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2011年1月17日 (月)

脳科学の話

 昨日は一日立ち仕事。鉄粉製の携帯「あんか」を痛かったところ近くのポケットに入れて、無事に過ごす。あれは携帯「あんか」といったろうか、もう少し適当なカタカナコトバがあったような気がするが、今、朝の総武線の中。きちんとコトバがでてこない。そこで鉄粉製の携帯あんかということになる。
 昨日は、昼間の休憩時間と夕方の待機時間に、一緒の方々とおのおのの専門の話。お一人は脳科学の方で、そのお話は、鬱病とナルコレプシーと顛癇の歴史が長く考えているテーマの一つなので、たいへん面白かった。
 蚕蛾の脳神経は約一万本あるが、それをスーパーコンピュータ内部に復元して、六本足歩行の人工知能を作成する実験研究をされている。蚕は2キロほど遠くからフェロモンに惹かれてやってくるが、匂いによる歩行をシステム化する。そのアルゴリズムを脳科学の知識から作成する。こういう研究手法をバイオニューロテクニクというということ。
 トンボの飛行をシュミレートして飛行機をつくるという話などは聞いたことがあるが、そういうように外形的に作り込むのではなくて、もっとシンプルに、原理的に考える。脳神経のあり方から復元していくという手法である。
 これはいわゆる生命倫理論からいくと動物に協力してもらうということですねというと。昆虫についての生命倫理は、まだ議論されていませんとのこと。ウーム。である。こういう実践レヴェルでの生命倫理というものを考えることも実際上の必要になっていると思うと、考えるべきことは多い。
 子供の頃、昆虫趣味があって、虫をいじめた。いじめて遊んだ記憶が「悪い」ものとして残っているので、自分の子供たちが虫採りをした時に、過敏になって注意した思い出がある。それを思い出すと、いまでも悪かったなあと思うことがある。虫との関係というのは日常的なものだから、子供の時の経験が大きいのかも知れない。今の子供たちはどうなのだろう。注意はしてきた積もりだが、歴史の史料にはあまり虫はでてこないが、もう一度考えてみようと思う。
 昆虫の進化は、人類への進化とクロスする部分があって、本能系→情動系→認知系という神経活動の組み立ては同じ部分がある。しかも、非常にコンパクトにできているので驚くほど精緻なものであるとのことであった。そして、情動系を動かしているのが例のセロトニンという神経物質とセロトニンブロック物質であるというのは驚いた話。人間と同じである。
 神経物質というのは、祖父がパーキンソン病になったとき、ドーパミンの話を聞いたが、それはもう30年近く前のこと。このセロトニンは、たとえば夜・昼で変化する人の情動を統括するということで、ようするに感情というよりも気分を左右するものであるということである。本能系に近い感情を認知系につなげるのが気分とセロトニンを内実とする情動系であるというのもウームの話である。しかも、この気分を統括する手法が中枢系にあって、いわゆる敷居値(という漢字ではなかったと思うが、変換で出てこないので、これで勘弁)を変更してしまうという感じで受容した情報に対応するということ。
 認知科学というものについての知識はまったくないが、こういうことをやっているのだというのが、実感的にわかるのがありがたいところ。立ち仕事は、ときどき、こういう耳学問の機会となるのが「うれしい」。
 この「うれしい」という言葉も面白い言葉で、情報学の人がよく使うように感じる。彼らは、「こういうことができるとうれしい」「ここがうれしい」などと使う。歴史学をやっていても、なかなかうれしいことは少ないから、「耳に立った」のかもしれない。歴史学は「うれしい」学問であるよりも、上に自然に出てきたが、「ウーム」の学問であるのだと思って我慢しよう。
 私からは、民話「三年寝太郎」は、嗜眠症・眠り病(ナルコレプシー)から回復した若者がエネルギッシュに行動したことを喜ぶという民衆心意を表現したものと考えているということの紹介。鎌倉・室町時代の下人の人身売買文書にでる「くちくち・てんごう」とは嗜眠症と顛癇を意味する。もしそういう症状が三ヶ月のうちに現れたら、この人身売買はなかったことにするという売買契約無効文言が、五通ほどの人身売買文書に確認できる。その「くちくち」は嗜眠症、「てんごう」は顛癇というのが、私の解釈。秀村選三先生からは、「てんごう」はハンセン氏病だという批判をいただいているが、依然として自説は変えていない。これは『物語の中世』に書いた三年寝太郎論で、これについてさらに問題を広げてまとめ直したいと考えている。
 それにしても脳科学の方と話していても、情報学の用語が基本用語になっているというのもウームの経験で、実務と器機操作は全然駄目な私もどうにか言葉だけは分かるので、現代知についていける。御寺の文書の編纂を仕事としていますと自己紹介なので、自然科学の方も、「編纂」という古そうな仕事が情報学ツールがないとやっていけない状況というのは面白く思われたようである。
 問題になったのは、論文としてそのままでは発表できない、あるいはしないような膨大な研究情報の管理で、自然科学では「特許」の関係が大きいという話。
