BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

2018年12月10日 (月)

書架散策  永原慶二著『源頼朝』

以前、永原先生について書いた小さな文章もでてきたのであげておきます。
 もう70になったので、書いたメモは上げておかないと残らないので。

書架散策  永原慶二著『源頼朝』


 私のもっている『源頼朝』は、実は従姉妹のもので、高校の頃、彼女の部屋だった田舎の土蔵の二階で手にして、勝手に貰ってしまったものである。自分の部屋をもっていなかった私は、土門拳の写真集があったその土蔵の二階が今でも懐かしい。そこで本書を読んだことが、歴史研究に進む一つの機縁であった。

 永原氏はこの夏に亡くなられたが、本書を刊行した一九五八年、氏は三六歳。その安定した達意の文章には驚くほかはない。

 永原氏は従来の頼朝論を①儒教的な名分論、②「判官贔屓」からの感情的印象論、③山路愛山以来の「平民史学」の自由な歴史叙述の伝統の三つをあげている。そして自己の立場が③にあることを明示しながら、あくまでも激動的な政治史の一部として頼朝を取り上げている。

 本書の特徴は、そういう観点から、政治史のキーとなる頼朝関係の史料を的確に選び出し、周到な説明を加えているところだろう。高校生の頃に読んで、何か読んだこと自身に一種の達成感を感じたのはそのためだったと思う。

 私は、実際にはむしろ永原氏の議論の枠組みを批判することを研究生活の目的としてきた。永原氏からは「判官贔屓」といわれかねないかもしれないが、先日、義経論を書き終わり、ようやく一つの結論をえたような気がしている。

 しかし、うらやましいと思うのは、永原氏の歴史学方法論に対する確信である。本書は政治史を社会構成史の深みから全体的にとらえる視座を正面から打ち出し、しかもそれがわかりやすい。

 どうにかしてそのレヴェルを歴史学の場に復活させたい。そのために何が必要なのかということを、本書は真剣に考えさせるのである。

『永原慶二著作選集』第九巻(歴史理論編)解説

 『永原慶二著作選集』第九巻(歴史学序説、二〇世紀日本の歴史学)解説

 永原慶二さんの著作集への解説の原稿です。
 もうずっと以前、二〇〇八年、つまり一〇年前に書いたものですので、公開してよいだろうと思います。

 ここに書きましたことで覚えているのは、永原さんの内藤湖南評価が石井進氏の内藤湖南評価を呼び起こしたと考えられるとしたことです。それがさらに勝俣鎮夫氏の内藤湖南評価を呼び起こしてたことはいうまでもありません。
 これは現在でも塾考すべき問題をふくんでいるように思います。いうまでもなく、戦後派歴史学にとって「見果てぬ夢」となっているのは、東アジア史の中で、その社会経済構造全体のなかで日本史を考えるということですが、そのとき確実に戻らなければならないのは、日本における内藤ー宮崎市定の東洋史の伝統をどう考えるかということだからです。

 これが戦後派歴史学の評価にも深く関係してくることはいうまでもありません。たとえば呉座勇一氏の『応仁の乱』の前書きには、勝俣鎮夫の内藤評価がふれられていますが、間に永原ー石井進の関係をいれてみるべきでしょう。内藤の日本史についての議論はその応仁の乱論以外にも示唆多いものがあることはいうまでもありません。
 以下、解説です。

  本巻は『歴史学序説』と『20世紀の歴史学』の二冊をおさめた。この二冊は近現代日本の歴史学の学問史、その思想と方法、その社会的位置などに関する、著者の生涯をかけての思考の筋道を示している。

 まず一九七八年に刊行された『歴史学序説』は、「Ⅰ戦後歴史学の展開」「Ⅱ視点と方法」「Ⅲ歴史教育」の三部からなる論文集である。このうち第一部の「戦後歴史学の展開」は近現代史学史の検討にあてられた二本の論文と付論からなっている。まず付論は『日本史研究入門』Ⅲ・Ⅳ(おのおの一九六九、一九七五年刊行、東京大学出版会)の巻頭総論として発表されたものをまとめたものである。この『日本史研究入門』というシリーズは、日本の歴史学の進展を総括するものとして各時代の研究者によく読まれたもので、Ⅲ・Ⅳは著者と井上光貞の共編にかかる。重要なのは、一九六九年分において、早くも、永原が、戦後歴史学の天皇制批判は国内的視野にかたより、帝国意識に対する批判が弱く、その意味で「帝国主義支配民族の歴史学」の「宿命」から自由ではなかったと述べていることである。さらに永原は、戦後歴史学の発展段階論が一国史的・単線的そして西洋中心主義的な傾向をもっていること、それ故に、当時喧伝された正真正銘の西洋中心主義史観、つまり「近代化論」を批判しきるためにも、戦後歴史学の側の自己点検が必要であることを明快に説明している。現在、このような視点は常識的なものとなっているが、この論文は、それが戦後歴史学の内部から登場してきたこと示している。

 次ぎに「歴史意識と歴史の視点」(一九七五年)は、原論文に「日本史学史における中世観の展開」という副題があったことからもわかるように、著者の専門分野である日本中世に即した史学史論である。直接の前提となったのは永原が鹿野政直とともに取り組んだ『日本の歴史家』の編集作業にあり(同書の公刊は一九七六年三月、日本評論社)、永原も原勝郎・内田銀蔵を担当している。評伝という性格もあってか、そこでは彼等への共感が表面にでているが、しかし、この論文では福沢諭吉以降の近代史学史における「脱亜」的発想を摘出し、しかもそれが戦後中世史学、またその中心をなした石母田正の領主制論においても精算されていないという厳しい指摘に連なっている。また、ここで永原が内藤湖南学説を高く評価し、その関係で戦後歴史学における石母田と鈴木良一の間の論争の意味を論じていることも注目される。これは永原が、『下克上の時代』(中央公論『日本の歴史』、■■年)以下の仕事で室町戦国時代に研究の重点をシフトさせていった事情を表現している。と同時にその背景に、この時期、石井進が展開していた鋭利な「封建制」論批判への応答があることも(永原は明記していないが)留意しておくべきだろう。この永原の内藤評価が石井の内藤評価を呼び起こしたと考えられるからである(参照、石井「中世社会論」など、『石井進著作集』六巻)。

 次の「戦後日本史学の展開と諸潮流」(一九七七年)は、戦後歴史学の全体を俯瞰した雄編である。戦後の社会変動とそれに対応する歴史学の側の課題・方法意識とそれに関わる学会の動向が、原始から現代におよぶ広い視野の下に過不足なく描きだされている。この論文が『二〇世紀の歴史学』の原型をなすことは、一読、明かであろう。「国民的歴史学運動」と、その中心となった「マルクス主義歴史学」に対する評価の厳しさ、大塚久雄・丸山真男などの学問的重みの特筆を確認されたい。また「実証主義」歴史学における個別認識の徹底を目ざす動向を「法則認識の可能性を拡大しつつあるもの」として「歴史研究の本道」と高く評価していることも目立つ。このような論調が、家永三郎が、書評において、本書をマルクス主義歴史学の「自己批判」とし、その「率直さ」を評価する理由であろう(『歴史評論』一九七九年五月号)。と同時に「マルクス主義歴史学」を精算するのではなく、その最良のものを生かそうとする永原の広やかな展望も説得的である。

 第二部の「視点と方法」は六本の論文からなっているが、最初の三本はマルクス歴史学の立場からの歴史学方法論である。まず(1)「歴史学の課題と方法」は、総論であってマルクス歴史学は社会の構造論的把握と人民闘争史的な主体的把握を統合し、さらに歴史の国際的契機を重視することによって、新しい歴史像、世界史像を構想しなければならないとしている。永原の立論はきわめて内省的であって、日本の歴史学は歴史の全体的形象に不得手であり、マルクス歴史学は「いわば孤立しつつ」それに立ち向かわねばならないという。(2)「経済史の課題と方法」は、経済史が経済学とその他の社会科学を媒介する位置にあることを確認した上で、社会構成をウクラードを基礎に論理的・体系的に把握する手法について解説している。永原がウクラードとはエレメント=要素という意味であるとしているのが注目されよう。これは永原のウクラード論が、富のエレメンタルな形態を端緒範疇とする『資本論』的方法に依拠し、封建社会の分析においても小土地所有(フーフェ)ー共同体(ゲマインデ)ー領主制(グルントヘルシャフト)という上向分析が必要であるとする高橋幸八郎のシェーマを受け止めたものであったことを示している。永原には大著『日本経済史』(本著作集第八巻)があるが、経済史の方法論それ自身に関する論文は意外と少なく、その意味できわめて重要な論文である(参照、保立「永原慶二氏の歴史学」『永原慶二の歴史学』永原慶二追悼文集刊行会編、吉川弘文館、二〇〇六年)

 (3)の「歴史認識・叙述における人間の問題」(一九七七年)は、いわゆる昭和史論争を総括した論文である。最近の『昭和史論争を問う』(大門正克編、日本経済評論社、二〇〇六)、とくに同書中の和田悠「昭和史論争のなかの知識人」などを読むと、批判をしかけた亀井勝一郎の思想と処世の実態と対比して、遠山茂樹の反批判が、的確かつ穏当なものであったことが印象づけられる。現在の観点からみれば、日本浪漫派に属したのみでなく、実際に戦争賛美の言論を行った亀井が「歴史教育の究極の目的は自己放棄を教えることにある」(亀井「現代歴史家への疑問」『文藝春秋』一九五六年三月)などと繰り返したことに内面性は感じられず、それこそが「人間不在」と思えるが、しかし、永原の総括も、遠山と同様に、不思議なほど穏やかなものである。そして、昭和史論争を試金石として展開した、歴史の「必然性」に対する「可能性」、「階級」に対する「民衆」の概念などの立論は、永原の歴史理論にとって緊要な位置をもった。なお、永原が遠山の議論に「歴史認識そのものに特定の政治的基準が無媒介に導入されてくる」ニュアンスがあると論じていることも注目される。この論文の重点は、実は遠山の議論を引き継ぐと同時に、遠山と対峙する点にあったのではないかとさえ思える。たとえば前述の『日本史研究入門』の編者がⅡからⅢで遠山茂樹・佐藤進一の共編から井上光貞・永原慶二の共編に変わっていることが示すように、永原は遠山を引き継いで戦後の歴史学界を代表する位置についた。家永教科書訴訟をはじめ、遠山・永原の二人の労苦によって第二次世界大戦後の歴史学界が支えられた面は大きく、本論文は、そのような遠山・永原の関係をふまえて読まれる必要がある。

