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2010年12月

2010年12月31日 (金)

だいじな本ーー林宥一氏遺文集『銀輪』

101231_191440  書棚の一箇所に特別のコーナーがあって、先生・先輩・友人の遺文集がおいてある。迷ったとき、憂鬱な時、心が空虚な時に、時々手を伸ばす。
 林宥一氏の遺文と追悼文をまとめた『銀輪』という本も、その一冊である。林さんとは、家永訴訟を支援する歴史学関係者の会の事務局でいっしょだった。1999年8月、自転車旅行の途中で急に亡くなった。それを聞いた時のショックをよく覚えている。最近、自転車に乗ることを始めたので、旅行に出る前に新品の折り畳み自転車の試乗をしていることを書いた追悼文などを読むと、残念この上ない。
 林さんは私より一歳上。事務局をやっていたころは貧乏院生同士、ゆっくりはなす時間はなかった。一度、志賀高原の木戸池で家永訴訟を支援する全国連のスキー旅行があって、そこで一緒だった。2泊はしたはずだからあの時ぐらいゆっくり話せばよかったのに、そもそも私はスキーがうまくすべれず、とても落ち着かない気持ちだった。彼は高校時代から使っていたといっていたように思うが、古い革のスキー靴と長い竹のストックだったのではないかと思う。悠然とすべっていた。
 ただ帰りの電車では、津田秀夫先生のお嬢さんと三人で長く話した記憶がある。鋭く、時々、苦笑気味になる目が忘れられない。

 この『銀輪』で林さんがクリスチャンとしての思想に近い立場にあったことを知ったのは驚きだった。彼がある平和問題のネットワークの議論の中で述べた、次のような意見に、私は賛成である。


 私が強調しようとしたことは、資本や労働者が国境をこえて移動し、それに伴なって貧困や環境問題が世界化するような時代状況のもとでは、平和的生存権の確立のためにはに民族や宗教のちがいを問わぬ連帯が不可欠である、ということであって、民族・宗教そのものが克服されるべき課題であると主張したつもりはまったくない。他方、T・O氏は、民族や宗教が「外皮」であって、この「外皮を引き剥がし生身の人間を取りだ」す必要があると主張されている。私には、このように大胆に言ってのけられる「勇気」は全然ない。民族・宗教のうちに自己のアイデンティティを求めてきた人類の歴史は「労働者階級」の歴史よりも何倍も長く、まさに民族・宗教こそが「生身の人間』の主体形成にとって最も重要な契機であったことを考えるならば、これをそう簡単に『超える』ことは不可能であると思う」「宗教についてはさらに一点つけ加えておきたい。『国内・国家間・世界の各次元で社会正義を推進するために労働者同士の、そして労働者との連帯が必要である。労働の主体が社会的に奴隷化し、労働者の搾取が増大し、貧困と飢えが拡大するときには、常に労働者の連帯がなければならない』。この言葉は、ローマ法王のものである(ヨハネ・パウロ二世の回勅)。」「日本のマスメディアのせいで、宗教といえば否定的な現象の脈絡でしか報道されず、他方、キリスト教といえば、いつまでも欧米列強の支配イデオロギーという硬直的反応しか示さない『知識人』がいるが、現代世界における民衆的『宗教改革』のうねりには学ぶべき内容が少なくない」

 それから、歴史家としての感じ方、考え方を示す文章も共感を呼ぶものが多い。とくに林さんは、現代史研究では画期的な研究史的な意味をもった長野県埴科郡五加村の史料調査と研究の中心的な組織者であった。その関係で残っている、五加村研究会の歩みについての文章は、私の世代の研究者ならば、読んでいて一種の遙かな感情をもつのではないかと思う。

 十二年をふり返って、「共同研究がこれほど大変なものだとは思わなかった」というのが率直なところである。個人的には私は、この十二年間の研究会の半ばまでは、次のような「思想」を抱いていたーー学問は最終的には人間の思想のあり方にかかわる行為であり、思想は一人一人が異なる個別的なものである。だが、共同研究ではこの個別性の希薄化が避けられない。したがって或る共同研究がどれほど秀れたものであっても、個人の学問的営みと比べるとそれは思想的個性において減価せざるをえないのではないか、と。
 だが、私は途中で共同研究が個人研究より劣るという右のごとき「思想」から「転向」していった。第一に、歴史学が何よりんも経験・実証科学であり、研究の真価の八~九割はその実証性で決まるという点で真の共同性が築かれるならば、その優位は動かしがたい。第二に、現代に求められているのは単なる「思想」の個別性ではなく、これをすり合わせて築きあげていく「思想」の確かな共同性ではないかと考えるようになったからである。

 みなさん、よいお年を。
 歴史の研究者の方々には研究の充実を!
 そして歴史学を大事に思っている方々の上に、よい時代を!
 
   (一)
 この花びらといふものは
 なんで出来てゐるのであらう

 これほどのものがこの世にあらうとは
 ながくぼくは知らないでゐたやうだ
 ーーー花がうつくしいとは
 呼べなくなった

 花をみながら
 かうしてまたひとつことばを失ったことは

 しんしんと
 <お前は未だ生きてゐる>と思はせる

   (二)
 多くの友が死んだーー
 花びらを見つめれば
 花びらのひとつひとつは
 亡友たちの面かげに
 似ている。

 と ふと思ったので
 一層よく見守ろうとすると
 ああしかしどういふ自然のいとなみか
 あるひは友たちの息ぶきであるか
 まざまざと 花びらが露を払ひのけその重なりを解かうとするーー
 
 若死にをした友たち
 かれらの明るい言葉をつたえることが
 これからの私たちの仕事であろう
       (堀田善衛「戦争」、『批評』一九四八年三月号)

     『堀田善衛詩集 一九四二~一九六六』 集英社

2010年12月29日 (水)

歴史は趣味か。石母田さんの言葉

 もう20年以上前のことであろうか、歴史が趣味という人が後輩にいてたいへんに驚いたことを覚えている。今でいうところの、「歴史が趣味なんてお爺さんみたい」という訳ではなくて、私たちの世代だと歴史学というものは社会の変革のためのものであるという意識が非常に強かった。個々人のさまざまな相違はあるものの、少なくとも、そういうものだということになっていて、その種の趣味のための趣味としての歴史というものは理解できないという感情が普通だったと思う。


 というように書いたところ、趣味から発展する学問はいろいろあるから歴史だけいけないといったら、それはおかしいよという常識的な見解を、身近な人からいわれた。
 それはたしかにそうで、私がもっとも尊敬する研究者の一人、平安時代・鎌倉時代政治史のトップ研究者は少年の時からの歴史趣味から出発した。彼は中学校時代につくったノートを今でも使っているらしいというのは有名な話である。これは本当にいい話だと思う。
 「棟梁は嫌いだ」という彼の宣言書は、「棟梁の弟も似たようなものだ」という、今、私のやっている仕事にとって最大の励ましである。


 ただ、私の場合は歴史学というものは社会科学の一部であるという意識が強く、いまでも、それはそのままである。前近代社会を対象とした社会科学であって、そうである以上、歴史経済学がそのベースになければならないということになる。
 と書いたところ、身近な人から、だから嫌われるのよといわれたが、嫌われているという意識はないと反論した上で、しかし、自分のやっていることを考えてみれば、歴史学というものは、やはり趣味というほかないものかもしれないとは思う。
 先日、再校ゲラを返した「土地範疇と地頭領主権」という論文は、「地本と下地」という言葉の違いを論じたものである。その根っこにあるのは、歴史学研究会の古代史部会で荒木敏夫氏の報告があったときに、大会援助報告か、あるいは大会批判報告かは覚えていないが、「縄本」ということについて報告をした。その内容を富沢清人氏に聞いてもらったことも覚えている。今、『歴史学研究』の大会報告集をみてみたところ、荒木報告は1974年のことだから、もう35年以上前ということになる。「地本」というのは、この「縄本」という言葉を一般化したものではないかというのが、この論文の一つの出発点であった。


 「下地」については、勝俣鎮夫さんに「下地の被官について」という論文があって、これは『中世史研究』を取り出してみると、1985年の論文である。「下地」という言葉の意外な意味を教えてくれた論文で、この論文を思い出すと、私は、ある女性の友人が「御醤油」のことを「おしたじ」といっていたことを思い出すということになっている。「下地」というのは「敷地」と同じ言葉なのではないかというのが、右の論文の結論なのであるが、それにも長い間のさまざまな記憶が染みついている。


 こういう種類の記憶というのは、たいへんに個人的なもので、その意味では、偶然、無秩序、恥多しという個人の記憶と相似したものになり、いわばオタク的な趣味の世界に類似してくるということはいえるのだと思う。はるか以前から積み重なった、他人からみたら意味がないような個人の記憶の触感の世界である。
 しかし、趣味と歴史学が違うのは、一種の不全感ではないかと思う。歴史学の場合は、ともかくも一度、記憶したものを対象として作業を展開する。労働対象が自己の記憶である。その記憶の偶然、無秩序、思いこみという散乱状態の中で、ともかくも偶然に自分に膠着してしまった知識というものを維持し、疑問を持ち続ける不全感というのが大事になる。自分の頭を10年、20年、未整理な倉庫として維持し、そこで迷子になっていることを許容するということだろうか。これはストレスではあるが、しかし、そういう存在を許してもらってありがたいことだと思う。


 「土地範疇と地頭領主権」という論文は、もう一つ、大塚史学から網野さんまで、日本の前近代を対象とした経済史論で最大の問題であった「土地範疇論」についての理論メモ「歴史経済学の方法と自然」を前提として、ともかくも、土地範疇論を日本語の歴史史料の中で考えてみたものである。自分にとっては、ここまでは来たということである。しかし、この種の社会科学の理論を具体的な史料に即して考えるということは、やはりストレスが多い。書いてみれば書いてみるだけ、いよいよ不全感が増したというのが率直なところで、ストレスの自乗である。

