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2010年10月 5日 (火)

網野さんの対談集『「日本」をめぐって』

 今日は新潟の竹田和夫氏が来て、「高校日本史と大学講義の接続実践」(山川出版社、『歴史と地理230号』(日本史の研究』)-などをおいていってくれる。

 新潟の高校の四単位と新潟大学での個性化科目の2コマで、「6世紀の地域社会と異国伝承」「日本海における渤海との交流と認識」「国風文化再考」という同じ指導案で授業をした経験を記したもの。

 この報告を読んでいると、地域ごとでの一貫した史料選択(教材選択)によって、地域の歴史的常識を替えていくことができるのだと思う。地域教材を学界・教育界で共有して行くことによって何が可能になるのかの実験として興味深かった。

 結局、日本の「古代史」は、東アジアの「中世史」の中で、匈奴の動きと東アジアの民族移動、内乱の中で理解するという筋道を通すことがどうしても必要だと思う。それを各地域で、どういう典型教材でイメージが描けるかを蓄積していく方途はないものかと考える。

 『かぐや姫と王権神話』で論じた「北東アジア、火山文化圏」論=タカミムスヒは火山神であったという議論は、まだまだそこに届いていない。ただ日本の「古代史」学界では、ほとんど拒否反応という感じであった「騎馬民族国家説」が目指した「東アジアの中の日本」という観点を仮説的に受け継ごうとしたものなので、東アジア論は、もう一度勉強しないとならない。

 竹田氏は、網野善彦氏に佐渡で会ったとき、佐渡北辺の海岸から対岸を指さして対外文化交流をテーマとした教育実践を行うように強く勧められたと書いている。

 今日、私も電車の中で、網野さんの諸氏との対談を収めた『「日本」をめぐって』(洋泉社)を読みながら来たので、印象が強い。

 網野さんのこの対談本は、同じく同じ頃に洋泉社からでた『日本中世に何が起きたか』が、歴史学関係での網野さんの全体的な言い置きであるとすれば、一種の「思想的」というよりも網野さんの立場を言い置くという感じの本である。

 対談者と自由に話しながら、自身の立場を相当にはっきりといっているのに驚いた。

 この対談本は、そのあとがきで網野さんが「同じことを述べていて新味はない」といっていたためであったと思うが、キチンと読んでいなかった。勇気づけられるもので、いろいろ憂鬱なことの多いこの頃、久しぶりに網野さんの肉声を聞いた感じがした。

