歴史は趣味か。石母田さんの言葉
もう20年以上前のことであろうか、歴史が趣味という人が後輩にいてたいへんに驚いたことを覚えている。今でいうところの、「歴史が趣味なんてお爺さんみたい」という訳ではなくて、私たちの世代だと歴史学というものは社会の変革のためのものであるという意識が非常に強かった。個々人のさまざまな相違はあるものの、少なくとも、そういうものだということになっていて、その種の趣味のための趣味としての歴史というものは理解できないという感情が普通だったと思う。
というように書いたところ、趣味から発展する学問はいろいろあるから歴史だけいけないといったら、それはおかしいよという常識的な見解を、身近な人からいわれた。
それはたしかにそうで、私がもっとも尊敬する研究者の一人、平安時代・鎌倉時代政治史のトップ研究者は少年の時からの歴史趣味から出発した。彼は中学校時代につくったノートを今でも使っているらしいというのは有名な話である。これは本当にいい話だと思う。
「棟梁は嫌いだ」という彼の宣言書は、「棟梁の弟も似たようなものだ」という、今、私のやっている仕事にとって最大の励ましである。
ただ、私の場合は歴史学というものは社会科学の一部であるという意識が強く、いまでも、それはそのままである。前近代社会を対象とした社会科学であって、そうである以上、歴史経済学がそのベースになければならないということになる。
と書いたところ、身近な人から、だから嫌われるのよといわれたが、嫌われているという意識はないと反論した上で、しかし、自分のやっていることを考えてみれば、歴史学というものは、やはり趣味というほかないものかもしれないとは思う。
先日、再校ゲラを返した「土地範疇と地頭領主権」という論文は、「地本と下地」という言葉の違いを論じたものである。その根っこにあるのは、歴史学研究会の古代史部会で荒木敏夫氏の報告があったときに、大会援助報告か、あるいは大会批判報告かは覚えていないが、「縄本」ということについて報告をした。その内容を富沢清人氏に聞いてもらったことも覚えている。今、『歴史学研究』の大会報告集をみてみたところ、荒木報告は1974年のことだから、もう35年以上前ということになる。「地本」というのは、この「縄本」という言葉を一般化したものではないかというのが、この論文の一つの出発点であった。
「下地」については、勝俣鎮夫さんに「下地の被官について」という論文があって、これは『中世史研究』を取り出してみると、1985年の論文である。「下地」という言葉の意外な意味を教えてくれた論文で、この論文を思い出すと、私は、ある女性の友人が「御醤油」のことを「おしたじ」といっていたことを思い出すということになっている。「下地」というのは「敷地」と同じ言葉なのではないかというのが、右の論文の結論なのであるが、それにも長い間のさまざまな記憶が染みついている。
こういう種類の記憶というのは、たいへんに個人的なもので、その意味では、偶然、無秩序、恥多しという個人の記憶と相似したものになり、いわばオタク的な趣味の世界に類似してくるということはいえるのだと思う。はるか以前から積み重なった、他人からみたら意味がないような個人の記憶の触感の世界である。
しかし、趣味と歴史学が違うのは、一種の不全感ではないかと思う。歴史学の場合は、ともかくも一度、記憶したものを対象として作業を展開する。労働対象が自己の記憶である。その記憶の偶然、無秩序、思いこみという散乱状態の中で、ともかくも偶然に自分に膠着してしまった知識というものを維持し、疑問を持ち続ける不全感というのが大事になる。自分の頭を10年、20年、未整理な倉庫として維持し、そこで迷子になっていることを許容するということだろうか。これはストレスではあるが、しかし、そういう存在を許してもらってありがたいことだと思う。
「土地範疇と地頭領主権」という論文は、もう一つ、大塚史学から網野さんまで、日本の前近代を対象とした経済史論で最大の問題であった「土地範疇論」についての理論メモ「歴史経済学の方法と自然」を前提として、ともかくも、土地範疇論を日本語の歴史史料の中で考えてみたものである。自分にとっては、ここまでは来たということである。しかし、この種の社会科学の理論を具体的な史料に即して考えるということは、やはりストレスが多い。書いてみれば書いてみるだけ、いよいよ不全感が増したというのが率直なところで、ストレスの自乗である。
歴史学がストレスの多い仕事であるというこういう事情は、我々の世代でよく引用された言葉では、次のようなこととなる。
「人間の創造する偶然にみちた歴史現象と法則との関係を総体的に、具体的にしめすのが歴史の研究と叙述の課題であるが、それにたえるだけの研究者の能力は、理論や法則についての知識があるというだけでは充分ではない。正しく目的地にむかって歩くためには磁石と地図のほかに肉体的・精神的な多くの能力を必要とする。歴史家たちがそのすべての人間的能力をあげてその研究対象ととり組むとき、過去の人間の歴史、幾百万の人々が地べたをはいつくばうようにして生きかつ刻みつけてきた歴史なるものを少しづつ解読することができるのである。かかる能力は、歴史家が、生きている時代の矛盾をそれぞれの形で体現することによってはじめて育てられるのであって、その点でも、(歴史学は)本質的に原題ときりはなしがたい存在なのである」
(石母田正「国民のための歴史学おぼえがき。『戦後歴史学の思想』)
この石母田さんの言葉を、何度、これまで読んできたことか。指導教官であった戸田芳実氏の研究室の机の上に、この本と『発見』が置いてあったことも、膠着した記憶である。
この石母田さんの言葉は立派すぎる。どのような肉体的・精神的能力があっても「正しく目的地にむかって歩く」ことは保障されない、そもそも「磁石と地図」「理論や法則」というものは本当に有効なのかというところから問い直したくなるということは、私にもある。けれども、歴史家としては、彼らが現実に担ったものの重さに越えがたいものがあることは否定できない。そういう意味では、私たちは、少なくとも、石母田さんたちの「学問」の残した課題、たとえば「国地頭論争」を乗り越えた先にしか、それを問題にする権利はないのだろうと思う。
なお、自分の頭の表層部分を記録する自由は、このブログに保障したいので、活字として未発表のものでも、ゲラまでいった論文などについては、その一部にふれることは御許しねがいたいと考えている。このブログはなんらかのプライオリティを、その内容に付与することはしないので。
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