 その他の第二部の所収論文は、おもに講演記録であるが、どれも歴史学の社会的役割にかかわって学界的共同を訴えたものである。そして六〇年代から七〇年代にかけて新しく展開された「民衆史研究」「人民闘争史研究」を理解し、それを支えようとした永原の姿勢を示す点でも共通している。現在の学界状況では、このような真っ正面からの議論に違和感をもつ人も多いかもしれないし、当時、ちょうど研究の道に進みつつあった私などは、逆にあたりまえすぎると感じた記憶もある。しかし、後に永原の講演を何度かきく機会があり、その理路整然とした、そして戦前の国家と戦争の実態を知る世代としての実感に裏打ちされた気迫に襟を正すこととなった。是非、この明解さに対峙していただきたいと思う。なお講演であるだけに、専門の中世史を例として議論を展開した部分も多く、たとえば「歴史学の方法と民衆像」には、「在地領主=中間層」論など永原理論のエッセンスを意外な言葉で語った部分があり、中世史の専攻者には熟読する価値があるものである。また、本書全体との関係では、この論文が、一九六九年四月の東京地方裁判所民事二部における教科書訴訟(第二次)における遠山証言「『歴史をささえる人々』と日ソ中立条約の記述」から説き起こしていることが重要であろう。遠山証言は、民衆史を基軸にする分析が歴史の総合的把握を可能にするという方法論が、近現代史学史に一貫していることを論じて共感をよんだ。それが永原の史学史研究に影響したことは確実である。

 『歴史学序説』の第三部「歴史教育」は、六本の論文からなる。(1)「歴史学と歴史教育」(一九六八年)は、歴史教育に対して「国家に対する愛情」の涵養を要求した一九六八年の新学習指導要領に対する全面的な批判の文章、(2)「歴史教育の自由のために」(一九七〇年)は家永三郎氏の教科書に対する検定が違憲であるという判決、いわゆる杉本判決に対する評価、(3)「歴史意識の形成と教科書叙述」(一九七六年)は教科書の執筆者としての被検定経験の記録である。これに対して、(4)「史話か通史か」(一九七六年)、(5)「歴史をめぐる事実と評価」(一九七七年)、(6)「歴史から何を学ばせるか」(一九七八年)は、相対的に短文であるが、そのうち(6)は一九七八年の新学習指導要領の点検であって、ちょうど(1)に対応している。

 第三部は、要するに一九六〇年代の最後から一九七〇年代の後半にかけての歴史教育をめぐる全体的な状況を論じたものであり、杉本判決の時期に大学時代を送った私などの世代にとっては自己の原点に関係する諸論文である。多様な内容を含んでいるが、教育論との関係で重要なのは、やはり永原の議論が遠山茂樹の歴史教育論と深く関係しながら形成された事実であろう(参照、遠山『歴史学から歴史教育へ』■■■)。これは戦後史学史における永原と遠山の先述のような位置からしても、歴史教育学の問題としても、今後、詳細な検討が必要となる問題である。なお、本著作集の第一〇巻には『歴史教育と歴史観』として著者の歴史教育論がまとめらる予定であり、歴史教育論については、それをあわせて議論が必要であることも注意しておきたい。

 そもそも永原は、本書の「はしがき」で、自己自身のことを「歴史理論そのものを専攻するものではない。従ってこうした書物をつくることを初めから目ざした訳ではなかった」としている。それにも関わらず、本書を刊行する理由は「最近数年間のあいだに生みだされた」「ほぼ一連の関心」の強さにあると説明している。実際、本書の諸論文のうちの相当部分が、その数年の短期間に執筆されている。そして、この「一連の関心」が、第三部で取り扱われた国民の歴史意識と歴史教育の問題にあることは明かである。永原は、歴史教育の国家主義化を動きを「戦前復帰」とまでは考えない論者が多いことに対して、歴史教育の目的が「教化」へとすりかえられたことの確認を要求している。実際、このような論者は今でも多いというべきであろうが、その錯誤を指摘する永原の論調にはゆずれないものがあるようにみえる。

 『歴史学序説』に紙幅を費やしてしまったが、以上の解説は、永原の思考の筋道が一貫しているだけに、その二五年後に執筆された『二〇世紀日本の歴史学』の解説ともなりうる側面がある。そこで以下では、紙幅の関係もあって『二〇世紀日本の歴史学』の成立事情について簡単な説明をし、若干の特徴にふれることで解説の責めをふさぎたいと思う。もちろん、『二〇世紀日本の歴史学』の扱う問題はさらに広範であり、しかも永原一流の明快さをもって書き下ろされたものである。それ故に、躊躇するところは多いが、ともかく、この解説が無用な蛇足あるいは不協和音とならないことを願うのみである。

 さて、『二〇世紀日本の歴史学』の執筆の事情は、「まえがき」に明記されているように、二〇〇一年、またも歴史教科書問題が発生したことにあった。このような事態が二一世紀になっても繰り返されたことは永原にとっては大きな衝撃であったに違いない。この問題を永原は「教科書問題を歴史学・歴史教育の歴史にさかのぼって根源的に考え、また批判するためにも、史学史への理解・認識が不可欠である」と受け止め、本書の執筆に踏み切ったという。印象的なのは、本書の巻末近く、「国家権力とそのサポーターとしての国家主義者による歴史教育の領有を見すごすことは、歴史学の研究者としては、一歩もゆずることのできないところである。今日、その危険が高まっている事態を、どこまで歴史学と歴史教育の歴史にそくして深く認識するかは、歴史研究者・教育者にとわれている良心と責任の問題である」(284頁)という文章であろう。そして、「現在をきびしく受け止める「批判」精神を堅持すると同時に、多角的に歴史をみてゆく努力のなかから、二一世紀の日本史学もまた新たな発展を生みだしてゆくであろう」という「おわりに」の文章(■■■頁)がそれに対応するものであることも明かであろう。

 この永原の期待に応えられるかどうかは、多くの研究者の意思にゆだねられている問題であるが、この明瞭なメッセージ性が独自な立論によって支えられていることに留意したい。私は、その意味での本書の独自性の第一は、永原が二〇世紀の史学史をアカデミズム歴史学の通史を中軸に描ききった点に求めることができると思う。いわゆる「戦後歴史学」には自己をアカデミズム外のものと認識する傾向があった。永原はアカデミズムのもつ「無思想性」を難詰する点では人後に落ちないが、しかし、永原はアカデミズムという用語をマックス・ウェーバーがいう「職業としての学問」という意味で、自己認識のための用語として正面から使用している。そして、永原の総括したアカデミズム史学史論は、学界の職業的な常識として受け止めるべき内容をもっている。また、永原が、歴史学という職業の日本社会おける困難さを凝視する中から、歴史学の学問の自由と責務の問題として教育問題を取り上げていることは重ねて注意を喚起しておきたい。

 第二の独自性は、筆者とほぼ同世代に属する中世史の研究者、稲垣泰彦・黒田俊雄・網野善彦・戸田芳実らに対する無視、あるいは厳しすぎるとも思える批判である。本書は研究動向を代表する個人中心に叙述にメリハリをつける方法をとっており、その意味と限界は、今後あらためて論じられねばならないであろうが、他の時代の研究者については、むしろバランスのよい評価が目立つから、いわゆる「戦後歴史学」に自己の生き方を重ねてきた同学の同僚に対する厳しい筆致は、一読不思議な感に打たれる。たとえば、永原は、網野善彦の見解は、単なるロマン主義にとどまらず戦前の日本浪漫派に通ずるものとし(227)、黒田俊雄・戸田芳実の研究は(176)、講座派的着眼ではなく労農派的論理に通ずるとまでいうのである。しかし、ここから分かることは、永原の視線が第二次世界大戦前の社会における学術と文化にすえられていることである。そこにあるのは、「はしがき」が「同時代の史学史を書くことは、自分の歴史観をすべてさらけだすことにもなるから、今はただこのような思いに免じてお許しいただく他ないと割り切った」と述べるような「同時代」を生きたもの同士の覚悟だったのであろう。笠松宏至は「網野善彦さんの思い出」という対談で本書にふれて、永原と網野の間の兄弟のように親しい特別な関係を証している(『図書』二〇〇七年五月)。そこには、たしかに後の世代には「うかがいしれない」ような内実があることを忘れないようにしたい。

 本書は、すでに多くの読者に迎えられ、かつ『歴史評論』の特集「歴史学と歴史教育ー二〇世紀から二一世紀へ」(二〇〇四年二月号)において、高橋典幸・大串潤児・今野日出晴・中村政則・鹿野政直などによる充実した批評・書評があり、また著者の逝去後に開催された追悼シンポジウムにおいても多面的な報告があり、私もそこで本書にふれて私見をのべた(前掲『永原慶二の歴史学』)。

 今後、右にかいつまんで述べた本書の独自性や、問題性をふくめ、本書をベースとして、史学史の議論が精密化することになるだろう。しかし、率直にいって、本書を越えるような史学史の書き直しは、きわめて困難な作業である。つまり、永原は、本書の「おわりに」で、戦後の歴史学の第三期、一九七〇年代以降には明瞭な歴史理論が存在しない、そして「二一世紀にむけての日本の歴史学はどのような方向に進むか。それについての答案は、研究者一人一人が書きつづけるほかはない」として、要求される「厳密な実証性と厳しい理論性」の水準を解説している。本書の書き直しは、そのような営為の先に展望するしかない課題である。それがどう展開するかが、まだ見とおせない以上、少なくとも「中世史」の研究者は、当分の間、本書を通じて、永原の声を聞き続けなければならないと思う。

2018年12月 9日 (日)

日本の国の形と地震史・火山史ーー地震史・噴火史の全体像を考える

12月8日の明治大学博物館での講演の概要。事前宣伝文書にのったもの。

 拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で書きましたのは主に八・九世紀の地震・噴火の歴史でした。私はこの時期を大地動乱の時代と考えました。

 その後、私は、日本列島での地震や火山活動の活発期は、これまでだいたい三回ほどあったのではないかと考えるに至りました。その第一は紀元前後の時期で、東北地方で今回の3,11陸奥沖海溝地震と同様の津波痕跡が確認されており、また南海トラフ地震の大きな痕跡も確定しています。第二は右の新書で取り扱った時期になりますが、第三は一五世紀に起こった3・11と相似した一四五四年の奥州津波から始まり、一七〇七年の南海トラフ巨大地震から富士噴火につながる時期になります。

 ようするに、日本列島における大地動乱期は六〇〇年ほどの相対的安定期をおいて始まって、三〇〇年ほど続くのではないかということです。ただ、このような長期の周期性が本当にあるのかどうかは、地球科学によって確定されるべきことで、これは史料からみる限りではという仮説にすぎません。

 もしそうだとすると、現在は列島が知られる限りで四度目の「大地動乱期」に入ったということになります。これは理学的に確定したことではなく仮説にすぎませんが、ただ「大地動乱の時代」というと今にも天地がひっくり返るかのような印象ですが、もし、この仮説が正しいとすると、この事態を考え、備える相当の時間が許されているということになります(もちろん、ふたたび原発事故を起こすというようなことになれば天地はひっくり返りますが)。

 なお、第一の時期については、これが倭国神話の形成期にあたるのではないか、そのために倭国神話は地震火山神話というべき性格をもったのではないかと考えています。これについては右の新書でふれましたが、現在、それを敷衍して詳しく倭国神話を考える作業をしており、それについて御話しします。その一端は最近出版しました『現代語訳 老子』(ちくま新書)にも記しましたので参照願えれば幸いです。

