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2016年11月28日 (月)

世界には溶鉱炉の鞴のような激しい風が吹く(『老子』五章)

世界には溶鉱炉の鞴のような激しい風が吹く(『老子』五章)

天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す。天と地との間は、其れ猶お橐籥のごときか。虚にして竭せず、動きて愈々出ず。多言なれば数しば窮す。中を守るに如かず。
天地不仁、以万物為芻狗*1。聖人不仁、以百姓為芻狗。天地之間、其猶橐籥乎。虚而不竭*2、動而愈出。多言数窮。不如守中。

 天地の自然には仁愛などというものはない。万物を藁人形(芻狗)のように吹き飛ばす。(また社会も同じであって)、聖人と称する者も仁愛などはなく百姓を藁人形のように扱うのが実際である。天と地の間は溶鉱炉の鞴のようなものである。中は真空でも風が竭きることはなく、天と地が動けば風はいよいよ激しくなる。仁愛などということを多言していると行きづまる。真空という実態を知って置かねばならない。

解説
 橐籥とは溶鉱炉の鞴のことである。中国では春秋時代に鉄の鋳造技術が発展した。これは世界の鉄器製造の歴史では、普通、鍛鉄が先行するから、これは中国に独自なことと謂われているが、それを可能にしたのが溶鉱炉の熱を上げるための送風装置、鞴の開発であった。これは地域釈迦での鉄製器具・農具の利用を広げ、大きな意味をもったのであるが、ここで老子が天地の間で動く巨大な橐籥=鞴という喩えを語っているのは、老子にとっても製鉄技術の発展がめざましいものであったからであろう。

 天地の空間を鋳物を造るための巨大な空間と観想する神話イメージは『荘子』にもみえる。それは天地を鞴ではなく、溶鉱炉自体と考えるもので、『荘子』(大宗師篇)は「天地をもって大鑪となし、造化をもって大冶となす」(天地は巨大な溶鉱炉であって、その中で大冶=巨大な鋳物師がものを造る)と見えている。日本神話でも、最高神の高皇産霊は「天地を鎔造する」巨神とされている(『日本書紀』顕宗紀)。「鎔造」の「鎔」は鋳型による鋳造を意味する。また奈良時代に桜島が噴火したときのことを語る『続日本紀』には、それは大地の神・大己貴命(大国主命)が「冶鋳」(冶金と鋳造)の仕業を営んだのだと描き出している。そもそも、有名な「天孫降臨」は王家の祖先神が火山・高千穂が噴火するなかを「天の浮橋」(岩石の梯子)をつたって降りてきたという火山神話である(保立『歴史のなかの大地動乱』)。これは東アジアに古くからあった鞴や溶鉱炉の神話イメージが、日本では火山神話と結びついていたことを示している。そういう連想が文字化される上で、『老子』や『荘子』は相当の影響を与えたのではないかとおもわれる。

 さて、「天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す」というのは有名なフレーズである。人間を歯牙にもかけずに、圧倒的な力で規定してくるのが自然の本質だという老子の自然観を示す。漢学者の家に生まれた原子物理学の湯川秀樹は小さい頃から漢籍に親しんでいたが、原子爆弾の出現を見て、この老子の言葉を思い出し、科学文明によって人為の変化をうけた自然が人間を吹き飛ばすのではないかと危惧したという。二〇一一年三月一一日の東北大地震・津波と原発事故の後には、この老子の言葉はさらに新しい意味を帯びて迫ってくるように思う。自然はその表層では人間にとって有用なものにみえるが、より本質的には、それは人間に関わりなく存在する「無縁」そのものである。

 「聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す」というのも強烈なフレーズである。社会も個々人からみれば、無縁な自然と同じように、一つの無慈悲な自然のように人間を扱うというのである。社会が社会的自然ともいわれるのは、それが個々の人間からは疎外された一つの自然であるためである。自然のなかで働く人間は、直接に自然にしばりつけられているから、支配者は自然を所有し、それを通じて社会的自然をも支配することによって、人間を把握することができるのである。『老子』の社会思想は、こういう問題につらなってくる。『老子』というと「自然と親しむ思想」と考えられがちであり、もちろん、それは事実なのであるが、実は『老子』には、時と場合によっては、自然と社会は怖いもので、しかも、その怖さは関連しながら人間に迫ってくるという考え方がある。『老子』は深いのである。

2016年11月27日 (日)

老子第一章「万物を産む大地母神の母性原理」

 これは以前に書いたもの。明日から京都なので、準備をしているうちに見つけた。

老子第一章「万物を産む大地母神の母性原理」

道の道とすべきは、恒の道に非ず。名の名とすべきは、恒の名に非ず。名無し、万物の始め。名有り、万物の母。故に恒なるものは欲無くして*2、観るに以て其れ眇なり。恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり。此の両者、同じく出でて名を異にするも、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。
道可道、非恒道。名可名、非恒名。無名、万物之始。有名、万物之母。故恒無欲、以觀其眇。恒有欲、以觀曒*3。此兩者、同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

The way you can go
isn't the real way.
The name you can say
isn't the real name.

Heaven and earth
begin in the unnamed:
name's the mother
of the ten thousand things.

So the unwanting soul
sees what's hidden,
and the ever-wanting soul
sees only what it wants.

Two things, one origin,
but different in name,
whose identity is mystery.
Mystery of all mysteries!
The door to the hidden.

 普通にいわれる道と、ここでいう恒遠の存在としての「道」はまったく違うものだ。また、名声などの評判という意味での名も、ここでいう「名」、つまり名明な法則、理法という意味での「名」とはまったく違う。そもそも万物の始めの段階では、名明な法則はない。(天地が分かれ、陰陽、雌雄の違いとそれにもとづく欲求が生じ)、大地を母として万物が産まれる時に、はじめて名明な法則が顕現する。恒遠たるもの、「道」のなかに欲求がまだ生まれていないときは、全体の様子は混沌とした渺々である。その恒遠なるもののなかに欲求が生まれて、初めて名の差異が分明(曒)に顕現するのだ。そして、恒遠たる道の渺々とした混沌と、名明な法則的な事態の両者は、名目は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥な神秘である。そして、「道」と「名」の玄と玄が重なっている場所こそが世界万物がうまれる母たるべき衆妙の門(多数の妙なるものを生み出す門)が開いている場である。

