BLOGOS

著書

twitter

公開・ダウンロード可能論文

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

2010年8月30日 (月)

『竹取物語』の「不審本文」ー文学史料の「編纂」

  編集者から何か一冊新書を書いて欲しいといわれた時、『竹取物語』について書いてみようと思ったのは、一つには『竹取物語』本文の読みを何カ所かは直せそうだという見通しがあったからである。

 その結果を『かぐや姫と王権』の巻末の『竹取物語』の翻刻に示したのだが、私は歴史史料の「編纂」(Dcumentation)を仕事としているとはいえ、文学テキストの編纂ははじめての経験であったので、非常に勉強になったし、いろいろなことを考えさせられた。最大のものは、テキスト研究が『竹取物語』の物語の時間構成に接触する局面を確認したことで、これも巻末の「かぐや姫年表」に、その成果を摘記した。史料を編年的に、クロノロジカルに分析するというのは歴史学にとって普通のことだが、『源氏物語』については様々な試みがあるものの、これまで『竹取物語』の時間構成は明瞭になったことはなかった。これがうまく説明できるようになって、やっと叙述をコンパクトにまとめる見通しができた。

 個別の箇所のテキスト修正は、それに比べると相対的には単純な問題であった。『竹取物語』の本文解釈上の問題については、古典文学全集(小学館)や、古典文学大系(岩波書店)の翻刻の注記に多くの問題が掲げられており、鈴木一雄、谷口庸一、伊藤博氏の「竹取物語解釈のかんどころ」で一覧することもできる。巻末のテキストでは、そのうち、四・五ヶ所について自分の意見をだしてみた。

 たとえば『竹取』で最も難解な箇所といわれるのは、車持皇子が、「蓬莱の玉の枝」を求めて南海に向かうような顔をしながら、実際には、隠家に籠もって、工匠たちを集めて、「玉の枝」を偽造する一節の中の下記の部分である。

 その時、一の工匠(たくみ)なりける鍛冶工六人召しとりて、たはやすく、人寄り来まじき家を作りて、かまとを三重にしこめて、工匠らを入れたまひつゝ、皇子も同じ所に籠りたまひて、しらせ給ひつるかぎり十六そをかみにくとをあけて、玉の枝をつくり給ふ。

 まず「かまとを三重にしこめて」の部分については、これを「竈(かまど)を三重にしこめて」というままにしては、意味が通らない。これについて、内田順子氏は論文「偽玉の枝作りの工房ーー『竹取物語』の本文と解釈」)で、「かまと」は「かき」の誤写であるとする。そういう伝本はないが、「ま」がきわめて細い字で、「と」の下部の屈曲があったとすると、たしかに「き」の字に似てくる。だから字形からいって「き」が原字であった可能性は想定できる。

 さらに内田氏によれば「しこめる」というのは垣根を作って囲むという文脈で使われる(『源氏物語』に他の用例)もので、その目的語としては「竈(かまと)」よりも「垣」の方がふさわしい。そして「三重の垣」という言い方も『宇津保物語』にある。隠れ家のまわりに垣を三重にするというのは、文脈にぴったりである。こうして、「垣を三重にしこめて」と校訂すべきことはは鉄案であると思う。見事な校訂である。

 こうして「しらせ給ひつるかぎり十六そをかみにくとをあけて」の部分が不審本文として残ったのであるが、これについてはこれまで納得的な案はないと思う。目立つのは加地伸行氏の意見で(「『竹取物語』と道教と」)、加地氏は「古本」という伝本では、この部分が「しらせたまへるかぎり十二方をふたぎ、かみにくちを開け」とあることを採用する。そしてこの「十二方」とは道教では「十方」(東・西・南・北・東南・東北・西南・西北・上方・下方)を重視し、この十方に門に儲けてお祭りをするという風習をあらわしているとするのである。しかし、「十方」と「十二方」の違いは大きいだろう。加地氏が『竹取物語』を道教にひきつけて読むのは重要な視点であるが、テキストの校訂に直接にそれをもちこむのは問題が残る。私は、「古本」は江戸時代の学者が『竹取物語』の不審部分を合理的に理解しようとしてテキストをいじくったものであるという『竹取物語』研究の多数意見に賛成なので、古本を採用することも難しいと思う。実際には、「古本」は「十二」の「二」の上の一画が実際には極端に小さく、「方」の下の部分が「六」の下の部分に誤写されたという理屈を作って、普通のテキストを改訂し、意味の通りそうなテキストを作ったのではないかと思う(これは古本の校訂がすべてあたっていないということは意味しないが)。

 よって「十六」を生かしたまま解釈をするのが正論ということになるが、「十六」といえば、この時代の歴史家には、「十六所祈祷」というのがすぐに頭に浮かぶ。「十六社祈祷」とは伊勢を除くと大和・山城の有名神社に対して九世紀最末期から行われた一種の集合祈祷のやり方である。そこで私はこの部分を「知っている限りの十六所の神社を拝み、竈突(煙出)を開け、玉の枝を作りだした」と解釈した。校訂したテキストは次のようになる。

その時、一の工匠(たくみ)なりける鍛冶工六人召しとりて、容易く(たはやすく)、人寄り来まじき家を作りて、垣を三重にしこめて、工匠らを入れたまひつゝ、皇子も同じ所に籠りたまひて、知らせ給ひつる限り、十六所(十六そ)拝み「て」、竈突をあけて、玉の枝をつくり給ふ。

 「十六そ」を「十六所」と校訂するのは、「そ」の変体仮名に「所」の崩しがあるからまったく問題がない。また「をがみに」の「に」を「て」と校訂するのも変体仮名の字体上、問題がない。

 全体としては字を二つ校訂したということになる。内田氏が直した「まと」から「き」、そして私が直した「に」から「て」という二ヶ所だけで明瞭に意味が通ったということになるから、良い校訂案であることは疑いない。そして、歴史学の側としては、十六社祈祷の非常に早い用例を追加できたということになるり、「くど」と祈祷の問題は様々な論点に展開する。

 ここまで書いてみて、これはブログというよりも論文にしたほうが誤解を招かないということを自覚したが、文学テキストに対して、歴史学者がどのような「編纂」の構えをもつかは理解をいただけたのではないかと思う。

 私の仕事は編纂だが、歴史学の編纂では、その結果を一つ一つ説明することはしない。歴史史料の量は膨大であって、従来から公刊されてるテキストを校訂する場合も、先行するデータの修正理由を、いちいち報告することは実際上できない。そういう感じ方を前提にして、『かぐや姫と王権神話』では手続きを紹介することはせず、もっぱら歴史分析に集中した。しかし、日本文学研究では、テキストの量は少なく、テキスト校訂のやり方の習慣が違うのではないか、必要な説明をせずにブログで見解を発表するというのはルール違反かも知れないという怖れである。

 しかし、歴史学にとっては、個別の知識はあくまでも個別知識であって、それ自身にはたいした価値はないというのが常識的な考え方である。これはたいした価値はないから勝手にやってよい、いいかげんにやってよいということではなく、それは逆で、個別知識は、その上に積み重ねるべき仮説とストーリーの共有されるべき基礎である以上、編纂というある意味で無記名な、アノニマスな基礎研究過程、考証と文化財保存専門技術のための組織を学界共有のものとして設置しようという発想である。たとえば東京大学史料編纂所や各自治体の自治体史編纂室などは、そういう組織である。歴史学において、個別知識をいわゆる知識ベースとして提供しようという発想がでてくるのも、ここに根拠がある。

