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2017年9月16日 (土)

明治大学公開講座で講演「日本の神話と地震・火山」

 明治大学の公開講座で「日本の神話と地震・火山」という講演を四回やります。
 一〇月毎週金曜日。午後3時から5時。駿河台校舎。


日本の神話と地震・火山」
 日本の神話には地震火山神話という性格が強いことを全体として説明します。「天孫降臨」神話、「神武東征」神話という、これまでの神話論では扱いにくい神話の解釈に地震・噴火のイメージを読み込む仕事です。またそれが奈良時代に怨霊信仰に変化していく様子も説明したいと思います。それを通じて、日本の国土というものを考える機会になれば幸いです。


(1)「天孫降臨」神話とタカミムスヒ
 「天孫降臨」神話が火山神話であることを『古事記』『日本書紀』の史料から説明をします。まずタカミムスヒが「天地鎔造」の神といわれていることの意味についてふれ、ついで日本神話には天空の神話が少ないという津田左右吉以来の見解について反証し、「天孫降臨」神話が磐座降下、火山灰(稲米)降下、溶岩流噴出、火山雷のアナロジーであることを説明します。
(2)「神武東征」神話と前方後円墳
 「神武東征」神話は物語の筋として「天孫降臨」神話と一体のものです。そこに雷神タカミムスヒの神話がどう入っているかを示します。その上で、前方後円墳はタカミムスヒ神話を表現しているという持論を論じてみたいと思います。私は前方後円墳=壺型説をとっていますが、それについても関説します。
(3)地震火山神話とオオクニヌシ
 スサノヲとオオクニヌシは地霊として地震の神でした。それを説明した上で、根のカタスの国が火山の地下にある国と観念されていたこと、またオオクニヌシの地下からの脱出は火山火口からの脱出として描かれていることを説明します。さらに奈良時代でもっとも格の高い畿内の神が吉野のオオクニヌシ(おおなむち)神社であったことの意味を論じます。
(4)地震火山と怨霊
 奈良時代に地震火山神話は怨霊の観念に流れ込んでいきました。たとえば七三四年地震は長屋王の怨霊と受け止められ、聖武天皇は都を守るために大仏建立を計画したことがわかります(『歴史のなかの大地動乱』)。これは桓武天皇にとっても同じことで、平安京への移転は早良親王が地震の怨霊となったことの影響が決定的であったこと説明します。

 問い合わせ、申し込みは、明治大学リバティアカデミー事務局。https://academy.meiji.jp

Cci20170812_3


 
八月には、今の仕事の『老子』の注釈を終えて、神話論に取りかかる積もりですので、その話をやります。

2017年8月22日 (火)

『老子』77章。天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず

天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず
 アーシュラ・K・ル・グィンを読んでいたら、ルグィンの基本にあるアナキズムは老子に由来するのだと自分で書いていた。本章は、福永光司氏も無政府主義という。
 老子が無政府主義かどうかは別にして、本章は、そういう老子の政治政治思想を考える上では決定的な位置にあるもの。馬王堆からでた帛書によって「天の道は、有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ず」と読み下すのが私見。これまでの読みとは違う新説だが、ほぼ自己納得ができたので、掲げます。

 天地自然の法則は弓を張るように動く。つまり弓を張るには、力が余って高くなってい部分を押し、両端(はし)の下がっているところが挙がってくるようにする。多いところは減らし足らないところは補う。これと同様に人間社会における天下の公共の道は有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが、現在の社会の理屈は不足の者から削って余り有る者に奉らせる。有り余って有るものを取り上げて天のもの、公共のものとして使うように、誰かが動かねばならない。これは道にある者がするほかないことだ。こうして大人は行動にでるが、手柄顔をせず、功をあげてもその地位に居座らない。おのれの賢(えら)さを示そうとはしないのだ。

天之道、其猶張弓也(1)。高者抑之、下者挙之、有餘者損之、不足者補之。
天之道、損有餘而補不足。人之道則不然。損不足以奉有餘。
孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎(2)。
是以聖人為而不恃、功成而不処。其不欲見賢。
(1)底本「興」。帛書により改む。(2)この行、帛書による。

天の道は、それ猶お弓を張るがごときなり。高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う。天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う。人の道は則(すなわ)ち然らず。足らざるを損して以て有り余るに奉ず。孰(だ)れか能く有(あ)り余(あま)りて有(あ)るを、取りて以て天に奉ずるものぞ。唯有道者のみなるか。是を以て聖人は為(な)して恃まず、功(こう)を成して処らず。其れ賢(けん)を見(あら)わすを欲せず。

解説
 天の道理は弓を張るように動くという場合の、弓はどうはるかについては、四〇章の解説ですでにふれた。「繁弱の弓」などの戦国時代で名高い豪弓は弦を張らない時には強く反り返って逆向きに湾曲した状態になっているので、弦を張るときには弣(ゆづか)(真ん中の部分)を上から押しつけ、両端の弭(低い部分)が自然に持ち上がったところに弦を掛けるという。これは四〇章に述べられた老子の宇宙論の文脈では、「天の道」は上から押さえつけられた弓が下から反発するという「上下=天地」の緊張の中にあるという意味であることは解説した通りである。本章ではそれが「高き者は之を抑え、下き者は之を挙げ、有り余る者は之を損し、足らざる者は之を補う」とも説明されている。

 それが二行目でも「天の道は、有り余るを損して、足らざるを補う」と繰り返されるのだが、この二番目の「天の道」は天地自然の法則ということではなく、人間社会におけるあるべき公理という意味である。いわば天下公共の道である。通理という自然が人間社会にも通ずる道理であるとされることで、。これと同様に人間社会におけるは有り余る豊かな者から削って不足のところに補うことである。ところが「人の道」、人の作為が重なってできてきたやり方は、そうではない。それは足らないところを減らして、有り余ったところに奉ずるというまったく逆転したやり方であるということになる。

 こういう状況は「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」、つまり、有り余って有るものを取り上げて、天のもの、公共のものとする行動を要求しているというのが老子の判定である。

 管見の限りで、こういう解釈は本書が初めてであるが、その事情は、この部分のテキストが帛書では「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることが分かり、それによって本来のテキストが確定して上記のような読み下しが可能となったためである。これまでは「孰(だ)れか能く有り余りて以て、天下に奉ずるや。唯(た)だ道ある者のみ」などという従来からのテキストによって解釈されており、それにもとづいて「どんな人が、あり余っているものによって世の中に奉仕するだろうか。ただ道を身につけた者だけがそうするのだ」(【蜂屋注釈】)と解釈されてきた。これだと、道を身につけた者で余剰をもっているものは世の中にそれを拠出するという意味になる。これによって一種の慈善や社会事業への協力と理解されてきた訳である。

 しかし、問題は、帛書のテキストが「孰能有餘而有、以取奉於天者、唯有道者乎」となっていることがわかっても、発見(一九七三年)の後、現在まで四五年近く、これがほぼ同じ意味で解釈されてきたことである。それは帛書のテキストが「孰(だ)れか能く余り有りて以て天に奉ずるを取ることある者ぞ。唯(た)だ道ある者のみならんか」(【池田注釈】)などと読み下されてきたためで、これによって従来と同じ余剰の拠出という解釈が維持されてきたのである。私は、これは「有り余りて有を、取りて以て天に奉ず」と読むべきだと考える。こうして、老子は、「有り余るもの」から余剰を取って天下公共に振り向けるという再分配の思想をもっていたということになるのである。これで読みは明瞭になるであろう。

 本書では、従来の注釈書の解釈に踏み込んで私見との相違を解説するという作業は基本的に省略してあるが、この問題は重大なので、以上、やや詳しくふれた。

2017年8月18日 (金)

『老子』政治に関わって天下の公共のために働くということ

善の徳はつつましやかに始まって無限の負担となる(『老子』五九章)

政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ。これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれる。人々が早くから服いてきてくれれば、その善の徳(いきおい)を重ねて積んでいくことができる。善の徳(いきおい)を重ねて積んでいけば、克(たえ)られないことはなくなる。克(たえ)られないことがなくなれば、善の徳は極限がなくなる。極限がなくなるまで克(たえ)ていけば、初めて国を守ることができるのだ。国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ。これを四方に根(旁根)を深くはり、主根(柢)を固くするという。そうすれば、長生きをして見るべきものを見ることができる。

治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以(1)早服。早服、謂之重積徳。重積徳、則無夫克。無不克、則莫知其極。莫知其極、可以有国。有国之母、可以長久。
是謂深根固柢。長生久視之道。
(1)底本「謂」。帛書により改む。

人を治(おさ)め天に事(つか)うるは、嗇(しよく)に若(し)くは莫(な)し。夫(そ)れ唯(ただ)嗇(しよく)なり。是(ここ)を以(もつ)て早く服(ふく)す。早く服する、之(これ)を重(かさ)ねて徳を積むと謂(い)う。重ねて徳を積めば、則(すなわ)ち克(たえ)ざる無し。克(たえ)ざる無ければ、則ちその極を知る莫(な)し。その極を知る莫ければ、以て国を有(たも)つべし。国の母を有てば以て長久なるべし。是(こ)れを根を深くし柢を固くすという。長生久視(ちようせいきゆうし)の道なり。

解説
 「人を治(おさ)め天に事(つか)うる」を「政治に関わって天下の公共のために働く」と訳した。「人を治(おさ)め」とは士大夫としての責任をいうのであろうが、一般的にいえば政治ということであろう。また「天に事(つか)うる」について、これまでの注釈は天帝・天神の祭祀をするという意味が、老子の天はそのようなものではない。天下の公共という意味であろう。

 その条件は、つつましやかな生活(嗇)を送ることだというのは、現在でもあてはまるような原則であろう。老子は、これを自然とすることによって、人々が信頼して服(つ)いてきてくれるという(服には「むつむ」「満足させる」「得る」「つける」などの意味がある)。そしてそれによって天下の公共に奉仕するという善の意思の徳(いきおい)を蓄積することができるという。それがあれば何にでも克(たえ)らることができるが、義務は無限に広がっていくというのが老子のいうことである。この「克」は、普通、「何にでも勝つことができる」と翻訳されるが、克は「善くする。堪える。刻む」などの多様な意味をもっており、老子に「克=勝つ」は相応しくない。そもそも現在では、『論語』(顔淵篇)に発する有名な「克己心」という言葉を「己に克(か)つ(勝つ)」と理解するのも、朱子学の読み間違いで、「己をちぢむ」と訳すべきであることが確定している(小島毅)。老子の解釈に、これが残っているのはおかしいように思う。そもそもそれでは本章の意味は通らないのである。

 本章は、こうして、天下の公共に関わることは、進めば進むほど、堪えるべきことと、なすべきことは無限に増えてくることだと述べる。そしてそれを極限まで辿ることが国を守ることだと論ずるのである。

