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2010年10月

2010年10月31日 (日)

この世の果て、「天の壁」ー勝俣隆氏の神話論

101031_122910 日曜は雨。朝、自転車ででる。写真は公園の雨模様の木。川沿いの林の下の道を通っていた時、一瞬、日がさして、道が木漏れ日で照らされる。湿気のある空気の中の落葉の道は、千葉出身の浅井忠の絵の雰囲気である。 

勝俣隆氏の神話論、『星座で読み解く日本神話』(大修館書店)で興味深いのは、日本の神話的な世界像において、「ドーム状の天の層と、天に開いた穴としての星」というの観念が前提になっているという、同書第十章で展開された議論である。私は、氏の議論をどう考えるかは、この章をどう読むかによって決定されると思う。
 勝俣氏は、ウノ・ハルヴァ『シャマニズム アルタイ系諸民族の世界像』の「天は、天幕の屋根状に大地を覆うもの、あるいは大鍋を伏せたような半球状をした堅固なフタと観念された」という一節を引く。
 そして『延喜式』の祝詞(祈年祭)の「皇神の見はるかし座す四方の国は、天の壁の立つ極み」という一節を引いて、「天の壁」(あめのかき)というものが四方の地の果て、海の果てに立っていると観念されていたことの証拠とする。『延喜式』は九世紀の史料ではあるが、この祝詞の原型は古くにさかのぼるものであるといってよい。それ故に、この「天壁」という観念を前提としてよければ、日本にも、アルタイ系の世界像が存在した。つまり、中央の天は高く聳え、そこから徐々にくだっていく先に天壁があったのであろう。そうである以上、天の中央と天壁からなる天蓋は、天幕状、ドーム状に地を覆っていたと考えられていたに相違ないということになる。
 また、『播磨国風土記』の託賀郡条は、昔、「大人」が南の海から北の海に旅をし、さらに東から巡行してきたという話を伝えている。これは人々が神を巨人と考えていたということを示しており、いわゆるダイダらボッチの伝説の原型とも考えられるものである。問題は、この神話に、この巨人が南・北・東を歩き回った時、だいたいは天が低いので、背をかがめて歩かなければならなかったが、この託賀郡では「天が高い」ために「伸びて行く」(背を伸ばして歩いていける)ことができたという。この「南の海」「北の海」を勝俣氏のように瀬戸内海・日本海と考えるのか、世界の周囲を取り巻く海と考えるべきなのかは、すぐには断定できかねるが、ともかく、これも国土の中央部の天が高くなっているという観念の反映であることはいえるのだろう。
 そうとすると、「天地の寄り合いの極み」などという想像、つまり天地はずっと向こうで接合しているとい観念は、こういう世界像の一環であるということになる。あるいは逆にこういう天地接合の常識的観察からドーム状の天という世界像が帰納されたということなのかもしれない。
 神話研究の現状をよく承知していないので、確言はできないが、この列島に存在した神話の世界像としては、これまで西郷信綱氏のいわれたこと、つまりむしろ「根の国」といわれる地中世界と「海坂」「海堺」といわれる海の果ての様相をどう考えるかということを中心に議論されてきた。それ故に、もし、この勝俣氏の議論が成り立つとすると、いろいろなことを考え直す必要があるということになるように思う。
 もう一つ、勝俣氏の議論で、これに関係して興味深く思ったのは、天のドームには厚さがあると考えられており、「星」はそこに開いた穴であると考えられていたという指摘である。
 さきほどは一部引用にとどめたウノ・ハルヴァ『シャマニズム』を全文引用すると、「天は、天幕の屋根状に大地を覆うもの、あるいは大鍋を伏せたような半球状をした堅固なフタと観念された。星はその天幕や半球状の蓋に開いた穴であって、そこから天上界、神々の世界の光が差し込んでいると考えた。(中略)星々の中でもスバルは寒気が流れ込んでくる空気穴、北極星は神々が天地を出入りする通路と観念されている」という訳である。勝俣氏は、これを前提に議論を組み立てている。
 つまり、天蓋に開いた穴には深さがあったはずだというのである。実際、天若日子が天にむけて射た矢が、天蓋を貫いて天界に戻ってきた。それを怪しんだ高木神(タカミムスヒ)が、その矢を「その矢の穴より衝(つ)き返し下した」ところ、寝ている天若日子の胸に突き刺さったという。勝俣は、この神話で、「天」に「穴」があくという一節があるから、天がただの薄膜ではないとすれば、一定の長さのある穴が、天蓋に通ったと考えられていたという訳である。
 私が面白いと思ったのは、この天に一定の厚さがある。星はその天に開いた穴であるという観念があったからこそ、星が古語では「つつ=筒」といわれたという説明である。宵の明星を「夕星(ゆうづつ)」という美しい言葉の説明が、これで可能になる。これは鉄案ではないかと思う。
 さて、ここからは飛躍であるが、竹を「筒木」というという観念も、ここに関係しているのではないかというのが、私の想定である。竹を「筒木」というということ自身が、『かぐや姫と王権神話』の執筆の中ではじめて想定した私見であって、学界では確認されていない見解であるはずなので、そこまで論ずるのは早すぎるかもしれない。それ故に、以下は飛躍なのであるが、そもそも、「筒」、中空の筒というものを、当時の人々が何によって知ったかというと、やはりまずは「竹」なのではないかと思う。それ以外に中空の筒というものが自然界に存在するであろうか。
 こう考えると、天蓋に開いた穴を筒と呼称するのに、竹=筒木からの連想はなかったのかということが問題になるように思う。つまり、民話に出る「竹によって天を覗くという観念」を間にして、星と竹というのは、そもそも深い関係があったのではないか、七夕と竹というのは深い因縁があったのではないかということである。かぐや姫が竹に宿ったというのも、そこに関係があるのではないかということである。「天と地を媒介する存在としての竹」という観念が存在したのではないかということである。天を祭り、星を祭るにあたっての呪具=竹という訳である。
 そして、私は、こういう神話的な観念は、東南アジアの太く高い竹、その存在を前提として考えざるをえないのではないかと思う。こういう竹の神話、たとえば竹が割れて、その中から神人が誕生したなどという神話が、東南アジアに分布することは右の新書でも書いたが、それがアルタイ系の神話に入り込んだのが「つつ=星=筒=竹」という連想観念なのではないかという訳である。
 さすがに、神話論を独自にやっていない人間が、ここまで『かぐや姫』で書くのははばかられたが、しかし、勝俣氏の仕事を前提にして神話論を考え直す余裕があれば、今後、考えてみたい問題である。
 私は、世界史というものが書かれるべきであるとすると、人類史のある時代、神話的な世界観というものが現実に存在したことを重視せざるをえないと考えている。神話が現実に存在して人々を動かしたということは、それがたんに偶然的なものではなく、人間の精神的進化に深く関係する必然性をもって存在したものであるということだろう。
 これは一般に認められることであろうが、その先の分かれ道は、たとえば大林太良氏の仕事を読めばわかるように、世界各地に広がる神話は奇妙な共通性をもっている。これをどう考えるかという問題になるのだろうと思う。
 普通の考え方は、「人間はどこにいても同じことを考えるものだ。原始・未開の人々は愚昧だからいよいよ同じことを考える。それ故にこれらの一致には大きな意味はない」というものであろう。そこに何かの意味を求めるのはあやしい話だという訳である。こういう考え方は、神話学というものへのもっとも一般的な無視の形態であるが、歴史学者が神話学を敬遠しがちなのは、もちろん、歴史学者が、その職責上、学者の中ではもっとも懐疑的な人種であるからではあるが、同時に、こういう考え方に引かれている部分もあるのではないだろうか。
 しかし、やはり、世界各地の神話は、実際の人間の移動と文化の継承関係、世界的な連動性を背景にしていたと私は考える。つまり、世界観としての神話はしばしば諸民族・諸地域間で共有され、広がり、変容していった。私は、神話はそういう意味で、人々を突き動かしていった現実的なイデオロギーであったと考える。彼らは、その意味でやはり人間であって、この世界の成り立ちの神秘、「われらどこからきて、どこへ行く」という問いをもつ存在であり、そのような存在して生き、思想を伝え合っていたと考えるのである。
 神話は、現代の科学と同様、やはり、当時における一種の世界的なイデオロギーであった。はるか昔の人類も、異人種と遭遇した際には、そのような思考形態をもったものとして相互に認識しあったということになる。いわゆる類的存在としての相互認識があったということになる。
 一言でいうと、神話は自然崇拝の形態である。自然崇拝は、まずは主体的自然の崇拝から始まった。つまり、地母神とエロティシズムの世界から始まったが、対象的自然に展開すると同時に、本当の神話の世界が始まった。人々は、このイデオロギーに導かれて世界認識を鍛え上げていった。神話は、そのような段階において産まれた世界的なイデオロギーである。それは世界宗教が登場するまで、強力なイデオロギーとして人類史の動きを左右していた。もちろん、神話は世界宗教が登場した後も様々な形でそのようなものとして残り、つねに再生しようとしたこともいうまでもない。
 そして、日本神話は、その波及の中で、おそらく一番最後にほぼ同時代的に記録されたものとして評価できるということは確実だろうと思う(北欧神話の記録は実際の神話時代との時間差は大きい)。そしてそれがアルタイ系の神話、さらに中国的な神話、さらに東南アジアの神話の影響を複合的に受けたものであることは否定できないだろう。それらは、日本列島に住んだ人々が、やはり特定の観念をもって渡来してきて、生きたということの証拠ではないかと思う。
 記紀神話に政治的な作為性が濃厚であり、たとえばそれをどのように歴史教育の中で利用するかについては、戦前の教訓からいっても注意しなければならない問題であるということは明かである。しかし、それと、現在、神話というものそれ自体を人類史にどう位置づけるかということとは違う問題だろうと思う。
 さて、「天壁」ということで思い出すのは、ナルニア国物語の一冊『朝びらき丸 東の海へ』の最後の場面である。私がでた国際キリスト教大学のいま同窓会会館になっている場所に、以前あった荒井副牧師のお宅で、大学の2年の頃、没頭して読んだことを憶えている。
 同書16章「この世のいやはて」の場面である。ここは海の果てであるが、この海の果ての風景は、『ゲド戦記』でゲドが行く果ての海のイメージのもとになっているものだと思うが、ここでの問題はその向こうにみえるものである。
 「エドマンドたちが見たもの、東の方、太陽の彼方に見たものはー一つの大山脈でした。その山脈の高いことといったら、その頂上はみえませんでしたし、見ても忘れてしまうほど上の方にありました。そしてだれ一人、その方角に空をみたことはないはずです。その山脈は、実際のところ、この世の外にあったのに違いないのです。というのは、その山の四分の一か、あるいは二十分の一ぐらいの山でも、雪や氷をかぶっているべきものですのに、それほど高く見えるにもかかわらず、暖かくて緑に覆われ、森と瀧がふんだんにありました」。これが、シンクレア・ルイスの描く、「天の壁」のイメージである。
 ルイスが、さらにこの場所の原野を次のように描写していることも興味深いと思う。「三人がその原をどこまでも歩いていくうちに、ほんとうにここに大空が下りてきて、大地とつながっているのだという、この上なく不思議な感じをうけました。この大地につづく空は、何にもましてすきとおったガラスのようで、とてもあかるくきらきらとかがやいていて、そのくせ、手応えがあり、夢ではないのです。そしてまもなく、三人はたしかに空が大地につながっているのだとわかりました。天地の合するところは、もうすぐそばにあったのです」。
 こういう神話的な想像力というものは、いまにいたるまで、伏在しつつ流れているということになる。

2010年10月28日 (木)

乳離れのできない歴史家

 これは家の庭のカリンの実。机に置いておき、さわるとにおいがよい。
 今日は休み。来週・再来週と駒場で授業をせねばならず、今日は自宅で準備をしないと間に合わない。
 駒場の授業は海洋アライアンスという東大の海洋学関係の大プロジェクトが教養学部生のために組織した文理融合の授業。この間、一年に一度、授業をしている。
 史料編纂所の所長をしていた頃、理系の部局長と気があって、色々なところへ行った。これはありがたい話で一種の役得であろうが、『かぐや姫と王権神話』では地震研の前所長O教授が文学好きなのを知っていて火山について教えてもらい、東北大学の谷口先生を紹介してもらった。
 海洋研とはとくに縁が多く、その関係で動員。しかし、ずっと授業をしていない上に、最近は海の研究からは撤退状態なので、話の組み立てが大変である。授業で立ち往生というのは、何度かやったが辛い経験。
 一回は去年と同じ話、「日本の海洋史と漁業」の概説で許してもらうが、一回は考え直さなければならない。河と海という話にしようか。ウナギの話で史料を読ませるか。いっそ「海の神話」ということを考えるか。これが今日の計画である。今日は雨。図書館にも行けない。
 しかし、そもそも私は授業がうまくない。これはどこら辺で学生と共通の興味関心をもてるかということについてのセンスがないのだと思う。大学院のゼミから撤退したのも、私なりの周辺事情はあるが、授業・ゼミにストレスがあるためだろう。
 そんなことをいうと、学部の先生からはブーイングだろう。先日も古い友人が来て、いかに私立大学の学部の研究者生活がたいへんであるかを力説。翌日、翌々日の予定が立たないのだという。彼も色々な管理職が多かったし、現在もそうだから、彼のいう通りであるとは思う。彼は、私と同室であって、編纂という仕事がどれだけ大変かを承知しているからなかなか反論はできない。彼のいた頃よりも、データベース事業を開始した史料編纂所は、多忙さが倍増以上しているといっても、仕方ない。同じく史料編纂所から転出した人が、これでコンピュータに関わらなくてよいと思うとほっとするといっていたのも記憶に新しい。ぶつぶつ。
 ただ、性格的なストレスということを越えて、授業というのは受け売りをする訳にはいかないというのが、私にとっては一番難しいところなのだと思う。私は、ようするにいわゆる「戦後歴史学」、つまりいわゆる「中世史」でいえば、石母田正氏に始まり、稲垣・永原・黒田・網野・戸田・石井・大山・河音などの諸先輩が担った学派にべったりの存在である。私は、その乳に吸い付いて、未だに離れることのできない存在でしかない。六〇を過ぎて乳離れのできない研究者などは冗談にもならないが、歴史学に「突破」はないので、勘弁である。
 私は、実際に彼らが面前にいる時に、その圧倒的な集団的影響力の下で研究者の途を歩んだ。自分の研究は、あくまでもその一部としての意味しかないこと、彼らの諸説の相互に矛盾する点をつき、かいくぐり、突きくぐりということをしていること、よく言えば、その総合から乗り越えを狙っているに過ぎないということを自覚している。ようするに受け売り研究者、エピゴーネンである。
 授業というのはその研究者の人間と本質が現れるものだと思う。「学問をなんのためにやっているか」が現れるものだと思う。ところが、私が授業でできるのは、根本的には受け売りである。受け売りをされる側が、元売りのことをよく知っていれはよいが、そうでなくては面白さはないだろう。しかも私の場合、「戦後中世史学」のホームグラウンドの平安時代・鎌倉時代初期の専攻である。戦後歴史学の全体を理解してくれなくては、ほとんど授業内容は意味がないはずである。
 しかし、学生にそれと同じ立場に立てということはできない。「戦後歴史学」が終焉状況に入っているのは認めざるをえない話だ。再生の道は、受け売り研究者にはわからない。彼らは彼らで、これだけ大量の研究が存在する中で、しかも研究職の途はほとんど閉ざされている中で、彼らの苦闘をしている。私などは、戦後歴史学の乳に吸い付くのに、高校時代以来からの経過があり、そのトラップにはまったことが自業自得であることを理解しているが、彼らにはそんなものはない。
 私のような不器用な人間には、結局、編纂と教育の二枚がけはできない。最後の大学院のゼミのメンバーにはいいたいことはいったし、あとは、私の仕事を論文で読んでもらう以上のことはできない。これ以上、彼らに役に立つことは出来ないということを確認してゼミをやめた。
 さて、しかし、海洋アライアンスの授業では何をやるか。昨年はレポートの時に、一部、コピペにみえるものがあって往生したが、そういうことがないようにするにはどうしようか。受け売りとコピペは違うぞという話でもしておくか。
 河音さんの奥さまから、解説執筆についての礼状が届き恐縮する。

