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2010年12月17日 (金)

「平治の乱」は「二条天皇二代后紛争」と呼ぼう

 「平治の乱」は二条天皇二代后紛争と呼ぶべきだと思う。「平治の乱」という言葉を歴史教育の場所で使うのは、時代錯誤だし、何よりも余計な記憶を強制することになる。
 「保元の乱」という歴史用語は、「崇徳クーデター」でよいだろうから、「保元の乱・平治の乱」は、『崇徳クーデターから二代后紛争へ』という表現でよいことになる(なお、以下は、『義経の登場』で以前書いたことを若干敷衍したものです。念のため)
 さて、「平治の乱」は、一一五九年(平治一)の年末、一二月九日、三条烏丸の院御所にいた信西が襲撃された事件に始まった。普通、この平治の乱の第一局面は、たとえばもっとも古典的な事項年表である『史料綜覧』(東京大学史料編纂所編)によれば「権中納言藤原信頼、左馬頭源義朝反し、夜、上皇御所三條殿を襲い、火を放ちて宮を焼く」と理解されている。つまり、この事件は、信頼・義朝の後白河院への反逆であるという訳である。
 しかし、最近、この事件の経過を詳しく分析した河内祥輔は、信頼・義朝の攻撃目標はもっぱら信西個人であったのであったことを明らかにした。そして、火事は信頼や義朝による放火ではなくむしろ失火であったという。むしろそれによって信西の逮捕と殺害は失敗に終わったというのである(河内『保元の乱・平治の乱』、吉川弘文館、二〇〇二)。そして、河内は、この信西襲撃は後白河自身の教唆によるものであったという。ようするに、この事件は、帝王が側近の一人を殺害しようとしたという意味では、きわめて矮小な事件であったというのである。私は、いつものように、この河内の意見に賛成であるが、しかし、原因論となると若干の意見がある。
 一般的にいえば、平治の乱は、譲位後の後白河が院としてどのような権限をもちうるかをめぐって発生したものであるといってよい。これは誰も異論がないだろう。
 普通、平安時代の政治史では、このような紛議は院による王位継承者の決定権限をめぐって発生する。この場合にそくしていえば、二条の皇太子をどうするかをめぐって展開するのが通例であろう。しかし、私は、史料によるかぎりでは、平治の乱の震源地は皇太子擁立より前のレヴェルの問題、二条の子供がなかなか生まれないということであったと思う。つまり、二条のキサキの姝子には、東宮妃として入内した後、平治の乱の年まで勃発まで三年半以上、懐妊の兆候がなかった。そういう中で二条に、もう一人、しかるべき家柄のキサキを迎えることが問題となり、おそらく二条自身がそれを望んだのではないだろうか。
 これは王家の日常としては普通のことではあるが、ここで二条のオキサキ候補となったのが、実は、この時、太皇太后の地位にあった多子であったことが事態の展開をきびしいものとした。多子が故近衛天皇の中宮、つまり、先々代の天皇の妻であったことはいうまでもない。『平家物語』のいう「二代の后」の問題の発生である。前述のように、多子は、後白河中宮・忻子の妹で、その出自は忻子と同じ王母の家柄、閑院流藤原氏、徳大寺公能の娘。九条院呈子と近衛天皇の立后を争った「天下第一の美人」であったが(『源平盛衰記』巻二)、この時、まだ二〇歳であった。
 こういう王妃の再嫁は、それ自身をとれば異様なことのようにみえるが、しかし、それを王家の内部での肉親関係の濃密さの表現と考えれば、この時代の王家内部における養い親・養子関係、准母といわれた母代わり関係などと共通する要素をもっている。また制度的にいえば、この時、太皇太后=多子、皇太后=呈子、皇后=忻子、中宮=姝子で正式の后位の定員は一杯であり、もし新たに二条の妻を迎えるとすると、その女性は正式の后位をもつことはできない。王妃の制度と身分のみから考えると、この隘路をバイパスするのに、年齢の若い太皇太后=多子をもう一度実際の王妃にしてしまおうという発想が生まれたのかもしれない。

  そもそも、二条と姝子の婚姻も、甥と叔母の婚姻であり、王家の内部での血の再生産という動きを内容としていたのである。それ故に、二条にとっては、叔母の姝子と結婚するのも、従兄弟の近衛の旧妻と結婚するのも同じことであったのかもしれない。