2018年12月 6日 (木)

八世紀末の南海トラフ大地震と最澄 2016年のもの。再掲

八世紀末の南海トラフ大地震と最澄  保立道久
原掲載、『CROSS T&T』No.52.2016.2(一般社団法人 総合科学研究機構)。
ただし、刊行論文には大きな錯誤があり、刊行直後に読んでいただいた石橋克彦氏の指摘をうけ、論の基本部分に変更を加えた。氏の教示に感謝したい。なお論の責任はすべて筆者にあることはいうまでもない。(2016,4,4)。

 よく知られているように、南海トラフ地震は、だいたい100年から150年の周期で発生するといわれている。14世紀南海トラフ地震(1361年)以降については、それを語る資料が明らかになっているが、しかし、それ以前については、その可能性のある地震は、まず265年の間をおいて11世紀(1096年)、209年の間をおいて9世紀(887年)、203年の間をおいて7世紀(684年)という間隔になってしまう。これはおもに、それらの時代では正確な文献史料が少ないことによるのであろう。しかし文献史料の読み方によっては、さらに若干の推測が可能となる。

 ここで述べるのは、八世紀末期にも南海トラフ地震があったのではないかという推定である。それは797年(延暦16)の地震であって、もし、この推定が成立するとすると、九世紀南海トラフ地震(887年)と七世紀南海トラフ地震(684年)の間で、現状、203年の間隔があるものが、90年と113年という間隔に分割されることになる。

 さて、この、地震は、菅原道真が「六国史」などを主題ごとに整理して編纂した『類聚国史』(巻171、地震)に記録されているもので、この年、8月14日に「地震暴風」があったという記録である。これによってでた被害は「左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」という相当のものであった。これはいわゆる平安遷都の直後の時期で、この時期は六国史でいえば『日本後紀』という記録があるべき時期なのであるが、この時期、『日本後紀』の伝本はなく、抄録本の『日本紀略』の同日条に「地震暴風」とあるのみである。

 問題は『日本紀略』によれば、この地震の三ヶ月前、五月一三日に「雉あり、禁中正殿に群集す」(『日本紀略』同日条)という事件があったことである。雉は雷電や地震を察知してなくという観念があって、その種本は「説文」に「雷の始動するや、雉すなわち鳴きてその頸(くび)を句(ま)げる」とあるように中国にあったが、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で論じたように日本でも、そういう史料は多い。さらに問題となるのは、この雉事件の六日後、『日本紀略』五月十九日条に「禁中并に東宮において金剛般若経を転読す、恠異あるをもってなり」と金剛般若波羅蜜経の転読が行われたことが記され、さらにその翌日、二〇日条に二人の僧侶を淡路国に派遣し、仏経を転読させて、「崇道天皇」の霊に陳謝したという記事があることである。

 この崇道天皇とは時の天皇、桓武の同母の弟で皇太子の地位にあった早良親王のことである。早良親王は、785年、大伴家持などの教唆によって、桓武の近臣、造長岡京使、藤原種継を暗殺し、謀反を起こそうとした廉で処断された。しかし、彼は最後まで罪を認めず、しばらく後になって桓武も冤罪であったとして、その霊に陳謝したのである。

 問題の「恠異」は、この崇道天皇の怨霊が起こしたものであったということになるが、その中身については、これまで「どんな恠異があったのかわからない」(村山修一『変貌する神と仏たち』人文書院、八九頁)、「宮中での不思議な出来事」(大江篤「早良親王の霊」(『史園』1号、二〇〇〇年、園田学園女子大学)などとされるのみであった。それらは右のような雉のもっている意味を見逃していたのである。そもそもこの時代、地震の怨霊は大問題であった。桓武の父、光仁天皇は、妻の井上内親王と(桓武の前の皇太子)他戸親王を迫害し死に追い込んだが、775年、彼らが幽閉された場所で死去した直後に地震が連続した。恐怖にかられた光仁は内裏に僧侶二百人を集めて大般若経の転読を行い、「風雨と地震」の「恠異」を払う大祓を行ったという。桓武もその恐怖の記憶にとらわれていたはずである。これまで早良親王の怨霊はもっぱら雷神としての性格をいわれるのみであったが、ここに早良親王の怨霊が地震を起こす霊威とも考えられていた可能性が生まれる。

 早良親王が「崇道天皇」という追号をあたえられるのは、この地震より少し後のことであるが、私は、こういう文脈で、この地震を「崇道天皇地震」と呼んでおきたいと思う。重大なのは、この地震が「左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」という、相当の大きさをもつ地震であったことである。もちろん、史料に余震がみえないのは南海トラフ地震ではしばしば余震が続くとされることからすると問題があるが、『日本紀略』も『類聚国史』も抄出にすぎないから、余震についての記載が省略されることは十分に考えられるであろう。それよりも問題なのは、「地震暴風」とあることで、そこから、被害は地震被害ではなく、実際は暴風被害であったのではないかという意見もあるかもしれない。しかし、この頃、坊門はまだ新築であった。それが左右の両京で倒壊したというのをすべて暴風とするのはむずかしい。

 もちろん、この地震の規模は、将来、考古学が葛野遷都直後、いわゆる「平安京」の最初期における坊門の発掘調査に何カ所かで成功した後になるかもしれないが、しかし、以上のような文脈のなかで考えれば、この地震を恐怖の対象となるような相当の規模のものであったと考えることは許されるだろう。私は、ここから、この地震がまさに南海トラフ大地震であったのではないかと推定したい。

 このような経過は桓武の王廷に長く続く恐怖をもたらしたらしい。800年(延暦一九)年六月には富士が噴火し、火口の光が天を照らし、雷声が轟く様子が都に伝えられるが、おそらくこれも早良の祟りと考えられたものと思われる。翌月23日に、早良に対して崇道天皇の号を追称し、淡路の墓を「山陵」と呼ぶということになったのは、おそらくそれを契機としたものではないだろうか。

 私は、この崇道天皇の怨霊から都を守るために羅城門の上に置かれたのが、現在、羅城門の近くの東寺におかれている兜跋毘沙門であったと思う。松浦正昭「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370号、1998年)によれば、この毘沙門天像は、崇道天皇号追贈の4年後、804年(延暦三)8月に遣唐僧、最澄が持ち帰って桓武に献上したものである。興味深いのは、当時、唐で大きな権威をもっていた不空(アモーガヴァジュラ、鳩摩羅什や玄奘とならぶ三大訳経家の一人。七〇五~七四)の訳した毘沙門天王経の偈の冒頭部分には、「假使(たとひ)日月の、空より地に墮ち、あるいは大地傾き覆ることあるとも、寧(やす)らかに是(か)くのごとくある事、應に少しの疑いも生ずべからず、此法は成就すること易きなり」とあることで、つまり、「大地傾き覆る」ような地震があっても、毘沙門天の経の功徳によって安らかにすごすことができるというのである。

 結局、この年末に桓武は身体の調子を崩し、翌年にかけて淡路の崇道天皇陵のそばに寺院を建てたり、「怨霊に謝す」ため、諸国に郡別に倉を作って崇道に捧げるなどの措置をとったが、3月に死去してしまう。しかし、最晩年の桓武が怨霊からの守護を求めて最澄に帰依したことの影響はきわめて大きかった。最澄が八一二・八一三年(弘仁三・四)にまとめた「長講法華経先分発願文」は、「崇道天王」を筆頭として、井上内親王、他戸親王、伊予親王・同夫人などの怨霊を数え上げている(櫻木潤「最澄撰「三部長講会式」にみえる御霊」(『史泉』九六号、二〇〇二年)。

 最澄の『顕戒論』(巻中)の一節「災を除き国を護るの明拠を開示す、三十三」が、護国仁王経の力によって、「天地の變怪、日月衆星、時を失い、度を失う」などの「疾疫厄難」を起こす「鬼神」を除き愈やすことができるとし、その天変地異の例として「日の晝に現われず、月の夜に現れず」「地に種種の災ありて、崩裂震動す」などを上げたのは、まさにこれに対応していると思う。

 さて、私は3・11の直後に東京大学地震研究所で開催された研究集会に出席したことが縁となって、2012年12月より科学技術学術審議会地震火山部会次期研究計画検討委員会に歴史学関係の専門委員として参加した。参加して驚いたのは、地震噴火の研究予算が年に4億しかなく、研究体制と人員の手当もきわめて不十分であることであった。しかも、地震学の研究をサーヴェイしてみて、3・11のような巨大な地震が起こりうることは、たとえば産総研の行った地質学・地震学の調査によって以前からはっきりしていたことを知った。

 もちろん、現在の所、何時、どこでどの程度の規模の地震が起きるということを、つねに確実に予測することは不可能である。しかし、「予め知る」という意味での「予知」は相当の確度でだされており、それに対応する警告もされていたのである。ここでは、その証拠として、日本地震学会の出版した『地震予知の科学』(東京大学出版会、2007年)に「東北から北海道の太平洋側のプレート境界では、過去の津波堆積物の調査によって、五〇〇年に一度程度の割合で、いくつかのアスペリティをまとめて破壊する超巨大地震が起きることもわかってきた」とあることをあげておきたい(前回の奥州大津波は1454年であるから、これはそろそろという予知であった)。

 政府や責任諸官庁あるいは東京電力などは、それらの警告を無視し、マスコミも、地震学の研究者を「予知」できないものを「予知」できるといって攻撃し、地震学界を一種のスケープゴードのように扱ったのである。これはとても科学先進国とはいえない事態であったというほかない。

 右の地震火山部会の建議「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について」が、大略、「地震・火山観測研究計画を地震学・火山学などの自然科学としてでなく、災害科学の一部として推進する。災害誘因(自然現象)のみではなく、災害素因(社会現象)も見通して学融合的に災害を予知する」という趣旨のものとなったのは、それを踏まえたものであった。この建議については2月刊行の『地殻災害の軽減と学術・教育』(日本学術叢書22、日本学術会議編)に詳しく解説される予定で、私も、そこに歴史学からの意見を書いたので、そちらを参照していただければと思う。

 こうして、私は、東日本大震災も東京電力の原発事故も人災であったことを詳しく知って一種の義憤にかられざるをえなかった。これを忘れずに、歴史学者として、命のある間は、歴史上の地震の問題についての研究に取り組みたいと考えている。ともかく、地震の経験と、それへの畏怖は、以上に述べたような政治史や宗教史のみならず、日本の歴史において根本的な意味をもっていることは明らかだからである。

2018年11月23日 (金)

『竹取物語』の不審本文を読みなおす

以下は一五年ほど前に人間文化研究機構で「編纂」という仕事について話した原稿の一部です(活字になっているはず)。これもPCの中からでてきた。ブログに上げておけば忘れない。
 
 『かぐや姫と王権神話』(126頁)で書いたことに説明ですので、研究的な文章ですが、他の研究者の邪魔にはならないと考えてあげておきます。
 
 まず編纂とは何かということから御話をしたいと思います。私は、最近、『かぐや姫と王権神話』という本を執筆するにあたって、『竹取物語』の本文の校訂という仕事をしました。『竹取物語』には四・五カ所の「不審本文」といわれる、昔から意味不明の箇所がありまして、それについてこれまで編纂という仕事に従っていたものの立場から案を出すという作業でした。