 以上、従来の解釈とは大きく異なっているが、このような読みの根拠となったのは、「徳」という言葉がもっている「いきおい、はたらき」という語義である。本章は、政治との関わりがもたらす無限軌道のようなものを、「徳」を積み重ねるというのはどういうことかを中心にして論じているのだろ思う。そういう観点から考えると、本章の実際の結論となっている「国の母を有てば以て長久なるべし」という言葉は「国の母のような徳(はたらき)を保つことは、その長久を考えることだ」と訳せるであろう。老子にとって「徳」という言葉は、その人々を養う徳(はたらき)にそって、どうしても母性的・女性的なニュアンスを含むものになるらしい。これも、本章を「徳」の語義を中心に読む理由である。

 冒頭の「政治に関わって天下の公共のために働くということは、まずはつつましやかな生活(嗇)を送ることだ」というのは、日本の政治家、とくに現在、そのトップにいる政治家にいいたいことだ。

 『老子』のいう「天=公共」というのは示唆深い。

 若い人たちが作った「未来のための公共」という言葉に通ずるように思う。

2017年8月12日 (土)

『老子』王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)

 よく知られているように、毛沢東は自己を秦の始皇帝に比較した。その馬鹿さ加減は、彼が中国史に対して見識と教養をもたず、学術的精神がなく、結局、野心とレトリックとと独裁の政治家であったことの証明である。一種の王朝を作るというのは、どのような時代にも人間に宿る妄想であって、毛沢東は現代的覇王となろうとしたのである。このような怪物を日本の中国侵略が作り出したのである。戦争が作り出したのである。

 トランプをみても安倍氏の友達主義、近親者主義、「自分は例外、自分は偉い」という自己意識をみても、政治権力の「王朝化の妄想」というのは、つねに発生する。北朝鮮をみても、「王朝」というのはけっして過去の問題ではないのだと思う。、

 中国にもどれば、そして共産党を称する中国の支配政党は、実際にはスターリニズムと毛沢東王朝主義を基本的に精算していないといわざるを得ないが、彼らは、自己を法家であるとか、儒家の伝統をうけるだとか、ときどき馬鹿なことをいいだす。しかし、彼らは決して、中国の伝統的な反権威主義と「共同主義」・ユトーピアの思想を代表する『老子』に自己を近づけようとはしない。


 先日の日文研の研究会で教わったハーバート随一の人気講義であるというのマイケル・ピュエットの中国哲学講義『ハーバートの人生が変わる東洋哲学』を読んだ。たいへん面白い。この講義は、アメリカ社会論や世界の現状についての見方も比較的妥当なものだ。アメリカと中国を考えて生きて行かざるをえない日本ということを考えると、私たちがどこまで戻り、どこら辺から考えたらよいかを示唆してくれる。
 『老子』論も面白かった。老子の言う「道」は諸物の関連そのものであるという。老子がいわゆる弁証法(世界の関連性が全面的であり、その関連は目に見えないが実在する)論者であることを正しく指摘している。「道」は関連だという。さらに『老子』を隠遁的な思想家というのは間違いで、むしろ状況や世界を変える方法を説いたという。これも正しいと思う。
 
 私jは、社会理論にとって倫理学、非倫理的な存在たる人間をどうするかということは根本的に重要と考えてきた。弱い人間という自己意識がつきまとい現実に弱い人間である私のような存在、社会・歴史理論に現実には耐ええないような存在にとっての根本問題と考えてきた。教条のようでないそれをどう考えるのか。これを考える上で、中国の歴史と思想を検討することが大きな意味をもつということを始めて知った。そういう意味でも、マイケル・ピュエットの議論は参考になる。

 しかし、問題は、老子には一種の社会科学があるということで、これをマイケル・ピュエットは考慮していない。

 以下に注釈した『老子』三七章は、『老子』の社会論をもっともよく示すものの一つであろうと思う。


王が私欲をあらわにした場合は「無名の樸」を示す(第三七章)

世界を貫通している恒遠なる「道」は人が名前をつけて管理できるようなものではない。もし諸国の王がこの道理を守って勝手なことをしなければ、万物は自(おの)ずから豊かになるだろう。しかし豊かさの中で王が不当な欲をむさぼることがある。その時は、私はそれを鎮めて止めさせるために、無名の樸(あらき)(生の樹皮がついた木)を示す。自然そのものの樸をみればまさに足るを知ることができる。そして足るを知って静謐さが戻れば、天下はまた自ずから定まっていく。

道恒無名*。侯王若能守、万物將自為(下に心)**。為(下に心)**而欲作、吾將鎮之以無名之樸。無名之樸、夫亦將知足***。知足***以静、天下將自定。

*底本「為」、帛書により改む。**底本「化」。帛書により改む。為(下に心)は為に同じ。***底本「無欲」。楚簡によった。

道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自(おの)ずから為(な)らんとす。為(な)して欲作(おこ)らば、吾れ将(まさ)に之(これ)を鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす。無名の樸、夫れ亦(ま)た将(まさ)に足るを知らん。足るを知りて以て静かならば、天下は将(まさ)に自ずから定まらんとす。

解説
 この章は『老子』が王権との実際上の関わりをどうするかについて、その考え方を明瞭に述べた章である。老子は王権というものを本質的に疑っていたが、王権が「道」の通理を認めることは望ましいと考えていた(参照、第三二章)。しかし、その上で、王権が不当な欲をむさぼった場合は、それを鎮めなければならない。そのために「吾」は王に無名の樸(生の樹皮がついた木)を示すだろう、というのが老子のいうことである。『老子』で「吾」というのは老子自身のことをいうのは明らかで、ここはそう解釈するほかないところである。

 問題は王に「無名の樸」を示すとは、どういうことかであるが、確実なのは、本章の直前、第三二章に、樸(あらき)は誰の臣下でもない自由な存在だと述べられていることである。しかも、本章の冒頭の「道は恒にして名無きなり。侯王、もし能(よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自のずから」の部分も第三二章とまったく同文であって、これは本章と第三二章が「侯王」の問題、王権論をテーマとしていることを示している。これから考えると、本章で「吾」が樸(あらき)を示すというのは、すべての「名」と「形」を捨ててしまう。つまり王の臣下の地位を降りるという意思表明であろうと思う。老子の口調からすると退任の意思は明瞭ということであろう。

 このような解釈は、これまで存在しないが、「①侯王、もし能(よ)くこれを守らば、②万物は将(まさ)に自のずから為(な)らんとす。③為して④欲作(おこ)らば、吾れ将に⑤これを鎮(しず)むるに無名の樸(あらき)を以てす」という場合、本章のテーマが王権論にあるとすれば、上記の訳文に示したように、(1)の主語は「侯王」であり、②の主語は「万物」であり、③の主語も万物、そして④の主語は「侯王」であり、それ故に、⑤の「之(これ)」は「侯王の欲」と考えるほかないと思う。実際上、これまでの解釈は①~⑤が何を主語として何を意味しているかでまったく一致していない。それ故に私案を提出する意味は十分にあると思う。

 このように、王に対して私はあなたの臣下ではない自由な存在だと述べ、さらに無名の樸は足るを知るためにあるのであって、そうなれば静謐さが戻るというのは「あなたは天下の静謐にとっての障害である」というに等しい。そして、これと前項の第三九章の最終句、つまり、王に対する「名誉ばかり求めていると、名誉は消えるぞ。そもそも美しい琭玉などというものは欲してもしょうがない。本をいえば、それは落ちていた石にすぎない」という警告は一体のものである。実際上、これは、状況によっては王権への公然とした異議申し立てが必要であるという姿勢を示すものであったというほかない。

 そもそも老子の活動期をBC三〇〇年頃と仮定すると、秦の始皇帝が即位したのは、その約五〇年後、同じ年に漢帝国の創始者、高祖・劉邦が江蘇省の庶民の家に生まれている。歴史の流れは急であって、始皇帝はBC二二一年に最後に残った斉を滅ぼして秦帝国の皇帝位につくも、一一年後には死去してしまう。その翌年、BC二〇九年、中国史上、最初の民衆反乱といわれる陳勝・呉広の反乱が発生して秦帝国はもろくも崩壊に向かった。注目すべきなのは、陳勝は若いときから日雇い人として他人の土地を耕していたという出身であったことである。そして彼は、兵役の途上、反乱を起こし「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王も将軍も生まれによって決まっている訳ではない)と呼号した。そして、この過程で成り上がって漢帝国を建設した劉邦も庶民出身の遊侠人であったのである。劉邦の軍事勢力の中心にいたのは劉邦と同郷の庶民たちであって、劉邦の死後に相次いで丞相となった蕭何(しようか)も曾参(そうさん)も胥吏(しより)という民衆から徴用された下級官吏であり(蕭何(しようか)は県の主吏掾、曾参(そうさん)は郷の獄吏)、将軍として名を売った樊噲(はんかい)は犬殺しの身分であった。

 考えてみれば、こういう庶民出身の人々が反乱の中で巨大な帝国の国家中枢を占拠するというのは、世界史的にも希有な事態である。これは、もちろん戦国時代から秦漢帝国の時代にかけての政治史の激動と戦争の中で起きたことではあるが、しかし、他面で、民衆の中に反権威主義的な思想が相当に深く蓄積されていたことを想定せざるをえない。そしてそのような思想の材料を提供したのは『老子』以外には考えられないのではないだろうか。本章や第三九章が人々の抵抗や反乱の論理を提供した可能性は高いのではないだろうか。

 ともあれ、漢帝国の初期において『老子』の思想が帝国中枢でもてはやされていたのは歴史的事実である。象徴的なのは、『史記』が右の庶民丞相の曾参(そうさん)の政治は老子の教えによっていたとするなかで「治道は清静なれば民自ずから定まる」という言葉を引いていることである。これはまさに『老子』本章の言葉である。また曽参と同じく建国の功臣で丞相をつとめた陳平が「老子の術を好む」といわれ、武帝に九卿の一人であった問う鄧公が「老子の言を修む」といわれているなど、その例は枚挙に暇がない(参照【池田注釈】四五九頁)。また本書でも何度か参照してきた『淮南子』は、前漢の武帝の頃に淮南王の劉安(前一七九~一二二)が学者を集めて編纂させたものであるが、そこには『老子』の思想が大きく取り入れられていた。これは『老子』が民衆反乱をふくむ政治的な行動の指針となりえたというだけでなく国家思想に深く入り込んでいたことを示している。秦の始皇帝の最初の宰相、呂不韋の編纂した『呂氏春秋』にも『老子』の影響がきわめて強いこと、『史記』の著者、司馬遷とその父の司馬談が『老子』の思想を血肉化していたことなどもよく知られている。これは『老子』が、中国にはじめて登場した本格的な思想と哲学の体系を代表していた以上、ある意味で当然のことであったろう。

 よく知られているように、中国には、周王朝の時代から、王権は「天帝の命」をうけて位につくというの国家思想があった。『孟子』には伝説的な聖帝、堯・舜・禹の間での「禅譲」という平和的な方式と、湯・武が行った「放伐」という暴力的な方式の二つが述べられているのはよく知られている。これに対して、老子には儒学が前提としていた「天帝」「天命」という観念はなく、その国家思想は、道理に反して不当な欲望にふける王を元の木阿弥にして退場させるというより単純なものであったが、そこには相当の哲学的あるいは社会科学的な論理があったのである。

