

 松村は、『日本神話の研究』において、それを前提に倭国の古典神話のなかに残る自然神話の痕跡を詳しく指摘していく。そのなかでもっとも重要なのは、津田がイザナキ・イザナミの「ミトの婚合」による列島の産出を、「土地の起源が人の生殖として語られたことは世界に類例がない」として、これは神話編者による「(中国的)潤色」であるとしたことへの異論であろう(松村武雄『日本神話の研究』(1)第三章国生神話)*3。松村は、第二次大戦直後の知識人世界のなかで、この津田の指摘が自明なことのように扱われているのに対して、神話学の方法においては国生は言葉通り女神が国を生んだことと理解しなければならないとして、(フランス領ポリネシア)のソサイェティ諸島やマルケサス諸島の神話でも太初に神が島々を生んだことを例示した。さらに国生に続く神生神話においてイザナミが火の神カグツチを生んでホトに火傷を負って死去したことは、イザナミのホトが火山火口であったことを示すとしたのである。神話学の大林太良は、それを引き継いで出産によって国や島が生まれるというスタイルの神話は、太平洋地域に広く分布していることを示している。その意味では松村が、この国生の理解において「端的直截に国々そのもの島々そのものを生みましたとして受け取るのが却って古き代の日本民族の観想思考に忠実に即する所以であろう」というのは正しいのである。

 しかし、疑問があるのは、松村が、これらの「国生・島生」を「正真正銘の生理的な島生み」とまでいうことである。つまりイザナミにそくしていえば、彼女は「国生」において「生理的な島生み」をし、神生みにおいてカグツチの出産の時にのみ、自己のホトを火口としたということになる。ポリネシアには火山が多いことはいうまでもないから、これは「国生・島生」を火山神話の表現であるとすれば首尾一貫して問題をとらえることが可能になるはずである。松村は大著『古代希臘に於ける宗教的葛藤』では、ギリシャの火山神話についても充実した仕事をしているから、なぜ、そう考えなかったかについては不思議に思える。これは第一にはおそらく当時の神話学研究においてはいわゆる自然神話学説は低調となり、火山神話という神話類型が不明確であったためであろうか。松村が小川啄治の大己貴(大国主)に地震神としての性格を想定する見解に対して拒否反応に近い態度をみせていることからしても、そのように考えられるように思う。これは「宇宙生成神話」を強調する松村の議論における大きな齟齬であるようにみえる。

 そして、もう一つ無視できないのは、松村が「国生・島生」を「正真正銘の生理的な島生み」とまでいう意味が「古き代の日本民族には『むすび』(産霊)の観念・信仰が普遍的であり且つ強烈であった。国生神話の如きも、そうした観念・信仰が迫出した一種の生殖説話であると解してもいいであろう」という点にあったことである。ここで松村は本居→平田→折口に続く産霊神学の議論にそのまま乗っかっているのである。倭国神話の研究史において松村の仕事は決定的な意味をもっているのであるが、その発想がしばしば柳田国男ー折口信夫の日本民俗学に依拠している。とくに折口の発想の鋭さに対して、松村はしばしば讃辞に近いことを述べている。私は、結局、これが「産霊」という概念に松村が乗っかってしまった理由であると思う。産霊という概念を認め、その概念にそってタカミムスヒを理解するという点で、松村は津田と同じであったことになる。

2019年1月18日 (金)

「まどこおふすま」は大嘗祭の天皇霊付着布団ではなく、火山繊維。

 『日本書紀』本文に「高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆ひて、降りまさしむ」とある天孫ニニギが包まれた真床覆衾も同じようなものであったと考えることができる。折口信夫のいうのは間違い。

 『日本書紀』には六七八年(天武七)十月に、難波に降って、松林や葦原に垂れ下がった「綿のごとき」物がみえる。この「綿のごとき」物は「長さ五・六尺(一・六㍍)、広さ七・八寸(幅二二㌢)」という相当の大きさであるが、これはハワイ火山でみられるペレーの毛といわれる繊維状の火山噴出物、あるいはそれにスポンジ状のレテイキュライトのようなものが絡まったようなものではないだろうか(ペレーはハワイの火山の女神)。

