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2017年10月22日 (日)

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

日本の国家中枢には人種主義が浸透しているのかどうか。

 政治状況が激動期に入ったようだ。一九七〇年頃以来のことである。野党共闘の動きは学術的にも思想的にもきわめて興味深い事態であることは疑いをいれない。

 これは日本社会の中にある対抗関係が大きく変化したということではないかと思う。一種の二極化である。そこでは従来の「保守・進歩」という対立の図式を考え直さねばならないだろう。歴史家から賛成するという言葉を聞いたことはないが、私の年来の主張は、日本には本当の意味での保守勢力はないが、現在、歴史家は職業者としてはまずは保守でなければならないということだった(「中世の開化主義と開発」一九九〇年発表、『歴史学をみつめ直す』校倉書房所収)。さらにまた現在の政治状況の中では「左翼・右翼」という言葉を使うことも止めた方がよいのではないかと述べてきた。右翼思想には既成の知性に対する「分かったようなことをいうな」という感情的な拒否の側面があって、「極右」の暴力に走らない限り、それも当然に思想の自由の範疇に入る価値をもっていると思うのである(ブログ「保立道久の研究雑記」。2014年11月15日2014/12/14、ブロゴス 2016年08月12日)。

 しかし、歴史家の立場から問題を厳密に考えようとすると、この列島に住む人々にとって、最大の問題が何なのか、「保守」といい、「進歩」といい、「左翼」といい、「右翼」といっても、それらが向き合うべき日本社会の問題は何なのかを正確にみきわめなければ、結局、気分に流れて行ってしまうということになると思う。それらは、所詮、符丁であり、言葉である。

 そういう立場から、私は、しばしば新自由主義といわれることの実際の内容がどういうことなのかを考えてきた。ともかく「新自由主義」というのは言葉がわるい。「新しい自由」、それは普通からみればいいことじゃないかということになる。これは符丁としても決していい符丁ではない。そして、それを詰めていくと、結局、それは人種主義(レーシズム)であり、戦争好きなのではないかと考えるようになった。新自由主義というのは、もちろん、経済思想としてはミルトン・フリードマンのマネタリズムが基礎になっているが、政治思想としてはようするに「ミリタリズム」と「レーシズム」であると思うようになった。もちろん、問題は、なぜマネタリズムが「ミリタリズム」と「レーシズム」に結びつくかということであるが、そこまで十分に書けるかどうかは別にして、以下、若干、長文となるが、まず人種主義(レーシズム)について説明しておきたい。

 さて、現在、日本・アメリカ・ヨーロッパで人種主義の動きが急である。これはきわめて心配なことであるが、私は、歴史的にいうとその基礎にあるのは、やはりヨーロッパだと思う。その根はきわめて深く、十字軍の時期以来のヨーロッパによるイスラム文明に対する挑戦、「追いつけ追い越せ、奪い取れ」という対抗文化にからめとられているのではないか。その文化的気分がベースとなって、政治家による中東移民が社会の困難を作り出しているという宣伝が被害感情を生みだし、ヨーロッパに広範な「イスラム差別」が生み出されているようにみえる。

 問題は、これがきわめて曖昧で不定形の歴史意識としかいえないようなものであることである。それはいわばヨーロッパに居住する人々個々人がもつ微細な歴史意識の誤差が社会意識の歪みとして集合的に現れたものといえようか。私はそこで動いているのは現在の世界史がヨーロッパ地域に生み出した「気分」というべきものなのではないかと思う。つまり、現在の中東における戦争状態は、第二次世界大戦中からのアメリカの帝国的な中東支配が作り出したものである。アメリカこそが、中東の戦争と苦難を生み出し、大量の人間の死と故郷喪失を生み出したことは誰が見ても明らかなことである。その中でヨーロッパの人々は次のように考える。つまり、「悪いのはアメリカだ。それなのに、何故、ヨーロッパが中東の困難に関わらねばならないのか。たしかにヨーロッパは第二次大戦で大きな困難を経験し、ヒトラー・ナチスは最悪のことをした。しかし、アーリア人種主義は克服され、民主主義社会が実現された。ヨーロッパは二〇世紀のナチズムを乗り越え、償ってきた。今になって、なぜ、問題の直接の関係者にならねばならないのか。理不尽であり、理解できない。静かにさせてくれ」という意識である。

 彼らの視野には、ヨーロッパがアメリカの世界支配を利用しつつ共同で世界から利益をうけていた共犯性は入ってこない。また中東の困難の直接の歴史的由来が19世紀におけるヨーロッパの中東支配と、その最後の無責任ともいうべきイスラエル建国を推進・容認したバルフォア宣言にあることも視野には入らない。さらには16世紀以降の世界資本主義の形成がまずはアフリカと環インド洋地域からの収奪によって支えられていたという歴史認識もない。こうして彼らの意識は一挙に、ヨーロッパとイスラム世界との文化的対抗と衝突という十字軍によって象徴されるイメージにすっ飛んでしまうのである。それはその意味で世界史が生み出した「歴史気分」のようなものであり、こうして、その中核には中東の諸民族を差別する「人種イデオロギー」を中核にもつものとなるのである。

 その意味で、この「人種イデオロギー」は世界史的に新たに登場した独特なイデオロギーのあり方、社会意識のスタイルなのであって、そのようなものが現在の世界史の重要な構成要素となっているのである。このような独特な歴史意識、より正確にいえは世界史意識は、もちろん、ヨーロッパが一人で産みだしたものではない。それは一九八〇年代のサッチャー・レーガン時代を基点としてヨーロッパ・アメリカの国家意識の交流、そしてそのつぎには社会意識の奔流のような交流のなかで生み出されたものであるといってよいと思う。その社会経済的根源には、この時期以降、明瞭に動き出したナオミ・クラインのいうショック・ドクトリンを具備するにいたった資本主義、そして情報資本主義の急速な発展があることもいうまでもない。その中で、九・一一事件が発生し、それに対して、世界史的愚劣ともいうべきジョージ・ブッシュの「十字軍」宣言が行われ、イラク戦争が中東地域の社会政治状況を決定的に不安定化させ泥沼化させた。

 そして、現在は、ブッシュ以上の「お馬鹿」がアメリカ大統領となって赤裸々なレーシズム、白人至上主義を鼓吹しているというのが歴史の流れである。これがきわめて醜悪なのは、この人種差別がヨーロッパとは違って直近の人種差別の体制、20世紀の人種差別の由来を引いていることである。16世紀以来のネーティヴ・アメリカンの諸民族に対する「人種差別」と、一八世紀以来のアフリカン・アメリカン差別、さらには19世紀以来のユダヤ民族や東欧・ラテンアメリカからの移民に対する差別の根を深く引いていることである。現在、それが一挙に中東の人々に対する「宗教的・人種的差別」、「イスラム」差別に拡大している。アメリカは多民族構成国家でありながら、その支配イデオロギーは人種差別にあり、アメリカの多民族構成資本主義においては民族を「人種」の名の下に身分差別し、賃金を抑え、人々を分断することは根がらみのやり方であった。それは、ネーティヴ・アメリカンの人々、強制連行されたアフリカン・アメリカンの人々のみでなく、後からくる移民に対する差別をもふくんでいた。もちろん、そういう中で、一九六〇年代から七〇年代にかけてのマーチン・ルーサー・キング牧師などの動きをふくむ社会運動の中で20世紀の人種主義の根は一度断たれたかのような雰囲気をみせた。ヨーロッパと同じように、アメリカは人種主義を超克したという訳である。しかし、実はその岩盤はきわめて強固であって、後退したかのようにみえた正真正銘の人種主義が、レーガン以降、急速に肥大化した。そして、現在のトランプ政権下のアメリカにおける人種差別の実態は、その醜悪なる結果であることはいうまでもない。

 そのような直近の歴史を連続的に引いている点では、日本も同じである。つまり、「大東亜戦争」を主導した「八紘一宇」「皇国史観」という「大東亜共栄圏」のイデオロギーはナチスと同じく、「神話」によって嘉せられた日本の「現人神」たる天皇制とそれに連なる血統・人種こそが世界支配者となる使命をもつのだという明瞭な人種主義イデオロギーであった。しかも、それは、アジアでは日本のみがヨーロッパと対抗できる使命をもっており、それ故に、日本はアジアから離れて、それを支配する地位に到達しなければならないという明治時代以来の「脱亜論」をともなっていた。というよりも、この「脱亜論」によって、日本国家のアジア侵略は合理化され、それによって天皇制的人種イデオロギーが形成されたといった方が事態を正確に反映しているといえるだろう。それはまさに世界支配の思想だったのであって、それによってこそ、ナチスと日本の軍事同盟は、両者が人種主義イデオロギーにもとづいて世界分割をするという了解に達したのである。

 もちろん、日本国憲法は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と述べ、「戦争」の中で強制した「隷従、圧迫と偏狭」、ようするに人種主義を法的には廃絶する精神を含んでいる。それは、第二次世界大戦において、その中枢にいた昭和天皇自身がいわゆる「天皇の人間宣言」において、神権的な人種主義イデオロギーを基本的なところで離脱したこととセットになっていたのである。日本の王家が、ここ三〇年ほどの実際において、日本国憲法の精神にそって行動してきたこともよく知られている。

 しかし、自民党や経団連の一部などの国家中枢部には、第二次世界大戦で頂点に達した人種差別イデオロギーは根深く生き残っている。彼らは、中国・韓国から東南アジアに対する神権的な人種主義イデオロギーの強制と、それにもとづく植民地支配、戦争侵略の歴史事実を認めず、その事実を隠蔽することにいまだに固執している。彼らは第二次世界大戦において日本は敗北し、その戦争犯罪を認め、その証として日本国憲法が成立し、天皇が国政に対する権限をもたない「象徴」の地位になったことを承認しようとしない。彼らは、戦後世界秩序の公理そのものを承認しようとしないのである。

 これは事柄の性格からして人種主義イデオロギーの維持という本質をもっていることは明らかなことである。しかし、きわめて奇妙なのは、この国家の歴史意識がヨーロッパよりもさらに曖昧であって、そもそも、国家中枢に人種主義、レーシズムが存在するということがほとんど意識されていないことであろう。国民の多数は、我々は第二次世界大戦で敗戦したとはいえ、その経験を克服し、人種主義などという大層な思想とは無縁であると考えている。そもそも、大日本帝国のイデオロギーがナチスとならぶ人種主義であったという世界史についての常識も存在していないし、さらに正確に言えば、大日本帝国のイデオロギーというものがどういうものであったかはほとんどの人が知らないというのが実際である。第二次大戦前までの日本国民のほとんどが信じていて皇国史観の中枢をなした神々の物語り自体をほとんどの人々は知らない。アマテラスという名前だけは知っているが、その物語はほとんど知らず、誰でもが知っていた、アマテラスがこの国土の支配権を天皇家にあたえた天壌無窮の神勅のこともまったく知らないという脱色された世界である。国家中枢部にいて「大東亜戦争」の正統性を信じている人々さえも、実は詳しいことは知らないという奇怪さである。

 そうである以上、背後に「日本会議」があって主導したといわれる、現政権、安倍政権の国家イデオロギーもきわめて曖昧である。その中軸には大日本帝国の天皇制イデオロギーと神話史観があるはずであったが、現在の天皇家自身が現憲法秩序の一部に安定的に入っており、そういうものからは断絶している。それ故にそこにあるのは建前だけの国家史観、内容のない枠組みにすぎない。しかし、それでも、それは人種主義的なイデオロギーと雰囲気をしみ出させる。私にとって、それをあまりに反国民的・反民族的な姿において示してショックだったのは、辺野古基地拡張の反対運動を抑圧するために本土から覇権された機動隊の青年が、沖縄の人々に対して「土人」と罵ったことであった。また韓国・朝鮮・中国の人々に対するヘイト・クライムが日本社会の中には濃厚に持続していることもいうまでもない。中身のないイデオロギーが、このような行為に人々を走らせるというのは、きわめて怖いことだと思う。

 問題は、その歴史的文脈である。つまり、まずそれをささえているのが、明治時代の脱亜論と同じ、東アジアからの「分離」の意識であり、しかもそれが、今回は、アメリカの世界支配にのみ込まれることよって「脱亜」するという志向であったことである。東アジア諸民族を一括して、日本民族とは異なる、「我々は脱亜だ」という心理は民族とはことなる基準での差別、非科学的な「人種差別」の論理にならざるをえない。

 もちろん、私も、アメリカ経済への編入は敗戦国としてなかば必然的な当然の方向であったと思う。戦後社会の復興、戦後資本主義の復興につとめた経済界の動きにも尊重するべきものがあるのはいうまでもない。しかし、歴史家としては、日本資本主義の復興が朝鮮戦争特需から始まり、それ以降、アメリカの側にたって「脱亜」の立場を取ったことまで合理化することはできない。何よりも問題なのは、レーガン・ブッシュ以降の新たな戦争の危機をはらみはじめた世界情勢のなかで、日本の国家中枢が、共和党中枢からトランプにいたるアメリカ人種主義の中枢に従属する姿勢を明瞭にしたことである。日本の国家中枢部はここで、客観的には、ヨーロッパ・アメリカを席巻する新たな人種主義イデオロギーの中に、「脱亜論」を位置づけ、ヨーロッパ・アメリカの人種主義的風潮にことよせて、第二次世界大戦における日本の人種主義イデオロギーを復権するという立場に立ったのである。私は、彼らが自分たちがどういう立場に立ったのかを十分に認識できていたとは思わない。彼らは、世界の大勢ということを理由にしてアメリカに追従したにすぎない。しかし、彼らの選択した立場は、客観的にはそういうことである。

 こうして、日本の国家中枢部が人種主義的なイデオロギーに固執するなかで、アメリカの支配層に対する拝跪と従属を強化し、自己が無内容であるだけに、アメリカの人種主義イデオロギーに影響されるというきわめて奇妙な事態が生まれた。これは二度目の道である。これは振り返ってみれば、戦前の大日本帝国が人種主義イデオロギーを共通基盤としてヒトラー・ナチスと結合したことと同じ図式であるといわざるをえないだろう。

 日本社会にとって深刻なことは、このような国家中枢の動きが、アジア経済の拡大と変転、アジアからの経済的なキャッチアップを恐れる意識、そして巨大な中国経済に対する不能感、ダイナミックは韓国の経済と社会の動きに対する不安感などなどをベースとして生まれていることである。さらに最近、ガバナンスや透明性の欠如、企業倫理の欠如などが国際的に明らかになっているだけに、日本資本主義は失速とミスの恐怖感に襲われるようなことがあれば、この混迷はいよいよ深まることになるだろう。

 こうして、世界における人種主義の新たな登場の中心はアメリカにあったが、そのベースはヨーロッパにあり、その反対回りで、アメリカと日本の人種主義的動きが始まったということになるだろう。私は、この基礎となった最大の条件は、たとえば二〇一六年一月の世界経済フォーラムでは世界の資産保有額上位六二人の総資産額が下位五〇パーセント、つまり世界人口の半分の人々の総資産に匹敵するという異様な格差拡大の中にあった。これは世界資本主義の中心、アメリカから始まったが、ヨーロッパでも日本でも、さらにロシアでも中国でも、そのような実態は拡大している。巨大な生産諸力と富の集積のなかで発生した、巨大な階級間格差であって、これは歴史上で初めてのことであるといってよい異様な事態である。この富の集積は単なる奢侈や贅沢を諸個人に保障するというレヴェルのものでなく、富を集中した階層に一般人とはまったく異なる生態系と環境を作り出すものであって、そこには異なる動物が発生しているのである。そして富の集中が極端になれば、そのトリクル・ダウンもそれなりの規模をもつことになり、そこには様々な寄生動物、いわゆる労働貴族などが生息している。こうして、特殊な富者と普通の人間・労働者の生活・環境の相違は、両者が生態系と身体的自由の範囲が絶対的に異なる別の動物であるかのようなレヴェルに達している。1パーセント以下の超富裕層が国民の生産諸力と資産の大部分を横領するという状態が固定化するなかで、実現しているのは、下層の人々は、実際上、一種の労働種族、労働動物にすぎないというシステムである。

