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2017年3月19日 (日)

3月17日前橋地裁判決ーーー3,11後、初めて国家の中から正しい声が聞こえた

3,11後、初めて国家の中から正しい声が聞こえたーー3月17日前橋地裁判決

 前橋地方裁判所の原道子裁判長は2002年年7月に政府の地震調査研究推進本部が発表した巨大地震の想定に基づいて、国と東京電力はその数か月後には巨大な津波が来ることを予測できたと指摘し、それにもとづいて原発事故についての国の責任を認定し賠償を要求する原告(県外に避難した住民一三七人)の訴えを正当としました。
 
 賠償金額は総額3855万と少なすぎると思いますが、これは画期的なことで、国家機構の中から、はじめて常識的な声がでたということだと思います。

 これは地震本部が二〇〇二年に決定した日本海溝地震の長期評価をどう考えるかということになりますので、ことは原発事故をこえて、東日本大震災全体の賠償をどうするべきかに関わってきます。


 つまり、長期評価は三陸沖から房総沖までM8,2の津波地震を予知しましたが、中央防災会議は多くの地震学者の反対にもかかわらず、それを岩手中部で津波波高が高かった明治三陸津波のみに限定してしまいました。そのためは岩手南部の陸前高田市以南で防災体制が不十分となり、3,11で犠牲となった方の八割は、そこに住んでいた訳です。たとえば名取市では長期評価にあもとづいて、高さ8メートルの津波を予想した津波防災マニュアルを作成したが、2008年2月、中央防災会議の想定津波高2,六㍍に従って地域防災計画を下方修正し、津波被害が拡大したことがよく知られています(津久井進『大災害と法』岩波新書141頁)。

 ようするに中央防災会議は原発事故に責任があるだけでなく、一万5000人ほどの人の死に責任があるのです。そして問題は、そうだとすると、この前橋地裁の判決を延長すれば、国は、上記の宮城以南で死去した人びとの命の相当部分に責任がある。それは人災という以上に、政府が地震学者の意見を押し切って誤った決定をしたことの直接の結果であるということにならざるをえないことです。

 この経過に責任のある中央防災会議の責任者は首相の小泉純一郎氏です。国民が災害を予知するシステムはあったのに、政治家と官僚が重大な過誤をおかしたのです。

 
 長期評価の責任者であった地震学の島崎邦彦氏は、このとき中央防災会議事務局に押し切られたことについて人生最大の失敗であったとされています。これがなければあれだけの人が死に、甚大な原発事故が起こることはなかったのです。

 一部には、 「地震学は南海トラフ巨大地震ばかりいって陸奥沖海溝地震をいっていないではないか」という意見があります。しかし、これは巨大な誤解だったということです。

 つまり、中央防災会議が長期評価を認め、それにもとづく防災と調査の体制を強化していれば、二〇〇四年に決定された日本海溝地震についての特別措置法は、大規模地震対策特別措置法に近いものになったはずです。大規模地震対策特別措置法の地域規定は、南海トラフ地震関係しかされていませんが、法の趣旨としては南海トラフ地震に限定されているわけではありません。実際に特別措置法には研究の進展によってそういうことがありうるとされているのですから(第四条)。全体としてはこれをサボったと評価すべきものと思います。このサボタージュがなければ、私たちが目の前にしている風景はまったく異なっていたはずです。


Cci20170319

 添田孝史『原発と大津波』(岩波新書)によると、このような決定に責任のある政治家と高級官僚や中央防災会議事務局トップが、何をどのように判断したかの経過とその反省の記録も存在しないという(最近の情況からみると、実際には存在し隠蔽しているのではないかと思う)。

 ドイツではライン川の氾濫についても厳しい賠償訴訟が起きた。ヨーロッパでならば、このような行動に対しては厳しい賠償訴訟が起き、また国家犯罪として弾劾されて当然のものである。

  以上は雑誌『経済』今月号(2017年四月号)で弁護士の津久井進氏との対談でくわしく述べました。

2017年2月27日 (月)

南海トラフ巨大地震と『平安京右京七条一坊七町跡』

以下、京都市埋蔵文化財研究所からいただいた報告書『平安京右京七条一坊七町跡』への礼状ですが、その次に9世紀の南海トラフ巨大地震についての私見の論文を載せました(再掲、加筆)。

拝復
 『平安京右京七条一坊七町跡』を御送付いただき、たいへんにありがとうございました。
 放射性炭素の分析によって、やはり九世紀の地震であることが確定ということ、文献資料の多い九世紀京都地震の初めての確認となり、たいへんに大きな成果と存じます。

 また放射性炭素のみでなく土柱試料のX線写真による地震動による撹乱変形構造の観察の結果の報告、そういうことが可能であることを知りませんでしたので、たいへんに驚きました。

 土木工事の際の地質調査情報を公開し、データベース化することを学術会議が提言しておりますが、今後、このような分析が発掘調査時のみでなく、一般工事でも必要な費用と手間をかけて行われるようなこととなれば、相当の詳細な観察が可能になるように思いました。

 今後もこの時期の調査が進み、面的に京都地震の実態が浮かび上がりますように。
 御仕事の発展を御祈りします。
敬具

二〇一七年二月二七日
保立道久

 なお放射性炭素の分析ですと、九世紀前半の可能性もあるのではないかとも考えます。
 推測が多すぎますし、発表したものにミスが多く修正をしたというつたないものですが、何かの参考になればということで論文を以下に転載しました。


八世紀末の南海トラフ大地震と最澄  保立道久

原掲載、『CROSS T&T』No.52.2016.2(一般社団法人 総合科学研究機構)。
ただし、刊行論文には大きな錯誤があり、刊行直後に読んでいただいた石橋克彦氏の指摘をうけ、論の基本部分に変更を加えた。氏の教示に感謝したい。なお論の責任はすべて筆者にあることはいうまでもない。(2016,4,4。さらに加筆2017,2,27)。


 よく知られているように、南海トラフ地震は、だいたい100年から150年の周期で発生するといわれている。14世紀南海トラフ地震(1361年)以降については、それを語る資料が明らかになっているが、しかし、それ以前については、その可能性のある地震は、まず265年の間をおいて11世紀(1096年)、209年の間をおいて9世紀(887年)、203年の間をおいて7世紀(684年)という間隔になってしまう。これはおもに、それらの時代では正確な文献史料が少ないことによるのであろう。しかし文献史料の読み方によっては、さらに若干の推測が可能となる。

 ここで述べるのは、八世紀末期にも南海トラフ地震があったのではないかという推定である。それは797年(延暦16)8月の地震であって、もし、この推定が成立するとすると、九世紀南海トラフ地震(887年)と七世紀南海トラフ地震(684年)の間で、現状、203年の間隔があるものが、90年と113年という間隔に分割されることになる。

 さて、この797年(延暦16)は、いわゆる平安遷都の直後の時期で、この時期は六国史でいえば『日本後紀』という記録があるべき時期なのであるが、この時期、残念ながら『日本後紀』の伝本はない。六国史の抄録本の『日本紀略』の8月14日条には「地震暴風」とあるのみである。これだけでは地震の詳細はわからないが、しかし、幸いなことに菅原道真が「六国史」などを主題ごとに整理して編纂した『類聚国史』(巻171、地震)には、この地震が「地震暴風。左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」とやや詳しく記録されている。『日本後紀』の原文はもっと詳しかった可能性はあるが、この記録によって「地震・暴風」の被害が相当のものであったことがわかるのである。

 もちろん、史料に余震がみえないのは南海トラフ地震ではしばしば余震が続くとされることからすると問題があるが、『日本紀略』も『類聚国史』も抄出にすぎないから、余震についての記載が省略されることは考えられるであろう。それよりも問題なのは、「地震暴風」とあることで、そこから、被害は地震被害ではなく、実際は暴風被害であったのではないかという意見もあるかもしれない。しかし、この頃、坊門はまだ新築であったはずである。それが左右の両京で倒壊したというのをすべて暴風とするのはむずかしいのではないだろうか。

 もちろん、これは蓋然性の指摘にすぎないから、この地震の規模は、将来、考古学が葛野遷都直後、いわゆる「平安京」の最初期における坊門の発掘調査に何カ所かで成功した後になるかもしれない。事柄が大きいだけに、そういう証拠がなければ自然科学の側で史料として使うのは難しいだろう。しかし、歴史学の側から、この地震の大きさを傍証する上では、この地震が早良親王の怨霊が起こした地震と考えられたことが大事なように思う。

 この早良親王とは、時の天皇、桓武の同母の弟で皇太子の地位にあった早良親王のことである。早良親王は、785年、大伴家持などの教唆によって、桓武の近臣、造長岡京使、藤原種継を暗殺し、謀反を起こそうとした廉で処断された。しかし、彼は最後まで罪を認めず、しばらく後になって桓武も冤罪であったとして、その霊に陳謝したという人物である。『歴史のなかの大地動乱』で述べたように、聖武天皇の時代から怨霊が地震を起こすという恐れは朝廷に根付いていたが、桓武の父、光仁天皇も同じであった。つまり光仁は、妻の井上内親王と(桓武の前の皇太子)他戸親王を迫害し死に追い込んだが、775年、彼らが幽閉された場所で死去した直後に地震が連続した。恐怖にかられた光仁は内裏に僧侶二百人を集めて大般若経の転読を行い、「風雨と地震」の「恠異」を払う大祓を行ったという。

 そして桓武にも同じことが起こったのである。つまり、この七九七年(延暦16)地震の三年前、七九四年(延暦一三)正月一五日に、『類聚国史』によれば小さな地震が起きているが(『日本紀略』には載っていない)、その六日前、「雉あり、主鷹司の垣の上に集まる」(『日本紀略』同日条)という事件があった。主鷹司の垣に雉が集まるというのは、当時の人びとにとって異様なことにみえたであろうが、実は、雉は雷電や地震を察知してなくという観念があった。その種本は「説文」に「雷の始動するや、雉すなわち鳴きてその頸(くび)を句(ま)げる」とあるように中国にあったが、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で論じたように、日本でも、そういう史料は多い。この主鷹司への雉の群衆は、三日後の地震の予兆と受け止められたに相違ない。そして、四月に日食の恠異があった上で、五月二八日、時の皇太子、安殿親王の妃の藤原帯子が「忽ちに病あり。木蓮子院に移す。頓逝」という大事件が発生した。しかも、六月一三日にまた地震があったのである。

 そもそも、この三年ほど前、七九一年一〇月から皇太子安殿親王は重病に陥っており、それは早良親王の怨霊の祟りとされていた。私は、これによって長岡京から愛宕京(平安京)への遷都がすすめられたと考えている。そういう状態のなかであったから、皇太子妃の頓死が深い恐怖をよんだことは明らかである。

 こうして六月末には諸国から人夫が動員されて新京を掃除し、七月一日には東西市も移ったのですが、同じ一〇日、「宮中ならびに京畿の官舎および人家に震す。あるいは震死者あり」という落雷事件が起きました。落雷と地震がどちらも怨霊の仕業で深く関係するものと考えられていたことは『歴史のなかの大地動乱』にも書いた通りである。そして、だめ押しのようにして九月一日・二日と連続して地震が起きる。桓武は、これによって耐えられなくなったものとおぼしく、その翌日三日に、天下諸国に、三日間、殺生禁断をし、仁王経を読誦するように命令を下した。そして二八日には諸国名神に奉幣し、二九日には念を入れて新宮(新内裏)で仁王経を読誦したのちに、一〇月五日、桓武は愛宕京に移動したのである。

