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2010年10月21日 (木)

ブログというものをはじめてみて。隣席の後輩とバタイユと

 先週に続いて月・火と京都出張であった。今回は同僚の手伝いであったが、これも無事に終わってほっとする。ただ、同僚が持ち帰った仕事の重さを思うと、これからの時間の長さを感じる。一緒に仕事をしていても、「旅」の場では、相手の肩に懸かってきて、これからも懸かるであろう重さがよくみえる。
 三木清の『人生論ノート』の中で、「旅について」という断章は、この『ノート』のなかで、おそらくもっとも通俗的、あるいは三木自身がいう意味での「感傷的」なものであろうが、「旅するものは為す者ではなく見る人である」というのは正しい。
 そんなこんなで、出張中は時間がなく、ブログを書かなかったが、しばらく書かないと経験を忘れていくのが気になる。これは日記に記録すべきことをしていないという気がかりに似ている。自分を文字にしておかないと落ち着かないという、ささやかな強迫観念。
 けれども違うのは、一つは、これが電子的なものであること。これは「もの」としての「日記」とは違う。「物」としての日記の場合は、自己経験を文字で記録し、自己を客体化していくという点は同じだが、「日記」が目の前になければなかば忘れていられる。しかし、PCやサーバに乗っている断章は目にみえないだけに、頭の中にあるものの一部であるかのように感じる。ここには、たしかに、外部脳というに近い感覚が生まれている。
 もう一つは、書いた途端にそれを公開するということ。これはそれを何人の人が閲覧するかということとは別問題で、誰も見ないとしても、いわば頭の中を外にさらしている、あるいは頭の中を垂れ流しているという感覚である。「そんなもの見たくないは」という反応もありうる訳ではあるが。
 さらにいえば、それは「ネットワークの向こうに社会空間がある」という感覚をともなっている。脳と外部脳がディスプレイでつながっており、それが「社会」という中空に浮いているという感覚。
 これはどういうことなのか。社会に一人で相対している、社会に向かって一人で立っているというのは研究者として通例の論理だが、しかし、これはそれとは少し違う、もっと感覚的なものである。これは、人間の自己意識のあり方、「自分自身の生活が自分にとって対象であり、その自己を社会という場で自己自身が統御する」といわれるようなあり方が、そのまま「もの」となって外にでているということであろうか。誰でもが、たとえばデカルトからヘーゲルへ、そしてキルケゴールの「人間とは関係である。関係とは何であるが、関係とは関係が関係に関係するということである」という断言やマルクスにまでいたる「自己意識論」を、コンピュータという「もの」を前にして感覚的に考えるような時代になったということであろうか。自己意識の「もの」化。
 これは誰でもが「哲学者」になれる時代の到来を意味するのかもしれない。哲学者というのは、自己を外から眺めるにあたって、自己を関係性として意識し続ける能力、自己の脳と肉体をあたかも外側にあるかのように客体視しつづける能力を発達させた人間をいうからである。「関係が関係に関係する」という悪無限に堪え、それを楽しむ能力である。それゆえに彼らは一般にレトリク好きである。レトリクのない哲学者などは「クリープのない何とか」ということになる。