 一六世紀の世界資本主義の形成の時期には、ヨーロッパでも大量の人々が浮浪化した。マルクスは彼らを労働種族と呼ぶと同時に、プロレタリアートと呼んだが、これはラテン語のProlesからきたもので、人間らしい資産はなく子供を作るしか能力のない種族という意味であった。同じ時期、たとえばアフリカ・アメリカやインドなどをみれば明らかなように世界では大量の人々が人間として扱われず、死の運命に追い込まれ、あるいは殺された。現在のような巨大な階級格差の拡大という事態は、そのような人間の動物視、労働者蔑視、いわば資本主義的な人間の動物視が新たな形で現れたものといえるように思う。現在の世界史における新たな人種主義の浮上をどのように捉えるかは、たとえばネグリの『帝国』が先駆的な指摘をしているように、今後とも様々な議論があるであろうが、私は、その基礎的な条件は、このような超資本主義ともいえるような資本主義の状況にあるのではないかと考えている。

 このような状況は世界を16世紀からの長期の時間のなかでみること、それゆえに「未来」を見ること、その意味で学術の本質のところから「進歩」の立場を取ることという、歴史学にとってはきわめて困難な、しかし、もちろんそれなくしては学問としての社会的責務を最終的には果たすことができないという課題にぶち当たらせることになる。「進歩」の立場から「保守」をカヴァーする形で学術世界に貢献するという歴史学固有の役割にぶち当たらせる。

 なお、最後に人種主義(レーシズム)というもの、それ自体について確認しておきたい。ユネスコは第二次世界大戦後、この問題を重視して議論を重ね、「人類を『人種』に分類することは身分秩序(ハイアラーキー)をうみだす因習と恣意にすぎない。『人種』という関係は生物学的な問題ではなく社会的な要因から起こる。人類の集団の間の相違は彼らの文化と歴史から発するものである」と結論している(一九六七年声明)。ようするに、「人種」という言葉自身が民族間に身分秩序(ハイアラーキー)をもちこむ無根拠な言葉であるというのが、当時の段階での分子生物学、人類学、歴史学などの参加の中での結論であった。これは世界の学術世界における一種の公準というべきものである。それ故に、歴史学にとっても、人類の誕生、世界への拡散、様々な神話から説き起こして諸民族の歴史にまで説き及び、この公準を説得的なものにしていくのはもっとも重要な仕事であることはいうをまたない。

 人種差別とは、特定のエスニック集団をもっぱら、肉体的・動物的な特徴に還元するイデオロギーであって、そのエスニック集団を同じ「類」と認めないというものである。それ故に、これは一面で、身分差別のもっとも奥深い根拠になり、身分的特権や身分差別の差別の心情を増殖させる。もう一面で、これは女性と男性の肉体的相違を差別的にとらえて、人間を「第一の性」と「第二の性」に区分する男権主義と、必ずといってよいほど響き合うことになる。そしてそれは戦争好き(ミリタリズム)に接続していく。ようするにレーシズムとは身体とその欲望への嗜癖の心情全体の温床なのであり、それが民族間関係、世界的な背景の下で語られる場合はレーシズムにならざるをえないという構造になっているのであるのであるが、現代のイデオロギーはすべて直接にグローバルなものとならざるをえず、すべてが突き詰めたところでは結局人種主義に融解していかざるをえないのである。
 このようなレーシズムにたいこうするものは、単純な「人類意識」、人類は同じという事実であり、その意味でのヒューマニズムになっているのだと思う。これは19世紀とのもっとも大きな相違かもしれない。

2017年10月12日 (木)

白頭山の噴火と広開土王碑文)

一昨年に書いたものの再録です。
高句麗の神話的な建国者、朱蒙についての話で、明治大学の市民講座で話すイワレヒコ(神武)論との関係で、乗せておきます。
両方とも、いわば火山王であるという意見です。

白頭山の噴火と広開土王碑文)

 白頭山の噴火が近いのではないかという観測があり、関係国の火山学者の間での共同研究や議論が行われていると聞く。
 今回の東日本太平洋岸地震との関係で、九世紀の陸奥沖海溝地震が注目を集め、私も、ともかく研究をすることが必要であろうと考えて、専門の時代の噴火・地震の研究にとりくんでいるが、その中で白頭山と、それを含む長白山脈について若干のことを考えた。

 陸奥沖海溝地震は八六九年(なお、この地震は普通、貞観地震といわれるが、私は歴史用語から元号はできるかぎり排除すべきであるという意見なので、九世紀陸奥沖海溝地震という用語を使っている)。『三国史記』によれば、その翌年四月、新羅の王都慶州で地震が発生し、以降八七二年四月、八七五年二月の地震記録が残っている。これは一般に地震記事が少ない朝鮮の史書においては特異なことである。そして、九一五年の秋田県十和田カルデラの噴火に引き続いて九四六年に白頭山の大噴火が起きた。この噴火は、過去二〇〇〇年間のうちで世界最大の規模の噴火で、その被害はすさまじく、二〇〇キロメートル先まで火砕流を氾濫させたという。この時の大噴煙柱は世界の気候にも大きな影響をあたえたはずで、噴出したアルカリ岩質の火山灰は、日本にも大量に飛来し、青森県から北海道の全域で十和田カルデラの直上に層をなしているのが発見されている。
 東北アジアの火山分布は、第一にカムチャッカ、日本列島からインドネシアにまでつづく太平洋の火山ライン、第二に韓半島の根本から黒龍江省に東北に上昇する長白山脈、その西に斜行する大興安嶺山脈、さらにバイカル湖周辺、モンゴル高原に分布する大陸東北部に分布する火山群からなるという。
 私は、昨年執筆した『かぐや姫と王権神話』に(洋泉社新書)、この地域の諸民族は、火山神話を共有しているという仮説を述べた。「隠れた皇祖神」として有名なタカミムスヒが「天地を鎔造した日月の祖」であるというのはタカミムスヒの火山神としての性格をあらわすとし、そこを拠点として、ユーラシアに分布する鍛冶王の神話は「騎馬民族国家説」が注目して有名になったものであるが、これが実際には火山神話であることを論じたのである。その必要で村上正二先生の「モンゴル部族の族祖伝承」(『史学雑誌』七三編七・八号)がモンゴル族祖が断崖渓谷(エルグネ・クン)を破って地上に登場したという伝説についてふれているのを知って、急に読み、大学院の頃のことを思い出し、もう少し御話しをうかがっておくのであったと悔やんだ。
 この火山神話関係と考えられる史料の中で、もっとも注目したのは、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる高句麗の始祖、朱蒙の死去を伝える伝説であった。この神話は、朱蒙の死去のしばらく前、鶻嶺に山の様子が見えなくなるほどの黒雲が湧き起こり、数千人の人々が土木工事をしているような巨大な音が聞こえた。朱蒙は、これは天が自分のために作った城であると予言し、実際に、七日後、雲霧が晴れると、そこには城郭と宮台ができあがっていた。朱蒙は、そこ居を移し、しばらくして天に昇ったという。
 この史料の性格は私にはまったくわからないので、木村誠氏に教えを乞い、また末松保和氏や田中俊明氏の仕事によって、『三国史記』より時代があがる可能性のある史料であることを確認し、同時に噴火とともに朱蒙が死去したという伝説が存在したと解釈することは許されるだろうと見通しをつけた。そして、これも偶然の経過で、最近、広開土王碑文の最初の部分の鄒牟=朱蒙の伝説も、火山神話と解釈できると考えるにいたった。
 惟れ、昔、始祖鄒牟王の創基せるなり。北夫餘より出ず。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり。卵を剖きて世に降り、生まれながらにして聖を有ち、□□□□、□□駕を命じ、巡幸して南下す。路は夫餘の奄利大水に由る。王、津に臨みて言ひて曰く、「我は是れ皇天の子、母は河伯の女郎、鄒牟王なり、我が為に葭を連ね、亀を浮ばしめよ」と。声に応じ、即ち為に葭を連ね、亀を浮べ、然る後に造渡せしむ。佛流谷の忽本の西に於て、山上に城づきて、都を建つ。世位を楽しまず。天、黄龍を遣はし、来下して王を迎えしむ。王、忽本の東岡に於て、龍首を履みて、天に昇る。
(武田幸男『高句麗史と東アジア』の釈文によった)
 このうちの「佛流谷の忽本の西の山上に城を築いて、都を建てたが王位を楽しむことがなかった。しばらくして、天が黄龍を遣はし、王を迎えにきたが、王は忽本の東岡にから、龍首にのって天に昇った」という部分が、右の『旧三国史、李奎報文集巻三』に対応するものであることは明らかだと思う。

 木村氏にうかがったところだと、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる「鶻嶺」という地名が何処を意味するかは説がないということであるが、広開土王碑文の「佛流谷」は、現在の中国遼寧省の桓仁にあたる。つまり、朝鮮半島根本の白頭山のそびえる長白山脈の南端の西である(中国側)。朱蒙神話の位置については李成市氏の充実した仕事があるが、ここに火山神話が存在することは自然であると思う。
 さて、この東北ユーラシアのプレートをユーラシア・プレートと相対的に別の運動をするアムールプレートとするというのは、地震学の石橋克彦氏などが主唱する理解であるが、このプレートの運動をどう考えるか、それに関係して、この地域の火山活動をどう考えるかは、まだまだ定説がないということである。文献も私がみれたのは小山真人「歴史記録からみたアムールプレート周縁変動帯における地殻活動の時間変化」(日本地震学会1995年秋季大会ポスターセッション発表内容)くらいであった。しかし、これを読んでいると、東北ユーラシアの遊牧民族の活動地帯から、日本列島にいたるまで火山神話が分布しているという仮説は、それなりの意味があると考えるにいたった。
 火山学・地震学の東部ユーラシア全域での共同研究が東アジアの未来を考える上で緊急な必要であり、歴史学も、そこでそれなりの役割を負わねばならないと思う。それは、長期的な視野を必要とし、歴史学の側がいわゆる文理融合の体制を用意しなければならないことを意味している。そして、それとともに、これは「神話の時代」とその時代からの分岐をどう考えるかという歴史学固有の問題も提示しているように思うのである。


 以上、都立大の研究会の雑誌「メトロポリタン史学」7号に「白頭山の噴火と広開土王碑文」として載せた者。

2017年10月 3日 (火)

吉野の妹山紀行(妹背山女庭訓の妹山)

 九月三〇日。吉野の妹山をみてきた。妹背山女庭訓の妹山である。吉野川が中央構造線を離れて南に流路を変える曲がり鼻の北側にたつ標高二九九メートルほどの小山だが(吉野川川面からは九九メートルと聞いたが)、諸研究がいうようにさすがに目立つ。南側に背山があって、二つの山で本来の吉野、吉野渓谷の入り口のランドマークとなっていたことがよく分かる。ここから川の端の平地が一挙になくなる。立野口という地名は、禁制の野の入り口という意味であろうか。

 しかし、まずバスで吉野歴史資料館に行き折良く御教示をうける(ありがとうございました)。発掘では、斉明・持統の吉野宮に続き、その川よりに聖武の吉野宮が確認されている。その故地はいま草原。草原から吉野川に降りるとさすがに見事な川の風景である。象山(きさやま)とは一種の象頭山であることを了解。

 上流の岩神神社を見聞。巨大な磐座の下に神社がある。神武記の国押排(国栖の祖神)がでてきた岩という説明があるが、吉野神話の構成者が、この岩に基づいて書いたというのはありうることなのであろうと思う。さらに上流の浄見原神社には行けず。磐座の中に組み込まれているような神社であるという。また丹生神社にもいけず。

 吉野は斉明ー天智・天武の母子王朝における聖地である。吉野川の石・石床が道教的風景とされたのであろうと思う。もう一つは鉱物。まずは丹生川上神社という名に現れる水銀だろうか。飛鳥にもっとも近い水銀産地である。主産地の宇陀野とは伊勢街道で吉野はつながっている。また『万葉集』の巻13雑歌に「み吉野の御金の嶽」とでるのは後の吉野の金信仰の最初の形であろうか。

 これは道教的な聖地であろうと思う。道観を立てたという斉明の道教趣味が日本の神道のある意味での原点であろうと思う。そういう道教趣味の中でできた聖地であるというのがもっともわかりやすい。子どものうちの、弟の天武が母親の道教趣味をよく継いだ。

 問題は吉野が天武系の聖地から金峯山を中心とする修験の中心になっていく過程である。これについては「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』18号)で若干書いてある。

 吉野は遠いというのがよく言われることだが、飛鳥からは近く、長谷寺からは南に下って、談山神社、多武峯のルートを下れば、妹山にでる。そんなに遠くないというのが感想。宇陀・吉野は神武神話の舞台であることも実感。

2017年9月16日 (土)

明治大学公開講座で講演「日本の神話と地震・火山」

 明治大学の公開講座で「日本の神話と地震・火山」という講演を四回やります。
 一〇月毎週金曜日。午後3時から5時。駿河台校舎。


日本の神話と地震・火山」
 日本の神話には地震火山神話という性格が強いことを全体として説明します。「天孫降臨」神話、「神武東征」神話という、これまでの神話論では扱いにくい神話の解釈に地震・噴火のイメージを読み込む仕事です。またそれが奈良時代に怨霊信仰に変化していく様子も説明したいと思います。それを通じて、日本の国土というものを考える機会になれば幸いです。


(1)「天孫降臨」神話とタカミムスヒ
 「天孫降臨」神話が火山神話であることを『古事記』『日本書紀』の史料から説明をします。まずタカミムスヒが「天地鎔造」の神といわれていることの意味についてふれ、ついで日本神話には天空の神話が少ないという津田左右吉以来の見解について反証し、「天孫降臨」神話が磐座降下、火山灰(稲米)降下、溶岩流噴出、火山雷のアナロジーであることを説明します。
(2)「神武東征」神話と前方後円墳
 「神武東征」神話は物語の筋として「天孫降臨」神話と一体のものです。そこに雷神タカミムスヒの神話がどう入っているかを示します。その上で、前方後円墳はタカミムスヒ神話を表現しているという持論を論じてみたいと思います。私は前方後円墳=壺型説をとっていますが、それについても関説します。
(3)地震火山神話とオオクニヌシ
 スサノヲとオオクニヌシは地霊として地震の神でした。それを説明した上で、根のカタスの国が火山の地下にある国と観念されていたこと、またオオクニヌシの地下からの脱出は火山火口からの脱出として描かれていることを説明します。さらに奈良時代でもっとも格の高い畿内の神が吉野のオオクニヌシ(おおなむち)神社であったことの意味を論じます。
(4)地震火山と怨霊
 奈良時代に地震火山神話は怨霊の観念に流れ込んでいきました。たとえば七三四年地震は長屋王の怨霊と受け止められ、聖武天皇は都を守るために大仏建立を計画したことがわかります(『歴史のなかの大地動乱』)。これは桓武天皇にとっても同じことで、平安京への移転は早良親王が地震の怨霊となったことの影響が決定的であったこと説明します。

 問い合わせ、申し込みは、明治大学リバティアカデミー事務局。https://academy.meiji.jp

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八月には、今の仕事の『老子』の注釈を終えて、神話論に取りかかる積もりですので、その話をやります。

2017年9月 5日 (火)

日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて

日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて
 『日本研究』五五集。日文研編集、20175,31

要約
 日本文化論を検討する場合には、神話研究の刷新が必要であろう。そう考えた場合、梅原猛が、論文「日本文化論への批判的考察」において鈴木大拙、和辻哲郎などの日本文化論者の仕事について厳しい批判を展開した上に立って、論文「神々の流竄」において神話研究に踏み入った軌跡はふり返るに値するものである。本稿では、まず論文「神々の流竄」が奈良王朝の打ち出した神祇宗教は豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であり、その中心はオオクニヌシ神話の作り直しであり、その背後には藤原不比等がいたと想定したことは、細部や論証の仕方は別として、その趣旨において重要であることを確認した。梅原が、この論文において八世紀の「神道」が前代のそれから大きな歴史的変化を遂げたことものであることを強調したことの意味は大きいと思う。問題は、それが論文「日本文化論への批判的考察」における、鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にあると思われることである。それはまた梅原が鈴木が日本仏教を無前提に禅と真宗を中心に捉えているという批判にも通ずるものであるように見える。残念であったのは、このような梅原の主張が歴史学の分野における一級の仕事と共通する側面をもちながら必要な議論が行われなかったことであるが、しかし、その上で、本稿の後半において、私は梅原の仕事も、また歴史学の分野における石母田正などの仕事も、神祇や神道を頭から「固有信仰」として捉えるという論理の呪縛を共通にしていたのではないかと論じた。私見では、これは、結局、「神道」なるものと「道教」「老荘思想」の歴史的な関連を、古くは「神話」の理解の刷新、新しくはたとえば親鸞の思想への『老子』の影響如何などという通時的な見通しを必要としていることを示していると思う。梅原の仕事が、今後、歴史学の側の広やかな内省と響きあうことを望んでいる。
鈴木の日本文化論が「日本的なるもの」についての歴史的変化の具体的な分析に欠けた非論理的な話となっているという厳しい批判の延長にあると思われることである。