 冒頭で南海トラフ巨大地震ではないかと推定した七九七年(延暦16)八月地震は、その三年後に起きた。しつこいようだが、その経過を確認してみると、『日本紀略』によれば、この地震の三ヶ月前、五月一三日に「雉あり、禁中正殿に群集す」(『日本紀略』同日条)という事件があり、さらに、この雉事件の六日後、『日本紀略』五月十九日条に「禁中并に東宮において金剛般若経を転読す、恠異あるをもってなり」と金剛般若波羅蜜経の転読が行われたことが記され、さらにその翌日、二〇日条に二人の僧侶を早良親王の陵墓のある淡路国に派遣し、仏経を転読させて、早良の霊に陳謝したという経過である。

 問題は、五月十九日条にある金剛般若経転読の対象となった「恠異」とは何かということになる。その中身については、これまで「どんな恠異があったのかわからない」(村山修一『変貌する神と仏たち』人文書院、八九頁)、「宮中での不思議な出来事」(大江篤「早良親王の霊」(『史園』1号、二〇〇〇年、園田学園女子大学)などとされるのみであったが、それが五月一三日の「雉あり、禁中正殿に群集す」という事件であったことは明らかである。しかも今度は、「禁中正殿」である。桓武朝廷は、三年前の経過を想起して怖気を振るったのであろう。その結果が「禁中并に東宮」における金剛般若経転読であったことは明らかである。

 これまで早良親王の怨霊はもっぱら雷神としての性格をいわれるのみであったが、以上から、早良親王の怨霊が地震を起こす霊威とも考えられていたことはまったく明瞭となる。

 この恐れのなかで、三ヶ月後、七九七年(延暦16)八月地震が発生したのである。このような経過は桓武の王廷に長く続く恐怖をもたらしたらしい。八〇〇年(延暦一九)年六月には富士が噴火し、火口の光が天を照らし、雷声が轟く様子が都に伝えられるが、おそらくこれも早良の祟りと考えられたものと思われる。地震霊が富士の噴火霊に転変したというわけである。翌月二三日に、早良に対して崇道天皇の号を追称し、淡路の墓を「山陵」と呼ぶということになったのは、おそらくそれを契機としたものではないだろうか。

 また、私は、この崇道天皇の怨霊から都を守るために羅城門の上に置かれたのが、現在、羅城門の近くの東寺におかれている兜跋毘沙門であったと思う。松浦正昭「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370号、1998年)によれば、この毘沙門天像は、崇道天皇号追贈の4年後、804年(延暦三)8月に遣唐僧、最澄が持ち帰って桓武に献上したものである。興味深いのは、当時、唐で大きな権威をもっていた不空(アモーガヴァジュラ、鳩摩羅什や玄奘とならぶ三大訳経家の一人。七〇五~七四)の訳した毘沙門天王経の偈の冒頭部分には、「假使(たとひ)日月の、空より地に墮ち、あるいは大地傾き覆ることあるとも、寧(やす)らかに是(か)くのごとくある事、應に少しの疑いも生ずべからず、此法は成就すること易きなり」とあることで、つまり、「大地傾き覆る」ような地震があっても、毘沙門天の経の功徳によって安らかにすごすことができるというのである。

 結局、この年末に桓武は身体の調子を崩し、翌年にかけて淡路の崇道天皇陵のそばに寺院を建てたり、「怨霊に謝す」ため、諸国に郡別に倉を作って崇道に捧げるなどの措置をとったが、3月に死去してしまう。しかし、最晩年の桓武が怨霊からの守護を求めて最澄に帰依したことの影響はきわめて大きかった。最澄が八一二・八一三年(弘仁三・四)にまとめた「長講法華経先分発願文」は、「崇道天王」を筆頭として、井上内親王、他戸親王、伊予親王・同夫人などの怨霊を数え上げている(櫻木潤「最澄撰「三部長講会式」にみえる御霊」(『史泉』九六号、二〇〇二年)。

 最澄の『顕戒論』(巻中)の一節「災を除き国を護るの明拠を開示す、三十三」が、護国仁王経の力によって、「天地の變怪、日月衆星、時を失い、度を失う」などの「疾疫厄難」を起こす「鬼神」を除き愈やすことができるとし、その天変地異の例として「日の晝に現われず、月の夜に現れず」「地に種種の災ありて、崩裂震動す」などを上げたのは、まさにこれに対応していると思う。

 説明は紆余曲折したが、私は、こういう文脈で、七九七年(延暦16)八月地震を「崇道天皇地震」と呼んでおきたいと思う。そして、この地震が桓武がその最晩年を恐怖の中で過ごさせるだけの規模をもったものであったと推定しておきたいのである。

 さて、私は3・11の直後に東京大学地震研究所で開催された研究集会に出席したことが縁となって、2012年12月より科学技術学術審議会地震火山部会次期研究計画検討委員会に歴史学関係の専門委員として参加した。参加して驚いたのは、地震噴火の研究予算が年に4億しかなく、研究体制と人員の手当もきわめて不十分であることであった。しかも、地震学の研究をサーヴェイしてみて、3・11のような巨大な地震が起こりうることは、たとえば産総研の行った地質学・地震学の調査によって以前からはっきりしていたことを知った。

 もちろん、現在の所、何時、どこでどの程度の規模の地震が起きるということを、つねに確実に予測することは不可能である。しかし、「予め知る」という意味での「予知」は相当の確度でだされており、それに対応する警告もされていたのである。ここでは、その証拠として、日本地震学会の出版した『地震予知の科学』(東京大学出版会、2007年)に「東北から北海道の太平洋側のプレート境界では、過去の津波堆積物の調査によって、五〇〇年に一度程度の割合で、いくつかのアスペリティをまとめて破壊する超巨大地震が起きることもわかってきた」とあることをあげておきたい(前回の奥州大津波は1454年であるから、これはそろそろという予知であった)。

 政府や責任諸官庁あるいは東京電力などは、それらの警告を無視し、マスコミも、地震学の研究者を「予知」できないものを「予知」できるといって攻撃し、地震学界を一種のスケープゴードのように扱ったのである。これはとても科学先進国とはいえない事態であったというほかない。

 右の地震火山部会の建議「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について」が、大略、「地震・火山観測研究計画を地震学・火山学などの自然科学としてでなく、災害科学の一部として推進する。災害誘因(自然現象)のみではなく、災害素因(社会現象)も見通して学融合的に災害を予知する」という趣旨のものとなったのは、それを踏まえたものであった。この建議については2月刊行の『地殻災害の軽減と学術・教育』(日本学術叢書22、日本学術会議編)に詳しく解説される予定で、私も、そこに歴史学からの意見を書いたので、そちらを参照していただければと思う。

 こうして、私は、東日本大震災も東京電力の原発事故も人災であったことを詳しく知って一種の義憤にかられざるをえなかった。これを忘れずに、歴史学者として、命のある間は、歴史上の地震の問題についての研究に取り組みたいと考えている。ともかく、地震の経験と、それへの畏怖は、以上に述べたような政治史や宗教史のみならず、日本の歴史において根本的な意味をもっていることは明らかだからである。

2017年2月 6日 (月)

アメリカ連邦制とユナイテッド・ステーツの翻訳

 依然としてアメリカ論をやっています。一番難しいと考えてきた連邦制論についてのメモを終えました。

 小説家の司馬遼太郎は、その『アメリカ素描』というエッセイで「日本はできるだけ法の厄介にならずにすませたい」という国で、「メイフラワー号の始祖たちが最初に法によって個人を明確にし、政治団体をつくってそれへの忠誠を誓わせた国とはちがっている。法によって州ができ、州の連合国家をつくり、さらに法が元首の主人であるとしたこの人口国家にあっては、法という文明材を信ずることなしに生きてゆけない」と述べている。この記述は歴史家から見ると、とても現在の学問水準には耐ええないものである。こういう通俗常識を打破するのは歴史学の重要な役割だと思う。


 アメリカは、世界でも第四位の面積をもつ大国であるが、その大国意識はアメリカが一つのステーツ(国家)ではなく、五〇のステーツ(州)と一つの特別区(ワシントンDC)をもっていること、つまり連邦国家であるということにも支えられている。アメリカは連邦制を国家意識の基礎にすえている国なのである。そして、それは連邦を構成する「邦=州」はワシントンに対抗する州権をもっているのだ、だからアメリカは民主主義なのだという考え方にまでつながっている。

 歴史家から見ると、連邦国家は、前近代から近代への変化の時期に、その国家がどのような経過で設立されたかに関わっている。それは前近代から近代にかけての変化を国家論として理解する上での根本問題の一つである。つまり、近代以前には国家領域のなかにさまざまな民族的集団(エスニック・グループ)が含まれていたことが多い。一般に連邦制はそれらの諸地域あるいは諸民族がどのように連合し、あるいは統合されたかということを反映しているのである。そして、アメリカの場合は、いうまでもなくネーティブ・アメリカンの大地を奪取した植民地権力の連合から始まっており、この連邦国家は根本的にはとても民主主義的なものとはいえない。

 さて、「United States of America」という国名は、アメリカ独立宣言の直後に作成された一三の植民地権力の「連合規約」で定められたもので、この段階での一三植民地権力は国家そのものであり、それ故にここではStatesは「州」ではなく「邦」と訳される。これはたとえば一八一五年のウィーン会議の議定にもとづいて結成されたドイツ同盟(Deutscher Bund)と同じことであるという。このときは国家連合であって、まだ連邦ではなかった。各「邦」(ドイツでは各領邦国家)は、おのおの「邦憲法」をもち、主権は、そこにあったのである。

 これが約一〇年続いた後、一七八七年の憲法によって各「邦」は外交・軍事などの特定の権限を連邦に委譲し、連邦議会が立法権、連邦裁判所が司法権をもち、これによって連邦が形成された。アメリカの連邦制を決定しているのは憲法である。主権を憲法では連邦に国防・外交・マネー発行などの権限を連邦に委ねるという構成をとっており、それは逆にいえばそれ以外の行政権限は州にあるということを意味している。それに対応して民法・刑法・商法などまで州ごとに異なっており、犯罪の罰則まで異なっている。

 それでも、この連邦は南北戦争までは実質上は「州の連合体」の側面が大きく残っていたが、南北戦争における北部の勝利をへて連邦政府の権限が優越する側面が強化される。それは南北戦争の後に、ナショナルという名称を冠する法律がゲティス・バーグの戦いの年、一九六三年に初めて制定されたこと(National Banking Act)などに象徴されている。そして、フランクリン・ローズヴェルトのニューディールのなかで大統領権限が拡大し、ここでアメリカは連邦国家というスタイルを残しながらも、実質上は単一的な強力な国民国家に変貌した。