解説

 本章は『老子』の第一章であって、『老子』を読む人にとってもっとも印象的な章である。これについては、特別に原文に続けて、『ゲド戦記』『所有せざる人びと』のSF小説家、アーシュラ・K・ルグィンの英訳を掲げた。意味を取ることがきわめて難しいが、まずは、漢文を暗唱し、また英訳を参照して哲学詩として読むのがよいと思う。
 極端に省略されているが、ここに前提されているのは、やはり宇宙論である。つまり「無名、万物之始。有名、万物之母」という部分、ルグィンの英訳の「Heaven and earth begin in the unnamed: name's the mother of the ten thousand things」という部分を宇宙の始めから天地の生成について論じたものと読むのである。たとえば「万物の始めのとき、宇宙に動きがあって、ビッグバンが始まる。そこでは混沌が広がっていくだけで、宇宙の法則的な展開は明らかではない。しかし、ビッグバンの後、宇宙が形成され、星ができて物理法則が働き始め、地球にも天地が分かれてくると、そこに生態系が生じ、生物の繁殖にともなう雌雄と欲求の関係が生じると、万物が生まれ、それにともなって生態学的な法則が登場する」ということになる。こういう宇宙論を援用するというのは、もちろん、『老子』を後知恵で読むことである。けれども、私の現代語訳に書いたように、「道」を恒遠な存在それ自体、「名」をそれをつらぬく法則=理法と考えれば、『老子』の筋道を大きく毀損することなく、話を通すことができると思う。

 ここでとくに強調しておきたいのは、この「無名、万物之始。有名、万物之母」というフレーズが伊勢神道の教説を集大成した鎌倉時代の書、『類聚神祇本源』に引用された「天地霊覚書」にそのまま引用されていることである。この「天地霊覚書」は道教の思想を自在に援用して神道の原理を論じている。私は、これをみる度に、『老子』を読むときの構え方はどうあるべきなのかを考えさせられる。

 ともあれ、このように宇宙論として本章を読むことによって、次の「故恒無欲、以觀其眇、恒有欲、以觀曒」の部分も万物の形成の論理を説いたものとして読めると思う。つまり、まずこの節の前半、「恒なるものは欲無くして、観るに以て其れ眇なり」という部分は、「無名、万物之始」ーー万物が名義分明な法則をもたない段階に対応するだろう。そこではまだ「恒なるもの」には欲求は内在しておらず、もっぱら渺々とした混沌があるというのである。それに続く「恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり」という後半部分は、明らかに「名有り、万物の母」という部分に対応している。つまり、通じて解釈すれば、万物の母の下で名義があるようになって、恒なるものの中に欲求が生まれ、初めて名義分明な理法が曒に顕現するのだということになる。

 もちろん、『老子』の議論をそのまま現代的な宇宙論そのものにもってこようというのではないが、以上のように読んでくれば、『老子』の本章が、恒遠な存在それ自体を意味する「道」と、それをつらぬく法則=理法を意味する「名」の両者を対応するものとして論ずるという明瞭な論理をもっていることは否定できないと思う。

 私が、以上のような解釈をする理由は、いわゆる上博楚簡のなかに発見された『恒先』という、これまで知られていなかった書物に「濁気は地を生じ、清気は天を生ず。気の伸ぶるや神なるかな。云云相生じて、天地に伸盈し、同出なるも性を異にし、因りて其の欲するところに生ず。察察たる天地は、紛紛として其の欲する所を復す。明明たる天行、惟お復のみ以て廃せられず」という一節があることを重視するためである。これは「天地の形成によって「気」が充満していき、その同じ気を発生源とする万物は、それぞれ性を異にしており、そこに欲求が生じ、その営みが繰り返される」と解釈することができるだろう。これを前提として『老子』第一章を読めば、天地の形成の後に、異なる性、つまり雌雄の関係において欲求が生まれたと解釈するのが自然であることになる。とくに重要なのは、この『恒先』という書物では宇宙の原初に存在するものが「恒」と呼ばれていることである。この点は「恒」なる存在の中に欲求が生まれるという『老子』に共通する論調であるといってよいのではないだろうか。『恒先』は『老子』とほぼ同時期に存在していたと考えてよいものであるから、それを参照として『老子』を解釈することは自然なことであると思う。

 従来、この「恒なるものは欲無くして、観るに以て其れ眇なり。恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり」という部分は、宇宙生成論として読まれることはなかった。たとえばもっとも一般的なのは「だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る」(福永一九九七)*1ということになる。これは右にかかげたルグィンの英訳も同じことである。

 ようするに、こういう考え方と解釈にもとづいて老子の思想は、一般に「無欲の思想」「無欲の哲学」といわれる訳である。率直にいって、これは老子の哲学を「無欲」の説教に矮小化することである。そういう風に理解する人々の善意を疑うものではないが、それは結局、老子の思想をおとしめるものではないだろうか。
 もちろん、それらと若干違う意見もある。それを代表するのは長谷川如是閑の「無において名づくべきもののない、絶対の境地(眇)を観、有において名づくべきもののある相対の境地をみる」などの解釈であって*1、そこでは無欲・有欲の両方が世界の認識において意味があるとされている。これらは、より冷静な見方であって、たしかに『老子』本章は、そのような人間の認識態度についての考え方を含蓄として含んでいることは否定できない。しかし、やはり、そこに還元してしまうのではなく、『老子』本章はまず宇宙生成論として読み切っておくことが必要であると考える。

 つまり、本章の解釈の最大の問題は、その最後の段「此の両者、同じく出でて名を異にするも、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり」である。私見のように、本章を宇宙生成論として読み切ることによってはじめて、この部分を宇宙と天地万物の生成にかかわる神話的イメージをベースとして筋を通して解釈することができるのである。この部分の現代語訳を次に再掲する。

そして、恒遠たる道の渺々とした混沌と、名義の差異が分明な法則の両者は、名目は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥なものである。そして、「道」と「名」の玄と玄が重なっている場所こそが世界万物がうまれる母たるべき衆妙の門(多数の妙なるものを生み出す門)が開いている場である。

 つまり、恒遠たる存在、混沌とした道それ自体とと、それを貫く差異を生み出す法則の世界は同根のものであって、そのような玄冥な実態と法則が重なる「衆妙の門」から万物が生み出されるというのである。この混沌したものから差異をもった万物が生まれる場、「衆妙の門」とは「万物の母」なるものの「門」であろう。この表現の背景には巨大な母なる神の神話的イメージが存在するのではないだろうか。

2016年11月22日 (火)

大国主神話と西宮越木岩神社

 以下は「ひょうごラジオカレッジ」での話しのためのテキストでの予告原稿。越木岩神社の文書については千葉大の引野先生の御教示をえました。ありがとうございました。


 私は歴史の教師をしておりましたが、4年ほど前に定年になりまして高齢者の仲間入りをいたしました。ともかくこれで責任が軽くなりましたので、定年後は少し日本の神話と地震の関係について自由な勉強をしております。今日は、その中で気づきました、西宮市にあります甑岩神社と大国主命について御話しをしたいと思います。

 芦屋の東を流れる夙川をさかのぼっていき、山地に入ろうとするところにある越木岩神社は、社殿の背後に高さ約一〇メートル、周囲が約三〇メートルもあるという巨岩があって、徳川時代にも「祭神、巨岩にして倚畳甑のごとし」(「摂津名所図会」)といわれて有名でした。山崎宗鑑の詠句に「照る日かな蒸すほど暑き甑岩」とありますから、この巨石は足利時代の後期からすでに広く知られていたわけです。甑というのは米を蒸す道具だから、「蒸すほどに暑き」というシャレが通用する訳だが、古くから、そういう形をした巨岩と考えられていたということです。

