武家源氏=摂関家の走狗という流通観念の院政期版。
今日は東大のホームカミングデイで、史料編纂所でも史料展示会があり、その立ち番。武田佐知子さん・渡辺浩史氏・高橋秀樹氏などにあう。武田さんは何年か前の脇田晴子さんの会以来。例によって元気。僕からは太田秀通先生の話。渡辺氏は息子さんを連れて。息子さんは筑波で山本隆志氏のところであると。同じ日本「中世史」を選ぶというのは親を尊敬している証拠である。
高橋秀樹氏とは議論。彼が『武家系図』(高志書院)に発表した三浦氏についての論文を、ちょうど「義経論」との関係で、一昨日、再確認していたところなので、これは必然。
高橋秀樹氏の議論を前提に組み立てた義経論の該当箇所は次の通り。
「そもそも、武家源氏は、一〇世紀後半に発生した冷泉天皇とその弟の円融天皇の子孫が、代わる代わる王位につくという王統迭立(両流から代わる代わる王が出ること)の中で地位を上昇させた武家貴族である。この平安時代前期の王統迭立は、一般にはほとんど知られていないが、しかし、日本の王家は「万世一系」であった代わりのようにして、早くから、その内部に激しい矛盾や闘争を抱えていた。「王統迭立」というと、教科書では、南北朝内乱の原因となった持明院統・大覚寺統の王統分裂のみがふれられるが、この平安前期の王統迭立が決定的な意味をもっていたこと、それが源家の歴史にとっても根本的な意味をもっていたことは、拙著『平安王朝』で強調した通りである。
この王統迭立は直接には村上天皇の息子であった冷泉天皇が重度の鬱病を発症したために、弟の円融に譲位し、冷泉の息子の花山が皇太子となったという事件によって引き起こされたものである。全体をいちおう説明しておくと、冷泉王統の側では、冷泉1ー花山3ー三条5、円融王統の側では、円融2ー一条4ー後一条6と、両流から交替に天皇が出た。歴代の順序は、右の天皇名の肩の数字に示した通りであるが、冷泉から数えて六代目の後一条の皇太子には、最初は三条の子供の小一条がついた。もし、予定通り、小一条が即位することになれば、さらに迭立は続くことになったはずであるが、結局、小一条は「小一条院」という院号によって前天皇の待遇をうけることを条件として自ら退位し、これによって王統の迭立は終わった。
それにしても三世代の迭立は長い。それだけ続いたのは、この迭立の発生の経過からして、本来は冷泉王統の側が正統であるという根強い観念があったためである。実際、最初は摂関家の兼家ー道長の親子なども冷泉王統の側にいたのである。これに対応するようにして、源満仲に始まる源氏の一統も、この王統迭立の中で、一貫して冷泉王統の周囲にいた。満仲は冷泉天皇・花山天皇に仕え、その子頼光も冷泉院判官代から立身して三条天皇に仕え、孫の頼義(頼信の子)は小一条院判官代として立身して最後まで小一条院に付き従っている。とくに重要なのは、頼義であって、狩猟を好んだ小一条院は頼義の弓技をめで、懐刀として駆使したという。頼義は、父の頼信による平忠常の反乱の鎮圧に従軍したことがあるが、頼義が東国に拠点をかまえるようになったのは、小一条院判官代の勤務実績によって相模守に任ぜられて以降である。
頼義は、この時、はじめて鎌倉に本拠を構えたとされるが、注目されるのは、同時に、この頃、頼義が相模国に三崎庄と波多野庄を立庄して、小一条院に寄進したと考えられることである(湯山学一九九六、高橋秀樹二〇〇七)。後に、この二つの荘園は、小一条院の娘で三条天皇の養女となった冷泉宮?子内親王に伝領され、内親王が藤原教通(藤原頼通の弟)の三男の藤原信家の妻となったことによって摂関家領に流入することになった。しかし、この二つの荘園が本来は冷泉ー三条ー小一条の王統領の荘園として東国において中心的な位置をもっていたものであったことは疑いない。その実際上の支配は、頼義が行っていたはずである。そして、頼義の下で、現地をおさえたのは、三崎庄については三浦氏の祖とされる三浦為次あるいはその父、波多野庄については、やはり波多野氏の祖と伝承される佐伯経範であった。この二人の人物が、源家がイニシアティヴをとって引き起こした奥羽戦争、いわゆる前九年・後三年合戦で活躍していることは偶然ではないだろう。
この二つの家柄は、東国における源氏相伝の有力な家人であって、武家源氏の冷泉系王統への臣従という古くからの伝統にそって活動してきた代表的な家柄であったと評価できる。前者の三浦氏は、高望王の血をひく坂東平氏で、三浦半島を拠点としているが、忠常の反乱の経過との関係で、頼義の父の頼信に臣従したものと考えられる。これに対して、後者の波多野氏は、本来は秀郷流藤原氏の血筋を引く武士で、秀郷の田原藤太という名乗りは、現在の神奈川県秦野市、波多野庄に残る地名、田原の地が秀郷の居住地であったためであるという(野口)。波多野氏の祖と伝えられる経範が佐伯姓であったのは、親が相模国の目代として下ってきて、息子を波多野の家に入り婿としたという由緒によるらしい(湯山一九九六)。
