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2018年11月13日 (火)

今書いている本『倭国神話論の刷新 タカミムスヒとカミムスヒ』の「はじめに」

 いま書いている本の「はじめに」ができましたので、アップしておきます。
 完全にこのままになるかどうかは分かりませんが、私は本の執筆のある段階で「はじめに」を書かないと続きが賭けない方なので、書きました。これが書けたということで順調に進むことを予期しています。

『倭国神話論の刷新 火山と竈の至高神、タカミムスヒとカミムスヒ』

はじめにー忘れられた神

神話の至高神は天照大神か

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(『日本書紀』神代、第九段、第一の一書)

現代語訳「葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう」

 これは『日本書紀』の「天孫降臨」条(第一の一書)に伝えられた、女神天照大神(アマテラス)の発したいわゆる天壌無窮の神勅である。アマテラスが、その孫の天津彦彦瓊々杵尊(ニニギ)が下界に下るにあたって与えた神勅であって、この神勅をうけてアマテラスの子孫、ニニギの子孫として天皇家が万世一系の王統を維持し、「葦原の千五百秋の瑞穂の国」(日本)を統治するという訳である。

 現在、「天上無窮の神勅」といっても、すでにほとんどの人が読んだことはないだろうが、第二次大戦が終了するまでは、これはたいへん有名な文章で、これを聞いたことがない人はいなかった。たとえば一九三七年、日中戦争が始まる三ヶ月ほど前、文部省思想局が発行した『国体の本義』は、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給うこれ、我が万古不易の国体である」と始めている。傍点部の「天皇皇祖の神勅」が右の「天壌無窮の神勅」であった。『国体の本義』は続けて、「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明する。続いて『国体の本義』は伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の男女の神による国土造成神話を説明した後、この二神が「先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、さらにこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた」としている。

 続いて、一九四一年に同じく文部省の教学局の公定した『臣民の道』はアメリカに対する宣戦布告の五ヶ月前にあたる。そこでは『国体の本義』よりもさらに明瞭に日本の「国体」は天照大神の子孫としての現人神である天皇が国家を統治することにあることが述べられている。「国体は我が国永遠不易の大本であって、天壌と共に極まるところがない皇祖天照大神は皇孫瓊々杵ノ尊を大八洲に降臨せしめられ、神勅を下し給う」「歴代の天皇は天照大神の御心を以つて御心とし、大神と御一体とならせ給い、現人神として下万民を統べしらし給う」というのである。

 またこの『臣民の道』はとくに「臣民」の忠義を強調する。一部引用すると、「我らの祖先は大方は名もなき民として、日に夜に皇国の富強に努めその繁栄に竭くし、忠良なる臣民としての生涯を送ってきたのである」「臣民の道は、皇孫降臨の際奉仕せられた神々の精神をそのままに、億兆心を一にして天皇にまつろひ奉るにある」「神勅を下し給ふて君臣の大義を定め、民の生くべき道を示され、(中略)臣民を赤子として愛撫せられた」「君臣の間に於いて現はれた最も根源的なものが忠であり、(中略)而して天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。神と君、君と臣とはまさに一体である」などとある。天皇と臣民の関係は、神と人間の関係、神とそこに一体化すべき臣下、民の関係であるというのである。このような君臣関係の捉え方は、すでに『国体の本義』にもあって、そこには「身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの」、「上に立つものー下に働くもの、それら各々が分を守ることによって集団の和は得られ」、その上に立って「君臣相和」などとあった。しかし『臣民の道』において、「民・臣下」の忠義の道がさらに強調されるようになっていることは明らかである。

 ここにあるのは、アマテラスが「天壌無窮の神勅」によって現人神たる天皇に国家を統治する権限をあたえたという神話である。その観点からいえば、アマテラスが神話の「至高神」であるということは疑えないことであろう。実際、後にもふれるように『古事記』にも『日本書紀』にもアマテラスを「至高神」として扱う記事はいくつも存在する。またこれが現在の日本でも一つの常識的なものであることはいうまでもない。

 このような歴史観、つまり「国体」の本質は臣民は天皇に対して敬神愛国の精神をもって奉仕することにあり、それによって「国史」は貫かれているという歴史観を、普通、皇国史観という。『国体の本義』と『臣民の道』の二つの文書は、この史観を国定の歴史の見方としたものである。それと対比するため、次に終戦の年の翌年一月に発せられた昭和天皇の詔書、いわゆる「人間宣言」の要点を引用してみよう。

「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」

 ここにいう<天皇は現御神であり、日本民族は他民族に優越する世界支配の運命をもっている>という「架空ナル観念」というものが、以上にみてきた『国体の本義』や『臣民の道』によって展開されたものであることはいうまでもない。現在になってみれば、この思想が有効でないのは自然なことである。

 しかし、本書は、この皇国史観それ自体に立ち入って論ずることは課題としていない。私が問題としたいのは、その前提となっている神話の理解そのものであり、とくに倭国神話の中には天照大神ではない神話の至高神がたしかに存在したという事実そのものである。

 つまり、『古事記』の冒頭には、次のように「天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」の三神が登場する。

「天地初めて発りし時、高天原に成りませる神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」
現代語訳。天地が始めて発生したとき、高天原に成った神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神であった。この三柱の神は、みな独神と成られて、身を隠しされた)

 これによれば、天地の生成のとき、まず(1)アマノミナカヌシ(天御中主)という神、そして(2)タカミムスヒ(高御産巣日)という神、そしてタカミムスヒのペアのようにして(3)カミムスヒ(神産巣日)という神が登場したというのである。これらの神々は『古事記』序文でも天地が形成される前の混沌から初めて発生して「造化の首」(創造の最初)となったとされている。この順序からいけば、アマノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの、いわゆる「造化三神」こそが神話の「至高神」というにふさわしいものではないか。

 それに対してアマテラスはもっと後に登場する。つまり、『古事記』によれば、この造化三神の次ぎには、(4)宇摩志阿斯訶備比古遲(ウマシアシカビヒコヂ)神、(5)天之常立(アメノトコタチ)神が登場し(以上を「別天神」という)、さらに(6)国之常立(クニノトコタチ)神、(7)豊雲野(トヨクモノ)神の二神がきて、次ぎに五組のペアの神がくる。(8)宇比地邇(ウヒヂニ)神、(9)妹須比智邇(イモスヒヂニ)神、(10)角杙(ツノグイ)神、(11)妹活杙(イモイクグイ)神、(12)意富斗能地(オホトノヂ)神、(13)妹大斗乃辨(イモオオトノベ)神、(14)淤母陀流(オモダル)神、(15)妹阿夜訶志古泥(イモアヤカシコネ)神、(16)伊邪那岐(イザナキ)神、(17)妹伊邪那美(イモイザナミ)神である(以上を「神世七代」という)。この部分は全体で「別天神」五柱、「神世七代」一二柱、総計一七柱となるが、文字数にすると決して多いものではなく、神名を並べただけで、その神名の意味も全体の文脈も解釈が定まっていない。そして、最後にイザナキ・イザナミの男女の神がきて、彼らが「天の浮橋」に立って「天の沼矛」でどろどろした海をかき回してオノゴロ島という島を作り、その上に天から降り立って性交して国土や神々を産んだという。その物語がイザナミの死とイザナキの地獄巡り、そして天照大神・月読命・須佐之男命の三貴神の誕生と続くことはよく知られているだろう。

 たしかにアマテラスは「天壌無窮の神勅」によって天皇に国土の統治権をあたえたという点では「至高神」であるといえるかもしれない。しかし、アマテラスは、この長い神々の系図、神統譜の最後に登場するのであって、その側面からすると、神々の世界の中で至高神といえるかどうかは問題があるだろう。これは至高神といっても、その神がどのような意味で至高神であるかは厳密に考えなければならないということを意味する。そもそも、造化三神といわれるアマノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの三神はどういう神であって、その神とアマテラスはいったいどういう関係なのかを説明することなしに、ただアマテラスを至上神であるといっても、神話とその物語の理解としてはほとんど意味がないことになるだろう。

 しかも問題なのは、実は「造化三神」こそ「至高神」であるという主張が古くから存在したことである。しかもそれは古く一二世紀以降に発達した伊勢神道で確認できる。伊勢神宮とは外宮を中心に展開したものであるが、そこでは神話の至高神はトップに登場するアマノミナカヌシであるという意見が強力に主張された。そしてそれを受け継いだ足利時代の吉田神道においても、徳川時代の垂加神道においても同じような主張は繰り返されている。

 またなによりも徳川時代の「国学」の大成者、本居宣長はタカミムスヒこそが神話の「至高神」であるとした。本書で詳しくみていくように、『古事記』でも『日本書紀』でもタカミムスヒはいかにも「至高神」らしい姿と行動をみせており、この宣長の学説は、二三〇年ほどが経った今でも、実は学界では通説というべき位置をもっているのである。

 奇妙なのは、それにも関わらず、現在の日本では倭国神話の「至高神」というともっぱら天照大神であるということになっていることである。他方、アマノミナカヌシやタカミムスヒなどの神が、現在の日本ではほとんど知られていない。神道について相当に深い信仰をもつか、あるいは神話に専門的な興味をもっている人々以外、ほとんどの人は、この神の名前を知らないのではないだろうか。アマノミナカヌシとタカミムスヒの両方の名前を知っている人は、日本の国籍をもつ人のうち一〇〇人に一人もいないのではないだろうか。

 神話の至高神がどのような神であるかというのは神話を世界観として考える上では決定的な問題である。もちろん、ある民族の神話において至高神と考えることができる神が二人、または複数いるということはありうることであるが、その場合は、その複数の至高神の関係、つまり、ここでいえばアマノミナカヌシ・タカミムスヒとアマテラスの関係はどのようなものであるかというのは大問題になるはずである。ところが、日本社会で神話について語られる場合でも、これはまったく問題にならない。それどころかアマノミナカヌシ・タカミムスヒという神の名前さえも知られていないのである。

 これはあまりに偏頗な状態であるといわざるをえない。世界各国では考えられない事態である。ヨーロッパでは一七世紀以降、ゲルマンやケルトなどの民族的な神話についての研究が進み、それはいわゆる国民国家の形成のなかで大きな位置をもった。これと同様に、日本でも早く一八世紀の「国学」において本格的な神話研究が始まったのは学術の歴史として誇るべきことであるが、しかし、もっとも肝心の神話の至上神の名前さえも多くの人びとが知られていない。日本の民族的な神話、というよりも「日本」という国号ができる前、九州から近畿地方を舞台に語られ、日本の国家形成の重要な条件となった神話についての本居宣長以来の研究はほとんど社会の中に知られておらず、神話の至高神の名前さえ十分には知られていないのである。

 日本では人文諸科学の学者の常識と国民の知識の間に大きなギャップがあるということはよく言われることであるが、これはその中でももっとも大きなギャップというべきであろう。もとより、このようになった事情は、この国の近代の歴史が辿った蹉跌多い歴史に原因があったといえるだろう。つまり、日本では明治国家がアマテラス信仰を国定化し、第二次大戦中に、それが戦争の中で鼓舞された。これが、いわば「羹にこりて膾を吹く」というべき事態をもたらし、神話を一種のタブーとし、それについての知識を曖昧なものとし、結果として、伝統文化のなかでの神話の位置を大きく下げる結果をもたらしたことは否定できない。

