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2010年11月11日 (木)

「治承寿永の内乱」という用語を使うのはやめよう。

 今日は、休み。職場の史料展覧会の立ち番が土曜日で、その振り替えの休日。朝、花見川のサイクリングロードへ出る。朝は少し寒く、河面に朝靄が白いのをみる。紅葉はまだ。このところ、ブレーキがゆるんで危なかったので、先週末に調整し直した。帰りに急にでてきた自転車にぶつかりそうになったが、ブレーキが効いて、衝突をまぬがれる。若い女性だったが、挨拶もせずに行ってしまった。なにか考え事でもあったのだろう。
 昨日は、浙江工商大学のKS先生がいらっしゃる。無学祖元についての著書を準備されており、いろいろお世話。一昨年、杭州にいった時に、娘と一緒に紹興の魯迅旧宅の案内など、本当にお世話になった。魯迅の自筆原稿は切迫感があって、記憶から消えない。娘を呼んで、一緒に食事。久しぶりに楽しく過ごす。


 先生にも意見を聞けばよかったが、一昨日、職場の廊下で、Tくんと「治承寿永の内乱」という言葉が適当かという話をした。
 私は、「治承・寿永の内乱」ではなく、一一八〇年代内乱という用語を使うようにしている。ところが、「土地範疇と地頭領主権」という論文で、珍しく「治承寿永の内乱」という言葉を使っていた。普通はそんなことは意識しないのだが、校正ゲラが先週から来ていて、それを直していたら、「治承寿永の内乱」という用語に、編集者の人が、「治承・寿永の内乱」とナカグロを入れた方がよいというチェックをしてくれていた。たしかに連続して「治承寿永内乱」と書くのはわかりにくい。「治承寿永」と口でいわれて、それがすぐ「治承」と「寿永」だというのがわかる人は少ないだろう。その意味ではたしかにナカグロは入れた方がよいかもしれない。
 なお、この「治承」は「じしょう」と読む。実は、私はながく「ちしょう」と読んでいて恥をかいたことがある。とはいっても、そんなことは学術としての歴史学にとってはどうでもよいことであることはいうまでもない。
 ともあれ、「治承寿永の内乱」といって意味がわかるのは、歴史家か歴史趣味の人のジャルゴンであって、歴史知識としては余計な言葉だろう。それに対して、一一八〇年代内乱という言葉を提案したのは、河内祥輔氏の『頼朝の時代』(平凡社)である。河内氏は、独創的な発想をする人で、私の平安時代政治史論は、河内氏の発想に相当部分したがっているが、この点でもしたがっているのである。
 この言葉がよいのは、一一八〇年(治承四)が以仁王の挙兵、頼朝の挙兵、一一八九年(文治五)が奥州合戦終結、義経の自死であるということを考えれば明らかだろう。この内乱が、10年という長い期間の内乱であったことが一目瞭然である。この内乱が奥州合戦で終了するという経過をたどったことも明瞭に意識できる。
 とくに、歴史教育では積極的に使ったらよいと思う。子供に余計な記憶の重荷をあたえないのがよいし、歴史は絶対年代で記述し、記憶すべきものであるという原則を象徴する事件名として扱うことも出来る。
 ただ、一一八〇年代内乱という言葉で歴史を授業する場合、注意しておきたいのは一一九二年という年号である。これはたしか、頼朝が上洛して征夷大将軍号をうけた年であったろうか。あまりにうまく接続する。これは、内乱が終わって鎌倉幕府の体制の整備が進むという文脈で覚えておくには、よい年号かもしれない。一般には、この年号をもって鎌倉幕府それ自身の成立と覚えさせられる。しかし、この時代を専攻する歴史学者で鎌倉幕府の成立を、一一九二年にもってくる人はだれもいない。征夷大将軍号は、幕府成立の指標にはならないのである。

 これを「いい国つくろう鎌倉幕府」と憶えるのも困ったことだ。歴史家からすれば、「何がいい国だ、馬鹿か」ということになる。つまり、この内乱は日本史上はじめての全国戦争で、南北朝内乱以降の全国戦場化の先駆をなす内乱である。鎌倉幕府が「いい国」という歴史意識は、歴史的社会を好悪・善悪で判断するもので、とてもいただけない。もちろん、受験のための記憶術にしかすぎないが、しかし、だいたいマザコン・冷酷の頼朝が「いい国」を作ろうなどと思う訳がないではないかというのは、私の個人意見。いずれにせよ、授業で、一一八〇年代内乱という言葉を採用したら、「いい国つくろう鎌倉幕府」というのは悪い冗談で、弟を殺した頼朝がそれを誇るかのように上洛した年だというぐらいの皮肉はいっておきたいと思う。

 ともかくも、治承寿永の内乱というのは、まったく賛成できない。だいたい、政治史上の事件を年号で呼ぶのは、仲間内の悪い癖であり、年号は余計な記憶を強制するだけだから、歴史用語からは、「元禄文化」など、すでに普通名詞的な位置をもつものを除いて、固有名詞すべて追放する必要がある。学術用語としても内容を曖昧化するという点で不適当である。これは情報学的にいえば、知識ベースの最終まとめ、その社会的流通の形態としてのターミノロジー、用語法の問題となる。
 たとえば、平安鎌倉時代だと、「承和の変」「承平天慶の乱」「安和の変」「治承寿永の乱」「承久の乱」「宝治合戦」などなどは、ターミノロジーとして適当ではないのである。
 そうすると代わりにどういうかが問題になるが、私見では、「承和の変」は恒貞廃太子事件、「承平天慶の乱」は「将門・純友の反乱」、「安和の変」は源高明左遷事件と呼ぶか、その文脈を取って、村上天皇代替紛争がよいかもしれない。端的にいえば冷泉天皇鬱病紛争ということになるが、事件名に病名を使うのは適当でないだろう。

 難しいのは「保元の乱」「平治の乱」である。いい案を考えていただければと思うが、「保元の乱」は「崇徳上皇クーデター事件」か。そして「平治の乱」は「信西攻撃事件、後白河乱心事件」か。『義経の登場』で述べた平治の乱の真相についての私見は、「二代の后」立后の実質的な中心であった信西に対する後白河の怒りがすべての原因であったというもので、これをとれば「二条天皇二代后紛争」というのがもっともふさわしいのであるが、これはいまだに「天下の孤説」なので、難しい。また「承久の乱」は後鳥羽天皇クーデター事件であろうか。
 学校教育では歴史学が「暗記物」になっているという話はよく聞くが、まずここら辺から処置していったらよいと思う。最近では、日本史の研究者は諸外国にも多くなっている。その意味でも年号による事件呼称をやめることは真剣に考えた方がよいと思う。
 ただ、「治承寿永の乱」については、「源平合戦」ではだめかという問題があって、私は、文脈によっては、「源平合戦」あるいは「源平内乱」を採用してよいという意見である。これについては、また。

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