 これに対して文学研究では、一般に、テキスト研究が、そういう自立した姿はとらないから、ここら辺は、歴史学と文学研究が接触する場合に、もっとも重要な問題の一つになる。西郷信綱・益田勝実などの「戦後歴史学」と併走した歴史社会派の文学史家たちと歴史学の共同において、もっとも問題であったのは、このようなテキスト研究のレヴェルでの共同が具体化しなかったことであるように思う。

2010年8月29日 (日)

尊敬する学者ー小倉千加子さん

8月24日

 60も過ぎると尊敬する学者というのは数が限られてくる。なにしろ亡くなってしまうのである。自分の過去の時間の中で大事にしていた尊敬の感情は、対象を失って、強い記憶として固定化され、すでに別のレヴェルの感情に移行している。フロイトの言い方では「自我は、自分が愛した人を失う体験をするとき、その他者を字が構造の中に体内化し、他者の属性を自分の身に帯びて、模倣という行為を通じて他者をとどめておく」ということになる。これは恋愛であろうが、敬愛であろうが、すべての愛に共通すると思う。

 もちろん、同分野では敬愛する先輩の研究者はいらっしゃり、自分個人としては直接に、そのお仕事をうけて仕事をしているという意識が強い。少なくとも、私の世代の研究者までは、そういう形で研究者としての感情生活というのは維持されてきた。And there are noneということになったらどうしようというのは、怖れのような感情。

 残った人々の中で、他分野の人、同業でない人で、しかもまだ元気、つまりほぼ同世代、あるいは少し年下の人ということになると、考えてみるとほとんどいない。これは私のつとめているのが研究所で、しかも同一の分野の研究者が集まっているためかもしれない。他分野の人と職場であうということがほとんどない。

 昨日、そんなことを考えてみて、まず筆頭に来たのが小倉千加子さんで、いま現在、ほかの人が念頭に上らない。

 そうはいっても、小倉さんの本をそんなに読んだ訳ではない。上記のことを自覚した以上、今後、時間を作って読んでみようと思うが、これまでよく読んだのは2冊だけ。

 まず『セックス神話解体新書』。これは感動。私の世代だと、ヴォーヴォワールの『第二の性』とエンゲルスの『起源』で、フェ二ズムの洗礼を受けたというのが「普通」(?)だと思うが、この本は、衝撃だった。例によって奥さんが買ってきたものだが、読んで、子どもにも勧めた。残念ながら彼らは読んでないと思うが、これは読んでおいた方が、人生の安全のためによい。

(そろそろ昼休みが終わりで、この項目続く)、

(続き)8月29日

 次ぎが『セクシュアリティの心理学』。学者としての尊敬というようになったのは、この本である。この本も奥さんが買ってきたもの。歴史学者としては、現在の法学や経済学の研究、さらに哲学や社会学の研究などはほとんど底が知れているという感じで、刺激をうけることは少ない。歴史学との学際的な関係も第二次大戦前の時期から相当のものがあって、学史を追っていけば、これらの学問を相対化することは十分に可能である。

 けれども心理学という学問分野にはまったく勘が働かないのは私だけのことではないと思う。もちろん、中井久夫氏の『治療文化論』などの仕事は、中井氏が河音能平さんの友人であることもあって、歴史家には親しいもので、また小田晋『日本の狂気誌』などの歴史的な疾病史の仕事も貴重なものである。さらに河合隼雄『昔話と日本人の心』などのユングを使った分析は、日本民俗学の視野をもってしても同じようなことはいえるという感じで、あまり心理学のありがたみは感じないが、しかし問題のサーヴェイには便利である。しかし、私の寡聞という可能性もあるが、近現代史は別として、江戸時代史以前ということになれば、それらを受けとめた仕事はほとんどない。

 『セクシュアリティの心理学』「摂食障害」「ジェンダー概念の登場」「ダーウィンと性科学の誕生」「性差についての歴史的言説史」「近代婚姻制度」「母娘関係」そして「ジェンダー・セックス・セクシャリティのの三元構造」から「クイア理論」へと読んで行くと、心理学の全体の建物を、その基礎部分から見通しているという感じがしてくる。しかも自然科学・医学と社会諸科学とのジョイント部分がここにあるということを確認しながら、疾走しているような感じになる。著者は心理学を「保守的な学問」と規定するが、それよりも「はるかに保守的な学問」としての医学の男権主義を嘲笑し、「セクシュアリティに関して社会はごまかしに満ちている」と宣告しながら、新しいアイデンティティと連帯の勁さを求めてまっすぐに前をみながら走る。

 その目が心理学全体にむいていることは著者が、「はしがき」で「長年にわたって硬直し権威化した心理学に訣別し、すべての心理学者が自らの実存から出た動機をもって研究に臨むべき時が到来している」といい、現状を「心理学全体の危機であり、大学人存立の危機である」と述べていることに明かである。歴史学は、その実用性・実践性が間接的であり、またともかく史料と格闘し、知識を蓄積していれば擬似労働という自己意識が可能であるだけに、その危機は隠されているが、しかし、危機の性格は基本的に同じである。今、法学や経済学などの社会科学の中心部分とそれを担う大学人には危機意識をみることはほとんどないから、この宣言は心に響く。

 これは社会科学とと心理学の関係という根本問題にも関わってくるが、やはり心理学はもっとも自然科学に近く、その課題も相貌も似ているように思う。ともかく、この本を読んでいると、私のような人文人間は自然科学コンプレクスを刺激されるのである。

 このごろ理系の研究者の実践意識の強さを感じることが多いが、彼らは、対象的自然、環境的自然の荒廃と変容から大きな衝撃を受けている。そして、ある意味で人文社会系の学者より真面目で共感をもてる人が多い。私は、環境的自然の荒廃と野生化に対応して、二〇世紀末期には主体的自然、身体的自然の側の荒廃と野生化もはっきりしてきたと考えている。自然の文明への復讐が明らかに客体・主体の双方に二重化した形で出てきている。心理学者は、それがもっとも鋭く現れる精神と心理の動態を目前としているはずで、その実践意識が強くなるのは、自然科学者と同様のはずである。

 私は心理学全体の動向はわからない。はるか以前、フロイトとジェームスを読もうとして挫折した。歴史家は社会的には常識的にふるまうのがうまいが、しかし、中井久夫氏が歴史家は「執着性気質」の人が多いというのが事実とすれば、歴史家は自己の内面を突き放すのは苦手である。そして、そもそも心理学とはもっとも相性の悪い文化をもっているのではないかと思う。いま、『物語の中世』で書いた三年太郎論(三年寝太郎=顛癇症候群論)を書き直そうとして勉強中ではあるが、精神医学をめぐってきびしい対立の経験をみたことがある我々の世代には、そもそもその再点検は、たいへんに重たい作業である。しかし、この本を読んでいると、そういう心理学全体の動きがフェミニズム心理学に先端的に現れているのであろうことが、よくわかる。そのレトリックの強さ、わかりやすさは見事である。