 しかし、所詮、漢の帝国秩序の強化とともに、このような老子の思想は周縁に追いやられる運命にあった。そのような動向の中で、儒学は、はじめて漢帝国の国教となり国家思想の中枢の位置を占めることができたのである。私は孔子・孟子の儒学の思想的意味を軽視しようとは思わないが、しかし、それまでの儒学が哲学思想としては何といっても深さと体系性を欠いていたことは否定できないと思う。儒学は『老子』の思想と対決する中で始めて国家思想として自己を作りかえることに成功したのだと思う。その中で、天命をうけた王権が「徳政」をほどこすことによって持続し、そうでなければ「天命」が革まり、王家が交代し、その氏姓が易(か)わるという、いわゆる易姓革命の思想が中華帝国の思想として体系化されていったのである。

2017年8月10日 (木)

『老子』。天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

天の網は大きくて目が粗いが、人間の決断をみている(第七三章)

 危機に直面したとき、行動を決断して死をまねくか。自制を決断して活き抜く結果となるか。どちらに利があり、害があるか。天がどちらを否とするか、その理由は何か。それは、誰にも分かることではない。天の道は争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応(こた)え、求めないもののところに来て、泰然として善なるものに配慮するだけである。通理(つうり)の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、そこでは、決して、実意ある決断が忘失されることはない。

勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。
天之道、不争而善勝、不言而善應、不召而自來、坦然而善謀。天網恢恢、疎而不漏*。
*底本「失」。日本では『後漢書』により漏を慣用する。

敢えてするに勇なるものは則ち殺。敢えてせざるに勇なるものは則ち活。此の両者は、或いは利あり、或いは害なるも、天の悪とする所は、孰(たれ)かその故を知らん。天の道は、争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ、召(まね)かざるに自(おのずか)ら来り、坦然(たんぜん)として善なるに謀(はか)らう。天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疎にして漏らさず。

解説
 本章冒頭の「殺」と「活」は名詞として読み下すのが良いという長谷川如是閑の読みに従った。「殺」「活」は、危機において決断した人間が、どうなったかという結果を表現すると読むのである。これに対して、「殺す」「活かす」などと動詞として読むと、その主語が問題となって読みが混乱する。

 たとえば、もっとも多いのは、「殺す」「活かす」の主語を裁判官とする場合であって、その結果、「ここに一つの疑獄があって、果断なる人は殺すべしと判断し、遅疑する人は活すべしと判断する場合、この果断者と遅疑者の両方は倶に利害を謀り考えて判断するのであるが、かかる問題は利害の打算で定むべきものでないから、果断者・遅疑者のいずれもこれを知ることができない。いわゆる天意・天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われ、呼ばずして自ら従い来るもので、寛大ではあるがぬけ目のないものである。言い換えれば天が善を助け悪をとらえる網は大きくして網目はまばらであるが漏失することはないものである」などと全体が訳されることになる(武内一九二七)。他の解釈の枠組みもほぼ同じであるが、裁判官、「殺」「活」の状態となる人間、さらには「天」の三者が短い文章のなかにでてきて、なかなか意味が取りにくい。

 しかし、そもそも、こういう思想は法家にこそふさわしい。老子は法家にはある意味で儒家に対するよりも批判的であって、老子が裁判者の立場に立って問題を述べるということ自体に根本的に疑問がある。しかも、その実際の主張は、利害によって裁判を判断してはならないという、あまりに当然の結論である。そんなことを老子がいうとは考えられない。

 また上記では「争わずして善なるを勝たせ、言わずして善なるに応じ」と読み下したが、普通は、ここを「争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ」と読み下して、天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われると解釈する。しかし天道が「争わずして勝ち」というのは、「天が争う」という発想がおかしい。ここは私が読み下した通りに、「天道というものは争わないで善なるものを勝たせ、強くいわずに善なるものに応える」と訳したい。

 最大の問題、最後の「天網恢恢、疏にして失わず」という有名な一節の解釈である。普通は、この「天網」の「網」の字を紀綱という意味と解釈する。つまり「天網」とは天の法であり、天の法はすべてを見ていて嘘を許さず、罪を許さないというのである。天網とは「天が悪人を捕らえるために張りめぐらした網」(【福永注釈】)のことだということになる。そして、老子が法家と違うのは、老子が威圧的な刑法の運用に賛成せず、悪人を捕らえ、犯罪を罰するのは天に任せるべきであると主張するところにあるというのである。しかし、そもそも、天に悪人を見逃さない網があるのだというのは、実質的には法家より厳しい法規主義ではないだろうか。

 私は、このような解釈にすべて反対である。長谷川如是閑のいうことも「殺」「活」の部分だけは明瞭だが、ほかは曖昧である。むしろ、老子は決断の価値と必要性を認め、人生において決断することの意味を説き、我々を励まそうとしていると考えたい。問題の「天網恢恢、疏にして失わず」のところは「通理の道を織りなしている天の網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、決して、実意ある決断が忘失されることはない」と理解するのである。

 それが、そもそも「道」というものの理解、そして老子の世界観・宇宙観からでていることが重要なところである。つまり、私は、「天網」とは、前々項の一四章がいう透明な縄が集まった「微・希・夷」の目にみえない「道」の広がりのことをいうのではないかと思う。それは一四章では自然の「道」、自然法則のことであったが、この場合は、社会的な諸関係のすべてを貫いている通理であるということになる。この形のない、「無」の天網が人間の決断を見ている、そして励ましているというのが、我々弱い人間に対する、老子の励ましなのではないだろうか。そういうように考えて、この「天網恢恢」を法家の思想から完全に切り離してしまいたい。

 もし、そう理解できれば、本章は、老子が、「道」というものを自然的な法則であると同時に社会的な法則、あるいは社会的な法則という言葉があまりに社会を固定的に捉えてしまう感じがするということならば、社会的な諸関係を貫ぬく通理としても考えていたことを示す重要な章ということになる。そもそも社会的な関連それ自体というものは目に見えないものであるから、それを透明な網のようなものだというのは「道」についての、もっともよい比喩であると思う。私たちが象にのって歩む自由の道について、見ることも聞くこともできず、味もしないといっているような、人間の「道」、社会の「道」についての表現も(三五章)、この章をベースにして理解できるのである。

 こういうように解釈をしていると、社会的電子情報システムというものは、『老子』のいう「天網」の実態をなすものであるように思う。「電網」である。
 ネットワークが意識をもつのではない。ネットワークは多様で個々人の身体にしか宿らない意識が直接に相互関連する場となっており、それを脈動させるのは多数の人間の意識そのものである。
 これは『老子』のいう「道」の天網そのものではないだろうか。『老子』の夢かもしれない。

2017年8月 8日 (火)

『老子』「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だ(第三八章)。


 『老子』の三八章。「仁・義・礼」などと声高にいうのは愚の骨頂だという題をつけたが、東アジアの言葉の世界では、つねに顧みられるべき章であろうと思う。老子の怒りは、今にも通ずる実質をもっている。

 「道」から発した善(よ)い「徳」は徳(はたらき)がないようで徳(はたらき)があり、そうでない「徳」は徳(はたらき)があるようで徳(はたらき)がない。善(よ)い「徳」は無為に構えて実際に無為のままでうまくいく。ところが「仁」というものは為(な)したようでも実際には何も為(し)ていない。また「義」というものは言葉だけで、やることはやったんだと居直るための口実になっている。さらに善いという「礼」になると、働きかけて相手が打算通りに応じないと腕まくりをして詰めよっていく。要するに、「道」を失った世界に「徳」が残り、「徳」を失った世界に「仁」が生まれ、「仁」が消えると「義」がつっぱり、「義」もなくなると「礼」がしゃしゃり出るという訳だ。この最後の「礼」がもっとも問題であって、まっとうな「信」がなくなって、そこから乱離が始まっていき、一方的な打算にもとづいてあだ華のような道理を説く。これほど人間を愚劣にすることはない。これらをふまえて、鍛えられた大人は部厚く構えて軽薄には動かず、実際を大事にして見かけの華々しさは無視する。その取捨選択に筋を通すのだ。

上徳、不徳是以有徳。下徳、不失徳是以無徳。上徳、無為而無以為*。
上仁、為之而無以為。上義、為之而有以為。上礼、為之而莫之應、則攘臂而扔之。
故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後礼。
夫礼者、忠信之薄而乱之首。前識者、道之華而愚之始。
是以大丈夫、処其厚不居其薄、処其実不居其華。故去彼取此。
*底本は、ここに「下徳、為之而有以為」とある。帛書及び『韓非子』(解老篇)にはなく、それに従った。

上徳は、徳ならずして是(ここ)を以て徳あり。下徳は、徳を失わずして是を以て徳なし。上徳は、無為にし而(て)、以て為すこと無し。下徳は、之(これ)を為し而(て)、以て為すありとす。上仁は、之を為し而(て)、以て為すことなし。上義は之を為し而(て)、以て為すありとす。上礼は之を為し而(て)、之に応ずる莫(な)くんば、則(すなわ)ち臂(ひじ)を攘げ而(て)、之に扔(むか)う。故に道を失い而(て)、後に徳あり、徳を失い而(て)、後に仁あり、仁を失い而(て)、後に義あり、義を失い而(て)、後に礼あり。夫(そ)れ礼なる者は、忠信の薄きにし而(て)、乱の首(はじめ)なり。前識なる者は、道の華(はな)にし而(て)、愚の始めなり。是を以て大丈夫は、その厚きに処(お)りて、その薄きに居らず、其の実(じつ)に処りて其の華に居らず。故に彼れを去(す)てて此(これ)を取る。

解説 
 本章は郭店楚簡にはふくまれていないが、帛書では、『老子』は本章から始まっていた。帛書老子は「德」と「道」という二つの篇名をもって編纂されており、現行本と相違して「徳篇」が先にきているのである。それ故に帛書老子のトップは、この章になっているのである。
 その事情はよくわからないが、郭店楚簡は帛書以降のような五千字の『老子』が出来上がっていく途中の経過を示しているという意見をとると(【池田注釈】)、本章は一種の総論のようにして追加されたものかも知れない。目立つのは「仁・義・礼」という儒学の徳目に対する、『老子』には珍しいほどの激しい論難であって、ほとんど罵倒に近い。
 それだけに『老子』には珍しく分かりやすい話であるが、順にみていくと、「上徳」という言葉は、ほかに第四一章にも「上徳は谷の若し」とみえて、「道」にみちびかれた「徳」という意味である。この上徳は徳(はたらき)がないようで徳(はたらき)がある卓越した徳であり、無為に構えて実際に無為のままでうまくいく。ところが、「下徳」になると徳(はたらき)があるようで徳(はたらき)がなく、その中から「仁」というものが生まれ、これは形だけやったようでも何もやっていない。さらに「義」というものになると、やることはやったんだと言葉に逃げるだけになる。最悪なのは「礼」というもので、これは実際には相手に自分に都合のよい期待をかけて、相手がそれに応じないと威嚇するというもので、手前勝手な打算が上品そうな顔をしたものにすぎないという。
 こういうことでは世も末だというのが老子の慨嘆であって、「道」→「徳」→「仁」→「義」→「礼」と人間が形だけを気にするようになってきたのは許しがたいという訳である。これはもちろん、「仁・義・礼」を強調する儒学に対する批判である。しかし、このような怒りにも似た感情は単に儒学に対する批判であったとは考えられない。むしろ実際にはすべての徳目を形骸化してしまう社会の風潮に対する慨嘆から発しているのではないだろうか。つまり、これは戦国時代ににおける国家の文明化の中で蕩々と進行していた人間関係の形骸化が「仁・義・礼」などという美名によって隠されることへの批判であり、また国家の官僚機構のなかで強くなってくる形式的な倫理への批判であったというのが至当であろう。
 老子は「仁・義・礼」の徳目自体を否定しているのではないだろう。老子は、上記のような蕩々と進む人間関係と倫理の形骸化に対して孔子から始まった「士大夫」の知識人世界が十分な批判の論理をもたず、それに流されることへの警鐘を発したのだと考えたい。

