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2011年1月

2011年1月30日 (日)

火山・地震(2)新燃岳の火山雷ー火山の美とかぐや姫

 霧島新燃岳の火山写真で「マグマ、流れ出る溶岩、火山雷」が同時に写っている写真をみた(ホームページ制作の工房「舞麗歩」所在地〒899-5117 鹿児島県霧島市隼人町見次1277-2)が作成したHP「きりなび」から転載)。

 Img_77251

Img_77311  見事な写真である。そのキャプションに「新燃岳の噴火の様子をきりなびスタッフが韓国岳とその周辺で撮影しました。勢い良く吹き上がるマグマ、流れ出る溶岩、火山雷が写っております」とある。黒雲の中の稲妻が火山雷である。
 
 こういう火山爆発の幻想的な美しさに火山の女神の原像があったのではないか。つまりかぐや姫の原像があったのではないかというのが、私見。

 876年(貞観九)の阿曽火山の爆発では、「去る五月十一日の夜に奇光照り輝やく」という記事がある(『三代実録』)。これは火山雷ではないだろうか。

 阿蘇の神は「健磐龍命」と「姫神」が山巓にいたとあるように、火山の神には女神が必ずいた。神津島火山の描写では、マグマの輝きが、「金色眩曜」などと表現されている。

 さらに興味深いのは、大規模な火山の噴火が起こり大気の上層に微細な火山灰が吹き上げられた場合にみられる光冠現象である。火山の光冠現象の写真は入手できなかったが、下記は公刊はウィキペディア「光冠」にのっている通常の月の光冠現象の写真(Description: Photo of full moon with diffraction ring due to thin clouds Information:Photographer: Tom Ruen、Location: New Brighton, Minnesota 、Date: September 21, 2002 (Full moon)、Time: ~10 pm CDT、Equipment: Digital camera、Exposures: 1/10s, F2.8、Source: English Wikipedia, original upload 2 May 2004 by en:User:Tomruen)。
Lunarcorona1

 
 ウィキペディアの火山光冠現象についての説明には、「雲を構成する水滴よりも直径の小さい火山灰が浮遊している場合、直径が10度以上にもなる巨大な光冠が見られることがある。 これは特に、1883年8月のインドネシアのクラカタウ山の噴火の際にこの現象を発見したビショップ師(Rev. Sereno Edward Bishop 1827年 - 1909年)にちなんでビショップの環(わ) (Bishop's ring) と呼ばれる。同様の現象は核実験の際にも観測されたことがある」とある。
 このような火山に随伴する光学現象が強い印象を残したことはいうまでもないだろう。ユカラの英雄譚、ポイヤウンぺ物語に「赤輪姫」という物語がある。北海道も火山活動が活発だから、このような光学現象がカムイの一つとして印象されたのではないかなどと考える。


 『かぐや姫と王権神話』執筆の時に、火山雷や火山光冠現象のよい写真を捜したが、なかった。火山光冠現象で利用できる写真はまだ適当なものがないが、火山雷の写真は美しい。その時に見た火山関係写真集では、雲が紫色のものがあり、これも綺麗であった。


 『かぐや姫と王権神話』の関係部分を引用しておく。

 そうだとすると、カグヤ姫という名前の意味するものが問題になるだろう。それがただ輝くような美しい姫君という決まり文句であるとは思えない。『字訓』によれば、この「かぐ」という言葉は、「かがよふ(耀・赫)」「かげ(影)」「かがり(篝)」などと語幹kag-を共有する言葉であって、火や光の揺れ動く様子をいい、雷神の眼の光から、揺れる珠の光りまで、微妙なニュアンスをふくんでいるという(『字訓』)。たとえば、次のようである。
 見渡せば近きものから石隠り耀ふ珠を取らずは已まじ(『万葉集』九五一)
 燈の陰に耀ふ虚蝉の妹が咲まひし面影にみゆ(『万葉集』二六四二)
 そして、『古事記』『日本書紀』には、崇神の嫁の迦具夜比売のほかにも、崇神の孫の景行の妻と娘に「訶具漏比売・香余理比売」が登場する。また景行から仁徳にいたるまで朝廷に奉仕したという伝承をもつ武内宿弥の母の影姫、武烈大王と平群臣鮪の間の争いの種となった美女・影姫、安閑大王の妻の香香有姫など、これらの名称には「揺らめく火」の美しさが籠められているのではないだろうか。さらに注意しておきたいのは、神統譜の世界に入れば、大年神の妻の一人に香用比売という女神が登場して、大香山戸臣神を生んでいることである。この香具山は、藤原京の東、飛鳥の東北部にわだかまる小丘であるが、「高天原」にも存在し、また天から落下してきたという伝説をもつ日本神話の宇宙論的中心である(『伊豫国風土記逸文』)。そして、『日本書紀』のイワレヒコ・神武神話によると、大和国の軍事的制圧に苦しんだとき、イワレヒコは天の香具山の土をとって八十平瓮・厳瓮を作り、大伴氏の遠祖・道臣命に厳媛という名前をあたえ女装をさせてタカミムスビを祭った。その水を厳罔象女といい、盛り上げた粮を厳稲魂女といい、薪を厳山雷といい、火を厳香来雷といったという。
 さきに大伴坂上郎女が祖神を齋う「忌み」の中で、竹珠の環飾りを身につけ、膝をおって、地に齋瓮を据える様子についてふれたが、女装した道臣命=厳媛も、竹珠の環飾り(あるいはそれと等価のもの)を身につけたに違いない。竹珠の環飾りをつけて竹の精となった物忌女が、厳瓮=齋瓮を前にした忌みの中で使う火を「厳香来雷」といったのであって、ここには「竹」とセットになった「火」のkag-の観念があるのである。こうして、天の香具山・厳香来雷のカグとカグヤ姫のカグが同値であったということになれば、カグヤ姫の名前の「かぐ」の背景には、何らかの意味で火に関係するカグヤ姫神話というべきものがあることは確実であろう。

 ともあれ、以上のような火山神の系譜を確認すると、カグヤ姫の神話的なイメージの中核には口絵裏にかかげたようないわゆる光環現象を始めとした火山のもつ様々な幻想的な美しさがあったのではないか。このような輝き・kag-こそ、タカミムスビを中心とした王家の火山神の観念の中でのカグヤ姫の位置はここにあった。カグヤ姫は、タカミムスビを「祖」とする「日神」「月神」よりも、非日常的で幻想的な美の女神として、タカミムスビのそばにいる神なのである。

 降灰の被害が起きているらしい。歴史資料にもデータは多く、火山爆発の美しさなどは考える余裕がない場合もあろうが、かぐや姫が火山の女神であるということになれば、『竹取物語』の読み方や、日本の自然に対する子供たちの見方を豊かにすることができるかもしれない。それはひいては火山に対する態度や備えに役立つかもしれない。そしてさらに、火山被害などの自然災害への(ヨーロッパなどと比べて)日本ではきわめて遅れている公的補償への社会的合意を作っていく上で、間接的ではあれ有効な役割をするかもしれない。

 ともかく、自然史・自然と歴史学ということを本格的に考え、史料を再検討するべき時期である。

2011年1月29日 (土)

火山・地震(1)霧島新燃岳ー前方後円墳は火山の幻想。

 人間文化研究機構の報告準備で霧島新燃岳の噴火のことを知らず、帰りの新幹線のニューステロップで知って驚く。報告のため朝六時半に家を出て、日帰り夜11時前に帰宅。疲れ切る。
 朝も、ばてていたが、入間田宣夫さんから電話。来月の『東北学』の座談会の件である。入間田さんの明るい声に励まされる。
 東北学の座談会にむけて霧島火山帯のイメージについて、ちょうど検討中のところであった。

Kirishima_from_north_j1_5   

 この霧島火山の画像はウィキペディアの「霧島山」から(English: Kirishima Mountains in Kyūshū, Japan. Taken from Kirino-ohashi Bridge on Route 221.日本語: 九州南部の霧島山。霧島山の北方、国道221号「霧の大橋」より撮影。日付 2009年5月(2009-05)。原典 投稿者自身による作品。作者 Ray_go)。
 新燃岳は左手奥。同じ方向にある高千穂岳も、この画像ではみえないが、この画像のよいのは、霧島火山帯の成層火山の様子、いわゆるコニーデ型の富士山のような山容がよくわかること。
 この鉢を伏せたような形が前方後円墳の後円部の原型にあり、前方部は、伏鉢のような主体部に近づく副山を表現しているというのが、私見。
 中国の神秘思想に、「天円地方」つまり、天は丸く、地は四角いという観念があるが、その観念にそって、こういう霧島連山のような火山地帯を図案化すると、前方後円墳になる。
 「前方後円墳は火山の幻想」というのが私見

 問題は、これが「天孫降臨神話」と対になることで、日本神話論の重大問題に連続するのではないかというのが、入間田さん、赤坂憲雄さんとの座談会にむけて用意している原稿の一つの中身である。
 霧島火山帯は、高千穂への「天孫降臨神話」との関係で、火山幻想の原点にあるというのが私見。

 前方後円墳が火山祭祀を表現しているというのは、日本史上、もっとも火山活動が活発であった八・九世紀の歴史史料の解釈を根拠としたものである。
 そのもっともよい例が、九世紀の伊豆神津島の噴火の例。

 八三八年(承和五)のこの大噴火の爆裂音は京都にまで響き、降灰が関東から近畿地方におよんだ。神津島では巨大な「伏鉢」のような四つの「壟」(つか)を中心にした「神院」に様々な石室・閣室の石組みができあがったという(院とは建造物の区画のこと)。
 「其嶋の東北角、新造の神院あり、其中に壟あり、高さ五百許丈、その周りは、八百許丈、其形は伏鉢のごとし」という訳である。

 壟とは九世紀の漢字字典、『新撰字鏡』に「壟<塚なり、つかなり>」、『和名抄』に「墳墓<つか>」とある。『字訓』もいうように、大きな塚をいって「陵・墓」と同義の文字である。神のこもる墓ということになる。
 この「つか」、つまり「伏鉢」のような山は高さ五百許丈(1500メートル)、周囲が八百許丈(2400メートル)というが、これがコニーデ型の火山を表現していることは明らかであろう。
 ただ、これはやや誇大な数字である。神津島中央の天上山も五七四メートルしかないから。上記の記事は、現在、東北隅にある砂糖山にあたるだろうが、これはもっと低い。

 さらに問題なのは、この「伏鉢」のような火山に「切岸」、つまり「片方が高く切り立って崖になったような所」が付属していることで、これを図案化したのが「前方部」であろうということになる。
 この切岸に「階四重」があるというのが重要で、前方後円墳には、しばしば三段ほど段築があるのはよく知られている。そして、そこには「砂礫」が敷き詰められているというのは、前方後円墳の「葺き石」にあたる。

 さらに、神津島噴火の記事には、家型埴輪を連想させる石室、また円筒埴輪列を彷彿させる「周垣」さらには、頂上の平なところに石の武人がいて、そのうしろには従者がいて、跪いているようにみえるなどというのは人形埴輪のイメージであろう。
 これらを「新作」したのは炬をもって天から降った十二人の童子たちで、彼らは海に火を放ち、地に潜り込み、大石を震い上げて一〇日ほども活動したという(『続日本後紀』)。

 『かぐや姫と王権神話』で述べたように、タカミムスビが火山神としての性格をもつとすれば、その系譜をひく王の墓が火山の山巓と噴火丘の様相を帯びるのは自然なことであろう。考古学の近藤義郎さんの前方後円墳の墳形は、前方部は階段・墓道であり、後円部がきわめて強い禁忌におかれているという研究の到達点とも、これはうまく一致する(『前方後円墳観察への招待』)。
 これまで、火山神話と火山への禁忌の思想が、史料にもとづいて検討されたことはなかった。これは非常に奇妙なことである。
 そもそも、前方後円墳は「磐構へ作れる塚」(『万葉集』一八〇一)といわれます。『日本書紀』『古事記』に頻出する、天の磐船、磐座、磐戸などの表現は、「磐石飛び乱る」などといわれる火山爆発の記憶を核とした幻想ではないでしょうか。「磐」という言葉を追跡してみる必要があるように思います。

火山神話の原型は霧島火山
 前方後円墳は墳丘の形態などの可視的部分でいえばほとんどが近畿以外の外部要素で、ヤマトに突然登場したものといわれます(北条芳隆「前方後円墳と倭王権」)。
 つまり、崇神のしばらく前の段階で火山信仰が古墳というヴィジュアルな形でヤマトに持ち込まれた。初期のヤマト王権のアイデンティティの内部に火山神話=タカミムスヒ神話があったということになります。
 広瀬和雄氏は、この時期の国家について「前方後円墳国家」という定義をあたえていますが、その中枢にはいわば「火山王権」があったことになります。
 しかも、それは西かららしいということになると、この時代の前後、だいたい二世紀後半に九州から畿内地方へ列島の政治センターが移動したといわれる事態(吉村武彦『ヤマト王権』)に関係するものであった可能性が高くなります。
 つまり「天孫降臨神話」に登場する日向高千穂峰は霧島火山帯の中枢ですから、この火山神話が九州で共有されており、それが何らかの経過で畿内へ持ち込まれたと考えるのが素直であろうと思います。
 とはいっても、それに対応するイワレヒコ神話、「神武東征」神話自身は、創作されたものです。さきほど使用した言葉でいえば、まずはユナイテッドチーフダムの中での幻想と創話と伝承の側面が優越するものと考えるべきであると思います。
 その同盟には早くから九州勢力も参加していたはずです。創話能力を評価せず、直接に氏族の移動や征服に根拠を求めてしまうのは、一種の軍事史観になりかねません。それは何といっても歴史学の取るべき立場ではありません。
 ただ、問題は畿内が列島内部においては火山活動が微弱な地域であることで、火山神話の中央波及は、何らかの形で九州地方に所縁のある集団の活躍を考えざるをえないのではないかということです。
 いずれにせよ、畿内を中心とした前方後円墳の全国的な拡大は、火山神話の全国的な普及と統合の過程の物的証拠であると考えます。
 そこで九州の大火山、霧島火山帯と中央構造性より東の富士火山帯の火山爆発の記憶が合成され、その最終的結果が、かぐや姫の富士山頂からの帰天であるということになるでしょうか。

 以上、ほとんどは、『かぐや姫と王権神話』に書いたことです。ただ、最後の部分(急にですます調になっている部分)は、ここではじめて述べることですが、上記、座談会のための素稿の一部で、三月には発刊されるので、ブログでの一部発表は許されると考えました。

 宮崎の方々は、口蹄疫からいろいろたいへんではないかと思いますが、神話では、火山は日本の自然の「豊かさ・富み」の原型であると考えられていたふしがあります。新燃岳の噴火が人畜の事故をもたらしませんように。

なお、文中の『続日本後紀』の史料は、古代中世地震史料研究会(代表 石橋 克彦、神戸大学教授)の 作成した古代・中世地震噴火史料データベースからコピーしました。ありがとうございました。この研究会には御誘いをうけながら、当時、職場の編纂や図書・コンピュータ関係業務などの多忙のために失礼をしてしまいました。こういう形で、自分の研究が火山に関わってくるとは、当時は思いもしませんでした。歴史学からの火山研究は永原慶二先生の『富士山宝永大爆発』(集英社新書)がありますが、この列島の歴史を考える歴史学の社会的義務の一つであることを、今になって実感しています。

2011年1月27日 (木)

草の実会、YS先生、平塚らいてう、かぐや姫、原始、女性は月神であった。

 今日は自宅で仕事。明日、大坂の民博で人間文化研究情報資源と知識ベース」という人間文化研究機構主催の研究会があり、そこでの報告を、さっき、つまり本日正午までに送付せねばならず、職場にでている余裕なく、朝早くからパワーポイント書き。
 締め切りは先週だったが、遅れていた。今日正午まで締め切りを延ばしてもらっていたので、必至である。11時30分にパワーポイントを送って、どうにかセーフ。「疲労困憊、思いを明日日帰りの新幹線のビールに馳す」というところである。しかし、今から、原稿化とパワーポイントの再整理をせねばならず、夜まで一日消える。
 慌ただしい日は慌ただしいもので、朝、出身の高校の後輩のお母さん、Nさんから電話。その後輩と共通する高校時代の恩師、小説家の右遠俊郎先生の容態が、二・三年前から良くなく、その関係で何度か連絡をとったので、右遠先生のことかと緊張する。しかし、Nさんの相談は、ご自身が参加されていた「草の実会」の会誌の復刻版の話。復刻版が完成したが、しかるべき歴史の研究機関で、段ボール三箱分ほどの復刻版の寄贈をうけるところがないかという御相談。歴史の研究材料として生かし、永久保存してほしいということ。
 草の実会という名前で相方が反応し、それは朝日新聞の投書欄からはじまった戦後の市民的な女性のサークルのことで、杉並を中心に原水爆禁止運動や、後には60年安保の時の「声なき声の会」につながっていった動きのことだと教えられる。私たちもよく知っている杉並の家永訴訟の主婦の会の人たちとも関係があったはず。私は、そこにNさんが関わられていたとは知らなかった。そうすると共通の知人があったに違いない。スモールワールド現象という訳だ。
 Nさんには、国立の近現代の歴史の研究機関が存在しないこと、アーカイヴズが存在しないこととの関係でなかなかむずかしいのではないかと思うと申し上げる。日本国家の中枢に存在する健忘症症候群、あるいは過去忘却願望の話になる。高校時代以来、もう40年以上。5年、10年、15年に一度ほど御会いしたり、電話で話したことがあったかという御つき合いのNさんと、過去忘却症候群について話すというのは、考えてみれば不思議なこと。個人は個人の過去は忘れられないものである。
 戦後史には登場する組織の一つ。大事なことなので、大学院時代の恩師の御一人、女性史のYS先生に久しぶりに電話して御意見をお聞きすると、「保立さんね。そういう記録が沢山でているけれども、どこも寄贈を受け付けない。本当にむずかしいのよ」といわれる。先生の声音には「あなたは昔から夢見がちだったからわからないかもしれないけど、本当に難しいのよ」という感じがただよう。
 先生のお宅の近くの図書館が『日本歴史』(歴史学の学術雑誌)を一年で断裁してしまい、過去のものが読めないということがわかり、強くいって、一定期間は倉庫に保存するようにもっていけたが、どこもそういう状態だ。昔と違って、学術書の蒐書が貧困化し、入架を要請しても対応ははかばかしくない。さらに相当の貴重書を寄贈しようとしても、あまりよい顔をせず、「処分してもかまいません」という一筆を要請される。本当にどうしようもない。釈迦に説法だろうが、ここ10年の「新自由主義改革」のせいよといわれる。
 けっして釈迦に説法ではありませんと申し上げる。歴史の学術雑誌の図書館による断裁というのは初めて聞いたことで驚くべきことである。それから先生は平塚らいてうのアーカイヴの整理をされているが、その苦労話もうかがう。
らいてうの自伝は、昨年、『かぐや姫と王権神話』を書く時に読んで感動したので、他人事ではない。
 この本では、かぐや姫を月の女神と論定した。『竹取物語』のタイムスケジュール、「かぐや姫年表」を作成した結果によると、天皇によるかぐや姫の呼び出しが秋十月になる。これは新嘗祭の五節舞姫としての呼び出しを意味するはずであり、五節舞姫は月の女神の従者という位置づけであるという形で論じたもの。その部分を引用すると、

 日本における冬至の祭は新嘗祭である。この新嘗祭の後の豊明節会で天女、月の仙女の格好をして舞った舞姫たちが、しばしば天皇と共寝したことも同じことであろう。そこに、中国と同様、月の力によって太陽の力を復活するという考え方が潜んでいたことを示唆するのは、最初の人臣摂政として有名な藤原基経が、清和天皇の大嘗祭の五節舞姫に出仕した妹の高子についてみた夢である。彼女は、五節舞姫として出仕した後、若干の事情はあったが、結局、清和のキサキとして陽成天皇を産んでいる。その夢というのは、高子が庭にはだかで仰向になって、大きく膨らんだおなかお腹を抱えて苦しんでいたところ(「庭中に露臥して、腹の脹満に苦しむ」)、腹部がつぶれて、その「気」が天に届いて「日」となったという生々しいものである(『三代実録』)。それは高子が清和のところに参上する前のことであるから、ちょうど大嘗祭の五節舞姫となった前後のことであったろう。つまり五節舞姫=月の仙女が、地上で裸体となって新しい太陽を産んだという訳である。

 というもの。本来、原稿では、その後に次の文章が続いていた。

 

 「元始、女性は実に太陽であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く」とは、平塚らいてうの起草した『青鞜』発刊の辞、冒頭の有名な一節である。しかし、考えてみると、月が「他の光」、つまり太陽の光をうけて輝くというのは近代の天動説にもとづく知識である。それ故に、平塚らいてうの真意を受けとめた上で、高子の横臥の姿から、さらにトヨウケ姫ーワカウカ姫ーイザナミとさかのぼっていくと、東アジアにおける日月の観念としては、むしろ「元始、女性は月であった。しかし、太陽を産む月であった」というのが正しいように思われてくるのである。

 これを書くのに、らいてうの自伝3冊を読んだ。第一冊目だけは、以前、読んでいたが、全冊を読むのは初めてであった。『かぐや姫と王権神話』は、難しくなってしまったが、本来、高校生に読ませたい。歴史の細部に興味をもってほしい。らいてうを身近に感じて欲しいなどということを考えたので、上記の文章を作ったが、新書版のぺージ数の制約があって、削除したのは残念だった。
 歴史文化の見直しというのは、過去から近代まで連鎖反応のようにして、さまざまな見直しと再評価を必要とするものだと思う。そのようにして文化は豊かになっていくはずであるが、しかし、らいてうの遺品のなかのアーカイヴが尊重されないような社会というのは何という社会であろう。
 
 週末にはNさんに電話して意見を御伝えすることになっているが、難しい問題だということを御伝えするだけになりそうで、憂鬱である。

2011年1月26日 (水)

中国の歴史資料と清華大学の劉暁峰先生

 昨日は中国の御客様を中心に、史料保存に関する研究集会。懇親会に出て、本当に久しぶりに気持ちよく飲み、夜、遅く帰宅。先輩のFH氏の『かぐや姫と王権神話』についての礼状が届いていて、目がさめた。「目くるめく内容。歴史学の面白さを堪能」という過分のもの。彼はいつも過分の表現で礼状をくれるが、御元気そうでほっとする。礼状にも昨年の夏ばてから回復とある。今年の年賀状でも、何人かに、もう先輩といえる人、あるいは先生といえる人は少なくなってきているので本当にお元気でという文章を何人かに書いたことを思い出す。
 集会の方は、これも本当に久しぶりに中国清華大学の劉暁峰先生にお会いする。もう10年になるのではないだろうか。来られた時に、根津美術館で南宋絵画の展覧会をやっていたので、そこに案内し、美術館の庭で長く話して以来だと思う。あの南宋絵画の展覧会は画期的なもので、図録を買ったのだが、その後、ベルギーの日本学の先生に差し上げてしまい、補充する積もりがそのままになっている。
 報告を終えた劉先生が、本当に久しぶりと寄ってきてくれて、ようやく顔を思い出す。それにしても、二人ながら、あの頃はまだ若かった。先生は、大江健三郎氏の小説の翻訳者としても知られる方。加藤さんの文章だったか、大江さんの文章で、加藤周一氏の北京での講演を組織した中国の日本学研究者の話は読んだが、それが劉先生のことだとは知らなかった。
 先生は平安時代の年中行事が御専門。ただ、日本学全体を研究していて、いま、1945年から1955年の日本の研究をしていると。そのころの日本の変革とエネルギーから学ぶものがあるというお話であった。
 懇親会で話し込むと、私が、根津美術館の庭で、敗戦後、8月15日過ぎから、霞ヶ関は書類を燃やす煙でぼうぼうであったという話しをしたことが、興味をもつ一つのきっかけであったとおっしゃる。それはたしか荒井信一さんからきいた話だが、その記録はいまどうなっているのだろうか。土浦の伯父からは、土浦の航空隊で、やはり同じ時期、大量の書類をもやしたという話しをきいたことがある。伯父にとっては痛切な記憶。史料保存の研究集会の懇親会で、史料を燃した話をするというのも奇妙な話。
 報告は劉先生、山東建築大学の姜波先生。旧村の併合や旧住宅の立て替え、そして中国社会の「現代化」の中で、歴史史料が隠滅の記紀にある。その蒐集・保存・整理・研究が歴史学者としての最大の課題であるという御話に共感。日本でもそうだが、建築学・建築史の方々とは歴史学は話しがあう。しかし、それにしても本当にたいへんそうであった。劉先生が「東アジアで共有すべき文化財」といわれたのは本当に大きな意味があると思う。
 日本からは国文学研究資料館の青木先生から、日本における、それこそ戦後、1940年代末から50年代の史料保存の学界をあげた動きについての説明。ぴったりの応答であり、中国の先生方も学ぶところが多いと感想。そして史料編纂所からは和紙研究の中心になっている高島修復室主任からの話。これもたいへん好評で中国の先生方にはきわめて印象が強かったようであった。
 経済学部の中国史研究者でアーカイヴ学についても詳しい小島浩之先生の中国史料についての日本の中国史学界の蓄積について話は明解。中国の先生がたも、日本の古文書学、史料論を学びたいと強くおっしゃっていた。私は、有名な『文字の文化史』をかいた藤枝晃が、実は、顕微鏡による料紙観察をその当時から重視されていたという話が衝撃的。この『文字の文化史』は「居延漢簡」についての授業で、佐藤進一先生が必読文献として指示されたもの。そこには顕微鏡のことは書いてなかったから、小島さんの話は衝撃的。さすがに先駆者は違うということであろう。
 シンポジウムの後、史料編纂所の見学をしてもらう。意外な人数になり、図書部には迷惑をかけた。
 シンポジウムの正式名称は「中国民間古文書の整理・保存・利用の研究に関するワークショップ」。司会は、湯山奈良博館長で、彼とも久しぶり。『かぐや姫』の神道論は、彼に読んでもらうことが一つの目的であったので、感想を聞く。
 トヨタ財団の助成企画で、経済学部の小島ホールで開催。トヨタ財団の貢献も大きいようであった。
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2011年1月25日 (火)