日本文化論と神話・宗教史研究ーー梅原猛氏の仕事にふれて
 二〇一一年三月一一日の陸奥沖海溝地震の後、地震・火山史の研究にとりくむようになった歴史家は多い。たしかに歴史家には、この国の地震・噴火について調査し、それを伝える職能的な義務があるだろう。私も、そのように考えて八・九世紀の地震と噴火の史料を読み、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、■■■年)という本を書いた。その条件となったのは、ちょうど、三・一一の前年に私は『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書、二〇一〇年)という本を書く中で、かぐや姫は火山の女神であるという見通しをえて、その関係で地震・火山について基礎勉強をし、この時代には多数の地震・火山史料がありながら殆ど研究がないことを知ったことであった。
 意外であったのは、『かぐや姫と王権神話』と『歴史のなかの大地動乱』を執筆したことによって倭国神話には地震・火山神話というべき側面があるのを知ったことで、そこからすると、八・九世紀は厳密にはまだ神話時代の要素が続いており、それが八世紀以降の怨霊の盛行の原点であったという見通しをえたことであった。こうして私は神話論の研究が現代に結びついていることを知った。いまさらということであろうが、私にも、それが日本文化の歴史的研究にとって緊要な位置にあることが徐々に見えてきたのである。
 さて、その中で私は哲学の梅原猛の仕事を検討せざるをえなくなった。以下は、その状況の簡単な報告であり、その第一は梅原の論文「神々の流竄」(『梅原猛著作集』第八巻)についてのノート、第二にはやはり梅原の論文「日本文化論への批判的考察」(『梅原猛著作集』第三巻)へのノートとなる。そして、その上で、第三に「日本文化論」について戦前の戸坂潤にまでさかのぼって考えるところを述べ、第四にそれらの関係で、神道と老荘思想についてもふれたいと思う。論点は多岐にわたり、実際のところ私のキャパシティでは無理な部分も多いが、その点は御許し願うこととしたい。
1論文「神々の流竄」について
 「神々の流竄」は一九七〇年に季刊誌『すばる』に「日本精神の系譜」という題のもとに連載されたもので、その第一回、第二回にあたる。なお第三回から第五回までが『隠された十字架』としてまとめられ、さらに『水底の歌』もこの連載論文から生まれたということだから、この論文は著者が日本精神史に取り組むにあたっての最初の跳躍台のような位置にあったことが分かるだろう。
 この論文の趣旨は明瞭であって、第一は奈良王朝が打ち出した神祇宗教は王家の祖先神アマテラスヲ中心とした国家神道であり、中臣氏によって新たに作られたもので、「遷却崇神」「大祓」祝詞などの詞章に明らかなように、豪族の神々を威嚇し、追放する「ミソギとハライ」の神道であった。この神道は従来の古墳の示す道教的な永世の生命の祭祀や、さらにさかのぼって、銅鐸の示す地霊の祭りなどとは大きく異なる神道であったという。そして第二には、このような新たな国家神道とそれに対応する神話の創造の背後には中臣氏と藤原氏、とくに元明天皇と深い関係をもっていた藤原不比等がいた。とくに梅原は『古事記』の語り手とされる稗田阿礼とは実は不比等のことであったとまでいって『古事記』の編纂には不比等が深く関わっていたという。梅原は、これによって「藤原氏がどうして権力の座に登ったか」が説明できるとしたのである。さらに第三に、梅原は神話論自体についても重要な問題提起をする。オオクニヌシやその同名異体とされるオオモノヌシは出雲の神ではなく大和の神である以上、ここには神話の作り直しがあることになる。それは右の「ミソギとハライ」の神道によって大和の神であったオオクニヌシが出雲に追われ、出雲大社が奈良時代に創建されるのと前後して作り出されたものであるというのである。
 私は、これらの梅原の見解には相当の説得力があると考える。まず第一点については「ミソギとハライ」を道具とする国家神道が他の神々への攻撃性をもっており、王権による刑罰権の主張を含むものであるというのが重要だろう。とくに「遷却崇神」の祝詞についての解釈などは詳細な検討を必要としているように思う。私も、このようなイデオロギーは悠久の昔からあった神道思想というものではないと思う。もちろん、禊ぎ・祓えの風習は八世紀以前も存在したことはいうまでもないが、梅原もいうように、それは臨時的・民俗的なものにとどまっていたろう。梅原が本居宣長が神道をこの型にはめて理解する図式をつくったのだと批判するのも重要である。この指摘は梅原の『日本学事始』の「怨霊と鎮魂の思想」ではより鋭い国家イデオロギー批判として定式化されている。現在でも歴史学のなかには神道そのものの成立を一二世紀以降にまで降ろしてしまう見解があるが、私は、この段階での神道の歴史的性格の変化を強調する梅原の見解に賛成である。
 第二の『古事記』編纂における藤原不比等の主導性という問題提起についても「古代史」家は賛同しないが、私は賛成である。梅原は『続日本紀』に『古事記』編纂の記事がまったくないこと、さらに『日本書紀』編纂についても舎人親王の編修という二十七字の短文(「先是、一品舍人親王奉勅、修日本紀。至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷」『続日本紀』養老四年五月廿一日)があるのみで十分な記事が存在しないことを不可思議とする。これを明瞭に断言したことの意味は大きいのではないだろうか。しかし残念ながら、その具体的な論述や論証の仕方については、私見は大きく異なっている。まず梅原の「稗田阿礼とは実は不比等である」という主張は、後に梅原の『葬られた王朝』で「不完全な論証」であったとされ、若干の追加的な考証が行われているが、それでも歴史学的な論証の通則からいえば率直にいって無謀というほかないものである。私は、不比等が『古事記』編纂を主導したのではないかという梅原の洞察は、このような無理をせず蓋然性の指摘にとどめておいても十分に説得的であると思う。
 また、梅原が、不比等が『日本書紀』の編纂にも深く関わったということにも疑問がある。梅原が『日本書紀』編纂について二十七字の短文しかないことを不可思議としたこと自体は了解できるが、不比等が参加していたとすれば、不比等は責任者の舎人親王の下に参加していたことになる。しかし、これは『日本書紀』編纂が完成した養老四年(七二〇年)には舎人親王は四五歳、不比等は六二歳であるという年齢からしても、不比等の実際の地位からしても考えにくいように思う。むしろ私は、もう一人の王族として長屋王が参加していたと考えたい。この時、長屋王は三七歳、大納言で儒教・道教に通じていたことはよく知られるから、ある段階で編纂メンバーに参加していたことは十分に考えられる。長屋王は後に反乱を問われて自死しているから、そのために記事が短文になったのではないだろうか。これは現在のところ、論証不能の蓋然性の指摘にすぎないが、『古事記』=不比等、『日本書紀』=長屋王という対峙の図式があったとすると、きわめて面白い問題となるように思う。
 そもそも大事なのは、梅原が、これに関わって「藤原氏がどうして権力の座に登ったかがよく分からない」という疑問を立てたことである。ただ、それが梅原によってよく答えられたかと言えば、残念ながらそうとはいえない。梅原は、それを結局、中臣氏的な宗教性を踏み台にしつつ、巨大な虚構としての神々の争いを組織し、そのなかで律令制的諸制度を構築したと説明する。しかし、これは藤原氏についての通説的なイメージと異ならない。私見は、藤原氏が「権力の座に登った」理由については、不比等が実は天智天皇の王子であるという伝承を重視するものである(保立『かぐや姫と王権神話』)。たとえば『公卿補任』の不比等の項目に「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大織冠鎌足の二男(一名史、母車持国子君の女、與志古娘也、車持夫人)」とあるのは無下に捨てるべき史料ではない。
 この私見は、梅原説と同様に歴史学界ではまったく賛同がないが、梅原が元明天皇と不比等の身体的関係を想定するのに比較すれば無理は少ないと考えている。この私説についてはもう少し丁寧な説明を必要としているが、ここでは、八世紀における藤原氏の地位は七世紀後半には一般的であった皇親制の延長として捉えることができるという大枠だけを述べておきたい。
 なおよく知られているように、これらの見解は、梅原個人のものというよりも、梅原と上山春平の討論のなかで成熟したものであり、上山は、それを前提にして平城京のプランに宇奈太理坐高御魂(たかみむすひ)神社が大きく影響したなどの重要な見解を提出している。その意味では、これらの問題は、梅原=上山説の全体の評価を必要としていることは確認しておきたい。
 さて、第三の神話論に関する梅原の問題提起は、右に紹介したように二つの内容をもっている。それはオオクニヌシが本来は大和の神であったという主張と、出雲大社の創建と同時に、「ミソギとハライ」の神道によって大和の神であったオオクニヌシが出雲に追われ、それと同時に、オオクニヌシ神話が出雲神話として語り直されたという主張の二つである。
 このうち前者については、歴史学の側でも相似した意見がある。まずは田中卓「古代出雲攷」(初刊一九五四年。後に『田中卓著作集』第二巻、国書刊行会、所収)には「葦原中国の支配者は大己貴神とされ、その勢力範囲は少なくとも近畿一円を含み、中心が畿内の如く考えられる」とあり、石母田正「日本神話と歴史」(初刊一九五九年、『石母田正著作集』第十巻、岩波書店)も「この神の出自、その本拠は畿内とその周辺にあったとみられ、この神が出雲の杵築宮に祀られたのは畿内勢力による出雲の制服を契機としたものと考えられる」としている。田中が詳細に示しているように大己貴=オオクニヌシについての文献史料を総覧すれば、この神が大和を中心とする畿内地域の神であることは疑うことはできないのである。それ故に、梅原の主張の第三についても、少なくともその前半については重要な先行論文もあり、歴史学の立場からすると、その意味でも了解できるということになる。
 問題は梅原の主張の後半部になるが、梅原は、右の田中の見解がおもに氏族の移住のみを述べているとして「むしろ記紀の制作の中心目的は神々の移住である」と主張している。梅原の見解は、右の石母田の見解の後半傍点部、「この神が出雲の杵築宮に祀られたのは畿内勢力による出雲の制服を契機としたものと考えられる」と相似するものということができるだろう。相違は石母田が『古事記』の出雲神話の成立を六五九年(斉明五)の出雲大社修造から壬申の乱前後の事情に引きつけるのに対して、梅原が、それよりも遅く藤原不比等の営為にひきつけて考えるということに局限される。
 また、これについては、最近、村井康彦が『出雲と大和』(岩波新書)で新たな問題提起をしている。村井が注目したのは、斉明天皇が出雲に対して強い強迫観念をもっていた可能性である。つまり村井は、石母田が注目した五九年(斉明五)の杵築神社の大修造は、前年にタケル皇子(建皇子)が死去したことの衝撃のなかで行われたのではないかという。建皇子は天智と遠智娘の間に生まれた第三子で姉に太田皇女と鵜野讃良皇女(後の持統)がいた。本来彼こそが天智の正統な跡継ぎであったが、この皇子は「唖にして語ふこと能はず」という生まれであった。村井は、この皇子のイメージが同じような生まれつきであった誉津別王と重なり、『古事記』の誉津別王の記事が迫真のものとなったという。誉津別王は大王垂仁の子どもと伝えられ、『古事記』『日本書紀』は、彼が物をいえなかった原因はオオクニヌシからのいわゆる「国譲り」の時、杵築神社の社殿を立派に造営するという約束が曖昧になっていたためであるとしている。彼が(天皇の氏族霊である)白鳥を追って杵築神社に行くことによって言語を発することができたというのは有名な物語である。しかし、タケル皇子は、そのような幸運に恵まれることなく八歳で死去し、孫を溺愛していた斉明は、その衝撃のなかで杵築神社の「修厳」に全力をあげたのである。
 この村井の議論は、村井自身がどう考えているかは別として、石母田の議論を『古事記』成立の時期や過程の推測をふくめて、受け継いだものである(参照保立「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」)。私のいう母子王朝(斉明ー天智・天武)の家系的経験が『古事記』における出雲の扱いの原点に存在するという村井の指摘は鉄案というべきものであろう。とくに研究史的にいえば、村井の指摘が村井の独自な邪馬台国論をふまえたものであると同時に、明らかに梅原・上山の神話論的研究の影響をうけていることは注目すべきことである。私は、どちらかといえば、『古事記』の成立は、母子王朝の経験が持統ー元明などの女王たちと不比等のサークルの中での熟成を経ていると考えるので、少なくとも結果としては梅原の理解に近い立場をとりたいが、これについて、ここで本格的に詰める用意はない。
 以上、論文「神々の流竄」において梅原の主張した三つの点について順に検討を加えてきたが、哲学畑からの発想で導き出された梅原の見解が歴史学畑からみても響きあえるものであることを確認できたように思う。ただそれだけに率直に言うべきなのは、梅原が石母田の仕事を知らないままに『神々の流竄』を執筆したことが、大きな行き違いをもたらしたことである。おそらく梅原には、歴史学、とくにいわゆる戦後派歴史学は津田左右吉の議論をそのまま繰り返しているという先入観があったのであろう。また歴史学の側にも、右にふれた梅原の「稗田阿礼とは実は不比等である」というような論証の仕方、さらには『隠された十字架』で繰り返されたような議論の仕方に対する一種の職業的な反発があった。しかし、梅原(と上山)の問題提起には、それらを超えて議論に応ずべき内容があったことは明らかであり、学術としては、それには何をおいても対応すべきであったと思う。
 残念であったのは、石母田がちょうど「神々の流竄」が発表されたころ、一九七一年一月『日本の古代国家』発刊、一九七三年五月『日本古代国家論第一部』発刊、同六月『日本古代国家論第二部』発刊とインテンシヴな作業で余裕のない時期にあったことである。石母田は、ようやくそれが終わり、右の論文「日本神話と歴史」をもおさめた『日本古代国家論第二部』の「あとがき」を記したとき、折から企画されていた『日本思想大系 古事記』の編纂・解説作業のなかで、第二次大戦の終戦直後に集中して研究した神話論に立ち戻ると宣言している。しかし、「古代史家」にはよく知られているように、そのしばらく後の一一月には発病して仕事が不可能になり、その構想と仕事が具体化することはなかったのである。私は、もし、この仕事が世に出れば、梅原・上山の仕事との接点において活発な論争が行われることになったと思う。それが行われなかったことは第二次大戦後の歴史学にとってきわめて残念な経過であった。
 現在、すでに研究の季節は変わり、とくに出雲荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡からの大量の銅鐸・銅剣の発見、纏向遺跡と前方後円墳形成過程の精査などによって新たな研究仮説が望まれる時期となっている。これに対応して、梅原は『神々の流竄』を自己批判した著書『葬られた王朝』を発刊し、弥生時代の銅鐸文化の原拠地域は出雲にあり、そこに朝鮮からの渡来人を中核として形成された王権が畿内を征服したという壮大な仮説を提出するにいたっている。これも大枠としては有力な仮説ではないだろうか。
 私は前記の『かぐや姫と王権神話』において、有名な『魏志倭人伝』のいう邪馬台国への行程を日本海ルートとし、投馬国(出雲)よりの「水行十日」によって丹後半島に到達し、由良川をさかのぼって、「陸行一月」、ほとんど全行程、平坦な道を通って、大阪平野から、大和に到達したという、小路田泰直が示した魅力的な見解に賛成して、これは邪馬台国の中心領域が丹後から大和に広がっていたことを示すものだと論じた。そして、その丹後―大和ルートで活動が推定される女神たちが大和の入り口地域に宿ったのが広瀬神社のワカウカ姫であり、この女神がかぐや姫に転形していったのだという試論を提出した。村井康彦の『出雲と大和』も相似したルートを想定した。もし、そうだとすると、邪馬台国段階では出雲と邪馬台国は区別されていたことになるが、それは出雲に対する邪馬台国地域の反抗あるいは自立を意味するのではないだろうか。邪馬台国において銅鐸の破砕が知られていることは、そのような状況を示すもののようにも思える。
 もちろん、出雲王朝説の当否をふくめて、結論の向かう方向は明らかではないが、しかし、今後、研究状況を一新する論争が展開することが期待されるところである。そして、その際は、梅原・上山説をめぐる様々な議論の経過を各分野において十分に総括することが必要であろう。
2論文「日本文化論への批判的考察」について
 この論文は一九六六年八月の『展望』に掲載されたもので、禅学の鈴木大拙と哲学の和辻哲郎の「日本文化論」への鋭い批判である。この論文「日本文化論への批判的考察」は、後の梅原の述懐によれば「日本文化ないし日本思想の研究を一生の大きな課題と決めた私の処女作に等しいもの」であった。たしかに梅原の仕事は、『神々の流竄』『隠された十字架』『水底の歌』の三部作を除くと、この論文に発するものが多い。
 現在では、鈴木の仕事も、和辻の仕事も若い世代には、あるいは縁遠いものかもしれないが、この論文がだされたころには二人の仕事はまだ大きな影響をもっていた。梅原は、「彼らの日本文化論が影響力のみでなく内容的にももっとも優れたものである」、しかし、「われわれはこれらを無批判に受け入れることは出来ない。鈴木も和辻も大体戦前の思想家である。戦前に出来上がった日本文化論を金科玉条として採用するとき、戦後の歴史はどこへ行ってしまうのか」「日本がヨーロッパから学んだものは、科学技術文明であるばかりか。同時に植民地侵略の思想でもあった。このような『日本歴史』の方向は、昭和二十年(一九四五)で、一応のピリオドを打ったはずである」「かっての日本帝国の在り方にそって、かっての日本文化論がたてられたとすれば、新しい日本国家の在り方にふさわしい新しい日本文化論が必要であろう」と論ずる。
 ここでは、私の準備および論述の関係で鈴木に対する論述についてのみ検討するが、この梅原の論文はもっぱら賛嘆に取り巻かれていた鈴木大拙に対するはじめての果敢な批判であった。梅原が取り上げたのは鈴木の『禅と日本文化』(岩波新書)と『日本的霊性』(岩波文庫)の二冊。どちらも鈴木の『禅とは何か』などの禅の入門書とともに非常に広く読まれていたものであった。まず『禅と日本文化』は、英文で発表されたのが一九三八年(日本語では、その二年後)、美術・剣・茶道・俳句などにふれて禅が日本文化にあたえた影響を強調し、禅が日本人が自然界の一切のものを一様に生命はあるという感情を敏感にし哲学的・宗教的素養をあたえたという。鈴木はこの主張を達意の文章で説明している。
