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2010年10月25日 (月)

中村医師、ペシャワール会代表の講演会


 写真がうまくとれなかったが、10月24日(日)、夕方から千葉駅前のパルルホールで、ペシャワール会の中村哲医師の講演会があった。中村医師は、掛け値なく尊敬する人である。
 昨年も、千葉で行われた講演会にいって御話しを聞いたが、伊藤さんがなくなられて、まだ間もない時期であったこともあるのであろうか、その強い意志が伝わってくるような感じがあった。今年は、大画面のヴィデオもつかって、ペシャワール会の事業を順をおって話されたためもあるのだろうか、ときどき冗談もはさんで、昨年よりも淡々と話されていた。
 たしか、昨年は、ジャララバードの25キロにわたる灌漑用水路の完成を目前にしての御話しだったように思うが、今回は、ある形で仕事の目処がついたという若干の安堵もおありのようにみえた。ただ、7月下旬の100年に一度という大洪水で取水口がこわれ、修繕工事で活動していて、3日前に日本に戻ったということだから、たいへんな状況は変わらないのだろう。
 私は、中村医師の本を2年ほど前から読み始めた。驚いき、かつ歴史家として考えなければならないことが多いと思ったのは、灌漑水路にからむ二つの問題であった。第一に、カレーズと呼ばれるヒンズクシ山脈からの潅漑用の長大な地下水路、横井戸が崩れ、壊れているということである。これは地球温暖化の中で、ヒンズクシの雪が少なくなり、地下水位に変化が生じたためと聞いたが、このカレーズ(カナート)は、紀元前後からユーラシア中部から地中海近辺で設置されるようになった潅漑水路であって、この地域の繁栄は、これにともなう一種の農業革命によるものであるという見解がある。イスラムの勃興といわれる事態も、これが背景であったということであったと思う。それが、今、崩れはじめ、アメリカのアフガン攻撃の直前の大飢饉をもたらし、さらにその上を戦争の惨禍がおおうという事態は、世界史全体のことを考えざるをえなくさせる。
 第二にショックであったのは、潅漑井戸掘、カナート修理をやってみた上で、中村医師がそれらではむずかしい点があることを確認し、潅漑水路網の再建は地表水の利用のほかに手はないという結論となり、その工事のモデルが、医師の故郷の筑後川の山田井堰にもとめたということである。その経過とそれが成功したことについて、中村医師の本、『医者、用水路を拓く、~アフガンの大地から世界の虚構に挑む~』(1,890円(税込)、石風社)で読んで本当に驚いた。私は、結局、研究史的なノートを書くだけで終わっているが、平安鎌倉時代の潅漑水路に興味があり、史料を集めていたことがあるので、他人事ではなかったのである。
 今回の講演会で、中村医師が、「われわれは日本の産業と経済の発展を、すべて明治維新以降の近代化によると考えているが、しかし、これをみると、すでに江戸時代に相当の智恵と技術を自然との関係で獲得していたのではないか。ともかく規模は違うが、アフガンと日本の川は似ている。同じ潅漑技術が通用する。斜め堰と蛇篭その他の日本の潅漑水路の技術がアフガンで通用する。しかし、典型的な斜め堰は、現在、山田井堰しか日本全国に残っていない」とおっしゃっていた。ヒンズクシのカナートから日本の斜め堰まで、この実感の力を前にすると日本の歴史家は何をやっているのだという感じをうけるのはやむをえないと思う。
 中村医師は、さらに、アフガンのことについて、アフガンは日本人にはもっともわかりにくい国だ。それは第一に国境がない。第二に国家は実際上存在せず、自給自足の諸部族の割拠政治の上に名目的にのっているだけという事情によっていると述べた。
 後者については、もう一度よく考えてみたいが、私も前者のことは知っていた。つまり2000万のパシュトゥン民族が、アフガンとパキスタンの国境をまたがって住んでいる。これがセイロン、バングラディシュ問題などの同じくインド周辺の状況とあわせて、どういう影響を及ぼすかが、20世紀後半のインド亜大陸の政治と経済の運命に関わっているという見通しを述べたのは、はるか昔、大学院生の頃にインド史の中村平治氏の歴史科学協議会の大会報告であった。
 これは歴史学もそれなりの見通しの力をもっていたことの証明であるが、それ以降、すでに40年近く。歴史学がどのような意味での有効性をもってきたか。考えなければならないことは多いと思う。
 講演会で驚いたのは、終了後、売店をのぞいたら、高校時代の恩師の世界史のY先生がいらっしゃり、中村医師の本の販売をされていたことである。東京の西からわざわざ千葉まで来られるのに頭が下がる。講演会の最初に澤地久枝さんの「私たちは少数派かもしれないが、うまずたゆまず仕事を続けなければならない」というメッセージが代読されたが、私なども高校時代以来の少数派である。しかし、そこにいけば、誰か、慣れ親しんだ人々にあえるのがうれしい。
 先生に御挨拶をするために、待っていたら、妻は気がつかなかったが、中村医師が目の前を通った。精悍な雰囲気は争えないが、本当に背の低い方だった。

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