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2017年4月30日 (日)

日本史の30冊。武田清子『天皇観の相剋』

武田清子『天皇観の相剋』(岩波書店現代文庫、2001年、初出1978年)

 現代日本における天皇のあり方は国内的な政治によってきめられたものではない。終戦時の国民の力量は、実際上、天皇の位置のような国制問題についてイニシアティヴを発揮できるようなものではなかった。やはり天皇の位置はアメリカによって作られたものである。

 本書は、今から40年近く前に発行されたものである。その時期にこれだけの史料に目配りすることができたのは、著者が20代の初めにオランダで開催された世界キリスト教青年会議に出席し、そのまま日米交換学生としてアメリカで3年間を過ごし、神学者のラインホルト・ニーバーに師事したという経歴にあったろう。武田は1942年にニーバーにアメリカに残ることを進められたが、同じ日本人として苦難をともにするという覚悟の下に、交換船で日本に帰国した。しかし、帰国後、日本YWCAに就職し、終戦後も、その延長上で国際的な活動を続けたのである。

 そのなかで著者は世界の人々が日本をどうみているのかを実感した。本書には、その経験が生きており、アメリカ、イギリス、オーストラリア、中国(および付論として韓国)の外交官、学者、宗教者などの多様な「天皇観」が原史料や直接のインタヴューによって手際よく紹介されている。ただ、「社会主義」の側の動きを示す史料がかけているのは執筆時期からいってやむをえない。私は、国際キリスト教大学で著者の指導をうけたが、当時、武田の師のニーバーなどのキリスト教神学者たちが、20世紀社会主義の全体主義的性格を強く批判していたことは正しかったと考えている。現在、この時期の世界政治史を見通すためには、どうしても「20世紀社会主義」なるものの問題性をまとめて考えなければならないだろう。私は「社会主義」がすべて全体主義に帰着するとは考えないが、体制崩壊のみによってスターリンが朝鮮戦争を仕掛けたという史料がでてきたことは深刻な問題である。

 さて、本書の検討の起点はアメリカである。著者が注視したのは、この時期のアメリカの駐日大使ジョセフ・C・グルー。彼は日米開戦によって、六ヶ月間、大使館内に幽閉されたのちに送還され、途中で日本に帰国する武田らとすれ違っている。

 アメリカに帰ったグルーは国務省の「知日派」の中心として活動し、国務次官に就任し、戦争末期に重大な役割をになった。グルーはアメリカの日本占領にとって天皇は有用であり、アメリカによる天皇制の廃止、さらには天皇の戦争責任の追及はさけるべきであるという主張をもっていた。天皇は、中国と南方諸地域にいる数百万の日本兵に武器を捨てよと命じることのできる唯一の人物であるというグルーの指摘は正しいといわざるをえない。

 これに対して、アメリカ国務省には中国の位置を重視し、日本の天皇制と戦争犯罪に対して厳しい立場をとる「親中国派」と呼ばれるグループがあった。有名なのは中国研究者のオーウェン・ラティモアである。ラティモアは天皇および皇族をできれば中国に抑留することを提案している。

 「天皇観の相剋」とは、このアメリカにおける二つの立場を中心にいうのであるが、重要なのは、その両者を相対化しうる立場として中国の見地があったという指摘である。つまり、蒋介石がルーズヴェルトとの会談において、天皇制の処置については、戦後の日本国民自身の意思決定にまかせるべきだと述べたといい、また中国共産党の庇護の下にあった日本の共産主義者、野坂参三が天皇打倒ではなく、軍部打倒、民主日本の建設という目的の下に広く連帯すると述べたことに注目している。

 また個人レヴェルでも、そのような意見は多かったというのが武田の実感であるようである。とくに日本で生まれ、朝鮮で、医療宣教師として活動し、朝鮮での神社崇拝を拒否し、ブラックリストにのり、70日間、獄中で過ごして交換船でどうにか故国に帰り着いたというオーストリアのチャールズ・マクレランとの会見の記録は感動的である。彼も戦争中に同じような立場を表明したという。また同じような境遇で活動したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンについても記述があり、ノーマンが、やはり日本に長く滞在したB・H・チェンバレンの小冊子『新宗教の発明』について論じているのが紹介されている。ここには日本に親しみをもちつつ批判的な見地を維持した欧米の知識人の系譜がみえるように思う。これは近代日本思想史に位置づけるべき問題であろう。

 これらは「天皇観の相剋」を相対化しうる第三の立場というべきものであろう。武田は、それと対比すると、アメリカ国務省内部の両派は、結局、どちらも「日本を自分たちのデザインによって自由に作りかえることができるとの確信」の下に行動するパワーポリティクスの思想、一種の西洋合理主義であるといっている。

 しかし、本書の面白さは、やはり第二次世界大戦の終了という世界史的な転機の渦中で行動した政治家や外交官の個々人の息づかいのようなものが史料にそくして語られることにある。

 中心は、先にふれたグルーで、たしかにグルーの系統的な主張とイニシアティヴがなければ、アメリカの日本占領の経過は、もう少しギクシャクしたものとなったかもしれない。グルーについては、その姿勢の基本はヨーロッパ情勢との関係での強力な反ソ連の立場があったことを論じた藤村信『ヤルタ――戦後史の起点』、またより新しい研究として日本との関係を論じた中村政則『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』をあわせ読むべきであるが、中村も、グルーの現実主義的な見通しの確かさについては舌をまくと述べている。そして、グルーの行動でもっとも注目すべきことは、アメリカの終戦戦略としての原爆投下問題への関わりであろう。

 1945年4月12日、ルーズヴェルトが死去し、副大統領からトルーマンが昇格し、5月7日にはドイツが降伏する。それをうけて、5月末、グルーはトルーマンに面会し、日本の「無条件降伏」は軍事的無条件降伏ではあるが、君主国であることをも否定するものではないという声明案に同意を求めた。それが日本の降伏を早め、犠牲を少なくする方策であるという説得であって、新任の大統領トルーマンは、一時、それに賛成したが、しかし、結局、陸軍長官スティムソンなどの反対によって、この声明は潰えた。アメリカ軍部中枢は原爆投下のマンハッタン計画に突き進んでいたのである。原爆の実験成功は7月16日のことであったが、彼らにとって計画に消極的であったルーズヴェルトの死去は願ってもないことであったろう。

 グルーはポツダム宣言の起草、通告の経過のなかで、最後まで、「天皇」を「鍵」として使う案を先行させようとして、トルーマンとスチムソンに働きかけ、ポツダムに立つために空港に向かう国務長官バーンズのポケットにメモを突っこむという「異常なほどの執拗さ」をみせたが、結局、原爆の実験成功がすべてを帳消しにした。翌年、スティムソンは、原爆投下によって多くの人命を救ったという論文を発表したが、それにたいしてグルーは、持論を再説し、「原爆投下」と「ソ連の対日参戦」といういまわしい出来事なしに無条件降伏の可能性があった、そうすれば世界は本当の勝利を喜べたのに――と、つきせぬ恨みを書き連ねた手紙をスティムソンに出したという。このような終戦の経過を正確に認識することは、ルーズヴェルトの死のような歴史的偶然の評価をふくめて、いまでも当事国にとっては必須のものであろう。

 本書は、それを考える上で、現在でも基礎的な意味をもっている。とくに、武田が終戦にむかう日本において、当時の日本政府の最大の関心事が、国民の運命ではなく、「国体護持」なるものであったことをまず銘記しなければならないと指摘しているのは基本点をついている。

 ただ、史料の検討と批判が進んだ現在の立場からみると、すでに本書には日本側の昭和天皇とその側近の動きについては史料批判が甘いところがある。枠組みはアメリカが決めていたとしても、ある時期からは、戦争責任の波及を怖れた昭和天皇側近の宮中派が、その下に取り入って戦後の天皇のあり方について合作した。そこにはグルーの段階とは違う形で、戦後におけるアメリカの戦略があり、アメリカが日本を握る利権・国益についての判断があり、また日本で戦争を遂行した支配層の動きがあった。

 私は、アメリカの当初の占領政策が、「知日派」も「親中国派」も、君主制の行方については最後は日本国民が決定することであるという態度をとったことは正しいと思う。そこから「国体護持」を国際的に認めてもらうために「憲法九条」が定められたという結果となったのだという側面もたしかにあるように思う。しかし、それと、右のような合作を推進した日米の諸勢力の評価は、すでに別問題であろう。たとえば、天皇の「人間宣言」やマッカーサーの『回想』などの史料が、昭和天皇の退位をはじめとする諸問題を回避するという占領軍と昭和天皇側近の合作であることは、近年の研究が詳細に明らかにしたところである。

 もちろん、著者は思想史家であって、本書のスタンスは占領・被占領経験を思想史的に考えるということにある。それは著者が「敗戦と天皇制」の問題を一つの異文化問題として経験した以上、当然のことである。しかし、現在となってみると、この時期の異文化交錯が、いったい何を残したかを真剣に考えざるをえないように思う。

 問題は、この時期、元首相近衛文麿、東大総長南原繁、さらには志賀直哉その他の多くの人々が、少なくとも昭和天皇は退位すべきだという意見を表明したことである。武田が強調するように、終戦時、国民の大部分がアジア侵略についての責任意識にかけ、天皇制を維持することを当然と考えていたなかで、これを日本人自身の責任で実現することは最低の倫理的な筋の通し方であったのではないだろうか。逆に、この点では、この時期、ほぼ唯一の反戦勢力としての権威をもっていた日本共産党が、さきにふれた野坂の見解とは相違して、獄中に長く囚われていた徳田球一など指揮の下にもっぱら「天皇制打倒」をスローガンとして過激に行動したことも問題となろう。また戦後派の知識人一人々々の思想と行動も問われるに違いない。

 このような問題をふくめて国民全体が、より成熟した態度をとれなかった理由を思想史の外からも詰めていき、そのような視野の下で現在の政治と文化を考えることが必要であるに違いない。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
中村政則『象徴天皇制への道』(岩波新書)
吉田裕『昭和天皇の戦後史』(岩波新書)

日本史の30冊。石橋克彦『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会

石橋克彦『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会』(岩波書店、2014年、叢書、震災と社会)

