著書

twitter

公開・ダウンロード可能論文

無料ブログはココログ

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月

2010年9月28日 (火)

昨日はボン大学のタランチェフスキ氏がくる。

 昨日はボン大学のタランチェフスキ氏がくる。朝、職場のコピー室でばったり会う。少し聞きたいことがあるということだったが、昼にカレー屋にいったら、K藤氏と一緒に彼がいた。
 彼からの質問は、一つはデータベースと知識産業をどう考えるかということ、もう一つは王権論と氏姓制度論であった。
 私は、歴史情報学には職務上、関わった時間だけは多く、きわめて重要な問題とは考えている。ただ、PCもキチンと扱えない役立たずでもあり、つねに人の研究時間を侵害するので、とても耐えられず、もう定年であることもあって、最近、引退させてもらった。
 タランチェスキーは、灌漑について荘園現地調査を行うという河音能平さん門下の本格的な研究者で、データベースと情報学にそんなに興味があるとは思っていなかった。彼の研究にはそんなに必要はないだろうと思っていたので、そんなことを聞かれるとは思っていなかったが、ともかく経験を話す。書いたものをみせろというので、「このブログに関係の論文をのせるからドイツに帰ったらみればいいよ」といった。そこで、昨日、夜、職場で、仕事の時間の後に、このブログに「歴史理論・歴史情報学」というWEBページを作って、何本かのせておいた。ブログというのは、こういうことをするには便利なものだ。
 さて、史料編纂所のデータベースはログをとるとわかるが、国外からのアクセスが多く、とくにアメリカの各大学からのアクセスが多い。向こうの日本学の教室で卒論・修論・博論をやる人間が複数いれば、当然のことだ。以前は、欧米の研究者には、「そっちで少しぐらいデータを作ってよ、利用するだけじゃなくて」などとよくいった。タランチェフスキー氏にもそういった記憶がある。しかし、彼らからはほとんど反応がなかった。しかし、実際上、国際的な日本史研究のネットワークは拡大の一途をたどっており、我々としては、たとえば法経などの普通の日本人の人文社会系研究者よりも、実質上、気分的にも職業的にも親しい人々になっている。これは自然科学系では普通のことであったが、歴史学のような領域が細分化された大規模科学でも必然的なことなのだと思う。特別条件としては、なにしろ日本史研究者は「日本語がうまい」。彼らには、「なにしろあなた方は、文化財保護や史料翻刻などの「本国」研究者が負う雑多な仕事から解放されているのだから、日本史研究をやっている以上、何か国外から協力する方法を考えるべきだよ」などという。とくに欧米の研究者は、自分の研究室に帰れば、一般に我々「本国」研究者とくらべて社会的にも経済的にもまったくのエリートで、研究時間もたっぷりなのだから、そのくらいはいわないと割に合わない。
 話を戻すと、タランチェフスキ氏は、冬一二月にドイツで、「データベースと知識産業、コンテンツ企業」についてのシンポジウムで報告をすることになったという。それで、我々の経験と意見を聞きたいということである。
 タランチェフスキ氏は、データベース事業などは公共的な負担によって行うべきものであって、サイバースペースのコンテンツ産業・知識産業による独占は、一度、動き出すと雪だるまのように止められなくなり、統御不能になる。いまでももう遅いかも知れないが、どう考えるかがドイツでは真剣な議論になっている。あなたはどう考えるかという訳である。
 私は、私の意見は、公的支援、公的負担を前提としながらも、むしろ知識産業の側にも不可欠の役割があると考えるべきではないかというものと応答。これはかならずしも賛同がある訳ではなく、また、日本の大学財政は、それを考えないとやっていけないという現状に規定された意見かもしれないが、ともかく情報事業は無限に金がかかる。規模は小さいかもしれないが、一種のビッグサイエンス、大規模科学だ。この資金をどう調達するかは、公的負担だけでは無理が多い。本質的には大学の人文社会系全体で合意を作っていくべき問題で、いわゆる文化経済学はどうしても芸術文化が中心だが、その大学学術版のような議論が必要なのだと思う。そうでないと、公的負担を要求する書類仕事だけで疲れてしまう。これは私などは、日本の資本主義の改善なり、ヨーロッパ化なりの問題という形で議論する形になるので、ヨーロッパ自身からみると、そんな甘いことはいってられないということかもしれないが、日本の現状にそって考えると、そういうことになる。
 もちろん、大学のデータベースは基本的に無料で、オープンなものであるべきであると思う。しかし、大学と企業が合意のもとに費用を調達して超過サービスをする場合、また企業の側が大学のオープンソースを利用して他のソースと合体的に利用できるナレッジベースを構築する場合、さらには歴史書や史料集を専業にしてきた出版会や編集者集団と研究者・大学の間での協力の発展形態として事業が展開する場合などは、データベース利用料からの大学へのペイバックがあってもよいと思う。たとえば辞書のような知識データをネットワーク上で監修・追補する場合などなど、大学と出版会、知識産業の間で検討可能な問題は多いのではないか。コンテンツ産業・知識産業は知識ソースの所有利用の権限や著作権をもとに長期的には一種の超過利潤をうる場合があるから、それに対する公的統御を考えるべきであることは当然として、日本では、若干の危険はあっても、問題それ自身を出発させた方がよいように思う。
 以上が私の意見。タランチェフスキー氏は、コンテンツ産業・知識産業による独占がいかに怖いかを話してくれる。彼によると、ドイツではウッターバール州のバルメンの出身で聖書や宗教書の販売で財をなしたという知識教育産業の雄がいるそうである。その企業が大学を中心として知識・コンテキストの商業的利用で大きな成功をおさめ、アメリカをふくめた世界の知識産業の中でも知識生産点の掌握では群をぬく地位を占めつつあるという。この企業は、政府機関のコンサルタントと立法事業にまで手を染め(タランチェフスキ氏によると、「このごろの政治家は馬鹿化しているから、法律を自分で構想することもしない」と)、さらには各州での教育関係法の改悪の中にまで入ってきている。そして、この企業と関係をもった研究者は様々な利益を得るということになっているそうである(タランチェフスキさん、このブログをみたら、Bが頭文字だったと思う、この企業の名前をメールで教えてください)。
 今日、文化経済学の概論書、『文化経済学』(有斐閣、池上淳ほか編)をみてみると、ドイツでは「文化は公共的助成によって支えるものという意識が伝統的に強いので、企業など民間による芸術文化支援の動きは、(アメリカの寄附文化などとくらべて)弱い」「ナチ時代の文化の国家統制への苦い反省から、文化政策の中心的な役割は各州や市町村など自治体によって担われているという特色がある」(229頁)ということである。これを前提にすると、上記の企業の動きは、ドイツでも例外的ではない文化教育財政の縮減の状況が、文化政策の責任と権限をもつ自治体の文化政策が形骸化する中で、知識産業の食い込みを招いているということになる。アメリカのような寄附文化の不在が、ドイツでも負の遺産として現れ始めたのであろうか。
 「文化経済学」というのは魅力的な分野であると思う。『文化経済学』を前に読んだときは、もっぱら「文化」、あるいは「芸術」が焦点の議論になっていることに違和感をもった。文化の基礎になる「歴史文化財」あるいは「学術」と学術情報への目配りが少ないように思えた。しかし、いま読んでみると、議論の出発点としてやはり有用なもの。文化経済学の原点として、A・スミスがあること、さらにラスキンやW・モリスが原点とされている。モリスのユートピアが好きな私としては、共感。モリス的な職人仕事への賛嘆は、ヨーロッパ文化の中でもっともよい伝統の一つだと思う。そして「学術」というのは本来、机の上の職人仕事の一つ。
 王権論については、鎌倉・南北朝以降の王権の正統性の時間分離、つまり、覇王(室町殿)・旧王(天皇)体制の明瞭な制度化についての私見を御伝えする。南北朝以降、天皇家内部でお家騒動がなくなるのは、ようするに京都という都市、その暗部を含む基底からエネルギーを吸い上げ、調達するという天皇家のエネルギー構造が弱体化したことである。王統分裂は九世紀以来の日本王権の伝統だが、それが地域的分裂にまで展開し、都市王権としての性格の基礎にひびが入った。それが南北朝期。王統分裂が南北朝時代にはじめて出てくるというイメージは決定的な間違い。
 問題は、その天皇家王権の地域分離とともに、旧王・覇王体制が明瞭に制度化する全体的な連関をどう説明するかにあり、この過程が「氏的国制」と私がいうシステムの瓦解と結びついていることがキーになると思う。この場合、黒田俊雄氏の国家の種姓秩序論の位置が決定的で、黒田説は、鎌倉時代の史料用語語彙では、「氏姓」=「種姓」となっていることを中心に読み直す価値があるとも説明した。黒田俊雄説というと「権門体制」となっているのは「戦後歴史学」の研究史への内在不足のなせる業で、彼の議論の全体性は、「権門体制」論と国家の「種姓的構造論」の両方によって担保されていることを説明。

タランチェフスキー氏から、下記の連絡があった。やはり海外メールは便利なものである。メールが来ると、まず顔を思い出し、そして相互電子的に頭脳を読み書きしているという感覚になる。これも一種の対話であって、面白い対話感覚だと思う。

ところで、あの時に話に出た、世界中で活躍してお
り、これから教育市場へますます侵入することをめ
ざしているメディア会社(財団法人という形をとっ
ているが)はベルテルスマン(Berthelsmann)といっ
て、創設者はエンゲルスと同じバルメン(Barmen, 現
在ヴッパタール市?Wuppertal?と合併)に生まれ、も
ともと聖書などの書物の商売に励んでいた、かしこ
いプロテスタントでした。その会社の所在地は今
ギュータースロー(Guetersloh)に移りましたが、あ
いかわらずウチのノルトライン・ヴェストファーレ
ン州(Nordrhein-Westfalen)の中にあります。この州の
教育制度の資本制化に努力し、その意味ですでに幾
つかの成果を上げました。

2010年9月27日 (月)

昨年の奈良女子大学での集中講義ー平安時代の考え方

 昨年8月の奈良女子大学での授業の後、もらったレポートへの感想のテキストがでてきたので、あげておきます。これが昨年8月の文章であるということが信じられない。昨年までは元気であった。