 歴史学がストレスの多い仕事であるというこういう事情は、我々の世代でよく引用された言葉では、次のようなこととなる。
 「人間の創造する偶然にみちた歴史現象と法則との関係を総体的に、具体的にしめすのが歴史の研究と叙述の課題であるが、それにたえるだけの研究者の能力は、理論や法則についての知識があるというだけでは充分ではない。正しく目的地にむかって歩くためには磁石と地図のほかに肉体的・精神的な多くの能力を必要とする。歴史家たちがそのすべての人間的能力をあげてその研究対象ととり組むとき、過去の人間の歴史、幾百万の人々が地べたをはいつくばうようにして生きかつ刻みつけてきた歴史なるものを少しづつ解読することができるのである。かかる能力は、歴史家が、生きている時代の矛盾をそれぞれの形で体現することによってはじめて育てられるのであって、その点でも、(歴史学は)本質的に原題ときりはなしがたい存在なのである」
(石母田正「国民のための歴史学おぼえがき。『戦後歴史学の思想』)

 この石母田さんの言葉を、何度、これまで読んできたことか。指導教官であった戸田芳実氏の研究室の机の上に、この本と『発見』が置いてあったことも、膠着した記憶である。
 この石母田さんの言葉は立派すぎる。どのような肉体的・精神的能力があっても「正しく目的地にむかって歩く」ことは保障されない、そもそも「磁石と地図」「理論や法則」というものは本当に有効なのかというところから問い直したくなるということは、私にもある。けれども、歴史家としては、彼らが現実に担ったものの重さに越えがたいものがあることは否定できない。そういう意味では、私たちは、少なくとも、石母田さんたちの「学問」の残した課題、たとえば「国地頭論争」を乗り越えた先にしか、それを問題にする権利はないのだろうと思う。


 なお、自分の頭の表層部分を記録する自由は、このブログに保障したいので、活字として未発表のものでも、ゲラまでいった論文などについては、その一部にふれることは御許しねがいたいと考えている。このブログはなんらかのプライオリティを、その内容に付与することはしないので。

2010年12月27日 (月)

都市王権と貴族範疇ーー平安時代の国家と領主諸権力

 『日本史の研究』(奈良女子大学日本史研究室編、創刊号)、に執筆した「都市王権と貴族範疇ー平安時代の国家と領主諸権力」という論文をWEBPAGEにあげた。
 このブログでは直接の実証を書くことはひかえることにしているが、既発表の論文にふれて方法的な議論を敷衍することは、研究活動の表層部分、表層波の部分、別の言い方をすれば「理論」部分、理屈と頭の整理の部分をオープンするという意味で十分にありうることと考えている。こういう理屈部分は、所詮、理屈であって、歴史の研究それ自身ではない。歴史学の本来の作業、実証作業、および本来の社会科学的理論とは区別された中間理論であって、所詮、個別科学の中の自己納得議論(悪い意味でのパラダイムの議論)であるから、自由にやってよいものと思う。
 そこで、この論文で「武臣国家」といったことについて、ずっと考えているので、いま書いている義経論との関係で、それを若干敷衍するメモを作っておきたい。
 一一八〇年代内乱は封建国家の形成、鎌倉幕府の形成という論理で捉えられるものではなく、この列島の上に構築された国家が本格的に軍事化する動きを表現していると考えるのは、かって「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」を書いた時からの考え方である。これはモンゴルの台頭に典型的に表現されるような12世紀のユーラシアレヴェルでの軍事化に対応するものでもあり、その意味で一一八〇年代内乱という用語は、日本の歴史家が日本史について考える時には魅力のある言葉だというのは私見。
 それ故に、この過程を封建国家形成過程ととらえること、あるいは「鎌倉幕府形成過程」ととらえること、そして実質上は頼朝の動きを中心に議論を組み立てること、「頼朝中心史観」は、実質上、惨酷な軍事過程の多様な諸コースの内の特定のものに特殊な価値を与えることであって、了解しがたいということになる。
 日本における軍事化の形態は、より全体的に捉えられねばならないということであるが、その形態の第一は、支配層の階層編成における宮廷貴族と軍事貴族の位置の実質的・身分的逆転によって表現される。これは白河院段階から始まっている動向という意味では、院政国家の必然的な展開ということになる。院政国家が王権内部の激しい矛盾と争いを起点として王城合戦を導きだし、その中で後白河院政が平家王朝(高倉・安徳王朝)に移行する中で、この逆転は、それ自身として実現したことになる。それが公卿制への平家の集団参入のみならず頼政の参入という形で実現したことが重要であり、また公卿の地位を辞任して、前公卿、前大臣という形で自己の権威を主張するスタイル(それ自身としては摂関期からある伝統的スタイル)が導入されたことも重要である。前公卿という地位が、国家権力の地域分散(東国「国家」)をみちびいたという意味では、これは決定的な意味がある。これらが頼朝権力において実現したことはいうまでもない。
 第二には、国家高権、国土高権の軍事化である。これについては、最近ゲラを出した「土地範疇と地頭領主権」で論じたし、「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」でも若干ふれてあるので、省略する。この中で、庄園領主制が特殊な集団所有制とその代表権の私的性格の二重性をふくめて再編成されることになる。
 第三に重要なのは、都市機構、都市連接機構と交通網の軍事化である。これは武士の護衛役という形で摂関期から存在していたものではあるが、このような送迎役の体制が在地的な基礎をもった上で、陸運のみでなく、特に海運ルートで稠密化したことが決定的であったと考える。暴力体系は一種の精神労働と肉体労働の対立の表現であるが、これが都市機構を媒介にして全面化したことの意味は大きい。地方都市と都市を結ぶ体系、都市・交通網の軍事化は守護権力と駅制の握るところであって、頼朝権力は、この体系を東海道に創出することに大きな精力をつかった(自分なりに「中世の遠江国と見付」で論じた)。これは国土高権の物質的な基礎であることもいうまでもない。
 第四に重要だったのが、広域的な領主間ネットワークの軍事化である。これは都市交通網の軍事化とパラレルな部分もあるが、しかし、これによって領主権力の内実が変化していくという意味では、独自の問題として区分されねばならないし、国家論の基礎を領主論に据え、階級的な支配の位置を確認するという意味では決定的な意味がある。河音能平が明らかにしたような私闘は平安時代に常に続くが、この領主間の広域ネットワークの軍事化は、その私闘・私戦の体系を「公戦」の体系に転化する。別の言い方をすれば頼朝権力は地域暴力団から広域暴力団に転化する。河音的にいえば、地域の「不善の輩」を「(荘郷)追捕使」化することがそのベースになっているはずである。掲載した論文では領主制の範疇はいわゆる私営田領主制から留住領主制に展開したという形で範疇化してあるが、留住領主制は広域領主制という内実をもっており、その中から広域ネットワークが軍事化していくという見通しである。
 掲載論文は、このような軍事国家化を「武臣国家」という用語で表現している積もりであるが、こういう組み立てにすれば「権門体制論」の最大の弱さ、国家の段階論の不在、地域論・領主論の不在をクリヤーできるのではないかと考えている。
 黒田権門体制論の最大の功績は、武士中心史観の排除であって、武士とは所詮暴力装置であって、武士という身分の自己運動によって歴史を捉えるのは誤りであるということだと思う。それは狭い意味での軍事史観、つまり歴史を武力の物理的な発展、武力をつかむ階層の移動のみで捉える見方に対する批判であって、それ自身としては正統なものである。しかし、だからといって国家の軍事化による国家の段階設定それ自身が誤りとは考えない。列島社会が本当の意味で軍事国家になる時代を一一八〇年代内乱の時代と捉えることの意味は大きいと思う。
 権門体制論における地域論・領主論の不在が決定的な問題であることはいうまでもない。権門体制論が構造論をめざしながら、構造論になっていないのはこのためである。広域権力論を立てることによって、「在地領主制」と国家の間の媒介をすることというのは、入間田さんが領主連合論、そしてそれをふまえた公田論を立てたとき以来の課題である。
 以上が、メモ。
 今考えている問題は、以上を前提とした上で、「東国の自立」という頼朝権力のスローガンをどう考えるかである。少なくとも、本来の意味での地域の自立度という点では、平安時代こそ「地方の時代」であるというのは、掲載した論文でも書いた通り。その意味では、東国は広域ネットワークの軍事化ということであって、それは実際上は、別の形での「中央直結」を生みだしたことは確実である。
 しかし、「東国の自立」、「京下の輩」の追放という論理がスローガン(あるは宣伝文句、デマ)としては東国の諸階層に通用したことの意味は、やはりあるのだと思う。ここに網野さんのいう意味での「東国」の伝統性、特殊性をみることは許されるのではないかと考えている。

 まずは、東国権力が軍事化の形態であったからこそ、軍事権力が特定の独立性をもつことが必然であったからこそ、それは単なる権力組織であることを越えて国家的性格をもち、地域における従属国家となるのであるが、そこにおける独立性は従属と背反しないということになる。そして、そこに東国の伝統的な独自性、異質性が色濃く影響しているという議論になる。この方向で、地域複合国家論をもう一度考えてみたい。


  以上。総武線の中の一時間と地下鉄の5分。
 先日、「日本の海の歴史と漁業」という授業の関係で、網野善彦さん、森浩一さん、岸俊男さんの仕事を読んだ。網野さん、森さんの対談本『馬・船』を読んでいると、御二人の博引旁証と視点の強さに驚くことが多い。
 私は、こういう呪文を唱えないと、論文の一つも書けないという性癖を抜けられない。これは自分の歴史学への接近の仕方からいってやむをえないとは考えている。ただ、最近は、呪文を唱え、書きつける時間だけは短くて済むようになっているのが救いか。しかし、呪文というのは本来そういうものともいえるかもしれない。

2010年12月26日 (日)

伊豆蒲屋御厨の砂鉄

 1993年に行われた「よみがえる中世世界シンポジウム」の記録、『歴史手帖』二一巻1号、1993年1月に載せた私の論文を、下記に引用し、同時にWEBPAGEにも掲載した。一の谷遺跡の保存運動後の総括として開催されたもの。記録のためにあげておきたい。討論とまとめも私が執筆している。当時、名著出版にいた岩田さんには本当に世話になった。

