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2010年11月

2010年11月30日 (火)

平川新氏の仕事、『伝説のなかの神』

 今日は職場に出たが、身体の調子が少し悪く、途中で早引け。家に帰りついて、ともかく横になる。
 必要があって、平川新氏の仕事、『伝説のなかの神』(吉川弘文館1993年)を読んだ。東北、おもに宮城県に残された白鳥伝説を点検して、その最初期の姿が、『陸奥話記』に描かれた安部則任説話にあり、それがある段階で、用明天皇伝説に変形し、さらに戦国時代末期から江戸時代初頭の時期にヤマトタケル伝説に展開したという見通しを明らかにしたもの。そこには、貴人の妻の落魄が貴人の赤子の死を結果し、その子が白鳥となって父の後を追うという伝説のパターンがあるとした。伝説が「子捨川」「投げ袋」などという地名に付随して説明されるというのも重要なパターンである(この「投げ袋」というのは七歳前の子供を山野に捨てるときには、袋に入れて捨てるという慣習に由来するものに違いない)。
 しかし、『陸奥話記』には則任の妻が淵に投げ込んだ子供が白鳥になったという伝説はないから、この伝説の祖型は、則任に対して同情的なものであったということになる。それが江戸時代にはヤマトタケルの蝦夷征伐伝説に作り替えられたのである。神社に伝えられた縁起や祭神の伝説を読み解いて、新しい層をはぎ取っていき、古い伝説を復元していくやり方は、難しい作業だが、さらに体系的に展開することが可能なのかも知れないと思わされる。
 この「白鳥」伝説をさらに掘っていけば、単にヤマトタケル神話に局限されない「白鳥」それ自身の神話に到達するに相違ない。そこに至るには、相当の飛躍がいるが、ともかくも、平川の仕事によって、則任の時代、一一世紀までさかのぼることができる意味は大きい。
 平川氏は、陸奥国の延喜神名帳にみえる式内社一〇〇座のうち、七一座は在地神を祭ったものであるという、新野直吉『古代東北史の基本的研究』の仕事を引用している。平川氏の仕事は宮城県を中心としたものだが、それが陸奥国全体に及ぶとすれば、要するに、陸奥国の神社は戦国期以降に、はじめて本格的に記紀神話の体系の中に組織されていったということになるだろう。用命天皇伝説も、記紀神話というよりも聖徳太子信仰の一つの表現であるように感じられる。
 このように考えると、平安期から戦国期までの陸奥国は、日本にとっての「異域」とい性格をつよく帯びると思う。「すべては蝦夷に始まるというのが、この地の伝承をめぐる基底状況」(242頁)であるが、それは陸奥国の支配権力論にとっても同じことであろう。蝦夷の存在を前提とした支配権力として、陸奥・出羽国というのは、国制としても、関東以西とは大きく異なる特徴をもっているはずである。関東を中心とした地域国家にとっては、これはいわゆる「東夷成敗権」の問題ということになる。この時代の研究者にはよく知られた事実であるが、「独立国家」といわれるような関東地方の東国権力の独自性の一つがそこにあることは確実だろう。しかし、逆に、陸奥国に存在した権力のことをどう考えるべきか、彼ら自身が、どこまで「東夷成敗権」という論理をもっていたかは疑問が残るように思う。とくに平安時代、鎌倉時代を時代を越えて、この問題を戦国まで通してみるということになると、これがまだ最終的には処理されていない難しい問題であることを再確認する。
 それは日本国家の「民族複合性」の問題としてもう少し考えてみたいが、平川氏の仕事で、とくに興味深かったのは、江戸初期におけるヤマトタケル伝説の受容に、戦国期以来の北海道支配の中で、アイヌ=蝦夷に対する夷狄視が強化されたことがあったとしたことである。つまり、アイヌ支配が目に見える形で展開る中で、ヤマトタケルを受け入れるようになった。ヤマトタケルの征服行為の対象となったのは、東北地方の「我々」ではないという強い受けとめ方が生まれたというのである(235頁)。平川氏は、こういう事情で、伝説が天皇制を中心に論理化されたという。


 たしかに、一種の民族意識の中に天皇制秩序意識の原点を考えるという論点は、重要なものと思う。そして、この平川氏の観点は、もっと以前から適用できるのではないだろうか。『曾我物語』は、その冒頭で、天神七代、地神五代の後、七〇〇〇年間の日本が「安日といふ鬼王」の支配となり、神武天皇が「安日が部類をば東国(津軽)外が浜へ追い下さる。いまの蝦夷と申すはこれなり」と述べている。『曾我物語』は関東武士の歴史観を表現しているといってよいから、彼らの歴史意識は「蝦夷」との関係で、天皇制神話に彩られていたことになる。
 これは天皇制神話が、「民族意識」を媒介として歴史意識として蓄積されていくという問題ではないかと思う。私は、東アジアで唯一の「万世一系」の天皇、「万世一系の天皇をいただく日本」というイデオロギーが、天皇制の持続の重要な国際的条件になったと述べてきた。少なくとも、これが、なぜ天皇制は「持続」したかという問題に対する一つの回答であることは認められると思う。ただ、それは中国・朝鮮との関係のみでなく、蝦夷・アイヌとの関係がむしろ大きかったのかもしれないというのが平川氏の仕事を読んで気が付いた点である。

 ともあれ、天皇制の秩序意識は、一種の歴史意識として蓄積されていることは確実である。それを歴史意識であると整理することによって、たとえば丸山真男の「基調低音」なるものに天皇制持続の条件をもとめるというような抽象的かつ理念的な議論を相対化できるはずである。平川氏がいっているように宮田登さんの『生神の思想』で天皇制の意識根拠の全てとすることもできない。私は、鎌倉時代以降の天皇制が、一種の「旧王」であるという現実に対応して、社会意識としての歴史意識が天皇を中心に組み立てられるのだと思う。ともかくこの平川の指摘はきわめて重要である。
 これはすでに本来の神話的なイデオロギーではないと思う。それは民族意識・歴史意識としての天皇信仰とその周囲に蓄積されてきた仏教・神道などの宗教的観念の結合である。私は、とくに歴史思想において重大だったのは、それがたとえば「白鳥」や地名などの自然の説明に帰着するところであろうと思う。そこでは事柄が歴史の説明か、自然の説明かがわからないほど一体化しているのである。神祇の観念はそこに根づく形で組織される。そのような意味での歴史思想が、「日本」の思想の歴史にとって特別に大きな意味をもっていたということは『愚管抄』に明らかである。これは日本に独特な思想の現世的性格ということであろうと思う。
 しかし、逆にそれだからこそ、原始の「神話」と、現在にまで伝わるような伝説的「神話」は明瞭に区別するべきだと思う。最近の議論には、両者をどこで区別すべきかを方法的に明瞭にしないままで進む危うさを感じる。

 クローチェ『歴史叙述の理論と歴史』は、原始の神話と区別された中世の神話の特徴を「教会的神話」という言葉で説明をしているが、このような区別を、日本の場合にどういう論理で行うかが問題となるのだと思う。
 最近、神話論に興味をもち始める中で、考えることが多い。

2010年11月24日 (水)

函館の街、アカデミーとライブラリー

101123_071747  函館の講演が終わり。無事に済んで、いま羽田からのモノレールの中。写真はホテルの窓から陸よりを映したもの。両側は海。
 テーマは「史料の編纂と歴史情報の共有」。編纂という自分の仕事について、それがどういうことかなどということを講演したのは初めてである。なにしろ函館市、函館の商工会議所と函館みらい大学、図書館・博物館などが一緒に昨年度からはじめた講演会シリーズの名前が「文化と編纂」ということなので、「編纂」についてどう考えるかというところから議論をはじめるほかなかった。なぜ、こういう講演会シリーズの題名を選択したのかは聞き逃した。よい題だと思うというのは手前みそか。
 編纂というのは、史料の群れ、史料群、大量の史料を正確に読み解いていくことだが、史料の向こう側には歴史社会それ自身が存在する。編纂は、その史料群にのみ注意を集中し、向こう側の歴史社会の把握を急がない、あるいは禁欲する方法態度ということになる。
 私は、これは歴史学の別の言葉でいえば、「考証」という作業になるのだと考えてきた。「考証」というとあまりに古い言葉に感じる人が多いかも知れない。中国の清の「考証学」という言葉を思い出すかもしれない。しかし、この言葉は(そして考証学という言葉も)それ自身としてはプラスの意味をもっているのだというのが、黒田俊雄氏がどこかでしていた断言。「考証学」などということをもっとも鋭く批判しそうな黒田氏の断言だけに印象に残っている。これは自然科学でいえば「実験」などにあたる学術の基礎、事実確認なので、歴史学のベースになるというのが持論。
 けれども、講演会の大テーマは「文化と編纂」なので、「編纂」が「文化」の基礎をつちかうものであるということを、どのように論じ、わかっていただこうかという点が、話の組み立ての基本となった。講演を用意していて、この点が一番困った。
 一字の読みの違いで、文化的な理解の巨大な相違がでてくるということで、最近の『竹取物語』の本文校訂の仕事の報告をしたのだが、それが、もう一つの情報学・データベース・知識ベースによる「歴史情報の共有」という話とうまくつながらない。
 前日、懇親会の後、その点を組み立て直し、『竹取物語』に登場する中国貿易の話を中心にして、函館が、ユーラシア東端の南からの日本海航路、北からのサハリン航路の交差点にあたるという話につなげることにした。函館で、『竹取物語』を読む場合には、『竹取物語』の段階でも、つまり九世紀にもラッコなどの海獣の毛皮交易は中国市場への輸出・貿易との連携があったのではないか。11世紀になれば昆布の交易は確実と思うという形で『竹取物語』を函館につなげることにした。
 函館はそれ以降も、国際的な貿易港としての性格を持ち続けた。それは、函館の東で発見された、一四世紀後半の三八万枚といわれる日本最大量の中国銭の出土に明らかである。前日の函館市立博物館での越前・珠洲の大甕の現物はやはり印象的であった。休館日に館長ご自身に案内していただき臨場感がます。あれはどれだけ大きな富が函館から中国に向けて積み出されたかの証明であり、その意味で日本における近代初期の国際貿易港函館の繁栄につながる遺物であることを実感。田原館長のご意見では、あれだけの銭を道内で流通させる条件はなかったということなのだろうということで、近辺にはもっと銭甕が埋まっている可能性もあるということであった。

