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2017年6月24日 (土)

『老子』六三章。こういうものに私はなりたい。雨にも負けず

 昨日やった『老子』の六三章である。
 
 私はフランスの東洋学をまったく知らないが、 M. カルタンマルクの『老子と道教』(人文書院)がいい。分かりやすく、老子から道教への接続の具合がいい。ヨーロッパ神秘主義の論理で、老子と道教を読むからであろう。さすがにアンリ・マスペロの遺稿をまとめたという学者だけのことはある。

人文系の学問にとって第二次世界大戦が忘れられないのは、要するに先輩が戦争によって殺されて研究史の空白ができたからだと思う。フランスでマルク・ブロックとアンリ・マスペロがナチスに殺されなかったら、研究状況はまったく違ったろう。日本でも歴史家は沢山死んだ。人文科学は人間のなかに蓄積されるほかないから、衝撃が大きいのだと思う。
 
 マスペロの『道教』の翻訳を川勝義雄氏がしているのに気づいた。私は、谷川道雄・川勝義雄で中国史の勉強をしてきたのに、いままで道教を意識していなかったことが、ここに現れている。

 道教の問題に興味を持ち始めたのは、浙江大学の王勇先生に、「日本の歴史家は、なんで神社の研究をしないのか。神社の人々と親しくしているということを聞くと、日本の歴史家は身構えてしまい、一緒に仕事をしようとしたない人が多い。こういうことで本当に東アジア史を研究する気があるのかどうかが疑問だ。中国の道教と日本の神道は、違うものだが似ているところも多い。あなたはおかしいと思いませんか」と真顔で詰められて以来のことである。

 たしかに道教の問題は歴史家としては、結局、日本の神話および神道というものを、東アジアと日本の文化のなかにどのように正統なものとして位置づけるかに関わっていると考えている。いまのままでは神社と学問の関係はきわめて細いものになっている。これはよいことではないと思う。

 以下、昨日の仕事。
 

いつも無為な状態をめざし、無事を目標として、変わった味を味あわないようにしたい。他者に対しては、小さいものには大きいものをあたえ、少ないものには多いものをあたえ、さみしい怨みの気分にはやわらかい徳(いきおい)をあたえてあげたい。仕事はやさしく見えることの中に困難を見届け、些細なことの中に問題を発見するようにできればいい。社会の困難は細部に原因があり、大問題は些細なことに宿っている。だから哲人は問題を大げさに論ずるのを避け、しかし、よく大きな問題を解決することができるのだ。安請け合いすれば信頼は生まれないし、基礎的な問題を安易に考えていると困難に圧倒されるだけが立ちふさがる。哲人は社会の困難を深く分析し、困難を無為・無事に乗り切ることをめざす。

為無為、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳、図難於其易、為大於其細。
天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不為大、故能成其大。
夫軽諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難矣。

無為(むい)を為し、無事を事として、無味を味わう。小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳(はたら)きを以てす。難きをその易(やす)きに図り、大なるをその細(ちい)さきに為す。
天下の難事は必ず易きより作り、天下の大事は、必ず細さきより作る。是を以て聖人は終に大を為さず、故に能くその大を為す。
夫れ軽がるしく諾せば必ず信寡(すく)なく、易しとすること多からば必ず難きこと多し。是を以て聖人は、猶おこれを難しとす。故に終に難きこと無し。


解説
 老子のいう無為とは、しばしば「何もしないこと」「無理をしないこと」「行動を控えること」と理解される。しかし、ここに「無為をなす」とあることは、無為が一つの行為であり、目標であることをよく示している。水上を行く水鳥が静止しているようにみえながら、実は足を動かしているようなものである。

 個人として「無為・無事・無味」であることを目標とするというのは、宮沢賢治のいう「デクノボー」の境地であろう。「雨にも負けず」のいう「ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイフモノニワタシハナリタイ」である。たしかに老子の人生哲学は、それを最終目標として生きるための方途を組み立てようとしたものにみえる。

 その第一が「小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳(いきおい)を以てす」という他者への姿勢である。この句に共通するのは他者から受けたものに対して、より善いものをあたえ返すということなので(福永)、「小さいものには大きいものをあたえ、少ないものには多いものをあたえ、さみしい怨みの気分にはやわらかい徳(いきおい)(励まし)をあたえてあげたい」と解釈した。これを読んでいると老子は「善意の人」であるという感じがする。

 ただ注意していただきたいのは、この「徳」という字に「はたらき・恵み・いきおい」などの訓読みがある。この字は、普通は儒教の意味での仁義・品格・節操というような意味であるが、老子の場合は「はたらき」という意味が強い。それ故に、この一節は決して「仁義に満ちた仁愛の恵みをあたえる」というようなことではなく、とくに女性的な「はたらき」「いきおい」を意味する。

 この女性的な「徳」の問題は別の主題となるが、ここでは「徳」の字の意味を説明しておくと、その原型は「彳」と「省」をあわせた字。「省」は「眉」の類字で、その古い字形(金文)からもわかるように、目の上に呪飾りを加えた形で、呪力を持った巫女の目をいう(『字統』)。つまり女性の目のもっている「魅力」の自然な働きが「徳(いきおい)」「徳(はたらき)」ということになる。ようするに「さみしい怨みの気分にはやさしい徳(はたら)きをあたえてあげたい」ということになる。

 次は仕事のやり方についての考え方で、「難きをその易きに図り、大なるをその細さきに為す」というのは、初歩的なことの難しさこそをよくつかむということであって、大問題も細かな問題に解析して一歩一歩処理するということになる。これは常識的な人生訓であり思考法であるが、上述のような他者への姿勢と一緒に、これを実践するには相当の修行が必要なことはいうまでもない。

 老子の人生訓が重要なのは、その先に「天下の難事」「天下の大事」を見据えていることである。この天下については、蜂谷が『老子』に出現した「天下」をほとんど場合に「世の中」「世の中の人々」などと訳していることが参考になるだろう。ようするに天下は「社会」という意味なのである。『老子』は、この「天下=社会」というものの観察で満ちており、『老子』はその意味では社会観の書なのである。

 そして、本章からもはっきりするのは老子は人生訓というものは「社会」の中で考えるほかないという立場をとっていることである。これについては、老子は社会というものは個々の人間という小さな場から見通さなければならないことを直感しているように思う。以下は現代語訳に譲るが、これを読んでいると、老子は、「善意の人である」とともに「正論を言う人」であると思う。

2017年6月21日 (水)

学問などやめて、故郷で懐かしい乳母と過ごしていたい

さいきん、やってる『老子』、これは二〇章です。みにつまされます。

 学問をやめることだ。そうすれば憂いはなくなる。だいたいこの問題の答えが正しいのと間違っているので現実にどれだけの違いがでるか。文章の美と悪の間にどれだけの相違があるか。人の畏れることは畏れない訳にいかない。しかし、学問をやったって茫漠としていてはっきりしないことばかりだ。

 衆人は嬉々として、豪勢な肉料理の饗宴を楽しみ、春に丘の高台に登るような気分でさざめいている。私は一人つくねんとして顔を出す気にもなれない。まだ笑い方も知らない嬰児のようだ。ああ、疲れた。私の心には帰るところもないのか。みんなは余裕があるが、私だけは貧乏だ。

