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2010年10月 8日 (金)

「全共闘運動」について

 私は、1948年生まれなので、いわゆる学生運動世代、「全共闘」世代ということになる。そしてご多分にもれず、その洗礼をうけた。よかったと思うのは、それが大学に入ってからというよりも、高校時代であったことである。私の高校は、東京の麻布高校であったので、都会的な流行はすぐに高校にやってきた。学園祭でエレキギターが登場した時代であり、全共闘運動はエレキギターと一緒にやってきたといったら、真面目な人には怒られるだろうか。
 高校の先生の中にも、もう名前は忘れてしまったが、授業が終わるとデモに行くのだという噂の先生がいて、彼が、数学の授業で、ヘーゲルの弁証法というものは、どこで間違ったのか。テーゼ、アンティテーゼの上に、それらを曖昧に統一してしまうのが間違いである、そうではなく革命になるのだという図(?)を黒板に書いて説明してくれたのを、今でも覚えている。
 高校の一年か二年の頃のことだから何もわかる訳はないのだが、大きかったのは、当時、アメリカがしかけたベトナム戦争が激しさをましていたことで、岡村昭彦氏の写真と『南ベトナム戦争従軍記』、本多勝一氏のルポルタージュなどに大きな影響をうけた。高校の雰囲気もあって、「ベトナムに平和を市民連合」、いわゆるべ平連のデモに参加したところ、高校の世界史の先生が近くにいて一緒に歩いたことなども思い出す。
 なにしろ、もう一人の高校時代の恩師が、東京工業大学の数学科の出身、遠山啓さんの教え子で、東工大の時代に学生運動に参加し、樺美智子さんの下で活動したという人であり、当時有名であった三派全学連なるものの「中核派」にいた北小路敏の知り合いという人であったから、大きな影響をうけた。北小路敏の講演会で「西部戦線異状なし」の映画をみたのは、今でも記憶が残っているし、実は「中核派」の『前進』という機関誌を取り、集会にもでていた。
 今から考えると、何と怖いことをしていたのだろう。そういうことから、一歩、距離を置きだしたのは、一年浪人して国際キリスト教大学に入ってからのことで、大学という環境の影響をうけた。気分の上では、キリスト教主義大学であったことが意外に大きかったのかもしれない。私は中学時代は教会に通っており、高校時代は修養部というキリスト教主義のクラブに属していたから、ICUの雰囲気は好きだった。
 しかし、何よりも大きかったのは、高校の先生たちからの影響であった。右の遠山啓さんのお弟子さんの先生も含めて、母校の高校の先生たちは、「全共闘運動」には批判的、あるいは批判的になっていったので、私などをみているのが危なっかしくて仕方がなかったのだろうと思う。先生たちは、あるいはそういう「都会的政治ムード」を放任していたことに責任を感じられたのではないだろうか。急に真剣な声で、「保立、革マルだけはやめておけ」といわれたのをよく覚えている。
 私より一・二歳上の高校の先輩たちは、こういう距離を置く時間がなかったのだと思う。新聞委員会の先輩の松田哲夫氏などは、4,28新橋事件で逮捕されて拘置所での生活をしたということが、彼の本(『編集狂時代』)にかいてある。それまで野次馬で参加していたが、そのあとはみじめにもなり、やめたということである。もうよいと思うが、この事件の時であろうか、私は、国際キリスト教大学の学寮にいて、夜、ラーメンを外に食べにいって帰ってくる途中、ヘルメットの部隊が大学に入る裏道の辺りに群れていて驚いた。彼らは、新宿から三鷹まで逃げてきたのだが、その後、私のいた学寮に入ってきた。実は、その時、私は寮長をしていたので、たいへんに困った。結局、前寮長が「窮鳥を追い出すのか」ということで、一階のホールに全員が一晩を過ごすことを黙認したが、黙認するも何も、とても何もいえる状況ではなかった。
 大学の裏道にわだかまっていた、彼らの黒々としたシルエットと、そのそばを通った時の記憶は、いまでも目にうかぶ。彼らは、今、何をしているのであろう。
 迷惑というよりも心配をおかけしたのは、その時の寮母さんで、大学をでてからであったと思うが、彼女が亡くなったときの教会での葬儀で歌った賛美歌を歌うたびに、そのことを思い出す。