 編纂ということを考える上では、ちょうどよいので、そのうちの一つを題材として説明させていただきますと、たとえば、車持皇子が蓬莱の玉枝を偽造するという場面があります。彼が密かに偽造を担当する鍛冶工を集める場面が次のようにでてきます。


垣を三重にし籠めて、皇子も同じ所に籠り給ひて、知らせ給ひたる限り十六そをかみに〔て〕くどをあけて玉の枝を作り給ふ。

 これは少し漢字に起こしてありますが、原文ではすべてひらがなになっています。そのうち傍点の「十六そをかみにくどをあけて」という部分が意味不明なので、これまでたとえば、「領知する限りの十六所の荘園を」などと解釈されてきました。「十六そ」の「そ」は、仮名では「所」という字を崩した仮名で書いてありますので、これは「十六所」としてもいいのです。しかし、そこまではよいとしても、「かみにくどをあけて」というのは、どうしてもわからないという訳でした。

 これについて「十六そをかみに」の「に」を「て」に変えてみます。これは変体仮名といって、ひら仮名の別の書体では「に」と「て」は酷似する場合がありますので、許される校訂です。そうしますと、「知る限りの十六所拝みて」と読むことができることになります。

 十六所というのは、十六所祈祷といいまして、伊勢神宮を中心として、近畿地方の有名な神社をえらんで、朝廷が祈祷することをいます。もし、そう読めるとしますと、『竹取物語』の成立は九世紀の末と考えられておりますので、この史料は、十六所祈祷の初見史料ということになります。これは平安時代の神道の成立を示すたいへんに重要な問題となってきます。

 そして「くど」は「竈突」。つまり鎌倉時代の『名語記』という辞書には、家の竈神のそばにあける煙出をいうとありますので、「竈突=煙出」と考えました。神様に祈るためには、煙をあげなければならないという考え方は古くからありますので、まさにそれだということになります。こうしてこれまでわからないといわれていた文章について、「知っている限りの十六所の神社に祈祷をして」、潔齋をして玉枝作りにかかったということで、うまく意味が通じた。一字を「に」を「て」に校訂するだけでうまくいったということになります。

 『竹取物語』の校訂というのは江戸時代からされているわけですが、もしかしたらこれで日本の文化の基礎について確実に一つの仕事を付け加えたということになります。編纂というのは、こういう意味では、歴史文化の基礎をつちかうものだと考えることができます。

 もちろん、編纂というのは、まずは人文社会科学における基礎研究です。自然科学でいえば「実験」にあたるきわめて地味な作業で、いわゆる「考証」という作業です。この事業は、非常に手間と人員がかかる地味な作業です(以下はコンピュータと編纂の話しにつき省略)

何のために「平安時代史」研究をするのか

おそらく20年ぐらい前のハーヴァードでの「平安時代史研究会」のConcluding Discussionの原稿が、PCの中にあったので載せておく。

このころは元気であった。ボストンの川を船でさかのぼっていった時の景色を思い出す。豊かな土地、アメリカ。これがネルーダが歌ったアメリカ大陸の豊かさなのだ。これがネーティヴ・アメリカンの土地だったのだという感興をもったことをよく覚えている。

 この研究集会の日本側の企画者は学習院の千野香織さんだった。形がととのう直前になくなられたが、その少し前に職場の前でばったり。御元気だったのにショックであった。


1何のために「平安時代史」研究をするのか。

 21世紀の世界、そしてその中で歴史学がおかれた状況は、私たちに対して深刻な思索を要求しています。何のために研究をするか、これについて世界中の歴史家相互で話し合うことが重要になっています。けれども、今日ここで問題としたいのは、歴史学一般ではなく、平安時代史の研究についてです。つまり私はここでみなさんに「何のために平安時代史の研究をやっているか」ということを問いかけてみたいのです。

 実は、こういう問題意識は、これまで日本の学会の中にはまったくありませんでした。そもそも、考えてみるとおかしなことなのですが、日本の歴史学界では、今回のような「平安時代史」をテーマにした研究集会がもたれたこともありませんでした。さらに、今回の集会は、歴史学・文学史・宗教史・美術史をふくめてのインターディシプリンな研究集会として大きな意味があるのですが、こういう研究集会の開催はあきらかに世界中ではじめてのことです。私は、今回の画期的な研究集会が、今後日本でも平安時代史をテーマにした総合的・国際的な集会が行われるきっかけになることを願っています。

 ともかく、anyway、今回の集会の報告は、あまりに多様で内容豊かであるために、個々の報告の内容にふれることはとてもできません。そこで私の発言は、そのような方向を今後組織していくために、現在考えておくべきことを提案するという形で進めることを御許しいたqだきたいと思います。

2古代史研究と中世史研究の狭間

 そういう展望をもってみると、最初の問題は、なぜ平安時代に関する総合的な研究集会が、日本の学界でこれまでもたれなかったのか、なぜこれまで、平安時代研究の意味や展望をめぐっての集中的な討論が行われなかったのかということになります。そして、日本の歴史学界の中にいるものの実感としては、その理由は、この時代が古代史研究と中世史研究の狭間に位置しているという、学界内部の事情にあります。私には、つまりだいたい1980年以降、古代史研究と中世史研究の相互の関係は、とくに排他的・閉鎖的なものになったように思われます。古代史研究と中世史研究は、研究のために必要な知識や修練が大きくことなっており、それに対応して研究者の経歴や生活のパターンもことなっています。冗談ですが、古代史の研究者はきっちりしていて紳士的であり、行政的に有能なのに対し、中世史の研究者は自由というと聞こえがいいが、いいかげんでアナーキーであるといわれます。その中で、平安時代史の専攻者、自分の専門は平安時代史研究であると自覚している人の数はそんなに多くありません。古代史の職業的研究者は、古代の本場である六世紀から奈良時代を、中世史研究者は本格的な中世、つまり鎌倉時代の歴史の究明を自己の第一義の仕事としがちです。こういう状態の中で、平安時代の歴史は「前期」と「後期」にわかれて研究されてきました。つまり、いわゆる「摂関時代」と「院政時代」にわけて研究されてきました。そして、摂関時代は古代史の延長部分として、院政時代は中世史の序論部分として位置づけられ、そういう形で古代史と中世史の棲み分けが行われてきた訳です。

 今回の研究集会のテーマは「平安時代における中心と周縁」というテーマの下に開催されていますが、すくなくとも現状では、平安時代史研究自身が歴史学にとってはいわば周縁的な地位にあり、センターは本来の古代史と本来の中世史にあります。しかし、この約400年間にもわたる時代、平安時代が歴史学研究の上で周縁的な意味しかもたないというのは、私には容認できない考え方です。この時代はやはり一つの歴史的な時代として一貫して位置づけることが必要なのではないでしょうか。平安時代を「前期」「後期」に分断する従来の考え方は、無意識にこの時代が一つの歴史的な時代ではないという考え方を前提にしていると思います。そうではなく私たちは、いわば「平安時代史研究を自立」させなければならないのではないでしょうか。

3王権論の不在
 私は、数年前、岩波新書の『平安王朝』を執筆し、「平安時代史研究の自立」をめざした作業を開始しました*1。それを前提にして、今回の研究集会にそくして、いくつかの論点を提示してみたいと思います。まず第一には、平安時代の国家の中枢、とくに王権と天皇制をどう考えるかという問題です。従来の考え方では、平安時代前期の「摂関時代」は摂関家が権威を確立していく時代、「摂関政治の発達」の時代として描かれ、平安時代後期の「院政時代」は、徐々に源氏・平家などの「武士」の力が優越していく時代、「武家政治の発達」の時代として描かれます。これは王権論にとってどういうことを意味するかというと、天皇家・王権自身についての分析は、摂関政治と武家政治の発達なるものの影に隠れてしまい、ネガとしかとらえられないということです。そこでは王権自身は主語・サブジェクトとはならず、目的語、オブジェクト、あるいは修飾語、アドジェクティヴの地位におしこめられます。今回の集会の第一セッションで問題とされたように、王権の存立、肉体的な存在自身が「政略結婚」の対象であり、そこでは王権はロボットのように意志をもたず操作される客体、オブジェクトととらえられています。こういう政治的過程をジェンダーバイアスによって単純化してとらえてしまう考え方が、日本でも、フェミニズム的な歴史学によって強力な批判にさらされているのは、第一セッションの議論によってよく御わかりいただけたと思います。

 平安時代の天皇制の中には、たとえば桓武と弟の皇太子早良親王の争い、薬子の変と呼ばれた平城上皇と嵯峨天皇の間の争い、承和の変において皇太子恒貞親王を退位させた事件、菅原道真の配流事件にあらわれた宇多と醍醐の父子間の争い、冷泉天皇の狂気をきっかけとして冷泉系とその弟の円融天皇系に分裂した王家が争った問題、それを条件として藤原兼家やその子供の道長が大きな権力をもった問題、白河天皇とその弟の皇太子・実仁親王、輔仁親王との争い、崇徳と後白河の兄弟の争い、そして後白河と高倉の父子の争いなど、最初から最後まで激しい内部的な争いー男と男のはげしくみにくい争いが存在しました。桓武の弟の早良親王は死後、崇道天皇と贈り名されました。そして、後白河の兄の崇徳天皇の贈り名はこの崇道を意識していたのではないかというのが、私の想定です。崇道、崇徳の「崇」とは「崇拝する」「祟りをなすものをおそれる」という意味です。つまり、平安時代は王家内部の兄弟争いによって最初と最後を画されており、当時の人々もそれを自覚していたということになります。王権を中心として摂関家ほかの最高級貴族の全体を巻き込んだ紛争が通常の調停では不可能なほど激化し、結局、武力による決着が必然的なものとなる過程として、平安時代の政治史の全体的な流れと「院政」の登場を分析することが重要です。

 従来の考え方の中には、こういう王権内部の激しい争いを無視し、天皇を非政治的な存在、もっぱらネガでありオブジェクトであるかのように考える見方があったことは疑いをいれません。歴史学の問題としては、日本のアカデミズムの中に、天皇の政治的な役割を明瞭に論じることへのタブーともいうべき感情があったことは否定できません。そのおかげで平安時代の王権の実体的な研究はおおきく遅れていた訳です。『平安王朝』を執筆したとき、こんなことも研究されていなかったのかという問題が実にたくさんあるのをしって大変に驚いたことを思い出します。いわゆる批判派の側は、アカデミズムに対して相対的に寛容でしたし、むしろ理論的な研究あるいは社会経済史の研究で精一杯でしたから、まさかそんなことだとは思っていなかった訳です。