 私は自分が愚かなことは知っていたが、つくづく自分でも嫌になった。普通の職業の人はてきぱきとしているのに、私の仕事は、どんよりとしている。彼らは敏腕を振るうが、私の仕事はもたもたしている。海のように広がっていく仕事は恍惚として止まるところがない。衆人はみな有為なのに、私だけが頑迷といわれながらも田舎住まいを続けている。だが、私には、ここにいて小さい頃からの乳母を大事にしたいのだ。

絶学無憂。唯与訶*、相去幾何。美**与惡、相去何若***。人之所畏、亦不可以不畏。恍兮其未央哉。衆人熙熙、如享太牢、如春登臺。我独泊兮未兆、如嬰児之未孩。累累、若無所帰。衆人皆有餘、而我独遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我獨若昏。俗人察察、我獨悶悶。惚兮、其若海、恍兮若無止。衆人皆有以、而我独頑似鄙。我欲独異於人、而貴食母。
*底本「阿」。帛書による。**底本「善」。帛書による。***底本「若何」。帛書による。

学を絶てば憂い無し。唯(い)と訶(か)と、相去ること幾何(いくばく)ぞ。美と悪と、相去ること如何(いかん)。人の畏(おそ)るる所は亦た以て畏れざるべからず。恍(こう)として其れ未(いま)だ央(つく)さざるかな。衆人は熙熙(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如く、春に台に登るが如し。我れ独り泊(はく)として未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如く、累累(るいるい)として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るも、我れ独り遺(とぼ)し。我れは愚人の心なるかな、沌沌(どんどん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たるも、我れ独り昏(こん)たるが若し。俗人は察察(さつさつ)たるも、我れ独り悶々(もんもん)たり。惚として其れ海の若く、恍として止まるところなきが若し。衆人は皆な以(もち)うる有りて、我れ独り頑(がん)にして以って鄙(ひ)なり。我れ独り人に異(こと)なりて、食母(しょくぼ)を貴ばんと欲す。

解説ーー知の鬱屈

 最後の「食母(しょくぼ)を貴ばん」を、普通は、食母を「道」の象徴と理解して「学問を絶っても万物を育む道を母として大事にすることは変わらない」などと訳す。しかし、そういう負け惜しみのようなことをいっては詩にならない。これは夏目漱石の『坊ちゃん』にでる乳母の清(きよ)と同じで、老子にも大事にしている乳母がいたとみた方がよい。
 この章は老子というのが、どういう男なのかを伝えてくれる章で、私は、自分が学者だからかも知れないが、もっとも好きなところである。この章からすると、春秋戦国時代には確実に知識人の生活というものがあるようになっていて、学問をすることを一つの職分とみるようになっていたことが分かる。
 
 何よりもよいのは、学問をするものの誇りや自嘲や鬱屈という、今でも私などには親しい心情のあり方が語られていることで、学問なぞは、自由な生の造形を抑圧し、窒息させるだけではないか。何の役に立つものか。去れ、去れ、歴史学のぼろ切れめ、という訳である。しかし、このようにはるか過去の人間の本音を時を隔てて確かに聞き取ることができるというのは、歴史学に独自の愉悦であることも自覚させられる。

 老子には、陶淵明の「帰去来兮辞」と同じ田園主義の最初の現れがある。「帰去來(かへりなん)兮(いざ)、田園 將に蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる、既に自ら心を以て形の役と為す、奚(なん)ぞ惆悵して獨り悲しむ」という例の詩である。漱石の『坊ちゃん』には、老子や淵明の感傷が生きていたが、それ以降、日本では田園主義らしい田園主義はなくなってしまったように思う。それは文化として必要なものではないかと思うようになった。

2017年6月20日 (火)

アリストファネスの「鳥」の語る宇宙生成の物語はつぎのようなものである。

アリストファネスの「鳥」の語る宇宙生成の物語はつぎのようなものである。

「はじめに混沌があり、さらに夜と幽冥と黄泉があった。しかしまだ大地も下空も蒼穹もなかった。その幽冥の果てに黒い翼の夜が一人で卵を産んだ。その中から生まれたのが金色の羽をもつ愛であって、これが広い黄泉のなかで暗澹とした翼をもつ混沌との間に多くの鳥たちを儲け、この鳥たちが最初に光りに出会ったのである。こうして愛があらゆるものを交わらせる前には不死の神々もいなかった。愛によって蒼穹も大洋も神々の族も生じたのだ」
『初期ギリシャ哲学者断片集』

2017年6月17日 (土)

今日は千葉の朝日カルチャーセンターで「日蓮聖教紙背文書と千葉の町・村」という講演。以下が要約

 今日は千葉の朝日カルチャーセンターで「日蓮聖教紙背文書と千葉の町・村」という講演。以下が要約
 はじめに
  中山法華経寺の所蔵する日蓮上人筆の聖教は、書状などの反古を裏返してノートに仕立てて執筆された(総通数一一七通)。
(1)『双紙要文』、文永六年(一二六九)頃、四三通
(2)『天台肝要文』、文永六年(一二六九)頃。三八通
(3)『破禅宗』、文永一二年(一二七五)。八通
(4)『秘書要文』。正元二年(一二五九))二八通
『千葉県史』資料編中世2所収
これらのうち宛先が分かるもの四〇通。うち富木氏に宛てたもの二三通。その殆どが、日蓮の外護者。中山法華経寺の開基の檀那であり、下総国守護であった千葉氏の吏僚。富木常忍。日蓮側近の活動が分かる。
用紙として日蓮に渡されなければ失われてしまったような日常的な手紙であるだけに、逆にきわめて価値が高い
 
 千葉の町と村について12・13世紀の状況を話す。末尾の論文によって一応の全体像を話した。
 

 率直に言って千葉県や千葉市は、は歴史文化や自然環境保護に冷淡である。生活しやすい町を作る上でも問題が多い。市史の通史編さえない。千葉は房総と三浦と東京湾岸をつなぐ重要地域だが、都市計画が本当にひどい。
 いつもサイクリングにでかける自転車道を通るたびにそう思う。

 以下は最後の結論部分
①歴史的景観
  猪鼻山からの景色は富士が見え、港がみえる景勝の地であった。歴史学からいうと、「猪鼻城」なるものは無意味であると同時に、「港の見える丘・聖地」という基本的なイメージを曖昧にする有害なものということにある。

 日本の各地に立てられている城は、第二次世界大戦後、歴史的景観を破壊し、無秩序な乱開発を行ってきた日本史上、もっとも非文化的な歴代政府の象徴である。これが歴史学者共通の意見です。

 千葉市の景観を部分的にでも復元する都市計画を、今後、考える上で、日蓮聖教紙背文書の位置は大きい。歴史を学ぶことは景観と自然の現状と将来への展望を考えることである。今が最後の機会かもしれない。

②千葉荘の町と村の両方が分かる。
 日蓮聖教紙背文書は、千葉けん千葉市にとって書くことのできない歴史的文化財である。領主=千葉氏、地主=寺山殿、百姓=橘重光(相当に有力)。普通、これまでは東国の百姓は、こういう自立性をもっていないと考えられる場合が多かった。そんなことはないということになる

 考古学的な分析、発掘・調査によってさらに具体的に地域の状況を知っていく必要がある。梁瀬裕一は「住民の姿などの具体的な中世千葉の解明は今後の課題である。そのためには、現市街地の下に埋もれている中世都市千葉の発掘調査が、是非とも必要であることを強調しておきたい」とする。
 