 私にとっては久しぶりの授業で、熱心に聞いていただいてありがたく思いました。


 平安時代王権論は、十年以上前にした仕事で、学界で認められている部分もありますが、批判的な意見も多い仕事です。そういう私説を表面に立てて授業しましたので、わかりにくいところも多かったと思います。レポートではいろいろな質問もいただきましたし、書いていただいた要約をみると、授業の内容が舌足らずのところもあったことを感じます。
 そこで、若干の点について補っておきたいと思います。ただ、様々な質問のすべてにお答えすることはできませんので、テキストとした『平安時代』(岩波ジュニア新書)、さらに『平安王朝』(岩波新書)などとあわせて御読みください。
 まず、「国家が7世紀の末から8世紀頃にできたといっていたが、そこで国家というのはどういう意味で使っているのか、飛鳥時代にも国家があるのではないか」という質問をもらいました。歴史学者が国家という場合は、一般には社会の中に画然とした階級差、格差ができて、そのシステム自身は安定してほとんど揺るがない状態が存在する段階で、その政治組織を国家といいます。そういう意味での国家は7世紀末頃にできたのではないかという意見の人が多くなっているのが、学界の動向であると思います。もちろん、飛鳥時代やそれ以前にも人々の村や、地域の組織というものはあり、「王」と呼ばれる人や貴族・豪族もいるのですが、上記のような意味での国家が、その段階で形成されているとはいえないのではないかと、私も考えています。
 なお、国家の基礎には財産状態の格差があることはいうまでもありませんが、同時に重要なのは、知識や管理労働と、より肉体的・自然的な労働の間の社会的分業を基礎として支配組織が成り立っていることです。律令制の導入は、従来の未分化な社会的分業を一挙に文明化しようという試みであった訳ですが、その中で形成された中央都市は、支配機能・経済機能を集中して、国家の強力な基礎となりました。
 王の性格の変化、都市貴族の成立などは、これに支えられているということになります。都市貴族というカテゴリーや、平安時代の社会システムについての私見は、奈良女の日本史研究室の雑誌『日本史の方法』の創刊号を参照していただきたいと思いますが、私は、都市貴族集団とそれを代表する王家の再生産の形式が「平安京」という都市社会の内部における狭い血縁紐帯によって営まれていること、支配層の同族性が高いことが東アジア諸国とくらべると日本の平安時代国家の大きな特徴であると考えています。
 今回は、おもに政治史の話しから詰めていきました。政治史からみると、政治史の中心は、やはり王権にあると、私は考えています。少なくとも、王権の内部には相当の矛盾と闘争があり、それ抜きに問題を取り上げたり、それを取り上げることをタブー視したりするような古い見方では、平安時代史の系統的な理解はできないと考えています。
 しかし、同時に王家は、最大の都市貴族・庄園領有者であり、かつこの都市貴族集団の代表であるという位置にあること、王権も、所詮、都市貴族集団の全体の動向に左右される存在であることも強調しておきたいと思います。その意味では王権はけっして万能の存在ではありません。そもそも王族や都市貴族の存在は、荘園制あるいは国衙荘園体制などといわれる都市的な社会システム・所有体系によって支えられています。歴史学にとって困難なのは、政治史の研究そのものであるよりも、国家・社会の内部に踏みこみ、王族・都市貴族の内部での矛盾を生みだすような国家内部の利害対立の全体を視野に収めることです。
 これはあまりに一般的ないい方になりますが、しかし、私見では、歴史学は科学の一部として、そのような客観的な視野と方法をもたざるをえないと考えています。そもそも政治史という上層部分は、史料も相対的に残りやすいので、初歩的な研究段階でも相当程度の事実を解明することができます。しかし、問題は、そのようにして国家や社会を上から見ていく視座を確保した上で、逆に国家社会の内部に踏みこんで、より日常的・社会的・経済的な諸問題を解明していくことです。そして、それを前提として、もう一度政治史に戻って問題を捉え直すことです。歴史学にとっては、こういう往復運動がどうしても必要です。なおその場合、同じように史料の豊富な制度史の調査が不可欠であることもいうまでもありません。これもしつこくやれば初歩的な研究段階でも相当の事実を明らかにすることができますし、いまはデータベースがありますので、その点でも有利です。
 さて、授業では「院政」について話しをすることができませんでした。これについては、テキストや右の『日本史の方法』の私論を参照いただければと思いますが、院政という王家による強力な支配は、上述のような国家・社会全体の動き、その中での社会の暴力化や経済の変化など抜きには必然化しなかったものと考えています。早い時期から院政の萌芽といえる動きがありながら、結局それが実現しなかったのは、国家・社会の内部に、それを必然化するような条件がなかったためということができます。
 
 いろいろな意見をいただいてありがとうございました。レポートに若干のコメントを赤字で加えましたが、私のボールペン字があまりきれいではないことは、たいへん申し訳なく思います。
 ただ、レポートを読んでの、より一般的な感想を二つ、申し上げておきたいと思います。
 第一は、政治史のドロドロした話しもありましたので、どうしても、感情的な判断をせざるをえない部分があるとは思います。たとえば政治史の実態について「残念」「理不尽」「異様」などの感想が多くありました。事柄が事柄なだけに、そして人間が人間の行為を分析する場合だけに当然で、私はしばしばいわれるような「歴史分析に感情を交えるな」という意見には賛成できません。その意味で、これは当然の反応であると感じます。
 しかし、これらは基本的には事実であるということから歴史学は出発しますし、その点では学問一般と同様に冷徹でなければなりません。そして、これは同時に歴史と道徳という古典的な問題にかかわってくることも御伝えしておきたいと思います。戦前のいわゆる皇国史観、超国家主義の歴史観の基礎には、歴史の道徳化があったことは歴史家にはよく知られていることです。そして、歴史と通俗道徳の相違というのは歴史家にとって常識的な原則なのですが、とくに、講義との関係では、私は、現状の平安時代の教科書の叙述には、名分論史観が強い影響をもっていると考えていることを申し上げておきたいと思います。つまり、歴史の構造を単純化して捉えることと、歴史に通俗道徳を投影して何かわかったような気になることとは、実際には共通した問題で、現状の教科書叙述が、ヘタをするとそういう回路をあたえかねないように考えています。
 みなさんのレポートを読んでいて、大学は「教科書はない」世界であること、そして自分ですべてを考え直す場であることを実感してくれたかも知れないと感じたのが、私にとってはたいへんにうれしいことでした。
 第二は、文章のことです。歴史学は客観性をもった総合的な理解のレヴェルが問われる学問です。様々な知識や学問分野を視野に入れて問題を詰めていくことが要求され、どうしても論題が広くなります。人文社会系ではどの学問でも同じということではありますが、それだけに学術的な文章の技術や能力を鍛えているかどうかはレポートを読めば一目瞭然となります。私からみると、内容はよいのに、文章の書き方について十分に訓練ができていないレポートがめだちました。主語ー述語の関係、助詞(は、が)の使用方法、文章構造の組み立てなど、さらに曖昧な価値意識が入った用語を排除することなど基本的なところについて意識的になる必要があります。大学在学中に、たとえば本多勝一『日本語の作文技術』のような文章読本を一度は読み、話し言葉とは違う文章の書き方の原則を頭に入れておくことを御勧めします。
 最後ですが、講義のようなレヴェルで中学校や高校の授業が可能かどうかという問いがいくつかありました。これはきわめて重要な問題です。私は、たんに教科書叙述・教育課程カリキュラムのみでなく、私たちの歴史文化の全体を徐々に変化させていくならば、それはかならず可能であると考えます。
 それでは、お元気で。
 
          2009年8月26日

2010年9月26日 (日)

今日は自転車

100926_1433281_2 

今日は自転車。花見川の自転車ルートへでる。

谷戸は秋が近づいていて、道からはバッタが飛び立ち、スズメの群が移動している。

川縁の道に入れば、キマダラヒカゲがフタフタと道を横切る。公園にはアカタテハ。

ベンチや公園でワープロを開き、義経論の続き。今日はすでに書いた平治の乱についての部分を書きなおし。後白河と姉の養女、妹子と の関係、「二代の后」の部分にいくつかの追加をする。100926_1344211_2

自転車にのって、走ってから少し考えてベンチに座って、また書く。

久しぶりの自転車で、帰りは足がいたい。こういう写真をみると、都市とは思えないが、川縁だけの自然である。ここまで行く道が同じような道だとすばらしいのだが。けれども、このルートは都市のすぐ側の自転車道としては他県のサイクリストもうらやましがらう道である。しかし、稲毛海岸から一番上までいっても1時間かからないというのが残念。そこからは、勝田台の方へぬけて、印旛沼から利根川を目指すことになる。秋がもう少し深まったら、利根川から霞ヶ浦へでてみたい。                

100926_1341281_3 

昨日は日本文学の小島孝之さんから『かぐや姫と王権神話』の礼状。手紙には、大学の定員削減によって、若い研究者が道を失っていることが憂鬱の種とあった。歴史学もそれは同じで、私の勤務する史料編纂所は、このままでは若い研究者は昇格も、移動もできず、さらに新任の研究者を採用することもできない。一体、どういうことになるのか。憂鬱の種であり、さらに、60を過ぎて安閑としていてよいのかという気持ちになる。学問の世界に対する国家的否定というものだが、学問は、それとしては本当に弱いものだと思う。平治の乱について書きながら自転車にのっていたのだが、平治の乱というのは、ようするに少納言入道信西を論じることになる。道真以来の有能な学者であるが、それを考えていても、が、「学問というものは」と、思考は今の憂鬱な諸事情にもどっていく。自転車にのっていても憂鬱であるというのは本当に困ったことだ、

2010年9月25日 (土)

自称社会主義ー中国の「労働教養制度」

 昨日、9月24日の朝日(朝刊)に「意のまま批判者勾留、中国の労働教養制度」という記事があった。いくら新聞、とくにその朝刊が嫌いだとはいっても、これは重要な記事で、読まざるをえない記事である。朝日の解説によれば、行政機関である各地方政府の労働教養管理委員会が、裁判や弁護士の弁護なしに修養を決定できる制度。同委員会は、事実上、警察当局が運営している。紹介されているのは、北京の外資系企業のキャリアウーマンだった野靖環さんが、投資した会社の倒産処理をめぐってデモを組織した一人であったために、警察に連行され、1年9ヶ月にわたって「労働教養所」に拘禁されたという事件である。

 これは深刻な問題だと思う。私は、現存する社会主義を自称する諸国家の実態をどう考えるかは、歴史理論にとってクルーシャルな問題、決定的な問題であると考えてきた。それについて、若干でもまとまった形で自分の意見を述べたのは、2002年に行われた歴史学研究会の創立70周年記念シンポジウムでの報告「社会構成論と東アジア」が初めてだが、いま、それが、たかだか八年前のことであるというのを確認してみると不思議に思う。私としては、この問題は、それほど、もっとも長く考え続けている問題なのである。歴史家として、できるかぎりのところまで詰め切ってみたいと考えている。
 この講演の最後で述べたのは、前近代を専攻する歴史家からみると、現存する自称社会主義というものがどうみえるかという話しで、網野善彦さんや戸田芳実さんの議論からそれを考えるという現代史家からみれば迂遠な話しであったかもしれない。それ故に、ほとんどこれについては、誰からも、意見も感想も聞いたことがない。シンポジウムが終わった後、懇親会の行われる早稲田大学の会館へのスロープを歩きながら、永原先生が網野さんの見解は「ロマン主義なんだよ。保立君」と強い批判を語られたことぐらいである。それはたしかにそうなので、講演を本にいれた時は(『歴史学をみつめ直す』)、それを入れて置いた。

 しかし、ともかく、よく知られている方の、網野さんの見解から紹介すると、網野さんの議論は、世界史の全体を「社会構成」の観点から捉える上で、一方で「奴隷制ー農奴制ー資本制の発展段階」という私有をめぐる発展段階をおき、他方では、「無所有・無縁の深化・発展に関わる法則」「共同体の歴史に関わる法則」をおくというシェーマである。また、戸田さんの言い方も、世界史における様々な「社会構成」を考える上で、私的所有と集団所有、そしてその絡み合いを基本におくというもので、これは網野さんの議論と共通するものであった。
 ただ、議論の仕方としては戸田さんの方が厳密であって、戸田さんは、普通の考え方では、共同所有というものをアプリオリに「よい関係」、支配隷属の諸関係とは対象的なものとしてしまうが、それは正しくない。そして、逆に私的所有をかならず「悪い関係」、支配隷属をともなう関係としてしまうのも正しくない。引用しておくと、従来の歴史理論研究は「集団所有をもっぱら非階級的な共同体に結びつけ、私的所有をもっぱら階級関係にむすびつけることによって前資本制的所有の二側面を分離する傾向が強かった」という訳である。そして戸田さんは「奴隷制規定や封建制規定の枠をこえた」問題追究の必要を強調して、「集団所有の側面が優越し、それに規定された階級的所有形態という点にその特質がある」とする。
 この戸田さんの表現はやはり難しいかもしれないが、網野さんのいうよりは正確に意味をとることができる。私は、戸田さんのいうことに大塚さんの声を聞く。そうでなくても、我々の世代のように、一度は、例のマルクスのアジア的生産様式論という面倒な議論の跡を追跡してみたことのある人、そういう練習をしたことのある人には、戸田さんのいうことの方が簡明に理解できると思う。網野さんは、そういう厳密さにはこだわらなかったから。
 ようするに、戸田さんのいうのは、所有の私的側面と集団的側面の相互関係を解明し、集団所有というとついつい理想化してしまったり、私的所有というとついつい利己主義という言葉を思い出してしまうような感じ方からはなれて問題を考えなければならないということである。「共同所有」という言葉をつかわずに、もっと無色な「集団所有」という言葉を使うのが重要ということである。そして、網野さんの議論には、「共同性」というものを美化してしまうところがあるので、歴史理論の議論としては、戸田さんの議論から出発する必要があるのである。

 ただ、問題は、網野さんも戸田さんも、この集団所有と私的所有の関係や絡み合いの構造について具体的な議論をしていないということである。歴史学では、古くからこういう「二重の社会関係・所有関係」という議論は多いのだが、問題は、戸田さんのいう「絡み合い」の具体相をどういうように方法的に論じることが可能かという点にある。