 しかし、このような奇妙な事態の責任を歴史の経過のみに求めることが許されるのであろうか。つまり『国体の本義』のイデオロギーによって遂行された戦争が無惨な結果を日本と東アジアにもたらしてから、すでに七〇年余になる。また本居宣長によって神話の本格的な学術的研究が開始されてから数えれば二三〇年以上の時間が経過しているのである。それにも関わらず、神話学・歴史学の常識が日本社会に知られていないのは、やはり神話学・歴史学の側にも相当の責任があるというべきなのではないだろうか。

 この責任を果たし、新しく分かりやすい形で伝統的な神話の実像を説明し、それによって、一時はほとんどの日本人が信じていた<天皇は現御神であり、日本民族は他民族に優越する世界支配の運命をもっている>という「観念」が、どのような意味で「架空」であるかを説明すること。それによってこそ、『国体の本義』『臣民の道』の影響の下で人生を送った様々な人々の経験を追体験し、記憶し、再出発することが、本当の意味で可能になるのではないだろうか。それを終えなければ「日本人」にとって、あの戦争は終わったことにはならないのではないか。

2018年11月10日 (土)

戦争中の『国体の本義』が国学の祖、本居の学説を半ば無視していたことについて、また『老子』を個人主義と否定していたことについて。

戦争中の『国体の本義』が国学の祖、本居の学説を半ば無視していたことについて、また『老子』を個人主義と否定していたことについて。

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(『日本書紀』神代、第九段、第一の一書)

現代語訳「葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう」

 これは『日本書紀』の「天孫降臨」条(第一の一書)に伝えられた、女神アマテラス(天照大神)の発したいわゆる天壌無窮の神勅である。現在、「天上無窮の神勅」といっても、すでにほとんどの人が読んだことはないだろうが、第二次大戦が終了するまでは、これはたいへん有名な文章で、これを聞いたことがないひとはいなかった。

 たとえば一九三七年、日中戦争が始まる三ヶ月ほど前、文部省思想局が発行した『国体の本義』は、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給うこれ、我が万古不易の国体である」と始めている。傍点部の「天皇皇祖の神勅」が右の「天壌無窮の神勅」であった。『国体の本義』は続けて、「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明する。続いて『国体の本義』は伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の男女の神による国土造成神話を説明した後、この二神が「先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、さらにこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた」としている。天照大神が「至高神」であるというのである。

 一九四一年に同じく文部省の教学局の公定した『臣民の道』は「国体は我が国永遠不易の大本であって、天壌と共に極まるところがない皇祖天照大神は皇孫瓊々杵ノ尊を大八洲に降臨せしめられ、神勅を下し給う」「歴代の天皇は天照大神の御心を以つて御心とし、大神と御一体とならせ給い、現人神として下万民を統べしらし給う」と、さらに詳しく説明している。こういう状況の中で、国民はこの「天壌無窮の神勅」をなかば暗記していたのである。

 さて、こういう「天壌無窮の神勅」歴史観を、普通、皇国史観というが、この皇国史観それ自体の評価は別として、問題としたいのは、皇国史観の支えとなっていた、天照大神が「至高神」であるという考え方である。

 もちろん、残念ながら、現在の日本でも倭国神話の「至高神」は天照大神であるという考え方が、いまでも一つの常識である。しかし、これは厳密にいえば誤った常識であって、倭国神話の至高神がタカミムスヒという神であることは、有名な徳川時代の「国学」の完成者、本居宣長自身が明らかにしていたことであり、また本居の弟子をもって自認し、皇国史観の元祖のようにいわれる平田篤胤も、タカミムスヒが本来の至高神であることは当然のこととしていたのである。現在の神話研究でも、それが引き継がれていることはいうまでもない。

 さて、現代の日本では倭国神話の神といえばもっぱらアマテラスとなっていて、タカミムスヒは、その名前さえもほとんど忘却されているというのは、本居宣長の努力をほとんど無にするに等しいことであることは強調しておきたいと思う。このようなことになっているのは、いうまでもなく、第二次大戦の下で、『国体の本義』のような道徳書が徹底的に普及されたために、あらためて日本神話の至上神といえばもっぱらアマテラスということになったためである。またこういう経過を含む第二次世界大戦の敗戦によって人々は「神話」そのものに疑いの目をもつようになったことも否定できない。本居宣長の国学は、明治時代の国家の国家思想を作る上で決定的な役割を果たしたのであるが、そこに生み出された政治は本居宣長の国学の教説の根本を伝えることに失敗したということになるだろう。

 この問題は、結局、本居にいたる日本の神道学説をどう考え、以降の神道学説をどう考え、それといわゆる国家神道の関係をどう考えるかに関係してくる。

 なお、私は二年ほど前から神話論の研究を始めたのですが、そのとき、まず日本神話の基礎になっている老荘思想を知っておかねばと云うことで『老子』を読み、本居が、神道が老荘思想に近いといっていることが事実であると確認しました。こうして、結局、『現代語訳 老子』(ちくま新書)という本まで書くことになったのですが、他方、『国体の本義』も読まねばということで、詳細に読む作業をつづけてきました。驚いたのは、両者がクロスしてきたことで、『国体の本義』が日本の思想の基調をなした諸思想のうち、儒教と仏教を誉めあげながら『老子』の思想は「歴史的基礎のない個人主義におちいった」としていることでした。『国体の本義』は本居の研究成果を無視すると、同時に老荘思想を批判し、拒否していたということになります。『国体の本義』の主張の要点は、ようするに日本社会に存在していた「個人主義」のすべてを否定するということだったのですが、その個人主義を支えていた伝統思想は老荘思想であった訳ですから、狙いはきわめて正確であったということになると思います。これが驚きでした。

2018年11月 4日 (日)

講演の予告、内容概略「最初に譲位した天皇、斉明女帝と大己貴(大国主)信仰」

12月1日(午後二時より)に近江の野洲市歴史民俗博物館で「最初に譲位した天皇、斉明女帝と大己貴(大国主)信仰ーー天皇と地震と近江」という講演をします。

 以下が予告の内容です。

 7世紀初期ごろまで天皇は40歳前後で即位して、終身、天皇の座にありましたが、乙巳の変を機に、譲位という天皇の行動の仕方を作ったのが皇極女帝(重祚して斉明女帝)です。女帝は弟の孝徳を天皇とし、自分は「皇祖母尊」(スメミオヤノミコト)の地位につきました。これは、実際上、後の太上天皇にあたるものです。

 女帝は継体王統の正統を継ぐ位置にありました。近江は継体王統の最大の根拠地であり、皇極女帝も近江と深い縁をもっていました。

 孝徳天皇の崩御後に、重祚(再び天皇に即位すること)した斉明女帝は、斉明五年(659)に吉野に行幸し、同地から近江の平浦宮に行幸しました。吉野には畿内の神々のうちで最高の神位をもつ大名持神社(おおなもちじんじゃ)があり、そして平浦宮の北には日吉神社の神体山である牛尾山があります。この二つの甘南備型の山には地震の神が宿っているとされています。

 講演では、女帝が、この行幸に籠めた意図についてお話しいただきますが、近江における大国主(おおなもち)信仰の話しにもなりますので、記念すべき兵主神社の展覧会にもふさわしいものと考えています。

2018年10月31日 (水)

聖徳太子の憲法17条の「和を以て尊となす」は民主主義か

 稲田議員の国会質問について毎日新聞の取材をうけてお答えしました。ただし、デジタル版などに掲載されたのは、このまったくの一部ですので、ここでオープンしてしまいます。

民主主義とは平等な諸個人が出自・職業・民族などの相違をこえて宗教・思想・信条などを含むすべての尊厳と自由を行使することであって、そのようなシステムが一応現実化したのは20世紀の普通選挙権の実施以降です(平凡社『大百科事典』民主主義の項目)。

 しかし、現在でもたとえば男女平等の規定の追加が何度も妨げられたままで民族の平等規定も存在しないアメリカ憲法のようにひどい憲法も存在する状態です。

 ですから、そういう民主主義が前近代の世界にはどこにも存在しなかったことはいうまでもなく、たとえばギリシャのデモクラシーも市民=奴隷主相互の平等にすぎません。

 いわれる聖徳太子の憲法17条の「和を以て尊となす」は『論語』の一節、儒教思想ですので民主主義とは関係がありません。『国体の本義』も、その本質を「君臣相和」「上に立つ者と下に立つものの和」であって「理性から出発し互いに独立した個人の協調」とはまったく違うものとしています。『国体の本義』は五箇条の誓文のいう「公論」も同時に出された宸翰に「百官諸侯卜広ク相誓ヒ」とあるのを中心に説明しています。『国体の本義』は戦争中の国定思想でしたが、これらの説明は正しいでしょう。

 問題はこのようなシステムとしての民主主義でなく、思想としての民主主義が日本にあったかどうかですが、東アジアで民主主義的思想の側面をもつといって問題ないのは、私は『老子』の思想であると考えています。しかし『老子』の思想は日本ではなかなかそのような形では受容されませんでした。また同じく『国体の本義』が日本の思想の基調をなした諸思想のうち、儒教と仏教を誉めあげながら『老子』の思想は「歴史的基礎のない個人主義におちいった」としているように前近代の日本国家は老荘の思想を拒否していたというのが正しいでしょう。

 その意味では言説としての民主主義は日本ではなかなか難しい運命を歩んできたというのが妥当だろうと思います。

2018年10月28日 (日)

ものぐさ太郎から三年寝太郎へ

 以下、著書『物語の中世』(初刊、東京大学出版会、再刊2013年講談社学術文庫)の「ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」の入稿データの全文公開です。ただし、図版・図はなく、また本作成の段階での校正追加は反映されていません。
 