 具体的な歴史学の研究課題との関係では、第四章「性差についての歴史的言説史」が興味深いが、これについては長くなるので、そのうち具体的にふれてみたい。

 本の中心は、セックスとジェンダーとセクシャリティの三元構造を区別し、相互の関係を解くという論点。ジェンダー先行で、セクシャリティからセックスとが実体化されるという立論は、私には興味深い。著者は、これをカフカの「城」のような堂々巡りに喩え、「なぜなら、セクシャリティは個人が自覚したときにはすでに指向が決まっており、それが形成される時の記憶を誰ももたないからである」という。

 ジェンダーが物に表現されればフェティシズムと嗜癖性になるといってよいとすると、これは性のフェティシズムがセクシャルオリエンテーションと身体的な意識・無意識の相互関係を媒介にして身体の物質性の形を作っていくということになるのだろうか。だとすると、これは商品の呪物性が、欲望と消費における物と物、効用価値と効用価値の関係を媒介にして社会関係のスタイル、その物件化したスタイルを作っていう関係と併走することになるのではないかと思う。私の分担の前近代でいえば、身分が身分的な労働によって特定の身分的な身体を作りだしていくという関係になる。

 商品の呪物性、商品のフェティシズムは、万物の欲望知識を身体に刷り込まれるという効用性を媒介にしている。そしてその消費欲望は性別のフェティシズムをもつ。主体的な自然、身体的な自然の破壊は、商品のフェティシズムと人間の身体の商品化の暴走によりもたらされるのだろうが、その場合、いわゆる抽象的な人間労働の神経消磨労働としての側面が肉体としての神経の安定を崩す構造(精神労働と肉体労働の分裂の極限の形)が、現代労働の特有の落とし穴で、そこに性のフェティシズムがドライヴを駆ける構造が恐いのだろうと思う。それは人間の精神の基礎に破壊を及ぼす力をもっている。商品のフェティシズムを解消するということは単なる社会関係の変化ではなく、カタストロフの経験に近接したところ乗り越えるような性のフェティシズムの解消と自由化と併走しなければならないような関係ではないかと思わされる。それが男女平等というような法的関係のレヴェルに留まらないことは明かだろう。

 これは心理学から「社会学」、というよりも社会科学一般への出口の取り方がどうなるのかに関わってくるのだと思う。私には、「社会学者」としての著者のスタンスがまだよくわからないが、ともかく今は、『セクシャリティの心理学』を読んで、感心している。

2010年8月28日 (土)

今日は床屋さんー頭のスポーツ

 先ほどまで床屋さん。来週火曜・水曜・木曜の御寺への出張のためである。いつも床屋さんに行くのは、出張前。その上、さすがに、この残暑で、長髪は、暑すぎる。「相当に白くなってるから、そんなに暑くはないが」というのは、負け惜しみ。

 保育園の友人が床屋さんをやっていて、もう数えてみれば20年ほど同じところに通っている。保育園仲間とはいっても、自分が保育にいたときの友人というのではなく、下の子の保育園の友だち、K君のお父さん。わが家では、床屋さんといわずに、「K君のところ」「K君のお父さん」である。

 私の場合、職場あるいは同業集団の外側で、20年の間、1/2ヶ月に一度は会ってきた人というのは、親族でもいない。他には本郷の角の元タバコ屋さん(今はカフェ)の御主人だけ。さびしい人生であるが、しかし、K君のお父さんとは、毎回、一時間は、「床屋政談」から歴史・文化にわたる広汎多様な話題を、双方勝手に話題にしてきた。「お父さんの癒し」である。

 こういう風に書きながら、前近代では、こういう人と人との出会いの狭さ、人間関係の貧血状態は考えられないことだろうなどと飛躍した思考が広がっていくのは歴史家の癖か。そんな関係は、商店街で買い物を毎日していれば何ら珍しいことではない、そういう思考の展開は、男の歴史家のジェンダーバイアスだといわれるかもしれない。逆に現代社会にも存在する富裕層の社交関係の中では珍しくないのかもしれない。そもそも、こういう日本社会の人間関係のひどい貧血状態は、現代世界の中でも珍しいものなのかも知れない。すぐに細部を一般化するのは歴史家固有の文化論症候群であるのかもしれない。

 しかし、良し悪しや実態は別として、近現代の人間関係の孤立化・アトム化と、前近代の人間関係の濃密さの対照的な関係は否定できないだろう。そういう意味で、社交と共同体(村社会)の歴史学というようなことを考えるとすると、それも研究の問題領域としては存在するかもしれない。ええと何か史料はあったかな? 「社交と共同体」、先行研究はあったかなーーなどと歴史家は貧乏性なことを考え出す。

 これを下手にやっていると歴史家は気が休まらないことになる。下記の引用は、中井久夫『治療文化論』の、歴史の関係者には有名な一節。「歴史家の職業病としてのうつ病」。

 一般に歴史学的な作業をやるものには、その職業病といってよいほどうつ病が多い。私が比較的長大な精神医学の歴史を執筆した時、このことを思い合わせて「なるほど」と思ったことがある。私は歴史家のいとなみの現場を少ししか知らないのだが、懐疑精神を精神科医は主に内容に向け、歴史家は、史料批判という形で史料の信憑性あるいは歴史学的真正性に向ける。歴史家の禁欲性は、史料の存在しないものを以って語るのをみずからには容易には許さない。いくら足を伸ばしても着底しない泥沼を進む思いが、歴史家には、あるのではないだろうか。そして歴史に興味を持つ人,すなわち過去に興味を持つ人はpost ferstum的な人、いわば(微分でなく)積分回路的な人、日本の精神医学で「執着性気質」といわれる、几帳面で、飛躍をみずからにゆるさず、やや高きにすぎる自己への要求水準とそれにもとづく課題選択にしたがって凡例枚挙的に無際限の努力をしながら(「仕事の重圧につねに押しつぶされていたい」(若き日のウェーバーのことば、マリアンネ夫人による)、つねに不全感からのがれられず、しかも、緊張と高揚感とを職場を去って自宅へ戻ってからも持続する、という人であることが臨床的には多い(長さもあって、著者には申し訳ないですが,耳の痛いところは一部中略)。

 中井は自分の高校の同窓生を中心とする小集団の内部で「個人症候群」を越えて、「普遍症候群として近代精神医学との関係をもった」人が、二人とも歴史関係の人であったといっている。上記の観察は、その「臨床的」体験の報告である。私のような「個人症候群」を越えるほどの真面目さはなく、頭のキレの悪い人間でも、この話の筋はよくわかる。

 現在の日本の歴史家は、共同体の中の「語り部」というような安定した地位をもっていない。そもそもどのような意味でも共同体の存立自身が困難であり、それ故に、共同体的な社交は貧困で、歴史学は共同体との接触はなく、語り部となるためには社会的障害が多すぎる。歴史学者は、日本社会の中では、普通の学者以上に変わった存在、queerな存在である。そもそも現代日本社会は歴史健忘症あるいは歴史恐怖症である。その中で、中井の『治療文化論』は、歴史学者の精神と仕事の健康性と社会性を守るために必読の文献となっている。中井のような精神医学者に、このような分析と観察の機会をあたえてくれた中井の友人の歴史家たちに感謝。