 まだ十分に整理はできていないが、集団的な所有は、かならず執行者や代表者をもっているが、集団が代表者をもつと、横並びの集団の代表者同士の関係ができ、下部集団、つまり集団の内部を構成する集団の代表者との関係もできる。そして、上下につらなる集団関係は、代表者の個人関係という要素を内部に含みはじめる。代表関係とは、集団の「精神」を代表するということで、一種の分業関係であるから、これは一つの客観的な社会関係に展開する。代表と代表との個人関係は、個人関係ではあるが、粗野な関係の下では個人関係を維持することは当然の権利となり、習慣となる。これが集団から個人が分離して私的権利を維持する合法的な権利をあたえる。私的な権利は、本来的には家族的な権利、個別的な権利という性格をもっており、これは個々人の自由を基盤としているが、これが集団関係の中での私的権限に展開する過程は、個別家族の「男」支配が、男連合による男権主義的権限という性格をもつようになる過程と深く関係している。こうして、この集団関係の中に存在する私的権限は、個別家族の本来的な個別的な所有の関係とは区別された性格をもつところまで跳躍するのである。
 私的関係というのは、こういう集団間関係との関係をもつことによって、私的支配にまで拡大していく条件をあたえられる。集団関係と私的関係の絡み合いの基礎には、つねにこのような動きがあり、これが社会全体に展開する中で、複雑な構成、コンプレックスができあがっていく。
 問題は、集団間関係が、私的関係によって再編成されることである。代表者や執行者は、他集団の代表者との個人関係をもつことによって、母集団から浮き上がり、独自の関係を維持し始める。このような独自の関係は、それ自身として自己を合法化する力はもっていない私的な関係であるが、しかし、自分の内部に、それなりの専門性、管理労働、精神労働などを含みこむことによって、社会的な分業、専門性の相互関係のネットワークの中に紛れ込み、それらの分業関係全体の主要な一部として自己を偽装することによって、客観性を獲得する。

 しかも、その場が、集団間の境界的な場、共同体間の境界的な場であることが問題である。ここでは人々は自由な個人として向かい合うが、それは一面で市場であるが、一面で人は人に対して狼であるという動物的な関係となる。自由な個人として側面を強調するのは網野さん、境界の場の困難で動物的な性格を強調するのは大塚先生。どちらも正しいことはいうまでもない。この境界的な世界、無所有に近い世界、自然と人間が直接に向かい合う世界に、人間の発達の希望があることは事実だが、他方で、そこでは金力と暴力がものをいう。共同体間、集団間の関係から浮き上がった私的関係は、この世界で金力と暴力を握ることによって初めて社会全体を掌握し、それを最終的に構造化していく。このような金力と暴力を内部にはらむ集団間の神経系統=伝導ベルトを掌握した代表者あるいは代表に対する奉仕者集団相互の個人関係の位置が社会からそびえ立つのである。その原型は広域暴力団であって、ここでは暴力は共同体と集団を越える。暴力も一つの社会的分業であって、暴力を身に帯びるものは独特の身分となる(私も『中世の愛と従属』で書いたように、私たち平安時代研究者にとっては、広域暴力団が上等化し、身分化したものが「武士」であるというのは常識であるが、それはより一般的な問題であることになる)。
 集団間関係の組織が私的関係によって組織される。集団間関係の重層化は、集団と集団が伝動ベルトによって結合されるという形で展開するが、これは伝動ベルトは、集団の観点からみれば私的関係である。このような私的関係なしには集団間関係は強制関係には展開しないし、逆に私的関係は、このような集団関係なしには社会の梃子を握ることはできない。また国家は暴力組織であるということがしばしばいわれるが、それは国家機構が暴力装置であるという単純な話しではなく、それを体系として捉えるならば、その根っこが境界領域における日常的な暴力の存在にあることが重要であり、そしてそれを前提として合法的暴力であるということが重要であるということにもなる。

 スターリンの「前衛党」なるものについての言い方に、社会の伝導ベルトであるという言い方があったと思う。もちろん、政党というものは結社の一つであって、その意味では、様々な社会の諸集団に属する人々が、結社を形成するのは近代社会の原則に属する重要な権利であり、自由である。しかし、社会の集団、職能集団、専門性集団の自立性が存在しない場所で、自己を集団をこえる伝導ベルトであると主張する「前衛党」なるものは怖い。政党は議会と公的空間、一人一票の世界に属するものであって、その意味では社会全体に直結する場に成立するものである。金力や暴力とは本質的に無関係でなければならない組織である。本来的に必要なのは、集団間関係が透明な民主主義、一人一票制の全体によって統括され、「神の手」によって合理的で友愛にあふれ、さらに賢く慎重で、その意味で保守的な選択が行われることであって、そのような賢さは、一方では、集団間関係が無意識な市場であることの中から、他方では各集団のもつ専門性が相互に尊重されるという構成的な社会関係の中から生まれていくほかないように思う。
 なお、ヨーロッパ社会が強いのは、12・13世紀、経済史的には手工業の自立とともに、市場関係の安定化がもたらされるとともに、専門職の世界、専門性の世界が生まれてきたためである。この専門職の世界が、ヨーロッパ的な広さの中で、広域組織として生まれてきたこと、その意味でヨーロッパの封建国家からは超越したカソリックな組織であったことも重要であった。このような超地域性が専門職の組織化には必要なのであって、国家が最初から広域的な帝国であった東アジアでは、このような専門職発生の条件はなかったことになる。ロシア・中国を中心とした自称社会主義と専門職問題というのはきわめて大きな問題であるということが、ここからもわかる。

 さて、中国の「労働教養制度」の話しの深刻さは、この意味で境界領域が警察暴力によって支配されているということだと思う。集団を越えたところで、境界領域において不自由である。本来、網野さんのいうように、もっとも境界領域として典型的な場所である道路の場が、怖いということは深刻であると思う。
 もちろん、社会のシステムが違ったからとって、そこに住んでいるのは同じ人間である。社会のシステムが違ったからとって、そこにいる人間自身が違うかのように思うのは、よい意味でも悪い意味でも幻想である。中国の映画をみていると、また中国の歴史家たちと付き合うと、自然に共感することが多い。

 そして、自称社会主義の社会は、いわば戦争社会主義であり、和田春樹さんがいうように世界戦争の時代としての20世紀に生まれたものである。中国社会主義がアジア太平洋戦争の結果であり、そのあり方には、日本の中国侵略が重大な条件となっていることはいうまでもない。歴史家としては、日本と中国の間の歴史的な貸し借り関係への顧慮なしに、中国の社会を論ずることはできない。
 私としても、それをよくよく考えるのが歴史家の第一の仕事であることは重々承知している積もりだが、しかし、未来を考える条件を支える仕事をもつ歴史家、とくに、集団所有というものが実際上、きわめて大きな意味をもっていた前近代史を専門とする歴史家は、「社会主義」の問題に無関心でいることはできないのである。

2010年9月22日 (水)

私の好きな雑誌//ビッグ・イッシュー

 サラ・パレッキーを読み終える。久しぶりのVICの世界で、期待にたがわないもの。物語の舞台が1960年代、私たちの時代におかれていることが緊迫感を強くするように思う。歴史家としては、キング師の行動の実際と対比してみたくなるほどよくできている。細かな事実を詮索し、組み立てていって、全体の物語をあみだす。探偵小説家と歴史家は似ているのかもしれない。

 モレルが戻ってくるのではないかという期待はあっさりくつがえされた。ステディな人はいないという形で、物語は同じペースで続くというのは、VICが元気な証拠であると考えることにする。

 エルトンというホームレスの男の描き方も面白かった。ヴェトナム帰りの男で、ともかくも一人で生きていたいというタイプ。StreetWise という新聞をうっている。

 StreetWiseというのはビッグ・イッシューのようなホームレスの人たちが売る新聞なのだろうか。アメリカには「乞食」(こじきと読むと印象が固定されるので、こつじきと読む)が多く、彼らは当然のような顔をして小銭を要求するというのは息子の感想。その中で、物を売るホームレスの人が目立つのだろうか。

 昨日夕方、本郷三丁目の角にビッグ・イッ一シューの売り手の人がいた。一冊買う。

 本郷三丁目の角に、半年ほど前、最初に定期的に立ち始めたF田さんとは、しばらくする内に、すこし話すようになった。私は、本郷の地下鉄の駅から信号にむけて歩いていき、四つ辻の前で、彼がいるのをみると、そこから彼の方をむいて直線で歩くようになっていた。 

 彼に聞いたところだと、彼は養護施設で育った。そして「変におもわれるかもしれないけれども、最近、教会にいっている」といっていた。どう答えてよいか、すぐには言葉がでず、そして正確にどう言ったかは、もう思い出せないが、「変なことはない。そんなことをいったら、私も十分に変な立場だ」というようなことをいったように思う。 

 彼は2/3ヶ月前に、池袋に場所をかえた。彼のブログによると、アパートに入居することができ、そのパーティをやっている写真がのっていた。今、彼のブログをみたら、伝道の書が引用してあっ た。たしかに現代は、伝道の書やヨブ記が読まれて当然の時代だと思う。ともかく、彼は元気らしい。

 今日の人は、三人目で、少し年の人。前の人、つまり二人目の人は、F田くんが、次の担当の人ですと紹介してくれた。この暑かった夏の日を立っているので、平気だろうかと心配だった。時々辛そうにみえた。今日の人に「彼はどうしたのだろう」と聞いたら、「身体の調子を悪くした」と。「この夏は暑すぎたんではないだろうか」といったが、心配である。

 彼は真面目すぎるほど真面目な感じであった。町に立つことに緊張もしていたように感じる。調子が元に戻ることを願う。アメリカに乞食の人が多いというのは、格差社会とはいっても、一番みじかな寄付の慣習が通行人の側にあるということなのだろう。物乞いの人をいやがる感情があるように感じる日本と比較してしまう。

 ビッグ・イッシューを売るのは当然のことで、あまり緊張しなくてもいいという風習がはやくできるといいと思う。

 ビッグ・イッシューは、いま、一番面白い雑誌だと思う。インタビューと特集と、そしてビッグイッシューが創刊されたヨーロッパの記事、そして小さなコラムからなっている。

 面白い面白いといっていて、なぜ、面白いのか、これまで考えてみたことがなかったが、あるいは編集者がほとんど女の人であるためなのかもしれない。これは、今日、雑誌の一番最後のページをみて知って、驚いたこと。

 第二番目の理由は明かで、ヨーロッパのビッグイッシューの記事の中から、とくに面白いもの、日本の社会からみると意外なことをうまく選んでいるせいだと思う。

 三番目が、真面目であることだろう。とくに、インタビューを受ける人々は社会的に目立っている人、いかにもエネルギーがあるという感じの人々だが、その人たちが雑誌の性格にあわせて、本心を真面目に語るのがよいのだろうと思う。

 今号のトップのリレーインタビューは作家の明川哲也さんという人、スぺシャルインタビューはトータス松本という人。実は、私は、御二人とも知らなかったが、まったく別の分野で一線に立っている人が正面から社会に現在必要なことを語るのをきくのは気持ちがよい。

 普通の新聞や週刊誌などを読んでいても、真面目な記事、面白い記事にはなかなかぶつからない。分厚い朝刊に一箇所か二箇所あるだけというのが普通である。何という無駄だろうといつも思う。

 

2010年9月21日 (火)

考古学協会が発掘報告書を国外へー東京新聞インタビゥ

 先週、東京新聞文化部の岩岡千景さんからインタビゥがあった。日本考古学協会がこれまで蓄積した大量の発掘報告書(56200冊余)をイギリスのセインズベリー研究所(日本文化の研究センター)にすべて寄贈してしまうという話しをどう思うかという話しである。

 この五月の日本考古学協会の総会で決定されたということだが、これに異議を申し立てる会員が臨時総会の開催をもとめている(森浩一代表)。

 今日、この問題についての特集が掲載された東京新聞(2010(平成22)年9月13日)が送られてきた。正確に事態を伝えているよい記事だと思う。新聞は、発掘情報に紙面を割くだけでなく、こういう基本問題を提起するのが役割のはずである。

 インタビゥーの電話は、ちょうど、和紙の顕微鏡データの整理をしていた時で、エイヤと頭を和紙の顕微鏡画像から切り離したが、脳細胞が画像にくっついて向こういってしまったようで、すぐには頭がまわらず、しどろもどろになる。

 それらしいことをいったように、記事を書いてくれた記者に感謝であるが、それにしても、日考協はどうしたのだろう。

 いまでもそうなのだと思うが、日考協は一種の同職団体のはずで、日考協の会員でなければ遺跡の発掘はできないという性格があるはずだと思う。そして、それを保証するのが、発掘した遺跡の報告書はかならず日考協に提出するということであったはずだと思う。発掘が学術的に行われたかどうかは、この報告書によって検証されるということであったと思う。だから、これは職能団体にとってはいっしゅの個人毎の身分証明書のようなものだと思う。