 私は、この神社こそ、『延喜式』神名帳の摂津兔原郡の項にみえる「大国主西神社」だと思います。莵原郡は明治時代に東の武庫郡に吸収されてしまって消滅しましたが、本来、夙川の西側で、芦屋市と神戸市東半分をふくむ地域でした。そこにはほかに「大国主西神社」と呼べそうな神社はない。越木岩神社の文書に明治五年に「西神社」、明治六年に「大国主西神社」とあるのは、少なくとも、当時、そう考えられていたことを示すと思います。

 さて今日お話ししようと思うのは、この大国主命という神がどういう神であったか、そして、それとの関係で、大国主西神社という神社の性格をどう考えたらいいかということですが、年輩の方は大国主命の物語を覚えておられると思います。兄たちにいじめられた大国主命、その頃の本来の名前はオホナムチですが、彼は出雲国の地下に広がる根の国に逃げ込むのですが、そこには素戔嗚尊がいます。それが逆にいい結果となって、スサノヲの娘のスセリ姫と恋愛をする訳です。そして二人は気脈を通じて、父のスサノヲをだまして逃げ出そうとした。その時、彼らはスサノヲの三つの宝物、「生太刀・生弓矢・天の沼琴」を盗み出すのですが、この時、スセリ姫をオンブしたオオナムチの担いだ「天の沼琴」が「樹に払れて地(つち)動鳴(とよ)みき」(木にさわって大地がゆれた)といいます。このジャックと豆の木の童話でジャックが竪琴を盗んで逃げ出したときに、竪琴が鳴り響いたことを想起させる物語は、「天の沼琴」が地震を発する呪具であったことを示しています。これはようするに、大国主命が地震の神となったということでしょう。

 詳しくは番組で御話しますが、こういう地震の神を祭る神社が、なぜここにあるのか、番組では、それについての私の意見をいおうと思います。

2016年11月19日 (土)

アメリカ政治はトランプ対バーニー・サンダースで動き始めた

アメリカ政治はトランプ対バーニー・サンダースで動き始めた

 11月16日、水曜日夜、バーニー・サンダーズ上院議員は、選挙が終わってからはじめて、まとまった演説をし、大きな注目を集めた。フェースブックでは、もう60万の人がみている。https://www.facebook.com/PoliticalRevolution/videos/1308001395918740/。

このワシントンのジョージタウン大学で行われた演説で、サンダースは、いくつかの問題についてトランプ次期大統領とともに働けることを希望しているといった。

 しかし、同時に、そのためにも、極右のジャーナリストのスティーヴ・バノンを戦略アドヴァイザーに選任することを再考するように要求した。スティーヴ・バノンは人種主義と性差別と外国人ヘイトと同性愛嫌悪で有名で、さらに反ユダヤ主義者でもある。 

 サンダースは、アメリカは徐々にさまざまな差別を克服するところに進み出てきたのであって、アメリカ合州国の大統領のそばに人種差別主義者がいることは受け入れられないと強い調子で釘をさした。

 彼のスピーチは、依然として激しい口調で、74歳とは思えないエネルギーに満ちているが、他方、その演説は、サンダースがきわめて柔軟な政治家であることも示した。つまり、サンダースは、ドナルド・トランプを攻撃するのではなく、むしろ、トランプが大統領選挙における演説で約束した、大多数の共和党の政治家とは異なる公約を具体的に取り上げて、その実行をせまったのである。それは下記のようなもの。

 (1)トランプ氏は社会保障予算をカットすることはしない。メディケアとメディケードを切ることはしないといった。私は拡充せよと主張するが、切らないというのは前提であり、重要な約束だ。

 (2)トランプ氏は、1兆ドルを我々の公共的なインフラ整備に投下すると約束した。それをすれば何百万もの給料の良い仕事口ができる。これも私の主張に共通する。

 (3)私は、今日の連邦の最低賃金が飢餓賃金であり、それは1時間につき15ドルにアップされねばならないと主張した。トランプ氏は、1時間につき10ドルまで最低賃金を上げなければならないと言った。これは十分ではないが、一つのスタートだ。

 (4)トランプ氏は、ウォール街の許しがたい強欲さと悪行を批判し、ニューディールで採用されたグラス・スティーガル法を復活するといった。これは最大の焦点のひとつだ。賛成なことはいうまでもない。

 (5)トランプ氏は、6週の有給出産休暇を実現すると約束した。地球上で主要な文明国といえば少なくとも12週の有給の家族と病気療養休暇が条件だが、これもスタートとしては重要だ。

 (6)トランプ氏はTPPなどの我々の壊滅的な貿易政策を変えるといった。これも賛成だ。


 時代錯誤の無知で頑迷な人種差別、外国人ヘイト、性差別などではまったく妥協はしない。しかし、以上が、誠実に行われるかどうかが問題だ。
 大統領候補が、この国の労働家族に偽善や嘘をいうことはゆるされないことは分かっているはずだ。これらを注意してみていくし、一緒にできることはいくらでも協力する。期待していると言ってもよい。
  
 以上が演説の主な内容の一部。

 面白いのは、サンダースの口調は、きわめて激しいし、表情も豊かだが、よい意味で、いつも同じことをいっていることだ。私は英語を聞き取るのは得意ではないが、民主党第一次選挙のときから聞き続けていたので、だんだんなれてきて分かるようになった。とくにデモクラシー・ナウというアメリカの番組では、書き起こしがついているので、分からないところはそこをみればだいたい聞き取れる。https://www.democracynow.org/2016/11/17/bernie_sanders_calls_for_trump_to_ax

 口調が、きわめて激しく表情も豊かだが、いうことが同じというのは、アジテーターであり、実際には霊性な知性派であるということでもあろうが、しかし、バーニー・サンダースは決して人に嫌われるタイプの人間ではないようだ。

 すでに『バーニー・サンダース自伝』(大月書店)が翻訳・発行されているが、『Our Revolution』という続編がアメリカでは11日に発行されたはずだ。

 日本の野党や市民勢力とアメリカの先進的な勢力との交流は必然的に進むだろうから、サンダースの演説を聞く機会はふえるに違いない。

 この日、水曜日、彼は、この日の昼、はじめて上院民主党の執行部に選出された。新設の普及(アウトリーチ)委員会の責任者となり、上院予算委員会の上級議員にも再任された。共和党は、上院で民主党に負けたら、サンダースが予算委員長になってしまうと危機感をあおり、一議席多数を維持したが、ぎりぎりだったわけだ。

 ウヲール外オキュパイ運動の中心をになったエリザベス・ワレンも執行部入りしたから、民主党上院執行部は先進派が有力な役割を担うことになる。

 なお、いまの焦点は民主党の全国委員会委員長に誰がなるかである。サンダースらはケイス・エリソンを推薦している。それが実現すれば、民主党は大きく変わり、アメリカ政治の非効率さの象徴である二大政党制は上から解体の方向に進むだろう。

