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2016年9月17日 (土)

日本史の時代名と時代区分

保立道久

 私は、3・11の後、地震史研究の必要を痛感し、急遽、8・9世紀の地震と火山噴火を調べ、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)という本を書いた。その中で、この時代の政治史には地震や噴火が深く影響しており、その意味でも「大地動乱の時代」といってよいことを確認した。

 そのなかで、いわゆる「薬子の変」についても言及したが、事件名は「平城上皇奈良復都事件」とした。「薬子の変」というのは「薬子=悪」という決めつけが目立ちすぎるし、「変」という言葉自体に「秩序=善」という価値観が含まれている。また、春名宏昭がいうように、この場合は上皇・平城に対して弟で王位を譲られた嵯峨が反逆し、いわば王自身がクーデターに踏み切ったという事件(春名『平城天皇』吉川弘文館)であるからさらに「変」という用語は使いにくいのである。

 もちろん、歴史教育の現場ではむずかしい問題が発生するだろう。たとえば私は春名の意見が正しいと思うが、普通は、クーデターを起こしたのは平城上皇の側であるとされる。また、本来、この事件の真相を伝えるためには相当の背景説明が必要である。つまり、桓武天皇は多数の男子のなかから平城・嵯峨・淳和の三人の男子を選び、彼らに姉妹(桓武の娘)をあてがって近親婚を組織し、それを三人の王子の王位継承資格の象徴とした。そして桓武は、末っ子の淳和の妻・高志内親王が兄弟の姉妹妻のなかではただ一人妊娠し、初孫の男児を生んだことを喜んで、死の直前にこの男子を「正嗣」と定めたのである(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館)。

 右の新書では、ここに根を置いて平城と淳和の関係が悪化するなかで高志内親王が重病におちいり死去したという経過が、平城が自分の息子を皇太子とし、王統を自己の許に止めようとしたことの伏線となったと論じた。そういう理解からすると、この事件の関係人物としては薬子よりも高志内親王の方が重要であって、この事件を「薬子の変」というのはどうみてもおかしいということになる。

 問題はこのような桓武の実態は、ほとんど知られていないことである。それは日本の支配的な社会意識のなかで、王家内部の争いが一種のタブーのようになっているためである。タブーを破るのは学問の責任であるが、現状では研究も歴史叙述も少なすぎる。そういう状況のなかでは、歴史教育の側が慎重になるのは当然である。しかも、こういう種類の問題は歴史学の教育と研究の間にきわめて多数存在する。

 これをどこから議論していくかであるが、私は、そもそも歴史知識の用語法、ターミノロジーの問題にさかのぼって問題の全貌を考えることが意外と早道でないかと思う。上でふれたこととの関係では、たとえば、事件の名称として「薬子の変」といいつづけるか、「平城上皇奈良復都事件」を採用するかという問題である。それは「承和の変」「承平天慶の乱」「安和の変」「保元の乱」「平治の乱」「治承寿永の乱」「承久の乱」などなどの事件名の固有名詞は適当かという問題にすぐに連なっていく。これらの固有名詞において元号は何も意味せず、ただ覚えれば何か分かった気がするという錯覚しかあたえない。これは、「承和の変」は恒貞廃太子事件、「承平天慶の乱」は将門・純友の反乱、「安和の変」はいわば冷泉天皇躁鬱代替紛争、「保元の乱」は崇徳上皇クーデター事件、「平治の乱」は『平家物語』の説明をそのままとって二条天皇二代后紛争とでもいった方が内容的な理解には近くなる(これらについては保立『平安王朝』や『義経の登場』NHK出版を御参照願いたい)。そして「治承・寿永の乱」は源平合戦、「承久の乱」は後鳥羽上皇クーデター事件でよいだろう。

 歴史教育を「暗記物」から解き放つためには、このくらいのことは考えた方がよいのでないか。でてくる人名は多くなるが、元号はどうしても現状の常識として必要なものに限ることにすれば、固有名詞の記憶負荷は全体としては減少するだろう。私たちの歴史学は、いまだに教科書に登場する固有名詞について必要な吟味もしていない原初段階にあるということは自覚しておいた方がよいと思う。

 これは歴史学と社会という知識社会学的な問題の全般に関わってくるから、検討すべき事は多いが、ここでは、以下、前近代の「時代名」について論じてみることにしたい。若干、話しが飛ぶことにはなるが、おそらくこの問題が、歴史教育においてもっとも影響が大きいように思うからである。

 さて、時代名としてもっとも普通で教科書などでも使われているのは、「古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」という時代名であろうか。私はこれらはきわめて問題が多いと思う。おそらく学術的にいって問題がないのは、古墳時代くらいではないだろうか。そこで、容易に賛同をえられないであろうことは分かっているが、それらとはまったく異なったコンセプトで、「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という用語を提案してみたいと思う。

 以下、順次に説明すると、まず古墳時代は、普通、3世紀終末あるいは4世紀初頭から始まるとされているが、3世紀初頭から6世紀までとするのが分かりやすい。つまり寺沢薫のいう「纏向型」前方後円墳(寺沢『王権誕生』講談社)が造営される時代、200年代前葉を古墳時代の開始としたい。それは纏向近辺の古墳群の時代であって、箸墓古墳に葬られたのが誰であれ、卑弥呼の擁立期に重なり、4世紀半ばまで続く時代である。その意味で古墳時代の第一期は卑弥呼期である。そして古墳時代は大和の北に墳墓がうつる佐紀王朝期を挟んで広い意での河内王朝期(5~6世紀)までとなる。河内王朝論には文献史学では異論が多いが、私は考古学の白石太一郎『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎)分社古墳とヤマト政権』(文春新書)を援用して、河内王朝論を維持することが可能だと考えている。なお前方後円墳という用語は幕末の蒲生君平が案出した言葉で、ただの形式的な符丁にすぎない。その形状は山尾幸久氏が判定しているように(『古代王権の原像』学生社)、「壺型」と理解するのが正解で、纏向型はいわば短頸壺、箸墓型は長頸壺ということになる。神仙思想において、壺は天との交通を可能にする媒体であって、その意味では前方後円墳は火山神話を表現しているのである(「日本の国の形と地震史・火山史」『震災学』7号)。その意味では古墳時代は神話時代といってもよい。

 次の大和時代という用語は、だいたい7世紀から8世紀まで、いわゆる飛鳥時代と奈良時代をあわせた時代をいう。ヤマト王権を4世紀前半から7世紀後半までとするのが一種の通説であるが(たとえば吉村武彦『ヤマト王権』岩波新書)。卑弥呼「共立」期の大和から7世紀を系譜的につなげるのは大和中心史観であって、「万世一系の天皇」というイメージを支えるものであると考えている。7世紀こそ、6世紀末に前方後円墳の築造が終了し、西国を中心とする部族連合国家(「西国国家」)が文明化の道を歩み出し、上宮王家や舒明王統が大和を直接掌握する時代であって、大和が西国国家の機構的な中心として位置づけられる時代であると考える。河内王朝からの過渡期をどう考えるかはむずかしいが、7世紀はおおざっぱにいって舒明(在位は629~641)、その妻皇極(642年踐祚。655年に重祚して斉明)の王統が安定した時代であって、その二人の息子天智(在位661~671)・天武(在位672~689)の時代が続く。そこでは皇極=斉明の位置は大きく、この時代はいわば天智がそのマザーコンプレクスを解消すると同時に兄弟喧嘩の種をまく母子王朝の時代と考えている(その趣旨の一部は「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』18号、中部大学編で書いた)。それは天武・大友の近江戦争(壬申の乱)を引き起こし、8世紀の「奈良王朝」も激しい王家内紛が続く。その内紛は天武と持統(天智の娘)の血を引く嫡系王子(つまり天武の血と持統を通じた天智の血をひく王子)にのみ王位を継がせ、他を排除したことに根ざしたものである。

 「飛鳥時代→奈良時代」という図式は、この時代の連続性を分断してしまう。とくに一〇〇年にたらぬ平城京の時期を「奈良時代」と称して独立させるのは「古代」に特権的な位置をあたえる手垢のついた日本史イデオロギーの表現であって賛成できない。

 次の山城時代は天武王統の自壊の後、桓武の長岡京遷都に始まる時代であって、それはすぐに「平安遷都」に連続する。時代呼称としては長岡京遷都以降を「山城時代」とした方がすっきりする。王朝名は「山城王朝」であろう。私は、この時代の国家形態を都市王権と呼んでいるが(保立『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房)、そこでいう「都市域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。そもそも平安時代という用語は実態を示さず無意味な用語である。この時代の第一期は怨霊期、九世紀から10世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まる王権内部の激しい対立に特徴づけられる時期である。先に触れた高志内親王も、結局、夫の淳和を恨んで怨霊となって、その治世期の827~828年に京都を襲って激しい群発地震を引き起こしたとされている。『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、この時期は王権の内紛と地震が続いて騒然とした時代であり、高志内親王は、その意味でも重要な人物であったことになる。

 その次ぎの山城時代第2期は10世紀後半から11世紀の冷泉・円融の兄弟の王統の迭立期である。道長は、その両統に娘を配置することによって王統を合流させる役割を負ったのであって変な過大評価はやめたい。後三条天皇はそれを前提として、両統を統一したのであって、これが山城時代の第三期、院政期の開始である。それまでの王家内紛が兄弟間の内紛であったのと対比して、院政期の内紛は親子間の対立(後三条―白川、白川―鳥羽―崇徳、後白川―高倉など)となった関係できわめて激しいものとなり、そのなかで国家の本格的な軍事化が進展した(保立前掲『平安王朝』なお前述のことからいってこれは機会があれば『山城王朝』として書き直したいものである)。清盛・頼朝が、この国家の軍事化を推進したのが山城時代の第四期であって、1180年代の源平合戦から後鳥羽クーデタまで。ここで山城時代は終わる。なお、院政期から後鳥羽クーデタまでを一連の時期と捉えるのは石井進「院政時代」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』2)の考え方である。山城時代が400年以上にわたる長い時代となるのが扱いにくいが、それは「平安時代」でも同じであろう。

 なお大和・山城の二つの時代については、王家の内紛をきちんと伝えないと生き生きとした理解はできない。たとえばヨーロッパや中国などでは、歴史知識のなかに、王家の内紛や交替あるいはいわばハムレット的な問題がかならず位置づけられている。それが歴史教育の中に位置づけられないことこそ異様な風景であって、そこには無意識に「万世一系」の論理が貫徹しているというほかない。

 なお、時代区分は政治史を中心にするべきだが、もちろん、それだけでよいというのではない。いわゆる社会構成史的な観点が歴史学にとって必須であり、その基本線においては「戦後派歴史学」の業績がいまだに重要であるというのが私などの考え方である。それについては拙著『日本史学』(人文書院)の第5部「研究基礎:歴史理論」を御参照願いたいが、現在の私見では、8世紀から13世紀初頭(後鳥羽クーデタまで)を王朝国家、それ以降を武臣国家と規定している。王朝国家は邪馬台国以来の「西国国家」の性格をもっているが、その末期の軍事化と内戦が強力な武装地域権力を各地に生み出した。これは一種の地域ブロック権力であるが、それらを統合した武臣が天皇=「旧王」の下で覇権を握り、身分的にも「覇王」としての実質を深めることになる。19世紀まで続く「旧王―覇王」体制である。重要なのは、平清盛や源頼朝を特権化して語るのではなく、そういう覇王という観点から、ただの過渡的な存在として即物的に説明することである(前掲『中世の国土高権と天皇・武家』)。

 以上、山城時代までは前近代の国家形態を強く規定する地域性に着目する時代名称となる。これに対して、以降の武臣国家段階は、覇王の氏族名で表記するのがよい。以下、紙数もないので、それを前提として、これまでの用語法の難点を指摘していくと、まず鎌倉時代というのは武家権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。実際には後鳥羽クーデタを討伐して後鳥羽を流罪とした北条氏の権力は全国的なものであって、その時代は北条時代というのが適当である。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化され、都市が明瞭に展開した。