  網野善彦さんの仕事について、2007年に名古屋の中世史研究会で行った講演をWEBPAGEにあげておいた。

 また、以下に『日本中世に何が起きたか』の解説を引用しておいた。

 本書は網野善彦氏の歴史学の全体像を知るのにもっとも適した本である。網野さんは、本書の「あとがき」で、「二一世紀の人類社会は、これまでまったく経験したことのない『壮年時代』に入ろうとしている。この時代を誤りなく乗り切っていくためには、これまで見逃されてきた人類の豊富な経験と叡智を余すことなく汲みつくし、未来に生かすことが必要であり、それを課題として負わなくてはならない現代歴史学の責任は非常に重い。あたかも十三世紀にすぐれた宗教家が輩出したように、いまこそ強靱な思想に裏づけられた傑出した歴史家が輩出しなければならない時代である」と述べている。十三世紀の宗教者、つまり親鸞・一遍・日蓮などの役割を歴史家に期待する網野さんの高調した姿勢には驚くが、しかし、たしかに、現在、歴史家の果たすべき役割はきわめて重い。
 この網野さんのメッセージは、人類史における「無縁」の原理というものについての歴史学的な追究を根拠としていた。それはまず、人間にとって自然は「無縁・無用」な存在であるという確認から始まる。私たちは、普通、人間と自然の関係について、どうしても「有縁・有用」な側面に注目しがちであるが、網野さんは、そうではなく、むしろこの自然の「無縁・無用」な性格が人間と人間の社会にとってきわめて重大な意味をもっているという。人間は自然を所有・支配するのみでなく、動物として自然の一部である。だから、無所有の自然が人間社会に影響している様子を明らかし、その意味を受け止めることが重要だというのである。
 これはいわれてみれば当然のことではあるが、網野さんがこういうことを真剣に考えた理由は、網野さんが漁村史の研究から出発したことにあると思う。「海」は「板子一枚下は地獄」ともいわれるように、無所有の自然が生活と労働の中に直接に影響する世界である。これが網野さんの「無縁」の原イメージであった。そして、この問題をつきつめて考える上で、網野さんが影響を受けたのが、原始社会論をデッサンしたことで有名なマルクスの「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」の一節であった。漁業史研究とマルクス。この二つが、第二次大戦の後の激動期における網野さんの重い経験となっていたことについては、ここで説明する必要はないだろう。学問は経験を越えるものだからである。
 こういう背景をもった「無縁論」を述べた『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(平凡社、原著1978年)という著書が、読書界に迎えられ、歴史学では普通考えられないようなベストセラーとなったのは網野さんにとっても意外なことであったろう。しかし、たしかに、この本は、無所有の自然に対する畏敬の感覚・意識・宗教観念などを、「無縁」という語をキーワードにして、様々な史料の中から具体的に掘り起こすことに成功している。今読んでみると、そこには、社会の中に構造的に存在する「無縁の境界領域」の姿をともかくもつかみとったという網野さんの興奮があらわである。
 そして、その上に立って、網野さんは世界史には「原始社会ー奴隷制社会ー封建農奴社会ー資本主義社会」などという「有縁・有主」の「法則」のみではなく、共同体や宗教組織が「無縁・無所有」の世界を自覚化していく過程に関わる「法則」「無縁の法則」があったのだという破天荒な主張をされた。その内容の説明はほとんどなく、これは分かりやすいとはいえない主張であったというのが率直なところである。悪口をいえば、この本は極度に具体的でわかりやすい「実証」と、よくわからないながら意味があるようにも思える「理論」を絶妙にミックスして迫力をましたといえるように思う。

 以上が私が理解する網野さんの「無縁論」の概略であるが、本書を順序に読んでいただければ、この「無縁論」を導きにして、網野さんが、どのように進んできて、さらに最晩年にはどこへ進もうとしていたのか。ご自身の言葉でいえば「どうやら見えてきたように思われる、この問題の私なりの解決」をどう「展望」していたのか(本書二二二頁)を知ることができる。それは結局のところ、第一には、「原始社会ー奴隷制社会ー封建農奴社会ー資本主義社会」という図式に対する実質的な否定であった。網野さんは『無縁・公界・楽』では、このいわゆるロシア・マルクス主義、つまりレーニン・スターリンなどに由来する世界史の四段階図式を「もっとも練り上げられた理解」とされていたが、最晩年において、この図式が維持しがたいということを認められたのである。そこで決定的であったのは、これまでいわゆるマルクス主義者であろうとなかろうと、ほとんどの学者が認めていた「徳川時代以前の日本は封建制であった」という「理解」を一つの思い込みに過ぎないものと切り捨てたことである。結論にいたる筋道は違うとはいえ、ほぼ同時に、同じ理解をするようになっていた私にとっては、これが網野さんとの理論の親近性を実感した最初だった。
 そして、第二は、より衝撃的なもので、それは「無縁」の原理の中に商品の交換あるいは「資本主義」そのものが表現されているという視野であった。これは、甥の中沢新一氏の示唆によったものであるというが、網野さんの本来の見解にそれが含まれていたこともいうまでもない。つまり、商品の交換が成立するため必要な「相互に他人である関係」(『資本論』)は「無縁の場」として「市庭」によって提供されたという考え方は、すでに『無縁・公界・楽』の段階で明記されているのである。しかし、私は、それを聞いた時、とても網野さんの発想にはついていけなかった。網野さんに、それはウェーバーのいう賎民資本主義論の焼き直しではないか、それは従来の原始以来の自由という無縁に対する議論とどう整合するのかといった覚えがある。けれども網野さんは自己の直感にしたがい、多少の不整合は無視して、仕事を続けられた。
 最後に述べるように、私は、このような網野さんの学説の変化は、結局のところ正鵠を射ていたという考えるようになり、網野説に「降伏」することになった。もちろん、けっして無条件降伏をしたつもりはないが、やはり網野さんの持続する志、そしてそこに基礎をおく直感の強さは、天才というにふさわしいものあろうと思う。しかし、歴史学界は網野さんの「無縁」という問題提起を最後まで受け入れなかったし、現在でも受け入れていないのが事実である。
 これは、率直にいって網野さんの側にも問題があった。つまり、網野さんは『無縁・公界・楽』の段階では、前述のようなロシアマルクス主義に根をもつ世界史の四段階図式を認めていた。だから、いわば網野さんの「理論」は、まだ二元論あるいは折衷という側面を残しており、それが論理の筋目を曖昧にしていたのである。その上、その頃には、ギリシャ史の太田秀通氏のような「戦後歴史学」の代表的理論家たちは、すでにロシアマルクス主義とその四段階図式を否定する立場を明らかにしていたから、私などには、網野さんの理論は、古色蒼然としたところと新しすぎるところが渾然一体、未整理であるという印象が避けがたかった。そういう困惑は、網野さんが展開したいわゆる「戦後歴史学」に対する激しい批判の問題とも関わっており、私などからすれば、網野さんは「戦後歴史学」を批判するが、実は古い「戦後歴史学」の「理論」を自己自身前提にしているではないか。それを棚にあげておいて、過去を批判するのはフェアーでないように感じられたのである。
 もちろん、網野さんの「無縁」の理論が受け入れらていない理由は、本質的には歴史学界の側にある。歴史学者というのは、学者の中でももっとも頑固かつ「保守的」で、人のいうこと、仲間のいうことに賛成することがきわめてまれである。そしてそもそもそう簡単に「理論」などは信用しないタイプの人間が多く、とくに、この国、「日本」という極東列島の歴史学者は、「理論」などはどうでもいいと思っているところがある。網野さんの無縁論が受け入れられないのは、理論の中身の問題よりも、こういう歴史学界の体質による点も多いというのが私の意見である。最近、もしこういう状態がさらに続いて、網野さんの議論が忘れられるようなことがあってはならないと痛切に感じるようになった。
 しかし、これをもっていちがいに歴史学界を責めることもできないのが事実である。「日本」は、その前近代の時代、「極東の島国」として享受した「平和」によって、世界で随一といってよい大量にして多様な歴史史料と歴史文化財をもっている国である。私たち「日本」の歴史家は理論を考えるよりも歴史史料の分析それ自身で忙しい。その大量の史料の範囲内で、その全体をつかもうと苦闘している歴史学者にとって、さらにそれを越えて、より根本的な社会科学的な「理論」を汲み立て直すことは至難のわざである。網野さんの要求は高すぎるのである。