 それを国外に出してしまうというのは職能団体としては自殺行為にならないのだろうか。団体の中核をなす文書というのは、やはり現物でもっていないとならないと思う。セインズベリー研究所が電子化するからというのだが、電子化の権利、それを修正・編集する権利、それを著作物に利用する権利などがどうなるのか、民間基金によっているというセインズベリー研究所が、万が一破綻をしたらどうなるのか、電子媒体の著作権の状況がどうなるのかということがビッグイッシュウになっている時代に無警戒ではないかと思う。

 もう一つ気になるのは、日考協は国立考古学博物館を建てるべきであるという戦略をもっているのではなかったのかということである。

 上行寺・一ノ谷・柳御所などの調査体制や保存問題で、実質上、そして主張や運動が終わってしまった後にも、役割を果たすという役割を負われた石井進さんは、その過程で、、「国立考古学博物館の構想は、日考協が出しているが、これはしばらくは無理なのだよ。保立君。ともかく、佐倉の歴史民俗博物館の後は、まず九州国立博物館を立てようという合意があって(九州財界の後押しもあって)、それで進んでいるのだから、国立考古学博物館というのは次の次になっている」と説明してくれた。日考協も、今の段階ではどこまで本気かどうかといわれたように思う。

 もし国立考古学博物館(それはこれだけの規模の発掘調査をしている国には、当然にあってよいものだが)が立てられたすれば、その中心的な収蔵物の一つが、発掘報告書になるはずである。セットとして残っているのは、何といっても日考協のセットのはずである。こう考えると、日考協は、もう考古学博物館構想を実質上は放棄しているのかと思う。

 政府の多数や民主党・自民党などの多数政党が、文化的資産を大事にしないのは、日本社会が骨の髄までかかっている病気であり、この病気を治さないと、どうにもならないという感情は、研究者には親しいものである。その上、今ではジャーナリズムは第三権力であるという見方も一般的になっている。それはそうであろうが、しかし、新聞に記事がのり、問題が広く知られれば、議論の出発点となるというのは、以前、遺跡の保存運動に関わった時の経験である。

 私が日考協と関わったのは、その時、つまり、上行寺東遺跡と一ノ谷中世墳墓群の保存問題に学界側の事務局として関わった時のことで、はるか昔のことだが、日考協の文化財保存問題特別委員会には世話になったという記憶がある。かならずしもすぐに答えてくれるということではないが、ともかくもあそこを説得すれば、問題は動き出す部分があるということはわかった。考古学者の中での職業的な問題の扱いには慣れており、必要なことはするという感じをうけた。それは平泉の柳御所の保存問題の最初の段階でも、日考協メンバーの意向はこちらに伝わってきた記憶がある。あれからも様々な変化があったに違いないが、この問題は、日考協の試金石になりそうな気がする。

 インタビゥーをうけたこともあって、上記の経験を思い起こし、先週、遅れていた『見付の町に一ノ谷があったー一ノ谷遺跡の保存運動の記録』のPDF化の作業を開始した。自分の講演の記録は、しばらく前にHPに載せたが、「考える会」の仲間には九月にはアップするといってあるので、おそくも一〇月にはすべてをアップする積もり。

 以上、昼休み終わり。

2010年9月19日 (日)

私の好きな小説家ーーサラ・パレッキー/ウォーショウスキー・ノヴェル

 息子のアメリカみやげが、サラ・パレッキー『ハードボール(HARDBALL)』。『ブラックリスト』以来、新しいV・I・ウォーショウスキー・ノヴェルを読んでいなかったし、新しいのがでたことも知らなかったので、驚喜して読み始めた。息子によると、今年三月の出版らしい。しかも7月には最新の『BODY WORK』がでたということ。これは売り切れで買えなかったと。

 探偵小説を英語で読む楽しみをおぼえて10年ほど。ベルギー留学の時に、パレッキーとル・グウィンのファンタジーをもっていった。ル・グウィンは訳本があるので、英語で読むときはくわしく読んで、翻訳ではわからないニュアンスを辿るのが楽しい。どうしてもおかしな翻訳箇所をみつけることもある。

 V・I・ウォーショウスキー・ノヴェルは、何よりも熱中してよむ。そして翻訳のない時に英語で読み、以前のもので中味を忘れた頃に英語でよむ。これだけ好きなのは、結局、VICそしてパレッキーが同世代だからだと思う。そして、VICが私の世代に共通する(共通していた)社会的な正義感情と怒りの感情に火をつけるからだと思う。

 VICを熱中して読む中で、探偵小説は、ページの半分がわからなくても読み飛ばすという読み方をおぼえた。熱中して読むから、読み飛ばさざるをえない。そういう読み方でも、話しの大筋がわかってくれば、最後に犯人が誰か、仕掛けられた謎は何であったかだけはわかる。そして、探偵小説の細部は、翻訳本で読んだ場合でも、頭に残ってはいないのだから、結果は同じこと。

 『ハードボール(HARDBALL)』の最初の「THANKS」には、パレッキーのシカゴ大学時代の話しがでてくる。彼女は1966年の夏休み、ペデスビタリアンの教会の地域サービスの活動をして、シカゴの町が自分の一部になり、自分がシカゴの町の一部になり、そして自分の人生の形をきめたといっている。この本で彼女は彼女自身の1966年の経験を思い出し、そこに物語の原点をおいている(らしい、というのはまだ最初の何ページしか読んでいないので)。

 その原点の風景の中に、マーティン・ルーサー・キングがいる。キング師、REV.Martin・Luther・Kingが、彼女の担当地域のそばに、この年の正月から住み始めており、シカゴの公民権運動にも参加しはじめていたという。私は国際キリスト教大学が母校だが、私の大学でも、あの時代、キャンパスに満ちていたThe Reverend(敬愛する) Martin・Luther Kingへの尊敬の雰囲気がなつかしい。

 パレッキーが、ウォーショウスキー・ノヴェルの序文で、自分の大学時代のことを書いたのは初めてではないだろうか。そして、序文の途中に記された「最近、長く眠り込んでいた希望の感覚が、生きかえりはじめた(Lately, my long-dormant sence of hope has come back to life)」という希望の言葉を、彼女の本で読むのもはじめてのように思う。これを通読するのは、本当に楽しみである。

 けれども、小説のはじめにVICとモレルとの別れが描かれるのはショック。彼らは、イタリアで二ヶ月過ごした後、モレルの身体が治り、ジャーナリストとしてイスラマバードへ行く。その時、彼らはほとんど「さよなら」をいう寸前であったという。これは、是非、別れのままにならないように願うというのは、たんに男の私的な感情ではない。たしかに、怪我の後に、モレルは脇役にまわってしまった。けれども、彼はウォーショウスキー・ノヴェルの中にすでになじんでしまっている。モレルのイメージがもう一度復活してほしいと思う。

 息子によると、アメリカの人々の対人関係は密接で親密なところがあるということ。ウォーショウスキー・ノヴェルには、そのような親密さが危機に瀕するときのパニックの感情が反映しているのかもしれない。そういう親密さは限られた範囲で、ぎゃくに格差と距離が目立つ部分とのギャップが何ともいえないということだが、たしかにIntimateな部分と社会的なギャップというのがみえやすい社会なのだろう。

 親密さを求めることと、私たちの世代に共通する(共通していた)社会的な正義感情はどこかで結びついているものなのかもしれないと思う。それが怒りではなく、パニックではなく、希望に結びつくことを誰しもが願うが、しかし、日本では、私たち世代の「希望の感覚」は、一般には、「長く眠り込んでいる」ままである。

2010年9月18日 (土)

「つついづつ」と『井戸のある家』ー社会史と世界史

 先日、千葉県の佐倉の歴史民俗博物館に友人といった時に聞いたという、奥さまの話によると、歴史民俗博物館の展示で困るのは、(展示をする側が困るのは)、たとえば最近の子供たちが「井戸」というものを知らないということだそうである。
 
せっかく模型で「井戸」を作っても、それが「井戸」であるとわからなければ、あるいは「井戸」という言葉を知っていたとしても、どういうようにして水をくみ上げるものか、どういうように使うものかということを実感として知らなければ、井戸の模型をみても、それは単なる風景に過ぎず、子供たちにとって意味をもたないというのである。考えてみるとあたりまえのことなのかも知れないが、そこまで来たかという感じがする。

 そういえばということで、我が娘のことを考えても、私の家のまわりには「井戸」はなく、うっかりすると、彼女も「井戸」というものを見たことがないのかも知れない。「井戸」から水を汲んだことがないのかもしれない。(今日、娘が、暫時、帰ってきたので聞いてみたら、やはり「汲んだことないよー」ということであった。「だって、どこで汲めっていうの」。ただ、トトロのアニメで、さつきちゃんが井戸のポンプを動かして、「おばーちゃん、出たー」といっていたと、声色をふくめて教えてくれた。大学生になってもそこまで覚えているのだから、トトロ様々である)。