 次の足利時代については、たとえば原勝郎に『足利時代を論ず』という論文があるように、「足利時代」という言葉は明治大正のアカデミーではよく使われた言葉である。この用語で織豊時代の前までは通した方が理解がしやすいだろう(戦国期は過渡期と処理する)。それなのに、なぜ「室町時代」という無内容な用語が一般化したかといえば、これは足利尊氏が逆賊とされた皇国史観の時期の慣習が残ったのではないか。また「室町」という語には「都」は京都を中心とするという通俗的な中央意識がかいまみえる。

 次の「安土桃山時代」という時代名称には、大阪城と大阪を無視する中央根性がある。これは本稿を考える上で大きな意味をもった井上章一氏との対談(「歴史対談、東と西――やはり日本に古代はなかった」『HUMAN』8号、2016年1月、人間文化研究機構)の後、京都でばったり会った氏からうかがった意見であるが、たしかに「古代」の河内王朝論がなかなか進展しない状況をみていても、この国の支配的な歴史常識のなかには、畿内の中枢をしめる大阪平野を無視する伝統が流れているように感じる。

 「徳川時代」についても同じ理由で、覇王=大君の位置にある徳川家を時代名称にもってくるのが適当だろう。「江戸時代」という用語は東京バイアスがある言葉で、関西の歴史家には「徳川時代」という用語を使う人が多い。徳川は東海地方出自で、それは幕藩制社会の歴史像を考える上でも大きな意味があるので、その意味でもこの呼称をとりたい。

 なお、以上のような時代呼称を採用する場合には、時代の移行期となる源平内戦、南北朝内戦、戦国期内戦を十分に位置づけることが重要である。その場合、「内乱」や「乱」という言葉も「世の乱れ」という価値観を含むものなので使用せず、藤木久志がいうように、ザッハリッヒな「内戦」という語がよい(藤木『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書)。

 なお念のために述べておけば、現代歴史学はすでに「古代・中世・近世・近代」という時代区分に依拠することはできない。実際に、「古代」とか「中世」とかいっても学術的な定義もなく、研究者によって意見は区々で、論争さえも行われていない。これらの用語を使えという学習指導要領の規制には学術的な意味はないのである(参照、保立「時代区分論の現在――世界史上の中世と諸社会構成」『史海』52号、学芸大学歴史研究室、2005年)。また「封建制」という時期区分の仕方も問題が多すぎる。有名な『資本論』の本源的蓄積章の一注記を、新渡戸稲造以来、徳川時代は純粋封建制だと訳してきたのは、マルクスの『資本論』の草稿類をみると誤訳・誤読というほかないのである(参照、前掲『日本史学』、および誤訳問題自体については「C・ギアーツのInvolutionと『近世化』」(岩波講座日本歴史月報13)。

 以上、あわただしい論述となったが、そういうなかで、歴史学にとってどうしても必要な時代区分を考えるなかで、上記のような一応の結論にたどり着いたということを最後に付言しておきたい。

2016年9月13日 (火)

韓国で地震、7月5日に次ぐもの

 韓国で地震が続いている。韓国では有感地震そのものがめずらしく、大きな話題になっている。私は昨年、一昨年と日中韓の歴史地震史料のデータベース化について努力したが、資金の援助が1年できれてしまい中断ということになり、関係者には申し訳ないことになった。やはり研究が必要なのではないかと思う。
 プレートの動きには国境はない。中国・台湾・韓国・日本の間では国家関係よりも前に同じユーラシアプレートの東端にいるという環境を共有している。過去にあったような大きな噴火があれば同じ災害に襲われる可能性がある。それをふまえて地質学的な知識を共有することが優先されるべきだと思う。日本政府にも、各国政府にもそういう意識はないというのが困ったことである。これは地震火山列島で、災害にもっとも近い、日本がイニシアティヴをとるべきことだと思う。
 
 さて、昨日の地震については下記の通り。

 韓国南部で9月12日午後7時44分と8時32分にM5,1とM5,9の地震が発生という。2人がけがをしたほか、建物にひびが入るということ。韓国気象庁によると「観測史上最も強い揺れ」という。震度5。後に紹介するように、1455年には朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでており、大地震が朝鮮半島で起こりうることは十分に注意する必要がある。

 なお、7月5日にもM4.9の地震があった。これも地震空白域でのM5地震であって、地震が続いていることを示す。これについては、その時、以下のような趣旨のツイートをした。「歴史地震学からみると、韓国の地震は日本の地震が活動期に入ったことの証拠であるらしい。それを明瞭にいうのは茂木先生の仕事だけのように思いますがーー」。

 茂木先生とは茂木清夫氏のことで、『地震ーーその本性をさぐる』(東京大学出版会、1981年)は1700年前後に日本列島・朝鮮半島・中国北部で地震が関連してピーク期になっているとしている。
 私は、それを前提として、朝鮮半島南部の地震については、9世紀と15世紀に起きた東北沖海溝大地震・大津波の後、どちらの場合も韓半島で地震や火山噴火が活発になっていることを主張した(拙著『歴史のなかの大地動乱』)。それに関係して日中韓の歴史地震史料のデータベース化について努力したが、資金の援助が1年できれてしまい中断ということになり、関係者には申し訳ないことになった。やはり研究が必要なのではないかと思う。

 なお、神戸大学の大内徹氏の論文「Korea地域の地震・火山活動と東アジアのテクトニクス」(2002年)では、日本の敗戦のころに起きた東南海地震の前も韓国での地震が活発であったという(この大内論文は神戸大学のデータベースから落とせます)。

 また昨年11月の薩摩沖西方のM7の地震は熊本地震への動きの初発であろうと想定されいるが、琉球海溝域の地震もトカラ諸島近海などで続いている。

 現在が9世紀と15世紀につづく地震活動の活発期であるとすると、琉球海溝域から朝鮮半島の地震は注目すべきことだと思う。

 なお、以下、右の拙著『歴史のなかの大地動乱』の関係部分を引用し、および関係する新妻地質学研究所のブログの一部を掲載させていただく。

『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)
 注意しておきたいのはより長期的な地震の繰り返しの問題である。つまり、九世紀陸奥沖津波の約六〇〇年後、室町時代、一四五四年(享徳三)に大規模な奥州津波が発生した。この奥州津波は、「王代記」という山梨県に残る地域の年代記(一五二四年(大永四)頃に成立)に「十一月廿三、夜半ニ天地震動。奥州ニ津波入テ、山の奧百里入テ、カヘリニ、人多取ル」と記録されている。奥州で津波が発生したことについては、この史料が述べるのみだが、同日に地震があったことについては、そのほか、「会津旧事雑考」(『会津資料叢書』下巻)にも、「十一月廿三日夜大地震」とあり、また、しばらく後の一二月一〇日の『鎌倉大日記』にも「大地震」とある。これは奥州津波の余震に違いない。
 この室町時代の奥州津波は、右の「王代記」に、「山の奧」に「百里」入ったとあることからすると、おそらく九世紀の陸奥沖津波と似た規模をもったものではないかと考えられる。現在、地震学の地質調査によって、仙台・石巻平野に九世紀の津波の痕跡と推定される砂層が発見されていることは「はじめに」で述べた通りであるが、そこでは一四世紀頃の津波痕跡の砂層も確認されているという。右の「王代記」に記された津波は一五世紀半ばであるから、若干の時間差があって、今後の精査が必要であろうが、あるいはこの津波が上記の砂層を残した可能性もあるように思われる。
 なお、『大日本地震史料』によれば、上総の御宿にある大宮神社という神社の史料には、この日の「夜子丑剋、大地震、ヨルヒル入」とあるという。地震学の都司の探索にもかかわらず、残念ながら、現在、この史料は原本の所在が不明になっているが、原本が発見され、もしこの史料の「夜昼入る」という文章が津波と関係するものであるということになると、この奥州津波はまさに今回の東日本太平洋岸地震と同じように上総まで影響したということになる。
 ほとんどは今後の調査にかかっているが、この問題は陸奥三陸沖の海溝部で発生する地震のパターンや繰り返しのあり方という日本の地震学にとっての根本問題につながってくる。この「王代記」の記事は、だいたい六〇〇年周期で今回の東日本太平洋岸地震にあたる地震が発生するという結論をみちびくことになるのかもしれないのである。
 なお、この六〇〇年という時間との関係でふれておきたいのは、三月一一日の東日本太平洋岸地震の後、福島第一原発の事故との関係で、「一〇〇〇年に一度の災害は想定外である」という言い方がされたことである。この種の発言に対して、地震学者から、「一〇〇〇年に一度だから想定外」という言い方は了解しがたい、仙台・石巻平野において九世紀のみでなく、一四世紀頃にも大津波が発生していた可能性も指摘してあった、という発言があったことは記憶に新しい。このことは長い時間のことを考えるという自然史の研究の意味を鮮明に示しているように思う。
(ハ)東北アジアにおける地震旺盛期の終り
 問題は、この室町時代の奥州津波の後に、韓半島で大地震が発生したことである。この奥州津波は、西暦でいうと、一四五四年一二月二一日にあたるが、『朝鮮王朝実録』によると、その約一月後、西暦一四五五年一月二四日(朝鮮王朝暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでている。また注意しておきたいのは、この六年前、西暦一四四九年(宝徳一)に、対馬で地震が発生したという記録もあることである。一五世紀の奥州津波は、九世紀の陸奥沖海溝地震よりも明瞭に韓半島南部の地震と連動しているようにみえるのである。
 これは地震学の茂木清夫が、一五世紀から一七世紀にかけてを東北アジアにおける地震の「広域的活動期」と規定していることに関係する。茂木が日本列島、朝鮮半島、中国大陸東北部がほぼ東西の同一線上に配列されていることを重視し、このような広域的な活動期の存在それ自体が「剛体プレート説を地震学の立場から支持するものといえよう」としているのは興味深い。茂木の議論は、図■のような日・中・韓の地震の統計データによって組み立てられたものであるが、以上の日本の奥州津波と韓国南部地震の連動は、それを直接に支えるものであると思う。この二つの地震は、一八世紀に続く地震の「広域的活動期」の第一撃であったのではないだろうか。
 現在では、宇津徳治「世界の被害地震の表」によって、茂木が空白に残した七・八・九世紀についても東北アジアの地震統計をとることができる。図■は、それによって茂木の作業をやり直したものであるが、これによって、七~九世紀と一五~一七世紀という東北アジアにおける地震活動の二つの活発期をたしかに確認できるだろう。さらに興味深いのは、この図の二世紀頃を中心として、もう一つピークがあるようにみえることである。そして、もし、そうだとすれば、東アジアにおいては約五〇〇年ほどの間をおいて「地震の旺盛期」が繰り返され、現在は紀元後、四回目の旺盛期であるというきわめて重大な結論が導かれるのかもしれない。

7月5日地震についての新妻地質学研究所のブログ
「2016年7月5日に朝鮮半島南東沖でM4.9-nt深度37kmの地震が南海小円区北方延長部で起こった.本震源は,対馬海峡を越した南海小円区の海溝距離567kmに位置し,これまでの最遠記録である海溝距離364kmの1997年6月25日中国地方北西海岸付近M6.6-np深度8kmを大幅に更新して表示範囲外になった.南海小円区の海溝距離範囲北側の本地震は,日本全域図の鹿島小円区の海溝距離1108kmに表示される(2016年7月日本全域月別).朝鮮半島域のCMT解は,これまで朝鮮半島東方沖2004年5月29日M5.1+p43km海溝距離1092kmの1個が報告されているのみで(2004年日本全域年別),本地震が2個目になる.本地震は,これまで地震活動が報告されていない空白域での地震であり(以下略)」,。

なおヤフーに朝鮮日報の記事が翻訳転載されている「(朝鮮日報日本語版) 東日本巨大地震後に韓半島で地震急増、M7級地震発生の可能性も」。下記に一部再掲させていただく。

地質学界では韓半島の断層構造上、最大でマグニチュード(M)6.5-7.0の地震が発生する可能性があると予測してきたが、今回の地震により2011年の東日本巨大地震や今年4月の熊本地震などで韓半島の断層構造が変わったという見方が強まっている。

地質学界では「『韓半島は地震安全地帯だ』という固定観念を捨て、地震に関するシステムを全面的に再編すべきだ」という声が強い。今回の地震が発生した慶州一帯の梁山断層地域は過去にも地震が発生した記録がある。同研究院のソン・チャングク地震災害研究室長は「地震は、過去に地震発生の記録がある地域で再び発生するのが一般的だ。今回地震を起こした梁山断層はいつでも地震を引き起こす可能性がある活断層。これまでの分析では韓半島で起こり得る最も大きな地震はM6.5程度で、一部の学者はM7.0も発生の可能性があると考えてきた。ただ、いつ、どこで地震が発生するかについて予測するのは難しい状況だ」と語った。