 なお、この「綿のごとき」物の長さが一・六㍍、幅が二二㌢というのは長大であるが、若干の誇張はあったとしても火山毛として異常な数値という訳ではない。今村「降毛考」*8には「馬毛」「白毛」などという呼称がみえ、一八三六年(天保七)の例では長さ三尺という。藤木久志『日本中世気象災害史年表稿』には「龍毛・馬毛」(四〇二)「氷毛」(四〇三頁)などとみえ、一六〇八年に豊前で記録された「馬毛」も「長サ三尺程アリ」とされている。

 これが大森房吉『日本噴火志』(一九一八)の第三表「降灰及ビ火山毛降下ノ記事」に掲載されていることも付言しておきたい。『日本書紀』がこのようなものが天より降るのを「甘露」として縁起のよいものとするのも、前述の火山灰を「米花」と称する意識に似てくるようにも思う。

 もちろん、もしそうだとしても、この「綿のごとき」物を供給した噴火がどの火山かは不明であるが、文献では知られない噴火の存在を想定することも必要だろう。もちろん、それは日本の火山とは限らない。火山学の谷口宏充の教示によれば、一三七三年の朝鮮の白頭山噴火では朝鮮半島に「白毛長二寸、或三四寸、細きこと馬の鬣(たてがみ)のごときもの」が降ったという(『高麗史』巻五四志第八、恭愍王二二年)。実際、一〇世紀、九四六年に同じ白頭山で噴火があったときには、白頭山の火山灰が日本にも大量に飛来したことが文献と火山灰分析によって知られている。したがって、この七世紀、六七八年の「綿の如き」物も朝鮮など他国の火山の噴出物であった可能性も否定できないだろう。

 このような火山噴出物が天から降下するものとして神秘化され、王の降臨にともなう呪物として神話のなかに取り入れられていくということは十分にありえるのではないだろうか。

 なお、この結論はすでに『物語の中世』(講談社学術文庫)のあとがきに書きましたので、この記事を掲載したものです。

2019年1月11日 (金)

火山神としてのタカミムスヒと『荘子』、そして桜島噴火

 以下は現在執筆中の論文の冒頭部分の一部ですが、基本部分は『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)、『現代語訳 老子』(ちくま新書)などで書いたもののパラフレーズですので、ブログにアップします。

 ただ、『荘子』の「天均」の理解については、ここのみのオリジナルなものです。この「天均」を、文字通り「天のろくろ」であると考えて小説の題名に使ったのがアーシュラ・K・ルグィンでした。『天のろくろ』 (1979年) (サンリオSF文庫)。この文庫の訳者、脇明子氏は、『荘子』の注釈本を点検し、どの注釈書でも、「天の平均化作用」などと抽象的な概念として説明されていたので、やむをえず、これはルグインの誤解であったかもしれないとしました。

 しかし、下記に書いた私見では、ルグィンの理解で問題はなかったことになります。これは何人かの東洋史研究者に意見を聞いたのですが、従来の注釈書が正しいというご意見でした。

 ブログに審査などがないままオリジナルな見解を載せることは(学界の現状では)さけた方がよいという原則で書くことにしています。見解の発表が早い者勝ちとなり、万が一若い方に迷惑をかけることが心配ということです。ただ、以上からすると、このような見解は東洋史では突飛なものですので実害はないと考え、掲載することにします。火山神話について一刻も早く社会の理解を求めるのは必要なことと考えますのでお許しください(半年の内にはゲラから本にする積もりです)。


火山神としてのタカミムスヒと『荘子』

 タカミムスヒの神格を示す史料としてきわめて重要なのが、だいたい五世紀末と考えてよい『日本書紀』にみえる「鎔造神」タカミムスヒという記事である。そしてそれは天孫降臨神話におけるタカミムスヒの火山神としての神格に連続してくる。

 まずこの「鎔造神」タカミムスヒの史料からみていくが、これは『日本書紀』の顕宗紀三年条に、月神と日神がおのおの託宣して、タカミムスヒを「我が祖高皇産霊、預(そ)ひて天地を鎔造する功有り(祖先のタカミムスヒはかって天地を鎔造するという功績があった)」と述べたという記事である。

 史料の全文は後に掲げるが、問題はこの「鎔造」とは、『和名抄』に「鎔」が「鎔<いがた>、鋳鉄の形なり」と説明され、また中国の最古の部首別文字辞書『説文解字』(AD一〇〇頃成立)にも「器を冶(い)るの法なり」とあるように、金属の器を鋳型によって鋳造するという意味であることである。月神と日神が、「我が祖」タカミムスヒが天地を鎔造したというのは、タカミムスヒが月と日の浮かぶ世界と宇宙を巨大な火炎によって作り出したのだといったと託宣したということである。

