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2010年12月27日 (月)

都市王権と貴族範疇ーー平安時代の国家と領主諸権力

 『日本史の研究』(奈良女子大学日本史研究室編、創刊号)、に執筆した「都市王権と貴族範疇ー平安時代の国家と領主諸権力」という論文をWEBPAGEにあげた。
 このブログでは直接の実証を書くことはひかえることにしているが、既発表の論文にふれて方法的な議論を敷衍することは、研究活動の表層部分、表層波の部分、別の言い方をすれば「理論」部分、理屈と頭の整理の部分をオープンするという意味で十分にありうることと考えている。こういう理屈部分は、所詮、理屈であって、歴史の研究それ自身ではない。歴史学の本来の作業、実証作業、および本来の社会科学的理論とは区別された中間理論であって、所詮、個別科学の中の自己納得議論(悪い意味でのパラダイムの議論)であるから、自由にやってよいものと思う。
 そこで、この論文で「武臣国家」といったことについて、ずっと考えているので、いま書いている義経論との関係で、それを若干敷衍するメモを作っておきたい。
 一一八〇年代内乱は封建国家の形成、鎌倉幕府の形成という論理で捉えられるものではなく、この列島の上に構築された国家が本格的に軍事化する動きを表現していると考えるのは、かって「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」を書いた時からの考え方である。これはモンゴルの台頭に典型的に表現されるような12世紀のユーラシアレヴェルでの軍事化に対応するものでもあり、その意味で一一八〇年代内乱という用語は、日本の歴史家が日本史について考える時には魅力のある言葉だというのは私見。
 それ故に、この過程を封建国家形成過程ととらえること、あるいは「鎌倉幕府形成過程」ととらえること、そして実質上は頼朝の動きを中心に議論を組み立てること、「頼朝中心史観」は、実質上、惨酷な軍事過程の多様な諸コースの内の特定のものに特殊な価値を与えることであって、了解しがたいということになる。
 日本における軍事化の形態は、より全体的に捉えられねばならないということであるが、その形態の第一は、支配層の階層編成における宮廷貴族と軍事貴族の位置の実質的・身分的逆転によって表現される。これは白河院段階から始まっている動向という意味では、院政国家の必然的な展開ということになる。院政国家が王権内部の激しい矛盾と争いを起点として王城合戦を導きだし、その中で後白河院政が平家王朝(高倉・安徳王朝)に移行する中で、この逆転は、それ自身として実現したことになる。それが公卿制への平家の集団参入のみならず頼政の参入という形で実現したことが重要であり、また公卿の地位を辞任して、前公卿、前大臣という形で自己の権威を主張するスタイル(それ自身としては摂関期からある伝統的スタイル)が導入されたことも重要である。前公卿という地位が、国家権力の地域分散(東国「国家」)をみちびいたという意味では、これは決定的な意味がある。これらが頼朝権力において実現したことはいうまでもない。
 第二には、国家高権、国土高権の軍事化である。これについては、最近ゲラを出した「土地範疇と地頭領主権」で論じたし、「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」でも若干ふれてあるので、省略する。この中で、庄園領主制が特殊な集団所有制とその代表権の私的性格の二重性をふくめて再編成されることになる。
 第三に重要なのは、都市機構、都市連接機構と交通網の軍事化である。これは武士の護衛役という形で摂関期から存在していたものではあるが、このような送迎役の体制が在地的な基礎をもった上で、陸運のみでなく、特に海運ルートで稠密化したことが決定的であったと考える。暴力体系は一種の精神労働と肉体労働の対立の表現であるが、これが都市機構を媒介にして全面化したことの意味は大きい。地方都市と都市を結ぶ体系、都市・交通網の軍事化は守護権力と駅制の握るところであって、頼朝権力は、この体系を東海道に創出することに大きな精力をつかった(自分なりに「中世の遠江国と見付」で論じた)。これは国土高権の物質的な基礎であることもいうまでもない。