『歴史学研究』2月号「崩壊する大学と『若手研究者問題』」

 『歴史学研究』の2月号に崎山直樹「抱懐する大学と『若手研究者問題』」がのっている。朝の電車の中、今読み終わったところ。昨日ついたが、朝、これは読まねばと思ってもってきたのは正解。思い出すのは「若手の道がなく、本当に憂鬱です」という日本文学のK先生の手紙。どこもそうなのだろうと思う。

 この論文によれば人文学の分野では平成10年(電車内換算不能)からの10年間で大学教員数は6193人から5490人に、約11,4%減少している。その代わりに非常勤講師の人件費が40%近く増加している。年収200万という貧困線にならぶ待遇でポスドク生活をしている有能な研究者は多い。
 この論文によって人文学の研究者の人数を確認してみると、こんなに少ないのかという観があるが、これはさらに下がっていく。今はいわゆる団塊世代の一斉の定年があるので、若干の空きポストは発生するであろうが、それは一時的なものである。これは本当に心配かつ憂鬱。来年度の大学経費削減は、当初の10%は、さすがに掛け声に終わり、一種の安堵感があるが、しかし、全体の状況が変わっていないのは、この論文がいう通り。人文学、哲学、文献学の切り捨てはグローバルな傾向である。

 私の世代はオーバードクター問題の最初の走りの頃。私は、学部時代は前近代日本史の専門教員がいない大学であったので、個人的にはきつい経験が多い。しかし、この論文の最後に引用されていた円城塔の文章はさらにつらい。
 「人類への知的貢献は何よりも重い」。美しい言葉だと思う。支えにしている方もいるのではないかと思う。命あっての物種だと答えるのはあんまりなので、代替案を掲げさせていただく。「私は人類に敵対する」。あなたがたが今、その身の裡に抱えているのはそんな種類の二万人だ」
 二万人とはいわゆるポスドクの人数。知っている院生や、自分の家族をふくめて、この気持ちは身近なもの。
 我々の時代も、「私は人類に敵対する」といっていたのだが、それは、より思想的な表現が可能であった。「歴史学の社会的責務とその現代的意味、アクチュアリティ」という感じ方が生きていた。その背景に、現在のような金銭中心主義的俗物資本主義に対抗する社会的な気分と、ともかくも同世代の共感と一致があった。
 それはいまでも生きていると考える。今月号の『歴史学研究』に挟まれていた栗田編集長の「編集室から」のいう「現実(アクチュアリティー)に歴史学の立場から分析を加え、問題の本質にせまろうとする作業」の伝統は生きている。
 しかし、それが共通した気分としては生きていない。あるいはそれを共通したものとして認知できるような表現の仕方が見にくくなっているのは事実である。
 すでに私にも時間は少なくなっており、また職業人としてできることも少なくなった。しかし、歴史学の社会的責務とアクチュアリティの気分を学問的な雰囲気として残すための作業、先輩たちのやろうとしたことを引き継ぐことは固執したいものだと思う。

 以下は、永原慶二さん著作集が発刊された時の「図書新聞」のインタビゥー。WEBPAGEにも張っておく。稲垣敏子さんの御葬式の帰りにご一緒した時、奥さまは永原さんが「私たちの役割は終わった」とおっしゃっていたといわれていたが、しかし、その毅然とした端然とした姿勢を考える。

 まずこのインタビゥーの最後のところを引用
「大変なのは若い人たちです。トラップにはまったようなもので、その上、学術自身が衰退していく。補給を絶たれれば、それは必然的です。いったい何を考えているのか。それこそ「戦後」作ってきたものをすべて崩壊させたいのか。けれども、新しい世界史のグランドセオリーを考えなければならない時期に入っているのは客観的な状況の問題ですから、これは必然的に進むとは思います。結局、学術・理論より人間の方が大事ですけれども。」

『図書新聞』
「戦後歴史学」を代表する存在であった、永原慶二氏の仕事を集成した『永原慶二著作選集』全一〇巻が刊行された。専門の日本中世史研究のみならず、史学史や歴史教育、歴史学の方法論といった、永原氏の幅広い業績の全体像をうかがい知ることができる。本著作集完結を機に、第九巻『歴史学序説 20世紀日本の歴史学』の解説を執筆した東京大学史料編纂所の保立道久氏に、「永原史学」をめぐって話をうかがった。(5月12日、東京大学にて/聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

「戦後歴史学」内部からの戦後歴史学批判

 ――保立さんは、『歴史学をみつめ直す――封建制概念の放棄』(校倉書房、二〇〇四年)の中で、永原さんを「もっとも戦後歴史学らしい学風をもった歴史家の一人」と書かれています。

保立 それが実感です。私は一九四八年生まれですけれども、私ともう少し下の世代までは、石母田正さんの『中世的世界の形成』を読んで中世史に誘われ、次ぎには永原さんの仕事をテキストにして勉強を始めたという人が多いのです。
 戦後歴史学を代表するというのは、まずはそういう経過の問題です。たしかに永原さんは、皇国史観に対する強い批判、経済史を基礎にした普遍的で透明な論理などの点で、いかにも戦後歴史学という方です。しかし、戦後歴史学の最初の指導者であった石母田さんや松本新八郎さんとは、関係も強いだけに一定の批判があったはずで、早くから戦後歴史学の限界面について意識的な発言をされています。
 これは石母田さんの自己批判にも関わっているのですが、すでに一九六〇年代半ばには、戦後歴史学の発展段階論が一国史的、単線的、西洋中心主義的な傾向をもっており、天皇制に対する批判が国内的視野に偏っていたと指摘されています。近代歴史学は「帝国主義支配民族の歴史学という宿命」の中にあり、戦後歴史学も、その宿命から自由ではなかったという言い方をされています。

――いわゆるオリエンタリズム批判を、一九六〇年代に自覚的になされたわけですね。
保立 いや、オリエンタリズム批判ということになれば、もっと早く、既に一九五〇年代の後半、『日本封建社会論』(本著作集第一巻に収録)の冒頭に、その趣旨を書かれています。もちろん、オリエンタリズム批判という言葉ではありませんが、いわゆる「アジア的停滞性論・宿命論」がヨーロッパ思想の中に組み込まれているという批判は、日本の戦前の学界でも相当高いレヴェルで議論されています。永原さんは、これを明瞭に引き継いで議論を立てています。

ーーそんなに早いのですか。
 こうした批判は、ここ二〇年ぐらいで誰もが言うようになりました。しかし、それは実は、早くから戦後歴史学の中枢部にあったということです。その事情も知らずに周知のことを繰り返しているのはあまりにジャーナリスティックで、研究者の場合は無教養の証明です。
 最近は歴史学がいろいろ批判を受けますし、たしかにそのとおりかもしれません。しかし、では他の学問はいったい何をしていたのか。法学や経済学は、それだけ自前で自慢できることをしているかどうか。他人事ではないはずです。
 いま二〇世紀の人文社会科学全体が問い直されています。その中で、歴史学の問い直しは決定的な位置をもっています。なぜなら、歴史学からみると、我々の対極にあるのは哲学です。そして歴史学と哲学の間には実用性をもった法学・経済学その他の個別科学があります。法・経済などは個別科学であるというのは永原さんの言い方ですが、歴史学は哲学と同じように総合と論理で勝負する学問です。ただ哲学と違って、個別科学と素材を共有し、その全体を直接に総合する位置にあります。ですから、人文社会科学の問い直しの上では、いちばん重要なのです。
 永原さんの歴史学は、いわば全面展開の歴史学です。対象とした時代の幅も広く、たとえば『日本経済史』(本著作集第八巻に収録)などは、原始から明治時代末期までを一人で書いています。そして社会構造論から政治史、思想史まですべて展開しています。ですから、歴史学を問い直す上では、まずこれに挑まないといけません。

――そうした永原さんの仕事の理論的な基盤には、戦前の『日本資本主義発達史講座』の「講座派」の大きな影響があったのですね。
保立 その通りです。ただ、講座派の中心は明らかに経済学と法学でした。講座派によって歴史学ははじめて法学・経済学の厳密な方法を学び、対等な地位に進みました。現在の法学や経済学が講座派の議論をなかば忘れつつあるのではないかと心配ですが、事柄の性格からいって、歴史学は講座派を忘れる訳にはいきません。
 もちろん、歴史学の中でも講座派の議論については批判が強くなりました。私も、戦前の日本社会をすべて封建制というイメージで塗り込めるような傾向には賛成できません。江戸時代の広い意味での「近代性」も無視できないと考えますし、明治以降に発達した市民社会の実質はやはり相当のものです。しかし、戦争遂行のために市民的自由が抑圧され、その抑圧の仕方に前近代的性格が非常に強かったことをことは明かです。日本社会をはじめて社会構造と歴史に踏み込んでとらえることに成功した講座派の議論の意義は何をおいても再確認する必要があります。
 講座派は、戦争に対する批判をし、戦争の結果がどうなるかについて予測しました。彼らの相当部分は現実に行動して牢獄に囚われたわけですから、経過からしても、永原さんを含めて当時の若い研究者が講座派に流れたのは、自然なことだったと思います。

ーーやはり吉川弘文館からでている『永原慶二の歴史学』(永原慶二追悼文集刊行会編、二〇〇六年)によると、永原さんは学生時代に東大の前の古本屋で講座の一部を入手されたということですね。
 私たちからみると、あの戦争体制の時代に、ひそかに『講座』を読んでいたというのは驚きです。第二次世界大戦を推進したイデオロギーは、ご承知のように皇国史観でした。それがつぶれた訳ですから、戦前社会で階層的にも上の方にいて、エリート教育の中にいた人々がドッと歴史学を専攻するということが起きたわけです。ただ永原さんは、戦争の最中から批判的であった訳で、こういう言い方はよくないかもしれませんが、それは永原さんが、飛び抜けて優秀な人であったことの証明だと思います。
 永原さんが、小学校から秀才で通した人だというのは歴史学界では有名な話しです。戦前にもエリート小学校というものがあったそうですが、永原さんは青山の青南小学校の卒業です。それから、たとえば、永原さんは高校時代、ギリシア史の村川堅太郎氏に習っていますし、大学時代にも東大法学部の川島武宜氏の研究会に出ています。戦後、結婚されたときは戦前からの著名な歴史家・川崎庸之さんが保証人ですが、川崎さんのいとこが戸坂潤です。母子家庭で育った戸坂潤は川崎さんの実家に寄留して、永原さんと同じ青南小学校に通っています。川崎先生は網野善彦さんの仲人もされています。私は、それを知った時、戦後中世史学というのは本当に狭いところから出発しているんだと奇妙な感じになりました。
 話しがずれましたが、人間関係の上でも、戦前の市民派ないしマルクス主義知識人のそばに、永原さんたちの生活圏があったわけですね。講座派を担った経済学者や法学者たちは、戦前の日本社会の中でトップレベルの知識人だったわけですが、さらに一回り広い範囲の若手の研究者が戦争に大きな衝撃を受けて歴史学の道に進んだのです。

――戦後歴史学の人間関係の狭さというのは、はじめて聞きました。
 保立 「戦後歴史学」という言葉ですが、現在の歴史学界では「現代歴史学」とか「批判的歴史学」という言い方をします。なぜかというと、戦後歴史学という言い方では、二〇世紀後半の歴史をすべて「戦後」、それ故に長い平和の時期として見てしまう落とし穴に陥りかねません。第二次世界大戦の終わりから、もう六〇年以上たっているわけですし、しかも世界各地はもとより、東アジアでも戦争が連続してきたことを、学問の論理の中で忘れかねないからです。
 ただ、戦後歴史学という言葉にこだわらざるをえない面もあって、第二次世界大戦に対する本格的な反省が、日本社会では行なわれていないためです。いうまでもないことですが、戦後処理の課題を、日本社会は持ち続けている。もちろん、これは学問的な問題であるよりも先ず政治の問題です。ヨーロッパでは、政治的な問題として決着がついているわけですから。けれども、長い間の政治の不決断が続いていることを他人事とみるわけにもいきません。

 アカデミズムの自己認識、職業としての学問

――永原さんは晩年、『20世紀日本の歴史学』(本著作集第九巻に収録)を書かれますが、ご自身もその史学史のなかの歴史家として、近代以降の歴史学の自己検証という大きな課題を担われた、といえるのでしょうか。

 保立 永原さんは、歴史学研究会などの学会の運営に関わり、日本学術会議の中心メンバーでもありました。文化庁の文化財保存の委員でもありましたし、『中公 日本の歴史』などのほとんどの通史や、学会編集の講座など、大規模な出版のほとんどすべてに企画委員の立場で関わりました。さらに、家永三郎さんが始められた教科書検定訴訟でも中心的な役割を果たされ、教科書をめぐって中国と韓国の間で問題が起きたときも、必ず必要な発言をしました。
 『20世紀日本の歴史学』は歴史学のアカデミズムの通史です。アカデミズムというとあまりよいイメージでないかも知れませんが、それは「職業としての学問」ということです。永原さんは職業人の責任として、歴史教育のあり方や社会に対する歴史の情報の提供の仕方について学界の責任を取るということを、非常に強く意識されていた。
 歴史学が社会的に負っている課題と責任とは何か、それを担うために我々がどういう方法を組み立てなければいけないか、どういう形で議論を展開しなければいけないかを、経験を通じて書いた。これは、永原さんでなければ書けない本です。そして、その特徴は、じつは、歴史学のアカデミズムに対して見方が非常に厳しいことです。中心にいたからこそ、そうみえるのでしょうが、日本の歴史学がどうしても無思想になり、史料の細部を分析するだけに陥りがちであることを、厳しく批判しています。

 ――厳しいということでいえば、たとえば『20世紀日本の歴史学』の中で、網野善彦さんの歴史観に関して、それは一種の空想的浪漫主義であり、日本浪漫派の歴史観に通底する、という評価をされています。その点に関して、どのようにお考えですか。

 保立 このところ、黒田俊雄さん、石井進さん、網野さん、永原さんと、戦後歴史学を担った中世史家が次々に亡くなっています。我々にとってはとてもきついことです。私などは、彼らの関係を目撃した最後の世代に属するのかもしれません。本当に仲がよく、互いに信頼しあっていて、しかも相互にメチャクチャにいいあうのです。
 見ていて羨ましいというのが第一でしたが、なぜ、こういう人間関係が可能なのかということはずっと不思議でした。やはり戦中から戦後への一番大変な時代を共有したことが、決定的だったのだと思います。我々はそんな歴史的経験をもっていません。歴史が大きく動き、その中で歴史学と学問が行動せざるをえないという時代には生きていないわけです。
 私的な話ですけれども、青山の永原さんのお墓にお参りをした時に、奥様の話をうかがいました。網野さんが亡くなった後、永原さんが山梨の網野家にお墓参りをしたときに、泣いたというんですね。奥様は「私は永原が泣くのを初めて見ました」と言われていました。それは網野さんも同じで、笠松宏至さんが永原さんにガンが発見された直後に、それを聞いて、網野さんに電話で伝えたところ、網野さんが絶句して、異様といってよいほど取り乱されたそうです。
 網野さんは永原さんの高校の後輩で、史料の読み方、論文の書き方などは永原さんに教わったといいますから、ほとんど兄弟の関係のような感じだったのだと思います。そういう関係には立ち入れないものを感じます。そもそも、こんなことを伝聞でいう資格はないのですが、五〇年以上、肝胆相照らすという関係で学問をしてきた研究者同士の関係が独特なものとなることくらいはわかります。
 浪漫主義というのは一面では、永原さんが熟知する網野さんの人柄なのだと思います。それは網野さんは本当に魅力的な人でしたから。ただ、他面で、要するに永原さんは、網野さんをだしにして、歴史学が陥りがちな傾向、つまり「無思想」でなければ浪漫主義になる、いわゆる歴史主義の陥穽をいいたかったのだと思います。若い頃から言いあっていたのではないですか。網野さんにしたら、「まったくもう」という感じでしょうけれど。
 ともかく、我々は、網野さんと永原さんの両方を乗り越えなければいけない。そういう立場にありますから、表面でなく、内容に踏みこんで二人一緒に批判することになります。そして、そういう観点から二人の仕事を見てみると、表面的にはまったく違うかのようですが、実は意外と似たところが多いんです。

 永原史学の特徴と方法

 ――永原さんの歴史学の特徴とはどのようなものだったのでしょうか。
保立 二つあって、第一の特徴は、中世社会を構造論的に捉える立場で、『日本の中世社会』(本著作集第三巻に収録)や『日本中世の国家と社会』(本著作集第七巻に収録)などに典型的に表れています。永原さんはそれを、日本社会の集中的・求心的構造といわれますけれども、天皇制的な都市、首都による全国支配の構造がなぜ成立し、発展し続け、残り続けているのかを、執拗に問い続けたわけです。これが、永原さんの社会構造論の中心に据えられています。
 それから第二の特徴は、南北朝・室町時代の研究の開拓者だったことです。戦後中世史学というのは、石母田さんの『中世的世界の形成』で始まりましたから、平安・鎌倉時代が最初の舞台だったわけです。それに対して永原さんは、南北朝・室町・戦国時代を固有のフィールドとして、その時代の研究に責任を持ちました。永原さんが研究を始められた当時は、室町時代と戦国時代については、研究がそれほどありませんでしたし、史料も整っていませんでした。永原さんはそこを配慮しながら共同研究を組織しました。その功績がきわめて大きいことは、この時代の研究を知っているものの共通認識です。

 ――研究方法についても、永原さんの独自性を指摘されていますね。
保立 研究の方法としては、第一の側面として、経済史と社会構成の移行の理解をベースにおいて通史的な枠組みを描き出したことです。その中心となったのは、室町時代の経済発展の理解で、永原さんは、この時代の生産諸力の発展、商品経済と社会的分業の展開を高く評価します。
 耕地は安定化し、都市が発展し、それを基礎にして文化が民衆化する。永原さんは、明らかに、この段階を一三世紀以降のヨーロッパ封建制と同じような経済のテイクオフ、新しい技術と文明という脈絡で捉えています。これを封建制の第一段階というわけで、それをベースとして比較すると、平安時代はやはり古代であり、江戸時代は封建制の第二段階で別の社会ということになります。
 日本の社会構成論にとっては、中間の「中世」をどう捉えるかというのが、決定的な位置をもっているのですが、この点を永原さんがつかんだ訳です。その特徴は、封建制とは支配や抑圧の問題とイコールではなくて、むしろ室町時代はヨーロッパと似て、内乱と地域的な分権、それに庶民と村々が巻き込まれるような時期という意味で封建制概念を理解しています。そして戦乱を中心としてみると、大変暗い時期だけれども、同時に室町時代の社会は逆に不羈奔放で経済が発展するという二面的な把握です。暗黒といわれていた室町時代を中心において、ともかく鎌倉から戦国時代まで理解を通すために、経済史の方法が一番有効に働いたということだと思います。こうして、全体の通史が一応の枠組みとしてできたわけです。
 それから第二には、民衆史を大事にしたことが大きいですね。特に『下剋上の時代』(『日本の歴史』一〇、中央公論社、一九六五年)が有名ですけれども、民衆を主体にして室町時代を描いたわけです。『内乱と民衆の世紀』(『体系日本の歴史』六、小学館、一九八八年)では、室町時代は、貨幣と都市の魔力が本格的に始まった時代といわれています。文化にしても、連歌にしても、村々を中心に生産と交通・分業が発展し、その中で民衆が社会的な地位を向上させる。これは内藤湖南と鈴木良一さんの影響だと思いますが、『下剋上の時代』でマルク・ブロックを引用して、この時代の民衆心性の「野性」を論じていることも印象的でした。

 ――ブロックのマンタリテ、心性論への注目などというのは相当早いですね。
 保立 そうですね。我々は、永原さんというと端正な方と考えがちなのですが、永原さんは、実際には、室町期の民衆の野性的なところが好きなのではないかと思います。社会史の先駆ということですが、社会史研究との接点ということになると、いわゆる公共性の問題についての議論も重要です。これが第三の研究方法の特徴になるかもしれませんが、永原さんの仕事は、いわゆる階級史観でなく、公共性論だったということです。単純に階級原理から論ずるのではなく、社会的・公共的な機能を誰がどう果すかということを中心に、議論を組み立てるスタイルですね。
 室町時代の文化や経済の発達は、国家と支配層と中間層と民衆が一緒にやったことであって、すべてを階級原理で解くことはできない、前近代の民衆の構造を無媒介に階級原理で捉えたり、もっぱら戦うものとして捉えることは正しくないというわけです。庶民の動きはベースにあるけれども、他のさまざまな諸階層の動きが全体として絡まり合って歴史は動くと、明瞭にいわれています。
 ですから逆に、知識人や支配層、および国家の社会的責任を問うことになるわけですね。国家は、公共的機能をどこまで果たしてきたか。室町期の国家は結局それを果せなかった。だから、戦国大名が出てきたというのが、永原さんの把握です。

 永原慶二氏と網野善彦氏の共通点と相違点

 ――網野さんは、永原さんの仕事を強く意識されていたのでしょうね。
 保立 網野さんは、永原さんの『下剋上の時代』(中央公論社、一九六五年)をよく読まれていたと思います。この本は室町時代の非農業民や社会的分業を構造として明瞭に位置づけた初めての通史ですが、網野さんが『蒙古襲来』(小学館、一九七四年)でそれに対抗しようとしたことは明かです。
 我々から見て、お二人に共通するのは、何よりも、天皇制と日本社会の特質論です。網野さんのいう「日本論」ですね。永原さんの議論は『日本の中世社会』で明示されていますが、ようするに天皇制的な諸関係の根拠を、共同体間の世界と都市・社会分業に対する公共的支配に求めるわけです。網野さんも「無縁」の場、都市と境界領域に王権の根拠を求める訳です。二人とも、日本社会は東アジアやヨーロッパと比べて相当独特な社会であるが、それが何故なのかということを執拗に問い続けられたという姿勢の点でも同じです。というよりも姿勢が同じだから、相似する議論枠組みを取られたといった方がよいかもしれません。
 もう少し詳しく見ると、お二人の共通性は三つあります。一つは、室町時代を、網野さんも日本の歴史の「近世化」の画期とみます。それを「資本主義化」ともいえるなどといわれるので、永原さんは猛反発をするのですが、けれども実態認識としては、先ほどいいましたように、永原さんもそう違わないのです。ですから、全体の通史イメージについて、二人は意外と似ているというのが、私の昔からの考え方でした。
 それから二つ目に、領主と百姓の関係についてですけれども、網野さんは、領主と百姓の関係は単に支配だけではなくて、一種の契約関係だといわれます。永原さんは鎌倉時代以前についてはそんなことはいわれませんが、室町戦国期になると、農民は領主に対して庇護される代償として年貢を出すのだといわれます。つまり、領主と農民の関係には双務性があって、庇護に対して年貢を出すというかたちです。これは永原さんの公共性論からいって当然のことなのです。
 網野さんは、永原さんは暴力と強制で領主制を捉えると批判します。鎌倉期以前について永原さんがそう考えていたのは事実でしょうが、室町期をふくめて考えると、そんなに議論枠組みは違わないのです。もちろん、永原さんは、農奴支配を強調されます。封建制というべきかどうかは別として農奴的な人身隷属があったことは事実ですから、この点では、私は永原さんの見方が正しいと思います。
 それから三つ目ですが、永原さんも網野さんも、中田薫という戦前の法制史家の仕事を前提にしています。中田薫は、日本の中世社会がヨーロッパと似ていて、ヨーロッパの水準によって日本社会を理解できると指摘した研究者ですが、その中田薫をどう読むかということを、お二人は考え続けたわけですね。石母田さんの議論が中田を前提にしていたことはよく知られていますが、戦後歴史学論からいうと、お二人は石母田さんの仕事の根拠を、中田まで戻って問われようとしたということになると思います。

――ようするに中田薫の「職」論ですか。
保立 ええ、その通りです。荘園制の土地所有なり土地関係は「職」という言葉で表現されるわけですが、その職を持っている人びとの間を年貢が動き、職の間で年貢が分割される。その職というものをどう考えるのかを最初に打ち出して「日本中世=封建制」論を組み立てたのが中田薫です。
 単純化していうと、網野さんは年貢所当は租税であるという中田説を認めた上で議論をし、永原さんはむしろ地代であるとして議論を組み立て直しました。ただ、それが国家的な性格を持っているということは、永原さんも網野さんも共通していわれますので、見かけほどは違わないのです。私は、年貢所当というのは租税でもあり地代でもある、いわゆる「租税と地代の一致」と考えていますが、お二人の議論を乗り越えていく上での要点はここにあると考えています。

ーーけれども、理論の上での相違は大きいのではないかと思いますが。
 保立 理論的に一番大きい相違点は、生産諸力の発展をどう捉えるか、ということです。永原さんは、生産諸力が百姓の小経営と私的な所有の中で徐々に蓄積され発展していくというところを、非常に重視されるわけです。網野さんは、そういう私的な所有と経営の中での発展ではなくて、いわゆる「無縁」の場、つまり山野河海や、共同体と共同体の境界、都市的な場での生産諸力の発展を第一とするわけですね。
 私は、折衷するようですけれども、言われていることは両方とも正しいと考えます。農民経営と村落の内部での生産諸力の発展も重要だし、無縁の場も重要である。その意味では、永原さんと網野さんの言われていることは、互いに補い合うものなんですね。
 問題は両方の関係と組み合わせです。我々は、お二人の言っていることを、両方とも正しいと仮定した上で乗り越えることを考えます。その場合、率直に言って、論理が透明で、論理を通すことに全力を傾けるのが、永原さんです。それに対して、これは歴史学者として非常に重要な能力なのですが、新しい史料と、新しい史料の読み方を追求し、その面白さを感性的に理解するのが網野さんです。
 職人としては、網野さんの方をどうしても大事に思いますけれども、歴史学全体として考える場合には、永原さんのいわれるように、論理と分析が通っていない歴史学はあり得ないということは明瞭です。我々は、努力すればどちらももてる世代です。

