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2010年10月31日 (日)

この世の果て、「天の壁」ー勝俣隆氏の神話論

101031_122910 日曜は雨。朝、自転車ででる。写真は公園の雨模様の木。川沿いの林の下の道を通っていた時、一瞬、日がさして、道が木漏れ日で照らされる。湿気のある空気の中の落葉の道は、千葉出身の浅井忠の絵の雰囲気である。 

勝俣隆氏の神話論、『星座で読み解く日本神話』(大修館書店)で興味深いのは、日本の神話的な世界像において、「ドーム状の天の層と、天に開いた穴としての星」というの観念が前提になっているという、同書第十章で展開された議論である。私は、氏の議論をどう考えるかは、この章をどう読むかによって決定されると思う。
 勝俣氏は、ウノ・ハルヴァ『シャマニズム アルタイ系諸民族の世界像』の「天は、天幕の屋根状に大地を覆うもの、あるいは大鍋を伏せたような半球状をした堅固なフタと観念された」という一節を引く。
 そして『延喜式』の祝詞(祈年祭)の「皇神の見はるかし座す四方の国は、天の壁の立つ極み」という一節を引いて、「天の壁」(あめのかき)というものが四方の地の果て、海の果てに立っていると観念されていたことの証拠とする。『延喜式』は九世紀の史料ではあるが、この祝詞の原型は古くにさかのぼるものであるといってよい。それ故に、この「天壁」という観念を前提としてよければ、日本にも、アルタイ系の世界像が存在した。つまり、中央の天は高く聳え、そこから徐々にくだっていく先に天壁があったのであろう。そうである以上、天の中央と天壁からなる天蓋は、天幕状、ドーム状に地を覆っていたと考えられていたに相違ないということになる。
 また、『播磨国風土記』の託賀郡条は、昔、「大人」が南の海から北の海に旅をし、さらに東から巡行してきたという話を伝えている。これは人々が神を巨人と考えていたということを示しており、いわゆるダイダらボッチの伝説の原型とも考えられるものである。問題は、この神話に、この巨人が南・北・東を歩き回った時、だいたいは天が低いので、背をかがめて歩かなければならなかったが、この託賀郡では「天が高い」ために「伸びて行く」(背を伸ばして歩いていける)ことができたという。この「南の海」「北の海」を勝俣氏のように瀬戸内海・日本海と考えるのか、世界の周囲を取り巻く海と考えるべきなのかは、すぐには断定できかねるが、ともかく、これも国土の中央部の天が高くなっているという観念の反映であることはいえるのだろう。
 そうとすると、「天地の寄り合いの極み」などという想像、つまり天地はずっと向こうで接合しているとい観念は、こういう世界像の一環であるということになる。あるいは逆にこういう天地接合の常識的観察からドーム状の天という世界像が帰納されたということなのかもしれない。
 神話研究の現状をよく承知していないので、確言はできないが、この列島に存在した神話の世界像としては、これまで西郷信綱氏のいわれたこと、つまりむしろ「根の国」といわれる地中世界と「海坂」「海堺」といわれる海の果ての様相をどう考えるかということを中心に議論されてきた。それ故に、もし、この勝俣氏の議論が成り立つとすると、いろいろなことを考え直す必要があるということになるように思う。
 もう一つ、勝俣氏の議論で、これに関係して興味深く思ったのは、天のドームには厚さがあると考えられており、「星」はそこに開いた穴であると考えられていたという指摘である。
 さきほどは一部引用にとどめたウノ・ハルヴァ『シャマニズム』を全文引用すると、「天は、天幕の屋根状に大地を覆うもの、あるいは大鍋を伏せたような半球状をした堅固なフタと観念された。星はその天幕や半球状の蓋に開いた穴であって、そこから天上界、神々の世界の光が差し込んでいると考えた。(中略)星々の中でもスバルは寒気が流れ込んでくる空気穴、北極星は神々が天地を出入りする通路と観念されている」という訳である。勝俣氏は、これを前提に議論を組み立てている。