 以上のようにいうと、網野さんの歴史学は抽象的な理論の枠組みに貫かれているように感じられるかもしれない。万が一の誤解のないように申し上げておきたいのは、網野さんの仕事が歴史学に大きな影響をもったのは、「無縁論」などの「理論」のためではない。網野さんの仕事が影響をもったのは、史料から描きだされたイメージそれ自身が説得的で、新しい視野をひらくものであったためである。とくに網野さんは、「無縁の世界」で活動する「非農業民・商工民」の世界を生き生きと描き出した。その仕事の量も、『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店、1984年)をはじめとして、けたはずれに膨大であった。本書には、研究史を塗り替えた、そのような仕事のエッセンスが入っており、網野さんの叙述の魅力を実感することができる。私は、本書の中では、広末保氏との「対談・市の思想」と佐渡での講演「中世の音の世界」が好きである。前者は肝胆を照らしあった友人の静かなやりとり、後者は、網野さんの発想の闊達さを示してあますところがない。
 網野さんが「日本」の前近代社会が残した大量の歴史遺産と史料の意味するものを具体的に読みといていく上で大きな仕事をしたことは疑いがない。ただ、その上で、網野さんは「日本」の歴史と歴史遺産を受け継いでいく「民族」の営為が人類史の中でもつ意味を「理論的に」も強調するのである。たしかに未曾有の時代を迎えている人類史の中でこそ、「日本」という「民族」の負っている歴史遺産と文化を系統的に残すという課題の重大さが明らかになる。つまり、これまで、世界の諸国の中で、自国の力のみをもって、高度工業化社会の中に前近代の文化遺産を十分に「保存」「保守」した国は存在しない。もちろん、ヨーロッパ社会は、前近代の文化遺産を現代に受け継ぐことにいちおう成功したようにみえるが、いうまでもなく、それは一五世紀以降、ヨーロッパが世界中から集めた冨によって可能になったものである。ヨーロッパ文化は、世界的な文化破壊とそれにともなって形成された文化的環境と博物学によって自分を保存することができたのである。それに対して、ユーラシアの多くの国々の中で、自国の冨のみによって前近代の文化遺産を高度工業化社会の中に維持していくという事業にまだ成功した国はないのである。日本も、これだけの歴史史料と文化遺産をもっていながら、その「保存」の実情はきわめてお寒い状態なのである。それを改善するために何よりも必要なのは社会全体の理解と支援である。私はいま東京大学の史料編纂所という前近代日本史の研究所の所長をつとめているので、とくにそれを痛感せざるをえないのであるが、これは東京大学の現総長の小宮山宏氏がしばしばいうところの日本は「課題先進国」であるという積極的な見通しの中で考えるべきことであろう。小宮山氏のいい方では、日本は世界が直面しているさまざまな課題を先取りした形で、しかも鋭い矛盾として抱え込んでいる。これを突破することができれば、我々の仕事は人類史的な意味をもつというのである。いずれにせよ、現代の歴史家の中でももっとも社会的な影響力のある仕事をした網野さんが亡くなられたことは、歴史学が社会的な連携や支援を求めていく上で、本当に大きな損失であったと思う。