2017年8月 7日 (月)

『老子』、大国も小国も自由な連邦(第六一章)

 連邦制ということを東アジアで考えるためには、一方ではアメリカ連邦(合衆国ではなく、こういうように国号を訳している)、他方で「中華帝国」のことを考える必要があるが、考える上でもむずかしいのはいうまでもなく、中華帝国である。これは世界史全体の基礎問題に直結してくる。おそらく、これを考える上でも原点は『老子』になる。

大国も小国も自由な連邦(第六一章)
 大国はいわば大河の下流であり、世の中の多くのものが交流する場であり、いわば「天下の牝」ともいうべき開かれた女の位置にある。女はつねに静かにしていて男に勝つが、それは平静さをたもって下手にでるからだ。だから、大国が小国にへりくだれば大国は小国の信頼を得るし、小国が大国にへりくだれば小国も大国の保障を得ることができる。これは、大国が小国を併せて人口を増やし、代わりに小国が大国の傘下に入る連邦の関係でなければならない。こうして両方がそれぞれの必要を得ることができるが、そのためには、まず大国がへり下らなければならない。

大国者下流、天下之交、天下之牝。牝恒以静勝牡、以其*静故**為下。
故大国以下小国、則取小国、小国以下大国、則取大国。故或下以取、或下而取。
大国不過欲兼畜人、小国不過欲入事人。
夫兩者各得其所欲、大者宜為下。
*底本「其」なし。**底本「故」なし。

大国は下流なり。天下の交なり、天下の牝なり。牝は恒に静を以て牡に勝つ。その静を以て故に下るを為せばなり。故に大国は以て小国に下らば則ち小国を取り、小国は以て大国に下らば則ち大国を取る。故に或いは下りて以て取り、或は下りて而も取る。大国は人を兼ね畜わんと欲するに過ぎず、小国は入りて人に事へんと欲するに過ぎず。それ兩者は各おのその欲する所を得ん。大なる者、宜しく下るを為すべし。

解説

 【木村注釈】は「大国は下流なり」というのは、有名な成語・諺であろうとする。もとより、この諺の源流は分からないが、相当に古いのではないだろうか。『論語』(子張篇二〇)に「君子は下流に居ることを悪む。天下の悪事みな焉れに帰す」(君子は下流にいるのを嫌う。そこには全ての悪が集まる)とあるのも、ちょうど真反対であるが参考になるように思う。

 続く「天下の交なり」というのは、大国が天下の交流の場であるということであり、「天下の牝なり」というのは、【長谷川注釈】もいうようにたくさんの雄が雌を求めて集まるように、大国にむかって小国があつまることであろう。そして大国が多数の小国の帰順をえるためには平静な姿勢で世界に開かれてへりくだっているのが必要だという。

 次に「大国は以て小国に下らば則ち小国を取り」とあるが、ここで「取り」という語を併合すると訳す注釈も多い。しかし、これは【福永注釈】が、『荀子』(王制篇)に「鄭国の子産は民を取りし者」とある「取る」と同じで信頼をえるということであるとするのが正しいだろう。「大国は以て小国に下らば則ち小国を取り」というのは、「大国が小国にへりくだれば大国は小国の信頼を得る」という意味になのである。ここでは大国と小国の関係は占領や従属・併合の関係ではなく、基本的には信頼の関係、同盟の関係とされていることに注意すべきだろう。

 続いて「大国は人を兼ね畜わんと欲するに過ぎず、小国は入りて人に事へんと欲するに過ぎず」というのは、「過ぎてはならない」という意味で取りたい。大国は関係する人口が増えることからくる利益、小国は大国の傘下で保障をえることの利益に関心を限るべきであって、それ以上の利益を相互に期待しては成らず、主権は放棄しないということである。

 このようにみてくると、大国・小国の関係を相対的に対等なものとして描いた【木村注釈】を例外として、これまでのほとんどの注釈が(【福永注釈】をふくめて)、本章は大国の立場から書かれたものだとしているのは問題が多いことがわかる。むしろ、本章は、大国と小国が基本的には対等な関係を結んで連合すること、つまり連邦制を論じているというべきであろう。本章でみてきたような老子の国家のあり方や戦争と平和についての主張は、すべてこの大小を問わず諸国家は対等であり、必要な場合は連邦を組むという考え方に支えられたものであった可能性があるのである。

 以上が認められるとすれば、老子の時代に、このような連邦国家の考え方があったことが興味深い問題となる。春秋時代の中国には約二〇〇以上の都市国家が全土に分布していたが、戦国時代には、それらは秦・蜀・楚・韓・魏・宋・魯・趙・斉などのより領域的な国家に整理されていった。そこで諸国の間で秦や斉を大国としていわゆる合従連衡(同盟関係の組み直し)が行われたにはよく知られた事実である。その背景には、『老子』本章に残されたような連邦国家という考え方が、おそらく春秋時代より連続して中国社会に流れ続けていたのではないだろうか。秦漢帝国の形成はそれを一挙に夢物語のようにしたとしても、その底流は続いたものとみたい。

2017年7月26日 (水)

『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり

 本業の関係で、陰陽道の知識をえなければならず、ともかく易経の解説書を読み、それによって易経を拾い読みしてみた。「形而上学」という言葉の典拠が易経にあることは知っていたが、それを実際に読んでみて、日本の学術世界が東アジアの学術用語との連携をうしなっていることの問題を自覚した。

 また藤田省三氏の竹内光浩など編『語る藤田省三』(岩波現代文庫)の徂徠を読んで、たいへんに面白かった。そこに「器」論があるので、それと引っかけて、下記を書いてみた。藤田が「我らが同時代人、徂徠」という理由がよくわかる。
 
 また例によって労働論、労働の二重性論にふれる議論となった。

 また世阿弥がほぼ確実に『老子』を読んでいるだろうということも勉強した。
 
 お読みいただければ幸いです。

 『老子』11章、その無なるに当たって、器の用あり

車の三十もある輻(や)(スポーク)が一つの轂(こしき)(ドラム)を共にするが、内側の空無によって車の用(はたら)きが支えられている。粘土をこねて陶器をつくるが、内側の空無にこそ器の用(はたら)きがある。戸と窓をあけて室を作るが、内側の空無にこそ室の用(はたら)きがある。有用物が利便なのは、その物のなかの無用にみえる部分の用(はたら)きによっているのである。

三十輻共一轂。當其無有車之用。挺埴以為器。當其無有器之用。鑿牖以為室。當其無有室之用。故有之以為利、無之以為用。

三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり。埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり。戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無なるに当たって、室の用あり。故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。

解説
 冒頭の「三十の輻(や)、一つの轂(こしき)を共にす。其の無なるに当たって、車の用あり」というのは、いわゆる「無用の用」、つまり物の有用さは、実はそのもののもつ「無・無用性」によって支えられているということの巧妙な説明としてよく知られている。

 ただ、解説は二番目の「埴(つち)を挺(こ)ねて以て器(うつわ)を為(つく)る。其の無なるに当たって、器の用あり」からする必要がある。つまり、老子のいう「器」というのは、有用な形をもつものすべてを表現する言葉である。経済学的に言えば、物体は、人間にとってほとんどの場合、何らかの有用性(効用)をもつから、この老子の用語法でいけば、すべての具体的な形をもった物は「器」として定義されることになる。

 老子は、この「器」の有用性を「器の用(はたら)き」(「車の用(はたら)き」「室の用(はたら)き」)と表現する。そして老子は「善」を物事の有用な本性をよく発揮させることとしていたから、この「器の用(はたら)き」の良さこそが「善」であるということになる。老子の「善」の定義の基礎には「器」→「用(はたら)き」という考え方があったことはとくに注意しておきたいことである(藤田一九一頁)。そもそも日本語の「はたらく」の元の形は「徴(はた)る」または「剥る」(「強く取り立てる」「削り取る」)であるという(『和訓栞』『字訓』)。「はたらく」とは強い目的意識の下に物や人間から何かを絞り出すことであって、それはドイツ語のアウスボイトング(Ausbeutung)が搾取という意味をもつと同時に自然を利用する、開発するという意味をもつのと同じことであろう。英語でいえばただの労役labourとは区別された目的意識を明瞭にもった仕事workが「はたらく」ということになる。

 また「器」という言葉は、器量・器用などという言葉が示すように、人間の技能・性格なども意味する言葉になった。荻生徂徠は「『器』とは道具だから特定のものに役に立つものだ。特徴のあるものだ。人間みな得手不得手がある。その得手不得手のない奴はぼんくらでどうにもならん。人がある事柄に役立つことを『器』という。したがって器量人とは役に立つ人間になるのであって、大体癖があるものだ」と述べている。

 この頃は「器」という言葉を使うこと自体が少なくなってしまったが、これは実は老子から始まったものなのである。それが中国的な思考方法に深く根付いたのは、紀元前二五〇年前後に編纂された『易経』繋辞伝が「形而上なるもの、これを『道』といい、形而下なるものを『器』という」と老子の「器」という用語を受容したときにさかのぼるといってよい。『易経』繋辞伝は儒家の編纂したものであるが、そこで形而上(形がない超越的な世界)、形而下(形のある世界)という用語を決めたときに「形而下」の世界は「器」の世界とされたのである(なお、この繋辞伝が、日本でメタフィジックを「形而上学」と訳す理由となったのだから、そこからすると形而上学という語の淵源は老子にあったことになる)。

 はるかくだって日本の足利時代の能の大成者、世阿弥は「有は見、無は器なり。有を現すものは無なり」(『遊楽習道風見』)と述べている。つまり、有は目の前に見えているが、無は器の本質である。有を有として現す力をもつのは無なのであるということであるが、これは『老子』の本章によるものである。ここからみて、世阿弥は、ほぼ確実に『老子』を読んでいたであろう(石田博一九八四)。日本の芸能において「間」「無言」を大事にする伝統があることはよく知られているが、それが老子の言葉によって表現されていることにもっと注意すべきだろう。
 なお、蜂屋は『老子』には意外なことに観念としての「無」という言葉はほとんど出てこない(蜂屋「中国的思考一八二頁)。もちろん、ただの否定詞として否定表現のために使われる「無」はたくさん出てくるが、本章のような哲学用語らしい用例は第四〇章をのぞいてほとんどなく、その意味でも本章はきわめて重要であると述べている。