 そして、それらの史料を編纂し、さらにデジタルデータとして公開し、函館に関する知識データとして組み上げていくことができるはずだと、「歴史情報の共有」という話の後半につなげた。
 綱渡りのような話の組み立てであったが、熱心に聞いていただき感謝。北海道史=アイヌ民族の歴史はこれまで勉強したことがなかったが、PCの中の読書メモ、榎森進さんの「アイヌ民族の去就」(『北から見直す日本史』大和書房、2001年)の読書メモによって、急遽、話を組み立て直した。これはやはり見事な論文である。もう一度考えてみようと思う。先日の日韓強制併合100年の姜徳相さんの報告レジュメには、併合後の日本国家を「天皇制民族複合国家」と規定した一節があったが、私の律令国家=民族複合国家論では、北海道と擦文文化、アイヌの問題が欠落している。
 長尾真国会図書館長の講演があった後、対談ということになったが、期せずして、情報化の時代だからこそ、人の力、ライブラリアンの専門性が重要になっているということになる。ネットワークに蓄積された知識から「デ・ファクト」を取り出すことはやはりできない。それはライブラリアンによるガイダンスがいるということであった。これは「編纂」論からいえば、ライブラリアンは一種の「編集者」であるということになるのだろうと思う。編纂=ドキュメンテーションに対して、生産された学術書のうちで、何を蒐書に、何を開架書庫に並べるかは、ようするにエディターの職能に類似してくる。その意味では、ライブラリアンはアカデミーとエディターの間にいる職能であるということではないかと思う。情報化の大波の中で、出版業界と図書館の間にいろいろな問題が起きていることを側聞するが、このような職能の類似性のレヴェルでの議論が生産的なのだと思う。

 もう一つ見学した函館市立中央図書館は素晴らしいもの。稼働書庫20連前後の郷土史料は、明治末年に、この図書館が私設の組織として発足した時以来の方針で蓄積されたものという。新聞・ビラ・ポスターなどにおよぶ膨大な近代アーカイヴズとなっている。

 函館のベイエリアにそびえるホテルから、両側の海と山をみたことを含めて、文化的な街のたたずまいはさすがであった。講演では『箱館奉行所日記』を編纂された稲垣敏子さんは、私たちの仲人。そのような私的関係をふくめたネットワークは、函館市民からは目に見えなかったかもしれないが、そのようなアカデミー・ライブラリをつなぐネットワークが地域の文化財を支えているのだと述べた。これは、私の目にもみえていなかったという意味で、何よりも私の実感であった。

 「編纂=現象学」というのは、直接に史料の向こう側の実態を求めることを急がずに、まず大量の史料世界の相互関係のみに、注意を集中する方法態度ということになる。ハイデッカー的にいえば、「世界・内・存在」の現象世界をある意味で没価値的に操作するということになる。情報学の人が、ハイデッカーのオントロジーという言葉を使うので、ハイデッカーを読んでみて、いろいろなことがわかった。一番大きかったのは、三木清がふたたび読めるようになったこと。
 「世界・内・存在」とは日常性の世界であるが事物の相互的な関係を有用性というレヴェルで処理しているのが、目についた。これはマルクスをふくむ古典派経済学に対するベーム・パヴェルク以降の効用経済学が、使用価値・効用の世界に自己を局限するのと、照応した動向であると私は考えている。ハイデッカーを読んでいると、所詮、あたりまえのことを下手に言っているという印象が強いが、しかし、ともかく、そういう意味での「現象学」が、学問的な操作の方法論として意味をもったこと、もっていることは確認できることではある。もちろん、その有効性は、結局、学問研究の技術的方法論だから、学者の技術的必要(あるいは自問自答)をこえた世界観的な意味をハイデッカーがもっているとは思えない。所詮、学者の読み物である。
 ただ、行く飛行機の中で読んでいた井筒俊彦氏の『意識と本質』の言い方をかりると、事物それ自身を固定的に「本質」として見るのではなく、その向こう側にある絶対世界に飛躍するのでもなく、事物=史料の連鎖(「縁起」「依他起性」)をそれ自身として認識する態度という東洋思想一般の論理。事物の向こうにあるものを「無」とするか「真如」とするかは別として、現象界を深層意識のレヴェルから突き放して観照する心的態度ということになると、議論の外貌は、ハイデッカーと似てくることを知った。こういうのは、哲学では当然のことなのだろうが、私には、三木清を考える上でも、収穫だったし、ハイデッカーを読んでいるより、歴史家としては勉強になる。
 歴史学の立場からいえば、個々の「史料」は歴史社会という実態あるいは運動が、自己を文字あるいは史料という形で表現したもの、「現象」ということになるが、この現象としての現象にあくまでも執着する態度が編纂ということになるだろう。その向こうにある「無」「真如」とは何かというのは、なかなか一致することは難しい。

2010年11月20日 (土)

シンポジウム『韓国強制併合一〇〇年、韓日歴史認識の違い』

 先週土曜、13日、「韓国強制併合一〇〇年、韓日歴史認識の違い」というシンポジウムがあった。主催は在日本大韓民国民団中央本部、主管は在日韓人歴史資料館。私は、東大のホームカミングデイにさいして行われた職場の史料展示会の立番があって行けなかったが、奥さまがいってきた。
101118_124443  話をきいてみて、できれば行きたかったと思う。講演された李成市さんも、姜徳相さんも尊敬している人だし、もう御一人の講演者は韓国の国史編纂委員会の委員長、李泰鎮ソウル大学名誉教授だった。これはどうにかして行き、自分の目と耳で確かめるべき集会であった。
 写真は、李成市氏が報告でふれた『歴史地理』の臨時増刊号、韓国併合の年、明治四十三年十一月三日に発行されたものである。このような臨時増刊号がでていることをはじめて知ったので、それを探し、ここに紙と目次を掲げた。
 表紙は、出雲の神・八束水臣津野命が、対岸の新羅の地を綱をかかえて引き寄せたという『出雲風土記』の国引き説話のイラストである。そして雑報に書かれた「本号表紙説明」には、次のようにある。
 「抑も、八束水臣津野命が、国引きの大理想は、遠く祖宗より伝えられ、而して遙かに後世に残さる。すなわち神功皇后の征韓となり、豊公の出兵となり、さらに征韓論となり、韓国統監府の設立となり、終に韓国の併呑となり、朝鮮総督府の設置となる。所謂、事績後に顕はれ、徴証前に備わるもの、今日において国引の古話を曰ふ。亦、可ならずや。吾人が特に之を選びて、本号の表紙を飾りしこと、聊か意の存するところ無きにあらざるなり」
20101118_130917_0013_2  やはり、これは驚くべきものである。明治43年というのは、ようするに1910年。日本が韓国の独立をうばう不法条約を強制した年である。この歴史地理の特集号には上に掲げたように「韓国併合詔書」なるものが巻頭に収められているのである。
Daimokuji_3    さらに、目次の写真を掲げたが、執筆者は、星野恒「歴史上より観たる日韓同域の復古と確定」、久米邦武「韓国併合と近江国に神籠石の発見」、関野貞「朝鮮文化の遺跡」、吉田東伍「韓半島を併合せる大局面」、大森金五郎「任那日本府の興廃」、喜田貞吉「韓国併合と教育家の覚悟」、那珂通世「新羅古記の倭人」、黒板勝美「偶語」、三浦周行「日韓の同化と分化」、田中義成「倭寇と李成桂」、渡辺世祐「足利季世における朝鮮との交通」、辻善之助「徳川時代初期における日韓の関係」。こう列挙してみれば、彼らは、当時の「日本史家」のほとんどすべてである。
 ようするに、「日本史家」のすべてが、韓国併合に荷担し、明瞭な政治的行動をとったということである。これは、少なくとも現在の観点からみるならば、歴史家としてけっしてしてはならないことである。「近代歴史学」の出発時点が、このような実態のものであったということを、私たちは正確に記憶し、忘れてはならないと思う。
 もちろん、たとえば永原慶二氏が、1969年出版の『日本史研究入門Ⅲ』(東京大学出版会)で、いわゆる「戦後歴史学」においても帝国意識に対する批判が弱く、「帝国主義支配民族の歴史学」の「宿命」から自由ではなかったと述べているように、日本の歴史学の中に、このような問題があることは、歴史家ならば常識であるはずのことである。しかし、それと、実際に、直接に「韓国併合」を「人は、これをもって旧状態に復せりといはんも、我はかならずしも復旧といわず、これ実に二千余年の精華の発揚にあらずして何ぞや」と述べている、この特集号の「発刊の辞」を実際によみ、その下で執筆された論文の内容と筆者を確認していくことは、やはりまったく違うことである。
 李氏は、たとえば日本が「任那日本府」なるものを設置して韓国南部を支配したという虚像など、「近代日本における通念形成の淵源」の形成には、これらの歴史家の責任が大きいと述べている。それはその通りであろう。
 李氏も指摘しているように、このような観点からみると、永原慶二氏の『20世紀の歴史学』が、三浦周行を「オーソドックスな歴史家」、喜田貞吉を「官学アカデミズム歴史学の枠を越え、自由な発想に基づく広い関心をもつ個性豊かな学者」と評価することは、氏自身もいうところの国内的視野に偏った見方であることは否定できないだろう。
 李氏は、講演で、私は永原さんを尊敬していますと明言されたということだが、私も、それは同じである。その上で、永原さんの描いた史学史を、さらに越えていくためには、上記の歴史家一人一人の学問の成果と、さらには方法の中に踏みこんで、総括的な批判を行うべきものと思う、結局のところ個人としての歴史家を批判する場合には、その個人個人の学問に踏みこんでの方法的批判とならざるをえないはずである。
 現代日本の最良の歴史家の一人である永原さんが執筆した『20世紀の歴史学』に甘さがあるということは、日本の歴史学界全体の近代歴史学に対する方法論的批判が甘いということを意味するのである。
 ただし、これは永原慶二さんの本に対する批判というよりも、まずは自分の気づきの問題である。おそらく永原さんたちの世代は、この特集に執筆した学者たちの「帝国意識」は骨身にしみてよく知っていたということであると思う。私などの世代にとっても、それは当然の常識であり、出発点であったが、しかし、この特集号をみて、実際をそれをどこまで実感していたかに疑問がでてきた。私が高校生の頃、大学生の頃は、古本屋に行くと、古色蒼然たる皇国史観にもとづいて書かれた本が書棚の隅には残っていたものである。それらは一括していぶかしいものに過ぎなかった。それらの淵源となるものが、この特集号には現れているのだと思う。
 もう一つは、やはり『歴史地理』特集号表紙の「神話」のことである。永原さんたちの世代と私たちの世代の相違は、「神話」教育あるいは帝国文化としての「神話」というものを実感しているかいないかという問題があるように思う。考えてみれば当然のことであるが、「神話」というものが文化の隅々まで、「民話」「民俗」を媒介として入り込んでいた時代ということを考えねばならない。「神話」論も、「民話」論も、それを意識しながら考えるようにしていきたいと思う。
 なお、以下は、聞き取りメモ。姜徳相さんが「韓国のナショナリズムと日本のナショナリズムは違う。両方おかしいなどというのは歴史の考え方としておかしい」といっていたということ。また李泰鎮氏の講演は、日韓外交文書作成にあたっての強制や捺印の偽捺などの問題に詳細にふれたもの。「併合条約」は外交関係としては合法的に締結されたという海野福寿氏の議論にもとづいて日本の首相の発言が組み立てられたのは有名な話であるが、「最初の段階では一緒の仕事ができたのですが、結局、立場はまったく異なることになってしまいました」と発言されていたということである。