2016年9月 7日 (水)

アメリカの選挙のおそるべき汚さ


 アメリカの選挙にはすでに憲法のレベルで制度的な欠陥が多いというのがアメリカの政治学会の常識であるが、ただ、、制度的な欠陥には歴史的な理由や経過があるものであって、それらを解決するためには一定の時間がかかる。しかし、選挙の実際の運用に関わる問題は、それとは別のレヴェルの問題であり、アメリカの選挙の実際において何よりも驚くべきなのは、その恐るべき汚さである。

 ここでは大統領選挙に限らず、選挙一般について確認していくことにするが、まず第一は、選挙権そのものの問題である。民主主義国家においては国民に選挙権を保障することは何よりも重要な行政の義務である。しかし南北戦争後に制定されたアメリカ合州国憲法修正一五条は、黒人に投票権をあたえたものの「投票権は拒否されることも制限されることもない」という消極規定であって、選挙権を「国民固有の権利」とする(日本国憲法一五条)常識的な規定とは異なる不十分なものであった。しかも、アメリカでは二〇世紀初頭、投票権を国民に自動的にあたえずに事前登録を義務づけ、移民や黒人の投票を抑制する措置がとられた。これは公民権法のなかで成立した投票権法が成立した後も根幹として維持されており、そのためアメリカでは、七〇年代以降も、三〇%ほどの国民が選挙権をもっていない事態が続いている。とくに白人の有権者登録率は約七割、黒人は約六割、中南米系は約五割強にとどまるという実態は、アメリカが民主主義国家とはいえないことを示している。

 こういう国家における政治家や官僚その他、何らかの形で税金によって生活を維持している人間で、選挙権を国民に保障することを第一の義務として行動しない人間は、主権者を主権者と考えない人間であり、また主権者の税金を不当に所得している人間である。そのような人間は民主主義者ではないことはもちろん、そもそも非道徳な人間であって社会的に排除するべき存在である。彼らは、それだけでなく、こういう実態をさらに悪化させようとしている。

 これは社会的な犯罪者あるいはその予備軍であるとしかいいようがない存在であろう。問題は、アメリカではこういう社会的な犯罪者あるいはその予備軍が大きな顔をしていることである。つまり、二〇一三年、アメリカ最高裁は、投票権法にもとづくガイドラインの一部を違憲だとして、州による投票制限の道を開いた。これによって相当数の州が投票制限法を強行し、その中で、(すべての人がもっている訳ではない)運転免許証やパスポートなどの写真付き身分証明書の提示、選挙投票日当日の有権者登録の廃止、事前投票期間の短縮、日曜日の事前投票への制限、事前の住所変更申請などの問題が発生している。投票する時間や手続き条件をもたない人間は実力がないのであって、そういう人間は投票しなくてよい。そういう人間はアメリカ民主主義の誉れにふさわしい人間ではない。そういう人間は二級市民であって、その投票は抑圧してよいという訳である。最高裁は、アメリカの超富裕者(ヴェリー・リッチ)に対して「アメリカの経済のほとんどを所有しているあなた方は、ホワイトハウス、政府、連邦議会、州知事、州議会をも買い占めていい」といったのだ、というのがサンダースの評価である(サンダースHP、issues)。

 さらに汚らしいのは、アメリカでは国勢調査のある一〇年ごとに州の選挙区の形を操作して無風選挙区を作り出す二大政党の裏取引が行われることで、この選挙区の形を怪獣のようにするゲリマンダーといわれる詐術も、最高裁判決によってさらにやりやすくなってしまった。有り体にいえば民主党支持者が多い区域を作って、そこでは民主党が圧倒的に勝利をするが、他の地区では共和党がかならず勝利するか、いい勝負ができるように選挙区の形を操作するのである。とくに連邦下院議員選挙の選挙区は各州の知事・議会において圧倒的に共和党有利のゲリマンダーが行われており、これをくつがえすのはすぐには困難という状況ができあがっているという。
 こういう神経をもつ社会的犯罪者たちは、投票日当日に投票妨害を強行することも辞さない。サンダースは「人々はどの選挙でも投票するのに何時間もまたなければならない。これは国民的な不名誉だ」と述べているが、アメリカの野蛮な社会的犯罪者は、どれを不名誉とは考えない。今回の予備選挙でも問題になったように、不利になりそうなところでは民主党・共和党の裏取引の下で投票所それ自身を閉鎖したり、数を減らすという破廉恥な行動が行われている。

 二〇〇〇年のゴアとブッシュの大統領選挙の際に、投票機械がわざと古いままに置かれているという事実が明らかになったことは世界を驚かせたが、今回、二〇一六年の大統領選挙において、どのような不正が、どのような勢力によってどう行われたか。これはバーニー・サンダースに対する支持が、ここまでに達したという情勢のなかで、今後、さらに赤裸に明らかになっていくであろう。

 破廉恥政治の当人たちにとっては選挙はゲームの対象である。彼らは、そのゲームを巨大な金の動くビッグ・ビジネスとし、そこに巨大な害虫のように寄生している。たとえば、トランプの選対本部議長であったポール・マナフォートはウクライナのヤヌコヴィッチ前大統領のコンサルタントという経歴でロシアのプーチンとの関係もあるという人物で政治宣伝のプロである(二〇一六年八月に辞任)。またビル・クリントンの選挙参謀・政治コンサルタントをつとめたディック・モリスは、スキャンダルで辞任した後、共和党のマサチューセッツ知事、アルゼンチン・ウルグアイ・メキシコの大統領選挙で活動した選挙戦略家で、オンライン投票システム(Vote.com)の代表でもあるという人物である。以前の日本では、こういう存在を政治ゴロといっていたが、最近では、日本でも電通が同じような選挙ヤクザの役割を果たすようになったことはよく知られている。しかし、さすがにアメリカの「政治ゲーム市場」は国際的である。

 ゴアは、イラク侵攻の直前のアメリカ上院が静かだった理由を、議員たちの多数が間近の選挙でテレビコマーシャル枠を買うための資金集めイヴェントに出席していたためだと証言している(『理性の奪還』)。そしてゴアが敗北した大統領選挙の年の選挙戦全体にかかった費用は三〇億㌦であったが、二〇〇八年のオバマ選出の年には五三億㌦にまで達している。バーニー・サンダースがいうように、これは億万長者と企業権益による政治の買い占めである。しかも、二〇一〇年、最高裁のシティズン・ユナイテッド訴訟判決は、諸団体が選挙の前にテレビ宣伝をすることを禁止していた選挙運動改革法を「表現の自由」の名のもとに違憲であるとして金権選挙をさらに野放しにした。このような法律家のことを東アジアでは伝統的に「法匪」と呼ぶことになっている。

2016年9月 5日 (月)

平安時代、鎌倉時代という言葉をつかわない理由

ある研究会への報告準備ペーパーです。

 8世紀末から12世紀末までの日本の歴史を「平安時代」という用語で表現するのが普通であるが、「平安」というのは、山城愛宕郡への遷都における桓武の主観的希望の表現にすぎない。「平安京」という都城名は史料に登場するが、その実際が「平安」であった訳ではない。それに何時までも呪縛された時代名を使うことには疑問が多い。また奈良京→長岡京→愛宕京の遷都過程は既存建築などの施設を使用しつつ、西北、東北に平行移動したものであることが知られており、政治過程からしても、長岡京以降は同一の時代であって山城時代とし、王朝は「山城王朝」とするのがわかりやすい。私見では、時代名に山城という地名を入れることは、山城時代の国家が八世紀までの畿内国家(西国国家)という本質を残していることを示す上でも便宜である。
 この時代の国家形態を都市王権と呼ぶことができるが(保立『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房)、そこでいう「首都域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。9世紀末・10世紀初頭の国政改革によって、五位以上の貴族は山城首都圏居住を標識とする都市貴族として身分化され、九世紀までの経過で各地方の豪族あるいは、そこに留住するにいたった支配層は地方貴族として区分されるにいたった。この山城王朝国家は、都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係、中央都市支配と地方社会における領主支配の関係という中心・周縁関係、都鄙関係を前提に存在していた国家であるということができる。
 山城時代を小区分すると、その第一期は怨霊期である。九世紀から10世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まり、八六九年陸奥地震の背後にいた怨霊としての伴善男、そして大国主命の籠もっていた吉野の地下に地震などの災害霊として籠もった菅原道真によって特徴づけられる。これらの怨霊は王権内部の激しい対立に関わって登場したものであり、この時代の政治史的本質を現している。いわゆる奈良時代、つまり大和時代後期の宮廷が直接の王族内部における殺し合いによって特徴づけられるのに対して、この時代に入って、王権内部における殺し合いが消えるのは、都市王権成立の反映である。殺されて怨霊となるのは、都市貴族であって、これは彼らが内部闘争に積極的に関わっていったことの反映である。
 この時期、初期荘園制の展開と班田収受システムの負名散田請負への移行(「班」は「あがつ」と読むが「散」の読みも同じ。両制度には連続性がある)を前提に、地方制度がいわゆる国衙荘園体制に再編成される。これが上記国政改革の重要な内容をなしていた。なお都市王権の成立は首都の都市的な社会関係が基準関係となることを意味しており、都市宮廷や都市貴族制に対応する官衙制、都市住人諸階層の形成、ジェンダー関係の変容(女性の秘面性など)などが注目される。仏教の顕密主義と神道の複合としての日本的宗教論理が成立することも、それと一連の事態であろう。神社は都市的な清浄論理を代表するものと考える。
 山城時代第二期は10世紀後半から11世紀の冷泉・円融の兄弟の王統の迭立期である。この時期は、都市王権が吉田孝のいう「古典的」形態をとるようになった時期である。王権の代行システム(摂関制など)、後宮組織の充実、官僚貴族制、宮廷貴族と武家貴族の分化などに表現されるよって特徴づけられる。それは都市王権の内部に王身分・元首制(儀礼主宰)・執行権の複層構造をもたらした。王統の迭立は、それにもとづいていただけにきわめて根強いものとなった。道長の権威は、両統に娘を配置することによって王統を合流させることに根付いていたことなどはいうまでもない。この時代を摂関時代というのは、このような政治史の本質を捉えたものとはいえない。
 この時期、王家領荘園、摂関家領荘園の体系化が関係しながら進んだ。これは国司苛政上訴の動きなどにみえるような都鄙関係の展開、「高家」といわれるような地方名望家の形成に対応している。なお、この時期のイデオロギー状況としては、やはり比叡山と山王神道(およびそれとむすびついた賀茂、祇園、石清水など)を中心とした末寺・末社組織の展開が大きいだろう。そこに発生した神人組織が都市的な商工業の受け皿になっていく。
 山城時代の第三期は院政期である。後三条天皇は道長の下での縁戚的な両統の合一を前提として、両統を統一したが、それはすぐに別の形態の王権内部の紛議をもたらした。それまでの王家内紛が兄弟間の内紛であったのと対比して、院政期のそれは親子間の対立(後三条―白河、白河―鳥羽―崇徳、後白河ー二条、後白河―高倉など)となり、きわめて激しいものとなったのである。これは、山城王朝国家の全体的な変化に関わっており、基本的には都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係がより直接的な関係に変容していったためである。それは一方では院領荘園の拡大、他方では知行国制の拡大による中央・地方の統合を基礎としていた。
 この下で、院政期国家は国土高権を強化していったのであるが、他方でこの過程は後白河院政期に東国受領が院近臣集団によって統括されているように、各地に一国を超えたレベルの広域的な諸関係を生み出していった。このなかで、王権内部の激烈な矛盾と武家貴族の競い合いが結びつくこととなって。これが院政期国家に内戦と国家の本格的な軍事化をもたらしたのである。
 山城時代の第四期は、都市王権の国家から武臣国家に入っていく過渡期である。この時代は、平氏系王朝、高倉の即位によって開始された。平氏系王朝は、後白河が二条の「二代后」問題に介入したいわゆる平治の乱の経過のなかで形成されたものである。平氏による武臣執政は、地方社会における広汎な矛盾の展開を促し、それが一一八〇年代の源平合戦に展開した。清盛と頼朝の行動も連続性が高く、本質的な相違をおくべきものではない。また、源平合戦と幕初のテロに次ぐテロの時期も、軍事史・政治史の問題としては直結している。それゆえに山城時代第三期の終了は、後鳥羽上皇クーデター事件(いわゆる「承久の乱」)において、西国国家が軍事的に敗北する時点にもとめるべきだろう。
 従来は、幕府の成立によって時代を切り、それ以降を鎌倉時代というのが普通である。たしかに頼朝による東海道惣官職の獲得、東国小国家の形成と、それを前提として頼朝が獲得した日本国惣地頭・惣守護の地位はの意味は大きい。しかし、それらは後白河院政期の院近臣集団による東国支配の枠組みを換骨奪胎したものであり、惣官職自体も平氏政権の下で存在していたものの延長であって、日本国惣地頭の地位も一時的なものであった。これはやはり過渡期的な現象であって、後鳥羽クーデターの打破によって、国土高権の軍事的掌握と、全国的な武臣政権が画定したものと考える。これによって東国の武家領主連合国家は全国国家のなかに自己をビルトインし、それによって全国支配国家となった。これによって、地域名による時代区分は終わることになる。
 鎌倉時代という呼称は、このような政治史の実態にあわない。またなにより、この呼称は北条氏の武臣権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。後鳥羽クーデタ以降は武臣の氏族名によって、北条時代というのが適当である。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化され、都市が明瞭に展開した。
 山城時代第三期・第四期の政治・文化状況をどう論ずるかについては次の機会にゆずることとしたいが、ただ、第四期が地震の多かった時代で、地震が政治史に大きな影響を及ぼしたこと、また平氏が信仰する京都祇園社ー福原祇園社ー厳島神社はどれも地震神の信仰に関わっていることに注意しておきたい。院政期以降の文化状況論については、これらの問題をふくめて考察するべきであろう。