 本書は21世紀に相当の確度で発生する南海トラフ巨大地震についての、現在、もっとも明解な解説であって、そして歴史地震学の最良の入門書でもある。その構成は第一章「南海トラフ巨大地震の歴史」、第二章「南海トラフ巨大地震の科学」、第三章「南海トラフ巨大地震と社会」となっている。

 以下、専門分野の違いもあって、要約がどこまで正確かについて躊躇もあるが、順次に紹介していくと、まず第一章では、昭和(1946、1944年)、幕末(1854年)、江戸期(1707、1605、1614年)、室町期(1498、1361年)、平安期およびそれ以前(1096、1099、887、684年)の各時期の南海トラフ巨大地震について、歴史をさかのぼるようにして、説明されている。史料の多い新しい時代の地震で南海トラフ地震の説明をして、史料の少ない古い時代にさかのぼっていくという叙述がわかりやすい。これによって、これらの大地震のもつ(1)伊豆から九州までの強震動、(2)静岡県御前崎などの隆起と伊勢湾沿岸などの沈降という地殻変動、(3)海底の上下にともなう大津波、(4)和歌山県熊野の湯峯温泉、四国の道後温泉の湧出停止などの特徴的な現象が過不足なく解説されている。

 このような南海トラフ巨大地震の系統的な分析は、「14世紀前半までのまとめ」という副題をもつ著者の論文(1999年)によって手がつけられたものであるが、本書で通史の枠組みが完成したことになる。歴史学者としては、このような研究が地震学研究者のほどんど独力によって遂行されたことに驚嘆する。私などは新参者だが、著者とほぼ同時期に歴史地震学の構築を開始した矢田俊文氏(参照、矢田『中世の巨大地震』2009年、吉川弘文館)を初めとする歴史学者がよく知っているように、著者の史料収集と分析の力は、地震学的な視野と直感に支えられているだけに、プロの歴史学者も容易には追尾できないレベルにある。歴史学徒は、本書を読んで、それを実感することが必要だと思う。

 第二章は、南海トラフ巨大地震の発生機構がプレートテクトニクスの概論、地震・津波現象それ自体の理解、現在政府が想定している南海トラフ巨大地震の地震像などを素材として、最先端の研究視野から説明されている。その説明は自然科学にとくに詳しくなくても理解可能なもので、たいへん興味深い。本章によって南海トラフ大地震の全体像をどう予知するかという地震学の最新の到達点を知ることができると思う。

私などにとっても興味深いのは、著者が主張して有名になった駿河湾地震説を始め、七〇年代以来の地震学の研究史が概括されていることで、そのなかで著者の旧説が、いわゆる「アムールプレート東縁変動帯仮説」に新らしい形で統合されていることである。アムールプレート(以下AMプレート)とは、中国の南部地塊を中心とするユーラシアプレートの部分プレートであるというが、これが毎年一定のスピードで東進していることが明らかになっている。AMプレート南東端が、太平洋プレートと押し合うようにして、静岡の遠州ブロックまで伸びており、南海トラフ巨大地震によってプレート間の固着が剥がれると、それを条件としてAMプレートが一挙に東進し、糸静線断層帯周辺が破壊されるというのが、著者の主張する「駿河湾地震」の発生機構である。さらに著者によれば、この仮説によって、南海トラフ巨大地震前後に、北海道沖から下ってくる日本海東縁変動帯からフォッサマグナ、中央構造体沿いに発生する地震・続発地震などが理解可能になるという。またプレート間地震と内陸地震の関連の基礎理解の道が開かれるともいう。

 この「アムールプレート東縁変動帯仮説」は地震学界のなかでも論争は続いているようで、もとより、私には、この仮説の地震学的な評価はできないし、また正しく要約しているかどうか自体にも自信はない。しかし、第一章の歴史地震の様相をみても、この仮説には説得力があるように感じる。ともかくインド亜大陸の北上衝突によって中国大陸が東へ押し出されることを原動力とするというAMプレートの東進の観察を基礎に構築された雄大な仮説である。これが学説として具体性をましていけば、日本列島の自然史を現在と関係させて理解するうえで大きな意味をもつことは明らかであろう。地球科学の側での論争を期待したいももである。

 第三章は、地震学の目からみた巨大な危険施設として原発とリニア中央新幹線をあげ、南海トラフ巨大地震が超広域複合大震災のトリガーとなることを警告している。著者は一・二章がふくれあがったために、三章が短く不十分なものとなったとしているが、これについては著者の『原発震災』(七つ森書館2012年)が参照されるべきである。著者が「自然災害は輸出も移転もできない地域固有のもので、自然の恵みと表裏一体だから、それと賢く共存していくこと(自然との共生)こそが大事なろう」「いまの日本の社会経済システムが被災者を一人も切り捨てることなく試練を乗り越えることができるかどうか、見きわめる必要がある」などと述べるのは学者としての自然な発想であろうと思う。

 さて、私は、二〇一二年から二〇一三年にかけて、科学技術・学術審議会の地震火山部会におかれた次期計画検討委員会に専門委員として参加して、2014年度から5ヶ年間の観測研究計画の審議に参加した。そこでは従来の地震学研究において歴史地震データの注目が不足していたことへの反省がなされ、今後のことを考えると歴史地震を研究する研究機関がどうしても必要であることが文部科学大臣への「建議」の形で決定された。研究機関といっても、地震学・火山学・地質学などの理学系計四人、歴史文献・考古で四人からなるセンターを、たとえば自然科学研究機構・人間文化研究機構の学際領域として設定するというような小規模なもので出発すればよいのだと思う。現在のアカデミーの実力ではこれを政策として実現させることはなかなかむずかしいが、社会的に訴え、遅くない時期に実現するべきものであると思う。それは防災行政に責任をもつ政府の責任であろう。

 そして、日本のような火山列島・地震列島で国民の税金から給料をうけている学者にとっては、どのような分野であれ、噴火と地震に関わる災害科学の仕事に参加することは、その職能的責務である。災害科学とは、必然的に発生する自然的な災異natural hazardsが社会的な災害に転化するのを抑制し、自然的な災害誘因trigerがどのような災害disastersの複合を結果するかを理学的・社会学的に予知し、それを防止するための巨大な科学分野である。そこでは地球科学の第一線から、経済学・法学などの社会科学の実働部隊から歴史学などの人文社会系の基礎学術分野にいたるまで、すべての学術分野がおのおの独自の役割を果たさなければならない。

 この科学分野を体系的で有効なものに育て上げ、かつそれについての社会的・国際的な理解を深めていき、それを担えるような政府機構を各国に形成することは、二一世紀の人類にとっての最大の課題であるということができるだろう。これについては、発展途上国における社会的災害の研究から出発して災害科学の大系をはじめて創成したBen Wisnerの、"At Risk: Natural hazards,people's vulnerability and disasters"(邦訳『防災学原論』築地書院)を参照することができる。

 社会的な災害は一般に生態災害(Biological Hazards)、気象災害(Meteorogical Hazards)、地殻災害(Geological Hazards)に区分できるといわれる。生態災害とは虫害・鳥獣害から広域流行病(パンデミック)にいたるまでの生態系の災異を誘因として発生する災害をいい、気象災害とは落雷・竜巻・台風から温暖化や冷涼化にいたるまで大気の運動にかかわって発生する災害をいい、最後の地殻災害とは山崩れあるいは土壌の深層崩壊から地震・噴火にいたる地殻の変異を誘因として発生する災害をいう。

 歴史学には、このような災害科学を、その基礎から支える役割があるのである。そして、その試金石は明らかに地殻災害であろう。そもそも、歴史学が全面的に関わることなしに、国民に地震・噴火というものの実態を伝えることができるとは考えられないのである。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

2017年4月29日 (土)

アメリカの人種主義イデオロギーとキリスト教ヨーロッパ帝国

アメリカの人種主義イデオロギーとキリスト教ヨーロッパ帝国

 アメリカには多数の民族集団、先に述べた意味でのエスニック集団がいる。ネーティヴ・アメリカンやアフリカン・アメリカン、次に様々なヨーロッパ系の人々(イギリス系、ドイツ系、ラテン系、ユダヤ系)、またアジア系の人々、さらに最近ではアラブ系の人々など、ほとんど世界中の民族に出自をもつ人々がアメリカにいて、多数か少数かは別としてエスニック集団を作っているのである。

 アメリカではしばしばこれらの民族集団を「人種」と呼ぶが、この「人種」観念が右のようなエスニック集団を反映している以上、それをたんに作られた虚構にすぎないということは適当ではないが、しかしそれが身分的な性格をもった虚偽観念であることは先に述べたとおりである。その意味でアメリカは「多人種国家」ではなく「多民族国家」なのである。アメリカの国勢調査には今でも「人種」という項目があるが、これは近代国家においては許されない人間に対する身分的な扱いである。これは一日も早く廃止し、「アメリカは多民族国家です。エスニックアイデンティティをご記入ください」と差し替えるべきものであろう。このような国勢調査項目自体がほとんどアメリカにしか残っていない異様なものであることが現在でもほとんど意識されないことは、アメリカの人種主義がきわめて根の深いものであることを示している。

 近代の人種主義は、だいたい一六世紀に始まった資本主義の形成の中で、世界的なイデオロギーとして登場したのであるが、そのなかで、アメリカは根本的な役割を果たした。そして、その時に形成された世界資本主義の構造の相当部分は、変形しながらも現在に続いており、それに対応して、ほぼ五〇〇年以上の歴史をもつ人種主義のイデオロギーとその影響は、現在、世界の中でもアメリカにもっとも濃厚に残っているのである。

 世界資本主義は、ヨーロッパの諸王国が北アフリカから中東をおさえるイスラム帝国に挑戦する中で形成された。それは十字軍から始まったが、成功の道はスペイン・ポルトガルによって敷かれた。両国はアフリカ西海岸に進出して金・砂糖・アフリカ人奴隷の交易を組織し、すでに一五世紀にはマディラ諸島・カナリア諸島に奴隷によるプランテーションや砂糖工場をおいており、コロンブスによる大西洋横断以降、それがアメリカ大陸に広がっていく。これがマルクスのいう「血と火の文字で人類の年代記に書き込まれた」資本の本源的蓄積の時代の出発であった。『資本論』(本源的蓄積)は、それを「アメリカにおける金銀の発見と原住民の絶滅と奴隷化、インドの征服と略奪の開始、アフリカの商業的奴隷狩猟場への転化、これらが資本主義的生産の時代の曙光を特徴づけている。そのあとに続くのが、地球を舞台とするヨーロッパ諸国民の商業戦争である。それはネーデルランドのスペインからの離脱によって開始され、イギリスの反ジャコバン戦争で巨大な範囲に広がった」と要約している。

