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2010年9月13日 (月)

神道についてー自分の経験と黒田俊雄

 神社の神職の方についての経験は、山の神社から始まっている。小学生の頃に父に連れられて上った碓氷峠、筑波山の男体・女体の鞍部にあった、どちらも土産物屋のおじさんが、神社の神職として手伝いも兼ねられており、毎日、朝のご来光を拝むという話しを聞いた記憶がある。歴史の勉強をすることになって、指導教官の戸田芳実さんの碓氷峠への調査旅行に同行したことがあり、その記憶を確かめようとして土産物屋をさがしたが、それらしい場所は発見できなかった。山の上の神社というものがどういう実態をもつものなのかということは、これ以外にもある秘かな記憶が消えない内に考えてみたいことの一つである。
 ただ、もっとも親しい記憶のある神社ということになると、やはり故郷の神社である。故郷といっても、私の祖父の家は東京の大田区、いまは町名整理で、南馬込となってしまったが、以前は桐里といった村である。家から坂道を上り、また左にだらだら坂を下っていった崖のところにあった「トウカンモリ(杜)」という神社の夜祭を楽しみにしていたのは、小学校に入る前後のことであるから、1950年代の初めのころのこととなる。
 そこにはまだ簡単なお囃子をする舞台となる屋形があって、その床下の空間に入ってよく遊んだ。拝殿の下の砂地にアリジゴクがいて、それを釣って遊んだことも思い出す。その意味では、私たちの世代は、都会育ちでも、柳田国男のいう故郷の風景というものをもっている世代の最後にあたるのではないかと思う。しかし、「トウカンモリ(杜)」の神職をつとめられていたであろう方の記憶はまったくない。
 こういう神社というものをどう考えるかというのが、私たちの世代までは小さいころの一つの問題であったように思う。つまり、私は祖父から、福沢諭吉が稲荷さんの祠を覗いて、その正体を見極めたところ、祠の中には小石がおいてあるだけだった。諭吉はそれを取り替えてしまい、それでも人々が稲荷に御参りしているのをみて陰で笑ったという話しを聞いたことがある。その神を汚す「涜神」的な行動にアンビヴァレントな感情をもったことを今でも覚えている。これも、私の世代までは「前近代」というものが身近にあったことの表現なのかもしれない。
 しかし、その後、神社について改めて考えたのは、はるかに飛んで大学時代。母校の国際キリスト教大学の図書館の二階にあった『日本宗教史講座』第一巻(三一書房)を手にとり、その中におさめられていた黒田俊雄氏の「中世国家と神国思想」を読んだ時である。私は、歴史学の勉強を始めた頃に、この論文に出会えたことを幸いであったと思う。
 黒田は、この論文で日本には原始の時代から、同一の本質を有したまま脈々として発展してきた「神道」という固有の民族的宗教が存在したという見方に疑問を提示した。これは日本宗教史の最大のドグマだというのである。黒田によれば、江戸時代以前の、神祇というものが仏教と合体した形で存在していたの状況を具体的に明らかにし、それを前提にして、「儒教・仏教」の唐心とは区別された「神道=原始的、本来的な民族宗教」という一般的な観念は、明治の神仏分離の中で作られた観念であると論じた。
 私は、この論文を読んで、宗教というものを歴史学的に、史料にもとづいて考えることが可能なのだということを理解したように思う。今から考えれば、諭吉の涜神的な行動は、「神・儒・仏」の緊密な連携がゆるみ始めた江戸時代後期の世相の中で行われた、周縁的な「祠」に対するイタズラであったということになるのだろう。
 しかし、それでも疑問が残ったのは、神祇の基本部分が仏教の下に組織されたことは事実であったとしても、黒田も認めているように、共同体的な自然崇拝自身は、仏教とは相対的に区別されるものとして存在していたはずである。それは何かということであった。私見では黒田は、仏教の下で神道が「世間」「土俗」との対応を任されている関係があったという。つまり黒田は、神祇・神道というものがすべて仏教の下に組織され切ってしまったとはしておらず、土俗的な信仰と神道説の深い関係を留保している。
 もちろん、このような疑問を、はるか昔、ICUの図書館で黒田論文を読んだ時に考えたということではないが、歴史学の道に進み、その後、私は、幸運にも仕事の上で、黒田さんの謦咳に接する機会をもつようになった。その中で、何度も「中世国家と神国思想」が収録された黒田の大著『日本中世の国家と宗教』を読む中で、この疑問は徐々に具体的な形をとるようになったのである。
 黒田は、この本の中で、学問的な解明が真に困難な問題をスキップしてそれらしい議論を展開するものとして丸山真男のエッセイ「歴史の古層について」を嘲笑しているが、私には、この「世間=神道」の謎が、その「古層」の謎と重なるものとして目に見えてきたのである。この疑問は、学界では、一時、「法皇」と呼ばれることもあった黒田の笑い声とともに、私の中に根づいた(先日のブログで書いた勝山の日本史研究会報告の席上で、私は、はじめて黒田を目撃し、「寺社権門というのは、集団勢力なのだ、寺社の荘園領有というのはトップが集団であるという特質をもっているのだ」と発言するのを聞いた。その時の記憶も忘れられない)。