 この世界を「鎔造」する作る巨大な火は、火山の大噴火ということではないだろうか。ギリシャ神話のゼウスは巨大な雷電の神であるが、火山神ヘファイストス(ヴァルカン)を手下としていたから、雷電神であると同時に噴火神であるといえるかもしれない。またユダヤの「エホバ」の神は雷神であると同時に噴火神である。ただ、ここでは、それらの神々でなく、大林太良が紹介したインドネシアのモルッカ諸島のセラム島につたわる次のような神話を紹介したい(『神話の系譜』206頁)。これは現代神話学の基礎をつくったイェンゼンによるセラム島の神話研究からの紹介であって神話学にとってはきわめて大きな意味をもっているものである*1。

 むかし、父なる天は母なる大地の上に横になり、性交していた。天と地は、当時はまだ今日よりも小さかった。この天地の結婚から、子供としてウプラハタラが生まれ、ついで弟のラリヴァと妹のシミリネが生まれた。彼らは両親の天と地との間に住む場所がなく、ついにウプラハタラが天を上に押し上げた。すると大地震が起こり天と地は拡大して今日のように大きくなった。天と地の分離の際には、地上にはまだ暗黒が支配していた。ところが、大地震のとき、火が地中から生まれ出し、地上には木や植物が萌え出で、山々がそびえ立った。ウプラハタラは、ダンマルの樹脂で大きな球をつくって火をつけ、天にほうり上げて、日と月を作った。


 世界創造神話の中で、これだけ「火」が強調される類例はめずらしいように思うが、ここに登場する「父なる天・母なる大地」という巨神の姿自体は世界の神話にしばしば登場するものである。もっとも有名なのは、ギリシャのウラノスとガイアの神話であって、それは天空ウラノスと大地ガイアがつねに相抱擁しているので、二人の間に生まれた子供たちが鬱陶しさに苦しんでいたとはじまる。そのため、子供たちは、両親を引き離そうとしたが、結局、男子クロノスが大鎌をふるってウラノスの陽根を切り取ったので、ウラノスは苦しみ、驚いて高く遁れ退いたという。そして、これとまったく同趣旨の神話がニュージーランドのマオリ族の天父ランギと地母パパの神話であって、やはり固く抱き合っていた二人の間で暗黒の中にいた子供たちは、二人を引き離し、母なる大地ランギをみずからのものとしようとして、天父を突き上げたというのである。

 これらの神話の中でも、このセラム島の神話は火山噴火を神話化したことが容易に想定できる点で貴重なものである。インドネシアはオーストリアプレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレートの会重地帯であって、セラム島は火山島ではないが、西南で接するアンボン島は火山島であり、インドネシア南部に密集する火山帯とフィリピン諸島を南下する火山帯のちょうど交点に位置する。それを前提にすると、この神話は、地震と噴火によって天地が大きく広がり、山と大地が生まれ、そして噴火と地震にともなって地中から噴き出した「火」、大きな樹脂の珠に火をつけて天にほうり上げて、日と月を作ったというイメージであろう。

 神話学研究において火山・地震にふれたものは多くない。しかし、それは大林の依拠したイェンゼンは、このようなタイプの神話に登場する火をもっぱら焼畑農耕と深く関係するものであるに違いないとしたためである可能性が高い。つまりイェンゼンはセラム島のヴェマレ族のもとで聞き取ったハイヌヴェレ(ココ椰子の枝)から生まれた女の子が殺され、その死体の各部分から焼畑のイモが生まれたという農業起源神話に注目した。そして、これと類似した神話がインドネシアからフィリピン、さらに南米にまで、環太平洋の全域に分布していることを発見し、それをハイヌヴェレ神話と名付けたのである。しかし、ゴーガンの『ノアノア』にも男神が火の柱となって天に上るという一節があることからすると、ハイヌヴェレ神話における「火」の神話は、焼畑農耕のみでなく、環太平洋地域が地球上でもっとも顕著な火山地帯であることとの関係をみるべきではないだろうか。