 歴史学の職能と責務、そして課題

――永原さんは、アカデミズム実証主義史学の「無思想」を指摘され、現実に向き合う姿勢を説かれました。虫の目をもちながら鳥の目をもつといいますか、個々の史料の分析に入りながら、トータルな視野を失わない総合の学たることを見失うべきではない、ということなのですね。
 保立 日本の歴史史料は、ものすごくたくさんあるのです。ヨーロッパや中国よりもたくさんあるので、実際に研究していると「無思想」にならざるをえないんです。永原さんはそれをよくご存知で、その上で、全体の見通しと理論、方法と思想がなくては、これだけ大量の史料の分析はできないという発言を繰り返されました。
 職業として日本の歴史を専門にし、研究している者にとっては、『20世紀日本の歴史学』を読んでいるとその通りということになるわけです。それを永原さんは学史として書いてくれ、それを共有し、そこから再出発しようと呼びかけてくれた。そういうことができる人は、なかなかいないわけです。

 ――たくさんある史料を分析する、歴史家の理論と方法、思想が問題である、ということなのですね。
 保立 現在、東京大学史料編纂所が中心になって、学界の協力を得て、平安時代、鎌倉時代の文献史料の基本部分を、コンピュータにフルテキスト入力したところです。ほかの分野でも歴史学の情報化は進んでいます。永原さんも『20世紀日本の歴史学』で、そうした研究体制と研究条件の拡充について、昔では考えられないことだといわれていますが、これによって、大量の史料を一望のもとに、理論的、全体的に統括して分析できるようにしたいと思っています。
 ともかく、歴史学者は基本的には虫の目になりますので、その職業的な義務は果たしてきていると思います。アカデミズムの歴史学にまず必要なことは、歴史史料を保存し、それを誰もが読みやすい形にし、提供をすることです。歴史学に委ねられている社会的な職能に関わる問題については、着実に成果を積み上げてきています。

 
 グランドセオリーを作り直す、二一世紀の歴史学へ

――『永原慶二著作集』を踏まえながら、二一世紀の歴史学はどう展開されていくのか、今後の課題についておうかがいします。

 保立 歴史学者にとっては、具体的な史料から見えてくる具体的な事実と、その上で組み立てられるイメージが、どうしても第一になります。
 実際には、永原さんだってそうだったわけです。永原さんの最後の著作である『苧麻・絹・木綿の社会史』(著作集第八巻に収録)は、まさに社会史です。永原さんがおばあさんの作ってくれた麻の服をずっと使っておられて、それへの思いが、この本には明らかに見られるわけですね。
 特に、現代の歴史家としては、過去の具体的なイメージを提供するというのは、非常に重要なことです。今の日本社会はバチアタリ社会ですから、日本の風土と歴史、文化に即した過去のイメージが、大量に破壊されて消えていっています。それを残すことは、文化の多様性を残すことに直結します。文化の多様性というのは、世界史的に見ても非常に意味が大きいわけですから、その多様性を維持するために尽力するというのは、歴史学者の主要な役割になります。
 もちろんそれには、他のさまざまな学問分野の協力が必要になります。とくに自然環境保護、いわゆるサステナビリティについて、自然科学分野の研究者との学際的な協力が必要になります。

ーーしかし、それだけでは迂遠な話しのように思いますが。とくに自然科学者は本質的に理論家というか、明解な図式を要求しますから、善意だけでは難しいのではないですか。
 保立 それはその通りで、結局、歴史のグランドセオリーを、もう一度作り直すことを考えざるをえません。それがなければ、過去を認識できないからです。歴史学は、多様な事実を総合して、その上で理論的な解析を加えて、透明な論理的理解をえたいと考えます。その場合、現代社会に対する論理的な理解を、方法的につきつめ延長する形で、過去を理解するということになります。
 ただし、これまでは、現代の市民社会あるいは資本主義社会の理解を延長するかたちで過去を理解するというのが基本でした。ヘーゲル、マルクス、ウェーバーなどすべてそうです。
 しかし、現在は、それでは済まなくなっています。つまり、第一には「二〇世紀社会主義」、自称社会主義なるものの体たらくです。これがどのような「社会構成」であったのかを論理的に明示しなければ、所詮、歴史理論は無力です。そして、私見では、ようするにこれは、集団所有を基礎としながらも、上位の代表集団が特権的・階級的支配を展開するというマルクスの『資本制生産に先行する諸形態』に描かれた論理が現代に実現してしまったということです。これによって集団所有・共同所有がかならずしも協和的なものではなく、強い階級的な性格をもつことがありうるという、石母田さんの首長制論や戸田芳実さんの議論など、戦後歴史学の内部で議論されていたことが劇的に証明されてしまった訳です。
 従来、社会構造論、社会構成体論というと、私的所有を基準にして組み立てられた訳ですが、こういう論争史をふまえると、私的な階級的所有と集団的な階級所有が融合してシステムを作り上げている構造こそが問題となります。これが論理的な帰結です。それはいわゆる「アジア的社会構成」に限った問題ではなく、ほとんど通時代的な問題です。しかも網野さんのいうような「無縁の場」の位置、「無所有」、境界的所有の位置がきわめて重要です。社会構成というのは、それらの所有形態の組み合わせによって出来上がるものですから、非常に多様になる。しかもそれに自然的・歴史的条件(空間・時間条件)の多様性が加わるのですから、四つ五つの範疇ですむようなものではなく、数百の単位で考えなければならないというのが、私の考え方です。
 たとえば柄谷行人さんでさえ、『世界共和国へ』(岩波書店、二〇〇六年)で、依然として原始社会、古代社会、封建社会、資本主義社会という枠組みで議論しています。しかし、それはマルクス段階でもヨーロッパにおける社会構成の変遷の素描なので、世界史をそれで解こうなどというのは無理な話しです。所詮、スターリン型のロシア・マルクス主義のシェーマにすぎません。すべてやり直すほかないのです。
 第二に問題なのは、現代世界における国民国家ごとの社会構成の多様性です。もちろん、現代は、基本的には、社会構成論の問題としては資本主義一本でいけます。ですからグローバル資本主義なのですが、しかし、だからこそ国民国家ごとの社会構成の特徴は、これが同じ資本主義社会か、というほど違ってくる。それを規定しているのが各地域の前近代社会のあり方です。もちろん、そこで問題となるのは、前近代社会そのものではなく、近代化の過程で「創造された」要素もふくみます。
 現代の世界史はそういうが過去からの規定を受けて、さまざまな矛盾を抱え込んでいます。たとえば原住民の抑圧にもとづいて形成されたアメリカ「銃社会」の本質的な野蛮性が、前近代ユーラシアの中心であったイスラム世界と衝突している訳です。世界史の総体分析のために、前近代社会論が必須になってきているというのがグローバル化の帰結です。

ーーそういうグランドセオリーは本当にできるのですか。
 保立 『永原慶二の歴史学』での対談で、質問者が永原さんに、どのようなグランドセオリーを考えるべきかと何度か食い下がっているのですが(これはこの対談ではなく、『20世紀の歴史学』が出版された時、史料編纂所で行われた書評会での永原慶二先生とT氏のやりとりの記憶が混じり合ったものでしたーー追記)、永原さんは、それを考えるのはあなたたち若い人の責任だと取り合いませんでした。これは仕方ないのかもしれないと思います。
 しかし、我々としても見通しは暗くはありません。永原・網野の世代と明らかに違うのは、ここ二〇年ぐらいの間に、ヨーロッパや東アジアの歴史研究者との関係が日常的になってきたことです。海外の研究者にメール一本で疑問をきけるというのは決定的です。
 それから、ヨーロッパ・アフリカから南アメリカまで、どの地域の歴史についても、基本的な研究文献が自国語で読め、研究者の層が厚いなどというのは世界中で日本だけです。たとえばアミンだとか、ウォーラーステインだとかがいますけれども、ほとんど講座派段階での議論レヴェルと同工異曲でたいしたことはありません。大塚久雄・宮崎市定・井筒俊彦などをもった日本の歴史学界の実力というのは、総合力でみれば世界トップです。とくにやはりアジアに属しているというのが強みで、その意味でも、最近、中国・韓国の研究者と歴史教材とか歴史意識の問題で共同作業が積み重ねられてきたことは大きいです。
 心配は、何しろ研究条件が貧困なこと。とくに、政府財務省が学術・大学の恒常予算をどんどん削っていますから、後継者が確保できない。私の職場でも、毎年、助教の人件費を一人分づつ切っていかないとならない。実際に首切りなどということはできませんから、その分、事業費を削っていく。だから(努力はしていますが)新しい人はなかなか採用できない。
 大変なのは若い人たちです。トラップにはまったようなもので、その上、学術自身が衰退していく。補給を絶たれれば、それは必然的です。いったい何を考えているのか。それこそ「戦後」作ってきたものをすべて崩壊させたいのか。
 けれども、新しい世界史のグランドセオリーを考えなければならない時期に入っているのは客観的な状況の問題ですから、これは必然的に進むとは思います。結局、学術・理論より人間の方が大事ですけれども。
ーー最後に読者に何か付け加えたいことがありますか。
 保立 『永原慶二著作集』が完結しましたので、永原さんが何を言われたかを点検することが可能になりました。網野さんの著作集も刊行中です。二一世紀の歴史家にとって、この二つはとても大切なテキストです。そしてそれのみでなく、広く読書人にとっても、津田左右吉や三木清、鈴木大拙らの著作集を座右に置くのと同様に、常に立ち返って読み直す価値のある仕事だと思います。                        (了)

2011年1月24日 (月)

纏向遺跡の桃の種

 纏向遺跡の発掘は現場の雰囲気を知りたくて、昨日のNHKをみる。

 纏向遺跡の建造物の脇の土壙から、魚類を中心とし、猪なども含む供物の堆積が出土したという話である。猪の奥歯。木製の祭剣。竹籠が出土。竹籠はなかなか出土しにくいときいたことがあり、出土したなまの画像は興味深い。話は重要な問題で、発掘担当者のご苦労もよくわかった。番組の「3世紀の王国、邪馬台国」というキャプションも面白かった。
 ものの種は2765コ。野性の桃で直系約4センチのものである。辰巳さんが山で野性の桃を見つけるところは、私も野性の桃はみたことがなく、面白かった。考古学の方で、「桃」の出土状況の集成をいつかしていただけないかと思う。考古学は(特に歴史考古学)は、本当にたいへんな状況にあるように見えるから無理は御願いできないが。

 というのは、相当前、『物語の中世』に桃太郎論を書いた時に、「ところで、このような「桃」の呪力に関係して興味深いのは、中世の遺跡、特に水溝遺構から相当数の桃の核が出土するという事実である」と書いたことがあるからである。これははるか昔に考古学の方にきいた話で、考古の方はよく知っていることだと思う。この論文では、話を聞いた方に確認をとる余裕がなく、ただきいた話としてしまって失礼をしたが、これは民話論にとっては重要な話だと思う。

 以下、『物語の中世』の関係部分を引用しておく。

 さて、桃太郎民話の第三の要素は、「桃」である。桃太郎は「桃」から生まれたという民話の形式もあり、老婆が「桃」を食べたことによって若返ったという民話の形式もあるが、いずれにせよ、「桃」は桃太郎民話と一体的な関係にある。
 「桃」に特殊な意味をもとめる幻想的な観念の淵源が、さかのぼれば中国の民俗的な思想に由来することはよく知られている。これはいわばヨーロッパのリンゴにあたる聖果・聖樹の観念ということができるであろうが、中国の道教には、桃は不老長寿や多産をもたらし、魔物を退ける力をもった仙果であるという観念が存在したのである。特に昆崙山にすむという西王母が漢の武帝に与えたという巨大な世界樹の桃、蟠桃の伝説は有名で、たとえば日本でも、平安時代初期、仁明天皇の大嘗会の標には「王母の仙桃を偸む童子」の像が飾られていたという(『続日本後紀』天長一〇年一一月一六日条)。また平安時代中期、藤原師通が金峯山に捧げた願文にも「王母の桃、子を結ぶ」という一節が残されており(『平安遺文』⑪補遺二八〇。藤原師通願文)、大江匡房の漢詩序にも「昆崙万歳三宝之桃」という一節があるように(『本朝続文粋』八、『古今著聞集』(第五ー一三)、これは広く普及した観念であった。もちろん、「桃」の幻想の根拠のすべてを「西王母」伝説と中国的な道教思想に帰すべきかどうかについては疑問もあり、たとえば、記紀神話の黄泉比良坂に生えているという桃の木の伝説は、日本古代社会の中で独自に形成されてきた側面も認めなければならないだろう。『日本書紀』(神代上、第五段)には「時に、道の辺に大きなる桃の樹有り、故、イザナギ尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて、雷に投げしかば、雷等、皆退走きぬ、此れ、桃を用て鬼を避く縁なり、時にイザナギ尊、乃ち其の杖を投てて曰はく、「此より以還、雷敢来じ」とあり、『古事記』には「黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃ちたまへば」とある。要するに桃の実は鬼=雷神にぶつけ、桃の木の枝は雷神に対する結界をはるための「杖」となったというのであるが、ここで呪力をもった「桃」の観念が、雷神信仰との関係で語られていることは注目すべきであろう。あるいはここには、「桃」の幻想的観念の古層をみとめるべきなのかもしれない。
 このような「桃幻想」は中世社会の中にも広く存在していた。たとえば、『今昔物語集』(巻二七ー二三)には、ある占い師=陰陽師が「此の家に鬼来たらむとす。ゆめゆめ慎み給ふべし」と予言し、「門に物忌の札を立て、桃の木を切り塞ぎて□法をしたり」という記事がみえる。また鎌倉時代の『沙石集』には、ある坊主が、貧乏神を家から追い払うために、「十二月晦日の夜、桃木の枝を我も持ちて、弟子にも小法師にも持たせて、呪を誦し」たという説話がみえる(『沙石集』巻七ー二二)。また『三国相伝陰陽■轄■■内伝金烏玉兔集』には、午頭天王の、守り札として「桃木札」がみえ*1、最近、しばしば中世遺跡から出土する「蘇民将来子孫也」という疫病除けの護符も、桃木で作成されていた可能性が高いと思われる*2。そして、さらに決定的なのは、図(23)の『病草紙』の「小法師の幻覚に悩む男」の場面に描かれた桃である。
 絵巻に痛みもあって、図が若干見にくいかもしれないが、女が病臥する男の方をむいて手に捧げている果物が、桃である。その証拠は、この果実の尻がとがっており、また女の膝の前においてある同じ果物をみると、枝についた葉も長いことである(拡大図(24)参照)。もちろん、葉の長さのみに注目すると、枇杷という考え方もなりたち、そういう解釈もあるが*3、しかし、枇杷ならば、逆に果実の尻は引っ込んでいる筈である。それに対してこの果実の尻はとがっている。中世には「桃尻」という言葉があるが、それは桃の果実の尻がとがってすわりの悪いことから、乗馬が下手で鞍に落ち着かないこと、いわゆる尻軽のことをいうのである。なお、今の桃をイメージすると、この絵の果物は小さすぎるようであるが、もちろん、この場合、今の水蜜桃を想像してはならない。現在、我々が食べる桃は、普通のもので重さ二五〇グラムにもなるが,江戸時代以前の日本原産の桃はきわめて小粒で、重さは20ー70グラムほどであったといわれるのである*4。
 そして、この女が桃を差し出している理由は、単に、それを病人に食べさせようというのではない。病臥する男は詞書きに「やまひおこらむとては、たけ五寸ばかりある法師のかみぎぬきたる、あまたつれだちて、まくらにありとみえけり」とあるように、小法師が登場する幻覚神経症に悩んでいる。女が桃を差し出しているのは、その魔を払うためであった。
 ところで、このような「桃」の呪力に関係して興味深いのは、中世の遺跡、特に水溝遺構から相当数の桃の核が出土するという事実である。これは「桃」によって水を浄化しようとする呪術を意味していたのではないかというが、中世において「桃」と「水」の連想関係が現実に存在したことを明示しているのである。柳田国男は論文「桃太郎の誕生」において、桃太郎民話論を追求する上で、「無闇に子供のように桃というただ一つの特徴を把えて、桃の話ばかり捜してみよう」としてはならないと述べている*1。これは、当時の好事家的な興味関心に対する批判として傾聴するべき面があるが、しかし、桃太郎民話を実際の史料にそくして考えるという立場からすると、この考古学的事実は、川上から「桃」が流れてきたという民話の語り口の背景をなすものとして無視することはできない。柳田国男自身が、同じ論文で、次のように述べていることは、やはり重要である。
      元は恐らくは桃の中から,又は瓜の中から出るほどの小さな姫もしくは男の子,即ち人間の腹からは生まれなかったといふことと,それが急速に成長して人になったといふこと,私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居るのみならず,諸社根元記の載録する倭姫古伝の破片にも,姫が玉虫の形をして筥の中に姿を現じたまふといふことがあるのである。それから今一つは水上に浮かんで来て,岸に臨む老女の手に達したといふこと,是が又大切なる点ではなかったかと思ふ.海から次第に遠ざかって,山々の間に入って住んだ日本人は,天から直接に高い嶺の上へ,それから更に麓に降りたまふ神々を迎へ祭る習はしになって居た.だから又谷水の流れに沿うて、人界に近よろうとする精霊を信じたのであった.
 つまり、柳田は桃太郎民話の直接の背景には「天から直接に高い嶺の上へ、それから更に麓へ降りたまう神々」が、さらに「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」となって訪れるという観念があるというのである。中世遺跡における「桃と水」の関係という事実を前提として、この柳田の見解をうけとめようとすると、最大の問題は、人々が「桃」とかかわって、「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」の姿を何時、どのような場で身近なものとして感じたかにあるだろう。
 和歌森太郎が「三月三日の行事全体が水の精霊祭」であると述べているように*2、おそらくそれは季節的には、三月三日の桃の節句の時期であったのではないだろうか。貴族の年中行事でこの節句が「上巳の祓」と「曲水宴」、つまり、川面に出ての祓えや川遊びの宴を内容としていたのは、この節句の水祭としての性格を示している。それは伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』や『皇太神宮年中行事』などによれば、古くから桃の花びらを浮かべた酒を飲み、草餅を食べるという風雅な節句であった。そして史料は少ないものの、庶民の間でも、その草餅をつくるための草摘みの野遊びも古くから行われていた(『文徳天皇実録』嘉祥三年五月五日条)。この春の野遊びは貴族の「曲水宴」に対応するような川遊びや潮干狩りを含んでいただろう。史料に頻出する三月三日の節料は、上記の草餅などの他、この海川の初穂を含んでいたに違いない。特に海は、この日ちょうど一年で最大の大潮の時であり、『延喜式』(内膳職)などに知ることのできる漁民の三月の節料は、引潮で現れた広大な砂洲・磯をあさった貝や海藻などからなっていた筈である。
 そして、三月は、水ぬるむ季節になるにしたがって、潅漑用水路の整備・修復が本格的に開始される季節である。この節句は潅漑労働の事始めの農休みだったのである。戸田芳実氏が解明したように、先だって二月には「二月田の神祭」が行われているが、その実態は「あらをだのなはしろみづのみなかみを かえるがえるもいのるけふかな」という和歌などが示すように、やはり山から降る流水を祭る「苗代祭り」「水口祭り」であったという*1。そして、この田の神は「右兵衛督忠公月令屏風」に、「仲春たかへする所あり、柳のもとに人々あまたいてみる、たのかみまつる」とあるように、柳の下に勧請されたものであったらしく、また、田の神の依代としての「石」が丸石から道祖神の石像や夷・大黒の像などにいたる多様な形を取り、それが民俗社会における「石」の呪力の基底に存在していたことはよくよく知られているから、おそらくそれは『信貴山縁起』に描かれた、図(25)のような「丸石」を神体とするものであったのであろう。『信貴山縁起』の石の上に立つ木が明らかに柳であることも、この想定に適合的である*2。
 そしてこの『信貴山縁起』の場面で興味深いのは、近くの人家の垣根にピンクの桃の花が咲いていることである。田の神を祭って本格的な農作業の季節に入った人々は、桃の花の開花をみながら、本格的に灌漑労働にとりかかっていったのではないだろうか。そして、人々は、桃の実の成る旧暦六月頃まで、自己自身の労働によって「水」と深く関わり合うのである。近世の神祇書によれば、「桃の守り」とは、厄病よけのために桃の若実を五月五日にとって乾燥させたものというが*3、「桃」は、そのような水の季節を連想させる果花樹であったのである。
 
 最後に一言。しかし、NHKの番組の組み立て方は、面白いテーマを聞きやすいように「作る」という感じは残る。具体的データを具体的に紹介してほしい。もう少し素直な感じにならないものか。

2011年1月21日 (金)

歴史の時間と個人の時間

 年賀状の往来が、そろそろ切れたが、ST氏から、抜き刷りと同時に、昨年送付した『かぐや姫』と『中世の女の一生』の新版あとがきなどについて礼状。
 ただ、若干の違和感の表明があって、御仕事を尊重している歴史家からのことなので考えさせられる。
 おもに、昨年新版がでた『中世の女の一生』の新版あとがきについてである。
 この新版にあたって、私が最近は「中世」という言葉は使わないようにしているので、その事情を述べた。その説明として、井上章一氏の『日本に古代はなかった』という本をあげて説明した。
 ST氏は、このあとがきをみて、井上氏の本を読んだが、賛同しかねる部分が多いという感想。「近代世界システム以前は各地域の歴史は古代と中世が併存していても良いのではないか」といわれる。
 例によって長々としたものになるが、WEBPAGEに「時代区分論の現在」という文章を載せた。本来、書いた時に抜き刷りを送るべきであったが(これは歴史研究者の付き合いの基本)、ついついさぼりがち。

 そこで、ST氏に弁明のデータを載せたと電話をすることにする。むかしは著名な歴史家で電話魔という方がいたが、そういう訳ではなく、久しぶりに声を聞けるし、メールだけより、ブログ+電話の方がよいかもしれない。

 しかし、そこにも書いたが、時代区分論というのは悩ましいものである。
 最後は、個人が過去に向き合うこと、個人の「責任」を含んだ過去への意識と感情をベースにして歴史の時間を内側から理解することに関わってくるはず。そうでなければ他の人も読んでみようとは思わないだろう。そういうことと職業としての歴史学は、どう関係しているのか。

 これはいわゆる歴史の追体験ということは違う。つまり歴史はつねに客観的で一回的であり、本質的に「追体験」できないものであるから。

 それは個人の人生も同じ。私のように、誤りと反省の多い時間を過ごしてきて、今でもそうである人間として、考えると、職業としての学問から、自分は何をえたかということにもなっていく。