ものぐさ太郎から三年寝太郎へ
  はじめに
 三年寝太郎・隣の寝太郎・力太郎
 「三年寝太郎」は、今の子供たちもよく知っている昔話の一つであろう。寝太郎は三年と三月もの間、寝ほうけていたが、折からの旱魃で村人が苦しんでいるのをみて、急に起き上がり、大川から井手を掘って水を引こうといいだす。最初は馬鹿にしていた村人も、一人で井溝を掘り続ける寝太郎の姿をみて協力しだす。そしてとうとう、潅漑用水は完成し、日照りの時も水に困ることがなくなり、村は豊かになり、寝太郎も働き者の若者となって幸せに暮らしたというわけである。
 我が家にある絵本、文・大川悦生、絵・渡辺三郎の『三ねんねたろう』(ポプラ社、一九六七年)では、寝太郎民話はさらに心をはげますニュアンスのものになっている。寝太郎は、本来は働き者の孝行息子だったが、働いても働いても暮らしは楽にならず、代官所や地主に年貢を納めてしまうと、これっぽっちの米も残らず、ひどい日照りの年に母親を失ってからはまったくやる気を失ってしまったという。つまり、寝ほうけていたのには十分な理由があったという訳である。そして、彼は実直で人の良すぎる、しかし、力持ちの大男に描かれている。村の子供たちは彼が大好きで、子供たちは寝太郎の家の前を通る時には、いつも「寝太郎どん、ねむり病気と違うんか。おいしゃさん呼んで、苦い薬のませたら、目さますやろ」などとはやしたてたという。寝太郎はまずはこの子供たちの協力をえて井堰を完成させたのである。
 このような寝太郎物語の原型は、山口県山陽町厚狭に伝わった民話、「厚狭の寝太郎」にある。この民話は柳田国男が注目してはじめて有名になったものであるが、厚狭では江戸時代に寝太郎のお陰で数千町歩の荒地が開発されたと伝承されており、寝太郎の木像や、長者となった寝太郎を祭る「寝太郎荒神」という神社が残されているという(「隣の寝太郎」、『定本柳田国男集』⑧、筑摩書房)。
 その話型の明るさが子供向けの絵本にふさわしいのだろう。我が家の絵本も、その「あとがき」に断ってあるように「厚狭の寝太郎」を原話としているのである。ただ、問題は、柳田が述べているように、一般に「隣の寝太郎」民話といわれている全国各地に残る寝太郎民話は、これとは相当趣向を異にするものであることである。寝太郎が寝てばかりいることは同じであるが、長者になった道筋は全然違う。寝太郎は隣の富裕な長者をだまして、その一人の娘を妻にしたというのである。ある正月元旦の明け方に寝太郎は、白鷺(あるいは鳩・鶏などの場合もある)を抱えて、隣との境の大きな椋の樹の梢に登って隠れ、そこから作り声をして「おれはこの土地の氏神である。娘には必ず隣の寝太郎を聟に取れ」とよばわった。そして寝太郎が放った鳥が鎮守の森をさして飛んでいくのをみて、長者はこの神のお告げをすっかり信じてしまい、「隣の寝太郎」はまんまと聟に納まったのである。
 柳田は「唯一つの長州の例(つまり厚狭の例)を除く他、妙に求婚手段の成功の方に力を入れて説くものが多い」といっているが、戦後の関敬吾編の『日本昔話大成』によっても、厚狭のような寝太郎民話はほかに発見されてはいないようである。しかし、「厚狭の寝太郎」はまったく孤立した、単なる例外の作り話という訳ではないだろう。というのは、柳田国男の紹介している信州安曇郡の寝太郎民話では、笹を刈っていた若者が昼寝をしている内に、頭に二本の角が生えたとか、急に巨人に化してしまったとかで、三年の間、山中に隠れてしまったが、夜には返ってきて一人で自分の家の田植・田業を一晩のうちに片付けてくれたという。ここには、長者の娘との婚姻譚でめでたしめでたしとなるのではなく、同じように「大力」の労働で話が終わるスタイルの寝太郎民話を確認できるのである。周防と信州という遠く離れた場所に、同じ昔話の類型が残されていることは興味を引くところである。
 そして、この大力の話が「こんび太郎」とか「力太郎」とかいわれる類型の民話と連続するものであることはいうまでもない。我が家には、文・今江祥智、絵・田島征三の『ちからたろう』(ポプラ社、一九六七年)の絵本もある。その原話は東北地方に伝承されたもので、貧しいジジ・ババが自分たちのコンビ(あか)を集めてコネだした「こんび太郎」が、あたかも桃太郎が食べれば食べただけ大きくなったのと同じように、大きく生長して「力太郎」となった。そして彼は妖怪をやっつけ、人身御供に捧げられようとしていた長者の娘を助けて、その聟になったという。
 ようするに、これらの民話は怠け者であったり、取るにたらない出自であったために軽蔑されていた男子が、一風かわった仕方で成功し、村の長者あるいは長者の聟になるという点で共通した話しなのである。関敬吾編の『日本昔話大成』によれば、このような昔話は実に分厚く、日本全国の各所で伝承されていた。そして、それを前提として考えると、「厚狭の寝太郎」型の「寝太郎」民話が、「隣の寝太郎」型と「力太郎」型の間にある昔話のスタイルとして、それなりの必然性をもっていたことは明らかであろう。
 このような昔話の背景に何を考えるべきか、こういう耳に親しい民話を解釈し理解するために中世史学は何ができるかというのが、以下の問題である。
Ⅰ物ぐさ太郎の性格分析(一)
 さて、「寝太郎」譚を初めて確認できるのは、中世末期の奈良興福寺の僧侶、英俊の日記、『多門院日記』(天文十三年[一五四四]九月六日条)に「社参し了、聞書一枚これを写す、七貧且寝太郎、有二子、投物童子、童子、食語二郎、不急三郎、破毀四郎」とある例である。そしてさらに時代をさかのぼって、南北朝期から室町時代の頃のものといわれる『仁和寺絵目録』に「物久佐聟絵一巻」とある(参照、家永三郎『上代倭絵年表』改定版、一九六六、墨水書房)。残念なことに、この「ものぐさ聟絵」なるものは残っていないが、それが近世初期にテキスト化された『御伽草子』の「物くさ太郎」譚と重なるものであったことは疑いをいれない。
 『御伽草子』の「物ぐさ太郎」は、「寝太郎」民話と基本的に同じ類型の話であり、ということは、この種の話しは中世の相当早い時期から語られていたと考えることができる。そこで、三年寝太郎の分析を、まずは国文学の立場からの研究が蓄積されているこの「物くさ太郎」から開始することにしよう。この説話も、よく知られているものだが、『御伽草子』によれば、そのあら筋は次のようなものである。
  信濃国筑摩郡あたらし郷に「ものくさ太郎ひぢかす」という男がいた。彼は「足手の  あかがり、のみ、しらみ、ひじの苔」にまみれ、「四五日のうちにも起き上らず臥せ  たりけり」という生活をしていた。人が「愛敬の餅」つまり婚礼祝いの餅の残りを恵  んでくれたが、その一つを取り落として大道にころばしてしまった。けれども物ぐさ  くて立ち上がりもせず、通る人に拾わせようとまっていたところ、所の地頭が通りか  かる。餅を拾えといわれた地頭は面白がって、領民に太郎を養うことを命じた。
  それから三年たった頃の春の末、信濃の国司があたらし郷に京上の長夫の賦役をかけ  てきた。百姓たちは太郎をすかして身の代わりにたてようとして「御身を此三年が間  養ひたる情に、上り給へ」と説得し、結局太郎は京都に上ることになった。物くさ太  郎は京都では「まめ」に夫役を勤め、四月から六月の三ケ月の約束の長夫を十月まで  の七ケ月も勤めてしまう。さらに帰郷にあたって、「辻取とは、男もつれず、輿車に  も乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかゝるをとる事、天下の御ゆるしにて有なり」  という宿の主人の言葉に載せられて「清水の辻」に立って女を「辻取」にすることを  狙い、貴族の女房と恋歌のかけあいをして結ばれる。女房が太郎を風呂に入れてみが  きたてると、太郎は貴族的な美男に変身し、結局、信濃に流された天皇の皇子が善光  寺から授かった申し子であることが判明する。太郎は信濃の中将となり、信濃・甲斐  の両国を賜って帰国したのである。この物くさ太郎こそが恋愛成就の神として有名な  「おたかの大明神」の本地なのであるという。
 さて、この「物ぐさ太郎」譚にかんする従来の研究で議論が続いている最大の問題は、説話の前半と後半で「物ぐさ」から「まめ」へと劇的な性格変化を遂げる太郎の性格の理解である。信濃では類のない物ぐささであった太郎は、京都への旅立ちによって、一転して「まめ」な性格を顕在化させる。京都では、彼は一転して「すこしもものくさげなるけしきもなし」という働き振りで、「是程にまめなるものはあらじ」といわれるまでに変身したのである。このような太郎の唐突ともみえる変身をどのように統一的に理解すべきか、それが従来の国文学の側からの研究にとって最大の問題であったのである。
 それは『御伽草子』のプロットの粗雑さ、文学としての未完成に起因するものに過ぎないようにもみえる。しかし、このようなプロットを受容する読み手が存在する以上、やはり太郎のアンビヴァレントな性格をどのように統一的に考えるかという問題は成立するのであり、それは『御伽草子』が形象した文学的主人公としての「物ぐさ太郎」の背景に、どのような現実的人間像を想定するかということに密接に関わってくる。そこで、そのような観点から、以下、物ぐさ太郎の性格と人間像についての四つの代表的見解を紹介しておきたい。三年寝太郎の歴史的原像を求める作業にとっても、これらの研究を検討しておくことが必要であることはいうまでもなかろう。
 第一にもっとも重要なのは佐竹昭広の研究である(『下克上の文学』、一九六七年、筑摩書房)。佐竹の研究は「物ぐさ太郎」譚にかんする最初の本格的研究であり、現在の段階でも最初に依拠するべき研究としての位置を確保しているが、その視点は、「ものくさ」という言葉の語義論的分析を通じて、太郎の性格を説明することにあった。
 まず、佐竹は「物ぐさ」という言葉の語義の基本が「物うし」にあるという。たとえば、「身もよはり心もとをくなれは、行のものくさくものうくなるはことはりなり」(『他阿上人法語』巻第四)などというように、「ものくさ」と「ものうし」は、しばしば併用される。また、『類聚名義抄』は「嬾」「慵」などの字にモノクサシ、モノウシの両方の訓を付けているという。「物ぐさ」の語義の基本が「物うさ」つまり「憂欝」「欝」にあることは確かであろう。これは分析のすべての前提として確認しておいてよい。
   なお、「ものくさ太郎ひぢかす」の「ひぢかす」とは、桑原博史「『物ぐさ太郎』   の物ぐさ太郎ひぢかす」(『国文学ー解釈と教材の研究』二〇巻一五号)がいうよ   うに、泥の古名「ひぢ」からきたもので、土塊のようなつまらぬ男の意味であろう   。「かす」とは「滓」であって、泥の滓という意味であろう。
 そして、「まめなる心を求めは、ものくさき心にさまたけられたるなり」(『他阿上人法語』巻第六)といわれるように、この「憂欝」という意味においてまさに「ものくさ」と「まめ」は反意語なのである。ということになると、太郎の「ものくさ」から「まめ」への性格転化とは語彙論的にもまったくの反対語を喚起するものであったことになり、これによって太郎の性格の内在的・統一的説明の可能性はむしろ遠のくかのように思える。しかし、佐竹の分析の独自性は、この後にあった。佐竹は、さらに分析を進めて、「ものくさ」の中には「のさ」という心理的状態が存在するということによって、この隘路を突破しようとする。