 この論文の主要部分は後に発行された『中世都市と一の谷中世墳墓群』に載せた「中世の遠江国と見付」に吸収したのでほとんど役にはたたない。ただ、伊豆の武家領主が製鉄になんらかの形で関わっていたのではないかという推定は、依然として維持しているもの。その根拠は、引用した伊豆蒲屋御厨の砂鉄について外岡龍二氏の仕事にある。外岡氏によると、蒲屋御厨の域内の下条・十二叟・田牛などで製鉄炉や鉄くずが確認されており、砂鉄が原料であるという。伊豆は早くから鉄を産出しているし、蒲屋御厨も鍬を貢上しているので、問題は大きい。域内の鯉名湊には廻船鋳物師がいたのではないかというのが、私の想定。

 中世の東海道と交通
  (『歴史手帖』二一巻1号、1993年1月) 中世では京都と鎌倉が相並ぶ政治都市でしたから、その間を結ぶ東海道は極めて重要なルートでした。この意味で、東海道の地帯構造、その政治・社会構造を確定していくことは、中世の社会と国家の研究にとって大きな意味をもちます。ここでは、鎌倉時代の初期、頼朝の時代に限定して東海道の問題の幾つかを紹介してみますが、私が、このような問題を考えたのは一の谷遺跡の保存運動にかかわる中で、『中世の都市と墳墓』(日本エディタースクール出版)の計画に参加し、「町場の墓所の宗教と文化」という論文を書いてからでした。一の谷遺跡の強烈なイメージを前提にし、遠江国の府中・見付に視座をおいてみると、東海道にはまだまだ残された問題が多いことを実感したのです。
Ⅰ頼朝の挙兵と蒲屋御厨の製鉄
 頼朝は、一一八〇年(治承四)の八月に挙兵します。その直後、頼朝は蒲屋御厨に対して下文を出します。詳しくは別稿「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第三九)を参照してほしいのですが、蒲屋御厨は、相模湾に面する伊豆半島の東南端に位置し、鯉名泊という東国海上交通の要衝を含んでいました。頼朝は早くから東国の海上交通の制海権を握ろうとしていたのです。
 この御厨は、遺跡からも文献からも製鉄を営んでいたことがわかる稀有の庄園です。そもそも外岡龍二「伊豆の製鉄関係遺跡」(『歴史手帖』一一ー二)によれば、伊豆は東国有数の砂鉄地帯でした。特に最近、伊東市の宇佐美で発見された寺中遺跡は、関東では初めて発見された大規模な中世の製鉄遺跡です。これらからみて都市・鎌倉の鉄需要の相当部分を、伊豆が供給し、そして相模国・武蔵国、さらに駿河国から甲斐国辺りまで伊豆の鉄材が入っていたのではないでしょうか。八三一年(天長八)、甲斐国の浮囚の蝦夷が「魚塩に便あるなり」という理由で、駿河国に「附貫」された戸籍を移されたという史料がありますが(『類聚国史』巻一九〇)、私は、これは甲斐と駿河の間での交易道の存在を前提にして理解できる記事だと思っています。
 能登国には「鉄のすがねと云うなる物を取りて、国の司に弁ずる事をなむすなる」「鉄堀」集団がおり、彼らの「長」がひそかに佐渡国に船一つで渡り、「金の花咲きたる所」・大金鉱を発見したという説話があります(『今昔物語』巻二六ー一五)。彼らは、「けぶりが崎に鋳るなる能登鼎」「能登の釜」(『堤中納言物語』、『新猿楽記』)などの能登の特産鉄製品を鋳る人々と重なっていたでしょう。彼らは、日本海海域を渡り歩く廻船鋳物師でもあったに違いありません。同じような人々が伊豆国にもいたはずです。
 頼朝の時代、伊豆国の領主はたいへんに活発な活動をしました。それはこのような鉄生産や水運を始めとする伊豆国の地域的特色なしには考えられません。たとえば、先にふれた寺中遺跡の製鉄には狩野氏の一族の宇佐美氏が関わっていたでしょう。曽我兄弟の仇討ち物語を生んだ狩野氏の同族間相論、伊東・宇佐美・河津の同族の間での相論は有名ですが、これら伊東・宇佐美・河津の各荘園は本来は伊豆東海岸に久津見庄という広大な荘園をなしており、この荘園が製鉄や船運などを支配していたことは明らかです。
Ⅱ東海道宿の傀儡と頼朝持仏堂・文覚
 後藤紀彦氏が紹介して有名になった香取田所文書の中に入っている鎌倉時代の蔵人所牒の案文には、唐人と傀儡子が各地で櫛を売って櫛売供御人たちの権利を侵害しているとあります(参照、網野善彦『日本中世の民衆像』)。この文書が香取神社に伝えられていることからみて、櫛売供御人と唐人・傀儡子の衝突が、東国でも起きていたのでしょう。
 傀儡子は平安時代以来、遠江国では橋本・池田・菊川、駿河国では手越・蒲原・黄瀬川、さらに美濃の青墓宿、三河の赤坂宿など東海道各地の宿場に広く分布していたといわれます。その具体像がわかる史料は少ないのですが、伊豆国の国司が目代として雇った人物が実は駿河国の傀儡子であることが暴露されたという説話が注意をひきます(『今昔物語』巻二八ー二七)。駿河国は傀儡子の拠点地域だったのではないでしょうか。というのは駿河国宇都谷郷の今宿の傀儡子の史料もあるからです(『鎌倉遺文』七〇九三)。その史料に「岡部権守、岡部・宇津谷の両郷を領知してより以来、代々此のごときの雑事、一切当てがわれざるのところ」とあります。この岡部権守とは岡部泰綱またはその父の清綱であると思われますので(『尊卑分脈』)、鎌倉時代初期あるいは平安時代末期に傀儡子が宿場町の領主権力の下に組織化されていたことになります。
 岡部泰綱は頼朝からも信頼されており、『平家物語』の最後で平氏の生き残り「六代」を切った人物として有名ですが、そういう人物が傀儡子を支配していたのです。しかも、今宿のあった宇津谷郷は鎌倉の久遠寿量院(頼朝の持仏堂)の領で、同寺の経営には有名な文覚上人が深く関わっていました(『吾妻鏡』建久二年二月二一日条)。おそらく宇津谷が久遠寿量院領になったのは文覚がならびない権勢をもって東海道をさかんに往来していた頼朝の時代のことであったに違いありません。文覚の書状に「大津々料に馬のくつ五十足計、宇津やつはらにかヽせて可遣候也云々」という一節がありますが、この「宇津やつはら」というのはあるいは宇津谷の傀儡子たちのことを意味するのではないでしょうか。もちろん、神護寺領の丹波の宇津郷の人々を意味した可能性も高いのですが、ただ、この書状は、丁度文覚が東海道を上っていく時に出し、大津を越えるのに「津料」が必要だから「馬沓」を送ってくれと無心しているのですから、文脈からいうと、むしろ、東海道を上洛する文覚が引き連れてきた駿河国宇津谷の傀儡子たちであったように思います。
 傀儡子たちは、旅の従者としては最適な人々であったに違いありません。私は、東海道の各地の宿場に分布する傀儡子たちは相当の組織・連絡網をもっていたはずで、権力はそれをしばしば利用したと考えてみたいのです。それは、当時の武士が宿の遊女をしばしば妻にしたという周知の事実の背景でもあったのではないでしょうか。
 もちろん、傀儡子たちは、そういう意味での宿あるいは遊女業のみではなく、より日常的な生業も営んでいたでしょう。その観点からすると注目されるのは、先に触れた蔵人所牒で、傀儡子が櫛売りと争っていることで、それは傀儡たちが木工品の製作・売買を行っていた可能性を示唆しています。傀儡子が木の人形を舞わせることを本来の芸能としていたことはいうまでもなく、峠の宿場で木工品が特産になっている例も多いですから、傀儡子は木地師が共通する存在だったのではないでしょうか。そこからは、すぐにたとえば鎌倉から大量に出土する木製品は誰が作ったのかという問題がでてくることになり、やはり東海道地帯における分業と生業の問題に突き当たるのです。
Ⅲ東海道の新宿興行と領主たち
 東海道の研究において最も困難なのは、たとえば以上に触れた製鉄と木工と宿というような問題を解明していくことであって、それは今後における考古学と文献史学の協力にかかっています。私は、一の谷遺跡の保存のために費やされたエネルギーが、そのような方向でさらに発展していくことを確信していますが、東海道という問題の性格からして、それはもっと幅のある問題でもあります。想起されるのは、一の谷遺跡が都市史や宗教史の遺跡としてのみでなく、大仏氏・勝間田氏と時宗、また冷泉家と遠江国との関わりなど、遠江の地域政治史のイメージを作れる遺跡として重視されたことです。
 本稿では狩野氏の一族の宇佐美・曽我・工藤・河津・伊東、さらに岡部氏などの東海道諸国の武士に触れてきましたが、実は彼らはすべて三四代前にさかのぼると非常に近い親戚になります。桓武平氏の祖先として有名な高望王の娘を母とする藤原為憲という人物の子孫になるのです(『尊卑分脈』藤乙麿子孫)。私は、桓武平氏は相模国以東、そしてこの家系は伊豆国以西という棲み分けがあったと考えています。だいたい、狩野氏が伊豆、岡部氏を含む入江氏が駿河から遠江、そしてあるいは二階堂氏はもっと西というように分布していたのではないでしょうか。
 最近、峰岸純夫氏が、この系図の「入江権守」と狩野氏の同族関係に注目されて、一種の水軍的な要素をもった同族武士団が伊豆と駿河の両方を抑えていたのではないかという興味深い指摘をされています(「中世東国の水運史研究をめぐって」『歴史評論』五〇七号)。この入江とは現在の清水港をいい、鎌倉末期、そこに伊勢の商船が入港していたというのです。氏の指摘を敷衍すれば、平安時代の半ば以降には、東海道の交通を各地の領主階級が同族的な関係、姻戚関係などを媒介として編成していたことになるでしょう。入江氏の系列を地名を追っていきますと、船越・岡部・興津・蒲原・相良など、駿河国の交通の要衝の地名が現れてきます。『曽我物語』(巻一)には工藤助経が「船越木津輪の人共を語ひ」などとでてきます。このような同族関係の様子をみると、東海道をめぐる交通形態は、平安末期には相当成熟していたことは明らかです。
                                        w