 つまり、自然的な感情を敏感にして哲学的・宗教的なものにすると同時にそれを生活文化のなかに浸透させたのは禅宗のみであるというのであるが、これに対してしばらく遅れて一九四四年に出版された『日本的霊性』においては、同じ問題が「日本的霊性」が鎌倉時代に禅宗と真宗において、禅宗は知性、真宗は情性の側面を中心にして自覚されたと繰り返されている。「日本的霊性」という言葉はわかりにくいが、鈴木のいう霊性とは私なりに説明すれば、人間の類的な性格としての宗教性というようなことで、しかも鈴木は、それをインド的な超越性、中国的な実証性、日本的な自然性の統合であって、日本において仏教は人間の個人生活と大地に即したもの、大地的霊性というべきものになりえたのだという。これが、『禅と日本文化』における禅宗が自然に対する生命的な見方と生活文化の基礎となったという見方を別の形で繰り返したものであることは明らかであろう。
 興味深いのは、後者では禅宗は知性、真宗は情性という形で、真宗に対する高い評価が付け加えられていることで、これは「日本的霊性」が長い時間をかけて、鎌倉時代になってはじめて成熟し目覚めたのだという日本宗教史・精神史の段階論と重なる形で提示されたのである。ここには、禅宗と真宗こそを近代的個人にも理解しうる宗教であるとする「日本近代」の知識人に共通する心的あるいは思想的な姿勢を発見できるだろう。このような日本の宗教をいわゆる鎌倉期新仏教に局限してしまう態度は一種の近代主義であることは否定できない。私は、それは歴史の段階論からいけば、明治以降、知識人世界に共有されていた鎌倉時代以降を「封建制」と理解する図式にもつらなっていくものであるように思う。
 梅原は、これは日本人の自然観と宗教についての正確な認識に欠け、実際上あまりに禅に偏った説明であるという。たしかに、鈴木が天台の哲学は抽象煩瑣にすぎ、真言の典儀は費用がかかりすぎ、日蓮宗や真宗は(親鸞の和讃などを除いては)は芸術的・文化的刺激を与えなかったといい、「禅以外の仏教各派が日本文化に及ぼした影響の範囲は、殆ど日本人の生活の宗教的方面に限られたようだが、独り禅は此範囲を逸脱した」と断言していることはいいすぎだろう(『禅と日本文化』)。梅原が「彼はまず禅に興味をもったが、後に大谷大学に就任した彼は、浄土教、特に浄土真宗に興味をもった。日本的霊性は、彼の興味の範囲の中においてのみ目覚めるかのごとくである」と痛烈に批判するのももっともなところがある。やや長くなるが梅原の説くところを下記に引用する。
神道のなかに暗に含まれるこのような存在論は、大乗仏教の中に含まれる「山川草木、悉有仏性」という存在論と結びつくものであった。このような存在論をもとにして、神道の地盤に仏教がそのまま移入され、日本人の自然愛は神道から仏教にそのまま受け継がれるのである。日本的仏教としての最初の独創的試みであった空海(七七四-八三五)の真言密教が、結局自然の神である大日如来をその信仰の本体としていることを深く考えてみる必要があろう。こうして自然愛は、神道から仏教に引きつがれるけれど、何を美とするか、何を浄とするかという価値評価の上で多少の変化があった。神道において、清潔で簡素な美を尊んだ日本人は、密教によって、絢爛にして陰影多き美を美とすることをおぼえた。奈良時代と平安時代、万葉集と『古今集』の美意識の違いは、このような神道と密教の自然観の違いに帰せられると言ってよいかも知れない。そして、平安時代の半ばごろより浄土宗が起り、美を想像の浄土の世界に求める自然観が日本を支配した。そして、さらに、禅が単色にしてしかも無限に複雑な自然観を日本人に教えた。密教や浄土教のけばけばしい色のあでやかな世界に対して、墨一色で塗りつぶされた禅の世界、それは日本人の自然観における、ふたたび簡素単純なるものへと帰ろうとする運動であったかも知れない。
 梅原は日本精神史の研究に仏教史から入っており、梅原が様々な宗教が重なっていった歴史の全体をみなければならないというのは当然のことであったろう。とくに天台の哲学や真言の典儀を切り捨てるかのような鈴木の議論は「深い心の分析を行い日本人に心の何たるかを教えた唯識の思想、あるいは生命の秘かで微妙な知恵を語る密教の思想」を無視するものだというのはうなづけることである。日本の宗教をいわゆる鎌倉期の新仏教にのみ局限してとらえる近代主義的な態度に対する批判は、私は黒田俊雄にも共通するものであると感じる。
 さらに重要なのは、鈴木の禅宗理解が偏頗であることを強調する理由が、第二次世界大戦における宗教者の行動にあったことである。つまり、梅原は第二次大戦の末期に書かれた『日本的霊性』が「当時としては多少大胆国粋主義批判の意義を含んでいた。そして当時書かれた日本精神論のほとんどは、便乗主義の産物にすぎず今日全く一読するに足りないが、鈴木の日本的霊性論は、深い宗教的精神が宿っていて、今日もなおわれわれにある精神的反省をあたえる」ことを認める。しかし、その上で、「(第二次世界大戦の)歴史的状況にあって、死の決意を説く禅は、消極的ではあるがやはり戦争協力の宗教になりつつあったのである。鈴木が(『禅と日本文化』において)『禅と武士』『禅と剣道』の二章を『禅と美術』の章の次ぎにおき、はなはだ重視しているのは。彼の思想が明治以来の日本がとらざるをえなかった軍国主義的方向にそったものであることを物語る」と鈴木を批判するのは、梅原の痛切な世代的体験によるのである。これも長くなるが、引用する。
鈴木の本を持って多くの若者は望まざる死についたのである。この戦争によって死ぬということに意義を認めることができなかった若者たちは、せめて禅によって自己の心に死を用意しようとしたのである。多くの知的にすぐれた青年たちが鈴木の唱える禅的念仏によって成仏しようとしたが、私には彼らが安らかに成仏したように思われない。私にはせめて戦後の鈴木に、戦争中の多くの青年の望まざる死のための念仏の説法者の役割をしたという痛烈な自己反省の言葉がほしいと思うのである。
 私は『禅と日本文化』は別として、鈴木の『日本的霊性』には、鈴木の仏教史の全体的な理解が凝縮された形で示されており、「霊性」というものの理解をふくめて容易な批判を許さないものがあると思う。これは梅原も認める通りである。しかし、鈴木の禅宗を中心とした「日本文化論」、日本的霊性の議論は、たしかに第二次世界大戦における宗教者の行動という問題の全体を背景として、日本思想史における宗教の位置という問題に関わって厳しく問われざるをえないと思う。
 藤岡大拙はこの梅原の論文「日本文化論への批判的考察」について、やはり「大拙に対する批判らしき批判は、まさに梅原がはじめてであろう。大拙に関心をもつものには強い印象を与えた。特に、とらえどころのない無体系の大拙の思想に、漠然とした不満をもちながら、その不満をはっきりとした形に、まとめられない者にとって、一種の爽快感すら感じさせるほど鮮やかなものであった。しかもこの論文の発表直後、七月十二日大拙は九十五年の生涯を閉じたから、いっそうドラマティックな印象を与えた」として、梅原の禅僧の戦争責任、鈴木の戦争責任という問題提起に共感するとしている(藤岡「鈴木大拙」一九六八年に『日本名僧列伝』現代教養文庫に発表。後に、藤岡『出雲学への軌跡』今井書店、二〇一三年に所収)。
 ここで梅原の和辻批判にふれる余裕はないが、梅原の日本文化論批判の位置は大きかったというべきであろう。著作集にまとめられた梅原の業績はあまりに多様であるから、この批判の筋を追うことは困難であるが、近年の円空に関する著作にいたるまで、梅原が、この論文「日本文化論への批判的考察」になんらかの形で関係する仕事をしていることは驚嘆にあたいする。日本文化論への批判的考察はそれだけの広さを必要とするのであろうと思う。
3日本文化論と「神道」「固有信仰」
 視点を「日本文化論」なるもの自体に移動して、その視角から問題を照射することとするが、梅原の仕事に対して、歴史学の側における「日本文化論」を代表するのは、石母田の講演記録「歴史学と『日本人論』」であろう(岩波文化講演会、一九七三年六月、『石母田正著作集』八巻所収)。石母田は、この講演で日本文化論的な思考方法への傾斜をみせる丸山真男の「歴史意識の古層」(初刊一九七二年、後に『忠誠と反逆』筑摩書房所収。なお、丸山の議論については安丸良夫による批判が参考になる。参照、保立「安丸史学の方法と神話研究」『現代思想』二〇一六年九月臨時増刊号)という論文に対しての批判を試みようとした。しかし、前述のように、石母田は、その直後に身体の調子をくずして、その日本文化論は講演記録のままに終わってしまった。ここでも石母田と梅原は行き違いになってしまったといえるだろう。私は、こういう経過のなかで、この日本文化論への批判的考察という問題は私たちの歴史学にとってまだ解かれていない問題となっていると考える。
 ここであらためて確認しなければならないのは、そもそも「日本文化論」という問題の設定の仕方自体をどのように考えるべきなのかということであろう。そしてこれについて歴史学において示唆的なものとされていたのは戸坂潤の『日本イデオロギー論』であったと思う(『戸坂潤全集』第二巻、頸草書房)。戸坂は、「日本的なるもの」が存在することは当然としながら、問題はそれを他の普遍的な諸原理によって説明することであって、それを他のものの説明原理として担ぎ上げることは一つの「日本主義」であって、科学でも学術でもないとしたのである。戸坂は、その具体例として和辻哲郎、西田幾多郎、紀平正美などを上げている。梅原のいうようにそこには鈴木大拙も加えられるべきであろう。
 ここで戸坂の見解を詳しく紹介する介する余裕はないので上記の指摘をふくむ一節を引用しておきたい。
 具体的な現実物が、それぞれ自分の特殊性ないし独自性を持っていることは当たり前である。日本という国家・民族・人類(?)が経済上・政治上・文化上・世界の他の諸国家・諸民族・諸人種に対して、又世界の総体に対して、特殊性ないし独自性を持っていることは、当たり前である。(中略)
 日本的なものの検出、日本の特殊事情の強調といっても、二つの全く相反した動機と興味から問題になることが出来る訳で、日本的なものに特殊な興味を示すことが、それだけでは決して保守的でも反動的でもなく、却って具体的に進歩的であることを意味すべき場合があるのはあまりに判りきったことだろう。だがそうだからと云って、自分の動機を識別することなしに単純に、日本的なものに特殊な力点を置くということが、保守的でも反動的でもなく却ってザハリッヒで忠実な研究態度又は認識態度だ、ということにならぬ。「日本的なるもの」が、他のものの説明原理として担ぎ上げられる場合と、それが他の諸原理によって説明されるべき具体的課題として提出される場合とでは、条件は全く相反しているのである(傍点筆者。仮名遣いなどは直した)。
 なお、歴史学の分野で、戸坂の『日本イデオロギー論』の重要性を最初に指摘したのは、おそらく河音能平と黒田紘一郎であろう。一九七〇年三月七日に行われた日本史研究会七〇年代問題特別委員会の研究会において黒田は「戸坂潤『日本イデオロギー論』について」、河音は「日本ブルジョア民族主義の岩盤」という報告を行っている。二人の報告は両者とも戸坂を論じたもので関係していることは明らかである。梅原論文が一九六六年、河音・黒田の報告が一九七〇年、丸山の「歴史意識の古層」が一九七二年、石母田の講演が一九七三年であったということは、一九六〇年代から一九七〇年代が日本文化論をめぐる最初の議論の時期であったということを示すのであろうか。
 残念ながら、この河音と黒田の報告は活字化されなかったが、しかし、この研究会は、一九七〇年四月に、日本史研究会・歴史科学協議会・歴史学研究会・歴史教育者協議会のいわゆる四者協の共催で行われた「安保廃棄・沖縄返還要求四月集会」への準備報告として行われたものであったため、幸い、その内容がこの集会における藤井松一の報告の第五節「日本ブルジョア民族主義の岩盤としての日本文化論」に反映されている(『七〇年代の歴史認識と歴史学の課題』、青木書店、一九七〇)。それによれば、二人は和辻のほか、津田左右吉と柳田国男の名前などを「日本文化論者」として追加的な検討をしているが、そこでは、ほぼ戸坂の議論をそのまま敷衍しているようにみえる。その意図は多とすべきものがあると考えるが、ただ私には、思想弾圧の激しかった第二次世界大戦と天皇制ファシズムの時代の戸坂の議論を、そのまま敷衍すべきかどうかについて若干の疑義がある。
 つまり、これらの人々、とくに津田左右吉・柳田国男・鈴木大拙などは日本の歴史学にとって大事な先行者である。歴史学は、彼らの仕事において「日本文化論」とすべき側面には注意しなければならないが、「日本文化論」的な偏向は程度の差はあれ、どのような研究者の方法にも忍び寄るものではないだろうか。そもそも、「日本文化論」というものを「日本の文化について論ずる仕事」という意味で使う場合には、それは何の問題もない。津田らの学問が示唆するものはいまでも大きく、現在の危険はむしろ、戸坂のいうザハリッヒで忠実な研究態度に自信過剰となり、先輩の仕事を、それが歴史のなかで負った「日本文化論」的な雰囲気を理由として最初から忌避することにあるようにも思う。
 以上を前提として、今後、日本文化論の批判的検討を進める際に試金石となる問題を、しいて一つあげるとすれば、それは、結局、「神道」なるものをどう扱うかということではないかと思う。全体としてみた場合に、これまでの日本文化論批判を代表する梅原や石母田も、この問題をあつかう安定した方法を確保している訳ではない。たとえば、梅原は論文「日本文化論への批判的考察」において「人間や動植物ばかりか、山や川にすら生きた生命が宿り、世界はすべてこうした生きた生命から成り立っているという世界観が、日本人の世界観の根底にあった。(中略)神道のなかに暗に含まれるこのような存在論は、大乗仏教の中に含まれる「山川草木、悉有仏性」という存在論と結びつくものであった」と述べている。そして「『固有神道』覚え書き」(初刊一九六五年、『梅原猛著作集』第三巻)において、国家神道に対する明解でもっとも徹底的した批判を行い、国学的概念とは慎重に区別しつつも、これを「固有神道」と名づけ根付けている。また石母田は右にふれた講演で「(日本の歴史の基盤には)一つの共同体、あるいは神様なんかの神祇や神道をささえているところの共同体というものが一貫して存在するといってよろしいかと思うのですね。そういうふうな日本の固有の観念というものが、鎌倉仏教の親鸞とか道元とかいうような、ああいう非常に独自な超越者がでてきた場合にどう変わるであろうか。あるいは変わらなかったであろうかという問題があります」と述べている。
 これは実際上、鈴木が「神社神道または古神道などと称えられているものは日本民族の原始的習俗の固定したもので霊性にはふれていない。日本的なものは余りあるほどであるが、霊性の光はまだそこからでていない」というのと大きな違いはないのではないだろうか。歴史の基底を探っていくと、結局、一種の「日本的な」基底信仰があるということでは、ここに「日本文化論」に通じかねないような方法的な曖昧さがあることは明らかである。梅原も石母田も、「日本文化論」批判を試みながら、結局、相似した枠組みを逃れられていないのではないだろうか。
 現代の歴史家のなかで、このことをもっとも強く意識したのはおそらく黒田俊雄であろうか。しかし、黒田をもってしても、これは難問であり続けた。つまり、黒田は梅原・石母田その他の見解を超えて、その顕密体制論=権門体制論といわれる議論の中で、「民族宗教ないし習俗としての『神道』なるものを超歴史的に想定することの一面性と、それを基軸に構想された宗教史の全体構造の虚偽性」を明瞭に主張した(黒田「中世宗教史における神道の位置」『黒田俊雄著作集』第四巻)。黒田はまず顕密体制論の立場においては、九世紀から一五世紀くらいまでの「神道」は顕密仏教に付属するより世俗的な宗教・祈祷・儀礼・呪術の位置におかれていたに過ぎなかったとする。そして権門体制論の立場からは、顕密仏教の権門は、王権に集中して清浄の秩序を維持する神祇体系を擁護するという社会的・国家的役割をもつ権門であったと主張したのである。ここまでは宗教史的な組織論としても国家論としても正当であったと思う。
 問題は、黒田が顕密体制の周縁に組織された神社をふくむ宗教諸形態に一定の自律性を認めること自体を拒否し、「神道」的な宗教・呪術的な観念体系には、そもそも仏教と相対的に区別される独自性が存在しないとしてしまうことである(黒田(俊)の議論についても丸山についてふれた前掲の「安丸史学の方法と神話研究」でふれたので三章願えれば幸いである)。つまり、黒田によれば、「神仏分離という国家権力による強制的・破壊的『矯正』以前には、むしろ日本人は単一のそれなりにまとまった宗教的思考体系ーー原始仏教ないし大乗仏教の理念や民族宗教の観点からはどう評価されようともーーを作り上げていた」ということになる(黒田同右論文)。しかし、これでは日本の精神史・宗教史において存在した、さまざまな歴史的な宗教体系を、事実上、それ以上は独自なものとして分析不能なような、つねに融合一体の姿をもつものと考えることになってしまう。これでは、仏教とも儒教ともいえないような宗教的な観念・祈祷・習俗が、それなりの独自の特徴と主張をもって実在したという問題そのものが消去されてしまう。
 この矛盾は、相対的に早い時期の執筆された論文「中世国家と神国思想」(初刊一九五九年、『黒田俊雄著作集』第四巻)に明らかである。つまり、黒田は、そこにおいて「神話的な神々や霊物崇拝や呪術などは宗教思想や理論より以前からのより広範な存在であり」、「神祇崇拝の本質は、このような霊物崇拝や呪術的信仰にほかならない」「民衆は現世の物質的な苦楽から免れることはできず、したがって霊物崇拝や呪術は絶えず生み出されざるをえなかった」「(穀物の神、田の神などは)農民の共同体的祭祀にどこでもみられる神であり、生産と守護を祈るための素朴な信仰を基礎とする。かかる信仰は、前近代的・共同体的な生産構造を基礎とする社会ではつねに成立し存続するもので、したがって、古代以来の農村の『固有信仰』的なものではある」などとしている。厳しくいえば、黒田は、この「固有信仰」は習俗にすぎず、宗教史で扱わるべきものではないすることによって問題を消去しただけということになる。
 以上がだ、日本文化論をめぐって、津田左右吉・柳田国男・鈴木大拙――戸坂潤――石母田正・梅原猛・黒田俊雄が探求してきた問題の構造についての私なりの整理である。