 「のさ」とは「こころのさになりて、ものくさく、(念仏を)まうされぬ」といわれるように(『他阿上人法語』)、「ものぐさ」と深く関係した言葉で、連語形では「のさのさ」ともなって、本来は「ゆるやか」「ゆったり」という意味の言葉である。おそらくそれは「のそっと」「のそのそ」、「もさ」「もさもさ」「もそ」「もそもそ」、あるいは「のんびり」「のろのろ」という言葉と語源的に重なる言葉である。そして、佐竹によれば、これらの「緊張の弛緩」を現す言葉は、神経を使わない鈍感さにも通じ、臆面もない横着さを含意することにもなるのである。それを明瞭に示すのが「ノサバル」という言葉であって、佐竹は、このような心意こそが太郎の「ものくさ」の本質であるとするのである。
 ようするに、太郎の「欝」は横着と居直りに傾いたものであった。その居直り方が変われば、一転して活動的な人間になり、清水寺の前で女を実力によって「辻取り」しようという行動は、そのような臆面もない横柄さの表現であるということになるのである。地頭の前で「のさばる」心をみせつけた太郎は、上臈の女房の前でもノサバッテ「辻取り」に及んだという訳である。そして、何よりも重要なことは、中世の狂言の中の太郎冠者たちが、しばしばふてぶてしい「のさ者」として描かれていることである。狂言の一節を引用すると、たとえば、
  是は此あたりにすまゐ致す者にて候。ちとのさものをよび出し、申つくる事がござ有  。太郎くわじゃ、いたかやい。(虎明本「止動方角」)
とある。もちろん、『御伽草子』の物ぐさ太郎説話自体の中には「のさ」という言葉は現れていないが、しかし、読み手が太郎の性格をこのような「のさ者」と了解したであろうことは確実である。佐竹はこのような狂言の中に現れる「のさ者」の下人を中世末期の下人の現実の姿の反映であるとし、そのような下人を「物くさ太郎」の背景に想定したのである。別言すれば、それは「物ぐさ」を「怠」に引き付けて理解するものであったといえるだろうか。これも佐竹によれば、鎌倉時代の辞書・『塵袋』(第十一)は「懈怠ハモノクサキナリ」とし、『運歩色葉集』も「倦怠、モノクサシ」と注記しているという。この観点からいえば、ノサなる下人とは懈怠・倦怠を常としてノサバリかえる横着な下人であり、懈怠の中で欝屈する下人ということになるのである。
 ようするに、佐竹の見解は「物くさ太郎」の「物くさ」「欝」を「のさ」「横着」「怠」に引き付けて理解するものであった。このように明らかとなった「欝」は現代語でいう「憂欝」というそこはかとない語感とは違うものである。「憂欝」という語自身も中世ではしばしば語順を逆転して「欝憂」という形が使われるように、それは「憂」(うれふ)よりも「欝」(うっする)に重点があり、それは、「欝欝」「欝屈」「欝結」「欝血」「欝病」などの語で惹起されるような動物的な力の過剰にともなう「ノサ」を含意するものであったというべきであろう。
 物くさ太郎の性格転換とは、このように横着な下人が、都に上って急にエネルギーを解放してマメなる下人に性格を変容し、同時に「辻取り」という形で野蛮な動物的姿態をも解放することであったということになるだろう。佐竹にとっては、物ぐさ太郎は「下克上」という言葉に象徴される中世末期の庶民階級が作り出した英雄であり、物ぐさ太郎は現実の下人身分の心意の中から登場した不羈奔放でふてぶてしく反抗的な「のさ者」の典型なのである。この見解が歴史家にとっても説得的であり魅力的である点は、「のさ者」なる下人の性格類型が、狂言の語彙によって確定されているところにあり、民衆に視座をおいたその着眼点を、私もあくまでも維持したいと思う。
 とはいえ、このような佐竹の研究によってすべての問題がかたづいた訳ではない。それに対抗する第二の理解として根強く維持されているのが、物くさ太郎の宗教性を重視する捉え方である。それは、物くさ太郎の異常な性格や行動原理を、彼が神すなわち善光寺如来の申し子であることに求める立場であり、いってみれば物くさ太郎の異常な「物くさ」「欝」の性格とその転変を「聖」を中心にして理解する立場である。
 これは国文学の分野では非常に一般的な見解であるといってよいが、その理由は、文芸として物ぐさ太郎を理解しようとする立場からは、『御伽草子』の物くさ太郎が、『神道集』にみられるような、いわゆる本地譚の形式、つまり神の現世への顕現の由来を説く唱道文芸の形式をとっていることの意味を重視せざるをえないからである(砂川博「物くさ太郎はパロディか」『北九州大学文学部紀要』三五号、一九八五年、徳田和夫『御伽草子研究』、三弥井書店、一九八八年)。
 もちろん、物くさ太郎の説話内容は『神道集』とは大きく異なっている。小松和彦がいうように、『御伽草子』に描かれた太郎の人生航路は、没落と苦悩という本地物通有のサイクルを欠如した「上昇の半円」のみからなっているのである(小松「物くさ太郎の構造論的分析」『説話の宇宙』一九八七年、人文書院、所収)。しかし、徳田和夫がいうように「だからといって、太郎が本地物の主人公の資格を失ったことにはならない。それよりも『神道集』のレベルでの本地物と、お伽ぎ草子のレベルでの本地物とは通底しあっていても、もはやそれぞれの享受対象が違っていたことに留意せねばなるまい」というのが妥当なところであろう。
 より在地の神話に密着した南北朝期の『神道集』の文芸形式と対比して、近世初期の『御伽草子』は都人の娯楽に対応する文芸形式を有していることは当然であり、国文学研究にとっては、それがすべての前提となるのは理解できることである。しかし、ひとたび国文学の立場を離れて、説話の全体的理解という点からみれば、この立場の研究は大きな問題をはらんでいる。それは論理的には未完成なままにとどまっているといわざるをえない。というのは、この立場の研究は自身にとって何よりも大事なはずの「物ぐさ太郎」の宗教性自身、太郎の神格そのものの解明を等閑にふしているからである。国文学の外から、この問題にもっとも接近したのが、桜井好朗の研究であるが、彼によっても、物ぐさ太郎の「聖」性は抽象的にいわれるのみで、結局、具体的イメージを結ばない(桜井「下克上と神々」『中世日本の精神史的景観』一九七四年、塙書房所収、同「神と人とのたわむれ」、『神々の変貌』一九七六年、東京大学出版会所収)。
 たしかに『御伽草子』に描かれた物くさ太郎の具体的な姿の中に「神」としての姿を見て取ることはなかなか困難である。しかし、重要なのは物くさ太郎「おたがの大明神」の神格がもっぱら恋愛と縁結びの神と語られていることあろう。それは『御伽草子』が太郎の本地を語る最後の部分において「宿善結ぶの神とあらはれ、男女をきらはず、恋せん人は、自らが前に参らばかなへんと誓い深くおはしますなり」としている通りである。
 実は、太郎が「辻取り」の挙におよぶ京都清水寺は鎌倉時代から縁結びの神として著名であり、たとえば鎌倉時代の説話集・『沙石集』(巻第二ー四)によると清水寺に参篭した貧しい女が仏の示現によって隣の屏風にかけてあった白衣を盗んで被衣とし、それをかぶって五条橋清水橋をわたったところ、御家人の武士に見初められて幸せな生活を営んだという。そして、「因幡堂」「二九十八」などの狂言の嫁求めの場面が示すように、中世末期にいたるまで清水や因幡堂の辻のような繁華な「辻」は、このような「妻乞の祈誓」の場であったのである。別稿で触れたように(保立「秘面の女、露面の女」、『顕わすボディ/隠すボディ』、ポーラ文化研究所、一九九三年)、これらの「辻」は、そのような宗教的環境もあって、悪い言葉だが「女をヒッカケル」場所、あるいは一種の京都デートコースになっていた。その意味で、物くさ太郎に辻取を教唆した宿の主人が「辻取とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよき、わが目にかゝるをとる事、天下の御ゆるしにて有なり」と述べたのは、全くの嘘話ではなかったのである。つまり、手前勝手な男の理屈に過ぎないものであるとしても、そのような悪所を男の従者も連れずにそぞろ歩く妙齢の女房は、声を懸けられるのを待っているのだという理屈の下に、「辻取」を「天下の御ゆるし」というコトワザ・法諺が生まれたのである。
 ともあれ、京都・清水の「妻乞いの祈請」の霊験は、裏側にそのような法諺をも生み出すほど有名であったのであり、それを前提とすると、物くさ太郎おたがの大明神の縁結びの神格は、女房を「辻取り」した京都清水寺の神格と二重写しになってくるだろう。そう考えてみれば、物くさ太郎は、そのような背景をもった清水辻の場面をクライマックスとして、太郎「おたが大明神」が、理想的な女房を獲得し、同時に縁結びの神としての神格を完成していく道筋を描いた説話であるということになる。そもそも、桜井が注目したように、太郎の境遇変化の起点となった「愛敬の餅」とは婚礼第三夜の餅である。物くさ太郎譚は、それを与えられた主人公がやがて縁結びの神として示現するという話しなのである。
 『御伽草子』冒頭の、人の婚礼の残り物の餅を恵まれて「寝ながら胸の上にて遊ばかして、鼻あぶらをひきて、口に濡らし頭にいたゞき、取り遊ぶ程に、取りすべらかし、大道にまでぞころびける」という筋立ては、独身の境遇を嘲笑あるいは自嘲する語り口以外の何物でもない。「四五日のうちにも起き上らず臥せ居たりけり」というのは、要するに独身者のむさく物ぐさな独り寝を意味するのであって、「愛敬の餅」を恵まれるという設定は、それをさらに強調したものなのである。こう考えることによって、太郎を長夫役に上せようとする百姓が語った「男は三度の晴業に心つく、元服して魂つく、妻を具して魂つく、または街道なんどを通るに、ことさら心つくなり(中略)、されば都へ上り心あらん人にも相具して、心をもつき給はぬか」という説得の意味がはっきりする。
 独り寝をかこつ単身者が、婚礼の餅を恵まれて横着な居直りを決め込むという物くさ太郎の出だしのフレーズ。それは単身者にとって、身につまされる冗談話であったに違いない。そして、それは単に若い独身の男にとってのみ喚起力をもつ話しではない。黒田俊雄によれば、中世は、社会の基層部分に太郎のような境遇の単身者が大量に停留する社会であった(「中世における個人といえ」、『歴史学の再生』、校倉書房、一九八三年)。単身・孤身の人生は中世の民衆のすべてにとって、いつおちいるやも知れない境遇であった。その意味で太郎「おたが大明神」の神格は独自なものがあったのであり、それは独身者の心意の最深部に根ざす神として広汎な流通性をもっていたというべきであろう。
 たしかに、物ぐさ太郎の神格は、「神」「聖」というには、あまりにも矮小なものであるかもしれない。しかし、もし、人がそのような神は「神」「聖」の名に値いしないというならば、『神道集』の「人となって苦しむ神々」のほとんどは宗教世界から追放されることになってしまうのである。たとえば、『神道集』第四五の「釜神事」は、「宿々を家として遊君・遊女の遊び」にうつつをぬかし、「福徳自在の女房」を離別した因果で、故郷の「村里の人にも悪み捨られ」「箕を作つヽ門々を廻て売」るという「無慙」な境遇に落ちいった近江国甲賀郡出身の男が、改嫁して富裕となった女と出会い、その恥ずかしさに驚死したという運命を語っている。釜神を祭る風習は、女がその死体を密かに釜屋の後ろに埋め、釜神の料と称して供物を捧げたことに始まり、男女の生地である近江国甲賀郡から信濃国の諏訪大明神にまで伝わったというのである。この「竃神」、つまり「荒神」が火の神・家の神であるにとどまらず、夫婦の神・男と女の神であることはいうまでもない。そして、物ぐさ太郎の「おたが大明神」の神格は、一言でいって、そのような荒神としての神格であったに違いない。『神道集』の「釜神」の神格と物ぐさ太郎「おたが大明神」の神格には共通するものがあったに違いない。
