平川新氏の仕事、『伝説のなかの神』
今日は職場に出たが、身体の調子が少し悪く、途中で早引け。家に帰りついて、ともかく横になる。
必要があって、平川新氏の仕事、『伝説のなかの神』(吉川弘文館1993年)を読んだ。東北、おもに宮城県に残された白鳥伝説を点検して、その最初期の姿が、『陸奥話記』に描かれた安部則任説話にあり、それがある段階で、用明天皇伝説に変形し、さらに戦国時代末期から江戸時代初頭の時期にヤマトタケル伝説に展開したという見通しを明らかにしたもの。そこには、貴人の妻の落魄が貴人の赤子の死を結果し、その子が白鳥となって父の後を追うという伝説のパターンがあるとした。伝説が「子捨川」「投げ袋」などという地名に付随して説明されるというのも重要なパターンである(この「投げ袋」というのは七歳前の子供を山野に捨てるときには、袋に入れて捨てるという慣習に由来するものに違いない)。
しかし、『陸奥話記』には則任の妻が淵に投げ込んだ子供が白鳥になったという伝説はないから、この伝説の祖型は、則任に対して同情的なものであったということになる。それが江戸時代にはヤマトタケルの蝦夷征伐伝説に作り替えられたのである。神社に伝えられた縁起や祭神の伝説を読み解いて、新しい層をはぎ取っていき、古い伝説を復元していくやり方は、難しい作業だが、さらに体系的に展開することが可能なのかも知れないと思わされる。
この「白鳥」伝説をさらに掘っていけば、単にヤマトタケル神話に局限されない「白鳥」それ自身の神話に到達するに相違ない。そこに至るには、相当の飛躍がいるが、ともかくも、平川の仕事によって、則任の時代、一一世紀までさかのぼることができる意味は大きい。
平川氏は、陸奥国の延喜神名帳にみえる式内社一〇〇座のうち、七一座は在地神を祭ったものであるという、新野直吉『古代東北史の基本的研究』の仕事を引用している。平川氏の仕事は宮城県を中心としたものだが、それが陸奥国全体に及ぶとすれば、要するに、陸奥国の神社は戦国期以降に、はじめて本格的に記紀神話の体系の中に組織されていったということになるだろう。用命天皇伝説も、記紀神話というよりも聖徳太子信仰の一つの表現であるように感じられる。
このように考えると、平安期から戦国期までの陸奥国は、日本にとっての「異域」とい性格をつよく帯びると思う。「すべては蝦夷に始まるというのが、この地の伝承をめぐる基底状況」(242頁)であるが、それは陸奥国の支配権力論にとっても同じことであろう。蝦夷の存在を前提とした支配権力として、陸奥・出羽国というのは、国制としても、関東以西とは大きく異なる特徴をもっているはずである。関東を中心とした地域国家にとっては、これはいわゆる「東夷成敗権」の問題ということになる。この時代の研究者にはよく知られた事実であるが、「独立国家」といわれるような関東地方の東国権力の独自性の一つがそこにあることは確実だろう。しかし、逆に、陸奥国に存在した権力のことをどう考えるべきか、彼ら自身が、どこまで「東夷成敗権」という論理をもっていたかは疑問が残るように思う。とくに平安時代、鎌倉時代を時代を越えて、この問題を戦国まで通してみるということになると、これがまだ最終的には処理されていない難しい問題であることを再確認する。
それは日本国家の「民族複合性」の問題としてもう少し考えてみたいが、平川氏の仕事で、とくに興味深かったのは、江戸初期におけるヤマトタケル伝説の受容に、戦国期以来の北海道支配の中で、アイヌ=蝦夷に対する夷狄視が強化されたことがあったとしたことである。つまり、アイヌ支配が目に見える形で展開る中で、ヤマトタケルを受け入れるようになった。ヤマトタケルの征服行為の対象となったのは、東北地方の「我々」ではないという強い受けとめ方が生まれたというのである(235頁)。平川氏は、こういう事情で、伝説が天皇制を中心に論理化されたという。
たしかに、一種の民族意識の中に天皇制秩序意識の原点を考えるという論点は、重要なものと思う。そして、この平川氏の観点は、もっと以前から適用できるのではないだろうか。『曾我物語』は、その冒頭で、天神七代、地神五代の後、七〇〇〇年間の日本が「安日といふ鬼王」の支配となり、神武天皇が「安日が部類をば東国(津軽)外が浜へ追い下さる。いまの蝦夷と申すはこれなり」と述べている。『曾我物語』は関東武士の歴史観を表現しているといってよいから、彼らの歴史意識は「蝦夷」との関係で、天皇制神話に彩られていたことになる。