2010年12月25日 (土)

系図史料の論文をWEBPAGEに

 昨年7月、韓国の中央研究院で報告した「日本史における系譜・系図史料」、活字になったものをWEBPAGEにアップした。実は、ほとんど忘れていたが、先日ゲラの二校を返した「土地範疇と地頭領主権」という論文と関わって思い出した。

 韓国学中央研究院の李建植先生に依頼されて韓国に行って報告した。仕事の科研との関係で李先生に様々なことをお願いしたところ、族譜についての研究会をやるから、一本、報告をせよといわれて、急遽、報告を準備した。冷や汗ものであったが、ともかく勉強をして報告したというレヴェルのものである。しかし、勉強になった。

 ほとんど入手する機会はないと思うので、あげておいた。義江明子さん、飯沼賢司氏、網野善彦さんの仕事によったもの。

 研究会は、韓国・台湾・日本の研究者が集まって系譜論をするという面白い研究会であった。しかし、今、ブログを書きながら思うのは、その時の議論の細部、討論の楽しさは、やはりその時に記録をしておくのであったということ。 

 私の報告について許興植先生(韓国学中央研究院)が事前に用意された質問は、韓国との比較論であった。科挙制度との結合の上で作成された韓国の族譜とくらべて、日本の系図は「神社を中心とした国家宗教が社会の基盤として強く維持されたこと」との関係で作られたものではないかというのが第一点。第二点は、日本の家系記録が韓国にくらべて垂直性が強く横の連携が弱い理由は何か。横に記録を結びつける状況はどの程度あるのかということであった。

 第一の御質問については、平安時代の国家では、氏族的組織をいまだに重要な要素としており、系図は、その組織運営の世俗的目的が第一であり、氏神組織との関係は第二の要素であること、第二のご質問については、網状の系図それ自身は存在し拡がっていた。ただ支配氏族が少なくなったという特徴の中で、氏ともつかず、家ともつかずという曖昧さが一般的である中で記録の形態が大きくことなることになったと考えたいという意見を申し上げた。

 しかし、族譜のことがよくわかっていないので、討論はかみ合わない。ただ、まずは共通性を確認した上で、相違を考えるという方向が望ましいのではないかと申し上げたことについては、了解をいただけたように思う。

 韓国の側にも日本の歴史社会についての異質論がある。それに対して、相似性の側面を考えたいのだが、せっかくの機会であったのに、その先に議論を展開することはできなかった。

 「氏族」、クランというのは、ウェーバーを引くまでもなく、東アジア論ではすぐに出てくる問題だが、大学時代以来、よくわからないままというのは、なんとも情けない話である。

2010年12月24日 (金)

ゲド戦記の翻訳、ひっかかったところ

101224_111729   子供たちが読んでいたこともあって、いつからかアーシュラ・K・ルグィンをよく読むようになった。今日の話は、『ゲド戦記』の翻訳について。誤訳という訳ではないが、少し納得できないところについてである。
 もう、新しい小説を読むということはほとんどないので、以前に読んだ本を何度も読み返す。そして、原文が英語だと、何冊かについては英文のペーパーバックがあるので、それを読む。そういうようにしていると、翻訳が気になってくる。文章そのものの好みの問題にもなるので、どれが正しいだとかいうことではない。ただ、読んでいればこう訳したいという感じが出てくるのは自然なことである。
 『The Other Wind』(岩波書店、日本語訳清水真砂子『アースシーの風』)のPalaces(王宮)の最後近く。レバンネンが船に乗って、国の西部で森に火を放った龍たちのもとに急行する場面。日本語訳では「その晩、王とその一行は、王の持ち船のなかでもいちばん速い船に乗り、オニキスの起こす魔法の風を背にハブナー湾を横切って、明け方には早くもオン山のふもとのオネバ川の河口に到着していた」と始まるパラグラフ。
 叙述は、河口から陸路をとって急行するところから、レバンネンの心の中にフォーカスし、状況を少し前にさかのぼらせて、レバンネンがテハヌーに対して同行を頼みに行くところ確認している。その部分が翻訳では、「前夜、顧問団および敬語の武官たちと会議をもったレバンネンは、龍と戦って街や農地を守ることなど不可能だ。矢も役に立たなければ、盾も役には立たない」と始まっている。
 この小節が、「その晩」から始まって「前夜」となっているのが、翻訳を読んでいるとひっかかる。「その晩」の部分の原文と翻訳を掲げる。

 That night the king's swiftest shipcarried him and his party across the Bay of Havnor, running fast before the magewind Onyx raised. They came into the mouth of the onneva River, under the shoulder of Mount Onn, at the daybreak.
「その晩、王とその一行は、王の持ち船のなかでもいちばん速い船に乗り、オニキスの起こす魔法の風を背にハブナー湾を横切って、明け方には早くもオン山のふもとのオネバ川の河口に到着していた」

 そして、1・2パラグラフをおいて、「前夜」の部分は次の通り。
 Taking counsel the evening before with his advisors and the offcers of his guard, Lebannen had quickly concluded that there was no way to fight the dragons or protect the towns and fields from them: arrows were useless,shields wre useless .
「前夜、顧問団および敬語の武官たちと会議をもったレバンネンは、龍と戦って街や農地を守ることなど不可能だ。矢も役に立たなければ、盾も役には立たない。
 つまり、「That night」が「その晩」、「the evening before」が「前夜」となっているが、「the evening before」は「出発前の夕べ」とでも訳すのがよいと思う。「晩」と「前夜」ではnight とeveningの意味の違いが出てこない。時間の経過の読みが曖昧なのは、やはり読んでいてつっかえる。もし翻訳をもっていたら、みてみてください。この方が続きがよいと思う。
 ファンタジーの翻訳はむずかしいのだろうと思う。想像力の走り方は、おのおのの言語で独特なものがあるのだろうから、それは英語のスピード感と場面転換を別の言語で表現するということを越えた難しさだろうと思う。また、この章の「Palaces」が複数になっているのは、王の王宮と、王妃となる女性が住んでいる王宮の二つが含まれているからで、その関係が焦点になっているのだが、これも複数表記ができない日本語では翻訳できないニュアンスである。
 さらに、「龍」とDragonでは、呼び起こされるものが、やはり違うだろう。そもそも、ここには歴史文化というものをどう考えるかという問題が潜在している。「王」の物語というものが、日本の歴史文化とヨーロッパの歴史文化の中ではまったく位置が違う。ファンタジーを読んでいると、これはどういうことなのだろうと考えることが多い。
 以下、『平安王朝』の末尾近くに書いたことを引用しておく。

 後白河は日本の政治と文化のあり方に大きな影響を残し、そのような後白河について、「偉大なる暗闇」という評価が行われるのは理由がないことではない。王たるべきものの「暗闇化」の問題は、グリム童話はいうまでもなく、たとえばシェークスピアのマクベスや、トールキンの『指輪物語』、ル・グウィンの『ゲド戦記』などの王権をめぐる文学やファンタジーの中心問題であった。この物語を語ることも、なんらかの意味で歴史文化にたずさわるものが無視してはならない仕事であろう。しかし、ここでは、この後白河を原点とする一一八〇年代内乱に集約される時代が、日本の歴史において初めての大規模な戦争の時代の開始を告げたことのみを確認しておきたい。ここで人々は、日本の歴史上、ほぼ初めて「巨大なる暗闇」、戦禍と人間の大量死に直面したのである。しかも、この時代は、大火・竜巻・飢饉・地震などの連続する災害によって特徴づけられている。
 当時、それらすべての原因に「崇徳の怨霊」という魔術的・神話的な「暗闇」の世界が当然のごとくに語られたことはいうまでもない。しかし、私は、この内乱の時代の経験を基礎として、親鸞を初めとするいわゆる新仏教のみでなく、中世の宗教と思想の全体の中に、人間の平等という観念が生まれたことに希望をもちたいと思う。それほどまでに、この内乱の時代は、中世人の世界観・文化・思想にほぼ決定的といえる影響を与えたのである。もちろん人間の平等とはいっても、それは、実際上、運命と自然の猛威を前にした人間の「無常」という諦観を内実としていたのではあるが、しかし、その意味はやはり大きいと思う。それは、たとえば「行く川の流れはたえずして」というフレーズに始まる、私たちに親しい『方丈記』の中にも現れている。

地のうごき、家のやぶるゝおと、いかづちにことならず、家の内におれば、忽にひしげなんとす、はしりいづれば、地われさく、はねなければ、そらをもとぶべからず、龍ならばや雲にも登らむ

 これは『方丈記』が、治承年間の地震について述べた一節であるが、人々は、こういう経験の中で、平安時代の全体が何であったかについて、そしてそもそも歴史とはどういうものかについて、ある感想をもつことが可能になったのである。

 日本で、歴史に基礎をおいたファンタジーが(少なくとも現在は)不可能なのは、どういうことなのだろうか。後白河はとてもファンタジーにならない。こうして、ついつい歴史家という職業に話が戻ってしまうことになるので、そういうことを考えずに楽しんで読むためには、英語で読んだ方がいいということになっていく。そもそも、翻訳を読んであって、だいたい筋を覚えていれば、英語の小説を読み飛ばすのは気持ちがよいのである。

 年末の楽しみにルグィンの『ヴォイス(西のはての年代記2)』を読み始めている。以前『ギフト(西のはての年代記1)』を読んで、これは変わった雰囲気のファンタジーだと思ったが、続刊が出ているのを知らなかった。翻訳の文章のせいもあるのだろうか、物語の抽象度が高くなっていて、引き込まれる。
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2010年12月21日 (火)