 私たちが小学校の頃までは、各家に井戸はあったはずで、私も、古い井戸ポンプを使って、ギーコ、ギーコと水を汲まされた。古いポンプは丸い筒型の曲線的な胴体をもったものだったが、それが直線的な作りでギーコといわないスムースな「近代的」なものに変わり、さらに電動ポンプに変わったのは、いつ頃のことであろうか。
 「こういうことも、今では当然のことではないのか」と気づいて書いているのだが、小学校の頃の私の役割の一つに、井戸水を汲んで風呂桶を一杯にすること、そして風呂のための薪をナタで割ることがあったのを思い出した。私などは貧乏人の出だからということなのかもしれず、同世代の人たちがどうしていたかは知らないが、ともかくも井戸のある風景というのは、普通のことであったと思う。
 私が育った祖父の家の裏庭はたいへんに狭かったが、近くの友達と、そこで水遊びをしたことを思い出すから、井戸端は遊び場でもあったということになる。この「井戸端」という言葉も、「井戸端会議」という言葉も今では死語なのであろう。
 私は、最近、復刊してもらった『中世の女の一生』という本の中で、平安時代だとだいたい一二・三歳の頃に行われた女性の成女式を論じて、『伊勢物語』(二三段)の「つついづつ」の歌物語について次のように書いたことがある。
 中世の庶民女性の成女式としての髪上げの実際を語る文献史料はまったく存在しない。ただ、髪上げについてもっとも早く、かつ有名な物語史料のは『伊勢物語』(二三段)の「つついづつ」の歌物語であろう。この歌物語は、地方役人の子どもの幼ない恋を歌ったものである。男が
  つついづつ いづつにかけしまろがたけ すぎにけらしないもみざるま
筒井筒をみると、背比べをして井筒(井戸枠)に届くかどうかと遊んでいた頃のことを思い出す。私の背丈は、あなたをみないでいる内に、いつのまにか井筒の上をこしているよ。
と歌いかけると、女は
  くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ 君ならずして誰かあぐべき
井筒のまわりで遊びながら、あなたとくらべあったこともある私の髪も、肩をすぎて背中に届くようになっています。髪上げをするならばあなたのためにしたいと思うようになったこのごろです。
と唱和したという。どこでも井戸の回りは子供の遊び場であったから、この『伊勢物語』の話に民衆的な髪上げの通過儀礼が反映していたと想定することは許されるのではないだろうか。
 井戸が子供の経験の中から消えていくということは、たとえば右の『伊勢物語』の一節を中学校の教材にするときに、それに対応する子供の経験が失われていることを意味する。「幼い恋」ということを教えようとしても、井戸端遊びの経験がないのでは決定力を欠く。
 こういうことはやむをえないことであるとは思う。また私たちの世代には「昔を懐かしむ」というような感情がある訳ではない。
 しかし、たとえば風呂を焚きつければ、火のおこし方を知るようになる。そして風呂の焚き口のところで、毎日、燃える火を眺めていれば、火というものについての原始的な感情が身体に記憶される。私の「火」のイメージは、子供の頃の、薪の白い肌をなめながら燃えついていき、広がっていく「赤い火」の記憶にどこかでつながっているはずである。こういう記憶と経験がない人間というものは、やはりある種の欠落を抱え込むのではないだろうか。すくなくとも、こういう経験のない人間には、たとえば新川和江さんの詩、「水のオード」「火のオード」「土のオード」などは読めないのではないだろうか。ネルーダの詩が読めなくなるのではないだろうか。
 このような欠落は、世代間の関係としては、どの世代にもあるものであろうが、二〇世紀に進展した「欠落」はきわめて大規模で根本的なものであった。それをどのように補充するかということは長期的にみると、人類や民族の文化と生活の継続性ということを考えていく上で重大な問題だと思う。しかし、こういうことを歴史学はどう考えたらよいかと考えてみると、わからないことが多い。
 もちろん、私たちが、いわゆる「社会史」という形でやってきた仕事は、この種の文化の継続性を維持するための基礎作業であった。それを学校教育における教材として生かすことができないかというのは何度か論じたことである(「歴史を通して社会をみつめる」『シリーズ学びと文化』④共生する社会、東京大学出版会、1995年)。ただ、これらを書いた時は、「井戸」というものをみたことがない子供たちが大多数となるということまでは考えていなかった。現状をもう一度捉え直して考えるべきことは多いと思う。
 その場合、私たちの世代で、「社会史」の仕事に興味をもった歴史家が、ほぼ共通して考えるようになったのは、日本の前近代の生活文化を考えるためには、外国の異文化、とくに東アジア前近代の文化全体を、どうにかして視野におさめなければならないということであったように思う。たとえば「井戸」というような昔の風物、前近代から残っている風物や民俗を、より広い視野で、つまり世界史や東アジアに開かれた視野で根本的に考えなければならないというのは、折りにふれて仲間たちと話したことである。
 そもそも、異文化といえば、子供たちには、日本の過去の「異文化」も、世界各国の「異文化」も、異文化という点では同じレヴェルで並んでしまうということになっている。片方の異文化のみを考えるということは、事実上、無意味になり、根本的にいって、説得性をもたない時代が来ているのである。
 私は、以前、「鉢かづき」姫の民話の分析をした時に、このことを考えさせられた。つまり、「鉢」をかぶるというのは、二つの意味がある(「秘面の女と鉢かづきのテーマ」『物語の中世』)。つまり、第一は、今でも雲水姿をした僧侶が「鉢」をもって乞食をしているように、これは乞食の風習であり、姿である。しかし、第二に、女性が「鉢」をまぶかくかぶるというのは、完全な「秘面」を意味し、それは完全な処女性を含意する。そもそも、平安時代・鎌倉時代において、貴族の女性であるということは街頭で顔をみせずに、「被衣」によって秘面を維持しているということを意味したのである。こうして、「鉢かつぎ」というのは一方で乞食という賎民性、一方で完全な秘面という意味での貴族的処女性の二つを含意しているということになる。だから、「鉢かつぎ」の民話を実感的に理解するためには、女性にとっての「秘面」というものが何を意味したのかを了解していることが必要になるということなのだが、現代の日本の女性にとっては、「秘面」はアラブのチャドルしか存在しなくなっている。
 「秘面」という異文化の理解のためには、たんに日本の過去の民話を素材とするのではなく、イスラムの文明の理解を媒介にして了解するという通路を歴史学の中に用意することが必要になるのである。
 この「秘面」の問題はあくまでも一例であり、世界各国の「異文化」と日本の過去の「異文化」が同じレヴェルで並んでしまうという事態はきわめて多いと思う。こう考えてくると、歴史学が過去の文化・文明の継続性を維持しようという場合、つまり歴史学が過去を了解しようという場合、それは本質的に世界史のレヴェルでないと有効性をもたなくなっているのではないかという疑問に突きあたるのである。歴史家は、日々の仕事の中で、いわばこの種の認識論のレヴェルでの省察を要求されているのかもしれないと思う。

 こういう仕事をしていく上で、どのような感情をもったらよいのかということを、津島祐子さんと申京淑さんの往復書簡集『山のある家・井戸のある家』(集英社)を読みながら考えてみたいと思う。この往復書簡集は、奥さまに井戸の話を書いていることを話したところ、お奨めのもので、「井戸のある家」とは津島祐子さんがお母さんと住んだ家、「山のある家」は申京淑さんのソウルの家のことである。
 ここでは「井戸のある家」についての津島さんの文章の静けさを紹介すると、「母の喜び、悲しみにもし、今からでも近づくことが許されたらと願い、この家に残されている井戸の水にときどき、手をぬらしてみます」「東京の町中の家にある井戸は、水を桶で直接に汲む田舎で見慣れた形のものではなく、長い鉄の柄を上下させる手押しポンプに変わっていましたが、それでも井戸は井戸です。地下から豊かに湧き出る井戸の水に手を浸すたびに、母は自分の早くに死んだ父や兄、姉たちを呼び戻し、その声に耳を傾けていたのかしら、と私は想像したくなります」「喪失の認識があるからこそ、私たちは失われた貴重な時間を自分の時間にたぐり寄せ、その価値を知るわけですし、自分が幼かったころの日々を個人的な『神話』のように自分のよりどころにして生きつづけている」。私たちの子供たちは、「井戸の風景」をもたずに、そういう個人的な神話の風景をどのように確保しているのだろうか。「過去」と「喪失」をもたずに、どのような「再生」が可能になるのだろうか。
 津島さんと申京淑さんの対話が美しいのは、異なるものでありながら、おのおのにとって痛切な意味をもつ心象神話としての「井戸」や「山」をもっているからであろうと思う。

この過去の剥奪を特徴とするグローバル化の時代に、たとえば東アジアの隣国の人間相互の間で、こういう心象の根っこのところでの相互理解というものを作っていくのに、歴史学は何ができるのか。
 歴史学はおそらく、心象の内面それ自身には関われない(あるいは関わるべきではない)と思うが、しかし、歴史学の仕事のあるべき姿を文学の力をも借りながらゆっくりと正確に考えてみたいものだと思う。

2010年9月13日 (月)

神道についてー自分の経験と黒田俊雄

 神社の神職の方についての経験は、山の神社から始まっている。小学生の頃に父に連れられて上った碓氷峠、筑波山の男体・女体の鞍部にあった、どちらも土産物屋のおじさんが、神社の神職として手伝いも兼ねられており、毎日、朝のご来光を拝むという話しを聞いた記憶がある。歴史の勉強をすることになって、指導教官の戸田芳実さんの碓氷峠への調査旅行に同行したことがあり、その記憶を確かめようとして土産物屋をさがしたが、それらしい場所は発見できなかった。山の上の神社というものがどういう実態をもつものなのかということは、これ以外にもある秘かな記憶が消えない内に考えてみたいことの一つである。
 ただ、もっとも親しい記憶のある神社ということになると、やはり故郷の神社である。故郷といっても、私の祖父の家は東京の大田区、いまは町名整理で、南馬込となってしまったが、以前は桐里といった村である。家から坂道を上り、また左にだらだら坂を下っていった崖のところにあった「トウカンモリ(杜)」という神社の夜祭を楽しみにしていたのは、小学校に入る前後のことであるから、1950年代の初めのころのこととなる。
 そこにはまだ簡単なお囃子をする舞台となる屋形があって、その床下の空間に入ってよく遊んだ。拝殿の下の砂地にアリジゴクがいて、それを釣って遊んだことも思い出す。その意味では、私たちの世代は、都会育ちでも、柳田国男のいう故郷の風景というものをもっている世代の最後にあたるのではないかと思う。しかし、「トウカンモリ(杜)」の神職をつとめられていたであろう方の記憶はまったくない。
 こういう神社というものをどう考えるかというのが、私たちの世代までは小さいころの一つの問題であったように思う。つまり、私は祖父から、福沢諭吉が稲荷さんの祠を覗いて、その正体を見極めたところ、祠の中には小石がおいてあるだけだった。諭吉はそれを取り替えてしまい、それでも人々が稲荷に御参りしているのをみて陰で笑ったという話しを聞いたことがある。その神を汚す「涜神」的な行動にアンビヴァレントな感情をもったことを今でも覚えている。これも、私の世代までは「前近代」というものが身近にあったことの表現なのかもしれない。
 しかし、その後、神社について改めて考えたのは、はるかに飛んで大学時代。母校の国際キリスト教大学の図書館の二階にあった『日本宗教史講座』第一巻(三一書房)を手にとり、その中におさめられていた黒田俊雄氏の「中世国家と神国思想」を読んだ時である。私は、歴史学の勉強を始めた頃に、この論文に出会えたことを幸いであったと思う。
 黒田は、この論文で日本には原始の時代から、同一の本質を有したまま脈々として発展してきた「神道」という固有の民族的宗教が存在したという見方に疑問を提示した。これは日本宗教史の最大のドグマだというのである。黒田によれば、江戸時代以前の、神祇というものが仏教と合体した形で存在していたの状況を具体的に明らかにし、それを前提にして、「儒教・仏教」の唐心とは区別された「神道=原始的、本来的な民族宗教」という一般的な観念は、明治の神仏分離の中で作られた観念であると論じた。
 私は、この論文を読んで、宗教というものを歴史学的に、史料にもとづいて考えることが可能なのだということを理解したように思う。今から考えれば、諭吉の涜神的な行動は、「神・儒・仏」の緊密な連携がゆるみ始めた江戸時代後期の世相の中で行われた、周縁的な「祠」に対するイタズラであったということになるのだろう。
 しかし、それでも疑問が残ったのは、神祇の基本部分が仏教の下に組織されたことは事実であったとしても、黒田も認めているように、共同体的な自然崇拝自身は、仏教とは相対的に区別されるものとして存在していたはずである。それは何かということであった。私見では黒田は、仏教の下で神道が「世間」「土俗」との対応を任されている関係があったという。つまり黒田は、神祇・神道というものがすべて仏教の下に組織され切ってしまったとはしておらず、土俗的な信仰と神道説の深い関係を留保している。
 もちろん、このような疑問を、はるか昔、ICUの図書館で黒田論文を読んだ時に考えたということではないが、歴史学の道に進み、その後、私は、幸運にも仕事の上で、黒田さんの謦咳に接する機会をもつようになった。その中で、何度も「中世国家と神国思想」が収録された黒田の大著『日本中世の国家と宗教』を読む中で、この疑問は徐々に具体的な形をとるようになったのである。
 黒田は、この本の中で、学問的な解明が真に困難な問題をスキップしてそれらしい議論を展開するものとして丸山真男のエッセイ「歴史の古層について」を嘲笑しているが、私には、この「世間=神道」の謎が、その「古層」の謎と重なるものとして目に見えてきたのである。この疑問は、学界では、一時、「法皇」と呼ばれることもあった黒田の笑い声とともに、私の中に根づいた(先日のブログで書いた勝山の日本史研究会報告の席上で、私は、はじめて黒田を目撃し、「寺社権門というのは、集団勢力なのだ、寺社の荘園領有というのはトップが集団であるという特質をもっているのだ」と発言するのを聞いた。その時の記憶も忘れられない)。
 さて、また『かぐや姫と王権神話』のことだが、この本には、一切、黒田の論文は引用していない。しかし、歴史学の業界の人への送り状には書いたように、この本は、実は黒田俊雄の学説の部分的な批判を隠された目的としていた。その一つは丸山批判と関わる「権」=ハカリゴトの理解の問題で、これは秘かに黒田の「権門体制論」への批判の基礎を作ろうとしたものである。もう一つが、黒田の神道理解に関わるもので、つまり、黒田は、原始神話が、その本質を維持したまま、連続的に神道に変化していったという観念を強く批判しているが、その過程を具体的に論じていない。それを論じてみたいと考えたのである。その結果が、高取正男のいう「神道の成立」を八世紀・九世紀に認めるということになったことについては、おそらく黒田には批判があるであろうが、私は、ともかくも神話の世界からの神道が「自立」する過程を考えようとした。
 議論の中心は、「穢」と「忌み」の観念であって、その中心は、穢の観念が神話の段階と八世紀以降では明瞭に変わったということにあった。つまり、神話の段階では、「穢」は「禊ぎ祓え」によって消去することができるものであり、逆にいえば、「穢」が人間の営為の結果である以上、平田篤胤・西田長男が論じたように、「穢」こそがエネルギーの基であるという神話観念が存在した。人間の積極的な営為は、自然の中では「穢」として登場し、それが次のエネルギーの供給元になるというのは、神話的な世界観として当然のことである。
 それに対して、九世紀以降の神道は、都市的な衛生観念としての「穢」の除去を中心的な役割とする祭祀組織として神話世界から「自立」してしまった。それが神話時代においては、エネルギーとしての「穢」の中枢を担っていた、女性の「血穢」が、年宮廷社会の中で、習俗的に忌避されるにいたる過程を中枢としていたことはいうまでもない。
 この「穢」の観念の変化に対応して、「忌み」というもののもつ意味が変わってしまった。「穢」を内在化してエネルギーとするという意味での肯定的な物忌みのあり方が、社会の表面から消えていき、それはもっぱら禁忌そして現世の秩序への恭順という内容のものになっていき、しかも形式的・儀式的なものとなっていく。
 これは社会の表層から原始的なもの、母権制的なものが消失していく大きな歴史的変化だと思う。「穢」と「忌み」という形式は似ていても、その歴史的な内容はまったくことなったものになっているのである。そして、「忌み」は仏教的な「戒」によってその中身を与えられるようになっていくのだと思う。これは「戒」も「いみ」と読むことにふれて、『かぐや姫』でも論じたことである。
 ただ『かぐや姫』では紙幅の関係でとてもふれる余裕はなかったが、黒田の洞察力は相当のものがあり、黒田が「神国思想においては、このように原始的禁忌が中世的戒律の役割を代行し、かかる戒律が世俗に於ける伝統的支配に直結して領主制=封建国家の支配理念となりえたのである」(「中世国家と神国思想」著作集4,54頁)というように同じことをいっているのは重要であると思う。しかし、黒田は、その過程を追求することに成功はしていなかったと思うのである。黒田の立論からしても、この八・九世紀に神話の時代と異なる「神祇」「神道」が成立したことを跡づけることが決定的な意味をもつというのが、私の意見である。一般に黒田の議論は、構造論に優れているが、変化と移行過程の歴史的分析が弱いと思う。そこのところを少しでも補充できたと考え、長い間の黒田との対峙も意味があったという自己満足の日々である。
 もちろん、どんなに形式的・儀式的なものとなっていたにせよ、「忌み」というものそれ自体のもっていた思想的な意味を否定することはできない。こういう意味で、私は神社というものが今でも持っている思想信条としての意味を否定しない。
 この私の意見については、それは、結局、「神道=原始的、本来的な民族宗教」という一般的な図式と同じものであり、それを支えるものだという批判がありうるとは思う。しかし、私は、黒田自身、「土俗信仰」「共同体の素朴な信仰」、そして右の文章にいう「原始的禁忌」というものの意味、その民衆にとっての意味や思想的な意味を全否定しているとは考えない。黒田も、「忌み」という思想的な態度や感情自身は、超歴史的な価値をもっていたと考えていたと思う。人間のやることは、昔も今も変わらない側面があり、環境的な自然と身体的な自然、対象的自然と主体的自然の声を耳を潜めて聞くという態度それ自身は、やはり古い時代からも受け継ぐべき信条であり、思想であると思う。
 それを強調するからといって、神祇を超歴史的にとらえているということにはならない。歴史に登場した思想や宗教は、どれもその時代の制約の下にあり、我々はそのすべてをそのまま継受することはできない。そこに含まれる真実をくみ取るためにこそ、歴史学は宗教を相対化し、時代の制約を明瞭にとらえようとする。歴史学が取ることができないのは「神道が日本の民俗宗教として神話の時代から歴史的制約を超えて、他の影響を受けることもなく持続してきた。そして神道の「忌み」の思想に意味を認めるものは神道にともなう神話的な観念や政治的な観念を認めなければならない」という立場である。しかし、だからといって、「忌み」という態度それ自身を一つの思想的な遺産として受け止めてはならないということにはならないはずである。
 私が考えてきたことは、これまでのところ、黒田の肩の上にのって、見れるところまで見ようとしてきたということに過ぎない。学術と思想の原則に忠実な態度と、宗教的な見識や寛容な態度が共存させる黒田の強靱で複眼的な姿勢を受け継ぎ、少しでよいから、その先まで行ければよいと多う。