 さて、また『かぐや姫と王権神話』のことだが、この本には、一切、黒田の論文は引用していない。しかし、歴史学の業界の人への送り状には書いたように、この本は、実は黒田俊雄の学説の部分的な批判を隠された目的としていた。その一つは丸山批判と関わる「権」=ハカリゴトの理解の問題で、これは秘かに黒田の「権門体制論」への批判の基礎を作ろうとしたものである。もう一つが、黒田の神道理解に関わるもので、つまり、黒田は、原始神話が、その本質を維持したまま、連続的に神道に変化していったという観念を強く批判しているが、その過程を具体的に論じていない。それを論じてみたいと考えたのである。その結果が、高取正男のいう「神道の成立」を八世紀・九世紀に認めるということになったことについては、おそらく黒田には批判があるであろうが、私は、ともかくも神話の世界からの神道が「自立」する過程を考えようとした。
 議論の中心は、「穢」と「忌み」の観念であって、その中心は、穢の観念が神話の段階と八世紀以降では明瞭に変わったということにあった。つまり、神話の段階では、「穢」は「禊ぎ祓え」によって消去することができるものであり、逆にいえば、「穢」が人間の営為の結果である以上、平田篤胤・西田長男が論じたように、「穢」こそがエネルギーの基であるという神話観念が存在した。人間の積極的な営為は、自然の中では「穢」として登場し、それが次のエネルギーの供給元になるというのは、神話的な世界観として当然のことである。
 それに対して、九世紀以降の神道は、都市的な衛生観念としての「穢」の除去を中心的な役割とする祭祀組織として神話世界から「自立」してしまった。それが神話時代においては、エネルギーとしての「穢」の中枢を担っていた、女性の「血穢」が、年宮廷社会の中で、習俗的に忌避されるにいたる過程を中枢としていたことはいうまでもない。
 この「穢」の観念の変化に対応して、「忌み」というもののもつ意味が変わってしまった。「穢」を内在化してエネルギーとするという意味での肯定的な物忌みのあり方が、社会の表面から消えていき、それはもっぱら禁忌そして現世の秩序への恭順という内容のものになっていき、しかも形式的・儀式的なものとなっていく。
 これは社会の表層から原始的なもの、母権制的なものが消失していく大きな歴史的変化だと思う。「穢」と「忌み」という形式は似ていても、その歴史的な内容はまったくことなったものになっているのである。そして、「忌み」は仏教的な「戒」によってその中身を与えられるようになっていくのだと思う。これは「戒」も「いみ」と読むことにふれて、『かぐや姫』でも論じたことである。
 ただ『かぐや姫』では紙幅の関係でとてもふれる余裕はなかったが、黒田の洞察力は相当のものがあり、黒田が「神国思想においては、このように原始的禁忌が中世的戒律の役割を代行し、かかる戒律が世俗に於ける伝統的支配に直結して領主制=封建国家の支配理念となりえたのである」(「中世国家と神国思想」著作集4,54頁)というように同じことをいっているのは重要であると思う。しかし、黒田は、その過程を追求することに成功はしていなかったと思うのである。黒田の立論からしても、この八・九世紀に神話の時代と異なる「神祇」「神道」が成立したことを跡づけることが決定的な意味をもつというのが、私の意見である。一般に黒田の議論は、構造論に優れているが、変化と移行過程の歴史的分析が弱いと思う。そこのところを少しでも補充できたと考え、長い間の黒田との対峙も意味があったという自己満足の日々である。
 もちろん、どんなに形式的・儀式的なものとなっていたにせよ、「忌み」というものそれ自体のもっていた思想的な意味を否定することはできない。こういう意味で、私は神社というものが今でも持っている思想信条としての意味を否定しない。
 この私の意見については、それは、結局、「神道=原始的、本来的な民族宗教」という一般的な図式と同じものであり、それを支えるものだという批判がありうるとは思う。しかし、私は、黒田自身、「土俗信仰」「共同体の素朴な信仰」、そして右の文章にいう「原始的禁忌」というものの意味、その民衆にとっての意味や思想的な意味を全否定しているとは考えない。黒田も、「忌み」という思想的な態度や感情自身は、超歴史的な価値をもっていたと考えていたと思う。人間のやることは、昔も今も変わらない側面があり、環境的な自然と身体的な自然、対象的自然と主体的自然の声を耳を潜めて聞くという態度それ自身は、やはり古い時代からも受け継ぐべき信条であり、思想であると思う。
 それを強調するからといって、神祇を超歴史的にとらえているということにはならない。歴史に登場した思想や宗教は、どれもその時代の制約の下にあり、我々はそのすべてをそのまま継受することはできない。そこに含まれる真実をくみ取るためにこそ、歴史学は宗教を相対化し、時代の制約を明瞭にとらえようとする。歴史学が取ることができないのは「神道が日本の民俗宗教として神話の時代から歴史的制約を超えて、他の影響を受けることもなく持続してきた。そして神道の「忌み」の思想に意味を認めるものは神道にともなう神話的な観念や政治的な観念を認めなければならない」という立場である。しかし、だからといって、「忌み」という態度それ自身を一つの思想的な遺産として受け止めてはならないということにはならないはずである。
 私が考えてきたことは、これまでのところ、黒田の肩の上にのって、見れるところまで見ようとしてきたということに過ぎない。学術と思想の原則に忠実な態度と、宗教的な見識や寛容な態度が共存させる黒田の強靱で複眼的な姿勢を受け継ぎ、少しでよいから、その先まで行ければよいと多う。