 第四に重要だったのが、広域的な領主間ネットワークの軍事化である。これは都市交通網の軍事化とパラレルな部分もあるが、しかし、これによって領主権力の内実が変化していくという意味では、独自の問題として区分されねばならないし、国家論の基礎を領主論に据え、階級的な支配の位置を確認するという意味では決定的な意味がある。河音能平が明らかにしたような私闘は平安時代に常に続くが、この領主間の広域ネットワークの軍事化は、その私闘・私戦の体系を「公戦」の体系に転化する。別の言い方をすれば頼朝権力は地域暴力団から広域暴力団に転化する。河音的にいえば、地域の「不善の輩」を「(荘郷)追捕使」化することがそのベースになっているはずである。掲載した論文では領主制の範疇はいわゆる私営田領主制から留住領主制に展開したという形で範疇化してあるが、留住領主制は広域領主制という内実をもっており、その中から広域ネットワークが軍事化していくという見通しである。
 掲載論文は、このような軍事国家化を「武臣国家」という用語で表現している積もりであるが、こういう組み立てにすれば「権門体制論」の最大の弱さ、国家の段階論の不在、地域論・領主論の不在をクリヤーできるのではないかと考えている。
 黒田権門体制論の最大の功績は、武士中心史観の排除であって、武士とは所詮暴力装置であって、武士という身分の自己運動によって歴史を捉えるのは誤りであるということだと思う。それは狭い意味での軍事史観、つまり歴史を武力の物理的な発展、武力をつかむ階層の移動のみで捉える見方に対する批判であって、それ自身としては正統なものである。しかし、だからといって国家の軍事化による国家の段階設定それ自身が誤りとは考えない。列島社会が本当の意味で軍事国家になる時代を一一八〇年代内乱の時代と捉えることの意味は大きいと思う。
 権門体制論における地域論・領主論の不在が決定的な問題であることはいうまでもない。権門体制論が構造論をめざしながら、構造論になっていないのはこのためである。広域権力論を立てることによって、「在地領主制」と国家の間の媒介をすることというのは、入間田さんが領主連合論、そしてそれをふまえた公田論を立てたとき以来の課題である。
 以上が、メモ。
 今考えている問題は、以上を前提とした上で、「東国の自立」という頼朝権力のスローガンをどう考えるかである。少なくとも、本来の意味での地域の自立度という点では、平安時代こそ「地方の時代」であるというのは、掲載した論文でも書いた通り。その意味では、東国は広域ネットワークの軍事化ということであって、それは実際上は、別の形での「中央直結」を生みだしたことは確実である。
 しかし、「東国の自立」、「京下の輩」の追放という論理がスローガン(あるは宣伝文句、デマ)としては東国の諸階層に通用したことの意味は、やはりあるのだと思う。ここに網野さんのいう意味での「東国」の伝統性、特殊性をみることは許されるのではないかと考えている。

 まずは、東国権力が軍事化の形態であったからこそ、軍事権力が特定の独立性をもつことが必然であったからこそ、それは単なる権力組織であることを越えて国家的性格をもち、地域における従属国家となるのであるが、そこにおける独立性は従属と背反しないということになる。そして、そこに東国の伝統的な独自性、異質性が色濃く影響しているという議論になる。この方向で、地域複合国家論をもう一度考えてみたい。


  以上。総武線の中の一時間と地下鉄の5分。
 先日、「日本の海の歴史と漁業」という授業の関係で、網野善彦さん、森浩一さん、岸俊男さんの仕事を読んだ。網野さん、森さんの対談本『馬・船』を読んでいると、御二人の博引旁証と視点の強さに驚くことが多い。
 私は、こういう呪文を唱えないと、論文の一つも書けないという性癖を抜けられない。これは自分の歴史学への接近の仕方からいってやむをえないとは考えている。ただ、最近は、呪文を唱え、書きつける時間だけは短くて済むようになっているのが救いか。しかし、呪文というのは本来そういうものともいえるかもしれない。

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