 ともかく歴史家は頭に力を入れすぎる。商売道具が頭に蓄積した記憶だからしょうがないのだが、私の精神衛生法は別の病気をもっていること。つまり「理論」病を病み続けることである。一種の趣味の理論であり、禅狂であり、論理実証分裂主義と称している。

 K君のお父さんは、武道(空手)が好きで、息子の空手の相談相手である。彼らは「とっさの受け身」というものができ、これがあれば人生で遭遇する人身事故の8割はかならずクリアーできると豪語している。実際、バイクで横転しても、自転車で転んでも、かすり傷で済んでいるのは事実。しかし、K君のお父さんいわく、55をすぎるとダメよというのが、実際で、この前は自転車で転んで、受け身がとれず、どうして受け身がとれなかったかわからずに茫然としてしまったという。この年になって、お互い、思い知ることが多いと禅問答。

 武道の常識は身体に力をいれない。たとえば蹴る足は脱力しておく、そしてあたる途端にムチのように足先をしならせる。真面目すぎるとダメ、どうやって手を抜くかが肝心というのがご指導。真面目な人間はつい力を入れてしまう。筋肉自身が偏ってくるという。狭い床屋で振りを入れて見せてくれる。

 今日は背中のコリがひどいので、さわってもらう。診断は、これは骨に問題。畳か柔らかい絨毯の上に仰向けになって足を抱え込んで、背中を丸めて揺らせること。そうすると骨がバキバキいうと。帰ってきて、この体操をやってから、この20年の友好の記念を、ブログに残し始めたのだが、話が脇にそれて、また背中が痛くなった。もう一度、やってくる。

 (この項続く)

 K君のお父さんは、武道の場合は、最後の「秘」は、教えないとおっしゃる。教えてしまうと、自分の身の高さまで追いつかれてしまう。それを避けながら、相手の成長をみている。これは商売のこつと同じ。それとくらべて学者は偉い。すぐ教えてくれると。

 それに対してお答え。「それは学問が、武道ほど高級でない証拠。身の中にたまるのは重さのない知識で、要するに手当たり次第に集めたカスのようなものだから、人に教えても教えても人格化はしない。そもそもそんなものを独占しようなどとすると人間がカスになる。カスが共有されて、脳髄の活動の前提の中に入り込んで、誰からもみえなくなり、浄化されて透明なものに結晶していくのが目的」などとお答え。

 勝手なことをいいながら、二人で大笑いをするのが、いわゆる「癒し」。職場にいる時より、頭もちゃんと働くようだ。先月と今回は、彼の方がやや若いにもかかわらず、話の切り返しも遅れを取らず、快調である。とくに先回は、大きな癒しのパワーももらい、長きにわたる床屋政談にも一段落がつき、今回ははじめての公式記録である。

 もう無理なことだが、私も武道の練習をしたいものだ。身体の不器用さは、どこかで頭の不器用さに通じてくるのは見やすい道理である。所詮、空手も学問はスポーツであって、片方は身体、片方は頭という違いがあるだけである。どの場合も、本当のスポーツのようにもてはやされることはないが、学者が頭のスポーツ選手であることを典型的に表現するのは哲学者だろうか。歴史学者はスポーツで言えば、水泳であろうか。そして私の場合は、クロールが下手で、おぼれそうになるとみっともないカエルのような平泳ぎで「あがく」ということになる。もう少しかっこよくといきたいものだ。

 五味太郎のいう「丈夫な頭とかしこい身体」をもつことが必要なのは、誰も同じことであろうが、学者もその例外ではない。

2010年8月25日 (水)

和紙の色計測ーー学術会議勧告

 今日は水曜日で例によって和紙の日であった。もっぱら来週の和紙調査の準備で疲れ切った。昼過ぎに携帯顕微鏡の筒体に直接にデジタルカメラを取り付けるためのアタッチメントの納品にきてくれた竹田理化の女性が、「先生どうしたんですか、すごくお疲れの様子」と真顔でいわれて困惑。昨日の夜、二回、猫に起こされたと切り返せばよかったのだが、頭も回らず、もう老人である。しかし、短気になるのは会議の場だけなので、まだ耄碌はしていない。

 和紙調査のために、必要な機器は、だんだん増えている。まずは紙厚を計るクロノメーター、軽量物の携帯用重量計だったが、次ぎに日本言語学の小林芳規先生が作られた、いわゆる角筆スコープ(小林先生が大量に発見された紙にへこみをつけて記述するための角筆の筆跡を見やすくするための紫外線シャットの斜光発生装置)、そして製紙科学の方々が紙繊維の流れ方をみるために利用される携帯顕微鏡。これはDG2という機種で、表面を立体的に照射する同軸照明がついている。今のところこれとった画像でないと、鮮明な紙繊維の流れ方(繊維配向性という)を示す顕微鏡画像を撮影することができない(その画像からフーリエ級数を使った画像分析で繊維配向姓を算出する)。

 そして、次ぎに、和紙科研で、ともかく必要であろうということになって登場したのが分光色度計と光沢計である。

 今度の調査は、紙の厚さと重量は5/6年ほど前にすでに計測してあるので、クロノメータと重量計はいらないが、操作用のPC2台をふくめて、それ以外のものが大荷物である。
 修復室の技官や補助員の方と一緒の出張にしておけばよかったのであるが、例によって金も不足、見通しも不足で、直前になって、器機操作を彼らと確認し、これまで作ってきたマニュアルを再確認し、修正するのに、機械に弱い神経を動員するのに疲れ切る。やり方は一緒に検討し作ってきたのだが、器機の操作はその時々はやるけれども、すぐに忘れてしまう。もうそういうキャパシティがない、勘弁勘弁という感じである。

 現在、もっとも手間なのは、色と光沢の計測の仕方の定則化ができていないこと。従来は、和紙の「色」については、「薄茶・黄色・薄黄色」光沢については「光沢(内からの輝き)、光沢(照り)、光沢なし」などとして記録に残してきたが、これは調査者の基準が十人十色で客観的な標識にならない。そこで色差計と光沢度計を使用しようということになって、これまでの作業ではたしかに意味があるということになっている。

 しかし、普通の製紙科学での色と光沢の計測は、同じ紙を20枚以上重ねて、それを計るというものである。これに対して古文書は同じ紙が、一枚、または二枚の書状などの場合は二枚しかないのが普通であり、これをどういう下敷きの上で計測したらよいかが大問題となった。考えてみれば、下敷きの色によって異なった数値になるのはあたりまえである。最初は特定の規格のケント紙を下敷きにすればよいかということで、安易に考えていたが、結局それでは正確な数値がでない。現在、製紙科学の共同研究者からの指示は異なった色の下敷きを二枚用意して、それを置いて計測した二つの数値から、20枚以上重ねた場合の数値を算出して客観数値とするというものである。写真の人が使う光学的に定められた灰色の標準板と白色の標準板を使用して、各計測点で二つのデータをとっている。