 民主党が変わらなければ、4年後には第三党の形成に進むのかもしれない。共和党がどうなるかも波乱含みだからアメリカの政治はあきらかに激動期に入った。

 サンダースの主張は昨年までの民主党の枠組みを明らかに超えている。サンダースの行動は、舞台の外ではなく、舞台の中心にでてきている。サンダースは、この間、アメリカで起きるさまざまな問題に的確で適時のメーッセージをだし、演説をし、それは相当のインパクトをもっている。これが続くと、サンダースの行動は、このままでも、実質上、第三党の役割を果たすことになる。

2016年11月10日 (木)

ドナルド・トランプの勝利についてのサンダースの声明 20161009

ドナルド・トランプの勝利についてのサンダースの声明
                                 20161009
「ドナルド・トランプは支配勢力の左右する経済・政治・メディアにあきれて嫌になった没落する中流階級の怒りと響きあった。人々は、領事館の労働と低賃金が嫌になり、然るべき支払いのある仕事口が中国などの外国に行くのをみているのが嫌になり、億万長者が連邦の所得税を支払わないのに嫌になり、そして子供たちが大学へ行く学費の余裕もないのに嫌になっている。それにも関わらず、大富豪はさらにリッチになっているのにあきれているのだ。

 トランプ氏が、この国の労働者家族の生活をよくする政治に誠実に取り組むならば、それに応じて私と、この国の先進的勢力は協力する用意がある。人種主義者、性差別主義者や外国人ヘート、そして反環境主義の政治の道を行くならば、我々は精力的に彼に反対して行動するだろう。」

 アメリカの進歩勢力に頑張って欲しいと思う。トランプに対してはしばらく我慢をすること、軍警察、KKKのような危険な動きとできるかぎり連動させないようにすること。1年2年もたせて4年後への展望につなげることだと思うが、それらはバーニー・サンダースは十分わかっているだろう。

 しかし、ヒラリー・クリントンは政治家として終わり。彼女はバーニー・サンダースに謝らねばならない。それができなければ完全に終わる。政治家にも仁義というものはあろう。彼女が今後できる唯一の役割がそれだろう。

2016年10月29日 (土)

親鸞の「善人なおもて往生」は『老子』からきている

 やっと「日本文化論鵜「についての文章を書き終える。疲労。いまからチェックである。

 下記は、親鸞の「善人なおもて往生」のフレーズが、『老子』からきているという主張。

 『老子』の思想は中国における農民反乱をささえたが、日本でも親鸞の思想が足利時代の農民反乱をささえたのだろうと思う。

 

 このように「清浄」「和光同塵」などの『老子』の重要な章句に関するの誤解が日本における「仏教・儒教・道教」の関係を支えていたのであるが、そのような『老子』の定型的な読みを破ったのが親鸞であった。記録の残る限りでは親鸞の営為は老子の思想を本格的に日本語として日本の思想のなかに取り入れたものと位置づけることができるだろう。それは下記の『老子』第二七章の理解のことである。

善く行くものは轍迹なく、善く言うものは瑕讁なく、善く数うるものは籌策を用いず。善く閉ざすものは、関鍵なくして而も開くべからず。善く結ぶものは、縄約なくして而も解くべからず。是を以て聖人は、常に善く人を救い、故に人を棄つること無し。常に善く物を救い、故に物を棄つること無し。是れを襲明と謂う。故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばす、其の資を愛せざれば、智ありと雖も大いに迷わん。是れを要妙と謂う。

善行無轍迹。善言無瑕讁。善數不用籌策。善閉無關鍵、而不可開。善結無縄約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師、不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。

 いちおうの解釈をすると「旅するものは車馬の跡を残さず、善い話し手は他者を傷つけず、善く数えるものは計算棒は使わない。そして、善い門番は貫木を使わないのに戸を開けられないようにし、荷物を善みに結ぶものは縄に結び目がないのにゆるまないようにできる。神の声を聞く人は常に善く人を世話して、人に背を向けることがない。また物に対しても同じで、物を大事に世話して、それを棄てるようなことはしない。それらの善は襲された光によって照らされているのだ。そしてそもそも、善き人は不善の人の先生であるのみでなく、不善の人の資けによってこそ善人なのである。(そして師と資(師と弟子)の関係も同じように見えない光によって結ばれている)。師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師は、賢こいかもしれないが、かならず自分が迷うことになる。ここに人間というものの不思議さがある」ということであろうか。


 ここには「善い」ということの説明がある。老子は、「善」とは丁寧で善らかな気配りにあるが、それは人間関係を照らす見えない光と、その不思議さへの感性にもとづいたものであるというのである。これは孟子が「性善説、性悪説」などという場合の「善」ではない。老子は、人間が個体として「善」か「不善」かを問うのではなく、人間の「善」とは人間の関係にあるというのであり、人間の内面は見えないようだが、実は不思議な光の下で相互に直感できるというのである。それが人間が「類」的な存在といわれる理由なのであろうが、老子は、それを人類の「道」の基本には「善」があり、それを照らす「襲明(隠された光)」があるのだと表現する。「師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師」や「親を愛さない子、子を愛せない親」は、迷いの中でその光を失ったものだというのが老子のいうことである。

 ここから、「不善人は善人の資」という老子の思想が導かれた。つまり、善が関係に宿るのだとすれば、人が善であるのは、不善の人を資けるからであり、逆にいえば、善人は不善人の資けによってこそ善人であるということになる。私は、これは人間の倫理や宗教にとって決定的な立言であろうと思う。老子の立言は、福永光司『老子』(三八六頁)がいうように、少なくとも思想としては親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人においておや」(『歎異抄』)という決定的な断言に相通ずるところがある。もちろん、親鸞が「況や悪人においておや」というのは老子の思想をさらに越えているところがあろう。福永が「親鸞の信仰が深い罪業意識に支えられ、鋭い宗教的な人間凝視をもつのに対して、老子には親鸞のような罪業意識がない」というのはうなずけるところがある(福永光司『老子』二〇〇頁)。しかし、「弥陀の光明」の下で、「あさましき罪人」が許されるということと、老子の「道は罪を許す」という思想が基本的には同じことであることを否定する必要はないということも明らかなように思う。とくに私には、「弥陀の光明」ということと、老子のいう「襲明(隠された光)」ということは詩的なイメージとして酷似しているように思う。

 私は福永の指摘を超えて、親鸞は老子の「善人は不善人の師、不善人は善人の資なり」という格言を知っていたのではないかと思う。親鸞の『教行信証』の化身土巻の末尾には「外道」についての書き抜きがあるが、孔子についての言及は少なく、ほとんどは老子についてのメモとなっている。『教行信証』に明らかなように、親鸞は一面でたいへんな学者であり、勉強家であった。もちろん『教行信証』の結論は老子を外道とするものではあるが、その筆致はけっして拒否的なものではない。親鸞は、『歎異抄』を述べた晩年までの間には老子「五千文」を熟読していた可能性はあると思う。

