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2010年9月18日 (土)

「つついづつ」と『井戸のある家』ー社会史と世界史

 先日、千葉県の佐倉の歴史民俗博物館に友人といった時に聞いたという、奥さまの話によると、歴史民俗博物館の展示で困るのは、(展示をする側が困るのは)、たとえば最近の子供たちが「井戸」というものを知らないということだそうである。
 
せっかく模型で「井戸」を作っても、それが「井戸」であるとわからなければ、あるいは「井戸」という言葉を知っていたとしても、どういうようにして水をくみ上げるものか、どういうように使うものかということを実感として知らなければ、井戸の模型をみても、それは単なる風景に過ぎず、子供たちにとって意味をもたないというのである。考えてみるとあたりまえのことなのかも知れないが、そこまで来たかという感じがする。

 そういえばということで、我が娘のことを考えても、私の家のまわりには「井戸」はなく、うっかりすると、彼女も「井戸」というものを見たことがないのかも知れない。「井戸」から水を汲んだことがないのかもしれない。(今日、娘が、暫時、帰ってきたので聞いてみたら、やはり「汲んだことないよー」ということであった。「だって、どこで汲めっていうの」。ただ、トトロのアニメで、さつきちゃんが井戸のポンプを動かして、「おばーちゃん、出たー」といっていたと、声色をふくめて教えてくれた。大学生になってもそこまで覚えているのだから、トトロ様々である)。

 私たちが小学校の頃までは、各家に井戸はあったはずで、私も、古い井戸ポンプを使って、ギーコ、ギーコと水を汲まされた。古いポンプは丸い筒型の曲線的な胴体をもったものだったが、それが直線的な作りでギーコといわないスムースな「近代的」なものに変わり、さらに電動ポンプに変わったのは、いつ頃のことであろうか。
 「こういうことも、今では当然のことではないのか」と気づいて書いているのだが、小学校の頃の私の役割の一つに、井戸水を汲んで風呂桶を一杯にすること、そして風呂のための薪をナタで割ることがあったのを思い出した。私などは貧乏人の出だからということなのかもしれず、同世代の人たちがどうしていたかは知らないが、ともかくも井戸のある風景というのは、普通のことであったと思う。
 私が育った祖父の家の裏庭はたいへんに狭かったが、近くの友達と、そこで水遊びをしたことを思い出すから、井戸端は遊び場でもあったということになる。この「井戸端」という言葉も、「井戸端会議」という言葉も今では死語なのであろう。
 私は、最近、復刊してもらった『中世の女の一生』という本の中で、平安時代だとだいたい一二・三歳の頃に行われた女性の成女式を論じて、『伊勢物語』(二三段)の「つついづつ」の歌物語について次のように書いたことがある。
 中世の庶民女性の成女式としての髪上げの実際を語る文献史料はまったく存在しない。ただ、髪上げについてもっとも早く、かつ有名な物語史料のは『伊勢物語』(二三段)の「つついづつ」の歌物語であろう。この歌物語は、地方役人の子どもの幼ない恋を歌ったものである。男が
  つついづつ いづつにかけしまろがたけ すぎにけらしないもみざるま
筒井筒をみると、背比べをして井筒(井戸枠)に届くかどうかと遊んでいた頃のことを思い出す。私の背丈は、あなたをみないでいる内に、いつのまにか井筒の上をこしているよ。
と歌いかけると、女は
  くらべこしふりわけ髪も肩すぎぬ 君ならずして誰かあぐべき
井筒のまわりで遊びながら、あなたとくらべあったこともある私の髪も、肩をすぎて背中に届くようになっています。髪上げをするならばあなたのためにしたいと思うようになったこのごろです。
と唱和したという。どこでも井戸の回りは子供の遊び場であったから、この『伊勢物語』の話に民衆的な髪上げの通過儀礼が反映していたと想定することは許されるのではないだろうか。
 井戸が子供の経験の中から消えていくということは、たとえば右の『伊勢物語』の一節を中学校の教材にするときに、それに対応する子供の経験が失われていることを意味する。「幼い恋」ということを教えようとしても、井戸端遊びの経験がないのでは決定力を欠く。
 こういうことはやむをえないことであるとは思う。また私たちの世代には「昔を懐かしむ」というような感情がある訳ではない。
 しかし、たとえば風呂を焚きつければ、火のおこし方を知るようになる。そして風呂の焚き口のところで、毎日、燃える火を眺めていれば、火というものについての原始的な感情が身体に記憶される。私の「火」のイメージは、子供の頃の、薪の白い肌をなめながら燃えついていき、広がっていく「赤い火」の記憶にどこかでつながっているはずである。こういう記憶と経験がない人間というものは、やはりある種の欠落を抱え込むのではないだろうか。すくなくとも、こういう経験のない人間には、たとえば新川和江さんの詩、「水のオード」「火のオード」「土のオード」などは読めないのではないだろうか。ネルーダの詩が読めなくなるのではないだろうか。
 このような欠落は、世代間の関係としては、どの世代にもあるものであろうが、二〇世紀に進展した「欠落」はきわめて大規模で根本的なものであった。それをどのように補充するかということは長期的にみると、人類や民族の文化と生活の継続性ということを考えていく上で重大な問題だと思う。しかし、こういうことを歴史学はどう考えたらよいかと考えてみると、わからないことが多い。
 もちろん、私たちが、いわゆる「社会史」という形でやってきた仕事は、この種の文化の継続性を維持するための基礎作業であった。それを学校教育における教材として生かすことができないかというのは何度か論じたことである(「歴史を通して社会をみつめる」『シリーズ学びと文化』④共生する社会、東京大学出版会、1995年)。ただ、これらを書いた時は、「井戸」というものをみたことがない子供たちが大多数となるということまでは考えていなかった。現状をもう一度捉え直して考えるべきことは多いと思う。
 その場合、私たちの世代で、「社会史」の仕事に興味をもった歴史家が、ほぼ共通して考えるようになったのは、日本の前近代の生活文化を考えるためには、外国の異文化、とくに東アジア前近代の文化全体を、どうにかして視野におさめなければならないということであったように思う。たとえば「井戸」というような昔の風物、前近代から残っている風物や民俗を、より広い視野で、つまり世界史や東アジアに開かれた視野で根本的に考えなければならないというのは、折りにふれて仲間たちと話したことである。
 そもそも、異文化といえば、子供たちには、日本の過去の「異文化」も、世界各国の「異文化」も、異文化という点では同じレヴェルで並んでしまうということになっている。片方の異文化のみを考えるということは、事実上、無意味になり、根本的にいって、説得性をもたない時代が来ているのである。
 私は、以前、「鉢かづき」姫の民話の分析をした時に、このことを考えさせられた。つまり、「鉢」をかぶるというのは、二つの意味がある(「秘面の女と鉢かづきのテーマ」『物語の中世』)。つまり、第一は、今でも雲水姿をした僧侶が「鉢」をもって乞食をしているように、これは乞食の風習であり、姿である。しかし、第二に、女性が「鉢」をまぶかくかぶるというのは、完全な「秘面」を意味し、それは完全な処女性を含意する。そもそも、平安時代・鎌倉時代において、貴族の女性であるということは街頭で顔をみせずに、「被衣」によって秘面を維持しているということを意味したのである。こうして、「鉢かつぎ」というのは一方で乞食という賎民性、一方で完全な秘面という意味での貴族的処女性の二つを含意しているということになる。だから、「鉢かつぎ」の民話を実感的に理解するためには、女性にとっての「秘面」というものが何を意味したのかを了解していることが必要になるということなのだが、現代の日本の女性にとっては、「秘面」はアラブのチャドルしか存在しなくなっている。
 「秘面」という異文化の理解のためには、たんに日本の過去の民話を素材とするのではなく、イスラムの文明の理解を媒介にして了解するという通路を歴史学の中に用意することが必要になるのである。
 この「秘面」の問題はあくまでも一例であり、世界各国の「異文化」と日本の過去の「異文化」が同じレヴェルで並んでしまうという事態はきわめて多いと思う。こう考えてくると、歴史学が過去の文化・文明の継続性を維持しようという場合、つまり歴史学が過去を了解しようという場合、それは本質的に世界史のレヴェルでないと有効性をもたなくなっているのではないかという疑問に突きあたるのである。歴史家は、日々の仕事の中で、いわばこの種の認識論のレヴェルでの省察を要求されているのかもしれないと思う。