2010年11月17日 (水)

講演「文化と編纂の準備とVIC

101117_080156  昨日は週に一度の研究日。一昨日の王子製紙研究所訪問で疲れたのと、若干の家事も優先して、休み。このごろまた忙しくなって研究日の曜日が決められない。
 ところが、サラ・パレッキー病にかかってしまう。息子のアメリカにいる友人が送ってくれた『BODY WORK』。これを読み始めると「時間が!」という訳で、買わないでいたところ、彼からの誕生日の贈り物(62歳)。
 朝、これにはまりだして、これはまずいと『BODY WORK』をもたずに自転車で出る。稲毛駅からの道と国道の角のあたりにある本当に狭い喫茶店に行って、「義経」論を再開。そのあと午後は稲毛から遠くへ走って、帰宅途中のファミリーレストランで続き。日曜日に走れなかったので、ともかくも脚の大筋肉を使う。
 義経は、「鎌倉の頼朝と義経」から書き出したが、ここ一月ほどは、NHKから出した『義経の登場』の追補に入っていた。これが昨日の作業でだいたい終わり。
 夜はさぼって『BODY WORK』に没入。明け方に目が覚めて、結局、450頁のうち、150ページまで。問題の焦点が、イラク侵略の時に軍務を請け負ったセキュリティサービス企業の暗部に関わることがわかったところで、時間切れ。いま、朝の電車の中だが、『BODY WORK』は自宅に置き去り、これを持ってくると何もできなくなる。
 内容は重たいものになると思うので、また別にして、驚くのは、アメリカ社会の情報化の様子。個人個人が携帯電話とWEBの網の目の中にもぐっているとでもいうのだろうか。あるいは脳細胞の活動の外部化を表現する電磁波ゾーンを身体の被覆のようにして、いわば自分の配線を露出して歩き回っているとでもいうのだろうか。個人関係の中にまで深く情報電磁波が入り込んでいるアメリカ都市の日常生活がみえるような気がする。PI・VICの生活は、現実に存在している情報電磁波社会の日常を描く点でも出色。とくに経済条件をふくめて個人情報がネットワークで検索可能で、それを検索し、統合する個人データベース提供の企業がネットワーク上に存在しているというのに驚く。これはおそらく事実なのだろう。これがあるから、サブプライムローンなどという金融商品が流通する訳だ。何というアメリカ社会。
 しかし、情報化のレヴェルの深化は、一面で商品経済における商品の価値が自分の言葉をもって語り出すということなのかもしれないと考えさせられる。商品の価値は効用あるいは効用価値の体系によって表現されるが、このいわゆる相対的価値形態が、自分の情報語をもち始めるとどうなるかという問題である。たとえば、商品がどこで生産され、どのように流通するかということが、逐一、トレースできるようになるというのは、商品流通の形態を変えていく。生産と流通の前提として、情報が先行的に流れてしまうという訳だ。もちろん、商品流通の無意識性はもとより残るとしても、少なくともその部分部分が自分を表現し始める。これは一般言語としての貨幣化がある部分で相対化されるということなのではないか。この問題を透視することが情報社会論の基本なのではないか。これは夢想、あるいは禅狂で、私の理論病だが、ともかくパレッキーの新しい本への中毒は、頭と気分を活性化させる。
 来週は、函館で「文化と編纂」という講演会で話をする予定。題は、「史料の編纂と歴史情報の共有ー東京大学史料編纂所での経験から」。VICは、これをやってから年末の楽しみにしていたのだが、話が関係しないという訳ではない。
 下記が講演概要としてすでに御渡ししたもの。パワーポイントを用意しなければ。
 「文化と編纂」という問題の立て方に感心しました。「編纂」に近い言葉に「編集」がありますが、「編纂」とは、もっと学術研究に近い場所で、知識を組み立て、蓄積することそのものです。「編纂」とは何かについて、最近の『竹取物語』の編纂の経験から説き起こし、歴史の情報と知識の共有について御話ししたいと思います。また史料編纂所と函館の博物館・図書館とは関係が深く、アーカイヴズ・図書館・大学(アカデミー)の関係についても考え直してみたいと思います。
 以上を総武線・地下鉄で書いて、本郷へ。先週ぐらいから、本郷三丁目の角にあたらしいビッグイッシューの販売の人が立つようになった。一冊買って職場へ。うまく行くことを願う。

2010年11月15日 (月)

王子製紙の研究所訪問。やはりカルシウム紙か。

 今日(11月15日)は王子製紙の研究所への訪問の日。
 事前の修復室との打ち合わせで時間を過ごし、12時に農学部で待ち合わせにギリギリ。弁当を食べる時間が少なく、三分の一ほど食べてから慌てて出る。
 豊洲にある研究開発本部、さすがに立派な研究所である。分析センターの方々にお会いする。
 こちらからの御願いは柔細胞の画像の確認、分析、さらに、それ以外の非繊維物質の特定であった。結果として、和紙分類の四番目は、カルシウム紙で良いかも知れないという結果。ただし、まだ特定はできない。もう一度、試料と分析の目的などを再提示して議論の上、試験を御願いすることになった。今回の調査でだいたい一週間かかったということで、本当にお世話になった。企業としてはすぐに成果となるものではないが、実験と知識の蓄積にはなるといっていただき、かつ担当の方が興味をもって取り組んでいただけたのはわかり、ありがたかった。
 まず分析センターの器機の見学。各所で私と史料編纂所のメンバーを人文系の人なのでわかるように説明してあげてほしいといわれて恐縮。
 第一はまず分子レベルの成分を分析するためのラマンレーザー分析と顕微鏡赤外分光分析の機器。顕微赤外分光分析(FTーIR)は、和紙科研でもE前先生がすでに行ったが、上記のデータはえていない。セルロースの繊維とヘミセルロースの区別ができないのも問題。顕微赤外透過分析、また特定の成分の面的な分布を表示する機能(イメージング)をもつフーリエ赤外分光顕微鏡も見学。スペクトル毎の分布が明瞭になる。
 興味深かったのはラマンレーザー分析の顕微鏡。これは化合物にレーザー光をあててると通常の反射光以外に分子振動にかかわる弱い電磁波、光の反射を計測するシステム。発見者、インドのラマン博士の名前をとってラマンスペクトルといい、これによって化合物を特定する。影響するのは1ミクロンの範囲なので、とくに試料をぬらしておけば完全な非破壊分析が可能ということである(ただし墨のところには水をつけていないとカーボン化することがあるので注意)。
 顕微鏡のディスプレイの上で赤いマークを動かし、狙った粒子などにレーザー光をあてることができる。これまで、紙の分析ではあまり使用されていないが最新式の非破壊分析。立体的な分析が可能、水があっても分析可能なところが、顕微赤外分光分析と相違するということであった。
 次は、様々な電子顕微鏡と断面を作成する器機をみせていただく。後者の器機により作成した紙の断面の電子顕微鏡写真は見事なもの。断面作成はダイアモンドのナイフで切断する方式、イオンビームで切断する方式があった。
 表面分析の顕微鏡は、飛行時間型二時イオン質量分析装置(イオンを試料の表面にぶつけて発生した反射二次イオンを円環の中に飛ばして分析)、光電子分光分析装置(元素の定量分析、測定深さ10ナノメートル)、さらに原子間力顕微鏡(Scanning Probe Microscope、Probe(針)で表面をタッピングして表面の画像を作成する)をみせていただく。最後のSPMは非破壊で自然状態でみえるので、きわめて有用とのこと。パルプの表面の細繊維(フィブリル)の状態がよくわかる写真は見事なものであった。
 次ぎに、β線地合計を見学。この機械は、江前先生の論文「和紙の簀目の幾何学的構造と大徳寺文書における簀目数分析」でなじみのものであるが、はじめてお目にかかった(この論文は和紙科研のHPにのっている論文の部の科研「禅宗寺院文書の古文書学的研究」のPDF)。同論文は、この地合計で、一枚の和紙のミリメートル毎の坪量分布(繊維材料の濃度分布)を作成し、さらに表面の形状測定によって和紙表面の凹凸を分析している。これで和紙を計測した後、これらにムラがなくても簀目が形成されることを発見し、それを前提として同論文は、簀目の幾何学的構造が簀にそって繊維が横にならぶことに求めた。
 さらに、湿度によって料紙がどの程度に変化するかを計測する機械、水につけた場合の強度を計測する装置、澱粉測定装置を見学。水につけた場合の強度を計測する装置で、美濃紙の計測をしてみると面白いという話をした。美濃紙は水に強いので、商家では会計帳簿に使い、火事があると井戸に投げ込んで守ったという話をきいたことがある。
 澱粉計測装置は、料紙の厚さをだいたい8層に分割して、層(テープ)にはいでいって(いわゆる和紙でいう相へぎということになる)、層毎に澱粉のみを抽出して澱粉の定量分析ができる器機。洋紙も澱粉を使用することがあるので有効な装置であるということであったが、室町幕府奉行人の竪紙奉書は澱粉が70%以上と考えていると、当方から説明したが、驚いて聞いてくれたように感じた。
 最後に、紙質検査室を見学。水・インクの吸収率などの表面特性を計測する器機、光沢度・白色度などの光学的特性の計測装置、厚さ計測機器、紙の強度や「こわさ」を計測する装置、超音波による繊維配向姓計測計などを見学した。和紙科研でも、やはり、紙の物理的・光学的な紙質を記録し、さらに顕微鏡分析を行ってデータを作成するので、 ある意味で同じことをやっているということを実感した。しかし、これらの器機が一部屋に並んでいる様子は壮観であった。