2017年7月18日 (火)

『老子』上善は水の若(ごと)し(第八章)

上善は水の若(ごと)し(第八章)

 上品な善というものは水のようなものである。水はすべてを潤して争わない。水は人の利用しない沼沢地に流れ込む。こういう水の性格はきわめて道に近い。それはともかく、住み方の善は地べたに近く棲むことにあり、心の善は奥が深く低いことにあり、友であることの善は思いやり(仁)にあり、言葉の善は言を守る信(まこと)にあり、正しいことの善は自分が治まっていることにあり、事業の善はただ己(おのれ)の能事(できること)をやることにあり、行動の善はただ時を外さないことにある。そもそも争わないというのは人に責任をもっていかないということだ。

上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所惡。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。

上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る。故に道に幾(ちか)し。居(きよ)の善は地にあり、心(こころ)の善は淵(ふか)きことにあり、与(とも)の善は仁にあり、言(ことば)の善は信(まこと)にあり。正(せい)の善は治にあり、事(こと)の善は能にあり、動(どう)の善は時にあり。それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し。

解説
 この「上善は水の若(ごと)し。水は万物を利して争わず。衆人の悪(いと)う所に処る」という章句は人生訓を説いた老子の言葉の中でももっとも有名なものであろう。第七八章には「天下に水より柔弱なるは莫(な)し」とあって、『老子』にとって「水」は柔弱なもの、つまり女性的な「徳(はたらき)」の比喩として使われている。

 人生にとって、この「水」のような争わない「柔弱さ」、「女性的な徳(はたらき)」、そして「水」のような自由が大事だというのが、老子のいいたいことであろうと思う。その意味では、本章は、悠然とした人生の自由を説いた「大きな象に乗って天下を往く」という本節冒頭で掲げた第三五章に対応するものである。ただ、「大象」=「大道」は「道」の比喩であって、どちらかといえば男性的な「道」と自由を説いているのに対して、この「上善、如し」は女性的な「徳(はたらき)」ということになる。そのような意味をふくめてこれを人生訓の最後として掲げることとした。

 本章の主題は「善」はこの「水」=「柔弱」=「女性的な徳(はたらき)」にこそあるということにある。それが物体としての「水」のあり方にそくして語られていることが、この章句を味わい深いものとしている。「居・心・与・言・正・事・動」などの人生の生き方に関わる事柄では「善」は水のもっているような自由と「徳(はたらき)」こそ大事であるというのである。つまり、「居=住み方」の善は地べたに近く棲むことにあるが、それは水が低いところに流れるのと同じであり、「心」の善は奥が深いことにあるが、それは水が深い淵を作るのと同じである。また「友(与)」であることの善は水のように柔弱な思いやり(「仁」)にあり、「言(言葉)」の善は水のように純粋透明な信(まこと)にある。「信(まこと)」とは言語の透明さと誠実を意味するというのである。さらに「正しいこと」の善は自分の内面が明鏡止水(鏡のように静かな水面)のように治まっていることにあるというのである。

 このような「水」=「柔弱」=「女性的な徳(はたらき)」の評価が、さらに一種の行動原則にも及んでいることが重要であろう。まず「事」の善、つまり大小の事業における「善」はただ能事(できること)をやるだけというのは、諺でいう「能事畢矣(能事(のうじ)畢(おわ)れり)」、つまり「なすべきことをなし、後は運に任せる」ということである。この諺の典拠は、普通、『易経』(繋辞上)によるというが、言葉としてはそうであっても、本来は『老子』に由来するものであった可能性もあると思う。自分の分担は淡々とこなし、結果は静かに待つという柔軟な受動性ということである。そして、「動(行動)」の善はただ自分の時を外さないことにあるというも、冷静であると同時に水のように即座に反応するという受動のイメージだろうと思う。

 これらの「居ー地」「心ー淵」「与ー仁」「言ー信」「正ー治」「事ー能」「動ー時」のすべてについて、「水」のイメージの内観をもって事にあたれというのが『老子』の人生訓ということになる。もちろん、ここであげられている徳目は『論語』『孟子』などにも出てくるものが多いが、しかし、当時の人々にとっては、本章は、儒家の言説を体系的に組み替える衝撃力をもっていたのではないかと思う。それらの徳目が「水」の受動的で柔弱さな徳(はたらき)と一括して捉えられ、「それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し」とまとめられることによって、全体のイメージがまったく異なってくるのである(なお「それ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)むること無し」は、普通、「争わないから尤(とが)められることもない」と訳されるが、ここは、文脈からいって「争わないとは人に責任をもっていかないことだ」と訳したい)。

 なお、本章で面白いのは、冒頭で「水」の性格について述べた後に、「故に道に幾(ちか)し」とされるところだろう。これは「水と同じように道も無為自然だ」というように抽象的に理解されるが、しかし、例によって、まずはもっと即物的に理解されなければならないだろう。つまり、道路の場所としての性格が水辺の土地や水路と似ているといっているのである。たとえば、日本には「水に流す」という言葉があるが、水路・河原はそもそも汚れ物を排出しておく場所であった。そのため、たとえば平安時代によると、そういう場所で汚物をみてそのまま内裏に参上したり、神事に従ったりしても、「穢れ」のタブーにふれたことにはならないという慣習があった。そして実は道路の「穢れ」も、同じくタブーのはならなかったのである。

 これは河原・水路と道路は社会のなかの開放空間という点で共通性をもっているということだと理解されている(山本幸司一九九二)。つまり道が四通八達するのにそって、川や水路も四通八達していく。道と川・水路の開放空間が自然を区分すると同時にしていき、社会のインフラストラクチャとなっていくのである。日本と中国では「浄穢」観念のあり方は相違しているが、水路・河原と道の性格は共通していたに相違ない。「故に道に幾(ちか)し」というのは、まずはそういう具体的なニュアンスであったに相違ない。

 そして、道と川をくらべれば、老子の好むところは川にあったに違いない。それに対して、これまでの解釈には「故に道に幾(ちか)し」を「水は道に近いほどの価値をもっているのだ」というニュアンスがどうしてもつきまとっているように思う。しかし、川の方が自然と大地に近く、より自由で、より謙虚なものであって、老子にとっては、「道」(男性的な道と理法の世界)よりも、「水の徳(はたらき)」(女性的な受動の徳)の方が本質的に「善」なるものであったことは疑いをいれないと思う。

2017年7月17日 (月)

「『人種問題』と公共―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」

 先日、国際理解教育学会での報告レジュメです。
 素人のアメリカ論で、しかもレジュメですので、読みにくいと思います。

「『人種問題』と公共性・市民性―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」
                20170715保立道久 国際理解教育学会報告
前提としてーー国民・民族・人種について
 世界的に多民族状況の中での公共性を考える必要。他民族の公共性を否定する現状。世界の公共性を考えるために、多民族国家としてのアメリカ論が必要な時代。アメリカへの関心を研究と教育の世界で共有すること。

国民の定義ーー「国民=Natinal」「想像の共同体」B・アンダーソン
 国籍、市民権。日本国憲法一〇条「日本国民Japanese Nationalたる要件は法律でこれを定める」とあるように法律的な関係。神聖な実体ではない(レーガン「(アメリカ市民権は)わが国民のもっとも神聖な所有物」)。「物」に執着する「国家主義(スタティズム)」。
 国籍保持者=国民の利益=国益の自決の原則。The Right of Nations to Self-Determination(民族自決権ではなく、国民的自決権あるいは国民国家の自決権と翻訳すべき)。レーニン「平和に関する布告」→ウィルソン「十四か条の平和原則」→ヴェルサイユ条約→国連憲章(第1条2)「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」。相互に国益の自決権を認め、無用な衝突や戦争をさける。 

民族の定義ーーエスニシティ
 ネーションは誤訳。ナショナリズムという言葉、国民・民族にまたがり適当でない。
J・S・ミル『代議制統治論』の古典的定義(オットー・バウアも同じ)。
「人種と血統、言語と宗教、さらに地理的境界などの共通性などを条件として、歴史的な沿革によって生まれる協働と共感に結ばれた集団のことをいう」。
 本質は後者の歴史的経験。長い歴史的経験の共通性と運命による協同意識。内部に公共圏や歴史文化を作り出した場合、民族性が生まれたという。民族を成り立たせる「共通性」は固定的なものではなく、一つの標識だけでは民族は成立しないが、逆にある標識が欠けても民族として存在しうる。多様かつ状況的で可変的なもの。しかし、国民とは違って法律的=想像的ではなく実在する関係。エスニック集団の否定は、一種の民族虚無主義

スターリンの民族の定義?
 「民族とは言語、地域、経済生活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体である」(『マルクス主義と民族問題』)。
 この四条件をもつ集団のみを民族とする、民族の行政的(恣意的)定義。「民族」を「国民」にほぼ近似したものに限り、多様なエスニックな存在を「人種あるいは種族」にすぎないと切り捨て民族としての権利を認めない。裏返しの人種主義。ユダヤ民族などの虐殺の「理論」根拠。旧ロシア帝国内から東欧に広がる多様なエスニックグループの自決の権利の困難の原因。一九世紀に大国化したロシアとアメリカは同じ問題をもっていた。

「人種」(レースrace)の定義
「人類を『人種』に分類することは身分秩序(ハイアラーキー)をうみだす因習と恣意にすぎない。『人種』という関係は生物学的な問題ではなく社会的な要因から起こる。人類の集団の間の相違は彼らの文化と歴史から発するものである」(ユネスコ、一九六七年『人種および人種偏見についての声明』)。人種という語の使用自体が人種主義(racism)と断定。
 リンネ「白色人種(ヨーロッパ、創意に富む)・赤色人種(アメリカ、自己の運命に自足)・蒼色人種(アジア、黄色人種、高慢・貪欲)・黒色人種(狡猾・怠け者)」と分類。
 分子生物学、生物分類学のレヴェルから批判。「人種」という用語は一切使用せず、たとえばDNA類型というような用語を使うほかない。「人類ー人種」という言葉は問題ばらみ。普通の分類学では「類」が上位概念であって、その下に「種」がある。「類」は進化の系統が同じ動物で、それに対して「種」は相互に性交繁殖できる集団をいう。ただ「霊長類」の場合は、「霊長類」の下に「人類」があり、人類は一種であり、相互に性交繁殖できる存在である。生物学の用語法では「人種」という言葉は不要なのである。「霊長類」という用語をつくったリンネが同時に「人種」という言葉を作ってしまったのが間違い。
 哲学の「類」(独語gattung、英語genus)という概念に関わってくる。つまり人間の最大の特性が独特な意識をもつこと。フォイエルバッハは、人間の意識が動物とくらべてもっとも独自な特徴を「人間は自分自身にとって同時に我であり、汝である。彼は自分自身を他の人間の立場において見ることができる」点に求めている。人間には霊的な意識というものがあって、そこから自分と他者を同じ本姓をもつものと意識するような存在である。フォイエルバッハはこういう人間のあり方を類的性格(gattungswessen)と読んでいる。
 人種は身分制的な制度、観念としてエスニシティ間関係を作り、その形態を変化させる。人種的身分差別は、特定のエスニック集団をもっぱら、動物的な特徴に還元するイデオロギー。そのエスニック集団を他種動物として扱い、「類」と認めない。暴力を振るうものは自分を人間から人間の顔をした動物に変化させ、同時に他者を人間から動物に引き落とす。特定のエスニック集団に属するものが、他のエスニック集団に対して集団暴力を行使することであり、人種主義とは動物的な暴力の合理化意識。暴力の妄想。