 研究所内では、これでやっているのだが、一枚の古文書和紙について、表裏各々三点のデータを取る。そこで色差計は、3×2×2=12回計測することになる。光沢時計は縦横で光沢が違うので、それもとるので、3×2×2×2=24回計測する。つまり合わせて36回。これは実にたいへんである。

 製紙科学の研究成果として出すためには、これが必要であるということになればやむをえないのだが、しかし、このままではストレスが多すぎるし、実用性がない。研究を続け、その結果で、だいたい、この程度計れば、和紙の研究や歴史学にとっては用が済むという程度をはやく発見して標準的な計測法を定めることが大きな課題となる。絶対的な精度という問題ではないだろう。これは相当の時日がかかりそうである。和紙科研の研究計画の内、当初の目論見ともっとも違ったのが、この点であったかもしれない。

 そもそも、製紙科学の先生方によると、産業としての製紙の生産額の内、和紙は、0,001%あるかないか、その研究はほとんど実学外のものである。それ故に、和紙の色と光沢の計測法が、これまで議論もされていないのは当然であった。産業としての製糸業には色や光沢の計測は絶対的な必要であるが、しかし、それは大量生産であるから20枚でも100枚でも紙を重ねることができる。この問題は製紙科学の研究者にとっても意外な問題であったということになる。

 これまで古文書の調査では、しばしば「色」と「光沢」についての記載をしてきた。その総労働力は相当の量に上っていると思う。これを合理化し、データ共有を容易にすることは、研究基盤の拡充の基礎の基礎の問題である。こういう基礎の基礎を自然科学との関係で詰めていかなければならないのは、歴史学の場合、たとえば正倉院文書の研究でも実施されている。

 今日朝、日本学術会議から「科学技術基本法」を「科学・技術基本法」と改称せよという勧告を行ったというメールが入っていた。普通、「科学技術」については文明国では「Sience and Tecunique」というように表現され、このSienceの中には当然のことながら人文社会科学も入る。ところが日本の学術政策は技術政策に異様に偏っており、これは「科学技術」というのは実際上、技術とそれを支える自然科学という意味になっている。ご丁寧に法文でも「人文社会科学は除く」ということになっている。これは明治時代に東京大学が実質上、「東京工科大学」を基礎に作られたような伝統が今でも続いているということで、そういう言い方をすれば「後進国」的現象である。

 朝日新聞は、前日、「ホメオパシー」についての学術会議の意見を一面トップで報告したのに対して、上の勧告は小さな記事。十分な解説もない。

 もちろん学術会議の活動が広く報道されるのはよいことだが、しかし、ホメオパシーについて一面トップで報道するなら、上記学術会議勧告は全面ぶち抜きで報道するべきもの。ジャーナリズムというのは、目新しいことでないと報告しないのだ。もちろん、記者個人は努力をしていることは承知しているが、しかし、「よくはずかしくなく、こういう紙面を作るは」というのが、客観的にみた新聞なるメディアについての評価となるのはやむをえない。これも、一種の「後進国現象」で、ジャーナリズムといえば聞こえはよいが、瓦版屋だ。瓦版は相当のことを報道しているから、瓦版屋以下か。

 こういうことで思い出すのは、ベルギーのルーバン大学に留学していた時、授業準備のために協力してくれが技官の方の研究室が広壮であったこと、ルーバンのエラスムス会館の地下のほとんど半分におよんでいた。遺跡の模型を作り、撮影をし、博物館に協力する技官の方の恵まれた諸条件は本当にうらやましかった。

 基礎研究と人文社会科学の無視が日本の文教政策の宿痾であるというのは、大学の学部時代から知っていたことではあるが、はるかに時間がたって、この暑い中に新聞紙面で見せつけられるといよいよ暑苦しい。

 猫も暑くて、夜、家中をうろうろするが、今日はそういうことなく、よく眠れますように。今日の仕事のメモを電脳に移して、頭は空にしたので。

2010年8月21日 (土)

私の好きな宗教書ーー大亀禅話

 大徳寺如意庵の大亀和尚の禅話、『大亀禅話』が好きである。なにしろ全部で10冊もあるので、机の脇やベッドのそばの本棚などにおいてあって、時々、手に取りいろいろなところを読む。第二次大戦後の著名な宗教者の生活や感覚をここまで身近に知ることができる本は少ないのではないだろうか。和尚は宗教家という言葉が御嫌いであるというが、宗教者ならば御許しいただけるだろうか。

 大亀和尚には、如意庵で一度だけお目にかかったことがある。大徳寺にうかがっていた時に、沢庵の書状を読んで欲しいと如意庵に呼ばれた。その場では確実でなかったので、写真を撮らせていただき、後に釈文を御送りしたところ丁寧な礼状をいただいた。

 その時、和尚は、「紙は大事にしなければならない」といいながら、反故紙で小荷物の封筒のようなものを作られていた。手早く綺麗な封筒ができあがっているのをみて、私は何か気の利いたことをいおうとしたのだと思う。ある先輩から古文書調査の様子について聞いた話しで御答えした。ラフな服装で白髪の御年寄りの歴史家が古文書をいっぱいひろげて調査をしているのをみたら、「クズ屋」のようにみえた。私たちの職業はクズ屋の一種なのだよというのが、その先輩の御話だった。その御年寄りの歴史家はたいへんに著名な方で、私たち歴史家には敬愛されている方で、「クズ屋」にたとえる先輩の口調も敬愛にあふれたものであったことを思い出す。

 貴重な古文書を「クズ」というのは誤解を呼ぶ言い方で問題だが、和紙はたいへんに貴重なもので、見ようによってはクズのようにみえるかもしれないが、そういう「物」に従属して歴史家という職業も成立しているのだというようなことを申し上げたかったのだと思う。それはわかっていただけたようで、大亀和尚は、それに応えて、「自分は堺の紙屋の息子だから、紙はなんでも大事に使うし、和紙には人一倍興味がある」といわれた。この前、『大亀禅話』をよんでいて、「私は紙のお陰で生きた者」というのは、和尚がいつもいうことであることを知った。

 私が、大徳寺の文書の編纂を仕事とできたことを幸運であると考えているのは、自分の学者や歴史家としての人生観にそって生きていればほとんど近づくこともできなかったであろう禪僧の方々の謦咳に接したことがある。心の中に、何人もの禅者の姿をもっているのはありがたいことだと思う。

 三木清は、「私は理屈の勝った禅宗などではなく、庶民的な真宗の信仰が身に親しい。私は真宗を信仰するものとして死んでいくだろう」といっている。私は、これはまずは三木の幼児の頃の体験を言おうとしたもの、あるいは西田哲学に対する三木の根本態度に関係しているのではないかと思う。さすがの三木も東洋思想というものを十分には考えなかったのではないだろうか。有名な「日本は曖昧な汎神論思想によって厳密な意味での思想が成立しがたい」という彼の意見も、彼が戦争をこえて生きていたら、少しは変わったのではないだろうか。