日本の海と漁業の歴史ーー海洋アライアンス授業記録

 海洋アライアンスという東大の海洋研、生産研その他の海洋関係の研究者を中心とし、文科・社会科も参加した一大プロジェクトがあって、いろいろな縁があって参加している。
 駒場で教養部の学生のための初級講座のようなものがあって、昨日は駒場で授業。「日本の海の歴史と漁業」。大きすぎる題名だが、そういう種類のことを期待されているので仕方ない。
 前日、準備をしていて、夜中の4時近くなって、授業は10時40分から。
 ほとんど寝ずに授業をして、ともかくも「目あたらしい内容で面白かった」という感想アンケートが学生から来るのは、やはりそれなりに楽しい。さすがに夕方はまいった。

 冒頭で述べた「海の豊かさー富は農業のみでない。日本の社会構成に極めて大きな影響。日本にとってもっとも大事で伝統的な、農業と水産業の統一。これを人々の歴史知識の中に定置するために文理融合が決定的に重要」というテーマは通ったようである。
 また、理系の学生が多いので、「日本史の自然的要因と海として、(1)オホーツク海氷と黒潮(北大低温科学研究所の研究成果)、(2)列島海域の多様性(3700以上の島々と28000㎞の海岸線)、(3)火山性島国(山地60㌫、(イ)太平洋プレート火山帯、(ロ)大興安嶺・長白山脈Hotspot型火山帯。総じて、岩塩の不在、狩猟・牧畜よりも漁撈の優越(東アジアの中でも独自)」という問題は面白かったようである。昨年も、(1)(2)はいったが、今年は(3)をつけ加えたことが、個人的な満足。
 オホーツクの海氷がシベリアの寒極から吹く風によって形成され、結氷から排除された酸素と塩分・鉄分を大量に含む重い水とともに、樺太東側を南流し、それが北太平洋の心臓のような役割を果たしている。これによって北太平洋の東西で鮭漁という文化を創り出すという話は、それこそアライアンスの関係で仕入れ、蓄積した知識。これに火山論をつけ加えたのは私見。
 しかし、さすがに自分の授業感覚がずれていて、例によって沢山詰め込みすぎ。「通史」というのは、やはり一回では無理である。室町時代まで、ともかく話を通すのがたいへんであった。
 奈良時代以前は、安曇氏(日本海ルート)、紀氏(瀬戸内海ルート)、その上にそびえ立つ王権の山野河海支配のイデオロギーという話。奈良時代から平安時代は、贄人神人・供御人という職能漁民の話。そして、耽羅(済州島)のアワビの話。房総半島には最近まで済州島から海女さんが来ていたという話には、学生がもっと驚くかと思ったが、話し方が悪かったか、あまりに意外な話だったのか、反応はもう一つ。
 平安時代は、塩堤や湊田の話で海辺の水田開発論をやった上で、漁民の商人化、廻船運営の話をする。そして、平家政権の下での全国的な水運体系について話して、この時代に、海の開発の大枠が終了したという形で、話を組み立てた。
 その上で、日本の自然に対応する生態学的な生産・分配システムを前提に江戸時代にむけて歴史の「近世化」が進むという展開とした。室町時代のイワシの大量輸送の話を十分にする時間がなかったのが残念。「江戸時代にむけて海との物質代謝に社会的な物質代謝が大規模に入り込む」という論点は十分には伝わらなかったと思う。
 学生の感想に、「漁業が本格化したのは、それでも江戸時代のように感じますが、どうなのでしょうか」とあったのは、その証明のようなもの。

 網野さんの終生の課題は、漁業の本格化、廻船の発達などという事態が江戸時代のことであるとされている。これを突きくずさなければならないということだったはずである。私は、漁業史の本格的な研究から30年は離れているので、これを突きくずすことがどれだけ大変かという網野さんの実感も忘れていたのかもしれない。
 学生の感想には「日本では、海に対してあまり目が向けられていないのだなあと、このシリーズ授業では毎回実感させられるのですが、それは現在の日本で(!)、今日の講義で、昔の日本で海が非常に重要視されていたことをはじめて知り、驚きました」というのもあった。
 ようするに、網野さんが漁業を強調することが必要だと判断した社会の文化イデオロギー状況は、かわっていないということである。
 もう30年以上前、漁業の論文をはじめて書いた頃、網野さんが「日本には漁業史の研究者が五人もいない。保立くんが論文を書いたから5人になったかもしれない」といって指を折っていたことを思い出す。
 それにしても、学生が面白がったのは、以前、『日本の社会史』に書いた山野河海論との関係で、最近、考えている「龍、蛇、イモリ、やもり(守宮)、サンショウウオなどのは虫類・両生類と大気・水循環、そして水田耕作の国土観」という、いわゆる社会史的な、文化史的な話であったのは否定できないところ、通史とうまく統合した話にはならなかったのが残念であった。
 あらためて、徹底的に通史を展開することが必要なのかもしれないと考える。前日、網野さんや大林太良、黛弘道氏などの仕事を読み返していても、そう思った。
 
 もう一つ感想。授業の後処理で講義の骨子をP0WERーPOINT5枚ほどにまとめて送った。
 WEBオープンもありうるので、新しい論点と実証の部分は省略。自分はかまわないが、しかし、他の研究者の眼に万が一ふれたら、向こうは困るだろう。こちらがプライオリティを主張する気はまったくなくても。
 私は、研究のプライオリティを気にして研究するというのは職業研究者としては邪道であると考える方で、本質的には、どんどんオープンしてしまえばよいという考え方である。
 しかし、そうはいっても、現状で、年長の研究者が、授業で話したことをどんどんWEBに載せていったり、さらにはブログで書き散らしたとしたら、若い研究者にとって、そんなに迷惑なことはないと思う。そこで、このブログでも、新しい実証的論点をそのまま書くのは、その意味でひかえている。そういうことで、教育の場で使用した教材のうち、新しい実証論点はいちおう削って提出することにした。
 こういう種類の問題は、学術情報のオープンとととに、いろいろ問題になるような気がするので、近く、自分なりの意見と、このブログでの学術情報の扱いについての原則のようなことをまとめる積もり。

2010年12月17日 (金)

「平治の乱」は「二条天皇二代后紛争」と呼ぼう

 「平治の乱」は二条天皇二代后紛争と呼ぶべきだと思う。「平治の乱」という言葉を歴史教育の場所で使うのは、時代錯誤だし、何よりも余計な記憶を強制することになる。
 「保元の乱」という歴史用語は、「崇徳クーデター」でよいだろうから、「保元の乱・平治の乱」は、『崇徳クーデターから二代后紛争へ』という表現でよいことになる(なお、以下は、『義経の登場』で以前書いたことを若干敷衍したものです。念のため)
 さて、「平治の乱」は、一一五九年(平治一)の年末、一二月九日、三条烏丸の院御所にいた信西が襲撃された事件に始まった。普通、この平治の乱の第一局面は、たとえばもっとも古典的な事項年表である『史料綜覧』(東京大学史料編纂所編)によれば「権中納言藤原信頼、左馬頭源義朝反し、夜、上皇御所三條殿を襲い、火を放ちて宮を焼く」と理解されている。つまり、この事件は、信頼・義朝の後白河院への反逆であるという訳である。
 しかし、最近、この事件の経過を詳しく分析した河内祥輔は、信頼・義朝の攻撃目標はもっぱら信西個人であったのであったことを明らかにした。そして、火事は信頼や義朝による放火ではなくむしろ失火であったという。むしろそれによって信西の逮捕と殺害は失敗に終わったというのである(河内『保元の乱・平治の乱』、吉川弘文館、二〇〇二)。そして、河内は、この信西襲撃は後白河自身の教唆によるものであったという。ようするに、この事件は、帝王が側近の一人を殺害しようとしたという意味では、きわめて矮小な事件であったというのである。私は、いつものように、この河内の意見に賛成であるが、しかし、原因論となると若干の意見がある。
 一般的にいえば、平治の乱は、譲位後の後白河が院としてどのような権限をもちうるかをめぐって発生したものであるといってよい。これは誰も異論がないだろう。
 普通、平安時代の政治史では、このような紛議は院による王位継承者の決定権限をめぐって発生する。この場合にそくしていえば、二条の皇太子をどうするかをめぐって展開するのが通例であろう。しかし、私は、史料によるかぎりでは、平治の乱の震源地は皇太子擁立より前のレヴェルの問題、二条の子供がなかなか生まれないということであったと思う。つまり、二条のキサキの姝子には、東宮妃として入内した後、平治の乱の年まで勃発まで三年半以上、懐妊の兆候がなかった。そういう中で二条に、もう一人、しかるべき家柄のキサキを迎えることが問題となり、おそらく二条自身がそれを望んだのではないだろうか。
 これは王家の日常としては普通のことではあるが、ここで二条のオキサキ候補となったのが、実は、この時、太皇太后の地位にあった多子であったことが事態の展開をきびしいものとした。多子が故近衛天皇の中宮、つまり、先々代の天皇の妻であったことはいうまでもない。『平家物語』のいう「二代の后」の問題の発生である。前述のように、多子は、後白河中宮・忻子の妹で、その出自は忻子と同じ王母の家柄、閑院流藤原氏、徳大寺公能の娘。九条院呈子と近衛天皇の立后を争った「天下第一の美人」であったが(『源平盛衰記』巻二)、この時、まだ二〇歳であった。
 こういう王妃の再嫁は、それ自身をとれば異様なことのようにみえるが、しかし、それを王家の内部での肉親関係の濃密さの表現と考えれば、この時代の王家内部における養い親・養子関係、准母といわれた母代わり関係などと共通する要素をもっている。また制度的にいえば、この時、太皇太后=多子、皇太后=呈子、皇后=忻子、中宮=姝子で正式の后位の定員は一杯であり、もし新たに二条の妻を迎えるとすると、その女性は正式の后位をもつことはできない。王妃の制度と身分のみから考えると、この隘路をバイパスするのに、年齢の若い太皇太后=多子をもう一度実際の王妃にしてしまおうという発想が生まれたのかもしれない。