これは天皇制神話が、「民族意識」を媒介として歴史意識として蓄積されていくという問題ではないかと思う。私は、東アジアで唯一の「万世一系」の天皇、「万世一系の天皇をいただく日本」というイデオロギーが、天皇制の持続の重要な国際的条件になったと述べてきた。少なくとも、これが、なぜ天皇制は「持続」したかという問題に対する一つの回答であることは認められると思う。ただ、それは中国・朝鮮との関係のみでなく、蝦夷・アイヌとの関係がむしろ大きかったのかもしれないというのが平川氏の仕事を読んで気が付いた点である。
ともあれ、天皇制の秩序意識は、一種の歴史意識として蓄積されていることは確実である。それを歴史意識であると整理することによって、たとえば丸山真男の「基調低音」なるものに天皇制持続の条件をもとめるというような抽象的かつ理念的な議論を相対化できるはずである。平川氏がいっているように宮田登さんの『生神の思想』で天皇制の意識根拠の全てとすることもできない。私は、鎌倉時代以降の天皇制が、一種の「旧王」であるという現実に対応して、社会意識としての歴史意識が天皇を中心に組み立てられるのだと思う。ともかくこの平川の指摘はきわめて重要である。
これはすでに本来の神話的なイデオロギーではないと思う。それは民族意識・歴史意識としての天皇信仰とその周囲に蓄積されてきた仏教・神道などの宗教的観念の結合である。私は、とくに歴史思想において重大だったのは、それがたとえば「白鳥」や地名などの自然の説明に帰着するところであろうと思う。そこでは事柄が歴史の説明か、自然の説明かがわからないほど一体化しているのである。神祇の観念はそこに根づく形で組織される。そのような意味での歴史思想が、「日本」の思想の歴史にとって特別に大きな意味をもっていたということは『愚管抄』に明らかである。これは日本に独特な思想の現世的性格ということであろうと思う。
しかし、逆にそれだからこそ、原始の「神話」と、現在にまで伝わるような伝説的「神話」は明瞭に区別するべきだと思う。最近の議論には、両者をどこで区別すべきかを方法的に明瞭にしないままで進む危うさを感じる。
クローチェ『歴史叙述の理論と歴史』は、原始の神話と区別された中世の神話の特徴を「教会的神話」という言葉で説明をしているが、このような区別を、日本の場合にどういう論理で行うかが問題となるのだと思う。
最近、神話論に興味をもち始める中で、考えることが多い。












函館の講演が終わり。無事に済んで、いま羽田からのモノレールの中。写真はホテルの窓から陸よりを映したもの。両側は海。
話をきいてみて、できれば行きたかったと思う。講演された李成市さんも、姜徳相さんも尊敬している人だし、もう御一人の講演者は韓国の国史編纂委員会の委員長、李泰鎮ソウル大学名誉教授だった。これはどうにかして行き、自分の目と耳で確かめるべき集会であった。
さらに、目次の写真を掲げたが、執筆者は、星野恒「歴史上より観たる日韓同域の復古と確定」、久米邦武「韓国併合と近江国に神籠石の発見」、関野貞「朝鮮文化の遺跡」、吉田東伍「韓半島を併合せる大局面」、大森金五郎「任那日本府の興廃」、喜田貞吉「韓国併合と教育家の覚悟」、那珂通世「新羅古記の倭人」、黒板勝美「偶語」、三浦周行「日韓の同化と分化」、田中義成「倭寇と李成桂」、渡辺世祐「足利季世における朝鮮との交通」、辻善之助「徳川時代初期における日韓の関係」。こう列挙してみれば、彼らは、当時の「日本史家」のほとんどすべてである。
今日は、午前中から、来週月曜の王子製紙研究所訪問の下準備。最初の出発点であった「簀目」の形成構造の再点検が必要というメモになりそうである。このメモは明日完成し、月曜の午前中に修復室と詰めることになった。
今日は、休み。職場の史料展覧会の立ち番が土曜日で、その振り替えの休日。朝、花見川のサイクリングロードへ出る。朝は少し寒く、河面に朝靄が白いのをみる。紅葉はまだ。このところ、ブレーキがゆるんで危なかったので、先週末に調整し直した。帰りに急にでてきた自転車にぶつかりそうになったが、ブレーキが効いて、衝突をまぬがれる。若い女性だったが、挨拶もせずに行ってしまった。なにか考え事でもあったのだろう。
ゴードン・チャイルドの伝記『考古学の変革者』(サリー・グリーン著、近藤義郎、山口晋子訳、岩波書店、1987年刊)を読んだ。ゴードン・チャイルドが先史時代の考古学をはじめて確実な基礎の上にすえた20世紀最大の考古学者であるということは知っていたし、大学院時代にゴードン・チャイルドの英文論文を読んだ記憶もある。けれども、まとまったものを読むのははじめて。もっと早く読むべきものであった。こんなに面白いものはない。素人が先史考古学の知識を得ていく上での結晶軸にすることができるように思う。