4「神道」と老荘思想
 最近、いわゆる神仏習合について論じた北條勝貴は、この難しい問題について、そもそも「神道」の側に「『固有信仰』、『基層信仰』を自明化すること自体がナンセンスなのである」「習合現象の背景には、中国から連続する儒教・仏教・道教の複雑な絡み合い、言説・心性・実体の交錯する豊饒な文化が広がっており、軽々に扱うことはできない」と断言して、おそらく今後の公準となる明解な解答をあたえた(北條「初期神仏習合と自然環境」『環境に挑む歴史学』勉誠出版、二〇一六年)。
 日本における「神道」現象は、「固有信仰」の問題ではなく、最初から、東アジアにおける「儒教・仏教・道教の複雑な絡み合い」の中で解くべき問題なのである。北條によれば、それは縄文時代から続く問題構造であり、そこでは「儒教・仏教・道教」という相互関係の枠組みそのものが流動的であるという。それは北條が注目した中国における癘鬼や、私も論じた日本における怨霊が(保立「火山信仰と前方後円墳」『環境に挑む歴史学』)、この「儒・仏・道(神)」のどれにも関わっていることに明らかである。
 これが確認されれば、最近の東アジア仏教史の研究の進展のスピードからいって、遅くない時期に「日本文化と宗教」に関するまったく新たな歴史像が立ち上がってくるであろう。私は、その際に鍵となるのは、老荘思想と「神道」の関係であるのではないか、日本史の史料をおもに読む研究者も、日本の思想史上の事実と対比して『老子』『荘子』以下の原典に立ち入って自己の知識体系を組み直すことが必要なのではないかと思う。
 たとえばまず指摘したいのは、『老子』の「清静」の思想と日本神道の清浄の観念との関係である。よく知られているように、道教はほぼ三世紀以降、仏教のインド的な清浄思想の影響をうけて「清浄」の観念を発展させ、物理的な清浄を尊重するニュアンスを強めた。しかし、全体としては老子の教えという意味での道教のいう「清静」は心的態度の意味をおもな内容としていたという。次ぎに『老子』第四五章を引用する。
大成(たいせい)は欠くるが若く、其の用は敝(つ)きず。大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧(たいこう)は拙(つた)なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静(せいせい)は天下の正たり)。
大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。
 これはいうまでもなく、鈴木大拙の「大拙」号の由来となった章であるが、いちおう、大意を取っておくと「大成しているものは欠けるところがあるように見えるが、(その隙があるからこそ)その働きが尽きることはない。満ち足りているものは空しいところがあるように見えるが、(その影があるからこそ)その働きは窮まることがない。長大な直線は曲がっており、本当に巧みなものは拙(つた)ないままのところを残しており、雄弁は訥々としているように聞こえる。動作を躁(さわが)しくすれば寒さは防げるが、静かにしていれば動かなくても熱さに勝つことはができる。こうして清静(せいせい)な心が世界の運動の中心にあることを発見する」ということになるだろうか。
 私は、本章は有名なギリシャのソフィスト、ゼノンのアキレスと亀の話を背景に読むべきものであると思う。つまり「大盈(たいえい)は冲しきが若く」とは、満月にも必ず小さな影があるということだろう。月影はつねに動いている以上、満月に影のない状態というものは抽象的にしか考えられず、極小であれ、実際には影があるからこそ月に盈(み)ち虧(か)けがあるのだということだろう。そう解釈すれば、これまでやや問題のあった、後半の「躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ」への意味のつながりも、「躁」は運動、「静」は静止のことをいっているとして何の問題もない。違うのはゼノンの議論や右の月の盈(み)ち虧(か)けの場合は空間的な運動であるのに対して、ここでは人間の身体と心が対象になっていることであろう。またゼノンは、運動と静止の矛盾を語ったのであるが、老子は運動と静止の矛盾において本源的なのは静止であることを強調する点でも違っている。基本的にはヤスパースのいう「軸となった時代」における一致であるが、数学的な明解さという点ではゼノンが、哲学的ニュアンスの点では『老子』が勝っている(なお、最後の一句、「清静(せいせい)は天下の正たり」の「天下」は、普通、「国家=政治世界」の意味とされ、「天下の正」は「天下の首長=王」あるいは模範などの意味で解釈される。これは『老子』の通俗読みであって採用できない)。
 この「清静」という語は、少なくとも『老子』が執筆され広まった春秋戦国時代の段階では、決して物理的あるいは衛生の意味での「清潔・清浄」ということではなかった。そもそも『老子』には「清」という文字の登場例は少なく、三例しかない。その一つが本章であるが、第二は「天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く」という天を清澄とする三九章の例であって、宇宙論にかかわる「清」の観念である。そして第三が「谷間の水の濁流が清まわることを待つ」ように清濁を併せ呑むという心的な態度を示す一五章の例であって、この「清静」は自然の循環を熟視するなかで心のエネルギーを豊かにする態度というようなことであろう。いずれにせよ、これらには物理的衛生の意味はほとんど含まれていないのである。
 しかし、七・八世紀日本においては道教・仏教の影響をうけた「清浄」の思想が、「ミソギと祓え」の思想として国家的な猛威をふるったのは梅原が強調したとおりである。この経過については拙著『かぐや姫と王権神話』で若干のことを述べたことがあるが、こういう中で、『老子』の「清静」の思想が、カースト的な浄穢の身分制に対応する神道の「清浄」の理屈に読み替えられるという事態が生まれたのである。つまり、右にふれた『老子』第三九章の「天は一を得て以て清く」というのは、宇宙論にかかわる「清」の観念である。ところが、これが伊勢神道を大成した度会家行の『類聚神祇本源』では「神を祭るコト、清浄ヲ先と為せ。我鎮(とこしなえ)に一を得るを以て念と為す也」という形で引用される。つまり、神を祭る勤めの「清浄」に転換されてしまっているのである。また高橋美由紀『伊勢神道の成立と展開』(ぺりかん社、二〇一〇年)が指摘しているように、日本でもしばしば利用された『老子』の河上公注には、第一四章の注として「当にこれを受くるに静をもってし、これを求むるに神をもってすべし」とある。これは人間が道に悟入するには心を静寂にし、心の神明を働かせなければならないという内面的な意味であるが、それが伊勢神宮の経典に引用されると、「これを受くるに清浄をもってし」と変更されてしまうのである。「静」から「清浄」への変化である。
 日本の神道が『老子』の「清静」の内面的倫理を受け止めなかったというのではない。神道の中には、それに対応する「物忌み」の心意が維持され続けていたと思う。日本の神道の地盤は、八世紀まで続いていた神話世界にあり、神話から引き継いだ「物忌み」の心意は神道の深層に持続していた。私は、そのような物忌みの思想は、日本社会において依然として重要な意味をもっていると考えている。しかし、文明の時代の到来とともに、日本の神道は「祭祀の礼務、潔にあり」などといわれるように、世俗的・身分的な「清浄」という国家的な儀礼秩序の守り手という役割をおうことになり、神社は都市的な場の空間のなかで伝染し、肥大化する穢を増幅し、キャッチする神経網のような役割を負うようになったのである。
 これが神道を宗教的には仏教の下で、二次的・世俗的な位置に固定する、黒田(俊)のいう権門体制=顕密体制の基礎となった。これに対応して、王権的仏教は、「本地垂跡」、つまり仏教の神々こそが「本地」で日本神話の神々は、その神々が遠くまでやってきて「迹を垂れた」ものであるという理屈を作り出した。問題は、その際のキー範疇となった「和光同塵」という言葉もさかのぼれば『老子』から取られていたことである。次ぎに『老子』第五六章を引用する。
知る者は言わず、言う者は知らず。その孔(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざし、その光を和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同(どう)じ、その鋭どきを挫(くじ)き、その紛を解く。是を玄同と謂う。故に、得て親しむべからず、得て疎(うとん)ずべからず。得て利すべからず、得て害すべからず。得て貴ぶべからず、得て賤しむべからず。故に、天下、貴となす。
知者不言、言者不知。塞其孔、閉其門、和其光、同其塵、挫其鋭、解其紛。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疏。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故爲天下貴。
 これもいちおう大意をとると「真理を知ったものが、それをすべて言葉にできるわけではない。また言葉にしてしまうと、それは真実ではなくなってしまう。人はまず目・耳などの感覚をふさぎ、その門を閉じて瞑想しなければならない。そして、受け入れてきた知識の光を熟成させ、塵のように細かな経験を肯(うべな)い、鋭く辛い経験の記憶、紛(むすぼ)れたコンプレックスをときほぐさねばならない。これを玄同、つまり奥深い合一という。そのように内面的なものである以上、真理の玄妙な力を得たからといって、それで人と親しくなるわけでも、よそよそしくなる訳でもない。それは利益や損害とまったく関係がない。また自分が貴くなったと感じたり、他者を賤しめるなどということとも無縁である。貴いかどうかなどというのは、自分ではなく世界が決めることだ」となる。
 冒頭の「知る者は言わず、言う者は知らず」という一節は、しばしば「沈黙は美徳」という世俗的な意味で理解される。しかし、ここで老子が言っているのは認識における確知と言語表現の関係であろう。『老子』は、この確知と言語の隘路を「その孔(あな)を塞(ふさ)ぎ、その門を閉ざす」こと、つまり目をつぶり、感覚器官を閉じて自分の内面に入り込んで瞑想することによって透過せよという。
 問題はそれに続く「その光を和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同(どう)じ、その鋭どきを挫(くじ)き、その紛を解く」という一節であるが、これは瞑想の中での心の風景である。「光を和(やわ)らげる」とは、知を外的なものでなく、人間の内面にともってそこを照らし出す微妙な光とすることであり、「塵」は過去の生活の中で蓄積された細かな経験である。瞑想は、その一つ一つに同化し追体験するのである。そして、続いて「挫鋭、解紛(鋭を挫(くじ)き、紛を解く)」といわれているのは、人間の内面に記憶として残っている辛い経験、コンプレックスになって絡まった経験をときほぐすということになろうか。老子は、そのような内的な認識の全体を「玄同」となずけている。
 問題は、ここでは「和光同塵」という言葉が内面世界に関わって使用されているのに対して、『老子』四章ではむしろ外界に関わって使われていることである。詳しくは別に論じたいが、四章の「道は冲(むな)しけれども之を用いてまた盈たず。淵(えん)として万物の宗に似たり。其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵(ちり)に同ず。湛(たん)として或いは存するに似たり。吾れ、誰の子なるかを知らず、帝の先に象(に)たり」、つまりこれも通釈しておくと、「道は空虚であるが、その空虚は満たすことができないような無限の大きさをもっている。この深淵から万物が生まれ出るのである。その動きは、天空の鋭く動く光や密集した光を分けほどき、遍満する光を和らげ、塵のように細かなものまで及んでいく。この淵は無限に奥深いようにみえる。さて、これを看取することができた私について振り返ってみると、私が誰の子であるかは知ることができないが、しかし人が謂う天帝などよりももっと前からいたのだ」という一節である。
 古い時代の中国の人びとは、このように抽象的な言葉を使用して宇宙の様子を描き出すことを好んだ。たとえば、『淮南子』(要略篇)の天文篇は「陰陽の気を和し、日月の光を理(おさ)め、開塞の時を節し、星辰の行を列ねる」ことをテーマとしている(『同』要略篇)。『淮南子』(俶真篇)にも「陰陽錯合し、相い与に宇宙の間に優遊(ゆうゆう)競暢(きょうちょう)し、德を被り、和を含み、繽紛(ひんぷん)蘢蓯(ろうそう)し」などという表現が出る。後半の「德を被り、和を含み、繽紛(ひんぷん)蘢蓯(ろうそう)し」とは「エネルギーを含みハーモニーを抱きつつ、わらわらと群がり集まる」という意味である。ここにつかわれている「光」「和」「紛」などは『老子』本章に共通するものであろう。また「其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き」という句も、やはり満天の星空の観望を前提にして理解すべきものだろう。「鋭」は芒(きっさき、ほさき)という意味で、『説文』には「鋭、芒也」とあり、芒は光芒・星芒などの熟語が示すように、尖った光を意味する。『淮南子』(俶真篇)の「無」についての宇宙論的説明には「光耀に通ずる者(中略)、天地を包裹し、万物を陶冶して、混冥に大通し、深閎広大にして、外をなすべからず、毫を析(ほど)き、芒を剖(さ)きて,内をなすべからず」、つまり「虚無は天地を包み、万物を育むものであるが、混沌をつらぬいて深く広大であって、その外側はなく、また毫(ふでのほ)をほどき、尖った穂芒(ほさき)を裂くようにしても、その内側に入ることはできない」とある。「毫(ふでのほ)を析(ほど)き、芒(ほさき)を剖(さ)き」というのは「其の鋭を挫(くじ)き、其の紛を解き」とよく似た表現である。具体的な夜空のイメージとしては、「鋭」とはオーロラなどの大気光学現象や、彗星・流星群などの鋭い動きを意味し、「紛」とは銀河のような星の密集を意味したのであろうか。
 浅野裕一『古代中国の宇宙論』(岩波書店、二〇〇六年)がいうように、この時代の中国には、今では忘れられたような多様な宇宙論があり、それをささえる天文観察もあった。彼らは見上げる満天の星も、形成され変化していくものと考えていたのであって、それを宇宙観・天体観にまだ広げていたのである。このように語るのは、あまりに現代的な宇宙観に引きつけすぎているかも知れない。しかし、老子のもっている宇宙論的な構想力のようなものは湯川秀樹やニールス・ボーアの言を引くまでもなく魅力的なものだと思う。そしてそういう構想力というものは、なかば時代を超えるものであるということも認めておいた方がよいのではないだろうか。
 ようするに、福永光司『老子』(朝日出版社、一九九七年)の解釈にも明らかなように、「和光同塵」という言葉は一方では内面世界の描写として、他方では壮大な宇宙論として使われているのである。なお、そう考えた場合に興味深いのは、『老子』第四章ラストのフレーズの「天帝」という神観念で、これは中国の殷の時代から春秋時代にかけて、中国の中心地帯、いわゆる「中原」では大きな位置をもっていたが、『老子』の宇宙生成論のなかには位置づけられない言葉であるという(浅野前掲書)。そうだとすると、これについては長谷川如是閑が「いかにも儒教の上帝(天)絶対主義を踏み越えた詞で面白い」といっているのが的をいていることになるのではないだろうか(長谷川『老子』大東出版社、一九三六年)。禅宗でいう「仏にあえば仏を殺し、釈迦にあえば釈迦を殺す」と同じことであろう。内面世界と客観世界を「即一」とする世界観ともいえようか。
 なお、さらに追加したいのは、『論語』(子路篇)の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という句との関係である。「世俗には和すが同じない」というのに対して、『老子』の「光に和して塵に同ずるのだ」という文節が見事な切り返しとなっていることである。老子は『論語』のように対人的な関係を「君子か、小人か」という形では裁断しない。老子は、あくまでも内面性にもとづく静かで平等な関係をイメージしているように思う。もしそうだとすると、これまでの「和光同塵」についての解釈、たとえば「知恵の鋭さを弱め、知恵によって起こる煩わしさを解きほぐし、知恵の光を和らげ、世の人びとに同化する」(蜂谷邦夫『老子』岩波文庫)などという解釈は、老子が世俗に妥協し、また結局のところ、知の光、ロゴスの光を軽視しているという判断に結びついていく。これは上記に述べたような第四章、第五六章の解釈とは合致しない。
 問題は、前述のように、このような解釈が実はきわめて古くから「本地垂跡」の論理となっていたことである。つまり『国史大辞典』の「和光同塵」の項目で説明されているように「『老子』第四章で、道は、鋭いものを挫き、紛争を解決し、強い光を和らげ、身を塵と同じに置くと説く「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」の文に拠ったことば。中国の仏教書で用いられ、日本にもたらされたが、己の智徳才気の光を和らげ、隠し、世俗に随うという意味を、日本では特に、仏菩薩が、智恵の光を隠し、人々を救うために塵に交じり、日本の神祇として現われるという意味に解した」(大隅和雄執筆)。それはまさに知を隠し、世俗に妥協するという意味で使われていたのである。私は、これは日本宗教史における、いわばもっとも長きにわたる誤解であったと考える。
