崔善愛『父とショパン』を読んでー歴史家と君が代
2004年に九州大学史学会で行った講演『君が代と平安文化』をWEBPAGEにあげた。この講演の前後から、「君が代」について一冊の本を書きたいと考えていた。あるいはもっとはやく国家国旗法の通過の時であったかもしれない。あの時、歴史の研究の側に系統的な君が代の研究がないのを知って、また、国会の論議においても、「君」は目上の人一般を意味するという戦後の微温的な日本文学史の側の研究が前提とされているのをみて、驚き、これは一言いわなければという気持ちをもったことを思い出す。
それはなかなか実現できないままでいるが、正月、家族がでている中でゆっくり食事をしていたら、食卓のそばの本棚のチェ・ソンエ(崔善愛)『父とショパン』(影書房)が目についた。読んで引き込まれた。私たちも、同じような経験をしたが、次の文章は、お子さんの学校での君が代斉唱に係わる問題である。
音楽の先生はわたしと同じ年代の中堅の男性だった。校長室で、校長と主幹の二人の先生と議論したあと、私は、「音楽の授業で、先生は、『君が代』の君とは誰を指すと、教えていらっしゃるのですか」と聞くと、「それは国民全体を指しています」といいながら、開かれた指導要領を持つ先生の手は小刻みにふるえていた(108頁)。
現在の状況の中で、「君が代」の「君」が天皇を指すことは誰もわかっている。それを「国民」だというのはゴマカシである。場の平穏を尊重する、この国の文化にはかならず必要なゴマカシの文化、オブスキュランティズム。
しかし、文化的な曖昧さというものは、文化それ自身の敵であると思う。平安時代の和歌に大量に登場する「君が代」和歌群の「君」の中枢に「天皇」がいることは明かである。『歴史学をみつめ直す』に収録した「和歌史料と水田稲作社会」を書くために、「君が代」和歌群の内容にふれてみて、本当にそう思う。私は、平安時代は、水田開発の進展期であるという意味で、「大開発時代」であったといってよいと、依然として思っているが、特にその水田開発とともに、「君が代和歌群」が歌われたのである。それは平安王権を強力に支えた一つの文化装置であったと思う。
少なくとも、歴史的な事実として、それが天皇を指すということを述べておくのが歴史学者としては職能的な義務であろうと考えて、右の講演を含む、いくつかの研究をしてきたが、崔さんの経験を読んで、さまざまなことを思い出した。
この本の音楽についての断章にも惹かれた。昨年、以前、子供用の縮訳で愛読していたサンドの『愛の妖精』(プチット・ファデット)を文庫本で偶然に読んだこともあって、ショパンとジョルジュ・サンドの話もなつかしい。考えさせられたのは、崔さんが指紋押捺を拒否せざるをえなくなり、またその後に留学せざるをえなくなって、「再入国不許可」という状況でインディアナ大学に留学した時の経験。
アメリカでの留学の三年間、異なる国、環境で育った人が集まり、音楽を演奏する。その喜びはわたしにとって何物にもかえがたいものだった。言葉ではなく、呼吸する音楽の息づかい、音の運び、言葉がない分、感性だけが伝えられる。いろんな国のさまざまな人種が集まって(200頁)。
そしてショパンが晩年に病床で書こうとしていたピアノの入門書の草稿に書き残していたという言葉。
音による思想の表現。
音による我々の感情の表現。
音によって思想を表現する芸術。
我々の知覚したものの音による表現。
人間の漠然として(不確定な)言葉、それが音である。
言語表現するのに言葉を用いるように、音楽を創作するには音を用いる。
定義し得ない言語、すなわち音楽。
(190頁)
そして、崔さんは、「音楽の美しさは、人間の醜さを見据えたときに生まれる。苦悩することに疲れた人びとの美しさへのあこがれなのかもしれない」(164頁)といい、ショパンのポーランドの独立と革命への献身的感情と、祖国を離れざるをえない生活の「・ZAL」(悲しみ)を考え、ご自分にひきつけて語る。
私は、明らかに、その覚悟がなかったということであろうと思うが、音楽を聞くことはほとんどない生活をしてきた。しかし、「君が代」論をまとめる上では、これが一番問題なのかもしれないと反省した。
「君が代」を論ずるためには、根本的には、日本社会における「音楽」のあり方への理解が必要なのかもしれないと思うからである。つまり、問題は、次の加藤周一の『日本文学史序説』(筑摩書房)での定式化である。
(日本の)文化の中心には文学と美術があった。おそらく日本文化の全体が、日常生活の現実と密接に係わり、遠く地上をはなれて形而上学的天空に舞いあがることを嫌ったからであろう。このような性質は、地中海の古典時代や西欧の中世の文化の性質とは著しくちがう。西洋にはやがて近代の観念論にまで発展したところの抽象的で包括的な哲学があり、またやがて近代の器楽的世界にまで及ぶだろう多声的音楽があった。中世の文化の中心は、(日本のような)文学でも、工芸的美術でもなく、宗教哲学であり、その具体的表現としての大伽藍である。絵画・彫刻は、その伽藍を飾り、ミステリーはその前の広場で演じられ、音楽はその内側に鳴り響いていた(7頁)。
私は、この加藤の図式のすべてに賛成する訳ではない。歴史家として加藤氏の基本トーンに降参してしまっては立つ瀬がない。しかし、日本の思想史における音楽の位置という問題は、たしかに重大だと思う。音楽が言語を優先する形をとることと、日本社会における儀式性の優越した音楽のあり方は関係しているのではないか。それが和歌・連歌・俳句の盛行と関わるのは確実であろう。和歌を敷島の道ということの中には、本質的な問題がある。それは日本の文化がおかれた国際的条件と切っても切れない縁があったはずである。つまり、音楽的な感性の国際性、または国際性を必須の条件として発生した思想=音楽の抽象化は、ユーラシアの東端の「日本」では展開しようがなかったのではないか。
「情報と記憶」を書く中で考えたことだが、思想の抽象化と科学化は、もちろん、実態としては模倣ということを含んでいるが、それのみでなく、文化圏と文化圏の接触と矛盾を必須の条件としている。そしてその中での苦悩と孤絶、崔さんの言い方では旅人の思想、デラシネの感覚がどうしても必要なのかもしれない。歴史の問題としては、個人ではなく、長期にわたる文化としての、民族としてのそれが必要なのかもしれない。中東とヨーロッパにはそれがあったが、中華帝国の持続した東アジアではそれはむずかしく、その東端の島国、日本ではさらに困難があった。もちろん、抽象化と音楽だけを中心にすえようとは思わないし、日本文化の豊かさは別の可能性があるとは考えるが、しかし、ーー
母校の国際キリスト教大学でうけたヨーロッパ音楽史の授業をかすかに思い出し、ウェーバーの音楽社会学も少しは読んだはずだと思い出す。
元旦零時、家族で近くの作草部神社に初詣にいって、小さなやしろで舞われている神楽をみた。これが日本の音楽の基礎。それらを含めて、これまで考えたことがないこと、またきつくても考えなければならないことで処理すべきことが多くなる予感がする。
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