 こういう仕事をしていく上で、どのような感情をもったらよいのかということを、津島祐子さんと申京淑さんの往復書簡集『山のある家・井戸のある家』(集英社)を読みながら考えてみたいと思う。この往復書簡集は、奥さまに井戸の話を書いていることを話したところ、お奨めのもので、「井戸のある家」とは津島祐子さんがお母さんと住んだ家、「山のある家」は申京淑さんのソウルの家のことである。
 ここでは「井戸のある家」についての津島さんの文章の静けさを紹介すると、「母の喜び、悲しみにもし、今からでも近づくことが許されたらと願い、この家に残されている井戸の水にときどき、手をぬらしてみます」「東京の町中の家にある井戸は、水を桶で直接に汲む田舎で見慣れた形のものではなく、長い鉄の柄を上下させる手押しポンプに変わっていましたが、それでも井戸は井戸です。地下から豊かに湧き出る井戸の水に手を浸すたびに、母は自分の早くに死んだ父や兄、姉たちを呼び戻し、その声に耳を傾けていたのかしら、と私は想像したくなります」「喪失の認識があるからこそ、私たちは失われた貴重な時間を自分の時間にたぐり寄せ、その価値を知るわけですし、自分が幼かったころの日々を個人的な『神話』のように自分のよりどころにして生きつづけている」。私たちの子供たちは、「井戸の風景」をもたずに、そういう個人的な神話の風景をどのように確保しているのだろうか。「過去」と「喪失」をもたずに、どのような「再生」が可能になるのだろうか。
 津島さんと申京淑さんの対話が美しいのは、異なるものでありながら、おのおのにとって痛切な意味をもつ心象神話としての「井戸」や「山」をもっているからであろうと思う。

この過去の剥奪を特徴とするグローバル化の時代に、たとえば東アジアの隣国の人間相互の間で、こういう心象の根っこのところでの相互理解というものを作っていくのに、歴史学は何ができるのか。
 歴史学はおそらく、心象の内面それ自身には関われない(あるいは関わるべきではない)と思うが、しかし、歴史学の仕事のあるべき姿を文学の力をも借りながらゆっくりと正確に考えてみたいものだと思う。

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