参考
保立道久
『平安王朝』(岩波新書、一九九九年)
『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房
「南海トラフ大地震と『平家物語』」(『災害・環境から戦争を読む』山川出版社、二〇一五年)

2016年8月29日 (月)

ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺

ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺

 「私たちのつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。私たちは、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている」。これはオバマ大統領の二〇〇九年の就任演説の一節である。アメリカにおける民族の多様性がアメリカという国家にとって一つの「強み」に展開した、また民族差別(「人種=マイノリティ差別」)が消滅した、あるいは消滅の方向が決定的であるという宣言である。
 たしかにオバマが大統領になったことは、一九六〇年代初頭に始まった公民権運動の一つの到達点を示している。しかし、それはまた、ブッシュ(子)政権においてコリン・パウエルとコンドリーサ・ライスの二人のアフリカン・アメリカンが続けて国務長官となり(おのおの二〇〇一年~二〇〇五年、二〇〇五年~二〇〇九年の在任)、中東戦争を主導したことの直接の延長線上に生まれた事態なのである。オバマも中東における戦争の責任者であって、中東の人々からいえばパウエル・ライス・オバマはほとんど区別はつかないであろう。植民帝国のトップが奴隷主によって占拠されていた一九世紀前半までと比べれば、アフロ・アメリカンの人々がアメリカの国家中枢のトップを占めたということは、たしかに世界史のなかで奴隷的な民族差別はかならず消滅していくことの証拠であるが、しかし、それが自己を戦争責任者とするところに展開したことは深刻な問題である。パウエルは、それを実感しているに相違ない。パウエルは国務長官として「イラクが大量破壊兵器を開発している」という虚偽をイラク戦争の開戦理由として主張したが、それが恥辱的な誤りであったことを認めた。
 ただ、ここでとくに紹介しておきたいのはライスである。彼女はアラバマ州バーミンハムの豊かな牧師と教師を親とし、縁の深い知人の縁戚にコリン・パウエルがおり、恩師はパウエルの前の国務長官マデレーン・オルブライトの父親というアフリカン・アメリカンのエリートを絵に描いたような女性である。しかし、バーミンハムの位置するアラバマ州は一九六二年に人種差別主義者として有名な民主党のジョージ・ウォレスを知事として圧倒的な得票で当選させた州である。知事選においてウォレスが掲げたスローガンが「今こそ黒人を隔離せよ! 明日も、さらに永遠に!」というものであった。
 そして、バーミンハム自体が白人暴徒の爆弾テロが日常茶飯事で「ボミングハム(爆弾の町)」という異名をもつ町であった。そういう状況のなかで、公民権運動の昂揚にともなって、一九六三年、マーティン・ルーサー・キング牧師をリーダーとする南部キリスト教指導者会議が行動を起こした。実は、バーニンハムの警察・消防署長は、南部のレーシスト犯罪集団、クー・クラックス・クラン(K・K・K)のメンバーであったが、彼がバーミンハム市長に立候補して穏健派に敗北を喫するというチャンスをねらって、選挙直後、四月に大規模な非暴力行動を開始したのである。それは「南部キリスト教指導者会議」(SCLC)全体の意思統一にもとづく行動で、行動参加者は、非暴力を誓約して効果的な抗議の仕方と自分の身体の守り方を訓練するという徹底したものであった。
 しかし、問題の警察署長は市長が交代したにもかかわらず、その職に居直り、警察とK・K・Kが一体になって非暴力の運動参加者に殴りかかるという狂気をあらわにした。その映像が全世界に流れて大きな衝撃をあたえるなかで、キング牧師は、これに抗して、南部を中心として全国各地から暴力の停止、人間的な自由と仕事を要求するワシントン行進を行うことを宣言した。そして、八月二八日、キングはワシントンのリンカーン記念堂の前で有名な演説「I have a dream」を行ない、圧倒的な迫力をもってアメリカの国家権力を抑え込んだのである。その演説の一節には「この瞬間の緊急性を見過ごし、黒人の固い決意を見損なったら、国家は致命傷を負うでしょう」とあり、時の大統領ケネディも、それを支持する態度を明らかにした。ケネディは問題がアメリカの国家としての体面に関わるものとなったことを確認し、ここではっきりと梶を切ったのである。
 さて、説明がながくなったが、パウエルやライスにとっても、このバーミンハムにおける対決が決定的な意味をもっていたことは明らかであろう。とくにライスは、このなかで友人の少女をK・K・Kに殺害されている(New York Times 2000年12月18日付)。ワシントン行進の翌九月、クー・クラックス・クランが、公民権運動の関係者の教会であるというだけで、バーミンハムの一六番街バプティスト教会に時限爆弾を設置したのである。聖歌隊の衣装に着替えるために更衣室にいただけの少女が殺されたのである。その葬儀にはキング牧師が説教している。ライスは「両親の励ましがあったおかげで、大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」と子供時代について語るが、そこにはキングの「私には夢がある」という声が響いていたに違いない。

ケネディ暗殺とベトナム戦争

 キング牧師の説得力は圧倒的なものがあった。もちろん、アメリカの支配層のなかに根強く存在したレーシスト(人種主義)勢力は暴力を行使し続けたが、公民権運動はこのとき、アメリカの国家権力を抑え込むことに成功したのである。
 しかし、問題は、このときベトナムにおいてアメリカが決定的な間違いをおかしていたことである。つまり、第二次大戦後のインドシナ内戦は、一九五四年のジュネーブ協定はフランスの植民地宗主権を否定し、ホーチミンに率いられたベトナム民主共和国と南ベトナムのバオダイ王権(フランスによって傀儡として担ぎ出された旧阮王朝の王)の間での和平にもとづいて二年後に統一選挙に入ることが合意されていた。しかし選挙でベトナム民主共和国が勝利することは確実とみたアイゼンハワー大統領はジュネーブ協定をやぶってバオダイ王権の首相ゴ・ジン・ジェムを居すわらせ、ベトナムに介入したのである。
 ところが、ゴ・ジン・ジェム政権はもっぱら王朝的な私欲と無秩序という正体を現して、ベトナム民衆の反発をうけ、南ベトナム解放戦線の結成によってジェム政権は崩壊の道に入った。そのなかで、ケネディは、一九六一年初頭、大規模な軍事顧問団を派遣してベトナムへの介入をエスカレートさせたのである。アメリカは、国防長官マクナマラが後に自己批判とともに述べているように、東アジアの歴史について無知なまま、ホーチミンの北をもっぱらソ連や中国の手先と見誤っていた(マクナマラ回顧録)。そもそも、日本とフランスからのベトナム独立を主導したホーチミンは、インドシナへのアメリカの介入をもっとも恐れており、それもあってベトナム独立宣言をアメリカ独立宣言の「すべて人間は平等に造られ、造物主によって一定の奪いがたい権利を付与され」という一節の引用で始めたという深慮遠謀の政治家である。現実の政治においては援助を確保する関係で、ソ連と中国という「社会主義」両帝国との関係に配慮したとはいえ、ホーチミンは最後までアメリカとの軍事対決をさけジュネーヴ協定にもとづく平和を追究していた。しかし、アメリカには自己がジュネーヴ協定を破り、国際法上の不正義を行っているという常識はなかった。マクナマラの回顧録にもそのような言及は一言もない。
 アメリカはアジアを包括的に支配しようという巨大な野心に目がくらんでいた。問題はそれがソ連にとっても同じことであったことであって、このころ、この二つの帝国は危険な意地の張り合いをヒートアップさせていた。まずケネディの大統領就任の前年、ソ連領空に潜入していたアメリカの覆面偵察機U2が撃墜された。そしてケネディが就任した一九六一年にはソ連が有人衛星による地球一周に成功し(ガガーリン搭乗、ヴォストーク一号)、さらに核実験を再開する。そしてそれに対して、アメリカも有人ロケット第一号を打ち上げ、核実験を再開する。核軍拡は宇宙軍拡に及んだ。そして、一九六一年に東ドイツがベルリンに「壁」の建設を開始し、翌一九六二年一〇月にはソ連がキューバにミサイル基地を建設していることが発覚し、状況は核戦争の一歩手前までいったのである。
 現在からみればソ連の「社会主義」なるものはソ連帝国の全体主義的性格を飾るものに過ぎず、アメリカの「自由」なるものは国内の民族差別を解決しないままの大言壮語に過ぎなかったことは明らかである。しかし、このときは、両方とも、相手のこけおどしのイデオロギーを恐怖し、実態とは異なる虚像に踊らされていたのである。とくにアメリカの側は「社会主義圏」なるものを過大評価し、それが一枚岩となって全世界でアメリカの権益を狙っているという過大な恐れ、いわゆる反共主義によって自己呪縛の状況にあった。ケネディは早い時期にベトナム介入の判断の誤りを自覚したといわれるが、こういう文脈にとらわれてベトナムをみていた以上、その道を引き返すことは困難であった。
 決定的であったのは、一九六三年、ベトナム仏教会がジェム政権の仏教弾圧に対して、サイゴン街頭で僧侶が焼身自殺するという激しい抗議行動に立ち上がったことであった。これは、バーミンハムの警察とK・K・Kが公民権運動に暴力を振るっていた、まさにこの時のことである。アメリカとベトナムは一つのカオスのなかに投げ込まれた。そして、しばらく後、アメリカとジェム政権の関係が不透明になるなかで、駐アメリカ大使を実質上の後援者として、一一月、ゴ・ジン・ジェム政権はベトナム軍のクーデターによって崩壊したのである。ケネディ政権は事態の掌握すらできていないという最低の状態で、このニュースを聞いて顔面蒼白となり、ベトナム政策の見直しを指示したという。
 しかし、一九六三年一一月二二日、翌年の大統領選挙をひかえて、南部での公民権法への支持が決定的だと考えて、テキサスにむかったケネディは、ダラスの町をパレードしている最中、熟練したスナイパーによって殺害された。ケネディは、あたかもその死をもって公民権法をあがなったかのようにさえみえる。奴隷解放宣言を発した後に暗殺されたリンカーンと重なるイメージである。ケネディ暗殺の背後にはケネディが公民権運動に明瞭に賛同する立場に梶を切ったことに反発する凶暴な人種主義勢力があったことは確実である。