 つまり、天蓋に開いた穴には深さがあったはずだというのである。実際、天若日子が天にむけて射た矢が、天蓋を貫いて天界に戻ってきた。それを怪しんだ高木神(タカミムスヒ)が、その矢を「その矢の穴より衝(つ)き返し下した」ところ、寝ている天若日子の胸に突き刺さったという。勝俣は、この神話で、「天」に「穴」があくという一節があるから、天がただの薄膜ではないとすれば、一定の長さのある穴が、天蓋に通ったと考えられていたという訳である。
 私が面白いと思ったのは、この天に一定の厚さがある。星はその天に開いた穴であるという観念があったからこそ、星が古語では「つつ=筒」といわれたという説明である。宵の明星を「夕星(ゆうづつ)」という美しい言葉の説明が、これで可能になる。これは鉄案ではないかと思う。
 さて、ここからは飛躍であるが、竹を「筒木」というという観念も、ここに関係しているのではないかというのが、私の想定である。竹を「筒木」というということ自身が、『かぐや姫と王権神話』の執筆の中ではじめて想定した私見であって、学界では確認されていない見解であるはずなので、そこまで論ずるのは早すぎるかもしれない。それ故に、以下は飛躍なのであるが、そもそも、「筒」、中空の筒というものを、当時の人々が何によって知ったかというと、やはりまずは「竹」なのではないかと思う。それ以外に中空の筒というものが自然界に存在するであろうか。
 こう考えると、天蓋に開いた穴を筒と呼称するのに、竹=筒木からの連想はなかったのかということが問題になるように思う。つまり、民話に出る「竹によって天を覗くという観念」を間にして、星と竹というのは、そもそも深い関係があったのではないか、七夕と竹というのは深い因縁があったのではないかということである。かぐや姫が竹に宿ったというのも、そこに関係があるのではないかということである。「天と地を媒介する存在としての竹」という観念が存在したのではないかということである。天を祭り、星を祭るにあたっての呪具=竹という訳である。
 そして、私は、こういう神話的な観念は、東南アジアの太く高い竹、その存在を前提として考えざるをえないのではないかと思う。こういう竹の神話、たとえば竹が割れて、その中から神人が誕生したなどという神話が、東南アジアに分布することは右の新書でも書いたが、それがアルタイ系の神話に入り込んだのが「つつ=星=筒=竹」という連想観念なのではないかという訳である。
 さすがに、神話論を独自にやっていない人間が、ここまで『かぐや姫』で書くのははばかられたが、しかし、勝俣氏の仕事を前提にして神話論を考え直す余裕があれば、今後、考えてみたい問題である。
 私は、世界史というものが書かれるべきであるとすると、人類史のある時代、神話的な世界観というものが現実に存在したことを重視せざるをえないと考えている。神話が現実に存在して人々を動かしたということは、それがたんに偶然的なものではなく、人間の精神的進化に深く関係する必然性をもって存在したものであるということだろう。
 これは一般に認められることであろうが、その先の分かれ道は、たとえば大林太良氏の仕事を読めばわかるように、世界各地に広がる神話は奇妙な共通性をもっている。これをどう考えるかという問題になるのだろうと思う。
 普通の考え方は、「人間はどこにいても同じことを考えるものだ。原始・未開の人々は愚昧だからいよいよ同じことを考える。それ故にこれらの一致には大きな意味はない」というものであろう。そこに何かの意味を求めるのはあやしい話だという訳である。こういう考え方は、神話学というものへのもっとも一般的な無視の形態であるが、歴史学者が神話学を敬遠しがちなのは、もちろん、歴史学者が、その職責上、学者の中ではもっとも懐疑的な人種であるからではあるが、同時に、こういう考え方に引かれている部分もあるのではないだろうか。