③アーカイヴズについて
 これは偶然に残った文書である。しかし、宗教文化財がいかに重要であるか。大事なものと考えることによって残ってきた。これらの文書は、中世の千葉県の社会の実態を知るために、きわめて興味深い文書である。全国的に希有な文書といってよい。
 過去の歴史はわからないことが多い。それはまずは昔の社会が(現在と同じように)あわただしく経過していたためである。これだけ苦労する。しかし、すでにそのようなあわただしい歴史の作り方は許されなくなっている。過去をよく知ることが未来の前提である。日本社会は乱開発が普通であるとともに、アーカイヴズが存在せず、遅れた非文明的な社会。
 現在の社会の歴史の情報を一〇〇年後、一〇〇〇年後の人に伝える。その覚悟をもって国家社会を運営すること。それによってすべてを白日の下でみること。これを躊躇してはならない。


 参考文献。
 梁瀬裕一「中世の千葉町」(野口実編『千葉氏の研究』名著出版)。同「中世の千葉 ~千葉堀内の景観について~」(『千葉いまむかし』第13号)。

 保立道久「日蓮聖教紙背文書、二通」(一九九一年、後に野口実編『千葉氏の研究』名著出版)

『千葉市源町遺跡群』発掘報告書(二〇〇一年千葉市文化財調査協会)梁瀬裕一執筆

2017年5月 3日 (水)

憲法的価値と未来社会

憲法的価値と未来社会

 憲法記念日なので、自分の心覚えのためこれは、2011年9月6日の記事ですが、憲法記念日なので、自分の心覚えのためもあって再掲します。
 率直にいって、自己の不明をはじますが、私は、これを書いた頃から憲法のことを真剣に考え始めたように思います。
 ともかく、憲法というものは、これを前提に政府が組織され、また平均的な社会的合意のレヴェルを代表している訳ですから、もちろん、違う意見があったとしても、十分に読んでおきたいと考えています(今はアメリカ憲法との比較読みに興味をもっています)。


 未来ということを考えた場合、私たちには、憲法があります。私は、いわゆる戦後のベビーブームの世代ですので、知らず知らずに憲法を、社会の未来、その理想を述べたものと考えることに馴れてきました。

 私などがそういう世代の最後に属するのかもしれませんが、いまの子供たちをみていると、私たちがともかくも「未来」「理想」を社会的に承認されたものとしてもてたというのは幸せであったと感じます。

 社会が理想を承認しているというのは、ぎゃくにいえば自己のいる社会への肯定感をもてるということです。もちろん、この肯定感の維持は憲法自身がいうように「不断の努力によって実現するほかはない」ということですが。

 日本国憲法には13条・14条に「個人の尊重と特権の否定、法の下の平等」、そして25条から28条に社会的な生存・教育・勤労の権利・義務が規定されています。これは個人権と社会権の基礎です。私は、このことの意味は重大だと考えます。これによって社会の理想はほぼ尽くされているからです。社会の理想というのはそれほど複雑なものではなく、単純なものです。

 もちろん、個人権と社会権を媒介する実態的な領域は、所有と財産権にあります。社会の構成のされ方の中心は所有と財産権にありますから、未来社会論ということになれば「所有」の実態がどうであるかが基本問題です。しかし、これも憲法26条の財産権の不可侵と「公共の福祉」による制約という規定が重要です。この財産権の不可侵と公共の福祉による制約の関係、つまり憲法上の制約が財産権の内容の構成にどこまで踏みこんでいるかは議論がありえますが、しかし、私は法的な規定としてみれば、財産権それ自体は本源的には不可侵のものとされなければならないのは当然のことであると考えます。

 そして、ぎゃくにいえば、財産権の不可侵と開放性は、かならずしも二律背反ではないでしょう。財産の開放性は私的権限の制約をふくみます。この点でも、基本的には日本国憲法は、未来社会論を考える上での必要な規定を揃えていると考えています。少なくとも子どもを前にして未来を語る分には、これで十分です。国の憲法を理想として語ることに何も制約はありません。

 もう一つ、個人権と社会権を媒介するより精神的な領域については、19条から21条に規定された思想・信条・表現の自由が規定されています。これも未来社会論を考える上で重要であることはいうまでもありません。私は、そのうちでも決定的なのは、表現の自由、広い意味での情報の自由であると考えます。これは社会的情報の共有化の原則につらなります。これは、この情報共有化原則は、現代の情報革命が社会的情報の私的所有を許容しないという傾向をもっていることに対応させて考えることができます。

 このように憲法は、個人権と社会権を規定した上に、さらに所有の不可侵と制約、情報の自由と公開原則を規定しているということになりますと、私は、少なくとも条文のみみれば、これは未来社会の社会構成の原則とほとんど区別はつかないと考えています。ワイマール憲法以来、世界各国の憲法で実現されてきた、このような憲法原則は、未来社会を考える上での憲法的合意となっています。それは未来にむけた社会の変革を考えていく上で、根本的な意味をもっているものと思います。これはロシア型の国家社会主義とは根本的に異なるものですが、一つの社会主義原則と考えてよいものだと思います。

 私などの考え方では、基本的には日本国憲法の原則は、社会の未来を、広い意味での「社会主義」と考えることになっているということです。これはフランス革命の「自由・平等・博愛」のスローガンが最初からもっていた傾向でもあります。エンゲルスは、社会主義について『空想から科学へ』という論著を出していますが、これをもじっていえば、未来社会論としては、すでに『空想から憲法へ』という時代になっていると思います。

 20世紀の歴史は、スターリンや毛沢東による犯罪的な国家共産主義によって非常に暗い道への迷い込みがありました。これは帝国主義や軍国主義の犯罪性や暗さ、あるいはナチズムや大東亜共栄圏のもった暴力の暗さより、考えようによっては、さらに暗いものです。「われ人生の半ばにして小暗き道に踏み入りぬ」という訳で、それは地獄への道でした。ソ連圏を中心とした二〇世紀の自称「社会主義」国家が、実際上、全体主義国家の一類型に過ぎなかったということは曖昧にできることではありません。私は、二〇世紀の自称社会主義は、国家によって総括された集団的所有が重層的に構成する社会、一つの独特な階級的・敵対的な社会構成であったと考えています。

 しかし、それだけに、「社会主義」自身については、社会の理想については逆に真剣に考えざるをえないはずです。

 日本国憲法13・14条は個人的所有の保障と特権的所有の否定です。また15条は公務員の任命・罷免権をうたったもので、特権的門地の否定と通ずる規定です。「国家階層制を完全に廃止して、人民の高慢な主人たちをいつでも解任できる公僕とおきかえ、見せかけの責任制を真の責任制とおきかえた」というパリコミューンについてのマルクスの評価に通ずるものがここにはあります。

 そして、25条から28条の規定は、教育をふくめ社会的な労働の尊厳に関わるもので、これは28条の勤労者の団結権をふくめて広く考えれば、労働の具体性・専門性にもとづくアソシエーションを社会のもっとも重要なシステムとして位置づけるということになっていると思います。

 日本国憲法にはさらに「戦争放棄」の規定があり、これが民族と国際性に関わる原則としてきわめて重大であることはいうまでもありません。

 私は歴史学者ですので、こういう憲法の許容する未来社会構想からふり返って、過去の世界、つまり歴史的な社会構成を考えるということがあってよいと思います。

2017年4月30日 (日)