 このように「清浄」「和光同塵」などの『老子』の重要な章句に関する誤解が日本における「仏教・儒教・道教」の関係を支えていたのであるが、そのような『老子』の定型的な読みを破ったのが親鸞であった。記録の残る限りでは親鸞の営為は老子の思想を本格的に日本語として日本の思想のなかに取り入れたものではないだろうか。それは下記の『老子』第二七章の理解のことである。
善く行くものは轍迹(てっせき=わだちのあと)なく、善く言うものは瑕讁(かたく)なく、善く数うるものは籌策(ちゅうさく)を用いず。善く閉ざすものは、関鍵(かんけん)なくして而も開くべからず。善く結ぶものは、縄約(じょうやく)なくして而も解くべからず。是を以て聖人は、常に善く人を救い、故に人を棄つること無し。常に善く物を救い、故に物を棄つること無し。是れを襲明と謂う。故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばす、其の資を愛せざれば、智ありと雖も大いに迷わん。是れを要妙(ようみょう)と謂う。
善行無轍迹。善言無瑕讁。善數不用籌策。善閉無關鍵、而不可開。善結無縄約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師、不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。
 いちおうの解釈をすると「旅するものは車馬の跡を残さず、善い話し手は他者を傷つけず、善く数えるものは計算棒は使わない。そして、善い門番は貫木(かんぬき)を使わないのに戸を開けられないようにし、荷物を善(たく)みに結ぶものは縄に結び目がないのにゆるまないようにできる。神の声を聞く人は常に善く人を世話して、人に背を向けることがない。また物に対しても同じで、物を大事に世話して、それを棄てるようなことはしない。それらの善は襲(かく)された光によって照らされているのだ。そしてそもそも、善き人は不善の人の先生であるのみでなく、不善の人の資(たす)けによってこそ善人なのである。(そして師と資(師と弟子)の関係も同じように見えない光によって結ばれている)。師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師は、賢こいかもしれないが、かならず自分が迷うことになる。ここに人間というものの不思議さがある」ということであろうか。
 ここには「善い」ということの説明がある。老子は、「善」とは丁寧で善(やわ)らかな気配りにあるが、それは人間関係を照らす見えない光と、その不思議さへの感性にもとづいたものであるというのである。これは孟子が「性善説、性悪説」などという場合の「善」ではない。老子は、人間が個体として「善」か「不善」かを問うのではなく、人間の「善」とは人間の関係にあるというのであり、人間の内面は見えないようだが、実は不思議な光の下で相互に直感できるというのである。それが人間が「類」的な存在といわれる理由なのであろうが、老子は、それを人類の「道」の基本には「善」があり、それを照らす「襲明(隠された光)」があるのだと表現する。「師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師」や「親を愛さない子、子を愛せない親」は、迷いの中でその光を失ったものだというのが老子のいうことである。
 ここから、「不善人は善人の資」という老子の思想が導かれた。つまり、善が関係に宿るのだとすれば、人が善であるのは、不善の人を資(たす)けるからであり、逆にいえば、善人は不善人の資けによってこそ善人であるということになる。私は、これは人間の倫理や宗教にとって決定的な立言であろうと思う。老子の立言は、福永光司『老子』(三八六頁)がいうように、少なくとも思想としては親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人においておや」(『歎異抄』)という決定的な断言に相通ずるところがある。もちろん、親鸞が「況や悪人においておや」というのは老子の思想をさらに越えているところがあろう。福永が「親鸞の信仰が深い罪業意識に支えられ、鋭い宗教的な人間凝視をもつのに対して、老子には親鸞のような罪業意識がない」というのはうなずけるところがある(福永光司『老子』二〇〇頁)。しかし、「弥陀の光明」の下で、「あさましき罪人」が許されるということと、老子の「道は罪を許す」という思想が基本的には同じことであることを否定する必要はないということも明らかなように思う。とくに私には、「弥陀の光明」ということと、老子のいう「襲明(隠された光)」ということは詩的なイメージとして酷似しているように思う。
 私は福永の指摘を超えて、親鸞は老子の「善人は不善人の師、不善人は善人の資なり」という格言を知っていたのではないかと思う。親鸞の『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の化身土巻の末尾には「外道」についての書き抜きがあるが、孔子についての言及は少なく、ほとんどは老子についてのメモとなっている。『教行信証』に明らかなように、親鸞は一面でたいへんな学者であり、勉強家であった。もちろん『教行信証』の結論は老子を外道とするものではあるが、その筆致はけっして拒否的なものではない。親鸞は、『歎異抄』を述べた晩年までの間には老子「五千文」を熟読していた可能性はあると思う。
 もう一つ、老子の第六二章は次のようなものである。
道は万物の奥。善人の宝、不善人の保せらるる所なり。美言の以って尊を市(か)うべくんば、行いの以て人に加わうべし。人の不善なる、何の棄(す)つることか之れ有らん。故に、天子を立て、三公を置くに、璧(へき)を供(すす)めて以て駟馬(しば)に先だたしむること有りと雖も、此れを進むに坐(ざ)すに如(し)かず。古(いにしえ)の此れ貴ぶ所以(ゆえん)の者は何ぞや。求めて以て得られ、罪有るも以て免(まぬが)ると曰(い)わずや。故に天下の貴ぶものたり。
道者万物之奥、善人之寶、不善人之所保。美言可以市尊、行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有共璧以先駟馬、不如坐進此。古之所以貴此者何。不曰以求得、有罪以免耶。故爲天下貴。
 これもいちおう解釈をしておくと、「道は万物の奥にある。善人の宝は、不善の人の保つものである。美言によって尊敬を得るのは、実行を人より加えなければならない。人の不善であるというのは棄ててはならない。そもそも天子を冊立し、三公を任命するときは、璧玉を先に立てた四頭だての馬車を前駆させることがある。そのときでも私たちは、この道を進むだけだ。古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で貴ばれているのだ」ということになろうか。
 ここでは二七章のいう「不善人は善人の資」という考え方が、善人の宝は、不善の人の保つものであるという言い方で繰り返されている。老子は、天子即位や三公(大臣)任命はどうでもいいという。これは『老子』五章の「聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す」に並ぶ強烈な王侯観である。「老子の思想は、君主の存在や国家の行政機構そのものをも否定する無政府主義的な傾向をその根底に内包する」と述べたのは福永光司『老子』(三四四頁)であるが、その通りだと思う。
 上記の現代語訳では、それにそって直截な読みをしてみた。これで、文章の通りは非常によくなる。それに対して、これまでの現代語訳は、(福永のそれをふくめて)「王の即位式などに、見事な玉や四頭だての馬車を並べるのは虚飾なので道にもとづく進言を行う」と解釈する。しかしそれでは「人の不善なる、何の棄(す)つることか之れ有らん」という前段と文脈が続かず羅列的な現代語訳になってしまう。昔日の中国には、老子の思想を徹底的な王権批判と受け止めた人びとは実際に相当数いた。中国の歴史において、老子を始祖とあおぐ道教が大反乱の旗印となった例はきわめて多いことはいうまでもない。もっともよく知られているのは、紀元一八四年に起きて後漢の王朝を崩壊に追い込んだ黄巾の大反乱であろうそれは張角という道士が起こした太平道と呼ばれた宗教運動にもとづいていたが、この反乱は数十万の信徒をえて各地に教団を組織したのである。そもそも、道教は、この張角という道士が起こした太平道から始まったことは特記されるべきことである。
 以上を前提とすると、本章の後半部に「古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で無上の価値をもっているのだ」とあることの意味も明瞭となる。これは前項二七章のいう「不善人は善人の資」(悪人と善人は相身互い)という考え方にもとづく赦しの思想である。福永『老子』は、これが老子の思想のなかでももっとも独自なもので、この赦しの思想こそが、老子の教説が宗教化していく基底にあったという。ここは決定的なところなので、福永の見解の中心部分を引用しておきたい。
「『汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり』というのはイエスの教えであるが、人間の犯した罪が天に対する告白によって許されるという(老子の)思想は、初期の道教のなかにも顕著に指摘される(いわゆる「首過」の思想)。これは告白という宗教的な有為によって人間が天(道)に帰ろうとする努力であり、老子の不善に対する考え方とはそのままでは同じくないが、道の前に不善が赦されるとする老子の思想は原理的に継承されているといえるであろう」(福永『老子』三八六頁)
 この引用の中段にある「首過」の思想とは、太平道の教祖にして、実際上、宗教としての道教を作り出した、黄巾の乱の組織者、張角による罪の懺悔(「首過」)のことである。張角は、それによって苦難や病からの解放を説いたという。そのような思想として、老子の思想は「中国における宗教思想の展開のなかで一貫した底流として生命をもちつづけた」のである。たしかに「求めて以て得られ、罪有るも以て免(まぬが)る」というのは、『マタイ福音書』の「求(もと)めよさらば与えられん」「汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり」と酷似している。それは是非善悪の区別を説く儒教や、義と律法の神であるユダヤ教のエホバの神とは大きく異なっている。老子の思想が宗教的な展開をみせたのは、たしかにそれが「罪の赦し」という側面をもっていたためではないだろうか。
 『老子』の教義は、このように、早い時期から宗教的な救済と政治的な急進性の結合をもたらすような内実をもっていた。もし、老子の思想が親鸞の「善人なおもて往生す。いわんや悪人においておや」の思想に影響していたとすれば、親鸞の「赦しの思想」が一向一揆を支えたことも、老子に共通するということになる。東アジアの精神史においてもっとも基底にすわるのは老子の思想であろうから、鈴木のいう「鎌倉時代における日本的霊性の目覚め」という図式を採用できないとしても、私は日本の精神史が親鸞段階で東アジアレヴェルの成熟に達したことは事実であろうと思う。
おわりに
 論述は梅原の日本の論文の検討からさまよい出て『老子』の解釈にまで至り、いたずらに紙幅を費やしたが、成功しているかどうかは別として、逆にこれは梅原の仕事のなかで道教、老荘思想はまとまった仕事がないことを追補したものと理解いただければ幸いである。
 また第三章において、八・九世紀における神話の時代から神道へ移行という問題にふれて、石母田・梅原・黒田(俊)の議論を乗り越える方向を示した北條勝貴の議論を紹介しながら、北條の重要な問題提起を取りこぼしている。つまり、北條は東アジアの宗教の相互的で統合的な交流を強調しながらも、中国と日本の神霊観の相違を指摘している。念のためにそれを引用すると、「六朝蒋侯神の創祠譚のように、祟り神の原型らしき物語も漢籍に散見するし、そもそも<祟>の文字・概念の成り立ちは、殷王朝の甲骨卜骨まで遡りうる。しかし、(八世紀段階ではー保立補記)列島のそれには非業の死者の色彩はなく、自然災害の勃発の理由や対処法を説明し、社会不安を抑える災因論としての機能が主軸をなしている。やはり、神観念が中国ほど複雑かつ重層的に抽象化されておらず、地形・植生・気候等々からなる森羅万象のあり方を、直感的に<神>と形象してきたからだろうか」「漢籍の消化を経て徐々に変質はしてきたものの、それでも列島に住む人々の大部分は、山川草木に宿る神霊と人間とを明確に区別していた」ということになる。
 前記のように固有信仰、基層信仰を自明化せず、中国から日本にまで連続する儒教・仏教・道教の複雑な絡み合いを前提としつつ、この相違をどう理解するかは、北條にとっても大きな問題であるようにみえるのである。もとより、これについて、私には確定した私見はなく、すべて新しい研究段階で議論されるべきものと思うが、ただ私は、あるいは問題は倭国神話の自然神話といわれるような側面の理解に関わってくるのではないかと感じている。
 つまり、これまでの神話論研究においては自然神話の範疇に対する異議が多かったが、別稿で述べたように、そこに大きな根拠はない(保立「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』一八号、二〇一五年一一月、中部大学編)。私は、むしろこの倭国神話における自然神話の強力な存在は、早い時期に自然の生態系に回復不能なような打撃をこうむった中国大陸の大地・自然とは相違して、列島の自然の相対的に豊かであり、かつ特に噴火や地震のような大地そのものの擬人化をもたらすようなあり方が条件となっていたと考えてみたいのである。地震火山列島において忘れた頃に周期的に感じることになる自然の畏怖すべき主体性である。益田勝実は火山の噴火に対する人間の絶対的な畏怖の感情にふれて「日本の神道は恐れと慎みの宗教であり、客体として対象化されるべき神の面よりも、禊ぎ、祓い、物忌みして齋く人の側に重心がかけられている」という説明をしたことがあるが、まさにその問題である(益田『火山列島の思想』筑摩書房、一九六五年)。
 以上、論点はあまりに多岐にわたったが、最後にどうしても述べておくべきことは、「精神史」という問題それ自体である。つまり石母田正は、その最初の神話論論文「古代貴族の英雄時代」において津田左右吉の文献学的方法を超え、神話の矛盾を「文学的見地から析出して、その背後にある世界を歴史的に位置づけ」、「その本質を神々との永遠の闘争のなかにみる」「精神史」的な視角を確保しようとした。それは、ヘーゲルの『美学』を一つの参考として構想されたものであり、「従来、精神史の領域ではあまりにも機械的・俗流的であった」「歴史学的=唯物論的方法」を鍛えるという方法意識をもっていたのである(石母田「古代貴族の英雄時代」『石母田正著作集』第十巻)。
 梅原は、この石母田の立言とは異なって、論文「神々の流竄」の冒頭において、「古代史」と記紀分析の方法について「戦後日本の歴史学者のとった物質万能の考え方では、とうてい、歴史の真実は見えがたいということである。なぜなら、人間は、卑俗な唯物論者が信じるよりはるかに精神的存在であるからである。物質的存在であると共に精神的存在である人間を研究するのに、精神の研究を度外視して、到底、真実の解明は不可能なのである」と述べている。
 私は、梅原には、このように激しく、歴史学それ自体に対して「戦後日本の歴史学者のとった物質万能の考え方」という断定をする理由があったのだろうと思う。私のように、とくにそのようなことを感じないままに石母田の提言にそって研究してきた第三世代にはわからないことだが、戦後派の歴史学のなかに梅原が言う意味での「唯物論」的な傾向、石母田のいう「機械的・俗流的」な「唯物論」があったことも事実なのであろうと思う。しかし、率直にいって、私は、歴史学者の一人として、「戦後日本の歴史学者が、卑俗な唯物論者が信じる物質万能の考え方をとって精神の研究を度外視しした」という梅原の一般論的断定はとても納得できない。ここには「すべては物質的利害によって左右されている→金で解決をつけろ。国家はすべて暴力だ→暴力で解決する」という唯物主義と、哲学および学術の方法としての唯物論の混同があると思う。哲学の方法としての唯物論には、物質の対象的存在の絶対性を承認し、それへの感性を何よりも重視する側面と同時に、物は人間とは区別された物にとどまるとして、商品や貨幣への呪物的な囚われを嘲笑し、その延長上にある国家や社会の暴力から自由になるという、強いて言えば素朴で「禅」的な側面の両者があると私などは考えてきた。
 もちろん、学術にあまりに世界観的な問題を持ち込むべきではないが、それらは相互に認め合うほかないし、それが可能な時期になっているのではないかと思う。ともかくも研究者に明らかなことは、第二次大戦後の学術世界は、このような議論をするための実績のある哲学者、つまり戸坂潤を獄中に失うところから出発したという事実である。戸坂には「唯物論はおけさほどにも広まらず」という川柳があるが、その獄死直前の日記には、ケーラス『仏陀の福音』、鈴木大拙『東洋的一』などの集中的な読書記録がある(『戸坂潤全集』第四巻)。もし戸坂が生き延びていれば、哲学と歴史学、そしてそれらと禅宗との関係もあるいは若干の変化があったかもしれないと思うのである。これは高校時代に戸坂を読むとともに大拙の『禅とは何か』を読み、円覚寺で(一日だけだが)座ったこともあるものとしての実感である。

