歴史の時間と個人の時間
年賀状の往来が、そろそろ切れたが、ST氏から、抜き刷りと同時に、昨年送付した『かぐや姫』と『中世の女の一生』の新版あとがきなどについて礼状。
ただ、若干の違和感の表明があって、御仕事を尊重している歴史家からのことなので考えさせられる。
おもに、昨年新版がでた『中世の女の一生』の新版あとがきについてである。
この新版にあたって、私が最近は「中世」という言葉は使わないようにしているので、その事情を述べた。その説明として、井上章一氏の『日本に古代はなかった』という本をあげて説明した。
ST氏は、このあとがきをみて、井上氏の本を読んだが、賛同しかねる部分が多いという感想。「近代世界システム以前は各地域の歴史は古代と中世が併存していても良いのではないか」といわれる。
例によって長々としたものになるが、WEBPAGEに「時代区分論の現在」という文章を載せた。本来、書いた時に抜き刷りを送るべきであったが(これは歴史研究者の付き合いの基本)、ついついさぼりがち。
そこで、ST氏に弁明のデータを載せたと電話をすることにする。むかしは著名な歴史家で電話魔という方がいたが、そういう訳ではなく、久しぶりに声を聞けるし、メールだけより、ブログ+電話の方がよいかもしれない。
しかし、そこにも書いたが、時代区分論というのは悩ましいものである。 これはいわゆる歴史の追体験ということは違う。つまり歴史はつねに客観的で一回的であり、本質的に「追体験」できないものであるから。 それは個人の人生も同じ。私のように、誤りと反省の多い時間を過ごしてきて、今でもそうである人間として、考えると、職業としての学問から、自分は何をえたかということにもなっていく。 物理的な時間と社会的な時間というもの。個人の時間と歴史の時間の関係。
最後は、個人が過去に向き合うこと、個人の「責任」を含んだ過去への意識と感情をベースにして歴史の時間を内側から理解することに関わってくるはず。そうでなければ他の人も読んでみようとは思わないだろう。そういうことと職業としての歴史学は、どう関係しているのか。
ともかく、以下、「時代区分論の現在」(『史海』)の一部を載せる。
いわゆる「時代区分」の問題というのは、歴史家にとってなかなか悩ましいものである。人間の歴史は、徹頭徹尾グローバルな規模での空間的連関をもっており、また人類史的な長期的レンジでの時間的関連をもっている。しかし、一人の歴史家がその全体を視野に収めることはできない。少なくとも現状では、歴史学の作業はきわめて手工業的なものである。歴史学者は史料自身が語り出すことを記憶し、それを素材として研究を進める。こうして、歴史家は、特定の地域や時代などの研究分野に固定された記憶と分析能力をもつこと自身によって、そこに縛り付けられることになる。日本は、「島国」で東アジアの大規模な「民族間」戦争の局外にいたためであろうか、古くからの「文書主義」のためであろうか、大量の文書史料が残っている国である。こうして自己の能力と大量の史料にしばりつけられた歴史家が自信をもって解説できる歴史上の諸時期はきわめて短い時期に限られてしまうのである。
しかも、歴史家にとっての「時代区分」の問題性は、歴史家自身が一つの社会的分業の内部で、一つの職能集団をなしていること自身にひそんでいる。歴史家は相互に協力しなければ広域的で長期的な規模をもつ歴史というものを読み解いていくことはできない。しかし、社会的分業の組織がどのような場合でもそうなりがちであるように、歴史家相互の関係は「棲み分けと相互無関心」に堕しがちである。率直にいって、そこでは「時代区分」というのは実際には相互無関心の免罪符にしかすぎないというような関係があるのである。
やや戯画化していえば、日本では、律令が読めて木簡などの文字史料にも目を配る歴史家が担当するのが「古代」、故実的な経験と実感的な知識によって武家文書を読み、幕府制度を専門的に語ることのできる人々が担当するのが「中世」、お家流でかかれた大量の文書の集団的蒐集と分析に手慣れた手腕をもつ人々が担当するのが「近世」というようになっているのではないだろうか。もちろん、ここ二〇年ほどの新しい歴史学の諸潮流は、このような「時代区分」と突きくずすような内実をもっていたが、しかし、歴史家の職業的知識がどのようなものであるか(また極端な場合はその経歴や交友関係)に左右されて時代区分が成り立っているという関係自身は実態として強く残っている。それは学界の外からは何か意味ありげにみえるかもしれない。しかし、こう考えてくると、私は、「古代・中世・近世」という時代区分は、ほとんど歴史家の棲み分けに依存した職業的暗号かジャルゴンのようなものに過ぎないと嘲笑しておいた方がよいとさえ思うのである。