 以上の器機見学の後に、和紙を電子顕微鏡とラマンレーザー分析を行った結果を紹介していただいた。微分干渉や位相差顕微鏡の写真は見事なもので、それに対応するラマンレーザー分析の結果によって、相当のことがわかることを確認した。
 一番大きな成果は、冒頭に述べたように、楮の繊維の中にも、蓚酸カルシウムが相当量含まれているということがはっきりしたことであろうか。これによって、和紙の物理分析によって四種類の和紙が区別できることになるかもしれない。この結論を確定して、和紙科研のHPを年度内に書き直せば、科研としては最初の意図を達成することができたことになる。
 そして、この蓚酸カルシウムの画像、柔細胞の画像(二種類あるかもしれない)、さらに澱粉の画像、トロロアオイの画像などをデータベースとすることができれば、100倍の顕微鏡で和紙を覗いた時にみえる様々な粒子や物質を見分けることが実際にできるかもしれない。そこまでやれば人文研究者もある程度の分析力をもつことができるのは確実のようである。そして、和紙の紙質その他、様々な分析結果と合わせてマトリクスを作れば、和紙の物理分析がある程度自動的にできることになるかもしれない。以上をふまえて再度、分析の方向と必要性、意義をまとめることとする。

  先日、職場の同僚に「文理融合研究」はスマートで格好良い感じがするといわれて驚く。こちらは研究というよりも修復室との関係でふってきた仕事であり、かつ地味な仕事・正真正銘の基礎研究であると思っていた。しかもようするに自然系の人々の教えがなければ出発することもできないような種類の研究である。

 しかし、今回の王子製紙研究所を訪問してみると、たしかに自然系の研究の格好良さを実感したような気持ちになる。王子製紙の研究開発本部分析センターの方々に本当に深く感謝である。

武家源氏=摂関家の走狗という流通観念の院政期版。

 今日は東大のホームカミングデイで、史料編纂所でも史料展示会があり、その立ち番。武田佐知子さん・渡辺浩史氏・高橋秀樹氏などにあう。武田さんは何年か前の脇田晴子さんの会以来。例によって元気。僕からは太田秀通先生の話。渡辺氏は息子さんを連れて。息子さんは筑波で山本隆志氏のところであると。同じ日本「中世史」を選ぶというのは親を尊敬している証拠である。
 高橋秀樹氏とは議論。彼が『武家系図』(高志書院)に発表した三浦氏についての論文を、ちょうど「義経論」との関係で、一昨日、再確認していたところなので、これは必然。
 高橋秀樹氏の議論を前提に組み立てた義経論の該当箇所は次の通り。
「そもそも、武家源氏は、一〇世紀後半に発生した冷泉天皇とその弟の円融天皇の子孫が、代わる代わる王位につくという王統迭立(両流から代わる代わる王が出ること)の中で地位を上昇させた武家貴族である。この平安時代前期の王統迭立は、一般にはほとんど知られていないが、しかし、日本の王家は「万世一系」であった代わりのようにして、早くから、その内部に激しい矛盾や闘争を抱えていた。「王統迭立」というと、教科書では、南北朝内乱の原因となった持明院統・大覚寺統の王統分裂のみがふれられるが、この平安前期の王統迭立が決定的な意味をもっていたこと、それが源家の歴史にとっても根本的な意味をもっていたことは、拙著『平安王朝』で強調した通りである。
 この王統迭立は直接には村上天皇の息子であった冷泉天皇が重度の鬱病を発症したために、弟の円融に譲位し、冷泉の息子の花山が皇太子となったという事件によって引き起こされたものである。全体をいちおう説明しておくと、冷泉王統の側では、冷泉1ー花山3ー三条5、円融王統の側では、円融2ー一条4ー後一条6と、両流から交替に天皇が出た。歴代の順序は、右の天皇名の肩の数字に示した通りであるが、冷泉から数えて六代目の後一条の皇太子には、最初は三条の子供の小一条がついた。もし、予定通り、小一条が即位することになれば、さらに迭立は続くことになったはずであるが、結局、小一条は「小一条院」という院号によって前天皇の待遇をうけることを条件として自ら退位し、これによって王統の迭立は終わった。
 それにしても三世代の迭立は長い。それだけ続いたのは、この迭立の発生の経過からして、本来は冷泉王統の側が正統であるという根強い観念があったためである。実際、最初は摂関家の兼家ー道長の親子なども冷泉王統の側にいたのである。これに対応するようにして、源満仲に始まる源氏の一統も、この王統迭立の中で、一貫して冷泉王統の周囲にいた。満仲は冷泉天皇・花山天皇に仕え、その子頼光も冷泉院判官代から立身して三条天皇に仕え、孫の頼義(頼信の子)は小一条院判官代として立身して最後まで小一条院に付き従っている。とくに重要なのは、頼義であって、狩猟を好んだ小一条院は頼義の弓技をめで、懐刀として駆使したという。頼義は、父の頼信による平忠常の反乱の鎮圧に従軍したことがあるが、頼義が東国に拠点をかまえるようになったのは、小一条院判官代の勤務実績によって相模守に任ぜられて以降である。
 頼義は、この時、はじめて鎌倉に本拠を構えたとされるが、注目されるのは、同時に、この頃、頼義が相模国に三崎庄と波多野庄を立庄して、小一条院に寄進したと考えられることである(湯山学一九九六、高橋秀樹二〇〇七)。後に、この二つの荘園は、小一条院の娘で三条天皇の養女となった冷泉宮?子内親王に伝領され、内親王が藤原教通(藤原頼通の弟)の三男の藤原信家の妻となったことによって摂関家領に流入することになった。しかし、この二つの荘園が本来は冷泉ー三条ー小一条の王統領の荘園として東国において中心的な位置をもっていたものであったことは疑いない。その実際上の支配は、頼義が行っていたはずである。そして、頼義の下で、現地をおさえたのは、三崎庄については三浦氏の祖とされる三浦為次あるいはその父、波多野庄については、やはり波多野氏の祖と伝承される佐伯経範であった。この二人の人物が、源家がイニシアティヴをとって引き起こした奥羽戦争、いわゆる前九年・後三年合戦で活躍していることは偶然ではないだろう。
 この二つの家柄は、東国における源氏相伝の有力な家人であって、武家源氏の冷泉系王統への臣従という古くからの伝統にそって活動してきた代表的な家柄であったと評価できる。前者の三浦氏は、高望王の血をひく坂東平氏で、三浦半島を拠点としているが、忠常の反乱の経過との関係で、頼義の父の頼信に臣従したものと考えられる。これに対して、後者の波多野氏は、本来は秀郷流藤原氏の血筋を引く武士で、秀郷の田原藤太という名乗りは、現在の神奈川県秦野市、波多野庄に残る地名、田原の地が秀郷の居住地であったためであるという(野口)。波多野氏の祖と伝えられる経範が佐伯姓であったのは、親が相模国の目代として下ってきて、息子を波多野の家に入り婿としたという由緒によるらしい(湯山一九九六)。
 坂東平氏と秀郷流藤原氏の動向は、平将門の反乱以降も、東国の帰趨を決定するものであったはずである。この意味でも、頼義が、坂東平氏と秀郷流藤原氏に出自し、相模国を代表する地位にあった三浦氏と波多野氏を組織したことは大きかった。実際、三浦氏と波多野氏は、これ以降、保元・平治の合戦にいたるまで源家の武士として活動しているのである。
  長々と引用したが、源氏=冷泉王統への忠誠立てという仮説は、『平安王朝』で展開し、『古事談を読み解く』(浅見和彦編、笠間書院)に発表した「藤原教通と武家源氏」という論文で再確認したものだが、これまで肯定的なコメントをえたことがない。しかし、高橋秀樹氏の論文の趣旨と合わせると、上記のようなことになる。あるいは、歴史学界には、ブログで新説を出すのはおかしいという意見があるかもしれない。たしかに、年寄りが勝手なことをブログで書き散らすのは問題だろうが、これは既発表の自説に既発表の論文を組み合わせただけなので御許しを願いたい。
 高橋秀樹氏は、波多野氏を検討しようとしていて、一部研究会で発表したということで、これまで源氏の東国における活動は、むしろ摂関家領荘園との関係で議論されていたと思うが、考えてみたいということであった。いわれてみれば、たしかに、東国摂関家領と源氏というのが普通の考え方なのかもしれない。摂関家の走狗=源氏という流通観念が院政期にまで広がっている訳である。しかし、これは源氏中枢が白河ににらまれて、白河にむしろ距離をおいた師通ー忠実のルートに依拠しようとしたということであろう。
 『平安王朝』で展開した私説は、院政期における支配層の内部対立の原点は、白河と師通ー忠実の懸隔にあり、それに対応するものとして源氏の武家主流の位置からの転落、その代わりの伊勢平氏の台頭にあったというものであった。これが「崇徳クーデター(保元の乱)」から「信西排除事件(平治の乱)」の直接の前提となった。源平対立の淵源は、白河ー義家関係にあったはずであるということであるが、この再確認を「義経論」の前提に組み込んでおく必要が生じたのが先々週であった。これはなかなか面倒くさい作業への突入を意味していて、鬱々というのが最近の状態。しかし、「義経論」は長丁場を覚悟することとする。