 それに対して、「もの」としての姿をとった外部脳を意識し、関係することは誰にでもできる。

 その上で具体的に問題となるのは、それが文字であるということだろうと思う。民俗学の福田アジオ氏は、『可能性としての村社会ーー労働と情報の民俗学』(青土社、一九九〇)という本で、「生活の情報はかっては非文字が基本であったが、それが現代では大部分が文字によってなされている。そして非文字の情報はラジオテレビの電波によるマスメディアとして大量情報の手段となっている。民俗の情報から現代マスメディアとしての情報に非文字が奪い取られている」といっている。子供たちの携帯電話へのアディ九ティヴ、携帯依存をみていると、これはまさにその通りと思う。
 福田さんの本は江戸時代を対象とした「労働と情報の民俗学」の方法を論じたものとして出色のものだが、情報論としても興味深く、いつも参照してきた。拙稿「情報と記憶」でも引用したが、たしかに、生活の情報はかっては非文字が基本であったはずである。たとえば鐘や半鐘の音であり、人々が行き来する音であり、売り声であり、高札場・掲示板・回覧板であり、ムラの丘や山からの大声であり、あるいは光の信号であり、動物たちの声や物音などの非文字的な情報であった。それに対して、「ムラ社会」、共同体関係の解体は、地域社会の中から非文字的な情報を追放し、さらに現在の情報革命は、職場の中の情報の相当部分をも電子メールという文字情報に変更しつつある。こういう経過をへて、衝撃力の強い非文字情報は、マスメディアに集中するという結果がもたらされた。
 こういう「日常生活の文字化」という事態が、人間の脳神経活動を、そのままネットワークに接続した外部脳の中にさらすというところにまで、深まったというのが、今の事態なのであろうか。
 その先にあるものは何かということを考える場合に重要なのは、「仮面」の問題ではないかと思う。仮面=マスク=ペルソナの発生がパースンの発生であり、社会的な自己という意味での人間の発生であるということは、おそらく歴史的にみて断言できることだと思う。これは、特定の目的意識性の下に、自己の動物存在、自己の肉体を手段化するということであり、マスク=ペルソナは、そのようにして自己の肉体を道具化したことの象徴であり、もっとも手近なマークである。
 人間社会の社会的生活過程は、社会的関連と社会的機能の網の目によって特徴づけられるが、バタイユによれば、その社会的機能の最初の形態がエロティシズムである。つまり物質的過程でいえば、性的分業、社会的機能でいえば、セクシャリティがエロティシズムという感情生活として現れる。エロティシズムとは他者との融合という絶対的な不可能にむけての自己の肉体の道具化であり、その目的意識的な扱いである。それは目的意識性が身体自身にむかうことであって、必然的に死の自覚、眠りの自覚、性による眠りの意識に向かう。
 そして、バタイユが「エロティシズムはとりわけ、労働の歴史と分離して考察することができない」(G・バタイユ『エロティシズム』まえがき)というのはあくまでも正しく、それはいわゆる労働の具体的性格、労働の目的意識性において、自己の肉体を道具化する能力とエロティシズムという動物的=人間的能力の形成が深く関係しているからである。
 その意味での破調なほどの性的自由を人類史の始源に措定すべきであるというエンゲルスのグループマリッジ説もバタイユと同程度には正しい。人類学の言い方では、人類はもっともエロティックなサル類であるという訳である。この意味で人類史の始源に登場し、未開までを特徴づけるヴィーナスと男根の土像・石像と仮面の発生は同一過程の二側面なのである。
 しかし、仮面をかぶることは目的意識性の表現であると同時に、自己の抽象化であり、空無化である。目的意識性は自己から外へでて抽象物としての自己、類的な存在としての自己を客体視することである。リルケのドゥイノの悲歌に(あるいはマルテ)、空漠たる時間と空間の広がりによって驚かされた男が急に顔を上げると、その肉の仮面が顔を覆っていた両手に張り付いたまま外れてしまうという一節があったが、仮面の中は空無となる。空無の中を無限に手探りをするのが「関係が関係に関係する」という悪無限である。
 ともあれ、ブログを書いていると、一つ一つ、手作りで仮面を作っているという感じがする。それが手作りの仮面であるというのは、ともかくも自分の中からでてきた、あたかも虫の体液のようにしみ出てきて、皮膚の上で固化した半透明のマスクのようなものであるということである。それ故に、体液のように汚れたもの、たとえば虚栄が入り込む。匿名性とからめば、そこには相当の虚偽が蓄積される。もちろん、私のように名前も、そして職業生活も実質上オープンして書いている場合は、虚栄といっても限度があるが、それが社会的属性に付加され、それを装飾する情報であることは変わりない。いずれにせよ、それは、ネットワークサーバに載った時点で、実態としての私からは離れて、一つのマスクとして、個人像として存在する。現実の個人はいろいろな社会的機能と属性をもっているが、ネットワークの中では、それらの機能と属性が具体的な個人からは離れた情報の束として存在することになる。マスクとペルソナはその脈絡の中に浮かぶものとして現実の個人とは異なる光と性格を帯びるのである。
 資本主義は、ペルソナの付け替えを、毎日・毎時強要される社会であり、人間は分裂することをのぞまないかぎり、またペルソナの付け替えにともなう神経の酷使によって潰されることをのぞまないかぎり、このペルソナの共同的かつアソシエーショナルな扱いのシステムを作り上げる必要があることになる。それはおそらく、ペルソナからの解放であるが、それはペルソナの肉化あるいは柔軟化であって、社会と個人との新しい関係をもたらすはずである。これは、政治や経済の動きとは異なる普遍的過程・普遍的運動であるだろう。もちろん、政治も経済も普遍を願う運動でなければならないとはいえ、しかし、事柄としてはそれは政治・経済それ自体とは異なっている。政治と経済それ自身からの開放である。
 世界史的にみると、文明の深化は、このペルソナを脱ごうとする運動としての世界宗教の時代として開始された。世界宗教における瞑想は、人間の外皮となったペルソナの内側を瞑想する心的態度である。そして、問題は、中井正一(「委員会の論理」)がいうように、これが経典によって可能となった。経典によるテキストの共有によって、はじめた離れた個々人の間での瞑想経験の交流が可能となったということであって、この民族大移動の時代は、それよりも先に「経典、聖典、カノン」の力によって、観念と瞑想システムが飛行する時代であったのである。
 私は、ペルソナの脱却にむけて、さらにこのこの文字世界それ自身をみつめ、それを相対化することに成功した宗教として仏教=禅宗があるのではないかと考えるが、それはともあれ、現在、この文字世界の変化が、世界史の新しい展開をもたらそうとしていることは確実であると思う。
 