 以上は、昨日のメモを朝の電車と昼休みで書き直したもの。昼休みは終わり。
 下記に、『物語の中世』の序文の関係部分を引用して、自分のメモにしておく。
 本書が到達した方法は、中世の物語を「神話の世界」、「説話の世界」、「民話の世界」という三つの側面から解析し、全体として、この三つの世界の相互の関係のあり方を浮き上がらせることにあったといえるように思う。そこにあらわれた物語の構造は、「古代の神話」が、「平安時代の説話」に取り入れられ、さらに「中世の民話」に流れ込んでいくというような単線的なものではけっしてなかった。私たちの世代の歴史の研究者にはよく知られていたイタリアの哲学者、B・クローチェの『歴史叙述の理論と歴史』には、「(中世の到来とともに)人々は、あの古代的歴史家があの通りすでに解決し去ったところの神話と奇蹟との世界と、その一般的性格においてはまったく同一としか見えないところのある神話的・奇蹟的世界にまたあらためて再会する」という一節がある(岩波文庫、二二八頁)。黒田俊雄氏が、このクローチェの言葉を援用しながら、「中世は第二の神話の時代である」「神話は、いつでもそうだが、宗教よりは文学として発展した」などと指摘したのは、もう四〇年も前のことであるが(「中世国家と神国思想」、『黒田俊雄著作集』④、一九九五年、法蔵館、原論文は一九五九年)、たしかに、中世には中世の力をもった神話、政治的神話があり、それと説話・民話との間には独自の関係があったのである。
 とはいえ、そのような物語の三層の共時的な構造の重なりの中に、歴史の実態的な構造や運動の反映を透視するという方法意識は、実際には、本書をまとめる中で、はじめて自覚したものである。それ故に、本書は方法的な議論を無視したモノグラフの集積として成立したのであって、それが生産的なものであったかどうかは、読者の批判にゆだねるほかはない。また、私は、本書が、このような成り立ちからいっても、特に日本文学研究の先鋭的な仕事との対質をほとんど経ていないこと*1、その意味で、本書の「物語」の理解は、私という個人の限られた実証作業、そしてそれを規定した経験や感性という狭いフィルターを通して紡ぎだしたものに過ぎないことを十分に知っている。もちろん、こういう限界をこのままでよいと思っている訳ではないが、しかし、ともかくも、私にとっては、歴史研究の範囲の中で眼前に研究対象として登場してきた、「神話」「説話」「民話」の個別の分析を、それらが相互に関係する場を意識しつつ、あれからそれへと遂行するところから出発するほかなかったのである。

 「あれからそれへ」とやってきたというのは、実感であるが、黒田の「中世国家と神国思想」を、手に取った時、これは理解できそうな論文だと思ったのは、論文の注記にクロオチェの『歴史の理論と歴史』が引用されていたためであった。

2010年9月 9日 (木)

堀田善衛と「Back to the Future」

 私は堀田善衛が好きで、よく読んだ。とくに高校時代に神田の古本屋街でみつけた第一エッセイ集の『乱世の文学者』は長い間の愛読書だった。当時『文芸』に連載されていた堀田の青春自伝『若き日の詩人たちの肖像』を傍らにおいて、その「思想的」解説のようなものとして読んでいた。今から考えると、「哲学」の代わりに読んでいたのだろうと思う。そして、第二エッセイ集の『歴史と運命』、そして死去のしばらく前にでた『天上大風』も好きでよく読んだ。『歴史と運命』がどこかにいってしまったのは残念だが、『天上大風』は、いまでもときどき読む。
 その中の「Back to the Future」という文章は見事なもので、この有名な映画の題は、実は、「我々は後じさりしながら、背中から未来に入っていく」、未来というものが我々の背後に広がっているという時間・空間観念を示すという指摘には感心してしまった。堀田は、この映画の題名を聞いた時、この言葉の背景には何かがあると考えて、当時住んでいたスペインで、古典学者に聞いたところ、オデッセウスに出てくるといわれて、やおらオデッセイアを読んだところ、そこに、「過去は我々の眼前にあり、未来は背後に広がっている。だから、我々は、どこで落とし穴に落ちるかわからないまま、後ろ向きになって、未来へ進んでいくのだ」という観念が何カ所にも述べられていることを確認したというのである。

 さて、このような過去と未来の時制を表現する言葉について、歴史学の側ではじめての議論を提出したのが勝俣鎮夫氏の「バック トゥ ザ フューチャー」(『日本歴史』2007年1月)である。

 勝俣は、室町時代までは「さき」という語は時間用語としては「過去」を示し、空間用語としては「前方」を示す。そして「あと」という語は時間用語としては「未来」を示し、空間用語としては「後方」を示すことを明らかにした。そして、これが「さき」が「未来」=「前方」となって、時間空間観念が逆転する戦国時代、江戸時代への言語感覚の変化が、どのような社会変動を表現するのかという問題を提出した。

 そして、堀田の文章を引きながら、このような時間観念と空間観念の関係のあり方は、前近代では世界の各地域に一般的であったことを論じている。

 こういう時間・空間感覚は、何を意味するのだろうか。私は、これはまずは「未来」ということよりも、「過去」のとらえ方に関わるのだと思う。過去は眼前に広がるものであって、すべての人々に共有されているという感覚が基礎にあって、未来は背後にあるという感覚が強まっていくのではないだろうか。そこでは、過去はつねに共通の風景として目の前にあり、家や村の前に広がるなじんだ風景のようなものとして共有されている。目の前の風景と過去の記憶を共有するという日常意識のあり方。

 現代社会は、そのような懐かしい身の回りの風景を人々から本格的に奪い取るとともに、過去の記憶をも最終的に人々から剥奪しようとしている。

  堀田善衛の詩でいえば、
 
 人と別れた黒い戸口から/すでにあのなつかしい悲哀をも含まぬ/暗い霧は湧き出で立ち出でて/つひに冷たい波となり/身を襲ひ身をつつみ/しぶきを立てて身の行いをあきらかに/洗い出し奪ひさり/掠め掠めては/時は身を削りつづける

 ということになる。

 歴史学は、その過去を取り戻すための学問である。そして、歴史学にとっては、未来はみえない、未来は背後にひろがる隠された世界であるという感じ方は重要な意味をもっている。未来を予知し、予測するためには、私たちの背中にオンブオバケのようにして密かに忍び寄ってくる未来を感じる力が必要である。その秘かさこそが歴史の必然性といわれるものである。そしてそれを透視するためにこそ、眼前の過去を見つめることが必要になる。過去を取り戻すことによってしか未来はみえないという関係を意識の根っこのところに据える仕事を歴史学は担う。
 歴史学からもっとも遠い考え方、感じ方は、自分の前に漠然とした未来の時間が広がっているというように考えることであって、それは一種の幻想である。「未来は君たちのものだ」という言明は、しばしばただの自己責任の論理、脅迫の論理をしか意味しない。もちろん、自己が自己の主人である、自分の時間と空間、そして肉体を差配するものであるという意識のあり方は、現代的な人権概念の基本にすわるものであり、我々は、そのような自己意識のあり方から撤退することはできない。
 しかし、自己が自己である諸条件、社会関係の総体を了解しないまま、自己が自己であるということを当然の自然的前提のように考えることは、幻想である。「我思う、故に、我あり」というのは単純な幻想である。自己が自己でありうる条件をあたえないまま、この幻想を利用して他人を操作するということがありうる。近代社会は、自己が自己の完全な操作対象物であるかのように幻想する物件化の幻想、自己の能力と身体を契約と売買の対象としうるという仮象の上に成立している。

 しかし、人間はかならず操作不能の部分を含みこんでいる。我々は、だからこそ、自己の暗部を尊厳を懸けて守らなければならない。そして、操作不明の部分は自己の中にあるだけでなく、過去の中に存在する。むしろ操作不能なものは本質的に過去の中にある。過去から生成してきたものとして客観性をもつ諸関係の中に自己の操作不明な部分がどのように結びついているかを知ることなしには、自分を守ることはできない。 

 日本社会の過去忘却の風習、過去のない社会、日本。歴史家が不要な社会ということの基本には、日本社会をながれる独特な時間の性格があることは疑いないが、過去の剥奪というのは、近代社会の基底に属する問題であることも明かだと思う。歴史学は、このレヴェルの問題に対応する営為でなければならないのだと思う。
 
 以上は頭休めのはずが疲れてしまった。

 昨日は和紙の日だったが、御寺での調査のまとめ、 御寺から調査を依頼された仕事で終わり。次の計画を立案中。

2010年9月 8日 (水)