 物理的な時間と社会的な時間というもの。個人の時間と歴史の時間の関係。
 ともかく、以下、「時代区分論の現在」(『史海』)の一部を載せる。

 いわゆる「時代区分」の問題というのは、歴史家にとってなかなか悩ましいものである。人間の歴史は、徹頭徹尾グローバルな規模での空間的連関をもっており、また人類史的な長期的レンジでの時間的関連をもっている。しかし、一人の歴史家がその全体を視野に収めることはできない。少なくとも現状では、歴史学の作業はきわめて手工業的なものである。歴史学者は史料自身が語り出すことを記憶し、それを素材として研究を進める。こうして、歴史家は、特定の地域や時代などの研究分野に固定された記憶と分析能力をもつこと自身によって、そこに縛り付けられることになる。日本は、「島国」で東アジアの大規模な「民族間」戦争の局外にいたためであろうか、古くからの「文書主義」のためであろうか、大量の文書史料が残っている国である。こうして自己の能力と大量の史料にしばりつけられた歴史家が自信をもって解説できる歴史上の諸時期はきわめて短い時期に限られてしまうのである。
 しかも、歴史家にとっての「時代区分」の問題性は、歴史家自身が一つの社会的分業の内部で、一つの職能集団をなしていること自身にひそんでいる。歴史家は相互に協力しなければ広域的で長期的な規模をもつ歴史というものを読み解いていくことはできない。しかし、社会的分業の組織がどのような場合でもそうなりがちであるように、歴史家相互の関係は「棲み分けと相互無関心」に堕しがちである。率直にいって、そこでは「時代区分」というのは実際には相互無関心の免罪符にしかすぎないというような関係があるのである。
 やや戯画化していえば、日本では、律令が読めて木簡などの文字史料にも目を配る歴史家が担当するのが「古代」、故実的な経験と実感的な知識によって武家文書を読み、幕府制度を専門的に語ることのできる人々が担当するのが「中世」、お家流でかかれた大量の文書の集団的蒐集と分析に手慣れた手腕をもつ人々が担当するのが「近世」というようになっているのではないだろうか。もちろん、ここ二〇年ほどの新しい歴史学の諸潮流は、このような「時代区分」と突きくずすような内実をもっていたが、しかし、歴史家の職業的知識がどのようなものであるか(また極端な場合はその経歴や交友関係)に左右されて時代区分が成り立っているという関係自身は実態として強く残っている。それは学界の外からは何か意味ありげにみえるかもしれない。しかし、こう考えてくると、私は、「古代・中世・近世」という時代区分は、ほとんど歴史家の棲み分けに依存した職業的暗号かジャルゴンのようなものに過ぎないと嘲笑しておいた方がよいとさえ思うのである。
 歴史家は、その職責からいって、一般にきわめて真面目な人種であるから、こういう決めつけには、もちろん、強い反発があるだろう。たしかに、古代社会的と原始共同社会・奴隷制・封建制・資本制という時代区分がある形で説得性をもち、社会構成体論争が実質上も展開されていた時期には、「古代・中世・近世・近代」という用語は、そういうともかくも概念的な思考を内在させた用語として流通していた。その影響は今でも続いている。また歴史家は、その仕事自身によって古代史家・中世史家という自称になじんでおり、そして、そこには単に「棲み分け」というような関係ではなく、分析対象となった社会の特徴に対する実質的な知識が存在しており、それが特定の学問的主張をはらんでいることも事実であろう。
 しかし、論争というものも絶えて久しいことになっている現在では、われわれ歴史家のいう「古代」「中世」というのは、よくいって一種の暗黙知にすぎないというのが実情である。そして、私が何よりも問題だと思うのは、このような「古代・中世・近世」などという時代区分が、実際には、しばしば日本なり日本史という特定の観点を前提としてみた見方、あるいはより正確にいえば「日本」を主語としてみた歴史の見方を内在させていることである。そこには、実際には、日常意識としての「日本」を過去にのばしていくという惰性がそのまま入りこんでいるのではないだろうか。
 そもそも問題は、時代を区切る、あるいはより一般的にいえば「歴史的な」時間を区切るという発想、「時代区分」をしようという発想それ自身が、しばしばある種の日常意識の反映でしかないことである。つまり、諸個人の個人的時間は、それが拡大した場合も、自己の直接的経験であり、あるいは自己をとりまく人々、配偶者・子ども・親族・同一職業者・友人などの経験の想像でしかない。それは、社会全体が経験していく歴史的な時間の一部をなしてはいるが、しかし、日常意識は、そのような広大な歴史的時間から目をそらそうとするのが普通である。われわれの日常意識は、社会が人間の感情と知識の範囲をこえて客観的構造をもってそびえ立ち、われわれの生活を拘束していることを認めようとしない。そして、それと同様に、われわれの日常を越えて、そのすべてを押し流しながら、どこへ結果するともしれずに客観的に連続していく時間というものが存在することを認めようとしない。過去を意識しているということは、人間に現在を相対化する強さを要求するのであって、われわれの日常意識はその不安に耐えられない。
 そういう不安の中で、われわれの日常意識は、「社会」や「時間」に曖昧な「意味」をみとめ、それらの全体を都合よく解釈したり区切ったりしようとする。安心できる有意味性のための主観的分節化という訳である。そして、実は、その場合の曖昧な歴史意識の代表こそが、「古代・中世・近代」のような歴史の三区分法なのではないだろうか。それは時間を「はるか昔」と今に区分し、その間にいくつかの中間の時期を入れ込むという単純な発想からなっている。たとえばギリシャの「金・銀・銅」の時代という歴史区分法や、日本では平安時代に発展した「上代・中つ代」などという区分法は、その典型であろう。それははじめに完全なものがあって、それが徐々に弛緩・解体してくるといういわゆる下降史観であるが、そこでは「完全」なものは主観的・恣意的に設定される。それは歴史に曖昧な意味をあたえるための型式であって、これによって、歴史は区分されながら、同時に意味的な連続性を確保し、日常意識は、その背後に歴史性をあたえられたかのように自己満足するのである。このような型式がもたらす曖昧な意味性は、最初に措定される「完全」なものの内容が何であるのか、神話的ユートピアと神権政治であるか、あるいは「原始共産制」であるのかなどという問題とは関わりなく存在する。歴史家も、自分自身が、このような日常意識と歴史意識の間の陥穽から自由であるということを最初から前提してはならない。歴史学者は、自分の使う「古代・中世云々」という時代区分法が、上記のような日常意識とどれだけの差異性を確保しているかを疑うところから、その「時代区分論」を出発させるべきなのである。
 何よりも問題なのは、安易な歴史区分法が、実際にはさまざまな社会的な虚偽イデオロギーと連接していくことである。たとえば、『新しい歴史教科書』なる教科書は、驚くべきことに、天皇の代数を神武天皇第一代と数えて注記し、「大和朝廷がいつ、どこで始まったかを記す同時代の記録は、日本にも中国にもない。しかし『古事記』や『日本書紀』には、次のような伝承が残っている」として「神武東征伝説」を説明し、その結論として、「(神武が)初代天皇の位に即いた」としている。これは神話と実在を意図的に混同し、王権の起源をそこにもとめる「万世一系」の主張に等しい。しかもそれが東アジア諸国に対する優越性の主張をともなっているのも見逃しがたい。「日本は、古代においては朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較し、独立した立場を貫いた」(39頁)「わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属しないーこれが、その後もずっと変わらない古代日本の基本姿勢となった」(45頁)「(日本人が)外国の文化から学ぶことにいかに熱心で、謙虚な民族であるか」「それでも自分の国の歴史に自信を失うということがずっとおこらない国だった」(318頁)という訳である。このような「万世一系」と「東アジアの強国」という観念連合のあり方は、戦前の皇国史観と基本的に同一の枠組みのものである。
 これは極端な例であって、極端な例をもって一般的な議論を展開することはできないことはいうまでもない。しかし、日本の普通の国民の歴史意識の中には濃厚な「古代中心性」というべき現象が存在することも事実ではないだろうか。よく知られているように考古学の田中琢氏は考古学的発掘が異様といえるほど広い関心を集める国としてイスラエルとならんで日本をあげている(「考古学とナショナリズム」『岩波講座日本考古学7』、1986)。ここに、日本の歴史の文化的価値を、「古代」を起源とするものにもとめようという雰囲気が反映していることは明らかである。そして、その背景に「旧王」ではあっても、天皇制が日本の歴史におけるさまざまな条件の中で保存されてきたという事実があることも否定しがたい。「古代・中世・近世・近代」という図式を暗黙知のレヴェルのままに繰り返していれば、それは歴史の起点が特殊な「古代」から始まるという社会意識の存在と共鳴する効果を及ぼすことになるのは見やすい道理である。
 この問題は、どの時代を専攻するにせよ、やはり「日本」の歴史家にとって根源的な問題であるといわねばならない。よく知られているように、網野善彦氏は、そもそも「日本」というものを歴史的に捉えようとする観点をもってなかったと戦後歴史学を痛撃する(『日本とは何か』中央公論社、2000)。その戦後歴史学批判のあり方には賛同できない点を残すとはいえ、しかし、その問題提起自身は正確に受けつがれなければならない。私は、田中氏や網野氏などの問題提起は、「古代・中世・近代」という時代区分の問題性と決して無縁ではなく、むしろ本質的に関係していることの確認が必要だと思う。
 端的にいうと、私の提案は、こういう一国史的な範疇としての「古代・中世・近世」という用語を何か意味のある学術用語であるかのように使用することはもうやめてしまおうというものである。逆にいうと(後にのべるような限定はあるが)「古代・中世・近世」という用語を使用する場合は、基本的に世界史的範疇としてのみ使用しようという提案である。私がこのような考え方をいだくようになったのは、二〇〇〇年の歴史学研究会大会総合部会で「現代歴史学と『国民文化』」という報告をし、宮地正人氏から誤解にもとづく反論をうけ、それに応答する中でのことであった。その研究上の結論は、ほぼ『黄金国家』(青木書店、二〇〇四)に書いた通りであるが、東アジアの中での日本という観点を貫いていくと、結局、東アジアの歴史段階を確定することを優先させざるをえないというのはある意味で当然のことである。『黄金国家』ではほぼ四世紀以降の日本の国家形態を東アジア史の観点からは「民族複合国家」と規定せざるをえないということになったが、それだけ東アジアの規定性を重く見ることになれば、その時代を日本独自の「古代」などと規定するのはほとんど無意味となる。
  (以下、WEBPAGEPAGE)

2011年1月20日 (木)

一ノ谷墳墓について、中世遺跡の保存運動の過去

職場のコンピュータのリプレースでハードディスクの中を移していたら、下記に引用した静岡県磐田市の一ノ谷中世墳墓の保存運動の記録がでてきた。 「歴研アカデミー」の一冊に載せたもの。あれは再版になる可能性はないので、WEBPAGEにも載せた。

 職場のコンピュータの旧メールが、一瞬、すべて消えたかという私の操作ミスがあり、昨日から復旧などで疲れる。それにしても実務を担当されている研究所内の何人かのメンバーには頭が上がらない。いままではリプレース期間4年の間、つねに負債を感じて生活していたが、これが最後の負債感であるが、それにしても重たい。史料編纂所には専門のシステム管理者がいなくなったので、人の研究時間をいただいている負担感。

 家に帰って、ややのんびりさせてもらう。最近のわが家のはやりのショウガ入り紅茶を飲んでいたら、先日のブログに鉄粉製の携帯「あんか」と書いたことについて、相方から笑われた。「普通はそれはホッカイロという」ものだと。
 それを題に食卓で、そこはかとなく書きつづる。
 学者の頭というのは、素晴らしいスピードで固くなっていくもので、しかも、とくにカタカナ言葉が消えていくというのは、私たちの世代のセイなのだろう。私たちくらいまでは、言語の深層が和言葉でできていて、カタカナ言葉がでてこないというのは、よくあるのではないですか。
 しかし、カイロがでてこないで携帯「あんか」となったのにはまいる。


 学者の文章というのも荒れていくもので、石母田さんが、どこかで嘆いていたのを記憶する。私の場合は、むかしから文章はよくないから石母田さんと比較するのも恐れ多いが、しかし、仲間からは、昔よりは、分かりやすくはなってきているといわれる。分かりやすい文章が荒れていくと、砂をかむようなつまらない文章になっていくのであろうか。

 下の文章も何とも事務的な文章で、しかも意余ってというところがあるから、読みにくい。20年近く前の文章であるが、それでもいかにも自分の文章であると思う。ディスプレイでみると漢字だらけである。

 これを読むと遠江考古学研究会の方々、市民の会の方々、そしていつも一緒に磐田まで行った池享さん・宮瀧さん、小和田哲男さん。そして石井進さん、網野さん、峰岸さんを思い出す。一ノ谷の丘には何度登ったことだろう。一度は、子供と一緒にいって、彼が崖を駆け下りるので、遺跡が壊れるのではないかとはらはらした。

 考える会のパンフレット「見付の町に一ノ谷があった」をPDF化して、ホームページの方に載せる予定が、うまくいかずに、遅れている。会のみなさん。もう少し待ってください。

中世遺跡保存の状況とその方向性
                一の谷中世墳墓群の保存運動の経験から
                           保立道久
   はじめにーーーー一の谷中世墳墓群と私
 一九八九年一月に完全に破壊された静岡県磐田市の一の谷中世墳墓群の保存運動の経験をもとに話させて頂くのですが、しかし、すでに破壊されてしまった遺跡の保存運動の経験について何を語るべきなのかということに、最後まで迷いました。
 遠江国の府中である見付の外縁部に営まれた二千余の墳丘墓、集石墓などからなる一の谷中世墳墓群は、中世の墓制や地方都市の内部構造を明らかにしうる遺跡として全国的注目を集めたものです。この遺跡の学術的意義については、保存の呼び掛けのために急遽出版された『中世の都市と墳墓ーー一の谷遺跡をめぐって』(網野善彦・石井進編、日本エディタースクール出版、一九八八年八月)を是非参照して下さい。
 さらに、一九八五年の史学会シンポ「中世都市における墓地の問題」に始まり、一九八七年七月に発表された日本民俗学会・日本考古学協会・日本歴史学協会文化財保護特別委員会などの四二学会の連署要望書という規模に展開した学会運動の経過については、『列島の文化史』(第五号、一九八八年五月)に池享氏が執筆した「一の谷中世墳墓群保存問題の経過」を参照して頂きたいと思います。また、一九九〇年の八月には、現地で必死の市民的な保存運動を行った「一の谷遺跡を考える会」の活動をうけて、「一の谷」編集委員会が編纂した『見付の町に一の谷があった』が発刊されます。そこには「考える会」が主催した「市民大学」の記録とともに、運動の経過と資料がまとめられています。
 考古学の立場からは遺跡の破壊後もすでに幾つかの仕事が発表され、問題が深められていますが、私が一の谷について語ることができる内容は、以上を越えません。私は、中世の社会史・社会経済史を、主に文献や絵画史料を中心に研究してきたもので、遺跡保存問題との関わりは、横浜市金沢区の上行寺東遺跡の保存運動の最後の段階で国会請願の事務を担当したのが初めてです。一の谷遺跡に関わったのは、正直にいって最初は上行寺東遺跡が破壊された衝撃の中で、これも破壊の方向に進んでいた一の谷中世墳墓群をともかくも見学しておこうと思って一の谷を訪れ、そこで上行寺東遺跡の保存問題の中で偶然の機会に会ったことがある山村宏氏が大きな困難に直面していることを知ったからです。
 私は、個人的な事情もあり、右に上げた一九八五年の史学会シンポにも、翌年一九八六年三月に磐田市で行われたシンポ「中世墳墓を考えるシンポジウム」にも参加しませんでした。その翌年になって再度展開された学会運動に参加して、右にふれた四二学会の声明の実現のための事務局を池享氏とともに勤めることになったのです。こういう経過ですので、どうしても私の念頭を離れなかったのは、自分が運動の初期から関わっていなかったことへの疑念です。
 そういう立場のものが、遺跡が破壊され、山村氏が遺跡の破壊が決定的な状況になる中で体調を崩され、一九八九年七月二七日、死去された後になって、一の谷について何を語るべきかというのは、今でも分からないというのが正直なところです。しかし、氏が常にいっていたこと、つまりここしばらくの内に破壊がさらに激しく進行するであろう日本の中世遺跡をどのように保存すべきか、その全体的方向を考える価値観は何かということについて考えることは残されたものの義務であります。
Ⅰ中世遺跡の保存と史跡指定
 中世遺跡の史跡指定の問題については、文化庁文化財保護部の主任調査官であった北村文治氏の「中世史跡保存の諸問題」(『月刊文化財』一九七二年七月号、文化庁文化財保護部監修)が全体的な論点を提出しています。約二〇年前のことですが、氏はその段階での史跡の内、中世の史跡が「十分の一でしかない」という状況に疑問を発し、史跡の指定基準そのものの視野に「あまり中世のウェイトが置かれていない」「中世固有の遺跡の種別があまり配慮されていない」こと、その原因の一つに「明治以来の顕彰的性格の強い史跡観」があり、そのために「中世が史跡保存のブランク」となっているとしました。
 その上で、氏は、中世遺跡の指定の在り方として、①近世遺跡と重なる場合が多いこととの関係などもあり、保存度のよい遺跡は極めて稀れであるが、その点にのみ着目するのではなく「その史跡の個性に即して現地で充分考えてみる」べきこと、②近世の城跡の指定保存はほぼ終了しているが、中世の城館跡の指定保存はきわめて微々たるものであり、その広域保存が望ましいこと、③「不安定な中世社会に、それゆえにこそ必要にされた秩序、自衛、平和という観点でとらえうる」遺跡として、宗教遺跡、特に修験道関係の遺跡などがあることを提言しています。
 このような指摘が七〇年代初頭に文化財保護行政の立場から行われていたことはたいへん貴重なことで、『日本歴史』の「文化財レポート」に北村氏が執筆した一連の「史跡論」と併せて、それは文化財行政に踏み込んで中世遺跡の問題を考える手掛りを提供しています。おそらく、このような論点が提出された前提には、一九六八年の金沢称名寺、そして一九七〇年代に入ったとたんに起こった埼玉県川越館址と奈良県池田庄遺構などの保存運動などの動向があったのでしょう。
 その後、中世遺跡の指定行政は、ほぼ北村氏の指摘にそって進みました。左図は『史跡名勝天然記念物指定目録』(文化庁、一九八四年)をもとに、その後の指定を加えて八八年度段階で集計してみたものです。十分正確なものではありませんが、これによると、現在国による指定をうけた中世の史跡は一九八件あり、その史跡総数の中での割合は約一、五割に増加しています。そこに文化財行政関係者の懸命の努力があったことは明らかですが、しかし、他面、北村論文が発表されてからほぼ二〇年が経過しようとしているのに、中世遺跡をめぐる問題状況には大きな変化がなかったともいえるように思います。国史跡の総数についても、原始五三六件、古代二六六件という数字と比較して、将来の日本に時代的なバランスをもった史跡を残すという観点からみて、一九六件という中世の史跡総数が妥当なものかについて疑問は残っています。
 そして史跡の内容を全体としてみても、中世史跡の体系には皇国史観のような戦前以来の偏ったイデオロギーと旧式な「博物学」を背景とする顕彰主義的性格がまだまだ優越した側面として残っているといわざるをえません。たとえば、指定基準の「二」の「政治に関する遺跡」のうちの「宮跡」は南朝の行宮跡が相当部分を占めますし、指定基準の「八」の「特に由緒のある地域」(六件)なるものの殆どが南朝忠臣の伝説地(楠木正成、「児島高徳」、新田義貞、桜山茲俊など)です。問題の中世墳墓についても日野俊基、北畠具行、楠木正成の墓などは、「勤王の士」を中心とした顕彰主義的な墳墓の指定方針の一環であり、また城跡についても南朝史観の残存を指摘せざるをえません。
 もちろん、それらの史跡が無意味であるというのではありません。しかし客観的体系としてみれば「南朝史観」が生き残っていることは事実であり、図を見れば分かりますように中世の史跡一九八件のうち半数強(一〇七件)が「政治に関する遺跡」であるという状況との関係で、それに無関心でいることはできません。こういう顕彰主義を除いていくと、やはり中世の史跡の内容は実に貧困なものになってしまうのでないでしょうか。もちろん、この間、特に「城館跡」の指定、追加指定を中心として相当の成果がありました。また八〇年代に入って「女堀」(群馬県)や「奥山荘城館遺跡」(新潟県)が実質上内容のある中世の荘園遺跡として初めて史跡指定されたことは重要な意味をもっています。
 発展は、その上に立ってのみ可能ですが、その際、重視されるべきものが、地域社会の遺跡、そしてそこを生活の場とする民衆と庶民の遺跡であることはいうまでもありません。それこそ、遺跡の体系を戦後の歴史学の発展に追い付かせる課題の中心でしょう。
 その意味で私は、現在問題になっている平泉の奥州藤原氏の政庁「柳御所遺跡」の史跡保存は史跡体系の中心をなす「政治に関する遺跡」という指定基準を問い直す意味で重大な意義をもっていると考えます。大石直正氏は柳御所の保存問題に関係して、指定基準に「館跡」がないことの不備を指摘されていますが(毎日新聞、一九九〇年九月八日夕刊)、一九五一年に制定された指定基準自体の孕む問題は北村氏によっても指摘されています。問題は指定の内容自体にあるのですから、現行の指定基準を改定することで全ての問題が解決される訳ではありませんが、氏の示唆を引き継げば、指定基準はたとえば「政治・法制、都市、集落、商工業、貿易・対外関係、宗教・祭祀・墓制、生活」などのより合理的かつ客観的な分野に再編成されるべきであり、その全てを通じて「多数者」としての民衆を重視した各時代毎の運用の基準が学界の議論を基礎にして構想されるべしょう。
Ⅱ地域の歴史像と中世考古学
 たとえば現在指定されている各地の中世史跡を巡り歩いた人はどういう歴史像をその中からうることができるでしょうか。北村氏は史跡指定とは「全国各地の遺跡を点や面でおさえながら、それを総合して日本の歴史像を再構成していこう」という作業であると述べています。たしかに史跡指定とは国費を使用し、保存された土地・空間自体によって、地域を基礎に全国的視野をもつ重層的な歴史像を構成していく作業、いってみれば土地と遺跡・遺物自身による歴史叙述の作業なのです。
 それは当然に各地域・自治体にとっての問題でもあります。そして、市民の目を重視し学術的基盤をもった歴史像を学問的研究と地域住民の共感の力によって、地域の土地に刻みつけること、それが文化財行政と遺跡保存運動の仕事であることも確かです。その中で現在の焦点は、地域的文化財の保存計画をどのようにして都市・農村の地域計画の一環に系統的に組み入れていくかにあります。それは市町村の作成する各種の総合計画をみれば明らかなように、少なくともうたい文句としては一般行政においても了解されていることであり、七〇年代以降、各地で様々な「史跡の町づくり」構想が作成されました。しかし、実際には担当者の努力にも関わらずそれを実効的なものにする上では様々な問題があったように思われます。中世史研究はこの問題にどのように貢献できるでしょうか。
 一の谷遺跡の存在した磐田市でも、一九八一年、「遠淡海の里」というテーマで歴史的環境整備計画を立案した経験があり、私たちは一の谷遺跡の保存運動の中で、これに注目し、初期の段階における保存計画(参照、佐久間貴士「一の谷中世墳墓群の保存について」、『歴史手帖』一九八六年一一月)をも引き継いで、「提言『遠江の里』構想と磐田市立博物館付属『一の谷史跡公園』」を発表しました。保存のために実際に力を発揮するためには遅すぎた感がありましたが、遺跡保存運動の中で磐田市の中世の歴史が全体として明らかになりつつあったため、それはそれなりの総合性・体系性を有するものとなりえたように思います。
 その作業を通じて感じたのは、「史跡の町づくり」を構想し、さらに市民の支持をえて実現するためには、中世の歴史を重視することが大切な意味をもつということです。たとえば、磐田市民は「ジノカミサン」と呼ばれる屋敷神を今でも大事にしており、また「裸祭り」といわれる見付天神の祭りや、「舞い車」という謡曲や「遠州大念仏」という念仏踊りなどの芸能に親しんでいますが、それらが中世の磐田の歴史に背景を有し、その理解に一の谷中世墳墓群が重要な意味をもつことが明らかになったことは、市民に大きな衝撃を与えました。
 このようなことは、一定の歴史的伝統をもつ地方都市については多かれ少なかれいえることではないでしょうか。たとえば一九六八年の横浜市の金沢文庫称名寺の裏山の保存運動、そして、八〇年代の半ばに同じ地域で起き、現在の中世史学界の遺跡保存問題の方向性を決定した上行寺東遺跡の保存運動は地方都市における身近な遺跡・文化財の保存に対する市民の共感を集めて展開しました。甘粕健氏が前者について「中世史家を中心とする全国的な歴史学者、考古学者、学生と地域住民が手をつないで起ち上がり、婦人会をはじめとする地元住民団体が大きな力を発揮した」といっているように(甘粕健「考古学への招待」、『新編日本史研究入門』東京大学出版会、一九八二)、そこには地域の歴史的・自然的環境の保護に根ざした運動があったのです。
 また、現在、先に触れた平泉の「柳御所」遺跡、和泉国日根庄、石見国益田氏の館跡「三宅御土居」、栃木県小山市の「鷲城」城跡、愛媛の河野氏の居城「湯築城」など、いずれも劣らない中世遺跡の保存運動が展開されており、それは六〇年代末・七〇年代初頭に始まった中世遺跡保存運動が再びピークを迎えていることを意味しています。そして、それらのどの場合をとっても、自然と文化財を守るという立場から都市計画に踏み込んだ問題提起が行われているのが特徴になっています。これは原始・古代の遺跡と比べても、しばしば都市域近郊に立地する中世遺跡が、都市再開発の中で、その町の歴史的伝統や都市環境の保存問題の焦点とならざるをえないことを示しています。
 もちろん、中世史ブームなどといはれるますが、市民の中にはまだまだ中世に興味をもつ人々は多くありません。むしろいわゆる歴史愛好家は原始・古代や近世に多く、また自治体の文化財行政も、しばしば原始・古代の考古学と近世史が中心となる傾向があるのが事実でしょう。しかし、原始・古代の地域史は市民が都市内部に日常化・民俗化した歴史的環境からは離れていることが多いし、逆に近世の文化財は地域の長期的な歴史を実感するためにはあまりに時代が近すぎる場合が多いように思います。
 中世の遺跡はその間を繋いで、広い範囲の人々に身近な文化財の歴史的意味を実感させる力をもっているのではないでしょうか。最近、中世史家が遺跡保存問題に熱心なのは、そのためであるという事情を他の分野の研究者に是非伝えたいと思います。特に古代あるいは考古学の研究者の意見を聞きたいことは、率直にいって、地域の歴史像を構成し、多様な市民の関心を吸収するという立場からすると原始・古代の歴史は大きな限界を抱えている、あるいは少なくとも系統的に通史的な歴史像を構成し、市民の関心を蓄積していくという点からみると大きな限界をもっているという点です。
 もちろん、古代史研究あるいは考古学の独壇場ともいうべき役割が日本における原始的な社会形成を取り扱い、それを通じて直接に人類史・世界史の研究に貢献することであることはいうまでもありません。しかし、考古学の側でも中世考古学と中世遺跡の保存により多くの研究を集中する必要がいわれ始めています。それは遺構から出発する考古学が、どのようにして歴史像を語れるかという問題、いわゆる「歴史叙述をめざす考古学の確立」(『UP考古学選書』刊行のことば)という課題に中世遺跡が深く関係しているからではないでしょうか。それは考古学自身にとっても外側から提起される問題ではなくなっているのです。
Ⅲ中世史研究と遺跡保存
 現在、中世史学界では、中世遺跡の調査・研究が学問的にゆるがせにできない課題であり、その保存が一つの職能的な責務であることを否定することはできなくなっています。それは全国各地で中世遺跡の保存運動が展開しつつあるためですが、より根本的には中世考古学がめざましい発展をみせているからであり、また新たな視野からの地域社会研究の必要が自覚されているからだと思います。
 その場合、何よりも重要なことは、遺跡の保存と地域のフィールドワークの問題から中世史研究の課題と方法を捉え直す仕事を研究者おのおのが独自なスタイルをもって行うことです。たとえば、戸田芳実氏は七〇年代前後の保存運動の経験から「文化財保存と歴史学」(岩波書店『日本歴史』二五、一九七六年)という論文を書いていますが、その時と比べて、特に八〇年代以降急速に中世考古学が発展した現在、それはさらに大きな成果を期待できる仕事になっています。それを根本においた上で、保存運動の考え方としておそらく最も問題となるのは、考古学と文献史学の間での学際的協同の在り方に関わる問題でしょう。
 千々和到氏が「歴史時代の遺跡をめぐる評価は、今後は、歴史研究者と考古学者との協同の中で確定されねばならない。しかもこの原則を文化財保護当局に認めさせなければならない。こうして中世墳墓群の保存運動は、単にその遺跡の学問的評価を問題にするだけにとどまらず、いやでも行政の方針転換を求める運動にならざるをえないのである」(「山城国一揆五〇〇年と戦後歴史学について」、『日本史研究』二九七号、一九八七年)と述べているように、それは単に学問上の問題ではなく、学際的協同が史跡指定行政自身の中に制度化されねばならないという保存運動の課題に直結する事柄です。
 それだけに逆に学際的協同の在り方を率直に議論することが必要になるのですが、問題は、文献史学と考古学の性格・目的の相違とその相互認識の在り方にあります。まず文献史学は、戸田芳実氏の表現によると考古学と対比して「現地をはなれたところでの文献的研究が主となり、現地での調査がその補助手段になる傾向がつよく、したがってフィールドワークも短期間にとどまり、地域の人々の中で保存されてきた諸文化財を、その人々との交流の中で綿密に系統的に研究し地もとへ返していく調査・研究活動はきわめて遅れてい」るという性格をもっています。
 もちろん六〇年代において荘園文書に恵まれた地域の共同研究による現地調査がいちだんと盛んになり、地形・水利・耕地形態・小字名、民俗行事・伝承などに関する調査が意欲的に進められましたが、それは研究動向としては当初期待されたよりも小規模なものに止まったというべきでしょう。そういう状況の中で、最近、服部英雄氏は「荘園調査はなぜ行われないか」(『日本史研究』三一〇号、一九八八年六月)という論文を発表し、荘園・村落の調査研究活動を(近世史との協同までを視野に入れて)科学運動の上で位置付ける必要を指摘しています。たしかに、史料に恵まれない中世荘園の地域史像を構成するためにも、保存運動のためにも、それは重大な意味をもっているというべきでしょう。特に氏の強調する圃場整備の中で消失しつつある地名の調査、あるいは金石文や中世木簡の研究などは、広い意味での文字史料の調査であり、文献史学の立場からも必須のものであるはずです。
 しかし、他方、六〇年代以降、中世史料の公開・編纂が進展し、活字史料を収集・調査するのみで相当の研究が可能になってきたという状況の中で、知らず知らずのうちに狭い意味での文献史料のみで充足する傾向が浸透してきています。それは一面で進歩的かつ必然的な過程ではありますが、私のような普通の文献史学の研究者にとっては、それのみで研究を終えるということになりがちです。このような弱さを「文献主義」というとすると、それがどこかで脱却されねばならず、広い意味での遺跡保存問題がその試金石となることは明らかです。
 さて、これに対して考古学はどうでしょうか。甘粕氏が五〇年代から六〇年代の南武蔵の古代遺跡・古墳群の保存運動に触れて述べているように、考古学およびその立場からする遺跡保存運動は常に徹底的な分布調査・フィールドワークに支えられて展開するのが基本です。そして発掘調査においては、何よりも遺物・遺構の中から、特に長期にわたる遺構調査の中から自然科学的な厳密さをもって問題を提起しようとします。これが文献史学と比べて大きな優位点であることはいうまでもありません。
 しかしその反面、歴史像を語るのに過度に慎重である傾向、そしてそれを越えて北村氏のいう「遺構主義」におちいる傾向がないでしょうか。北村氏によると「遺構主義」とは戦後の文化財行政の中に、戦前的な顕彰主義にかわって登場したもので「戦後の考古学の発達によって、いつとはなしに発掘調査によって検出された重要な遺構がなければ、指定・保存の対象にならないか、もしくは対象にしにくいというような風潮」のことです。氏が「事物を正確にとらえ、安易な指定を排除する点で今後とも欠くべからざるものであるが、これのみに頼ることは、他面社会経済史的・精神文化的視点を見失う懸念なしとしない」とし、荘園や町並・集落の史跡指定において、(本稿に即していえば中世遺跡について)遺構主義が足枷となっているとしていることは注目すべき指摘であると思います(「史跡保存における理想と現実」、『日本歴史』三〇五号、一九七三年一〇月、文化財レポート六三、「史跡保存の思想と理論」、『同』三一四号、一九七四年七月、文化財レポート七二)。
 もとより氏の指摘は、たとえば文化庁記念物課における史跡担当と埋蔵担当の分課の在り方に関わるような文化財行政の問題に直接関わるものでありますが、遺構主義が考古学研究者の中に根強く残っており、「歴史叙述をめざす考古学の確立」においても、文献・考古の協同においても重要なネックになっていることは否定できないと思います。
 以上、文献史学と考古学の両者について検討してきましたが、実はこのことは文献史学と考古学の研究者自身の性格の相違という問題にも関わっています。だいたい考古学は甘粕氏によりますと「野外の健康な学問」で、しかも集団的な作業ですが、文献史学は室内の一人でやるデスクワークが基本となります。考古学者はどのように重要な遺跡に対しても、研究者個人のライフサイクルの中で炎天下の調査活動の中で出会う遺跡の一つとして最初から客観的な構えをもっています。普通の文献研究者にとっては遺跡との出会いは最初から一生に何度かという鮮烈な出会いとなります。
 保存運動にとって「文献主義」と「遺構主義」は両者とも許すことができないものですが、そうであればあるだけ運動論上の問題としても上記のような人間的な相違、感覚的な相違については相互的な寛容を確保していなければなりません。私は、最近の中世遺跡の保存運動が、十分その点を配慮し、特に考古学と文献史学は相互に決してその成果を安易に「寸借」してはならず「相互の方法論に立脚しそれぞれが照射出来る側面を丹念に解明していくことが、将来望まれる共同研究の前提となる」(宮瀧交二「古代東国村落史研究への一視点」、『物質文化』五一号、一九八九年一月)という原則、学問的な自律性の確認を行ってきたことは今後にとって大事な意味をもつと考えます。
 さて、私は、実際のところ、中世考古学の発展の詳細については十分に承知しておりません。しかし、私の専攻する中世前期(平安鎌倉時代)の社会経済史にとっても、それが決定的な意義をもつであろうこと、本当に意外な詳細までも発掘調査は解明していくであろうことは私にも予測できます。その中で中世考古学は、徐々に古代社会の考古学と一体化していくことになるのではないでしょうか。それを通じて中世考古学は実際上は文献史学の位置が非常に高いといわざるをえない従来の古代社会像を相対化し、古代律令制の社会経済的結果がどのようなものであったかを具体的に解明していくことになるでしょう。勿論先にも触れましたように、考古学研究の独壇場が非文献史料の時代、原始時代であることは確かですが、右のような予測が正しいとすると、古代・中世の考古学の一体化は日本における「野蛮から文明へ」の移行とその結果を総体として明らかにする上でいよいよ重大な役割を果たすのではないでしょうか。
 それがどこまで出来るかが、遺跡の調査・発見・保存と破壊の間の競争にかかっていると考えますが、私はそのような見通しをもってこれからも中世史研究と遺跡保存問題を考えていきたいと思います。
 おわりに
 その破壊が暴挙であったことを忘れることはできませんが、一の谷中世墳墓群は、上行寺東遺跡のような行政犯罪(虚偽的な議会対策や文化財審議会無視など)と発掘会社の手によって最初から半ば運命を定められていたような遺跡ではなく、当初は行政の上でも相対的に保存の条件が高かった遺跡です。その破壊は、ことあるごとに歴史的伝統を尊重せよと居丈高な説教を行う現代日本の政治家たちの文化的貧困と底意をみせつけたように思います。その中で、私は、この国の歴史学の社会的根拠はなぜこのように脆弱なのだろうか、現代日本における開発は、なぜほとんどの場合歴史的文化財と自然の破壊をともなうのだろうかと考えさせられました。
 日本社会において「開発」がこのように野蛮で非歴史的な行為となる理由は、まずは近代の日本資本主義の性格、特に戦後の「高度成長」期に独自な特徴として検討すべきだろうとは思います。しかし、問題の根はさらに深いのではないでしょうか。それを考えることは、前近代史の研究者が日本社会の現状分析と国民の歴史意識の分析に参加する上で、大切な仕事になるでしょう。別稿(「中世の開化主義と開発ーー研究史からの視角」、『地方史研究』二二六号、一九八〇年八月)で述べましたように、私は、そこには、丸山真男氏が議論しているような、日本の近代社会が前近代の歴史から受け継いだ開化主義的な(同時にその裏面に復古的「維新」の論理を随伴した)文化的バーバリズムの問題があるのではないかと考えています(丸山「歴史意識の『古層』」、『日本の思想 ⑥ 歴史思想集』筑摩書房、一九七二年)が、その当否はともあれ、歴史学としては遺跡保存運動は、そのような視野の下に取り組まれなければならないことは明らかでしょう。
                                        w

