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2010年11月12日 (金)

東京大学情報学環シンポジウムー現在は「情」の時代

101112_174614_2  今日は、午前中から、来週月曜の王子製紙研究所訪問の下準備。最初の出発点であった「簀目」の形成構造の再点検が必要というメモになりそうである。このメモは明日完成し、月曜の午前中に修復室と詰めることになった。
 夕方から、東京大学の情報学環の創立十年集会のシンポジウムを聞きに行く。集会の全体は、「知の熱帯雨林、学びのカンブリア爆発」というすごい題。意味がわからなかった。
 シンポジウムは「学環的なるものの未来、情報知の21世紀を俯瞰する」というテーマ。国会図書館の長尾館長、大坂大学総長鷲田小弥太、東京大学総長(初代学環長)浜田純一の諸氏によるシンポジウム。二〇〇〇年に行われた学環の創立の時にも、このメンバーでのシンポジウムが行われたとのことである。
 11月23日に函館で「文化と編纂」という題で、はこだて未来大学主催の講演会があり、長尾先生とご一緒する予定。「文化と編纂」という題は見事な題で、それに引かれて御引き受けしたが、中身をどうするか困っている。
 おのおの講演を一時間、そしてその後に一時間の討論ということ。講演一時間はいいとしても、討論一時間というのは後から聞いた話で、私は、ともかく頭のキレが悪く、討論は苦手。その時、困らないように長尾先生の話をきいておきたかった。
 これは正解で、さすがに、話は面白く、感心した。パソコンを持ち込んで、メモをとりながら自分の講演の内容も考える。いま、帰りの電車で、そのメモにそって、このブログ記事を書いている。
 「知の熱帯雨林、学びのカンブリア爆発」というテーマも、長尾さんが、一〇年前の講演でいったことに由来するというので納得。つまり「学術を樹木にたとえれば、情報学は樹冠の上に咲いている花である。学術の総合の上に咲いて、枯れて種を作り、うまくいえば新しい種類の樹木になる。花はすぐにはみえないところに咲くが、いわば密生した熱帯樹林の樹冠の上にさいている花であって、一面の花畑である」という長尾発言があったとのこと。
 話の切り出しは、三人がおのおの三つのキーワードを出して、それにそって話すというもの。長尾さんのキーワードは、「情の時代。生成の時代。環(和)の時代」。
 (1)の情の時代とは、「知情意」からとったもの。ギリシャが知、中世が情、ルネサンスは意とすれば、一九世紀・二〇世紀科学はふたたび「知」である。そしてそれに続くのは、再び「情」。この情は、情報の意味での「情」と心の意味での「情」である。
 (2)生成の時代とは、科学は分析の時代であり、ほとんどの学問分野において分析の時代は終わり、生成、総合、創造の時代に入った。何をどう作るべきか。その結果を十分に考えずに創造に走ることは危険。本当の意味での注意が必要になる時代である。つねに地球全体を考えよ。
 (3)の環(和)の時代とは、循環の組織がどこでも必要になるという意味。学問自身も循環の時代に入る。それを象徴するのは、現代が早晩アーカイヴができなくなる時代に突入すること。あらゆるものを電子情報で集めるといっても無理。データとして何をすてるかを考えざるを得なくなる。それはどこでも再利用できるものを見極めることが必要になることの象徴である。そして、この再利用とダイナミズムをもった循環を組織するためにはセオリーが必要になるということ。
 うまい言い方である。網野善彦さんは、人類史は成年の時代に入ったという言い方をよくしたが、この「情・創・環」というのは、もう少し具体的であり、かつ正確なところをついているように感じる。将来社会論を政治的なレヴェルで議論したり、いわゆる「青写真」を作ることは、ほとんど無駄な作業であるが、将来社会の理念が多様に語られねばならないのは明かだろう。
 興味深かったのは、「知・情・意」を世界史的な精神史の波動のあり方としてみる見方で、「中世=情」というとらえ方である。この「中世」を、宮崎市定がいうように、紀元前後に本格化した世界史的な時代区分と考えると、これは世界宗教の時代の始まりの時代である。世界宗教はまさに長尾さんがいう意味での、二重の意味での「情」によって成立している。
 それが「心・心情」という意味での「情」の世界、固有の意味での「内面世界」の開発を意味したのはいうまでもない。しかし、それと同時に、それは特定の情報システムによって支えられていた。つまり、この世界宗教の時代は、「経典」によって可能となったという中井正一の議論は正しいと思う(「委員会の論理」)。中井の言い方は、逆説的にみえるが、経典による文字テキストの共有によって、はじめた離れた個々人の間での瞑想経験の交流が可能となったのであって、経典なしには、そもそも瞑想というものは可能にならないのである。「中世」、この民族大移動の時代は、人間自身の移動の時代であると同時に、観念と瞑想システムが飛行する時代であったのである。
 現在、この文字世界の変化が、世界の精神史の新しい展開を意味していることは確実であると思う。ネットワークによって世界がつながるということは、文字世界の空間的な実体化である。そういう直接に精神的環境としての外部が客体的に形成されることによって、人が、新たな目をもって自己の内面を見つめるというのは、かっての世界宗教の形成の論理からいっても見やすい道理であろう。世界宗教における瞑想は、「古代」社会における人間の外皮としてのペルソナの形成を前提として、その内側を瞑想する心的態度であるとすれば、現代の情報社会における瞑想は、すべての人間の皮膚に接するところまで遍満して波動する外部情報空間の内側を瞑想する心的態度であるということになろうか。それは世界の新しい形でのシステム化、体系化をもたらすだろう。
 「中世」における世界宗教は、同時に、限られた意味でのアソシエーションの形成に連なっていた。それは各分野における「経典」の形成というべきことであったのかもしれない。この時代、官人・領主・商工民などのアソシエーションは、形態は違え、洋の東西をとわず広がったものであると思う。それが地縁・血縁を基本としたネットワークであったことはいうまでもない。その類推からいくと、長尾さんのいう「現在=情の時代」というのは、新しい形での地縁・血縁の時代の再興につながるのだろうか。現代が「情の時代」という場合の「情」の情報ではない意味、「心」に関わる方の意味はどうなるのだろうか。長尾さんはどう御考えなのだろうか。こんど講演会で、話題になれば聞いてみたいと思う。
 以上、論理にもなっていない連想のようなものだが、いろいろなことを考えさせられた。
 その他、鷲田氏・浜田氏の発言は、すでに紹介する時間がないが、各氏の最後の発言は、情報学環(あるいは大学や学問そのもの)の将来をどう考えるかという題。おのおの痛烈であったが、長尾さんの発言は、「熱帯雨林の内部は光の差し込まない暗い世界で、地面には土壌が形成されず、システム全体としては別として、部分部分は貧困な世界である」というもの。とくに怖い話しであった。

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