坂東平氏と秀郷流藤原氏の動向は、平将門の反乱以降も、東国の帰趨を決定するものであったはずである。この意味でも、頼義が、坂東平氏と秀郷流藤原氏に出自し、相模国を代表する地位にあった三浦氏と波多野氏を組織したことは大きかった。実際、三浦氏と波多野氏は、これ以降、保元・平治の合戦にいたるまで源家の武士として活動しているのである。
長々と引用したが、源氏=冷泉王統への忠誠立てという仮説は、『平安王朝』で展開し、『古事談を読み解く』(浅見和彦編、笠間書院)に発表した「藤原教通と武家源氏」という論文で再確認したものだが、これまで肯定的なコメントをえたことがない。しかし、高橋秀樹氏の論文の趣旨と合わせると、上記のようなことになる。あるいは、歴史学界には、ブログで新説を出すのはおかしいという意見があるかもしれない。たしかに、年寄りが勝手なことをブログで書き散らすのは問題だろうが、これは既発表の自説に既発表の論文を組み合わせただけなので御許しを願いたい。
高橋秀樹氏は、波多野氏を検討しようとしていて、一部研究会で発表したということで、これまで源氏の東国における活動は、むしろ摂関家領荘園との関係で議論されていたと思うが、考えてみたいということであった。いわれてみれば、たしかに、東国摂関家領と源氏というのが普通の考え方なのかもしれない。摂関家の走狗=源氏という流通観念が院政期にまで広がっている訳である。しかし、これは源氏中枢が白河ににらまれて、白河にむしろ距離をおいた師通ー忠実のルートに依拠しようとしたということであろう。
『平安王朝』で展開した私説は、院政期における支配層の内部対立の原点は、白河と師通ー忠実の懸隔にあり、それに対応するものとして源氏の武家主流の位置からの転落、その代わりの伊勢平氏の台頭にあったというものであった。これが「崇徳クーデター(保元の乱)」から「信西排除事件(平治の乱)」の直接の前提となった。源平対立の淵源は、白河ー義家関係にあったはずであるということであるが、この再確認を「義経論」の前提に組み込んでおく必要が生じたのが先々週であった。これはなかなか面倒くさい作業への突入を意味していて、鬱々というのが最近の状態。しかし、「義経論」は長丁場を覚悟することとする。
しかし、それにしても歴史学界は狭い。ちょうど論文を読んでいた人、考えていた人が目の前に現れるというのは、面白い経験である。高橋氏とは山中裕先生はお元気だろうかという話になる。私はたしか、昨年、称名寺前のご自宅にうかがったが、その時はお元気であった。最近は彼も会っていないということである。『かぐや姫』を差し上げたら、先生からは電話があって、秋に会いましょう、電話をしますということだったが、まだ電話がない。あるいは春になったらということであったろうか。若干、心配である。
歴史学界は狭い。情報論的にいえば実に濃密なスモールワールドの典型である。特定の分野をイメージすると、いまでも(大学院生、PDをふくめて)、50人以下の研究者の切磋琢磨で進んでいるように思う。
歴史家は、その本性上、真面目な人がなる。金儲けをしよう、世俗の出世を求めようというような人が歴史家になろうなどと思わないのはあたりまえの話。保守的なのは歴史家として当然のことであるが、かたくるしく役人根性に流れる場合も発生する。これは、よい意味でも悪い意味でも、東アジアの「考証」をこととする「史官」の伝統であるというのが持論である。
そして、この日本社会ではこの「史官」としての職務を離れられないため、研究のスピードはどうしても華々しいものではなくなり、狭い範囲での徐々とした進行となる。
もちろん、表面的な華々しさなど、歴史学にとっては、それこそ「くそくらえ」であるが、しかし、「史官」から半ばは離れ、「歴史学同業組合」として、一時業務離脱時間の保障を契約し、相対的に自由なネットワークを作る、もう少しの自由がほしい。その人の仕事が自分の頭の中に宿っている人と自由に話す楽しさというものを、もう少し享受したい。廊下で5分ではなく。
(閑話休題。それにしても子安宣邦さんの、「くそくらえ」発言は気になる。僕も自説を点検してみよう)。
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