 しかし、それにしても歴史学界は狭い。ちょうど論文を読んでいた人、考えていた人が目の前に現れるというのは、面白い経験である。高橋氏とは山中裕先生はお元気だろうかという話になる。私はたしか、昨年、称名寺前のご自宅にうかがったが、その時はお元気であった。最近は彼も会っていないということである。『かぐや姫』を差し上げたら、先生からは電話があって、秋に会いましょう、電話をしますということだったが、まだ電話がない。あるいは春になったらということであったろうか。若干、心配である。
 歴史学界は狭い。情報論的にいえば実に濃密なスモールワールドの典型である。特定の分野をイメージすると、いまでも(大学院生、PDをふくめて)、50人以下の研究者の切磋琢磨で進んでいるように思う。
 歴史家は、その本性上、真面目な人がなる。金儲けをしよう、世俗の出世を求めようというような人が歴史家になろうなどと思わないのはあたりまえの話。保守的なのは歴史家として当然のことであるが、かたくるしく役人根性に流れる場合も発生する。これは、よい意味でも悪い意味でも、東アジアの「考証」をこととする「史官」の伝統であるというのが持論である。
 そして、この日本社会ではこの「史官」としての職務を離れられないため、研究のスピードはどうしても華々しいものではなくなり、狭い範囲での徐々とした進行となる。
 もちろん、表面的な華々しさなど、歴史学にとっては、それこそ「くそくらえ」であるが、しかし、「史官」から半ばは離れ、「歴史学同業組合」として、一時業務離脱時間の保障を契約し、相対的に自由なネットワークを作る、もう少しの自由がほしい。その人の仕事が自分の頭の中に宿っている人と自由に話す楽しさというものを、もう少し享受したい。廊下で5分ではなく。
(閑話休題。それにしても子安宣邦さんの、「くそくらえ」発言は気になる。僕も自説を点検してみよう)。
 

2010年11月12日 (金)

東京大学情報学環シンポジウムー現在は「情」の時代

101112_174614_2  今日は、午前中から、来週月曜の王子製紙研究所訪問の下準備。最初の出発点であった「簀目」の形成構造の再点検が必要というメモになりそうである。このメモは明日完成し、月曜の午前中に修復室と詰めることになった。
 夕方から、東京大学の情報学環の創立十年集会のシンポジウムを聞きに行く。集会の全体は、「知の熱帯雨林、学びのカンブリア爆発」というすごい題。意味がわからなかった。
 シンポジウムは「学環的なるものの未来、情報知の21世紀を俯瞰する」というテーマ。国会図書館の長尾館長、大坂大学総長鷲田小弥太、東京大学総長(初代学環長)浜田純一の諸氏によるシンポジウム。二〇〇〇年に行われた学環の創立の時にも、このメンバーでのシンポジウムが行われたとのことである。
 11月23日に函館で「文化と編纂」という題で、はこだて未来大学主催の講演会があり、長尾先生とご一緒する予定。「文化と編纂」という題は見事な題で、それに引かれて御引き受けしたが、中身をどうするか困っている。
 おのおの講演を一時間、そしてその後に一時間の討論ということ。講演一時間はいいとしても、討論一時間というのは後から聞いた話で、私は、ともかく頭のキレが悪く、討論は苦手。その時、困らないように長尾先生の話をきいておきたかった。
 これは正解で、さすがに、話は面白く、感心した。パソコンを持ち込んで、メモをとりながら自分の講演の内容も考える。いま、帰りの電車で、そのメモにそって、このブログ記事を書いている。
 「知の熱帯雨林、学びのカンブリア爆発」というテーマも、長尾さんが、一〇年前の講演でいったことに由来するというので納得。つまり「学術を樹木にたとえれば、情報学は樹冠の上に咲いている花である。学術の総合の上に咲いて、枯れて種を作り、うまくいえば新しい種類の樹木になる。花はすぐにはみえないところに咲くが、いわば密生した熱帯樹林の樹冠の上にさいている花であって、一面の花畑である」という長尾発言があったとのこと。
 話の切り出しは、三人がおのおの三つのキーワードを出して、それにそって話すというもの。長尾さんのキーワードは、「情の時代。生成の時代。環(和)の時代」。
 (1)の情の時代とは、「知情意」からとったもの。ギリシャが知、中世が情、ルネサンスは意とすれば、一九世紀・二〇世紀科学はふたたび「知」である。そしてそれに続くのは、再び「情」。この情は、情報の意味での「情」と心の意味での「情」である。
 (2)生成の時代とは、科学は分析の時代であり、ほとんどの学問分野において分析の時代は終わり、生成、総合、創造の時代に入った。何をどう作るべきか。その結果を十分に考えずに創造に走ることは危険。本当の意味での注意が必要になる時代である。つねに地球全体を考えよ。
 (3)の環(和)の時代とは、循環の組織がどこでも必要になるという意味。学問自身も循環の時代に入る。それを象徴するのは、現代が早晩アーカイヴができなくなる時代に突入すること。あらゆるものを電子情報で集めるといっても無理。データとして何をすてるかを考えざるを得なくなる。それはどこでも再利用できるものを見極めることが必要になることの象徴である。そして、この再利用とダイナミズムをもった循環を組織するためにはセオリーが必要になるということ。
 うまい言い方である。網野善彦さんは、人類史は成年の時代に入ったという言い方をよくしたが、この「情・創・環」というのは、もう少し具体的であり、かつ正確なところをついているように感じる。将来社会論を政治的なレヴェルで議論したり、いわゆる「青写真」を作ることは、ほとんど無駄な作業であるが、将来社会の理念が多様に語られねばならないのは明かだろう。
 興味深かったのは、「知・情・意」を世界史的な精神史の波動のあり方としてみる見方で、「中世=情」というとらえ方である。この「中世」を、宮崎市定がいうように、紀元前後に本格化した世界史的な時代区分と考えると、これは世界宗教の時代の始まりの時代である。世界宗教はまさに長尾さんがいう意味での、二重の意味での「情」によって成立している。
 それが「心・心情」という意味での「情」の世界、固有の意味での「内面世界」の開発を意味したのはいうまでもない。しかし、それと同時に、それは特定の情報システムによって支えられていた。つまり、この世界宗教の時代は、「経典」によって可能となったという中井正一の議論は正しいと思う(「委員会の論理」)。中井の言い方は、逆説的にみえるが、経典による文字テキストの共有によって、はじめた離れた個々人の間での瞑想経験の交流が可能となったのであって、経典なしには、そもそも瞑想というものは可能にならないのである。「中世」、この民族大移動の時代は、人間自身の移動の時代であると同時に、観念と瞑想システムが飛行する時代であったのである。
 現在、この文字世界の変化が、世界の精神史の新しい展開を意味していることは確実であると思う。ネットワークによって世界がつながるということは、文字世界の空間的な実体化である。そういう直接に精神的環境としての外部が客体的に形成されることによって、人が、新たな目をもって自己の内面を見つめるというのは、かっての世界宗教の形成の論理からいっても見やすい道理であろう。世界宗教における瞑想は、「古代」社会における人間の外皮としてのペルソナの形成を前提として、その内側を瞑想する心的態度であるとすれば、現代の情報社会における瞑想は、すべての人間の皮膚に接するところまで遍満して波動する外部情報空間の内側を瞑想する心的態度であるということになろうか。それは世界の新しい形でのシステム化、体系化をもたらすだろう。
 「中世」における世界宗教は、同時に、限られた意味でのアソシエーションの形成に連なっていた。それは各分野における「経典」の形成というべきことであったのかもしれない。この時代、官人・領主・商工民などのアソシエーションは、形態は違え、洋の東西をとわず広がったものであると思う。それが地縁・血縁を基本としたネットワークであったことはいうまでもない。その類推からいくと、長尾さんのいう「現在=情の時代」というのは、新しい形での地縁・血縁の時代の再興につながるのだろうか。現代が「情の時代」という場合の「情」の情報ではない意味、「心」に関わる方の意味はどうなるのだろうか。長尾さんはどう御考えなのだろうか。こんど講演会で、話題になれば聞いてみたいと思う。
 以上、論理にもなっていない連想のようなものだが、いろいろなことを考えさせられた。
 その他、鷲田氏・浜田氏の発言は、すでに紹介する時間がないが、各氏の最後の発言は、情報学環(あるいは大学や学問そのもの)の将来をどう考えるかという題。おのおの痛烈であったが、長尾さんの発言は、「熱帯雨林の内部は光の差し込まない暗い世界で、地面には土壌が形成されず、システム全体としては別として、部分部分は貧困な世界である」というもの。とくに怖い話しであった。

2010年11月11日 (木)

「治承寿永の内乱」という用語を使うのはやめよう。

 今日は、休み。職場の史料展覧会の立ち番が土曜日で、その振り替えの休日。朝、花見川のサイクリングロードへ出る。朝は少し寒く、河面に朝靄が白いのをみる。紅葉はまだ。このところ、ブレーキがゆるんで危なかったので、先週末に調整し直した。帰りに急にでてきた自転車にぶつかりそうになったが、ブレーキが効いて、衝突をまぬがれる。若い女性だったが、挨拶もせずに行ってしまった。なにか考え事でもあったのだろう。
 昨日は、浙江工商大学のKS先生がいらっしゃる。無学祖元についての著書を準備されており、いろいろお世話。一昨年、杭州にいった時に、娘と一緒に紹興の魯迅旧宅の案内など、本当にお世話になった。魯迅の自筆原稿は切迫感があって、記憶から消えない。娘を呼んで、一緒に食事。久しぶりに楽しく過ごす。