Ⅰ人種主義イデオロギーの系譜とアメリカ資本主義
(1)近代人種主義の起原とキリスト教ヨーロッパ帝国
(イ)人種主義の起原と王権神話ーートマス・ペイン
 ヨーロッパ民主主義の形成を考える場合に、その外側で同時に人種主義の形成と世界化が進んだことを無視できない。人種主義を遡っていくとヨーロッパ諸国の王権の血統神話に突き当たる(フレドリクソン『人種主義の歴史』)。スペイン=ゴート、フランス=フランク、ドイツ=ゲルマン、イギリス=アングロ・サクソンとノルマンなどのゲルマン諸族の神話である。彼らはキリスト教信仰を受け入れるなかで、その神話をアダム・ノア以来の旧約聖書の系譜と奇妙な形で結びつけた。たとえばゴートの王はノアの子のヤペテの血統を引いており、イギリスの先住民ブリトン人も同じだが、アングロサクソン人はノアの長子セムにつながる血統をもっているなどの伝説である。こうしてヨーロッパ各地でゲルマンの王権神話が絶対主義王権の血の呪物性の神話(王権神授説)に結晶したのである。
 トマス・ペインは、これを一言で要約して「異教徒は死んだ国王を崇拝した。そしてキリスト教徒の世界は、このやり方を進めて生きている国王を崇拝した」と述べている(『コモン・センス』)。死んだ国王に対する崇拝とは王権神話そのものである。
 ヨーロッパ諸国の王権は、十字軍以降、イスラム帝国に挑戦する中で、それを融合させ、キリスト教的な一つの「人種」意識を作り出した。先導したのはスペイン・ポルトガルの両国。つまり一四九二年の一月、スペインはグラナダを攻略して、イベリア半島からイスラム勢力を追い落とすことに成功した。そして続いて三月、ユダヤ教徒に対して改宗を迫り、非改宗者を追放した。グラナダ攻略の成功をうけて、スペインの対外交易に深く関わっていたユダヤ教徒の力を削ぎ、統制しようとした。ヨーロッパでは十字軍遠征の前後からのユダヤ人虐殺(ポグロム)がしばしば発生したが、これによってヨーロッパ全域でのユダヤ教徒に対する「人種」差別の体制が決定的となった。
 ユダヤ教徒に対する「人種」迫害は、キリスト教徒を特別な人種ととらえるイデオロギーを成立させる。ドン・キホーテが自身のことを「光輝あるゴート人」と自称し、サンチョが「良き生まれにして紛うかたなき古きキリスト教徒」といいつのっているように、「ゴート人=キリスト教徒」をもってイスラムやユダヤ教徒と差別化する強烈な意識。
 スペインで、世界的な人種主義イデオロギーの枠組みが作られた。「人種=レース」という言葉自身が、スペイン語のrazaから始まった。「カスタ(種姓=身分)」という言葉もイベリア半島で個々のキリスト教徒としての筋目の正しさを表現する言葉。これがポルトガルによってインド支配に導入され、それをイギリスが受け継ぐなかで、英語にもカーストという言葉が入り、それによってインド身分制度の一般的な表現になったのである。

(ロ)スペイン・ポルトガルの環大西洋支配
 このスペインで作られた人種身分のイデオロギーがアフリカやアメリカの諸民族にもほぼ同時に適用され、一つの世界的な人種主義イデオロギーに展開した。
 つまり、グラナダ陥落の翌月、イサベル女王はコロンブスの出航計画への支援を決断した。コロンブスの計画は、大西洋を西に航海してインドに到達するという破天荒なものであったが、その構想はイスラム世界をインドの側から包囲し、また中東ーインド貿易を独占していたヴェニス商人を最終的に追い落とすこと。グラナダ陥落、ユダヤ人の改宗統制という経過のなかで、それと一体となった世界進出の野望を抱いたのである。
 コロンブスのアメリカ大陸への到達によって、スペイン・ポルトガル両国は世界侵略の拠点として、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカを結ぶ巨大な三角形、環太平洋地帯を獲得した。両国の急速な世界帝国化であり、これにオランダ・イギリス・フランスが続き、ヨーロッパの諸王国は、あたかも多頭の龍のように相互に競合しながら激しい侵略の衝動に身をゆだねた。それは、イスラム帝国に対抗するキリスト教帝国の行動というべきもので、多頭の複合帝国であっただけにアジアの諸帝国と比してきわめて狂暴。このヨーロッパキリスト教帝国の中核に「キリスト教人種」意識があったことは否定できない。

(ハ)大西洋クレオールとアフリカ奴隷・アメリカ先住民
 イベリア両国の帝国的発展の基礎となったのはアフリカ西海岸への勢力拡張であった。一五世紀にはポルトガル・スペインは西海岸で金・砂糖・アフリカ人奴隷の交易を組織し、マディラ諸島・カナリア諸島に奴隷によるプランテーションや砂糖工場をおいていた。
 この地域に進出してアフリカの人々と商業などの恒常的な接触をもつ人々が登場した。彼らは現地で生活を営むなかでアフリカの言語を操り、西海岸の各地に商館を設置してネットワークを広げていった。職業は上級の商人から船員、あるいは通訳や乗組員などさまざま、彼らはクレオールといわれるようになった。
 コロンブスは、到着したカリブ海に金を産する島を発見し、結局、その島の人民を絶滅させ、さらにカリブ海の社会の全体を崩壊させた。アメリカ侵略はすぐに大陸に及び、一五二一年にはアステカ帝国、一五三二年にはインカ帝国を圧伏し、支配拠点として商館を中心として城塞都市を造り出した。クレオールたちはアフリカ西海岸にいとなんだ商館のネットワークを大西洋をこえてアメリカ大陸に拡大したのである。
 長く世界から孤立していて天然痘などの伝染病に免疫をもたなかったアメリカの人々は大量に死んでいき、各地で人口は激減した。そして、その労働力を補うようにして、アフリカの人々がアメリカに奴隷として連行された。

(2)WASPイデオロギーとアメリカ植民奴隷制国家
 ここに生まれたクレオールーーアフリカンーーアメリカ先住民の間の関係が、肌の色の相違にもとづく「白人種」という人種差別のイデオロギーの体系を作り出した。十字軍は「キリスト教人種」という観念は生み出したが、それは「白人種」という観念ではなかった。人々の移動が各大陸にほぼ限定され、出自や共同体・職能集団にもとづく不平等が普通であった前近代のヨーロッパ社会内部で「白人種」という観念は生まれようがなかった。

(イ)WASPイデオロギーと植民侵略国家
 トーマス・ペインはアメリカの独立とイギリスに対する戦いを呼びかけるなかで、「イギリスではなく、ヨーロッパがアメリカの祖国だ。この新世界はこれまで、ヨーロッパの各地方で市民的・宗教的自由を求めて迫害された人びとのための避難所であった。彼らを生まれ故郷から追い出したのと同じ暴政が、今、その子孫をつけねらっている」(『コモン・センス』)といっている。これは絶対主義反対の主張、フランス革命につらなる。
 しかし、ペインはイギリス国王を批判するのに、その野蛮さは「インディアンにも勝る」「インディアン黒人をけしかけて我々を滅ぼそうとしている」とし、先住民やアフロ・アメリカンへの支配を当然視する。これはアメリカ独立宣言がイギリス議会が「植民地の善き人民の正義の声と血族の訴え」に耳を塞いだと恨み言を述べているのと同じこと。先住民とアフリカ大陸出自の人びとの位置を無視している本質は同じ。ここには「白人種」人種主義の成立がある。「アメリカ市民の体内に流れている同類の血はーーアメリカ市民の連邦を聖別している」「偉大な帝国の同胞市民」(マディソン『ザ・フェデラリスト』)
 アメリカ連邦憲法(一条二節三)は選挙権をもつ「自由人」を規定しているが、これは実質上、「白人」憲法である。ネーティヴ・アメリカンやアフロ・アメリカンは「自由人」ではない存在としてそこから明瞭に排除excludeされている。アメリカ連邦憲法は彼らに対して人種主義を宣言した憲法として成立した。キング牧師、「はずかしい憲法」。
 次に人身売買と暴力的強制によってアメリカに連行されたアフリカ大陸出自の人びとを移民ということはできない。彼らも憲法において「自由人以外の人数」として扱われている。アメリカが「移民の国」であったというのは問題が多い。
 19世紀アメリカの人種主義はの中心はWASPの人種主義(White(白い)Anglo-Saxon(アングロサクソン)Protestant(新教徒))にあった。その後にやってきたアイルランド人、ドイツ人などの新しい移民たちは、特権人種WASPをトップとする階層的な秩序に組み込まれていったのである。南北戦争の最中にイギリスの『タイムス』が「(南部の)我々の同族たちにあらゆる精神的な支持をあたえる義務がある」と主張したことは、この段階になっても、イギリスの支配層がアメリカの奴隷主と「同族」のアングロ・サクソン意識をもっていたことを示す。そして『タイムス』が北軍を「略奪者や抑圧者の雑種種属(a mixed race)」と罵って南軍の勇敢さをたたえるのは、ようするに北軍をアイルランド人、ドイツ人さらにはアフロ・アメリカンの混成部隊と蔑視していることを示している。ここにはWASP奴隷主の下にいる「雑種種族」、ドイツ・アイルランド・アフロ・アメリカンなどが連携せざるをえないという状況が明瞭に現れている。

(ロ)アメリカ先住民文明と国家への植民侵略
 白人人種イデオロギーは、アメリカ先住民を「赤」あるいは「褐色」人種とし、東アジアの諸民族を「黄色」人種と一括することによって世界的なイデオロギーとして完成した。
 一八世紀まではアメリカ大陸の中心はヨーロッパに近いカリブ海、さらに金銀鉱山のある中米・アンデス地域にあった。スペイン人はメキシコ・リマ・クスコなどの城塞都市を作り、アステカ・インカ両帝国の支配機構を利用して周囲の農村地帯の支配は現地首長にゆだねるというやり方をとった。このためアメリカ先住民は奴隷化されて連行されたアフリカンとは違って、その文明から切り離されることはなかった。彼らはその地位を前提としてスペイン人クレオールたちの拠点都市に必死になって入り込んだ。都市に居住するクレオールの側でも従者や見習いの労働力は必要であったから、彼らの間に、徐々に労働や婚姻の関係がうまれ、こうして「混血」のメスティーソという存在が広く登場してきた。
 これに対して北アメリカはむしろ辺境であって、イギリスは、そこに定住農業を営むところから植民を始めた。当初はネーティブ・アメリカンの協力をえる側面も強かったが、続々と形を整える先住民の諸民族の国家との条約関係を拡大し破棄し、侵略を強化した。南部と北部は大きく異なっていたにも関わらず、彼らが連合した主な理由はネーティヴの人々の大地と富を強奪したという共通の経験にあった。ワシントンを初めとして一九世紀半ば過ぎまでは大統領はほとんどインディアン・ファイターであった。
 アメリカ先住民はアメリカの大地の本来の領有者であったが、ヨーロッパ人の植民活動によって一九世紀にはきわめて狭い居留地に追い込まれ、それ以外の土地をすべて剥奪された。ここにネーティヴ・アメリカンの諸民族が、ある意味で一つの「民族」として行動せざるをえない歴史が始まった。