 ここでヨーロッパの諸王国は、あたかも多頭の龍のように相互に競合しながら激しい侵略行動を展開した。アメリカの歴史家、ウォーラーステインは、この時代のヨーロッパ勢力は帝国を形成しない「世界経済」であり、その強みによって、他の旧態依然たる「世界帝国」対して優越したのだというが、しかし、十字軍以来の経過をふまえれば、それは、イスラム帝国に対抗するキリスト教帝国の行動というべきものである。そしてこの帝国は多頭であっただけにアジアの諸帝国と比してきわめて狂暴であった(『近代世界システム』)。こういうヨーロッパとアジアを絶対的に区分してしまう論理は、実際上、当時のヨーロッパ勢力の「自由貿易イデオロギー」を言い直したものにすぎず、根本的に間違っている。この点ではウォーラーステインの観点もいわゆるヨーロッパ中心史観を抜け出てはいないのである。

 このヨーロッパキリスト教帝国は、自己自身をイスラムに対抗する一つの「人種」として意識していた。それは十字軍遠征におけるユダヤ教徒の虐殺で最初のピークをむかえた。イスラム教徒に対しても異族視は顕著であったが、この時期のイスラムは経済的にも文化的にも最盛期であって、キリスト教徒はユダヤ教徒をスケープゴートに適当な異なる「人種」として迫害したのである。この他集団に対する人種化によってキリスト教徒自身が人種としてとらえられた。キリスト教史の専門家、W・ハウイットは、その『植民とキリスト教、ヨーロッパ人による全植民地における原住民の取り扱いの通俗的歴史』(一八三八年、ロンドン)においてヨーロッパの世界制覇の時代を論じて、「いわゆるキリスト教人種が、世界のあらゆる地域で、また彼らが征服することのできたすべての人民に対して演じてきた野蛮行為と無法な残虐行為とは、世界史上のどの時代にも、またどの人種のもとでも、どんなに未開で無教養であり、無情で無恥であっても、その比をみない」と述べている。これは『資本論』に引用されたものであるが、そこに「キリスト教人種」とあるのは、歴史的事実を反映している。

 歴史学は、このような人種主義がヨーロッパと環大西洋地帯を被う世界的なイデオロギーに展開する上で、一四九二年が画期の年となったとしている。まず一月、スペインがイベリア半島でイスラム勢力の最後の拠点となっていたグラナダを攻略し、三月にはユダヤ教徒に対して改宗を迫り、非改宗者を追放した。彼らはオランダやオスマン帝国などに居を移したものの、長かったスペイン居住を追われたユダヤ人のディアスポラは一挙に深まり、ヨーロッパ全域でのユダヤ教徒に対する「人種」差別と迫害の体制が決定したのである。

 この一四九二年をコロンブスの大西洋横断の年と教え記憶するのが、日本の風習であるが、これはヨーロッパ中心主義そのものであることになる。スペインがグラナダ攻略の勢いにのって、コロンブスへの援助を承認したことを知らなければ、一四九二という数字の記憶は無意味である。それは中東ーインド貿易を独占していたヴェニス商人を追い落とし、インドに西回りで到達してイスラムを世界を包囲しようという野望にもとづいていた。このためコロンブスは最後まで自分はインドを発見したと固執したのであるが、これが世界資本主義の形成、資本の本源的蓄積の最大の条件となったことはいうまでもない。スペイン・ポルトガルの両国は、これによってヨーロッパ・アフリカ・アメリカを結ぶ巨大な三角形、環太平洋地帯を世界侵略のための広大な拠点であり、実験場であるものとして獲得したのである。

 その中軸がネーティヴ・アメリカンの大地への侵略と収奪、そして一挙に展開したアフリカの人々の捕囚と奴隷化、アメリカへ向けての奴隷貿易であったことはいうまでもない。それが一六・一七世紀を通じた本国におけるユダヤ教徒に対する人種主義的な迫害と激化と同時進行したことが重要であろう。これによってイベリア帝国主義はユダヤーアメリカンーアフリカンという人種主義のまったく新たな世界的スタイルに到達した。

 このような新たな人種主義を新大陸アメリカに持ち込んでいったのは植民者は本国人に対して植民地人=クレオールと呼ばれた。その本国は、スペイン・イギリス・フランス・オランダなどさまざまであったが、それが逆に彼らにヨーロッパ人=白人という「人種」性をあたえることになった。そもそも「白人種」という観念はヨーロッパを外からみる観念で、出自にもとづく社会的不平等が一般的であったヨーロッパの内部から発展する余地がなかったことは先にもふれた通りである。クレオールとはスペイン語のcriollo、ラテン語のcreare、英語でいえばCreate(作る)という意味の言葉であるが、逆にいえば、「白人」という人種観念自体がクレオールによって作り出されたということもできる。スペイン本国では両親がスペイン人であっても植民地で生まれただけでクレオールと蔑視されたというから、クレオールというのはいわば本国身分に次ぐ位置を示す人種身分なのである。英語の人種=レースraceという言葉が、スペイン語のrazaにさかのぼるといわれることも、ここに原因があるに違いない。スペインはたしかに人種主義イデオロギーを生み出す本場であったというべきであろう。そこにキリスト教の影響が大きかったことは、『ドン・キホーテ』のサンチョ・パンザが自分のことを「良き生まれにして紛うかたなき古きキリスト教徒」といいつのっているように、スペインでは庶民が自分たちはムーア人やユダヤ教徒を先祖にもたないから高貴な血筋だと称するのが普通であったという。

 このようなキリスト教に根をもつ宗教知識が、アフリカン・アメリカンとネーティヴ・アメリカンを一つの「人種」として扱う観念材料を提供した。まず、アフリカ人の祖先は旧約聖書に登場するノアの息子のハムであり、ハムは父を嘲笑した罪によって肌の色が黒くなってアフリカ人の祖となったと広く信じられていた。この迷信がアフリカ人を奴隷として扱うこと理由として動員されたのである。しかし、捕囚とされた人々は、(1)モーリタニア、(2)ギネア=ヴェルデ岬、(3)シェラ・レオーネ=黄金海岸、(4)バンツー・ダホメ、(5)アンゴラ、(6)東海岸などまで、北から南に広大なアフリカ大陸に拡大しており、彼らは異なる民族に属する人々である。彼らを「船積み」する際の書類には、たとえば「ギネア種」などという「種(カスト)」という言葉が使われていたのは、まさに人種観念の発生場所を示している。このように、捕囚と奴隷貿易による故国アフリカの大地からの暴力的切り離しの結果として成立した、アメリカにおけるアフリカン・アメリカン「人種」の成立はあくまでも二次的なものであったのである。

 アメリカ先住民についても同じことであって、キリスト教知識の下で、彼らはイスラエルの失われた部族の子孫であると一般には信じられていた。それは現在でもアメリカの福音派(エヴァンジェリカル)のもっているアメリカこそが「新しいイスラエル」であり、神の御業を最後の審判の前に実現する選ばれた民であるというピューリタンに多いキリスト再臨説に奇妙な形で流れ込んでいたはずである。一八世紀にアメリカでエルサレム巡礼が流行し、マーク・トウェインも出かけ、「(そこにいたのは)アメリカのインディアンとよく似た、服装も粗末なら、質も悪い野蛮人どもで」(『イノセント・アブロード』)という感想を残しているのは『ハック』を愛読したものとしては興ざめな話である。ここでは広大なアメリカ大陸、北アメリカ大陸に古くから居住し、現代人にとって何よりも大事な食用食物種を作り出してきたアメリカ先住民の諸民族を「野蛮人」と一括する傲慢さがあらわである。

2017年4月21日 (金)

多民族国家アメリカと「人種」という言葉ー人種という言葉は使わないのが常識

 多民族国家アメリカを考える上で、第三に定義をしておかなければならない問題は、いうまでもなく、「人種」(レースrace)をどう考えるかであるが、 この言葉はきわめて問題の多い言葉である。

 ユネスコは一九六七年にだした声明『人種および人種偏見についての声明』で「人類を『人種』raceに区分することは、因習的で恣意的なもので、それを何らかの段階秩序に結びつけることは許されない」と述べた。「人種race」という言葉の使用自体が人種主義racismへの感染を意味しているというのである。生物学の分類用語としての「種」は相互に融和・通婚できないという意味をもっているから、とくに「ヒトの種」を意味する漢語の「人種」という言葉を使うこと自体が、現在では、いわば無知の証明であろう。

 また「人種」と翻訳される英語のレースraceという言葉はスペイン語のrazaやイタリア語のrazzaにさかのぼるものであるが、本来は植物や動物をグループ化する用語であった。これが一七・八世紀にベルニエやリンネによって人間の集団に転用されたのであるが、問題は、彼らが「人種」というとき、もっぱら肌の色や顔かたちなどの人びとの見かけの相違が地球上にどう分布しているかを論じたことである。「白色人種・黒色人種・黄色人種」などという見かけを優先した分類が、そのなかから生まれたのであるが、しかし、これは現在のDNA解析を駆使した研究成果からいうと、科学的に無意味な分類、ナンセンスである。『老子』に「色に囚われれば何も見えなくなる」(一二章)とあるが、こういう囚われは、まさに因習的・恣意的なものでしかない。

 最近の分子人類学は、現生人類はアフリカに起原をもち、人類の地球全域への移動にともない、異なる地域環境への適応を遂げたことが明らかにした。肌の色や顔かたちなどは移動していった各地の自然条件におうじて遺伝子に生じた末梢的な相違にすぎない。哺乳類サル目ヒト科ヒト亜科ヒト属に属する現生人類(ホモサピエンス)は生物として完全に一体であって、むしろ人類の類的特徴はきわめて移動性が高く、環境に適応する能力をもっていながら生物的な一体性(相互理解と性的紐帯の強さ)を維持する点にこそある。分子生物学の尾本恵一(『分子人類学と日本人の起原』)はこれらの点をふまえて「人種」という用語は学術的にも破綻しており、使用すべきではないと述べている。