 それは神話学プロパーの研究にゆだねるが、ともかく、このセラム島の神話はタカミムスヒによる天地鎔造の中で月と日が生まれたという『日本書紀』の記事が火山神話と解釈する上できわめて示唆的なものであることは明らかである。とくにこのセラム島の神話が「父なる天・母なる大地」の第一世代と、その子のウプラハタラ・弟ラリヴァ・妹シミリネの世代の第二世代からなっており、そして、子どもの世代が日月を創造したというのはきわめて興味深い。これは倭国神話にあてはめれば、タカミムスヒ・カミムスヒが「父なる天・母なる大地」であり、イザナキ・イザナミが第二世代のウプラハタラや妹シミリネなどにあたり、アマテラス・ツキヨミ・スサノヲなどは、さらに第二世代が生み出した日・月にあたるということになろうか。

 もちろん、歴史学の立場と方法は、この神話学的な推論にそのまま依拠することを許さない。しかし、タカミムスヒの「天地鎔造」が火山噴火を意味する可能性を直接に示唆するのは、七六四年(天平宝字八)の大隅の海中火山の噴火を伝える『続日本紀』の記事である。この噴火は地質調査をふまえた歴史火山学的な研究によって、桜島の東部の鍋山を形成した噴火であることが確定している(小林哲夫「桜島火山の地質:これまでの研究の成果と今後の課題」『火山』27巻4号)。この火山噴火は「西方に声あり、雷に似て雷にあらず。烟雲晦冥して、奔電去来す」とあるから、奈良の都にまで「雷音」のようなものが聞こえ、現地は一帯が暗くなるほど煙雲が立ちこめ、雷電が走ったという大規模なものであった。、、しきりに落雷が響いたが、七日後、雲が晴れると信爾村の沖に三つの火山島ができているのがみえ、依然として噴煙が立ち上っていたという。そして、七日間ものあいだ立ちこめていた暗雲が晴れると、土砂と石が集まって三つの島ができあがっていた。現在、「三つの島」は見えないが、それは鍋山のあたりが後に噴出した溶岩によっておおわれてしまって桜島に合体したためである。ここには当時の人々が考えられる限りでの巨大な火があったといってよい。

 重大なのは、この島が「神造」の島とされて、その噴火の様子が「炎気露見すること、冶鋳の為(しわざ)のごとくなるあり」と報告されていることで、「冶鋳」とは冶金と鋳造ということであるから、ここでは火山噴火が、神が鍛冶や鋳造をいとなんだものとイメージされているのである。タカミムスヒの「鎔造」と同じことである。桜島の中腹から「炎気(=噴煙)」が上る様子を巨大な溶鉱鑪から火煙がみえるようだということになる。これにより、歴史学の立場からも、タカミムスヒの「天地鎔造」が火山噴火の神話的なイメージをいったものであることが明らかとなる。そもそも鍛冶の神=ヴァルカンVulcanと火山=ヴォルケーノVolcanoが同じ語源の言葉であることが示すように、鍛冶と火山には深い関係がある。これは洋の東西をとわないことであったに違いない。タカミムスヒの「天地鎔造」の火は、たしかに火山のマグマと噴火からイメージされた巨大な火なのである。

 この桜島史料にはじめて注目したのは益田勝実の『火山列島の思想』である。益田は倭国の神話のなかで火山神話の占める位置に注目した数少ない研究者の一人であった。しかし、益田は、残念ながら、この神の仕業が「冶鋳」とされていたことの意味にまでは立ち入らなかった。益田が注目したのは後の史料で、この噴火の結果が「大隅国海中に神ありて嶋を造る。その名大穴持神といふ。ここに至って官社となる」と記録されていることであった(『続日本紀』天平宝字八年十二月、天平神護二年六月五日、宝亀九年十二月)。増田は、この大隅の海底火山の神が「大穴持神」、つまりいわゆる大国主命の神とされていることに注目して、直接に日本列島の国造りの神としてのオオナムチの神格を明らかにするという方向に進んだのである。その仕事が倭国の神話論の中枢部分にはじめて測錘を降ろすことに成功したものであると思う。