 私と網野さんとの最初の出会いは、史料編纂所の古文書部でのことであった。かって古文書部には、稲垣泰彦氏・笠松宏至氏という網野さんの親密な先輩・友人がいらっしゃり、まだ名古屋大学にいらした頃から、網野さんはよく私たちの部屋にこられた。よく覚えているのは東京駅で名古屋へ帰る網野さんにばったり出会ったことで、家族へのおみやげを両手にもった網野さんの満面の笑みが忘れられない。そういう幸せをふくめて、稲垣さんは「まったく網野は」といい、笠松さんは「信じられないよ」といい、今から考えてみれば、私が漁業史の研究に取りかかったのも、そういう雰囲気の中での網野さんの影響であったのだと思う。しかし、当時の私は、そういう自覚はなく、網野さんは、「無縁論」を含めてすぐに乗り越えるべき(と思っていた)、批判対象であったから、私の議論はしばしば挑戦的なもので、それに対して網野さんはよくつきあってくれたものだと思う。『無縁・公界・楽』に「農業民に十分比肩しうる役割を日本の歴史の中で果たしたことの間違いのない海民について、現在専門的に研究している狭義の研究者が何人いるのか。五指にも満たない。これが現実なのである」と書かれているように、網野さんは、漁業史の研究が置き去りにされていることに危機感をもっていた。それだから、私の漁業史の論文のようなものでも、それが活字になった時、「保立君も五指の漁業史家の中に入ったよ」と苦笑しながら認めてくれたのだと思う。しかし、私は網野さんに対する批判をつづけた。笠松さんによると、網野さんは、保立君の書く論文にはほとんどかならず自分に対する批判が入っていると辟易されていたようである。
 そういう状態が変わっていったのは、おそらく、網野さん、そして石井進さんが関わった静岡県磐田市の一ノ谷中世墓地および横浜市の上行寺東墳墓群の保存問題との関係であったと思う。この経験を通じて、誇るべき価値をもつ日本の歴史遺産、遺跡がどれだけお寒い状況におかれているかということを、私たちは肌身で思い知ったのである。私は、この二つの遺跡についての学界をあげての保存運動に千々和到氏・池享氏などと一緒に関わり、一時は網野さんの御宅にしばしば電話をして相談することになった(本書を編集している藤原氏もそのころからの仲間である)。電話口から「網野でございます」という、網野さんの、あの独特の深い声が聞こえると、私は運動の側の細かな事情にからめて、あれをやってほしい、あの人を紹介してほしいというお願いを繰り返した。網野さんは、石井さんとは違って、なかなか御自分で動かれようとはされなかったから、不満に思うこともあったが、いまからふり返ってみると、たしかに網野さんは、社会的な行動についても百戦錬磨で、学者としての持続する意思と穏当な判断、そして必要な時には行動することをいとわない姿勢を維持されていたと思う。そもそも「墓地の保存」という動きを支えたのは、今になって冷静に考えてみれば、「墓地=無縁」という網野さんの論理そのものでもあったのである。