 これがアメリカの連邦制の簡単な経過であるが、世界的には連邦制国家はきわめて多い。具体的に挙げれば、まず英米法に属する国ではカナダ、オーストラリアがある。両国はアメリカよりも独立の時期が遅いためもあって、憲法の文面でも中央の力がアメリカよりも強いが、オーストラリアの正式国名Commonwealth of Australiaはオーストラリア連邦と翻訳されることも多い。とくにヨーロッパに連邦制が多いことが注目される。フランス革命で極端な中央集権化を追求したフランスは例外としても、ドイツはいうまでもなく、スイス連邦、ベルギー王国、オーストリアは明瞭に連邦制であり、がイギリスも、正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」であって、唯一のイギリス王をいただくという意味では連邦制ではないが、アイルランドのほかスコットランド、ウェールズも連邦的分権性をもっている。スペインがバスクの分離要求にさらされ、イタリアでも北部同盟が連邦主義をかかげていることはよく知られている。

 一般的にいってヨーロッパでは国内の民族的集団が残りやすい有利な条件があったということになるだろう。もちろん、ヨーロッパの外でも、国名に連邦をふくむ諸国は、たとえば、ロシア連邦、アラブ首長国連邦、ミャンマー連邦共和国(Union of Myanmar)、ブラジル連邦共和国などがあるが、ヨーロッパに連邦制国家が多いのは、一六世紀以降、ヨーロッパが世界の他地域を支配して、その地域を破壊してきたのに対して、ヨーロッパ内部の枠組みは相対的には維持されたためであると考えることができるだろう。
 その意味でまた逆に、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどの植民地に由来する諸国で連邦制が多いのは、原国民(ネーティヴ)を抑圧して入植した植民集団による領土分割がきわめて強力であって、それが連邦制を結果していったということになる。

合衆国か合衆国か、アメリカ連邦か

 アメリカ史研究の中でも、このようなアメリカの連邦制はもっとも理解しにくいものである。しかし、これは根本的な問題なので、それを見直すために、歴史学の立場から翻訳語のもつ問題に迫っていくこととするが、ここで問題は、アメリカの正式国名、「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」の翻訳が問題になる。

 この国名は素直に「アメリカ連邦」と訳すべきものであろう。世界で連邦制国家が主要な国家の姿の一つである以上、それが国家論としても正しい呼称であろう。それはドイツの正式国名、ブンデス・レプブリク・ドイチェランドBundesrepublik Deutschlandがドイツ連邦共和国と訳されるのと同じことであるはずである(ブンデス=同盟=ユナイト、レプブリク=共和制)。しかし、日本をふくむ東アジアでは「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」は伝統的に「アメリカ合衆国」と翻訳されてきた。最近では、ジャーナリストの本多勝一が提案した「アメリカ合州国」という訳語も使われているが、考えてみると、「合衆国」にせよ「合州国」にせよ、世界に存在する他の連邦国家と区別して、アメリカについてのみ、特別な国名をあたえるというのは東アジアに独特な奇妙な現象ではないだろうか。

 「アメリカ合衆国」は、最初、アヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしく、日本でも、徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という翻訳が使われた。しかし、「合衆」というのは、中国の古典に見える「衆人を和合させる」という意味の言葉で、「合衆国」とは「王のいない国=共和国」の意味で作成された言葉である。一九世紀前半までヨーロッパから伝わってきた世界の諸国家についての情報は、世界には七つの宗主国、神聖ローマ帝国、ロシア帝国、オスマン・トルコ帝国、ペルシャ帝国、ムガール帝国、清帝国、さらに日本帝国の七つがあるというものであった。当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。それを知った中国の人が無理して古典から拾い出したのが、「合衆国=王のいない国」ということだったのである。ようするに、中国で作られた「アメリカ合衆国」という翻訳は、「United States of America」という英語を直訳したものではなかったのである。

 私たちは「合衆国」という言葉に国王のいない国というものに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きを見るべきなのである。福沢諭吉が、『学問のすすめ』の冒頭にアメリカの独立宣言を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と翻案して掲げて人々を驚かしたのも同じことだろう。福沢の『文明論之概略』(巻一・一)が「合衆政治」という言葉を共和政治と同じ意味で使っていることも、アメリカ合衆国=王がいない国という通念を繰り返したものである。その意味ではこの言葉は、明治以来の日本に染みついた王のいない国柄、民主主義のお手本=アメリカという観念を言葉として支えるものだったのである。

 なお、本多勝一が、その興味深いルポルタージュ『アメリカ合州国』で提案した「合州国」は「ユナイテッド」を「合」、「ステーツ」を「州」と訳し、「合衆国」と同じガッシュウコクと読ませようというのである。「ステーツ」は「国家」という意味だが、たとえばヴァーモントは「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」であり、これをヴァーモント州と訳す。だから「ユナイテッド・ステーツ」も「合州国」と訳せばいいという訳である。たしかにこれは翻訳の正確さという点では一つの前進である。そのため相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を使うようになっている。しかし、この訳語もうまい語呂合わせではあるが、「アメリカ連邦」という単純な翻訳に劣るというほかないだろう。

 むしろ問題は、これまでUnited States of Americaが素直に「アメリカ連邦」と訳されなかった理由にある。それは端的にいえば、この訳語ができた一九世紀後半は、東アジアにおいてむしろ前近代的な国家の分権性から中央集権的な国家を形成する動きが一般的であったためであろう。たとえば、この時期、一九世紀後半に独立の王朝をもつ琉球国家を強制的に「処分」編入し、アイヌ諸民族の大地(アイヌモシリ)を奪い尽くした。そこでは連邦どころか自治権も否定されたのである。もちろん、そもそも日本自体も徳川帝国までは、幕府と藩の両方ともが主権をもつ一種の連邦制の複合国家であったことはいうまでもない。しかし、それは明治維新において、「封建的」なものとして否定されるだけで、近代的な連邦制や地方自治という方向には動かなかったのである。現在の日本国がまったく連邦制的な要素をもたないのは、なかばは明治維新によって、またあるいは急いで資本主義帝国になるために大日本帝国は例外的といえるほど連邦制の色彩のない単一の国民帝国となったのである。

 前述のように、国名として連邦制を名乗らないものをふくめれば、世界では連邦制国家は普通の国家のあり方である。日本人が連邦制という言葉を忘れがちなのは、近代日本が連邦制の対極にある国家であったからであり、「琉球処分」もアイヌモシリの略奪も忘れ去られがちで、いわゆる「単一民族幻想」が一般的であったためであろう。その意味でもアメリカ連邦という国家論的にも正しい訳語に切り替えたいものである。

連邦制の財政構造とナショナル・ミニマム
 イギリスのスコットランドやスペインのバスク、さらには旧ユーゴスラビア連邦の四分五裂の状況を考えれば明らかなように、連邦制の問題は二一世紀においても世界史の根本問題である。もちろん、各国での連邦制の実態はきわめて多様である。連邦制の共通性は、ほとんどそれらの国家がなんらかの形で連邦形式の憲法をもっていることにつきるといってよい。たとえばアメリカを連邦国家というのは、まずは、アメリカが国家連合から連邦という経過を辿り、その国家法(連邦憲法ー州憲法)が連邦制のスタイルをとっているためである。

 しかし、その連邦制の現実は憲法の文面だけからは判断できない。それはまず連邦に参加している各「邦」が、どの程度、団体としての自治・自律の権限をもっているか、また連邦国家において各「邦」の水平的な協同や意思統一が、実際の重みをどの程度もっているかに関わってくる。もちろん、そのような「邦」の自立性や水平的な連合が連邦制の理念にふさわしい形で存在している連邦国家は現実には存在しない。その意味では連邦制は本質的には一つの理念にとどまっているというべきであろう。しかも問題となるのは、このような連邦制の具体的な姿は、実際には連邦を構成する各「邦」の実質に関わることである。「邦」が、その基礎にある自治体(タウンシップあるいはコミューン)をどこまで実質的に代表しているか、その意味で「邦」が団体としての自立性をどこまでもっているかという問題である。

 そもそも、現代の諸国家は、一般に①国民国家(Nation State)、②広域行政府(Local government)、③基礎自治体(Commune)からなる三層の構成をとっているが、連邦制とは直接には①と②のレベルの関係である。②の広域行政府が、さまざまな経過によって成り立った民族的・文化的・歴史的な独自性をもつものとして、法的に一つの「邦」として認められている場合を連邦制というのである。しかし、その連邦制の実質は、とくに②ー③の関係、②広域行政府(「邦」)が③の基礎自治体をどこまで実質的に代表しているか、さらに住民の自治が基礎自治体から広域行政府にいたる団体にどこまで貫いているかによって大きく異なってくる。

 アメリカを例に取ると、五〇の州の下には、現在、約五万の基礎自治体がある。その内訳はだいたい全国で約三〇〇〇の「郡county」、そしてその下部単位の「町town」が同じく約一万七千、自治性の強い「市municipality」が同じく約一万九千、さらにアメリカに独特なものとして同じく約一万四千の「学区」がある。警察や消防は自治体警察・自治体消防で、刑務所も州のみでなく、自治体で運営するなどのことはよく知られているだろう。さらにただでさえ複雑なアメリカの地方制度をいよいよ複雑にしているのは特別区なるもので、これは消防・土壌保全、灌漑、上下水道などの単一のサーヴィスを提供するだけの団体であって、約三万にも上るという。

 問題は、こういう①国民国家(Nation State)、②広域行政府(Local government)、③基礎自治体(Commune)という三層構造は、その国家が連邦制か非連邦制かに関わりなく、一般的であることで、右に述べたように、連邦制とは、そのうちでも②が民族的・文化的・歴史的に特殊な位置をもっている場合をいうことである。逆にいえば連邦制でない場合でも、地方自治の拡張にともない②のレヴェルに強い団体自治権が成立した場合は、連邦制国家と非連邦制国家は機能的には無限に接近していくことになる。現在においては、全体として連邦制と地方自治はしばしば相似した姿を示すのである。

 そして連邦制にせよ、地方自治にせよ、何よりも重要なのは、住民の意思が実際に、各広域行政府や基礎自治体の団体自治にどこまで反映しているかという住民の自治の問題である。バーニー・サンダースがいうように民主主義は下から上へ、ボトムからトップへ貫徹すべきものであり、住民意思が基礎自治体に貫徹し、基礎自治体同士の連携関係に貫徹し、それが広域行政府に代表され、広域行政府の連携を前提として国家権力の総体に貫徹していくこと、そしてそのようなボトムからトップへのサイクルが繰り返されることこそが、地域に基礎をおく民主主義なのである。それは、それを保障しうるような経済的・財政的なシステムをともなわなければならない。

 そして、そのような経済的・財政的なシステムは、現代においては、たんに基礎的な自治体・コミューンのレヴェルで閉じているものではなく、③コミューンをふくむ、①国民国家、②広域行政府との連携・補完の関係において実現されるものである。二〇世紀の国家は、連邦制か非連邦制かをとわず、基礎的な自治体・コミューンに対する財政的連携と補完の関係を発展させてきた。