2017年9月 3日 (日)

『老子』戸を出でずして世界を知る士のネットワーク(四七章)


 家を出なくても世の中の動きを知ることはできる。窓から外を窺わなくても天の通理を知ることはできる。遠くへ出かければでかけるほど、覚知(さとり)は少なくなる。こういう訳で、有道の士はそこへ行かないで状況を理解し、見ないで名をつけ判断することができるし、さらには無為にして事業を成し行うことができる。

不出戸、知天下、不窺(1)牖、見天道。其出彌遠、其知彌少。
是以聖人不行而知、不見而名(2)、不為而成。
(1)底本「闚」。河上公本により改む。(2)底本「明」。帛書により改む。

戸を出でずして天下を知り、牖(まど)を窺(うかが)わずして天道を見る。その出ずること弥いよ遠ければ、其の知ること弥いよ少なし。是を以て聖人は、行かずして知り、見ずして名づけ、為(な)さずして成す。

解説
 普通、この章は「真の知恵は、外に求める対象的・経験的な知識ではなく、己の心に本来足りている超感性的・超経験的な直感の英知であることを説明した」ものだとされる(【福永注釈】)。

 具体的には、「牖(まど)を窺(うかが)わずして天道を見る」というのは、自然界の動きをは自然の観察ではなく、科学的認識をこえたところで始めて真に認知することができるということになる。また「その出ずること弥いよ遠ければ、其の知ること弥いよ少なし」(遠くへ出かければ覚知(さとり)は少なくなる)とは、まずは「脚下照顧」(足下をみよ)だが、さらに足下よりも自分の内部を見よ、「見性成仏」という意味だということになる(【金谷注釈】)。

 老子の思想に、そういう直感と内観を重視する傾向があることは明らかだろう。戦国時代の厳しい時代環境の下で、老子が瞑想を好んだことは、ある意味で当然のことであったと思う。老子は、将来の社会を静かで落ち着いた社会として行く上で瞑想に決定的な意味を認めたに相違ない。私も、個々人が瞑想と内観をもっとも大事な経験としていくことは、歴史を越えて重要な意味があると思う。

 しかし、これらの解説では、老子が「対象的・経験的な知識」と「超感性的・超経験的な直感の英知」を画然と区別していたようにみえる。私には老子が、そういう二分法的な考え方をもっていたとは考えられない。『老子』には宇宙論から社会学にまでいたるような相当に広い「対象的・経験的な知識」が含まれている。『老子』の知性には一種の百科全書的なところがある。そして『老子』の特徴は、それと「超感性的・超経験的な直感の英知」が渾然一体となっているところにあるのではないだろうか。ここで「牖(まど)を窺(うかが)わずして天道を見る」とか、「出ずること弥いよ遠ければ、其の知ること弥いよ少なし」などといわれているのは、それを前提とした話であろう。窓から外を窺(うかが)わず、遠くへも行かないというのは、そういう自己の内面を前提とした一種の夢とみるべきものだと思う。

 また老子はたしかに窓から外を窺(うかが)うなどということはしなかったかもしれない。遠くへ旅行することもなかったろう。しかし、老子は戸外ででて、近辺の園地や田畠、さらには野山にでることは好んでいたはずである。『史記』がいう老子が「隠君子」であったというのは、まずは老子が田園主義者であったことを意味する。それは事実を反映していたに相違ないと思う。老子の瞑想が室内で営まれていたとはとても考えられないのである。少なくとも、老子の思想は、晴耕雨読の田園生活を理想とした東アジアの知識人に長く受け継がれていったことは歴史的な事実である。

 また老子はたしかに「隠君子」であったとしても、士大夫階級の間に相当数の知人をもっていたはずである。「有道の士」のネットワークである。その意味では、最終句の「聖人は、行かずして知り、見ずして名づけ、為(な)さずして成す」というのも、決して孤立した瞑想の生活を意味してはいないだろう。少なくともその晩年には、老子のネットワークは中国の各地に広がっていた筈である。それはいわば瞑想のネットワークであったから、そのネットワークがどのように営まれたかは今後も永久に分からないであろうが、彼らが集まって学び合ったということは考えにくく、それは学派のようなものではなかったろう。彼ら相互の交流は哲学詩という型式に規定されて自由分散で曖昧なものであったに相違ない。しかし、だからこそ、その伝搬は広く速やかだったのではないだろうか。思想の伝搬、意識の飛翔が物の移動より早いのは昔も今も同じである。

 晴耕雨読と瞑想のネットワーク。私は、これは現在でも東アジアの知識人に共通する夢なのではないかと思う。東アジアの知識人は、とくに一六世紀の世界資本主義の形成によるヨーロッパ帝国の地球席巻の中で、さまざまな悲憤慷慨を余儀なくされてきた。その中でも、この夢は根強く維持されてきたように思う。そして、この古くからの夢の一部は、現在、コンピュータネットワークによってなかば実現されつつある。人間は、世俗的な事柄を処理するための「外部脳」=電脳ネットワークを、肉体の外側に共有物としてもち始めている。いわば「瞑想」の物質的な条件としての電脳ネットワークである。そこに共同性の物質的な基礎を獲得し、人間社会が新たな連携と連帯を持つようになるということは、より主体的にいえば「瞑想」が明瞭な社会的な位置を占めていくということではないか。

 私たちは、コンピュータディスプレイという依然として不自由な「窓」を通じてではあるが、地球の全体を瞬時にみてとることができる人類的なネットワークを獲得している。「行かずして知り、見ずして名づけ、為(な)さずして成す」という老子の述べた知識や実践のスタイルもすでにまったくの夢ではなくなっている。

 こういう新しい条件の中で、今後、二一世紀に東アジアの知識世界の中にネットワークが張り巡らされていくことはほとんど必然であろう。私は、その場では『老子』をどう読むかが大事なテーマとなるに違いないと思う。それは紀元前から現代への東アジアの時間の流れを体感する上でもっともよい手段である。

2017年8月28日 (月)

「自(みずか)らを知る」ーー老子の強靭な意志(三三章)

「自(みずか)らを知る」ーー老子の強靭な意志(三三章)

 人と議論することは「智」だが、しかし、自分自身を知るためには心の内面を照らす「明(あか)り」、「明(めい)」が必要である。もちろん他者に勝つものには力がある。しかし、自らの弱さを見つめて最後まで克(たえ)ることこそが本当の強さだ。そして、気持ちに余裕があるものは豊かになることができるが、自分の弱さを見つめて最後に笑うものには志というものがあるのだ。境遇を保つことができた人は命が長いが、しかし死を懸けても志を忘れないものには祝福がある。

知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。
不失其所者久、死自不忘*者壽。
*底本「亡」。帛書による。

人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり。


解説

 「自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」という言葉はたいへんに有名な言葉である。たしかに、人生にとって「自分を知る」ということはもっとも大事なことだろう。それは誰にとっても一生の仕事であろう。

 「そんなことは分かっている」「もう自分のことは知っている」という訳で、本章は、平凡な人生訓に過ぎないもののように読み飛ばされてしまうかもしれない。しかし、実は、本章の語ることをそれを超えている。本章は、老子が「自らを知る」ということの意味を、その先に来るものとの関係で語った章である。実は老子は、ここで「明」「強」「志」「寿(ほぎうた)」という見通しのもとに人生の最後まで貫くべき強靭な意思について語るのである。

 最初の「人を知る者は智といい、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす」という対句は、『論語』の「衛霊公篇」が「知者は語るべき人を選び、無駄に『言』を共にすることはしない」と述べ、「堯曰篇」が「言語知識は知者の条件である」としたことへの批判である。老子は人と対論する知識よりも、自己と語り、「自(みずか)らを知る」という内面的な能力を「明(めい)」と称して人間に必須のものとするのである。

 次の「人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす」という対句も同じようなことである。他者に勝つ外面的な力についての老子の評価は低く、「自らに勝つ」内面的な強さを真の「強」であるとする。訳文ではこの「自らに勝つ」の「勝つ」の意味を明瞭にするために「克」という字で表し、「たえる」とルビをふった。普通、「勝」と「克」は区別されないが、克は「善くする。堪える。刻む」などの多様な意味をもっており、この文脈では「己に克つ」の「克つ」の字を使った方がふさわしい。そもそも現在では、『論語』(顔淵篇)に発する有名な「克己心」という言葉を「己に克(か)つ(勝つ)」と理解するのも、朱子学の読み間違いであることが確定している(小島毅一九九六)。老子の解釈に、これが残っているのはおかしいように思う(なお「克」の意味が堪えるであり、それは出来る(「克能」)という意味で「克(か)つ」となっていくことについては、五九章の解説も参照)。

 この「自(みずか)らを知る明(めい)」と「自らに勝((克))つ強(きよう)」は、実は五二章にも「小(しょう)を見るを明(めい)と曰(い)い、柔(じゅう)を守るを強(きょう)と曰う」と解説されている。「自(みずか)らを知る明(めい)」は「小(しょう)を見る明(めい)」に、そして「自らに勝((克))つ強(きよう)」は「柔(じゅう)を守る強(きょう)」に対応しているのである。五二章で、老子が、たとえば母子を中心とした家族のような「小」さく「柔」弱な世界を守るためには、この「明」と「強」が必要だとしているのも興味深いことである。老子は「智」や「力」よりも、「小(しょう)を見る明(めい)」と「柔(じゅう)を守る強(きょう)」を、内面的な能力として高く評価するのである。

 さて、次の対句、つまり「足るを知る者は富み、強を行うものは志有り」という対句についても、これまでと同じように、前半は評価が低く、後半は評価が高いはずである。それ故に、前半の「足るを知る者は富み」という部分は「強を行う志」にくらべて評価が低いということになる。もちろん、「足るを知る」ことは、老子にとって重要な知恵であるが、ここではそれを超える意思が表明されていることになる。「足るを知る者は富」の「富」が外面的なものとして評価が低いことからも、これが自然な解釈である。

 そうだとすると、「足るを知る者は富み、強を行うものは志有り」という対句は、右の現代語訳に記したように、「気持ちに余裕があるものは豊かになることができるが、自分の弱さを見つめて最後に笑うものには志というものがあるのだ」という意味になる。「足るを知る」とは形の内側に満ち足りてくるものを知ることであるが、この場合は内側を信頼できる、余裕があるということであろう。あるいは「足す(足し算する、計算ができる)」という意味もふくむかもしれない。これは老子の思想を「足るを知る」だけで理解する人には異様に聞こえるかもしれないが、これについては、「足るを知る」とは「欲望を抑える」ことだという普通の解釈に従えない理由も含めて、第四四章でもふれる。

 重要なのは、ここで「強を行う」ことが高く評価されていることで、この「強」が先の「柔(じゅう)を守る強(きょう)」であることはいうまでもない。老子は、その「柔(じゅう)を守る強(きょう)」を貫くことを「志」としているのである。たとえば【蜂屋注釈】はこの部分を取り上げて「前句の『強』(「自らに勝((克))つ強(きよう)」のこと、筆者注)は例外として『強行』や『志』の是認は老子らしくない。『強行』は『知足』の反対のあり方である(中略)、この句にはなんらかの誤りがある可能性がある」とするが、それにしたがうことはできない。ここでは「強」とならんで「志」が高く評価されていることは明瞭である。ここにいるのは「強」を「志」として実現する決意に満ちた老子なのである。

 以上、本章は対句を重ねて「明」「強」「志」という人生への直截な意思を語っている。これはこれまでの通説の理解を前提とすると『老子』の人生論のなかでは例外であるということになるが、しかし、むしろこれが『老子』の本質なのである。そしてそれを前提としなければ、最後の「その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり」(境遇を保つことができた人は命が長いが、しかし死を懸けても志を忘れないものには祝福があるいいい)という対句は理解できないであろう。【金谷注釈】は、この句を「最も難解」とするが、ここには一種のロマンが語られているとみるほかない。