「ブラックパワー」運動とキング牧師の暗殺

 副大統領としてケネディを引き継いだジョンソンは、ケネディより年長でフランクリン・ルーズヴェルトに引き立てられた民主党の南部ニューディーラーであった。彼は人種差別を違法として公民権運動の法的な出発点をあたえた一九五四年のブラウン判決(■■■)に対する南部連邦議員の抗議宣言に加わらなかった三人の上院議員の一人であって、公民権運動の意義は十分に理解していた。ジョンソンは、南部民主党の頑強な抵抗をおさえて、一九六四年六月、公民権法を通過させたのである。これによって投票権登録の際の読み書きテストなどが禁止され、公共施設や学校における人種差別・隔離が非合法化された。
 ジョンソンも必死であった。ジョンソンは、ケネディの死の翌年、一九六四年、次期大統領に立候補するにあたって、「偉大な社会」計画を打ち上げ「貧困との闘争」をうたった。これはジョンソンのニューディーラーとしての識見をよく示す大規模な福祉政策をふくむ構想であり、この計画は黒人の経済的・社会的条件の改善の面でも相当の意味をもったのである。ジョンソンは黒人のデモや主体的な政治参加には一貫して消極的であったから、公民権運動のなかには批判が強かったが、キング牧師は南部政治の現実の厳しい状況も勘案して大統領選挙にあたってジョンソンを支持したのである。これがケネディの死への同情とあわさってジョンソンは記録的な大差で大統領選に勝利した。
 しかし、それにも関わらず、南部では無知な白人暴徒による妨害がはげしく、黒人の投票権登録は現実にはほとんど進まなかった。とくに問題となったのが、一九六五年初頭から、バーミンハムの南のセルマの保安官が投票権登録を暴力的に抑圧したことで、駆けつけたキング牧師までが一時逮捕され、さらには州警察が公民権運動の活動家を殺害するという事件が発生した。これに対してキングらはセルマへの抗議の行進を組織したが、アラバマ州知事のウォレスの指示によって警察は催涙弾を発射し棍棒で殴りかかった。しかも、それに続いて白人暴徒がボストンから支援に入っていた白人の牧師を殴打して殺害するされて死去するという事態となる。「血の日曜日事件」である。これも大問題となり、結局、これによってジョンソンはキングの要求をうけて、投票権登録手続きを連邦政府が保護する投票権法を通過させ、それは一九六五年八月に発効したのである。
 しかし、ジョンソンの躓きは、彼がニューディラーであるとともに、第二次大戦における戦功を勲章として上昇した政治家であったことであった。ジョンソンは大統領就任直後にベトナムでの勝利を目標とすることを宣言したという。そのような立場から、ジョンソンは一九六四年に公民権法を成立させたしばらく後、トンキン湾で米軍駆逐艦が北ベトナムから、二次にわたって攻撃されたことを理由として、議会に戦争遂行権限を認めさせた、この事件は、一次目は米軍の挑発によるもので、二次目は虚報であったことが後に明らかになったが、議会では下院は全員賛成、上院では反対はあったものの三人のみという滅茶苦茶な事態であった。そして、アメリカは、一九六五年、北ベトナムに対する北爆開始し、さらに地上軍覇権という泥沼に入り込む。三〇〇万のベトナム人と五万八〇〇〇人のアメリカ兵が死ぬという無益な戦争であった。
 マクナマラが述べているように、ケネディの暗殺がなければ、戦争の泥沼化の様相は若干なりとも異なっていたかもしれない。これは一種の神話であるかもしれないが、当時を想起しつつ、この時期の記録を読んでいると、巨大なアメリカのシステムを動かしていた人々の人間的な弱さが破壊的な結果をもたらしたという歴史の偶然性に衝撃をうけるのである。
 これに対して圧倒的な正義を体現していたのがキング牧師であった。キングは、南部における公民権運動の主要な担い手であった南部キリスト教指導者会議が躊躇するなか、一九六六年一月、「クリスチャンとしては、この戦争は誤りだというほかない」と声明した。そして、一九六七年に出版した著書『我々はこれから何処へ行くのか』において、キングは成熟した社会科学者としての声をもって語る。「連邦政府は、自国内での貧困に対する戦争に勝つよりもベトナムでの無分別な戦争に勝つことに深い関心をもっている」というのである。そして彼は、公民権運動の総括をする口調で、一〇〇年の奴隷制の時代と、一〇〇年の差別の時代の根元に対して、一〇年間、攻撃をかけ、その基礎を削りとることに成功したとして、南部諸州では黒人の投票権登録は少なくとも一〇〇%、とくにバージニア州とアラバマ州ではそれぞれ三〇〇%と六〇〇%を増加させたという。しかし、キングの現状認識はきびしい。つまり「南部キリスト教指導者会議が一九六三年にバーミンハムに入っていったとき、それはその年を変えようとする計画であった」「闘争は全国的な規模で行われたのものではなかった。それをしたのは南部人だった」「北部のゲットー、北部の黒人社会には沈滞が重く立ちこめている」「もはやこれ以上引き延ばしてはならないのは北部の大都市である」「本当に高いコストを必要とするのは、これから先のことなのだ。白人の抵抗が強くなるのは、この事実を物語っている」というのがキングの分析である。
 こうしてキングは、「潜在的に爆発性をそなえ、短い導火線と長い虐待の経験をもつ北部の黒人社会」に活動の重点を移し、白人を含めた貧困との闘争に本格的に取り組み、合州国中枢を本格的に変革する道に踏み出たのである。それと同時にキングはベトナム反戦運動にもはっきりとしたイニシアティヴを示し、一九六七年四月一五日のニューヨーク、セントラル・パークでの反戦集会では全国の反戦運動と合流することを宣言した。
 キングが、ここまで踏み切ったのは、結局、黒人運動にとって何よりも重要なのは非暴力の真理であり、また信仰にもとづくものかどうかは別としても正義と博愛のパワーであるという考え方であったように思われる。つまり、この年、一九六七年、全国五九の都市で黒人の暴動が発生した。この年をふくむ九年間で数えると全国三〇〇都市で五〇万人が暴動に参加し、二五〇人が死亡、一万人が重傷を負い、六万人が逮捕されている。いわゆるブラックパワーの運動である。
 このブラックパワーという主張は、南部キリスト教指導者会議ではなく、北部にも拠点をもつ全国組織、人種平等会議(CORE)と学生非暴力調整委員会(SNCC)で優勢になった主張である。キングはSNCCでそれを主張したストークリー・カーマイケルなどに対して、暴動をあおるようなブラックパワーというスローガンが、公民権運動における最大の強みであった非暴力の思想を無効化させるものであり、無益な盲動であることを必死になって説得したが、それは届かなかったのである。たしかに、人種主義の暴力に向き合っていた人々が、ベトナムにおける戦争暴力の惨酷さを誇示するかような連邦政府に対して一種の世界観的な憎悪を増幅したことには十分な理由があった。それだけに、キリスト者であると同時に賢明な社会運動家であったキングは、これを前にして座視することはできなかったのであろう。
 そして、ここでも悲劇が起こった。公民権運動においてイスラム教の立場からキングとならぶ働きをしたマルコムXが、一九六五年二月、暗殺されたことである。マルコムXは一時期、自衛のためならば実力行使はありうるという立場を表明していたが、しかしアフリカを歴訪するなかで考えを改めてキングに近づいた人物である。それだけにキングとの間で広い連合が始まれば、それはきわめて大きな意味をもったに違いなかった。その暗殺は奇怪なもので、真相は不明である。
 このなかでキングは苦闘を重ねたが、一九六八年四月、メンフィスの清掃労働者のストライキ支援に向かい、労働者の組合運動とも連携する立場を鮮明にした。下記が、その際、キングが『新約聖書』のマタイによる福音書の山上の垂訓を引用しながら行った演説の結びの部分である。彼は翌日朝、ホテルのベランダにでたところを銃撃され倒れた。
さて、今後将来、何が起こるのかわたしたちには分かりません。将来には困難な日々が待ち構えています。でも、わたしはもう案じたりはしません。なぜならば、わたしは山上に登ったからです。もう不安はありません。みなさんと同じく、私も長生きがしたい。しかし物事には摂理というものがあります。だから今は思い悩んだりはしないのです。わたしは神の御意思に従いたいだけなのです。そうすると、神はわたしを山上に導いてくださいました。そこからあたりを見渡すと、約束の地が見えたのです。わたしは、あなたたちと一緒にそこにたどり着けないかもしれません(I may not get there with you)。しかし、今夜、このことだけは分かってほしい、われわれはひとつのピープルとして将来約束の地にたどり着くということを(We as a people will get to the Promised Land)。わたしは今夜幸せです。何も案じることはありません。どんな人間も恐ろしくありません。わたしのこの目が主の降臨を見たのだから。
 ここには、彼の宗教的信念とともに、自己の死を予知するかのような雰囲気があるが、キングは人種主義と戦争の暴力が蔓延する現状への怒りをたたえた瞳で聴衆を凝視しながら演説を終えたと伝えられている。
 アメリカ国家の中枢部に、もう少し信仰心があればと考えるのは私だけではあるまいが、しかし、そのような期待がむずかしいことを示したのは、キング暗殺の年の一一月に行われたアメリカ大統領選挙の結果であった。つまり、この年一月の南ベトナム解放戦線のテト攻勢によってアメリカ軍の勝利はほぼ不可能視され、しかもソンミの村民虐殺事件は戦争の正統性がまったくないことを世界に明らかにした。そのなかで、ジョンソンは、毎晩、共産主義に妥協した人間として石を投げつけられるという悪夢にさいなまれて大統領選への不出馬に追い込まれた。当選したのは共和党のリチャード・ニクソンであったが、彼がベトナム戦争に固執して醜悪なウォータゲート事件を起こしたことはいうまでもない。しかし、ここで確認しておくべきことは、この大統領選挙に「血の日曜日事件」を引き起こした元アラバマ州知事のジョージ・ウォレスが民主党を脱党して立候補し、アラバマ州、アーカンソー州、ジョージア州、ミシシッピ州、ルイジアナ州でトップを取り46人の選挙人を獲得したことである。日本にとっては、彼の副大統領候補が第二次世界大戦において日本本土に対する無差別爆撃を行った元空軍参謀総長カーチス・ルメイであったことも忘れることはできない。

2016年8月25日 (木)