 たとえば連邦制のカナダ、ドイツ、オーストリアでは、各基礎自治体の公共サービスにナショナル・ミニマムを保証するための財政調整制度が憲法で保障されている。そこには「連邦議会とカナダ政府は、州政府がほぼ同様な課税水準で、ほぼ同様な水準の公共サービスを提供するに足る歳入を確保できることを保証するように平衡交付金を支出する原則に拘束される」(カナダ憲法第三六条)とあって、平衡交付金という制度によって地域格差是正の処置がとられている。ドイツでも同じような財政調整制度が存在し、それはドイツ連邦共和国基本法に、その連邦の性格が「民主的であると同時に社会的な連邦国家」(20条)であると規定されていることに支えられているもので、連邦は「ラントの範囲をこえて平等な生活諸条件equal living conditionsを創出するために」立法権を認められている(基本法第72条二項)。

 このような制度によって基礎自治体・コミューンが住民に教育・福祉・インフラその他の公共サービスのナショナル・ミニマムを保障し、その点では基礎自治体・コミューンが水平的で平等な条件をもつことが、国民国家や広域行政府が民主主義的なシステムをもつ上で決定的な意味をもつことは明らかであろう。これが、いわゆるドイツのワイマール憲法において確認されたような基本的人権の一部に社会的・経済的権利をふくめて考えようとする憲法思想、そしてそれとなかば重なる形で広がっていった福祉国家の思想を前提としていることはいうまでもない。

 また非連邦制の国家として日本を例にとると、日本の自治体の総予算うちで地方税の占める割合は長く四割を切り、六割が政府からの補助によっている。そのため長く日本の支配政党である自民党や企業メディアは、このような状態を「三割自治」と称して、「道州制」によって独立採算にすべきであると主張してきた。たしかに自治体予算が過剰で無計画な「公共事業」に割かれ、政府補助に使途規定のものが多いなかで、自治体財政が硬直化しがちであることは事実であり、それは解決しなければならない問題である。しかし、だからといって、自治体予算のうち教育やインフラなどの必須的経費が確実に保証されていることをやめてしまっては元も子もない。このような保障は、日本国憲法がすべての国民に「健康で文化的な生活をおくる権利」を基本的な人権として認め、「国はすべての生活部面について社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(第二五条)としている結果であることはいうまでもない。

アメリカの連邦制の貧困な実態
 問題はアメリカでは、後にふれるニクソンの時期の政策を例外として、以上のような地域財政調整制度がまったく存在しないことである。そもそも、アメリカ連邦憲法は一八世紀後期に成立したもっとも古い憲法であり、補正箇条によって一定の補正が行われてきたとはいえ、依然として、基本的な人権と社会権の項目がないという現代的な憲法思想へのグレードアップをサボってきた旧式のものである。アメリカは、他の先進諸国とは相違して、地域自治体の財政を調整し、教育や社会福祉についてのナショナル・ミニマムを保障する財政調整制度を欠くきわめて特異な国家なのである。

 アメリカの自治体はたしかに六六%を自主財源によってまかない、残余が補助金となっている点では日本の自治体と真逆である。しかし、これは決して地域に基礎をおく民主主義といえるようなものではない。その財政はつねに厳しく、しかも、初等中等教育費(三六,四%)と道路など建設維持費(五,三%)、治安警察費(八,八%)、社会サーヴィス保障費(一一,七)などの必須的経費で七割以上を占め、予算の硬直化は日本よりも激しい。教育予算をとれば、その財源は自治体の資産税と州からの補助金が基本であり、初等・中等教育への連邦政府の支出は総額の一割にもみたない。公立学校はつねに予算不足に悩まされ、しかも学校区ごとの一人あたり支出に著しい格差が生じる。ほとんどの公立学校の予算はその学校が存在している場所からの税収で運営される。したがって貧困な地区の予算は当然少なくなる(ライシュ。格差65頁)。また、社会保障については連邦政府からの補助金は原則的にマッチングファンドといわれる地方側の負担を前提としてしばしば同額を援助するスタイルで、社会福祉関係のフードスタンプやメディケイドなどはその形をとっている。そのような条件のなかで、これらの社会保障関係の補助金は実際上は、貧しい州よりも豊かな州に配分されてしまうという。

 しかもアメリカの国家予算は一九一七年、憲法修正箇条一六条によって連邦政府は所得税を賦課徴収する権限を認められて以降、連邦政府がきわだって大きい税金を徴収できるように再編された。大ざっぱにいえば、現在では連邦政府には所得税(個人所得税+法人所得税)の約八割、州政府には所得税の約二割弱、売上税の六割強、そして自治体には資産税の九割以上という配分になっている。そして、税収規模は連邦予算は全税収の六六・八%、州予算は一九・六%、地方自治体は一三・六%に過ぎない。現在ではアメリカの国家財政は極端な中央偏重の税収構造になっているのである。その上、ほぼすべての州憲法で州は財政赤字をだすことは禁止され、公債を組むことも困難となっている。広域行政府や基礎自治体の財政自主権は厳密には形式的なものにすぎないというべきであろう。

 ようするに、これは現代的な福祉国家の常識からいえば、実際上、国家的な責務を放棄し、住民自治の財政的条件を奪い取りながら、その責任を基礎的な自治体・コミューンに押しつけたものというほかないであろう。もちろん、アメリカにおいても州政府や自治体の努力や協同によって相当の事業が可能になる。しかし、このようにして自治権の社会的・経済的な内容の相当部分が骨抜きになっていることは事実でアリ、それを前提とすると連邦制度や地方自治制度の中身として残るものはきわめて寒々しいものになる。たとえば、国家元首クリントンは一九九九年に発した行政指令一三一三二号において「連邦主義とは、その範囲や意味において国民的ではない問題は人々に最も近い政府のレベルで最も適切に対処されるという確信に根ざす」といっているが、これは地方自治をもっぱら地方政府の行政のあり方という狭い範囲に局限しようというものであって、住民が自治体・コミューンとそのネットワークを媒介として国家意思それ自体を積極的に形成していくという発展的な住民自治の発想を最初から排除している。

 日本の法学界では「地方自治の本旨」(憲法九二条)とは、「国民の不断の努力によって保持される」べき基本的人権(憲法一二条)を地域において保障し実現する住民の自治の営為に根付くもので、それを前提として自治体の団体自治があると捉えられている。ところが、日本の自民党がかかげている改憲案は、この「地方自治の本旨」を「地方自治は、住民の参画を基本とし、住民に身近な行政を自主的、自律的かつ総合的に実施することを旨として行う」というきわめて狭いものにしようとしており、法学界からは、これは地方自治を行政の局面、あるいはそこへの住民の参画に限ろうとするものであるという強い批判がある。クリントンの行政指令一三一三二号のいう「人々に最も近い政府のレベルthe level of government closest to the people」なる文言と自民党改憲案のいう「住民に身近な行政」なる文言はまったく同じものであって、たしかに住民自治どころか住民を「身近な」極限された空間に押し込めようとするものであるといわざるをえないだろう。

 クリントンの行政指令一三一三二号が「我々の憲法システムの本質は、公共政策における健全な多様性を促進することにあります。それは各州の人びとが、その諸条件、必要と欲求に応じて採用すべきものです。公共政策に固定的な方針をとることは効果的な問題解決策に到達することを妨げてしまいます」というのは、公共分野におけるナショナル・ミニマムを諦める論理として働き、新自由主義を地域から支える論理となったのである。ナショナルミニマムがないということは行政の責任を曖昧にする。その基点からアメリカの行政のあり方を問うことが、アメリカ国制史の基本問題だろう。

 私は大学は国際基督教大学でアメリカ論を考える時間はたっぷりあったはずで、とくに大塚久雄先生の御意見をうかがう機会があったのに不勉強なままできました。

 以下は、連邦制論に関わって、アメリカの国号をどうするべきかという問題で、以前、合州国の方がよいと書いたのですが、それを考え直したものです。

 日本史研究では、いわゆる複合国家論が一世を風靡したことがありますが、最近のヨーロッパの情勢をみていると、この複合国家論という論点自体は正しかったと考えるようになりました。そういうなかで研究を見直してみたものです。素人の議論ですが、御参考までに。

2017年1月25日 (水)

オオナムチ(大国主)神話と西宮越木岩神社ーー兵庫ラジオカレッジでの放送原稿

 一月二一日の兵庫ラジオカレッジでの放送の原稿です。関西ラジオのページに放送ものっています。


 私は定年になりましたのが、二〇一二年三月でした。つまり、東日本大震災の翌年、震災からちょうど一年後に東京大学を退職したことになります。多忙な時でしたが、その退職直前に岩波新書の『歴史のなかの大地動乱』という本をだすことができました。この本を無理してかきましたのは、いうまでもなく東日本大震災がたいへんにショックだったからです。それまで少しは火山や地震の記録や史料をみていたのですが、これは本気で研究をしなければならないと考えました。そしてそのなかで自分の歴史学の位置や責任を一から考え直すということになりました。

 この本はなにしろ短い間に書いたものということもあって、間違いもあり、不十分なものですが、退職後の五年間、もっぱら地震・火山の研究をしてきました。今日は、そういうなかで気づいた一つの問題をお話したいと思います。それは、西宮市にあります越木岩神社についてです。この神社は、神社の方もいっておられますように、本来は、大国主命を祭るたいへんに由緒ある神社で、『延喜式』という一〇世紀初めの国家の正式の記録にでる大国主西神社という神社であろうということです。

 これは兵庫県の歴史に深く関係することですので、兵庫県の方々に、この話ができるのはありがたいことですが、この越木岩神社がなぜ、地震の話に関係するかといいますと、この神社の祭る大国主命という神様は、今いいました『歴史のなかの大地動乱』という本でくわしく論じましたように、日本の地震の神様だったからです。

 このオオクニヌシという神が日本の国を作った神、国作りの神であったことはいうまでもありません。ただ、この神の名前は若い頃はオホナムチといいましたので、しばらく、そう呼びたいと思いますが、このオオナムチのオオというのは大きいという意味です。そしてオオナムチのナというのは「つち」という意味の古い言葉です。細かい土を「スナ」といいますし、赤土のことを「ヘナ」といいます。ナというのは「つち」という意味なのです。またオオナムチのムチというのは尊いという意味になります。神様の名前のうちで最後にムチがついている神様は尊い神様です。

 ようするにオホナムチという大きな土の神、大地の尊い神様という意味で、『万葉集』には、この神が山を作ったというような和歌が残っています。私は、むかしの人がこの神が山を作ったというのは、この神が地震を起こすような大きな力をもっていたと考えていたのではないかと思うのです。

 ですけれども、それだけではオオナムチが地震の神であったということをはっきり説明することはできません。御納得いただけないだろうと思います。どう説明したらいいか迷うのですが、『播磨国風土記』などによるとオオナムチはいつも琴をもって出歩いていました。それから『出雲国風土記』でもある山の山頂にオオナムチのもっていた琴が石になって存在しているとあります。琴弾岩だとかよく言います。このオオナムチという神の形をした石が能登の国ではまつられていて、この神は石に縁が深いのですが、石の形をしたことがあったというのですね。