今日は客の多い日。NHKと勝山氏

 今日は客の多い日だった。息子がアメリカへ行くとか、NHKの人がくるというので準備とかでで、昨夜はいろいろ遅くなり、寝不足で職場へ。 

 朝の客は、そのNHKのディレクターの人で、平清盛の大河ドラマをやるので話しを聞きたいということ。私の『平安時代』を読んで面白かったので、意見を聞きたいということで御会いしたのだが、寝不足のため頭がはたらかず、失礼をした。

 ともかくメモを用意してレクチャーをしてさしあげたのだから、勘弁。メモは、清盛に出生の秘密があるかどうか、養育の親は池禪尼と考えられること、正妻の時子とその妹滋子を二条・後白河の父子に配置して二股をかけたのがいつと考えられるか、常葉の問題と平治の乱など。

 この時代、摂関時代のような宮廷の「花」ではなく、中下級の貴族の家から、ゴッドマザー的な女性が多数生まれた理由をどう考えるかというのが、現在取り組んでいる続編義経論のテーマの一つなので、それを簡単に説明。

 その後、時代のイメージが描けなくて困っている、どう考えたらよいのだろうかと聞かれて、こっちも困る。

 私の院政=父子間対立論、それにはじめての本格的な軍事国家の動きが積み重なるという説明をする。しかし、イメージ作りというのは、個人的なもの、主観的なもので、歴史学者は史料にもとづく事実認定の仕事と、それらのすべての前提になる方法論は説明できるし、質問されれば職責としてお答えし、知識は提供する。

 しかし、イメージというのは、史料と方法の間に徐々に浮き上がってくるもので、物語の素材となるような形で、すぐには説明しがたい。イメージということになると自分で御考えください、脚本家の人も必要な論文くらいは読み、そこに引いてある基本史料くらいは読むのでしょう?、その蓄積がないとという。

 これはぶっきらぼう、かつ切り口上にすぎたかもしれないと、私は、イメージに影響されやすい人間なので、大河ドラマというものは一切見ないようにしている。そういう人間にイメージを語れといわれてもと、軽口をいってフォローする。しかし、このフォローはまずく、ぎゃくに驚かれた(のではないか)。

 ただ、ディレクターの人が、平安時代末期とか鎌倉時代というのはイメージの作りにくい時代でといっていたのは、そういうものかとも思う。むしろ作りやすいから大河ドラマにするのだとおもっていたが、実感としてそうではないというのは面白かった。たしかにそうなのかもしれない。武士による国家の成立と源平内乱というだけでは、イメージが受け入れられないような時代になっているのかもしれない。それはよいことだと思う。

 日本歴史ほど、社会の歴史常識と学界の研究レヴェルが離れているものはないが、この種のズレを着実に修復していく方策を考えねばならないのは確かなのだろう。それにしても、史料を読み抜いた上で物語を構想してほしいものだ。基本史料はそうたくさんある訳ではないのだから。

 午後、三重県史の仕事で勝山氏が來て、何度か部屋にきてくれたというので、閲覧室へお迎えに行き、古文書の部屋で話す。それこそ史料の蒐集と点検のために、三日間、東京で詰めているわけだ。

 一昨年の名古屋の網野さんの追悼講演会以来である。なつかしい。

 名古屋大学で講演が終わった後、出席されたO山さんと三人で名古屋駅まで帰る。私が、網野さんの仕事と戸田さんの仕事の関係から講演を組み立てたので、O山さんは、「保立くんは何でも戸田さんから立論する。戸田さんは幸せだ」といってたというと、勝山氏いわく、「(O山さんには)僕たちは批判しかしないから」と誇らしげ。

 彼と最初にあったのは、もう30年近く前の日本史研究会にはじめて出席した時、彼がK村氏の報告の補助報告に立って、「弁済使」(平安時代の国司の収納会計の私的代理人)についての報告をした時のことである。私は、都立大のマスターに進んだ年だったのではないだろうか。同じようなテーマに興味があったのでたいへんに面白かった。

 学会報告というものを、自分の研究との関係で聞いた初めての経験だった。翌々年は彼が主報告者であった。彼には、その懇親会で(だったと思うが)、M高橋氏が「日本史研究会が自信を持って送るエース」といったという記憶、そしてある時、彼から強い批判を受けた記憶が染みついている。

 その頃の『日本史研究』を書棚で確認してみると、良く読んだ跡がある。そして、勝山報告が会誌に載った後の批判コメントを僕が書いたのを思い出して探すと、たしかに載っている。元気のいいこと、内容の空疎なこと。勝山氏は、こんな批判をされて困ったろう。読んでいまさらながら赤面。

 よい機会なので、いま彼の抜き刷り箱の整理をした(私はいただいた抜き刷りを本のケースに名前をかいて整理している)。この大会報告は、何年か前にでた彼の大著の中には収められていないことを確認。その他、二冊の著書に収められていない抜き刷りが4点。あわせて5点を除いて別にする。着実な仕事ぶりにいまさらながら劣等感がめばえる。

 二冊目の『中世伊勢神宮成立史の研究』は『かぐや姫』のために、今年になってから開いて点検した本。井上さんや、先日千々和氏からもらった『日本の護符文化』と同様、我々の世代の研究者が神祇の問題にさまざまなルートで取り組み始めていることを示している。勝山氏の場合は、井上氏や私と同様に、黒田俊雄氏の学説の継承と批判が根となっている。これがどう展開するか、どう展開させるかがはきわめて重要と再認識する。

 河音能平さんの話になったら、彼は赤松俊秀さんの著作集の解説をかいたところで、「勉強になった。未解決の論点がいくつか発見した」ということだった。大恐慌の時代に赤松さんがやはり社会経済史の研究をはじめたこと、京都での清水三男さんとの関係を確認していると、歴史家は本当に時代の子であると思うと。赤松氏の『古代中世社会経済史研究』は千々和氏がもっていて、彼の机が近くにあったころは、借りて良く読んだことを思い出す。

 おのおのの職場の様子、家族の話。政府が公言している全予算をふくめ大学予算も一割カットという普通の国では考えられないようなバカな話を、K大ではどういっているかなど。

 今日(7日)のOECDの発表によると、2007年度の日本の教育への公的支出はGDP比3.4%で、OECD加盟国のうち最下位。デンマーク7.8%。アメリカ5.3%、韓国4.2%。問題は2000年度と比べても0.2落ちていること。そして私費負担率が33.4%でOECD平均の17.4%を大きく上回っていること。大学などの高等教育への公的支出は0.6%のみ。無能で厚顔な人間が政治家をやっていると、何が起こるかわからない。

 子供は無事に成田から飛び立った。

2010年9月 6日 (月)

火山論を一休止、義経論へ

 昨日、日曜日の午後は千葉市立図書館で過ごした。千葉市立図書館には研究個室という部屋が15室あり、順番でならぶのだが、ちょうどギリギリ15人目にならんで、最後の鍵を受けとった。鍵型の広い机が使え、PCの電源が取れるのがありがたい。閉館の時まで4時間。これは初めての経験。仕事が進んだ。

 『かぐや姫と王権神話』の後始末がようやく終わりつつあり、次の仕事はしばらく前に出した『義経の登場』の続きを書く仕事である。今、奥付をみたら、出版は2004年だから、すでに6年前ということになるが、この本を基礎に一一八〇年代内乱を考える作業をつづけてきた。しかし、すでに本とした部分で再検討しなければならない部分もあり、昨日は、その作業のまとめ。これなしには先の方への見通しがつかない。

 千葉市立図書館には、『国史大系』『国史大辞典』『大日本史料』『大日本古文書』がそろっており、机に広げて点検している間に時間が過ぎた。日常とは違うスペースで集中するというのは能率的である。

 ただ、最初の一時間ほどは、まだ『かぐや姫』の後処理の仕事。一つは広瀬和雄さんから『前方後円墳の世界』をいただいたので、そのノート。実は、『かぐや姫と王権神話』で、前方後円墳は火山を象徴しているという仮説を提出するにあたって、A木さんと広瀬さんに、そういう説があるだろうかと問い合わせた。そういう説はないと聞いて、半分はがっかりし、半分は自説の独創性(?)に希望をもった。

 前方後円墳が「山」を象徴しているという意見は、すでに近藤義郎氏が『前方後円墳の時代』で述べていることであり、最近では、佐藤弘夫氏も述べている。ただ、これを人間が死去した後に山へ行くという柳田国男がいうような一般的な意味で「山」といっていてすむかどうか。

 山だとすれば、どういう山なのか。そして、この「山」は神話的な観念を反映していると考えるのが適当ではないか。そうだとするとどういう神話なのか。今から考えれば、そういうように論理的に考えていったかのようであるが、実際には、益田勝実氏の仕事を読んで、九世紀の火山関係資料が豊富だったのを思い出し、点検してみると、火山爆発によって形成された墳丘部の描写が、前方後円墳と似ているということに気付いたにすぎない。

 「つか」という言葉が火山墳丘部について使われていること、墳丘の「きざはし=階」が四重になっていることが古墳の段築の様子に対応すること、斜面に礫が敷かれているというのは「葺石」を想起させること、石でできた周垣があり、家の形があること、石人がいること、古墳の周囲の埴輪の列立や家型埴輪を連想させること。

 これらから前方後円墳は火山の象徴という仮説を導いた。火山の風景を解釈するスタイルの中に、すでに神話的な幻想が入り込んでいることは明かだと思う。

 磐構えて作れる墓、磐船などの、磐という用語で、山を描く神話史料を点検する作業が必要だが、結局、この仮説の成否を決めるのは第一には、いわゆる円筒型埴輪というものをどう解釈するかにかかるのかもしれない。タカミムスヒをまつる「厳瓶」にそれを近づけて考えたいのであるが、火山墳丘部の姿を「伏鉢」とか「伏瓮」などというのも、それに関係するのではないか。そして第二には「割竹型木棺」や古墳埋納の管玉に実際に「竹の神話」をみてよいかというのも大事な問題である。私見では、この両者は関係している。

 前方後円墳について全体を知れる本としては、広瀬さんの本は立派なもの。『かぐや姫』の執筆では、近藤義郎さんの本のほか、広瀬さんの『前方後円墳国家』を点検した、今度の本は、さらに具体的である。これは、古墳の相当部分を歩き、調査と発掘報告書を読み解くことなしには書けない種類の本である。いろいろ考え直す。

 広瀬氏がいうように、3世紀半ばからの350年間の時代を一つの構成をもった社会として考えるとすると、前方後円墳の背景には、一つの具体的なイデオロギーが、神話の形で存在したことは確実だと思う。逆にいえば、前方後円墳は、一つの神話の実在の証拠であり、物質的な根拠であるということになる。この説が成立すれば、検討の定点を定めることが可能になると思う。そして、タカミムスヒからアマテラスへの転換の意味も鮮明になる。

 これが「北東アジア火山文化圏」の神話の一部ではないか。その証拠として掲げることができたのは、高句麗の始祖・朱蒙が火山神となって昇天した(と解釈できる)史料のみだが、これが日本の史料の表現と似ているのに驚く。「騎馬民族国家説」の前提となったのは北東アジアにおける「鍛冶神話」の共通性という理解だが、結果としてそれを疑うという意外な展開となった。そうなってみると、それがなぜ、これまで疑われなかったのかがわからない。

 この問題を点検していて、都立大学時代に謦咳に接したことがあるモンゴル史の村上正二先生の仕事を読む。飄々とした村上先生の話し方がなつかしい。朱蒙の史料の出典の確認では、やはり都立時代の先輩の木村誠氏のお世話になった。

 都立大学は現都知事によって、乱暴な方法で大学として一番大事な「伝統」と「連続性」を破壊されてしまったが、今でも、私の中では生きていて、ひょんな形で表層に浮かび上がってくる。

 『かぐや姫と王権神話』の関係で、図書館で点検していた、もう一つの問題はもう少し深刻なもので、「神道」の理解に関わって、井上寛司氏からいただいた批判の大部の手紙である。おそらく批判をいただくだろうと思っていたが、これだけきびしいとは予測せず。これにお答えするにはしばらくかかると気持ちを固める。

 さて、今から、医者。昨日は、久しぶりにクロスバイクで図書館へ向かった。今日もこれから、クロスバイクで40分。帰りは花見川のサイクリングルートをまわろう。

2010年9月 4日 (土)