2010年10月26日 (火)

河音さんの著作集第三巻『封建制理論の諸問題』発刊


 河音能平さんの著作集の第三巻が、昨日、届いた。私は解説を書いたので、人より早い。全体は来週の手配になるという文理閣の黒川さんの手紙付き。彼女曰く、「一番厚みのある巻ですが、(既刊の二巻と)背中をそろえると堂々たるものだと、一人喜んでいます」と。彼女とは校倉書房のYさんと一緒に一度飲んだことがあるだけだが、この本を出すことを本当に喜んでおられるのが伝わってくる。

 表紙は「カバーデザインに使用したのは、河音先生のおみやげとして高橋昌明先生が提供してくださいました」ということ。

 今日朝、この本を読みながら来たら、東京駅の地下鉄で中国史のSS教授とばったり。私の「封建制概念の放棄」というのはどういう意味かという話になる。これは再検討ではなくて、「放棄」ですという。彼は「単系発展段階説、四段階学説」が国家学説になっている状況をどう考えるかが気になると。

 国家学説などがあるのが全体主義の証拠なのだが、それも一つの社会構成という持論を説明すると、それは過去を見ないと全体主義というものはわからないということかと。考えてみると、それはその通り。これは面白い示唆をいただいた。全体主義はある意味で、つねに社会の過去への固着なのかもしれない。

 教授は、ともかく、「単系発展段階説」は発展段階論者が内側から崩してくれないとどうしようもないという。お答えは、この本の解説に書いたようにここ50年やっているのだが、なかなかうまく行かない。結局、社会状況のカオスとネットワークの現状を認め、そこからさかのぼって、多様なルートと社会類型を設定するほかない。全体説明は宮崎市貞氏のような議論に依拠した上で、もう一度、その多様性を説明できる経済史の基礎範疇の検討から出発するほかないと、さらに大塚久雄先生の話。

 15分でも、いろいろな話しができるものである。

 話していて、今日はパンを買わなかったので、昼、今から食事にでる。

2010年10月25日 (月)

中村医師、ペシャワール会代表の講演会


 写真がうまくとれなかったが、10月24日(日)、夕方から千葉駅前のパルルホールで、ペシャワール会の中村哲医師の講演会があった。中村医師は、掛け値なく尊敬する人である。
 昨年も、千葉で行われた講演会にいって御話しを聞いたが、伊藤さんがなくなられて、まだ間もない時期であったこともあるのであろうか、その強い意志が伝わってくるような感じがあった。今年は、大画面のヴィデオもつかって、ペシャワール会の事業を順をおって話されたためもあるのだろうか、ときどき冗談もはさんで、昨年よりも淡々と話されていた。
 たしか、昨年は、ジャララバードの25キロにわたる灌漑用水路の完成を目前にしての御話しだったように思うが、今回は、ある形で仕事の目処がついたという若干の安堵もおありのようにみえた。ただ、7月下旬の100年に一度という大洪水で取水口がこわれ、修繕工事で活動していて、3日前に日本に戻ったということだから、たいへんな状況は変わらないのだろう。
 私は、中村医師の本を2年ほど前から読み始めた。驚いき、かつ歴史家として考えなければならないことが多いと思ったのは、灌漑水路にからむ二つの問題であった。第一に、カレーズと呼ばれるヒンズクシ山脈からの潅漑用の長大な地下水路、横井戸が崩れ、壊れているということである。これは地球温暖化の中で、ヒンズクシの雪が少なくなり、地下水位に変化が生じたためと聞いたが、このカレーズ(カナート)は、紀元前後からユーラシア中部から地中海近辺で設置されるようになった潅漑水路であって、この地域の繁栄は、これにともなう一種の農業革命によるものであるという見解がある。イスラムの勃興といわれる事態も、これが背景であったということであったと思う。それが、今、崩れはじめ、アメリカのアフガン攻撃の直前の大飢饉をもたらし、さらにその上を戦争の惨禍がおおうという事態は、世界史全体のことを考えざるをえなくさせる。
 第二にショックであったのは、潅漑井戸掘、カナート修理をやってみた上で、中村医師がそれらではむずかしい点があることを確認し、潅漑水路網の再建は地表水の利用のほかに手はないという結論となり、その工事のモデルが、医師の故郷の筑後川の山田井堰にもとめたということである。その経過とそれが成功したことについて、中村医師の本、『医者、用水路を拓く、~アフガンの大地から世界の虚構に挑む~』(1,890円(税込)、石風社)で読んで本当に驚いた。私は、結局、研究史的なノートを書くだけで終わっているが、平安鎌倉時代の潅漑水路に興味があり、史料を集めていたことがあるので、他人事ではなかったのである。
 今回の講演会で、中村医師が、「われわれは日本の産業と経済の発展を、すべて明治維新以降の近代化によると考えているが、しかし、これをみると、すでに江戸時代に相当の智恵と技術を自然との関係で獲得していたのではないか。ともかく規模は違うが、アフガンと日本の川は似ている。同じ潅漑技術が通用する。斜め堰と蛇篭その他の日本の潅漑水路の技術がアフガンで通用する。しかし、典型的な斜め堰は、現在、山田井堰しか日本全国に残っていない」とおっしゃっていた。ヒンズクシのカナートから日本の斜め堰まで、この実感の力を前にすると日本の歴史家は何をやっているのだという感じをうけるのはやむをえないと思う。
 中村医師は、さらに、アフガンのことについて、アフガンは日本人にはもっともわかりにくい国だ。それは第一に国境がない。第二に国家は実際上存在せず、自給自足の諸部族の割拠政治の上に名目的にのっているだけという事情によっていると述べた。
 後者については、もう一度よく考えてみたいが、私も前者のことは知っていた。つまり2000万のパシュトゥン民族が、アフガンとパキスタンの国境をまたがって住んでいる。これがセイロン、バングラディシュ問題などの同じくインド周辺の状況とあわせて、どういう影響を及ぼすかが、20世紀後半のインド亜大陸の政治と経済の運命に関わっているという見通しを述べたのは、はるか昔、大学院生の頃にインド史の中村平治氏の歴史科学協議会の大会報告であった。
 これは歴史学もそれなりの見通しの力をもっていたことの証明であるが、それ以降、すでに40年近く。歴史学がどのような意味での有効性をもってきたか。考えなければならないことは多いと思う。
 講演会で驚いたのは、終了後、売店をのぞいたら、高校時代の恩師の世界史のY先生がいらっしゃり、中村医師の本の販売をされていたことである。東京の西からわざわざ千葉まで来られるのに頭が下がる。講演会の最初に澤地久枝さんの「私たちは少数派かもしれないが、うまずたゆまず仕事を続けなければならない」というメッセージが代読されたが、私なども高校時代以来の少数派である。しかし、そこにいけば、誰か、慣れ親しんだ人々にあえるのがうれしい。
 先生に御挨拶をするために、待っていたら、妻は気がつかなかったが、中村医師が目の前を通った。精悍な雰囲気は争えないが、本当に背の低い方だった。

2010年10月24日 (日)

歴史学の「共同研究」は可能か-ー見果てぬ夢

 今、朝6時30分。

  歴史学にとって「共同研究は可能か」というのが、長い間の問題であった。20代の頃の歴史学研究会中世史部会での活動では、共同研究を目ざしてというのが合い言葉であった。それは歴史学のもつ社会的責務についての意見の親近性や、歴史学方法論の親近性、そして研究史のとらえ方の親近性を条件としていたのだと思う。そして何よりも自分たち自身が形成途上の研究者であったということである。研究を広げていく上で、研究仲間がいるかどうかは決定的である。
 私は、そのあと、共同研究は難しい、個人個人で担うほかないというように流れてきたが、かぎられた人間をこえて親近性を広げることが実際上は難しい以上、これはやむをえないことであったと思う。「共同」を意識した世代の仲間意識は残ったが、各々が自己の信じる方向へ進むほかなかった。
 とくに研究史のとらえ方の親近性のレヴェルの維持は難しかったと思う。あの頃の中世史部会には永原説、戸田説から安良城説、そして懐疑説まですべてがいたが、それでも研究史のとらえ方の親近性は成立していた。それはようするに、永原・戸田・安良城・黒田・稲垣そして網野・石井などの「戦後歴史学」のリーダーたちが、目の前にいて、彼ら自身が相互に密度の濃い親近性をもっているのが、我々にもよくみえたからである。こう並べてみれば、みんな亡くなっている。
 それでも「共同研究」という言葉はキーワードであり、アポリアでありつづけた。そこからの走り方の一つとして、私はともかくも歴史的遺産の共有、文化財の保護と歴史情報の共有ということをメインにおいて行動してきた。とくに歴史情報学による歴史情報の共有と、その上に広がる「共同研究」ということは、職場の関係もあって、まわりに迷惑をかけながら動いてきた。

 上記は、さっき、遺跡保存運動の古い友人の宮瀧交二氏が「パソコンに向かうことが研究だと勘違いしてはならない。歴史学という学問が、人と人との交流を基礎とする共同研究でもある」といっているのを読んで、考えたことである。今度あったら、彼には、「パソコンの向こう側に蓄積されるデータをどう作るかも、共同研究の条件なのだが」といってみよう。しかし、それにしても、現在の歴史学は、どのような「人と人との交流」を提供しているのだろうか。これが根本問題であることは宮瀧氏のいう通りである。

 さて、ブログは、私の外部脳としてのPCデータの内の即時公開部分の一つである。PC外部脳の構造性・統合性は、現在のところ、ファイル構造としてしか存在しないが、これはデータインテグレーションのソフトウェアが発達し、PC内データの相互関連性がキーワードのコンテキストを含んで形成されることになれば、PCの研究データを半分は自律的に統合することが可能になるだろう。PCを前に仕事の全領域を眺望しやすくし、仕事の連続性を補助するソフトウェアはかならず発達するはずである。いつか情報学のA石先生がみせてくれた、大量の文章をアップすると、そのキーワードとキーワードのコンテキストを、糸で結ばれた群雲の刺繍のように画面一杯に表示し、そこを入り口としてテキストそのものの処理に移行できる、データインテグレーションのソフトウェアである。
 私は10年ほど前にPCのデータ移行に失敗し、フロッピー(懐かしい言葉)が読めなくなって、その前までの研究データと研究メモを失った。それでもPC内データは膨大なものがあってすべては覚えていない。現在の若い研究者が60過ぎまで研究を続けることができた場合には、さらに膨大なものとなるに違いない。歴史学はともかく扱うデータが膨大になる。しかもゴミデータが多い。そういうPCを誰でもが、上手に扱えるように、データの維持とインテグレーションのソフトウェアが発達するのは確実だと思う。
 一般に研究者のPCには、公開部分(BLOG部分)、蒐集領域(ダウンロードデータ)、そしてクローズドなメモ領域、そしてすでにBookとして社会的に公表された論文領域の四つの領域がある。これらをインテグレートする補助ソフトが高度化すれば、次ぎは、外部的なデータインテグレートが課題に上るはずである。つまり、BLOG部分をつなぐネットワークを1stNETWORKとすると、各PCの深いデータ領域、論文領域やさらには

クローズドなメモ領域をふくむネットワーク、いわば2ndNETWORKとしてよりディープなネットワークを一時的に作りだし、そのネットワークの中で、各PCでのインテグレーションとゴミの排除を前提して、インテグレートソフトウェアを動かすことも可能になるはずである。

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  将来は、Book形式をとった生産物=論文はすべておのおのの研究者のPCにも公開用テキストが装備されるであろうが、それらの生産物、論文によって明らかになった事柄が専門領域ごとの大規模な知識ベースに反映されるはずである。論文を書いたならば、研究者はそれによって明らかになったことをその分野の知識ベースに書き込み、データベースそのものにもテキストクリティークや脚注を書き込むことになる。

 それのみでなく、共同研究の中では、Closedな部分をふくむ外部脳同士を接合し、接合し、照合し、インテグレートし、それによって、いわゆるブレインストーミングを補助するということが可能になるはずである。そういう半ば公開された領域、協同領域というものは、そのためのブログを作れば現在でもできるが、それを個々人のデータ領域に内部におくこともできるだろう。

 このような動きは、まずはおそらく企業のレヴェルで、いわゆるクラウド・コンピューティングのサーバレヴェルのクラウドの中でのブレインストーミングのシステムとして動き出すのだろう。企業の内部情報管理にブログを使うところもふえているというから。しかし、学術の世界でも、とくに通常の研究のレヴェルを越えた広範囲な議論や、広域的な知識総合など、歴史学でいえば、ゴリゴリの個別論文、考証論文ではなく、分野史・地域史・通史や世界史など、一般的叙述を必要とする分野と、歴史理論の構想のための共同研究には、やはりそのような補助がほしい。

 これだけ詳細な新しい論文が、毎年毎月、生産される時代には、そのようなものがなければ若い人々はやっていけないのではないか。先をゆくものと後からついていくものの格差が広がるのではないか。

 ともかくも、学者の生産物は公共的費用によって生成されたものであるから、公的なものである。それは原則としては、政治家の日記が社会に公開されなけれなならないというアーカイヴズの常識の適用をうけるべき対象であるはずである。もちろん、歴史家のPCの中味などは、それとしては価値がない挫折した他人には意味不明のメモばかりだが。