 先生にも意見を聞けばよかったが、一昨日、職場の廊下で、Tくんと「治承寿永の内乱」という言葉が適当かという話をした。
 私は、「治承・寿永の内乱」ではなく、一一八〇年代内乱という用語を使うようにしている。ところが、「土地範疇と地頭領主権」という論文で、珍しく「治承寿永の内乱」という言葉を使っていた。普通はそんなことは意識しないのだが、校正ゲラが先週から来ていて、それを直していたら、「治承寿永の内乱」という用語に、編集者の人が、「治承・寿永の内乱」とナカグロを入れた方がよいというチェックをしてくれていた。たしかに連続して「治承寿永内乱」と書くのはわかりにくい。「治承寿永」と口でいわれて、それがすぐ「治承」と「寿永」だというのがわかる人は少ないだろう。その意味ではたしかにナカグロは入れた方がよいかもしれない。
 なお、この「治承」は「じしょう」と読む。実は、私はながく「ちしょう」と読んでいて恥をかいたことがある。とはいっても、そんなことは学術としての歴史学にとってはどうでもよいことであることはいうまでもない。
 ともあれ、「治承寿永の内乱」といって意味がわかるのは、歴史家か歴史趣味の人のジャルゴンであって、歴史知識としては余計な言葉だろう。それに対して、一一八〇年代内乱という言葉を提案したのは、河内祥輔氏の『頼朝の時代』(平凡社)である。河内氏は、独創的な発想をする人で、私の平安時代政治史論は、河内氏の発想に相当部分したがっているが、この点でもしたがっているのである。
 この言葉がよいのは、一一八〇年(治承四)が以仁王の挙兵、頼朝の挙兵、一一八九年(文治五)が奥州合戦終結、義経の自死であるということを考えれば明らかだろう。この内乱が、10年という長い期間の内乱であったことが一目瞭然である。この内乱が奥州合戦で終了するという経過をたどったことも明瞭に意識できる。
 とくに、歴史教育では積極的に使ったらよいと思う。子供に余計な記憶の重荷をあたえないのがよいし、歴史は絶対年代で記述し、記憶すべきものであるという原則を象徴する事件名として扱うことも出来る。
 ただ、一一八〇年代内乱という言葉で歴史を授業する場合、注意しておきたいのは一一九二年という年号である。これはたしか、頼朝が上洛して征夷大将軍号をうけた年であったろうか。あまりにうまく接続する。これは、内乱が終わって鎌倉幕府の体制の整備が進むという文脈で覚えておくには、よい年号かもしれない。一般には、この年号をもって鎌倉幕府それ自身の成立と覚えさせられる。しかし、この時代を専攻する歴史学者で鎌倉幕府の成立を、一一九二年にもってくる人はだれもいない。征夷大将軍号は、幕府成立の指標にはならないのである。

 これを「いい国つくろう鎌倉幕府」と憶えるのも困ったことだ。歴史家からすれば、「何がいい国だ、馬鹿か」ということになる。つまり、この内乱は日本史上はじめての全国戦争で、南北朝内乱以降の全国戦場化の先駆をなす内乱である。鎌倉幕府が「いい国」という歴史意識は、歴史的社会を好悪・善悪で判断するもので、とてもいただけない。もちろん、受験のための記憶術にしかすぎないが、しかし、だいたいマザコン・冷酷の頼朝が「いい国」を作ろうなどと思う訳がないではないかというのは、私の個人意見。いずれにせよ、授業で、一一八〇年代内乱という言葉を採用したら、「いい国つくろう鎌倉幕府」というのは悪い冗談で、弟を殺した頼朝がそれを誇るかのように上洛した年だというぐらいの皮肉はいっておきたいと思う。

 ともかくも、治承寿永の内乱というのは、まったく賛成できない。だいたい、政治史上の事件を年号で呼ぶのは、仲間内の悪い癖であり、年号は余計な記憶を強制するだけだから、歴史用語からは、「元禄文化」など、すでに普通名詞的な位置をもつものを除いて、固有名詞すべて追放する必要がある。学術用語としても内容を曖昧化するという点で不適当である。これは情報学的にいえば、知識ベースの最終まとめ、その社会的流通の形態としてのターミノロジー、用語法の問題となる。
 たとえば、平安鎌倉時代だと、「承和の変」「承平天慶の乱」「安和の変」「治承寿永の乱」「承久の乱」「宝治合戦」などなどは、ターミノロジーとして適当ではないのである。
 そうすると代わりにどういうかが問題になるが、私見では、「承和の変」は恒貞廃太子事件、「承平天慶の乱」は「将門・純友の反乱」、「安和の変」は源高明左遷事件と呼ぶか、その文脈を取って、村上天皇代替紛争がよいかもしれない。端的にいえば冷泉天皇鬱病紛争ということになるが、事件名に病名を使うのは適当でないだろう。

 難しいのは「保元の乱」「平治の乱」である。いい案を考えていただければと思うが、「保元の乱」は「崇徳上皇クーデター事件」か。そして「平治の乱」は「信西攻撃事件、後白河乱心事件」か。『義経の登場』で述べた平治の乱の真相についての私見は、「二代の后」立后の実質的な中心であった信西に対する後白河の怒りがすべての原因であったというもので、これをとれば「二条天皇二代后紛争」というのがもっともふさわしいのであるが、これはいまだに「天下の孤説」なので、難しい。また「承久の乱」は後鳥羽天皇クーデター事件であろうか。
 学校教育では歴史学が「暗記物」になっているという話はよく聞くが、まずここら辺から処置していったらよいと思う。最近では、日本史の研究者は諸外国にも多くなっている。その意味でも年号による事件呼称をやめることは真剣に考えた方がよいと思う。
 ただ、「治承寿永の乱」については、「源平合戦」ではだめかという問題があって、私は、文脈によっては、「源平合戦」あるいは「源平内乱」を採用してよいという意見である。これについては、また。

2010年11月10日 (水)

古文書学は補助学か

 「アーカイヴズの課題と中世史料論の状況」という、20年近く前に国文学研究資料館・史料館での特定研究の論集に載せてもらった文章を、WEBPAGEに載せた。
 昨日、夜、帰宅しようとしたら、職場の玄関で、Y氏に会い、本郷まで歩いていったら、角のスタンドで飲まないかと誘われた。久しぶりに入って、マスターに歓迎される。
 基礎研究とは何かという話になり、古文書学は独立の学問分野や補助学かと聞かれて、独立の分野で重要な基礎研究分野だよといったら、意外な顔をされる。先日もある人が、僕とその人とは別のある人がこの問題をめぐって激論し、その人との関係では、いかにも逆なように思えるが、僕が独立の分野だといったので、驚いたといっていた。保立は、いかにも、テーマ研究、方法学問第一という印象らしい。というよりも、僕は古文書学にコンプレクスがあるので、古文書学に対してどうしても斜めに構えた感じが伝わるのだろうと反省。
 「独立」かどうかというのは、学問の成立規則、訓練、目的、ディスシプリンに独自なものがあるのかどうかという問題であろう。この場合だと、それらが本質的に歴史学の必要によって左右されるものかどうかということであろう。歴史学はその意味での優先性をもつかどうかということだろう。
 もちろん、「補助学」かどうかという言い方をすれば、どんな学問も相互に補助学である。和紙などの特殊紙を研究する製紙科学にとっては、歴史学や古文書学は補助学であり、こちらからいったら、製紙科学は補助学である。相互に利用しあい、啓発しあうという意味では、学問はどういう場合も、相互に補助学である。そして、補助学が補助学である所以は、Aという学問がBという学問にとっては、一種の技術学になるということであって、これは自己を他の学問のための学と心得るという心的な態度を意味する。私としては、そう思わないような学問分野とはつき合いたくないし、奉仕ということを忘れたら、その学問なり、研究者なりは終わりだと思う。たとえば人文情報学と歴史学は、相互が相互にとって技術学となるという意味で、相互にそういう関係にあることはいうまでもない。
 なにしろ、歴史学などは「諸学の下男あるいは婢女」といわれるのだから、全面補助学であって、他の学問に奉仕することを生き甲斐としているはずである(閑話休題。「諸学の婢女(はしため)」というのはジェンダー論からいって言葉に問題があるので、「諸学の下男」といってみたが、こちらもやや引いてしまう言葉であるのは否定できない)。
 そういう意味では、独立かどうかというのは、第一に、その学問とのつき合い方で、こちらが補助学になることがあるかどうかということだろう。そして、古文書学の背後には、アーカイヴズや情報学という、歴史学からは独立した大分野がある以上、歴史学こそが補助学であるということになるのは、いうをまたないのである。この事情は、右の「アーカイヴズの課題と中世史料論の状況」でも同じような趣旨を述べたので、その部分を、この文章の最後に載せておいた(閑話休題。20年前に言っている意見をいまでも基本部分を維持しているというのを確認すると、自分が執拗な人間、偏屈な人間、オブスティナートな人間であることを自覚する。だから年取った歴史学者というのは嫌われるのだろう)。
 しかし、それだけではなく、古文書学が歴史学内部の分化を越えた意味をもつ学問、そういう意味での基礎研究であるというのも、その独立性の理由だろうと思う。これは語彙の研究が、歴史学者の専攻の時代や分野を越えて研究され、言語学との関係において、その知識が精査され、蓄積されるべき基礎研究分野であるのと同じことである。
 たとえば、いま、古文書学で問題となるのは、いわゆる中世、室町時代から、いわゆる近世、江戸時代への古文書のあり方の変化の全体を描きだすことだろう。以前、早川庄八氏の奈良時代古文書学の仕事が古文書学の展開にとって旋回点になったのと同じことである。これままさに古文書学が独立した基礎研究であり、補助学などという言い方を越えて虚心で取り組まなければならない学問分野であることをよく示している。
 和紙研究との関係でなんとなく重要だと思うようになったのは、まず越前奉書紙は、室町幕府奉行人奉書の竪紙のものの料紙をうけているということである。幕府奉行人奉書の竪紙のものは、澱粉が60%以上も入っており、白く、厚く、やや柔らかい高級な感じのする紙である。これが簀目がつまり、糸目が細くなり、澱粉の量が若干減り、人工的・大量生産的な感じになると、越前奉書になるように思う。ようするに、室町幕府の基本上級事務文書の系譜を引いて、江戸幕府の上級事務用紙はできるのである。
 そして、権利者に権利をあたえるような文書、つまり身分的な意味、儀礼的な意味をもった決定文書については、室町幕府が将軍の安堵御教書や公帖に使用する強杉原が、秀吉の朱印状の文書料紙として引き継がれ、それが近世のシボの入った大高檀紙などといわれる紙に流れていく。
 この過程で、雁皮紙あるいはほとんど雁皮紙と見分けがつかないような大型の楮紙が大きな意味をもつようであるが、それをふくめて、文書の縦横が巨大化するのが、古文書の形が変化する上で、実際には非常に大きな意味をもった。この過程で、極端に儀式張って、異様なほど大きい江戸時代の文書ができあがるのである。以前、水戸黄門などの映画で、封紙に「上」という一字をかいた「上意」を表現する巨大な手紙が登場することがあったが(いまもそうかどうかは知らない)、ああいう感じの仰々しい文書になっていくのである(だから江戸時代は嫌だ、というのが、もっと「素朴?」な時代をやっているものの感じ方)。
 ずっと以前、佐藤進一先生の明治大学での古文書学の授業に、テンプラで(先生の許可はいただいたが)聞きに行った時に、もっとも印象的なことの一つが、佐藤さんは、つねに話の最後を江戸時代の文書体系の話でしめることだった。Y氏からは、高木昭作氏が、江戸時代の文書や儀礼体系の淵源が室町にあることを強調していたことを聞く。
 さて、マスターは相当の年になったはずだが、元気である。この店はともかく本郷の角にあるので、私にとっては、娘の友達の床屋さん、Kくんのお父さんと並ぶ、長い間、もっとも定期的に会い、挨拶する人である。以前、マスターには木下順二氏の噂を聞いた。僕も姿をみかけたことがあるが、本郷は木下順二氏のスペース。先日は、ユーラシアしの鬚の大先生が、昼間にきて1時間以上、いろいろな雑談をしていったという話しも聞く。さすがに、マスターはいろいろな人を知っている。
 いま、昼休みで、朝の電車で書いたものに、追加して、アップする。今日は、お弁当。パンよりは安いし、おいしい。先日、家でとっている市民生協の宣伝紙に、パンやおにぎりは高い。米を食べろ。そして、それが如何に安いか、農業はこれでよいかを考えろという熊本大学の先生の座談がでていて、それに影響されて、御願い。感謝。