 問題はこの琴をオオナムチがどこで手に入れたかということですが、みなさんご存じのように『古事記』によりますと、オオナムチは兄たちに苛められて地下の国、「根の国」といいますが、そこに逃げ込んで、スサノヲノミコトの娘のすせり姫と恋いをするのですね。そして二人で密かに「根の国」を脱出しようとします。その逃げ出すときに、姫の父親のスサノヲが寝ているのを見計らって、スサノヲの宝物の琴をぬすみだします。オオナムチはすせり姫をおんぶして、さらに、肩に琴をかけて駆けだしたといいます。ところが、その琴が庭の木の枝にさわって大きな音がでてスサノヲが起きてしまい、スサノヲはオオナムチをおいかけるという物語です。

 これはジャックと豆の木というイギリスの童話と同じですね。ただジャックが行ったのは地下の国ではなくて空の上、雲の上にある巨人の国であったところが違いますが、巨人のもっとも大事な宝物がハープ、つまり琴だった。そしてジャックが琴を盗み出したときに自然に琴がなりだして巨人が起きてしまいジャックを追っかけたたという、細かなとこぉまで同じです。

 こういう日本とイギリスというまったく違う場所で同じような物語があるのはなぜかというのは神話や物語を研究する学問にとっては最大の問題であるわけですが、日本の神話のスサノヲとオホナムチの話が貴重なのは、この琴がどういう宝物なのかということがわかることです。つまり、ジャックと豆の木の話ではハープがなぜそんなに大事な宝物かはわからないのですが、スサノヲの琴は、『古事記』によりますと、木に触れたときに「地、とよみぬ」とあります。「とよむ」というのは「どよむ」と同じで大きな音がひびくということです。

 つまり琴がなると同時に大地が鳴り動いた。ようするに宝物の琴は地震を起こす道具だということです。『宇津保物語』という物語をご存じでしょうか。『源氏物語』より少し前、『古事記』が書かれた時より300年くらいあとになりますが、比叡山のあたりの山で母と息子が悪い武士に襲われそうになった。そこで宝物の琴をならすと地震がおきて武士を山崩れの中に閉じ込めてやっつけたという話が書いてあります。どうも、琴というのは大地の中の霊のようなもの、大地の霊、地霊ですね。この地霊を呼び出す力をもっているものだったようです。そのころの女の巫子はやはり琴をもっているのです。


 さて話が少しワキにそれましたが、実はスサノヲという神様自身がは地震を起こす神でした。ご存じのようにスサノヲは海の神ですが、父はイザナキ、母はイザナミです。ところが、イザナミが御産のときに死んでしまって、母なし子になってしまいます。そのためスサノヲは父親のイザナキが悪いんだということですねてしまいます。そして母を恋いしたって「哭(な)きいさちる」、つまり泣き叫んで、姉のアマテラスのいる天に昇るといいいだします。アマテラスはいわば母代わりという訳です。スサノヲは海の神だったわけですが、海を守るという役割を抛棄して天に駆け上ります。『古事記』によると、その時、スサノヲは「山川ことごとく動(とよ)み、国土みな震(ゆ)りぬ」という事態を引き起こしました。「山川ことごとく動(とよ)み」、つまり、山川の全体が鳴り動き、そして「国土みな震(ゆ)りぬ」、つまり国土全体がドーンとゆれたというわけです。

 こういう力をもったスサノヲが地震神だというのは明らかです。詳しくは私の本をみてほしいのですが、スサノヲが海の神であると同時に地震の神だというのは、ギリシャ神話のポセイドンと同じです。そういうことですから、スサノヲの宝物で、オホナムチが盗み出した琴というのは、ようするにスサノヲが地震を起こす力を意味しているのです。

 オホナムチがすせり姫と一緒に逃げ出したのを知ったスサノヲは、二人をおっかけますが、オホナムチは地下の国から地上に脱出するのに成功します。そして「根の国」「根の堅州の国」と、この世の間にある坂を一散に駆け下りました。追っかけてきて、やっとその坂の上についたスサノヲは坂の下をかけているオホナムチとスセリ姫をみつけます。そして、オホナムチに対して、「仕方がない。おまえはスセリ姫を妻として、その宝物を使って、地上の国の王となれ。そしてオオクニヌシと名乗れ。こいつめ」と叫んだといいます。いま「こいつめ」といいましたのは『古事記』の原文では「このヤッコや」とありますから、「この野郎」というようなことです。ムスメを取られて聟を「この野郎」とののしっているのですが、ここにはもうあきらめた、娘をよろしく頼むという感じもあります。

 こうしてオオナムチはオオクニヌシと名前を変えたのだというのが『古事記』の語るところです。土の神、大地の神であるだけでなく、国あるいは国家を作り、そのヌシとなった神ということでしょう。ただ、このオオクニヌシというのは『古事記』に独特な名称で、私は『古事記』の作者が作った名前なのではないかと疑っていますが、ともかく、こうしてオオナムチはオオクニヌシとなりました。そして、オオクニヌシは、山の麓に館を建て、スセリ姫と暮らし、宝物をつかって日本の王となったということです。

 ご存じのように、『古事記』では、この館は出雲にあります。ですから、「根の堅州の国」と、この世の境目は出雲国にある坂だというのですね。これは考えてみると奇妙な話ではないでしょうか。つまり、『古事記』は、地下から脱出してきて、この世に来るには長い坂をくだってくるのだというのです。これはどういうことなのでしょうか。地下からこの世に脱出するときに長い坂を上ってくるのなら自然ですけれど、ここには逆に坂を下ってくるとはっきり書いてあるのです。

 私、考えてみまして、地下からでてきて坂を下ってくるというのは、火山の火口をでてきて、その山を下ってくるということ以外に考えられないと思いました。そして「根の国」というのを『古事記』だけが「根の堅州国」といっているのですが、この「堅州」というのは鉄の鍛冶屋さん、鍛冶の「鍛」の字をカタスとよみます。つまり、「根の堅州の国」というのは、地下の鍛冶場の国、火の国という意味であると私は考えています。

 出雲には伯耆大山や三瓶山があって火山地帯ですからぴったり話はあうのです。出雲の国の神話、つまりそれを出雲神話といいますが、この出雲神話はようするに地震と火山の神話であることになります。これが正しいとすると、出雲神話の解釈が大きく変更されることになります。それだけに、これはまだ専門家のうちで一人しか賛成してくれていませんが、ともかく、こうしてスサノヲは地震の神であるだけでなく、火山の神であり、それはオオクニヌシも同じことだろうということになります。最近は火山と地震についての報道も多くなりましたので、ご存じのことと思いますが、火山の噴火の前後には火山性地震といいまして、かならず地震があります。むかしの人にとっては火山の噴火と地震は大事件ですから、噴火と地震の関係は多くの人びとが知っていたに違いないのです。その意味でも、火山の神と地震の神は同じ神だというのは納得いただけるのではないでしょうか。


 以上を前提にして、この地震の神のオオクニヌシが日本でどのように祭られていたかという話に入りたいと思います。史料からわかる限りのことですが、地震の神が祭られた最初は、推古天皇の時代、五九九年(推古七)のことです。つまり『日本書紀』という歴史書によりますと、このとき、たいへん大きな地震がありました。『日本書紀』には大地がゆれて家がことごとく倒れてしまったとあります。「ことごとく」というのはすべてということですから、これは誇張があると思うのですが、ともかく相当に大きな地震であったといってよいのでしょう。この時は推古天皇が即位して七年目ですが、推古天皇のころの『日本書紀』の記述は、すくなくとも年代については信頼してよいのではないかと思います。

 『日本書紀』を読みますと、「地動りて舎屋ことごとくに破たれぬ」、つまり、いま申しましたように大地が揺れて、建物や家がすべて倒れたとあります。問題はそれにつづく部分です。読んでみますと「則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」(『日本書紀』)とあるのです。大きな地震だったので、飛鳥からみて四方、東西南北に命令して地震の神、つまりオオクニヌシを祭らせたという訳です。

 私はオオクニヌシは出雲あるいはその近くの播磨国などに本来は縁の深い神であったと思いますが、相当早くから全国で祭られるようになっていると考えています。遅くとも、このときには各地で祭られたのは明らかでしょう。当時の人びとも日本の各地で同じ地震、同じ災害を経験した。そして、同じ神を祭ったということです。そして逆に、この地震によって同じ神が各地で祭られたのではないかということになりますと、相当の災害があったと考えてよいでしょう。

 もちろん、この時にどのようにオオクニヌシが祭られたのかということはよくわかりません。ただ、この時に祭られた地震の神の中にまず入っていたろうと思われるのが、吉野のオオナムチ神です。オオナムチ、つまりオオクニヌシの本来の名前ですが、この神を祭る神社は、吉野渓谷への入口、吉野川右岸の妹山の麓にあります。このイモ山というのは、歌舞伎の「妹背山女庭訓」をご存じでしたら、あそこにでてくる妹背山のうちの妹山にあたります。これは潮の水が湧くなどという伝説がきわめて有名であったためであろう。それでも今ではあまり有名ではないと思いますが、奈良時代から平安時代のはじめにはたいへん有名な神様で、平安時代はじめに日本全国の神様に朝廷から位を授けることになったとき、この神の位が正一位だというのですね。これは伊勢神宮を別とすれば、淡路国の伊佐奈岐命の一品に並ぶという別格の位の高さです。もちろん、ほかに正一位として藤原氏の祖先の神の天児屋根命がいますが、藤原氏の祖先の神の位が高くなったのは奈良時代のことだと思います。ですから、それより前は、この吉野のオオナムチの神が伊勢のアマテラス、淡路にいるイザナキについで全国で三番目の位置にある神社であることになります。いまでは奈良で一番偉い神様だとされているのはおそらく三輪山の大神神社だと思います。三輪山の神様はオオモノヌシといって、この神はオオナムチ、つまりオオクニヌシと同じ神様だといいますが、ただ、この奈良の三輪神社の神様は、従二位でしたから、吉野のオオナムチ神社の方が高いのです。朝廷のまつるオオクニヌシの神、オオナムチの神のご本家は吉野だったわけです。

 ただ、いま、吉野のオオナムチ神社といってしまいましたが、このころイモ山に神社があったということではありません。もちろんあるいは鳥居くらいはあったかもしれませんが、このオオナムチ神社は徳川の時代に神殿ができただけで、それまでは完全にご神体は山そのものだったといいます*1。これは奈良の三輪神社も同じです。しかもどちらもこんもりと丸く盛り上がった山です。こういう山の形をカンナビ型などといいますが、お椀か、お鉢を伏せたような形、あるいは富士山のような形です。同じような山として有名なのが比叡山の日吉神社の神の山です。牛尾山といいますが、ここにもスサノヲとオオクニヌシの縁の深い神が宿るということです。

 どうも、よくいわれますように、昔の人びとはこういう形の山に神が宿るとみたらしいのです。突飛なことをいうようですが、私は、これはこの形が火山の噴丘の形ににているためだと考えています。阿蘇火山の中には、円錐形のきれいな噴丘がありますが、ああいう山の形に昔の人は山の神の神秘をみていたのではないでしょうか。ああいう形は火山の噴火で岩や火山灰がふきでるとああいう形になる訳ですが、地震で地面から砂が吹き出た場合も、ああいう形の小山ができます。こういうことを昔の人は不思議だと思い、そこに土地、大地の神様の力をみたのではないかと思うのです。人びとが、そこに神がいるということをどのように認識したのか、神様を感じたのかということを考えると、こういうことになるのではないでしょうか。こういう火山の神、地震の神がオオクニヌシであったという訳です。