アメリカは「合衆国」ではなく、やはり「合州国」が正しい

「合衆国」ではなく「合州国」
①「合衆国」と世界の「第七帝国=日本」
 アメリカの国名「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」は普通「アメリカ合衆国」と翻訳されるが、これは誤訳に近い誤りで、正確には合州国とするのがいい。このことを始めて主張したのはジャーナリストの本多勝一であるが、それ以降、日本では相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を採用している。
 建国時のアメリカを構成したのはイギリスからの移民が入植した一三のステーツであった。ステーツという言葉自体は国家ということであり、ステーツには、本来、「州」という意味はないから「ユナイテッド・ステーツ」を「合州」とは訳せないという意見があるかもしれない。しかし、たとえばヴァーモントは現在でも「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」といい、これをヴァーモント州と訳す。つまり「ステーツ=州」がユナイト(連合)したものを「合州国」と翻訳することは十分に筋が通るのである。
 これに対して、「合衆国」という翻訳はアヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしい。「合衆」というのは、中国の古典に見える言葉で、「衆人を寄せ集める。衆人を和合させる」、つまり共和という意味であって、「アメリカ合衆国」というのは「アメリカ共和国」という意味になる。福沢の『文明論之概略』(巻一・一)も「合衆政治」という言葉を民主政治と同じ意味で使っている。徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という名称が使用されたのは、この意味である。
 ここにはアメリカに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きが表現されているといってよい。つまり当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。実際、一九世紀前半までヨーロッパから伝わってきた世界の諸国家についての情報は、世界には七つの帝国とその他に幾つかの王国があるというものであった。七つの帝国とは西ローマ帝国を引き継ぐ神聖ローマ帝国(ドイツ)、東ローマ帝国を引き継ぐロシア帝国とオスマン・トルコ帝国、そしてペルシャ帝国とインドのムガール帝国、さらに東アジアでは清帝国と日本帝国の七帝国である。この七帝国の観念は一六世紀にはあったようで、日本帝国が七番目の帝国であったというのは、イエズス会の宣教師の記録にもでてくる。これが秀吉の朝鮮出兵と結びついて「日本=帝国」という観念がヨーロッパではよく知られるようになっていたのである。
 そう考えていた東アジアの人々にとっては一八世紀末に登場したアメリカが王のいない強国として発展しているのは驚異の対象であった。とくに自分の国が世界の帝国の一つであると認められていると考えていた日本は、帝王はおらず、王さえもいない三流の国家としか考えられないアメリカから、ただの軍人ペリーがやってきて対等な通商と開国を要求したことに憤激したのである。我々の国は帝国であったはずなのに、これはどうしたことかという訳である。「合衆国」という用語は、そういう中で流通した用語なのである。福沢諭吉は、『学問のすすめ』の冒頭にアメリカの独立宣言を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と翻案して掲げて人々を驚かしたが、これも同じことである。こういう経過のなかで、日本には「アメリカ=民主主義」という図式が深く根づくことになった。太平洋戦争の敗北とアメリカ占領という経過のなかで、それがさらに強化されたことはいうまでもない。
 この意味では、私たちが「合衆国」という言葉を使い続けていることは、私たちが一九世紀からの世界認識の枠組みに囚われていることの象徴であるかもしれない。これは重大な問題なので、以下、必要な限りでの歴史的説明をしておきたい。
②アメリカの北部と南部
 アメリカは、何よりもイギリスが北アメリカ大陸に設置した一三の植民地「州」の連合、植民国家として出発した。それはアメリカの地図をみれば明らかなことで、そこでは州境は自然地形ではなくほとんど直線の場合が多い。これは先住民が自由に使用していて境界が存在しない土地を上から測量して、植民地「州」権力が自分たちの領分を決めていったためである。これはヨーロッパ列強がアフリカや中近東で大規模な測量をして直線の国境線を画定し植民地体制を固めていったのと同じやり方である。合州国という表記はアメリカが、こういう「州邦」権力から始まったという経過を正しく表現している。
 アメリカ建国時の一三州とはニューイングランドといわれる北東部四州(①マサチューセッツ、②ロードアイランド、③コネティカット、④ニューハンプシャー)、中部の大西洋岸四州(⑤ニューヨーク、⑥ニュージャージー、⑦ペンシルベニア、⑧デラウェア)、そして南部五州(⑨バージニア、⑩メリーランド、⑪ノースカロライナ、⑫サウスカロライナ、⑬ジョージア)からなっていた。
 このうち、植民はまず南部から始まった。それが一六〇七年に設置された南部のヴァージニア植民地である。最初の移住者一〇五人は半数が飢えと病気で死ぬという厳しい運命に見舞われたが、そのなかで彼らはネーティヴの人々の助力をえて命をつないだ。しかもネーティヴの人々からアメリカ大陸原産のタバコの栽培法を習い、それをヨーロッパ市場にだすことによって徐々に安定していったという。そして彼らはアフリカから移送された奴隷の労働によって肥沃な南部農業地帯に農場を経営し、膨大な資本と富をアメリカにもたらしたのである。一七七〇年代の南部は北米植民地の総人口の約半数が住んでいたという。一九世紀半ばまでのアメリカの中心は北東部でも中部でもなく南部にこそあったのである。しかし、そのなかでネーティヴの人々の善意はまったく裏目にでて、彼らは先祖から守ってきた大地から放逐されるにいたった。
 これに対して、北部の植民はやや遅れて、一六二〇年、メイフラワー号にのった清教徒のピルグリム・ファーザーズが北部ニューイングランドのプリマス植民地に渡ったのが最初である。彼らの場合も、当初、大きな苦難を経験し、ネーティヴの人々に助けられながら、結局それを裏切ったのはヴァージニアと同じである。しかし、プリマスに渡ってきたのは、イギリス国教会のなかでは迫害されていて、オランダからアメリカに渡った分離派といわれる例外的な人々であった。彼らは一〇年後に渡ってきてマサチューセッツを建設した別の清教徒(イギリス国教会内部の改革派)の移民グループに統合されてしまう。北東部ニューイングランドは、南部に比べて狭く寒冷で、土地も痩せており、この時期のアメリカ全体のなかではニューイングランドの位置が軽かったことは明らかである。北部では南部のように輸出を目指して奴隷労働による農業大経営を営むことはなく、むしろ自営農業のベースの上に、漁業・造船・手工業・商業・貿易などが発達することとなった。
 なお、以前、日本では、アメリカの建国というと、ピルグリム・ファーザーズが話題の中心となることが多かった。これには色々な理由があるが、大きかったのは、メイフラワー号が到着した冬一一月を記念するという「感謝祭」(サンクス・ギヴィングデイ)が、一九四八年に、日本の新嘗祭の日程の上にかぶせる形で「勤労感謝の祝日」という祝日に定められたことであろう。本来、「感謝祭」は、本来はプリマスの地方的な祝祭であったが、南北戦争で北部が勝利したのちに、その勝利宣言のようにして「建国神話」化されたものである。今では忘れられがちなことだが、アメリカの軍事占領とともに、その建国神話が(七面鳥とともに)日本に持ち込まれたということになる。
③州の拡大とネーティヴの大地
 このように南部と北部は大きく異なっていたにも関わらず、彼らが連合した主な理由は、最初はネーティヴの人々の協力によって命をつなぎながら、すぐにそれを裏切ってネーティヴの人々の大地と富を強奪したという共通の経験にあった。北部にとっても南部にとっても、問題の中心は「州」連合とネーティヴの人々の部族国家の間での緊張した対外関係にあったのである。
 そしてそれはヨーロッパ勢力の間の関係、とくにイギリスとフランスの関係に深く関わっていた。つまり、イギリスがスペインの無敵艦隊を英仏海峡の海戦で破ったのは一六世紀末(一五八八年)であったが、一七世紀に入ると世界の覇権争いはイギリスとフランスの間にうつった。それは植民地ではアメリカとインドの二つの戦線で戦われたが、一七五五年には本格的な英仏戦争が英仏戦争が展開した。イギリスは、この戦争に勝利することによって世界の覇権を握ったのである。アメリカ大陸では、フランスは、一六〇八年、カナダのセントローレンス川河口にケベックを建設し、ネーティヴの人々との毛皮貿易を行いながら内陸に進み、さらに南にくだってミシシッピ川流域を領有してルイジアナと命名していたが、イギリス軍は、ケベックとモントリオールでフランス軍を破った。そして、アメリカ独立の動きは、このフランスへの勝利の後、イギリスがアメリカ植民地に軍費償還のための税をかけようとしたことへの反対運動から始まった。これまで、アメリカ独立の動きは、もっぱらイギリスとアメリカの関係のなかでのみ考えられがちであったが、それは、このような国際関係のなかで起きたのである。
 こういうなかで、植民地「州」の連合が最初に議論に上ったのは、英仏戦争の前年、一七五四年にニューヨークの中北部のオルバーニーで行われた討議に始まる。この会議は、フランスに対するイギリス領植民地の共同防衛を目的として開かれたものであるが、そこではオルバーニーの西、オンタリオ湖岸からカナダにかけてを本拠とするイロコイ族の人々が招かれ、フランスに対抗してイロコイ連合の友好関係を形成することが重要な議題となっていた。つまり、アメリカ「州」連合という発想はフランスを意識していたことはいうまでもないが、同時に直接に隣接するイロコイ部族国家に対する対外関係のなかで形成されたものなのである。
 ここを起点としてアメリカ「州」連合はネーティヴの人々の部族国家に対して軍事的にも社会的にも共同で対処する体制を固めた。もっとも重要なのは、従来、一三州はアパラチア山脈の西からミシシッピまでの大地を分割しておのおの領有を主張していたが、アメリカ独立戦争から合州国建国までの間にそれを放棄し、そこをアメリカ「州」連合が一括して公有地としたことである。北はミネソタ・ウィスコンシン・ミシガンから、南はミシシッピ・アラバマにいたる、ほぼ後の一〇州にもあたる、この広大な領域は、本来、チェロキー族、オジブワ族、マイアミ族などの部族国家の大地であった。これらの諸族との間で「領土条約」を結ぶという形式はとったものの、アメリカ連合はそれを実際上、一括して上から領有する体制をとったのである。ユナイテッド・ステーツとはネーティヴ・アメリカンの大地をステーツの連合によって横領することであった。
 アメリカ独立を国際的に承認したパリ条約(一七八三年)に引き続いて、アメリカ連邦は、このミシシッピ以東の領域を、順次、六マイル平方の区画(タウンシップ)に測量分割し、一部公有地を残した上で民間に払い下げる法律をつくった。そして、この計画の進行によって人口が増加すれば、各地域を準州・州に格上げして、地方議会を組織するという国土開発の大方針を決定したのである。州の組織の基礎単位が、この六マイル平方の区画(タウンシップ)にできあがったタウン・タウンシップということになる。この土地払い下げの方針によって、人々が東海岸から西に群れをなして移住していったのが有名な西漸運動であって、これによって、アメリカの国土はどこも似たような雰囲気をもつタウン(またはタウンシップ)の網の目によって覆われていった。
 これを後押ししたのがフランスからのルイジアナ購入であって、ナポレオンは、イギリスへの復讐をねらって、英仏戦争前のフランス旧領ルイジアナをスペインから取り戻し、それをアメリカに譲渡して、アメリカと組んでイギリスを包囲しようと画策した。時の大統領ジェファーソンは喜んで、この話しに乗り、一八〇三年、アメリカ連邦はフランス旧領ルイジアナを獲得したのである。このルイジアナとは、現在のミシシッピ河口部のルイジアナ州のことではなく、それを最南端として、ロッキー山脈の東山麓とミシシッピ川の間を、カナダ国境のモンタナ・ノースダコダにまでいたる広大な領域である。
 そしてやや遅れて一八四五年にはテキサスを併合し、翌一八四六年にはオレゴンをイギリスから獲得し、一八四八年にはカリフォルニア一帯をメキシコから買い取って、アメリカの領土は大西洋岸にまで到達した。これらの地域も人口増加にともない次ぐ次ぎに州として昇格していったことはいうまでもない。合州国という表記のよいのは、このように州を新設して、それを「合」併していくことによって、アメリカが膨張していった経過をも示唆できることであろう。
④一九世紀半ばまでのアメリカは資本主義ではない
 さて、このように膨張していった一九世紀のアメリカの社会構造は、普通、資本主義、資本主義国家であるとされている。たとえば、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(第一章)は、ニューイングランド植民地の小規模な農民や手工業者からなる村落は、プロテスタントの倫理を基礎として作られたものだが、それが資本主義精神の形成に意外な役割をになったという。次ぎに一部を引用した、このウェーバーの有名な学説も、アメリカが資本主義であることが前提になっているといってよいだろう。
「資本主義精神」はベンジャミン・フランクリンの生地(マサチューセッツ)ではとにかく明白に「資本主義の発達」の前提として存在したのに、隣接する南部諸州などではそうした精神がはるかに未発達であった。南部の植民地は営利を目的に大資本によって作られたものであり、それに対してニューイングランド植民地は、牧師・知識人と小市民・手工業者・自営農民の結合によって宗教的理由から創設されたものであったにもかかわらず、そうなのである。
 こういうニューイングランドの小農民や商工民の村落こそが「資本主義の精神」のゆりかごだったというウェーバーの理解に依拠すれば、一九世紀に東部から移住していった人々が網の目のように作り出していったタウンシップが資本主義の原基になって、アメリカ全域を資本主義社会としていったということになる。たしかにニューイングランドを起点として西部に広がっていったタウンの網の目を前提として、村落社会が局地的な市場圏を作り出し、産業革命の初期段階とも理解できるような「市場革命」といわれる根深い農村的な資本主義の動きが生まれたことが明らかにされている(安武秀岳二〇一一)。
 しかし、一九世紀半ばまで、南北戦争前のアメリカ社会の全体的な構造をみれば、それを資本主義社会ということはむずかしい。まずアメリカ社会の基軸をなした大地の領有関係は合州国による大地の国家的な公有にあった。これなくしてはタウンシップの計画的な開発は実現できなかったことはいうまでもない。一九世紀の植民地論者として有名なE・G・ウェークフィールドが「土地は、植民の対象となるためには未耕地であるばかりでなく、私的所有に転化されうる公有地でなければならない」(『イギリスとアメリカ』(世界古典文庫版、第二冊、一三七頁)としているように、アメリカにおける土地所有の関係は、連邦と州(States)が国家的に領有するネーティヴの人々の「未耕地」に対する所有と、移民たちがそこから割き取った私的な土地所有という二つのスタイルをもっていた。この時期のアメリカの社会構造は、ネーティヴ・アメリカンの抑圧の上にたった植民国家的な社会構成であるというほかないだろう。
 しかも、問題は、すでに述べたように、アメリカの経済的・政治的中心はアメリカ南部にあったことである。南部では、イギリス産業革命が本格化するなかで紡績の原料となる綿花のい栽培・輸出が盛んとなった。それに駆使された黒人奴隷人口は一七九〇~一八六〇年の間に約七〇万人から約四〇〇万人にも増えている。そもそも初代大統領ジョージ・ワシントンから第七代大統領アンドリュー・ジャクソンまでの大統領は、(父ジョン・アダムス、子クィンシー・アダムズの第二代・第六代大統領をのぞいて)すべて南部の裕福な農場経営者であって、多くの奴隷を所有していた。日本では南部というとややもすれば、ミシシッピ流域を考えてしまうが、ワシントン特別州はもとバージニアの北辺部なのであって、一九世紀のアメリカ合州国は、実際上、「ヴァージニア王朝」であるとさえいわれる。この時期のアメリカ合州国が「奴隷主国家」「奴隷制共和国」などといわれるのも当然なのである(安武、上杉忍)。
 ウェーバー学説のわかりやすさもあって、これまで、一九世紀前半までのアメリカはなんとなく資本主義社会と考えられていた。しかし、アメリカというと、そのすべてを資本主義あるいは資本主義の発達という図式で考えることをやめなければならない。そこから離れて自由に考えていけば、この時期のアメリカはネイティヴを抑圧する植民国家・植民帝国的な社会であり、そのトップに奴隷所有者が位置している社会構成であるというほかないのである。これまで歴史学は「奴隷制社会、封建制社会」などのシェーマがあてはまらない社会について積極的に社会構造論を考えてこなかった。しかしこの「アメリカは人種的な植民国家的な社会構成」であったという認識は、現代の世界を正確に捉えるために、どうしても必要なことであろう。
 アメリカ社会が資本主義社会となるのは、南北戦争において、北部が南部に勝利した後のことである。後に述べるようにそこではアメリカ人種的な植民国家構成から人種的な資本主義構成への変化が起きた。それと同時に、アメリカの国家は、南北戦争の後に、植民国家連合という複合的な国家ではなくなって、一つの国家となったのである。南北戦争までは、英語でUnited States of Americaを受ける動詞は複数形であったが、南北戦争の後は単数形になったことは、その一つの証拠である