 国際キリスト教大学の全共闘は、今ではほとんど忘れられた言葉だろうが、いわゆる革マルに属していた。私が高校時代に傍にいたのは、いわゆる「三派」で、その中の中核派はとくに革マルとは中が悪かったが、ともかく彼らの研究会に参加した。ただ、しばらくして「革マル」の内部文書のようなものを読まされた時に、「アメリカ帝国主義と北ベトナム・スターリニストの同時打倒」と書いてあったのに驚いた。
 スターリニストというのは、そうだろうと思う。そうだろうと思っていたし、今でも、それはそうだろうと考えている。しかし、ベトナム戦争はアメリカが悪いと考えていた私にとっては、これは「いくらなんでも」という感じで、一挙にこの研究会から引いていくことになった。あるいは引いていく気持ちになっていたものを、この文章を理由にして完全に引いたのかもしれない。ともかくも、そういうことを公然といわずにいて、ガリ版の「内部文書」に書いてあるというのが陰険な感じであった。
 こうして私は「全共闘運動」は嫌ということになり、狭い大学で狂気のようになった小集団をみていて(それはすぐに巨大にふくれあがって、すぐにつぶれたが)、それは完全に決定された。その時に考えたことと、自分の立場と行動の論理は、それ以来、変わっていない。

 しかし、それでも、私は、彼らのいっていた「反スターリニズム」というのは、言葉としては正しいと思う。もちろん、何かに反対である。何かに石を投げるというのは、まわり360度から可能なので、それ自身では意味がないということもいえる。
 しかし、ともかくスターリンという政治家と彼のやったことと、それを究極のところで認めるような政治システムは絶対に駄目だというのは、それこそ高校時代から変えた積もりはない。それは結局正しかったと思う。また、個人的には、全共闘運動に何らかの形で加わったり、まわりにいた人とは何となく気があう場合もあるというのも事実である。
 さて、実は、以上の文章は、昨日から書き出して、今日の帰りの電車で書き継ぎ、自宅にかえって、食事を終えてから、手を加えている。途中で、松田氏の『編集狂時代』をさがして読んでいると、やはり、これがあの時代の雰囲気があって面白い。それを書くと長すぎる、そろそろ本業の義経に戻るので、一部のみを紹介すると、文庫の143頁に、「最初は違和感があったが、全共闘世代という言葉を受け入れる」という文章がある。
 これは私などはさらに違和感があるが、しかし、当時の世界を席巻した学生運動の中心的な理念が「反スターリニズム」であったことの意味はやはりあるのだろうと考える。それ故に、当時の学生運動を日本では「全共闘運動」という名前で呼ばれるのは、ある意味では正しいのだろうと思う。もちろん、それが、巨大なエネルギーの無駄であったことは事実であり、またその実態は、やはり「大学紛争」としかいえないものであったとは思う。

 そして、敗戦直後の日本、50年代の日本で、石母田さんや稲垣さんや網野さん、戸田さんなどの戦後歴史学の担い手たちが取った社会的行動と、我々の世代の動きは月とすっぽんの違いがある。彼らの動きが日本社会の巨大な流動期の本気の動きであったとすれば、我々の世代の行動は、全共闘運動に参加したものも、それに反対の動きに参加したものも、所詮、ただの茶番劇であったと考える。

 しかし、それにしても、それは我々の世代の経験だったのであって、その経験を踏まえて考えるべきことの重要なテーマに「反スターリニズム」ということがあるのは、私は疑わない。そして、これは私たちの世代の責任でもあると思う。
 さて『編集狂時代』を読んでいたら、ヘーゲルのテーゼ・アンティテーゼについて授業で急にレクチャーをはじめた先生の名前がでてきた。「山浦先生」だった。それは危ないデモに松田氏が参加した時のことで、その部分を下記に引用しておく。
 「ぼくたちは、日比谷講演出発の際に、その集団に加わろうとした。すると、目の前に数学教師の山浦先生が現れ、『君たちは危ないから入らないように』と言う。びっくりしている僕たちを後目に、彼はデモ隊に戻っていった」。(文庫144頁)
 ここにはたしかに私の記憶する山浦先生のイメージが立ち現れてくる。真面目そうなメガネの中の目。本に残された記録と、人の頭の中の記憶と、自分の記憶の関係というのは面白いものだと思う。それらをおおっている霧が急にはれるようにしてイメージが現れてくる。

 しかし、山浦先生は、今、どうされているのだろう。


 

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