 少なくとも、このような外部脳としてのPCを社会を構成する全員が、おのおのの社会的機能・職能・専門にあわせてもつようになることが、学術の普遍化の最大の条件であるはずである。人々の頭脳のキャパシティには自然的な限界があるから、これが可能になるためには、歴史的な知識体系の知識ベースとしての蓄積が前提になる。誰も、膨大な歴史知識を自分の頭の中にためておくことはできない。それはいわばゴミを頭の中においておくのと同じである。しかし、それらを処理した上で、情報学的なインテグレーションとネットワークの円環の中に社会の構成員のすべてが入ることが諸個人の全面的な発展とその専門性ごとのアソシエーションにとっては必須の条件であるはずである。

 もちろん、この情報学的なインテグレーションとネットワークはオートメーションではなく、それを動かすのは人間である。というよりも、それを支えるのは特定の職能集団であって、これらの情報の入り口、Documentの真理性を判断し、受け入れてアーカイヴするアーキヴィスト、それらを使用して学術情報を作り出すのはアカデミー、そしてその学術情報の最終生産物としての「本」を管理し、そのレヴェルにおいて確認された知識ベースを維持管理するのはライブラリアン。アーカイヴズ・アカデミー・ライブラリアンが、このネットワークを取り囲むということになるのだろう。
 もちろん、ここでいうアーカイヴズ・アカデミー・ライブラリアンが、将来においても、現在と同じような社会的・職能的性格をもつものとは考えられず、相互浸透の局面が大きくなるだろう。また博物館がこのようなシステムの中で、どこに位置付くかという問題もある。しかし、それらを現実に決定するのは、現実社会におけるアソシエーションがどのように動くか、再編されるかに懸かってくることはいうまでもない。

 昨日も市立図書館で半日を過ごし、必要があって歴史学・人類学関係の開架書棚をみまわった。私のように個別の専攻の中でのみ本を読んできたものにとっては、その広さ・深さは、ほとんど海のようにみえる。しかも、それらは開架書棚に過ぎず、それに倍する自動書庫が図書館の階下には潜んでいる。この市立図書館一つでも、そこに蓄積された知識量は、おそらく有名なアレクサンドリアの図書館より大規模で豊かなものである。
 これだけの施設は、やはり社会にとって根本的に重要なものであることを実感する。ライブラリアンにとっては、どのような本を蒐書し、さらに自動書庫から開架に何を選書するか。そして、物理形態をとった「本」と電子形態をとった「本」、さらには「本」の形態をとらないデータベースそれ自体という三つの情報形態をどのように、内容・形式の双方においてインテグレートとするかという問題があるはずである。そして、これらはすべて学術の知識ベースというものをどのようなものとして作り出すかという問題にかかわってくるはずである。
 歴史学というのは、本当に細かなデータを処理するのが本分である。歴史が重要なデータ、みればわかるデータを残すことは希有であるから、それが当然である。そして、そのような細かな無限の作業であるからこそ、「共同研究」が必要になるのだが、そのような職能における「協同」、アソシエーションというのもはどのように可能になるのか。狭い意味での「共同」と親近性ではなく、それがどのように可能になるのか。それはまずは実際の研究と方法の問題であるが、しかし、石母田さんの「国民的歴史学覚え書き」の言い方だと「社会的分業の発達した社会での科学の複雑なあり方の中に自分たちの限られた活動をどう位置づけるのか」ということにもなるはずである。今でいえば、情報化社会という社会的分業の新たな発展の中でどう位置づけるのかということになるはずである。

 さて、今から宮瀧くんに彼の文章の感想を書いたぞ、というメールだし、そして義経にとりかかろう。

2010年10月22日 (金)

寺山郷公文の佃経営

今日は休み。朝から自転車。早朝ライドの積もりがお餅を二枚食べたら7時。花見川へ。夏の朝もやをみたかったが、遅すぎた。Bentennbasi20101021義経の史料をもってでる。

 左は花見川ルートの一番上まで行って、勝田台の側からみた弁天橋。その下はその弁天橋の上から南をみたところ。左側の河岸の中を自転車ルートが走って海岸にでる。花見川ルートの紅葉はまだ。昨年の秋はきれいだったので、楽しみである。

 

Bentenbasinouekaraminami 今日は、海岸まで戻らずに、途中で左へ。国道沿いのファミリーレストランで朝食。500円でたっぷり。

 そこで昼まで2時間ほど職場の政策文書。残務処理である。義経は手がつかず。

 私が今の職場、史料編纂所に入ったころは、第二次大戦後の雰囲気がまだ続いていた。それが確実に終わりつつあるということを実感。

 歴史学の研究史は、こうやって根無し草になっていくのかもしれない。それだけに研究そのものをどう引き継ぐかが問題となるのだろう。

Doubutukouen  昼前に千葉市動物公園の脇を通るルートで帰宅。動物公園もまだ夏。この左手が「よし川」。鎌倉時代の文書(中山法華経寺文書)に寺山郷公文の佃経営の状況を示す稀有な紙背文書があり、分析をしたことがある。その佃の位置は、この「よし川」流域と考えている。結局、現地調査をしないまま、それらしいところの写真もとらずにいて、ゴルフ場になってしまったのが苦い記憶。ここを通るたびに思う。

 石井進さんも、歴博の館長をやっていたとき、気になって、ここら辺を歩いたという文章がある。この左手が動物公園のモノレールの駅で、そこで降りて、さらに左手の岡に登っていったという記事だったと思う。こうやってみると、森ばかりのようだが、これはスプロール化した住宅地の中を通る帯のような自然である。

 久しくみていなかった、その論文「日蓮聖教紙背文書、二通」の佃論文を広げてみた(石井編「中世をひろげる」所収)。「二通」のうちの一通についての分析は「中世の女の一生」にいれたが、その残りの方である。一字、「大田之□」となっていて欠字がある。これは「遊」か「堤」と読んでみたかったが、どちらかはわからない。原本をみれば読めるだろうか。服部英雄氏のいう神田と佃がそばにあるという問題の再点検も課題に残したまま。

11月の函館みらい大学での「文化と編纂」というシリーズ講演会での論題は「史料の編纂と歴史情報の共有ーー東京大学史料編纂所での経験から」と連絡。概要も。国会図書館の長尾先生とご一緒。「文化と編纂」というシリーズ講演会を、ここ何年かやられているようで、題名のユニークさに驚く。石井さんに何度か話しをきいた志海苔館の古銭の見学が楽しみ。

2010年10月21日 (木)

ブログというものをはじめてみて。隣席の後輩とバタイユと

 先週に続いて月・火と京都出張であった。今回は同僚の手伝いであったが、これも無事に終わってほっとする。ただ、同僚が持ち帰った仕事の重さを思うと、これからの時間の長さを感じる。一緒に仕事をしていても、「旅」の場では、相手の肩に懸かってきて、これからも懸かるであろう重さがよくみえる。
 三木清の『人生論ノート』の中で、「旅について」という断章は、この『ノート』のなかで、おそらくもっとも通俗的、あるいは三木自身がいう意味での「感傷的」なものであろうが、「旅するものは為す者ではなく見る人である」というのは正しい。
 そんなこんなで、出張中は時間がなく、ブログを書かなかったが、しばらく書かないと経験を忘れていくのが気になる。これは日記に記録すべきことをしていないという気がかりに似ている。自分を文字にしておかないと落ち着かないという、ささやかな強迫観念。
 けれども違うのは、一つは、これが電子的なものであること。これは「もの」としての「日記」とは違う。「物」としての日記の場合は、自己経験を文字で記録し、自己を客体化していくという点は同じだが、「日記」が目の前になければなかば忘れていられる。しかし、PCやサーバに乗っている断章は目にみえないだけに、頭の中にあるものの一部であるかのように感じる。ここには、たしかに、外部脳というに近い感覚が生まれている。
 もう一つは、書いた途端にそれを公開するということ。これはそれを何人の人が閲覧するかということとは別問題で、誰も見ないとしても、いわば頭の中を外にさらしている、あるいは頭の中を垂れ流しているという感覚である。「そんなもの見たくないは」という反応もありうる訳ではあるが。
 さらにいえば、それは「ネットワークの向こうに社会空間がある」という感覚をともなっている。脳と外部脳がディスプレイでつながっており、それが「社会」という中空に浮いているという感覚。
 これはどういうことなのか。社会に一人で相対している、社会に向かって一人で立っているというのは研究者として通例の論理だが、しかし、これはそれとは少し違う、もっと感覚的なものである。これは、人間の自己意識のあり方、「自分自身の生活が自分にとって対象であり、その自己を社会という場で自己自身が統御する」といわれるようなあり方が、そのまま「もの」となって外にでているということであろうか。誰でもが、たとえばデカルトからヘーゲルへ、そしてキルケゴールの「人間とは関係である。関係とは何であるが、関係とは関係が関係に関係するということである」という断言やマルクスにまでいたる「自己意識論」を、コンピュータという「もの」を前にして感覚的に考えるような時代になったということであろうか。自己意識の「もの」化。
 これは誰でもが「哲学者」になれる時代の到来を意味するのかもしれない。哲学者というのは、自己を外から眺めるにあたって、自己を関係性として意識し続ける能力、自己の脳と肉体をあたかも外側にあるかのように客体視しつづける能力を発達させた人間をいうからである。「関係が関係に関係する」という悪無限に堪え、それを楽しむ能力である。それゆえに彼らは一般にレトリク好きである。レトリクのない哲学者などは「クリープのない何とか」ということになる。

 それに対して、「もの」としての姿をとった外部脳を意識し、関係することは誰にでもできる。

 その上で具体的に問題となるのは、それが文字であるということだろうと思う。民俗学の福田アジオ氏は、『可能性としての村社会ーー労働と情報の民俗学』(青土社、一九九〇)という本で、「生活の情報はかっては非文字が基本であったが、それが現代では大部分が文字によってなされている。そして非文字の情報はラジオテレビの電波によるマスメディアとして大量情報の手段となっている。民俗の情報から現代マスメディアとしての情報に非文字が奪い取られている」といっている。子供たちの携帯電話へのアディ九ティヴ、携帯依存をみていると、これはまさにその通りと思う。
 福田さんの本は江戸時代を対象とした「労働と情報の民俗学」の方法を論じたものとして出色のものだが、情報論としても興味深く、いつも参照してきた。拙稿「情報と記憶」でも引用したが、たしかに、生活の情報はかっては非文字が基本であったはずである。たとえば鐘や半鐘の音であり、人々が行き来する音であり、売り声であり、高札場・掲示板・回覧板であり、ムラの丘や山からの大声であり、あるいは光の信号であり、動物たちの声や物音などの非文字的な情報であった。それに対して、「ムラ社会」、共同体関係の解体は、地域社会の中から非文字的な情報を追放し、さらに現在の情報革命は、職場の中の情報の相当部分をも電子メールという文字情報に変更しつつある。こういう経過をへて、衝撃力の強い非文字情報は、マスメディアに集中するという結果がもたらされた。
 こういう「日常生活の文字化」という事態が、人間の脳神経活動を、そのままネットワークに接続した外部脳の中にさらすというところにまで、深まったというのが、今の事態なのであろうか。
 その先にあるものは何かということを考える場合に重要なのは、「仮面」の問題ではないかと思う。仮面=マスク=ペルソナの発生がパースンの発生であり、社会的な自己という意味での人間の発生であるということは、おそらく歴史的にみて断言できることだと思う。これは、特定の目的意識性の下に、自己の動物存在、自己の肉体を手段化するということであり、マスク=ペルソナは、そのようにして自己の肉体を道具化したことの象徴であり、もっとも手近なマークである。
 人間社会の社会的生活過程は、社会的関連と社会的機能の網の目によって特徴づけられるが、バタイユによれば、その社会的機能の最初の形態がエロティシズムである。つまり物質的過程でいえば、性的分業、社会的機能でいえば、セクシャリティがエロティシズムという感情生活として現れる。エロティシズムとは他者との融合という絶対的な不可能にむけての自己の肉体の道具化であり、その目的意識的な扱いである。それは目的意識性が身体自身にむかうことであって、必然的に死の自覚、眠りの自覚、性による眠りの意識に向かう。
 そして、バタイユが「エロティシズムはとりわけ、労働の歴史と分離して考察することができない」(G・バタイユ『エロティシズム』まえがき)というのはあくまでも正しく、それはいわゆる労働の具体的性格、労働の目的意識性において、自己の肉体を道具化する能力とエロティシズムという動物的=人間的能力の形成が深く関係しているからである。
 その意味での破調なほどの性的自由を人類史の始源に措定すべきであるというエンゲルスのグループマリッジ説もバタイユと同程度には正しい。人類学の言い方では、人類はもっともエロティックなサル類であるという訳である。この意味で人類史の始源に登場し、未開までを特徴づけるヴィーナスと男根の土像・石像と仮面の発生は同一過程の二側面なのである。
 しかし、仮面をかぶることは目的意識性の表現であると同時に、自己の抽象化であり、空無化である。目的意識性は自己から外へでて抽象物としての自己、類的な存在としての自己を客体視することである。リルケのドゥイノの悲歌に(あるいはマルテ)、空漠たる時間と空間の広がりによって驚かされた男が急に顔を上げると、その肉の仮面が顔を覆っていた両手に張り付いたまま外れてしまうという一節があったが、仮面の中は空無となる。空無の中を無限に手探りをするのが「関係が関係に関係する」という悪無限である。
 ともあれ、ブログを書いていると、一つ一つ、手作りで仮面を作っているという感じがする。それが手作りの仮面であるというのは、ともかくも自分の中からでてきた、あたかも虫の体液のようにしみ出てきて、皮膚の上で固化した半透明のマスクのようなものであるということである。それ故に、体液のように汚れたもの、たとえば虚栄が入り込む。匿名性とからめば、そこには相当の虚偽が蓄積される。もちろん、私のように名前も、そして職業生活も実質上オープンして書いている場合は、虚栄といっても限度があるが、それが社会的属性に付加され、それを装飾する情報であることは変わりない。いずれにせよ、それは、ネットワークサーバに載った時点で、実態としての私からは離れて、一つのマスクとして、個人像として存在する。現実の個人はいろいろな社会的機能と属性をもっているが、ネットワークの中では、それらの機能と属性が具体的な個人からは離れた情報の束として存在することになる。マスクとペルソナはその脈絡の中に浮かぶものとして現実の個人とは異なる光と性格を帯びるのである。
 資本主義は、ペルソナの付け替えを、毎日・毎時強要される社会であり、人間は分裂することをのぞまないかぎり、またペルソナの付け替えにともなう神経の酷使によって潰されることをのぞまないかぎり、このペルソナの共同的かつアソシエーショナルな扱いのシステムを作り上げる必要があることになる。それはおそらく、ペルソナからの解放であるが、それはペルソナの肉化あるいは柔軟化であって、社会と個人との新しい関係をもたらすはずである。これは、政治や経済の動きとは異なる普遍的過程・普遍的運動であるだろう。もちろん、政治も経済も普遍を願う運動でなければならないとはいえ、しかし、事柄としてはそれは政治・経済それ自体とは異なっている。政治と経済それ自身からの開放である。
 世界史的にみると、文明の深化は、このペルソナを脱ごうとする運動としての世界宗教の時代として開始された。世界宗教における瞑想は、人間の外皮となったペルソナの内側を瞑想する心的態度である。そして、問題は、中井正一(「委員会の論理」)がいうように、これが経典によって可能となった。経典によるテキストの共有によって、はじめた離れた個々人の間での瞑想経験の交流が可能となったということであって、この民族大移動の時代は、それよりも先に「経典、聖典、カノン」の力によって、観念と瞑想システムが飛行する時代であったのである。
 私は、ペルソナの脱却にむけて、さらにこのこの文字世界それ自身をみつめ、それを相対化することに成功した宗教として仏教=禅宗があるのではないかと考えるが、それはともあれ、現在、この文字世界の変化が、世界史の新しい展開をもたらそうとしていることは確実であると思う。
 
 さて初めに戻って、今週の月曜、出張の夜、10月18日の月曜日夕方、ホテルのテレビをつけたら、NHKのクローズアップ現代で「本が変わる、電子書籍最前線」という番組をやっていた。ブログと電子書籍の役割の相違と、それが重なった時の意味というものを考えさせられた。この電子書籍化の動向は、コメンテーターの津野海太郎氏がいっていたように不可逆であって、前進的な側面をもっているはずである。
 津野氏がいっていたことで、職業柄、注目したのは、電子書籍の多様な役割のトップに、たとえば、歴史書を読む時、画像や副情報を、電子書籍を通じて瞬時に獲得できるということを上げていた。たしかに、歴史叙述は、史料にもとづいて論述されているが、普通の叙述には、その全文を引用することはできない。しかし、電子書籍のシステムが展開すれば、たしかに電子書籍を通じて、史料のデジタルデータにアクセスし、叙述の真理性の体感が可能になる。学術書であれば、電算写植データの脚注から史料編纂所にあるテキストデータにリンクを張るのは相対的に簡単だ。これは著者自身がやったっていいことだ。
 ネットワークは、虚栄から虚偽の情報を含む。しかし、虚栄ははぎ取ることはできないとしても、虚偽を裂き取ることは、ネットワークがシステム的に自己検証性をもちうる以上、可能であろう。これによって、社会関係の中枢をなす情報関係の真理性を高めることはマスク=ペルソナのゆがみを修整することになるはずである。
 
 さて、ブログというものを始めてみて、面白いものだと思う。これを始めたのは、最初の頃に書いたように、史料の職業仕事のホームページを作ろうとして四苦八苦した経験からの飛躍だった。ホームページビルダーの使い方を以前はできたのに、やり方を忘れていて、一週間ほどの時間を空費して疲れた後のことだった。結局、職場の個人の研究用のホームページの容量と領域を公務の和紙科研のために全面的に開放することを決め、それまであった自分の論文などを載せる研究HPをニフティにすべて移してしまうことにして、設計をやり直して、消耗していたとき、どういう訳か、ニフティに個人ページを移すと同時に、このブログというのを作ってやれという気持ちになった。仕事でデータベース作りなどに関わることは多いにも関わらず、結局PCもネットワークもよくわからないというストレスを抱えることが多いが、ブログは、ともかくシステム的な負担感がないのが快適である。
 ようするに、職場がらみである。これも、職場の生活によって感情や生活の仕方の相当部分を左右されているということの表現であろうか。どの職場も同じであろうが、朝来ると、相当数のメールに目を通すことから仕事が始まる時代。その先に、こういうブログで自分を確認しようという感覚が生まれてくるのかもしれない。さきほどは、研究者として社会に一人で相対しているというのは通例の感覚だとか書いたが、そういいながら、実際は職場人か。
 いま、12時50分。朝の電車で、PC内部にたまっていた断章を切り張りしながら、上記を書いていた。バタイユなどは久しぶりに考えたので、午前の会議で、隣席の後輩に「君たちはバタイユなんて読むの」と聞いてみた。以前、彼には「保立さんはフッサールも読んだことがないんですか」と面白そうに顔をみられたことがあるが、バタイユは教養豊な彼も読んだことはないということである。ただ、これは、我々の世代では意外と近しいものがあったというだけで、これも世代の相違か。

 しかし、続いて、彼曰く、「そういえば、友達で読んでいる人はいましたが、私はアドルノでした」と。ギャフン。

2010年10月18日 (月)

伊藤寿朗氏の本

10月17日 日曜日、昼前から自転車。早朝に目が覚めて仕事をするので、いつも朝早く出ようと思う。久しく、利根川まで出ていないし、何より、一度、佐倉へ出て、塚本学先生のお宅に伺おうと思っているのだが、ついつい今日もさぼる。どうしても寝てしまう。出張帰りでさすがに疲れている。
 朝、入間田宣夫さんから電話。『東北学』で神話について話せという先日の電話のつづきで、予定が年末になったとのこと。入間田さんは例によってお元気。『かぐや姫』でやった神話論をもう一度点検しなければならない。『かぐや姫』で論じきれなかった勝俣隆氏の神話論、新川登亀男さんの仕事、そして三宅和郎さんの仕事を精読しなければならない。
 自転車で出るにしても、すでにそう遠くへは行けない。どこへ行こうかと考えたが、図書館によってから、例によって花見川のサイクリングルートへ出ることにする。下流の方から登って、花鳥橋の向こうの中島池、谷津池へ出ると、中島池では蒲の穂がきれいに出そろっている。ここらへんはとても都会のすぐ近くとは思えない。池のそばは千葉でももっともよい住宅環境と思う。
 

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101017_141518_3  途中で例によってで、本を返却しに図書館へ。その途中で、千葉大前の「Bokk-off」にはじめて行ってみる。伊藤寿朗氏の『市民のなかの博物館』があり、105円という売価がついており、購入した。奥さまによると、千葉大前のブックオフは、しばらく売れないと売価を100円にまでさげるとのこと。
 いま、サイクリングの途中で読んでいたが、私は1993年にでた、この著名な著作を古書として購入したことに慚愧。この本が遺著であることは承知していたが、その経過はあとがきを読んではじめて知る。時間をみて読み切ったらメモを残したい。
 自宅へ帰って、義経の続き。伊豆の頼朝の「流人生活」の再検討のところ。「太っていて底意地の悪い人間で、さらにマザコン」という頼朝像を設定するための基礎作業の仕上げに入る。なかなな面倒な点が多い。

 明日からはまた京都出張である。今日は「歴史経済学の方法と自然」という大論文をアップしておく。この論文の続きに早く入りたいものだ。

2010年10月15日 (金)

天網恢々、疎にして漏らさず。

 いま、出張からの帰りの新幹線。御寺と参加者にたいへんにお世話になったが、無事に出張が終わり、仕事の目処がついて少しほっとしている。

 朝は京都の地下鉄四条駅で、佐藤泰弘氏にばったりあった。私が彼の肩をたたくと驚いてたいへん大きな声を出したので、私も驚いたが、本当に久しぶりで懐かしかった。日本では歴史家の人口密度は高くないはずだが、京都・奈良の出張では、これまでも時々町でばったりということはある。「さすがに京都・奈良は歴史家の人口密度が高いのだろうか。東京砂漠では歴史家などには会わない」と出張仲間でひとしきり冗談。帰りにばったりの出会いについて考えることにした。

 さて、先週、必要があって読み直した空手家の広西元信氏の本を読んでいて思い出したことがある。私は、詳しくは知らないが、広西氏は空手の世界ではたいへん著名な方のようである。佐藤・福田・田中などの歴代の首相と関係があったということで、個人的な指南役のようなこともやられていたらしい。
 前回に読んだ時はまったく気づかなかったのだが、実は、息子が、小さい頃、道場にいっていた空手道場は、広西氏が理事長・会長を務められた松涛会の系列の道場で、広西氏の年譜によれば、千葉の道場にも関わられたようだから、息子の道場は広西氏が拓いたものであったことになりそうである。そこで、週末、自転車で出た時、帰りに県立図書館をまわった次いでに、その道場がいまでもあるかどうかをみてきた。彼が道場に通っていたのは、もう15年以上前のことであるが、あるビルの一階に以前のままで道場が開かれているのをみてきた。今でも小学生たちが通っているに違いないと思いながら、あの頃、彼を連れて通い慣れた道を自転車で帰ってくると、そのまま昔にタイムスリップをしたような感覚におそわれた。
 話が横にずれたが、広西氏によると、空手というのは、中国の科挙では進士の試験ではかならず出たということであるから、身体技法として重要で、やはり人間の出来と関係するのであろうか。中国のような官僚制国家というのは、ようするに大量の人間集団を操作し、「恭順=ピエテート」を組織する能力が必要で、そのために身体ができているかどうか、いわゆる肝がすわっているかどうかをみたのだろうか。
 私も息子と一緒に空手をならっていればよかったと思うが、その時々、必死に生きてきたのだから、これは白昼夢であるが、日本には、こういう形での身体道徳・身体修練は根付かなかったようにみえる。ただし、平安時代貴族社会における儀式の身体性ー「型」や蹴鞠のことなどを考えると、こういう身体道徳のあり方は、東アジアの世俗道徳論の中では、意外と重要な問題なのかもしれない。少し調べてみようかなどと思う。これは歴史家の白昼夢か。
 さて、ここで広西氏の本というのは、実は、『資本論の誤訳』という本である。広西氏は先のような経歴の方だから、まったく意外なもので、それだけに私は、以前、この本を読んだときにショックをうけたことを思い出す。この本の初版は1967年(これは新幹線の中での記憶なので正確ではないが、その頃であることは確実)で、その時に、いわゆる社会主義というと「国有化」ということになっているが、『資本論』はそういうことはいっていない。むしろ、「アソシエーション的な自由人の連合」というものがマルクスが一貫していっていたことであり、そのようなアソシエーションをマルクスは株式会社の中に透視していたというものである。そして、アソシエーション(連携・協同)とコンバインド(結合された)を区別せずに翻訳する「学者先生」の『資本論』翻訳はレヴェルが低いと、(その他の翻訳をふくめて)なで切りにしたもので、私には納得できる点が多かった。つまり、前回のブログにも書いたが、この本は、いわゆるアソシエーション社会主義を『資本論』の文脈の中で、ほぼはじめて論じた著作であったということになる。

 しかし、先週、この本をめくっていて、自転車で出て、息子の空手道場を見に行って昼食をした時、記憶がよみがえってきたのは、対馬忠行氏のことで、それにともなって、高校・大学時代以来のあまりよいとはいえない経験を思い出して押し詰められたような気持ちになった。
 この本の、巻末の略年譜の1948年のところに、広西氏は、『世界文化』への原稿執筆依頼で対馬忠行氏と交流とあるのが目についた。同年、作家の田中英光とも親交が深く田中の短編「闇黒天使と小悪魔」にほぼ実名で登場とあるから、今度、読んでみようと思うが、対馬・田中との交流というのは、戦争直後の様子を示すようで興味深い。対馬氏の部分には、もとから線が引いてあったから、前にも気づいたことがあるのだろうが、対馬忠行氏は、実は、高校時代か、浪人の時代か、あるいはもう大学に入っていたのかもしれないが、一度、その講演を聴いたことがある。
 現代思潮社からでていた『マルクス主義とスターリン主義』ももっていたはずだと思う。なにしろしばらく前のブログで書いたように、高校・浪人時代は怖い物知らずでいろいろなところへ行った。講演のテーマはスターリニズム批判であったに相違ないが、中味はまったく覚えていない。おそらく中核派の講演会であったはずで、というのは、対馬氏が中核派の「中央委員」(というようなものだと思う)が『反デューリング論』の「暴力論」さえ読んでいない、こういうことではどうしようもないと嘆いた発言を唯一覚えているからである。その時のなかば絶望したような口調と、暗い顔の印象が残っている。それも、そういう集会のようなものに、瘧が落ちたようにでなくなったことの一因であったかもしれない。
 その講演会の前には、対馬氏がどういう人かは知らなかったと思う。しかし、大学一・二年のころに、歴史に興味をもちはじめた私は、『近代日本の成り立ち』などの文庫本や「親鸞ノート」から始めて、服部之総の著作集を読むようになった。服部はマニュファクチャー論争の経過にふれた論文や「絶対主義の社会的基礎」などの論文で対馬の見解を何度も引証している。これによって対馬氏が戦前の日本資本主義論争の時代からの研究者だったことを知ったのである。そして、対馬氏が瀬戸内海に入水自殺されたことを知った時には、歴史の細い迷路で自死に押し詰められ、追い詰められたのだろうかという印象をもったことを覚えている。もう相当のお歳だったのではないかと思う。それを聞いた時、感じたのは、研究者というものの怖さ、まかり間違えば、袋小路に入り込む。そして命を賭けるというところがあるのだということだったように思う。
 対馬氏と広西氏という、たいへんに独特な経歴の二人の接点がどういうものであったのかは、私にはわからない。第二次世界大戦と、敗戦直後の世情は、独特なものがあったから、広西氏が社会運動家・理論家の対馬氏との関係があったとしても何の不思議もないが、広西氏の年譜に二人の関係がでてくるというのは、深い関係があったに違いない。

 これはどういうことであろうと思うのは、単純なことで、ようするに、たまたま手にとった本の著者が作った空手道場に息子が通っていて、それが彼が外国にいた時は空手君とよばれることの原因になった。そして、そのような人とは知らずに、その人の著書を読んでから、五・六年後、先週たまたまめくっていたら、著者が15年ほどまえの息子に大きな影響をあたえた道場の設立者であったことを知った。そしてさらに、その著者の友人の講演をもう今から30年以上前に聞いたことがあり、その人の自死に驚いたことがある。こういうネットワークというのは社会理論としてはどういうふうに考えるのだろうということである。