 歴史学は、一般的な言い方をすれば、歴史的社会の構成と運動を総体として具体的かつ論理的に復元し、未来にむけて現在の歴史的位置を確認することを役割としている社会・人文科学である。これに対して、現在確認されるようになったことによれば、アーカイヴスは、様々な「社会的な記憶装置」を記憶と情報の共有という原則の下に発展させ、維持・管理しつつ人類の未来につなげていくという課題をもっている。それは単に個別の学問と等置できるようなものではなく、本来、社会・組織体に不可欠な記憶・記録機能をや担うもの、その意味で社会的分業の体系の特殊な一環を直接に担う組織体・組織活動の形態である。現代的アーカイヴスは、その双子の兄弟である図書館や博物館とはことなって、文化・科学のみでなく、社会経済活動全般に直接につながるより広汎な裾野を有する組織・活動なのである。その中で、現代的アーカイヴスの理論は一種の情報の歴史・社会理論ともいうべき様相をみせているように思われる*7。社会的にみると、歴史学は、このような社会の記憶装置の全体に従属して存在しているものであるということになる。アーカイヴスの理論と実践は、(アーカイヴスにとってはやや問題児ともいうべき)双子の兄=博物館の理論と実践と連動しつつ、それをより広い社会的視座から監督する位置、いわば現代における百科全書派の総監督ともいうべき位置にあるのであり、歴史学はそのようなアーカイヴスにとっては補助学*8の一種なのである。アーカイヴスの問題は、広く、宗教学・日本文学・建築史・美術史などの人文科学、また近年における地震史料や気候関係史料の研究状況からみると、さらに自然科学をも含む日本の学術文化の共有の問題である。それは、河音能平が「各史料学は決して歴史学の下僕なのではなく、すべての文化的いとなみのための科学的基礎作業なのである」と述べている通りであり*9、その意味で、アーカイヴスの側が狭い意味での歴史学との関係にはこだわらないという立場をとっているのは正当な側面があるし、歴史学界は、アーカイヴスを狭い意味での歴史学の論理や利害に抱え込むような態度をとってはならないのは明らかである。

 もちろん、歴史学が思想的・学問的に相対的に独自な意味と位置を有していることはいうまでもなく、それはアーカイヴス・社会の記憶装置という役割の中のみに局限できる存在ではない。歴史学固有の立場からすれば、アーカイヴスこそが補助学なのであり、たとえば歴史学と言語学が相互にとって補助学となるように、学問の分野・形態の間での学際的協力関係は、常にそのような相互的関係なのである。学際的関係は、言語・経済・政治などとその歴史が、客体的な全体の一部であるからこそ必要なのであるが、その全体性の中に、言語・経済・政治などの客観的諸側面が存在し、その相互的関係によって全体が構成されているからこそ、言語・経済・政治などが学問の客観的な分野として存在するのであり、根拠となる学なしに、それを離れて「全体の学」「学際的領域」なるものが先験的に存在するというのは単なる幻想である。百科全書派が新たな思想を生み出したことは事実であり、同じようなことが、アーカイヴス・ミューゼアムの運動の中からもたらされる可能性は現実に存在しているが、しかし、それが学問の客観的な諸分野の解体を意味するかのように幻想するのは、現実にはおのおのの根拠となる学への失望と無力の表現であるか、学問の安易なジャーナリズム化の表現であるにすぎないというのが実際であろう。

 このような歴史学とアーカイヴスの関係の中で、「編纂」は、特別の位置を有している。前述のように、それはアーカイヴス的なドキュメンテーションの総過程の最終的成果という側面をもっている。と同時に、編纂は歴史学の基礎研究の成果に直接に依拠することなしには遂行不能な作業であり、それは実際上は歴史学の基礎研究の重要な一環という側面をもっている。そもそも歴史学の基礎研究は、その作業の対象となる様々な史料を可読の形態に翻訳することなしには成立しえない。この意味で、「編纂」は機能的・一般的にいえば、歴史学研究とアーカイヴスを媒介する位置に発生する作業領域を意味するということができる。問題は、このような境界領域の性格を両側面から過不足なく見極めることにあるのであるが、ここで参考になるのは、安藤正人が歴史学とアーカイヴスに固有の記録史料学との重なりの部分、境界の領域を「記録史料認識論」となずけて、歴史学とアーカイヴスの関係を論じていることである*10。つまり、ここでいう編纂は論の趣旨としては、安藤のいう「史料認識論」と重なることになるのである。編纂と史料論が深い関係をもって存在していることは確実である。もちろん、繰り返すが、編纂は、狭い意味、厳密な意味では、史料情報の活字テキスト形態への変換作業そのものであり、「史料認識論」あるいは「史料論」に解消することはできない。しかし、史料論が編纂作業にとって欠くことのできない存在であることも事実である。このような意味で歴史学とアーカイヴスの境界領域には編纂と史料論が存在しているのである。

 アーカイヴスの側にとっては、歴史学との間で成立する編纂・史料論の研究は、諸学との境界領域で営む一つの研究形態にすぎないのであって、アーカイヴスは、まさにその全体を統括する知の形態たらんとする方向性をもつことになるのであろうが、しかし、アーカイヴスにとっても、それは最大の出発点であるはずである。歴史学は、境界領域を通じて、そのような位置に存在することを自己評価しなければならないのだろう。

2010年11月 7日 (日)

ゴードン・チャイルドの伝記『考古学の変革者』

 ゴードン・チャイルドの伝記『考古学の変革者』(サリー・グリーン著、近藤義郎、山口晋子訳、岩波書店、1987年刊)を読んだ。ゴードン・チャイルドが先史時代の考古学をはじめて確実な基礎の上にすえた20世紀最大の考古学者であるということは知っていたし、大学院時代にゴードン・チャイルドの英文論文を読んだ記憶もある。けれども、まとまったものを読むのははじめて。もっと早く読むべきものであった。こんなに面白いものはない。素人が先史考古学の知識を得ていく上での結晶軸にすることができるように思う。
 ゴードン・チャイルドは、シャイで、変わった顔立ちであることが一つの理由となって、他人と最終的にうち解けないところがあったというが、上の写真だと、とくに変わった顔立ちにも思えない。
 この本には「もともと妙な顔つきを服装がさらに強調していた」「夏はごく短い半ズボンに靴下、大きなごつい長靴。とくに彼を特徴づけたのは、古光りする黒色のレインコートで、いつも腕にかかえるか、ケープ風に無造作に肩にかけるかしていた」といい、たしかに奇矯なところのある人であったらしいが、顔立ちそのものは、イギリス人には少ないかもしれないが、日本にはよくいそうなタイプである。「もともと妙な顔つき」というのは、イギリス人の見方なのだろう。イタズラでありながら社交下手であったというが、この写真で、その感じはわかるように思う。
 驚いたのは、チャイルドがアガサ・クリスティとよくブリッジをしたという話で、二人は、クリスティの夫のマックス・アーロンがチャイルドが所長をしていたロンドン大学考古学研究所の西アジア考古学の教授であったという関係であったという。ゴードンは、有名なイギリス共産党の創設者、パーム・ダットとオックスフォード時代以来の親友であるというから、クリスティの小説にでてくるような、少し奇矯な左翼の学者というのは、こういうイメージなのかもしれない。イギリスの19世紀末期から20世紀前半の知識人世界というものが、どういう感じのものかがよくわかる気がする。
 ゴードンが1957年に、考古学研究所から引退して、故国のオーストラリアにもどり、半年ほどで崖から飛び降りて自死したことも、はじめて知った。おいしいものと贅沢が好きで、独身を貫き、膨大な研究一筋で生きた人間が、著書その他、すべてを研究所に寄贈し、仕事をなしおえた満足感と脱力感の中で、身体の衰えと不如意のみを予感し、自死の道を選択したらしい。彼の考え方では、ハンガリーへのソ連軍の侵略とフルシチョフによるスターリンの行動の曝露もショックであったという。
 チャーティズム運動から、マルクス、ダーウィン、W・モリス、H・G・ウェルズなどと続いたイギリス左翼、合理主義の伝統が、どういうように終結したかもわかる感じがする。ヘーゲルとマルクスが教養の基礎にあり、唯物論者であることを否定せず、他方で自分をクローチェ主義者であるといい、「ヨーロッパ文明は、資本主義もスターリン主義も同じように、暗黒時代にむかって取り返しのつかない道をたどりつつある」といい、第二次大戦中、ソ連の全体主義的性格を指摘しながら、戦後に、考古学が人類史の希望をもたらすという楽観的な展望を述べ、さらにスターリンの著作を誉めあげたというような動揺の様子が、よくわかる。これも歴史家の欝なのかもしれない。
 死去の数週間前にかかれた告別の辞、「イギリス考古学の直面している主要な課題に関する四十年間の結論」の中の次の一節は、いまでも通用するのではないかと思う。
 「我々のもっとも緊急な必要事は、なお信頼できる絶対編年、すなわち少なくとも異なる文化地域における諸事象相互間の前後・同時の関係を対比できる世界的な時間の枠組みである。オーリニャックや新石器時代という種類の言葉で時間の正確な幅を指すと間違って信じているようなことは許されない」。
 私は、東アジアの先史時代の「世界的な時間の枠組み」について、宮本一夫『中国の歴史(1) 神話から歴史へ』(講談社)で、はじめて確実らしいイメージをもったが、本当のところ、現状ではどうなっているのか、よくわかる一冊の本はないものか。それにしても、歴史の研究者でありながら、知らないことが多すぎる。少し勉強をしなければと思う。
 先日の新聞に、「旧石器偽造事件」によって考古学が一挙に社会的信頼を失ったという記事があったが、右のチャイルドの文章の最後は次のようになっている。
 「考古学は、今日、非常に残念にもまだ大学の学問としての地位を確保していない。それを歴史諸科学との統合によって打ち立てねばならない。そうすることによって究極的には、世間をさわがす発見やさらには気のきいたラジオ、テレビ番組によって得られるより、はるかに確固とした社会的地位を手に入れるだろう」。
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2010年11月 4日 (木)