日本史の30冊。武田清子『天皇観の相剋』

武田清子『天皇観の相剋』(岩波書店現代文庫、2001年、初出1978年)

 現代日本における天皇のあり方は国内的な政治によってきめられたものではない。終戦時の国民の力量は、実際上、天皇の位置のような国制問題についてイニシアティヴを発揮できるようなものではなかった。やはり天皇の位置はアメリカによって作られたものである。

 本書は、今から40年近く前に発行されたものである。その時期にこれだけの史料に目配りすることができたのは、著者が20代の初めにオランダで開催された世界キリスト教青年会議に出席し、そのまま日米交換学生としてアメリカで3年間を過ごし、神学者のラインホルト・ニーバーに師事したという経歴にあったろう。武田は1942年にニーバーにアメリカに残ることを進められたが、同じ日本人として苦難をともにするという覚悟の下に、交換船で日本に帰国した。しかし、帰国後、日本YWCAに就職し、終戦後も、その延長上で国際的な活動を続けたのである。

 そのなかで著者は世界の人々が日本をどうみているのかを実感した。本書には、その経験が生きており、アメリカ、イギリス、オーストラリア、中国(および付論として韓国)の外交官、学者、宗教者などの多様な「天皇観」が原史料や直接のインタヴューによって手際よく紹介されている。ただ、「社会主義」の側の動きを示す史料がかけているのは執筆時期からいってやむをえない。私は、国際キリスト教大学で著者の指導をうけたが、当時、武田の師のニーバーなどのキリスト教神学者たちが、20世紀社会主義の全体主義的性格を強く批判していたことは正しかったと考えている。現在、この時期の世界政治史を見通すためには、どうしても「20世紀社会主義」なるものの問題性をまとめて考えなければならないだろう。私は「社会主義」がすべて全体主義に帰着するとは考えないが、体制崩壊のみによってスターリンが朝鮮戦争を仕掛けたという史料がでてきたことは深刻な問題である。

 さて、本書の検討の起点はアメリカである。著者が注視したのは、この時期のアメリカの駐日大使ジョセフ・C・グルー。彼は日米開戦によって、六ヶ月間、大使館内に幽閉されたのちに送還され、途中で日本に帰国する武田らとすれ違っている。

 アメリカに帰ったグルーは国務省の「知日派」の中心として活動し、国務次官に就任し、戦争末期に重大な役割をになった。グルーはアメリカの日本占領にとって天皇は有用であり、アメリカによる天皇制の廃止、さらには天皇の戦争責任の追及はさけるべきであるという主張をもっていた。天皇は、中国と南方諸地域にいる数百万の日本兵に武器を捨てよと命じることのできる唯一の人物であるというグルーの指摘は正しいといわざるをえない。

 これに対して、アメリカ国務省には中国の位置を重視し、日本の天皇制と戦争犯罪に対して厳しい立場をとる「親中国派」と呼ばれるグループがあった。有名なのは中国研究者のオーウェン・ラティモアである。ラティモアは天皇および皇族をできれば中国に抑留することを提案している。

 「天皇観の相剋」とは、このアメリカにおける二つの立場を中心にいうのであるが、重要なのは、その両者を相対化しうる立場として中国の見地があったという指摘である。つまり、蒋介石がルーズヴェルトとの会談において、天皇制の処置については、戦後の日本国民自身の意思決定にまかせるべきだと述べたといい、また中国共産党の庇護の下にあった日本の共産主義者、野坂参三が天皇打倒ではなく、軍部打倒、民主日本の建設という目的の下に広く連帯すると述べたことに注目している。

 また個人レヴェルでも、そのような意見は多かったというのが武田の実感であるようである。とくに日本で生まれ、朝鮮で、医療宣教師として活動し、朝鮮での神社崇拝を拒否し、ブラックリストにのり、70日間、獄中で過ごして交換船でどうにか故国に帰り着いたというオーストリアのチャールズ・マクレランとの会見の記録は感動的である。彼も戦争中に同じような立場を表明したという。また同じような境遇で活動したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンについても記述があり、ノーマンが、やはり日本に長く滞在したB・H・チェンバレンの小冊子『新宗教の発明』について論じているのが紹介されている。ここには日本に親しみをもちつつ批判的な見地を維持した欧米の知識人の系譜がみえるように思う。これは近代日本思想史に位置づけるべき問題であろう。

 これらは「天皇観の相剋」を相対化しうる第三の立場というべきものであろう。武田は、それと対比すると、アメリカ国務省内部の両派は、結局、どちらも「日本を自分たちのデザインによって自由に作りかえることができるとの確信」の下に行動するパワーポリティクスの思想、一種の西洋合理主義であるといっている。

 しかし、本書の面白さは、やはり第二次世界大戦の終了という世界史的な転機の渦中で行動した政治家や外交官の個々人の息づかいのようなものが史料にそくして語られることにある。

 中心は、先にふれたグルーで、たしかにグルーの系統的な主張とイニシアティヴがなければ、アメリカの日本占領の経過は、もう少しギクシャクしたものとなったかもしれない。グルーについては、その姿勢の基本はヨーロッパ情勢との関係での強力な反ソ連の立場があったことを論じた藤村信『ヤルタ――戦後史の起点』、またより新しい研究として日本との関係を論じた中村政則『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』をあわせ読むべきであるが、中村も、グルーの現実主義的な見通しの確かさについては舌をまくと述べている。そして、グルーの行動でもっとも注目すべきことは、アメリカの終戦戦略としての原爆投下問題への関わりであろう。

 1945年4月12日、ルーズヴェルトが死去し、副大統領からトルーマンが昇格し、5月7日にはドイツが降伏する。それをうけて、5月末、グルーはトルーマンに面会し、日本の「無条件降伏」は軍事的無条件降伏ではあるが、君主国であることをも否定するものではないという声明案に同意を求めた。それが日本の降伏を早め、犠牲を少なくする方策であるという説得であって、新任の大統領トルーマンは、一時、それに賛成したが、しかし、結局、陸軍長官スティムソンなどの反対によって、この声明は潰えた。アメリカ軍部中枢は原爆投下のマンハッタン計画に突き進んでいたのである。原爆の実験成功は7月16日のことであったが、彼らにとって計画に消極的であったルーズヴェルトの死去は願ってもないことであったろう。

 グルーはポツダム宣言の起草、通告の経過のなかで、最後まで、「天皇」を「鍵」として使う案を先行させようとして、トルーマンとスチムソンに働きかけ、ポツダムに立つために空港に向かう国務長官バーンズのポケットにメモを突っこむという「異常なほどの執拗さ」をみせたが、結局、原爆の実験成功がすべてを帳消しにした。翌年、スティムソンは、原爆投下によって多くの人命を救ったという論文を発表したが、それにたいしてグルーは、持論を再説し、「原爆投下」と「ソ連の対日参戦」といういまわしい出来事なしに無条件降伏の可能性があった、そうすれば世界は本当の勝利を喜べたのに――と、つきせぬ恨みを書き連ねた手紙をスティムソンに出したという。このような終戦の経過を正確に認識することは、ルーズヴェルトの死のような歴史的偶然の評価をふくめて、いまでも当事国にとっては必須のものであろう。

 本書は、それを考える上で、現在でも基礎的な意味をもっている。とくに、武田が終戦にむかう日本において、当時の日本政府の最大の関心事が、国民の運命ではなく、「国体護持」なるものであったことをまず銘記しなければならないと指摘しているのは基本点をついている。