 情報工学の方では、「Three hop」の議論というものがあると聞いたことがある。つまり、今、世界は、Three hopかFour hopでおおうことができるようになっているという議論である。「友だちの友だちは友だち」という訳で、面識ネットワークならば世界中の誰でも、Three hopかFour hopでおおえるようになった。これが情報工学の中でどう位置付いているかは知らないが、たとえば、私は歴史家としての専門性世界に関係している、アソシエートしているが、アメリカのハーバートの歴史家に面識がある。その歴史家はブッシュに面識がある人に面識があるのは確実だから、私ー(1)ハーバートの知人ー(2)ブッシュの知人ー(3)ブッシュの馬鹿と、たしかにThree hopでつながるという訳である。
 このようなThree hop面識ネットワークは、私の場合で明かなように、専門性の世界が媒介になることによって、広がる訳であるが、その一つ外側でもFour hopsで世界中がつながっているということになる。世界中の人が何らかの専門性をもち、その専門性のアソシエーションネットワークが拡大すれば、世界は平和になり、ブッシュのような馬鹿がいる余地はなくなるかもしれない。
 前近代では、一般に社会的ネットワークは可視である。たとえば有名な例では、日本の室町時代、「国質」といって、遠国の人間Aに債務権・質権をもっている場合に、Aとまったく関係のない同じ国のCという人間を拘束する。それによってAに対する質権を回収するという法慣習がある。これはAとDの間に共通の知人がいるということがないと実現できない法慣習である。その人をBとすると、AーBーCの関係は、その国の人々にはよくみえる、可視的な関係であったに違いないということになる。現代社会のネットワークは、こういう可視性を失い、まったく不可視のものとなっているのだが、それだけに世界中がThree hopかFour hopでつながるという形で強力な拡張性をもっているのである。そして、コンピュータは、このネットワークを再び可視的・具体的なものに押し上げる可能性をもったツールであるということになるのではないだろうか。いずれにせよ、専門性と将来社会のネットワークというものが、非常に重要な問題であることは明かであると思う。
 しかし、その上で、歴史家の役割は、このネットワークを空間ではなく、時間を越えて過去に広げることであると思う。息子ー広西元信ー対馬忠行ー私という超時間の相互影響関係というものが現実に存在するということを考えると気が遠くなるような気がするが、歴史学はそういう世界を提供するべきものであるはずである。
 京都の御寺を13時30分に出て、東京の職場に17時に戻り、帰着の報告の速達を御寺に出し、その他、必要な処理と打ち合わせが若干あって、今、18時30分。これをブログにアップしたら、出張の後始末事務の残りを10分やって帰宅の予定。帰ったら、佐藤氏の本を開いてみようと思う。

2010年10月12日 (火)

柄谷行人氏の「世界共和国へ」について

 柄谷行人氏の『世界共和国へ』は、出た時に買って面白く読んだ。頭のいい人だと思い、その後『トランスクリティーク』も読んでみた。レトリックがいかにも自信にあふれていて、その分、読みやすい。そして、柄谷氏は歴史家の仕事に属することを述べており、歴史家怠慢のそしりはまぬかれないだろうというのが感想。
 とはいっても、歴史家がやるとすると、ああ軽やかにはいかない。岩波の編集者にも、面白いけれども、歴史家にはああいうやりかたはできないといったことがある。歴史学者としてやるとすると、整理すべきことがさらに多く、なかなかうまくはいかないと思う。
 柄谷氏の本は、全体としては、アジア的生産様式、奴隷制、封建制という基本的に古い図式、悪い意味での「世界史の基本法則」論、社会構成の四段階論を前提にしているのが、我々歴史家にとっては最大の問題である。やや乱暴な言い方かもしれないが、古い四段階図式をウヲーラーステインの「世界帝国」「世界経済」と合体してリヴァイスし、ポランニーを接着剤として使ったという印象である。これはこういう世界に親しんだ人は読めるかもしれないが、しかし、それらを除くと、辺境理論の利用、ルカッチ的な前近代における経済と政治の区別不能論その他、歴史学者にとってはなじみふかい議論である。たとえば、二〇世紀歴史学をマルクス・ウェーバー・トインビーを合わせたものとして読んでいたとすると、世界史のイメージとしては具体的にはあまり変わりはないのである。
 ただ、私はウヲーラーステインに対する評価が低いので、これは偏よった意見かもしれない。また何といっても、柄谷の広汎な読書にもとづく問題の広げ方には感心する。これは批評家というスタンスの強さだと思う。最近、『世界史の構造』を読んでいるが、そこでも、ともかくあれからあれへと展開するので、そのまえにまず、『世界共和国へ』についてメモを作ることにした。
 メモとはいっても、具体的な批判や対案の提出ではなく、現在のところ感想という程度のものに過ぎない。今、総武線の中。今日は京都出張なので、総武線・新幹線に載っている間は時間がある。ちょうどよい時間なので、まず総武線で記憶にもとづいてメモをつくって、新幹線で『世界共和国へ』を読み直してみたい。あくまでも感想のレベルなので自分用のメモであるが、そのうち、もっと正確に考えてみたい。
 まず、前提として、私は柄谷氏の強調するいわゆる「アソシエーション論」に基本的に賛成である。将来社会が、何らかの意味で「アソシエーション」「協同社会」を基本としたものであるべきものであるということは、どのような立場からも納得できることだと思う。また柄谷氏がカントとマルクスという問題の立て方をするのにも賛成である。デカンショ節ではないが、ショーペンハウワーは別として、デカルト・カントは、我々の世代でも必ず前提とするべきものであった。そのレヴェルから考えなければ、ヨーロッパというものを相対化できないだろうと思う。それから、柄谷氏がボロメオの環という形で、「資本ーネーションー国家」が密接にむすびついて支え合っている構造を問題にしなければならないといっているのも賛成である。少なくとも問題はそう立てられなければならない。ネーションを問題の環にいれなければならないというのは、いわゆる「国民国家の相対化」ということになるが、これが一九世紀と明瞭に違うところだろうと思います。さらに本の題名にあるような「世界共和国」論、これはアソシエーショニズムの延長上に考えられている訳ですが、これも賛成です。当面、国連をきわめて重視すべきこと、これは明かです。たとえば、中国のノーベル平和賞受賞者に対する乱暴な拘束継続の問題がありますが、これは国連のレヴェルで問題にするべきことだと思います。国連での議論ということになれば(あくまでも一定の手続き的・制度的基礎を前提にですが)、このレヴェルでの言論批判は内政干渉ということにはならないはずです。
 ようするに、もっとも基本的な現実的な社会的姿勢としても、方法態度としても、柄谷氏のいうことに異論は少ないということです。
 ただ、第一に、私が問題が残っていると考えたのは、やはり、「資本ーネーションー国家」なるものの考え方で、柄谷氏の提案は、別の言い方をすれば、「所有・共同体・国家」ということになると思うが、問題は、この三つの関係構造をどう解くのか、どう一元的に解くのかということであったはずだと思う。悪くいうと、これは三元論的現象論であり、変数が多いだけ、華々しい感じはするということになる。
 しかし、歴史家は具体的な史料から具体的な局面を描き出し、それを全局に位置づけることを日常の仕事としている。そこで必要な歴史理論は、この三つの関係構造の根っこのようなところをつねに明瞭に意識させるようなものでなくてはならない。そういう風には使いにくい議論と思う。
 次ぎに、アソシエーショニズムというものをどう考えるかという点も重要で、私が知っているのは広西元信氏と田畑稔氏の議論だが、どうも柄谷氏がアソシエーショニズムということでどういう問題を具体的に出したいのかが、広西・田畑の議論とくらべるとよくわからない。チョムスキーのいうリバタリアン社会主義を頭においている、一種の統整的理念であるなどというレヴェルはよいのだが、プルードンとマルクスの比較という形で問題を理解するという形になっている。一九世紀について多様な議論をするということで、その趣旨はわかるのだが、しかし、論理的にどういうことをいっているかがよくわからない。ほかに展開があるのかもしれず、これは『世界史の構造』の方でよくみてみたい。
 ともかく田畑氏のようにマルクスのアソシエーショニズムの前提にはルソーがあるという形で概念的に詰めた議論の方が、私にはわかりがよい。ルソー・カント・ヘーゲル・マルクスという方が話の順序としてはわかりがよい。カントとマルクスというのも、間にルソーがいるから意味のある議論になるのだと思う。広西氏の仕事はこぶし文庫で出た時に読んでショッキングであったが、田畑氏の仕事はさらに受けとめやすい。田畑氏の議論の重要性は歴史学の方ではあまり聞かないが、私は重要なものだと思い、蒙を開かれる感じがする。
 そして、上記の二つの問題は、私の思うところだと、結局のところ、二〇世紀社会主義なる奇体な社会構成をどう考えているのかという問題に帰着する。私は、この二〇世紀社会主義なるものは、人類史における集団的所有と私的所有の絡み合いの歴史というスパーンでみると、集団的所有に根をおく全体主義社会であるというほかないと考えている。これは国家社会主義であるという点、あるいは全体主義という点では、ナチズムと同じであるといわざるをえないものだと思う。私は神学者のバルトがナチスに抵抗的な姿勢をとりながらも、ソビエトに対して全体主義という批判を下げなかったのはやはり重要であるというのが、母校・キリスト教大学の経験の中で、結局、学んだことの一つである。
 もちろん、全体主義とはいっても、実質はいろいろで、たとえば私は中国を全体主義国家であると思うが、全体主義だからといってナチズムとは決定的に違っていることはいうまでもない。中国革命は、清帝国をほぼ非暴力的に解体して、近代的統一を作りだし、日本の侵略に対抗したという点では、全体としてはめずらしく成功裏に進んだ革命である。文化大革命における弾圧や、天安門事件への弾圧、現在も続いている抑圧はあるが、ナチスやスターリン、さらに日本の天皇制全体主義国家とはくらべものにならないものである。少なくとも、ナチス・スターリン・日本ファシズムのよう大虐殺はしていない。
 ようするに、全体主義というのは歴史の様々な段階で様々な形で発生するものである。全体主義だからといって、外交関係をもたないというようなことはありえない。ナチスのように、資本主義の上からイデオロギー支配をかぶせ、人々の野蛮な要求と放縦を満たすことによって、国家統制を稠密にしていくタイプと、基礎単位における共同占有を許した上で、集団的所有と支配を組み上げる自称社会主義タイプでは、少なくともその社会に住んでいる人にとって、その意味はまったく異なっている。全体主義であろうと、それは基本的人権の公理の国際的批判基準は、当然適用されねばならないとはいっても、それ自身は、その社会、そのネーションの社会制度選択権に属するのである。堀田善衛がどこかでいっていたように、社会主義のみでなく、自称「社会主義国」に住んでいる人を悪魔のように思う野蛮・無教養が現在でも残っているのは、アメリカの田舎だけである。
 ようするに、柄谷氏の理解には、こういう人類史における集団所有と専制国家に対する系統的な理解が欠けていると思う。とはいっても、歴史学も同断なので偉そうなことはいえない。なにしろ専制国家というとアジア的専制なる用語しかもたないというのが、歴史学の通念だったのであって、全体主義的専制が、どのような機構と神経系統をもって成立するのかは、こちらで詰めないといけない問題である。自称社会主義を表現するのにアジア的専制というのは、ある意味でその通りにしても、なんとも不便なことである。
 集団所有の重層の作り出す支配ということについては、私は戸田芳実氏の簡単な定式化を越えるものをしらないので、困るのだが、ともかくも、これなしには、本質的に国家というものは存在しえないと考える。国家が国家として構成されるためには、それは単に私的な所有ではなく、結局、自己を集団的所有を基礎におく全体的所有の主体に何らかの意味で(想像的か、現実的な)組み上げざるをえない。この集団所有論なしには、本質的に国家論は成立しないのである。いうまでもなく、資本主義は、もっとも私的所有が骨絡みの社会構成である。しかし、それも、他面では人類史上、最大規模にまで発展した企業による集団所有の世界の組織として現れるのである。流通過程が企業と企業、集団と集団の所場争いの場であり、それを媒介にして、利潤率の傾向的低下の法則が現れ、はじめて超過利潤の世界と、労賃・利潤・地代の配分と同時に、職能的配分の世界が構造化され、国家が構造化されるような世界であるということのはずである。
 国家の問題としては、さらに、もう一つ根本的なのは、交通様式の問題である。これについては柄谷氏は経済的な生産様式を交換・互酬・略取の交換様式という言葉にずらすことを提案しているが、むしろ私は交通様式という言葉を維持したいという考え方である。つまり、「モード・オブ・コミュニケーション」ということになるが、これはより単純にいえば、精神的分業(精神労働と肉体労働の対立)の中で考えた方がよい。つまり、交通というのは生産過程を越えるところでの移動・交換などにともなう意思関係であるから、これは分業でいえば、スミスのいう手と頭の分業の発展したスタイルを前提にかんがえた方がよいということになる。多様な手と多様な頭、つまりスミスの言い方では才能の異種性の交換が交通ということの中身である。
 この精神的分業は、狭い意味での交通様式から、その交通内部の情報を中心とする情報様式、その情報関係の中での知識の移動の様式、知識様式などを内容とするといってよい。これは以前、「情報と記憶」という文章で論じたJ.スチュアートのいう社会の「神経系統」(これを戸田芳実氏が拡大して歴史分析に利用した)の問題にも関わってくる。そして、何よりも重要なのは、この精神的分業が精神労働と肉体労働の対立という形をとっていることが、国家の最大の前提なのであるということである。
 要するに、解きがたく見えるボロメオの環を外すためには、三元を一元にする方法が必要であって、その際、集団所有と精神的分業というものがキー概念になるというのが私の考え方である。
 そして、それは人類の社会構成の歴史全体の理解にも関わってくるのであって、集団所有と私的所有の絡みあい、そして精神的分業の独特な展開などによって、社会構成の類型は伝統的な氏族的・奴隷的・封建的・資本制的という四つではおさまらないような多様性をみせるというのが、『歴史学をみつめ直すー封建制概念の放棄』で論じた私見である。これを肉づけるような議論がまだ出来ていないのは認めざるをえないが、しかし、私は、それが必要であると考えている。四段階図式は、何としても廃棄しなければならない。
 将来社会の理想というのは、ようするに、社会というものがどういうものであるかを全員が知って、それを教養としてもった上で、社会のアソシエーションを作り出していくということがないと実現できないものである。市場経済とは何か、資本主義とは何か、それを人類史の長い経過の中で、論理的に位置づけることが、ほとんど常識に近くなっている社会にならないと「協同社会」というものは実現できない。歴史的・世界史的「批判」ということが終局的には必要なのである。
 そして、このためにこそ、歴史学または歴史理論というものはあるはずである。最近、といっても、ここ一〇年ほど、身近な人々と話しをしていても、こういう話は「高尚」な話ということになり、どこからか、会話が転調し、不可聴のヴェールが降りてくるように感じる。
 その意味で、柄谷氏のものなどを歴史学者が読まなくなるというのは、やはり問題だと思うのである。もちろん、歴史学は、まずはアーカイヴズと接触するような職能であって、学問であり、仕事であり、趣味である。しかし、ダーウィンの進化生物学が現在の社会的常識になっているように、歴史学と歴史理論が常識化する時代はかならず来る。歴史学はその基礎構築のために人文社会諸学の境界点の位置、あるいは僕=下部の位置にいたはずなのである。
 それが拓く世界は、社会関係、経済関係というものが相互に理解されている、自己自身を意識しながら関係しあう世界であるはずである。こうして社会関係は徐々に透明になっていく。そもそも人間というのは真っ黒であって、どこまでいっても「業」に囚われた存在である。社会関係の透明化が、家族関係の透明化(人間の再生産関係の透明化)におよんでも、人間が根本的に業に囚われていることは解消されない。人間には不可視の部分があり、汚濁にまみれた部分、不可視の部分は自分しか知らないという形で尊厳を守るほかない存在である。それは汚辱とそれに対応する浄穢の体系を可視的なものとしてにもつ、外部にもつことによって、社会を構造づけるような諸関係をなくさなければならないということのはずである。
 社会を透明化しようというのがアソシエーションの動きであるということは了解する。しかし、その主体となる「自由な個人」「完全に発達した個人」というもの自身をあまりに近代主義的・理性主義的に透明なものとみてはならない。それはいよいよ恐怖に満ちた全体主義の世界になる。結局、この問題は、アソシエーションの前提となる、社会的機能、職能、専門性なるものをどう考えるか、世界大にひろがる専門性の世界、いわばカソリックの世界をどう考えるかという問題にも帰着するのであるが、もう浜松。これについて議論するには社会的職能・機能をどう考えるかという議論が必要なので、ここでは省略する。『世界共和国へ』をチェックし直す時間はなくなったので、あるいは誤解があるかもしれない。これは御寛恕を御願いする。
 いずれにせよ、人間の「業」を見つめるためにこそ社会を透明化するのだということを、たとえば鈴木大拙などを読んでいると考えるのである。