 そろそろ結論に近づいておりますので、もう少しおつきあいください。さて、最初に申し上げましたように、平安時代の初め頃の国家の記録に、摂津の菟原郡にある神社として「大国主西神社」という神社がみえます。これが西宮市の越木岩神社にあたるだろうと私は思うのです。つまり、大国主「西」というのが問題で、西があれば東があるわけですが、この「東」は吉野のオオナムチ神でしょう。つまり吉野のオオナムチの神と「大国主西神社」は東西一対の神なのではないかということです。これまで大国主西神社は三輪神社と一対のものだという意見もありましたが、三輪神社はむしろ都のそばで真ん中ですから、「東」ではなく、東西一対というのはいいにくいと思います。

 ともあれ、こうして「大国主西神社」は、やはり、吉野のオオナムチの神の山や三輪山の神の山の様子と似たものだろうということになる訳です。そしてそうだとすると、越木岩神社は、いかにもオオクニヌシを祭っているという風景をもっているのです。つまり、越木岩神社には大きな磐座、岩のまとまりがあります。越木岩神社という名前が、そもそも、甑、つまり米を蒸すセイロの形をした巨岩があることによるのですが、それのみでなく、北へ斜面をのぼる途中により大きな磐座があり、この線を北に延ばしたところにある北山の頂上にも磐座らしきものがあるといいます。そして何よりも重要なのは、その北北東に甲山という、まさに先ほど申し上げたような神のこもる山、見事なカンナビ型の山があることです。お椀かお鉢を伏せたような形、あるいは富士山のような形といいましたが、この山は火山の一部がそのまま地上に残って、こういう形になった山として地質学の研究者の間では大変に有名な山です*2。もちろん、火山として噴火したもは1200万年前といいますから、いわゆる死火山あるいはすでに死火山でもない火山のあとといってよいのかもしれませあんが、安山岩からなる岩山なわけです。奈良・京都などの都にもっとも近い火山地帯は出雲な訳ですが、この甲山は火山ではないとしても、都の人びとはオオナムチの雰囲気を感じていたでしょう。なにしろ、もう少し西へ行けば有馬温泉なのですから。出雲も伯耆大山と玉造温泉のセットがありますから。

 人びとは昔の人も、なぜここにだけ、六甲山の山の連なりからぴょこんと離れて、見事な円錐形のあんな形をした山があるのだろうというのを不思議に思っていたに違いありません。四〇年ほど前に甲山からはお祭り用の銅戈(どうか)が出土し、西宮市立郷土資料館に西宮市の指定重要文化財として所蔵されているといいます。古墳時代から(?)甲山は信仰の対象であったのでしょう。それは越木岩神社も同じであったに違いありません。越木岩神社から甲山のあたりは一体として一種の聖地であったのであろうと思います。

 私は五九九年の推古天皇の時代の地震ののちに吉野のオオナムチが地震の神として祭られたろうと申しましたが、以上に申し上げたようなことからいって、そのときほぼ同時に大国主西の神、つまり越木岩神社の神も祭られたに相違ないと思います。ただ、大国主「西」という名前は、もう一〇〇年ほど後にできた可能性が高いと思います。つまり、オオクニヌシという神の名前は、先ほど申し上げたように『古事記』に独特な呼び名で古事記の作者が作ったものです。神社の名前としてもこの大国主西神社を除いてはすべてオオナムチ神社となります。古事記ができたのは七世紀の後半以降ですから、ようするに一〇〇年後です。

 そしてその時代は天皇家はしばしば吉野に行った時代で、吉野は大きな聖地になりました。それと同時に対になる大国主西神社も崇拝されたのではないかというのが私の推定です。しかも、このとき、天武天皇の時代、六八四年にきわめて大きな地震がありました。つまり南海トラフ地震です。ご存じと思いますが、南海トラフ地震は、日本の太平洋岸を西から駿河湾の沖まで走っている海溝、プレートとプレートがぶつかっているところで起こります。この大きな地震は天武天皇に大きな衝撃をあたえましたが、しばらく後の天武の死去も、当時の人々は、そのためと考えた可能性すらあります。この地震のときも兵庫県は大きく揺れたにちがいありません。越木岩の神にもお参りする人が多かったでしょう。私は、そういう中で、この時に使われるようになった大国主という神の名前が、この神社に着けられることになったのではないかと考える訳です。人々は安全の祈願をしたのでしょう。昔も今も、この地震火山列島に住む人間の考えることにはそう大きな相違はないのではないかと思います。
 残念なことに越木岩神社の磐座の一部が破壊の危機にあるというように聞いています。これは是非残していただきたいものです。調査も十分にされていないのではないでしょうか。詳細な調査をすれば何が出てくるかはわからないと思います。もしこれが事実だとするとことは日本全体にかかわってくる歴史遺産ですので、ぜひ、慎重に考えていただきたいものだと思います。

2017年1月12日 (木)

大国主命と越木岩神社と

昨日、放送の録音をした「ひょうごラジオカレッジ」での講演は一月二一日7時からの放送と言うことです。大国主命と越木岩神社というテーマで話しました。

二〇一三年九月にも放送をしました。それは
下記で聞くことができます。
自分の声を聞くのは奇妙でしたが、
http://jocr.jp/podcast/kouza.xml
【2013年9月7日放送分】兵庫県高齢者放送大学ラジオ講座
2013年9月9日 14:00
2013年9月7日放送
メディアファイル
kouza130907.mp3

 みなさんおはようございます。保立道久です。

 もう20年近くまえになるわけですが、1995年の阪神大震災の時、震災の直後から、神戸の歴史家たちは歴史史料の保存、レスキュー運動ということにとり組みました。あるいは、ご存じでしょうか。わたしも、ちょうど、そのとき、歴史学研究会という学会の事務局長でしたので、その関係で、神戸大学の方々と連絡をとって必要な相談をしました。また、しばらく後、神戸大学で授業をすることをたのまれて、一週間ほどのあいだ、神戸にいました。あの時の神戸の町の様子はわすれられません。

 そして、ちょうどその時に、市民の集会があって、小説家の永井路子さんと一緒に講演をしました。その集会は、歴史の史料をまもるという問題と、地震被害の国家補償をもとめるという二つのテーマをもっていました。この列島では、地震は、どこをおそうかわかりません。ですから、この国に棲むものは、いざという時、地域をまもることを意識する必要がある。その中で、地域に残った歴史史料もまもっていただく必要があるというのが歴史家の考え方です。それと同じように、この国では誰でもが地震被害にあう可能性があるのだから、それは個人的な不運ということではなく、みんなで支えあって国家補償が必要だということでした。東日本太平洋岸地震が起きてみると、これは必要な考え方だということが明らかになっているように思います。

 それにしても、三、一一はショックでした。実は、私はまだ東京大学につとめておりましたので、その直後、東京大学の地震研究所で開催された研究集会に参加しました。そこで、9世紀、869年に東北地方でおきた地震が、三、一一の大地震とほぼ同じような規模をもつものであることを知りました。この九世紀の地震の史料は当時の朝廷の残した記録に残っていて、私もその史料は読んだことがあったのですが、それだけでなく、それに対応する証拠が地面の下に残っていたのですね。つまり、巨大な津波は海底の砂を巻き上げて内陸に運びますが、そこには海洋性のプランクトンがふくまれています。ですから、顕微鏡でみれば、この砂は海からきたものだというのがわかるのです。そういう砂が3㌢だとか、場所によっては10㌢以上の厚さで残っている。9世紀にも海岸線から内陸へ3㌔以上も津波がやってきていた。それは3,11の津波がのぼってきた範囲とほぼあうということなのです。そしてこれだけ津波がのぼってくるためには九世紀の津波もマグニチュード8、5前後あるいはそれ以上の地震が起きているはずだというのが地震学の人の研究でした。ショックだったのは、このことは3、11のほぼ5年前には明らかになっていて、一部ではどう対応するかという議論もされていました。とくに原発についても九世紀の例からいって危険だということが東電に対して指摘されていたということです。研究集会では地震学・地質学の人々が、もう少し早く研究をまとめることができて、東北地方の人々にそれが広く伝わっていれば、いろいろな点で、事態は違っていたと嘆いているのを目前にしました。

 それなのに地震の動きの方が一瞬早かったということでしょうか。これはショックでした。つまり、地震学の人々のこういう研究を、この時代を専門とするほとんどの歴史研究者が、もちろん私をふくめて、知らなかったのです。これは歴史学の方に責任があります。私は、何ということだと考えて、急遽、8世紀、9世紀、奈良時代と平安時代初期の地震の研究をして、岩波新書で『歴史のなかの大地動乱』という本を書きました。

 今回はこの仕事を通じて知ったことについて御話しをしたいと思います。とくに御話ししますのは、この869年の陸奥大津波の前年、868年に、兵庫県で発生した地震のことです。これは、この本を書く中で気づいたのですが、阪神大震災との関係で、もっと早く研究しておかねばならない問題だったと考えています。

 さて、この九世紀の兵庫県地震の震源は山崎断層にありました。山崎断層というのは、岡山県の東部から兵庫県の南東部にかけて広がっている断層帯です。主要部は約80㌔の長さで、美作市から斜めに姫路市・三木市までさがってきています。これは日本で一番最初に発掘調査をされた断層で、いまでも京都大学の防災研究所の観測点がおかれています。そして、そのボーリング調査で、868年の地震の痕跡が掘り当てられたのです。これについては、朝廷の記録も残っています。それによると、播磨国の役所や寺院の建物がほとんどたおれた、京都でも、大内裏の垣根がくずれたといいます。

 文字の史料とボーリング調査の両方がありますので、1000年以上前の地震の実態が正確にわかる訳です。震源断層は山崎断層。マグニチュード7。0以上ということです。まだまだ人口密度も少ない時代ですから、幸い、人命の被害はありませんでしたが、もしいま起きればただではすまない強い地震でした。

 問題は、この地震のとき、山崎断層だけではなくて、それにつられて六甲山の断層帯が激しくゆれたことです。つまり、朝廷が神戸の広田社と生田社に捧げた御祈りの文章が残っています。そこには神戸の近辺が何度も激しくゆれた。それは広田社の神の「ふしごり」によるということで恐れ多いとあります。「ふしごる」というのはめずらしい言葉ですが、木にフシが出来るようなごつごつした怒りという意味です。しかも、それがでてくる御祈りの文章は、神主さんの唱え言葉そのままの史料でしたから、読みにくい史料です。そのためもあって、この史料は、これまで地震史料と認識されていなかったのです。この史料を知ったときに、これは本来、阪神大震災の時から研究しておくべきであったということを実感させられました。

 阪神大震災の前、都市計画を作るうえで、神戸ではそんなに地震がないという風評があったといいます。地震学の人たちは、当時からそんなことはないといっていた訳ですが、そういう声は影響をもちえなかった訳です。ですから、この史料をもっと前に知っていれば、それが神戸の人々の常識になっていれば話しは少しは違ったかもしれないということです。後知恵ということになるかもしれませんが、今後はそういうことがあってはいけない。地震学や歴史学のような学問は我々の毎日の生活にとってあまり関係のないものにみえるかもしれません。しかし、そんなことはないので、こういうことから災害を予知する文化というものを根っこから作っていかねばならないと思います。