 ただ、史料の検討と批判が進んだ現在の立場からみると、すでに本書には日本側の昭和天皇とその側近の動きについては史料批判が甘いところがある。枠組みはアメリカが決めていたとしても、ある時期からは、戦争責任の波及を怖れた昭和天皇側近の宮中派が、その下に取り入って戦後の天皇のあり方について合作した。そこにはグルーの段階とは違う形で、戦後におけるアメリカの戦略があり、アメリカが日本を握る利権・国益についての判断があり、また日本で戦争を遂行した支配層の動きがあった。

 私は、アメリカの当初の占領政策が、「知日派」も「親中国派」も、君主制の行方については最後は日本国民が決定することであるという態度をとったことは正しいと思う。そこから「国体護持」を国際的に認めてもらうために「憲法九条」が定められたという結果となったのだという側面もたしかにあるように思う。しかし、それと、右のような合作を推進した日米の諸勢力の評価は、すでに別問題であろう。たとえば、天皇の「人間宣言」やマッカーサーの『回想』などの史料が、昭和天皇の退位をはじめとする諸問題を回避するという占領軍と昭和天皇側近の合作であることは、近年の研究が詳細に明らかにしたところである。

 もちろん、著者は思想史家であって、本書のスタンスは占領・被占領経験を思想史的に考えるということにある。それは著者が「敗戦と天皇制」の問題を一つの異文化問題として経験した以上、当然のことである。しかし、現在となってみると、この時期の異文化交錯が、いったい何を残したかを真剣に考えざるをえないように思う。

 問題は、この時期、元首相近衛文麿、東大総長南原繁、さらには志賀直哉その他の多くの人々が、少なくとも昭和天皇は退位すべきだという意見を表明したことである。武田が強調するように、終戦時、国民の大部分がアジア侵略についての責任意識にかけ、天皇制を維持することを当然と考えていたなかで、これを日本人自身の責任で実現することは最低の倫理的な筋の通し方であったのではないだろうか。逆に、この点では、この時期、ほぼ唯一の反戦勢力としての権威をもっていた日本共産党が、さきにふれた野坂の見解とは相違して、獄中に長く囚われていた徳田球一など指揮の下にもっぱら「天皇制打倒」をスローガンとして過激に行動したことも問題となろう。また戦後派の知識人一人々々の思想と行動も問われるに違いない。

 このような問題をふくめて国民全体が、より成熟した態度をとれなかった理由を思想史の外からも詰めていき、そのような視野の下で現在の政治と文化を考えることが必要であるに違いない。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
中村政則『象徴天皇制への道』(岩波新書)
吉田裕『昭和天皇の戦後史』(岩波新書)

日本史の30冊。石橋克彦『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会

石橋克彦『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会』(岩波書店、2014年、叢書、震災と社会)

 本書は21世紀に相当の確度で発生する南海トラフ巨大地震についての、現在、もっとも明解な解説であって、そして歴史地震学の最良の入門書でもある。その構成は第一章「南海トラフ巨大地震の歴史」、第二章「南海トラフ巨大地震の科学」、第三章「南海トラフ巨大地震と社会」となっている。

 以下、専門分野の違いもあって、要約がどこまで正確かについて躊躇もあるが、順次に紹介していくと、まず第一章では、昭和(1946、1944年)、幕末(1854年)、江戸期(1707、1605、1614年)、室町期(1498、1361年)、平安期およびそれ以前(1096、1099、887、684年)の各時期の南海トラフ巨大地震について、歴史をさかのぼるようにして、説明されている。史料の多い新しい時代の地震で南海トラフ地震の説明をして、史料の少ない古い時代にさかのぼっていくという叙述がわかりやすい。これによって、これらの大地震のもつ(1)伊豆から九州までの強震動、(2)静岡県御前崎などの隆起と伊勢湾沿岸などの沈降という地殻変動、(3)海底の上下にともなう大津波、(4)和歌山県熊野の湯峯温泉、四国の道後温泉の湧出停止などの特徴的な現象が過不足なく解説されている。

 このような南海トラフ巨大地震の系統的な分析は、「14世紀前半までのまとめ」という副題をもつ著者の論文(1999年)によって手がつけられたものであるが、本書で通史の枠組みが完成したことになる。歴史学者としては、このような研究が地震学研究者のほどんど独力によって遂行されたことに驚嘆する。私などは新参者だが、著者とほぼ同時期に歴史地震学の構築を開始した矢田俊文氏(参照、矢田『中世の巨大地震』2009年、吉川弘文館)を初めとする歴史学者がよく知っているように、著者の史料収集と分析の力は、地震学的な視野と直感に支えられているだけに、プロの歴史学者も容易には追尾できないレベルにある。歴史学徒は、本書を読んで、それを実感することが必要だと思う。

 第二章は、南海トラフ巨大地震の発生機構がプレートテクトニクスの概論、地震・津波現象それ自体の理解、現在政府が想定している南海トラフ巨大地震の地震像などを素材として、最先端の研究視野から説明されている。その説明は自然科学にとくに詳しくなくても理解可能なもので、たいへん興味深い。本章によって南海トラフ大地震の全体像をどう予知するかという地震学の最新の到達点を知ることができると思う。

私などにとっても興味深いのは、著者が主張して有名になった駿河湾地震説を始め、七〇年代以来の地震学の研究史が概括されていることで、そのなかで著者の旧説が、いわゆる「アムールプレート東縁変動帯仮説」に新らしい形で統合されていることである。アムールプレート(以下AMプレート)とは、中国の南部地塊を中心とするユーラシアプレートの部分プレートであるというが、これが毎年一定のスピードで東進していることが明らかになっている。AMプレート南東端が、太平洋プレートと押し合うようにして、静岡の遠州ブロックまで伸びており、南海トラフ巨大地震によってプレート間の固着が剥がれると、それを条件としてAMプレートが一挙に東進し、糸静線断層帯周辺が破壊されるというのが、著者の主張する「駿河湾地震」の発生機構である。さらに著者によれば、この仮説によって、南海トラフ巨大地震前後に、北海道沖から下ってくる日本海東縁変動帯からフォッサマグナ、中央構造体沿いに発生する地震・続発地震などが理解可能になるという。またプレート間地震と内陸地震の関連の基礎理解の道が開かれるともいう。

 この「アムールプレート東縁変動帯仮説」は地震学界のなかでも論争は続いているようで、もとより、私には、この仮説の地震学的な評価はできないし、また正しく要約しているかどうか自体にも自信はない。しかし、第一章の歴史地震の様相をみても、この仮説には説得力があるように感じる。ともかくインド亜大陸の北上衝突によって中国大陸が東へ押し出されることを原動力とするというAMプレートの東進の観察を基礎に構築された雄大な仮説である。これが学説として具体性をましていけば、日本列島の自然史を現在と関係させて理解するうえで大きな意味をもつことは明らかであろう。地球科学の側での論争を期待したいももである。

 第三章は、地震学の目からみた巨大な危険施設として原発とリニア中央新幹線をあげ、南海トラフ巨大地震が超広域複合大震災のトリガーとなることを警告している。著者は一・二章がふくれあがったために、三章が短く不十分なものとなったとしているが、これについては著者の『原発震災』(七つ森書館2012年)が参照されるべきである。著者が「自然災害は輸出も移転もできない地域固有のもので、自然の恵みと表裏一体だから、それと賢く共存していくこと(自然との共生)こそが大事なろう」「いまの日本の社会経済システムが被災者を一人も切り捨てることなく試練を乗り越えることができるかどうか、見きわめる必要がある」などと述べるのは学者としての自然な発想であろうと思う。

