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2010年9月 4日 (土)

歴史学の書棚ー千葉市立図書館

 先日、近くの市立図書館へいった。なにしろクーラーのない自宅は暑い。そこで、はじめて図書館に行き、閲覧カードを作ってもらった。そして、窓際のキャレルに何冊かの神話論の本を積み上げて、あっちこっちをみてみる。歴史・宗教と文学の書棚をみれば、研究状況をチェックするには便利である。広くて気持ちがいい。神話論の話は別として、ここでは図書館経験の話しである。

 キャレルを借りるにはどうしたらよいか、書棚な並び方はどうなっているのかなど、カウンターの司書の人が実に親切かつ自然に教えてくれる。図書館の建物はもう一〇年以上前には立っていたはずだが、まだまだきれいで新しく、明るく、気持ちがよい。自分が気持ちがよいだけでなく、司書の人々にとっても、これはなかなか格好のよい職場なのだということを実感した。予算と定員を削られ続けている東大の図書館とは相当違う感じである。

 もう20年近く前だと思うが、新卒で司書として就職した女性が、まず史料編纂所に配属されたのだが、「私の考えていた図書館と違う」といって、たしか三・四ヶ月で転任していったことがある。新任職員の紹介の時、抱負にあふれた人だと感じたので、ほとんど話す時間もなく、すぐに彼女がやめてしまったのは、なかなかショックな話しであった。

 市立図書館の綺麗な閲覧席で、このことを思い出して、はじめて彼女の気持ちがわかったと思った。私の職場の図書室は、歴史関係の図書室であるだけに、東大の図書館の中でも、日本史という狭い範囲の本や史料を管理する特殊な部局図書館である。しかも、おもな閲覧者は、全国の歴史研究者で、彼らが見に来るのは、史料それ自身か、あるいは史料の「複本」と称する影写本(薄い雁皮紙に墨筆で史料を敷き写しにした册子本)や写真帳(A4の印画紙に印画した史料写真をとじた册子)などである。
 こういう大学を通じた学界への奉仕というのは、たとえば市立図書館とは違って、いわば間接的で抽象的なもので、しかも歴史学者という人種は一般的に取っつきにくい種類の人々である。今から考えれば、彼女にとっては、イメージの中にある図書館との落差が大きすぎたのだろうと思う。向こうこそショックだったのだろう。
 
 さて、市立図書館で気持ちがよいのは、たとえば平安・鎌倉時代史の書棚をみると、自分の本や友人たちの本が並んでいることである。なじみの場所にきたという感じがするのがうれしい。歴史学という学問を、ここ40年もやっている訳だが、自分のやっていることが、どのように社会の中で受けとめられているのかということがわかりにくいというのは不安なものである。

 それは大きな書店の歴史関係の新刊書の書棚を見ているときとは違った感じである。新刊書の書棚をみていると、研究がどんどん進んでいるのがわかる。

 友人のI原氏は、自分の大著への批判に接して、著書が批判されて葉を落とされた「落葉樹」のようになるのは、研究の進展のために土壌を豊かにしていることを実感させるといっている。私などの著書は、最初から葉っぱがない裸の樹木のようなもので、土壌を肥やすことがない。根本的なところで、研究史を新しく進展させたかどうかについては自信がない。しかし、ともかくも研究史の流れに属している以上、このまま立ち枯れては申し訳ないと思う。

 そういうことを感じていると、新刊書の書店の書棚よりは、図書館の書棚の方が落ち着くのである。図書館の整理された書棚は、ともかくも研究史というものが存在するという気持ちにさせてくれる。

 図書館が学術書を蓄積してくれていて、それを読んでくれる人がいるということはありがたいことだと思う。それはいうまでもなく、図書館の司書が歴史学というような特定の分野についても、専門書の蒐書につとめていてくれるからである。市立図書館の書棚をみていると、その前提には司書の人々の相当のエネルギーと知識があることが明かである。

 大学図書館の位置は世界中で様々な形で問題となっている。もちろん、日本の場合は、大学予算が、この10年ほど削られ続けてきた影響が大きいが、それにしても、学術情報が大量化し、いよいよ細かくなり、しかも、本の形をとらないアーカイヴや電子ジャーナルなどを扱うようになっている。仕事の内容は、20年目の司書の仕事とは大きく異なってきていて、困難も多いようにみえる。

 しかし、おそらくその経験は、一般の地域図書館、自治体図書館にも有益な部分があるのではないかとも思う。たとえば、大学図書館と地域の図書館でネットワークを作り、専門書の書棚の目録を比較し、地域図書館の側では、何年かに一度、専門書の書棚で不足しているものを補充するというようなことができるのではないか。また、学術の各分野で組み上げられているデータベースの状況を大学図書館を通じて、地域図書館が受け入れるというようなことも可能なのではないか。学者との付き合いが日常的なだけに、面倒くさい点が多いだろうが、その経験が何かの形で役に立つことがあればありがたいと思う。

 編集者の人々によると、専門書の市場は、必ず500部を図書館が購入してくれれば、ともかくも成り立つものであるという。大学図書館と地域図書館は、現実にそういう形で接点をもって、学界と社会をつないでいる。それが何かの形でみえやすくなれば、大学図書館の社会的な意味もわかりやすくなるのではないだろうか。
 
 市立図書館の閲覧風景をみていると、日本の社会には図書館が根付き始めているのかも知れないと思う。

 私は高校時代には、東京の大田区に住んでいたので、大田区立図書館を利用した。高校の時に、世界史の授業で河野健二氏の『フランス革命小史』のレポートを書くためだったと思うが、分厚い学術書をはじめて手にとった。桑原武夫氏などの『フランス革命の研究』など、相当の冊数を借りた記憶がある。カウンターを入って左に進み、右に曲がると人文社会の書棚であったことも覚えている。

 誰も同じことだろうが、そういう全体を考えると、図書館にお世話になった時間というのは、意外と長い。そして、そろそろ定年も近いから、またお世話になることになるが、使いやすい図書館がそばにあるのは気持ちが明るくなる。 

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