 こういう平安時代イメージが社会的なイデオロギーの反映であることも明らかであります。私は、いま、交順社というリタイアした財界人の談話会で、毎月一度、平安時代の歴史の話をしているのですが、平安時代の王権の内部的な矛盾こういう話をすると、「ようするに昔は、悪いことはすべて臣下の間の争いということだったのですよ」というのが感想でした。交順社というのは本来福沢諭吉が設立した結社ですからさすがに見方がリベラルで教えられることが多いのですが、私の話は戦前の皇国史観の教育のなかで語られた天皇のイメージに対する解毒剤になるようです。皇国史観は天皇を神とすることによって、王権をその肉体や具体的な歴史過程から切り離して神聖化・図式化・抽象化・単純化した訳ですが、これが天皇制に関する現在の日本社会のイメージの基本をいまだに拘束しているのです。そして、それは象徴天皇制という現代天皇制のあり方ともうまくマッチしています。つまり、天皇は権力ではなく、権威・象徴であって、それは平安時代の昔から変わらなかったという訳です。こういう立場からいうと、平安時代は、象徴にすぎない非政治的な王権が宮廷文化を花開かせた理想的な時代ということになり、そういうバイアスの下で美化されることになるのです。もちろん、皇国史観と象徴天皇制に特有な天皇制に対する感じ方は、本質的にはことなるものですが、王権の実態を抽象化・単純化するという上では同じ機能をもっているのです。

4「都市王権」
 しかし、学問的な議論をする上では、問題はさらにふかめられなければなりません。いま、天皇制の権力と権威という問題を申し上げました。天皇制を非政治的な権威とのみとらえることは正しくありません。そう考えてしまうと、実際には王権がしばしば強力な政治的主体であったことが忘れられてしまうのです。しかし、天皇制を単なる権力的支配の論理でとらえることもできません。平安時代の400年間、栄え続けたことによって、天皇制が強力な文化的権威をもち、日本の文化の基礎構造にしみ通っていることも事実なのです。

 これを考えるためには、平安時代の社会構造のなかで、王権と天皇制の位置をとらえ直すというさらに本格的な研究が必要になります。そして、私は、この問題が今回の研究集会のテーマである「中心と周縁」、その相互関係、交通関係という問題に直結していると思います。第一セッションでも、第二セッションのアドルフソン報告でも問題となったように、平安時代の国家と社会は都市と農村の間の統合的関係を維持し発展させていました。従来の考え方では、平安時代は律令制的な中央集権国家の構造が分解していく時代としてとらえられます。平安時代の前期は藤原氏が他の諸氏族を排除していく過程であり、国家が公家貴族のレヴェルで分解していき、後期には武士が公家貴族を圧倒し、さらに本格的に律令国家を分解していくという訳です。まず特定の構造があり、それが分解するという歴史観あるいは歴史の分析方法は、歴史意識としてはもっとも素朴かつ単純なものです。歴史の最初には、黄金の時代、理想的な時代、制度の整った時代があり、それがだんだんだめになっていく、下降していくというとらえ方は、ヨーロッパでも東アジアでも一般的であります。歴史学者も実際上はそれにとらえられいることは、たとえば日本の奈良・平安時代の歴史教科書などをみれば明らかです。都市と地方社会が権力的に一元的に統合されていた時代から、それがバラバラになっていく、私的に分解していく時代という訳です。私の指導教官であった戸田芳実氏は、こういう考え方を口をきわめて批判しました。それは、古代国家の解体史観であって、律令制がどう解体していったかの制度的過程は明らかにできるが、どのように社会構成が変化し、どのように新しい社会が形成されたかは結局明らかにできないという訳です。

 私は、実は、日本で、平安時代を封建制が形成される時代であるととらえ、社会の私的な諸関係への分解を中心において問題をとらえる場合にも、こういう解体史観が影響していたことは否定できないように思います。私は、そういう考え方から、一昨年の歴史学研究会大会で、日本の中世を封建制の時代ととらえる考え方とそろそろ決別すべきである。封建制は西ヨーロッパに固有な社会構成であって、日本は一度も封建制っであったことはないと主張しました。

 もちろん、私は、これまでの歴史学が展開してきた封建制、フューダリズムの議論自身がフュータイルであった、無駄であったというわけではありません。とくに黒田俊雄・戸田芳実の考え方は、封建制という用語は使用していますが、実際上、西ヨーロッパとは大きくことなる社会の構造を指摘していました。つまり、彼らの考え方によると、平安時代の支配階層をなした公家貴族と武家貴族(および宗教貴族)は、基本的には都市貴族として共通した性格をもって連合していたこと、そして、その頂点にはつねに王権と天皇制が存在していたということになります。平安時代の国家、王朝国家は王権を中心とし、中央都市・京都を中心として地方社会を支配し、統合していました。こういう社会における王権の国家的・社会的なあり方は「都市王権」という範疇によって表現するのが適当であるというのが、私の意見です。この「都市王権」の概念について、ここでくわしく論じることはできませんが、ようするに宮廷貴族・軍事貴族は、中央都市領域を固有の拠点として、そこにおける分業を支配し、都市近郊を領主的に支配するとともに、都市が地方社会に対してもっている規制力を自己の支配権力のなかに編成していたということになります。都市王権は、このような都市的な領有を代表しているのです。源氏物語には、都市の民衆生活のなかに「田舎の通い」つまり、地方への出稼ぎ、あるいは商業活動が含まれていたことを示す有名な一節がありますが、王権はそういう都市の民衆の活動をも含みこんで支配権力をつくりだしていたのです。

5ナショナリズムと千野香織さんの問題提起
 さて、本来は、都市王権・都市貴族に対応する地方エリート・地方貴族のあり方、そして都市貴族と地方貴族の関係という今回の研究集会にそくした議論を展開しなけれgばなりません。しかし、第一セッションに関するコメントでほとんどの時間を使ってしまい、すでに時間がありません。そこでたいへん申し訳なく思いますが、ここで、なぜ私たちが平安時代史を研究するのかという最初の問題にもどり、また第二・第三・第四・第五セッションで展開された宗教・文化・国際関係の議論についても若干ふれながら、私の話を終えるということで御許し願いたいと思います。

 実は、この問題については、本来は、私ではなく、今回の集会の企画に携わり、ご自身で報告の予定であった千野香織さんからの発言があるべきであったでしょう。彼女が、この場にいらっしゃらないのはきわめて残念です。千野さんは、この点で一つの方針をもっている方でしたから、平安時代史研究のインターディスシプリナリな、学際的な議論の発展のために必要な方であったことを実感します。彼女は、そもそもの何のために平安時代史研究をやるのかについても議論する必要を痛感されていたように思われます。彼女は、昨年12月19日、御死去のしばらく前に連続的な講演会を組織し、その第一回目に御自分で講演をされました。その講演記録が彼女が編者をしていた岩波書店の講座『近代日本の文化史』の四巻目の月報にのっております。彼女はそこで、「日本美術史」というものを物語る枠組み、そして日本美術史という学問の枠組み自身が、基本的なところで19世紀以来あまり変わっていないのと指摘しています。私も、彼女がいうのとほとんど同じ意味で、平安時代史の枠組みが、古くから変わっていないところがあるのではないかと感じているので、この点をとくに議論したかったと痛感しました。

 そして、この旧来の感じ方というのは、一言でいえば「日本美術史を国民意識をかきたてるように使う」、しかもその場合、西洋美術史それ自身を基準にもってきて、日本の芸術家もそれと同じように偉いのだと語るという種類のものであったといいます。平安時代の文化について、たとえば『源氏物語』は世界で最初の長編小説であって、その叙述方法はプルーストの『失われた時をもとめて』と共通するというような言い方が今でもされますが、それと同じものという訳です。こういう見方にかけているのは、日本の文化を実際に大きな相互的な影響をもった東アジア世界のなかでとらえるという観点です。そして、こう考えてみると、実は、第二セッションから第五セッションまでの議論は言語にせよ、宗教にせよ、文化にせよ、貿易にせよ、どれも、この日本と東アジアという問題に関係していること、その視野なしには議論できないものであったことに気がつきます。この点でも、今回の研究集会はきわめてよく組織されていたと思います。私は、いま、『黄金国家ーー東アジアと平安日本』という本を執筆しているのですが、ようするに、平安時代の宗教・文化を最初から日本に独自なものとみるのでなく、平安時代を通じて、相互関係のなかで形成されたものとみることが重要だと思います。

 もちろん、日本は東アジア世界とは違う国であるという見方はきわめて古いもので、それこそ平安時代から存在しました。たとえば「漢文」ではなく、「和歌」こそが日本文化を代表する。つまり「人の心のみならず鬼の心さえも動かすのは和歌である」という古今集序の言説は、平安時代そして中世を通じて繰り返されました。たとえば、史料の上で明瞭に天皇の万世一系の思想をのべた初めての史料である9世紀仁明天皇の四十歳のお祝いのセレモニーの史料には、同時に、古今集の序と同じ言葉が語られています。また中世、和歌の力によって「鬼」をおいはらう、そしてこの鬼にはしばしば異国の人々のことをイメージされていたという史料もあります。こういうきわめてナショナリステイックな思想と文化の観念が古くから存在し、それが現在も再生産されていることに私たちは注意しなければならないでしょう。

 少し、千野さんの文章から話しがずれましたが、こういう問題について意識的な研究を進めることは彼女の本意であろうと思います。そして、私は、彼女が、この講演で、昨年、ナショナリスティックな立場から執筆され、教科書の検定と採択を突破しようとして大きな話題となった扶桑社版の中学校歴史教科書に対して、強い批判を述べています。「奈良時代にはすぐれた仏師が登場した」「イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵する」というようなことを書く教科書叙述が、政界やメディアの強い支援をうけるという事態は、彼女に強い違和感を抱かせるものであった訳です。私たちの仕事はそれ自身として学問的な作業ですが、歴史学は、どの国でも同じことでしょうが、同時にこういう社会的な問題とつねにきりむすばざるをえません。私は、歴史学・宗教学・言語学・美術史などのインターディスシプリナリーな国際的な交流は、そういう問題に関する交流もふくみこんで展開してほしいと思います。

 とはいえ、いうまでもなく、その出発点は、あくまでも我々の仕事の対象に即したものでなければなりません。過去を過去として突き放して感覚すること、観察すること、分析すること、そのためには、歴史学の立場からいうと、理想的には、過去の痕跡を示す史料を細大漏らさずすべてを自分の視野におさめること、読解に専門的な知識が必要な宗教史の史料であるからといって、また普通の研究者には読みにくい漢文・漢詩・仏教史料・御経・聖教であるからといってそれを排除するのではなく、すべてを見ることの必要性を確認しておくことが必要です。そしてそのためにこそ、学際的な研究態度が必要になるのだと思います。

さいごに
 以上をふまえて最後に強調しておきたいことは、現代の学問、そして国際的な規模で展開される平安時代史研究は、そのために強力な道具をもっている、つまり発達したインターネットの技術とデータベースをもっているということです。実は、来週、6月21日・22日に、私の職場、東京大学史料編纂所で、COEのジャパンメモリープロジェクトの主催で研究集会「日本学研究と史料学の国際化」が開催されます。私は、このプロジェクトの最初からのメンバーで、責任者の一人として、日本史史料のデータベース化の仕事に取り組んできました。その立場から、今、史料編纂所のホームページからは、平安遺文・大日本古文書、貞信公記・小右記などの大日本古記録のフルテキスト、そして、最近では大日本史料の版面画像が公開されていることを御報告しておきたいと思います。また遅くとも、この秋にはいわゆる『史料稿本』、未刊行部分の『大日本史料』の原稿の画像が公開されます。今後、さらに本朝文粋などの文学史料もふくむ『国史大系』をフルテキスト化することを計画しています。ようするに、今後4・5年の間に、平安時代の歴史史料の相当部分がデータベース化されることは確実です。