(ハ)「白人種」イデオロギーとアフリカ人種
 「白人種ー黒人種」という人種身分は、人種主義の上でもっとも重大な身分となった。ここでも聖書に記されたキリスト教的な「人種」知識は大きな役割をした。まず、アフリカ人の祖先は旧約聖書に登場するノアの息子のハムであり、ハムは父を嘲笑した罪によって肌の色が黒くなってアフリカ人の祖となったと広く信じられていた。そして旧約聖書の創世記では、彼は従兄弟たちに奴隷として仕えるという不思議な呪いをうけている。
 アフリカンという人種観念はヨーロッパ王権中枢で作り出されたものである。奴隷貿易はヨーロッパの各王家が特許した奴隷貿易会社に独占されていた。広大なアフリカ大陸で言語も文化も身体的な特徴も異なる民族に属する人々が大地から暴力的に切り離された。彼らの出自を船積地によって「ギネア国」「ギネア種」などと「国」「種」(カスタ)といった言葉で区別する慣習があった。異なる民族を強制的に同一の身分とすることによって、アメリカにおけるアフリカン・アメリカン「人種」身分は成立したのである。
彼らは肥沃な南部農業地帯の農場において奴隷として搾取され、膨大な資本と富をアメリカにもたらした。一七七〇年代の南部は北米植民地の総人口の約半数が住んでいたという。一九世紀半ばまでのアメリカの中心は北東部でも中部でもなく南部にこそあった。一九世紀半ばまでのアメリカ国家元首はみな奴隷所有者である。このアフロ・アメリカンが同時に奴隷身分であり、その刻印が植民奴隷制国家アメリカの基軸として北アメリカという大国において社会システムの中に根深く打ち込まれ、きわめて強固なものとなった。こういう中でアフロ・アメリカンは「人種」ではなく、歴史によって民族となっていった。
 南北戦争(一八六一~一八六五)における北軍の勝利、そして奴隷解放宣言(一八六三年)にもかかわらず、現実には、南部白人民主党のクー・クラックス・クランなどのテロ組織を利用することも辞さない反転攻勢によって、この時期以降、社会生活における人種分離と黒人参政権の剥奪が二〇世紀にむけてむしろ本格的に進展したのである。現実には、一九世紀後半にはドイツ人やアイルランド人などは「白人化」してWASPと一体化し、激しいアフロ・アメリカンに対する人種差別が再登場し、いわば全白人集団によるアフロ・アメリカンに対する厳しい法的差別と生活のゲットー化が進むという最悪の経過を辿った。この居住分離は現在も基本的に同様である。アメリカの人種主義の深さは「異人種婚禁止州法」が長く残り、2000年、最後に州民投票でその廃止をきめたアラバマ州では投票者の40%が禁止法の存続を望んだ事実に現れている。

(3)アメリカ資本主義とヴェブレン

(イ)資本主義と人種主義
 人種主義イデオロギーは資本の本源的蓄積、世界資本主義の形成を先導したイデオロギーであった。アメリカの特殊性はこのなかでアメリカ大陸植民と奴隷制を統合して展開したところにある。レオン・ポリアコフによれば、ナチスを結果したアーリヤ神話は、ゴート・フランク・ゲルマン、さらにはケルト諸族の神話が一九世紀に融合したもの。そこには露骨な神秘主義のほかに、一九世紀後半にアメリカで発展した人種主義優生学が合流した。ヨーロッパの人種主義はナチスの行動によって基本的な点で破綻したから、現在残存している強力な人種主義はアメリカのみとなっている。
 このような経過の最大の理由は人種主義と資本主義の結合にある。資本主義の形成はプロレタリアの形成をともなった。プロレタリアは、普通、労働者と訳されるが、本来は、ローマ時代の貧民ラテン語のProlesからきたもので、子供しか財産のない人々、子供を増やすことでしか国家に奉仕できない人々、いわば貧乏人の子沢山という意味を含んだ言葉、ようするに人間動物ということになる。プロレタリアの翻訳としては「労働種族」がよい。マルクスはプロレタリアは「個体としては弱い、絶えず狩り立てられる動物の種の大量再生産を思い起こさせる」(『資本論』Ⅰ672)、「労働者の諸要求とは、国民経済学にとってはただ、労働者を労働している間じゅう養う必要、しかも労働種族が死に絶えないようにという限りで養う必要でしかない」(『経済学哲学草稿』)などとする。
 動物としての人間の労働はLabourといわれる。これに対してアメリカの経済学者、ヴェブレンはで「勤労laborへの忌避は製作本能(Workmanship)にかならずともなうものなのかどうか」という論点を議論しているが、Labourに対するものが、製作workであると(「製作本能と忌避される労働」)。
 日本語で言えば、Labourは「勤労」。貝原益軒「養生訓」に「身体は日々少づつ労働すべし、久しく安座すべからず」とあって、「体をつかってはたらくこと」という意味。「労」の意味は「疲れる、苦しむ、力を激しく使う、骨を折る」、倭訓では「いたわしい」と読む。英語のLabourも、つらさ、骨折りが基本となる意味で、「重荷を負ってつまずきながら歩く」という意味。
 これに対して、workは「はたらく」「仕事」。もとの形は「はたる(徴る)」(『和訓栞』)。「徴る」は「強く求める、請求する」「取り立てる、徴収する」という意味。『和訓栞』は、この「徴る=強く求める」ということを自分自身に対してする、「我が身をはたる」というのが「はたらく」という言葉のもとであろうという訳である。自分が自分を「はたらかせる」。「事に仕える」、一定の目的をめがけて働く。これは職人的労働。
 一七世紀イギリスの傑出した社会改革者、ジョン・ベラーズの言によって説明すると、ベラーズは「肉体労働Bodily laborはもともと神のおきてである。労働が肉体の健康にとって必要なのは、食事が肉体の生存にとって必要なのと同じである。なぜなら安逸によってまぬがれる苦痛は、病気となって現れるからである。労働は生命のランプに油を注ぎ、思考はランプに点火する」と述べている。ここで「生命のランプに油を注ぐ」労働は勤労laborであり、ランプに点火する「思考」は労働の中に存在する目的意識であり、創造性であるのであって、製作本能workの一部であるということになる。
 資本主義とは、前近代と対比した場合、労働の目的意識を生産流通の巨大な機構が代表し、個々人の労働のWorkの側面を骨抜きにしてLabour化し、そこを基準に労働力を売買し、生産・流通システムの付属「物」として、動物として扱うシステムである。これは社会の側の抵抗によって、そのままの形では動かないが、しかし、人種主義は、このような人間の動物化に対する社会の抵抗をもっとも弱める。

(ロ)成立したアメリカ資本主義の略奪的性格ーー南北戦争後
 南北戦争後一八八〇年代に本格的な工業化と都市化の時代が始まり、この前後にアメリカは植民奴隷制社会から資本主義社会に展開する。一八六〇年から一九〇〇年のあいだに、工業投資額は一二倍に、工業生産額は四倍に増加し、アメリカはイギリスを抜いて世界一の工業国へ変身していった。このときアメリカはイギリスを抜いて世界一の工業国となったが、同時に金融資本主義化。株式と電信の利用。
 これは移民労働の増大の時期でもあった。一八六〇年から1900年の間に一四〇〇万人の移民。一八八〇年代まではイギリス・ドイツ、スカンディナビア、アイルランド。北・西欧。九〇年代以降は南東欧の出身者。西海岸には中国人、日本人、南西部ではメキシコ系。二〇世紀初頭に大量の移民の流入。
 東部の工場やアパラチア地方の炭坑の労働力はヨーロッパから流入してきたばかりの移民たちの労働に依存していたが、雇用主たちは、様々な民族的背景をもつ労働者たちを、その比率を入念に管理しながら各の作業場・採鉱所に配置していた。民族グループをそのまま労働隊に編成し、そしてグループを超えた組織化や抵抗を未然に防ぐ方策としたのである。フォーディズムは移民労働の組織のために創案された。一九一四年にフォードの労働者は約一三〇〇〇人、そのうち東欧とイタリアなどの移民労働者が九〇〇〇人余。作業工程の細分化にともなう労働の単純化・モジュール化は、このような移民労働組織のために創案された。労働におけるモジュール制。
 これは、ネーティヴ・アメリカンの抵抗の粉砕、フロンティアの終了(一八九三)年、そして同時にアフロ・アメリカン差別の体制確立という人種主義の再編と同時期であった。このように巨大な分裂を抱え込んだ資本主義国家はめずらしい。この分裂と差異を利潤化する運動のなかで自然も肉体もすり減っていった。 

(ハ)ソースティン・ヴェブレンの資本主義批判
 ヴェブレン『有閑階級の理論』は「長頭ブロンド」(いわゆる北方人種ゲルマンなど)タイプのヨーロッパの男は西洋文化の他の民族要素に比較して略奪文化に先祖返り(退行)する才能をもっており、アメリカ植民地における彼らの行動はその大規模な事例であるとする。ヴェブレンの議論は該博な人類学的知識にもつづく体系であって、その論理はいわば「人種」論的な経済学というべきものである。それはWASPを中心としたアメリカの支配層がもっていた「人種意識」が、アメリカ植民野時代から一九世紀末期の資本主義の確立の時代まで一貫して連続していたこと、そしてアメリカ資本主義の人種主義的性格を端的に指摘した仕事である。
 この略奪性が19世紀末に金融化したアメリカ資本主義における略奪性をもった「有閑階級」に遺伝している。彼らは、そのような略奪文化の歴史を前提として生産的な仕事(インダストリ)ではなく、銀行業や弁護士業などの金融的な詐取にかかわる金銭的な職業をバックとした略奪的な気質、敵愾心、習性をもっている。有閑階級の上品な生活は労働(Industryインダストリ)への寄生であり、労働は、その中で「製作本能(Workmanship)」の面よりも「勤労labor」の面を強くしている(三五九頁)と論じた。
 ヴェブレンーガルブレイスの系統に代表される制度派経済学は、ケインズ主義経済学と相互影響しなはら、アメリカ経済学の反主流として強い影響力をもっている。「ヌン兼的市場経済制度が円滑に機能するためには社会的共通資本の強化が制度条件であって、その社会的共通資本は職業的専門家によって専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理運営されなければならない。
 伊東光晴は、日本を代表するケインズ経済学者であるが、その著『ガルブレイス』は、アメリカは「人種が階級をつくった多民族国家」であるという断定から始まっている。伊東は、それを強制連行された奴隷や貧困な移民が、言語・教育・技能などの諸条件による職種選択条件におうじて順次に社会階層を作り、下層が低賃金の単純労働の職種に押し込められ、その最下層に「かって奴隷であった黒人」が位置する構造と説明している。右に述べた意味での、人種主義的な暴力や身分システムがどのように形成されるかは、伊藤がいう社会階層の基本をなす職種や労働実態に論ずる必要があるだろう。

