定家の歌う夏の京都の暑さ
いま京都にきている。朝早く目が覚めてしまい、河音さんの著作集の解説の再校ゲラの校正をしていた。昨日は某社の教科書の編集会議があり、途中で中座し、京都のY田氏が戻るのと一緒の「のぞみ」で京都へ。丁度よいので打ち合わせをしながら、ずっと話していた。河音さんの著作集の第一巻「中世の領主制と封建制」が先日出版されたこともあり、少し先の発刊になる第三巻の私の解説のゲラもみてもらう。
同世代と長く話す時間はなかなかないので楽しい。歴史家にとって、共通して知っている先輩や研究史のあれこれを話すことほど楽しいことはない。とくに戦争の経験をされて歴史学の分野に進んできた、「戦後歴史学」の先輩たちは「大人物」が多く、彼らの話をしていると話題に困らない。
まだ朝の六時。ホテルの中だから感じないが、京都は朝から暑いのだろう。昨日、お寺に電話したときは、京都は37°。暑いですよといわれる。
夏の京都については、定家に次の和歌がある。
ゆきなやむ牛の歩みに立つ塵の風さへ暑き夏のを車
建久七年(1196)九月十八日、内大臣九条良経に詠まされた「韻歌百廿八和歌」の中の一首という。
高橋昌明氏によると、「それまでの歌人がけっして取り上げようとしなかった中世都市京都の片隅の情景で、夏の昼下がりの街路を牛が足取りも重く小車を牽き、砂埃を含んだ風がむっとする暑さを運んでくる。定家らしい感覚鋭い句」。
街頭の暑さを歌う詩。もちろん、私も高橋氏も、こんな洒落た和歌を知っている訳はなく、出どこは河音さん。発刊された著作集第一巻の解説に事情が説明されている。この解説は昌明氏の担当で、そこで、河音さんの晩年のエピソードを紹介する中で、河音さんの推賞した和歌として掲げられたものである。高橋氏によると、河音さんは、「晩年のころ、歴史家はアンソロジーをもつべきだと託宣し、各自が自分の愛唱する詩歌を『歴史評論』に投稿しようと促された。とまどった我々が、それなら見本を示してくださいというと」、この和歌を推賞したという。そういわれた河音さんが、説明や鑑賞の文などはなにつけず、ただ一行、この和歌を送って来られたというのも、河音さんらしい。歌舞伎の隈取りのように、四方八方に跳ねた、芸術的な悪筆で書かれた河音文字が目に浮かぶ。
(この項続く)
御寺での酷暑の中の調査が終了し、ホテルに帰り着き、シャワーを浴びて人心地がついたところ。6時過ぎから飲み会の予定。
京都の暑さは、やはり東京より一層である。さしも広い御寺のまわりも建て込み、広い部屋でも暑さを感じる。午前中は用意した和紙調査のための顕微鏡のパソコンからの操作うまくいかず、いよいよ汗だく。一時は、どうしよう、60過ぎに新しい機械は無理。そもそもその方面がいい加減であったものがいよいよ駄目という困惑感。別の仕事で汗だくの写真部にどうしようと救援をもとめ、職場に長距離電話。しかし、再起動・再起動をかけている内に立ち上がる。結局、電圧不足でコンピュータが音を上げていたことがわかった。なんだということだが、そんなことでいちいち困惑し、反省するなというのが反省。
(この項続く)
ともかくも、一〇点ほどの文書の顕微鏡撮影、光沢度、色の計測は終了しそうだが、職場の外に機材をもってきての作業は神経をつかう。河音さんは、こういうことにつきあわなくて幸せであったと思う。河音さんが顕微鏡とコンピュータの扱いに困る様子は想像できない。
河音さんは、生涯の最後の時期を史料論研究と国際交流のための仕事に尽力された。私は河音さんとはそんなに個人的な関係はなかったが、河音さんが史料論も国際交流も得手ではなく、どちらも義務意識でやられているということぐらいはわかる程度には関係があった。河音さんからは保立君は古文書学の研究をするのが職業的義務だといわれ、国際的な学術交流にも誘われた。私は、そこから逃げてまわっていたが、結局、ここ二・三年は、河音さんとはまったく違った形で、「物」として、「和紙」としての古文書につき合うことになってしまった。
私が乱暴なことをいうと、君はなんということをいうのかと、何度か目を見はって見つめられたことを思い出す。河音さんのことを考えると辛いことが多いが、ともかくも、結局、河音さんに言われたことに少しは従っているのだと考えることにしようと思う。
高橋氏は個人的な関係も強く、その解説はなくなられた河音さんへの愛惜にみちている。本来、ランボー、マラルメと『新古今』が愛読書という河音さんは、歴史学が社会の過去と未来への思索を代表していた第二次大戦後の時期に、間違って歴史学の中に巻きこまれ、詩人の神経でものごとを見つめられていた。高橋氏は河音さんの仕事が、これからの若い研究者に受けとめられるかどうかを心配している。
「読者の側の、時代のへだたりからくる社会変革への関心・期待感の衰弱、人文学の教養の顕著な低下、細かい実証研究にしか活路を見いだせない閉塞感と視野狭窄などが原因であろう。若い研究者にとっては、重くて早い荒れ球を投げた伝説の剛球投手といった印象だろうか」
しかし、若い研究者は無教養と視野狭窄を責められても困るだろう。先輩たちは、私たちの世代のこともそう思っていたに相違ないからである。「このごろの若い人は」というのは、おのおのの世代が必然的に繰り返すつぶやきである。時代の変化と世代の交替というゆるがしがたい力に勝つことはできない。
それでも河音さんたちは、歴史家にとっての最大の楽しみ、先輩や研究史のあれこれのエピソードを語る楽しみを残してくれた。「重くて早い荒れ球」を受けとめるのは大変だったが、今から考えれば、その追憶は甘い。しかし、荒れ球を投げることもなかった我々は、後の世代に、この歴史学最大の楽しみを残せなかったのかもしれない。
今、飲み会の後の酔い覚めで目が覚めて、朝の四時。気持ちは沈んでいくが、ともかく飲み会が楽しかったこと、そして顕微鏡が無事に動き、データが取れることで、満足し、このデータが何時かは役に立つことを期待して、暑さの京都もあと一日。頑張ることにする。
一〇月にもう一度京都出張がある。その時は、去年と同じように、御寺の調査が終わったら、マウンテンバイクを借りて京都の北郊を調査し、夕方、涼しくなる中を、賀茂川の岸辺を走り下ろう。
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