子どもの字「大仮名」と茂田井武・アルフォンス・ミュシャ

 昨日は高校時代の恩師、Y先生のお宅へ、娘と一緒に伺う。先日のペシャワール会の中村医師の講演会で、ばったりお会いした時、娘が先生のお宅の近くの大学にいっていて、お宅のすぐそばに下宿しているので、一度、連れて行きたいと御願いしたのが実現。
 井口新田という十字路で娘と待ち合わせるが、なかなか来ないので「どうしたの」といったら、どうもその後の父親による下宿検分にそなえて部屋の片づけをしていたらしい。
 急いでお宅に向かうが、井口新田からすぐ北を右に入ると思っていたのだが、一回りしてもお宅がない。実は、私もいま娘が通っているのと同じ大学の出身で、大学時代にも、Y先生のお宅へ伺っていたので、道はよくわかっているはずだが迷ってしまう。もう一路北であったことが判明。
 おみやげは、この頃の定番の千葉名産の「びわゼリー」。ご挨拶して、ずるずると色々な話、近況、思い出話、研究の話、高校の頃の話、先生といると話題は拡散に拡散を遂げる。
 ただ、御孫さんが4歳で「ビワ」ちゃんというというのが最初の話題。ビワちゃんの手紙をみせてもらう。先生のお宅には一匹の蛙がいて、しばらく前にビワちゃんが、その蛙に会いに来たのだが、そのときは、蛙くんが這い出てこなかった。そこで蛙くんが出てきた時に、写真をとって送ったら、ビワちゃんからの礼状がきた。その礼状をみせていただく。
 保立君は古文書読みだから、読めるでしょうと挑戦される。字を習いたてのの子供の字。宛名の「けんじいじ(健爺)」が読めたので、途中まではスラスラいったが、「ちゃしん」をもらって、嬉しくて「おどっています」の「ど」が鏡字で、しかも濁点がついているのは読めず、そこのみ降参。
 子供の字は、いわゆる「かなくぎ流」ということになるが、しかも丸みがあって、個性的なので、読めない。先生もビワちゃんに読み方を教えてもらったに相違ない。
 こういう字は、「おおがな(大仮名)」といって、平安時代の職人についての説話に「字は大仮名」と出てくる。非常にまれだが、実際のその頃の古文書でも、「ああ、こういう字を大仮名というのか」という感じの文書もみることがある。

 これを説明。Y先生の奥さまは、著名な修復家なので、話は古文書にそれて、ちょうど持ち込まれた裁断された古経の写真をみせていただく。内側を四角に切り抜いた枠に貼り付けて表裏がそのままみえるようにしたもの。表は儀軌、裏は聖教で、もと巻物の一部で、表の儀軌の図の枠組みにそって裁断したもので、おそらく平安時代のものと御説明。
 修復室も見学。アルフォンス・ミュシャの描いたサラ・べルナールの長大な絵が見事だった。ミュシャはオーストリア支配に抵抗したチェコの民族運動家で、オーストリア帝国への抵抗の姿勢をとったとY先生の解説。私は、ウィリアム・モリスが好きで、『ユートピアだより』を一年に一度は開く。昨年、上野であったモリスの展覧会も見に行った。モリスからミュシャへ連なる、いわゆるアール・ヌーボーの芸術・装飾・工芸は、日本の社会思想や柳宗悦などの民芸運動にも大きな影響をあたえ、大正デモクラシーと昭和初期の市民文化というものの重要な背景になっている。その文化は戦争のおかげでとぎれた訳だが、彼らの政治的・社会的な関心の意味はいまだに大切なものがあると思う。
 一階の作業室においてあるミュシャを二階からみると、本当に見事であった。二階は奥さまの執務室と大量な修復調査ファイルの収納場所になっていた。私が、大学時代に先生のお宅に伺って、新聞切り抜きなどを手伝うアルバイトをさせてもらった時(あれは、いまから考えると、貧乏学生支援のためにわざわざ作っていただいたものではないかと思う)、幅が狭く細長い書庫で作業したことを憶えていたが、そこをやや広くして写真室になっていた。おそらく40年ぶりに、同じ空間を同一の肉体が占有したのであると、娘に説明したら、笑っていた。
 Y先生は77歳になられたということ。私は62歳。15歳の相違だから、兄弟みたいなものだといわれる。先生は17歳年上のお兄さんがいらっしゃり、先生が疎開していた時に、兵士の姿をして学校にこられて、何も説明はせずに、元気でいるようにといって、フィリピンに行ったということだった。フィリピンに行って、一度、台湾に出張の時に飛行機で飛んだが、それがフィリピンから台湾への最後の飛行機便で、フィリピンに帰れず、それではいても仕方ないからということで、鹿児島の基地に戻り、そのまま終戦を迎えることになった。どこも焼け野原なので、結局、先生の疎開先の農家に、急に姿をみせて、「おい元気か」ということだったと。
 戦争の頃の話になったら、先生は僕は神勅を暗記しているんだよと、朗々とノリト唱えられる。なんと天壌無窮の神勅である。私も授業でノリトを読んであげると、学生は驚くが、先生のは本格的である。いわく、唱えさせられるし、習字で書かされる。習字は間違えると最初から書き直しだから、必死で憶えた。けれど、中身はわからないながら憶えていて、ときどき唱えると、だんだん意味がわかってきて、漢字を当てることができるのが面白いと。皇国史観の中では、天壌無窮の神勅を中心に日本神話が教え込まれたということは有名だが、先生の暗唱は、その証明である。驚いた。
 二階から奥さまも戻ってこられて、修復の話。一週間、紙漉をしたことがあり、楽しかったとおっしゃるので、どこでやられたのですかと伺うと、高地の紙業試験場。私も同じところでやったことがある。和紙の専門家のO川さんはよく知っていると話したところ、奥さまもよくご存じで、なんと、O川さんはY先生のお宅に泊まったことがあるという話。しばらく話題は和紙談義に移った。
 例の友達ネットワーク。友達の友達は友達という情報学のいうスモールワールドの議論を紹介(面識ネットワークは、6ステップで地球中の人々を覆う)。高校の恩師ー奥さまーO川さんー私という円環構造は、狭い世界ではしばしばあること。奥さまいわく「世界は狭い」、まさにスモールワールドである。このスモールワールドの形成は、高校時代のY先生と私の関係、教育に段を発するが、Y先生の専門は西洋史で、研究会でしばしばご一緒したドイツしの西川正雄さんの中学以来の先輩である。私がそれを知ったのは西川さんが亡くなった後のお別れ会であった。


 スモールワールド、「世間は狭い」という事実は、しばしば、厳しい実践が終わり、人が死去し、「棺がおおわれてから」定まる記憶の一部として形成される。将来社会へむけての変化は、このようなネットワークとアソシエーションが、その円環の世界が閉じる前から、最大の力を発揮するというシステムなしには動かないのであろう。こういう円環構造が、様々な形で広がり、密度を濃くし、学術・文化の世界でのスモールワールドが、さらに広がり、様々な専門分野と現業の世界を覆っていく過程のことを考えたい。


 先生のお宅を失礼して、娘と食事。彼女もいろいろな刺激をえて、面白かったらしい。児童文学に興味がある娘が、ちひろ美術館のカタログを食い入るようにみていたので、Y先生が絵本画家・茂田井武の自伝や研究書を貸してくれた。Y先生の研究は、長谷川如是閑の研究がよく知られているが、茂田井武は如是閑の遠縁にあたり、その関係で、茂田井とも、いろいろな縁がおありとのこと。私は、茂田井と如是閑の関係などははじめて知った。
 娘はなによりも御夫婦が別の専門をもって尊敬しあう様子に憧れたようである。子供の親に対する尊敬というのは、親相互の尊敬というものが、必須の条件なのであろうが、それは家庭の中に、外側の社会が登場する姿なのだと思う。そこに社会的なアソシエーションが反映すれば、アソシエーションは家族の情愛の世界の連鎖にもなっていく。「封建時代の夫婦関係」は、社会の家父長制的構造の反映であって、そこにある尊敬がステレオタイプのものでも、社会的な直接の基盤に支えられて家族の親和関係の中に現象すれば、それは強力なエートスとなる。それがある意味では戻ってくるのだろう。

 彼女も、いろいろな悩みがあるようで、すべては「運・鈍・根」と励ました。
 

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