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2010年10月15日 (金)

天網恢々、疎にして漏らさず。

 いま、出張からの帰りの新幹線。御寺と参加者にたいへんにお世話になったが、無事に出張が終わり、仕事の目処がついて少しほっとしている。

 朝は京都の地下鉄四条駅で、佐藤泰弘氏にばったりあった。私が彼の肩をたたくと驚いてたいへん大きな声を出したので、私も驚いたが、本当に久しぶりで懐かしかった。日本では歴史家の人口密度は高くないはずだが、京都・奈良の出張では、これまでも時々町でばったりということはある。「さすがに京都・奈良は歴史家の人口密度が高いのだろうか。東京砂漠では歴史家などには会わない」と出張仲間でひとしきり冗談。帰りにばったりの出会いについて考えることにした。

 さて、先週、必要があって読み直した空手家の広西元信氏の本を読んでいて思い出したことがある。私は、詳しくは知らないが、広西氏は空手の世界ではたいへん著名な方のようである。佐藤・福田・田中などの歴代の首相と関係があったということで、個人的な指南役のようなこともやられていたらしい。
 前回に読んだ時はまったく気づかなかったのだが、実は、息子が、小さい頃、道場にいっていた空手道場は、広西氏が理事長・会長を務められた松涛会の系列の道場で、広西氏の年譜によれば、千葉の道場にも関わられたようだから、息子の道場は広西氏が拓いたものであったことになりそうである。そこで、週末、自転車で出た時、帰りに県立図書館をまわった次いでに、その道場がいまでもあるかどうかをみてきた。彼が道場に通っていたのは、もう15年以上前のことであるが、あるビルの一階に以前のままで道場が開かれているのをみてきた。今でも小学生たちが通っているに違いないと思いながら、あの頃、彼を連れて通い慣れた道を自転車で帰ってくると、そのまま昔にタイムスリップをしたような感覚におそわれた。
 話が横にずれたが、広西氏によると、空手というのは、中国の科挙では進士の試験ではかならず出たということであるから、身体技法として重要で、やはり人間の出来と関係するのであろうか。中国のような官僚制国家というのは、ようするに大量の人間集団を操作し、「恭順=ピエテート」を組織する能力が必要で、そのために身体ができているかどうか、いわゆる肝がすわっているかどうかをみたのだろうか。
 私も息子と一緒に空手をならっていればよかったと思うが、その時々、必死に生きてきたのだから、これは白昼夢であるが、日本には、こういう形での身体道徳・身体修練は根付かなかったようにみえる。ただし、平安時代貴族社会における儀式の身体性ー「型」や蹴鞠のことなどを考えると、こういう身体道徳のあり方は、東アジアの世俗道徳論の中では、意外と重要な問題なのかもしれない。少し調べてみようかなどと思う。これは歴史家の白昼夢か。
 さて、ここで広西氏の本というのは、実は、『資本論の誤訳』という本である。広西氏は先のような経歴の方だから、まったく意外なもので、それだけに私は、以前、この本を読んだときにショックをうけたことを思い出す。この本の初版は1967年(これは新幹線の中での記憶なので正確ではないが、その頃であることは確実)で、その時に、いわゆる社会主義というと「国有化」ということになっているが、『資本論』はそういうことはいっていない。むしろ、「アソシエーション的な自由人の連合」というものがマルクスが一貫していっていたことであり、そのようなアソシエーションをマルクスは株式会社の中に透視していたというものである。そして、アソシエーション(連携・協同)とコンバインド(結合された)を区別せずに翻訳する「学者先生」の『資本論』翻訳はレヴェルが低いと、(その他の翻訳をふくめて)なで切りにしたもので、私には納得できる点が多かった。つまり、前回のブログにも書いたが、この本は、いわゆるアソシエーション社会主義を『資本論』の文脈の中で、ほぼはじめて論じた著作であったということになる。

 しかし、先週、この本をめくっていて、自転車で出て、息子の空手道場を見に行って昼食をした時、記憶がよみがえってきたのは、対馬忠行氏のことで、それにともなって、高校・大学時代以来のあまりよいとはいえない経験を思い出して押し詰められたような気持ちになった。
 この本の、巻末の略年譜の1948年のところに、広西氏は、『世界文化』への原稿執筆依頼で対馬忠行氏と交流とあるのが目についた。同年、作家の田中英光とも親交が深く田中の短編「闇黒天使と小悪魔」にほぼ実名で登場とあるから、今度、読んでみようと思うが、対馬・田中との交流というのは、戦争直後の様子を示すようで興味深い。対馬氏の部分には、もとから線が引いてあったから、前にも気づいたことがあるのだろうが、対馬忠行氏は、実は、高校時代か、浪人の時代か、あるいはもう大学に入っていたのかもしれないが、一度、その講演を聴いたことがある。
 現代思潮社からでていた『マルクス主義とスターリン主義』ももっていたはずだと思う。なにしろしばらく前のブログで書いたように、高校・浪人時代は怖い物知らずでいろいろなところへ行った。講演のテーマはスターリニズム批判であったに相違ないが、中味はまったく覚えていない。おそらく中核派の講演会であったはずで、というのは、対馬氏が中核派の「中央委員」(というようなものだと思う)が『反デューリング論』の「暴力論」さえ読んでいない、こういうことではどうしようもないと嘆いた発言を唯一覚えているからである。その時のなかば絶望したような口調と、暗い顔の印象が残っている。それも、そういう集会のようなものに、瘧が落ちたようにでなくなったことの一因であったかもしれない。
 その講演会の前には、対馬氏がどういう人かは知らなかったと思う。しかし、大学一・二年のころに、歴史に興味をもちはじめた私は、『近代日本の成り立ち』などの文庫本や「親鸞ノート」から始めて、服部之総の著作集を読むようになった。服部はマニュファクチャー論争の経過にふれた論文や「絶対主義の社会的基礎」などの論文で対馬の見解を何度も引証している。これによって対馬氏が戦前の日本資本主義論争の時代からの研究者だったことを知ったのである。そして、対馬氏が瀬戸内海に入水自殺されたことを知った時には、歴史の細い迷路で自死に押し詰められ、追い詰められたのだろうかという印象をもったことを覚えている。もう相当のお歳だったのではないかと思う。それを聞いた時、感じたのは、研究者というものの怖さ、まかり間違えば、袋小路に入り込む。そして命を賭けるというところがあるのだということだったように思う。
 対馬氏と広西氏という、たいへんに独特な経歴の二人の接点がどういうものであったのかは、私にはわからない。第二次世界大戦と、敗戦直後の世情は、独特なものがあったから、広西氏が社会運動家・理論家の対馬氏との関係があったとしても何の不思議もないが、広西氏の年譜に二人の関係がでてくるというのは、深い関係があったに違いない。

 これはどういうことであろうと思うのは、単純なことで、ようするに、たまたま手にとった本の著者が作った空手道場に息子が通っていて、それが彼が外国にいた時は空手君とよばれることの原因になった。そして、そのような人とは知らずに、その人の著書を読んでから、五・六年後、先週たまたまめくっていたら、著者が15年ほどまえの息子に大きな影響をあたえた道場の設立者であったことを知った。そしてさらに、その著者の友人の講演をもう今から30年以上前に聞いたことがあり、その人の自死に驚いたことがある。こういうネットワークというのは社会理論としてはどういうふうに考えるのだろうということである。

 情報工学の方では、「Three hop」の議論というものがあると聞いたことがある。つまり、今、世界は、Three hopかFour hopでおおうことができるようになっているという議論である。「友だちの友だちは友だち」という訳で、面識ネットワークならば世界中の誰でも、Three hopかFour hopでおおえるようになった。これが情報工学の中でどう位置付いているかは知らないが、たとえば、私は歴史家としての専門性世界に関係している、アソシエートしているが、アメリカのハーバートの歴史家に面識がある。その歴史家はブッシュに面識がある人に面識があるのは確実だから、私ー(1)ハーバートの知人ー(2)ブッシュの知人ー(3)ブッシュの馬鹿と、たしかにThree hopでつながるという訳である。
 このようなThree hop面識ネットワークは、私の場合で明かなように、専門性の世界が媒介になることによって、広がる訳であるが、その一つ外側でもFour hopsで世界中がつながっているということになる。世界中の人が何らかの専門性をもち、その専門性のアソシエーションネットワークが拡大すれば、世界は平和になり、ブッシュのような馬鹿がいる余地はなくなるかもしれない。
 前近代では、一般に社会的ネットワークは可視である。たとえば有名な例では、日本の室町時代、「国質」といって、遠国の人間Aに債務権・質権をもっている場合に、Aとまったく関係のない同じ国のCという人間を拘束する。それによってAに対する質権を回収するという法慣習がある。これはAとDの間に共通の知人がいるということがないと実現できない法慣習である。その人をBとすると、AーBーCの関係は、その国の人々にはよくみえる、可視的な関係であったに違いないということになる。現代社会のネットワークは、こういう可視性を失い、まったく不可視のものとなっているのだが、それだけに世界中がThree hopかFour hopでつながるという形で強力な拡張性をもっているのである。そして、コンピュータは、このネットワークを再び可視的・具体的なものに押し上げる可能性をもったツールであるということになるのではないだろうか。いずれにせよ、専門性と将来社会のネットワークというものが、非常に重要な問題であることは明かであると思う。
 しかし、その上で、歴史家の役割は、このネットワークを空間ではなく、時間を越えて過去に広げることであると思う。息子ー広西元信ー対馬忠行ー私という超時間の相互影響関係というものが現実に存在するということを考えると気が遠くなるような気がするが、歴史学はそういう世界を提供するべきものであるはずである。
 京都の御寺を13時30分に出て、東京の職場に17時に戻り、帰着の報告の速達を御寺に出し、その他、必要な処理と打ち合わせが若干あって、今、18時30分。これをブログにアップしたら、出張の後始末事務の残りを10分やって帰宅の予定。帰ったら、佐藤氏の本を開いてみようと思う。

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