 さて、私は、二〇一二年から二〇一三年にかけて、科学技術・学術審議会の地震火山部会におかれた次期計画検討委員会に専門委員として参加して、2014年度から5ヶ年間の観測研究計画の審議に参加した。そこでは従来の地震学研究において歴史地震データの注目が不足していたことへの反省がなされ、今後のことを考えると歴史地震を研究する研究機関がどうしても必要であることが文部科学大臣への「建議」の形で決定された。研究機関といっても、地震学・火山学・地質学などの理学系計四人、歴史文献・考古で四人からなるセンターを、たとえば自然科学研究機構・人間文化研究機構の学際領域として設定するというような小規模なもので出発すればよいのだと思う。現在のアカデミーの実力ではこれを政策として実現させることはなかなかむずかしいが、社会的に訴え、遅くない時期に実現するべきものであると思う。それは防災行政に責任をもつ政府の責任であろう。

 そして、日本のような火山列島・地震列島で国民の税金から給料をうけている学者にとっては、どのような分野であれ、噴火と地震に関わる災害科学の仕事に参加することは、その職能的責務である。災害科学とは、必然的に発生する自然的な災異natural hazardsが社会的な災害に転化するのを抑制し、自然的な災害誘因trigerがどのような災害disastersの複合を結果するかを理学的・社会学的に予知し、それを防止するための巨大な科学分野である。そこでは地球科学の第一線から、経済学・法学などの社会科学の実働部隊から歴史学などの人文社会系の基礎学術分野にいたるまで、すべての学術分野がおのおの独自の役割を果たさなければならない。

 この科学分野を体系的で有効なものに育て上げ、かつそれについての社会的・国際的な理解を深めていき、それを担えるような政府機構を各国に形成することは、二一世紀の人類にとっての最大の課題であるということができるだろう。これについては、発展途上国における社会的災害の研究から出発して災害科学の大系をはじめて創成したBen Wisnerの、"At Risk: Natural hazards,people's vulnerability and disasters"(邦訳『防災学原論』築地書院)を参照することができる。

 社会的な災害は一般に生態災害(Biological Hazards)、気象災害(Meteorogical Hazards)、地殻災害(Geological Hazards)に区分できるといわれる。生態災害とは虫害・鳥獣害から広域流行病(パンデミック)にいたるまでの生態系の災異を誘因として発生する災害をいい、気象災害とは落雷・竜巻・台風から温暖化や冷涼化にいたるまで大気の運動にかかわって発生する災害をいい、最後の地殻災害とは山崩れあるいは土壌の深層崩壊から地震・噴火にいたる地殻の変異を誘因として発生する災害をいう。

 歴史学には、このような災害科学を、その基礎から支える役割があるのである。そして、その試金石は明らかに地殻災害であろう。そもそも、歴史学が全面的に関わることなしに、国民に地震・噴火というものの実態を伝えることができるとは考えられないのである。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

2017年4月29日 (土)

アメリカの人種主義イデオロギーとキリスト教ヨーロッパ帝国

アメリカの人種主義イデオロギーとキリスト教ヨーロッパ帝国

 アメリカには多数の民族集団、先に述べた意味でのエスニック集団がいる。ネーティヴ・アメリカンやアフリカン・アメリカン、次に様々なヨーロッパ系の人々(イギリス系、ドイツ系、ラテン系、ユダヤ系)、またアジア系の人々、さらに最近ではアラブ系の人々など、ほとんど世界中の民族に出自をもつ人々がアメリカにいて、多数か少数かは別としてエスニック集団を作っているのである。

 アメリカではしばしばこれらの民族集団を「人種」と呼ぶが、この「人種」観念が右のようなエスニック集団を反映している以上、それをたんに作られた虚構にすぎないということは適当ではないが、しかしそれが身分的な性格をもった虚偽観念であることは先に述べたとおりである。その意味でアメリカは「多人種国家」ではなく「多民族国家」なのである。アメリカの国勢調査には今でも「人種」という項目があるが、これは近代国家においては許されない人間に対する身分的な扱いである。これは一日も早く廃止し、「アメリカは多民族国家です。エスニックアイデンティティをご記入ください」と差し替えるべきものであろう。このような国勢調査項目自体がほとんどアメリカにしか残っていない異様なものであることが現在でもほとんど意識されないことは、アメリカの人種主義がきわめて根の深いものであることを示している。

 近代の人種主義は、だいたい一六世紀に始まった資本主義の形成の中で、世界的なイデオロギーとして登場したのであるが、そのなかで、アメリカは根本的な役割を果たした。そして、その時に形成された世界資本主義の構造の相当部分は、変形しながらも現在に続いており、それに対応して、ほぼ五〇〇年以上の歴史をもつ人種主義のイデオロギーとその影響は、現在、世界の中でもアメリカにもっとも濃厚に残っているのである。

 世界資本主義は、ヨーロッパの諸王国が北アフリカから中東をおさえるイスラム帝国に挑戦する中で形成された。それは十字軍から始まったが、成功の道はスペイン・ポルトガルによって敷かれた。両国はアフリカ西海岸に進出して金・砂糖・アフリカ人奴隷の交易を組織し、すでに一五世紀にはマディラ諸島・カナリア諸島に奴隷によるプランテーションや砂糖工場をおいており、コロンブスによる大西洋横断以降、それがアメリカ大陸に広がっていく。これがマルクスのいう「血と火の文字で人類の年代記に書き込まれた」資本の本源的蓄積の時代の出発であった。『資本論』(本源的蓄積)は、それを「アメリカにおける金銀の発見と原住民の絶滅と奴隷化、インドの征服と略奪の開始、アフリカの商業的奴隷狩猟場への転化、これらが資本主義的生産の時代の曙光を特徴づけている。そのあとに続くのが、地球を舞台とするヨーロッパ諸国民の商業戦争である。それはネーデルランドのスペインからの離脱によって開始され、イギリスの反ジャコバン戦争で巨大な範囲に広がった」と要約している。

 ここでヨーロッパの諸王国は、あたかも多頭の龍のように相互に競合しながら激しい侵略行動を展開した。アメリカの歴史家、ウォーラーステインは、この時代のヨーロッパ勢力は帝国を形成しない「世界経済」であり、その強みによって、他の旧態依然たる「世界帝国」対して優越したのだというが、しかし、十字軍以来の経過をふまえれば、それは、イスラム帝国に対抗するキリスト教帝国の行動というべきものである。そしてこの帝国は多頭であっただけにアジアの諸帝国と比してきわめて狂暴であった(『近代世界システム』)。こういうヨーロッパとアジアを絶対的に区分してしまう論理は、実際上、当時のヨーロッパ勢力の「自由貿易イデオロギー」を言い直したものにすぎず、根本的に間違っている。この点ではウォーラーステインの観点もいわゆるヨーロッパ中心史観を抜け出てはいないのである。