 平安時代は、世界の同時代の歴史のなかでみても、宮廷社会から在地社会にいたるまで、明らかに例外的に文献史料に恵まれた時代です。それを国際的な共同のなかで共有し、共同的な研究を進めることはきわめて大きな意味があるでしょう。そういう方向にむけて今回の集会が大きなインパクトを与えることは疑いがありません。

東大寺大仏と新羅出兵計画  『 歴史地理教育』 673号2004-08)

東大寺大仏と新羅出兵計画ーー
歴史地理教育 / 歴史教育者協議会 編 673号2004-08)

 「戦後」の歴史教育において、奈良時代のイメージは、しばしば山上憶良の「貧窮問答歌」、そして反乱を起こして拷問をうけた橘奈良麻呂が語ったという「東大寺を造り、人民辛苦す」という言葉によって語られた。

 このような筋書きを歴史教育に最初に持ち込んだのはおそらく羽仁五郎であろう(羽仁「大化改新」、『羽仁五郎歴史論著作集』3、青木書店)。私は、羽仁の歴史学の意味を全否定するものでも、また羽仁の言説の根拠となった北山茂夫「奈良前期における負担体型の解体」(『歴史科学大系3』校倉書房)の研究史上の意義を否定するものでもない。しかし、「戦後歴史学」を考える場合、この種の羽仁の文章が学問的論文としての体をなしていないことは確認しておくべきだと思う。

 たしかに、はじめての本格的な統一国家として登場した律令制王国の下で、人々が新たなきびしい条件におかれたことは事実である。しかし、それは共同的な性格をもった社会から階級的社会が確立した社会への歴史の変化を、より理論的かつ具体的に論じるなかで自然に理解されるべき問題であるはずである。右の奈良麻呂の言葉をとくに取り出し、必然的に「人民辛苦」を東大寺大仏の歴史的評価の問題と関係させて議論するというのは、あまりに安直・狭隘な「人民史観」である。

 そして、現在からみると、何よりも問題なのは、その視野があまりに「自国史」の枠内に局限されていることである。私は、東大寺大仏の意味を考えるにあたっては、八世紀、二度にわたって高まった新羅出兵計画との関連をふまえなければならないと思う。これを八世紀政治史の最重要点として強調したのは、石母田正『日本の古代国家』であり、その指摘の鋭さはさすがに「戦後歴史学」の主流をになった歴史家にふさわしいものである。そして、この石母田の指摘は、さらに意識的に、同時代の安禄山の反乱をはじめとするユーラシア全体の歴史の理解のなかで生かされてねばならない。この点は、最後に若干ふれるとして、まず東大寺大仏の建立と新羅出兵計画の絡み合いの様子をみてみよう。

 新羅出兵計画は、旧高句麗地域において建国された渤海が、その勢力を拡大し、七二七年、日本に遣使し、自己が高句麗の跡をうける地位にあると称し、「親仁、援を結び、庶くは前経に叶わん」と、日本との同盟を申し入れたことがきっかけとなった。この使者を渤海まで送っていった遣渤海使・引田朝臣虫麻呂が、七三〇年(天平二)八月に帰国して渤海の現況を報告して以降、新羅侵略の議論が一挙に沸騰したのである。同年九月の大納言藤原武智麻呂の大宰帥兼任、十一月の畿内惣官職・諸道鎮撫使の設置、さらにその翌年七三二年(天平四)の諸道節度使の補任は、新羅に対する戦争体制の構築そのものである。その中心に藤原不比等の四人の子供、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂、いわゆる藤原四卿が位置していたのはいうまでもない。そして、同じ年、七三二年に渤海が山東半島登州を攻撃し、唐が新羅に援軍派遣を要求する。こうして、七三五年、新羅は唐から渤海と境を接する唄江以南の地の割譲をうけ、唐との連携を強化しつつ、渤海との戦争状態の前線に立った。

 この中で、七三六年(天平八)に発遣された日本の遣新羅使が、新羅の接遇を「常礼を失う」ものと咎めるという事件が発生した。帰国した彼らの報告をうけた朝廷は、翌七三七年(天平九)二月、主要な官人四十五人を内裏に招集し、意見を開陳させたが、その中には、使者を新羅に遣わして問詰するという意見のほかに、「兵を発し征伐を加えん」というものがあったという。石母田『日本の古代国家』は、この出兵路線を主唱した人物こそ藤原広嗣であったと推定している。こうして、夏四月、伊勢・大神・筑紫住吉・八幡・香椎の諸社に奉幣し「新羅无礼の状」を報知するという状況が展開したのである。

 しかし、奉幣の直後の夏四月から秋にかけて藤原不比等の四人の息子が疫病で全員死去するという事件が発生し、この対新羅戦争の動きは一頓挫することとなる。しかも、翌七三八年(天平一〇)には、長く空位であった皇太子に、阿倍内親王がつき(後の孝謙=称徳女帝、時に二〇歳)、橘諸兄が右大臣となった。これによって王権と廟堂の構成は大きく切り替わったのである。石母田が「諸兄政権の対新羅政策は消極的であるのが特徴」であるとするように、この時期、新羅出兵という衝動は確実に希薄になった。その中で、同年十二月に、広嗣は、大和守から大宰少弐に左遷される。そして孤立した広嗣が「時政の得失を指し」た上表を提出し、反乱に踏み切ったのは、七四〇年(天平一二)のことであった。

 私は、このような動きの背景として、東大寺大仏の造立に結果した聖武の宗教的諸事業の位置を無視できないと考える。まず注目すべきなのは、前述の対新羅政策が議題となった太政官論議の翌月、七三七年(天平九)三月、聖武が国毎に釈迦仏像を造り大般若を写せという命令を発布したことである。『続日本紀』をみれば、これ以降、宮中および諸国での読経・造塔、僧侶への布施などが連続し、聖武が宗教事業に熱中していく様子が明らかである。その中で、七四〇年(天平一二)二月、聖武が河内国の知識寺に詣でて廬遮那仏を見たことが大仏建立の祈願を導いた。結局、新羅出兵の雰囲気を希薄にさせたのは、聖武の宗教事業であったのであり、それにともなう人的・物的負担が、もう一つの国家事業としての新羅出兵の条件を掘りくずしたのである。

 もちろん、新羅出兵という軍事計画の頓挫の理由は、それ自身としては政治史の内部に理由をもとめねばならず、決定的であったのは、新羅出兵を主唱した広嗣の反乱にあった。とくに、聖武の宗教的行動のもう一つの起点が、七四〇年(天平一二)、広嗣の乱の真っ最中、伊勢神宮を「増飾」するために平城京を離れて伊勢に向かったことにあったことは重要であろう。この伊勢行が有名な聖武の「彷徨五年」といわれる遷都・造宮行動につながったのであるが、最近、仁藤智子『平安初期の王権と官僚制』(吉川弘文館、二〇〇〇)は、この東国行幸は、壬申の乱における天武勝利の「由緒」の道を歩み直し、支配の正統性を再確認しようとしたもの、一種の王自身によるデモンストレーションであったという説得的な見解を提出した。それを前提として、さらに、私は、この行動が聖武自身によって伊勢の「増飾」ー「天下神宮」に対する信仰の表出であると明言されていること、そして、この彷徨の最後に到着した紫香楽宮において「大仏建立」の詔が発せられたことに注目したい。「古代史」の研究状況は承知してないが、「廬遮那仏者、聖武皇帝勧進天下衆庶、祈請伊勢大神宮」(「東大寺八幡大菩薩験記」)と言い伝えられ、東大寺と伊勢をつなぐ神話的諸観念が繰り返し想起されたことは、東大寺史の問題としては著名な事実である(永村真『中世寺院史料論』吉川弘文館、二〇〇〇、三五頁)。

 聖武の彷徨は、天武の「由緒」をたどりながらの伊勢巡礼から大仏造立の適地を探り歩くというものであった。聖武は天武の東征神話の上に伊勢信仰と大仏信仰を積み上げ、王権中枢の矛盾を宗教的に救済しようとしたのである。その中で、王家の「氏寺」としての東大寺が完成するとともに王家の「氏神」としての伊勢神宮の地位も確立したというのが、さまざまな議論のある王家宗廟としての伊勢神宮の位置の確立についての私見である。そして、東大寺大仏が、陸奥黄金によって全身を塗金された姿を現したのは、七五二年(天平勝宝四)四月の大仏開眼会であった。そのメインイヴェントとなった五節舞が、天武天皇が吉野山中で幻視したという天女の舞を模したものであること、そのようなものとして『竹取物語』の原風景というべきものであったようするに、この経過のなかには、『続日本紀』には十分には記録されていない伊勢・吉野・大仏・黄金をつらぬく天武王統の神話が表現されているとみなければならないというのは、別に論じた通りである(保立「『竹取物語』と王権神話」『物語の中世』東京大学出版会、一九九八年)。

 この開眼会には新羅王子の金泰廉をトップとする総勢七〇〇余人からなる新羅の大規模な参詣使節団が参加した。これは東アジアの国際政治のなかで現実的な外交政策を追求せざるをえない立場にあった新羅が、日本との間に仏教的・宗教的な親和をはかろうとしたものであろう。そして、このような行動の背景には、新羅が大仏建立をみちびいた華厳宗の一大拠点であったことがあったにちがいない。しかし、日本国家はこの宗教的なメッセージをうけとめようとはしなかった。しかも、東大寺大仏の建造が新羅出兵計画の中断の重要な条件であったということは、その完成が日本と韓半島の関係にきなくさい雰囲気を呼び戻すことを意味したというのが東アジア政治史の実際であったのである。新羅の参詣使節の帰国と入れ替わるようにして、十余年ほど途絶えていた渤海使が来日し、長期間にわたって日本に滞在し、彼らは、唐・新羅に対抗するために、ふたたび日本との軍事的提携の確認を申し入れたのである。これが新たな二度目の新羅出兵計画のきっかけとなったのであり、そして、その中軸をになったのが、藤原武智麻呂の子供、仲麻呂であった。

 この後の詳しい経過については、行基の渡来人としての素性の問題をふくめて、拙著『黄金国家ー東アジアと平安日本』(青木書店、二〇〇四)の第一章「奈良時代の東アジアと渡来人」を御参照願いたいが、この二度目の新羅出兵計画も、出兵の直前までいきながら、幸いにして、頓挫することになった。そこでは、第一次の新羅出兵計画の破綻における広嗣の反乱と同様、政治史自身の問題としては、王権内部の闘争の中で、淳仁天皇、「偽王」塩焼王と仲麻呂が反乱を起こし、自滅したことが決定的な意味をもっていたことはいうまでもない。しかし、私は、その条件として、やはり日本の朝廷における仏教信仰ととそれにともなう諸事業の進展、そして孝謙=称徳女帝の個性があったと考えるべきであると思う。