2010年10月 9日 (土)

和紙近江調査と堺市博物館の矢内氏

 今日は、来週からの調査のために土曜出勤。いま帰りの電車でこれを書いている。9時。いろいろ気が散ることがあって、来週の準備は順調に進まず。また出勤か。
 昨日、金曜夜、仕事をしていたら、和紙調査の出張から帰ったT島氏が部屋に来て状況を報告してくれた。和紙調査は毎週水曜日だったのだが、来週出張関係の仕事の立て込み状態がひどくなって、修復室にはしばらくご無沙汰だった。和紙科研の方は、いちおう、ホームページができあがり、技術部の方で必要な情報追加は行える体制ができた。あとの進展は、農学生命学研究科での検討と、王子製紙の協力まちというところがあるので、自分のたこつぼにもぐり込んでいる。なにしろ要領の悪い人間は頭の切り替えが下手なので、追い込まれないとできないのである。
 T島氏は近江の調査。彼にとっても和紙の詳細分析の所外調査は始めてで、どうだったと聞いたところ、収穫が多かったようでいい顔をしている。結局、純繊維紙・澱粉紙・柔細胞紙の分類は顕微鏡分析になるので、近江の博物館関係者も彼の目に頼るところがあったらしい。この分類が本当に有効かどうかはまだわからないが、分類は私と彼が中心で作ってきたのだから当然か。
 私は、先月の始めての所外調査、御寺での和紙調査で、器機とPCを使いこなすのに、四苦八苦した。その時は、技術部の人がくればこんな事はないと、さかんに弁解したのだが、しかし、所外での調査はなかなかたいへんで、修復室といえどもたいへんだろうと心配をしていた。気になって、調査マニュアルの作り直しをしたり、若干の仕事はしたのだが、公私多事のままに十分なことができなかった。報告を聞いてほっとする。全体として和紙科研も最終年度で少し軌道に乗ったのかもしれない。
 この近江の調査は和紙科研本体ではなく、史料編纂所の共同利用拠点の活動の所外メンバーをふくむプロジェクトなのだが、私が担当教員なので、本当は、行くべきで、かつ行きたかったのだが、とても余裕がない。来週からの出張が終わったら、成果を具体的に確認して、先月の御寺の調査と一緒に、メンバー全員に報告をしなけれなばならない。
 こういうのは完全な職人仕事で、職人という点では、研究部も技術部も同じであるが、やはり、毎日、史料料紙の和紙にふれているメンバーとは、徐々に実力が離れてくると思う。職人仕事というのは、ようするに、まずは検鏡の目を一致させていかないとならないという個人仕事であり、個人の目を同調させる技術の共有と継承も職人仕事に類する。こういうのは本当に自然科学に似ていると思う。
 ただ、和紙調査は古文書学や史料論全体に関わってくるので、そこら辺の協同ではまだ私も役割があると考える。先週の農学部のE前先生からの連絡だと、先生やT島氏との協同論文がある歴史の専門雑誌の最終審査が終わって、掲載が決定したということであった(ありがとうございます)。長い間の研究と協同の結果なので、さすがに掲載が楽しみである。
 ただ、和紙の物理的料紙分類はいままで上記の三つだが、やはりもう一つの分類追加がどうしても必要な段階で、これにどうにか目処をつけたい。この四番目は、結局、室町将軍の安堵の御教書で使われる強杉原といわれる料紙(上島有氏の言い方では檀紙)をどう考えるか、そして、この強杉原の系列をうけて秀吉の朱印状の料紙ができあがっていくのは明らかなので、その過程をどう考えるかという大問題に関係してくる。私は、強杉原的な紙として、室町時代の女房奉書のうちの茶色い線の通った強紙があり、また公帖の紙もあると考えているが、それらの系譜を具体的に論じるためには、強杉原の紙の物理分析がどうしても必要なのである。
 もう十年以上前のことになるが、和紙調査の始めは、御寺の老僧にそろそろ重要文化財指定をするべきであると考えるので協力してほしいといわれたのがきっかけだった。そのためにはどうしても調査員費用がいる。そして、本来、重要文化財指定のための経費は公費によってまかなうべきであるとは思うが、実際上、そうはいかず、研究テーマを設定して科学研究費をもらい、その研究の一環として指定事業に協力をした。当時、研究が進みだした和紙分析をその科学研究費の研究テーマの一つとしてあげ、おそらくそのおかげで審査を通過することができた。
 そのときから始めた研究なので、時間だけは長くかけているが、通常の研究とはスタイルも違い、なかなかうまく行かなかった。それでも指定対象となった文書の相当部分について料紙の密度分析などの厳密な計測をし、検鏡もする中で、物理分類を考えてきた。T島氏にはその時から協力を御願いしたが、長時間の検鏡で目を痛めたこともあった。それにも関わらず、これまではあまり修復に役に立つ結果がでなかったのは私の見通しの悪さと集中した仕事時間がとれなかったためで、申し訳ないかぎりだった。このところ、ともかくある結果がでて、その意味でも少しほっとしている。
 昨日は、上記の科研に参加してくれた堺市博物館の矢内氏からも電話があった。最近発行された彼の著書を御寺に送ったところ、御住職がたいへんに喜んでくれた。開祖は著名だが、その後の歴代住職がどういう方々であったかが、知られていないし、調査に不足のところもあった。これが結果がでてありがたかったということだった。そして、さらに私にとってはありがたいことに、矢内氏が保立に世話にもなって研究を進めてきたといってくれたところ、「ご縁ですね。こちらも史料・文書を編纂に公開するという決断をしたが、結局、今になってみると、やはりその判断が正しかったと思っている」と伝えられたということだった。無能ながら30年もやっている仕事なので、やはり励みになる。
 その科研で、ともかく紙の中の澱粉を観察しようということになった。何しろ、染色しないままでは、澱粉画像は見にくく、しかも顕微鏡の中の画像というのは多人数で一緒に見る訳にはいかない画像なので、顕微鏡の中でみえる様々な粒子のうち、どれが澱粉かについては各々の了解が違う。少なくとも私はわからないということで、そういう企画をした。史料編纂所の大会議室で、全国から集まってくれた、紙の研究の中心メンバーを前にして、史料編纂所写真部の調整と器機操作によって、澱粉紙の顕微鏡写真を大画面に映し出した。そして、製紙科学のO川さんが「これが澱粉」と指示してくれた時、何人かのメンバーがハーッと息を呑んだ音が聞こえた。少なくとも、私はこれで澱粉の顕微鏡画像についての目を合わせることができたし、他の人々もこの時に最終的に確認したように感じている。そのころはおそらく澱粉画像を確認できる人は、歴史研究者の中では10人ほどであったろうが、今では相当に増えている。
 和紙科研のホームページをみていただければわかるが、今回明らかになってきた柔細胞は見ようによっては、この澱粉と区別がつけにくい場合があるが、それがはっきりしてきて、みんなの目があってくれば、(現在の仮説が正しければだが)さらに一つの確実な進歩ということになる。
 いま確認してみたら、右の澱粉視認の映写会は2003年度であったから、それから7年。ともかくも、少しづつは進んできているということである。

2010年10月 8日 (金)

「全共闘運動」について

 私は、1948年生まれなので、いわゆる学生運動世代、「全共闘」世代ということになる。そしてご多分にもれず、その洗礼をうけた。よかったと思うのは、それが大学に入ってからというよりも、高校時代であったことである。私の高校は、東京の麻布高校であったので、都会的な流行はすぐに高校にやってきた。学園祭でエレキギターが登場した時代であり、全共闘運動はエレキギターと一緒にやってきたといったら、真面目な人には怒られるだろうか。
 高校の先生の中にも、もう名前は忘れてしまったが、授業が終わるとデモに行くのだという噂の先生がいて、彼が、数学の授業で、ヘーゲルの弁証法というものは、どこで間違ったのか。テーゼ、アンティテーゼの上に、それらを曖昧に統一してしまうのが間違いである、そうではなく革命になるのだという図(?)を黒板に書いて説明してくれたのを、今でも覚えている。
 高校の一年か二年の頃のことだから何もわかる訳はないのだが、大きかったのは、当時、アメリカがしかけたベトナム戦争が激しさをましていたことで、岡村昭彦氏の写真と『南ベトナム戦争従軍記』、本多勝一氏のルポルタージュなどに大きな影響をうけた。高校の雰囲気もあって、「ベトナムに平和を市民連合」、いわゆるべ平連のデモに参加したところ、高校の世界史の先生が近くにいて一緒に歩いたことなども思い出す。
 なにしろ、もう一人の高校時代の恩師が、東京工業大学の数学科の出身、遠山啓さんの教え子で、東工大の時代に学生運動に参加し、樺美智子さんの下で活動したという人であり、当時有名であった三派全学連なるものの「中核派」にいた北小路敏の知り合いという人であったから、大きな影響をうけた。北小路敏の講演会で「西部戦線異状なし」の映画をみたのは、今でも記憶が残っているし、実は「中核派」の『前進』という機関誌を取り、集会にもでていた。
 今から考えると、何と怖いことをしていたのだろう。そういうことから、一歩、距離を置きだしたのは、一年浪人して国際キリスト教大学に入ってからのことで、大学という環境の影響をうけた。気分の上では、キリスト教主義大学であったことが意外に大きかったのかもしれない。私は中学時代は教会に通っており、高校時代は修養部というキリスト教主義のクラブに属していたから、ICUの雰囲気は好きだった。
 しかし、何よりも大きかったのは、高校の先生たちからの影響であった。右の遠山啓さんのお弟子さんの先生も含めて、母校の高校の先生たちは、「全共闘運動」には批判的、あるいは批判的になっていったので、私などをみているのが危なっかしくて仕方がなかったのだろうと思う。先生たちは、あるいはそういう「都会的政治ムード」を放任していたことに責任を感じられたのではないだろうか。急に真剣な声で、「保立、革マルだけはやめておけ」といわれたのをよく覚えている。
 私より一・二歳上の高校の先輩たちは、こういう距離を置く時間がなかったのだと思う。新聞委員会の先輩の松田哲夫氏などは、4,28新橋事件で逮捕されて拘置所での生活をしたということが、彼の本(『編集狂時代』)にかいてある。それまで野次馬で参加していたが、そのあとはみじめにもなり、やめたということである。もうよいと思うが、この事件の時であろうか、私は、国際キリスト教大学の学寮にいて、夜、ラーメンを外に食べにいって帰ってくる途中、ヘルメットの部隊が大学に入る裏道の辺りに群れていて驚いた。彼らは、新宿から三鷹まで逃げてきたのだが、その後、私のいた学寮に入ってきた。実は、その時、私は寮長をしていたので、たいへんに困った。結局、前寮長が「窮鳥を追い出すのか」ということで、一階のホールに全員が一晩を過ごすことを黙認したが、黙認するも何も、とても何もいえる状況ではなかった。
 大学の裏道にわだかまっていた、彼らの黒々としたシルエットと、そのそばを通った時の記憶は、いまでも目にうかぶ。彼らは、今、何をしているのであろう。
 迷惑というよりも心配をおかけしたのは、その時の寮母さんで、大学をでてからであったと思うが、彼女が亡くなったときの教会での葬儀で歌った賛美歌を歌うたびに、そのことを思い出す。


 国際キリスト教大学の全共闘は、今ではほとんど忘れられた言葉だろうが、いわゆる革マルに属していた。私が高校時代に傍にいたのは、いわゆる「三派」で、その中の中核派はとくに革マルとは中が悪かったが、ともかく彼らの研究会に参加した。ただ、しばらくして「革マル」の内部文書のようなものを読まされた時に、「アメリカ帝国主義と北ベトナム・スターリニストの同時打倒」と書いてあったのに驚いた。
 スターリニストというのは、そうだろうと思う。そうだろうと思っていたし、今でも、それはそうだろうと考えている。しかし、ベトナム戦争はアメリカが悪いと考えていた私にとっては、これは「いくらなんでも」という感じで、一挙にこの研究会から引いていくことになった。あるいは引いていく気持ちになっていたものを、この文章を理由にして完全に引いたのかもしれない。ともかくも、そういうことを公然といわずにいて、ガリ版の「内部文書」に書いてあるというのが陰険な感じであった。
 こうして私は「全共闘運動」は嫌ということになり、狭い大学で狂気のようになった小集団をみていて(それはすぐに巨大にふくれあがって、すぐにつぶれたが)、それは完全に決定された。その時に考えたことと、自分の立場と行動の論理は、それ以来、変わっていない。

 しかし、それでも、私は、彼らのいっていた「反スターリニズム」というのは、言葉としては正しいと思う。もちろん、何かに反対である。何かに石を投げるというのは、まわり360度から可能なので、それ自身では意味がないということもいえる。
 しかし、ともかくスターリンという政治家と彼のやったことと、それを究極のところで認めるような政治システムは絶対に駄目だというのは、それこそ高校時代から変えた積もりはない。それは結局正しかったと思う。また、個人的には、全共闘運動に何らかの形で加わったり、まわりにいた人とは何となく気があう場合もあるというのも事実である。
 さて、実は、以上の文章は、昨日から書き出して、今日の帰りの電車で書き継ぎ、自宅にかえって、食事を終えてから、手を加えている。途中で、松田氏の『編集狂時代』をさがして読んでいると、やはり、これがあの時代の雰囲気があって面白い。それを書くと長すぎる、そろそろ本業の義経に戻るので、一部のみを紹介すると、文庫の143頁に、「最初は違和感があったが、全共闘世代という言葉を受け入れる」という文章がある。
 これは私などはさらに違和感があるが、しかし、当時の世界を席巻した学生運動の中心的な理念が「反スターリニズム」であったことの意味はやはりあるのだろうと考える。それ故に、当時の学生運動を日本では「全共闘運動」という名前で呼ばれるのは、ある意味では正しいのだろうと思う。もちろん、それが、巨大なエネルギーの無駄であったことは事実であり、またその実態は、やはり「大学紛争」としかいえないものであったとは思う。