 さて、以上をまとめてみますと、この868年の地震は、兵庫県の西部が震源で、山崎断層という大断層がゆれた。それがはねかえって神戸も相当にゆれた。そしてそれが京都まで響いたということになります。

 重要なのは、朝廷が、この地震が起きた原因を広田社の神の怒りに求めたということです。実は、これがどのような神の怒りかというのは、朝廷にとっては相当に深刻な問題だったのです。つまり、応天門の変というのをご存じだと思います。伴大納言、伴善男が応天門に放火して政敵をおとしいれようとしたという大事件です。伴善男は、そのためにぎゃくに罪をこうむって伊豆に流されました。この伴大納言が、この年、流罪地の伊豆で、恨みを呑んで死んで、怨霊になっていたのです。怨霊、つまりこの世に災害をもたらすという訳ですが、奈良時代・平安時代の人々は、地震は怨霊によって起こると信じていました。この地震は伴善男の怨霊によるのだという噂が出まわったことは確実です。

 そして、さきほどいいましたように、翌年、陸奥大津波が起きました。三,一一の後、先日の淡路の地震はありましたが、幸い大きな被害をもたらす地震は起こっていません。ところが九世紀は現在よりもっと地震や噴火が激しい時代で、しばらく前には富士が大噴火を起こしています。その上で二年連続して相当の地震が起き、東北地方の津波では、一〇〇〇人もの人が死んだとされます。これは衝撃であったに違いないと思います。

 問題は、この陸奥の大津波の翌月、六月に京都で御霊会があり、京都の祇園社の伝承によれば、このときに播磨国の広峰神社の牛頭天王が京都にやってきたとされていることです。こういう由来で広峰神社は祇園の本社ともいわれています。

 御霊会というのは、しばらく前から京都だけでなく、各地で行われるようになっていたのですが、これは怨霊を鎮めるための祭りです。ですからこの時期に祇園の御霊会がはじまったというのはありそうな話しです。祇園御霊会というのは、連続した播磨地震・陸奥地震の中で、それを引き起こした怨霊の力を鎮めるということで始まったに違いありません。普通は、御霊会というともっぱら疫病の流行を鎮めるということだといわれるのですが、当時の考え方だと地震を起こす神と疫病を起こす神は同じ神さまなのです。実際に、伴善男も怨霊として疫病の神であったという史料があります。

 表面では、こういうことはなかなかみえませんが、日本の文化の中には地震、そして火山噴火に直面してきた人々の考え方というのが深いところに存在していたに違いないというのが、私の考え方です。祇園会はいうまでもなく、日本を代表するお祭りですが、その始まりには9世紀の地震の影響があったということです。これは、この列島に棲む人々の常識となってもよいことだと私は考えています。

 さらに、今日、申し上げたいのは、そこには兵庫県の歴史が深く関わっていたということです。大事なのは、祇園の牛頭天王が、本来は播磨国の広峯神社の神であったことです。広峯神社は、姫路の北、播磨地震の震源、山崎断層がとおる場所の少し南の谷にあります。この広峰の神が播磨から摂津の神戸を通って、地震とともに京都までやってきたと人々は想像したのではないでしょうか。広峰神社は、奈良時代には決して有名な神ではありませんでしたが、このとき以降、京都の人々には有名な神社になります。そういうことですから、広峯と祇園の関係は祇園会の開始の時期にさかのぼると考えてよいと思います。

 なお、意外と大事なことかもしれないと考えているのは、平家のことです。私は、平家は祇園社と深い関係があったのではないかと思います。白河天皇が祇園に縁のある女性、いわゆる祇園女御を中心として一種のハーレムといいますか、後宮ですね、を作ったということはご存じでしょうか。清盛が白河天皇の御落胤だという話しはお聞きになったことがあると思いますが、鼻は祇園女御(あるいはその妹)などといわれます。これは疑問はあるのですが、ただ、この祇園女御と清盛の父の忠盛は深い関係があったことは事実です。そもそも忠盛が出世したのは、祇園女御を通じて白河院に取り入ったためです。平家と祇園社の関係が深いのは確実だと思います。祇園社にいまでも「忠盛灯籠」というのがあるのはその証拠でしょう。

 ここからすると、平家は祇園社の本社といわれた広峰社との縁も深かったのではないかと考えています。ここから先は、まだいま考えているということなのですが、平家は、なにしろ忠盛・清盛と播磨国をもっとも重要な縄張りにしていましたから、そこにある祇園の本社、広峰と深い関係をもっていた可能性というのはありうるのではないかと考えているのです。そうだとすると、平家の作った福原京の山際に祇園社があることは無視できません。平家は祇園の神、地震の神を味方にしていたのではないかなどと考えています。

 以上、駆け足になりましたけれども、このところ勉強したことを報告いたしました。まだ時間が少しありますので申し上げますが、私は、去年、地震学の知人から歴史学はもっと地震学に協力してほしいといわれました。そして、文部科学省におかれた地震予知の研究計画を議論する委員会に参加してほしいといわれて地震学の人たちと議論してきました。そのなかで、地震学と歴史学の協力のためには、地震の歴史を専門的に研究する組織が必要であるということについて一致しました。これだけ豊かな国なのに、日本の政府はそういうことには十分な予算をだしませんので、こういう組織は、いつ、実現するかは分かりませんが、少しでも歴史学が役に立つように、今後も研究を続けたいと思っています。

 日本は地震・火山列島です。ですから、どの地域の歴史をとっても、地震や火山との関わりが刻まれています。そしてそれは文化の中にも刻まれているということを御伝え出来たとしたら幸いです。こういうことは、毎日毎日の生活の中からはなかなかみえてきません。しかし、私たちは、そういう国で生きている訳で、そこで行われた先祖の経験を尊重しなければならないと思います。またそれが娘・息子や子孫の世代に対する責任であるようにも思います。

2017年1月10日 (火)

大国主神話と西宮越木岩神社

兵庫ラジオカレッジで話し。予告

なお、越木岩神社の磐座の様子は、磐座学会を参照。http://iwakura.main.jp/news/20150419_news/newst_20150419.htmlを参照。そのページには越木岩神社の磐座の様子がくわしく書いてあります。たいへんに興味深い物です。

大国主神話と西宮越木岩神社
 私は東京大学で歴史の教師をしておりましたが、4年ほど前に定年になりまして高齢者の仲間入りをいたしました。ともかくこれで責任が軽くなりましたので、定年後は少し日本の神話と地震の関係について自由な勉強をしております。今日は、その中で気づきました、西宮市にあります甑岩神社と大国主命について御話しをしたいと思います。

 芦屋の東を流れる夙川をさかのぼっていき、山地に入ろうとするところにある越木岩神社は、社殿の背後に高さ約一〇メートル、周囲が約三〇メートルもあるという巨岩があって、徳川時代にも「祭神、巨岩にして倚畳甑のごとし」(「摂津名所図会」)といわれて有名でした。山崎宗鑑の詠句に「照る日かな蒸すほど暑き甑岩」とありますから、この巨石は足利時代の後期からすでに広く知られていたわけです。甑というのは米を蒸す道具だから、「蒸すほどに暑き」というシャレが通用する訳だが、古くから、そういう形をした巨岩と考えられていたということです。

 私は、この神社こそ、『延喜式』神名帳の摂津兔原郡の項にみえる「大国主西神社」だと思います。莵原郡は明治時代に東の武庫郡に吸収されてしまって消滅しましたが、本来、夙川の西側で、芦屋市と神戸市東半分をふくむ地域でした。そこにはほかに「大国主西神社」と呼べそうな神社はない。越木岩神社の文書に明治五年に「西神社」、明治六年に「大国主西神社」とあるのは、少なくとも、当時、そう考えられていたことを示すと思います。

 さて今日お話ししようと思うのは、この大国主命という神がどういう神であったか、そして、それとの関係で、大国主西神社という神社の性格をどう考えたらいいかということですが、年輩の方は大国主命の物語を覚えておられると思います。兄たちにいじめられた大国主命、その頃の本来の名前はオホナムチですが、彼は出雲国の地下に広がる根の国に逃げ込むのですが、そこには素戔嗚尊がいます。それが逆にいい結果となって、スサノヲの娘のスセリ姫と恋愛をする訳です。そして二人は気脈を通じて、父のスサノヲをだまして逃げ出そうとした。その時、彼らはスサノヲの三つの宝物、「生太刀・生弓矢・天の沼琴」を盗み出すのですが、この時、スセリ姫をオンブしたオオナムチの担いだ「天の沼琴」が「樹に払れて地(つち)動鳴(とよ)みき」(木にさわって大地がゆれた)といいます。このジャックと豆の木の童話でジャックが竪琴を盗んで逃げ出したときに、竪琴が鳴り響いたことを想起させる物語は、「天の沼琴」が地震を発する呪具であったことを示しています。これはようするに、大国主命が地震の神となったということでしょう。

 詳しくは番組で御話しますが、こういう地震の神を祭る神社が、なぜここにあるのか、番組では、それについての私の意見をいおうと思います。

2017年1月 3日 (火)

ファシズムという言葉の意味をどう考えるか。

ファシズムという言葉

 ドナルド・トランプは「偉大なアメリカよ。再び」というスローガンで大統領になった。この主張は、しばしば「ファシズム」的であるといわれる。たしかに、アメリカの最近の動きをみていると、アメリカに、初めて、それらしいファシズム運動が生まれ、実現の道を歩んでいるようにみえる。しかし、ファシズムという言葉は歴史学においてもはっきりとした定義がない言葉であり、また欧米語としてもきわめて曖昧な言葉である。

 ファシズムの語義から調べていくと、まずこの言葉の語幹、ファッショは、もともとラテン語の「束」という意味の言葉、ファスケースFascesに由来するものである。左にファシズムという言葉を初めて使ったムッソリーニのファシスト党の標章を掲げた。この真ん中に描かれたものがファスケースである。斧に木の棒の束を革紐で結びつけている模様である。このデザインは当時のイタリア国王の紋章などにも描かれているが、ムッソリーニはイタリアの多くの建造物のレリーフなどに、このファスケースの模様をあふれさせた。ファシスト党は、立党のしばらく後、一九二二年、この党章を旗印として、ローマに進軍し、それを背景として政権を奪い、ファシスト大評議会を基礎とする一党独裁制を固め、ユーゴスラビアに進出し、アルバニアを保護国とするなど一挙に勢力を高めた。

 ヒットラーが、ムッソリーニのローマ進軍の翌年、ミュンヘン一揆を起こし、ベルリン進軍を呼びかけたが、それは失敗に終わった。それゆえに、当時は、ナチスのハーケンクロイツ(鉤十字)よりも、このファスケースの方が有名だったのであり、そこからファシズムという言葉が生まれたのである。

