BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« この世の果て、「天の壁」ー勝俣隆氏の神話論 | トップページ | ゴードン・チャイルドの伝記『考古学の変革者』 »

2010年11月 4日 (木)

子どもの字「大仮名」と茂田井武・アルフォンス・ミュシャ

 昨日は高校時代の恩師、Y先生のお宅へ、娘と一緒に伺う。先日のペシャワール会の中村医師の講演会で、ばったりお会いした時、娘が先生のお宅の近くの大学にいっていて、お宅のすぐそばに下宿しているので、一度、連れて行きたいと御願いしたのが実現。
 井口新田という十字路で娘と待ち合わせるが、なかなか来ないので「どうしたの」といったら、どうもその後の父親による下宿検分にそなえて部屋の片づけをしていたらしい。
 急いでお宅に向かうが、井口新田からすぐ北を右に入ると思っていたのだが、一回りしてもお宅がない。実は、私もいま娘が通っているのと同じ大学の出身で、大学時代にも、Y先生のお宅へ伺っていたので、道はよくわかっているはずだが迷ってしまう。もう一路北であったことが判明。
 おみやげは、この頃の定番の千葉名産の「びわゼリー」。ご挨拶して、ずるずると色々な話、近況、思い出話、研究の話、高校の頃の話、先生といると話題は拡散に拡散を遂げる。
 ただ、御孫さんが4歳で「ビワ」ちゃんというというのが最初の話題。ビワちゃんの手紙をみせてもらう。先生のお宅には一匹の蛙がいて、しばらく前にビワちゃんが、その蛙に会いに来たのだが、そのときは、蛙くんが這い出てこなかった。そこで蛙くんが出てきた時に、写真をとって送ったら、ビワちゃんからの礼状がきた。その礼状をみせていただく。
 保立君は古文書読みだから、読めるでしょうと挑戦される。字を習いたてのの子供の字。宛名の「けんじいじ(健爺)」が読めたので、途中まではスラスラいったが、「ちゃしん」をもらって、嬉しくて「おどっています」の「ど」が鏡字で、しかも濁点がついているのは読めず、そこのみ降参。
 子供の字は、いわゆる「かなくぎ流」ということになるが、しかも丸みがあって、個性的なので、読めない。先生もビワちゃんに読み方を教えてもらったに相違ない。
 こういう字は、「おおがな(大仮名)」といって、平安時代の職人についての説話に「字は大仮名」と出てくる。非常にまれだが、実際のその頃の古文書でも、「ああ、こういう字を大仮名というのか」という感じの文書もみることがある。