  それ故に、アメリカにすむネーティヴ・アメリカンやアフリカン・アメリカン、ヨーロッパ系、アジア系などの様々な人々を「人種race」と呼ぶのは正しくないことになる。彼らはどの場合もエスニック集団なのであって、ブラックの人々がエスニック集団であれば、WASPの人々もエスニック集団なのである。だからこそ、アメリカを「多人種国家」とはいわず「多民族国家」というのである。そういう中で、たとえばブラックの人々のみを「人種race」という言葉でとらえること自体が、もし口に出さないとしても人種差別であり、最悪の人種主義であることは銘記されなければならない。

 そもそもリンネやブルーメンバッハなどの生物分類学者の仕事は、ヨーロッパが世界に進出し、世界各地の民族を「文明」の名において支配し、さらにはしばしば虐殺したり、奴隷化したりするのと同じプロセスで進んだ。ヨーロッパの博物学的な生物分類学は、それに対応する人種主義偏見を作り出したのである。人類の高い移動性・適応性は、本来は先述の「民族=エスニシティ」の相違、文化的・習俗的な相違を柔軟に受け入れる素地であったはずであるが、それが「身体の相違」であり、「生き物」としての相違であるとするところに他民族嫌悪(ゼノフォビア)・人種主義が発生するのである。

 こういうことからすると、結局、人類の分子生物学的分類をする場合にも「人種」という用語は一切使用せず、たとえばDNA系グループというような学術的に正確な用語を使うほかないだろう。これは人文社会科学にとっても深刻な問題であって、たとえば、マルクスも『資本論』で「労働の生産性は人種などのような人間そのものの自然と人間を取り巻く自然に還元される」「(世界には)すでに調査が行われた地域だけでもなお四〇〇万人の人食い人種が住んでいる」などと述べている(Ⅰ535)。もちろん、マルクスはダーウィンの見解にふれて、人類の間での性的な交流は差異を作り出すのではなく、むしろ種の典型的な単一性を作り出していく。差異を作り出すのは地質などの環境的自然であり、そのような自然的基礎の上に民族性も存在しているという趣旨のことを述べており、「人種」が環境の産物であることを認めている。しかし、上記のような記述が人種主義な偏見に満ちたものであることは明らかであり、この点でマルクスもヨーロッパ的な偏見のなかにいたのである(全集(31)248)。

 なお、以上からみると、先に見たスターリンの論理は、最悪の人種主義であることがわかる。前述のようにスターリンは「民族=エスニックグループ」を「国民となる資格をもつ民族」と、その可能性がない「人種的な共同体」に区別する。スターリンは、「ギリシャ人、エトルリア人、ゲルマン人、ゴール人、アラビア人」などから「ユダヤ人、ラトヴィア人」以下のロシア帝国内の「ーー人」と表記した集団を「人種的な共同体」とした上で、その中から「民族=国民」の資格あるものを選別するというやり方をする。ようするに特定のエスニック・グループを「人種あるいは種族」にすぎないという形で差別するのである。

 とくにユダヤ人の問題は大きかった。ユダヤ人は、DNA系グループとして独自なグループをなす訳ではなく、あくまでもエスニック・グループである。スターリンは、ユダヤ人について、ロシア帝国内でいえばロシア・グルジア・カフカーズ高地などの異なる地域に住み、異なる言語を使っているから、単一の民族を構成しない「人種」であるとした。ユダヤの人々の広域的な都市間・地域間のネットワークは否定され、その各居住地に同化させるほかないという訳である。この論理が直接に、後のスターリンによるユダヤ人に対する迫害と虐殺につながったことはいうまでもない。

 ソビエト連邦が旧ロシア帝国内から東欧に広がる多様なエスニックグループの自治と自決の権利をどのように保障し、民主主義的な地域間、国際間の関係を作り上げていくかは、現在までも尾を引く大問題である。一九世紀に大国化したロシアとアメリカは同じ問題をもっていたことになるだろう。

 よく知られているように、死去直前のレーニンはスターリンを「粗暴な大ロシア人主義者」と激しく批判し、石にかじりついても糺すと述べたというが、しかし、結局、スターリンの民族理論と人種主義は徹底的に批判されることなく過ぎたのである。

東日本大震災の宮城県以南の死者はすべて国に責任がある

 前橋地裁判決のいうのは3・11の被害は人災だったということです。判決の論理からいうとそれは原発事故に限りません。これを震災後六年たって、国の機関が初めて認めた訳です。
学会では常識でしたから、これが「初めて」というのが悲しいところです。もし国が常識をもって運営されていれば、こんなに損害賠償が少ないことはなかった筈です。

 二〇〇二年に地震学者が中心になって発表した地震本部の「長期評価」は三陸沖から房総沖でマグニチュード8・2クラスの地震が、今後二〇年以内に二〇%の確率で起こりうると予測しました。そのころ同時に八六九年の津波が残した痕跡砂層の研究が進んでいて、日本地震学会が二〇〇七年に出版した『地震予知の科学』には東北には近く巨大な地震・津波が来ると書くまでになっていました。

 そんなことは知らなかったと言われるでしょうが、これは当時の小泉首相を会長とする中央防災会議が、原発業界におされて岩手沖津波しか認めず、「長期評価」を防災計画に反映しなかったためです。
ですから、震災の犠牲者の八割、宮城県以南の死者はすべて国に責任があるということです。小泉さんが、最近、原発廃止の立場に立たれているのは正しいと思いますが、この過誤の責任は曖昧にできないもので、本来、膨大な賠償が必要なものです

 私も三・一一を経て、日本が地震火山列島であることをはじめて本当の意味で認識しました。歴史の根本から考え、それが国民の常識にならねば死者は浮かばれません。(了)

 先日、赤旗(日曜版)のインタビューに答えたもの。23日付けででるらしく、見本紙が届いた。新聞だから出しておいてよいのだろう。

 原告の方の談話がのっていて、胸にせまる。

基本の30冊、日本史、黒田俊雄『権門体制論』

黒田俊雄『権門体制論』(『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、1994年)

 黒田俊雄は、平安時代から南北朝時代までを対象として、国家と宗教、そしてそれに関わる身分制度にいたるまでの広範な問題を論じた研究者である。その仕事は、「中世」を論じようとするならば、どの分野を研究するのでも、掛け値なしの必読書となっている。とくに重要なのは、本書にまとめられている「権門体制論」といわれる国家論であって、ここではそれを解説し、さらに必要な批判も行っておきたい。

 黒田は「権門」という言葉を、「中世」における貴族を指し示す概念として利用している。それは、普通、「公家・武家・寺社(寺家・社家)」などの史料用語で表現されるが、それらは貴族の門閥としては同じものであって、職能は違っても、同じように「権門」と表現することができるというのである。後に述べるように「権門」という言葉の理解には微妙な問題があるが、この貴族論的視角はきわめて重要なものである。

 これは普通の常識とは異なっている。つまり、日本では、貴族とは「お公家さん」のことで、武家のことを貴族とは言わない。新井白石の『読史余論』は、律令時代には天皇が国家を支配したが、柔弱な「公家」が都との実権を握るなかで、世の中が乱れ、それを立て直した質実剛健な「武家」が国家を握ったという。明治政権の自己意識も、この枠組を前提としたもので、果断な草莽の武士が英明な天皇を担いだというものである。そこでは徳川将軍家も本来の武士の質実剛健さを失った存在であるとされたが、公家を軽愚する感じ方もさらに強められたのである。この国は、尊貴な血統や生得の特権をもつ存在に対する、フランス革命のような徹底的な闘争を経験していないから、それを表現する「貴族」という用語の理解が鍛えられることがなかったともいえよう。これが現代の「一億総中流意識」といわれる風潮にも適合したのである。

 黒田の「権門体制論」は、このような歴史常識に対する挑戦であった。これが歴史学にとって決定的であったのは、白石のような見方が、「公家=古代的支配階級」、「武家=中世的(封建的)支配階級」などという図式の形で石母田正・松本新八郎などの「戦後派歴史学」の初期代表者に影響していたためである。こういう考え方は、安易な「武士発達中心史観」に帰結してしまう。こうして平安時代は「古代」であるといい、鎌倉幕府の創建から徳川幕府までの歴史は、そのまま歴史の進歩であるということになる。

 これが黒田の石母田・松本批判なのであるのであるが、「権門体制論」が本当に目指したのは、実は、国家論・王権論における戦後派歴史学批判であった。つまり、歴史学は戦後、まずは戦前の「皇国史観」に対する学術的批判を重視した。しかし、黒田は、現憲法において天皇が儀礼的象徴に局限されたことに対応して歴史学の課題は異なってきたという。つまり、そのなかで象徴天皇制イメージが過去の天皇制のすべてに延長してしまう非歴史的な見方が、国民の歴史意識のなかにもちこまれた。そこでは天皇は(1)政治的責任から外れた地位にあり(不執政論)、(2)天皇は文化支配を行う存在であり(徳治主義論)、(3)万世一系の神秘存在である(神話的血統論)などの側面が超歴史的な特徴として強調されることになる。黒田は、こういうのっぺりとした理解ではなく、天皇制王権の歴史的な波動と変遷を具体的に明らかにし、王権として最小化した場合でも政治的な権威を失うことなく持続してきたことを正確に説明しなければならないとしたのである。

 私は、ここまでは黒田の意見に全面的に賛成である。ともかく権門体制論は、これを説明するための構想だったのである。その出発点は「権門」による国家職能の分掌という捉え方にあった。つまり公家は「公事」を司どる文官的な門閥、武家は武士集団を組織する源平両氏の棟梁、寺家は「王法」に対置される「仏法」によって「鎮護国家」に勤める勢力(社家もこれに準ずる)であるという。これらの「家」は家産制権力として、どれも荘園の知行体系を有して国土を分割していた。こうして「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は諸々の権門に分掌されていた」のであるが、「しかしそのほかにどの権門にも従属しきらない国家独自の部面」あり、このいわば「超権門」的な虚空間というべき場に王権が巣くうというのが黒田の図式である。「権門体制論」は貴族論的な視角であるよりも、実は、国家を職能論的に分割して、王権の基礎としての超権門領域を析出することこそが最初からの目的であったのである。こうして、天皇制の「不執政」「徳治主義」「神話血統」などは、この虚空間から生み出される様々な意匠として説明されることになった。