歴史家は、その職責からいって、一般にきわめて真面目な人種であるから、こういう決めつけには、もちろん、強い反発があるだろう。たしかに、古代社会的と原始共同社会・奴隷制・封建制・資本制という時代区分がある形で説得性をもち、社会構成体論争が実質上も展開されていた時期には、「古代・中世・近世・近代」という用語は、そういうともかくも概念的な思考を内在させた用語として流通していた。その影響は今でも続いている。また歴史家は、その仕事自身によって古代史家・中世史家という自称になじんでおり、そして、そこには単に「棲み分け」というような関係ではなく、分析対象となった社会の特徴に対する実質的な知識が存在しており、それが特定の学問的主張をはらんでいることも事実であろう。
しかし、論争というものも絶えて久しいことになっている現在では、われわれ歴史家のいう「古代」「中世」というのは、よくいって一種の暗黙知にすぎないというのが実情である。そして、私が何よりも問題だと思うのは、このような「古代・中世・近世」などという時代区分が、実際には、しばしば日本なり日本史という特定の観点を前提としてみた見方、あるいはより正確にいえば「日本」を主語としてみた歴史の見方を内在させていることである。そこには、実際には、日常意識としての「日本」を過去にのばしていくという惰性がそのまま入りこんでいるのではないだろうか。
そもそも問題は、時代を区切る、あるいはより一般的にいえば「歴史的な」時間を区切るという発想、「時代区分」をしようという発想それ自身が、しばしばある種の日常意識の反映でしかないことである。つまり、諸個人の個人的時間は、それが拡大した場合も、自己の直接的経験であり、あるいは自己をとりまく人々、配偶者・子ども・親族・同一職業者・友人などの経験の想像でしかない。それは、社会全体が経験していく歴史的な時間の一部をなしてはいるが、しかし、日常意識は、そのような広大な歴史的時間から目をそらそうとするのが普通である。われわれの日常意識は、社会が人間の感情と知識の範囲をこえて客観的構造をもってそびえ立ち、われわれの生活を拘束していることを認めようとしない。そして、それと同様に、われわれの日常を越えて、そのすべてを押し流しながら、どこへ結果するともしれずに客観的に連続していく時間というものが存在することを認めようとしない。過去を意識しているということは、人間に現在を相対化する強さを要求するのであって、われわれの日常意識はその不安に耐えられない。
そういう不安の中で、われわれの日常意識は、「社会」や「時間」に曖昧な「意味」をみとめ、それらの全体を都合よく解釈したり区切ったりしようとする。安心できる有意味性のための主観的分節化という訳である。そして、実は、その場合の曖昧な歴史意識の代表こそが、「古代・中世・近代」のような歴史の三区分法なのではないだろうか。それは時間を「はるか昔」と今に区分し、その間にいくつかの中間の時期を入れ込むという単純な発想からなっている。たとえばギリシャの「金・銀・銅」の時代という歴史区分法や、日本では平安時代に発展した「上代・中つ代」などという区分法は、その典型であろう。それははじめに完全なものがあって、それが徐々に弛緩・解体してくるといういわゆる下降史観であるが、そこでは「完全」なものは主観的・恣意的に設定される。それは歴史に曖昧な意味をあたえるための型式であって、これによって、歴史は区分されながら、同時に意味的な連続性を確保し、日常意識は、その背後に歴史性をあたえられたかのように自己満足するのである。このような型式がもたらす曖昧な意味性は、最初に措定される「完全」なものの内容が何であるのか、神話的ユートピアと神権政治であるか、あるいは「原始共産制」であるのかなどという問題とは関わりなく存在する。歴史家も、自分自身が、このような日常意識と歴史意識の間の陥穽から自由であるということを最初から前提してはならない。歴史学者は、自分の使う「古代・中世云々」という時代区分法が、上記のような日常意識とどれだけの差異性を確保しているかを疑うところから、その「時代区分論」を出発させるべきなのである。