 ともかく、無宗教の下層の家にそだった私には、お坊さんたちの姿を通じて知った禅宗が親しく、尊いものに思える。これからの限られた研究時間の中で、禅宗史の研究をできるとは思えないが、しかし、最近では、室町時代の文化にとって、南朝派という性格を刻印されている大徳寺が、室町幕府の体制の中で反主流の立場にあり、それが室町文化における大徳寺と禅宗の位置を決定したと考えるようになった。そういうことを考え、仕事をするためにも、少しは禅宗を勉強する余裕がほしいものだと思う。早く時間を確保できれば、高校時代に円覚寺で一度組んだ座禅の経験に戻って、禅宗の勉強をしてみたいというのが希望である。

 大亀和尚がなくなられて、葬儀にうかがってから、もうすぐ五年、まだ五年であることを確認して愕然とする。

2010年8月20日 (金)

『社会科学と信仰と』ー大塚久雄先生のこと

 私は大学時代に大塚久雄先生の指導をうけた、というよりも授業を聞き、そして卒論を執筆する時に、何度か御話をうかがったという程度であるが、ともかくも、卒業後、だんだん気持ちとしては指導を受けたという気持ちになっていった。

 『日本における古代首長制の諸問題』というのが卒論の題目で、当時、大学には日本前近代史の教員はいなかったので、『平安遺文』(平安時代の古文書集)の第一巻の中で、自分でも読める土地売券を素材としてともかくも書いてみたというものである。それを提出した後であったと思うが、大塚先生に報告をしたところ、「こういう仕事は清水三男くんがやっていた。彼の話だと、8/9世紀の経済は、社会の中に奴隷が形成されてくる過程にあったということだったと思うが、あなたはどう考えるのですか」といわれた。

 清水三男は、京都大学で学び、「転向」ということをし、軍隊に動員され、シベリアに抑留された死んだという経歴の歴史家で、私も名前をしっていた。石母田さんが、戦争中、清水三男に読んでもらい、意見を聞くことを楽しみにして仕事をしていたといっているのを、私もすでに知っていたのかもしれない。先生と清水三男の出会いが京都の第三高等学校でのことであるのはわかるが、その詳細は一度調べようとしたが、よくわからなかった。けれど、その時の私にとっては、大塚先生と清水三男が友人であったというのは、第二次大戦前から現代にかけての歴史学の研究史というものを実感させるものであった。

 私は、先生の専門とする西洋経済史ではなく、日本史の研究に進んだので、仕事の必要で先生の著作集を読むことはあまりない。ただ例外は、著作集七巻の『共同体の基礎理論』であり、それから『社会科学と信仰と』である。『共同体の基礎理論』は、その批判を長い間の課題としているためで、むしろ仕事が忙しくなると、これを思い出してメモをつくってきた。

 『社会科学と信仰と』は、同じみすず書房からでた『生活の貧しさと心のまずしさ』や、日本基督教団からでた『意味喪失の時代に生きる』、そして石崎津義男氏の聞き取りによる大塚先生の「伝記」ー『大塚久雄 人と学問』などといっしょに座右にあって、ときどき手に取る。そして、大塚先生の学問の背景にあった強力な覚悟ともいうべきものにふれて、大塚さんの歴史理論の内実を知ったように感じることが多い。

 『かぐや姫と王権神話』を書く中で、歴史学の側からはどうしてもタブーとなっていて、十分に議論のない「神道」を見直すということを考えてみて、つねに頭にあったのも、上の大塚先生の本から、いつもくみとっている事柄の意味であった。大塚先生の意見にもかかわらず、私は、神道というものの思想的・倫理的な意味を見直す必要があると考えるに到ったのだが、それでも大塚さんの覚悟の有り様を大切なものと思い、また正確に考えてみたいという気持ちは変わらない。

 最初は、この事情を『かぐや姫と王権神話』のあとがきに入れたのだが、何しろ枚数が相当オーバーしていたので、削除した。下記に、その削除部分を記録しておきたい。

「私の専門は、平安・鎌倉時代の経済史だが、実は、歴史の研究をむしろ一般には「古代」といわれる時代からはじめた。母校、国際基督教大学には、そのころは、前近代日本史の専任教員はおらず、まったくの独学だったが、ともかくも「古代首長制云々」という卒論を書いて大学を卒業した。けれども結局、「古代史」から離れたのはいろいろな理由があったが、おもには『日本書紀』『古事記』を読むことを敬遠したためである。私は歴史学研究会という在野のインターカレッジの学会の古代史部会で学問の手ほどきを受けたのだが、その時も、『日本書紀』『古事記』に関わる話にはついていけなかった。
 しかし、本書を書くことを決め、益田勝実氏の議論を学ぶ中で、ほとんどやむをえずという形で大学時代以来のコンプレクスとなっていた『日本書紀』『古事記』を読み、神話の世界をかいま見ることになった。もちろん、一〇年以上前にだした『物語の中世』(東京大学出版会、一九九八年)という本には「神話・説話・民話の歴史学」という副題がついており、とくにその中におさめた「竹取物語と王権神話ー五節舞姫の幻想」という論文は、本書の直接の前提となったものである。しかし、それは「神話」といっても平安時代からの視点が中心であった。
 本書に本格的に取りかかるまでは、とても大学時代以来の選択の枠を超えようとは考えていなかったのである。こういう経過もあって、本書を書く中で大学時代のことを思い出したことが多い。とくに、大学時代の指導教官、大塚久雄氏の周辺で、マックス・ウェーバーの『世界宗教の経済倫理』を読もうとしたが、大塚さんの議論に惹かれながら、その中枢をなすウェーバーの宗教論にはまったく歯が立たなかった。これも私にとっては一種のコンプレクスであるが、本書で神道を取り上げて自分なりの筋がみえてくる中で、東アジアの世俗宗教についての疑問がウェーバーとはまったく違った方向から解けるかもしれないと考えるにいたった。私は、今でも気持ちが屈すると大塚先生の本を読むことが多いが、そのときに、少しでも理解が行き届くようになるのを期待している」。

2010年8月18日 (水)

今日は水曜日、和紙の日

今日は水曜日で、和紙研究の日だった。今は帰りの電車の中。朝の電車では「精神労働と肉体労働の対立」というのは社会的分業論としてどういう問題なのか、という最近興味をもっている理論問題のメモを(前の人に遠慮しながら)パタパタうっていたのだが、職場についてしばらくしてから、修復室へ。和紙の計測関係のデータベースの状況とそのHpアップ、そして、今後の研究課題(黄色い非繊維物質の多い紙をどう物理分類するか)の確認。そして、美濃の長谷川和紙工房から届いた試験作成の紙のデータ化の相談。

 私の担当は今年度に繰り越した昨年度の経費で正確に長谷川さんに支払いをすませるための会計確認と計算と事務連絡。一瞬、ミスをしたかと思って、あわてて事務に相談したが、そんなことはなかったのでほっとした。大学事務は正確であることをモットーとするので、事務の方々には本当に世話になり、頭があがらない。もちろん、科研の研究は公務で、とくに和紙の研究などは基礎研究も基礎研究、ほとんど人のための研究であるが、やはり自分のしていることの事務を人に世話していただいているということに遠慮してしまう癖はなくならない。

 もう一つは、論文の仕上げ。農学部とE前先生を中心執筆者、私の指導院生で韓国に職をえて故国に戻ったHさん、そして史料編纂所のT島技官の協同論文である。これに実は先週末から四苦八苦であった。