 そして、敗戦直後の日本、50年代の日本で、石母田さんや稲垣さんや網野さん、戸田さんなどの戦後歴史学の担い手たちが取った社会的行動と、我々の世代の動きは月とすっぽんの違いがある。彼らの動きが日本社会の巨大な流動期の本気の動きであったとすれば、我々の世代の行動は、全共闘運動に参加したものも、それに反対の動きに参加したものも、所詮、ただの茶番劇であったと考える。

 しかし、それにしても、それは我々の世代の経験だったのであって、その経験を踏まえて考えるべきことの重要なテーマに「反スターリニズム」ということがあるのは、私は疑わない。そして、これは私たちの世代の責任でもあると思う。
 さて『編集狂時代』を読んでいたら、ヘーゲルのテーゼ・アンティテーゼについて授業で急にレクチャーをはじめた先生の名前がでてきた。「山浦先生」だった。それは危ないデモに松田氏が参加した時のことで、その部分を下記に引用しておく。
 「ぼくたちは、日比谷講演出発の際に、その集団に加わろうとした。すると、目の前に数学教師の山浦先生が現れ、『君たちは危ないから入らないように』と言う。びっくりしている僕たちを後目に、彼はデモ隊に戻っていった」。(文庫144頁)
 ここにはたしかに私の記憶する山浦先生のイメージが立ち現れてくる。真面目そうなメガネの中の目。本に残された記録と、人の頭の中の記憶と、自分の記憶の関係というのは面白いものだと思う。それらをおおっている霧が急にはれるようにしてイメージが現れてくる。

 しかし、山浦先生は、今、どうされているのだろう。


 

2010年10月 7日 (木)

鈴木大拙全集の古書価格への怒り

 昨日、御寺の史料の目録を作っていて「仏国禅師観音懺法図讃」というものがでてきた。仏国禅師といえば、私が知っているのは、後嵯峨の息子で、有名な建長寺の高峰顕日のことであるが、この図讃は宋版の木活字本で、しかも見事な竹紙で作られている。私が目にしたこと、調査したことのある竹紙の中では保存もよく、新品の時はどんなに見事なものだったろうと思える。新品をみてみたい。よくみる江戸期の竹紙は相対的に薄手だが、これは少し厚い。厚いとはいっても、さらに古い宋版一切経でみたことのある、何となく荒々しい感じのする紙とは違って、簀目もほそく、糸目は1センチあるかないかというものである。
 これが宋版の御経であるとなると、仏国は鎌倉末期の日本の僧侶であるから、時代は別として話があわない。無教養を曝露するが、私は中国仏教史がまったくわからないので、こまってしまった。
 こういう時はネットワークを引くにかぎるので引いてみると、「仏国禅師観音懺法図讃」というものがドンピシャででてきた。他に論文もあったが、鈴木大拙全集35巻にも関係する記述がある。大拙全集を見るのが手早いということで、書庫に行ったが後補分の31巻以降はない。昼休みに総合図書館にいって、検索すると、総合図書館などの近辺にはないというのが検索結果、書誌情報の入力に癖もあるということなので、書庫に入ってみたが、やはり存在しない。
 結局、午後は別の仕事が目白押しで、そのままにしていたが、帰宅間際になって、帰り道の千葉市図書館によってみようと思いつき、ネットワークで、本があるかどうかを確認したところ、「あるある」。しかも平日は夜九時まで空いているというので、八時頃に図書館によった。
 検索して、それを印刷して、カウンターにもっていくと2分ほどで書庫から出てきた。夜だから早いということもあるが、我が大学よりも、我が自治体図書館の方がはるかに優秀である。我が大学、一般に大学図書館は政府にいじめられているから仕方がない部分があるとはいっても、しかし、こういう対照を実感すると、たいへんにお寒いものを感じる。
 鈴木大拙の解説は短いが、仏国禅師は「仏国惟白禅師」であり、「趙宋の名匠で頗る文藻に富んでいた。善哉童子南方遍歴の跡を図して、それに自ら賛を加えた。無尽居士張商英は、これに序して『人境交参、事理倶顕、則意詳文簡』とした」ということであった。
 以上。さらに感想を三つ。
(1)実は、昨日は財布を家にわすれたことに東京駅で気づいて、朝、地下鉄に乗れずに立ち往生。改札口の人に頼んで、本郷までの仮切符をだしてもらい(ありがとうございました)、帰宅の時に返却した。図書館のカードは財布の中で、もっておらず、本を借りるのは無理かと思ったが、聞いてみたら、名前のわかるものと、住所などの記入で確認できるということで、大拙全集を借りることもできた。
 日本の社会は基本的なところで親切さというのがある社会で、Well-organizedであると思う。これをシステム的な協同社会に組み上げていくことができれば、そしてもう少し自由と寛容のレヴェルが高ければ、この社会はよい社会であると思う。
(2)しばらく前、鈴木大拙の全集を買って勉強をしようと考えたことがあり、古書を調べてみたら、全巻で2万円を切るものもあった。鈴木大拙といえば、何といっても、二〇世紀の日本の思想家の中では大きな存在で、私などの高校時代には、大拙の本は読むべき本の一冊であった。それが2万円。つまり、一冊1000円以下というのは何ということだろう。ようするにそういうものを読まない時代になっているのだ。
 それ以外にも、津田左右吉全集も同じような値段で、先週末に行った近くの古本屋では三木清全集が全巻、8000円だった。いつか岩波書店の編集者に話したら、変なことで怒る人だという顔をして、岩波の思想大系、古典文学大系などもほとんど値がないに等しいといっていた。これは日本の文化の基礎崩壊とでもいえるような事態なのではないだろうか。大学にそろっていないことも、その一環ということになり、他人事ではない。
 しかし、若い人々は、本格的な勉強をしようと思えば、今が機会なのかもしれない。私の若い時は、とても津田左右吉を揃えようという余裕はなかったが、古典著作をそろえることができるのである。なかなか置き場所も問題で、この前はやはり時間がないと考えたが、私だって、定年になって、退職金を使う余裕があれば、津田、鈴木は是非買っておきたいと思う。おのおのを2ヶ月かけて読めば、頭の中が変わるだろうと思う。
 必要なところをみていたら、すぐそばの、大拙の短文の下記に惹かれた。
「本願の根源。人間は思うたより余計に、本能的心理というもので動作しているかのごとくみえる。これが業である。しかして、自分等は皆論理的に行動しているのだと考えている。これも業である。/////「人」が「心」を通して「物」に働きかける。「物」がその心を映して「人」に響応する。「物」は「物」だけでなくなって、「物」の「心」が人の心と相交わる。一つになる。/////業苦は業苦でついにのがれられぬものか。どうもそうらしい。それで、それら一切をひっかついだままで、弥陀の誓願海へ飛び込む。ここに宗教的安住の世界がある。<親鸞上人七百回大遠忌記念講演会パンフレット>」
 立派なものだと思う。「欲求と自己意識」「物の対象性と呪物性。物の親和力」「業苦と安住」。こういうことを、こういう風に語るのが東アジア宗教なのだと思う。
(3)私は『平安王朝』という本のあとがきで、平安時代の政治史や制度史は相対的に簡単で、しつこくやっていれば誰でも研究論文を書くことができるので、読者にも、是非、挑んでみて欲しいと書いたことがある。人には、「そんなことはない」「研究者を馬鹿にしているようだ」といわれたことがある。
 しかし、歴史学というのは、開かれたもので、多くの人が作業に参加することができる物だと思う。ヨーロッパでは日曜歴史家といわれたアリエスがいる。社会的・人生的経験をつんだ人々が、自分の仕事に関係する特定の分野の歴史の研究を行えば相当の成果をあげることができる。たとえば林業の研究はきわめて少ないが、林業に従事したことのある人が研究に入れば、現在より、具体的な問題がわかってくる可能性は高い。
 とくに江戸時代以降の歴史の研究などは、とても専門研究者だけでは人数がたりない。少なくとも将来の社会では、趣味としては歴史学は非常によいものになると思う。もちろん、どの分野にもかならずいる一言居士のような人が歴史好きの人には多いかも知れないし、学問外的なこだわりがあっては困る。また、基礎作業としての史料検索の便宜がデータベース・知識ベースの形で整っていることも条件だろう。歴史理論と通史的な概説がつねに洗練された形で用意されていること、研究が全体として明らかにしたことが、細かな点まで知識ベースの形で一覧可能になっていることも重要だろう。
 それらの条件があれば、自分たちの社会を省察する上で歴史学は本当によいもので、宗教的観想にも替えることができるものだと思う。ようするに宗教というのは永遠の時間、通常の人生より、長い時間の観想の仕方だから。
 昨日読んだ『「日本」とは何か』で、網野さんは「学問は決して歴史家だけの専売特許ではない。未知の問題は沢山あり、社会全体にそういう探求の意欲が広がり、多くの人が参加するようになれば、学問の質も根本的に変わる。夢のようなことをいうと思われるかも知れないが」といっていた。
 図書館の話にもどれば、研究のためには、個別論文などは電子情報があればすむが、古典や広汎な仮説を含んだ学説史をしるためには、やはり本が必要である。昨日の経験は、そのレヴェルの図書館をつくる条件も、それなりに整いつつあるのかもしれないという感じであった。

2010年10月 5日 (火)

網野さんの対談集『「日本」をめぐって』

 今日は新潟の竹田和夫氏が来て、「高校日本史と大学講義の接続実践」(山川出版社、『歴史と地理230号』(日本史の研究』)-などをおいていってくれる。

 新潟の高校の四単位と新潟大学での個性化科目の2コマで、「6世紀の地域社会と異国伝承」「日本海における渤海との交流と認識」「国風文化再考」という同じ指導案で授業をした経験を記したもの。

 この報告を読んでいると、地域ごとでの一貫した史料選択(教材選択)によって、地域の歴史的常識を替えていくことができるのだと思う。地域教材を学界・教育界で共有して行くことによって何が可能になるのかの実験として興味深かった。

 結局、日本の「古代史」は、東アジアの「中世史」の中で、匈奴の動きと東アジアの民族移動、内乱の中で理解するという筋道を通すことがどうしても必要だと思う。それを各地域で、どういう典型教材でイメージが描けるかを蓄積していく方途はないものかと考える。

 『かぐや姫と王権神話』で論じた「北東アジア、火山文化圏」論=タカミムスヒは火山神であったという議論は、まだまだそこに届いていない。ただ日本の「古代史」学界では、ほとんど拒否反応という感じであった「騎馬民族国家説」が目指した「東アジアの中の日本」という観点を仮説的に受け継ごうとしたものなので、東アジア論は、もう一度勉強しないとならない。

 竹田氏は、網野善彦氏に佐渡で会ったとき、佐渡北辺の海岸から対岸を指さして対外文化交流をテーマとした教育実践を行うように強く勧められたと書いている。

 今日、私も電車の中で、網野さんの諸氏との対談を収めた『「日本」をめぐって』(洋泉社)を読みながら来たので、印象が強い。

 網野さんのこの対談本は、同じく同じ頃に洋泉社からでた『日本中世に何が起きたか』が、歴史学関係での網野さんの全体的な言い置きであるとすれば、一種の「思想的」というよりも網野さんの立場を言い置くという感じの本である。

 対談者と自由に話しながら、自身の立場を相当にはっきりといっているのに驚いた。

 この対談本は、そのあとがきで網野さんが「同じことを述べていて新味はない」といっていたためであったと思うが、キチンと読んでいなかった。勇気づけられるもので、いろいろ憂鬱なことの多いこの頃、久しぶりに網野さんの肉声を聞いた感じがした。

  網野善彦さんの仕事について、2007年に名古屋の中世史研究会で行った講演をWEBPAGEにあげておいた。

 また、以下に『日本中世に何が起きたか』の解説を引用しておいた。

 本書は網野善彦氏の歴史学の全体像を知るのにもっとも適した本である。網野さんは、本書の「あとがき」で、「二一世紀の人類社会は、これまでまったく経験したことのない『壮年時代』に入ろうとしている。この時代を誤りなく乗り切っていくためには、これまで見逃されてきた人類の豊富な経験と叡智を余すことなく汲みつくし、未来に生かすことが必要であり、それを課題として負わなくてはならない現代歴史学の責任は非常に重い。あたかも十三世紀にすぐれた宗教家が輩出したように、いまこそ強靱な思想に裏づけられた傑出した歴史家が輩出しなければならない時代である」と述べている。十三世紀の宗教者、つまり親鸞・一遍・日蓮などの役割を歴史家に期待する網野さんの高調した姿勢には驚くが、しかし、たしかに、現在、歴史家の果たすべき役割はきわめて重い。
 この網野さんのメッセージは、人類史における「無縁」の原理というものについての歴史学的な追究を根拠としていた。それはまず、人間にとって自然は「無縁・無用」な存在であるという確認から始まる。私たちは、普通、人間と自然の関係について、どうしても「有縁・有用」な側面に注目しがちであるが、網野さんは、そうではなく、むしろこの自然の「無縁・無用」な性格が人間と人間の社会にとってきわめて重大な意味をもっているという。人間は自然を所有・支配するのみでなく、動物として自然の一部である。だから、無所有の自然が人間社会に影響している様子を明らかし、その意味を受け止めることが重要だというのである。
 これはいわれてみれば当然のことではあるが、網野さんがこういうことを真剣に考えた理由は、網野さんが漁村史の研究から出発したことにあると思う。「海」は「板子一枚下は地獄」ともいわれるように、無所有の自然が生活と労働の中に直接に影響する世界である。これが網野さんの「無縁」の原イメージであった。そして、この問題をつきつめて考える上で、網野さんが影響を受けたのが、原始社会論をデッサンしたことで有名なマルクスの「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」の一節であった。漁業史研究とマルクス。この二つが、第二次大戦の後の激動期における網野さんの重い経験となっていたことについては、ここで説明する必要はないだろう。学問は経験を越えるものだからである。
 こういう背景をもった「無縁論」を述べた『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(平凡社、原著1978年)という著書が、読書界に迎えられ、歴史学では普通考えられないようなベストセラーとなったのは網野さんにとっても意外なことであったろう。しかし、たしかに、この本は、無所有の自然に対する畏敬の感覚・意識・宗教観念などを、「無縁」という語をキーワードにして、様々な史料の中から具体的に掘り起こすことに成功している。今読んでみると、そこには、社会の中に構造的に存在する「無縁の境界領域」の姿をともかくもつかみとったという網野さんの興奮があらわである。
 そして、その上に立って、網野さんは世界史には「原始社会ー奴隷制社会ー封建農奴社会ー資本主義社会」などという「有縁・有主」の「法則」のみではなく、共同体や宗教組織が「無縁・無所有」の世界を自覚化していく過程に関わる「法則」「無縁の法則」があったのだという破天荒な主張をされた。その内容の説明はほとんどなく、これは分かりやすいとはいえない主張であったというのが率直なところである。悪口をいえば、この本は極度に具体的でわかりやすい「実証」と、よくわからないながら意味があるようにも思える「理論」を絶妙にミックスして迫力をましたといえるように思う。