歴史学の書棚ー千葉市立図書館

 先日、近くの市立図書館へいった。なにしろクーラーのない自宅は暑い。そこで、はじめて図書館に行き、閲覧カードを作ってもらった。そして、窓際のキャレルに何冊かの神話論の本を積み上げて、あっちこっちをみてみる。歴史・宗教と文学の書棚をみれば、研究状況をチェックするには便利である。広くて気持ちがいい。神話論の話は別として、ここでは図書館経験の話しである。

 キャレルを借りるにはどうしたらよいか、書棚な並び方はどうなっているのかなど、カウンターの司書の人が実に親切かつ自然に教えてくれる。図書館の建物はもう一〇年以上前には立っていたはずだが、まだまだきれいで新しく、明るく、気持ちがよい。自分が気持ちがよいだけでなく、司書の人々にとっても、これはなかなか格好のよい職場なのだということを実感した。予算と定員を削られ続けている東大の図書館とは相当違う感じである。

 もう20年近く前だと思うが、新卒で司書として就職した女性が、まず史料編纂所に配属されたのだが、「私の考えていた図書館と違う」といって、たしか三・四ヶ月で転任していったことがある。新任職員の紹介の時、抱負にあふれた人だと感じたので、ほとんど話す時間もなく、すぐに彼女がやめてしまったのは、なかなかショックな話しであった。

 市立図書館の綺麗な閲覧席で、このことを思い出して、はじめて彼女の気持ちがわかったと思った。私の職場の図書室は、歴史関係の図書室であるだけに、東大の図書館の中でも、日本史という狭い範囲の本や史料を管理する特殊な部局図書館である。しかも、おもな閲覧者は、全国の歴史研究者で、彼らが見に来るのは、史料それ自身か、あるいは史料の「複本」と称する影写本(薄い雁皮紙に墨筆で史料を敷き写しにした册子本)や写真帳(A4の印画紙に印画した史料写真をとじた册子)などである。
 こういう大学を通じた学界への奉仕というのは、たとえば市立図書館とは違って、いわば間接的で抽象的なもので、しかも歴史学者という人種は一般的に取っつきにくい種類の人々である。今から考えれば、彼女にとっては、イメージの中にある図書館との落差が大きすぎたのだろうと思う。向こうこそショックだったのだろう。
 
 さて、市立図書館で気持ちがよいのは、たとえば平安・鎌倉時代史の書棚をみると、自分の本や友人たちの本が並んでいることである。なじみの場所にきたという感じがするのがうれしい。歴史学という学問を、ここ40年もやっている訳だが、自分のやっていることが、どのように社会の中で受けとめられているのかということがわかりにくいというのは不安なものである。

 それは大きな書店の歴史関係の新刊書の書棚を見ているときとは違った感じである。新刊書の書棚をみていると、研究がどんどん進んでいるのがわかる。

 友人のI原氏は、自分の大著への批判に接して、著書が批判されて葉を落とされた「落葉樹」のようになるのは、研究の進展のために土壌を豊かにしていることを実感させるといっている。私などの著書は、最初から葉っぱがない裸の樹木のようなもので、土壌を肥やすことがない。根本的なところで、研究史を新しく進展させたかどうかについては自信がない。しかし、ともかくも研究史の流れに属している以上、このまま立ち枯れては申し訳ないと思う。

 そういうことを感じていると、新刊書の書店の書棚よりは、図書館の書棚の方が落ち着くのである。図書館の整理された書棚は、ともかくも研究史というものが存在するという気持ちにさせてくれる。

 図書館が学術書を蓄積してくれていて、それを読んでくれる人がいるということはありがたいことだと思う。それはいうまでもなく、図書館の司書が歴史学というような特定の分野についても、専門書の蒐書につとめていてくれるからである。市立図書館の書棚をみていると、その前提には司書の人々の相当のエネルギーと知識があることが明かである。

 大学図書館の位置は世界中で様々な形で問題となっている。もちろん、日本の場合は、大学予算が、この10年ほど削られ続けてきた影響が大きいが、それにしても、学術情報が大量化し、いよいよ細かくなり、しかも、本の形をとらないアーカイヴや電子ジャーナルなどを扱うようになっている。仕事の内容は、20年目の司書の仕事とは大きく異なってきていて、困難も多いようにみえる。

 しかし、おそらくその経験は、一般の地域図書館、自治体図書館にも有益な部分があるのではないかとも思う。たとえば、大学図書館と地域の図書館でネットワークを作り、専門書の書棚の目録を比較し、地域図書館の側では、何年かに一度、専門書の書棚で不足しているものを補充するというようなことができるのではないか。また、学術の各分野で組み上げられているデータベースの状況を大学図書館を通じて、地域図書館が受け入れるというようなことも可能なのではないか。学者との付き合いが日常的なだけに、面倒くさい点が多いだろうが、その経験が何かの形で役に立つことがあればありがたいと思う。

 編集者の人々によると、専門書の市場は、必ず500部を図書館が購入してくれれば、ともかくも成り立つものであるという。大学図書館と地域図書館は、現実にそういう形で接点をもって、学界と社会をつないでいる。それが何かの形でみえやすくなれば、大学図書館の社会的な意味もわかりやすくなるのではないだろうか。
 
 市立図書館の閲覧風景をみていると、日本の社会には図書館が根付き始めているのかも知れないと思う。

 私は高校時代には、東京の大田区に住んでいたので、大田区立図書館を利用した。高校の時に、世界史の授業で河野健二氏の『フランス革命小史』のレポートを書くためだったと思うが、分厚い学術書をはじめて手にとった。桑原武夫氏などの『フランス革命の研究』など、相当の冊数を借りた記憶がある。カウンターを入って左に進み、右に曲がると人文社会の書棚であったことも覚えている。

 誰も同じことだろうが、そういう全体を考えると、図書館にお世話になった時間というのは、意外と長い。そして、そろそろ定年も近いから、またお世話になることになるが、使いやすい図書館がそばにあるのは気持ちが明るくなる。 

2010年9月 1日 (水)

定家の歌う夏の京都の暑さ

  いま京都にきている。朝早く目が覚めてしまい、河音さんの著作集の解説の再校ゲラの校正をしていた。昨日は某社の教科書の編集会議があり、途中で中座し、京都のY田氏が戻るのと一緒の「のぞみ」で京都へ。丁度よいので打ち合わせをしながら、ずっと話していた。河音さんの著作集の第一巻「中世の領主制と封建制」が先日出版されたこともあり、少し先の発刊になる第三巻の私の解説のゲラもみてもらう。
 同世代と長く話す時間はなかなかないので楽しい。歴史家にとって、共通して知っている先輩や研究史のあれこれを話すことほど楽しいことはない。とくに戦争の経験をされて歴史学の分野に進んできた、「戦後歴史学」の先輩たちは「大人物」が多く、彼らの話をしていると話題に困らない。

 まだ朝の六時。ホテルの中だから感じないが、京都は朝から暑いのだろう。昨日、お寺に電話したときは、京都は37°。暑いですよといわれる。

 夏の京都については、定家に次の和歌がある。

   ゆきなやむ牛の歩みに立つ塵の風さへ暑き夏のを車

 建久七年(1196)九月十八日、内大臣九条良経に詠まされた「韻歌百廿八和歌」の中の一首という。

 高橋昌明氏によると、「それまでの歌人がけっして取り上げようとしなかった中世都市京都の片隅の情景で、夏の昼下がりの街路を牛が足取りも重く小車を牽き、砂埃を含んだ風がむっとする暑さを運んでくる。定家らしい感覚鋭い句」。

 街頭の暑さを歌う詩。もちろん、私も高橋氏も、こんな洒落た和歌を知っている訳はなく、出どこは河音さん。発刊された著作集第一巻の解説に事情が説明されている。この解説は昌明氏の担当で、そこで、河音さんの晩年のエピソードを紹介する中で、河音さんの推賞した和歌として掲げられたものである。高橋氏によると、河音さんは、「晩年のころ、歴史家はアンソロジーをもつべきだと託宣し、各自が自分の愛唱する詩歌を『歴史評論』に投稿しようと促された。とまどった我々が、それなら見本を示してくださいというと」、この和歌を推賞したという。そういわれた河音さんが、説明や鑑賞の文などはなにつけず、ただ一行、この和歌を送って来られたというのも、河音さんらしい。歌舞伎の隈取りのように、四方八方に跳ねた、芸術的な悪筆で書かれた河音文字が目に浮かぶ。

 (この項続く)
 
 御寺での酷暑の中の調査が終了し、ホテルに帰り着き、シャワーを浴びて人心地がついたところ。6時過ぎから飲み会の予定。

 京都の暑さは、やはり東京より一層である。さしも広い御寺のまわりも建て込み、広い部屋でも暑さを感じる。午前中は用意した和紙調査のための顕微鏡のパソコンからの操作うまくいかず、いよいよ汗だく。一時は、どうしよう、60過ぎに新しい機械は無理。そもそもその方面がいい加減であったものがいよいよ駄目という困惑感。別の仕事で汗だくの写真部にどうしようと救援をもとめ、職場に長距離電話。しかし、再起動・再起動をかけている内に立ち上がる。結局、電圧不足でコンピュータが音を上げていたことがわかった。なんだということだが、そんなことでいちいち困惑し、反省するなというのが反省。
 
 (この項続く)

 ともかくも、一〇点ほどの文書の顕微鏡撮影、光沢度、色の計測は終了しそうだが、職場の外に機材をもってきての作業は神経をつかう。河音さんは、こういうことにつきあわなくて幸せであったと思う。河音さんが顕微鏡とコンピュータの扱いに困る様子は想像できない。
 河音さんは、生涯の最後の時期を史料論研究と国際交流のための仕事に尽力された。私は河音さんとはそんなに個人的な関係はなかったが、河音さんが史料論も国際交流も得手ではなく、どちらも義務意識でやられているということぐらいはわかる程度には関係があった。河音さんからは保立君は古文書学の研究をするのが職業的義務だといわれ、国際的な学術交流にも誘われた。私は、そこから逃げてまわっていたが、結局、ここ二・三年は、河音さんとはまったく違った形で、「物」として、「和紙」としての古文書につき合うことになってしまった。
 私が乱暴なことをいうと、君はなんということをいうのかと、何度か目を見はって見つめられたことを思い出す。河音さんのことを考えると辛いことが多いが、ともかくも、結局、河音さんに言われたことに少しは従っているのだと考えることにしようと思う。
 高橋氏は個人的な関係も強く、その解説はなくなられた河音さんへの愛惜にみちている。本来、ランボー、マラルメと『新古今』が愛読書という河音さんは、歴史学が社会の過去と未来への思索を代表していた第二次大戦後の時期に、間違って歴史学の中に巻きこまれ、詩人の神経でものごとを見つめられていた。高橋氏は河音さんの仕事が、これからの若い研究者に受けとめられるかどうかを心配している。
 「読者の側の、時代のへだたりからくる社会変革への関心・期待感の衰弱、人文学の教養の顕著な低下、細かい実証研究にしか活路を見いだせない閉塞感と視野狭窄などが原因であろう。若い研究者にとっては、重くて早い荒れ球を投げた伝説の剛球投手といった印象だろうか」
 しかし、若い研究者は無教養と視野狭窄を責められても困るだろう。先輩たちは、私たちの世代のこともそう思っていたに相違ないからである。「このごろの若い人は」というのは、おのおのの世代が必然的に繰り返すつぶやきである。時代の変化と世代の交替というゆるがしがたい力に勝つことはできない。
 それでも河音さんたちは、歴史家にとっての最大の楽しみ、先輩や研究史のあれこれのエピソードを語る楽しみを残してくれた。「重くて早い荒れ球」を受けとめるのは大変だったが、今から考えれば、その追憶は甘い。しかし、荒れ球を投げることもなかった我々は、後の世代に、この歴史学最大の楽しみを残せなかったのかもしれない。
 今、飲み会の後の酔い覚めで目が覚めて、朝の四時。気持ちは沈んでいくが、ともかく飲み会が楽しかったこと、そして顕微鏡が無事に動き、データが取れることで、満足し、このデータが何時かは役に立つことを期待して、暑さの京都もあと一日。頑張ることにする。

 一〇月にもう一度京都出張がある。その時は、去年と同じように、御寺の調査が終わったら、マウンテンバイクを借りて京都の北郊を調査し、夕方、涼しくなる中を、賀茂川の岸辺を走り下ろう。
 

  

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »