和紙近江調査と堺市博物館の矢内氏
今日は、来週からの調査のために土曜出勤。いま帰りの電車でこれを書いている。9時。いろいろ気が散ることがあって、来週の準備は順調に進まず。また出勤か。
昨日、金曜夜、仕事をしていたら、和紙調査の出張から帰ったT島氏が部屋に来て状況を報告してくれた。和紙調査は毎週水曜日だったのだが、来週出張関係の仕事の立て込み状態がひどくなって、修復室にはしばらくご無沙汰だった。和紙科研の方は、いちおう、ホームページができあがり、技術部の方で必要な情報追加は行える体制ができた。あとの進展は、農学生命学研究科での検討と、王子製紙の協力まちというところがあるので、自分のたこつぼにもぐり込んでいる。なにしろ要領の悪い人間は頭の切り替えが下手なので、追い込まれないとできないのである。
T島氏は近江の調査。彼にとっても和紙の詳細分析の所外調査は始めてで、どうだったと聞いたところ、収穫が多かったようでいい顔をしている。結局、純繊維紙・澱粉紙・柔細胞紙の分類は顕微鏡分析になるので、近江の博物館関係者も彼の目に頼るところがあったらしい。この分類が本当に有効かどうかはまだわからないが、分類は私と彼が中心で作ってきたのだから当然か。
私は、先月の始めての所外調査、御寺での和紙調査で、器機とPCを使いこなすのに、四苦八苦した。その時は、技術部の人がくればこんな事はないと、さかんに弁解したのだが、しかし、所外での調査はなかなかたいへんで、修復室といえどもたいへんだろうと心配をしていた。気になって、調査マニュアルの作り直しをしたり、若干の仕事はしたのだが、公私多事のままに十分なことができなかった。報告を聞いてほっとする。全体として和紙科研も最終年度で少し軌道に乗ったのかもしれない。
この近江の調査は和紙科研本体ではなく、史料編纂所の共同利用拠点の活動の所外メンバーをふくむプロジェクトなのだが、私が担当教員なので、本当は、行くべきで、かつ行きたかったのだが、とても余裕がない。来週からの出張が終わったら、成果を具体的に確認して、先月の御寺の調査と一緒に、メンバー全員に報告をしなけれなばならない。
こういうのは完全な職人仕事で、職人という点では、研究部も技術部も同じであるが、やはり、毎日、史料料紙の和紙にふれているメンバーとは、徐々に実力が離れてくると思う。職人仕事というのは、ようするに、まずは検鏡の目を一致させていかないとならないという個人仕事であり、個人の目を同調させる技術の共有と継承も職人仕事に類する。こういうのは本当に自然科学に似ていると思う。
ただ、和紙調査は古文書学や史料論全体に関わってくるので、そこら辺の協同ではまだ私も役割があると考える。先週の農学部のE前先生からの連絡だと、先生やT島氏との協同論文がある歴史の専門雑誌の最終審査が終わって、掲載が決定したということであった(ありがとうございます)。長い間の研究と協同の結果なので、さすがに掲載が楽しみである。
ただ、和紙の物理的料紙分類はいままで上記の三つだが、やはりもう一つの分類追加がどうしても必要な段階で、これにどうにか目処をつけたい。この四番目は、結局、室町将軍の安堵の御教書で使われる強杉原といわれる料紙(上島有氏の言い方では檀紙)をどう考えるか、そして、この強杉原の系列をうけて秀吉の朱印状の料紙ができあがっていくのは明らかなので、その過程をどう考えるかという大問題に関係してくる。私は、強杉原的な紙として、室町時代の女房奉書のうちの茶色い線の通った強紙があり、また公帖の紙もあると考えているが、それらの系譜を具体的に論じるためには、強杉原の紙の物理分析がどうしても必要なのである。
もう十年以上前のことになるが、和紙調査の始めは、御寺の老僧にそろそろ重要文化財指定をするべきであると考えるので協力してほしいといわれたのがきっかけだった。そのためにはどうしても調査員費用がいる。そして、本来、重要文化財指定のための経費は公費によってまかなうべきであるとは思うが、実際上、そうはいかず、研究テーマを設定して科学研究費をもらい、その研究の一環として指定事業に協力をした。当時、研究が進みだした和紙分析をその科学研究費の研究テーマの一つとしてあげ、おそらくそのおかげで審査を通過することができた。
そのときから始めた研究なので、時間だけは長くかけているが、通常の研究とはスタイルも違い、なかなかうまく行かなかった。それでも指定対象となった文書の相当部分について料紙の密度分析などの厳密な計測をし、検鏡もする中で、物理分類を考えてきた。T島氏にはその時から協力を御願いしたが、長時間の検鏡で目を痛めたこともあった。それにも関わらず、これまではあまり修復に役に立つ結果がでなかったのは私の見通しの悪さと集中した仕事時間がとれなかったためで、申し訳ないかぎりだった。このところ、ともかくある結果がでて、その意味でも少しほっとしている。
昨日は、上記の科研に参加してくれた堺市博物館の矢内氏からも電話があった。最近発行された彼の著書を御寺に送ったところ、御住職がたいへんに喜んでくれた。開祖は著名だが、その後の歴代住職がどういう方々であったかが、知られていないし、調査に不足のところもあった。これが結果がでてありがたかったということだった。そして、さらに私にとってはありがたいことに、矢内氏が保立に世話にもなって研究を進めてきたといってくれたところ、「ご縁ですね。こちらも史料・文書を編纂に公開するという決断をしたが、結局、今になってみると、やはりその判断が正しかったと思っている」と伝えられたということだった。無能ながら30年もやっている仕事なので、やはり励みになる。
その科研で、ともかく紙の中の澱粉を観察しようということになった。何しろ、染色しないままでは、澱粉画像は見にくく、しかも顕微鏡の中の画像というのは多人数で一緒に見る訳にはいかない画像なので、顕微鏡の中でみえる様々な粒子のうち、どれが澱粉かについては各々の了解が違う。少なくとも私はわからないということで、そういう企画をした。史料編纂所の大会議室で、全国から集まってくれた、紙の研究の中心メンバーを前にして、史料編纂所写真部の調整と器機操作によって、澱粉紙の顕微鏡写真を大画面に映し出した。そして、製紙科学のO川さんが「これが澱粉」と指示してくれた時、何人かのメンバーがハーッと息を呑んだ音が聞こえた。少なくとも、私はこれで澱粉の顕微鏡画像についての目を合わせることができたし、他の人々もこの時に最終的に確認したように感じている。そのころはおそらく澱粉画像を確認できる人は、歴史研究者の中では10人ほどであったろうが、今では相当に増えている。
和紙科研のホームページをみていただければわかるが、今回明らかになってきた柔細胞は見ようによっては、この澱粉と区別がつけにくい場合があるが、それがはっきりしてきて、みんなの目があってくれば、(現在の仮説が正しければだが)さらに一つの確実な進歩ということになる。
いま確認してみたら、右の澱粉視認の映写会は2003年度であったから、それから7年。ともかくも、少しづつは進んできているということである。
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