 もう一つ、老子の第六二章は次のようなものである。

道は万物の奥。善人の宝、不善人の保せらるる所なり。美言の以って尊を市うべくんば、行いの以て人に加わうべし。人の不善なる、何の棄つることか之れ有らん。故に、天子を立て、三公を置くに、璧を供めて以て駟馬に先だたしむること有りと雖も、此れを進むに坐すに如かず。古の此れ貴ぶ所以の者は何ぞや。求めて以て得られ、罪有るも以て免ると曰わずや。故に天下の貴ぶものたり。

道者万物之奥、善人之寶、不善人之所保。美言可以市尊、行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有共璧以先駟馬、不如坐進此。古之所以貴此者何。不曰以求得、有罪以免耶。故爲天下貴。

 これもいちおう解釈をしておくと、「道は万物の奥にある。善人の宝は、不善の人の保つものである。美言によって尊敬を得るのは、実行を人より加えなければならない。人の不善であるというのは棄ててはならない。そもそも天子を冊立し、三公を任命するときは、璧玉を先に立てた四頭だての馬車を前駆させることがある。そのときでも私たちは、この道を進むだけだ。古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で貴ばれているのだ」ということになろうか。

 ここでは二七章のいう「不善人は善人の資」という考え方が、善人の宝は、不善の人の保つものであるという言い方で繰り返されている。老子は、天子即位や三公(大臣)任命はどうでもいいという。これは『老子』五章の「聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す」に並ぶ強烈な王侯観である。「老子の思想は、君主の存在や国家の行政機構そのものをも否定する無政府主義的な傾向をその根底に内包する」と述べたのは福永光司『老子』(三四四頁)であるが、その通りだと思う。

 上記の現代語訳では、それにそって直截な読みをしてみた。これで、文章の通りは非常によくなる。それに対して、これまでの現代語訳は、(福永のそれをふくめて)「王の即位式などに、見事な玉や四頭だての馬車を並べるのは虚飾なので道にもとづく進言を行う」と解釈する。しかしそれでは「人の不善なる、何の棄つることか之れ有らん」という前段と文脈が続かず羅列的な現代語訳になってしまう。昔日の中国には、老子の思想を徹底的な王権批判と受け止めた人びとは実際に相当数いた。中国の歴史において、老子を始祖とあおぐ道教が大反乱の旗印となった例はきわめて多いことはいうまでもない。もっともよく知られているのは、紀元一八四年に起きて後漢の王朝を崩壊に追い込んだ黄巾の大反乱であろうそれは張角という道士が起こした太平道と呼ばれた宗教運動にもとづいていたが、この反乱は数十万の信徒をえて各地に教団を組織したのである。張角の太平道の教典であった太平経には、天の命をうけた真人が有徳の君主に地上世界の救済を教えるという筋書きがあるが、それは『老子』の本章にいうような王侯への進言という考え方にもとづいて創出されたものではないだろうか。そもそも、道教は、この張角という道士が起こした太平道から始まったことは特記されるべきことである。

 以上を前提とすると、本章の後半部に「古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で無上の価値をもっているのだ」とあることの意味も明瞭となる。これは前項二七章のいう「不善人は善人の資」(悪人と善人は相身互い)という考え方にもとづく赦しの思想である。福永『老子』は、これが老子の思想のなかでももっとも独自なもので、この赦しの思想こそが、老子の教説が宗教化していく基底にあったのではないかという。ここは決定的なところなので、福永の見解の中心部分を引用しておきたい。

「『汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり』というのはイエスの教えであるが、人間の犯した罪が天に対する告白によって許されるという(老子の)思想は、初期の道教のなかにも顕著に指摘される(いわゆる「首過」の思想)。これは告白という宗教的な有為によって人間が天(道)に帰ろうとする努力であり、老子の不善に対する考え方とはそのままでは同じくないが、道の前に不善が赦されるとする老子の思想は原理的に継承されているといえるであろう」(福永『老子』三八六頁)

 たしかに「求めて以て得られ、罪有るも以て免る」というのは、『マタイ福音書』の「求(もと)めよさらば与えられん」「汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり」と酷似しているのではないだろうか。それは是非善悪の区別を説く儒教や、義と律法の神であるユダヤ教のエホバの神とは大きく異なっている。老子の思想が宗教的な展開をみせたのは、たしかにそれが「罪の赦し」という側面をもっていたためではないだろうか。なお右の引用の中段にある「首過」の思想とは、太平道の教祖にして、実際上、宗教としての道教を作り出した、黄巾の乱の組織者、張角による罪の懺悔(「首過」)のことである。張角は、それによって苦難や病からの解放を説いたという。そのような思想として、老子の思想は「中国における宗教思想の展開のなかで一貫した底流として生命をもちつづけた」のである(福永『老子』)。

 『老子』の教義は、このように、早い時期から宗教的な救済と政治的な急進性の結合をもたらすような内実をもっていたのであるが、もし、前項の末尾で述べたように、老子の思想が親鸞の「善人なおもて往生す。いわんや悪人においておや」の思想に影響していたとすれば、親鸞の「赦しの思想」が一向一揆を支えたことも、老子に共通するということになる。東アジアの精神史においてもっとも基底にすわるのは老子の思想であろうから、鈴木のいう「鎌倉時代における日本的霊性の目覚め」という図式を採用できないとしても、私は日本の精神史が親鸞段階で東アジアレヴェルの成熟に達したことは事実であろうと思う。

2016年10月19日 (水)

キルケゴール『死にいたる病』の冒頭部分を「人はたしかに霊的な存在である」と訳してみた。

 キルケゴールの『死にいたる病』の冒頭部分を訳してみた。

 「人はたしかに霊的な存在である。しかし、霊(スピリット)とは何かといえば、それはまずは心であろう。しかし心とは何かといえば、心とはそれ自身を自分の心に関係させる一つの関係意識である。心は、その関係において、その関係自身として自分の心を意識する関係である。心というのはただの意識関係ではなく、そこではその関係がそれ自身を自分の心に関係させるのである。人は、つねに全能感と閉塞感、瞬発感と日常感、自由の感情と窮乏の感情などの結び目である。人はそういう結び目なのである。それは二つの要素を意識する関係である。しかし、そうみるだけでは、人の心は捉えられない。
 つまり、二つの要素の関係においては、関係それ自体は三番目に位置する控えめな影となってしまう。二つの要素がたがいに結びついて関係を作り、関係のなかでたがいに関わり合い関係を作るという訳だ。たとえば、人を精神と身体の関係として考えるというのは、そういうことであって、そこでは、結局、人は精神とみなされることになる。これに対して、逆に関係がそれ自身を自分の心に関係させているのだとみれば、そのとき、その関係の自身が能動的な第三者として目に見えてくる。こういうものこそが心なのである」

 高校時代に読んだ桝田啓三郎さんの訳は下記のようなもの。

「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である(以下省略)」

 これはなつかしいが、やはり意味が通らないと思う。
 私は「人が霊的な存在である」というのは、「人は類的な存在である」、つまり、常に人類全体と関わっている存在であるということになっていくと思う。

2016年10月15日 (土)