Ⅱ公共性の不在とアメリカ民主主義

(1)私人自由主義イデオロギーー市民権の不平等と社会権の不在
①リバタリアン・イデオロギー(私人自由主義)
 憲法の「自由人」規定、自立した強者が自由を謳歌し、選挙権をもち公共の主人となるのだというアメリカ的な「共和主義」の観念。このようなイデオロギーのことをリバタリアン・イデオロギー(私人自由主義)というが、これは現在も生き続けている。「一九世紀の確信は、あらゆる個人が全力をあげて自分のために努力することによって、また機会がありさえすればいつでも隣人を踏みつけることによって進歩は生じるという考え方」(パース「進化の三様式」)。

②労働の尊厳と公共性
 公共性とは人間が「類的存在」であるという公理を社会に貫くことであるとすれば、その基礎は労働の尊厳にある。それは労働のworkとしての専門性を相互に評価すること、そして労働のlaborとしての自然性を提供し合うことにある。前者は専門性のネットワークの中に社会構成員の全員が組織されることであり、後者は身体的自然の再生産と環境的自然の持続的開発に全員がかかわることであるはずである。労働の「労」は身体に関わり、「働く」は社会的職能にかかわる。「労」はコミュニティを通じて身体・家族と環境に関わる。「働く」はアソシエーションを通じて社会の分業に関わる。
 そのようなworkとlabourを環境と歴史の中に感じることができる社会が「公共」の原点。それを諸民族と国家が総括することにより、逆に専門性のネットワークとコミュニティが強化され、国家が軽量化していく道筋を構想すること。
 アメリカのインフラは、その建設が下手をすると南北戦争の後くらいまで遡り修理が大問題。水路・橋・道路などは奴隷労働あるいは差別された労働で作られたことが多く公共で作ってきたという意識が弱い。貧しい自治体は道路が荒れ放題になるという公共心のなさはこの歴史をひいている。

③植民奴隷制国家由来の人種主義と公共性
 植民奴隷制国家においては、奴隷を所有し、先住民の所有を犯すばらばらな原子のような人々の間では社会的連携が生まれない。人種差別がある中での公共とは、自分たちの仲間にとっての公共にしかすぎない。うまれるのは上昇志向サークルと利己派閥ネットワーク。アメリカ社会における個人主義とは、しばしば派閥ネットワークに属していくための「個人的な友人」関係を重視することと一体となっている。トクヴィルは、これをアメリカで非常に多い任意団体、結社の存在に結びつけて語っている。アメリカの結社が、しばしば、実際上は、二大政党の派閥的なネットワークに入っていくための入り口になっていることは無視できないところだろう。身分制社会には結社の自由の発展は困難。

(2)植民連邦制と公共性
①植民地型連邦国家アメリカ
 アメリカ人の大国意識の裏側には個人主義=民主主義=連邦国家という等式がぴったりと張り付いているのである。しかし、アメリカ連邦制は深刻な問題を抱えている。
 アメリカの連邦制は、植民地型の連邦制。北米植民地はイギリス領の段階で先住民を国家とみなして条約をむすんだが、それによって割譲され占有した土地はイギリス国王に帰属するもので、各植民地政府はその代理とみなされた。対英独立の戦争はイギリスと先住民に対する二正面作戦として闘われた。植民地連合にとっての強敵は実際には先住民の部族組織であり、ここを起点として、彼らはそれに対して軍事的にも社会的にも共同で対処する体制を固めた。対英独立戦争に勝利した連邦はこの国王の位置に就いたのである。
 もっとも重要なのは、従来、一三州はアパラチア山脈の西からミシシッピまでの大地を分割しておのおの領有を主張していたが、アメリカ独立戦争から合州国建国までの間にそれを放棄し、そこをアメリカ「邦」連合が一括して公有地としたことである。北はミネソタ・ウィスコンシン・ミシガンから、南はミシシッピ・アラバマにいたる、ほぼ後の一〇州にもあたる、この広大な領域は、本来、チェロキー族、ショーニー族、マイアミ族などの部族国家の大地であった。これらの諸族との間で「領土条約」を結ぶという形式はとったものの、アメリカ連邦はそれを実際上、一括して上から領有する体制をとったのである。
 ユナイテッド・ステーツとはネーティヴ・アメリカンの大地をステーツの連合によって横領することであった。この横領体制を法的に固めたのが合州国憲法。インディアンは「その他すべての人々」および税負担の免除つまりインディアンとの通商を規制することは(諸外国および諸州間の通商と同様に)連邦権限とされ(憲法一条八節三項)、また各州は条約締結の権利をもたないとされ(同一条一〇節一項)、さらに連邦は「直属する領土」を支配するとされている(同第四条第三節第二項)。領土とは各州の外側に広がる先住民の居住する大地のことである。植民地型の連邦制国家の憲法の中でも、連邦成立の根拠が先住民との条約(戦争と占領)の関係にあることが書かれている国家はめずらしい。
 この連邦制の根本的由来(植民地型連邦制)をベースにして、民族分布の濃淡、多様性にともなう多様な人種差別、地域差別が状況をきわめて困難なものとしてきた。

②アメリカの地方制度
 アメリカ憲法は連邦に国防・外交・マネー発行などの権限を連邦に委ねるという構成をとっており、それは逆にいえばそれ以外の行政権限は州にあるということを意味している。つまり福祉や教育(初等から大学院まで)それに対応して民法・刑法・商法などまで州ごとに異なっており、犯罪の罰則まで異なっている。弁護士・医師などの専門職の資格付与も国家資格ではなく、州政府が行う。
 州(五〇)は「郡、county」の行政区画(全国で三〇〇〇余)に区分されており、その基礎単位は自治体で、その中には憲章を有して自治権を強めて「市」というべきものになった自治体と一般のタウンがある。これらの「郡」「市」「町」などの自治体は約四万にも上り、ほかにも独自の自治的行政を行う学区・特別区などが約五万もあって、その規模や権限が多様であることがアメリカの地方制度をいよいよ複雑にしている。
 小規模な自治体では市長をおかず、理事会が運営者であったり、運営を外部の行政会社に委託するなどという極端な場合もある。これは田舎の寄り合いがそのまま現代に続いていると考えれば分かりやすい。警察は自治体警察で、刑務所も自治体で運営する。
 これは政府権限の連邦・州分割といわれるが、これは行政の責任を曖昧にする。まず問題なのは、その配分は、基本的には所得税の約八割が連邦、売上税の約六割強が州政府、財産税の九割以上が自治体という配分になっている(なお、連邦に行った所得税の残りが州、州に行った売上税の残りは連邦)。実際には行政責任を曖昧にするものであって、行政の系統性と民衆奉仕を困難にする。アメリカの国家予算は一九一七年、憲法修正箇条一六条によって連邦政府は所得税を賦課徴収する権限を認められて以降、連邦政府がきわだって大きい税金を徴収できるように再編された。
 連邦政府からの補助金は原則的にマッチングファンドといわれる地方側の負担を前提としてしばしば同額を援助するスタイルで、社会福祉関係のフードスタンプやメディケイドなどはその形をとっている。そのような条件のなかで、これらの社会保障関係の補助金は実際上は、貧しい州よりも豊かな州に配分されてしまう。
 教育予算の財源は自治体の固定資産税と州からの補助金が基本であり、初等・中等教育への連邦政府の支出は総額の一割にもみたない。公立学校はつねに予算不足に悩まされ、しかも学校区ごとの一人あたり支出に著しい格差が生じる。ほとんどの公立学校の予算はその学校が存在している場所からの税収で運営される。したがって貧困な地区の予算は当然少なくなる。

③連邦制の国際比較ーー財政調整制度
 連邦制の国際比較。ヨーロッパの連邦制はなかば自生的なもの。それは連邦を構成する各邦・各地域の間での財政調整の方式をともなっていた。同一のパイをどう分けるか。
 たとえばドイツ。ドイツ帝国は帝国(ライヒ)が関税、州(ラント)は所得税や地税、営業税を徴収するという税源分離方式をとり、帝国財政から州や共同体(ゲマインデ=コミューン)に資金を分与する垂直的な財政調整を行っていたが、二〇世紀初頭のワイマール憲法は連邦制を規定しながらも、生存権の社会的保障(社会権)などの福祉国家理念を実現するために所得税などを中央に集中した上で、州への分与の形での垂直的な財政調整を強めた(皮肉、これがナチスによる地方主権の剥奪を導いた)。第二次大戦後の憲法はドイツを「民主的であると同時に社会的な連邦国家」(20条)であると規定し、州の主権を復活するとともに、ラントやゲマインデの相互の財政調整について、連邦は「ラントの範囲をこえて平等な生活諸条件equal living conditionsを創出する」役割を与えられている(基本法第72条)。こうして「豊かな州」と「貧しい州」の格差がでることのないように各州の代表者が議席をもつドイツ上院において財政的な調整が行われている。
 ヨーロッパの連邦制・准連邦制あるいは連邦制的な傾向は、以上のように各地方の教育・福祉・道路・インフラなどの公共サービスにナショナル・ミニマムを保証するための財政調整制度を伴っていた。このような制度によって基礎自治体・コミューンが住民に教育・福祉・インフラその他の公共サービスのナショナル・ミニマムを保障し、その点では基礎自治体・コミューンが水平的で平等な条件をもつことが、国民国家や広域行政府が民主主義的なシステムをもつ上で決定的な意味をもつ。これが、ドイツのワイマール憲法において確認されたような基本的人権の一部に社会的・経済的権利をふくめて考えようとする憲法思想、そしてそれとなかば重なる形で広がっていった福祉国家の思想を前提としていることはいうまでもない。
 これに対してアメリカ連邦制は「財政調整なき連邦制」といわれる。「豊かな州」と「貧しい州」、「豊かな市町村」と「貧しい市町村」が生まれるのは自由競争である以上やむをえない。能力と必要に応じて儲かる企業を連れてきて州財政を維持すればよいという「市場競争型連邦制」といわれる。
 (元首クリントンの行政指令一三一三二号)「我々の憲法システムの本質は、公共政策における健全な多様性を促進することにあります。それは各州の人びとが、その諸条件、必要と欲求に応じて採用すべきものです。公共政策に固定的な方針をとることは効果的な問題解決策に到達することを妨げてしまいます」「連邦主義とは、その範囲や意味において国民的ではない問題は人々に最も近い政府のレベルで最も適切に対処されるという確信に根ざす」などとある。州や市町村の抱える問題は、そのレヴェルにまかせ放任する。
 クリントンはレーガンが開始した連邦政府による州や自治体への補助金を削減する動向を拡大。これによってローズヴェルトからケネディ、ジョンソンへと続いた公共分野におけるナショナル・ミニマムを追求する民主党の論理を放棄していったのである。

«日本史の30冊。豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(吉川弘文館、2003年)