 以上が私が理解する網野さんの「無縁論」の概略であるが、本書を順序に読んでいただければ、この「無縁論」を導きにして、網野さんが、どのように進んできて、さらに最晩年にはどこへ進もうとしていたのか。ご自身の言葉でいえば「どうやら見えてきたように思われる、この問題の私なりの解決」をどう「展望」していたのか(本書二二二頁)を知ることができる。それは結局のところ、第一には、「原始社会ー奴隷制社会ー封建農奴社会ー資本主義社会」という図式に対する実質的な否定であった。網野さんは『無縁・公界・楽』では、このいわゆるロシア・マルクス主義、つまりレーニン・スターリンなどに由来する世界史の四段階図式を「もっとも練り上げられた理解」とされていたが、最晩年において、この図式が維持しがたいということを認められたのである。そこで決定的であったのは、これまでいわゆるマルクス主義者であろうとなかろうと、ほとんどの学者が認めていた「徳川時代以前の日本は封建制であった」という「理解」を一つの思い込みに過ぎないものと切り捨てたことである。結論にいたる筋道は違うとはいえ、ほぼ同時に、同じ理解をするようになっていた私にとっては、これが網野さんとの理論の親近性を実感した最初だった。
 そして、第二は、より衝撃的なもので、それは「無縁」の原理の中に商品の交換あるいは「資本主義」そのものが表現されているという視野であった。これは、甥の中沢新一氏の示唆によったものであるというが、網野さんの本来の見解にそれが含まれていたこともいうまでもない。つまり、商品の交換が成立するため必要な「相互に他人である関係」(『資本論』)は「無縁の場」として「市庭」によって提供されたという考え方は、すでに『無縁・公界・楽』の段階で明記されているのである。しかし、私は、それを聞いた時、とても網野さんの発想にはついていけなかった。網野さんに、それはウェーバーのいう賎民資本主義論の焼き直しではないか、それは従来の原始以来の自由という無縁に対する議論とどう整合するのかといった覚えがある。けれども網野さんは自己の直感にしたがい、多少の不整合は無視して、仕事を続けられた。
 最後に述べるように、私は、このような網野さんの学説の変化は、結局のところ正鵠を射ていたという考えるようになり、網野説に「降伏」することになった。もちろん、けっして無条件降伏をしたつもりはないが、やはり網野さんの持続する志、そしてそこに基礎をおく直感の強さは、天才というにふさわしいものあろうと思う。しかし、歴史学界は網野さんの「無縁」という問題提起を最後まで受け入れなかったし、現在でも受け入れていないのが事実である。
 これは、率直にいって網野さんの側にも問題があった。つまり、網野さんは『無縁・公界・楽』の段階では、前述のようなロシアマルクス主義に根をもつ世界史の四段階図式を認めていた。だから、いわば網野さんの「理論」は、まだ二元論あるいは折衷という側面を残しており、それが論理の筋目を曖昧にしていたのである。その上、その頃には、ギリシャ史の太田秀通氏のような「戦後歴史学」の代表的理論家たちは、すでにロシアマルクス主義とその四段階図式を否定する立場を明らかにしていたから、私などには、網野さんの理論は、古色蒼然としたところと新しすぎるところが渾然一体、未整理であるという印象が避けがたかった。そういう困惑は、網野さんが展開したいわゆる「戦後歴史学」に対する激しい批判の問題とも関わっており、私などからすれば、網野さんは「戦後歴史学」を批判するが、実は古い「戦後歴史学」の「理論」を自己自身前提にしているではないか。それを棚にあげておいて、過去を批判するのはフェアーでないように感じられたのである。
 もちろん、網野さんの「無縁」の理論が受け入れらていない理由は、本質的には歴史学界の側にある。歴史学者というのは、学者の中でももっとも頑固かつ「保守的」で、人のいうこと、仲間のいうことに賛成することがきわめてまれである。そしてそもそもそう簡単に「理論」などは信用しないタイプの人間が多く、とくに、この国、「日本」という極東列島の歴史学者は、「理論」などはどうでもいいと思っているところがある。網野さんの無縁論が受け入れられないのは、理論の中身の問題よりも、こういう歴史学界の体質による点も多いというのが私の意見である。最近、もしこういう状態がさらに続いて、網野さんの議論が忘れられるようなことがあってはならないと痛切に感じるようになった。
 しかし、これをもっていちがいに歴史学界を責めることもできないのが事実である。「日本」は、その前近代の時代、「極東の島国」として享受した「平和」によって、世界で随一といってよい大量にして多様な歴史史料と歴史文化財をもっている国である。私たち「日本」の歴史家は理論を考えるよりも歴史史料の分析それ自身で忙しい。その大量の史料の範囲内で、その全体をつかもうと苦闘している歴史学者にとって、さらにそれを越えて、より根本的な社会科学的な「理論」を汲み立て直すことは至難のわざである。網野さんの要求は高すぎるのである。

 以上のようにいうと、網野さんの歴史学は抽象的な理論の枠組みに貫かれているように感じられるかもしれない。万が一の誤解のないように申し上げておきたいのは、網野さんの仕事が歴史学に大きな影響をもったのは、「無縁論」などの「理論」のためではない。網野さんの仕事が影響をもったのは、史料から描きだされたイメージそれ自身が説得的で、新しい視野をひらくものであったためである。とくに網野さんは、「無縁の世界」で活動する「非農業民・商工民」の世界を生き生きと描き出した。その仕事の量も、『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店、1984年)をはじめとして、けたはずれに膨大であった。本書には、研究史を塗り替えた、そのような仕事のエッセンスが入っており、網野さんの叙述の魅力を実感することができる。私は、本書の中では、広末保氏との「対談・市の思想」と佐渡での講演「中世の音の世界」が好きである。前者は肝胆を照らしあった友人の静かなやりとり、後者は、網野さんの発想の闊達さを示してあますところがない。
 網野さんが「日本」の前近代社会が残した大量の歴史遺産と史料の意味するものを具体的に読みといていく上で大きな仕事をしたことは疑いがない。ただ、その上で、網野さんは「日本」の歴史と歴史遺産を受け継いでいく「民族」の営為が人類史の中でもつ意味を「理論的に」も強調するのである。たしかに未曾有の時代を迎えている人類史の中でこそ、「日本」という「民族」の負っている歴史遺産と文化を系統的に残すという課題の重大さが明らかになる。つまり、これまで、世界の諸国の中で、自国の力のみをもって、高度工業化社会の中に前近代の文化遺産を十分に「保存」「保守」した国は存在しない。もちろん、ヨーロッパ社会は、前近代の文化遺産を現代に受け継ぐことにいちおう成功したようにみえるが、いうまでもなく、それは一五世紀以降、ヨーロッパが世界中から集めた冨によって可能になったものである。ヨーロッパ文化は、世界的な文化破壊とそれにともなって形成された文化的環境と博物学によって自分を保存することができたのである。それに対して、ユーラシアの多くの国々の中で、自国の冨のみによって前近代の文化遺産を高度工業化社会の中に維持していくという事業にまだ成功した国はないのである。日本も、これだけの歴史史料と文化遺産をもっていながら、その「保存」の実情はきわめてお寒い状態なのである。それを改善するために何よりも必要なのは社会全体の理解と支援である。私はいま東京大学の史料編纂所という前近代日本史の研究所の所長をつとめているので、とくにそれを痛感せざるをえないのであるが、これは東京大学の現総長の小宮山宏氏がしばしばいうところの日本は「課題先進国」であるという積極的な見通しの中で考えるべきことであろう。小宮山氏のいい方では、日本は世界が直面しているさまざまな課題を先取りした形で、しかも鋭い矛盾として抱え込んでいる。これを突破することができれば、我々の仕事は人類史的な意味をもつというのである。いずれにせよ、現代の歴史家の中でももっとも社会的な影響力のある仕事をした網野さんが亡くなられたことは、歴史学が社会的な連携や支援を求めていく上で、本当に大きな損失であったと思う。

 私と網野さんとの最初の出会いは、史料編纂所の古文書部でのことであった。かって古文書部には、稲垣泰彦氏・笠松宏至氏という網野さんの親密な先輩・友人がいらっしゃり、まだ名古屋大学にいらした頃から、網野さんはよく私たちの部屋にこられた。よく覚えているのは東京駅で名古屋へ帰る網野さんにばったり出会ったことで、家族へのおみやげを両手にもった網野さんの満面の笑みが忘れられない。そういう幸せをふくめて、稲垣さんは「まったく網野は」といい、笠松さんは「信じられないよ」といい、今から考えてみれば、私が漁業史の研究に取りかかったのも、そういう雰囲気の中での網野さんの影響であったのだと思う。しかし、当時の私は、そういう自覚はなく、網野さんは、「無縁論」を含めてすぐに乗り越えるべき(と思っていた)、批判対象であったから、私の議論はしばしば挑戦的なもので、それに対して網野さんはよくつきあってくれたものだと思う。『無縁・公界・楽』に「農業民に十分比肩しうる役割を日本の歴史の中で果たしたことの間違いのない海民について、現在専門的に研究している狭義の研究者が何人いるのか。五指にも満たない。これが現実なのである」と書かれているように、網野さんは、漁業史の研究が置き去りにされていることに危機感をもっていた。それだから、私の漁業史の論文のようなものでも、それが活字になった時、「保立君も五指の漁業史家の中に入ったよ」と苦笑しながら認めてくれたのだと思う。しかし、私は網野さんに対する批判をつづけた。笠松さんによると、網野さんは、保立君の書く論文にはほとんどかならず自分に対する批判が入っていると辟易されていたようである。
 そういう状態が変わっていったのは、おそらく、網野さん、そして石井進さんが関わった静岡県磐田市の一ノ谷中世墓地および横浜市の上行寺東墳墓群の保存問題との関係であったと思う。この経験を通じて、誇るべき価値をもつ日本の歴史遺産、遺跡がどれだけお寒い状況におかれているかということを、私たちは肌身で思い知ったのである。私は、この二つの遺跡についての学界をあげての保存運動に千々和到氏・池享氏などと一緒に関わり、一時は網野さんの御宅にしばしば電話をして相談することになった(本書を編集している藤原氏もそのころからの仲間である)。電話口から「網野でございます」という、網野さんの、あの独特の深い声が聞こえると、私は運動の側の細かな事情にからめて、あれをやってほしい、あの人を紹介してほしいというお願いを繰り返した。網野さんは、石井さんとは違って、なかなか御自分で動かれようとはされなかったから、不満に思うこともあったが、いまからふり返ってみると、たしかに網野さんは、社会的な行動についても百戦錬磨で、学者としての持続する意思と穏当な判断、そして必要な時には行動することをいとわない姿勢を維持されていたと思う。そもそも「墓地の保存」という動きを支えたのは、今になって冷静に考えてみれば、「墓地=無縁」という網野さんの論理そのものでもあったのである。

 網野さんがなくなられたのは、二〇〇四年二月であるから、まだ二年前のことである。この「解説」を書くためにそれを確認してみて、信じられない気持ちになる。実は、私は、二〇〇二年の九月に「戦後歴史学」の評価に関わって、網野さんに対する強い批判をある雑誌に書いた(「戦後歴史学と”君が代”」『宮城歴史科学研究』五二号。後に『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年、所収)。そしてそれを確認した上で、今度は、むしろ網野さんに「降伏」する方向に進みつつあった。それを明示したのは、網野さんが亡くなられる一年前に発表した論文「歴史経済学の方法と自然」(『経済』2003年3月・4月)であった。私は、この論文で、網野さんの「無縁論」の原型をなしたマルクスの「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」の視点を、マルクス・エンゲルスの他の著作の中に確認する作業をした。たとえば、商品の「使用価値」を支えるのは物の「有用性」であるというのが『資本論』がいうところであるが、マルクスは「有用性」のみでなく、網野さんのいうのと同じような趣旨で自然の「無縁性・無用性」にも言及している。「無縁」という問題は、たしかにマルクスが「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」で展開した原始社会論に基礎をおくものであるが、それだけではなく、網野さんが示唆するように商品論のレヴェルにも関わる問題だったのである。現在の段階でマルクスの学説をどう評価するかはまったく別の問題であるが、結局のところ、私は理論史の理解という点では、他の人々よりも網野さんが正解であったことを確認せざるをえなかった訳である。
 私的な手紙を引用するのは申し訳なく思うが、以下が、この論文を送った時の網野さんの礼状である。
 前略。『経済』二冊拝受。久々に本格的な理論問題に関わる力作を拝読。感嘆しつつ、海に関する問題は残されているなどと考えているうちに、”血痰”が出て入院。心配ないことが証明され、無理退院しましたら、拙論に対する御批判を含む抜刷・複写をいただいており、早速、拝読しました。”戦後歴史学”の暗部に関わった方々が次々に世を去られ、私の経験も多くを胸に抱いたまま消える日の確実に近づいているのを感じています。拙著が力みすぎているのは十分自覚していますが、何千人にも及ぶ学生・聴衆がだれ一人、国号の決まった時期を知らず、日本を地名と思っているという現実に直面した衝撃が大きく、戦後なにをやってきたのかという気持から筆が走った点は認めます。石母田・永原両氏に対する批判はたしかに言葉たらずでしょうが、私なりにあちこちでふれてきたつもりで、今後も努力しますが、貴兄の御批判もやや”乱暴”の感があります。誤解もあるようなので、先にお送りした拙著をふくめ、息のある限り、御批判にお答えすべく努力いたします。種々の御教示、心より御礼申し上げます。御健勝を祈りあげます。右御礼まで。 草々            網野善彦
 網野さんの手紙にいう、「拙論に対する御批判を含む抜刷」というのは、右の「戦後歴史学と”君が代”」という文章であり、批判の対象となった網野さんの本は『日本とは何か』(講談社『日本の歴史』0巻、二〇〇〇年)であった。この私の文章は、約一年前に書いていたものだが、そのころ、すでに調子を崩されていた網野さんに送る気にはなれず、網野さんに「降伏」したことを示す『経済』論文と一緒にやっと送ることができたものである。
 右の手紙をいただいた後、私は、網野さんの『日本とは何か』を再検討し、それをふくめて、二〇〇四年一月に、『黄金国家』(青木書店)というを執筆した。私は、そこに網野さんの「無縁=資本主義」論に関係する世界史の見通しを前提とした意見を書き、また同時に「網野のパセティックな問題提起をきいていると、これまでの歴史学にはどこか決定的に不十分な点があったのではないかという疑いが我々の胸に宿ることを否定できないのである。私たちは、『戦後歴史学』の受け継ぐべき諸側面と同時に、その議論の方法的限界を正確に認識するところから出発しなければならない。その意味でも、網野の問題提起は尊重され、受け継がれなければならない」と書いた。しかし、病状を心配しながら書いた、この二度目の「降伏」を示す本についての網野さんの感想をうかがうことはできなかった。
  

 

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