何よりも問題なのは、安易な歴史区分法が、実際にはさまざまな社会的な虚偽イデオロギーと連接していくことである。たとえば、『新しい歴史教科書』なる教科書は、驚くべきことに、天皇の代数を神武天皇第一代と数えて注記し、「大和朝廷がいつ、どこで始まったかを記す同時代の記録は、日本にも中国にもない。しかし『古事記』や『日本書紀』には、次のような伝承が残っている」として「神武東征伝説」を説明し、その結論として、「(神武が)初代天皇の位に即いた」としている。これは神話と実在を意図的に混同し、王権の起源をそこにもとめる「万世一系」の主張に等しい。しかもそれが東アジア諸国に対する優越性の主張をともなっているのも見逃しがたい。「日本は、古代においては朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較し、独立した立場を貫いた」(39頁)「わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属しないーこれが、その後もずっと変わらない古代日本の基本姿勢となった」(45頁)「(日本人が)外国の文化から学ぶことにいかに熱心で、謙虚な民族であるか」「それでも自分の国の歴史に自信を失うということがずっとおこらない国だった」(318頁)という訳である。このような「万世一系」と「東アジアの強国」という観念連合のあり方は、戦前の皇国史観と基本的に同一の枠組みのものである。
これは極端な例であって、極端な例をもって一般的な議論を展開することはできないことはいうまでもない。しかし、日本の普通の国民の歴史意識の中には濃厚な「古代中心性」というべき現象が存在することも事実ではないだろうか。よく知られているように考古学の田中琢氏は考古学的発掘が異様といえるほど広い関心を集める国としてイスラエルとならんで日本をあげている(「考古学とナショナリズム」『岩波講座日本考古学7』、1986)。ここに、日本の歴史の文化的価値を、「古代」を起源とするものにもとめようという雰囲気が反映していることは明らかである。そして、その背景に「旧王」ではあっても、天皇制が日本の歴史におけるさまざまな条件の中で保存されてきたという事実があることも否定しがたい。「古代・中世・近世・近代」という図式を暗黙知のレヴェルのままに繰り返していれば、それは歴史の起点が特殊な「古代」から始まるという社会意識の存在と共鳴する効果を及ぼすことになるのは見やすい道理である。
この問題は、どの時代を専攻するにせよ、やはり「日本」の歴史家にとって根源的な問題であるといわねばならない。よく知られているように、網野善彦氏は、そもそも「日本」というものを歴史的に捉えようとする観点をもってなかったと戦後歴史学を痛撃する(『日本とは何か』中央公論社、2000)。その戦後歴史学批判のあり方には賛同できない点を残すとはいえ、しかし、その問題提起自身は正確に受けつがれなければならない。私は、田中氏や網野氏などの問題提起は、「古代・中世・近代」という時代区分の問題性と決して無縁ではなく、むしろ本質的に関係していることの確認が必要だと思う。
端的にいうと、私の提案は、こういう一国史的な範疇としての「古代・中世・近世」という用語を何か意味のある学術用語であるかのように使用することはもうやめてしまおうというものである。逆にいうと(後にのべるような限定はあるが)「古代・中世・近世」という用語を使用する場合は、基本的に世界史的範疇としてのみ使用しようという提案である。私がこのような考え方をいだくようになったのは、二〇〇〇年の歴史学研究会大会総合部会で「現代歴史学と『国民文化』」という報告をし、宮地正人氏から誤解にもとづく反論をうけ、それに応答する中でのことであった。その研究上の結論は、ほぼ『黄金国家』(青木書店、二〇〇四)に書いた通りであるが、東アジアの中での日本という観点を貫いていくと、結局、東アジアの歴史段階を確定することを優先させざるをえないというのはある意味で当然のことである。『黄金国家』ではほぼ四世紀以降の日本の国家形態を東アジア史の観点からは「民族複合国家」と規定せざるをえないということになったが、それだけ東アジアの規定性を重く見ることになれば、その時代を日本独自の「古代」などと規定するのはほとんど無意味となる。
(以下、WEBPAGEPAGE)
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