 しかし、この問題は大国主命=オオナムチのレヴェルで扱うべきことではなく、火山噴火は世界創造神話のレヴェル、始源の神、タカミムスヒの「天地鎔造」の神格の問題として検討されなければならないことは明らかであろう。そして、その際に必要なのは、『古事記』『日本書紀』の記述のなかに入り込んでいる中国思想の表現を検討しておくことである。そもそも「鎔造」という言葉は、前述のようにすでに平田篤胤が「鎔造は漢籍どもに、造化之所鎔造也など見えて、無りし物を自然の運行に依て造化よしに言えれば、然る意を得て、本無りし天地を造出給える事にかきなされけん」(『古史伝』)とあるのである。これは改めて調べてみると、『文選』(三九巻)におさめられた任昉(じんぼう)(四六〇 -五〇八年、梁の武帝の側近)の「上蕭太伝固謝奪礼啓」という書のことである。この書は任昉が父の喪に服するために官職を辞す事情を述べたものであるが、そこに「(自分は)品庶において鎔造を均しきことを示す」とある。つまり自分は多くの人々と同様に天が鋳型に入れてつくった存在にすぎず、特別な待遇を求めないと述べたものである。そして、平田が引用したのはこの『文選』の注に「鎔造、造化の鎔鋳する所のものなり」という部分である。この時代、『文選』は日本でも必須の教養書とされていたというから、『日本書紀』のこの用例も、ほぼ『文選』によったものといってよいだろう。時期はやや降るものの、空海の著書『三教指帰』(巻中)に「洪鑪鎔鋳して憎愛の執を離る」(天地の大きな溶鉱鑪が鋳物を鎔造する際にはあれこれの憎愛の執着から離れなければならない)とあるのも典拠は同じようなものであろうか。

 中国には、古くから、天地が万物を創成する様子を鑪や橐籥(たくやく)やを用いて金属器を鋳造する作業にたとえることがあった。たとえば『荘子』(大宗師)には「天地をもって大鑪となし」という一節がある。天地とは「大鑪=鋳物の溶鉱鑪」のようなものだというのである。子来という哲人が瀕死の床に横たわったとき、悲しみ嘆く家族を遠ざけて友人に自分の心象を述べたものである。子来はこの天地を「大鑪」=巨大な溶鉱鑪であると考えれば、その中で自分の運命を「こうしてほしい、ああしてほしい」などと叫ぶのは滑稽なことである。それは溶かされる鉄が「おれを名剣にしてほしい」と躍り上がって叫ぶようなもので、鼠の肝になろうと、虫の触枝になろうと、それはどうでもいいことだ。そうではなく「造化の働きを立派な「大冶」(鋳物師)と思いなして、そのなすがままになっていればどのように転生しようと満足できるではないか」(「造化をもって大冶となさば、悪(いづ)くにか往くとして可ならざらんや」)と述べたというのである。趣旨は右にみた任昉(じんぼう)の詩と同じことである。これは『荘子』であるから、一種の寓話のように語られたものであるが、それでも「天地を大鑪=巨大な溶鉱鑪と考える」という観念は明らかである。

 また『老子』には橐籥(たくやく)、つまりフイゴ(鞴)が登場する。それは「天と地との間は、其れ猶お橐籥(たくやく)のごときか。虚にして屈(つ)きず、動きて愈々(いよいよ)出ず」(五章)というもので、現代語訳すれば、「天と地との間はフイゴのようになっていて、天地が上下に運動することによって風が吹き出し、人間などは簡単に吹き飛ばしてしまう」というのである。これは『菅子』宙合篇にもほぼ同じ観念がみえるが、鋳物を造るため熔鉱炉(大鑪)に送風するためのフイゴである(参照、池田『老子』東方書店。第五章注釈)。拙著『現代語訳 老子』でふれたように、中国では殷王朝以来、青銅器の鋳造技術を極限まで発展させた。そして、春秋時代にはこれに続いて鉄の鋳造(ちゆうぞう)技術が発展した。世界の鉄器製造の歴史では、普通、鍛鉄(たんてつ)が先行するから、これは中国に独特なことであったが、それを可能にしたのが溶鉱鑪の熱を上げるための送風装置、鞴の開発であったという。天地が巨大な溶鉱鑪であり、またそれ自体、巨大な橐籥(たくやく)=鞴であるというイメージは、こういう金属鋳造の伝統の中で作られた宇宙創造神話であったというべきであろう。