 昨日、E前先生とそろそろ修正を終えないとたまらないと1時間ほど相談。歴史の方の状況を勘案して、先生の開発した和紙の繊維配向性分析がどれだけ意味があるかを私が工夫して書くということになった。上記の打ち合わせと事務の間をぬってどうにか完成。昨日、相談が終わった15時から、頭の中はそれで一杯だったが、これで一応終わり。その後は、和紙のホームページ作りに四苦八苦。

続きを読む "今日は水曜日、和紙の日" »

2010年8月16日 (月)

益田勝実さんの仕事について

タイトルに益田勝実さんと書いてしまったが、私は1948年生まれ、益田勝実氏は1923年生まれ、25歳も違う。けれども、『かぐや姫と王権神話』を書き出した昨年末から、この7月にいたるまでずっと益田氏の仕事を読んできたので、無意識に頭の中には「さん」とでてくる。3月ころ、この本は益田さんの仕事なしには成り立たないと自覚した頃、益田さんはどうされているかとネットワークをひいてみて、2月6日になくなられていることを知ってショックであった。できれば、お仕事によって、こういう本が書けましたと報告したい、できれば一度、「御挨拶してみたい」(あるいは「見てみたい」)と思い始めたところであっただけに、ああ、この世代の人々は亡くなっていくのだという喪失感があった。

浅見和彦氏に頼まれて、浅見氏の編の『古事談を読み解く』(笠間書院)に「藤原教通と武家源氏」を書いたのは2008年、まだ3年前のことである。この本には益田さんの「古事談鑑賞」が再録されており、それは浅見氏が益田さんに頼んで可能になったとはしがきに書いてあった。だからお元気なのだとばかり思っていた。

 私が益田さんの仕事を意識したのは、『説話文学と絵巻』が最初で、『かぐや姫』を書き出してからは、「フィクションの誕生」という1993年に行われた『竹取物語』についての対談(『国文学』)に一挙に惹かれた。こういう風に『竹取物語』を読む人がいるのだ、だから僕の読み方もあっていいかもしれないというように大変に励まされた。対談に載っている「海坊主」(失礼)のような写真も強い印象で、益田さんは、このお顔で私の頭のなかにいる。

 ただ、かぐや姫が火山の女神であるという論点を詰めていく中で、益田さんに『火山列島の思想』があるのを頭のどこかで思い出した。『火山列島の思想』は1968年の刊行だが、そのころちょうど大学にいた私の世代だと、この本などを含む筑摩書房のシリーズは親しい印象のもので、その装幀をよく覚えている。そして、そのころ、『火山列島の思想』という表題にひかれて、少しは読んだことを思い出した。この本はあったはずだと本棚を探したが、所在不明。あるいは図書館で読んだか、立ち読みだけだったか、ともかく急いで入手してみて、これが益田さんの神話論であることを確認した。そしてこれも、私たちの世代の連想ということかもしれないが、その神話論を読みながら、三木清の『構想力の論理』の「神話」論のことを思い出し、読んでみると、「夜の神話」という考え方が一致している。三木もシェリングによって神話は夜に幻視されるものであると述べているのである。

 研究の基礎となる発想は、ずっと昔にしみ込んでいた記憶の再発見に到達すると安定するということがある。時間を逆回しにするように、はるか昔の読書と知識の記憶と感覚が呼び覚まされることによって、それが自分の根にあるものであることを再発見したかのように感じる。それによって自分の内面の手触りを再認識するということかもしれない。ともかくも、こうやって自分を再構築するのは楽しい。それは自分の経験と記憶の中に新しい根を通すようなことで、歴史学というものは自分の内面に記憶された史料を対象にする労働なので、両者はよく似た心理過程である。

 益田さんが死去されていたことを知り、浅見氏に驚きを伝えた。浅見氏は大学時代に「自主ゼミ」(古い言葉だが、我々の世代には独特な響き)で益田さんに東大の駒場に授業にきてもらった。その時、益田さんは教壇の机の上に立って、「相撲」の振りまで教えてくれた。どれだけ面白い授業であったかは彼の話を聞いているとわかる。おそらく平安時代の相撲についての講釈であったのだろう。浅見氏は長い知り合いだが、その文学研究の出発点の一つをはじめて聞いた。そして、益田さんがどういう方だったかという話は誰に聞いたらよいだろうと聞いたら、自主ゼミの企画に賛同してくれた先輩がT田氏で、彼に聞くのがもっともいいという。実は、同氏の仕事も『かぐや姫』の重要な前提になっているものである。こういう網の目を学術世界の中であらためて知るのも、自分の経験の中に根を下ろしていくのと同じような経験で、こうやって人文学的な学術世界は結びつけられ、関係づけられていくことになる。

 益田さんにお聞きしたかったのは、同じ法政大学にいらした石母田正さんとの関係である。私は、この世代、つまり第二次世界大戦前から戦後にかけて生きた研究者の記憶を集積することに嗜癖的な偏執をもっているので、益田さんに石母田さんの記憶をうかがうなどいうことは考えただけで感情がわきあがるのである。しかし、その感情をもった時には、すでに益田さんは死が近かったか、なくなられていたということであった。

 こんなことでよかったのだろうかというのが歴史学者としての感じ方である。現在の日本文学研究の状況はよくわからないが、すくなくとも、私は奈良平安時代の文学研究ということになると、益田さんの歴史学への問題提起を、我々が正確に受けとめ、歴史からの議論を返すという当然のことをやっていなかったと思うのである。さらに西郷信綱さんの仕事を想起すれば明らかなように、いつか『物語の中世』に書いたように、歴史学は日本文学研究に借りがある。

 当時、応答ができたのは石母田さんだろうが、『火山列島の思想』がでたころの石母田さんは、すでにそれに応答する十分な余裕はなかったはずである。約40年の応答不在。私の益田さんへの応答がそれを挽回する内実をもっているかどうかは、日本文学研究の方々に評価していただくほかないが、それを越えて無念さが募る。私たちは狭い世界に住んでおり、学術と文化を豊かにするために働ける人員は多くない。それなのに、なんでこういうことが起きるのか。1960年代末期のあの時代からすでに40年。喪失感の内側に生まれる「ああ我、何をなせし」という無力の悟りをばねにして、もう一度仕切り直してみたいと思う。

2010年8月 5日 (木)

和紙の研究

昨日は水曜日だったので、私が代表をしている今年度までの科研「和紙科研」の作業日。昨日の日記で日中にやったのは、出版社の文理閣に相談のメールを出し、河音さんの解説の修正をして送ったことだけ。ほかは、例によって電車の中での研究である。