 これは巧妙な説明であるが、黒田説の真価は、むしろこの先にあった。つまり、黒田は、これにもとづいて顕密体制論といわれる中世仏教論を体系化した。それは最澄の教学に由来する顕教(比叡山)と空海の事行を中心とする密教(高野山)を両翼にもつ「顕密」の体制という議論であるが、黒田はその職能的な役割が「鎮護国家」であることを確認しつつ、その中で神道が実際上は教義的にも経済社会的にも顕密の仏教によって支えられている様相を明らかにした。顕密の寺家の職掌は虚空間の神秘の周囲に存在する神道を荘厳することにあったというのである。

 そして、黒田は、さらに権門の諸職能はそれに照応する職業の人びとを民間世間に組織していったという身分論を展開した。主論文の「中世の身分制と卑賎観念」は著作集の第六巻におさめられているが、黒田が強調するのは、それらの身分制には深く世襲と浄穢の観念が浸透しているという事実である。ようするに、黒田は、ここにあるのはインドのカーストに似た関係であり、仏教用語でいえば「種姓」にあたるという。社会の職業身分全般を浄穢観念にそって組織することに成功した権門体制は、この「種姓身分」制によって、その中心に存在する超空間の清浄を確保したということになる。

 こうして権門体制と顕密体制は神道と清浄のシステムを作り出すことによって完成した。権門体制に結集した国家中枢と卑賎観念にまといつかれた民衆身分との間に対抗的な関係が成立し、中世における「日本国全体をまとめた一個の国家」「幕府をこえた(朝廷と公家をふくむー筆者注)大きな国家秩序」が組織され、その下に、カースト制的な特徴をもったきわめて公的階層的な特徴をもった社会が組織されているというのである。

 私は、以上のような黒田の課題意識と体系的な説明への意思の鋭さには感嘆するが、しかし、そこには大きな疑問が残る。その最大のものは、権力の地域的な基盤は国家に何の影響もあたえないのかということである。つまり鎌倉時代をとれば武家は鎌倉を根拠とし、公家の中枢が京都に位置する。そもそも鎌倉権力は1180年代内乱(源平合戦)から後鳥羽クーデターへの反撃(「承久の乱」)にかけて西国国家に侵入し、それを支配した。東国の御家人たちが大規模に西国に移住・侵入していったこをもよく知られている。鎌倉時代の東国には公権力が存在し、小国家・半国家としてむしろ西国国家を支配したのである。室町時代には、足利尊氏の子供、義詮と基氏が兄弟で京都と鎌倉をおさえ、基氏の系列は関東公方としてなかば独立な権力を維持した。細川氏が四国・中国東部、山名氏が山陰をおさえたなどの広域権力の例も多い。鎌倉室町時代に朝・幕の両方をふくむ「日本国」が存在したことは事実であろう。しかし、このような広域権力が複合する構造を無視しては事実にそくした議論にはならないだろう。

 これは、黒田の貴族範疇(=権門)が荘園を支配するというだけで、その居住と領主制のあり方が顧慮されないことに関わってくる。マルク・ブロック『封建社会』の言い方をかりれば、貴族とは血統・生活様式・法などによって柔軟に設定されるべき範疇である。黒田の貴族論は、複雑な階級的な結集や従属関係の中にいる貴族を、職能という側面からのみ裁断しすぎる。現実の国家権力と貴族階級を権門に職能論的に分解することを先行させるという出版点が間違いなのである。そもそも、黒田は、「権門勢家」という用語を「権勢ある貴族が政治的・社会的に特権を誇示している状態を指す語」とまとめて理解する。しかし「権門」と「勢家」には重要な区別がある。つまり、「権」には「斤」「ハカリゴト」という意味があり、権門は、本来、国家の枢密の計に参加する支配的な王族・貴族をいうのである。権門は、国家意思の具体的な形成プロセスに関わる用語なのであって、その意味では黒田のいう「国家独自の局面」に関わる用語であって、この局面を黒田のように「超権門」領域と理解することがボタンの懸け違いなのである。

 さて、黒田説には、細かく論じれば、さらに多くの論理的な問題があるが、しかし、歴史学は論理ではない。黒田の歴史史料、とくに宗教史料の解析能力と直覚力は第一級のもので、先述の顕密体制論、種姓身分論の達成が示すように、史料の重層を断ち割って深部の実態を明らかにする黒田の振る舞いには独壇場というべきものがある。とくに、この国の歴史にカーストの範疇を持ち込んだことは、石母田正・網野善彦・大山喬平が挑み続けた問題であって、そこで黒田がもっとも深いところにまで立ち入ったことは歴史学者はみな認めるところである。

 なお、黒田説の歴史学にとっての重大性は、徳川時代の「朝幕関係」を論じた宮地正人の『天皇制の政治史的研究』にも明らかである。宮地は黒田とほとんど同じ現代天皇制についての課題意識から出発し、次のようにのべる。「徳川時代の公儀権力は、朝幕が一体となった構造をもつ。その一体性は、天皇による将軍職補任という形式をとるが、その前提には武士集団の中心となる棟梁的な門閥組織、黒田的にいえば「権門」が存在する。そして朝幕関係の周囲には国制的な儀礼と法意識が組織されるが、’日本というまとまりの意識が朝廷の存在を不可欠のものとして現れる’なかで、学芸や諸職の組織を公的に統属させるシステムが広がっていく」(趣意要約)。

 宮地のみでなく、徳川時代の論者で、「中世」を黒田説にそって理解する研究者は多いが、ともかく宮地説は黒田説に酷似しており、宮地説が徳川国家論において通説の位置をしめる以上、このことは、黒田説の道具立てが前近代国家史の全体の脈絡のなかで有効に働くことをよく示しているのである。

 これは奇妙なことのようにみえるのであるが、おそらくこれは黒田権門体制論の「中世国家論」としての無謬性を示すものではなく、ぎゃくに黒田の描き出した公的階層的でr稠密な社会組織のあり方は、むしろ徳川幕藩体制にこそ適合するということを示しているように思う。幕藩体制においては兵農分離という条件の下で支配層は巨大都市(都城)に集住し、列島社会は職能を中心に階層的に組織されていくる。カーストというものをどう理解するかは別の重大な問題であるが、ここに列島社会の東アジア文明への一体化、いわばその中国化が考えられることは明らかなのである。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。


宮地正人『天皇制の政治史的研究』(校倉書房、1981年)
大山喬平『ゆるやかなカースト社会・中世日本』(校倉書房、2003年)

基本の30冊、榎森進『アイヌ民族の歴史』(草風館、2007年)

 待望のアイヌ民族の通史。約1600年間を追跡した大冊であるから、事前に明治時代の北海道にふれた大河小説、池澤夏樹『静かな大地』と、登別のアイヌ民族の豪家に出身した知里幸恵の『アイヌ神謡集』を読まれるのがよいかもしれない。池澤がアイヌ語について指導をうけた萱野茂は金田一京助の学統をうけている。金田一は知里幸恵『神謡集』の出版を世話した当人でもあり、金田一は幸恵の弟の知里真志保を指導している。真志保はアイヌ学を創成した人物であるが、そのユーカラ論は本書を読む上でも必読のものである(『アイヌ神謡集』岩波文庫巻末)。

 現在、アイヌ民族の歴史は、少なくとも「続縄文文化」までは辿ることができると考えられている。続縄文文化というのは、縄文文化から継続して、奥羽北部から北海道を中心にいた文化で、本土でいえば弥生時代にあたる。系譜的にいえば、アイヌの人びとは縄文人からの連続性がもっとも高いのである。つまり、アイヌの人々の由来を考えることは「日本人はどこから来たか」という大問題に直結するの。

 しかし、研究の現状は、まだアイヌの通史を前縄文文化からたどるところまで熟しては以内。それ故に、本書は7世紀から12世紀ころまでの擦文文化期から始められている。擦文文化は幾何学的な擦痕文様をもつ土器を特徴とし、奥羽(岩手・秋田以南)のエミシ文化の強い影響をうけて、青森県から北海道に広がっている文化であり、アイヌ社会への連続性が非常に高い。

 この時代、北海道と奥羽は交易ルートを通じて社会的にはほぼ一体であったが、奥羽は倭人の侵略的な植民・戦争にさらされている。それと抗争するなかで、10世紀以降の奥羽には、「東夷の酋長(安倍氏)」「出羽山北の俘囚主(清原氏)」「俘囚の上頭(奥州藤原氏)」などと呼ばれた地域権力が形成される。これらは和人の浸透もうけているが、それ自体としては、津軽・北海道をバックにしたアイヌ境界国家と呼ぶべきものであろう。12世紀、これが源頼朝の平泉攻めによって倒壊させられたことは、アイヌ史における国家形成の動きが挫折したことを意味する。

 こうして奥羽エミシは関東の武臣国家の強力な支配をうけて最終的な混住の道を歩むことになった。だいたい北緯40°ライン(津軽以北・以南)を境としたアイヌの大地(アイヌ・モシリ)の第一次分割である。しかし、北の擦文文化はしぶとかった。擦文文化は、さらにオホーツク文化と呼ばれるアムール下流域からカラフト・千島列島に広がるギリヤーク諸族の狩猟文化との交流・競合関係をバックとしており、また奥羽の最北端とも海峡をまたぐ活発な交流を維持していたのである。鎌倉時代、日本海交易ルートの最北、津軽半島西岸の十三湊を押さえた「蝦夷管領」津軽安藤氏は、津軽海峡をまたぐ境界権力を形成した。津軽安藤氏の権力それ自体がアイヌとの混淆に根付いていた可能性も高い。

