『竹取物語』の「不審本文」ー文学史料の「編纂」
編集者から何か一冊新書を書いて欲しいといわれた時、『竹取物語』について書いてみようと思ったのは、一つには『竹取物語』本文の読みを何カ所かは直せそうだという見通しがあったからである。
その結果を『かぐや姫と王権』の巻末の『竹取物語』の翻刻に示したのだが、私は歴史史料の「編纂」(Dcumentation)を仕事としているとはいえ、文学テキストの編纂ははじめての経験であったので、非常に勉強になったし、いろいろなことを考えさせられた。最大のものは、テキスト研究が『竹取物語』の物語の時間構成に接触する局面を確認したことで、これも巻末の「かぐや姫年表」に、その成果を摘記した。史料を編年的に、クロノロジカルに分析するというのは歴史学にとって普通のことだが、『源氏物語』については様々な試みがあるものの、これまで『竹取物語』の時間構成は明瞭になったことはなかった。これがうまく説明できるようになって、やっと叙述をコンパクトにまとめる見通しができた。
個別の箇所のテキスト修正は、それに比べると相対的には単純な問題であった。『竹取物語』の本文解釈上の問題については、古典文学全集(小学館)や、古典文学大系(岩波書店)の翻刻の注記に多くの問題が掲げられており、鈴木一雄、谷口庸一、伊藤博氏の「竹取物語解釈のかんどころ」で一覧することもできる。巻末のテキストでは、そのうち、四・五ヶ所について自分の意見をだしてみた。
たとえば『竹取』で最も難解な箇所といわれるのは、車持皇子が、「蓬莱の玉の枝」を求めて南海に向かうような顔をしながら、実際には、隠家に籠もって、工匠たちを集めて、「玉の枝」を偽造する一節の中の下記の部分である。
その時、一の工匠(たくみ)なりける鍛冶工六人召しとりて、たはやすく、人寄り来まじき家を作りて、かまとを三重にしこめて、工匠らを入れたまひつゝ、皇子も同じ所に籠りたまひて、しらせ給ひつるかぎり十六そをかみにくとをあけて、玉の枝をつくり給ふ。
まず「かまとを三重にしこめて」の部分については、これを「竈(かまど)を三重にしこめて」というままにしては、意味が通らない。これについて、内田順子氏は論文「偽玉の枝作りの工房ーー『竹取物語』の本文と解釈」)で、「かまと」は「かき」の誤写であるとする。そういう伝本はないが、「ま」がきわめて細い字で、「と」の下部の屈曲があったとすると、たしかに「き」の字に似てくる。だから字形からいって「き」が原字であった可能性は想定できる。
さらに内田氏によれば「しこめる」というのは垣根を作って囲むという文脈で使われる(『源氏物語』に他の用例)もので、その目的語としては「竈(かまと)」よりも「垣」の方がふさわしい。そして「三重の垣」という言い方も『宇津保物語』にある。隠れ家のまわりに垣を三重にするというのは、文脈にぴったりである。こうして、「垣を三重にしこめて」と校訂すべきことはは鉄案であると思う。見事な校訂である。
こうして「しらせ給ひつるかぎり十六そをかみにくとをあけて」の部分が不審本文として残ったのであるが、これについてはこれまで納得的な案はないと思う。目立つのは加地伸行氏の意見で(「『竹取物語』と道教と」)、加地氏は「古本」という伝本では、この部分が「しらせたまへるかぎり十二方をふたぎ、かみにくちを開け」とあることを採用する。そしてこの「十二方」とは道教では「十方」(東・西・南・北・東南・東北・西南・西北・上方・下方)を重視し、この十方に門に儲けてお祭りをするという風習をあらわしているとするのである。しかし、「十方」と「十二方」の違いは大きいだろう。加地氏が『竹取物語』を道教にひきつけて読むのは重要な視点であるが、テキストの校訂に直接にそれをもちこむのは問題が残る。私は、「古本」は江戸時代の学者が『竹取物語』の不審部分を合理的に理解しようとしてテキストをいじくったものであるという『竹取物語』研究の多数意見に賛成なので、古本を採用することも難しいと思う。実際には、「古本」は「十二」の「二」の上の一画が実際には極端に小さく、「方」の下の部分が「六」の下の部分に誤写されたという理屈を作って、普通のテキストを改訂し、意味の通りそうなテキストを作ったのではないかと思う(これは古本の校訂がすべてあたっていないということは意味しないが)。