ブラタモリ。貞観噴火は。日本の神と火山の関係をもっとも明瞭にしめす

 
 ブラタモリをみた。貞観噴火の噴火口を千葉達郎さんが案内いしているというもので、これはみれてよかった。

 スパターの解説がよくわかった。宮沢賢治の「気のいい火山弾」には「牛の糞」というのがでてきたと思うが、あれがスパターなのではないかというのが感想。

 『歴史のなかの大地動乱』を書いたときには、貞観噴火の割れ目、側火山列のことまでわからず、ともかく書いたという記憶である。
 
 ただ、歴史家からみると、この貞観噴火は、日本の神と火山の関係をもっとも明瞭にしめす資料になる。

 つまり、史料には「富士郡正三位浅間大神の大山」が自ら「火」を発したとあるように、人々は、これを「浅間大神」の仕業とみたのである。

 以下は上記拙著からの引用。

 人々は、火山の神が光炎を噴出し、雷電の大音声を発し、神体=山体を震わせ、地上を暗闇にして溶岩流を押し出して、動植物と人間を殺したとみていたのである。火山の神は、噴火のみでなく、雷電・地震の神と三位一体になり、すべての生殺与奪の権限をもつ恐るべき姿を顕わにするのである。

 人々は、噴火の最中は、富士山に近づくこともできなかったが、そのうちに、富士山の西北部の本栖湖に溶岩流が流れ込んでいるのが発見された。この溶岩流は、富士山の「西峯」=西側斜面で起きた側噴火から流出した大規模なもので、駿河国の報告によれば、全長、三十余里(約二〇㌔余)、幅、三.四里ほど(二.三㌔)で、遠く甲斐国の堺まで到達しているという。

 そして、約一月半の後の甲斐国の報告によれば、溶岩は本栖湖と剗湖の二つの湖水に流入し、水は沸騰し、魚類は全滅。住居は埋没するか、無人の廃屋となってしまい、多くの人が焼け死んだという。これによって、最も西に位置する本栖湖が狭くなり、また広かった剗湖が精進湖と西湖に分かれた。そして、溶岩流は、さらに東の河口湖にも向かったというが、この溶岩流の流れは、現在の青木ケ原溶岩流の状況にほぼ対応している。ようするに、この大噴火によって、現在の富士五湖の原風景が形成されたのである。

 この甲斐国の報告は「地は大震動し、雷電は暴雨のごとく、雲霧は晦冥にして、山野も弁じがたし」としているが、このような強力な火山神のイメージを作りだす原動力は地域社会の内部にあった。つまり、この噴火は駿河国が「年来疫旱、荐ねて臻る」という旱魃と疫病の流行の真っ最中に発生した(『三代實録』貞觀六年十二月十日)。これをうけて、噴火の翌年、八六五年(貞観七)に、甲斐国八代郡の郡司に富士大神が憑依して、「我は浅間明神なり」と称して、神社を建立せよと命令したという。富士大神は、甲斐国司が兇悪で、百姓が病死などの辛苦にあっているのを顧慮しないことに対して怒って、この「恠」をあらわしたのだ。大神に「鎮謝」し、「齋祭」を行えというのが、その託宣であった。この託宣をした時、郡司の身体が八尺(二.四㍍)と二尺(六〇㌢)の間を伸縮するようにみえたという噂が広がったという。これは地域に強力な神を抱え込むことによって、国家に対して要求を強めるという点で、怨霊を祭る御霊信仰と軌を一にするものである。

 今まで、富士を祭る神社は駿河国の側にしかなかったが、これによって甲斐国の側でも富士の山裾、八代郡の郡衙の南側に「浅間明神」の「神宮」が立ったのである。そして、それを検分しにきた国司の使者、溶岩流が剗湖の千余町の広さを埋め尽くしているのを確認し、そこから仰ぎ見たところ、「正中の最頂」にも「社宮」が出来上がっているのを目撃したという噂が広がった。

 火山には「神宮」があって、そこには神が棲むというのは、阿蘇火山の例を筆頭にして、伊豆神津島の例にいたるまで、すでに指摘したように、この時代の一つの通念であった。しかし、富士の「神宮」の様子はさすがに華麗である。目撃譚によると、富士の神宮は四隅に丹青の石でできた垣が組んであり、下からみると、その垣石は、高さは一丈八尺許(五,五㍍)、広さ三尺ほど、厚さ一尺余という巨大なもので、その石垣の中央には、やはり石でできた門があったという。入り口は一尺ほどの狭き門にみえるが、内部には、多彩の石でできた「一重高閣」がそびえ立っていて、その美しさは言葉にすることもできないものであったという。

 九世紀の著名な文人、都良香が作った「富士山記」には、噴火の約一〇年ほど後、国司・郡司や民衆が収穫祭(新嘗祭)の季節に、富士の浅間明神の祭礼をしている時、山峯に「白衣の美女」が二人現れて、天空を舞ったという幻想が記録されている。また、山頂には甑釜のような窪地の底に、周囲を青竹の林でかこまれた純青の「神池」があって、周囲からは沸騰する青い蒸気が噴き出ている。そして、そこに虎のような形をした石が踞っているという。火山学の小山真人は、この「虎石」らしき石はいまでも富士火口にあるから、、これは現実に火口まで上った人の伝聞にもとづいたイメージだろうといっている。これらの幻想が九世紀末の『竹取物語』に実を結ぶことはいうまでもない。

2016年10月 7日 (金)

ひょうごラジオカレッジで3年ほど前にはなしたこと。

 以下は神戸の兵庫県高齢者放送大学、ひょうごラジオカレッジで3年ほど前にはなしたものです。
 

 みなさんおはようございます。保立道久です。

 もう20年近くまえになるわけですが、1995年の阪神大震災の時、震災の直後から、神戸の歴史家たちは歴史史料の保存、レスキュー運動ということにとり組みました。あるいは、ご存じでしょうか。わたしも、ちょうど、そのとき、歴史学研究会という学会の事務局長でしたので、その関係で、神戸大学の方々と連絡をとって必要な相談をしました。また、しばらく後、神戸大学で授業をすることをたのまれて、一週間ほどのあいだ、神戸にいました。あの時の神戸の町の様子はわすれられません。

 そして、ちょうどその時に、市民の集会があって、小説家の永井路子さんと一緒に講演をしました。その集会は、歴史の史料をまもるという問題と、地震被害の国家補償をもとめるという二つのテーマをもっていました。この列島では、地震は、どこをおそうかわかりません。ですから、この国に棲むものは、いざという時、地域をまもることを意識する必要がある。その中で、地域に残った歴史史料もまもっていただく必要があるというのが歴史家の考え方です。それと同じように、この国では誰でもが地震被害にあう可能性があるのだから、それは個人的な不運ということではなく、みんなで支えあって国家補償が必要だということでした。東日本太平洋岸地震が起きてみると、これは必要な考え方だということが明らかになっているように思います。