 1264年、モンゴルが女真族を動員し、さらにギリヤーク諸族を味方につけて北から北海道に侵入しようとしたことは、鎌倉後期から南北朝期の列島の歴史に巨大な影響をあたえた。これはアイヌの抵抗によって失敗したが、それをみた、モンゴルは大元国を建国し、体制を立て直して1274・1281年の九州攻撃にまわる(いわゆる「文永・弘安の役」)。モンゴルは、それにも失敗したが、今度は、1284年から三年間、大軍をカラフトに派遣し、ふたたびアイヌに迎撃されて退いた。モンゴルにとっては、本拠に近い北からの侵入こそがもっとも重要な政治・軍事課題であったという。

 知里真志保はユーカラに描かれたヤウンクル(陸の人)とレプウンクル(海の人)の争いは、この時期前後におけるアイヌとギリヤークの闘いを反映したものであるとしている。著者は、この仮説を東北アジアの実際の軍事国際情勢のなかに見事に位置づけた。しかも、重要なのは、この緊張した情勢のなかで、蝦夷管領の津軽安藤氏が内紛を起こし、それがアイヌの軍事力をかりた反鎌倉の蜂起に結びつき、それが鎌倉幕府滅亡の重要なきっかけとなったとされることである。その背景には北海道を守ったアイヌの人びとの誇りと軍事力があったことは確実であろう。安藤氏は津軽海峡の北にも拠点をかまえていたが、そこには「渡党」と呼ばれた渡島半島のアイヌが参加していたという。『諏訪大明神絵詞』には、この時期の渡党は倭語が通じ、容貌も倭人と似ているとあるから、渡島半島のアイヌは倭人の血も受け入れていたものと思われる。

 ようするに、「元寇」をもっぱら九州での合戦においてのみ考え、鎌倉幕府滅亡を朝廷は西国情勢からのみ考える常識は虚像にすぎないのである。しかもそれはユーカラの理解に関わるのみでなく、さらに『御伽草子』の「安寿と厨子王」の理解にも関わる。つまり、安寿と厨子王の父、岩木判官正氏の「岩木」は津軽岩木山の岩木であって、そこには「日の本将軍」といわれた室町期の津軽安藤氏のイメージが投影されているというのである。アイヌ史の投げかける問題は文化論の上でもきわめて大きいといわねばならない。

 しかし、室町時代の後期、津軽安藤氏(下国安藤氏)の一党が渡島半島南部に多数の館をおくようになっていた。北海道のアイヌ・モシリへの倭人の本格的な侵略と、それへの抵抗の時代が到来していたのである。1456年、函館近辺の村で、小刀の代価をめぐって和人の鍛冶屋がアイヌの青年を刺殺した事件をきっかけに、翌年、アイヌの首長コシャマインを中心とした大蜂起が発生し、渡島半島南部に分布する和人の10箇所ほどの館を焼き尽くしたのである。

 それに対する反攻のイニシアティヴをとり、奸計によってコシャマインを倒したのが、後の徳川大名、松前氏の祖先であった。アイヌ・モシリの第二次の決定的な分割である。これまで、北海道と津軽のアイヌは連携して本州との交易を行っていたが、これが不可能となり、下北半島、津軽半島北岸に残ったアイヌ集落も徐々に消滅の道に追い込まれたのである。アイヌの無国家社会は、戦国時代に突入していた倭人の武家権力に対抗できなかったのである。また、大陸に成立していた明帝国がカラフトへの支配を強め、北海におけるアイヌの自由な行動が制約されるにいたっていたことの影響の大きかったという。

 こうして徳川時代以降、アイヌ民族にとって苦難の時代が始まった。まず、松前藩は、徳川初期、渡島半島の南半部を「和人地」として囲い込むと同時に、アイヌとの交易を松前の市庭に限った。さらに、アイヌが松前に来ることも禁止して、藩主直営もしくは家臣の経営する交易の場(「商場」)を北海道内地に設定し、アイヌの生産物の買い叩いた。その深刻さは、これに対して、1669年、日高地方、静内の首長シャクシャインが呼びかけた蜂起が北海道北東部をのぞく全民族的なものとなったことに示されている。緒戦では優勢な闘いをしたものの、幕府軍の到着と鉄砲による反撃、和睦儀式でのシャクシャインのだまし討ちによって、この反乱は無惨な結果に終わる。北海道全土が松前藩の直接支配の下におかれ、アイヌ民族は、「商場」における交易相手という立場から、事実上、漁場における下層労務者の地位に転落したのである。

 アイヌ民族のこのような窮境は、アムール川流域の女真族がヌルハチの下に結集して清帝国に成長し、カラフトアイヌとのネットワークが抑圧されるようになっていたこととも関係しているという。そして、さらに、唯一アイヌの手に残っていた東の千島列島との交易関係も18世紀後半には、松前藩に握られる。そのなかで、クナシリに設定された「商場」での虐待に抗議する1789年のクナシリ・メナシの蜂起も弾圧された。こうして、19世紀には、アイヌ・モシリは南から、北から、さらに東からも囲い込まれ、その内側は、「商場」ではなく、商人資本による場所請負に開放され、激しい収奪の場となっていった。

 それでも、アイヌ民族の先住者としての共同体的な大地占有は潜在的には残されていた。しかし、明治維新をへた後、1872年の「地所規則」などの制定以降、北海道の大地は私有地に払い下げられ、山林原野は国有地となっていく。そして明治時代なかば、北海道庁の設置とともに和人資本の大規模な進出のなかで、アイヌ・モシリは最終的にアイヌの手から切り離されていった。1898年の「北海道旧土人保護法」によって給与された土地も五町歩以内とはいうものの、多くは条件が悪く、漁業や狩猟の生業の場を奪われたアイヌに貧窮と差別の道を強制する同化政策であったというほかない実態のものであった。第二次大戦後の農地改革が、北海道においては、この給与地を不在地主と称してアイヌから取り上げる結果をもたらしたことは知られていない。そ

 こうして、現在でもアイヌ民族に対する構造的な差別が存在していることは本書が引用した諸統計に明らかであり、これをどう受け止めるかは日本の歴史学にとって根本問題の一つである。私は、日本の歴史の最大の特徴は、近代にいたるまでその北部に原始の伝統をひく無国家の共同体社会が続いていたことにあると思う。強靱な生命力をもって北海の自然と共生し、それを維持することを社会秩序としてきた民族の存在である。しかも、彼らは大陸から千島列島にいたる交易ネットワークに適合する形で、北海の自然に対して持続可能な開発を行ってきた。

 まず確認するべきことは、このような列島の棲み分けが政治的にみて倭人国家とアイヌにとって長期的な安定要因であったことであろう。和人国家はアイヌ民族を「北の障壁」とし、アイヌ民族はながく和人を主要な交易相手としてきたのである。もとより、この関係には一方的な性格があり、倭人国家がアイヌ民族社会とその富を順次に収奪してきたことは直視されなければならないだろう。源頼朝の奥州戦争がアイヌ境界国家を消滅させ、室町時代以降の「近世化」から明治維新のなかで民族間関係としてはあってはならない行為が行われたことは明瞭な事実である。これは国連が勧告するようにアイヌ民族の先住民族としての諸権利を正面から認め、民族間関係を恢復する取り組みによってしか取り戻すことのできない歴史的負債であるといえよう。私はアイヌ民族のコミュニティを十全に維持することは日本の歴史と文化のために必須の問題であると考えるが、同時にそのためには、北海道をふくめた列島社会自体がコミュニティの連鎖する協同社会となることを必要としているように思う。それは明らかに将来社会の構想に関わる問題なのである。それを社会的な合意としていく上で歴史学の役割はきわめて大きい。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
入間田宣夫「北方海域における人の移動と諸大名」(『北から見直す日本史』大和書房2001年)
大石直正など『周縁からみた中世日本』(『日本の歴史14』講談社、2001年)
菊池勇夫『アイヌ民族と日本人』(朝日選書、1994年)
児島恭子『アイヌ民族史の研究』(吉川弘文館、2003年)
瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015年)

基本の30冊、平川南『律令国郡里制の実像』

平川南『律令国郡里制の実像』(上下、吉川弘文館、2014年)

 著者は、東北の多賀城の研究所にいたとき、漆桶の蓋紙に使われた奈良時代の反故紙が漆でコーティングされ、赤外線ビデオで透視すれば文字が読めるのを発見した。木簡に次ぐ、発掘文字史料の登場である。これは古代史研究のあり方を大きく変えた。つまり、従来の古代史研究は中央集権というイメージの下に、おもに法制史料を中心に進められ、そのため、国家の地方支配も「国・郡・里(郷)」という地方制度の形式的な枠組にそって論じられてきた。それに対して、著者は、考古学者と協同して、発掘された地域史料を中心に問題を組み立ててきた。本書は、書名が示す通り、古代の「律令国郡里制」の形式的な制度研究に対して、その「実像」をはっきりと対置したものである。

 まず最初に取り上げられるのは、七道の制度である。そこでは、諸国の国名の語義が抜本的に見直される。国名は、ヤマトの支配層が七道を行き来するなかで、その視点にもとづいて名付けられたものであるというのである。たとえば、本居宣長以来の通説によれば、武蔵はムサ上、相模はムサ下、両国は牟佐国という国を上下二つに分けたものだということになっていたが、武蔵は本来東山道ルート、相模は東海道ルートで上総・下総につながる以上、相模と武蔵の国名は個別に考えるべきだ。サガミは関東の入口、足柄坂のサカに関係し、ムサシは「六差」であって周囲六国に道が通じている意味だという。同じように甲斐も「交ひ」、つまり北の東山道と南の東海道の結節点にある国であるといことになり、それは有名なヤマトタケルが甲斐酒折宮を拠点にして、東山・東海の両道を制圧したという伝説に結びつくというのである。

 国家機構は交通形態から生まれる。つまり中央と地方を結ぶ「道」から生まれたということになるだろう。とくに東国の場合は、その先端の「道の奥」(陸奥)や「出羽」(イデハ=出端)に蝦夷地への軍事植民組織、「柵・城」が置かれており、それをふくめて奈良時代になっても、「道」にそって陸奥出羽按察使などの広域軍事行政が残ったということになる。越が越前・越中・越後、吉備が備前・備中・備後、筑紫が筑前・筑後に分割されたのも同じことである。