2011年1月19日 (水)

タランチェフスキ氏(続き)

 「彼は時々、私に対して怒りの感情をあらわにしたことがある。彼のいうのは、史料編纂所のスタッフは、日常的な編纂の仕事につけくわえて、様々な情報学・データベース関係のプロジェクトの計画と実施のために過負荷になっている。欧米の研究者は、それらから大きな便宜をえているのも関わらず、日本の研究仲間に対して、実務的な何らかの貢献によってお返しをするという必要にまったく鈍感なようにみえる。ギヴ・アンド・テークの原則が、相当長い間、バランスを失することになっている。」

 1回前の記事の英文の最後の方に、上のようにでてくる彼は、私のこと。

 私は短気なところがあるので仕方ないかもしれないが、「怒り」というのは言い過ぎで、タランチェフスキ氏に訴えたというのが、正確なところである。歴史学の国際交流というのは、やはり片方から持ち出しでは、Self-Determinateの仁義に反する結果をよぶと思う。労力のレヴェルでの協力というのが歴史学者にはふさわしいし、ネットワーク上での、あるいは電子データ作成の上での協力というものがあって然るべきだと思うというだけ。実際には難しいことが多いが、善意と常識と意志があれば、それが可能になっていることが素晴らしいと感じる。

 これは見聞の限りでは、自然科学の基礎研究では当然のこと。一方が一方に情報を伝えるだけというようなことはありえない。国籍がどうあろうと、研究者としてはまったくEVENというのが常識。歴史学研究というのもEVENになっている側面が目立つようになった。

 編纂というのも、歴史の研究にとっての基礎研究、いわば自然系でいう基礎研究=実験と同じ位置があるので、一緒にやる方法を考えないとならないのではないかというのが、彼と話す時の口癖であっただけである。しかし、親しさにまかせてのUtter his angerであったので、彼がそんなに気にしてくれているとは思っておらず、実際に協力の方向を考えるということは、本当にありがたいことであった。

 職場のPCがリプレースになって、ブログへの記入(コピーアンドペースト)がうまくいかず、二回の記事となる。

 昨日から、インストールやメールの復旧で仕事にならず。自分のPCもうまく扱えないという重大コンプレクスが、しばらく続く生活となりそうである。人に世話になるばかりで本当に申し訳なし。

BONN大学での歴史学と情報学についてのシンポジウム

 ボン大学のタランチェフスキ先生が、昨年12月にボン大学で開催された「東アジアにおける文化的遺産の共用と情報コンテンツビジネス」というシンポジウムでの御報告のテキストを送ってくれた。掲載は御了解をいただいている。

 昨年9月28日のこのブロクに書いたように、このシンポジウムでの彼の報告について相談をうけた。その報告の英文である。

 最後の方に、次のようにある「彼」は、私のこと。

 

Digital Archives and historical databases – are they public or private?

Detlev Taranczewski

– Conference: Contents Business and Shared Cultural Assets in East Asia. Bonn, 3.-5. Dec. 2010

1. Introduction

I do not know how I should feel for having the last but one word in this conference. My field of work is the history of Japan, especially the history of medieval and of ancient eras, from about the 6th to the 16th centuries. I have done some fieldwork and documents research on several regions, for example in Eastern Japan (Nitta-district in Gunma prefecture) and in Western Japan (Nishinooka-region in the southwester part of Kyoto basin). The sources of my research were written documents, maps old and new, archaeological findings, and the landscape itself including the people living in the landscape and forming it, shaping it.

As a matter of course in all my work I felt deeply dependent on well-organised collections of sources and of kind and co-operative people who guided me and gave me access to these collections. During my work I were not only collecting sources, but also a huge amount of precious experience. I learnt to appreciate the organisational work of changing sources into accessible and usable contents. I had the useful pleasure of having been slightly involved in projects of this kind of contents production (frankly speaking: I had a lot of pleasure, my colleagues had a lot of labour). When talking of contents it will be the best for me to set focus on the matter I have a concrete idea of and every scholar doing research on history subjects is confronted with.

My crucial question is: what is going on with the collections of historical sources and data, the stuff any historical research and historiography is consisting of? What is their mode of production and to whom do they belong actually? In what direction is this mode of production developing and what kind of change will accessibility of source collections undergo in the nearer future? What kind of new contents is being created?

My presentation will be concentrating mainly on the Historiographical Institute at the University of Tokyo, its source collections and its contents production, especially as its digitalisation is concerned. Since the early 1990ies for several times I was given the opportunity of doing research in this noble institution and to discuss the matters of history and its sources with staff members. So I have the feeling of commitment not only for the problematic subject itself but also for this wonderful institution. I am especially oblieged to Professor Michihisa Hotate, who, besides Professor Shigekazu Kondo, gave me answers full of commitment on my questions and provided me with sharp arguments in the discussion.

My speech will consist of four parts: At first a report of the activities of the HI, secondly of the challenges it is facing, and thirdly some perspectives for the near future of work on history.

2. Given Situation

2.1 Let me begin with some general remarks. It is currently being lamented that Japan is not possessing “archives”. This proposition may meet the target if you compare Japan with – for example – Germany. I am not a specialist of this stuff, but obviously Germany is very a special case in this point.

Germany has a long lasting tradition of Regionalism / Federalism which is continuing until nowadays. In connection with this political structure local and regional archives emerged quite early together with the regional governments. The emergence of these archives was on the other hand obviously caused by the special role of old documents (other than Japan old documents could be used to prove actual rights to a very far extent). Also several historical institutions – like free cities and Roman law based church organisation – and the tradition of absolutism might have played a role. Absolute rule was based on a well working bureaucracy, and a bureaucracy needs documentation to take its measures and needs archives to store the documents as proves.

On the other hand, in Japan the tradition of bureaucratic archives, which emerged under continental influence together with the formation of the centralised ritsuryô-state in the 6th century, was harshly interrupted at least twice: during the long medieval revolution and during the short modern Meiji revolution. Archives were going lost, and with them their traditions. Many documents are until nowadays in possession of organisations which we have to consider under the present legal conditions as private ones – so as Buddhist temples and Shinto shrines, noble houses including the imperial, and so on. Of course public archives do exist, often on a Prefectural level, and some of them already began to digitalise their stock. In Japan other institutions than archives in the narrow sense play a similar role. And this role seems to become more and more important, especially enforced by the general or even global trend towards digitalisation of documents. Digital archives are the future of different document collecting institutions.

2. For example: The aforesaid Historiographical Institute can be considered as one of these quasi-archives.

The history of the Historiographical Institute itself is of a considerable length. Its prehistory can be traced back until to the late 18th century, when the scholar Hanawa Hokiichi began editing chronicles and other sources of Japanese history with the support of central state authorities. His work may be interpreted as one of the many accompaniments of early national state within the framework of “National Learning” (kokugaku). For details I would like to refer to Margaret Mehls book on the beginnings and the early history of what is now Historiographical Institute.

(Margaret Mehl (1992) Eine Vergangenheit für die japanische Nation: Die Entstehung des historischen Forschungsinstituts Tokyo Daigaku Shiryo Hensanjo (1869-1895) Frankfurt a. M.: Peter Lang)

In the early times the Historiographical Institute was strongly influenced by German Historical Science (Historism), which matched to some extent to the own tradition of text critique (kôshô 考証 kâozhèng); the traditionally vivid contact with Europe and Northern America since beginning of modern times is now more and more replaced by co-operation with East-Asian historians and relevant institutions.

Since the end of the 19th century the Historiographical Institute was institutionally integrated as an independent organisation within what is now the University of Tokyo, and it does not belong to any faculty also now. At present about 80 persons are working at the institute, 60 of them are scholars. The institute owns a considerable stock of original historical documents. Nevertheless the main goal of the Historiographical Institute is not so much to be found in collecting original documents, as archives usually do. Much more important and the very job of the institute is processing historical documents. Original documents from all over Japan are copied (by brush!), or photographed and printed in letters or – like old maps for example – as a facsimile fitted with explanatory sketches. They are compiled in different ways in huge publication series, more and more of them are existing in digitalised form.

As the Japanese name of the institute clearly indicates, we can say that publication of historical documents in one or another way is in the centre of the activities of Historiographical Institute. The institute does this job since 1901. The main series published by the institute contain the following ones:

(FOLIE 2)

2.1 Historiographical Institute 史料編纂所:

Main Printed Compilations of Historical Sources

Title in English

Title in Japanese

Volumes

à 2004

Chronological Source Books of Japanese History

大日本史料

368

Old Documents of Japan

大日本古文書

210

Old Diaries of Japan

大日本古記録

124

Historical Materials of the Edo Period

大日本近世史料

125

Historical Materials of the Meiji Restoration

大日本維新史料

42

Documents in Foreign Languages Relating to Japan

日本関係海外史料

37

Monograms

花押かがみ

6

Collected Maps of Estate from the Ancient and Medieval Eras

日本荘園絵図衆影

7

Source: Historiographical Institute

Besides these series several smaller source series and helpful indices are published, but there is no space here to present the full range of products well packed as convenient contents useful to all researchers of Japanese history. Many research projects concerning the problems of source processing in a wide range from basic research to applied solutions were launched by institute members in co-operation with specialists and scholars from inside Japan and from many other countries, too.

3. Historical Databases

Digitization of sources is one field of activities of the Historiographical Institute which began in the middle of the 1980ies and which is of increasing importance, advanced by many projects on national or international scale. Since one decade or so these activities expanded into a wide range of databases, which are very useful for all scholars and freely accessible for anybody. I will show some examples. At present 31 database are on-line.

(FOLIE 3)

2.2 Historical Databases in the Historiographical Institute

Examples:

(FOLIE 4)

2.3 Database of Old Photographs

(FOLIE 5)

2.4 Ergebnisliste Chronological Source Books of Japanese History

subject: Yoshiie; you can see the facsimile of the source texts.

Problem: you have no access to the printed version of the text, only the exact place where it is to be found in the printed book.

Anyway: This is a very powerful search engine for research of pre-modern Japanese History!

Our next example is a full text search in the Kamakura-ibun, a collection of Kamakura-era sources formerly compiled in some 30 volumes by former director of Historiographical Institute, Takeuchi Rizô. In this case you get some lines of the (con-)text your subject is appearing in.

(FOLIE 6)

2.5 The Kamakura Ibun Full Text Database – search results for “Yamana”

At last I want to present an example of another pictural database, copies of old maps in the possession of the Historiographical Institute. Copy means in this case really copying old plans or documents by ink and brush done by specialist at the Historiographical Institute. It’s a technique which forces the copyist to pay very delicate attention to smallest details – in such a case copy often is of clearly better quality (i.e. readability) than the original manuscript.

(FOLIE 7)

2.6 Copies of old maps in possession of the Historiographical Institute

- search result for “Akishino-dera”

This map is part of files of a lawsuit which took place between to Buddhist temples near the old capital of Nara.

At the very last I would like to attract your attention to a very special database. It is called Online Glossary of Japanese Historical Terms. This Online Glossary was created as a part of the COE-project titled The Japan Memory Project, designed by Professor Hotate above mentioned and managed by Professor Eiichi ISHIGAMI, a specialist of ancient Japanese history. (COE-funded in the years 2000-2004, JSPS-funded 2005-2008)

It was constructed under international participation. It is listing different translations for Japanese historical terms appearing in selected English, French and German books on pre-modern Japanese history. I do not know the actual number of entries, in 2005 there existed 25 000 entries extracted from more than 70 titles. It is planned to maintain and continue the glossary in the future.

In the following we find example for translations of nyôgo.

(FOLIE 8)

2.7 Online Glossary of Japanese Historical Terms – Search results for “nyôgo”

3. Challenges

In short: From the point of view of an Historian the Historiographic Institute does a great job and offers manifold and useful processed data and information for the national and the international community of historians. All that is valuable. And it is costly.

We can consider the activities of the staff of the Historiographic Institute as a kind of a production process, and we can call their products highly professional only insofar as they fulfil certain criteria being used among the experts for qualifying scientific historical work. Up to now these products have no real prize for the users, the Japanese state meets the largest part of all costs according to the traditional understanding of public interest.

On the other hand conditions for the production of historical knowledge are currently undergoing a deep change. The "new products" (like on-line sources) I described before are as well a part as at the same time an indicator of this gradual change, too. Perhaps they could only be produced because the frame of reference of the productive work in the Historiographic Institute and elsewhere in the scientific historical community was changing.

A crucial precondition of this so-to-say increase in the variety of historical production laid in acquiring new financial resources. Firstly that meant new ways of funding by the state, and secondly more and more financial resources from elsewhere, including funding by private corporations and companies. We may interpret this development as a shift from historical production where use value is in the foreground, to historical production giving priority to the exchange value, or in other words as a step in direction to the commodification of public services.

This shift was made realisable and is at the same time symbolised by the (introduction of the) concept of "contents", or by the expansion of the concept of contents onto the field of historical production. To use the word "contents" applied to scientific historical production does not only mean to abstract from the concrete qualities of historical products – in being indifferent to it. But also means qualities of such products if they were seen from the angle of the concept of "contents" are becoming measurable as a value or exchange value like any commodity. Scientific historical production is thus becoming commodified step by step.

We can describe this process in the following steps of the development:

(FOLIE 9)

2.8 Phase A, stage 1

A. Phase of dominating use value in historiography / historical work

Stage 1:

"Nation building" is the main frame of reference. The targets of the historical production / historiography are fixed by the authorities of the early national state. At the same time liberal critics against the state-dominated history policy begin to publish in the liberalising print-market (Fukuzawa Yukichi etc.) outside the direct control of the state.

(FOLIE 10)

2.9 Phase A, stage 2

Stage 2:

Increasing professionalisation of historiography is creating a new ethos of historians (“historical truth” an aim of the work); new scientific methods and theories of history develop. State defined targets and professionally thinking historians get into conflict with parts of the state machinery and nationalist state-oriented circles. Autonomous scientific thought and practice is widely recognised in society; high, professional quality of their work is being appreciated by state-authorities, too. (Until the 1930ies; revival of this tendency after World War II until to the 1970ies)

B. Phase of increasing weight of exchange value in historiography / historical work

(FOLIE 11)

Phase B, stage 3

Stage 3:

Historical research is now not longer carried out and assessed according to / or based on / mainly internal scientific criteria. The phenomenon of fund raising is spreading and speedily increasing from applied natural sciences also onto the field of historical science. As a new criterion for the evaluation of “research projects” – an until then not so familiar form of work in historical science – the measurement by the sheer amount of funds raised by historians from the state and, more and more, from organisations not under public control (3rd side funded projects) is introduced. Competition between scientific institutions is enforced like crazy (COE-projects). A formerly not measurable kind of work is now step by step to be measured – not only, but also – by money. Traditional professional ethos is eroding.

-- Motto: victory in competition is on the side of the better solution! (However from history we can learn the opposite: video tapes based on VHS system were technically the minor solution, but had stronger market power; Beta was the technically superior, higher-developed product, but institutionally on the market it had a weaker position, and it failed!)

--

The question must remain in the discussion what might be "more effective" for the users = citizens, researchers, not what might be “more effective” for markets which are not easily to be maid subject of public control.

--

(FOLIE 12)

Phase B, stage 4

Stage 4:

This stage is not yet completely realised – future music still up in the air. The commodification process of the products of scientific historical work is getting on. Pressure groups are strongly influencing public opinion on several levels to reorganise the institutions of historical scientific work. Their products must sell, like all products have to sell. “Contents” is an ideally abstract notion to rectify and rationalise the process of commodification. As a kind of commodity, called contents, all things are equal. Privatisation and “deregulation” of public institutions are propagated as the only rational way. Establishing 国立大学法人 national university corporation might have been one decisive step into this direction. Big business is looking forward to a promising new market and is willing to cut off not marketable services which are costly for the public and which have to be supported mainly by state taxes.

Historical commodities or contents need “historical science” as a brand at least for some time more. In this sense professional quality work of historians does not become obsolete on the spot. But the main criteria for defining what is good work and what is a bad job are no longer scientific ones – they get externalised or “outsourced”. That means on the other hand: what does not sell that is of no need. A look at our private television will easily teach us how to sketch a possible scenario of barbarised history / historiography (BBC on European history; “Die Deutschen” in ARD and such stuff).

We must not forget that this is not an entirely new tendency in historical sciences or in the humanities (Geisteswissenschaften) in general. Much earlier we can notice an analogous development in the market of print media concerning history. Three segments are relevant there for history:

1. For the scientific / academic community: specialised periodicals, monographs, compilations etc.

2. For both academic community and an educated public: popular periodicals, marketable monographs (shinsho …) and compilations of certain quality; also “history manga” (edutainment)

3. For everybody: marketable books and other printed media of any kind

Fact is, that the market share for type “1.” is extremely small! One cannot earn living in publishing for this market without public support.

On the other hand: freedom of the markets meant for a long time and is actually still meaning a chance for publications not conforming to state authorities and to state policies or to an authoritarian academic community. In this point we may remember books of authors like Amino Yoshihiko. One of his most influencing books is an essay published at Heibonsha’s (Muen kugai raku – freedom and peace in medieval Japan), which was sharply criticised by many leading members, by the establishment of the academic community of historical sciences. But as we know the freedom of the markets is an extremely risky one and survival of independent, autonomous historical science is not possible without stabilising measures of the democratic state and its institutions representing public interest in a civil society.

4. Consequences, Reactions

Anyway, commodification of academic production is anything but an entirely new phenomenon. However, a really new phenomenon may be the change academic institutions and with them scientific historical production are now undergoing in their essence. The question how historical scientific practice will do under these changed conditions is of growingly urgent actuality. Will we be able to maintain not-applied, pure research in this discipline?