 本稿の冒頭で述べたように、厚狭の寝太郎の伝説をつたえる厚狭の地には長者となった寝太郎をまつる「寝太郎荒神」という神社が残されているという。また寝太郎譚は一般的には「隣の寝太郎」といわれる「妙に求婚手段の成功の方に力を入れて説くものが多い」スタイルのものであるという(柳田、前掲論文)。これらは、まさに「物ぐさ太郎」の荒神としての神格に対応するものであるというべきであろう。逆にいえば、このようにして近世にまで脈々と受け継がれてきたような在地社会における夫婦神・荒神信仰こそが、文芸としての「物くさ太郎」の享受を支えていたのではないだろうか。その意味で物ぐさ太郎をまったく在地の民間信仰圏から切り離すことには賛成できないのである。
Ⅱ物ぐさ太郎の性格分析(二)
 以上の二つの見解、つまり、「のさ者」としての反抗的物ぐさ太郎像、そして宗教性に重点をおいた物ぐさ太郎像の二つが、これまでの主な物ぐさ太郎論であった。ところが、問題の分析視角を一挙に流動化させたのは、最近、歴史学の立場から、第三の新たな見解が提起されたことである。それは藤木久志の見解であり(『戦国の作法』、平凡社、一九八七年)、藤木の見解は中世末期・近世初期の村落の文献史料の中に物ぐさ太郎と響き合う世界を見いだした研究として画期的な意味をもっている。
 藤木は、この時期の在地史料の中から、村の水争いや山争いにさいして身代わりとして災厄を身にうけて犠牲となる「乞食」「筋目なき人々」を発見した。たとえば、摂津国では、天正二〇年(一五九二)の水争いの喧嘩に参加した村々に対して「一村に壱人充はりつけ」の処分が決められたが、それらの村々では「庄屋代に乞食」を、つまり庄屋の身代わりに乞食を差し出して「はりつけ」の犠牲に捧げたという。また、慶長十二年(一六〇七)の丹波国の村々の山争いにおいて「村中の難儀に代り相果」てようと、つまり犠牲として死ぬために進んで相手の村に赴いた男がいた。彼、彦兵衛は伜の黒丸のために「中川苗字を下され、伊勢講・日待参会に相加り候様」と希い、それを容れられて死についたという。
 村は、このような「乞食」「筋目なき人々」などの人々を、いざという時に村のための犠牲となるような存在として扶養していたのである。藤木によれば、「乞食」たちは、年々、村々に出入りし経廻って、村の祭礼に奉仕し、祝いの米銭や酒をえることを仕事としているような存在であり、「筋目なき人々」については、今一つ実態が不明であるにしても、彼らの犠牲への補償策に、苗字の免許・講への加入などが行われたということは、彼らが村落内部において家格や祭礼の場において賎視される下層身分の人々であったことを示している。他方、物ぐさ太郎は「あたらし郷」にかかってきた長夫を百姓に代わって担うように「御身を此三年が間養ひたる情に上り給へ」と説得されるような存在であり、彼もいざという時の「身代わり」として村落によって扶養されている存在といえるのである。藤木によって、物ぐさ太郎の直接の原像に、村人に扶養されていた乞食・非人があったことは確定されたといってよい。
 これは一言でいって「賎」としての太郎を強調する見解であるということができよう。もちろん、今までの研究に、このような身分論的な観点がまったくなかったというのではない。「のさ者」の「下人」を太郎の原像に据えた佐竹の見解も、最初からそのような視野を内包していた。また藤木の見解には、物ぐさ太郎論としてはすでに小松和彦が先駆的に提起した方向を確認したというべき側面もある。小松はすでに物ぐさ太郎を「あたらしの郷の外部からやってきてそこに定着した乞食」と想定している(前掲、「物ぐさ太郎の構造分析」『説話の宇宙』所収、一九七四年発表)。そして小松は、物ぐさ太郎のプロットの中には「よそ者(非共同体的人間)である乞食の太郎に、共同体の上にふりかかった災厄(悪)を担わせて共同体の外に追放することによって社会的秩序を回復し、維持しようとする政治的メカニズムが機能している」「太郎はそのための一種の政治的犠牲なのだ」(小松「最後に笑う者」『神々の精神史』一九七八年、伝統と現代社所収)とも述べている。
 しかし、藤木の仕事が中世末期あるいは近世初期の在地社会の具体的な身分制の文脈の中に物ぐさ太郎譚をおくことに初めて成功したものであることは否定できない。さらにその仕事をうけて、黒田日出男は、『御伽草子』の文脈にそくして、物ぐさ太郎が乞食としての性格を有していることを示した。黒田によると、説話の冒頭で餅を大道に取りこぼした太郎がやったことは、「竹の竿さしあげて、犬・烏の寄るを追ひのけ」ることであったが、犬・烏と食物や場所を争うのは乞食の生活の日常であり、また、彼が京都で女房を追って邸宅に這いり込んで隠れた縁の下の空間は、非人・乞食にとってなじみの場所であるという。そして何よりも、黒田は『御伽草子』の物ぐさ太郎の画像について分析を行い、それが中世の乞食の典型的な画像に等しいことを示したのである(「物くさ太郎の着物と髻」、『姿としぐさの中世史』、平凡社、一九八六年)。
 図①の画像を参照いただきたい。太郎の持ち物は竹の杖だけ、服装は膝までの帷子のみである。帷子カタビラとは裏をつけない夏用の一重の衣のことをいい、「おたかの本じ物くさ太郎」系本(岩波『古典文学大系』)では、「信濃より年をへて着たりけるさゆみのかたびら」「十(重)代の着る物」といわれている。「さゆみのかたびら」の「さゆみ」とは、貲布、麻布のことで、信濃国の特産でもあり、「春の末」に三ケ月の間の長夫にでることを命ぜられた物ぐさ太郎がそれを着て上京したのは、当然ではあった。しかし、約束通り三ケ月で帰るのでなく、十一月まで京都にとどまって「マメ」に長夫を勤めた物ぐさ太郎は依然として「信濃より年をへてきたりける」カタビラのみの姿である。この冬十一月になっても一重のカタビラのみの境遇を脱することのできない物ぐさ太郎の姿には、彼の転落が象徴されている。
 なお、物ぐさ太郎の別の伝本(絵巻系本、「懶太郎物語」国会図書館本)では、太郎の姿は「信濃の重代、大つづり、袴はなければ着ず、なほもあさましきなりにて、縄を帯にして」といわれている。この「信濃の重代」とは、「重代」の(何代にもわたって着ているような)古着のことを意味し、「大つづり」の「つづり」とは、「布切れを綴り合わせたもの、粗末な衣服、ぼろぼろな衣服。つづれ」を意味する(『日本国語大辞典』、小学館)。これも「人の形にもあらず、やせ衰へたる物のわらわらと有るつづり許り被て実に奇也」(「私聚百因縁集」九、一五)という用例が示すように、まさに乞食の襤褄を示す言葉であるといってよい。
 以上のような太郎の姿はたしかに図②のような乞食の画像(『病草紙』)と区別しがたい。藤木・黒田の見解は、『御伽草子』の「素朴」な世界の裏側には乞食を最底辺とする厳しい社会的・身分的実態が潜んでいたことを暴きだしたというべきであろう。物ぐさ太郎譚の背景には、実は、村が下層身分の人々を身代わりの犠牲スケープゴードに仕立ててるような残酷な身分的関係が存在したのである。このような文脈が秘められていたからこそ、物ぐさ太郎譚が人々の想像力を喚起しえたというべきなのかもしれない。
 さて、話がたいへんに錯綜してきたが、物くさ太郎の性格に関する新たな解釈はもう一つ提起されている。この第四の解釈、最後の有力な解釈は、今までも何度か触れた小松和彦の研究、その新しい論文「最後に笑う者」によって主唱されているものであり(小松、前掲、『神々の精神史』、一九七八年、伝統と現代社所収)、それは太郎を「道化」あるいは「痴」者ととらえる見解である。
 しかし、諸論文を詳しく読めばわかるように、この小松の解釈の前提にあるのは、実は、佐竹の見解である。佐竹は、物ぐさ太郎の言動の中に「痴(たくらだ)」の要素を指摘していた。京都から帰郷するにあたって、太郎は宿屋の亭主に女がほしいという。亭主はそれでは「色好」(売春婦)を呼ぼうかというが、太郎は「それなら呼んできてくれ、帰郷の路銭に十二三文の銭があるから、それを払おう」という。それを聞いて、亭主が「さてもく、是程のたくらだはなし」といったのである。銭十文余りで女を買おうという非常識が「たくらだ」と嘲笑されているのであるが、佐竹によると、この「たくらだ」とは漢字で書けば「癡」もしくは「痴」にあたる言葉であって、ようするに「馬鹿」に等しいのである。また、信濃あたらし郷で村のおとなたちが「長夫を引き受けて貰いたい」といったのに対して、太郎は「それは幾尋ばかり長き物にて候ぞ、おびたゝしのことや」と聞いた。彼は「長夫」ということが理解できなかったというのである。これらの点にふれて、佐竹は、「主人公がたくらだである以上、その結婚ばなしも、おのずから馬鹿聟ばなしとしての色彩を帯びてくる。女の館で、着なれない烏帽子・直垂を着せられ、ぴかぴかにみがかれた渡り廊下を、侍女に手をとられながら屁っぴり腰で歩いてゆく物くさ太郎の姿に、なんとなく馬鹿聟のイメージが重なりあってみえる」と述べている(佐竹『下克上の文学』七七㌻)。
 小松は、この佐竹の見解を前提として議論を展開する。前述のように、佐竹は太郎を中世末期における民衆の抵抗の形象化とみていたが、佐竹はその立場から物くさ太郎譚が本地物の一類型であることを強く否定していた。小松も物くさ太郎の神聖性・宗教性を強調する見解、そして物くさ太郎譚を本地物の一類型と捉える見解を批判するのである。小松によると、物くさ太郎譚は「本地物のパロディ」なのであって、『神道集』のような本地物に通有の悲劇ではなく、喜劇の論理によってテキスト解釈を統一することが必要であるということになるのである。
 物ぐさ太郎の「文芸」としての性格を喜劇に引き付けてとらえるべき点があることはたしかに否定できない。ただ、私は、前述のように、物くさ太郎譚が濃厚な宗教性を残しているとも考えるのので、小松の見解のすべてに賛成することはできない。だいたい、問題は喜劇的人格は神格たりえないかということに帰着するのであって、小松の見解は「本地物」なる宗教文芸の扱い方が狭すぎるようにも思う。そして何よりも問題なのは、小松が、物ぐさ太郎自身の「道化」としての性格について具体的なイメージを求める点に積極的ではなく、むしろその強調点が物ぐさ太郎譚の文芸的性格、文芸としての喜劇的文脈・プロットにあるかのようにも思えることである。もちろん、小松が佐竹の見解を踏まえながら、その「痴」(たくらだ)をより積極的に「道化」として捉えたこと、そして「太郎の反秩序的属性(のさ)の原型を日本の文化の中に探すならば、それは『烏滸の者』である」としたことの意味は決定的である。しかし、必要なのは、その先の作業、「この日本的道化の系譜の流れの中に画然たる位置を占める太郎」という定式化をさらに具体的に考える作業ではないだろうか。
