危機意識・危機管理・大学・原発
ビッグイッシュウ入手。本郷の交差点の彼から。寒い寒いと挨拶。 以下は、朝の総武線の中。
1月26日の朝日新聞にドイツ緑の党の欧州議会議員ハルムスさんのインタビユーがのっていた。「日本政府は福島第一原発が安定しているといっているが、不安定な状況に変わりはない。それなのに危機感がないのには驚いた」という率直な意見。
その通りと家で話していたが、考えてみると、自分の勤めている大学という組織は国家社会の危機を敏感に察知して、その確実な部分を、さまざまなルートをつうじて伝えていくという役割をもっていると思う。そういう点からみると、大学に十分な危機意識がないのが社会状況に影響しているのではないか、これは自分にかかわる問題だと考えた。
私は、これまで、自分の持論として、大学の端的な性格を表現しているのは「教育基本法」の「大学は学術の中心」という規定であると考えてきた。その場合、大学を学術の創造、そしてそれにかかわる文化・技術の創造ということを中心に考えてきたように思う。ポジティヴな創造という側面である。
けれども、もう一つ踏みこんで、「学術の中心」の社会的機能ということを考えてみると、社会のもつさまざまな神経網・神経系統の中では、大学は、危機にもっとも敏感な部分でなければならないということがいえるのではないかと思う。いわゆる危機管理の前提となるような危機意識の維持という役割である。これはマイナスの役割、自己否定的な役割、自己省察の役割といってよいかもしれない。人文社会科学をふくめて、学術文化の創造は、いわばデモンを生み出すことがあり、つねにポジティヴな意味をもつとは限らない。そういう意味でも、こういうネガティヴな役割とでもいうべきことを考えるべきなのかと思う。
「政・官・学」という言葉があるが、このうちで「学」は社会的な神経網としては危機意識と警鐘あるいは沈静の効果にかかわるのではないかということである。もちろん、それらは社会を構成する個々人がおのおのの責任において担うものだが、しかし、大学や学術ネットワークというものは危機意識の維持にとくに貢献しなければならないのではないかと思う。その場合、あるいは危機を大きく見過ぎたということもあるだろう。しかし、カナリヤのようなもので、そのような敏感さは必要のように思う。
社会的な神経網、あるいは神経系統という言葉は、ジェームス・スチュアートが『経済学原理』(第一篇第十二章)において「活気を近代社会のあらゆる関節、あらゆる脈管、あらゆる神経系統ともいうべきものに漲らせる」と述べているのが学術用語としては初見ではないかと思う。アカデミーは、「活気」ではなく、注意深さと警鐘の役割ということになろうか。
ようするに全体的な課題への社会的集中というのは社会の神経系統には、どのような場合も必要なものであるが、その中でも危機意識の側面である。繰り返すが、これは大学と学術ネットワークの固有の社会的役割でないかと思う。
原発の問題は、長期的な居住困難をとっても、除染をとっても、内部被曝をとっても、相当のことをさしおいても、ほとんど国の総力をあげてとり組むべき問題であることは明らかである。日本社会がはじめてぶち当たらせられた問題であるだけに、さまざまな意見がありうると思うが、しかし、この総力をあげてとり組むべき問題の性格は認められるべきと思う。
いわゆる危機管理という問題があり、さんざん強調する政治家がいた割にはお寒いものであるというのがはっきりしてしまった。それはようするに危機意識がないのに、危機管理などはできないという単純な話である。そもそも科学技術政策が間違っていた、あるいは大きなリスクをふくむ科学技術政策をとっていたという感じ方がないのであるから、事態は深刻である。現代社会は、科学技術政策を間違えば、もっとも大きな災厄がかかってくる社会になっている。
東大もこのような科学技術政策に多くの点で責任があったはずである。第二次大戦後の東大は、実際上は東京工科大学というべき実態であった訳であるが、これがその結果である。「秋入学」の議論などをしている余裕があるのだろうか。最悪の時に議論を始めてしまったものである。
なお、神経系統という言葉を社会科学で使用してはどうかというのは、戸田芳実さんが主張していたことである。それについてはWEBPAGEにある情報と記憶という論文で若干述べた。
右にあげたジェームス・スチュアート以外の典拠は、まずヘーゲル。ヘーゲルが、『法の哲学』において「国家」を「おのれのうちで有機的に組織された神経組織そのもの」と表現し、神経組織を家族や市民社会などを構成素とする社会有機体を精神にまとめ上げる「理性的なものの威力」であると論じているのは、スチュアートによったのだろう(『法の哲学』§262)。あるいはいわゆる社会有機体説ではよく使う言葉なのであろうか。マルクスがライン新聞の論説において「特殊を普遍とむすびつけている目にみえない神経繊維、すなわち、なんの場合もそうであるが、国家にあっても物質的な諸部分を精神ある一つの全体の生きた肢節とならせている神経繊維」と述べたのは、このヘーゲルの用語に影響されたものである可能性がある。マルクスは、ここで神経繊維という用語を、社会構成を「精神ある一つの全体」に編成する様相を表現するキイタームとして使用している。











細かな調査である。過去を細大もらさず、できるかぎり確定していく作業。もちろん、確定にはさらに長い時間が必要であろうが、不明部分の原稿を埋めることができやはりほっとする。こういう仕事に何の意味があるかといわれれば、過去を確定する作業に参加することと答えるほかはない。
するもののとっては、社会との関係で、むずかしい問題がある。
アーサー・ビナードさんがでていて、『ここが家だーーベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社、絵ベン・シャーン、構成と文アーサー・ビナード)の紹介をしているところに間に合う。昨日は例年の監督業務で日曜美術館のことなどはなす余裕はなく、就寝。
ここ6・7年であろうか。初詣に近くの神社に行く。子供が小さかったころ町内の子供会の関係があったころは何度か行った記憶があるが、中年の間はまったくであった。ただオランダから留学生を受け入れていたとき、彼が行きたいということで、作草部神社に初詣に行き、さらに靖国神社にも連れて行ってから行くようになった。
トビーさんもその意味で無条件に尊敬するべき人であったというのが出席しての感想。顔なじみのあまり、そして江戸時代初期の研究者なので、尊敬するという意識はなかったというのが率直なところだが、講演を聴いて尊敬度が増す。トビーさんは、半分、外国史研究者なのだ。