シンポジウム『韓国強制併合一〇〇年、韓日歴史認識の違い』
先週土曜、13日、「韓国強制併合一〇〇年、韓日歴史認識の違い」というシンポジウムがあった。主催は在日本大韓民国民団中央本部、主管は在日韓人歴史資料館。私は、東大のホームカミングデイにさいして行われた職場の史料展示会の立番があって行けなかったが、奥さまがいってきた。 話をきいてみて、できれば行きたかったと思う。講演された李成市さんも、姜徳相さんも尊敬している人だし、もう御一人の講演者は韓国の国史編纂委員会の委員長、李泰鎮ソウル大学名誉教授だった。これはどうにかして行き、自分の目と耳で確かめるべき集会であった。
写真は、李成市氏が報告でふれた『歴史地理』の臨時増刊号、韓国併合の年、明治四十三年十一月三日に発行されたものである。このような臨時増刊号がでていることをはじめて知ったので、それを探し、ここに紙と目次を掲げた。
表紙は、出雲の神・八束水臣津野命が、対岸の新羅の地を綱をかかえて引き寄せたという『出雲風土記』の国引き説話のイラストである。そして雑報に書かれた「本号表紙説明」には、次のようにある。
「抑も、八束水臣津野命が、国引きの大理想は、遠く祖宗より伝えられ、而して遙かに後世に残さる。すなわち神功皇后の征韓となり、豊公の出兵となり、さらに征韓論となり、韓国統監府の設立となり、終に韓国の併呑となり、朝鮮総督府の設置となる。所謂、事績後に顕はれ、徴証前に備わるもの、今日において国引の古話を曰ふ。亦、可ならずや。吾人が特に之を選びて、本号の表紙を飾りしこと、聊か意の存するところ無きにあらざるなり」 やはり、これは驚くべきものである。明治43年というのは、ようするに1910年。日本が韓国の独立をうばう不法条約を強制した年である。この歴史地理の特集号には上に掲げたように「韓国併合詔書」なるものが巻頭に収められているのである。
さらに、目次の写真を掲げたが、執筆者は、星野恒「歴史上より観たる日韓同域の復古と確定」、久米邦武「韓国併合と近江国に神籠石の発見」、関野貞「朝鮮文化の遺跡」、吉田東伍「韓半島を併合せる大局面」、大森金五郎「任那日本府の興廃」、喜田貞吉「韓国併合と教育家の覚悟」、那珂通世「新羅古記の倭人」、黒板勝美「偶語」、三浦周行「日韓の同化と分化」、田中義成「倭寇と李成桂」、渡辺世祐「足利季世における朝鮮との交通」、辻善之助「徳川時代初期における日韓の関係」。こう列挙してみれば、彼らは、当時の「日本史家」のほとんどすべてである。
ようするに、「日本史家」のすべてが、韓国併合に荷担し、明瞭な政治的行動をとったということである。これは、少なくとも現在の観点からみるならば、歴史家としてけっしてしてはならないことである。「近代歴史学」の出発時点が、このような実態のものであったということを、私たちは正確に記憶し、忘れてはならないと思う。
もちろん、たとえば永原慶二氏が、1969年出版の『日本史研究入門Ⅲ』(東京大学出版会)で、いわゆる「戦後歴史学」においても帝国意識に対する批判が弱く、「帝国主義支配民族の歴史学」の「宿命」から自由ではなかったと述べているように、日本の歴史学の中に、このような問題があることは、歴史家ならば常識であるはずのことである。しかし、それと、実際に、直接に「韓国併合」を「人は、これをもって旧状態に復せりといはんも、我はかならずしも復旧といわず、これ実に二千余年の精華の発揚にあらずして何ぞや」と述べている、この特集号の「発刊の辞」を実際によみ、その下で執筆された論文の内容と筆者を確認していくことは、やはりまったく違うことである。
李氏は、たとえば日本が「任那日本府」なるものを設置して韓国南部を支配したという虚像など、「近代日本における通念形成の淵源」の形成には、これらの歴史家の責任が大きいと述べている。それはその通りであろう。
李氏も指摘しているように、このような観点からみると、永原慶二氏の『20世紀の歴史学』が、三浦周行を「オーソドックスな歴史家」、喜田貞吉を「官学アカデミズム歴史学の枠を越え、自由な発想に基づく広い関心をもつ個性豊かな学者」と評価することは、氏自身もいうところの国内的視野に偏った見方であることは否定できないだろう。
李氏は、講演で、私は永原さんを尊敬していますと明言されたということだが、私も、それは同じである。その上で、永原さんの描いた史学史を、さらに越えていくためには、上記の歴史家一人一人の学問の成果と、さらには方法の中に踏みこんで、総括的な批判を行うべきものと思う、結局のところ個人としての歴史家を批判する場合には、その個人個人の学問に踏みこんでの方法的批判とならざるをえないはずである。
現代日本の最良の歴史家の一人である永原さんが執筆した『20世紀の歴史学』に甘さがあるということは、日本の歴史学界全体の近代歴史学に対する方法論的批判が甘いということを意味するのである。
ただし、これは永原慶二さんの本に対する批判というよりも、まずは自分の気づきの問題である。おそらく永原さんたちの世代は、この特集に執筆した学者たちの「帝国意識」は骨身にしみてよく知っていたということであると思う。私などの世代にとっても、それは当然の常識であり、出発点であったが、しかし、この特集号をみて、実際をそれをどこまで実感していたかに疑問がでてきた。私が高校生の頃、大学生の頃は、古本屋に行くと、古色蒼然たる皇国史観にもとづいて書かれた本が書棚の隅には残っていたものである。それらは一括していぶかしいものに過ぎなかった。それらの淵源となるものが、この特集号には現れているのだと思う。
もう一つは、やはり『歴史地理』特集号表紙の「神話」のことである。永原さんたちの世代と私たちの世代の相違は、「神話」教育あるいは帝国文化としての「神話」というものを実感しているかいないかという問題があるように思う。考えてみれば当然のことであるが、「神話」というものが文化の隅々まで、「民話」「民俗」を媒介として入り込んでいた時代ということを考えねばならない。「神話」論も、「民話」論も、それを意識しながら考えるようにしていきたいと思う。
なお、以下は、聞き取りメモ。姜徳相さんが「韓国のナショナリズムと日本のナショナリズムは違う。両方おかしいなどというのは歴史の考え方としておかしい」といっていたということ。また李泰鎮氏の講演は、日韓外交文書作成にあたっての強制や捺印の偽捺などの問題に詳細にふれたもの。「併合条約」は外交関係としては合法的に締結されたという海野福寿氏の議論にもとづいて日本の首相の発言が組み立てられたのは有名な話であるが、「最初の段階では一緒の仕事ができたのですが、結局、立場はまったく異なることになってしまいました」と発言されていたということである。
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