From the Hungarian philosopher Lukács György we can learn, that liberty is to be found only in following the necessity law. May be this is a fine suggestion how to do. (I think of somebody swimming in the ocean only fitted with water wings. Of course we cannot discuss here possibilities or perspectives for change of the ocean respectively of the political framework. That is another story of the respective civil societies.) Pure research is costly, and there is no perspective for developing marketable products directly. Current costs are being still funded to the largest part by the national state of Japan. New technologies are developing new media and new instruments of research are tending to cross the borders of national users. Besides that, the state is often using international collaboration in academic fields as a medium for shaping international relations, for accumulating cultural and symbolic capital, for polishing its own image. – In short: it is quite a complex field of intermingling cultural, professional and political relationships historians are doing their work in. And they are – more nolens than volens – useful for the politics. May be that is one cultural capital they can try to practice usury.

Not to look only gloomily into the future of pure historical research I would like to sketch here at the end of my presentation some ideas or suggestions of the above mentioned professor Hotate. Several times he uttered his anger that the staff of the Historiographical Institute is not only overloaded with their every days work but in addition they are planning and implementing many projects from which North American and European scholars are profiting quite a lot, but that they seem to feel no need to do something from their side in return useful for their colleagues in Japan. The moral economy of give and take has become out of balance since considerable time.

What Hotate is planning has to do with contents – of historical scientific quality – and with their containers – database and the internet. And it has to do with the large field of History of notions and concepts, a field of research Bonn is showing some promising potential for development.

For comprehensive information I recommend professor Hotates personal blog (cf. homepage of HI), I can give only some catchphrases from his suggestions. He is conceiving what he calls a "Knowledge-Base of [premodern] History" (歴史知識ベース), which has to be based on an “Ontology of History Knowledge” and of related fields. The contents to be accumulated in this knowledge base system are what Hotate calls “half products” of historical research. (“Half” means, not entire books or articles should be put in, but products of research, which easily can be searched and re-used by subsequent researchers of a similar subject.) Histories to be involved in this keen project are not especially determined by Hotate, but what in Bonn quite easily could be done is to integrate our considerable accumulation of Asia-Knowledge into such a knowledge base. In bringing in also our ancient and medieval history of Europe it should be feasible to give scientific research of a Eurasian history a new base of knowledge.

I must acknowledge I presented no definite answer to the initial question whether archives are public or private. But I hope I suggested an approach to finding one.

2011年1月17日 (月)

脳科学の話

 昨日は一日立ち仕事。鉄粉製の携帯「あんか」を痛かったところ近くのポケットに入れて、無事に過ごす。あれは携帯「あんか」といったろうか、もう少し適当なカタカナコトバがあったような気がするが、今、朝の総武線の中。きちんとコトバがでてこない。そこで鉄粉製の携帯あんかということになる。
 昨日は、昼間の休憩時間と夕方の待機時間に、一緒の方々とおのおのの専門の話。お一人は脳科学の方で、そのお話は、鬱病とナルコレプシーと顛癇の歴史が長く考えているテーマの一つなので、たいへん面白かった。
 蚕蛾の脳神経は約一万本あるが、それをスーパーコンピュータ内部に復元して、六本足歩行の人工知能を作成する実験研究をされている。蚕は2キロほど遠くからフェロモンに惹かれてやってくるが、匂いによる歩行をシステム化する。そのアルゴリズムを脳科学の知識から作成する。こういう研究手法をバイオニューロテクニクというということ。
 トンボの飛行をシュミレートして飛行機をつくるという話などは聞いたことがあるが、そういうように外形的に作り込むのではなくて、もっとシンプルに、原理的に考える。脳神経のあり方から復元していくという手法である。
 これはいわゆる生命倫理論からいくと動物に協力してもらうということですねというと。昆虫についての生命倫理は、まだ議論されていませんとのこと。ウーム。である。こういう実践レヴェルでの生命倫理というものを考えることも実際上の必要になっていると思うと、考えるべきことは多い。
 子供の頃、昆虫趣味があって、虫をいじめた。いじめて遊んだ記憶が「悪い」ものとして残っているので、自分の子供たちが虫採りをした時に、過敏になって注意した思い出がある。それを思い出すと、いまでも悪かったなあと思うことがある。虫との関係というのは日常的なものだから、子供の時の経験が大きいのかも知れない。今の子供たちはどうなのだろう。注意はしてきた積もりだが、歴史の史料にはあまり虫はでてこないが、もう一度考えてみようと思う。
 昆虫の進化は、人類への進化とクロスする部分があって、本能系→情動系→認知系という神経活動の組み立ては同じ部分がある。しかも、非常にコンパクトにできているので驚くほど精緻なものであるとのことであった。そして、情動系を動かしているのが例のセロトニンという神経物質とセロトニンブロック物質であるというのは驚いた話。人間と同じである。
 神経物質というのは、祖父がパーキンソン病になったとき、ドーパミンの話を聞いたが、それはもう30年近く前のこと。このセロトニンは、たとえば夜・昼で変化する人の情動を統括するということで、ようするに感情というよりも気分を左右するものであるということである。本能系に近い感情を認知系につなげるのが気分とセロトニンを内実とする情動系であるというのもウームの話である。しかも、この気分を統括する手法が中枢系にあって、いわゆる敷居値(という漢字ではなかったと思うが、変換で出てこないので、これで勘弁)を変更してしまうという感じで受容した情報に対応するということ。
 認知科学というものについての知識はまったくないが、こういうことをやっているのだというのが、実感的にわかるのがありがたいところ。立ち仕事は、ときどき、こういう耳学問の機会となるのが「うれしい」。
 この「うれしい」という言葉も面白い言葉で、情報学の人がよく使うように感じる。彼らは、「こういうことができるとうれしい」「ここがうれしい」などと使う。歴史学をやっていても、なかなかうれしいことは少ないから、「耳に立った」のかもしれない。歴史学は「うれしい」学問であるよりも、上に自然に出てきたが、「ウーム」の学問であるのだと思って我慢しよう。
 私からは、民話「三年寝太郎」は、嗜眠症・眠り病(ナルコレプシー)から回復した若者がエネルギッシュに行動したことを喜ぶという民衆心意を表現したものと考えているということの紹介。鎌倉・室町時代の下人の人身売買文書にでる「くちくち・てんごう」とは嗜眠症と顛癇を意味する。もしそういう症状が三ヶ月のうちに現れたら、この人身売買はなかったことにするという売買契約無効文言が、五通ほどの人身売買文書に確認できる。その「くちくち」は嗜眠症、「てんごう」は顛癇というのが、私の解釈。秀村選三先生からは、「てんごう」はハンセン氏病だという批判をいただいているが、依然として自説は変えていない。これは『物語の中世』に書いた三年寝太郎論で、これについてさらに問題を広げてまとめ直したいと考えている。
 それにしても脳科学の方と話していても、情報学の用語が基本用語になっているというのもウームの経験で、実務と器機操作は全然駄目な私もどうにか言葉だけは分かるので、現代知についていける。御寺の文書の編纂を仕事としていますと自己紹介なので、自然科学の方も、「編纂」という古そうな仕事が情報学ツールがないとやっていけない状況というのは面白く思われたようである。
 問題になったのは、論文としてそのままでは発表できない、あるいはしないような膨大な研究情報の管理で、自然科学では「特許」の関係が大きいという話。
 史料編纂所では「編纂」という作業、つまり史料について知り尽くす作業の一部のみが活字にできるだけなので、水面下に存在する作業と情報をどう保存・公開できるかということが問題。人文社会科学系におけるいわゆる「知識ベース」と、自然系の知識ベースは同じような問題を抱えているのだというのが、これは本当に工学系の先生とも話が一致。
 人文系では、これは本当にむずかしい問題で、私などは、人文系の学問の将来を決定する問題と考えているが、学問の方法論と社会的目的に係わる考え方の問題もあって、本当にむずかしい。スパコンを使う研究とは比較にならないものの、体制と知恵と金に大きな問題もあって云々という、自然系の人と話していると、何となく弁解的になる、さえない話となる。脳科学の先生の所属する研究所からは、日本学士院編纂の『明治前科学史シリーズ』のフルテキスト化のために大きな予算的協力をしていただいたことがあるので、感謝を申し上げる。
 さらにとても答えられないような質問をいただく。一つは、日本の自然科学は細部へのセンスのよい目配りによって、相当のレヴェルにあると考えているが、これは日本文化の特質かというご質問。東洋的なホーリズムと西洋的な分析科学の双方をもっているように実感するとおっしゃる。
 これについては、総合と分析というのは思考方法の問題と考えると、それはどこでも普遍的なものであると考える。しかし、たしかにユーラシアの辺境に位置するヨーロッパと日本は、両方とも、できあがったものを模倣するという模倣の論理、あるいは模倣を前提とした思考方法が発達したということはいえるのかもしれないと御答え。
 いわゆる日本文化論的な諸問題については、歴史家は答えられないというのが普通の感じ方だが、いろいろ教えていただけば、何かの意見をいわざるをえないという気分にもなる。9世紀くらいからの「近世」の時代、あるいは佐々木潤之介氏の言い方だと「前期近世」の時代は、技術の時代という側面があり、その場合、模倣の論理が強く働いたということはいえそうである。もちろん、ユークリッドも、エジプトの数学の固定的かつホーリスティックに完成した姿を前提にして、それを模倣し、分析的に組み立てたということはいえるのかも知れないが、私の専攻に近いところだと、技術の時代はヨーロッパは模倣にはいる。たとえばヨーロッパのブック形態は、ユーラシアの反対側の宋代において発明されたブック形態を模倣したものとなる。羅針盤、火薬、紙、印刷などは、大体において東洋あるいは非ヨーロッパ圏においてもっとも古い記録を見いだしうるのはよく知られた話。またイスラムの文化の模倣がヨーロッパの手工業と自然科学の前提になったのは十分にいえることのようだ。ユーラシア中央でホーリスティックには発展した全体像を、その外形を模倣することで見直すということが、分析手法、分析科学の思考方法に影響をあたえたということはありそうに思う。
 広い意味での関係が問題で、あまり特殊性論をそのままの形で展開することは歴史学としてはやりにくいのですとご説明。
 ところがさらに答えにくい質問をいただく。「生物進化はランダムなものと考えるようになっているが、社会進化はどうなのか」というご質問である。
 歴史学の側での意見の分岐、ないし意見の不存在状況はご存じの通りだが、「社会進化もそれとしてはランダムなものです」と断言してしまう。私はこの「ランダム論」を、4/5年まえに学芸大の史学会で話をさせられた時に述べたが、その後、長谷川真理子さんの「進化科学」についての論説を読んでいて、これはようするに同じことであると感じたので、これは本心ではある。ただし、問題は、「傾向性」または「必然」というものがあるのは当然のことで、歴史学としては、これは従来から「偶然の中での必然」と考えてきたが、この偶然を偶然として調査・研究し、その傾向性を実証的に明らかにする力はなかった。これがしばらく立てば可能になるでしょう。ないし可能になることを希望していると申し上げる。
 御答えできないような質問が続くほど、夕方の待機時間が長くなったが、ようやく開放された時間が問題であった。渋谷文化村で、ケン・ローチの映画を家族でみる予定が、結局、まったく間に合わなくなった。映画の題は忘れた。離婚に追い込まれた、さえない郵便配達の労働者が、幽霊になってでてきたマンチェスター・ユナイテッドの有名なサーカー選手に励まされて頑張るという話で、たいへんに面白かったというのが、彼らの報告。最後は、ギャング集団と郵便配達のユニオンの対決となり、ユニオンの側が、ギャングをおどかすところで痛快に終わるということであった。「お前ら、下手なことをしたら、こちらは住所を知ることはできるから、どこまでも追っかけるぞ、おとなしくしてろ」とおどかすという、如何にもイギリスのユニオンらしい話であったと、相方。終了後の娘の発言は、とくに紹介しないことにします。
 すべて無事に終わり、勉強までして、さらに映画まで見れれば、本当によかったのだが、すべてとは行かない。結局、私のみ孤食。帰宅途中、売れ残りの安いスシを買って、猫を膝に食べて、風呂に入って、さすがにたまらず寝てしまう。
 いま、ちょうど、昼休み。13時を少しまわったところ。
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2011年1月15日 (土)

大袋と袋持ーー佐藤先生の教示

 WEWPAGEに 「大袋と袋持」(黎明館での講演、『黎明館調査研究報告』21集、2008年3月)を載せた。

 『中世の愛と従属』におさめた論文をやり直したという感じのものだが、『愛と従属』で使った史料は省略し、新たな史料を追加してある。基本は愛と従属の所収論文を参照ねがいたい。ただ上記の講演記録とは、大袋の用例を一つ(辞書)、佐藤進一先生の教示でしったものなどを追加してある点で、若干違う。以下にも載せておく。

 こういうテキストがたくさんあるのに、我ながら驚く。読み物としては、最近のこのブログの文章より、面倒くさくないかもしれません。
 最近のもの、ブログの文章なのに、固くなってしまうのは因果なことです。