 小松が見逃したのは、太郎が誰を楽しませる道化であったのかという点である。別の論文で、小松は物ぐさ太郎と太郎に餅を拾わせられた「あたらしの郷」の地頭の間には保護・被保護の関係が結ばれているとしている(「『物ぐさ太郎』の構造分析」、『説話の宇宙』所収)。たしかに、物ぐさ太郎の物語が物語として展開することができた起点が太郎と地頭の関係にあるという着眼点は正確である。しかし、小松が地頭が物ぐさ太郎を保護し、百姓に太郎を養うことを命じたのは、太郎の「物ぐさ」が百姓に波及するのを恐れたからであり、地頭は太郎を保護することによって太郎を管理しようとしたのであるとするのは、どうだろうか。これは若干政治的プロットにかたよった読み込み過ぎであるといわざるをえない。地頭の「きやつめがことか、聞ゆるものくさ太郎といふものか」「さてはかゝる曲者かな。いでさらば助かるやうにせん」「此物くさ太郎は毎日三合飯を二度食はせ、酒を一度飲ますべし。さなからん者は、わが領にはかなふべからず」という言葉からすると、むしろ、直接には地頭は面白がって太郎を保護したのであり、太郎はまずは地頭にとっての道化者として登場したとすべきなのではないだろうか。そして、そのような単純な解釈こそ、小松の新論文によって用意された解釈であったといってよいのではないだろうか。
 そしてそう考えてみると、『御伽草子』には、有力者がそのような道化を養う風習が描かれているのである。たとえば、「鉢かつぎ」は「人のもとには不思議なる者のあるもよきものにて候」ということで、山蔭中将の許に養われることになり、「小男の草子」の小男は「さあらば、これに置き申、京中の笑ひぐさにせばや」ということで主の女房の許に養われることになる。そう考えると、「一寸法師」の「いつきやうなるものにて有けり。宰相殿御覧じてげにもおもしろき者なりとて、御笑ひなされけり。かくて年月送る程に」という境遇も、要するに道化であることも明らかである。
 このような道化を抱える風習が、現実の歴史の問題として、どう確認できるか。『新猿楽記』の「烏滸」の者、『二中歴』の「志癡」の者のような伝統が、たとえば物ぐさ太郎の舞台として設定されている信濃国の地頭領主のような存在にまで、何時頃どのようにして広がったか。これについてはすべて今後の研究にゆだねられているが、ここでは、この問題が『御伽草子』なるものと御伽衆の成立自身に関わることを確認して、次に進むことにしたい。
Ⅲ物ぐさ太郎の隠されたモチーフ
 以上の「物ぐさ太郎」の分析を図式化すれば左のように書くことができるだろうか。「ものぐさ太郎」は、佐竹の明らかにした「鬱」にして「ノサ」なる心意を基底において、「怠」「聖」「賎」「痴」などの諸属性を有していたということになる。以上で検証したように、これらおのおのの諸属性を指摘する研究にはどれもそれなりの根拠があり、そのどれかを否定することは正しくない。そして「鬱」の反対側、太郎の四つの具体的属性を間に挟んだ反対側には、「貴」という状態が措定されていることはいうまでもない。太郎が天皇の子どもであることがわかって信濃中将という「貴」に転化するというのが説話全体の帰結なのである。
 とはいえ、ふりかえって考えると、これでは主人公・物ぐさ太郎は、この人間世界の森羅万象、人間的性格のすべてを表現しているというに近い。物ぐさ太郎譚は、それとしてみていれば単純な昔話に過ぎないようであるが、分析を加えれば加えるほど、太郎のイメージは、とりとめのないほどに、「鬱」そして「怠」「聖」「賎」「痴」、さらに「貴」という諸属性の間に拡散してしまうのである。そのようなことは観念的創造物としての文芸的人間像にはありがちのことであるというべきかもしれない。しかし、太郎のイメージをもう少し凝集することはできないだろうか。特に、おのおのに対応する現実的・歴史的な原イメージ、つまり「怠ーーのさ者の下人」、「聖ーー縁結びの神」、「賎ーー村の乞食」、「痴ーー領主の道化者」を相互に媒介するようなもう一つの要素、いわばこの四要素が描き出す円環の中心をなすような実態的属性を発見することはできないだろうか。
 問題をもう一度「物ぐさ」の意味論から出発させよう。先述のように、佐竹はモノグサという言葉の意味を「モノウシ」「ノサ」などの言葉との関係で分析する手法を取った。それが第一に取られるべき手続きであることはいうまでもない。しかし、さらにモノグサという言葉を語素に分けて分析することもできるのである。つまり、「モノグサ」という語は「モノ」と「クサ」に分けることができる。そして前者については、『日葡辞書』が「モノ」を「時に悪魔を意味する。例、物がついた、悪魔が人に取りつく」、「モノニオソワルル」を「悪夢をみている人のように、夜、夢の中で、話すこともできずに、ある物を恐れる」としていることが重要である。要するに、このモノは「物の怪」「物憑」「物狂」「物のさとし」などという場合のモノであって、神仏・妖怪・悪霊などが人間に付着する状態を表現する言葉なのである。そして、たとえば『栄花物語』(御賀)に「源少将実基の君は、この舞人にさされ給へりけるが、身にものの熱してえ舞はざりしかば」とか、『平家物語』(五、物怪之沙汰)に「ある夜、入道の臥し給へる所に、ひと間にはばかる程の物の面出できてのぞき奉る」とかあるように、「モノ」は物病(モノヤミ)の原因となるものであると考えられていたのである。
 これに対して、「クサ」という言葉は、まずは、それは「臭い」の「くさ」であって、馬鹿くさなどと同じく、「そのような傾向がある」という意味の接尾語であるとすべきだろう(『日本国語大辞典』臭いの項、小学館)。ただ、『日葡辞書』が、「クサ、またはクサガサ(瘡。または瘡がさ)。身体中にできる吹出物で、発疹のような小さなかさ」あるいは「突然に起こる熱病のような病気」と説明しているように、「くさ」が特定の病気自体を意味している可能性も捨てきれない。これについては「くさ」という言葉自体の分析が必要であり、ここでさらに踏み込むことはできないが、いずれにせよ、「モノクサ」が「物」「物病(モノヤミ)」の「傾向がある」状態、その意味で病的な状態を意味することは確実であろう。
 そして、『日葡辞書』が「モノクサイ」という言葉自身を「病気にかかっているなど、気分がすぐれない(こと)」と説明している背景は、ここにあるのではないだろうか。実は、佐竹は、この『日葡辞書』の記事に注目しながら、それを室町時代以降に発生した「二次的な転義」であるとしてしまい、先述のような「ものぐさ」「のさ」論を展開したのであるが、私は、モノという言葉の原義から考えると、『日葡辞書』のいうモノグサの語義も本来的な用語法であった可能性が高いと思う。モノノツミ、モノウシ、モノオソロシ、モノオモイ、モノガナシイ、モノグネリ、モノグルヒ、モノスゴイ、モノムツカシ、モノヤミなどの「モノ」を語素にもつ言葉は、全体として心因性の精神的失調、単なる「鬱」を越えた病的状態を表現しているのである。
 そして、それはいうまでもなく、狂気に近接する。『撰集抄』(五・五)には、「着物は菰わらをもいとはず身にまとひて、そこはかとなきそぞろごとうち言ひて、物狂のごとし」という叙述があるが、この姿はまさに物ぐさ太郎そのものである。このようにして、物ぐさ太郎の「物ぐさ」には、「欝」の他に「狂」が含意されていたのであり、先の図式の四要素の描く円環の中心、「鬱」から「貴」への上昇線が円を貫く一点には「狂」の字を入れなければならないのである。「鬱」から「狂」を媒介として「貴」へと上昇する夢想。一言でいって、これが物ぐさ太郎の説話の構造だったのである。
 以上が私の「物ぐさ太郎論」である。次の問題はいうまでもなく「寝太郎民話」の検討であるが、その前に、両者の関係について論じておこう。この場合まず確認しなければならないのは、次の柳田の見解である。柳田は「二三の文学史家が臆断した如く、是を或時代の文芸の創作とし、他の幾つかの民間説話は即ち粉本を是に採ったものとすることは、聊かも根拠のないことである。草子の物草太郎に若し何等かの新し味があったとすれば、それは昔の物語絵に倣うて、話を一巻の眼で看るものにしたこと、及び今まで行われて居た色々の話し方を寄せ集め、それに筆者の思ひ付きを以て、尚幾つかの文句を附け添へたらしきことで、話そのものは突如として考案せられる程の筋でも無く、又前々から聴いて親しみを持つ物だけが、格別面白さを感ずるやうな潤色と誇張に充ちて居る」と述べている(前掲論文)。つまり、「物くさ太郎」は『御伽草子』の他の諸作品と同様、けっして単に文芸として純粋な想像の力によって創作されたものではない。その成立の前提には、遅くとも中世の半ば頃以降には同趣旨の民間説話が広く流布していたことあったのであり、その中に「隣の寝太郎」譚、「三年寝太郎」譚が含まれていたであろうことは確実である。
 いうまでもなく、佐竹の見解も、論文「下克上の文学ーー民話のクッチャネたち」(前掲書所収)が示すように、さまざまな民話の「クッチャネたち」を「物ぐさ太郎」の広汎な前提であり土壌であるものと捉えた上で、「物ぐさ太郎」の独自性を考える点にあった。佐竹は「民間伝承(寝太郎民話)の地盤の上に立ちながら、おなじみの怠け者を強烈な中世的人間につくりかえたところに、わたくしは御伽草子『物くさ太郎』の新しい人物造型をみとめないではいられない」と述べている。しかし、佐竹の立論の全てに賛成することはできない。佐竹の議論は、文学的創造性と民話のイマジネーションを対置する方向に傾いている。『御伽草子』と民話の関係を問い詰めた佐竹も、やはりあくまでも国文学者であり、その強調点はやはり「御伽草子『物くさ太郎』の新しい人物造型」、文学的創造性の理解にあったのである。
 そして、実は先に検討した国文学の立場からの様々な議論は、すべて、この「物ぐさ太郎」と「寝太郎」譚の関係のあり方の理解、逆にいえば、「物ぐさ太郎」譚の文芸的性格の独自性の理解をめぐってなされたものであるといってよい。そして、その諸見解の問題点は、すべて三年寝太郎の中にどのような独自なイメージがこめられている可能性があるかを確認しないままに問題を処理してしまったことにあると思う。「寝太郎」譚の中にこめられた、それなりに「強烈」なイメージが何であるかは、次に述べるが、その「民話のクッチャネたち」「おなじみの怠け者」たち自身の独自なイメージを想定しないまま、「物ぐさ太郎」のイメージの中に「英雄」なり「典型」なりの表現を看取する佐竹の理解は、やはりあまりに文芸学的バイアスが強すぎるといわざるをえないのである。その意味で、佐竹の見解が、物ぐさ太郎説話の中には既成の秩序の破壊というテーマは存在しないという小松の批判を受けたのは当然であったといえよう(「『物ぐさ太郎』の構造分析」、同『説話の宇宙』所収)。
 しかし、小松が、単に「そうした夢を抱くことがいかに愚かな行為であるかを知っている読者だからこそ、太郎が笑いの対象と化しているのである」として、物ぐさ太郎説話を単に「庶民階級のパロディ」であるとしてしまうのが正当であるとは思えない。もちろん、物ぐさ太郎はいかにも『御伽草子』的な立身出世譚であり、都に上って「男の礼法」を仕込まれて上臈の女房の聟に入り、結局、深草の天皇(仁明天皇)の孫であることが証明されて、信濃中将にまで立身するという立身出世譚である。そこで「都」と「旅」のイメージとともに語られる「笑い」が半ば都会的なパロディであり、ソフィスティケートされた苦笑いであることは事実である。しかし、他面において、「物ぐさ太郎」譚は、何よりも佐竹のいう「のさ」なる「下人」たちの実在的イメージを踏まえ、そして中世以来の「本地物」の伝統を受けた「鬱」ー「狂」ー「貴」という上昇の夢想に支えられたメッセージを含んでいたことは否定すべきでない。そして、そのメッセージの基底を次に述べるような「寝太郎」譚の内容が担保していたのである。