 こういう「道」にそった広域支配が実際に大きな影響をあたえていることは、諸国の「国」自体が、道にそった地理的な条件によって「道前・道後」などとブロック分割されたことにも現れる。これは鎌倉時代になっても国府・守護所を中心として各地に「奥郡」というブロックがみられるのと同じことであろう。このブロックの形態はきわめて多様であるが、しばしばそれに関係して出羽・加賀・丹波などの国の分出、さらには国府の移転が行われたという。しかも、こういうブロックは、国司の守・介・掾・目の四等官による地域担当に結びついていた可能性があるという。従来は、ややもすると、国司のうちの守のみが指揮系統のトップに位置すると考えられがちであったが、実際には、各地から、「守」だけではなく、「掾・目」に「大夫」という尊称を付した木簡が出土している。これは国内の各地域において四等官が独自の権限をもっていたことを示すというのである。

 これは国内の郡里のレヴェルでも同様であって、丹波、甲斐、陸奥などの事例から郡が内部で「東西」分割されている様相が明らかにされる。郡には郡家郷(郡衙の所在する郷)のほかに、それに準ずる大家郷、さらにたとえば氷上郡に氷上郷というような郡名郷が同時的に存在する場合がある。これらには様々な経緯が想定されるが、ようするに本質的には、それらは郡衙別院などと史料に現れる郡衙の支所というべき存在であるという。こういう分郡といわれる現象は、制度が崩れていくということでなく、郡そのものが分掌と分割の可能性を最初から含んでいるのである。

 さらに下の「里(郷)」レヴェルも一枚岩ではない。著者は郡が「里刀自」に令して労働動員する様子を示す木簡史料などから、里(郷)の内部に「氏」の集団が存在していることに注目する。そもそも「郡・里」のあいだの分割・分掌は「氏」に関係しているのではないか。さらに著者はこの「氏」と重なって「村」(ムラ)があったことをも示唆するようである。この「村」はおもに里(郷)内部の地点や領域表示、さらに五十戸の戸籍を施行する前の集落表示に使用される用語であり、ようするに郡里の内部には一定の集落性をもつ「村」が隠れていたのである。ただ注目すべきなのは、「村」が郡内部の複数の里(郷)をふくむような広域表示として使用される場合もあることで、著者によれば、これは「村」が「群集一般=ムレ」というより一般的な語義をもっていたために、それをつかって里(郷)のような単位を外れたまとまりの呼称として使ったのであるという。これは複数の里(郷)をふくむまとまりという意味では、郡の分割と同じことであろう。里(郷)と村の関係というのは、第二次大戦前の清水三男の提言以来の大問題であるが、ここに確実な検討の方向が明らかになったように思える。

 しかも、この村のレベルに照応して、郡郷の内部には駅家・厨家・烽家・津司などという多様な交通組織が存在していることを示す木簡が続々と出土している。そこに明らかになるのは、地域支配機構が網の目のように広がる陸路と海路の交通網に瘤のように結節している様相である。これらの組織の駅長・厨長・津長・庄長などの史料も出土しており、9世紀になると中央の文献にも税長・調長・服長などが登場する。「里長」もふくめると各郷に相当の「長(役人)」が生まれているのであって、私は、これらの人びとのうちの有力者は「刀禰」といわれているに相違ないと考えている。刀禰は男の有力者で、前述の「(里)刀自」は女の有力者ということになる。

 こうして、「国郡里」の行政組織は、実際には「道>国>郡>里(郷)>村」という五階層を越える重層的な実態をもっており、その間の指揮・分掌系統も単純なものではないことが明らかになった。これによって8・9世紀の地方組織のイメージは根本的に塗り替えられてしまったということができる。ただ、本書は上下二冊、全体で八〇〇頁余の大冊であって、その分析は詳細・極微にわたるから、その全体のイメージをつかむには、著者が本書の各論文を基礎にして一般向けに叙述した日本歴史の通史シリーズの一冊『日本の原像』で読まれた方が分かりやすいだろう。著者は石母田正ー青木和夫と続くいわゆる「在地首長制論」の直系の位置にある研究者なので、その古代社会論の大枠のイメージも通説を前提とすれば分かりやすいものである。この『日本の原像』を脇において、その詳細な史料実証編として本書を読めばさらに眺望は広がるだろう。

 しかし、私は、本書は、おそらく石母田首長制論の大崩壊の開始の記念碑になるのではないかと思う。すでに紹介したように(■■■頁)、石母田は、奈良時代の国家支配、いわゆる「個別人身支配」は建前であって、その内実は首長制的な郡司による共同体支配にある。それこそが一次的関係であって、国家の地方支配はそこから派生した二次的関係にすぎないという。しかし、首長制的な関係は宗教やイデオロギーには残っているものの、すでに国家的な関係による地域社会の直接組織が中軸となっているというほかない。六世紀ころまでは地方社会にいきづいていた首長制は、すでに断片化し分散して、国家の地方支配のなかに埋め込まれ、それと一体になっている。律令制的な「個別人身支配」が、本書が明らかにした重層的な役所の構造によって実現しているのである。そこから切り離した首長制支配というものを「一次的生産関係」であるとして仮想する必要はないのである。

 その条件となったのは、奈良時代が、文明化と急速な開発と交通によって、国郡里の行政組織の周囲に経済組織が無秩序に群生したことにあるだろう。九世紀の国家と社会は、それに連続して、京都の都市王権を中軸とする、より安定的な王朝国家のシステム=国衙荘園体制の大枠を形成したのである。地域社会では開発にともなって郡郷の組織がさらに個別化し、「郷倉・里倉」が分立・増加していく。村井康彦が論じた「里倉負名」である。彼らは「倉」を拠点として田地耕作を「負名(=村の氏の名を負う身分)」として請け負う。この田地耕作契約は、律令制では「班田」といい、9世紀後半には「散田」といわれるようになるが、「班」も「散」も「あがつ(分与する)」と読む行為であって、両者を厳密に分けることはできない。ようするに「個別人身支配」が基本的には連続しているのである。

 戸田芳実が明らかにしているように、10世紀以降の地域社会の秩序は刀禰によって作られている。前述のように彼らは、8世紀以来の「長」たちに連続する存在であり、耕作の共同体的な秩序を指導する者としては「田刀(=田刀禰)」と呼ばれ、国家(および庄園)に対する田地の契約主体としては「負名」といわれた。この田刀が平安時代なかばに「田堵」という普通の農民に対する呼称に変化し(「田や屋敷を堵で囲む人びと」という意味)、負名が「名主」に変化するのである。

 従来の古代史研究は、普通、奈良時代の「国郡里」の地方組織は9・10世紀に解体していくという制度史的な解体史観が多かったが、平川による国郡里制の実像の捉え直しによって、このような連続的な把握が可能になったのである。ただ、そうであるだけに、私は、石母田の首長制論の理論の枠組を詳細に点検して、その影響から自立していくことが、今後、必要なのではないかと思う。平川も、遺跡の観察から9・10世紀の地域の有力者たちが新しい経営を作り出す様子を論じているが、しかし、それは平安時代の農村史研究と噛み合うレヴェルにはなっていない。そのためにもまず石母田ー青木の見通しを清算しておくことがどうしても必要だろうと思う。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
平川南『よみがえる古代文書』岩波新書、1994年
平川南『日本の原像』小学館、2008年
戸田芳実『日本中世の民衆と領主』校倉書房、1994年
村井康彦『古代国家解体過程の研究』岩波書店、1965年
保立道久 『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年

基本の30冊。安田浩『天皇の政治史』(青木書店、1998年)

 日本の天皇家は20世紀をこえて珍しく残存した王家の一つであるが、憲法第一条が規定するように、その地位は、主権者としての国民の総意に依存している。そして憲法の規定では、実際のところ、天皇は内閣の通告のもとに10項目の国事行為のみを行う国家の儀礼要員である。ここに現憲法の天皇規定の最大の特徴がある。

 つまり現在の天皇は厳密にいえば、「王」ではあっても「王権」はもたず、「君」ではあっても君「主」ではない。天皇に残っているのは、その王としての身分のみである。その身分は「法の下の平等、貴族制度、身分または門地による差別の禁止」(14条)の唯一の例外的存在として、宮内庁などの儀礼部局や特権的な財産などによって支えられているが、しかし、さらに根本的に考えると、その身分は、そこに付着する文化によってできあがっている。そしてその文化的あるいはイデオロギー的な性格は、ほとんどその過去に関わっている。過去の王についての記憶、歴史意識が現在の王を支えているのである。

明治・大正・昭和ーー三代の天皇

 最近の歴史学は、このような現代天皇制のあり方を前にして王権論を組み直す努力を重ねてきた。安田浩の本書は、その動きを代表する位置にある。対象は、明治・大正・昭和の三代の天皇。安田は、彼らの言動を詳細に追跡しており、このような通史的な分析の試みは現在でも本書のほかにはない。

 まず明治天皇については、明治維新のときの17歳の青年が君主として作られていく経過が語られる。西郷・岩倉らの維新首脳部の感化と演出によって、洋風の扮装の下に政務、軍務などに取り組みつつ、祖霊と神慮を信じる王者となっていく様相が興味深い。彼はそのような王として、欧州から帰国した岩倉使節団と留守政府のあいだでの不調和、政変のなかで、それなりの聖断の役割を果たし始め、有名な儒学者、元田永孚などの側近をえて政治主体としても自立していく。

 明治憲法は天皇大権と国務大臣による多元的な輔弼を規定するだけで、政府・行政・内閣についての規定を一切もたない異様に短文の憲法である。そこまで削りこんだ意図と経過が、維新首脳の内紛への天皇の介入と伊藤博文の役割を焦点にして解明されている。憲法公布から日清戦争をへて天皇大権が議会を通じて作動するシステムが形成され、そこに軍隊権威と国家神道の確立をともなって専制君主制が成立する過程の記述もわかりやすい。

 大正天皇の心身は不調であったが、逆に明治憲法を前提として君主のあるべき姿が強調され、枢密院の強化などの王権の構造強化が起きる。心身不調の王の代に王権が強化されるのは、王権がイデオロギー的な存在である以上、珍しいことではない。原敬内閣も君主不調のなかでの元老と議会の状況的統合という本質をもっていたのであって、いわゆる「政党内閣」も天皇親政の名目化ではあっても天皇制機構の名目化では決してなかった。