 ただ今ご紹介に預かりました史料編纂所の保立です。昨年は、「義経・頼朝と島津忠久」という講演を致しましたが、今日は政治の話しではなく、何らかの意味で鹿児島と島津家文書に関係していることで、しかももっと地域に密着した話にしたいと考えました。そこで以前『中世の愛と従属』(平凡社、一九八六)という著書の中で考えたことのあるテーマですが、「袋持」というテーマと「大袋」というテーマの二つを取り上げてみることにしました。前者は平安時代・鎌倉時代頃の人々が「袋」というものをどう利用し、どのように意識していたかという問題です。後者の「大袋」というのは長く謎の犯罪といわれていたもので、犯罪の名前です。同じ袋という言葉が入っていますから、当然、この二つのテーマは相互に関連していますが、どう関係しているかは、話しも最後に近くならないとわからないという、ややテンポの遅い話しになります。どうか辛抱してお聞きいただければ幸いです。
 なお、その後に気がついた史料を付け加え、若干、考え方も前稿とは変わっているところがあります。また『中世の愛と従属』の中でふれた史料については出典などに注をすることをしていませんから、詳しくは前稿を参照していただくとありがたいと思います。
Ⅰ袋持の姿について
 さて、人間が袋を持つということの意味と言いますと、まず私たちの世代ですと思い浮かべるのは、「大きな袋を肩に掛け」という、あの「大国主命」の話ではないでしょうか。大国主命は何しろ一番下の弟でありますから、お兄さんたちと旅行に出かけるときに一番後ろにしたがって、しかもお兄さんたちの荷物を大きな袋の中に入れて担がされたといいます。そして、袋を持っているというのは人の荷物を持っていくということですから、その姿は人にしたがうものの姿、従者の姿ということになります。こういう人を「袋持ちの下人」と言ったということが、平安時代の『中右記』という貴族の日記の中に出て参ります。この場合には、袋の中には鎧が入っていた。武士の従者で鎧を入れた袋を持った従者が京都の町の中を歩いていたということです。この「袋持ち」というものについて、絵を見て頂きたいと思いますけれど、このような形で実際に袋を持った男、男の子が絵巻物に登場するのです。これは、『伴大納言絵詞』という大体平安時代末期にできました絵巻物です。詳しく見ますと、この男の子は、前に「曲げ物」とよばれる檜の薄板で作った丸い桶をもっております。これは何かといいますと、お弁当箱だろうと思います。弁当をこういう形で当時京都の町の中で持って歩いている女達の姿もあることが推測の理由ですが、主人が貴族の邸宅や役所にでているので弁当をもっていくのだと思います。こういう持ち方ですから、空になっているわけです。ですから、主人の勤め先から空になったものを持ち帰っているところでしょう。
 問題は後ろに担いだ袋でありますけれど、パンパンに膨らんでいます。何が入っているかですが、これは衣類、着物だろうと思います。主人の衣類なんだろうと思います。これを持ち帰っている。空のお弁当箱と一緒に持ち帰っているということになれば洗濯物でしょうか。実はこういう袋のことを「宿直(とのい)袋」といいまして、『源氏物語』(賢木)に、「さぶらひに宿直の袋、をさをさ見えず」というように出てきます。これは「御門のわたりに所なく立ち込みたりし馬・車うすらぎて」という文章に続いてでてくるのですが、つまり、ある家が零落すると、それまでは門のあたりに馬や車がたくさん集まっているのが見えなくなっていく。そして同時にさぶらひに---「さぶらひ」といいますのは、侍達のいる控え室のことであります。この侍達の控え室に宿直者の袋がたくさんある、これも見えなくなってしまうという訳です。貴族の家が零落すると、人の出入りがこういう風に少なくなってしまうというわけであります。
 侍達は貴族の家に泊まり込みますから、衣服は自分の家から持ってきて、持って帰るわけです。宿直袋が侍達の控え室にたくさん積まれているということになるわけですが、そのためにさっきの少年のような従者達が、袋を背中に担いで都大路を行き来するのですね。これが都の往時の風景として見慣れた風景であったから『伴大納言絵詞』にでてくるということになります。「侍」というのは貴族に仕える人たちであるいうことはよく知られていると思うのですが、それだけではただの歴史常識です。なんの面白みもありません。私などには、さらにその侍に仕える人々の姿というのが興味深いわけです。
 同じような袋持の従童の姿は、『弘法大師絵伝』という絵巻物にもでてきます。橋の上で主人の前を男の子が袋を担いで歩いているのですが、その袋は真っ白で、大変印象的なものです。また、これが旅行になると、旅姿の袋持ちが出てきます。『粉河寺縁起』という平安時代の末期頃の絵巻物でありますけれど、主人を中心とした一行の旅行の場面が描かれています。主人は行列の先頭で馬に乗っていますが、それに従っている行列であります。先頭が「あっちだ、こっちだ」という風に言っていて、二番目の男が壺だとか小さなテーブルだとかを持ち、その次は大きな櫃、木製の長持のような物を担いだ二人の男がいます。そして最後に布の袋を担いだ男が描かれています。麻布の袋だと思うんですが、細かく見ますと赤や青で染めてありまして、それなりに綺麗な物です。そして上に鹿皮が被さっている、つまり布の上に皮を被せて雨がかかっても大丈夫なようにしてある。今で言うと、まさにリュックサックであります。そして傘を持って従っている。こういう男が旅行の時に袋持ちとして従っていたということです。
 こういう人々が色々な絵巻物に登場しているのですが、さきほど『中右記』という日記の記事にふれましたように、こういう従者たちを「袋持」と言ったのですが、『今川大草子』という戦国時代の書籍にも「袋持」という言葉が出てきます。ですから、平安時代から戦国時代まで使われていた言葉なわけですが、その解説によりますと「袋持ち、主人の御袋を持つこと」というわけです。今で言えば「鞄持ち」ということになるでしょうか。
 さて、実はこういう「袋持」は地方にもいたはずなのですが、これはなかなか文書には出てきません。けれども、島津家文書の一部であります「山田文書」の一三〇〇年(正安二)の鎮西下知状には、これが登場します(「鎌倉遺文」二〇四七六号)。これは五味克夫先生が『鹿児島県史料』の五巻で紹介されて、よく知られるようになった文書でありますけれども、島津家庶家の山田氏の文書であります。島津の二代目忠時の庶子の忠継、忠真そして山田宗久と続く家系でありまして、そのあたりから山田を名乗るようになっています。この家は、谷山郡の山田村の地頭なのですが、谷山郡の郡司との争論が大変有名な史料として知られているわけであります。「袋持」という言葉はでてこないのですが、そこに袋をもった従者がでてくるのです。
 谷山郡司が言うことには、「則ち宗久藤四郎男を召し具し薩摩郡に打ち越えるの時、数日の間、日食を与えず、責め仕はしむるの故、無食に堪えず、身命を助けんが為罷帰るの處」という訳です。要約を致しますと、「宗久が藤四郎男、藤四郎という男を引き連れて谷山郡から薩摩郡に越えていった、旅行をしていった、その時に数日の間、何日もの間毎日のご飯をこの男に食事を与えなかった。それで、責め使うので無食、空腹に堪えかねて命を助けるため勝手に逃げ帰った」ということになります。つまり、従者が旅行について行ったわけですが、ご飯をくれないので袋を持ったまま逃げ出した。それに対して、こいつは布袋を盗んだんだ、ということで、従者の藤四郎という男を攻撃し、代わりに身代をとったというわけであります。
 文献史料に出てくる地方の領主の中に、袋を持った従者を従えているという事が出てくる文献史料はこの一点のみです。袋持ちの下人の地方におけるあり方、そして主人との関係を示す唯一といっていい大変貴重な史料だと思います。冒頭に申し上げましたように、島津家文書というのは、政治の上の方、京都や鎌倉の世界のみでなく、地域社会の実相まで様々なことが記録sれているということをとくに強調したいと思います。これは小さなことのようにみえるかもしれません。しかし、「侍」ということを考える上で、「宿直袋」というものが大切であるというのはさきほど申し述べた通りです。しかもそれはたんに京都のみの話しではないことになります。そういう意味ではおおげさにいいますと、日本中の人が知っていてもよい史料であるということになると思います。とくにこういう絵などから昔のことを理解するのは小学生からできることです。鹿児島の小学校で、「侍」の話しをすることはかならずあると思うのですが、その時は、是非、この史料を紹介するべきだと思うのです。
 以上が、「袋」についての話しですが、ここからみえてくるのは、社会の関係の中で相対的に下の方に位置する人々であるといってよいと思います。昔の社会は主人と従者の関係が、社会の上から下まで貫いているといえばよいでしょうか。「袋」というのは、そういう意味では、人間が人間に従属するということを象徴するものであったといってよいと思います。そして問題は「袋持」の姿をするのが男であるということです。これは基本的には重い者をもって主人の後を歩くのは「力」で奉仕することを役割とする「男」であったということでしょう。社会的な力のある男が、社会的な力はないけれども「筋力」はある男を従えるということでしょう。「袋持」の中には、社会が、そういう主従関係の重層と連鎖のによって組織されていた側面をみることができるのです。
Ⅱ鎌倉時代の犯罪の種類と大袋について
 ところで、一種の偶然だったのですが、「袋」ということを考えた後に、私は、「大袋」という犯罪について考えることになりました。たとえば、建武四年のことですが、鎌倉の覚円寺に「大袋」という人々が乱入したという史料があります。「ここに近来流布の大袋、数度乱入し、本尊・道具等を奪い取り、坊舎を破り取るのあいだ」という訳です。つまり近年流行している「大袋」と呼ばれる人々がある寺に乱入して、本尊やお寺の道具などを奪い取るだけではなく、坊舎---お寺の建物を破壊してしまうという事件が起きたというのです。こういう仏像を盗み取り寺を破壊してしまう大悪人、彼らの事を「大袋」というように言っているわけでありまして、他の史料では「大袋殺害以下の条々の罪科」というようにも出てきます。「大袋」は人殺しと並ぶような大変重い罪であるということがわかるわけです。
 (なお、この論文を佐藤進一先生に御送りしたところ、時代別国語大辞典の室町時代一に大袋の項があり、そこに「頓要<盗賊>」とあり、「ものとりの一種として中世末までには辞書に立項されていたと考えられます」と教えられた。)
 これがどういう罪であるのか。戦前から歴史家の間では謎だっのですが、私は、先ほどご紹介いたしました『中世の愛と従属』という本の中でこの謎に挑んでみました。まずそれにそって、この「大袋」というのがどういう罪なのかについて御紹介をしていきたいと思います。
 鎌倉幕府の法制の入門書のようなもので「沙汰未練書」という書物がありますが、そこに当時の犯罪の名前の一覧のようなものがあり、そこに大袋が登場します。
 検断沙汰トハ、謀叛、夜討、強盗、竊盗、山賊、海賊、殺害、刃傷、放火、打擲、蹂躪、大袋、昼強盗(但追捕狼藉者所務也)、路次狼藉トハ<於路次奪人物事也>、追落、女捕、刈田、刈畠以下事也、
 少し解説をしますと、最初に「検断沙汰トハ」とある検断沙汰といいますのは、犯罪訴訟、犯罪に関する訴訟になるような罪科とは、ということですが、まず最初は「謀叛」、国家的な犯罪です。第二番目は「夜討、強盗、窃盗、山賊、海賊」。つまり、犯罪の形態・スタイル、つまり夜やったり、山でやったり、海でやったり犯罪の種類が書かれているわけであります。その次は「殺害、刃傷、放火、打擲、蹂躙」というようにでてきまして、これは犯罪の加害暴力のふるい方ですね。人を殺すだとか、刀で傷をつけるだとか、火を放つだとか、打擲、殴るだとか、蹂躙、踏みつけるだとか、そういう暴力の使い方によって区別されている犯罪の種類です。
 そこまではわかりやすいんですが、その後「大袋、昼強盗、路地狼藉、追落、女捕、刈田、刈畠以下の事」ときます。これらがよくわからないわけです。そのうちでもまったく意味が理解できない犯罪が「大袋」ですが、まず他のものを解説しますと、「路地狼藉」というのは、路次、つまり道路で行われるような犯罪のことで、史料でも小さな字で解説されているように、「路地おいて、人の物を奪い取ること」です。次の「追落」というのは路次狼藉の一種でしょうか。人が物を持って歩いていますね、これを追っかける訳です。そうしますと、直接に暴力を行使しなくても、人が逃げるためにもっているものを落とします。それを拾って取ってしまうということだといいます。それから「女捕」ですが、これは女性が道を通行しているときに、その女性を追いかけて誘拐をしてしまう。昔から男というのは勝手なものでありますので「女捕」をしても、相手が一人で歩いていればこれはやむ終えない、一人で歩いている女性、しかも繁華街を一人で歩いているような女性は追っかけてからかって、もし誘拐ということになっても、これは女も悪いのだから罪ではない、というようなことが言われています。あと、「刈田、刈畠」というものがありますが、これはやはり道を通っていくときにやはり近くにある収穫物ですね、田圃や畑の収穫物をかっぱらっていく、それが原型だと思います。
 これらは、一応、字をみればどういう犯罪かが理解できるのですが、「大袋」は、字面ではただ大きな袋ということですから、それがどういう犯罪かは分かりません。そのために「謎の犯罪」といわれていた訳です。もちろん、研究はありまして、まず最初に、戦前からの法律の歴史、法制史の研究者として有名な石井良助氏は「大袋」というのは袋を使う強盗であるとされました。「大袋」というのは「昼強盗」と並べられている、これは強盗に似たものに違いない、普通の強盗と違うのは、盗みの道具に「袋」を使ったということであろう、としたわけであります。これが実は絵巻物にも描かれていることを、私、発見いたしました。それは図に掲げました『地蔵菩薩霊験記』という絵巻物の中に出てくる強盗の姿であります。いま廊下から飛び降りて逃げ出そうとしているところでありますけれど、最初の男に注目していただきたいのですが、左肩に袋をかけて後ろに袋がくっついているのが見えます。後ろの男も肩のところに袋を担いでいる様子が見えるかと思います。強盗が押し入って出てくるときに袋を持って出てきて、それを道具にしているということがわかると思います。
 ただ、考えてみますとこの解釈のみでは納得できないところが残ります。つまり、強盗を大きな袋で特徴付ける、ということについて特別な意味があるのでしょうか。強盗が袋を背負っている、そういう姿をしているからといって、強盗と区別して「大袋」という以上、なにかもっと特別なことがなくてはならないのではないでしょうか。というわけで、第二番目の説として少なくとも、これは「昼強盗」というものの一種ではないかという見解が出されました。それは、笠松宏至さんと言う著名な研究者が提案されたもので、より具体的には「昼強盗」の一種ではないかというように言われたわけであります(笠松など『中世の罪と罰』東京大学出版会、一九八三)。
 一般に「昼は平和な時間」であるといわれます。たとえば室町時代の徳政法に質入品を取返す時には「女をもって白昼にとるべし」(『中世法制史料集』Ⅱ一二七頁)とあります。また年貢の収納にあたって、作人自身や作男がもってくるのではなくて、「女等が持ち来る」ということもしばしばであったようです(大徳寺真珠庵文書』九六号)。逆に領主の側が命令文書(=下文)をもって庄園に入っていく時も、「日中に沙汰者を召向かいて沙汰を経べし」などといわれ、夜に押し掛けることは不法とされていました(『鎌倉遺文』四四号文書)。こういう意味での「日中」の犯罪を示す言葉としては古くから「昼盗人」(『今昔物語集』二九巻ー四)という言葉がありました。それは要するに空き巣ということです。昔の言葉では空き巣のことは「日中」あるいは「日中師」といったといいます。昼間は、多くの人々が家から出て野良で働いていましたから、自宅を作業場にしている場合は除いて、しばしば家は誰もいないが、女あるいは幼児がいる世界になります。そこには「空き巣狙い」で入ることはあるとしても、その平和な時間に暴力を使って強盗を行うこと、つまり「昼強盗」は公然と社会秩序を乱すという意味で許されない犯罪だったのだと思います。
 笠松さんの意見は座談会でいわれただけですので、この大袋が、この昼強盗のうちのでどういう特別なものであったかについては明言されていないのですが、笠松さんによりますと、昔アメリカでこういう犯罪があったそうです。デパートにヨットが展示されていた。ところが、真っ昼間に20人くらいの男がドドドッとやってきて、あたかも自然であるようにそのヨットを運び出した。そしたらあんまり堂々とやるもんだから、買った人が持って行くんだろうと放っといておいたら、それは実は泥棒だったと後で分かった、という話であります。これをそのまま敷衍しますと、大袋とは、「日中師(空き巣)」でもなく、昼強盗でもなく、白昼堂々と大袋をもってきてやってきて、人をだまかして物をもっていってしまう高等詐欺罪ということになるのでしょうか。いかにも物を運ぶ格好をしながらやってきて堂々と持って行ってしまう。それで、上手くいかないと急に暴力を使うという犯罪なのではないかというのが笠松さんの意見であると理解しました。
Ⅲ人さらいと大袋について
 大袋についてのこれまでの研究はだいたい以上のようなことでした。しかし、どうもよく分からないというのが率直なところであろうと思います。笠松さんの意見はさすがによく考えられているものだと思うのですが、その弱みは、「昼強盗」それ自身についての研究が行われていないことで、まず昼強盗(そして空き巣)それ自身についての分析が必要な段階であると思います。
 ところが、先ほど申しましたように、私は「袋」についての興味をもっていたこともあって、たまたま面白い史料を発見したわけであります。それは京都山城の松尾神社ですが、「けんにょ」という尼さんの関係の文書なんですが(『鎌倉遺文』二一四六六号文書)、そこに「さきのかみぬしすけかたあまを大ふくろにいれんとし」とあります。つまり、尼さんが前の神主の「すけかた」という人物によって袋に入れられそうになった。そして敷地の証拠文書などを取られてしまったというわけであります。前後の関係は省略しますが、これによって、尼さんが「袋」に入れられて誘拐されたということがわかる訳です。皆さんのなかで「グリコ事件」を覚えてらっしゃる方いらっしゃいますでしょうか。グリコ事件は、30年ほど前のことでしょうか、グリコの社長がヤクザに捕まってシーツで体をグルグル巻にされてガムテープでとめられ、脅迫された事件です。袋もシーツも人間をくるみ込んでしまうという点では同じものですね。
 『吾妻鏡』という鎌倉幕府の歴史書がありますが、そこにはある武士が饗宴の宴席で「絶え入って」(気絶)しまった時に、その武士の身体を動かすのに佐々木盛綱という武士が「大幕を持ち来たり景兼を纏い懐持ち退去す」というようにでてきます(『吾妻鏡』寿永元年六月七日上)。大幕で臨時の担架をつくったという訳です。武士というのは、人を殺害したり、闘ったり、傷つけたりする専門家ですから、ここからは彼らが、人の肉体の動かし方をよくしっているという事情がわかるように思います。さらに興味深いのは、『古今著聞集』(変化)にある人さらいの話しで、道にいた七歳の子供の上に、「後ろの築地の上」から「垂布(=暖簾)」のようなものが下がってきて、子供を包み込んで消えてしまったという話しです(参照小松和彦『神隠し』弘文堂、一九九一、二〇八頁)。
 こうして「大袋」というのは人を誘拐する犯罪であった可能性が一挙に出てきました。つまり、石井さんや笠松さんは、悪人が袋を担いでいる姿の問題として大袋を考えたのですが、そうではなく、問題は袋の機能であった。袋の中に人間を入れることによって袋が拘禁用具として機能するという問題であったというように見方を逆転することになります。そして、そう考えますと、実はすでに石井さんが人間が袋の中に入れられるという史料を指摘していたのです。それは「伏見童形大袋の事」という事書をもった一三六六年(貞治二)の興福寺六方衆評定事書です。つまり、京都の伏見で童形、お寺の稚児さんが大袋にあったというのです。「伏見で児童が大袋にあった」。「童体の難に遇う事、僧徒尤も見助く可き哉」という訳で、稚児が、こういう難儀に遭うことは、お寺のお坊さん達として、何とか援助しあって何とか解決しなければならないことではないかという訳です。そして「彼の児童を助け取り」、すぐにその子どもを助けなければならない。
 つまり、児童が「大袋」という罪にあって助けなければならないという訳です。先ほど紹介した「松尾神社文書」と、この史料をあわせますと、「大袋」というのが人を誘拐する罪であるということは決定的となります。
 そして、こう考えて史料を探してみますと、人間をこの袋の中に入れてしまうという史料は他にも若干あるんです。『古事談』(第二)という平安時代の物語の中には、「近衛院の御時、宇治左府参内の間、山上に大袋アリ」とありまして、宇治左府というのは藤原頼通のことでありますけれど、頼通が内裏の方に向かったときに、内裏の中に小さな山、丘がありましてその上に大袋があった、というわけであります。袋が山の上にあるれど頼通が袋を見てみますと袋が動いた。そこで「随身ヲモッテ見ラルルノ処、袋ノ中ニ人アリ」と出てきまして、家来を派遣してあの袋動いているけど何だ、見て来いと見に行かせたところ袋の中に人が入っていたというわけであります。「開キテ見ルニ中将行通朝臣ナリ」中将の行通という人が入っていた。これは要するに、行通がふざけて喧嘩してですね、この行通という人はどうも背の小さい人だったようで、お前のように小さい人は袋に入れてしまうこともできるんだよ、というように言って、「袋のありけるに掴み入れられける」という訳でした。
 また、そう考えてみますと、先ほどの『地蔵菩薩霊験記』の強盗ですけれど、前を歩いている強盗の袋の中は軽そうに見えます、例えば金とか銀とか銅が入っているのかもしれません。問題は後ろの強盗ですけれど、おもそうな袋を肩に担いでいます。そして右手で袋に剣を当てているように見えます。中に何が入っているかわかりませんけれども、もしかしたら中に子供が入っているかもしれない、刀をあてて脅かしているのかもしれません。
 つまり、大袋が一般の強盗と違うのは、彼等が、物品を強奪するのみでなく、人をさらってしまうという悪行をおかすことにあったのではないかというのが結論です。「大袋」=「誘拐強盗団」説ということです。私は、こういう犯罪の名前が一般的に語られたというのは、現実にこういう組織があったことを意味すると考えるべきであろうと思います。そして誘拐された人は、どういう運命になるかといえば、有名な「安寿と厨子王」という物語が示すように、人買いの手にわたっていずこともしれぬ処へ売られていくということだったに違い有りません。実は「人商い」という言葉があります。これはけっして架空の話しではなく、鎌倉時代には人身売買を専門にしている人というのがいます。幕府の法律によりますと、市場で人が売られているわけであります。そしてこの人売買の組織は「人さらい」の組織と連結していたはずです。「拘引人ならびに売買人の輩を禁制すべきこと」「拘引人ならびに人倫売買の輩を搦め進むべきこと」などという鎌倉幕府の法が繰り返し発布されていることに、それは明らかでしょう。 
Ⅳ人拘引・人さらいと大袋
 以上、「大袋」という犯罪についての謎解きをしてみました。私が、この研究をしたのは、もう二〇年も前のことですけれども、この謎が解けた時はあまりいい気持ちではなかったことを覚えています。つまり、何というか、ある意味で始めて、昔の社会に存在した「悪」というものにふれたという感じがしたように覚えているのです。
 もちろん、「人さらい」ということ自身は、さまざまな理由で行われます。平安時代・鎌倉時代には「人かどい」「人拘引」ということが多かったのですが、そもそも、人々がその身柄を拘束される、連れ去られるということは様々な理由で起きました。それは人間が「物」として扱われるということ自身が一般的であったためです。たとえばさきほどふれた「布袋を盗んだ罪」が書いてある同じ山田文書の鎮西下知状は、きわめて長文のものですが、そこには、「人拘引」に関わる問題も出てきます。大雑把に説明しますと、井出田の水守の又太郎という人が山田村にいました(なおこの又太郎という人は「井出田の水守」といいますから、水守であるとともに、「井出」つまり井堰、灌漑水路の費用を負担する「井出田」(=井料田)を管理する権限をもっていた百姓ということになると思います)。この水守又太郎が「人拘引」をしたということで訴えられます。この又太郎の家にはたしかに又四郎という下人が使われていたのですが、この下人は別の永増という男の下人であったはずで、又太郎はそれを盗んだという訳です。この訴えをうけた地頭は又太郎から一人の下人をとって訴人に渡したといいます。そして又太郎からは、犯罪を理由としてさらに「身代四人」をとったといいます。こういうように下人の所属をめぐる争いはしばしば、「人拘引」として訴えられることになります。これは財産としての「下人」の所属をめぐる争いですから、先にふれた『沙汰未練書』には、こういう民事事件としての「人拘引」は、大袋という犯罪とは区別して書かれています。
 この水守又太郎をめぐる相論では、文字面の範囲内では、地頭のやっていることは調査と処罰のようにみえますから、これは「大袋」のような悪行であるとは思えません。ただ、地頭に対立する郡司の側からは、この地頭の処断に疑問が出されていますし、鎮西下知状自身も、「地頭の成敗不分明」として疑義を提出しています。つまり、これは考えようによっては、地頭の側が又太郎に対して「人拘引」をしたと難癖をつけているというようにもみることができることです。実際に、地頭が借米のことで百姓から「身代」をとったといころ、百姓が彼等を取り返したので、それに対して、地頭が「人拘引」であると攻撃したという項目も同じ鎮西下知状にあります。そうはいっても、これも一応は、右にいう民事事件としての「人拘引」事件であるといってよいでしょう。
 しかし、こういう状態の中で、地頭宗久が不法で乱暴な行動にでていることは否定できません。たとえば、地頭宗久は、寂善という百姓の従者の女が主人のもとから離れる時に、「小袖一つ」をもってでるのをみて、「盗人」と称して、彼女を逮捕したといいます。また同じ百姓の別の女従者がに「間夫の咎」があったということで、寂善の養女を逮捕して売り払ったともいいます。こうなりますと、地頭自身の行動が「人さらい」=「大袋」と紙一重ということにもなるのではないでしょうか。
 こう考えてきますと、やや時代は下りますが、大和国の領主たちが「盗賊の族を扶持し置き、夜討・強盗・大袋などの種々悪行をもって其業となす」といわれているのが、きわめて重要な意味をもってくるように思います。つまり、けっしてすべての領主が、そういう悪行をするという訳ではなかったと思いますが、地頭その他の領主たち自身が、利益をもとめて単に民事事件というレベルではなく、意識的に犯罪行為としての「人拘引」を遂行し、誘拐した男女を売り払うということがあったのではないかという推定が可能になることです。肥前国の領主が隣荘との堺相論において「(隣荘の)百姓所従を召し籠め左右なく沽却せしめ候」(『鎌倉遺文』九七五〇)という事件もあります。また若狭国太良庄の地頭が庄園にやってきた「盲目法師」を寄宿させた住民三人を、この法師がささいな盗みをしたという難癖をつけて売り払ってしまったという史料もあります。
 「袋持」の話しで述べたように、そもそも地域の領主の従者たちの中には、袋を担いだ男たち、しばしば屈強の男たちがいたのは確実ですから、いざとなると、こういう従者を含む、領主の家の組織が、いわばヤクザ化して、「夜討・強盗・大袋などの種々悪行をもって其業となす」ということになる可能性は、やはり無視できないように思うのです。もちろん、領主の従者の「袋持」は、馬に乗る権利はなく、徒歩であったと考えられますから、一般には、領主の従者たちの中でも地位が低く、弱い立場の人々であったと思うのですが、「大袋」という形で、主人の悪行に荷担することも当然あったはずです。最初に申し上げた「袋持」の話しと「大袋」の話しの関係というのは、以上のようなことです。
  おわりに
 以上、何とも暗い話でありますけれど、最後に、それに関係して、少し感想を話すことを御許しください。それは「悪」というものを歴史学がどう考えるかということです。これまでの歴史学はこの「悪」といわれるものについて、正面から考えたことがないのではないかというのが私の意見でありますけれども、しかし、世の中には必ず「悪」というものがあり、そして「悪人」という人たちがいて、それは昔も今も変わらないということを考えるのも歴史学の重要な役割であると思います。それは決して勧善懲悪ということではありませんが、歴史学がしばしば「悪」の現実をみないで、「希望」や「善」のみを語るということになってはならないと思うのです。
 「悪」ということの最初の前提になりますのが「利己主義」ということだと思います。これは誰も「利己」=自分を大事にするということは大事なことですが、それを越えた「利己主義者」が世の中に一定の率でいることも否定できません。そして「利己主義」だけなら、それはいわば個人の自由です。そして、もちろん、「利他主義」が「悪」に変化していくというもっと怖いルートもある訳ですが、一般には利己主義がしばしば「悪」へ変化していく訳です。なぜ「利己主義」が「悪」になっていくのか、そして昔の「悪」というものはどういうものだったのか、どういう社会的条件の中で、どのようにして生れたのか。上のように史料を追ってきますと、そういうことを考えさせられます。「誘拐強盗団」がいる。これが悪人であるというのは超歴史的な言い方だと批判を受けるかもしれませんが、悪いものは悪いと思います。
 もちろん、問題は、こういう「悪」が発生する原因ではあります。今日の話しの構成ですと、その一つの条件に「領主」というものの存在を考えなければなりません。しかし、領主というものは、地主というものを考えてみればいいわけですけれど、人を連行したり、年貢をたくさん取ったりと乱暴なことをやることはありますけれど、同時にその領内のために必要な社会事業をやり、経済を指導し、隣村との争いを指導し、などなど様々なことをやるわけでありまして、領主イコール悪人というわけではありません。そうではなく、そういう社会を条件としてさらに「悪」に突き進んでいく。そういう人々がたしかにいたわけであります。
 少なくとも現代日本の社会の内部においては、「大袋」のような「悪」、人の肉体を直接に痛めつけるような「悪」は、なくなっているようにみえます。そのことの意味がやはり非常に重要です。私たちにとっては、人身的な自由というのは人間にとっての最低の自由として保障されているわけであります。しかし、逆にいうと、そういうことが保障されていない社会というのが平安時代から室町までずっと続いていたということを確認すること、これを常識として現代の人々が知っていることは必要なことなのではないでしょうか。それが温故知新ということであるはずです。
 私は、こういうことについての文化を日本社会がなくしつつあるのではないかということが大変心配であります。私たちの世代ですと、夕方に「人攫いがくるぞ」と言われて脅かされました。子供を脅かすというのは悪い事でしょうけれども、私たちは「安寿と厨子王」の話と「人さらい」を結びつけて感じることがあったと思うのです。その種の文化が徐々に失われてしまっているというのが、今の社会や文化のあり方について危機を感じる点です。
 黎明館で所蔵しています島津家文書を筆頭としまして、日本には奈良時代から幕末までずっと大量の文書が蓄積され、しかも島津家文書などになりますと、地域社会の事が上から下までよくわかるというのは世界でも希有なことです。しかも、その中に今申しあげたような日本の社会に於ける過去の「悪」を具体的にわかる事の出来る希有な史料が含まれているというのも非常に重要だと思います。先ほどの史料「山田文書」のことを例えば谷山郡の子ども達が知れば、これはやはり過去の社会に対しての親近感が違うと思うのです。そういう意味で、歴史学というものは日本の文化を地域の中から豊かにしていく為に重要な位置を持っていると考えるわけでありますけれども、それにしても問題は広いように思います。
 一枚の絵をみていただきますと、これはローマの絵であります。今日はこれまでお聞きになった歴史の話の中では変わった話であったかも知れないと思います。この絵は、今日のような話が単に日本の歴史の話というだけではなくて、世界中のどこの国にも関係する話しであることを示しています。人間というのは、どの国でも、同じような人間であり、ということは同じような「悪」を行うということを示しています。
 この絵は、ローマにおいて親殺しを犯した男はどういう罪、どういう風に処罰されるかを示しています。絵の図柄が細かいところまではみにくいかもしれませんが、目隠しをされた男が両方から捕まれて連行されて、そこに大きな袋があります。実は、親殺しを犯した男は、この大きな袋に詰めこまれます。そして、ここに猫と猿と雉が居るんですけれど、この猫と猿と雉を一緒に袋の中につっこんで、袋の口をとじて海に投げ込むというのです。要するに、人間として許されない親殺しの罪を犯したような男は袋の中に突っ込んで、猫・猿・雉と一緒につっこんで放り投げてしまえ、というのがローマ時代の殺親罪の刑罰であったという事です。
 考えてみますと、御存知のようにヨーロッパで袋を持っているといえばサンタクロースです。サンタクロースは時々自分で袋を持ちますけど、しばしば、お付きの男、お付きの鞭打ち男(「むちうちおじさん」などといいます)が袋を持っております。サンタクロースにはまさに「袋持」の従者がくっついていって、悪い子供が居ると鞭で打って袋に入れて連れてっちゃうぞ、とこういう風にいうわけであります。私は、まだ調査したことはありませんが、ここからみて、ヨーロッパにも、古くから誘拐犯罪としての「大袋」があったに違いないと思います。
 ですから、ヨーロッパでは「大袋」の問題は「親殺し」につながってくるものとして考えられていたに相違ないと思います。人を誘拐するような罪は、大変重い罪であって、袋の中に人間を突っ込むというようなことは許されない。逆に重罪を犯したような人間や「悪人」は、袋に入れるのがふさわしいということになります。グリム童話の「大クラウス、小クラウス」の話しなども、こう考えると興味深いものです。
 「袋」ということでもう一つ思い起こすことは、江戸時代の「袋持」です。江戸時代には「袋持」にはもう一つの意味がありまして、これは乞食なんです。籠持ちだとか袋持ちといいますのは、乞食であるといいます。私が小さな頃には、まだそういう人々が歩いていましたけれども、籠を背中に背負って屑を拾う屑拾い、籠持ちと呼ばれる人々がおりました。そういう意味では、袋が賤しい職業を表現するという観念があります。実は『日本書紀』には、罪を犯した人間の身分を落とすときに「袋担ぎ人」にしてしまうということがでてきます。『日本書紀』のころですから、6~7世紀のころには賤しい人間、差別された人間として「袋担ぎ人」という人がいたということなります。ですから、大国主命が冒頭で申しましたようにお兄さんに付いて袋を担がされているというのは、身分としては下に落とされたということになるわけであります。
 さきほど、「大袋」のような「悪」、人の肉体を直接に痛めつけるような「悪」は、なくなっているようにみえると申しました。けれども、今述べましたような意味での、貧困の象徴としての「袋」という観念は依然として無くなっていないのです。二〇年前に「袋」の研究をした頃に、アメリカのホームレスが大きな話題になっていました。当時、ホームレスの人たちの事、特に女性のホームレスの人の事を「ペーパーバッグレディ」と言っていました。紙袋で生活道具を持ち歩いている女性という訳です。昔の人たちにとっては、袋を持たされるという事は、一面ではとにかく主人にお仕えして、主人の下で生活を保障されている、そんな悪人の主人でなければ袋を持って付いていればとにかく生活は保障されていると言うことだったわけですね。悪い主人だと、その袋を持たされて隣村に押し込んで人を誘拐させられる、誘拐団に動員される事もあったかもしれませんけれど、ともかく袋というのは昔の人にとってはある種の生業、従者としての身分を表現するものであったわけです。もちろん、その保護から離れてしまえば袋を持った乞食になってしまうかも知れない訳ですが。
 最後になりますけれど、島津家文書の中にはホントに多様な事柄が含まれているということをお伝えするために今日のような話を選択をいたしました。ご存じのように、島津家文書を初めとする日本の古文書は大変立派なものであります。率直にいって、それを見ているだけで私たちは何となく嬉しくなってしまうわけでありまして、その中に社会的な厳しい問題や、暴力の問題や、悪の問題というものを見続けるというのは実際にはなかなか難しいことであります。私も時々しかこういう事を考えないんであります。けれども、現代社会では拉致・誘拐の罪としての「大袋」は無くなったけれども、「袋」が象徴するもう一つの問題としての社会的な貧困は、日本の社会の中でも拡大しつつありますし、さらに世界的には全く新しい貧困が、アメリカ、そしてアジアからアフリカにかけて拡がっているのは御存知の通りであります。私たちは歴史的な史料を見る場合でもその種の考え方や感じかた、感性と申しましょうか、そういうことを忘れないようにしていきたいと、そう思います。
 色々と勝手な話をいたしまして失礼致しました。丁度時間となりましたので、ここで終わらせて頂きます。
 

2011年1月14日 (金)

新年の抱負ーー義江彰夫『鎌倉幕府守護職成立史の研究』を読む

 同世代の年賀状からは、還暦を過ぎたとか、もうすぐ定年だとかの文言が多く、ご自分の研究の今後についてふれたものも多い。今日いただいた抜き刷りにも、なかなか若い人の研究と自分の考えていることがかみ合わないとある。
 しかし、エリート学問ではない歴史学は、ともかく経験がものをいうという研究のはずで、気持ちを入れ替えて、しつこくやっていくほかないと考えることにする。
 しかし、しばらく前までは「そんな年をとってまで、実証論文を書かないでください。若い人がやることがなくなっちゃうじゃないですか」などといっていたのだから勝手なものではある。網野さんにそういったら、網野さんは困った顔をしておられた。

 しつこくやらなければと感じるのは、義江彰夫さんの大著『鎌倉幕府守護職成立史の研究』のことを考えるからである。
 歴史学の研究者以外の方には分かりにくいかもしれないが、歴史学にも「難問」というものはある。その代表は、私たちの世代だと(1)庄園の「名」「名主」とは何かということと、(2)「地頭」「国地頭」とは何かという問題であった。考えてみれば、前の「名」論も石母田正さんがいいだしたことであった。しかし、この「名」論はほんとうに大変なので、せめて後者だけでも、私たちの世代で処理し、後の世代に迷惑をかけないようにしておくべきなのではないかなどと思う。賀状のやりとりでも、ともかく、私たちの世代の間に、石母田正さんが問題提起した国地頭論争だけはかたずけなければと考えていますと、ある方に書いた。
 ふつう、地頭というと荘園におかれた地頭のことしか印象にないと思うが、実は、この地頭が「国地頭」という形で存在したという事実を石母田正氏が60年代に発見され、その実態は何かということが、「鎌倉幕府とは何か」「治承寿永内乱とは何か」という問題との関係で、長く続く論争になっている。

 なにしろ十分な一次史料がないので、一次史料にそって、議論のすべてを組み立てようとすると、なまなかな覚悟では関われない。事情を知っているものには、「あれか」ということなのだが、これは本当にしつこくやらないとどうしようもない種類の大論争になっていた。

 しかし、さしもの大論争も、義江彰夫さんが、一昨年、上記の著書『鎌倉幕府守護職成立史の研究』を出して、謎の糸球がほぐれていくのではないかと期待している。国地頭論は、「惣追捕使論=守護論」と深い関係があって全体を論ずるのがむずかしいのであるが、以前、大著『地頭職成立史の研究』をだした義江さんが、守護についても大著を書いてくれた。守護論は佐藤進一氏の仕事以降、全体的な視野で鎌倉幕府時代の初期から中期までを論じた仕事は、義江氏がいっているように、めぼしいものがなく(中期以降は、最近新しい仕事が増えた)、これで話が分かりやすくなる。我々の世代にとっては慶賀のいたり、本当にご苦労様であるという感じである。異論はあるのかも知れないが、これは私たちの世代の仕事の中で、農業史の何人かの仕事のほかで、困難な仕事に挑んだという点で、確実に残るものの随一にあがると思う。