 以上は、昨日のメモを朝の電車と昼休みで書き直したもの。昼休みは終わり。
 下記に、『物語の中世』の序文の関係部分を引用して、自分のメモにしておく。
 本書が到達した方法は、中世の物語を「神話の世界」、「説話の世界」、「民話の世界」という三つの側面から解析し、全体として、この三つの世界の相互の関係のあり方を浮き上がらせることにあったといえるように思う。そこにあらわれた物語の構造は、「古代の神話」が、「平安時代の説話」に取り入れられ、さらに「中世の民話」に流れ込んでいくというような単線的なものではけっしてなかった。私たちの世代の歴史の研究者にはよく知られていたイタリアの哲学者、B・クローチェの『歴史叙述の理論と歴史』には、「(中世の到来とともに)人々は、あの古代的歴史家があの通りすでに解決し去ったところの神話と奇蹟との世界と、その一般的性格においてはまったく同一としか見えないところのある神話的・奇蹟的世界にまたあらためて再会する」という一節がある(岩波文庫、二二八頁)。黒田俊雄氏が、このクローチェの言葉を援用しながら、「中世は第二の神話の時代である」「神話は、いつでもそうだが、宗教よりは文学として発展した」などと指摘したのは、もう四〇年も前のことであるが(「中世国家と神国思想」、『黒田俊雄著作集』④、一九九五年、法蔵館、原論文は一九五九年)、たしかに、中世には中世の力をもった神話、政治的神話があり、それと説話・民話との間には独自の関係があったのである。
 とはいえ、そのような物語の三層の共時的な構造の重なりの中に、歴史の実態的な構造や運動の反映を透視するという方法意識は、実際には、本書をまとめる中で、はじめて自覚したものである。それ故に、本書は方法的な議論を無視したモノグラフの集積として成立したのであって、それが生産的なものであったかどうかは、読者の批判にゆだねるほかはない。また、私は、本書が、このような成り立ちからいっても、特に日本文学研究の先鋭的な仕事との対質をほとんど経ていないこと*1、その意味で、本書の「物語」の理解は、私という個人の限られた実証作業、そしてそれを規定した経験や感性という狭いフィルターを通して紡ぎだしたものに過ぎないことを十分に知っている。もちろん、こういう限界をこのままでよいと思っている訳ではないが、しかし、ともかくも、私にとっては、歴史研究の範囲の中で眼前に研究対象として登場してきた、「神話」「説話」「民話」の個別の分析を、それらが相互に関係する場を意識しつつ、あれからそれへと遂行するところから出発するほかなかったのである。

 「あれからそれへ」とやってきたというのは、実感であるが、黒田の「中世国家と神国思想」を、手に取った時、これは理解できそうな論文だと思ったのは、論文の注記にクロオチェの『歴史の理論と歴史』が引用されていたためであった。

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