2016年8月24日 (水)

コンドリーサ・ライスが8歳の頃、友達の少女がKKKによって殺されたこと。

 「私たちのつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。私たちは、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている」。これはオバマ大統領の二〇〇九年の就任演説の一節である。アメリカにおける民族の多様性がアメリカという国家にとって一つの「強み」に展開した、また民族差別(「人種=マイノリティ差別」)が消滅した、あるいは消滅の方向が決定的であるという宣言である。

 しかし、バーニー・サンダースが「この国では人種的偏見の根絶の道のりはまだまだ遠い」(サンダースHP、issues)としているのがアメリカの実情であろう。たしかにオバマが大統領になったことは、人種的偏見(レーシズム)を解消する動きが一歩進んだことを意味しているが、それは同時にアメリカが名実ともに「多民族帝国」というべきもの、より正確には「多頭民族帝国」になったことの表現でもある。それはブッシュ(子)政権においてコリン・パウエルとコンドリーサ・ライスの二人のアフリカン・アメリカンが続けて国務長官となり(おのおの二〇〇一年~二〇〇五年、二〇〇五年~二〇〇九年の在任)、中東戦争を主導したことの直接の延長線上に生まれた事態なのである。

 ライスはアラバマ州バーミンハムの豊かな牧師と教師を親とし、縁の深い知人の縁戚にコリン・パウエルがおり、恩師はパウエルの前の国務長官マデレーン・オルブライトの父親という経歴の女性である。彼女は「両親の励ましがあったおかげで、大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」と子供時代について語っている。しかし、バーミンハムは一九六〇年代初頭の南部における公民権運動の最大の衝突地であった。それが、彼女にとっても深刻な経験であったろうことは、八歳のころ、一九六三年九月、公民権運動の関係者も多かったバーミンハムの一六番街バプティスト教会に対して、南部のレーシスト犯罪集団、クー・クラックス・クラン(K・K・K)が時限爆弾を設置し、何の関係もないライスの友人など四人の少女が殺害されたことからわかる(この教会については公民権運動史跡巡り8を参照。http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_14.html)。
 
 この1963年は公民権運動の真っ最中でバーミンハムは、その中心地。少女たちの死をいたむミサにはキング牧師が説教をしている。しかし、南部の狂気はさらに続き、11月にはダラスでケネディが暗殺された。

 「多頭民族帝国」という規定が正しいかどうかは別として、オバマの動きが大きな意味があることは否定できないが、その意味を考え、歴史に位置づけるためには、どうしても、あの時代まで戻らなければならない。

 下記はウィキペディアより。
 
 
^ 2000年12月18日付の New York Times の記事、“The 43rd President; Rice on Power And Democracy” に引用された、ライスが1999年1月15日に Los Angeles World Affairs Council で行ったスピーチの一節。 (“...The Civil Rights Act passed 10 years later. Birmingham was a violent place in 1963-64; I lost a little friend in that church bombing in 1964, at Sixteenth Street Baptist Church. But our parents really did have us convinced that you couldn't have a hamburger at Woolworth's but you could be president of the United States...”)
^ www.racematters.org "A Lesson from Condoleezza Rice" by Derrick Z. Jackson,

2016年8月22日 (月)

アメリカの大統領制について、そもそも大統領という訳語はよくない

大統領という訳語はよくない
①プレジデントは本当は元首と訳したい
 アメリカのプレジデントを東アジアの漢字文化圏では「大統領」と翻訳する。これは、徳川時代の末期、一八五八年の日米修好通商条約に「帝国大日本大君と亜米利加合衆国大統領と親睦の意を堅くし」とあるのが始めの例であるらしい。それが東アジアに広がったのであるが、明治時代の半ばまでは「監督」「大頭領」などともいわれて固定されたものではなかったという(『明治のことば辞典』東京堂出版)。「棟梁・統領」というなじみやすい言葉に「大」をつけたのが訳語として成功した理由であろうが、しかし「統領」の大きいものという言葉は、やや大げさなだけでその具体的な職能を現さないのが欠点だろう。これは日本で早くから大統領は特別の存在だという意識がうまれたことに対応したものであろうか。ワシントンは少年の頃、斧の切れ味を試そうとして桜の木を切り倒したがそれを父に白状した。その正直さこそがワシントンを偉人にしたという話は修身の教科書にものっていてがよく知られていたのである。共和国の大統領も立派なものだという「偉人伝」である。
 こういう事情もあって大統領という訳語は完全に根付いているから、当面、変更することはむずかしい。それ故に、以下、そのまま使い続けることとしたが、ただ、本来からいえば、これは国家儀礼を主宰する職制を表現する「元首」という言葉に変えた方がよいと思う。つまり、プレジデントPresidentという言葉が国家のトップの意味で使われたのはアメリカが初めてであるが、それはアメリカに国家元首の役割を担う国王が不在であったためである。それが前例となって王が不在になった時、フランス、イタリア、ドイツなどでも元首の職名として受け入れられていった。逆にいえば、大統領制の対極にある議院内閣制は、発祥地のイギリスの例からいっても国王による首相の任命が前提になっており、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、さらに遅れて日本やスペインでも同じである。つまり、国王――議院内閣制、国王不在――プレジデントという対照があるのであって、これはプレジデントという職名の本質が元首にあることをよく示しているといってよい。
 そもそもプレジデントの語義はラテン語にさかのぼれば、pre=前にsidere(sit)=座るということである。辞書ではたとえば大学の総長、協会の会長から、ただの会議の議長までをいう。ワシントンは連邦議会の議長職としての権威を認められてプレジデントになったのである。元首の元は「はじめ」、首は「こうべ」であって、組織や集会の秩序と儀礼をつかさどるという意味だから、この点からいってもPresidentの翻訳としてふさわしいだろう。
②大統領の憲法的地位と帝国性
 以上は、プレジデントという職名をどう翻訳するかという問題だが、これは世界の諸国家の頂点部分の多様な実態を整理して、そのなかで元首の国家儀礼を主宰する機能を説明することに関わってくる。