 それにしても、三、一一はショックでした。実は、私はまだ東京大学につとめておりましたので、その直後、東京大学の地震研究所で開催された研究集会に参加しました。そこで、9世紀、869年に東北地方でおきた地震が、三、一一の大地震とほぼ同じような規模をもつものであることを知りました。この九世紀の地震の史料は当時の朝廷の残した記録に残っていて、私もその史料は読んだことがあったのですが、それだけでなく、それに対応する証拠が地面の下に残っていたのですね。つまり、巨大な津波は海底の砂を巻き上げて内陸に運びますが、そこには海洋性のプランクトンがふくまれています。ですから、顕微鏡でみれば、この砂は海からきたものだというのがわかるのです。そういう砂が3㌢だとか、場所によっては10㌢以上の厚さで残っている。9世紀にも海岸線から内陸へ3㌔以上も津波がやってきていた。それは3,11の津波がのぼってきた範囲とほぼあうということなのです。そしてこれだけ津波がのぼってくるためには九世紀の津波もマグニチュード8、5前後あるいはそれ以上の地震が起きているはずだというのが地震学の人の研究でした。ショックだったのは、このことは3、11のほぼ15年前には明らかになっていて、しばらく前から、一部ではどう対応するかという議論もされていました。とくに原発についても九世紀の例からいって危険だということが東電に対して指摘されていたということです。研究集会では地震学・地質学の人々が、もう少し早く研究をまとめることができて、東北地方の人々にそれが広く伝わっていれば、いろいろな点で、事態は違っていたと嘆いているのを目前にしました。

 それなのに地震の動きの方が一瞬早かったということでしょうか。これはショックでした。つまり、地震学の人々のこういう研究を、この時代を専門とするほとんどの歴史研究者が、もちろん私をふくめて、知らなかったのです。これは歴史学の方に責任があります。私は、何ということだと考えて、急遽、8世紀、9世紀、奈良時代と平安時代初期の地震の研究をして、岩波新書で『歴史のなかの大地動乱』という本を書きました。

 今回はこの仕事を通じて知ったことについて御話しをしたいと思います。とくに御話ししますのは、この869年の陸奥大津波の前年、868年に、兵庫県で発生した地震のことです。これは、この本を書く中で気づいたのですが、阪神大震災との関係で、もっと早く研究しておかねばならない問題だったと考えています。

 さて、この九世紀の兵庫県地震の震源は山崎断層にありました。山崎断層というのは、岡山県の東部から兵庫県の南東部にかけて広がっている断層帯です。主要部は約80㌔の長さで、美作市から斜めに姫路市・三木市までさがってきています。これは日本で一番最初に発掘調査をされた断層で、いまでも京都大学の防災研究所の観測点がおかれています。そして、そのボーリング調査で、868年の地震の痕跡が掘り当てられたのです。これについては、朝廷の記録も残っています。それによると、播磨国の役所や寺院の建物がほとんどたおれた、京都でも、大内裏の垣根がくずれたといいます。

 文字の史料とボーリング調査の両方がありますので、1000年以上前の地震の実態が正確にわかる訳です。震源断層は山崎断層。マグニチュード7。0以上ということです。まだまだ人口密度も少ない時代ですから、幸い、人命の被害はありませんでしたが、もしいま起きればただではすまない強い地震でした。

 問題は、この地震のとき、山崎断層だけではなくて、それにつられて六甲山の断層帯が激しくゆれたことです。つまり、朝廷が神戸の広田社と生田社に捧げた御祈りの文章が残っています。そこには神戸の近辺が何度も激しくゆれた。それは広田社の神の「ふしごり」によるということで恐れ多いとあります。「ふしごる」というのはめずらしい言葉ですが、木にフシが出来るようなごつごつした怒りという意味です。しかも、それがでてくる御祈りの文章は、神主さんの唱え言葉そのままの史料でしたから、読みにくい史料です。そのためもあって、この史料は、これまで地震史料と認識されていなかったのです。この史料を知ったときに、これは本来、阪神大震災の時から研究しておくべきであったということを実感させられました。

 阪神大震災の前、都市計画を作るうえで、神戸ではそんなに地震がないという風評があったといいます。地震学の人たちは、当時からそんなことはないといっていた訳ですが、そういう声は影響をもちえなかった訳です。ですから、この史料をもっと前に知っていれば、それが神戸の人々の常識になっていれば話しは少しは違ったかもしれないということです。後知恵ということになるかもしれませんが、今後はそういうことがあってはいけない。地震学や歴史学のような学問は我々の毎日の生活にとってあまり関係のないものにみえるかもしれません。しかし、そんなことはないので、こういうことから災害を予知する文化というものを根っこから作っていかねばならないと思います。

 さて、以上をまとめてみますと、この868年の地震は、兵庫県の西部が震源で、山崎断層という大断層がゆれた。それがはねかえって神戸も相当にゆれた。そしてそれが京都まで響いたということになります。
 重要なのは、朝廷が、この地震が起きた原因を広田社の神の怒りに求めたということです。実は、これがどのような神の怒りかというのは、朝廷にとっては相当に深刻な問題だったのです。つまり、応天門の変というのをご存じだと思います。伴大納言、伴善男が応天門に放火して政敵をおとしいれようとしたという大事件です。伴善男は、そのためにぎゃくに罪をこうむって伊豆に流されました。この伴大納言が、この年、流罪地の伊豆で、恨みを呑んで死んで、怨霊になっていたのです。怨霊、つまりこの世に災害をもたらすという訳ですが、奈良時代・平安時代の人々は、地震は怨霊によって起こると信じていました。この地震は伴善男の怨霊によるのだという噂が出まわったことは確実です。

 そして、さきほどいいましたように、翌年、陸奥大津波が起きました。三,一一の後、先日の淡路の地震はありましたが、幸い大きな被害をもたらす地震は起こっていません。ところが九世紀は現在よりもっと地震や噴火が激しい時代で、しばらく前には富士が大噴火を起こしています。その上で二年連続して相当の地震が起き、東北地方の津波では、一〇〇〇人もの人が死んだとされます。これは衝撃であったに違いないと思います。
 問題は、この陸奥の大津波の翌月、六月に京都で御霊会があり、京都の祇園社の伝承によれば、このときに播磨国の広峰神社の牛頭天王が京都にやってきたとされていることです。こういう由来で広峰神社は祇園の本社ともいわれています。

 御霊会というのは、しばらく前から京都だけでなく、各地で行われるようになっていたのですが、これは怨霊を鎮めるための祭りです。ですからこの時期に祇園の御霊会がはじまったというのはありそうな話しです。祇園御霊会というのは、連続した播磨地震・陸奥地震の中で、それを引き起こした怨霊の力を鎮めるということで始まったに違いありません。普通は、御霊会というともっぱら疫病の流行を鎮めるということだといわれるのですが、当時の考え方だと地震を起こす神と疫病を起こす神は同じ神さまなのです。実際に、伴善男も怨霊として疫病の神であったという史料があります。

 表面では、こういうことはなかなかみえませんが、日本の文化の中には地震、そして火山噴火に直面してきた人々の考え方というのが深いところに存在していたに違いないというのが、私の考え方です。祇園会はいうまでもなく、日本を代表するお祭りですが、その始まりには9世紀の地震の影響があったということです。これは、この列島に棲む人々の常識となってもよいことだと私は考えています。