 史料編纂所では「編纂」という作業、つまり史料について知り尽くす作業の一部のみが活字にできるだけなので、水面下に存在する作業と情報をどう保存・公開できるかということが問題。人文社会科学系におけるいわゆる「知識ベース」と、自然系の知識ベースは同じような問題を抱えているのだというのが、これは本当に工学系の先生とも話が一致。
 人文系では、これは本当にむずかしい問題で、私などは、人文系の学問の将来を決定する問題と考えているが、学問の方法論と社会的目的に係わる考え方の問題もあって、本当にむずかしい。スパコンを使う研究とは比較にならないものの、体制と知恵と金に大きな問題もあって云々という、自然系の人と話していると、何となく弁解的になる、さえない話となる。脳科学の先生の所属する研究所からは、日本学士院編纂の『明治前科学史シリーズ』のフルテキスト化のために大きな予算的協力をしていただいたことがあるので、感謝を申し上げる。
 さらにとても答えられないような質問をいただく。一つは、日本の自然科学は細部へのセンスのよい目配りによって、相当のレヴェルにあると考えているが、これは日本文化の特質かというご質問。東洋的なホーリズムと西洋的な分析科学の双方をもっているように実感するとおっしゃる。
 これについては、総合と分析というのは思考方法の問題と考えると、それはどこでも普遍的なものであると考える。しかし、たしかにユーラシアの辺境に位置するヨーロッパと日本は、両方とも、できあがったものを模倣するという模倣の論理、あるいは模倣を前提とした思考方法が発達したということはいえるのかもしれないと御答え。
 いわゆる日本文化論的な諸問題については、歴史家は答えられないというのが普通の感じ方だが、いろいろ教えていただけば、何かの意見をいわざるをえないという気分にもなる。9世紀くらいからの「近世」の時代、あるいは佐々木潤之介氏の言い方だと「前期近世」の時代は、技術の時代という側面があり、その場合、模倣の論理が強く働いたということはいえそうである。もちろん、ユークリッドも、エジプトの数学の固定的かつホーリスティックに完成した姿を前提にして、それを模倣し、分析的に組み立てたということはいえるのかも知れないが、私の専攻に近いところだと、技術の時代はヨーロッパは模倣にはいる。たとえばヨーロッパのブック形態は、ユーラシアの反対側の宋代において発明されたブック形態を模倣したものとなる。羅針盤、火薬、紙、印刷などは、大体において東洋あるいは非ヨーロッパ圏においてもっとも古い記録を見いだしうるのはよく知られた話。またイスラムの文化の模倣がヨーロッパの手工業と自然科学の前提になったのは十分にいえることのようだ。ユーラシア中央でホーリスティックには発展した全体像を、その外形を模倣することで見直すということが、分析手法、分析科学の思考方法に影響をあたえたということはありそうに思う。
 広い意味での関係が問題で、あまり特殊性論をそのままの形で展開することは歴史学としてはやりにくいのですとご説明。
 ところがさらに答えにくい質問をいただく。「生物進化はランダムなものと考えるようになっているが、社会進化はどうなのか」というご質問である。
 歴史学の側での意見の分岐、ないし意見の不存在状況はご存じの通りだが、「社会進化もそれとしてはランダムなものです」と断言してしまう。私はこの「ランダム論」を、4/5年まえに学芸大の史学会で話をさせられた時に述べたが、その後、長谷川真理子さんの「進化科学」についての論説を読んでいて、これはようするに同じことであると感じたので、これは本心ではある。ただし、問題は、「傾向性」または「必然」というものがあるのは当然のことで、歴史学としては、これは従来から「偶然の中での必然」と考えてきたが、この偶然を偶然として調査・研究し、その傾向性を実証的に明らかにする力はなかった。これがしばらく立てば可能になるでしょう。ないし可能になることを希望していると申し上げる。
 御答えできないような質問が続くほど、夕方の待機時間が長くなったが、ようやく開放された時間が問題であった。渋谷文化村で、ケン・ローチの映画を家族でみる予定が、結局、まったく間に合わなくなった。映画の題は忘れた。離婚に追い込まれた、さえない郵便配達の労働者が、幽霊になってでてきたマンチェスター・ユナイテッドの有名なサーカー選手に励まされて頑張るという話で、たいへんに面白かったというのが、彼らの報告。最後は、ギャング集団と郵便配達のユニオンの対決となり、ユニオンの側が、ギャングをおどかすところで痛快に終わるということであった。「お前ら、下手なことをしたら、こちらは住所を知ることはできるから、どこまでも追っかけるぞ、おとなしくしてろ」とおどかすという、如何にもイギリスのユニオンらしい話であったと、相方。終了後の娘の発言は、とくに紹介しないことにします。
 すべて無事に終わり、勉強までして、さらに映画まで見れれば、本当によかったのだが、すべてとは行かない。結局、私のみ孤食。帰宅途中、売れ残りの安いスシを買って、猫を膝に食べて、風呂に入って、さすがにたまらず寝てしまう。
 いま、ちょうど、昼休み。13時を少しまわったところ。
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