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2011年1月11日 (火)

西行と頼朝ーーさやの中山から、

 やっと義経論の前半が終わってほっとしている。いま、連休の翌日の夕方。総武線の中。計画としては、これで平安後期の政治史研究は終わりにする積もり。
 私は本来は経済史なので、こんな仕事をやることになるとは考えていなかった。こういう仕事をやることになった事情を『義経の登場』のあとがきに、西行の「としたけて、またこゆべしと思ひきや、命なりけりーー」の和歌を引用して、次のように書いた。

 さて、例によって長くなったあとがきをそろそろ終えるが、小夜の中山は、私が大学院時代に指導をうけた戸田芳実氏が、結婚したての妻と私をさそって一緒に歩いてくれた峠である。峠の上をまっすぐに続く平坦な道と掛川の側の日坂に降りるときの急坂の記憶は忘れることができない。そして、掛川の先の磐田市は、石井進氏・網野善彦氏・峰岸純夫氏をかついで保存運動に参加した一ノ谷墓地遺跡のある町であり、考古学関係者との相談や市民集会出席のために、何度も何度も通って、その地理をもっともよく知っている町の一つである。この経験をいまでもしばしば思い起こすのは、それが私にとって一つの研究の曲がり角の時期と一致していたからである。私は、この遺跡の保存問題に関わる中で、それまで平安時代を中心にした経済史・社会史の研究に限られていた自分の研究視野を鎌倉時代にまで引き延ばさざるをえなかった。この遺跡の所在する見付は、遠江国の国衙が置かれた地であり、代々遠江国の守護をつとめたのは北条氏の一流、大仏氏である。それ故に、この遺跡のことを考えるためには、当然に、鎌倉幕府関係史料を読み込むことが必要となった。こうして、私は、この遺跡の保存問題に関わる中で、鎌倉時代の国家論・政治史に関わる史料をほぼ始めて勉強することになった。その中で学んだものは大きく、その経験は、研究者としての私の再出発点となったともいえると思う。
 この保存運動は十分な実を結ばずにおわったが、遠江考古学研究会を中心とする考古学研究者の努力によって、遺跡の破壊された後も、毎年、一ノ谷遺跡の学問的意義を再考するための連続的なシンポジウムが開催された。その中で、私は、論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」を執筆し、それを起点として平安時代政治史の研究にさかのぼると同時に、義経論に興味を持ちはじめた。磐田での研究集会に出席した後、石井・網野両氏と一緒の新幹線で帰った時、調べだした義経の話をして、網野さんが「政治史が変わるね」といってくれたのに、石井さんが「そうかなあ」とおっしゃったのをよくおぼえている。石井進・網野善彦の両氏は、最近、相次いで死去されてしまったが、御二人からはいろいろなことをおそわった。遺跡が破壊される中で、運動の中心となった山村宏氏も死去してしまい、石井氏も網野氏も死去してしまった今となっては、自己の非力の実感と役割を果たせていないという悔恨のみが残る。研究だけは蓄積してきたというのでは本当にどうしようもないが、御許しいただきたいと思う。

