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2010年8月20日 (金)

『社会科学と信仰と』ー大塚久雄先生のこと

 私は大学時代に大塚久雄先生の指導をうけた、というよりも授業を聞き、そして卒論を執筆する時に、何度か御話をうかがったという程度であるが、ともかくも、卒業後、だんだん気持ちとしては指導を受けたという気持ちになっていった。

 『日本における古代首長制の諸問題』というのが卒論の題目で、当時、大学には日本前近代史の教員はいなかったので、『平安遺文』(平安時代の古文書集)の第一巻の中で、自分でも読める土地売券を素材としてともかくも書いてみたというものである。それを提出した後であったと思うが、大塚先生に報告をしたところ、「こういう仕事は清水三男くんがやっていた。彼の話だと、8/9世紀の経済は、社会の中に奴隷が形成されてくる過程にあったということだったと思うが、あなたはどう考えるのですか」といわれた。

 清水三男は、京都大学で学び、「転向」ということをし、軍隊に動員され、シベリアに抑留された死んだという経歴の歴史家で、私も名前をしっていた。石母田さんが、戦争中、清水三男に読んでもらい、意見を聞くことを楽しみにして仕事をしていたといっているのを、私もすでに知っていたのかもしれない。先生と清水三男の出会いが京都の第三高等学校でのことであるのはわかるが、その詳細は一度調べようとしたが、よくわからなかった。けれど、その時の私にとっては、大塚先生と清水三男が友人であったというのは、第二次大戦前から現代にかけての歴史学の研究史というものを実感させるものであった。

 私は、先生の専門とする西洋経済史ではなく、日本史の研究に進んだので、仕事の必要で先生の著作集を読むことはあまりない。ただ例外は、著作集七巻の『共同体の基礎理論』であり、それから『社会科学と信仰と』である。『共同体の基礎理論』は、その批判を長い間の課題としているためで、むしろ仕事が忙しくなると、これを思い出してメモをつくってきた。

 『社会科学と信仰と』は、同じみすず書房からでた『生活の貧しさと心のまずしさ』や、日本基督教団からでた『意味喪失の時代に生きる』、そして石崎津義男氏の聞き取りによる大塚先生の「伝記」ー『大塚久雄 人と学問』などといっしょに座右にあって、ときどき手に取る。そして、大塚先生の学問の背景にあった強力な覚悟ともいうべきものにふれて、大塚さんの歴史理論の内実を知ったように感じることが多い。

 『かぐや姫と王権神話』を書く中で、歴史学の側からはどうしてもタブーとなっていて、十分に議論のない「神道」を見直すということを考えてみて、つねに頭にあったのも、上の大塚先生の本から、いつもくみとっている事柄の意味であった。大塚先生の意見にもかかわらず、私は、神道というものの思想的・倫理的な意味を見直す必要があると考えるに到ったのだが、それでも大塚さんの覚悟の有り様を大切なものと思い、また正確に考えてみたいという気持ちは変わらない。

 最初は、この事情を『かぐや姫と王権神話』のあとがきに入れたのだが、何しろ枚数が相当オーバーしていたので、削除した。下記に、その削除部分を記録しておきたい。

「私の専門は、平安・鎌倉時代の経済史だが、実は、歴史の研究をむしろ一般には「古代」といわれる時代からはじめた。母校、国際基督教大学には、そのころは、前近代日本史の専任教員はおらず、まったくの独学だったが、ともかくも「古代首長制云々」という卒論を書いて大学を卒業した。けれども結局、「古代史」から離れたのはいろいろな理由があったが、おもには『日本書紀』『古事記』を読むことを敬遠したためである。私は歴史学研究会という在野のインターカレッジの学会の古代史部会で学問の手ほどきを受けたのだが、その時も、『日本書紀』『古事記』に関わる話にはついていけなかった。
 しかし、本書を書くことを決め、益田勝実氏の議論を学ぶ中で、ほとんどやむをえずという形で大学時代以来のコンプレクスとなっていた『日本書紀』『古事記』を読み、神話の世界をかいま見ることになった。もちろん、一〇年以上前にだした『物語の中世』(東京大学出版会、一九九八年)という本には「神話・説話・民話の歴史学」という副題がついており、とくにその中におさめた「竹取物語と王権神話ー五節舞姫の幻想」という論文は、本書の直接の前提となったものである。しかし、それは「神話」といっても平安時代からの視点が中心であった。
 本書に本格的に取りかかるまでは、とても大学時代以来の選択の枠を超えようとは考えていなかったのである。こういう経過もあって、本書を書く中で大学時代のことを思い出したことが多い。とくに、大学時代の指導教官、大塚久雄氏の周辺で、マックス・ウェーバーの『世界宗教の経済倫理』を読もうとしたが、大塚さんの議論に惹かれながら、その中枢をなすウェーバーの宗教論にはまったく歯が立たなかった。これも私にとっては一種のコンプレクスであるが、本書で神道を取り上げて自分なりの筋がみえてくる中で、東アジアの世俗宗教についての疑問がウェーバーとはまったく違った方向から解けるかもしれないと考えるにいたった。私は、今でも気持ちが屈すると大塚先生の本を読むことが多いが、そのときに、少しでも理解が行き届くようになるのを期待している」。

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