 このヨーロッパキリスト教帝国は、自己自身をイスラムに対抗する一つの「人種」として意識していた。それは十字軍遠征におけるユダヤ教徒の虐殺で最初のピークをむかえた。イスラム教徒に対しても異族視は顕著であったが、この時期のイスラムは経済的にも文化的にも最盛期であって、キリスト教徒はユダヤ教徒をスケープゴートに適当な異なる「人種」として迫害したのである。この他集団に対する人種化によってキリスト教徒自身が人種としてとらえられた。キリスト教史の専門家、W・ハウイットは、その『植民とキリスト教、ヨーロッパ人による全植民地における原住民の取り扱いの通俗的歴史』(一八三八年、ロンドン)においてヨーロッパの世界制覇の時代を論じて、「いわゆるキリスト教人種が、世界のあらゆる地域で、また彼らが征服することのできたすべての人民に対して演じてきた野蛮行為と無法な残虐行為とは、世界史上のどの時代にも、またどの人種のもとでも、どんなに未開で無教養であり、無情で無恥であっても、その比をみない」と述べている。これは『資本論』に引用されたものであるが、そこに「キリスト教人種」とあるのは、歴史的事実を反映している。

 歴史学は、このような人種主義がヨーロッパと環大西洋地帯を被う世界的なイデオロギーに展開する上で、一四九二年が画期の年となったとしている。まず一月、スペインがイベリア半島でイスラム勢力の最後の拠点となっていたグラナダを攻略し、三月にはユダヤ教徒に対して改宗を迫り、非改宗者を追放した。彼らはオランダやオスマン帝国などに居を移したものの、長かったスペイン居住を追われたユダヤ人のディアスポラは一挙に深まり、ヨーロッパ全域でのユダヤ教徒に対する「人種」差別と迫害の体制が決定したのである。

 この一四九二年をコロンブスの大西洋横断の年と教え記憶するのが、日本の風習であるが、これはヨーロッパ中心主義そのものであることになる。スペインがグラナダ攻略の勢いにのって、コロンブスへの援助を承認したことを知らなければ、一四九二という数字の記憶は無意味である。それは中東ーインド貿易を独占していたヴェニス商人を追い落とし、インドに西回りで到達してイスラムを世界を包囲しようという野望にもとづいていた。このためコロンブスは最後まで自分はインドを発見したと固執したのであるが、これが世界資本主義の形成、資本の本源的蓄積の最大の条件となったことはいうまでもない。スペイン・ポルトガルの両国は、これによってヨーロッパ・アフリカ・アメリカを結ぶ巨大な三角形、環太平洋地帯を世界侵略のための広大な拠点であり、実験場であるものとして獲得したのである。

 その中軸がネーティヴ・アメリカンの大地への侵略と収奪、そして一挙に展開したアフリカの人々の捕囚と奴隷化、アメリカへ向けての奴隷貿易であったことはいうまでもない。それが一六・一七世紀を通じた本国におけるユダヤ教徒に対する人種主義的な迫害と激化と同時進行したことが重要であろう。これによってイベリア帝国主義はユダヤーアメリカンーアフリカンという人種主義のまったく新たな世界的スタイルに到達した。

 このような新たな人種主義を新大陸アメリカに持ち込んでいったのは植民者は本国人に対して植民地人=クレオールと呼ばれた。その本国は、スペイン・イギリス・フランス・オランダなどさまざまであったが、それが逆に彼らにヨーロッパ人=白人という「人種」性をあたえることになった。そもそも「白人種」という観念はヨーロッパを外からみる観念で、出自にもとづく社会的不平等が一般的であったヨーロッパの内部から発展する余地がなかったことは先にもふれた通りである。クレオールとはスペイン語のcriollo、ラテン語のcreare、英語でいえばCreate(作る)という意味の言葉であるが、逆にいえば、「白人」という人種観念自体がクレオールによって作り出されたということもできる。スペイン本国では両親がスペイン人であっても植民地で生まれただけでクレオールと蔑視されたというから、クレオールというのはいわば本国身分に次ぐ位置を示す人種身分なのである。英語の人種=レースraceという言葉が、スペイン語のrazaにさかのぼるといわれることも、ここに原因があるに違いない。スペインはたしかに人種主義イデオロギーを生み出す本場であったというべきであろう。そこにキリスト教の影響が大きかったことは、『ドン・キホーテ』のサンチョ・パンザが自分のことを「良き生まれにして紛うかたなき古きキリスト教徒」といいつのっているように、スペインでは庶民が自分たちはムーア人やユダヤ教徒を先祖にもたないから高貴な血筋だと称するのが普通であったという。

 このようなキリスト教に根をもつ宗教知識が、アフリカン・アメリカンとネーティヴ・アメリカンを一つの「人種」として扱う観念材料を提供した。まず、アフリカ人の祖先は旧約聖書に登場するノアの息子のハムであり、ハムは父を嘲笑した罪によって肌の色が黒くなってアフリカ人の祖となったと広く信じられていた。この迷信がアフリカ人を奴隷として扱うこと理由として動員されたのである。しかし、捕囚とされた人々は、(1)モーリタニア、(2)ギネア=ヴェルデ岬、(3)シェラ・レオーネ=黄金海岸、(4)バンツー・ダホメ、(5)アンゴラ、(6)東海岸などまで、北から南に広大なアフリカ大陸に拡大しており、彼らは異なる民族に属する人々である。彼らを「船積み」する際の書類には、たとえば「ギネア種」などという「種(カスト)」という言葉が使われていたのは、まさに人種観念の発生場所を示している。このように、捕囚と奴隷貿易による故国アフリカの大地からの暴力的切り離しの結果として成立した、アメリカにおけるアフリカン・アメリカン「人種」の成立はあくまでも二次的なものであったのである。

 アメリカ先住民についても同じことであって、キリスト教知識の下で、彼らはイスラエルの失われた部族の子孫であると一般には信じられていた。それは現在でもアメリカの福音派(エヴァンジェリカル)のもっているアメリカこそが「新しいイスラエル」であり、神の御業を最後の審判の前に実現する選ばれた民であるというピューリタンに多いキリスト再臨説に奇妙な形で流れ込んでいたはずである。一八世紀にアメリカでエルサレム巡礼が流行し、マーク・トウェインも出かけ、「(そこにいたのは)アメリカのインディアンとよく似た、服装も粗末なら、質も悪い野蛮人どもで」(『イノセント・アブロード』)という感想を残しているのは『ハック』を愛読したものとしては興ざめな話である。ここでは広大なアメリカ大陸、北アメリカ大陸に古くから居住し、現代人にとって何よりも大事な食用食物種を作り出してきたアメリカ先住民の諸民族を「野蛮人」と一括する傲慢さがあらわである。

2017年4月21日 (金)

多民族国家アメリカと「人種」という言葉ー人種という言葉は使わないのが常識

 多民族国家アメリカを考える上で、第三に定義をしておかなければならない問題は、いうまでもなく、「人種」(レースrace)をどう考えるかであるが、 この言葉はきわめて問題の多い言葉である。

 ユネスコは一九六七年にだした声明『人種および人種偏見についての声明』で「人類を『人種』raceに区分することは、因習的で恣意的なもので、それを何らかの段階秩序に結びつけることは許されない」と述べた。「人種race」という言葉の使用自体が人種主義racismへの感染を意味しているというのである。生物学の分類用語としての「種」は相互に融和・通婚できないという意味をもっているから、とくに「ヒトの種」を意味する漢語の「人種」という言葉を使うこと自体が、現在では、いわば無知の証明であろう。