日中はもっぱら、和紙科研で技官の方々との打ち合わせであった。

職務上の義務感で始めた研究だが、農学部のE前先生の教示をえることができ、文理融合らしい研究になっている。基本的な方針は、大徳寺文書の重要文化財指定への協力の中で考えた料紙の物理分類方法で、(1)純繊維紙、(2)澱粉紙、(3)パリパリ紙という三分類はかわっていない。純繊維紙というのは、和紙のうちでもっとも高価かつ上品な紙で、王家やそれに準ずる貴族(武家貴族・宮廷貴族)の使用する紙で、歴史用語としては「引合」とか「繭紙」という。繭紙というのは、繭のような美しい縦皺によって名前が付けられたものと思うが、中国で、日本から輸入した最上級の紙を繭紙といっている。これは中国では最高級文書は絹布に書くので、それとの関係もあるかもしれないというのが、まだ確かめていない想像。(2)の澱粉紙というのは、米粉が混ざっている紙で、原料のコウゾよりも重量でいって安いので増量剤として使用するとともに、紙の発色や墨乗などのために使用する。これも厚い紙になると実に立派な紙となる。歴史用語としては普通の材質のものを杉原紙といっている。

 これまで困難だったのが、(3)のパリパリ紙で、これは名前がそれらしくないことでわかるように、どう分類していいかわからなかった。ところが今年の二月・三月に、修復室が和紙を透過光でみるための高輝度のLEDライトを購入した。これでみると、なんと、パリパリ紙にはゲル状の粒子の膜があることがわかった。そして、これは柔細胞というものであるかもしれないという製紙科学の方々の教示をうけ、これまで点検してきた。いちおう(3)柔細胞紙となって、格好がついた。

 ところが、先週、全国でももっとも著名な製紙会社の研究者の方にきていただいて、私たちの研究の中身を紹介かたがた、この柔細胞をみていただこうとしたら、みえない。これはたしかに見えるときとみえない時があるので、僕の目が疲れている(このごろいつも疲れている)ためだと思ったが、その研究者の方にみていただかない訳にはいかないので、いろいろ再チェックをしていたら、ようするに(1)高輝度のLEDライトらによる透過でないと、この膜はみえない。しかも(2)10センチはなして浮かして透過光をみる机の設定でみるとみえない。料紙の裏面に直接の透過光をあてないとみえないということがわかった。歴史学ではよく使われている蛍光灯式の透過光パネルではみえない、しかもLEDライトの高輝度のものを裏面に直接にあてなければみえないという事態が、これではっきりした。

 これまでの和紙研究者に柔細胞膜がみえなかったのは当然であった。LEDライトを導入した技官の方々万歳という結果がよくわかった。これが、先週の木曜日。昨日はその結果を柔細胞膜の観察デッサンともども和紙科研ホームページにあげるのに四苦八苦をして一日を過ごしたのです。ホームページの作り方、ファイルの組み方などは、何度も覚えたのだが、60をすぎた身として当然と自分を慰めているが、すぐにすべて忘れてしまうので、本当に四苦八苦であった。そこで、自分を鍛えるためにブログというのをやってみようと、昨日の夜、家で、このブログを始めた次第。

 これはまったく簡単だ。

 今は昼休み。そろそろ不自由時間。

河音さんと網野さん

 昨日の続き。河音さんと網野さんの関係が深いということは何年か前に網野さんの追悼講演会で報告した時に気付いていたが、その時は戸田さんとの関係を強調した。その後にもう一土考え、今回、正確に点検してみた。河音さんの『中世封建制成立史論』への網野さんの書評がよくできているのに感心した。網野さんが河音さんと「非常に近い立場」にいるということを自認していることも、この書評が懇切で行き届いていることの理由だろう。そして、おそらく、この書評が網野さんの『無縁・公界・楽』の論理が論理としてまとまった形で表現されたもっとも早い例であろうことにも気付いた。こういう関係なしには、あの「乱暴な」論理を創る自信は生まれなかったろうとも思う。

 おそらく、こういうことはすべて忘れ去られていくのであろうが、しかし、歴史学は根を掘っていく作業だから、根を辿るための地図くらいは残しておく責任があると考える。研究史と理論に関わる仕事がふってくるたびに思うのはそれである。

結局のところ、網野さんと戸田・河音・大山の関係は非常に深い。それは60年代は京都の雰囲気と学会の中で勉強したと網野さん自身がどこかで言っていることである。

 ほとんど全員がいなくなってしまった時代ということになるが、それにしても河音さんたちの世代は友人と研究仲間に恵まれていたと思う。

2010年8月 4日 (水)

歴史家の日記 保立道久

今日は河音能平氏の著作集の第三巻『封建制理論の諸問題』の「解説」の一応の完成原稿を出版元の文理閣に送った。約30枚。本来は、私の担当ではなかったようだが、依頼をうけ御引き受けする。依頼の時に、すでにパンフレットに名前が入っているのをみて驚倒したが、やはり断れない。本来7月に出版の予定を7月締め切りと記憶していて、7月半ば頃、文理閣のk川さんに締め切りを確認してあわてた。けれどもまだ第一巻も第二巻も遅れているので十分間にあうということで、徐々に考えをまとめた。『かぐや姫と王権神話』の校正終了と同時に取りかかる。

まず、O山さんに京都の60年代の学界状況の中での河音さんの立ち位置のようなものを電話で聞く。河音さんの最初の理論論文の「農奴制についてのおぼえがき」を考える上では、上山春平さんなどの人文研グループとの関係を聞いてみたかった。あまり関係なかったよというのがお答え。そして、60年代の河音はものすごい勢いだった。あいつは理解が早くて昨日読んだことでも前から当然知っているような顔をして話す。石井進さんが東大では河音さんの仕事ですべて決まりという院生が多くて本当にどうなんでしょうかと聞かれたことがあると。先週土曜から執筆を本格化。やはり勉強になった。60年代から70年にかけての河音さんの仕事のやり方はやはり本当にたいへんだったのだろうと感じた。河音さんのいう「敵対的批判」なるものには賛成できないが、それだけの覚悟なしには仕事はできなかったのだろうと思う。反面、梅棹・上山両氏の「生態史観」はそんなに問題なのかという点は疑問。つまり梅棹さんー上山さん、そして梅原さんと京都の歴史学界の関係を聞きたかった。

『かぐや姫と王権神話』で神道のことを考えながら、戦後歴史学のもう一つの分岐点、河音さんのいう京都の「日本文化論」を、見直してみたいと考えた。その結論を書いた。昨日、総合図書館に上山さんの「大東亜戦争の思想史的意義」を読みにいったら、M地氏と机でばったり。彼の意見も聞く。鋭く批判したから60年代の京都は歴史学界をリードしたのだというのが彼の意見。それはそうだと納得。しかし、鋭い批判をやっていた方も、やられた方もきつかったろうというのが感想。

「大東亜戦争の思想史的意義」は、学生の頃には読んだように思うが、意識しては初めて読む。私見では、歴史学の側が(それ故に河音さんが)あんなに批判すべきものかというのが感想。

帰りの電車で上山さんの明治維新論を読みながら帰る。遠山茂樹氏批判。これは容易にはなっとくできない。上山さんの意見はよく知られているように「明治維新ブルジョア革命説」。しかし、私は、少なくとも維新は「革命」ではなかったというのは前近代史家としての確信。生態史観によるスターリン的な「世界史の基本法則」批判は了解できるが、明治維新論と講座派批判はそう簡単ではない。

次は上山さんに反批判された遠山さんの論文を読んでみよう。

遠山さんの温顔を久しぶりに思い出す。一昨年ごろ稲垣さんに噂さを聞いたが、お元気なのだろうか。

トップページ | 2010年9月 »