  そもそも、二条と姝子の婚姻も、甥と叔母の婚姻であり、王家の内部での血の再生産という動きを内容としていたのである。それ故に、二条にとっては、叔母の姝子と結婚するのも、従兄弟の近衛の旧妻と結婚するのも同じことであったのかもしれない。

 いずれにせよ、このようなキサキ撰びは、天皇自身、つまり二条が乗り気になり、王権中枢にそれを支える動きがなければ進行しなかったろう。ここに注目して、私はかって、「これ(「二代の后」構想)を推進したのは、保元の乱の以前のまだ平和であった頃、一二歳で元服した近衛と一一歳の妻・多子の婚儀を追憶した女院=得子であったのではあるまいか」(『平安王朝』)と述べたことがある。つまり、鳥羽は、美福門院や、側近の少納言入道信西(高階通憲)の意見をうけて、二条を「近衛の御門の代わり」の存在と位置づけたというが(『今鏡』巻三)、美福門院は、それを文字通りに受けとって、二条が「近衛の代わり」に多子を妻とするという縁組みを了解したのであろう。美福門院にとっては、養子として育て上げた天皇・二条、実娘の中宮・姝子、亡息の先帝近衛の妻・太皇太后多子の三者が、ともに過ごすことには違和感がなかったのではないだろうか。
 そして、こういう王権中枢の状態からいくと、もしそうだとすれば、二条と美福門院の意向をうけて、この縁組みを推進したのは信西であったということになる。もちろん、このように微妙な問題を物語る史料は存在しないが、状況証拠となるのは、この多子の再嫁の話は、おそらく、一一五九年(平治一)の秋には話題となっていたであろうことである。多子が実際に二条の妻として入内した日付は翌一一六〇年(平治一=永暦一)正月二六日であったが(『帝王編年記』)、その一ヶ月前に平治の乱が発生しているのである。多子の二条の婚儀が「平治の乱」の後にあわただしく計画されたということは考えられない。
 この二条と多子の縁組み話が、年末の「平治の乱」の前、秋から冬にかけてどのように進んだかは、もとより不明であるが、やや先回りすれば、二条と多子の婚儀の後に、姝子は二条との同殿を拒否して内裏を退出してしまう。そして、結局、一一六〇年(永暦一)八月に「御悩危急」のために出家するにいたるのであるが、それを伝える記事には「去春より御禁裏に入らず」とある。この「去春」の内裏よりの退去が、多子の入内(正月二六日)によるものであること、この姝子の心理が「二代の后」の擁立が動き出した時にさかのぼることは明かであろう。
 それを知った養母の上西門院統子が養女の姝子の感情を配慮して、後白河に対して多子の入内の不当を訴えたというのがもっともありそうなことであろう。そして、後白河は、明らかに姝子に対して同情的であった。内裏を退出した姝子は、出家を希望していたが、後白河はそれを制止したものの、八月の「御脳危急」の時には、後白河が夜間に訪問して出家を思いとどまらせようとしたものの、「御叫音、すこぶる玉簾の外に漏る」という状態で、心神の錯乱は隠しようもなく、二〇歳で出家を遂げたのである(『中山忠親日記』永暦一年八月一九日)。
 後白河は譲位の後、秋一〇月、姉の統子と姝子を引き連れて、宇治に遊びにでている。そして、その翌年春に、皇后・統子に上西門院という院号を宣下し(統子、三四歳)、そしてその八日後に姝子を二条の中宮に立后したのである。それから半年も経たずに、「二代后」の計画が明かとなり、姝子が欝憂におちいったとすれば、後白河が怒るのも当然であったといえるだろう。平治の乱の発生は、それから二・三ヶ月経った、その年の冬である。この時間順序からいって、後白河が体面を無視されたものと考え、姝子に同情して、強い怒りをいだき、それが「平治の乱」の伏線となったのではないだろうか。

 ようするに、私は、基本的に河内祥輔『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館2002)の「平治の乱」論に賛成なのであるが、河内氏の議論で疑問として残ったのは、それでは何故、この時、そんなに後白河が激怒したのかということだった。そこで保立『義経の登場』で大ざっぱには、上の様に想定したのである。それをこの事件のネーミングにまで拡大すれば「二条天皇二代后紛争」という結論がよいということになる。
 これは決して奇をてらったものではない。「二代后」というのは、『平家物語』の絶妙のネーミングで、そこからすると、『平家物語』の作者は、「平治の乱」の実態をある程度は認識していたのではないかと思う。「保元の乱」「平治の乱」などというのは一種の作られた「近代」的な固定的知識、名分論的な知識に過ぎないことは明瞭なである。それにいつまでも義理立てする必要はないだろう。
 
 この時期の政治史は「崇徳上皇クーデター事件」から「二条天皇二代后紛争」へという流れで理解できる。それが一般化すれば、元号による事件呼称に必然的にともなう曖昧主義を消去することも可能になるだろう。
 もちろん、この事件は貴族社会のみでなく各地域にまで甚大な影響を及ぼしたものであるが、事件の契機が王家内部の矮小な諸事件や諸事情にあったということは曖昧にしてはならない問題である。

 以下、関連して二つ。

 以前は、「事件史」で歴史を捉えることはできないという考え方があった。歴史を事件の連なりとして捉えるというのは、いかにも歴史の表層のみを追跡しているように感じるという訳である。そして、事件の経過を詳細になぞっているだけという「事件史」である。実際、ところどころに新しい指摘はあるものの、その「事件史」の全体のイメージは旧来の歴史像と大きな変化はないという傾向はいまでもなくなってはいない。
 しかし、事件の詳細に踏みこみ、当事者の意識の向こう側に、事件の発生する構造を透視できるような「事件史」、いわば社会史的な「事件史」というものは十分に成り立つと思う。実際、いわゆる社会史の成果の一つとして、政治史への社会的視野の導入があったと私は考えている(保立「日本中世社会史研究の方法と展望」『歴史評論』五〇〇号、一九九一年)。

 それにしても事件を元号で呼ぶ、歴史学のターミノロジーには問題が多い。「明治・大正・昭和・平成」という元号の利用と、西暦の併用で、「日本人」の頭脳エネルギーがどれだけ空費されてきたかを考えると、その上さらに、歴史知識にまで元号を無限定に使用するのは問題が多い。それは実際上、年号の使用強制に協調していることにならないかというのが歴史家としての反省である。
 こういうターミノロジーの問題に十分に意識的になるのは、歴史家の責務であろうと思う。一時期、歴史学でもT・クーンのパラダイム論というのが問題となったことがあるが、パラダイムは研究者内部の問題である。しかし、社会と文化の問題としては、学界が客観的に提出している用語法が特定のバイアスや体系性をもっていることに意識的になること。これは、歴史学という職業の自己反省としてどうしても必要なことだと思う。いわゆる歴史知識学は対社会・対文化の問題としては、最終的にはターミノロジーの見直しに向かう責任をもっているのだと思う。

2010年12月14日 (火)

石田衣良の小説と思い出

101214_132422  石田衣良の小説『非正規レジスタンス』を読んだ。
  率直にいってやや安易といわざるをえないプロット。文章も荒れている。消耗品としての小説である。それにふさわしい小説作法で書いているのもミエミエである。しかも、主人公がライターで、その関係でライターなるものについての風俗的省察のようなものが書かれているのもあまり愉快な感じはあたえない。
 けれどもだからこそ、疲れた時などには読ませる力をもっている。自己の内面の荒さにちょうどよい荒さをもった文章、あるいは小説。疲労を疲労として受けとめるための肌合いをあたえてくれるという訳だ。プロットが安っぽいのも、それに適合していて気を楽にしてくれる。これをもっと意識的にやれればたいしたものだ。そして一つ一つの短編の長さが丁度よい。全体を通したテーマは「透明な家族・透明な人間」。巻頭を引用する。

「この世界には見えない家族っているよな。壊れてしまったせいで、まるで汚物のようにディスプレイから隠されてしまう家族の話だ。そこにいるのに誰も気づかず、いくら悲鳴をあげても誰もきいてくれない。苦しみや貧しさはすべて家族の内側に押しつけられて、外に漏れだすこともない。そして、いつのまにか汚れた春の雪のように世の中から消えていくのだ(この部分、原文は、「いつのまにか春の雪のようにきれいさっぱりと世の中から消えていくのだ」。趣味の問題だが、「春の雪のようにきれい」という文節が入るのは違和感。ともかく書き飛ばしているとしか思えない)。ばらばらに空中分解するか、立ち腐れたまま溶けていく無数の家族」。

 こういう家族の運命というのは、現代社会では、誰の家族の運命にもなりうる。家族の内部を腐らせることによって社会を正規化するというのは資本主義社会に特有のシステムである。労働力の平準化と諦めの心理を人々の内面から作り出していくということが、家族の再生産機能の中に密接に組み込まれている。社会の表皮は、そのような家族を透明にしてみえなくさせるようにその清潔機能をフル回転させている。情報化社会なるもののもっとも大きな問題は、デジタル情報が、家族内部に直接に社会が現象するための手段をあたえたということだろう。人と文化を通じて社会が入ってくるのではなく、直接に社会が現象する。その力たるやすさまじい。
 しかし、そのすさまじさは現実社会のすさまじさの反映であることはいうまでもなく、石田の小説は、そのすさまじさを切り取ることに成功している。
 表題作の「非正規レジスタンス」は、ベターデイズという派遣請負の「大企業」に対して、モエという女性が代表をつとめるフリーターズ・ユニオンが、労働法違反を摘発するという筋。それに主人公の果物屋の息子兼ライターというトラブル処理相談を趣味にする男がいやいやながら協力しているうちに引き込まれるという話。なにしろこのモエという女性が、実は、ベターデイズ社長令嬢であったという安易プロットである。その上、男親をやっつけて、死んだ母親が、この企業に懸けた善意を思い起こさ、社長を会長に引退させ、自分が取締役となるという勧善懲悪話である。こういう水戸黄門的な筋書きでも、ともかく「正義感」がベースに座っているのがよいということではある。
 なお、「よりよい日」ではなく「善き意思」という派遣業社があったことは、いまは忘れられているだろうか。この名前は私には忘れられない事情があるが、それはおいておくとして、次のところを読んだら鮮烈なイメージがやってきた。