 その観点でみてみると、『荘子』(庚桑楚篇)には天には「天鈞」というものがあり、学識や実力があるだとか、弁が立つだとかいって人間の限界を踏み越えるものは、この「天鈞」によってすり減らされ破壊されるとある。この「天鈞」は『荘子』の注釈では「天の平均化作用」などと抽象的な概念として説明されるだけだが、これも万物創成を金属器鋳造にたとえる思考法を示すものとしていいのではないだろうか。そうだとすれば、この「天の均(轆轤)」というのは材木をけずったり、土器を作ったりするロクロではなく、鉱石を粉砕する強力な「鈞=轆轤(ろくろ)」轆轤のイメージであろう。「天均」で粉砕した鉱石を巨大な「大鑪」に入れ、「橐籥(たくやく)」で送風し鎔解するという訳である。

 このような思想が宇宙生成を金属器鋳造にたとえる神話や老荘思想の子枠を超えて、一つの宇宙観にまで一般化していったことは、前漢の時代の儒者、賈誼(かぎ)(紀元前二〇〇~一六八)が、その「服鳥賦」に「それ天地をもって鑪となし、造化の工となり、陰陽の炭となり、万物銅となる」と述べていることに明らかである。前記の任昉(じんぼう)の詩はその発展であり、また北齊の人、杜弼の「議生滅論」で「所論福果を論ずるところ、可以性靈を鎔鑄し、弘く風教を奬むべし。益の大なること、斯れに極まることなし」とあるのも同じことである。
 私は、こういう思考法の中から、天体観測にもとづいて天空が大地の上に蓋のように覆いかぶさっている(蓋天説)、あるいは卵の殻のような天球の中央に大地が浮かんでいる(渾天説)などの一種の宇宙構造論が発達していったのではないかと思う。八世紀の日本でも、律令によれば、暦算の技術者は蓋天説の記された『周髀算経』を学ぶべきものとされていた(細井浩志「日本古代の宇宙構造論と初期陰陽寮技術緒起源」『東アジア文化環流』第一編第二号)。蓋天説は渾天説とくらべて古い学説であるというが、それが日本で正規の学説とされた理由は、おそらくあるいは六世紀末くらいから、それが日本に根付いていたためなのであろう。六世紀に百済からやってきた五経博士は、当然にこれらの宇宙論ももってきたはずである。「天地鎔造」とは、こういう宇宙の構造に「蓋」や「卵」を想定する観念を反映していたものなのであろう。

 『日本書紀』は、こういう中国的な宇宙論的用語を借用して、タカミムスヒの火山神としての姿を描き出した訳である。中国の「天地鎔造」には火山神話の側面はなかったと思われるので、これはあくまでも流用という側面はあるが、しかし「大鑪(だいろ)」「橐籥(たくやく)」を組み合わせた「鎔造」のセットは火と風、まさに火山である。この「鎔造」という言葉が、日本における火山噴火と金属精錬技術という物語につらなうものとしてタカミムスヒの神格を表現するのに使われたのは自然なことであったろう。この点で興味深いのは、唐の天宝年間(742年—756年)の頃の人、張仲甫の『雷賦』という詩であって、そこには「粤若(エツジヤク)(ここに)古えを稽えるに、太始の初め、陰陽は和して炭となり、天地は張りて爐となり、品類を鎔鑄し、清虚を陶汰す。これを四海と名づけ、これを八區と謂う。陰陽は相い盪(うご)き、感じて雷となる乎。號して天地の鼓と曰う」とある。いちおう現代語訳しておくと、「太初の始めに、万物の「陰陽」(男性的要素と女性的要素)が合一して燃える炭となり、天地が張り切って丸くなって「爐」のようになって、その内部で様々な類のもの、万物(品類)を金属のようにどろどろに溶かして、そこから清く虚なものを淘汰した。こうして四海や、天下の八區の名ができたのである。そして陰陽が一緒に動いて感じて雷となるが、これはまさに天の鼓である」ということになる。こういうイメージを前提として、「天地鎔造」という言葉が火山の大噴火によって世界が形成されるという神話的な文脈で使用されたのである。

 こうしてタカミムスヒは巨大な火焔を象徴する神であり、より具体的には火山噴火を象徴するような天地創造の自然神であったということになる。にわかに賛同しがたいかもしれないが、しかし、ギリシャ・ローマ神話における鍛冶の神=ヴァルカンVulcanと火山=ヴォルケーノVolcanoが同じ語源の言葉であることからいっても、鍛冶と火山に深い関係があるのは自然なことではないだろうか。溝口の「タカミムスヒ=鍛冶神」論の根拠となったものであるが、実際には、これはタカミムスヒの火山神としての神格を物語るものといってよい。

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