 書き上げた義経論の中には石井さんの仕事への批判が多い。けれどもあのとき、「そうかなあ」といってくれなかったら、本気ではやらなかった仕事かもしれない。記念に、右の馬鹿長い論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」をWEBPAGEにあげておいた。そういえば、これの書き直しもしなければならない。
 さて、今回の義経論には頼朝論も入った。義経論をなぜ始めたかといえば、私は頼朝が大嫌いで、これを叩きたいというのが、実は先行していた。「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」にも頼朝はマザコンだとか書いている。
 かって論じたように、現行の歴史教科書を読んでいる子どもたちは、頼朝は偉い人だったと思って何の疑問をもっていないのではないだろうか。これは「歴史を通して社会を見つめる」(東京大学出版会、『共生する社会』、『シリーズ学びと文化(4)』一九九五)という文章で考えたことだが、最近、さらに気になるようになった。
 頼朝については、地方武士の期待をうけて全国を統一し,「簡素」な幕府機構を創設したというようなことが書いてあって、その上に御家人が心服していたとか、平氏とは違って朝廷での地位は望まなかったとか書いてあるのだから自然にそう思うだろう。
 しかし、このような「頼朝びいき」は、だいたい一九六〇年代以降の傾向、つまりここ五〇年ほどの傾向だろうと思う。まず、戦前,皇国史観が猛威をふるう中では、頼朝には皇権の簒奪者という印象がつきまとい、おおっぴらに誉め上げるのははばかられる場合があった。また「判官びいき」の心情は、ある意味では皇国史観よりも国民の中に根深く浸透していた。そこでは頼朝というのは、ようするに「陰険な陰謀家」であったと思う。
 私は一九四八年の生まれだが、義経の物語を祖父から聞いた記憶がある。また泥絵のような絵本で、頼朝が娘・大姫の婿として招いた木曽義仲の息子・義高を殺したという話を読んだ記憶がある。その頼朝イメージはまさに「陰険」そのものであった。私は、こういうイメージが正しいと思う。『曾我物語』を読んでいると、頼朝への怨念は、社会の基礎には鎌倉時代から強いと思う。
 このような状況が変化したのは、まず「判官びいき」の基盤をなしていた戦前以来の大衆文化,歌舞伎や歴史読み物が、歴史文化の中で地位を低下させたためである。あげつらうようで恐縮だが、たとえば、永原慶二さんが頼朝について「理非曲直を正すことに公平で,院や天皇の権威も憚らない新しい価値観政道思想」をもって「歴史の変革者」の道を歩んだとまで述べているように、そこでは、戦後の歴史学も大きな役割を果たしてしまった(『源頼朝』)。
 私は、日本の歴史文化というレベルで考えると、こういう状況それ自体をくつがえしていくべきではないかと思う。もちろん、昔のような「判官びいき」を復活しようというのではない。義経も徒手空拳の若者というイメージとは異なって、王権と後宮世界、貴族世界に意外と近い素性をもち内乱の時代の軍事貴族のエリートである。相当の策略も弄し、さらに政治や行政の面でも有能なエリートとしての顔をもっている。「兄も兄なら、弟も弟」。所詮、この兄弟は「悪縁の家族」であるといわざるをえないのである。
 「悪縁の家族」。これこそ、平安時代から鎌倉時代にかけて、国家の中での軍事力の位置が大きくなったということの結果なのだろうと思うのである。ようするに頼朝の陰険さや悪行というものを歴史的にとらえ直していく作業が必要なのではないかということだが、あらためて考えてみれば、平安時代の半ば過ぎまでは、日本列島は「文明化」は遅れていたものの、地方社会をふくめていわば相対的な「平和」と「富」にめぐまれていた。しかし、平安時代の後半、国家中枢に爛熟と頽廃と暴力が巣くいはじめる。
 そして、院政期の国家から武臣国家の時期、つまりだいたい一二世紀から一三世紀は、王家や公家貴族・武家貴族のすべての家の内部、および相互において、頽廃的で残虐、裏切りにみちた争いが繰り返されることになった。その異様さは際立っており、この時代は、日本史上でもきわめて特異な時代であったということができる。
 かっては、この時代において、未開の素朴な力、「野蛮」が、頽廃した都市の支配をくつがえし、「封建制」の時代、「地方の時代」が作られたという見方が一般的であった。しかし、これはもはや通用しない見方である。むしろこの時代は国家中枢の爛熟と頽廃の中で、国家社会の全体が軍事化し、暴力化していった時代と考えるほかない。私は、こういうストレートな言い方が、あまり歓迎されないことは知っているが、この時代の「野蛮」ともみえるような惨酷な争いは、腐敗した国家が上から軍事化していく中で生まれたことであったと考える。その意味でも封建制の形成というのは駄目で、これはむしろ東アジア的な王朝の頽廃、内紛、軍事紛争という類型が、列島社会でも始まったといっていいようなことだと、思う。石母田さんがいっているように、頼朝の勤皇イデオロギーはうさんくさいものがあるが、しかし、結局、その意味は大きかった。入間田さんの言い方では、「東アジア辺境の野蛮な風景」ということになるが、私は「野蛮」の意味を、こう考える。
 そもそも、頼朝ー頼家ー実朝の時期の「鎌倉幕府」なるものは、実際には、組織の体をなさないような、内部での激しい叩き合い、殺し合いに終止していた。それを詳細に追跡してみると、「武士道」「忠義」「質実剛健」「御恩ー奉公」などという言葉は、冗談か、あるいは現実のあまりの醜悪さを隠すためのものに過ぎないのではないかと思わせるのである。
 この時代の救いは、都鄙を往反する女性だと思う。たとえば頼朝の乳母たちは、全員、京都に出ていたはずだ。しかも、彼らは地域の出身で京都へ出ていたはずだ。そういう活動をした女性は多い。『義経の登場』で注目した資隆入道の母も老女の身で、平泉まででかけた。
 そしてもう一つの救いは宗教者。やはり重源。そして、西行。西行は頼朝との出逢いがあるが、頼朝とはつき合わないよという姿勢が明瞭だと思う。そして、「資隆入道の母」は、法然がらみのように思う。

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