 もちろん、ファシスト党もナチスも、議会・憲法を停止して、軍事行動や謀略で独裁を行うという点では同じである。ドイツは、イタリアに一〇年遅れたものの、一九三二年の総選挙でナチスが第一党となり(ナチス二三〇、社会民主党一三三、共産党八九)、翌年首相に指名されるや、国会議事堂放火事件をでっち上げ、ワイマール憲法を停止する全権委任法を押し通してナチス一党独裁を実現したのである。それ故に、イタリアのファシスト党もナチスも同じようにファシズムといわれたことに不思議はなかった。

 ファスケースがラテン語の「束」という意味であることは右に述べた通りであるが、斧に木の棒の束を革紐で結びつけたファスケースという物、それ自体は、古代ローマの王あるいは執政官に付き従った護衛が、権威の標章として肩に担いでいたもので、日本語では儀式のための斧、つまり儀鉞(ぎえつ)とか、木の棒を束ねているという意味で束桿(そっかん)などと訳される。これはローマの王あるいは執政官の権限、命令権を象徴するものなのである。この命令権はインペリウムと呼ばれ、それがインペリアリズム(帝国主義)の語源となったのであるが、ようするにファスケースの模様は、国家の至高の命令権(インペリウム)の周りに結集せよという意味を含むわけである。

 ムッソリーニは、そこから「我々は束だ、ファッショだ」と呼びかけた訳である。ファッシネート(fascinate)というと「魅惑する」「魔法で人を縛り付ける」という意味であるが、その語源もファスケースと同じであるらしい。そして、そもそも、このファスケースの模様は国家を象徴するシンボルとして決してめずらしいものではなかった。アメリカでもワシントンが初代大統領に選出された年、一七八九年に連邦議会下院は、議会の衛視の標章として、このファスケスを採用している。アメリカ「独立革命」の指導者たちは、フランス革命にならって共和制の象徴としてローマの古典主義を尊重していたが、これはローマの儀礼をそのまま真似したものである。アメリカにはそのほかにもファスケースFascesのデザインは多く、ホワイトハウスの大統領執務室(オーバルオフィス)のドアの上や、下院本会議場の演壇の国旗の両側にあり、さらにリンカーン記念館のリンカーン像のイスの前面にも彫り込まれているという。そもそも、棒を束ねるということ自体は、イソップ物語に「一本の木の棒は折れやすいが束にすれば折れない」という話があるのと関係するらしい。毛利元就の「三本の矢」と同じ話である。

 七〇年ほど前、ジョージ・オーウェルは、「ファシズムとは何か」というエッセイで、ファシズムという言葉は、非常に定義しにくい。実際の使われ方からするとほとんど無意味な言葉だといっているが、しかし、そうはいっても、欧米では、ファシズムといえば、上記のような語義、語感、ニュアンスは伝わるのだろう。
 しかし、日本語でファシズムといった場合は、カタカナの外来語であって、その意味はオーウェルのいう以上に曖昧になる。それ故に、「トランプはアメリカに初めてファシズムを実現するかもしれない」といっても、学者、政治家、ジャーナリストでない人には正確なところは伝わらないことになるだろう。というよりも学者も、ファシズムの定義とナルトほとんど曖昧なのが実際なのである。

 私の専門領域をまったく外れるが、ファシズムという言葉について考えている。上が、その経過的な報告。

 それでは、このファシズムというのを日本語にどう訳すかだが、やはり、超国家主義という言葉に翻訳して使うことになるのではないかと思う。ただ、それは英語で言えば、ウルトラ・スタティズム(ultra-statism)である。丸山真男のいうようなウルトラ・ナショナリズムではないのではないかと思う。
 それは明日考えたい。

2017年1月 1日 (日)

ドナルド・トランプに対する私の新年の希望(ロバート・ライシュ)

ドナルド・トランプに対する私の新年の希望
                        2016年12月31日土曜日  ロバート・ライシュ
 ドナルド・トランプは、2016年の最後の日に次のようにツイートした:

 「すべての皆におめでとう。私の沢山の敵や、私に反対してひどく負けてしまって、どうしていいかわからない人へも。愛してるよ」。

 すぐにアメリカ合州国大統領になろうとしている男が、いやしい精神で、浅薄で、ナルシスティックな、そして報復的な性格を表し続けている。

 トランプは、世界を個人的な勝利か敗北か、敵か友人か、サポーターか批判者かという点から世界を見ている。
大統領は個人的な敵意を越えて、公共的に信託された職を維持しなければならないものなのだということもまだわかっていない。

 大統領は、彼に反対票を入れ、また彼に反対し続けるかもしれない人々を含む、すべてのアメリカ人を代表するものとされている。

 民主主義において、大統領の政策に対して戦う人々は、彼の個人的な敵ではない;
彼らは、反対党派であり、批判者である。

 中傷されたり、敵と分類されたり、報復されることを心配せずに、政権を握っている人々に反対する自由。それに民主主義は依存している。

 新年おめでとうございます、トランプさん。

 あなたには、大統領としての行動を学ぶために20日間あります。
 あなたの方針に反対し、あなたの人格について心配している我々のすべてが心から望むのは、その学びです。

2016年12月14日 (水)

日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて

日文研の『日本研究』2016年号に書いた「日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて」という論文のサマリーを今日、送った。下記のようなもの。いわゆる古代史研究の主要メンバーとはまったく意見があわないだろうと思うがーー。
 

 日本文化論を検討する場合には、神話研究の刷新が必要であろう。そう考えた場合、梅原猛が、論文「日本文化論への批判的考察」において鈴木大拙、和辻哲郎などの日本文化論者の仕事について厳しい批判を展開した上に立って、論文「神々の流竄」において神話研究に踏み入った軌跡はふり返るに値するものである。

 本稿では、まず論文「神々の流竄」が奈良王朝の打ち出した神祇宗教は豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であり、その中心はオオクニヌシ神話の作り直しであり、その背後には藤原不比等がいたと想定したことは、細部や論証の仕方は別として、その趣旨において重要であることを確認した。梅原が、この論文において八世紀の「神道」が前代のそれから大きな歴史的変化を遂げたことものであることを強調したことの意味は大きいと思う。

 問題は、それが論文「日本文化論への批判的考察」における、鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にあると思われることである。それはまた梅原が鈴木が日本仏教を無前提に禅と真宗を中心に捉えているという批判にも通ずるものであるように見える。

 残念であったのは、このような梅原の主張が歴史学の分野における一級の仕事と共通する側面をもちながら必要な議論が行われなかったことであるが、しかし、その上で、本稿の後半において、私は梅原の仕事も、また歴史学の分野における石母田正などの仕事も、神祇や神道を頭から「固有信仰」として捉えるという論理の呪縛を共通にしていたのではないかと論じた。私見では、これは、結局、「神道」なるものと「道教」「老荘思想」の歴史的な関連を、古くは「神話」の理解の刷新、新しくはたとえば親鸞の思想への『老子』の影響如何などという通時的な見通しを必要としていることを示していると思う。梅原の仕事が、今後、歴史学の側の広やかな内省と響きあうことを望んでいる。

2016年11月28日 (月)

世界には溶鉱炉の鞴のような激しい風が吹く(『老子』五章)

世界には溶鉱炉の鞴のような激しい風が吹く(『老子』五章)

天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す。天と地との間は、其れ猶お橐籥のごときか。虚にして竭せず、動きて愈々出ず。多言なれば数しば窮す。中を守るに如かず。
天地不仁、以万物為芻狗*1。聖人不仁、以百姓為芻狗。天地之間、其猶橐籥乎。虚而不竭*2、動而愈出。多言数窮。不如守中。

 天地の自然には仁愛などというものはない。万物を藁人形(芻狗)のように吹き飛ばす。(また社会も同じであって)、聖人と称する者も仁愛などはなく百姓を藁人形のように扱うのが実際である。天と地の間は溶鉱炉の鞴のようなものである。中は真空でも風が竭きることはなく、天と地が動けば風はいよいよ激しくなる。仁愛などということを多言していると行きづまる。真空という実態を知って置かねばならない。

解説
 橐籥とは溶鉱炉の鞴のことである。中国では春秋時代に鉄の鋳造技術が発展した。これは世界の鉄器製造の歴史では、普通、鍛鉄が先行するから、これは中国に独自なことと謂われているが、それを可能にしたのが溶鉱炉の熱を上げるための送風装置、鞴の開発であった。これは地域釈迦での鉄製器具・農具の利用を広げ、大きな意味をもったのであるが、ここで老子が天地の間で動く巨大な橐籥=鞴という喩えを語っているのは、老子にとっても製鉄技術の発展がめざましいものであったからであろう。

 天地の空間を鋳物を造るための巨大な空間と観想する神話イメージは『荘子』にもみえる。それは天地を鞴ではなく、溶鉱炉自体と考えるもので、『荘子』(大宗師篇)は「天地をもって大鑪となし、造化をもって大冶となす」(天地は巨大な溶鉱炉であって、その中で大冶=巨大な鋳物師がものを造る)と見えている。日本神話でも、最高神の高皇産霊は「天地を鎔造する」巨神とされている(『日本書紀』顕宗紀)。「鎔造」の「鎔」は鋳型による鋳造を意味する。また奈良時代に桜島が噴火したときのことを語る『続日本紀』には、それは大地の神・大己貴命(大国主命)が「冶鋳」(冶金と鋳造)の仕業を営んだのだと描き出している。そもそも、有名な「天孫降臨」は王家の祖先神が火山・高千穂が噴火するなかを「天の浮橋」(岩石の梯子)をつたって降りてきたという火山神話である(保立『歴史のなかの大地動乱』)。これは東アジアに古くからあった鞴や溶鉱炉の神話イメージが、日本では火山神話と結びついていたことを示している。そういう連想が文字化される上で、『老子』や『荘子』は相当の影響を与えたのではないかとおもわれる。

 さて、「天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す」というのは有名なフレーズである。人間を歯牙にもかけずに、圧倒的な力で規定してくるのが自然の本質だという老子の自然観を示す。漢学者の家に生まれた原子物理学の湯川秀樹は小さい頃から漢籍に親しんでいたが、原子爆弾の出現を見て、この老子の言葉を思い出し、科学文明によって人為の変化をうけた自然が人間を吹き飛ばすのではないかと危惧したという。二〇一一年三月一一日の東北大地震・津波と原発事故の後には、この老子の言葉はさらに新しい意味を帯びて迫ってくるように思う。自然はその表層では人間にとって有用なものにみえるが、より本質的には、それは人間に関わりなく存在する「無縁」そのものである。

 「聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す」というのも強烈なフレーズである。社会も個々人からみれば、無縁な自然と同じように、一つの無慈悲な自然のように人間を扱うというのである。社会が社会的自然ともいわれるのは、それが個々の人間からは疎外された一つの自然であるためである。自然のなかで働く人間は、直接に自然にしばりつけられているから、支配者は自然を所有し、それを通じて社会的自然をも支配することによって、人間を把握することができるのである。『老子』の社会思想は、こういう問題につらなってくる。『老子』というと「自然と親しむ思想」と考えられがちであり、もちろん、それは事実なのであるが、実は『老子』には、時と場合によっては、自然と社会は怖いもので、しかも、その怖さは関連しながら人間に迫ってくるという考え方がある。『老子』は深いのである。

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