 いずれにせよ、このようなキサキ撰びは、天皇自身、つまり二条が乗り気になり、王権中枢にそれを支える動きがなければ進行しなかったろう。ここに注目して、私はかって、「これ(「二代の后」構想)を推進したのは、保元の乱の以前のまだ平和であった頃、一二歳で元服した近衛と一一歳の妻・多子の婚儀を追憶した女院=得子であったのではあるまいか」(『平安王朝』)と述べたことがある。つまり、鳥羽は、美福門院や、側近の少納言入道信西(高階通憲)の意見をうけて、二条を「近衛の御門の代わり」の存在と位置づけたというが(『今鏡』巻三)、美福門院は、それを文字通りに受けとって、二条が「近衛の代わり」に多子を妻とするという縁組みを了解したのであろう。美福門院にとっては、養子として育て上げた天皇・二条、実娘の中宮・姝子、亡息の先帝近衛の妻・太皇太后多子の三者が、ともに過ごすことには違和感がなかったのではないだろうか。
 そして、こういう王権中枢の状態からいくと、もしそうだとすれば、二条と美福門院の意向をうけて、この縁組みを推進したのは信西であったということになる。もちろん、このように微妙な問題を物語る史料は存在しないが、状況証拠となるのは、この多子の再嫁の話は、おそらく、一一五九年(平治一)の秋には話題となっていたであろうことである。多子が実際に二条の妻として入内した日付は翌一一六〇年(平治一=永暦一)正月二六日であったが(『帝王編年記』)、その一ヶ月前に平治の乱が発生しているのである。多子の二条の婚儀が「平治の乱」の後にあわただしく計画されたということは考えられない。
 この二条と多子の縁組み話が、年末の「平治の乱」の前、秋から冬にかけてどのように進んだかは、もとより不明であるが、やや先回りすれば、二条と多子の婚儀の後に、姝子は二条との同殿を拒否して内裏を退出してしまう。そして、結局、一一六〇年(永暦一)八月に「御悩危急」のために出家するにいたるのであるが、それを伝える記事には「去春より御禁裏に入らず」とある。この「去春」の内裏よりの退去が、多子の入内(正月二六日)によるものであること、この姝子の心理が「二代の后」の擁立が動き出した時にさかのぼることは明かであろう。
 それを知った養母の上西門院統子が養女の姝子の感情を配慮して、後白河に対して多子の入内の不当を訴えたというのがもっともありそうなことであろう。そして、後白河は、明らかに姝子に対して同情的であった。内裏を退出した姝子は、出家を希望していたが、後白河はそれを制止したものの、八月の「御脳危急」の時には、後白河が夜間に訪問して出家を思いとどまらせようとしたものの、「御叫音、すこぶる玉簾の外に漏る」という状態で、心神の錯乱は隠しようもなく、二〇歳で出家を遂げたのである(『中山忠親日記』永暦一年八月一九日)。
 後白河は譲位の後、秋一〇月、姉の統子と姝子を引き連れて、宇治に遊びにでている。そして、その翌年春に、皇后・統子に上西門院という院号を宣下し(統子、三四歳)、そしてその八日後に姝子を二条の中宮に立后したのである。それから半年も経たずに、「二代后」の計画が明かとなり、姝子が欝憂におちいったとすれば、後白河が怒るのも当然であったといえるだろう。平治の乱の発生は、それから二・三ヶ月経った、その年の冬である。この時間順序からいって、後白河が体面を無視されたものと考え、姝子に同情して、強い怒りをいだき、それが「平治の乱」の伏線となったのではないだろうか。

 ようするに、私は、基本的に河内祥輔『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館2002)の「平治の乱」論に賛成なのであるが、河内氏の議論で疑問として残ったのは、それでは何故、この時、そんなに後白河が激怒したのかということだった。そこで保立『義経の登場』で大ざっぱには、上の様に想定したのである。それをこの事件のネーミングにまで拡大すれば「二条天皇二代后紛争」という結論がよいということになる。
 これは決して奇をてらったものではない。「二代后」というのは、『平家物語』の絶妙のネーミングで、そこからすると、『平家物語』の作者は、「平治の乱」の実態をある程度は認識していたのではないかと思う。「保元の乱」「平治の乱」などというのは一種の作られた「近代」的な固定的知識、名分論的な知識に過ぎないことは明瞭なである。それにいつまでも義理立てする必要はないだろう。
 
 この時期の政治史は「崇徳上皇クーデター事件」から「二条天皇二代后紛争」へという流れで理解できる。それが一般化すれば、元号による事件呼称に必然的にともなう曖昧主義を消去することも可能になるだろう。
 もちろん、この事件は貴族社会のみでなく各地域にまで甚大な影響を及ぼしたものであるが、事件の契機が王家内部の矮小な諸事件や諸事情にあったということは曖昧にしてはならない問題である。

 以下、関連して二つ。

 以前は、「事件史」で歴史を捉えることはできないという考え方があった。歴史を事件の連なりとして捉えるというのは、いかにも歴史の表層のみを追跡しているように感じるという訳である。そして、事件の経過を詳細になぞっているだけという「事件史」である。実際、ところどころに新しい指摘はあるものの、その「事件史」の全体のイメージは旧来の歴史像と大きな変化はないという傾向はいまでもなくなってはいない。
 しかし、事件の詳細に踏みこみ、当事者の意識の向こう側に、事件の発生する構造を透視できるような「事件史」、いわば社会史的な「事件史」というものは十分に成り立つと思う。実際、いわゆる社会史の成果の一つとして、政治史への社会的視野の導入があったと私は考えている(保立「日本中世社会史研究の方法と展望」『歴史評論』五〇〇号、一九九一年)。

 それにしても事件を元号で呼ぶ、歴史学のターミノロジーには問題が多い。「明治・大正・昭和・平成」という元号の利用と、西暦の併用で、「日本人」の頭脳エネルギーがどれだけ空費されてきたかを考えると、その上さらに、歴史知識にまで元号を無限定に使用するのは問題が多い。それは実際上、年号の使用強制に協調していることにならないかというのが歴史家としての反省である。
 こういうターミノロジーの問題に十分に意識的になるのは、歴史家の責務であろうと思う。一時期、歴史学でもT・クーンのパラダイム論というのが問題となったことがあるが、パラダイムは研究者内部の問題である。しかし、社会と文化の問題としては、学界が客観的に提出している用語法が特定のバイアスや体系性をもっていることに意識的になること。これは、歴史学という職業の自己反省としてどうしても必要なことだと思う。いわゆる歴史知識学は対社会・対文化の問題としては、最終的にはターミノロジーの見直しに向かう責任をもっているのだと思う。

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