 しかし、やはり、世界各地の神話は、実際の人間の移動と文化の継承関係、世界的な連動性を背景にしていたと私は考える。つまり、世界観としての神話はしばしば諸民族・諸地域間で共有され、広がり、変容していった。私は、神話はそういう意味で、人々を突き動かしていった現実的なイデオロギーであったと考える。彼らは、その意味でやはり人間であって、この世界の成り立ちの神秘、「われらどこからきて、どこへ行く」という問いをもつ存在であり、そのような存在して生き、思想を伝え合っていたと考えるのである。
 神話は、現代の科学と同様、やはり、当時における一種の世界的なイデオロギーであった。はるか昔の人類も、異人種と遭遇した際には、そのような思考形態をもったものとして相互に認識しあったということになる。いわゆる類的存在としての相互認識があったということになる。
 一言でいうと、神話は自然崇拝の形態である。自然崇拝は、まずは主体的自然の崇拝から始まった。つまり、地母神とエロティシズムの世界から始まったが、対象的自然に展開すると同時に、本当の神話の世界が始まった。人々は、このイデオロギーに導かれて世界認識を鍛え上げていった。神話は、そのような段階において産まれた世界的なイデオロギーである。それは世界宗教が登場するまで、強力なイデオロギーとして人類史の動きを左右していた。もちろん、神話は世界宗教が登場した後も様々な形でそのようなものとして残り、つねに再生しようとしたこともいうまでもない。
 そして、日本神話は、その波及の中で、おそらく一番最後にほぼ同時代的に記録されたものとして評価できるということは確実だろうと思う(北欧神話の記録は実際の神話時代との時間差は大きい)。そしてそれがアルタイ系の神話、さらに中国的な神話、さらに東南アジアの神話の影響を複合的に受けたものであることは否定できないだろう。それらは、日本列島に住んだ人々が、やはり特定の観念をもって渡来してきて、生きたということの証拠ではないかと思う。
 記紀神話に政治的な作為性が濃厚であり、たとえばそれをどのように歴史教育の中で利用するかについては、戦前の教訓からいっても注意しなければならない問題であるということは明かである。しかし、それと、現在、神話というものそれ自体を人類史にどう位置づけるかということとは違う問題だろうと思う。
 さて、「天壁」ということで思い出すのは、ナルニア国物語の一冊『朝びらき丸 東の海へ』の最後の場面である。私がでた国際キリスト教大学のいま同窓会会館になっている場所に、以前あった荒井副牧師のお宅で、大学の2年の頃、没頭して読んだことを憶えている。
 同書16章「この世のいやはて」の場面である。ここは海の果てであるが、この海の果ての風景は、『ゲド戦記』でゲドが行く果ての海のイメージのもとになっているものだと思うが、ここでの問題はその向こうにみえるものである。
 「エドマンドたちが見たもの、東の方、太陽の彼方に見たものはー一つの大山脈でした。その山脈の高いことといったら、その頂上はみえませんでしたし、見ても忘れてしまうほど上の方にありました。そしてだれ一人、その方角に空をみたことはないはずです。その山脈は、実際のところ、この世の外にあったのに違いないのです。というのは、その山の四分の一か、あるいは二十分の一ぐらいの山でも、雪や氷をかぶっているべきものですのに、それほど高く見えるにもかかわらず、暖かくて緑に覆われ、森と瀧がふんだんにありました」。これが、シンクレア・ルイスの描く、「天の壁」のイメージである。
 ルイスが、さらにこの場所の原野を次のように描写していることも興味深いと思う。「三人がその原をどこまでも歩いていくうちに、ほんとうにここに大空が下りてきて、大地とつながっているのだという、この上なく不思議な感じをうけました。この大地につづく空は、何にもましてすきとおったガラスのようで、とてもあかるくきらきらとかがやいていて、そのくせ、手応えがあり、夢ではないのです。そしてまもなく、三人はたしかに空が大地につながっているのだとわかりました。天地の合するところは、もうすぐそばにあったのです」。
 こういう神話的な想像力というものは、いまにいたるまで、伏在しつつ流れているということになる。

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