 冬の朝6時は、夜明けまえだった。真っ暗ではないけれど、朝焼けも始まっていない青い時間である。池袋のマルイから芸術劇場にかけて、たくさんのガキが白い息を吐いてたむろしていた。劇場通りにはミニバンとマイクロバスがびっしりとならんでいる。おれの住んでる街でこんな景色を見たのは生まれて初めてだった。池袋駅の西口は日雇い派遣の有名な集合地点だったのだ。

 これを読んで思い出したのは、大学院時代のアルバイトの風景。私の場合は、日暮里駅の南口だったと思う。早朝、そこにいって、ミニバンに詰め込まれ、いくつかの働き場所にいった。いまでもよく憶えているのは、高島平にあった倉庫。いま、時々、職場から神保町に出る時などに使う三田線に乗ると、終点の高島平という表示を見て、いつも思い出す。
 この倉庫はアイスクリームの物流の一中心であったらしい。巨大な倉庫の中には、耐寒服をきて、グローブをして入り、アイスクリーム・氷菓の入った段ボールの積み替え作業である。冬でも、外にでてくるとほっとした。帰りはどう帰ったのかは憶えていない。郊外の荒れた町並みしか憶えていない。
自分がまったくの肉体労働力であり、そのようなものとして扱われている。そのような「労働」によってしか生活ができないということ、そういう境遇であるということを当然のごとく自覚したということだろうか。
 悲しかったのは、アイスクリーム段ボール箱の積み方で、紛議があったこと。おそらく私よりは恒常的に長く、その倉庫で積み替えをやっていた私よりも年長の男の人は、たしか互い違いに段ボール箱を積んでいた。身体も強そうでしゃっきりした感じの人だったから、彼を中心になんとなく集団ができていた。ところが、ある時、もっと「上」の別の男がきて、そんな必要はないといって、ただただ平に積んでいった。どちらにどのような必要があったのかは憶えていないし、はっきりはしないことなのだろうが、これは、段ボールの積み方という小さなことでも、自分のやり方でできないということを露骨にみせられた。


 石田衣良の小説でも、ミニバンに乗せられていった先は、やはり倉庫で段ボールの積み替えが仕事である。これはようするに、同じことだ。しかし、派遣労働は、私の大学院時代には非合法面が強く、日暮里駅でもいかにもこそこそという感じで、人買いの車に乗せられた。いまでは堂々とやっているという訳だ。石田の小説を読んで、「派遣」とはそういうことなのだ、あの労働が合法化し、全面化しているということなのだという実感のイメージ。
 そして、この種の労働にはいまではアドホックな集団もできないという訳だ。いま、東京近郊のどの街でも、早朝の駅は、寝場所を確保できなかった人々が、若い人、中年の人、「透明人間」が、あの通路、この通路を歩いている風景がある。こういう風景をみるためだけでも、六時前に駅にいったら、周辺を歩いてみるとよいと思う。何という社会だという単純な怒り。石田の小説は、この怒りを呼ぶ力はもっている。

2010年12月11日 (土)

奈良時代政治史と不比等皇親論ー不比等は天智の子供

 WebPageに「奈良時代の王権と社会構成」という2007,9,20に復旦大学で行われたシンポジウムでの私の報告をアップした。論文集『東亜王権と政治思想』International Academic Forum,Sovereignty and Political Thought in East Asian Historyに載ったものだが、簡単には入手できないので、ここに載せる。

 ずっとやっている「万世一系論」の仕事の延長である。不比等が天智と車持よし子の間にできた男子であるという伝承は帝王編年記、『大鏡』などにあり、平安時代にはまったくの事実として信じられていた。この時期の王妃の名前に「よしこ」が多いのは、この伝統をうけたものと考えている。院政期に入ると、白河の母が「しげこ」であった関係から「しげこ」が多くなる。「よしこさん」から「しげこさん」というのが王妃の名前の流行の変化ということになる。

 文学の方の仕事では、多田一臣氏の仕事があって、私は、それに賛成の立場から、『歴史学をみつめなおす』におさめた歴史学研究会の総合部会報告をした。これはもう10年前か。

 これまで何度か書いてきたが、ただ、これが一番詳しく、 入手不能なために注記にも載せなかったが、『かぐや姫と王権神話』の前提となった論文。『かぐや姫』では、それを車持王子=不比等説として書いた。

 奈良時代政治史が、皇親政治から急激に「藤原氏の台頭」となることは、これによってはじめて合理的に理解できるというのが私見。天武・天智の王統の統一を図るために、天智の血を引く不比等の子孫を王妃に迎えるというオブセッションに支配された政治ということになる。

 なお、最後の部分に引用したBasil Hall Chamberlainの論文はきわめて興味深く、これに対応する「万世一系論」を早く完成したいと思っている。

 その部分だけ、WEB Pageから抜いて引用しておく。

最後になりますが、法制史の石井紫郎氏は、最近、日本でまた売れ出した新渡戸稲造の『武士道』を、すでに明治時代に明瞭に批判していたBasil Hall Chamberlainの”Things Japanese”(一八九〇)を紹介しました("Globalisation Regionalisation and National Policy Systems" Proceedings of the Second Anglo-Japanese Academy, 7-11 January 2006)。実は、この批判の部分は日本で出版された際に、検閲によって削除された”Abdication (of Emperors)"、”Bushido”、"History and Mythology"、"Mikado"の部分に含まれているのですが、私が注目したのは次の一節です。それを引用して報告を終えたいと思います。
 Love of country seemed likely to yield to humble bowing down before foreign models. Officialdom not unnaturally took fright at this abdication of national individualism. Evidently something must be done to turn the tide. Accordingly, patriotic sentiment was appealed to through the throne, whose hoary antiquity had ever been a source of pride to Japanese literati, who loved to dwell on the contrast between Japan's unique line of absolute monarchs and the short-lived dynasties of China. Shintoh, a primitive nature cult, which had fallen into discredit was taken out of its cupboard and dusted. The common people, it is true, continued to place their affection on Buddhism. The popular festivals were Buddhist, Buddhist also the temples where they buried their dead. The governing class determined to change all this. They insisted on the Shintoh doctrine that the Mikado descends in direct succession from the native Goddess o the Sun, and that he himself is a living God on earth who justly claims the absolute fealty of his subjects.

 なお、本論の構成は次の通り。不比等皇親論はⅡ3にある。

Ⅰ東アジアの中世と日本国家
(1)東アジアの「中世」
(2)社会構成ーー首長制社会
(3)双系制社会論と首長・王権
Ⅱ奈良王権の血統
(1)持統の位置と王家の近親婚
(2)文武天皇と藤原不比等
(3)「不比等=皇親説」
(4)双系制と奈良時代政治史
Ⅲ万世一系と東アジア

2010年12月 6日 (月)

歴史叙述の難しさ

 身体の調子がもとに戻った訳ではないが、ともかく仕事を再開して、徐々に長大になっていく義経論の作業をしていると、このような文章を、いったい、いわゆる読書人が読んでくれるものであろうかという疑念が強くなる。
 歴史学の言葉というものはどういうものなのか。歴史叙述というのは、どういう作業なのか。この問題について定見をもつことが難しくなっているのではないかと思う。
 こういう気持ちになって思い出すのは、かって、戸田芳実氏が、歴史学者の叙述が「アカデミックな研究の累積とこみ入った論争の膠着のために、いささか難解で無味乾燥な内容になってきたという印象が強い」と述べたことである(「初期中世の見方」1978年、『日本中世の民衆と領主』校倉書房所収)。戸田さんは、こういう自覚から、晩年、異なった視野を求めた実験に転身したのだが、同じようなこと考えるのは「歳」というものだろうか。しかし、私の場合にはまだ「業」の中途で転身する訳にはいかず、また悟ってはいられないという気もする。

 私たちの世代だと、歴史叙述というと思い出すのは、やはり石母田さんの『平家物語』であるとか、『中世的世界の形成』などになる。どちらも大学生の時代に読んだものだが、そこには自由な言葉があったというのが第一の印象であり、第二の印象は、その叙述のもつテンポが同時に論理として印象に刻みつけられるということであった。そして、第三に、その全体が、広い意味で、やはり歴史における現在を照射する力をもっているということが感じられたというのが、私などの経験である。
 そのような歴史叙述は、本当に難しくなっていると思う。個別の研究が進み、細部を描き出すことも可能になってはいるが、全体を明瞭にできるところまでは研究が進んでおらず、かつ歴史学のもつ論理と主張を提示しにくい状況がある。

 よくいわれるのは、いわゆる「リーダブルな」文章を書けということである。もちろん、それは必要なことである。とくに丁寧に書くという意味での分かりやすさは重要で、丁寧に書くためには丁寧な調査が必要で、それが大事なことであることはいうまでもない。しかし、こうして細かく丁寧な叙述ができあがったとしても、それは趣味の共通する人には趣旨がわかるとはいえ、叙述の自由さ、論理的な快さ、メリハリのきいた主張などをもつことはなかなか難しいのである。
 そして、リーダブルということでどうしても避けたいのは、日常的な常識あるいは決まり文句への依存である。それを意識的に使うことはありうるが、しかし、それがまずいことであるという認識さえないとすると、それは学問ではなくなる。
 また、リーダブルな文章というのが、研究者、あるいはその本の扱っている「歴史のテーマ」に興味のある人に読みやすいということだけでよいとは思えない。もちろん、程度問題であるとはいえ、研究者向けの論文の文章が読みにくくなるのは別にたいした問題ではないと思う。それは歴史叙述とは違い、所詮、実務報告書である。