 こうして天皇大権は、多様な形態を取りながらも一貫して強化され、その上に昭和天皇が行動する。安田の記述で印象的なのは、まず満州事変における関東軍の行動への追認の素早さであろう。英米との合意によるアジア分割を一貫して重視する天皇とその周辺の姿勢は中国の抵抗力への蔑視ともいえる過小評価と表裏の関係にあったことがよくわかる。また、天皇の君主としてのプライドが御前会議への執着となり、それが結局内閣制を破綻させ、大本営政府連絡会議に権力中心が移動し、大元帥天皇が打ち出されるという筋道の描写も見事である。

 明治憲法成立前後に専制君主制が確立した以上、政治史の主語が天皇であるのは当然のことであるが、これが本書以前には明瞭でなかった。私もほぼ同時期に『平安王朝』という新書で同じ問題意識にたって王権の通史を叙述したが、安田は現代史家として、三代の天皇の言動を論理的に見通すことは、たとえば昭和天皇の戦争責任を論ずるためにも必須なことを痛感していたに相違ない。

丸山真男を引証する必要はあるのか

 私のような前近代の研究者からみて興味深いのは、国家中枢部のやりとりが「謀議、輔弼、元老は関白」などの古代以来の政治語彙に満ちていることである。これは安田が基軸史料を丁寧に引用しながら論じているためわかるのであるが、これらの語彙を体系的に読み込んでいけば、さらに明瞭な王権身分論も可能になるのではないかと感じる。

 つまり、安田は天皇の行動形態を受動的君主、能動的君主、委任君主、統帥権的天皇などなどと分類することによって、君主の多様な行動を跡づけていく。それは当初作業としては不可欠であろうが、多様な君主の言動が一つの人格において可視的となっていることこそが王権の構造であろう。実際、君主の受動性には、つねに「よきに計らえ、下手をやれば俺は知らん、叱責するぞ」という能動的要素が含まれるのであって、安田が近代天皇の行動様式を基本的には「受動的君主」であり、状況におうじて「能動的君主」となるとするのはやや形式的に過ぎる。君主身分は国家機構の人格的反映として君主の主観を離れた客観的な存在である以上、政治責任はそのレヴェルで問われるべきものであろう。

 これは君主の多様な諸側面に対する多元的輔弼なるものの理解にも関わってくる。つまり、一般に制度的に整えられた君主制、とくに立憲君主制においては憲法が君主権限を制約する代わりに君主権は無答責原則によって守られる。安田もいうように、そこでは、君主の無答責と輔弼者の有限責任によって政治決定の無責任体系が形成される。ただ、安田が、この無責任体系を直接に丸山真男の評論的エッセイを追認するかのように説明することは不適当であろう。つまり、安田こそ、無責任体制の政治的創出という事実、そしてその本質が君主の擁護と責任の回避のための意識的な政治にあることをはじめて論証したのである。法的に無答責という虚偽を作っても、非人道的行為などの歴史的責任、行為責任は絶対的なものであって、それを明示することこそが歴史学その他の学術の役割であることはいうまでもない。

 またそもそも日本近代の専制的な天皇制は立憲君主制と比べて特殊に歴史的・日本的なものであって、天皇大権の下に、国家権力の枢密部の巨大な領域が独立して憲法規定の外側に存在する。明治憲法は、実際には近代憲法ともいえないような特異な構造をもち、しかも天皇の告文などが明示するように神権制によって支えられていた。このような構造を、丸山流の印象批評で論ずることは学術的にはほとんど無意味である。

 明治天皇は個人では統御できないような巨大な非法的部分を君主身分において統合することを自身の制度身分として選択し、昭和天皇はそれをファナティックな神権的軍事支配という巨大な非法領域にまで拡大した。彼らは広大な法外領域=「密室」のなかに設置した「密室」をその身分生活としていた。この二重の「密室性」は一般の国家秘密と本質的に異なるものであって、王とは最高の身分的な生活様式である以上、そこには王家に骨絡みの責任が宿る。

絶対主義範疇の放棄は必要か
 安田は2011年に死去してしまったが、本書を実証編とすれば、その死去直前に校正を終えた『近代天皇制国家の歴史的位置』は理論編というべきものであって、二冊あわせて検討しなければならない。そしてその焦点は、安田が近代天皇制に対する「絶対主義規定」を放棄する立場を明らかにしたことにある。

 私は、この点には賛成できない。私は大学院に進学しようとしたとき以来、なんども著者に会い、一緒に仕事もしたが、結局、研究内容に立ち入った議論をすることもなくすぎた。それにもかかわらず、議論のできない今になって意見をいうことは申し訳ないように思うが、しかし、学問は永遠のものであることに免じて御許し願いたいと思う。

 もちろん、安田が資本主義に変容していく最末期の封建社会の権力を絶対主義と規定し、いわゆる日清戦後経営後に日本資本主義が確立して以降も、その権力の本質は封建制にあるという議論、戦前の「日本資本主義論争」における講座派の絶対主義論にそのまま従えないのは当然であろう。安田のいうように近代天皇制はまずは20世紀にも諸国に登場した後発資本主義国の権威主義秩序の初例の一つというべき側面があることは明らかである。また、安田が、講座派が、絶対主義の社会的基盤をもっぱら封建制あるいは半封建的な寄生地主制におくことを批判するのにも賛成である。『近代天皇制国家の歴史的位置』の第四論文は、近代天皇制に対応する基礎的社会関係は、財界を別とすれば、むしろ中小地主を名望家として重層的に組織する地主国家的関係にあり、この疑似共同体的な名望秩序を「帝国議会」によって動員するシステムこそが重要だとしており、これは学界の強い支持をうけている。

 私は、これらの点に批判がある訳ではない。しかし、すでに述べたように(■■■)、そもそも徳川幕藩制を封建制とは考えない立場からすると、絶対主義という範疇は封建制論という呪縛から切り離した上で、なお活かすべきものではないかと思う。近代天皇制が立憲君主制というべきものではなく専制君主制であることは、最晩年の安田がむしろ積極的に強調したところである。そして絶対君主も専制君主も英語にすれば同じようにAbsolute Monarchyなのである。

 そもそも講座派は天皇制をドイツのカイザートゥム、ロシアのツァーリズムとの比較のなかで論じようとした。絶対主義を封建制の最終段階と固定的に捉える考え方は別として、この問題設定の正統性は承認すべきであろう。安田のいうように、日本の近代天皇制が後発資本主義国の権威主義秩序の一類型であることは疑えないが、問題は、このような国際比較をふくめて日本天皇制の歴史的な特殊性をどう考えるかにこそあるはずである。それは大石嘉一郎がいうように、「近代絶対主義」というほかないものであると思う。

 私は、世界の資本主義化のなかで、ロシア・ドイツそして日本のように「帝国」としての伝統をもつ諸国家が、資本主義的な社会変化をも条件としてその国家システムと君主制を強力化し、資本主義的帝国を構築していった場合、古典的な定式化を尊重して、それを絶対主義と呼び続けたい。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。
参考文献
大石嘉一郎「第一次大戦後の国家と諸階級の変容」(同『日本資本主義史論』東京大学出版会、1999年)
安田浩『近代天皇制国家の歴史的位置』(大月書店、2011年)
山田朗『大元帥 昭和天皇』(新日本出版社。1994年)

2017年4月20日 (木)

レーガン「アメリカ市民権は国民のもっとも神聖な所有物」?

 アメリカは多民族国家であるが、その実態を知るためには、国民・民族・「人種」の三つの言葉の区別を正確にとらえておかなければ話が混乱する。まず第一の国民とは「ナショナルNatinal」であって、日本国憲法一〇条に「日本国民Japanese Nationalたる要件は法律でこれを定める」とあるように法律的な関係ということができる。具体的にいえば、同二二条に「国籍nationalityを離脱する自由」とあるように、国家の国籍、市民権であり、それによって法律の上で国家に所属するということである。だからそれは離脱可能な関係であるが、その意味ではそれは「幻想的共同体」、ベネディクト・アンダーソンの言い方を採用すれば「想像の共同体」であるということができる。

 社会には、この「想像=幻想」は、一種、神聖なものなのであって、人々がそこから離脱することは許されないという考え方がある。アメリカで典型的なのは、第四〇代元首レーガンが、アメリカ市民権は「わが国民のもっとも神聖な所有物」であると称したことであろうか。市民権とは「物」であって、しかも「神聖な所有物」であるという訳である。ここでは、紙に書かれていることは「約束」に過ぎず、物ではないという常識は通用しない。国籍とは法的な約束ではなく、執着したり、他人に誇ることができるような「物」であるというわけであって、こういう狭い執着心のことを「国家主義」という。

 もちろん、国家は現実の存在であり、そうである以上、国家の利益=国益というものは現実に存在する。それを別の国家が頭から決定することは許されないというのが、いわゆる自決の原則である。この自決権とは、本来は、第一次大戦の中でレーニンが「平和に関する布告」で述べた民族独立、植民地解放の要求であり、それがウィルソンの「十四か条の平和原則」の提唱に影響し、ヴェルサイユ条約での原則となり、さらに第二次大戦後に国連に引きつがれたものである。ただ現在では自決権というものは、国民国家を形成する権利を意味するだけではなく、同時にその国民国家が自己決定する権利であると理解されている。

 国連憲章(第1条2)に「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」とあるように、それは国際社会=国家間社会における民主主義の原則なのである。それらの国家の利害は異なっており、そこには正当なものも不当なものも存在するだろう。しかし、それを他の国家が判定することは許されない、国家間関係においては、相互に国益を認め、自決権を認めることこそが無用な衝突や戦争をさけるために必要であるという考え方である。

 この自決権の原語は、The Right of Nations to Self-Determinationであるが、日本では、普通、これは民族自決権と翻訳される。しかし、これは国民的自決権あるいは国民国家の自決権と翻訳した方がよい。ネーションという英語はたしかに民族というニュアンスももっているが、基本的には国家というニュアンスが強い。ようするに、それは国籍をもって法的に国家に所属する人々、つまり「国民」が他の「国民」からは自立して国家の意思を形成する権利(あるいはそれを要求する権利)意味するのである。

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