 さらに、今日、申し上げたいのは、そこには兵庫県の歴史が深く関わっていたということです。大事なのは、祇園の牛頭天王が、本来は播磨国の広峯神社の神であったことです。広峯神社は、姫路の北、播磨地震の震源、山崎断層がとおる場所の少し南の谷にあります。この広峰の神が播磨から摂津の神戸を通って、地震とともに京都までやってきたと人々は想像したのではないでしょうか。広峰神社は、奈良時代には決して有名な神ではありませんでしたが、このとき以降、京都の人々には有名な神社になります。そういうことですから、広峯と祇園の関係は祇園会の開始の時期にさかのぼると考えてよいと思います。

 なお、意外と大事なことかもしれないと考えているのは、平家のことです。私は、平家は祇園社と深い関係があったのではないかと思います。白河天皇が祇園に縁のある女性、いわゆる祇園女御を中心として一種のハーレムといいますか、後宮ですね、を作ったということはご存じでしょうか。清盛が白河天皇の御落胤だという話しはお聞きになったことがあると思いますが、鼻は祇園女御(あるいはその妹)などといわれます。これは疑問はあるのですが、ただ、この祇園女御と清盛の父の忠盛は深い関係があったことは事実です。そもそも忠盛が出世したのは、祇園女御を通じて白河院に取り入ったためです。平家と祇園社の関係が深いのは確実だと思います。祇園社にいまでも「忠盛灯籠」というのがあるのはその証拠でしょう。

 ここからすると、平家は祇園社の本社といわれた広峰社との縁も深かったのではないかと考えています。ここから先は、まだいま考えているということなのですが、平家は、なにしろ忠盛・清盛と播磨国をもっとも重要な縄張りにしていましたから、そこにある祇園の本社、広峰と深い関係をもっていた可能性というのはありうるのではないかと考えているのです。そうだとすると、平家の作った福原京の山際に祇園社があることは無視できません。平家は祇園の神、地震の神を味方にしていたのではないかなどと考えています。

 以上、駆け足になりましたけれども、このところ勉強したことを報告いたしました。まだ時間が少しありますので申し上げますが、私は、去年、地震学の知人から歴史学はもっと地震学に協力してほしいといわれました。そして、文部科学省におかれた地震予知の研究計画を議論する委員会に参加してほしいといわれて地震学の人たちと議論してきました。そのなかで、地震学と歴史学の協力のためには、地震の歴史を専門的に研究する組織が必要であるということについて一致しました。これだけ豊かな国なのに、日本の政府はそういうことには十分な予算をだしませんので、こういう組織は、いつ、実現するかは分かりませんが、少しでも歴史学が役に立つように、今後も研究を続けたいと思っています。

 日本は地震・火山列島です。ですから、どの地域の歴史をとっても、地震や火山との関わりが刻まれています。そしてそれは文化の中にも刻まれているということを御伝え出来たとしたら幸いです。こういうことは、毎日毎日の生活の中からはなかなかみえてきません。しかし、私たちは、そういう国で生きている訳で、そこで行われた先祖の経験を尊重しなければならないと思います。またそれが娘・息子や子孫の世代に対する責任であるようにも思います。

2016年10月 5日 (水)

ノーベル賞の大隅さんの見方を「たしなめる?」鶴保庸介科学技術担当相の発言。

 ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大隅良典氏が、「この研究をしたら役に立つというお金の出し方ではなく、長い視点で科学を支えていく社会の余裕が大事」という趣旨のことをいったのに対して、鶴保庸介・科学技術担当相が4日、「社会に役立つか役立たないかわからないものであっても、どんどん好きにやってくださいと言えるほど、この社会、国の財政状況はおおらかではない」と述べたという。

 科学技術担当相は2001年の中央省庁再編における科学技術庁の廃止、文部省の文部科学省への拡大にともなって設置された内閣の特命大臣である。制度的には、予算や人材などの資源配分を所管しており、その職務は重い。しかし、こういう発言が、それにふさわしいものだろうか。

 私などは、文部省の文部科学省への変化に期待した。これによって学術の文理融合が進むのではないかと期待した。私は学術の文理融合という枠組みがあれば、学術の研究を自由にやっていても、何年かかかるかはわからないとしても、社会に、結局はやくだつものだと思う。たとえば、地震の研究などは過去の歴史史料にのっている地震資料の人文学による細かな研究がどうしても必要で、私も及ばずながら、3・11陸奥海溝地震の後に研究を始め、理系の地震学の方々と議論をしてきた。これは確実に役に立つ。

 そういうことはきわめて多い。たとえば、医学の分野で言えば、有名な三年寝太郎の話は、青年期の欝にかかわる物語であることもあきらかになった。歴史史料にはまだまだ検討を必要としている病気の資料は多い。それは社会にとって、医学にとって、どこでどう役立つものかはあらかじめきめることはできない。しかし、かならず役に立つ。

 学問がつねに役に立つかどうかは、何を「役に立つ」と考えるによって違ってくるだろう。そもそも量子力学なしにはコンピュータ技術はありえなかった訳だが、量子力学の研究の初めの時期に、そんなことに役に立つとは考えられていなかった。

 だから、学問が役に立つかどうかという問題は簡単に議論できない。これは大隅氏がいう通りだと思う。しかし、私は文理融合という枠組みがあれば、その中から出てくる成果はほとんどかならず役に立つのではないかと思う。その意味で文部科学省の成立に期待した訳である。

 しかし、このような文理融合の必要性の強調は、2001年の中央省庁再編の後、むしろ文部科学省の側からいわれることは少なくなり、御承知のように、現在では、人文系の縮小のみがいわれるようになっている。私の見通しは甘かった。

 遅まきながら、気づいたのは、二つ。

 一つは、文部科学省の「上」には、こういう内閣特命大臣がいて、予算や人材などの資源配分を所管していたのだということである。そしてその人が、「社会に役立つか役立たないかわからないものであっても、どんどん好きにやってくださいと言えるほど、この社会、国の財政状況はおおらかではない」というようなことをいう人であるということである。これが内閣特命大臣を設置した本音なのであろう。そういうことだから、せっかくの文部科学省も、「文」と「科」を融合したものにならないのであろう。

 もう一つは、この間、何人ものノーベル賞受賞者がいて、みな大隅氏と同じようなことをいっていたことをどう考えるかである。普通ならば、少しは考えそうなものであるが、この鶴保大臣は、それに対して、「受賞者は、この社会、国の財政状況をしらずにいいたいことをいっているのだ」と冷水をあびせた。これは、いかにも偉そうな言い方であるということではすまないだろう。そこまでいうかという感じである。

 そっちょくにいって、私などは、何をみても、無駄遣いが多い政権のいうべきことではないだろうと思う。この国はいったいどうなってしまったのであろう。

 

«イギリスのメイ首相が、移民制限を当然のこととしてEUと折衝するという。