 歴史叙述を実際に書くものにとって、一番困難なのは、いうまでもないことながら、叙述の臨場感を維持することである。人の仕事に依拠して叙述をしても、それは臨場感を生みださない。これは授業の際に臨場感なしに話せば、学生たちが眠ってしまうというのとほぼ同じことである。
 歴史叙述の場合に、やっかいなのは、臨場感というものは、新しい史料の発見、あるいは新しい史料の読み方の発見を必要条件とするということである。この場合、レトリクや論理だけが新しいということは本質的にありえないのである。そして、そうであるにもかかわらず、著作の筋立てと論理に適合し、さらに印象を喚起することができるような「史料」、あるいは「史料の読み方」というものは、都合よくは存在しない。
 もちろん、歴史叙述に取り組む前に、必要な史料や史料解釈が自分の個別の論文によって発見されていれば理想的である。しかし、実際には、問題が大きければ大きいほど、個別論文を書くというよりも全体的な枠組みで叙述をせざるをえないというところに追い込まれてから、新しい史料の読みが発見される方が、実は普通である。ようするに、そのような発見は、努力の積み重ねはあるとしても、本質的に偶然的な要素をもつのである。

 こうして、少なくとも私のような凡庸な歴史家は、歴史叙述に取り組む中で、「ああでもない」「こうでもない」と苦闘しているうちに、史料の利用法を見極め(悪くいえば諦め)、やや無理をして史料をはめ込んだ叙述をでっち上げる。そして、さらに論理と叙述の順序を整序し、どうにか全体を組み上げるということになる。こういう経過をたどってできあがった歴史叙述は、ゴツゴツとした、とてもリーダブルとはいえないようなものになるが、それをどうにか筋だけは通るところに仕上げるのに、相当のエネルギーを消耗することになる。そして最後の突破口を抜けることができたのかどうか、自分でも判断できないところで、たたずんでいるのを発見するということになる。そして、それをリーダブルなものにするのはさらなる体力が要求されることになる。
 以上、結論もないような独り言であるが、最後に、戸田さんが「アカデミックな研究の累積とこみ入った論争の膠着」といったこととの関係で、西郷信綱氏の「古代研究の罠」という文章を引用しておきたい(『古代の声』1985、朝日新聞社)。

ある誤った思いこみや固定観念が長いあいだ訂正されずにもっともらしく通用し、それに気づくものがなかなかいない、といったおめでたく、かつコッケイな現象は、どの学問の分野にも多かれ少なかれ見られるものだろうが、古代研究はそうした傾向のとりわけいちじるしい分野の一つといえそうである。文献史料が限られているため、その解読を通じて意味を見きわめるのに推測や創造に頼る度合いが相対的に高くならざるをえない、という自体とそれは関連する。つまり、一つの考えなり説なりが事実の抵抗に出逢い、その力で否応なくひっくり返される機会が、そこでは非常にとぼしいわけだ。そのことが古代研究の魅力や面白さとも微妙に包みあっているのだけれども、うっかりすると、私たちを即自性の天国の住人に落とし入れかねぬ罠があちこちに待ち伏せているのも確かである。

 西郷さんの場合、これを書き出しにして、自己破壊に踏み出しているのが立派なところである。

2010年12月 5日 (日)

頼朝は罪深い。義経は?

 私は長く石井進さんの仕事を真面目に読まなかった。さすがに大田文論、国衙論、守護論は研究者の常識として必要で、その論証が展開された『日本中世国家史の研究』は読んだが、この本の有名な前書き部分も感心しなかった。これが本当の意味で変わったのは、『歴史学を見つめ直す』を書いて、石井さんの「日本封建制『否定』論」に降参した時のことだから、いま、その出版年を確認してみると、2004年、まだ6・7年前のことである。
 その理由は、大学院の頃に買ったのだと思うが、中央公論の『日本の歴史・鎌倉幕府』の印象にあった。いま、『鎌倉幕府』の月報として差し挟まれている石井さんと堀米庸三氏の対談を読んでみると、なぜ、そこまで印象が悪かったのかが不思議に思えるが、おそらくその頼朝論についていけなかったのだと思う。たとえば、富士川合戦の後、鎌倉に拠点を定めた頼朝について、「(その時)ただちに西上・入京を志したときとはまるで人物が一変したかのように、かれは関東武士団の期待にこたえる鎌倉殿として、もっぱら地味な日常の政治活動に沈潜した。(中略)治承六年八月、はじめて政子が男子を出産した。(鶴岡八幡宮の前に続く)段葛は政子の安産祈祷のために頼朝自身が監督し、有力な御家人たちもみずから土や石をはこんで作り上げたものであるという。いわばこの期間は、頼朝にとっての新家庭建設、新政権の首都鎌倉の建設、そして鎌倉幕府の地固めの時であり、政治家としての手腕をみがく時期であったといえよう」という記述である。
 大学院生のころに「何だ、これは。無思想の極みだ」と思ったに違いない。それは、自分の考え方としてよく分かる。いまでも、こんなことをいう必要はない。ここまで頼朝をほめなくてもよいだろうと思う。いましている仕事との関係では、とくに「新家庭建設」という部分がどうかと思う。それまでの頼朝の行動は、十分に罪深いものである。「新家庭の建設」という言葉によってそれを許してよいのか。そもそも妊娠した政子を脇において別の女性に通い、政子が激怒したことはよく知られていよう。ともかくも、この過程は、政治史的にはきわめて重要な問題を含んでおり、あまりに世俗的な「新家庭建設」という言葉はそれを隠蔽する。

 はるか昔のことだから正確に覚えている訳ではないが、この本には、この種の記述が多く、おそらくそれが、この本から私を遠ざける理由だったのだろうと思う。そういうことで、私は、3/4年前に、この『鎌倉幕府』を初めて通読した。そして、その時、「初めて読んだ。いい本なんだ」といって、人に驚かれたことがある。

 石井さんの本が読みやすいのは、一つには、こういう世俗表現を石井さんが気にせずに使うということがある。いま考えれば、石井さんは、複雑なところがある方であったから、なかば意識して、こういう言葉を使われたのかも知れないと思う。これもいまの仕事との関係で読んでいる『中世武士団』にはそういう雰囲気がある。
 それにしても、それに反発して石井さんの仕事を本当の意味で真面目に読まなかったこと、いわゆる「鎌倉幕府成立史論」の正統と面と向かうのを避けてきたこと、小さなことを嫌ったことが、自分に何をもたらしたのか、そのために着実な仕事の蓄積に向かわなかったのではないかなど、自分の狭量さを思う。しかし、これはやむをえなかったことと考えるほかない。それでは「本当のところはどう書けばよいのか」を自分なりに確認していくほかない。

 「封建制論」というパラダイムが「鎌倉幕府中心史観」に支えられていること、そしてそれが実際には「頼朝中心史観」ともいうべきものに支えられていることを論じたいというのが、いましている仕事の中心論点である。いまになって「封建制論」批判の流行に載るのは誰でもできるが、実際には「鎌倉幕府中心史観」になっているのではないか、そうでない場合も「頼朝中心史観」になっているのではないか、そのイメージへの囚われは無自覚なままであるのではないか、ともかく、こういう曖昧な議論を破砕しておかないと本来の歴史学が扱うべき対象がみえてこない、というのが『義経の登場』を書いて以来の考え方である。
 そしてそれを破るためには、いわば頼朝の「罪業」を詳細に追究することが必要であるが、それを追っていくと、その罪業の構造ともいうべきものが明らかになる。そして、その原点はどこにあるかといえば、私はやはり『曾我物語』に描かれた曾我十郎・五郎の父の狙撃・殺害にはじまる諸事件、そして頼朝の恣意と裏切りにすべての謎が含まれていると考えるようになった。
 この意味で、『曾我物語』(巻三)の頼朝批判は、頼朝論のすべての原点である。そこで『曾我物語』が、頼朝の覇権の下で殺された人々を数え上げ、その死罪が「区」(まちまち)、恣意的であることをなじり、頼朝自身も自分の罪業を自覚していたとするのは、簡単に読み過ごすべきことではない。

 さて、ここらのところは、「罪の構造」というレベルまで、どうにか分かり始めたのだが、問題は、頼朝と対置される義経という人間をどう考えるかがなかなか具体化されないことである。義経が以仁王路線を代表し、王権とも近い立場をとる軍事貴族であることは『義経の登場』で論じたし、いわばなかばヤクザ的な一揆型の軍事指導者であること、しかし一揆型の軍勢徴募と軍事戦略は、内乱情勢の中でのみ有効であることなどは分かりやすい問題である。しかし、その先が納得できる結論にならない。イメージがわかない。
 しかし、これはよく考えてみると、現代の普通の人間には、軍事貴族であって、軍事的な行動に突き動かされる人間、前近代的な貴族=エリート=ヤクザ
というものそのものが理解しがたいという単純なことなのかもしれない。彼を理解しがたい感じること自体が現代的な感じ方なのかもしれない。こういう種類の俗物人間類型は、南北朝期から戦国期にかけて大量に生まれるということはいうまでもないのだし。そして、「罪」は分かりやすいが、「天才」(軍事的天才)は分かりにくいというのは、歴史家としては問題があるのかもしれないと、いまはじめて考えた。
 鎌倉期国家は、国家の本格的な軍事化の時代である。軍事戦略、軍事指揮、軍事組織などの全面に渉って本格的な軍事化のイデオロギーと人間類型が形成される時代である。それは私的暴力を根幹とする分権的な封建制というレヴェルを越えた複雑な様相をもつのかもしれない。黒田俊雄説のように武士は殺人の芸能者であるというのは、その通りであるとはしても、話をそのレヴェルで止めては機構としての軍事組織というものはわからない。
 そして、そういう視野の下で、義経のような人間を位置づければ、たしかにそういう類型はありうるという了解に到達できるのかもしれないと思うのである。たとえば、現代の資本主義社会には、何よりも競争、企業間競争ほど楽しいものはないという人間がたしかに存在する。それと同じように、この時代、軍事的勝利に血道を上げる人間というものがたしかに存在したというのは、考えてみれば平凡な結論であるが、さて、それを誰でもが納得できるように、分かりやすく、最終的に描き出すのは相当に大変である。
 そういう武士の描き方という点では出色の成果となっている石井さんの『中世武士団』をもう一度読み直し、この本の『曾我物語』の点検を通じて石井さんの仕事の全体にも向き合ってみようと思う。

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