 また「人種」と翻訳される英語のレースraceという言葉はスペイン語のrazaやイタリア語のrazzaにさかのぼるものであるが、本来は植物や動物をグループ化する用語であった。これが一七・八世紀にベルニエやリンネによって人間の集団に転用されたのであるが、問題は、彼らが「人種」というとき、もっぱら肌の色や顔かたちなどの人びとの見かけの相違が地球上にどう分布しているかを論じたことである。「白色人種・黒色人種・黄色人種」などという見かけを優先した分類が、そのなかから生まれたのであるが、しかし、これは現在のDNA解析を駆使した研究成果からいうと、科学的に無意味な分類、ナンセンスである。『老子』に「色に囚われれば何も見えなくなる」(一二章)とあるが、こういう囚われは、まさに因習的・恣意的なものでしかない。

 最近の分子人類学は、現生人類はアフリカに起原をもち、人類の地球全域への移動にともない、異なる地域環境への適応を遂げたことが明らかにした。肌の色や顔かたちなどは移動していった各地の自然条件におうじて遺伝子に生じた末梢的な相違にすぎない。哺乳類サル目ヒト科ヒト亜科ヒト属に属する現生人類(ホモサピエンス)は生物として完全に一体であって、むしろ人類の類的特徴はきわめて移動性が高く、環境に適応する能力をもっていながら生物的な一体性(相互理解と性的紐帯の強さ)を維持する点にこそある。分子生物学の尾本恵一(『分子人類学と日本人の起原』)はこれらの点をふまえて「人種」という用語は学術的にも破綻しており、使用すべきではないと述べている。

  それ故に、アメリカにすむネーティヴ・アメリカンやアフリカン・アメリカン、ヨーロッパ系、アジア系などの様々な人々を「人種race」と呼ぶのは正しくないことになる。彼らはどの場合もエスニック集団なのであって、ブラックの人々がエスニック集団であれば、WASPの人々もエスニック集団なのである。だからこそ、アメリカを「多人種国家」とはいわず「多民族国家」というのである。そういう中で、たとえばブラックの人々のみを「人種race」という言葉でとらえること自体が、もし口に出さないとしても人種差別であり、最悪の人種主義であることは銘記されなければならない。

 そもそもリンネやブルーメンバッハなどの生物分類学者の仕事は、ヨーロッパが世界に進出し、世界各地の民族を「文明」の名において支配し、さらにはしばしば虐殺したり、奴隷化したりするのと同じプロセスで進んだ。ヨーロッパの博物学的な生物分類学は、それに対応する人種主義偏見を作り出したのである。人類の高い移動性・適応性は、本来は先述の「民族=エスニシティ」の相違、文化的・習俗的な相違を柔軟に受け入れる素地であったはずであるが、それが「身体の相違」であり、「生き物」としての相違であるとするところに他民族嫌悪(ゼノフォビア)・人種主義が発生するのである。

 こういうことからすると、結局、人類の分子生物学的分類をする場合にも「人種」という用語は一切使用せず、たとえばDNA系グループというような学術的に正確な用語を使うほかないだろう。これは人文社会科学にとっても深刻な問題であって、たとえば、マルクスも『資本論』で「労働の生産性は人種などのような人間そのものの自然と人間を取り巻く自然に還元される」「(世界には)すでに調査が行われた地域だけでもなお四〇〇万人の人食い人種が住んでいる」などと述べている(Ⅰ535)。もちろん、マルクスはダーウィンの見解にふれて、人類の間での性的な交流は差異を作り出すのではなく、むしろ種の典型的な単一性を作り出していく。差異を作り出すのは地質などの環境的自然であり、そのような自然的基礎の上に民族性も存在しているという趣旨のことを述べており、「人種」が環境の産物であることを認めている。しかし、上記のような記述が人種主義な偏見に満ちたものであることは明らかであり、この点でマルクスもヨーロッパ的な偏見のなかにいたのである(全集(31)248)。

 なお、以上からみると、先に見たスターリンの論理は、最悪の人種主義であることがわかる。前述のようにスターリンは「民族=エスニックグループ」を「国民となる資格をもつ民族」と、その可能性がない「人種的な共同体」に区別する。スターリンは、「ギリシャ人、エトルリア人、ゲルマン人、ゴール人、アラビア人」などから「ユダヤ人、ラトヴィア人」以下のロシア帝国内の「ーー人」と表記した集団を「人種的な共同体」とした上で、その中から「民族=国民」の資格あるものを選別するというやり方をする。ようするに特定のエスニック・グループを「人種あるいは種族」にすぎないという形で差別するのである。

 とくにユダヤ人の問題は大きかった。ユダヤ人は、DNA系グループとして独自なグループをなす訳ではなく、あくまでもエスニック・グループである。スターリンは、ユダヤ人について、ロシア帝国内でいえばロシア・グルジア・カフカーズ高地などの異なる地域に住み、異なる言語を使っているから、単一の民族を構成しない「人種」であるとした。ユダヤの人々の広域的な都市間・地域間のネットワークは否定され、その各居住地に同化させるほかないという訳である。この論理が直接に、後のスターリンによるユダヤ人に対する迫害と虐殺につながったことはいうまでもない。

 ソビエト連邦が旧ロシア帝国内から東欧に広がる多様なエスニックグループの自治と自決の権利をどのように保障し、民主主義的な地域間、国際間の関係を作り上げていくかは、現在までも尾を引く大問題である。一九世紀に大国化したロシアとアメリカは同じ問題をもっていたことになるだろう。

 よく知られているように、死去直前のレーニンはスターリンを「粗暴な大ロシア人主義者」と激しく批判し、石にかじりついても糺すと述べたというが、しかし、結局、スターリンの民族理論と人種主義は徹底的に批判されることなく過ぎたのである。

東日本大震災の宮城県以南の死者はすべて国に責任がある

 前橋地裁判決のいうのは3・11の被害は人災だったということです。判決の論理からいうとそれは原発事故に限りません。これを震災後六年たって、国の機関が初めて認めた訳です。
学会では常識でしたから、これが「初めて」というのが悲しいところです。もし国が常識をもって運営されていれば、こんなに損害賠償が少ないことはなかった筈です。

 二〇〇二年に地震学者が中心になって発表した地震本部の「長期評価」は三陸沖から房総沖でマグニチュード8・2クラスの地震が、今後二〇年以内に二〇%の確率で起こりうると予測しました。そのころ同時に八六九年の津波が残した痕跡砂層の研究が進んでいて、日本地震学会が二〇〇七年に出版した『地震予知の科学』には東北には近く巨大な地震・津波が来ると書くまでになっていました。

 そんなことは知らなかったと言われるでしょうが、これは当時の小泉首相を会長とする中央防災会議が、原発業界におされて岩手沖津波しか認めず、「長期評価」を防災計画に反映しなかったためです。
ですから、震災の犠牲者の八割、宮城県以南の死者はすべて国に責任があるということです。小泉さんが、最近、原発廃止の立場に立たれているのは正しいと思いますが、この過誤の責任は曖昧にできないもので、本来、膨大な賠償が必要なものです

 私も三・一一を経て、日本が地震火山列島であることをはじめて本当の意味で認識しました。歴史の根本から考え、それが国民の常識にならねば死者は浮かばれません。(了)

 先日、赤旗(日曜版)のインタビューに答えたもの。23日付けででるらしく、見本紙が届いた。新聞だから出しておいてよいのだろう。

 原告の方の談話がのっていて、胸にせまる。

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