 こういう私見には、「このままだと生徒の中には、聖武天皇が聖人君主であったというイメージだけが残ってしまう」という批判(松原直樹「大仏はなぜつくられたのか」『歴史地理教育』二〇〇二年一〇月号)があるかもしれない。しかし、王権論は王権論自身の問題として考究すべきではないだろうか。私見によれば、奈良時代政治史を最初から最後までつらぬいていたのは、天武王統の中でも、天智天皇の血をうけた近親婚の血統、草壁・文武・聖武にのみ王位継承権をあたえようというの強迫観念(オブセッション)である。その中で、天武系王統は、男子がほぼ皆殺しになるという異様な運命をたどり、それが平安時代への移行の政治史の実態であったことを基軸としておさえておくことと、東大寺大仏とそこに籠められた文化的・宗教的価値をふまえることは別個の問題であるはずである。

 そして、この王権論は東アジアにおける比較王権論として議論されなければならない。これについては、二〇〇〇年の歴史学研究会大会で「君が代」問題を中心として試論を提出したが(「現代歴史学と『国民文化』」、保立『歴史学をみつめ直すー封建制概念の放棄』校倉書房、二〇〇四年、所収)、本稿でとくに確認しておきたいのは、新羅出兵計画の発端と頓挫の経過を国民的常識にすることによって、「ユーラシアの中での奈良時代」という歴史像を作り出すことの決定的な意味である。つまり、第二次の新羅出兵計画の最大の前提は、渤海と日本の国家が、七五五年の安禄山の反乱の発生を新羅攻撃の好機と判断したことにあった。そして、そもそも安禄山の反乱は、ユーラシア全域の歴史を前提としてはじめて理解できるものであったのである。つまり、安禄山は、はるか西域、粟特(ソグディアナ)の民族の出自をもつ人物であった。周知のように、ソグド商人たちは三・四世紀以降、ユーラシアの東西交易の世界で大きな位置をもっており、安禄山は、彼らが唐帝国の版図内に同族集落に出自している。それ故に、客観的にみるならば、安禄山の反乱は、七五一年(天平勝宝三)のタラス川の会戦において、ソグディアナ諸国と大食(アラブ)の連合軍が唐帝国を破ったというユーラシアの激動の中で位置づけるべき動きなのである。そして、このタラス川の会戦が、唐帝国のユーラシア中枢部から撤退とイスラム・アラブ圏の台頭、そして結局、イスラムが世界史の中心の位置を占めることによって、長きにわたったソグド商人の東アジアでの活動の終了をもたらしたものであったことはよく知られた事実である。

 当時の日本の王権がまったく関知しなかったことであるが、この時代はこのような脈絡の下で位置づけられるべき時代である。その中においてみると、東大寺大仏は、イスラムの台頭直前に、仏教の世界が、東は日本、南は東南アジアからインドネシアのボルブドール、さらに西南は遠くインド洋上のモルディブ諸島にまで拡大していく世界史的局面の表現とみなければならない。

2018年11月13日 (火)

今書いている本『倭国神話論の刷新 タカミムスヒとカミムスヒ』の「はじめに」

 いま書いている本の「はじめに」ができましたので、アップしておきます。
 完全にこのままになるかどうかは分かりませんが、私は本の執筆のある段階で「はじめに」を書かないと続きが賭けない方なので、書きました。これが書けたということで順調に進むことを予期しています。

『倭国神話論の刷新 火山と竈の至高神、タカミムスヒとカミムスヒ』

はじめにー忘れられた神

神話の至高神は天照大神か

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(『日本書紀』神代、第九段、第一の一書)

現代語訳「葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう」

 これは『日本書紀』の「天孫降臨」条(第一の一書)に伝えられた、女神天照大神(アマテラス)の発したいわゆる天壌無窮の神勅である。アマテラスが、その孫の天津彦彦瓊々杵尊(ニニギ)が下界に下るにあたって与えた神勅であって、この神勅をうけてアマテラスの子孫、ニニギの子孫として天皇家が万世一系の王統を維持し、「葦原の千五百秋の瑞穂の国」(日本)を統治するという訳である。

 現在、「天上無窮の神勅」といっても、すでにほとんどの人が読んだことはないだろうが、第二次大戦が終了するまでは、これはたいへん有名な文章で、これを聞いたことがない人はいなかった。たとえば一九三七年、日中戦争が始まる三ヶ月ほど前、文部省思想局が発行した『国体の本義』は、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給うこれ、我が万古不易の国体である」と始めている。傍点部の「天皇皇祖の神勅」が右の「天壌無窮の神勅」であった。『国体の本義』は続けて、「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明する。続いて『国体の本義』は伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の男女の神による国土造成神話を説明した後、この二神が「先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、さらにこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた」としている。

 続いて、一九四一年に同じく文部省の教学局の公定した『臣民の道』はアメリカに対する宣戦布告の五ヶ月前にあたる。そこでは『国体の本義』よりもさらに明瞭に日本の「国体」は天照大神の子孫としての現人神である天皇が国家を統治することにあることが述べられている。「国体は我が国永遠不易の大本であって、天壌と共に極まるところがない皇祖天照大神は皇孫瓊々杵ノ尊を大八洲に降臨せしめられ、神勅を下し給う」「歴代の天皇は天照大神の御心を以つて御心とし、大神と御一体とならせ給い、現人神として下万民を統べしらし給う」というのである。

 またこの『臣民の道』はとくに「臣民」の忠義を強調する。一部引用すると、「我らの祖先は大方は名もなき民として、日に夜に皇国の富強に努めその繁栄に竭くし、忠良なる臣民としての生涯を送ってきたのである」「臣民の道は、皇孫降臨の際奉仕せられた神々の精神をそのままに、億兆心を一にして天皇にまつろひ奉るにある」「神勅を下し給ふて君臣の大義を定め、民の生くべき道を示され、(中略)臣民を赤子として愛撫せられた」「君臣の間に於いて現はれた最も根源的なものが忠であり、(中略)而して天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。神と君、君と臣とはまさに一体である」などとある。天皇と臣民の関係は、神と人間の関係、神とそこに一体化すべき臣下、民の関係であるというのである。このような君臣関係の捉え方は、すでに『国体の本義』にもあって、そこには「身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの」、「上に立つものー下に働くもの、それら各々が分を守ることによって集団の和は得られ」、その上に立って「君臣相和」などとあった。しかし『臣民の道』において、「民・臣下」の忠義の道がさらに強調されるようになっていることは明らかである。

 ここにあるのは、アマテラスが「天壌無窮の神勅」によって現人神たる天皇に国家を統治する権限をあたえたという神話である。その観点からいえば、アマテラスが神話の「至高神」であるということは疑えないことであろう。実際、後にもふれるように『古事記』にも『日本書紀』にもアマテラスを「至高神」として扱う記事はいくつも存在する。またこれが現在の日本でも一つの常識的なものであることはいうまでもない。

 このような歴史観、つまり「国体」の本質は臣民は天皇に対して敬神愛国の精神をもって奉仕することにあり、それによって「国史」は貫かれているという歴史観を、普通、皇国史観という。『国体の本義』と『臣民の道』の二つの文書は、この史観を国定の歴史の見方としたものである。それと対比するため、次に終戦の年の翌年一月に発せられた昭和天皇の詔書、いわゆる「人間宣言」の要点を引用してみよう。

「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」

 ここにいう<天皇は現御神であり、日本民族は他民族に優越する世界支配の運命をもっている>という「架空ナル観念」というものが、以上にみてきた『国体の本義』や『臣民の道』によって展開されたものであることはいうまでもない。現在になってみれば、この思想が有効でないのは自然なことである。

 しかし、本書は、この皇国史観それ自体に立ち入って論ずることは課題としていない。私が問題としたいのは、その前提となっている神話の理解そのものであり、とくに倭国神話の中には天照大神ではない神話の至高神がたしかに存在したという事実そのものである。

 つまり、『古事記』の冒頭には、次のように「天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」の三神が登場する。

「天地初めて発りし時、高天原に成りませる神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」
現代語訳。天地が始めて発生したとき、高天原に成った神の名は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神であった。この三柱の神は、みな独神と成られて、身を隠しされた)

 これによれば、天地の生成のとき、まず(1)アマノミナカヌシ(天御中主)という神、そして(2)タカミムスヒ(高御産巣日)という神、そしてタカミムスヒのペアのようにして(3)カミムスヒ(神産巣日)という神が登場したというのである。これらの神々は『古事記』序文でも天地が形成される前の混沌から初めて発生して「造化の首」(創造の最初)となったとされている。この順序からいけば、アマノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの、いわゆる「造化三神」こそが神話の「至高神」というにふさわしいものではないか。

 それに対してアマテラスはもっと後に登場する。つまり、『古事記』によれば、この造化三神の次ぎには、(4)宇摩志阿斯訶備比古遲(ウマシアシカビヒコヂ)神、(5)天之常立(アメノトコタチ)神が登場し(以上を「別天神」という)、さらに(6)国之常立(クニノトコタチ)神、(7)豊雲野(トヨクモノ)神の二神がきて、次ぎに五組のペアの神がくる。(8)宇比地邇(ウヒヂニ)神、(9)妹須比智邇(イモスヒヂニ)神、(10)角杙(ツノグイ)神、(11)妹活杙(イモイクグイ)神、(12)意富斗能地(オホトノヂ)神、(13)妹大斗乃辨(イモオオトノベ)神、(14)淤母陀流(オモダル)神、(15)妹阿夜訶志古泥(イモアヤカシコネ)神、(16)伊邪那岐(イザナキ)神、(17)妹伊邪那美(イモイザナミ)神である(以上を「神世七代」という)。この部分は全体で「別天神」五柱、「神世七代」一二柱、総計一七柱となるが、文字数にすると決して多いものではなく、神名を並べただけで、その神名の意味も全体の文脈も解釈が定まっていない。そして、最後にイザナキ・イザナミの男女の神がきて、彼らが「天の浮橋」に立って「天の沼矛」でどろどろした海をかき回してオノゴロ島という島を作り、その上に天から降り立って性交して国土や神々を産んだという。その物語がイザナミの死とイザナキの地獄巡り、そして天照大神・月読命・須佐之男命の三貴神の誕生と続くことはよく知られているだろう。

 たしかにアマテラスは「天壌無窮の神勅」によって天皇に国土の統治権をあたえたという点では「至高神」であるといえるかもしれない。しかし、アマテラスは、この長い神々の系図、神統譜の最後に登場するのであって、その側面からすると、神々の世界の中で至高神といえるかどうかは問題があるだろう。これは至高神といっても、その神がどのような意味で至高神であるかは厳密に考えなければならないということを意味する。そもそも、造化三神といわれるアマノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒの三神はどういう神であって、その神とアマテラスはいったいどういう関係なのかを説明することなしに、ただアマテラスを至上神であるといっても、神話とその物語の理解としてはほとんど意味がないことになるだろう。