 ただ、「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」という論文を書いたことのあるものとしては他人事ではない。この論文は先日、WEBPAGEにあげたが、ともかく義江著書を前提に検討し直し、書き直さなければならない。

 義江彰夫さんの新著は第三編、第四編が完全な新稿で、その部分だけでも400頁というもの。ただし、「はしがき」にあるように、中心は第三編で、そこは分かりやすい。一次史料にもとづいた推論という筋が貫かれていて、読んでいても気持ちがいい。義江さんの頼朝の日本国惣追捕使への補任という立論、そして惣追捕使と守護は同じことで、前者は義経追捕を表面に立てた朝廷向きの名称、後者は頼朝専決の実態であるという基本部分は、私は鉄案であると思う。
 細部では、私は「諸国に守護を補す」という『百錬抄』の記事は、『吉田経房記』の一部であるということを前提にしていて、少なくとも、そこに「院宣」とあるのが正しいと考えるなどなど、意見が違うところはあって、義江さんからの批判がないので、いつか議論をしたいと思っているが、しかし、ともかく、論争の中心点のいくつかは義江さんがおさえてくれたので、あとはどうにかなるのではないか。これで石母田正ー佐藤進一以来の謎か呪いのようなものがとけて、風通しがよくなるのではないかと期待している。

なお、この論争は、戦前から、中田薫という法制史研究者が問題を提起して以来の大論争で、実際には、さらに多くの問題に関係していて、絡まりあった糸球のようになっている。最後は中田薫の議論のすべてをひっくり返さないとならないというのが「日本中世史」の研究の根っこにある問題で、石母田正ー永原慶二ー石井進は、中田が最大の格闘相手であった。亡くなる前の網野善彦さんが、急に中田薫の検討を急ピッチで展開されて、大論を展開されたのも驚いた。

 私は、研究史というのは、本来は、一種の知識ベースでなければならないものだと思う。歴史学は研究作業が細かく、手順をふまねばならず、めんどくさいところがあるという点で、自然科学、実験科学に似ているが、研究史の中から進んでいかなければならないというところは自然科学と少し違うのだろうと思う。けれども、現在の国地頭論争のような状況になると、研究史が知識ベースの役割をせずに、研究の阻害要因、「つっかえ」となっている。この「栓」は抜いておかねばならぬもので、この「栓」を抜くために、同世代で協力したいものだと思う。今年は、あまり抱負をもつ気分ではないが、これが新年の抱負か。

 

2011年1月13日 (木)

教科書叙述についての相談をうけてーー山民と下人

 教科書叙述についての相談をうけた。『一遍聖絵』の商人らしき人々の前後に描かれている「狩人」はどういう性格の人かということ。
 この問題については、ちょうど、以前、須磨千頴先生が学士院賞を受けられたときの南山大学の紀要特集号に書かせていただいたことがあり、WEBPAGEに載せるので、それをみてくださいといった。そこで、今、載せておいた。こういう時もブログは便利なものだ。
 柳田国男に「山立と山伏」という論文がある。高取正男氏がこれは重要であるとっていたというのか、高取さんに関係論文があるというのだったか、戸田芳実さんに聞いたことがある。それ以来、気になっていた「山立」ということについて論じたもの。
 「藁帽子」をかぶった人間は、たしかに狩人なのではあるが、社会的な性格としては「下人」が送迎役を果たしている姿ではないかと論じたものである。読んでいただければ分かるが、領主のテリトリーに入った旅人が要望をすると、下人をつけてくれて送迎をしてくれるということがあったようで、その場合に腕っ節の強い下人は、しばしば山民から提供されたらしい。逆にいうと、領主下人の中の腕っ節の強いのには、狩人がいたということになる。
領主の下人が山番をし、山の管理をしているということでもあるだろう。
 戸田芳実・網野善彦の水軍領主、海賊領主という言葉をかりれば、山賊領主とでもいえる様相ということになる。下人が武家領主の軍事力を構成したことは松本新八郎氏以来の共通了解であるが、その場合の、クッションの一つとして、下人=狩人という側面があるのではないか。下人身分の人々の多様な存在の仕方を追跡することが必要であると思う。
 私は、領主制論が不評になったということは、端的にいえば、従属的な立場にある領主下人のような存在に研究者の興味がむかわなくなったということだと思うというのが「持論」。私にとっては、領主制論批判にどうしても賛成できない理由がここにある。下人論をやらないなんて信じられないという訳である。これは昨日も書いたように一種の「自動思考」になっていて、その意味では困ったものである。年が高くなってきて、持論が増えるというのは耄碌の証拠である。「持論」といえば聞こえはよいが、「自動思考」にすぎないという訳だ。
 もちろん、下人論の到達点は、基本的には峰岸純夫さんの「下人について」で結論がでているところがあるので、研究者の関心が向かわないのはやむをえないところがあるのだが、峰岸論文は身分論が片方にあるので、それを全部考えなくてはならないのが大変である。
 研究史は、下人論から身分論にいった訳だが、身分論、身分差別論を下人論からみなおしてみたい、領主制論と身分論の統一というのが長い間の課題である。さて、峰岸さんの本の書評。
 なお、関係するので、「教材としての社会史」という短文もWEBPAGEに載せておいた。歴史教育で「下人論」をどう扱うかを述べたもの。

2011年1月12日 (水)

峰岸純夫さんの仕事に何度目かの挑戦

 自転車に乗る余裕がないまま、運動不足もあるのだろう。冬にかならず一度はやる疾病で、今日・明日は休ませていただく。週末の重要労働のために大事もとらねばならない。
110112_203549  一仕事を終えると、いつも考えるのだが、そろそろ「論文集」というものを出さねばならないとは思う。
 私が指導をうけた戸田芳実氏は、かって、晩年、「自己の学説をまとめ体系化する作業はやらない。自分にとって重要かつ示唆的だと思われる論点を自由に追求するだけにする」とおっしゃっていた。戸田さんを理想としてきた私も、そういいたいところではある。しかし、戸田さんとはちがって、私には、少なくとも現在のところ、「自己の学説」というものがないので、そういう格好のよいことはいえない。
 もちろん、これだけ『個人論文集』というものが重視されるのは、日本の歴史学界独特の現象で、いわゆる論文は学界内流通であるから、読めればよい。総集、個人全集のようなものを出すことはあまりやらないというのが、諸外国の風習であるという。実に格好のよいドイツの日本史研究者にいわれたことがある。ユーラシアの反対側の端っこの人は変わってるという訳だ。
 私も、一時、そういう考え方で論文集はださない(だせない)という決意を固めたことがある。歴史学でも、自然科学と同様に、雑誌論文は、おそかれ早かれ、デジタルデータで公開され、学界がそれを管理するということになるだろうと思う。史料のデータベース、知識ベースが充実してくることは、さまざまな困難はあっても、必然であると考えるので、それは論文のデジタル化にも結びついていくだろう。将来は、論文を書いたら、その論文で論証したこと、つけ加えられた史料知識、実証などを、知識ベースに追加していくルートができるにちがいないと思う。
 この情報化時代、その方が研究史の進み方は加速化されるし、人々にとって、社会にとって本当に必要な研究が系統的に進められるようになるにちがいないと思う。とはいっても、現在のような大学予算、学術予算の貧困と削減の状況では、なかなかそういう夢はみれないということは、そうだろうと思う。
 などなど、以上が、こういうことを考えた時の、私の「自動思考」である。「自動思考」とは、思考の癖のようなもので、それを何度も繰り返していると、嗜癖症に近くなり、イライラし始めるということである。「自動思考」をなくすには、その根拠になっている状況そのものをなくせばよいというのが、基本ではある。
 そこで、やはり論文集を作ろう、論文で書いてきたことを確認し、修正し、まとめておきたいということになる。私とて、論文の数がないという訳ではないのだが、先日、WEBPAGEにあげておいた論文リストをみれば、自分でも実に驚くように論題さまざま。このままでは、私の論文集などは、いわゆる「カマドの灰まで集めて」ということになりかねない。そういうことは、「こわい」のでできない。
 机の前には書くべき本のリストが掲げられており、そのうち、三冊が赤いマジックで囲われている。これが論文集になるかどうかは別にして、私の論題が三方に分かれているのは事実。ともかく、そのうちで、本当にやりたいのが「経済史」で、しかもさらに「農業史」なので困っている。これは論文の数が足りず、研究の目途もたっていない。石母田・永原慶二・稲垣泰彦・戸田芳実・河音能平・峰岸純夫氏などの古典学説をつめて考えた上で、尊敬するTR氏、KS氏、HH氏などの先行研究を、もう一度受けとめて、議論をしなければならない。
 論題に経済史をえらんでいる院生の人がいて、しかも本当にむずかしいテーマで、心配をし、かつ自分の非力を思い知ることが多い。自身、これまでも、手探りでやってきたが、どう進めていいかわからないことが多いので勘弁である。考えてみれば、途中になっている歴史経済学の原論的研究も、仕事の前提になる。
 頭の中に住みついているK氏には「頑張って」と笑われているような気がする。しかしともかくも、峰岸純夫さんの仕事の見直しから、進まねばならない。この間に出された四冊の本のうち、『中世社会の一揆と宗教』『中世東国の庄園公領と宗教』は、見事な本で、私にはとても追いつけないが、『第四冊目、『日本中世の社会構成・階級と身分』は、私にとっては原点的一冊、下人論、身分論から経済史へのまとまりを検討しなければならない。
 というところまで書いて、考えてみれば、これまでいつも、峰岸さんの仕事を考えねばならないということで、さらに先に進むことを中断してきたような気がする。これは「自動思考」のレベルではなくて、「堂々巡り」か。
 今度は遅れてもかくてはならじである。以上、やすみながら、横になりながらの、気持ちを固めるための頭の予行演習。

2011年1月11日 (火)

西行と頼朝ーーさやの中山から、

 やっと義経論の前半が終わってほっとしている。いま、連休の翌日の夕方。総武線の中。計画としては、これで平安後期の政治史研究は終わりにする積もり。
 私は本来は経済史なので、こんな仕事をやることになるとは考えていなかった。こういう仕事をやることになった事情を『義経の登場』のあとがきに、西行の「としたけて、またこゆべしと思ひきや、命なりけりーー」の和歌を引用して、次のように書いた。

 さて、例によって長くなったあとがきをそろそろ終えるが、小夜の中山は、私が大学院時代に指導をうけた戸田芳実氏が、結婚したての妻と私をさそって一緒に歩いてくれた峠である。峠の上をまっすぐに続く平坦な道と掛川の側の日坂に降りるときの急坂の記憶は忘れることができない。そして、掛川の先の磐田市は、石井進氏・網野善彦氏・峰岸純夫氏をかついで保存運動に参加した一ノ谷墓地遺跡のある町であり、考古学関係者との相談や市民集会出席のために、何度も何度も通って、その地理をもっともよく知っている町の一つである。この経験をいまでもしばしば思い起こすのは、それが私にとって一つの研究の曲がり角の時期と一致していたからである。私は、この遺跡の保存問題に関わる中で、それまで平安時代を中心にした経済史・社会史の研究に限られていた自分の研究視野を鎌倉時代にまで引き延ばさざるをえなかった。この遺跡の所在する見付は、遠江国の国衙が置かれた地であり、代々遠江国の守護をつとめたのは北条氏の一流、大仏氏である。それ故に、この遺跡のことを考えるためには、当然に、鎌倉幕府関係史料を読み込むことが必要となった。こうして、私は、この遺跡の保存問題に関わる中で、鎌倉時代の国家論・政治史に関わる史料をほぼ始めて勉強することになった。その中で学んだものは大きく、その経験は、研究者としての私の再出発点となったともいえると思う。
 この保存運動は十分な実を結ばずにおわったが、遠江考古学研究会を中心とする考古学研究者の努力によって、遺跡の破壊された後も、毎年、一ノ谷遺跡の学問的意義を再考するための連続的なシンポジウムが開催された。その中で、私は、論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」を執筆し、それを起点として平安時代政治史の研究にさかのぼると同時に、義経論に興味を持ちはじめた。磐田での研究集会に出席した後、石井・網野両氏と一緒の新幹線で帰った時、調べだした義経の話をして、網野さんが「政治史が変わるね」といってくれたのに、石井さんが「そうかなあ」とおっしゃったのをよくおぼえている。石井進・網野善彦の両氏は、最近、相次いで死去されてしまったが、御二人からはいろいろなことをおそわった。遺跡が破壊される中で、運動の中心となった山村宏氏も死去してしまい、石井氏も網野氏も死去してしまった今となっては、自己の非力の実感と役割を果たせていないという悔恨のみが残る。研究だけは蓄積してきたというのでは本当にどうしようもないが、御許しいただきたいと思う。

 書き上げた義経論の中には石井さんの仕事への批判が多い。けれどもあのとき、「そうかなあ」といってくれなかったら、本気ではやらなかった仕事かもしれない。記念に、右の馬鹿長い論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」をWEBPAGEにあげておいた。そういえば、これの書き直しもしなければならない。
 さて、今回の義経論には頼朝論も入った。義経論をなぜ始めたかといえば、私は頼朝が大嫌いで、これを叩きたいというのが、実は先行していた。「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」にも頼朝はマザコンだとか書いている。
 かって論じたように、現行の歴史教科書を読んでいる子どもたちは、頼朝は偉い人だったと思って何の疑問をもっていないのではないだろうか。これは「歴史を通して社会を見つめる」(東京大学出版会、『共生する社会』、『シリーズ学びと文化(4)』一九九五)という文章で考えたことだが、最近、さらに気になるようになった。
 頼朝については、地方武士の期待をうけて全国を統一し,「簡素」な幕府機構を創設したというようなことが書いてあって、その上に御家人が心服していたとか、平氏とは違って朝廷での地位は望まなかったとか書いてあるのだから自然にそう思うだろう。
 しかし、このような「頼朝びいき」は、だいたい一九六〇年代以降の傾向、つまりここ五〇年ほどの傾向だろうと思う。まず、戦前,皇国史観が猛威をふるう中では、頼朝には皇権の簒奪者という印象がつきまとい、おおっぴらに誉め上げるのははばかられる場合があった。また「判官びいき」の心情は、ある意味では皇国史観よりも国民の中に根深く浸透していた。そこでは頼朝というのは、ようするに「陰険な陰謀家」であったと思う。
 私は一九四八年の生まれだが、義経の物語を祖父から聞いた記憶がある。また泥絵のような絵本で、頼朝が娘・大姫の婿として招いた木曽義仲の息子・義高を殺したという話を読んだ記憶がある。その頼朝イメージはまさに「陰険」そのものであった。私は、こういうイメージが正しいと思う。『曾我物語』を読んでいると、頼朝への怨念は、社会の基礎には鎌倉時代から強いと思う。
 このような状況が変化したのは、まず「判官びいき」の基盤をなしていた戦前以来の大衆文化,歌舞伎や歴史読み物が、歴史文化の中で地位を低下させたためである。あげつらうようで恐縮だが、たとえば、永原慶二さんが頼朝について「理非曲直を正すことに公平で,院や天皇の権威も憚らない新しい価値観政道思想」をもって「歴史の変革者」の道を歩んだとまで述べているように、そこでは、戦後の歴史学も大きな役割を果たしてしまった(『源頼朝』)。
 私は、日本の歴史文化というレベルで考えると、こういう状況それ自体をくつがえしていくべきではないかと思う。もちろん、昔のような「判官びいき」を復活しようというのではない。義経も徒手空拳の若者というイメージとは異なって、王権と後宮世界、貴族世界に意外と近い素性をもち内乱の時代の軍事貴族のエリートである。相当の策略も弄し、さらに政治や行政の面でも有能なエリートとしての顔をもっている。「兄も兄なら、弟も弟」。所詮、この兄弟は「悪縁の家族」であるといわざるをえないのである。
 「悪縁の家族」。これこそ、平安時代から鎌倉時代にかけて、国家の中での軍事力の位置が大きくなったということの結果なのだろうと思うのである。ようするに頼朝の陰険さや悪行というものを歴史的にとらえ直していく作業が必要なのではないかということだが、あらためて考えてみれば、平安時代の半ば過ぎまでは、日本列島は「文明化」は遅れていたものの、地方社会をふくめていわば相対的な「平和」と「富」にめぐまれていた。しかし、平安時代の後半、国家中枢に爛熟と頽廃と暴力が巣くいはじめる。
 そして、院政期の国家から武臣国家の時期、つまりだいたい一二世紀から一三世紀は、王家や公家貴族・武家貴族のすべての家の内部、および相互において、頽廃的で残虐、裏切りにみちた争いが繰り返されることになった。その異様さは際立っており、この時代は、日本史上でもきわめて特異な時代であったということができる。
 かっては、この時代において、未開の素朴な力、「野蛮」が、頽廃した都市の支配をくつがえし、「封建制」の時代、「地方の時代」が作られたという見方が一般的であった。しかし、これはもはや通用しない見方である。むしろこの時代は国家中枢の爛熟と頽廃の中で、国家社会の全体が軍事化し、暴力化していった時代と考えるほかない。私は、こういうストレートな言い方が、あまり歓迎されないことは知っているが、この時代の「野蛮」ともみえるような惨酷な争いは、腐敗した国家が上から軍事化していく中で生まれたことであったと考える。その意味でも封建制の形成というのは駄目で、これはむしろ東アジア的な王朝の頽廃、内紛、軍事紛争という類型が、列島社会でも始まったといっていいようなことだと、思う。石母田さんがいっているように、頼朝の勤皇イデオロギーはうさんくさいものがあるが、しかし、結局、その意味は大きかった。入間田さんの言い方では、「東アジア辺境の野蛮な風景」ということになるが、私は「野蛮」の意味を、こう考える。
 そもそも、頼朝ー頼家ー実朝の時期の「鎌倉幕府」なるものは、実際には、組織の体をなさないような、内部での激しい叩き合い、殺し合いに終止していた。それを詳細に追跡してみると、「武士道」「忠義」「質実剛健」「御恩ー奉公」などという言葉は、冗談か、あるいは現実のあまりの醜悪さを隠すためのものに過ぎないのではないかと思わせるのである。
 この時代の救いは、都鄙を往反する女性だと思う。たとえば頼朝の乳母たちは、全員、京都に出ていたはずだ。しかも、彼らは地域の出身で京都へ出ていたはずだ。そういう活動をした女性は多い。『義経の登場』で注目した資隆入道の母も老女の身で、平泉まででかけた。
 そしてもう一つの救いは宗教者。やはり重源。そして、西行。西行は頼朝との出逢いがあるが、頼朝とはつき合わないよという姿勢が明瞭だと思う。そして、「資隆入道の母」は、法然がらみのように思う。

2011年1月 3日 (月)

崔善愛『父とショパン』を読んでー歴史家と君が代

 2004年に九州大学史学会で行った講演『君が代と平安文化』をWEBPAGEにあげた。この講演の前後から、「君が代」について一冊の本を書きたいと考えていた。あるいはもっとはやく国家国旗法の通過の時であったかもしれない。あの時、歴史の研究の側に系統的な君が代の研究がないのを知って、また、国会の論議においても、「君」は目上の人一般を意味するという戦後の微温的な日本文学史の側の研究が前提とされているのをみて、驚き、これは一言いわなければという気持ちをもったことを思い出す。

110103_171748saisann  それはなかなか実現できないままでいるが、正月、家族がでている中でゆっくり食事をしていたら、食卓のそばの本棚のチェ・ソンエ(崔善愛)『父とショパン』(影書房)が目についた。読んで引き込まれた。私たちも、同じような経験をしたが、次の文章は、お子さんの学校での君が代斉唱に係わる問題である。

 音楽の先生はわたしと同じ年代の中堅の男性だった。校長室で、校長と主幹の二人の先生と議論したあと、私は、「音楽の授業で、先生は、『君が代』の君とは誰を指すと、教えていらっしゃるのですか」と聞くと、「それは国民全体を指しています」といいながら、開かれた指導要領を持つ先生の手は小刻みにふるえていた(108頁)。

 現在の状況の中で、「君が代」の「君」が天皇を指すことは誰もわかっている。それを「国民」だというのはゴマカシである。場の平穏を尊重する、この国の文化にはかならず必要なゴマカシの文化、オブスキュランティズム。
 しかし、文化的な曖昧さというものは、文化それ自身の敵であると思う。平安時代の和歌に大量に登場する「君が代」和歌群の「君」の中枢に「天皇」がいることは明かである。『歴史学をみつめ直す』に収録した「和歌史料と水田稲作社会」を書くために、「君が代」和歌群の内容にふれてみて、本当にそう思う。私は、平安時代は、水田開発の進展期であるという意味で、「大開発時代」であったといってよいと、依然として思っているが、特にその水田開発とともに、「君が代和歌群」が歌われたのである。それは平安王権を強力に支えた一つの文化装置であったと思う。

 少なくとも、歴史的な事実として、それが天皇を指すということを述べておくのが歴史学者としては職能的な義務であろうと考えて、右の講演を含む、いくつかの研究をしてきたが、崔さんの経験を読んで、さまざまなことを思い出した。

 この本の音楽についての断章にも惹かれた。昨年、以前、子供用の縮訳で愛読していたサンドの『愛の妖精』(プチット・ファデット)を文庫本で偶然に読んだこともあって、ショパンとジョルジュ・サンドの話もなつかしい。考えさせられたのは、崔さんが指紋押捺を拒否せざるをえなくなり、またその後に留学せざるをえなくなって、「再入国不許可」という状況でインディアナ大学に留学した時の経験。

 アメリカでの留学の三年間、異なる国、環境で育った人が集まり、音楽を演奏する。その喜びはわたしにとって何物にもかえがたいものだった。言葉ではなく、呼吸する音楽の息づかい、音の運び、言葉がない分、感性だけが伝えられる。いろんな国のさまざまな人種が集まって(200頁)。

 そしてショパンが晩年に病床で書こうとしていたピアノの入門書の草稿に書き残していたという言葉。

 音による思想の表現。
 音による我々の感情の表現。
 音によって思想を表現する芸術。
 我々の知覚したものの音による表現。
 人間の漠然として(不確定な)言葉、それが音である。
 言語表現するのに言葉を用いるように、音楽を創作するには音を用いる。
 定義し得ない言語、すなわち音楽。
             (190頁)

 そして、崔さんは、「音楽の美しさは、人間の醜さを見据えたときに生まれる。苦悩することに疲れた人びとの美しさへのあこがれなのかもしれない」(164頁)といい、ショパンのポーランドの独立と革命への献身的感情と、祖国を離れざるをえない生活の「・ZAL」(悲しみ)を考え、ご自分にひきつけて語る。

 私は、明らかに、その覚悟がなかったということであろうと思うが、音楽を聞くことはほとんどない生活をしてきた。しかし、「君が代」論をまとめる上では、これが一番問題なのかもしれないと反省した。

 「君が代」を論ずるためには、根本的には、日本社会における「音楽」のあり方への理解が必要なのかもしれないと思うからである。つまり、問題は、次の加藤周一の『日本文学史序説』(筑摩書房)での定式化である。

 (日本の)文化の中心には文学と美術があった。おそらく日本文化の全体が、日常生活の現実と密接に係わり、遠く地上をはなれて形而上学的天空に舞いあがることを嫌ったからであろう。このような性質は、地中海の古典時代や西欧の中世の文化の性質とは著しくちがう。西洋にはやがて近代の観念論にまで発展したところの抽象的で包括的な哲学があり、またやがて近代の器楽的世界にまで及ぶだろう多声的音楽があった。中世の文化の中心は、(日本のような)文学でも、工芸的美術でもなく、宗教哲学であり、その具体的表現としての大伽藍である。絵画・彫刻は、その伽藍を飾り、ミステリーはその前の広場で演じられ、音楽はその内側に鳴り響いていた(7頁)。

 私は、この加藤の図式のすべてに賛成する訳ではない。歴史家として加藤氏の基本トーンに降参してしまっては立つ瀬がない。しかし、日本の思想史における音楽の位置という問題は、たしかに重大だと思う。音楽が言語を優先する形をとることと、日本社会における儀式性の優越した音楽のあり方は関係しているのではないか。それが和歌・連歌・俳句の盛行と関わるのは確実であろう。和歌を敷島の道ということの中には、本質的な問題がある。それは日本の文化がおかれた国際的条件と切っても切れない縁があったはずである。つまり、音楽的な感性の国際性、または国際性を必須の条件として発生した思想=音楽の抽象化は、ユーラシアの東端の「日本」では展開しようがなかったのではないか。

 「情報と記憶」を書く中で考えたことだが、思想の抽象化と科学化は、もちろん、実態としては模倣ということを含んでいるが、それのみでなく、文化圏と文化圏の接触と矛盾を必須の条件としている。そしてその中での苦悩と孤絶、崔さんの言い方では旅人の思想、デラシネの感覚がどうしても必要なのかもしれない。歴史の問題としては、個人ではなく、長期にわたる文化としての、民族としてのそれが必要なのかもしれない。中東とヨーロッパにはそれがあったが、中華帝国の持続した東アジアではそれはむずかしく、その東端の島国、日本ではさらに困難があった。もちろん、抽象化と音楽だけを中心にすえようとは思わないし、日本文化の豊かさは別の可能性があるとは考えるが、しかし、ーー
 母校の国際キリスト教大学でうけたヨーロッパ音楽史の授業をかすかに思い出し、ウェーバーの音楽社会学も少しは読んだはずだと思い出す。
 

110101_0026391sakusa_2  元旦零時、家族で近くの作草部神社に初詣にいって、小さなやしろで舞われている神楽をみた。これが日本の音楽の基礎。それらを含めて、これまで考えたことがないこと、またきつくても考えなければならないことで処理すべきことが多くなる予感がする。

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