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2010年9月 9日 (木)

堀田善衛と「Back to the Future」

 私は堀田善衛が好きで、よく読んだ。とくに高校時代に神田の古本屋街でみつけた第一エッセイ集の『乱世の文学者』は長い間の愛読書だった。当時『文芸』に連載されていた堀田の青春自伝『若き日の詩人たちの肖像』を傍らにおいて、その「思想的」解説のようなものとして読んでいた。今から考えると、「哲学」の代わりに読んでいたのだろうと思う。そして、第二エッセイ集の『歴史と運命』、そして死去のしばらく前にでた『天上大風』も好きでよく読んだ。『歴史と運命』がどこかにいってしまったのは残念だが、『天上大風』は、いまでもときどき読む。
 その中の「Back to the Future」という文章は見事なもので、この有名な映画の題は、実は、「我々は後じさりしながら、背中から未来に入っていく」、未来というものが我々の背後に広がっているという時間・空間観念を示すという指摘には感心してしまった。堀田は、この映画の題名を聞いた時、この言葉の背景には何かがあると考えて、当時住んでいたスペインで、古典学者に聞いたところ、オデッセウスに出てくるといわれて、やおらオデッセイアを読んだところ、そこに、「過去は我々の眼前にあり、未来は背後に広がっている。だから、我々は、どこで落とし穴に落ちるかわからないまま、後ろ向きになって、未来へ進んでいくのだ」という観念が何カ所にも述べられていることを確認したというのである。

 さて、このような過去と未来の時制を表現する言葉について、歴史学の側ではじめての議論を提出したのが勝俣鎮夫氏の「バック トゥ ザ フューチャー」(『日本歴史』2007年1月)である。

 勝俣は、室町時代までは「さき」という語は時間用語としては「過去」を示し、空間用語としては「前方」を示す。そして「あと」という語は時間用語としては「未来」を示し、空間用語としては「後方」を示すことを明らかにした。そして、これが「さき」が「未来」=「前方」となって、時間空間観念が逆転する戦国時代、江戸時代への言語感覚の変化が、どのような社会変動を表現するのかという問題を提出した。

 そして、堀田の文章を引きながら、このような時間観念と空間観念の関係のあり方は、前近代では世界の各地域に一般的であったことを論じている。

 こういう時間・空間感覚は、何を意味するのだろうか。私は、これはまずは「未来」ということよりも、「過去」のとらえ方に関わるのだと思う。過去は眼前に広がるものであって、すべての人々に共有されているという感覚が基礎にあって、未来は背後にあるという感覚が強まっていくのではないだろうか。そこでは、過去はつねに共通の風景として目の前にあり、家や村の前に広がるなじんだ風景のようなものとして共有されている。目の前の風景と過去の記憶を共有するという日常意識のあり方。

 現代社会は、そのような懐かしい身の回りの風景を人々から本格的に奪い取るとともに、過去の記憶をも最終的に人々から剥奪しようとしている。

  堀田善衛の詩でいえば、
 
 人と別れた黒い戸口から/すでにあのなつかしい悲哀をも含まぬ/暗い霧は湧き出で立ち出でて/つひに冷たい波となり/身を襲ひ身をつつみ/しぶきを立てて身の行いをあきらかに/洗い出し奪ひさり/掠め掠めては/時は身を削りつづける

 ということになる。

 歴史学は、その過去を取り戻すための学問である。そして、歴史学にとっては、未来はみえない、未来は背後にひろがる隠された世界であるという感じ方は重要な意味をもっている。未来を予知し、予測するためには、私たちの背中にオンブオバケのようにして密かに忍び寄ってくる未来を感じる力が必要である。その秘かさこそが歴史の必然性といわれるものである。そしてそれを透視するためにこそ、眼前の過去を見つめることが必要になる。過去を取り戻すことによってしか未来はみえないという関係を意識の根っこのところに据える仕事を歴史学は担う。
 歴史学からもっとも遠い考え方、感じ方は、自分の前に漠然とした未来の時間が広がっているというように考えることであって、それは一種の幻想である。「未来は君たちのものだ」という言明は、しばしばただの自己責任の論理、脅迫の論理をしか意味しない。もちろん、自己が自己の主人である、自分の時間と空間、そして肉体を差配するものであるという意識のあり方は、現代的な人権概念の基本にすわるものであり、我々は、そのような自己意識のあり方から撤退することはできない。
 しかし、自己が自己である諸条件、社会関係の総体を了解しないまま、自己が自己であるということを当然の自然的前提のように考えることは、幻想である。「我思う、故に、我あり」というのは単純な幻想である。自己が自己でありうる条件をあたえないまま、この幻想を利用して他人を操作するということがありうる。近代社会は、自己が自己の完全な操作対象物であるかのように幻想する物件化の幻想、自己の能力と身体を契約と売買の対象としうるという仮象の上に成立している。

 しかし、人間はかならず操作不能の部分を含みこんでいる。我々は、だからこそ、自己の暗部を尊厳を懸けて守らなければならない。そして、操作不明の部分は自己の中にあるだけでなく、過去の中に存在する。むしろ操作不能なものは本質的に過去の中にある。過去から生成してきたものとして客観性をもつ諸関係の中に自己の操作不明な部分がどのように結びついているかを知ることなしには、自分を守ることはできない。 

 日本社会の過去忘却の風習、過去のない社会、日本。歴史家が不要な社会ということの基本には、日本社会をながれる独特な時間の性格があることは疑いないが、過去の剥奪というのは、近代社会の基底に属する問題であることも明かだと思う。歴史学は、このレヴェルの問題に対応する営為でなければならないのだと思う。
 
 以上は頭休めのはずが疲れてしまった。

 昨日は和紙の日だったが、御寺での調査のまとめ、 御寺から調査を依頼された仕事で終わり。次の計画を立案中。

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