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 図に簡略に示したように、世界の諸国家の頂点部分には①王身分、②元首、③執行権者の三種類の人々が集まっている。まず①王身分の保持者のなかには、イギリスの王のように儀礼の主催者であり、執行権への関わりももつような君主的元首としての性格を残す王から、日本の天皇のように国政に関わる権限を有さず、元首でもない王(儀礼の主催権はもたず、国事行為も内閣の指示のもとに何項目かのみを行う)、さらにはスウェーデンのようにほとんど市民社会の内部にとけ込みつつある王まで、現代では多様な王身分が存在するようになっている。
 また②の国家儀礼を主宰する元首機能については、アメリカ大統領のように執行権者として元首機能を兼ね備える場合から、ドイツ・アイスランドのように名誉的プレジデント(元首)が置かれる場合、カナダのようにイギリス国王代理としてカナダ総督が名誉元首の役割を果たす場合、あるいは日本のように(前記の天皇の存在を別にして)執行権者としての首相が随時に状況に応じて儀礼的役割を果たすだけの例など、実に多様な構成となっている。ここでプレジデントを元首と翻訳すれば、アメリカのプレジデントはアメリカ国家元首、ドイツのプレジデントはドイツ名誉元首と呼べばよいことになり、様々な元首のあり方をわかりやすく表現できることになるだろう。
 そのように整理してくると、アメリカのプレジデンシー(presidential government大統領制)の独特な姿が浮き出てくる。アメリカでは大統領が行政権を握ると同時に元首の役割を果たすことが、大統領の権威と権限をきわめて強いものとしている。もちろん、憲法は大統領が行政権を握るとするだけだが(第二条)、大統領は合州国陸海軍と各州の民兵の最高司令官(Comander in Chief)であり、また条約の締結権などの外交における役割、さらに高官の任命や恩赦の権限が憲法に記されている。これらが大統領の元首機能を示すことは明らかである。また大統領は立法府に関われないとはいっても、大統領は議会の立法した法案に対する拒否権をもっている(それを押し戻すには議院の三分の二の多数か必要となる。憲法第一条七節)。最高裁判所の判事を指名する権限の位置も大きい(但し上院の助言と同意が必要。憲法第二条二節)。
 このような大統領権限の強力さは、アメリカの建国者が、アメリカを「帝国」と意識していたことに関係している。つまり、アメリカの初代大統領、ジョージ・ワシントンはアメリカを「興起しつつある帝国」と呼んでいる。またベンジャミン・フランクリンは植民地時代から死ぬまで四〇年にわたり、アメリカを「帝国」といい続けていた。アメリカ憲法の立法者たちが書いたA・ハミルトン、J・マディソンなどによる論説集『ザ・フェデラリスト』の「序論」にも憲法案の審議に「この帝国の命運」がかかっているとある。
 王のいないアメリカを「帝国」というのは漢語の語感からするとおかしいように感じるかもしれないが、英語の「エンパイアempire」は、ラテン語でいえばインペリウム、つまり、共和制時代のローマの執権者がもつ「命令・命令権」に由来する言葉である。「エンパイア=インペリウム」は王制か共和制かという問題には関わりない言葉であり、実際、彼らがアメリカを帝国という場合の範型はローマ帝国にあった。プレジデントというローマ由来の言葉を選んだのもそのためではないだろうか。トクヴィルは「共和国が一人の人間の軛につながれるとき、権力はあたかも万人の上に出るところは少しもないかのように、簡素で飾り気なく、また慎ましく振る舞い続ける。かってローマの皇帝たちが強大な力をもっていたとき、人びとはなおカエサルと呼びかけ、皇帝は友人を訪れ親しく食卓についたのである」と説明している(『アメリカのデモクラシー』第一部八章)。アメリカ大統領の地位は共和制ローマのイメージで考えるのがよいという訳である。アメリカの上院議員をセナターというのはローマの元老院にならったものであるのも同じことであろう。
 ホワイトハウスを初めとしてアメリカにギリシャ・ローマ風建築が異様に目立つのもそのためである。こういう白亜の建物は革命期のフランスではじまった「新古典主義」といわれる大仰なローマ風建築様式であるが、アメリカ建国期の指導者たちは、ギリシャ・ローマ風の様式をイギリスに対抗する共和思想の象徴として流行させたのである。その中心となったのは、独立宣言の起草を主導し、独立戦争直後にはフランス公使となった、後の第三代大統領トーマス・ジェファーソンであるが、彼は早い時期にアメリカ連邦は「広大にして肥沃な領土を自由の帝国に加える」ために存在すると述べて、ネーティヴの人々をの土地を取り上げ、さらに彼らを東へ移配することを呼びかけた。また、ジェファーソンは生涯に六〇〇人の黒人奴隷を使役したといわれるヴァージニアの奴隷制プランターであった。ジェファーソンにとっては、奴隷制の上に立って「共和制」を実現し、さらにはゲルマンの蛮族と戦ったギリシャ・ローマが一つの理想であったのであろう。しかしヨーロッパがゲルマンに発することを考えれば、ネーティヴの抑圧は根本的な不整合であって、ジェファーソンの生涯と思想には大きな矛盾がはらまれていた。現在、ワシントンにある白亜のジェファーソン記念館は、第二次大戦中にフランクリン・ルーズヴェルト大統領によって建設されたものであるが、このジェファーソンの「自由の帝国」なる思想のもつ矛盾はアメリカ史の中でいまだに解決されていない矛盾なのである。
③大統領制は民主的か
 世界では、近年、アメリカの大統領選挙は奇妙で不公正な部分が多いという認識が広がっているが、しかしそれでもアメリカ大統領が「強力なリーダーシップをもった自由世界の指導者」であるとされることは多い。とくに日本では、アメリカの大統領制度は民主主義世界における理想的な制度であるというのがいまだに一つの常識である。アメリカ大統領は国民による選挙で選出され、これを中心として行政権は大統領、立法権は議会、司法権は裁判所の専権となるという厳密な三権分立が制度化されているというのである。
 注意すべきなのは、こういう見方は徳川時代の末期からの伝統であった。福沢諭吉だけではなく、たとえば津田真道が幕府の大政奉還を前にして作った「日本国総制度」という憲法草案に徳川将軍家を元首としその名を「大頭領」としたのはアメリカの影響である。第二次世界大戦の敗戦直後に高野岩三郎が作成した「日本共和国憲法私案要綱」も大統領制を提案しているが、それは「天皇制ヲ廃止シ、之ニ代ヘテ大統領ヲ元首トスル共和制採用」「日本国ノ元首ハ国民ノ選挙スル大統領トスル。大統領ノ任期ハ四年トシ、再選ヲ妨ゲザルモ三選ヲ禁ズル」という明瞭にアメリカ合州国憲法を下敷きとしたものである。また日本の議員内閣制を首相公選制によって大統領型に変化させようという議論も自由民主党のなかには根強く存在している。
 しかし、ここでまず問題にしなければならないのは、そもそも大統領制そのものをどう考えるかということであろう。もちろん、現在の選挙システムを抜本的に正した上でということではあるが、この問題は、アメリカ大統領が世界にあたえる巨大な影響からして、どうしてもふみこんで考えておく必要がある。これはむずかしい問題であるが、やはりトクヴィルの見解が参考になる。つまりトクヴィルは「大国では一般庶民の権力欲は小国に比べて激しいが、同時にまた特定の人々の胸中には栄光を愛する気持ちが燃えさかっており、彼らは、人民の喝采を博すことこそ努力のしがいがあり、いわば自分を自分以上のものに高める恰好の目標とみなしている」「大国の方が、政府はより多くの一般的理念を掲げ、先例の繰り返しや地域の利己主義から容易に脱する。その構想には一層の閃きがあり、行動はより大胆である」と述べて、アメリカの大国性に注目しているのである。
 たしかに大統領の問題とは、アメリカのように広大な大国に特有なダイナミズムをどう考えるかにあるのであろう。大統領選挙を勝ち抜いた大統領が「自分を自分以上のものに高め」たかのように幻想し、人びとも「想像上の平等」のなかで、大統領が巨大な人格であり、自分がその一部であるかのように幻想する。そこで大統領の元首としての姿が国民の群集心理の共鳴板として大きな意味をもつことは疑いない。
 神学者のカール・バルトは、その『ローマ書講解』において、政治的な行為のすべてに潜むこのような幻想を「巨人主義」と名付けている。私は、このようなアメリカ大統領制のもつダイナミズムのすべてを、頭から拒否するべきものであるとは考えないが、しかし、それがそのままでは、やはり一つの病であることは疑いない。人間が他の人を飛び越えて一人巨人になれると考えることは神を蔑することである。それを拒否するためには、やはりアメリカの歴史における現実の大統領の行動を具体的に知って歴史的な省察を深めることであり、またアメリカの政治学者が熱心に主張しているようにアメリカ大統領制を世界の政治制度のなかで客観的に考えることであろう。こういう問題での単純なアメリカ第一主義はすでに許されるものではない。
 それを確認した上で、ここで紹介しておきたいのは、政治学のロバート・ダールが、その『アメリカ憲法は民主的か』という著作で述べた次のような感想である。
「子供時代に、私たちは大統領をその偉大さゆえに崇拝することを教わります。そして、大人になると、神話的な前任者たちのような偉大さを達成していないと、大統領をあざけるのです。大統領への両義的な見方は、アメリカ文化に深く根付いているものです。他の発達した民主国家の政治システムと比べると、私たちのシステムは最も不透明で複雑で混乱を起こしやすく理解困難なものであるという気がします。私たちは大統領制の神話的な側面にあまりに深く浸っているので、政治体制が崩壊でもしないかぎり、大統領制を変えようと真剣に考慮することはないでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、私たちアメリカ人は大統領制と一体なのです」
 私たちは、ダールのようなアメリカ政治学界の長老が、このように冷静にして痛切な感じ方をもっていることをふまえて、過不足なく大統領制についての思考を深めていきたいものである。

2016年8月12日 (金)

左翼と右翼ということについて

 私は「保守と革新」ではなく、「保守と進歩」という枠組で物ごとを考えたい。「革新」という用語は曖昧な性格をもっていて(『平安時代』で書いた)、できれば使いたくない。そして「保守と進歩(あるはもっと端的に前進というのがいいかもしれない)」の双方が必要であることは、conservativeとprogressiveと言い直せば明瞭である。歴史家は、現実の仕事としては、どちらかといえば直接には保守conservativeの仕事であるというほかない」と考えている。

 これは「左翼・右翼」という言葉の見直しにも関わってくる。この言葉は、フランス革命の時代の議場の座席から来た言葉であることはよく知られている。この「左翼・右翼」という用語も曖昧な言葉であって、そろそろ退場させた方がよいのではないだろうか。

 もちろん、一般には、左翼が進歩に結びつき、右翼が保守に結びつくということではある。しかし、現実には、問題はそんなに単純ではない。左翼・右翼というのは、ようするに「現在」に対する態度であって、「過去と未来」をふくむ「時間」には関わらない言葉である。それが「左翼・右翼」という空間に関わる表現をもっていることは、それが現在への態度を強く問う姿勢の位置を示す言葉である事情をよく示している。それはいわば「空間」に関わる言葉、自己の場所取りに関わる言葉なのである。そして左翼と右翼というのは、相互の論争を中心に組み立てられた言葉である。それは直接には現在の捉え方の論争であって、その場合、両者とも、自己を「現在」の支配的価値感情からは離れた位置に場所をとる。そういう位置からは過去も未来も直線的なものにみえてくる。よくいわゆるマルクス主義は単調な発展史観であるというが、マルクスの歴史学はそのようなものではないと思うが、しかし、「近代的な歴史観」というものがあるとすれば、たしかにそれは単調な発展史観であって、その典型がロストーなどのアメリカ流の近代化論であることは歴史学者にはよく知られていることである。

 そして、このような現在に集中する意識は19世紀・20世紀に特徴的なものではないかと思う。その意味で、左翼・右翼というのはもっとも「近代的」な言葉であって、私は安易な近代拒否には賛成しないが、しかし、この「左翼・右翼」というのは、一種の近代主義であって使用を止めたいと考えている。

 つまり左翼も右翼も社会の現状に対して突出した位置取りをする。そこには社会の現状に対する強い批判(あるいは憤懣)がかならず含まれる。その憤懣の方向が違うために、左翼・右翼の感情的な対立が生まれる。

 「左翼」は、この社会の現状批判において「知性中心主義」をとる。その知性の中身が本当に客観的なものかどうかは別として、「左翼」というものは、とかく理屈が先行するもの、「角がたつ」ものである。これに対して「右翼」の論理は「分かったようなことをいうな」という経験主義であって、熟知した共同的感情をなによりも重視する心意に立つ。その極点がナショナリズムにいく訳である。

 私は、こういう左翼・右翼という心理は、それ自体としては双方にそれなりの社会的根拠があるのではないかという考え方である。もちろん、私は学者なので、第一に知性を重視することを隠そうとは思わない。知性というのが気取っているというなら、いなおった言い方をすると、どうせ角が立つ人間であって、角を立てることを職能にしているという意味では「左翼」的心情に近いということができるだろう。学者は知性の立場に立って、社会から自立し、それに対して批判を貫き、「理屈」で「角をたてる」のがその職能的な役割である。

 批判を第一にしない学問などというのは、(それ自体の価値は別として)社会的な意味は極小になる。しかし、だからといって、共同的感情と了解可能な感覚というものをやはり重視することには変わりない。しばしば「右翼」は「左翼」的なエスタブリッシュメントに対する反感を基盤として生まれる感情であって、これは私は十分に理由があると思う。

 しかし問題は、日本のような社会で歴史学者をやっていると「右翼」であるというのはむずかしいということにある。つまり寺山修司ではないが、「身捨つるほどの祖国はありや」というのが、日本の「民族」の状況である。アジア太平洋戦争の経過からしても、また日本の戦後の支配政党(自民党)がアメリカべったりで「買弁」的、「売国」的な姿勢をとっている関係からいっても、日本には普通の右翼というものが成立する条件がほとんどといっていいほど存在しない。安倍政権の動きなどは、その矛盾に突き動かされているのだろう。それにも関わらず、アメリカ一辺倒なところはまったく変わらないから、歴史家からみると無知の骨頂で喜劇的なものにみえる。

 こういうなかで、歴史学者は、いわば「保守的左翼」という立場をとるのが普通になっていくのではないかと思う。問題は、その場合に共同的な感情性というものが、実際には取りにくくなることである。感情がゼクテ、セクト的な感情でしかなくなってしまう危険である。そうであってはならないだろう。

 そもそも、右にふれた「現在の支配的価値感情」が二重底になっている状況、つまり現状の社会意識のきわめて複雑な状況そのものを相対化することこそが第一であって、古い言い方をすれば「右も左も我が祖国」というのが歴史家としては必要な心がまえだろうと思う。ようするに左翼・右翼という二項対立的な図式で、自分の立場を表現することはできないのである。「左翼・右翼」という19世紀的な分類法は意味を失っているのではないだろうか。少なくともそういう風に問題をみたくないと思う。

2016年7月12日 (火)

土曜日に東大の本郷で、九世紀の肥後地震について講演します。

今週土曜日に東大の本郷で講演します。15時から18時です。法文1号館215教室

詳細はhttp://www.sus-humanities.l.u-tokyo.ac.jp/etc/20160716_leaflet.pdf
下記に貼り付けましたが、見えるかどうか。

 「地震古記録にサステナビリティを学ぶ」というテーマで、私は「八・九世紀の肥後地震と大地動乱の時代」というテーマです。

 都司嘉宣先生は(前東京大学地震研究所)は「過去の大地震のたびごとに現れた機転の英雄たちに学ぶ」というテーマです。

 参加無料。どなたでもご参加いただけます。ということです。

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