 これを説明。Y先生の奥さまは、著名な修復家なので、話は古文書にそれて、ちょうど持ち込まれた裁断された古経の写真をみせていただく。内側を四角に切り抜いた枠に貼り付けて表裏がそのままみえるようにしたもの。表は儀軌、裏は聖教で、もと巻物の一部で、表の儀軌の図の枠組みにそって裁断したもので、おそらく平安時代のものと御説明。
 修復室も見学。アルフォンス・ミュシャの描いたサラ・べルナールの長大な絵が見事だった。ミュシャはオーストリア支配に抵抗したチェコの民族運動家で、オーストリア帝国への抵抗の姿勢をとったとY先生の解説。私は、ウィリアム・モリスが好きで、『ユートピアだより』を一年に一度は開く。昨年、上野であったモリスの展覧会も見に行った。モリスからミュシャへ連なる、いわゆるアール・ヌーボーの芸術・装飾・工芸は、日本の社会思想や柳宗悦などの民芸運動にも大きな影響をあたえ、大正デモクラシーと昭和初期の市民文化というものの重要な背景になっている。その文化は戦争のおかげでとぎれた訳だが、彼らの政治的・社会的な関心の意味はいまだに大切なものがあると思う。
 一階の作業室においてあるミュシャを二階からみると、本当に見事であった。二階は奥さまの執務室と大量な修復調査ファイルの収納場所になっていた。私が、大学時代に先生のお宅に伺って、新聞切り抜きなどを手伝うアルバイトをさせてもらった時(あれは、いまから考えると、貧乏学生支援のためにわざわざ作っていただいたものではないかと思う)、幅が狭く細長い書庫で作業したことを憶えていたが、そこをやや広くして写真室になっていた。おそらく40年ぶりに、同じ空間を同一の肉体が占有したのであると、娘に説明したら、笑っていた。
 Y先生は77歳になられたということ。私は62歳。15歳の相違だから、兄弟みたいなものだといわれる。先生は17歳年上のお兄さんがいらっしゃり、先生が疎開していた時に、兵士の姿をして学校にこられて、何も説明はせずに、元気でいるようにといって、フィリピンに行ったということだった。フィリピンに行って、一度、台湾に出張の時に飛行機で飛んだが、それがフィリピンから台湾への最後の飛行機便で、フィリピンに帰れず、それではいても仕方ないからということで、鹿児島の基地に戻り、そのまま終戦を迎えることになった。どこも焼け野原なので、結局、先生の疎開先の農家に、急に姿をみせて、「おい元気か」ということだったと。
 戦争の頃の話になったら、先生は僕は神勅を暗記しているんだよと、朗々とノリト唱えられる。なんと天壌無窮の神勅である。私も授業でノリトを読んであげると、学生は驚くが、先生のは本格的である。いわく、唱えさせられるし、習字で書かされる。習字は間違えると最初から書き直しだから、必死で憶えた。けれど、中身はわからないながら憶えていて、ときどき唱えると、だんだん意味がわかってきて、漢字を当てることができるのが面白いと。皇国史観の中では、天壌無窮の神勅を中心に日本神話が教え込まれたということは有名だが、先生の暗唱は、その証明である。驚いた。
 二階から奥さまも戻ってこられて、修復の話。一週間、紙漉をしたことがあり、楽しかったとおっしゃるので、どこでやられたのですかと伺うと、高地の紙業試験場。私も同じところでやったことがある。和紙の専門家のO川さんはよく知っていると話したところ、奥さまもよくご存じで、なんと、O川さんはY先生のお宅に泊まったことがあるという話。しばらく話題は和紙談義に移った。
 例の友達ネットワーク。友達の友達は友達という情報学のいうスモールワールドの議論を紹介(面識ネットワークは、6ステップで地球中の人々を覆う)。高校の恩師ー奥さまーO川さんー私という円環構造は、狭い世界ではしばしばあること。奥さまいわく「世界は狭い」、まさにスモールワールドである。このスモールワールドの形成は、高校時代のY先生と私の関係、教育に段を発するが、Y先生の専門は西洋史で、研究会でしばしばご一緒したドイツしの西川正雄さんの中学以来の先輩である。私がそれを知ったのは西川さんが亡くなった後のお別れ会であった。


 スモールワールド、「世間は狭い」という事実は、しばしば、厳しい実践が終わり、人が死去し、「棺がおおわれてから」定まる記憶の一部として形成される。将来社会へむけての変化は、このようなネットワークとアソシエーションが、その円環の世界が閉じる前から、最大の力を発揮するというシステムなしには動かないのであろう。こういう円環構造が、様々な形で広がり、密度を濃くし、学術・文化の世界でのスモールワールドが、さらに広がり、様々な専門分野と現業の世界を覆っていく過程のことを考えたい。


 先生のお宅を失礼して、娘と食事。彼女もいろいろな刺激をえて、面白かったらしい。児童文学に興味がある娘が、ちひろ美術館のカタログを食い入るようにみていたので、Y先生が絵本画家・茂田井武の自伝や研究書を貸してくれた。Y先生の研究は、長谷川如是閑の研究がよく知られているが、茂田井武は如是閑の遠縁にあたり、その関係で、茂田井とも、いろいろな縁がおありとのこと。私は、茂田井と如是閑の関係などははじめて知った。
 娘はなによりも御夫婦が別の専門をもって尊敬しあう様子に憧れたようである。子供の親に対する尊敬というのは、親相互の尊敬というものが、必須の条件なのであろうが、それは家庭の中に、外側の社会が登場する姿なのだと思う。そこに社会的なアソシエーションが反映すれば、アソシエーションは家族の情愛の世界の連鎖にもなっていく。「封建時代の夫婦関係」は、社会の家父長制的構造の反映であって、そこにある尊敬がステレオタイプのものでも、社会的な直接の基盤に支えられて家族の親和関係の中に現象すれば、それは強力なエートスとなる。それがある意味では戻ってくるのだろう。

 彼女も、いろいろな悩みがあるようで、すべては「運・鈍・根」と励ました。
 

« この世の果て、「天の壁」ー勝俣隆氏の神話論 | トップページ | ゴードン・チャイルドの伝記『考古学の変革者』 »

思い出」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事