Ⅴ寝太郎と嗜眠症
 物ぐさ太郎譚に比べて、寝太郎譚に顕著なのは、農村的・地方的性格である。そこには神隠しのようなエピソードがあったとしても、都会的な「旅」のイメージはほとんど存在しない。たしかに、「隣の寝太郎」も立身譚ではあるが、それはいかにも農村的なものなのである。
 しかし、何よりも、二つの説話が異なっているのは、「物くさ太郎」は「物ぐさ」なのであって、「もとでなければ商いせず、物をつくらねば食物なし、四五日のうちにも起き上がらず臥せり居たりけり」という生活をしてはいるが、寝太郎のように眠りこけている訳ではないということである。ほとんどの場合、寝太郎は単なる怠け者ではなく、名前が現すように、「長期にわたって眠りこけている」ことが、必要な要件となっている。特に興味深いのは、柳田が紹介した「沖縄の睡蟲」の民話であって、それは次のようなものである。
  昔首里の町に、至って貧乏なる老夫婦があって、次良といふ一人の息子を持って居た  。次良は世にも稀なる惰け者で、食っては睡り覚めては食い、少しでも老いたる親の  労苦を助けようとせぬので、人は嘲って睡蟲という綽名を付けた。或時その睡蟲が何  を考えついたか、突然母親に向って白鷺を一羽買ってくれという。(以下省略)
 興味深いのは、ここに白鷺が登場することである。白い鳥は寝太郎譚にはしばしば登場する。寝太郎は屋根に登って提灯をつけた白鳥を放ち、隣の地主がそれを氏神の使者と思って空からの声に従うというようなプロットが一般的であり、この沖縄の睡蟲の民話の場合も同じことである。そして、白鳥、白鷺といえば、想起されるのは「八拳鬚心前に至るまでに真事とはず」といわれた垂仁天皇の王子・ホムツワケ命が白鳥を見て、初めて発語したという伝説である(『日本書紀』『古事記』垂仁)。ここには、白鳥と子供の病の治癒に関する古くから伝統的な観念連合が存在するのではないだろうか。
 そして寝太郎の病とは、一種の嗜眠症であったのではないだろうか。そのような病を中世では「くっち」といった。この「くっち」という言葉は、普通は「鼾(いびき)」を意味する。『新選字鏡』には「鼾、久豆知、又伊比支」とあり、『字鏡集』には「吼、ウシノナクイヒキ、ナク、ホユ、クツチ」とあり、『名語記』(八)にも「病のくつち如何。答、鼾睡とかける歟。(中略)、くつしをくつちといえる歟の疑もあり」とある。『大言海』がいうように、鼾を「クッチ」というのは、クウクウあるいはグウグウという擬音に語源があるのであろうか。『落窪物語』(二)に「程なく寝入りて、くつちふせり」とあるのもその例とすることができよう。
 そして、病気としては、「くっち」とは、『日葡辞書』に「テンカン、クッチに同じ」「テンガウ、クッチに同じ」「クッチ、癲癇」とあり、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「蘇磨呼童子請問経平治点」に「癲癇、テンカン、クッチ」とあるように、癲癇のことであった。いうまでもなく、現在では生活上の不便が極小になるまで薬物療法が発展して十分な治療が可能になっているが、癲癇は、中世では治療方法がなく、二次的な障害を含めて多様な症状を有していたと考えられる。この点で、『日葡辞書』が「三病、三つの病気、すなわち、ライビョウ、クッチ、テンゴウ、癩病、癲癇、および癲癇に似た別の病気」としていることは示唆的である。つまり、「くっち」が本来の癲癇であり、「てんかう」癲狂は、その表記に注目すると、おそらく躁性の激しい病をいったものと考えられる。ただ、上記のようにクッチが鼾という意味をもっていたことからすると、癲癇とはいっても、クッチは、癲癇の症状としての睡眠症状に注目した言い方、あるいはいわゆる嗜眠症、ナルコレプシーをも意味した言葉であるようである。『沙石集』(巻三ー一)に「或里に癲狂の病ある男子あり。此病の癖として、火辺・水辺・人おほく集る中にしておこる、心うき病なり、俗はくっちと云是なり、ある時、大河の岸にて例の病おこり、くっちげなる程に、河え落入りぬ、息も絶てければ水に浮て遥に流れ行て、河中の州さきに押あげられ、遥にありて蘇生て」とあることは、「癲狂」の「癖」(症状)として「クッチ」が捉えられていたことを示している。また『日葡辞書』が「クッチをかく、癲癇を病む」「クッチカキ、癲癇患者」とすることも、「鼾をかく」ことと癲癇の関連性を示しているといってよいだろう。また、嗜眠症も『病草紙』に「生良家子なる男ありけり、少しも静まれば、居ながら眠る。人の如何なることをせむも知るべくもなし、交いのときまことに見苦しかりけり、これも病なるへし」とあるように、中世にはよく知られた病気であった。
 いずれにせよ、癲癇に伴う意識喪失と睡眠が「鼾」によって捉えられ、クッチが病名ともなったのであろう。問題は癲癇の発病の時期が青春期と幼少児期に多く、二〇歳までに七〇ー八〇㌫が発病するという点で子供と青年の病気といえることである。『日本国語大辞典』(小学館)によれば、長崎県西彼杵郡では「子どもの病気。百日ぜき」をクッチというというのも興味深い。そして、中世において虐げられた地位にあった人々、その最も一般的な在り方としての「下人」の若者の中に、この病が多かったであろうことも容易に想像される。実際に、中世の人身売買文書の中には、「くちく・てんかうハ三月、逃亡は夫婦限命終、かゝり進可候」(『鎌倉遺文』三〇九九一号文書、参照、棚橋光男『中世成立期の法と国家』)などという瑕疵担保文言が存在するのである。
 つまり、売り渡した下人に「くちく・てんかう」の病があれば、三月の間は売買契約の解消に応じますという訳であるが、このような「てんかう」文言を含む人身売買文書については、ふるく秀村選三氏の論文「中世人身売買文書の研究」(『経済学研究』、九州大学、第二四巻ー四、一九五九年)があり、さらに最近、安野真幸氏の論文「人身売買文書『てんかう』文言の研究」(弘前大学教養部「文化紀要」第三十号、一九八九年)が発表され、上記の例を含めて一二五四年から一五四一年まで、六通の中世文書を知ることができるのである。
 そして、私が、それらの文書において注目したいのは、上記の「くちく・てんかうハ三月」という文書を別として、他の五通の文書にはその病名が「大根・癲狂」「大ね・□□わら」(てんかう?)「おね・てんてんかう」「大寝・てんかう」「王明・天恐」と記されていることである。以上述べてきたことから、この「大ね」が「大寝」を意味するもので、癲癇性の病的な睡眠を意味する文言であろうということ、そして、「大ね」が「くちく」に対応するものであることも明らかである。
 「くっち、てんかう」が中世の下人にとって、またその人身売買の中で大きな問題であったことは確実である。そしてこう考えてくると、癲癇が三年寝太郎の原像にあることは否定できないのではないだろうか。先にふれた物ぐさ太郎の四つの属性の中心に位置していた「狂」も、さらに具体的には癲癇の病を反映していた可能性が高い。それは癲狂の倭訓が「モノグルヒ」であったことによっても傍証されようか(『和名抄』、二)。そして、寝太郎譚は、それを純粋な形で体現していたのである。この病は、中世の人々にとって決して他人事ではない。安野は、この種の文言が人身売買文書に記入された理由の中に、「奉公先の変化に際しての下人奉公人のあり方という社会的な問題」をみてとっているが、それは卓見である。癲癇は「昼夜のリズム、月経など性ホルモンの変動、睡眠不足や過労、感覚刺激や緊張からの解放などが発作の誘因となる」(『大百科事典』平凡社)といわれている。だから、この病気が特に人身売買文書に記入されるのは、若い下人の男女が主人の恣意によって他の生活環境の中へ売却されたとき、潜在していた病気が現れることがしばしばであったためであると考えるべきであろう。
 寝太郎譚と物ぐさ太郎譚は、このような緊張感を基底に置いて、全体的な脈絡をもって物語られていたのであり、私たちは、そこに秘められたメッセージを聞き逃してはならないのである。
Ⅳ下人の眠りと覚醒
 さて、このような結論によって、私は、「物くさ太郎」の理解から「三年寝太郎」の理解に通ずる新たな通路を開きえたと考える。「三年寝太郎」はいうまでもなく、口頭伝承、民話であって、歴史的な成立の時点を推定することは一般には不可能であるが、先述のように、「物ぐさ太郎」のテキストがだいたい南北朝期には成立していたと考えられるとすると、その頃には、右のような物ぐさ太郎譚と寝太郎譚の関係構造も成立していたと思われるのである。
 そして、寝太郎譚が、右のような下人たちの経験と見聞を基礎にして生まれてきた民話であるとすると、そこに、今までほとんどかいま見ることができなかった基底社会における民衆的な文化や価値意識の有り様を想像したくなるのは当然であろう。寝太郎譚は、物ぐさ太郎譚とは違って、都市的出世のイメージに繋がらないより地方的・民衆的な説話として何よりも重要なのである。もちろん、そこに託されたイメージが、現代の絵本と同じように明るいものであったかどうかは、人々の主観によって異なるだろう。しかし、若干の癲癇性の発作を持ちながらも、その病から癒えれば、ある場合はこす辛く、ある場合は神秘的な力を発揮しえるというプロットに、癲癇という病にむける中世の民衆の温かい心があるということぐらいは認めてもよいのではないだろうか。
 さて、癲癇自体についての研究となれば、まずは沢山の記事をもつ古代の律令の研究から行わなければならない。律令において病ダレのつく用語を検索する作業は、さらに別の研究分野にもつながっていくだろう。ただ、私は、そのような作業を行う上で適任ではなく、そのような場所でもないので、ここでは、ただ『倭名抄』が引用している「本朝令義解云、癲発するの時、地に臥し、涎沫を吐き覚えるところなし、狂惑して自から走らんと欲っし、或は自からを高くして聖賢と称するものなり」という条文にのみ注目しておきたい(正確な文章は、参照、『令集解』戸令、凡一目盲条)。古くから、世界各地で、癲癇が神聖病として知られていたこと、ヒポクラテスがそれは自然的原因によるものであると主張し、呪術師たちが癲癇を神聖化して取り扱うのを非難したことはよく知られている。上記の条文によれば、日本でも癲癇は神聖病であったということになるのである。そして、そのような観念が中世にまで持続していたことは、すでに明らかであろう。
 ところで、最後に一言、思いついた事を述べるのを許されたい。当面のところ、素人の発言にすぎないが、それは「ほとけ」の語義についてである。「ほとけ」という言葉は、『字訓』などによっても、ブッダの転とされているが、ホトという語素は、ほど(火床)、ほと(女陰)、ほとり・ほとおり・ほとぼり(熱)などのホトではないだろうか。そして、本来、ホトケというのは「自からを高くして聖賢と称する」ごとき狂熱・神懸を意味したのではないだろうか。それは熱という意味でのホトと人間の元気という意味でのケの接合した言葉なのではないだろうか。そこには日本古代における「熱」あるいは「火」に対する観念が反映しているのではないだろうか。これが日本における「聖」なるものを基底から考えていく上で、一つの仮説になりうるものなのかどうか、御教示を受けたいと思う。