 網野さんがなくなられたのは、二〇〇四年二月であるから、まだ二年前のことである。この「解説」を書くためにそれを確認してみて、信じられない気持ちになる。実は、私は、二〇〇二年の九月に「戦後歴史学」の評価に関わって、網野さんに対する強い批判をある雑誌に書いた(「戦後歴史学と”君が代”」『宮城歴史科学研究』五二号。後に『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年、所収)。そしてそれを確認した上で、今度は、むしろ網野さんに「降伏」する方向に進みつつあった。それを明示したのは、網野さんが亡くなられる一年前に発表した論文「歴史経済学の方法と自然」(『経済』2003年3月・4月)であった。私は、この論文で、網野さんの「無縁論」の原型をなしたマルクスの「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」の視点を、マルクス・エンゲルスの他の著作の中に確認する作業をした。たとえば、商品の「使用価値」を支えるのは物の「有用性」であるというのが『資本論』がいうところであるが、マルクスは「有用性」のみでなく、網野さんのいうのと同じような趣旨で自然の「無縁性・無用性」にも言及している。「無縁」という問題は、たしかにマルクスが「ヴェラ・ザスーリチへの手紙」で展開した原始社会論に基礎をおくものであるが、それだけではなく、網野さんが示唆するように商品論のレヴェルにも関わる問題だったのである。現在の段階でマルクスの学説をどう評価するかはまったく別の問題であるが、結局のところ、私は理論史の理解という点では、他の人々よりも網野さんが正解であったことを確認せざるをえなかった訳である。
 私的な手紙を引用するのは申し訳なく思うが、以下が、この論文を送った時の網野さんの礼状である。
 前略。『経済』二冊拝受。久々に本格的な理論問題に関わる力作を拝読。感嘆しつつ、海に関する問題は残されているなどと考えているうちに、”血痰”が出て入院。心配ないことが証明され、無理退院しましたら、拙論に対する御批判を含む抜刷・複写をいただいており、早速、拝読しました。”戦後歴史学”の暗部に関わった方々が次々に世を去られ、私の経験も多くを胸に抱いたまま消える日の確実に近づいているのを感じています。拙著が力みすぎているのは十分自覚していますが、何千人にも及ぶ学生・聴衆がだれ一人、国号の決まった時期を知らず、日本を地名と思っているという現実に直面した衝撃が大きく、戦後なにをやってきたのかという気持から筆が走った点は認めます。石母田・永原両氏に対する批判はたしかに言葉たらずでしょうが、私なりにあちこちでふれてきたつもりで、今後も努力しますが、貴兄の御批判もやや”乱暴”の感があります。誤解もあるようなので、先にお送りした拙著をふくめ、息のある限り、御批判にお答えすべく努力いたします。種々の御教示、心より御礼申し上げます。御健勝を祈りあげます。右御礼まで。 草々            網野善彦
 網野さんの手紙にいう、「拙論に対する御批判を含む抜刷」というのは、右の「戦後歴史学と”君が代”」という文章であり、批判の対象となった網野さんの本は『日本とは何か』(講談社『日本の歴史』0巻、二〇〇〇年)であった。この私の文章は、約一年前に書いていたものだが、そのころ、すでに調子を崩されていた網野さんに送る気にはなれず、網野さんに「降伏」したことを示す『経済』論文と一緒にやっと送ることができたものである。
 右の手紙をいただいた後、私は、網野さんの『日本とは何か』を再検討し、それをふくめて、二〇〇四年一月に、『黄金国家』(青木書店)というを執筆した。私は、そこに網野さんの「無縁=資本主義」論に関係する世界史の見通しを前提とした意見を書き、また同時に「網野のパセティックな問題提起をきいていると、これまでの歴史学にはどこか決定的に不十分な点があったのではないかという疑いが我々の胸に宿ることを否定できないのである。私たちは、『戦後歴史学』の受け継ぐべき諸側面と同時に、その議論の方法的限界を正確に認識するところから出発しなければならない。その意味でも、網野の問題提起は尊重され、受け継がれなければならない」と書いた。しかし、病状を心配しながら書いた、この二度目の「降伏」を示す本についての網野さんの感想をうかがうことはできなかった。
  

 

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