頼朝は罪深い。義経は?
私は長く石井進さんの仕事を真面目に読まなかった。さすがに大田文論、国衙論、守護論は研究者の常識として必要で、その論証が展開された『日本中世国家史の研究』は読んだが、この本の有名な前書き部分も感心しなかった。これが本当の意味で変わったのは、『歴史学を見つめ直す』を書いて、石井さんの「日本封建制『否定』論」に降参した時のことだから、いま、その出版年を確認してみると、2004年、まだ6・7年前のことである。
その理由は、大学院の頃に買ったのだと思うが、中央公論の『日本の歴史・鎌倉幕府』の印象にあった。いま、『鎌倉幕府』の月報として差し挟まれている石井さんと堀米庸三氏の対談を読んでみると、なぜ、そこまで印象が悪かったのかが不思議に思えるが、おそらくその頼朝論についていけなかったのだと思う。たとえば、富士川合戦の後、鎌倉に拠点を定めた頼朝について、「(その時)ただちに西上・入京を志したときとはまるで人物が一変したかのように、かれは関東武士団の期待にこたえる鎌倉殿として、もっぱら地味な日常の政治活動に沈潜した。(中略)治承六年八月、はじめて政子が男子を出産した。(鶴岡八幡宮の前に続く)段葛は政子の安産祈祷のために頼朝自身が監督し、有力な御家人たちもみずから土や石をはこんで作り上げたものであるという。いわばこの期間は、頼朝にとっての新家庭建設、新政権の首都鎌倉の建設、そして鎌倉幕府の地固めの時であり、政治家としての手腕をみがく時期であったといえよう」という記述である。
大学院生のころに「何だ、これは。無思想の極みだ」と思ったに違いない。それは、自分の考え方としてよく分かる。いまでも、こんなことをいう必要はない。ここまで頼朝をほめなくてもよいだろうと思う。いましている仕事との関係では、とくに「新家庭建設」という部分がどうかと思う。それまでの頼朝の行動は、十分に罪深いものである。「新家庭の建設」という言葉によってそれを許してよいのか。そもそも妊娠した政子を脇において別の女性に通い、政子が激怒したことはよく知られていよう。ともかくも、この過程は、政治史的にはきわめて重要な問題を含んでおり、あまりに世俗的な「新家庭建設」という言葉はそれを隠蔽する。
はるか昔のことだから正確に覚えている訳ではないが、この本には、この種の記述が多く、おそらくそれが、この本から私を遠ざける理由だったのだろうと思う。そういうことで、私は、3/4年前に、この『鎌倉幕府』を初めて通読した。そして、その時、「初めて読んだ。いい本なんだ」といって、人に驚かれたことがある。
石井さんの本が読みやすいのは、一つには、こういう世俗表現を石井さんが気にせずに使うということがある。いま考えれば、石井さんは、複雑なところがある方であったから、なかば意識して、こういう言葉を使われたのかも知れないと思う。これもいまの仕事との関係で読んでいる『中世武士団』にはそういう雰囲気がある。
それにしても、それに反発して石井さんの仕事を本当の意味で真面目に読まなかったこと、いわゆる「鎌倉幕府成立史論」の正統と面と向かうのを避けてきたこと、小さなことを嫌ったことが、自分に何をもたらしたのか、そのために着実な仕事の蓄積に向かわなかったのではないかなど、自分の狭量さを思う。しかし、これはやむをえなかったことと考えるほかない。それでは「本当のところはどう書けばよいのか」を自分なりに確認していくほかない。
「封建制論」というパラダイムが「鎌倉幕府中心史観」に支えられていること、そしてそれが実際には「頼朝中心史観」ともいうべきものに支えられていることを論じたいというのが、いましている仕事の中心論点である。いまになって「封建制論」批判の流行に載るのは誰でもできるが、実際には「鎌倉幕府中心史観」になっているのではないか、そうでない場合も「頼朝中心史観」になっているのではないか、そのイメージへの囚われは無自覚なままであるのではないか、ともかく、こういう曖昧な議論を破砕しておかないと本来の歴史学が扱うべき対象がみえてこない、というのが『義経の登場』を書いて以来の考え方である。
そしてそれを破るためには、いわば頼朝の「罪業」を詳細に追究することが必要であるが、それを追っていくと、その罪業の構造ともいうべきものが明らかになる。そして、その原点はどこにあるかといえば、私はやはり『曾我物語』に描かれた曾我十郎・五郎の父の狙撃・殺害にはじまる諸事件、そして頼朝の恣意と裏切りにすべての謎が含まれていると考えるようになった。
この意味で、『曾我物語』(巻三)の頼朝批判は、頼朝論のすべての原点である。そこで『曾我物語』が、頼朝の覇権の下で殺された人々を数え上げ、その死罪が「区」(まちまち)、恣意的であることをなじり、頼朝自身も自分の罪業を自覚していたとするのは、簡単に読み過ごすべきことではない。
さて、ここらのところは、「罪の構造」というレベルまで、どうにか分かり始めたのだが、問題は、頼朝と対置される義経という人間をどう考えるかがなかなか具体化されないことである。義経が以仁王路線を代表し、王権とも近い立場をとる軍事貴族であることは『義経の登場』で論じたし、いわばなかばヤクザ的な一揆型の軍事指導者であること、しかし一揆型の軍勢徴募と軍事戦略は、内乱情勢の中でのみ有効であることなどは分かりやすい問題である。しかし、その先が納得できる結論にならない。イメージがわかない。
しかし、これはよく考えてみると、現代の普通の人間には、軍事貴族であって、軍事的な行動に突き動かされる人間、前近代的な貴族=エリート=ヤクザというものそのものが理解しがたいという単純なことなのかもしれない。彼を理解しがたい感じること自体が現代的な感じ方なのかもしれない。こういう種類の俗物人間類型は、南北朝期から戦国期にかけて大量に生まれるということはいうまでもないのだし。そして、「罪」は分かりやすいが、「天才」(軍事的天才)は分かりにくいというのは、歴史家としては問題があるのかもしれないと、いまはじめて考えた。
鎌倉期国家は、国家の本格的な軍事化の時代である。軍事戦略、軍事指揮、軍事組織などの全面に渉って本格的な軍事化のイデオロギーと人間類型が形成される時代である。それは私的暴力を根幹とする分権的な封建制というレヴェルを越えた複雑な様相をもつのかもしれない。黒田俊雄説のように武士は殺人の芸能者であるというのは、その通りであるとはしても、話をそのレヴェルで止めては機構としての軍事組織というものはわからない。
そして、そういう視野の下で、義経のような人間を位置づければ、たしかにそういう類型はありうるという了解に到達できるのかもしれないと思うのである。たとえば、現代の資本主義社会には、何よりも競争、企業間競争ほど楽しいものはないという人間がたしかに存在する。それと同じように、この時代、軍事的勝利に血道を上げる人間というものがたしかに存在したというのは、考えてみれば平凡な結論であるが、さて、それを誰でもが納得できるように、分かりやすく、最終的に描き出すのは相当に大変である。
そういう武士の描き方という点では出色の成果となっている石井さんの『中世武士団』をもう一度読み直し、この本の『曾我物語』の点検を通じて石井さんの仕事の全体にも向き合ってみようと思う。
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