 こうして、本章全体の趣旨は、自己の心は「小」にして「柔弱」であるからこそ、「小(しょう)を見る明(めい)」と「柔(じゅう)を守るを強(きょう)」を獲得できるのであって、その「柔(じゅう)を守るを強(きょう)」を行い用いる「志」が立ち、その「志」を死を懸けても忘れないものには「寿(ほぎうた)」があり、喜びがあるのだということになる。

 ここにみえる老子は、普通いわれるような「無為、知足、長久」(行動を控え、欲求をおさえて長命を願う)というイメージとは対極にある(なお、これまでの解釈でもっとも私案に近いのは、ここに人生的な意思の連続性を認める池田(二〇〇六)の見解である。念のために引用すると「人間が、最初に、人我(ひととわれ)を洞察する「智」「明」という認識能力を出発点に取り、人我に対して打ち勝つ「有力」「強」という能力を身につけた上で、それらの諸能力を駆って「富」「有志」という社会的に望ましい状態を経過しながら、最後に、持続と永遠を意味する「久」「壽」という理想の境地に到達する、というカリキュラムを述べる 」とある。ただ、これでは「智・明」「有力・強」「富・有志」「久・壽」が並列されていて、その内でも後者、つまり「明・強・志・寿」を高く評価する強調する対句が生きてこない憾(うら)みがある)。

 さて、話題が飛躍するようであるが、こういう老子の強さは、私にソクラテスを想起させる。よく知られているように、ソクラテスが激しい批判をむけたのはギリシャのソフィストであるが、いってみれば、孔子はソフィストの大家である。『論語』が「言語知識は知者の条件である」「知者は語るべき人を選ぶ」とか、「朋あり、遠くより方(まさ)に来たる。また楽しからずや」などというのは、孔子が議論の人、愛知のソフィストであったことをよく示している。本章で、老子が「自(みずか)らを知る」内面的な力、「明(めい)」こそが重要であるとして、孔子の言語的な「智」の考え方を批判したのは、ソクラテスがアテネのデルフォイ神殿に刻まれていたという「汝自身を知れ」を重視し、ソフィストに対して自己の「無知」を強調したことに似ているように思う。二人がほぼ同時代の存在であったことの意味を解くことは、ヤスパースがいうように世界史の理解にとって決定的な意味をもっていると思う。

2017年8月27日 (日)

『老子』六九章。平和を望んでも戦争を仕掛けられたらどうするか。

 兵法に、「向こうから仕掛けさせて応戦するだけにし、相手が一寸でも攻めてきたら十倍は退く」という格言がある。進軍していても隊列はみえず、威嚇するけれども臂はみえず、武装していても兵器はみえず、攻撃していても向こうにとって敵はみえないというゲリラ戦法である。これを逆に言えば、国にとっての禍(わざわい)は無敵の軍隊をもってしまうことにある。無敵になると、それは宝を失うのとほとんどかわらない。宝は悲哀である。だから「兵を出して闘いあうときには、結局、惨酷な目に哀しんだ経験が深い方が勝つ」というのだ。

用兵有言。吾不敢為主而為客、不敢進寸而退尺。
是謂行無行、攘無臂、執無兵、扔無敵(1)。
禍莫大於無敵、無敵(2)幾喪吾寶。故抗兵相加、哀者勝矣。
(1)底本「扔無敵、執無兵」。帛書により改む。(2)底本「軽敵、軽敵」。帛書により改む。

兵を用うるに言有り。吾れ敢(あえ)て主と為らずして客と為り、敢て寸を進まずして尺を退く、と。是れを謂うに、行くに行(れつ)なく、攘(かか)ぐるに臂(ひじ)なく、執(と)るに兵なく、扔(むか)うに敵をなし、と。禍(わざわい)は無敵なるより大いなるはなく、無敵ならば吾寶を喪うに幾(ちか)し。故に兵を抗(あ)げて相(あ)い加(し)かば、哀しむ者勝つ。

解説

 アーシュラ・K・ルグィンは、本章について「合気道や地下抵抗運動、そしてゲリラ戦などへの、したたかな戦術的アドヴァイスである」としている

 しかし、日本の注釈書は、ほとんど、本章を一般的な非戦論の延長で訳してる。たとえば古く【武内注釈】は、本章を「用兵者の言に吾は挑戦者とならずに応戦者となり、寸を進まんよりはむしろ尺を退かんいうが、これは争う意のないことを述べたものである。争う意のないものは行陣すべきところもなく、攘(はら)うべき臂もなく、執るべき兵器もなく、また争うべき敵もなしというのである」と要約している。現在までの注釈は基本的に、これと同じである。

 たださすがに【福永注釈】は「主と為らずして客と為り、敢て寸を進まずして尺を退く」という部分をとって、自衛の戦争で有り、わずかな前進ではなく大きく退却することを重んじるのは猪突しないゲリラ戦法などもその一つと指摘しているが、十分に明瞭ではない。

 問題は、二行目の「是れを謂うに、『行くに行(れつ)なく、攘(かか)ぐるに臂(ひじ)なく、執(と)るに兵なく、扔(むか)うに敵なし』、と」という部分の解釈である。上記の試訳では、進軍する隊列はみえず、威嚇するが実態はみえず、武装しも兵器はみえず、どこから攻撃されているかも分からないというように、ゲリラ戦法であることを明瞭に訳した。

 これまでのような解釈では、結局、老子は明瞭な軍略はもっておらず、抽象的な精神論になっているということにならざるをえない。これは前項において、「相手に勝つためには、つけあがらせ、強気にならせ、それに乗ずることが上策だ」と述べた老子の軍事思想としてふさわしくないのではないか。また本章末尾に、「兵を出して闘いあうときには、結局、惨酷な目にあった悲哀の経験が深い方が勝つのだ」とされているのともそぐわないのではないだろうか。私には、老子が、そのような抽象論を立てるとは考えられないのである。

 老子の軍事思想が決して抽象的なものではないからこそ、結論部分の「国にとっての禍(わざわい)は無敵の軍隊をもってしまうことにある」という断言が説得力をもつのではないかとおもう。そして、最後の「兵を出して闘いあうときには、結局、惨酷な目に哀しんだ経験が深い方が勝つ」という部分は、書き方からすると一種の格言として流通していたようであるが、その意味も深いものがあるように思う。

 これは日本国憲法の平和主義をどう考えるかということにも関わる。
 外交を基本にしつつ、戦争をしかけられた場合にどうするかという問題は現代世界では、国連があるという点でまったく状況は異なっている。また日本の場合は憲法に平和条項、軍隊不保持の条項があり、しかも実質上の軍隊としての違憲の自衛隊があるという複雑な状況がある。
 現在まで、国連および9条を駆使した外交戦略がとられていないという状況の中で、「万が一戦争を仕掛けられたらどうするか」という問題を純粋に取り出して議論することも難しい。何よりも国連および9条を駆使した外交戦略をどう取るかということを中心に議論することを先行させるのが自然だからである。
 
 しかし、それでも戦争を仕掛けられたらどうするかという問題はある。これは老子のいう自衛戦争の法式、ゲリラ的戦法をとるということではもちろんなく、確実な法式は可能であろうと思う。それは老子の思想の問題ではなく、現代の問題である。しかし、老子の平和思想(および軍事思想)を確認しておくことは無意味でないと思う。つまり、いうまでもなく、老子は私たちがいる東アジア世界における最大の思想家の一人だからである。今から2500年ほど前から、こういう議論があったというのを知るのは無意味ではないだろう。

2017年8月22日 (火)

『老子』77章。天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず

天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず
 アーシュラ・K・ル・グィンを読んでいたら、ルグィンの基本にあるアナキズムは老子に由来するのだと自分で書いていた。本章は、福永光司氏も無政府主義という。
 老子が無政府主義かどうかは別にして、本章は、そういう老子の政治政治思想を考える上では決定的な位置にあるもの。馬王堆からでた帛書によって「天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず」と読み下すのが私見。これまでの読みとは違う新説だが、ほぼ自己納得ができたので、掲げます。

 天地自然の法則は弓を張るように動く。つまり弓を張るには、力が余って高くなってい部分を押し、両端(はし)の下がっているところが挙がってくるようにする。多いところは減らし足らないところは補う。これと同様に人間社会における天下の公共の道は有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが、現在の社会の理屈は不足の者から削って余り有る者に奉らせる。有り余って有るものを取り上げて天のもの、公共のものとして使うように、誰かが動かねばならない。これは道にある者がするほかないことだ。こうして大人は行動にでるが、手柄顔をせず、功をあげてもその地位に居座らない。おのれの賢(えら)さを示そうとはしないのだ。

天之道、其猶張弓也(1)。高者抑之、下者挙之、有餘者損之、不足者補之。
天之道、損有餘而補不足。人之道則不然。損不足以奉有餘。
孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎(2)。
是以聖人為而不恃、功成而不処。其不欲見賢。
(1)底本「興」。帛書により改む。(2)この行、帛書による。

天の道は、それ猶お弓を張るがごときなり。高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う。天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う。人の道は則(すなわ)ち然らず。足らざるを損して以て有り余るに奉ず。孰(だ)れか能く有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ずるものぞ。唯有道者のみなるか。是を以て聖人は為(な)して恃まず、功(こう)を成して処らず。其れ賢(けん)を見(あら)わすを欲せず。

解説
 天の道理は弓を張るように動くという場合の、弓はどうはるかについては、四〇章の解説ですでにふれた。「繁弱の弓」などの戦国時代で名高い豪弓は弦を張らない時には強く反り返って逆向きに湾曲した状態になっているので、弦を張るときには弣(ゆづか)(真ん中の部分)を上から押しつけ、両端の弭(低い部分)が自然に持ち上がったところに弦を掛けるという。これは四〇章に述べられた老子の宇宙論の文脈では、「天の道」は上から押さえつけられた弓が下から反発するという「上下=天地」の緊張の中にあるという意味であることは解説した通りである。本章ではそれが「高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う」とも説明されている。

 それが二行目でも「天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う」と繰り返されるのだが、この二番目の「天の道」は天地自然の法則ということではなく、人間社会におけるあるべき公理という意味である。いわば天下公共の道である。通理という自然が人間社会にも通ずる道理であるとされることで、。これと同様に人間社会におけるは有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが「人の道」、人の作為が重なってできてきたやり方は、そうではない。それは足らないところを減らして、有り余ったところに奉ずるというまったく逆転したやり方であるということになる。

 こういう状況は「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」、つまり、有り余って有るものを取り上げて、天のもの、公共のものとする行動を要求しているというのが老子の判定である。

 管見の限りで、こういう解釈は本書が初めてであるが、その事情は、この部分のテキストが帛書では「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることが分かり、それによって本来のテキストが確定して上記のような読み下しが可能となったためである。これまでは「孰(だ)れか能く有り余りて以て、天下に奉ずるや。唯(た)だ道ある者のみ」などという従来からのテキストによって解釈されており、それにもとづいて「どんな人が、あり余っているものによって世の中に奉仕するだろうか。ただ道を身につけた者だけがそうするのだ」(【蜂屋注釈】)と解釈されてきた。これだと、道を身につけた者で余剰をもっているものは世の中にそれを拠出するという意味になる。これによって一種の慈善や社会事業への協力と理解されてきた訳である。

 しかし、問題は、帛書のテキストが「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることがわかっても、発見(一九七三年)の後、現在まで四五年近く、これがほぼ同じ意味で解釈されてきたことである。それは帛書のテキストが「孰(だ)れか能く余り有りて以て天に奉ずるを取ることある者ぞ。唯(た)だ道ある者のみならんか」(【池田注釈】)などと読み下されてきたためで、これによって従来と同じ余剰の拠出という解釈が維持されてきたのである。私は、これは「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」と読むべきだと考える。こうして、老子は、「有り余るもの」から余剰を取って天下公共に振り向けるという再分配の思想をもっていたということになるのである。これで読みは明瞭になるであろう。

 本書では、従来の注釈書の解釈に踏み込んで私見との相違を解説するという作業は基本的に省略してあるが、この問題は重大なので、以上、やや詳しくふれた。

2017年8月18日 (金)

『老子』政治に関わって天下の公共のために働くということ

善の徳はつつましやかに始まって無限の負担となる(『老子』五九章)

政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ。これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれる。人々が早くから服いてきてくれれば、その善の徳(いきおい)を重ねて積んでいくことができる。善の徳(いきおい)を重ねて積んでいけば、克(たえ)られないことはなくなる。克(たえ)られないことがなくなれば、善の徳は極限がなくなる。極限がなくなるまで克(たえ)ていけば、初めて国を守ることができるのだ。国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ。これを四方に根(旁根)を深くはり、主根(柢)を固くするという。そうすれば、長生きをして見るべきものを見ることができる。

治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以(1)早服。早服、謂之重積徳。重積徳、則無夫克。無不克、則莫知其極。莫知其極、可以有国。有国之母、可以長久。
是謂深根固柢。長生久視之道。
(1)底本「謂」。帛書により改む。

人を治(おさ)め天に事(つか)うるは、嗇(しよく)に若(し)くは莫(な)し。夫(そ)れ唯(ただ)嗇(しよく)なり。是(ここ)を以(もつ)て早く服(ふく)す。早く服する、之(これ)を重(かさ)ねて徳を積むと謂(い)う。重ねて徳を積めば、則(すなわ)ち克(たえ)ざる無し。克(たえ)ざる無ければ、則ちその極を知る莫(な)し。その極を知る莫ければ、以て国を有(たも)つべし。国の母を有てば以て長久なるべし。是(こ)れを根を深くし柢を固くすという。長生久視(ちようせいきゆうし)の道なり。

解説
 「人を治(おさ)め天に事(つか)うる」を「政治に関わって天下の公共のために働く」と訳した。「人を治(おさ)め」とは士大夫としての責任をいうのであろうが、一般的にいえば政治ということであろう。また「天に事(つか)うる」について、これまでの注釈は天帝・天神の祭祀をするという意味が、老子の天はそのようなものではない。天下の公共という意味であろう。

 その条件は、つつましやかな生活(嗇)を送ることだというのは、現在でもあてはまるような原則であろう。老子は、これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれるという(服には「むつむ」「満足させる」「得る」「つける」などの意味がある)。そしてそれによって天下の公共に奉仕するという善の意思の徳(いきおい)を蓄積することができるという。それがあれば何にでも克(たえ)らることができるが、義務は無限に広がっていくというのが老子のいうことである。この「克」は、普通、「何にでも勝つことができる」と翻訳されるが、克は「善くする。堪える。刻む」などの多様な意味をもっており、老子に「克=勝つ」は相応しくない。そもそも現在では、『論語』(顔淵篇)に発する有名な「克己心」という言葉を「己に克(か)つ(勝つ)」と理解するのも、朱子学の読み間違いで、「己をちぢむ」と訳すべきであることが確定している(小島毅)。老子の解釈に、これが残っているのはおかしいように思う。そもそもそれでは本章の意味は通らないのである。

 本章は、こうして、天下の公共に関わることは、進めば進むほど、堪えるべきことと、なすべきことは無限に増えてくることだと述べる。そしてそれを極限まで辿ることが国を守ることだと論ずるのである。

 以上、従来の解釈とは大きく異なっているが、このような読みの根拠となったのは、「徳」という言葉がもっている「いきおい、はたらき」という語義である。本章は、政治との関わりがもたらす無限軌道のようなものを、「徳」を積み重ねるというのはどういうことかを中心にして論じているのだろ思う。そういう観点から考えると、本章の実際の結論となっている「国の母を有てば以て長久なるべし」という言葉は「国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ」と訳せるであろう。老子にとって「徳」という言葉は、その人々を養う徳(はたらき)にそって、どうしても母性的・女性的なニュアンスを含むものになるらしい。これも、本章を「徳」の語義を中心に読む理由である。

 冒頭の「政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ」というのは、日本の政治家、とくに現在、そのトップにいる政治家にいいたいことだ。

 『老子』のいう「天=公共」というのは示唆深い。

 若い人たちが作った「未来のための公共」という言葉に通ずるように思う。

«『老子』王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)