2018年10月14日 (日)

エコノミストにのった『現代語訳 老子』(ちくま新書)の書評

エコノミストにのった『現代語訳 老子』(ちくま新書)の書評です。加藤先生、どうもありがとうございます。
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週刊文春インタビュー、『現代語訳 老子』(ちくま新書)について

週刊文春の2018年10月18日号に載った「著者は語る」というインタビューです。
『現代語訳 老子』(ちくま新書)についてで、『老子』は東アジア文化の古典であり、神話や神道のことを考えれば、日本文化の古典とみてもよいという意見を言いました。
『老子』は大事にされていないということの意味は、学界が大事にしていないという意味ではなく、日本社会が『老子』を大事にしていないという意味です。儒教より『老子』を大事にするべきであることは、私には明らかなように思えます。
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2018年9月21日 (金)

男がよく打ち建て、女がよく抱く、これが世界の根本(『老子』第五四章)

男がよく打ち建て、女がよく抱く、これが世界の根本(第五四章)
 
 『現代語訳 老子』(ちくま新書)の第19講です。これはまったく独自の解釈ですが、どんなものでしょうか。有名な『大学』の「修身、斉家、治国、平天下」に対する批判と読みました。

 男がよく打ち建てたものは抜けることはなく、女がよく抱き入れたものは脱け落ちることはなく、それ故にその子孫の祭りは止むことはない。これを自分たちの身体について実修すればその徳(はたらき)は真実のものとなる。家について実修すればその徳(はたらき)は外に餘慶を及ぼす。郷(さと)で実修すればその徳(はたらき)は郷土(ふるさと)の大地とともに長く続くだろう。また、邦(くに)で実修すればその徳(はたらき)は豊かな生活をもたらし、さらには世の中の全体で実修すればその徳(はたらき)は広くゆきわたる。それだから、身体と身体を誠実に向き合わせ、家と家を誠実に向き合わせ、郷と郷を誠実に向き合わせ、邦と邦を誠実に向き合わせ、そして世界が世界を誠実に内省することが大事なのだ。そのような世界がなぜ必然であるが、こうして分かるのだ。

善建者不抜、善抱者不脱、子孫以祭祀不輟。
修之於身、其徳乃眞、修之於家、其徳乃餘、修之於郷、其徳乃長。修之於邦、其徳乃豊、修之於天下、其徳乃普。
故以身観身、以家観家、以郷観郷、以邦観邦、以天下観天下。吾何以知天下然哉、以此。

善く建てたるは抜けず、善く抱(いだ)けるは脱(お)ちず。子孫以(もつ)て祭祀(さいし)して輟(や)まず。これを身(み)に修(おさ)むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち真にして、これを家に修むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち余り、これを郷(さと)に修むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち長し。これを邦(くに)に修むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち豊かにして、これを天下に修むれば、その徳(はたらき)は乃(すなわ)ち普(あまね)し。故に、身を以て身を観(み)、家を以て家を観、郷を以て郷を観、邦を以て邦を観、天下を以て天下を観る。吾、何を以てか天下の然(しか)るを知るや、これを以てなり。

解説
 「善く建てる」という行為と「善く抱(いだ)く」という行為は、おのおの男の行為であり、女の行為である。相互の身体は別として、男が建てるものは、たとえば家の柱であり、女が抱くもの、守るものは、たとえば家の中の子どもや家財であろう。この「建てる」「抱(いだ)く」がうまくいけば「子孫以(もつ)て(中略)輟(や)まず(子孫は続く)」とされていることも、ここに男と女が含意されていることの証拠である。これは先に参照した『毛伝』という『詩経』の注釈書が「陰陽和して谷風至り、夫婦和して室家成る。室家成りて継嗣生まる」などとしているのと、実際上は同じことである(■■頁)。

 そして、それに続く「修身ー修家ー修郷ー修邦ー修天下」という文章は有名な『大学』の「修身、斉家、治国、平天下」をうけたものである。これは『孟子』(離婁(りろう)章句)に原型がある儒家の「修身」の思想を示すものであって、その意味は「身を修め、家を斉のえ、国を治めれば、天下を平らげることができる」という同心円のように「修身」が拡大していく論理である。『老子』の本章はこの表現を踏襲しているが、しかし『老子』では、その主語が男と女であり、実際の意味はまったくといってよいほど異なってくる。

 『孟子』や『大学』の筋道は「男=士大夫」が家父長の権威を確立し、さらに出世していくというものである。老子は、そのような立場を取らない。もちろん、老子の立場もあくまでも「士」を前提としているが、しかし、『老子』の強調するのは「身・家・郷・邦・天下」の基礎にはすべて男女の営みがあることである。とくに興味深いのは最初の「身」であって、主語が「男と女」である以上、「これを身に修む」というのは男女がおのおのの身体をもって向き合い修得することであり、これは身体的な性愛に支えられている。

 「これを身(み)に修(おさ)むれば、その徳(いきおい)は乃(すなわ)ち真」というのは、二人の性愛から生まれる徳(いきおい)=エネルギーは「真」、人間の「まこと=誠」であるというのであろう。そして二人の愛が家にあらわれた場合は、その徳(いきおい)=エネルギーは周りに及び、それがさらに郷里に及んだ場合は、その徳(いきおい)は地域に刻まれて長く続き、それが邦(くに)にまで及んだ場合は、その徳(いきおい)は国土と人々を豊かにし、さらに天下に普(あまね)く広がっていくという訳である。こうして「修身、斉家、治国、平天下」という儒教の「修身」の思想は、個人の性愛が博愛、つまり老子のいう「慈」に変わっていくという論理に切り換えられたのである。

2018年9月15日 (土)

皇極女帝の近江行幸と地震神。ある博物館での講演会の要旨。

ある博物館での講演会の要旨。

皇極女帝の近江行幸と地震神

 七世紀初期くらいまでの天皇は四〇前後で即位して、終身、天皇の座にいるもの
であったが、中大兄が蘇我入鹿を襲撃した、有名な645年の事件を機に譲位と
いう天皇の行動の仕方を作ったのが皇極女帝である。女帝は弟の孝徳を天皇と
し、自分は「皇祖母尊」(スメミオヤノミコト)の地位についた。これは、実際
上、後の太上天皇にあたるもので、中国と違って奈良時代から上皇の位置が強
かったという日本の天皇制の特徴の原型を示すものといってよい。女帝は夫の舒
明の死によって即位したのであるが、女帝自身が、継体・欽明・敏達・舒明と続
く継体王統の正統を継ぐ位置にあった。

 いうまでもなく近江は継体王統の最大の根拠地であるが、皇極女帝も近江と深
い縁をもっていた。斉明五年(六五九)に女帝が(おそらく中大兄・大海人の二
人の息子も一緒に、吉野から近江の平浦宮に行幸したことである。吉野には畿内
の神々のうちで最高の神位をもつ大名持神社があり、有名な妹背山のうちの妹山
を神体としている。そして平浦宮の北には日吉神社の神体山である牛尾山があ
る。両方を訪れればわかるように、この二つの山はいわゆる甘南備型の美麗な山
であって、実はそこには地震の神が宿っているのである。講演では、女帝が、こ
の行幸に籠めた意図を御説明したい。

2018年9月12日 (水)

日本の国の形と地震史・火山史ーー地震史・噴火史の全体像を考える

 下記はある博物館の友の会の講演会で話す内容の概要。
 これを書くのに三〇分をかけたのであろうか。もう少しかけたのであろうか。
 肱の神経手術の抜糸が明日。順調だが、糸が引きつれるのだろうか。ひりひりする。
 しかし、人間が人間自身の神経をあやつれるようになったというのは、身体の実在論的あるいは唯物論的な理解、より端的に言えばサイエンスという意味での学術的理解・了解にとっては決定的なことだ。と思う。
 これは人間の自己理解を変えていく。

日本の国の形と地震史・火山史ーー地震史・噴火史の全体像を考える

 拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で書きましたのは主に八・九世紀の地震・噴火の歴史でした。私はこの時期を大地動乱の時代と考えました。

 その後、私は、日本列島での地震や火山活動の活発期は、これまでだいたい三回ほどあったのではないかと考えるに至りました。その第一は紀元前後の時期で、東北地方で今回の3,11陸奥沖海溝地震と同様の津波痕跡が確認されており、また南海トラフ地震の大きな痕跡も確定しています。第二は右の新書で取り扱った時期になりますが、第三は一五世紀に起こった3・11と相似した一四五四年の奥州津波から始まり、一七〇七年の南海トラフ巨大地震から富士噴火につながる時期になります。

 ようするに、日本列島における大地動乱期は六〇〇年ほどの相対的安定期をおいて始まって、三〇〇年ほど続くのではないかということです。ただ、このような長期の周期性が本当にあるのかどうかは、地球科学によって確定されるべきことで、これは史料からみる限りではという仮説にすぎません。

 もしそうだとすると、現在は列島が知られる限りで四度目の「大地動乱期」に入ったということになります。これは理学的に確定したことではなく仮説にすぎませんが、ただ「大地動乱の時代」というと今にも天地がひっくり返るかのような印象ですが、もし、この仮説が正しいとすると、この事態を考え、備える相当の時間が許されているということになります(もちろん、ふたたび原発事故を起こすというようなことになれば天地はひっくり返りますが)。

 なお、第一の時期については、これが倭国神話の形成期にあたるのではないか、そのために倭国神話は地震火山神話というべき性格をもったのではないかと考えています。これについては右の新書でふれましたが、現在、それを敷衍して詳しく倭国神話を考える作業をしており、それについて御話しします。その一端は最近出版しました『現代語訳 老子』(ちくま新書)にも記しましたので参照願えれば幸いです。

«老子は「天地鎔造」=火山の思想が日本に生まれる上で重要な役割をした。