 しかも問題なのは、実は「造化三神」こそ「至高神」であるという主張が古くから存在したことである。しかもそれは古く一二世紀以降に発達した伊勢神道で確認できる。伊勢神宮とは外宮を中心に展開したものであるが、そこでは神話の至高神はトップに登場するアマノミナカヌシであるという意見が強力に主張された。そしてそれを受け継いだ足利時代の吉田神道においても、徳川時代の垂加神道においても同じような主張は繰り返されている。

 またなによりも徳川時代の「国学」の大成者、本居宣長はタカミムスヒこそが神話の「至高神」であるとした。本書で詳しくみていくように、『古事記』でも『日本書紀』でもタカミムスヒはいかにも「至高神」らしい姿と行動をみせており、この宣長の学説は、二三〇年ほどが経った今でも、実は学界では通説というべき位置をもっているのである。

 奇妙なのは、それにも関わらず、現在の日本では倭国神話の「至高神」というともっぱら天照大神であるということになっていることである。他方、アマノミナカヌシやタカミムスヒなどの神が、現在の日本ではほとんど知られていない。神道について相当に深い信仰をもつか、あるいは神話に専門的な興味をもっている人々以外、ほとんどの人は、この神の名前を知らないのではないだろうか。アマノミナカヌシとタカミムスヒの両方の名前を知っている人は、日本の国籍をもつ人のうち一〇〇人に一人もいないのではないだろうか。

 神話の至高神がどのような神であるかというのは神話を世界観として考える上では決定的な問題である。もちろん、ある民族の神話において至高神と考えることができる神が二人、または複数いるということはありうることであるが、その場合は、その複数の至高神の関係、つまり、ここでいえばアマノミナカヌシ・タカミムスヒとアマテラスの関係はどのようなものであるかというのは大問題になるはずである。ところが、日本社会で神話について語られる場合でも、これはまったく問題にならない。それどころかアマノミナカヌシ・タカミムスヒという神の名前さえも知られていないのである。

 これはあまりに偏頗な状態であるといわざるをえない。世界各国では考えられない事態である。ヨーロッパでは一七世紀以降、ゲルマンやケルトなどの民族的な神話についての研究が進み、それはいわゆる国民国家の形成のなかで大きな位置をもった。これと同様に、日本でも早く一八世紀の「国学」において本格的な神話研究が始まったのは学術の歴史として誇るべきことであるが、しかし、もっとも肝心の神話の至上神の名前さえも多くの人びとが知られていない。日本の民族的な神話、というよりも「日本」という国号ができる前、九州から近畿地方を舞台に語られ、日本の国家形成の重要な条件となった神話についての本居宣長以来の研究はほとんど社会の中に知られておらず、神話の至高神の名前さえ十分には知られていないのである。

 日本では人文諸科学の学者の常識と国民の知識の間に大きなギャップがあるということはよく言われることであるが、これはその中でももっとも大きなギャップというべきであろう。もとより、このようになった事情は、この国の近代の歴史が辿った蹉跌多い歴史に原因があったといえるだろう。つまり、日本では明治国家がアマテラス信仰を国定化し、第二次大戦中に、それが戦争の中で鼓舞された。これが、いわば「羹にこりて膾を吹く」というべき事態をもたらし、神話を一種のタブーとし、それについての知識を曖昧なものとし、結果として、伝統文化のなかでの神話の位置を大きく下げる結果をもたらしたことは否定できない。

 しかし、このような奇妙な事態の責任を歴史の経過のみに求めることが許されるのであろうか。つまり『国体の本義』のイデオロギーによって遂行された戦争が無惨な結果を日本と東アジアにもたらしてから、すでに七〇年余になる。また本居宣長によって神話の本格的な学術的研究が開始されてから数えれば二三〇年以上の時間が経過しているのである。それにも関わらず、神話学・歴史学の常識が日本社会に知られていないのは、やはり神話学・歴史学の側にも相当の責任があるというべきなのではないだろうか。

 この責任を果たし、新しく分かりやすい形で伝統的な神話の実像を説明し、それによって、一時はほとんどの日本人が信じていた<天皇は現御神であり、日本民族は他民族に優越する世界支配の運命をもっている>という「観念」が、どのような意味で「架空」であるかを説明すること。それによってこそ、『国体の本義』『臣民の道』の影響の下で人生を送った様々な人々の経験を追体験し、記憶し、再出発することが、本当の意味で可能になるのではないだろうか。それを終えなければ「日本人」にとって、あの戦争は終わったことにはならないのではないか。

2018年11月10日 (土)

戦争中の『国体の本義』が国学の祖、本居の学説を半ば無視していたことについて、また『老子』を個人主義と否定していたことについて。

戦争中の『国体の本義』が国学の祖、本居の学説を半ば無視していたことについて、また『老子』を個人主義と否定していたことについて。

「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾、皇孫、就でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」
(『日本書紀』神代、第九段、第一の一書)

現代語訳「葦原の広がる豊かな水の国は、私の子孫が王となるべき地である。お前は、皇孫として、そこに降っていって治めよ。祝福されて行け。天の後継者が隆盛することは、天地が窮まることがないのと同じであろう」

 これは『日本書紀』の「天孫降臨」条(第一の一書)に伝えられた、女神アマテラス(天照大神)の発したいわゆる天壌無窮の神勅である。現在、「天上無窮の神勅」といっても、すでにほとんどの人が読んだことはないだろうが、第二次大戦が終了するまでは、これはたいへん有名な文章で、これを聞いたことがないひとはいなかった。

 たとえば一九三七年、日中戦争が始まる三ヶ月ほど前、文部省思想局が発行した『国体の本義』は、その冒頭「第一 大日本国体 一肇国」を「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給うこれ、我が万古不易の国体である」と始めている。傍点部の「天皇皇祖の神勅」が右の「天壌無窮の神勅」であった。『国体の本義』は続けて、「而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我らは先ず我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ」と説明する。続いて『国体の本義』は伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の男女の神による国土造成神話を説明した後、この二神が「先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、さらにこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた」としている。天照大神が「至高神」であるというのである。

 一九四一年に同じく文部省の教学局の公定した『臣民の道』は「国体は我が国永遠不易の大本であって、天壌と共に極まるところがない皇祖天照大神は皇孫瓊々杵ノ尊を大八洲に降臨せしめられ、神勅を下し給う」「歴代の天皇は天照大神の御心を以つて御心とし、大神と御一体とならせ給い、現人神として下万民を統べしらし給う」と、さらに詳しく説明している。こういう状況の中で、国民はこの「天壌無窮の神勅」をなかば暗記していたのである。

 さて、こういう「天壌無窮の神勅」歴史観を、普通、皇国史観というが、この皇国史観それ自体の評価は別として、問題としたいのは、皇国史観の支えとなっていた、天照大神が「至高神」であるという考え方である。

 もちろん、残念ながら、現在の日本でも倭国神話の「至高神」は天照大神であるという考え方が、いまでも一つの常識である。しかし、これは厳密にいえば誤った常識であって、倭国神話の至高神がタカミムスヒという神であることは、有名な徳川時代の「国学」の完成者、本居宣長自身が明らかにしていたことであり、また本居の弟子をもって自認し、皇国史観の元祖のようにいわれる平田篤胤も、タカミムスヒが本来の至高神であることは当然のこととしていたのである。現在の神話研究でも、それが引き継がれていることはいうまでもない。

 さて、現代の日本では倭国神話の神といえばもっぱらアマテラスとなっていて、タカミムスヒは、その名前さえもほとんど忘却されているというのは、本居宣長の努力をほとんど無にするに等しいことであることは強調しておきたいと思う。このようなことになっているのは、いうまでもなく、第二次大戦の下で、『国体の本義』のような道徳書が徹底的に普及されたために、あらためて日本神話の至上神といえばもっぱらアマテラスということになったためである。またこういう経過を含む第二次世界大戦の敗戦によって人々は「神話」そのものに疑いの目をもつようになったことも否定できない。本居宣長の国学は、明治時代の国家の国家思想を作る上で決定的な役割を果たしたのであるが、そこに生み出された政治は本居宣長の国学の教説の根本を伝えることに失敗したということになるだろう。

 この問題は、結局、本居にいたる日本の神道学説をどう考え、以降の神道学説をどう考え、それといわゆる国家神道の関係をどう考えるかに関係してくる。

 なお、私は二年ほど前から神話論の研究を始めたのですが、そのとき、まず日本神話の基礎になっている老荘思想を知っておかねばと云うことで『老子』を読み、本居が、神道が老荘思想に近いといっていることが事実であると確認しました。こうして、結局、『現代語訳 老子』(ちくま新書)という本まで書くことになったのですが、他方、『国体の本義』も読まねばということで、詳細に読む作業をつづけてきました。驚いたのは、両者がクロスしてきたことで、『国体の本義』が日本の思想の基調をなした諸思想のうち、儒教と仏教を誉めあげながら『老子』の思想は「歴史的基礎のない個人主義におちいった」としていることでした。『国体の本義』は本居の研究成果を無視すると、同時に老荘思想を批判し、拒否していたということになります。『国体の本義』の主張の要点は、ようするに日本社会に存在していた「個人主義」のすべてを否定するということだったのですが、その個人主義を支えていた伝統思想は老荘思想であった訳ですから、狙いはきわめて正確であったということになると思います。これが驚きでした。

2018年11月 4日 (日)

講演の予告、内容概略「最初に譲位した天皇、斉明女帝と大己貴(大国主)信仰」

12月1日(午後二時より)に近江の野洲市歴史民俗博物館で「最初に譲位した天皇、斉明女帝と大己貴(大国主)信仰ーー天皇と地震と近江」という講演をします。

 以下が予告の内容です。

 7世紀初期ごろまで天皇は40歳前後で即位して、終身、天皇の座にありましたが、乙巳の変を機に、譲位という天皇の行動の仕方を作ったのが皇極女帝(重祚して斉明女帝)です。女帝は弟の孝徳を天皇とし、自分は「皇祖母尊」(スメミオヤノミコト)の地位につきました。これは、実際上、後の太上天皇にあたるものです。

 女帝は継体王統の正統を継ぐ位置にありました。近江は継体王統の最大の根拠地であり、皇極女帝も近江と深い縁をもっていました。

 孝徳天皇の崩御後に、重祚(再び天皇に即位すること)した斉明女帝は、斉明五年(659)に吉野に行幸し、同地から近江の平浦宮に行幸しました。吉野には畿内の神々のうちで最高の神位をもつ大名持神社(おおなもちじんじゃ)があり、そして平浦宮の北には日吉神社の神体山である牛尾山があります。この二つの甘南備型の山には地震の神が宿っているとされています。

 講演では、女帝が、この行幸に籠めた意図についてお話しいただきますが、近江における大国主(おおなもち)信仰の話しにもなりますので、記念すべき兵主神社の展覧会にもふさわしいものと考えています。

«聖徳太子の憲法17条の「和を以て尊となす」は民主主義か