よって「十六」を生かしたまま解釈をするのが正論ということになるが、「十六」といえば、この時代の歴史家には、「十六所祈祷」というのがすぐに頭に浮かぶ。「十六社祈祷」とは伊勢を除くと大和・山城の有名神社に対して九世紀最末期から行われた一種の集合祈祷のやり方である。そこで私はこの部分を「知っている限りの十六所の神社を拝み、竈突(煙出)を開け、玉の枝を作りだした」と解釈した。校訂したテキストは次のようになる。
その時、一の工匠(たくみ)なりける鍛冶工六人召しとりて、容易く(たはやすく)、人寄り来まじき家を作りて、垣を三重にしこめて、工匠らを入れたまひつゝ、皇子も同じ所に籠りたまひて、知らせ給ひつる限り、十六所(十六そ)拝み「て」、竈突をあけて、玉の枝をつくり給ふ。
「十六そ」を「十六所」と校訂するのは、「そ」の変体仮名に「所」の崩しがあるからまったく問題がない。また「をがみに」の「に」を「て」と校訂するのも変体仮名の字体上、問題がない。
全体としては字を二つ校訂したということになる。内田氏が直した「まと」から「き」、そして私が直した「に」から「て」という二ヶ所だけで明瞭に意味が通ったということになるから、良い校訂案であることは疑いない。そして、歴史学の側としては、十六社祈祷の非常に早い用例を追加できたということになるり、「くど」と祈祷の問題は様々な論点に展開する。
ここまで書いてみて、これはブログというよりも論文にしたほうが誤解を招かないということを自覚したが、文学テキストに対して、歴史学者がどのような「編纂」の構えをもつかは理解をいただけたのではないかと思う。
私の仕事は編纂だが、歴史学の編纂では、その結果を一つ一つ説明することはしない。歴史史料の量は膨大であって、従来から公刊されてるテキストを校訂する場合も、先行するデータの修正理由を、いちいち報告することは実際上できない。そういう感じ方を前提にして、『かぐや姫と王権神話』では手続きを紹介することはせず、もっぱら歴史分析に集中した。しかし、日本文学研究では、テキストの量は少なく、テキスト校訂のやり方の習慣が違うのではないか、必要な説明をせずにブログで見解を発表するというのはルール違反かも知れないという怖れである。
しかし、歴史学にとっては、個別の知識はあくまでも個別知識であって、それ自身にはたいした価値はないというのが常識的な考え方である。これはたいした価値はないから勝手にやってよい、いいかげんにやってよいということではなく、それは逆で、個別知識は、その上に積み重ねるべき仮説とストーリーの共有されるべき基礎である以上、編纂というある意味で無記名な、アノニマスな基礎研究過程、考証と文化財保存専門技術のための組織を学界共有のものとして設置しようという発想である。たとえば東京大学史料編纂所や各自治体の自治体史編纂室などは、そういう組織である。歴史学において、個別知識をいわゆる知識ベースとして提供しようという発想がでてくるのも、ここに根拠がある。
これに対して文学研究では、一般に、テキスト研究が、そういう自立した姿はとらないから、ここら辺は、歴史学と文学研究が接触する場合に、もっとも重要な問題の一つになる。西郷信綱・益田勝実などの「戦後歴史学」と併走した歴史社会派の文学史家たちと歴史学の共同において、もっとも問題であったのは、このようなテキスト研究のレヴェルでの共同が具体化しなかったことであるように思う。
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