 さて初めに戻って、今週の月曜、出張の夜、10月18日の月曜日夕方、ホテルのテレビをつけたら、NHKのクローズアップ現代で「本が変わる、電子書籍最前線」という番組をやっていた。ブログと電子書籍の役割の相違と、それが重なった時の意味というものを考えさせられた。この電子書籍化の動向は、コメンテーターの津野海太郎氏がいっていたように不可逆であって、前進的な側面をもっているはずである。
 津野氏がいっていたことで、職業柄、注目したのは、電子書籍の多様な役割のトップに、たとえば、歴史書を読む時、画像や副情報を、電子書籍を通じて瞬時に獲得できるということを上げていた。たしかに、歴史叙述は、史料にもとづいて論述されているが、普通の叙述には、その全文を引用することはできない。しかし、電子書籍のシステムが展開すれば、たしかに電子書籍を通じて、史料のデジタルデータにアクセスし、叙述の真理性の体感が可能になる。学術書であれば、電算写植データの脚注から史料編纂所にあるテキストデータにリンクを張るのは相対的に簡単だ。これは著者自身がやったっていいことだ。
 ネットワークは、虚栄から虚偽の情報を含む。しかし、虚栄ははぎ取ることはできないとしても、虚偽を裂き取ることは、ネットワークがシステム的に自己検証性をもちうる以上、可能であろう。これによって、社会関係の中枢をなす情報関係の真理性を高めることはマスク=ペルソナのゆがみを修整することになるはずである。
 
 さて、ブログというものを始めてみて、面白いものだと思う。これを始めたのは、最初の頃に書いたように、史料の職業仕事のホームページを作ろうとして四苦八苦した経験からの飛躍だった。ホームページビルダーの使い方を以前はできたのに、やり方を忘れていて、一週間ほどの時間を空費して疲れた後のことだった。結局、職場の個人の研究用のホームページの容量と領域を公務の和紙科研のために全面的に開放することを決め、それまであった自分の論文などを載せる研究HPをニフティにすべて移してしまうことにして、設計をやり直して、消耗していたとき、どういう訳か、ニフティに個人ページを移すと同時に、このブログというのを作ってやれという気持ちになった。仕事でデータベース作りなどに関わることは多いにも関わらず、結局PCもネットワークもよくわからないというストレスを抱えることが多いが、ブログは、ともかくシステム的な負担感がないのが快適である。
 ようするに、職場がらみである。これも、職場の生活によって感情や生活の仕方の相当部分を左右されているということの表現であろうか。どの職場も同じであろうが、朝来ると、相当数のメールに目を通すことから仕事が始まる時代。その先に、こういうブログで自分を確認しようという感覚が生まれてくるのかもしれない。さきほどは、研究者として社会に一人で相対しているというのは通例の感覚だとか書いたが、そういいながら、実際は職場人か。
 いま、12時50分。朝の電車で、PC内部にたまっていた断章を切り張りしながら、上記を書いていた。バタイユなどは久しぶりに考えたので、午前の会議で、隣席の後輩に「君たちはバタイユなんて読むの」と聞いてみた。以前、彼には「保立さんはフッサールも読んだことがないんですか」と面白そうに顔をみられたことがあるが、バタイユは教養豊な彼も読んだことはないということである。ただ、これは、我々の世代では意外と近しいものがあったというだけで、これも世代の相違か。

 しかし、続いて、彼曰く、「そういえば、友達で読んでいる人はいましたが、私はアドルノでした」と。ギャフン。

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