著書

twitter

公開・ダウンロード可能論文

無料ブログはココログ

« 教科書叙述についての相談をうけてーー山民と下人 | トップページ | 大袋と袋持ーー佐藤先生の教示 »

2011年1月14日 (金)

新年の抱負ーー義江彰夫『鎌倉幕府守護職成立史の研究』を読む

 同世代の年賀状からは、還暦を過ぎたとか、もうすぐ定年だとかの文言が多く、ご自分の研究の今後についてふれたものも多い。今日いただいた抜き刷りにも、なかなか若い人の研究と自分の考えていることがかみ合わないとある。
 しかし、エリート学問ではない歴史学は、ともかく経験がものをいうという研究のはずで、気持ちを入れ替えて、しつこくやっていくほかないと考えることにする。
 しかし、しばらく前までは「そんな年をとってまで、実証論文を書かないでください。若い人がやることがなくなっちゃうじゃないですか」などといっていたのだから勝手なものではある。網野さんにそういったら、網野さんは困った顔をしておられた。

 しつこくやらなければと感じるのは、義江彰夫さんの大著『鎌倉幕府守護職成立史の研究』のことを考えるからである。
 歴史学の研究者以外の方には分かりにくいかもしれないが、歴史学にも「難問」というものはある。その代表は、私たちの世代だと(1)庄園の「名」「名主」とは何かということと、(2)「地頭」「国地頭」とは何かという問題であった。考えてみれば、前の「名」論も石母田正さんがいいだしたことであった。しかし、この「名」論はほんとうに大変なので、せめて後者だけでも、私たちの世代で処理し、後の世代に迷惑をかけないようにしておくべきなのではないかなどと思う。賀状のやりとりでも、ともかく、私たちの世代の間に、石母田正さんが問題提起した国地頭論争だけはかたずけなければと考えていますと、ある方に書いた。
 ふつう、地頭というと荘園におかれた地頭のことしか印象にないと思うが、実は、この地頭が「国地頭」という形で存在したという事実を石母田正氏が60年代に発見され、その実態は何かということが、「鎌倉幕府とは何か」「治承寿永内乱とは何か」という問題との関係で、長く続く論争になっている。

 なにしろ十分な一次史料がないので、一次史料にそって、議論のすべてを組み立てようとすると、なまなかな覚悟では関われない。事情を知っているものには、「あれか」ということなのだが、これは本当にしつこくやらないとどうしようもない種類の大論争になっていた。

 しかし、さしもの大論争も、義江彰夫さんが、一昨年、上記の著書『鎌倉幕府守護職成立史の研究』を出して、謎の糸球がほぐれていくのではないかと期待している。国地頭論は、「惣追捕使論=守護論」と深い関係があって全体を論ずるのがむずかしいのであるが、以前、大著『地頭職成立史の研究』をだした義江さんが、守護についても大著を書いてくれた。守護論は佐藤進一氏の仕事以降、全体的な視野で鎌倉幕府時代の初期から中期までを論じた仕事は、義江氏がいっているように、めぼしいものがなく(中期以降は、最近新しい仕事が増えた)、これで話が分かりやすくなる。我々の世代にとっては慶賀のいたり、本当にご苦労様であるという感じである。異論はあるのかも知れないが、これは私たちの世代の仕事の中で、農業史の何人かの仕事のほかで、困難な仕事に挑んだという点で、確実に残るものの随一にあがると思う。

 ただ、「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」という論文を書いたことのあるものとしては他人事ではない。この論文は先日、WEBPAGEにあげたが、ともかく義江著書を前提に検討し直し、書き直さなければならない。

 義江彰夫さんの新著は第三編、第四編が完全な新稿で、その部分だけでも400頁というもの。ただし、「はしがき」にあるように、中心は第三編で、そこは分かりやすい。一次史料にもとづいた推論という筋が貫かれていて、読んでいても気持ちがいい。義江さんの頼朝の日本国惣追捕使への補任という立論、そして惣追捕使と守護は同じことで、前者は義経追捕を表面に立てた朝廷向きの名称、後者は頼朝専決の実態であるという基本部分は、私は鉄案であると思う。
 細部では、私は「諸国に守護を補す」という『百錬抄』の記事は、『吉田経房記』の一部であるということを前提にしていて、少なくとも、そこに「院宣」とあるのが正しいと考えるなどなど、意見が違うところはあって、義江さんからの批判がないので、いつか議論をしたいと思っているが、しかし、ともかく、論争の中心点のいくつかは義江さんがおさえてくれたので、あとはどうにかなるのではないか。これで石母田正ー佐藤進一以来の謎か呪いのようなものがとけて、風通しがよくなるのではないかと期待している。

なお、この論争は、戦前から、中田薫という法制史研究者が問題を提起して以来の大論争で、実際には、さらに多くの問題に関係していて、絡まりあった糸球のようになっている。最後は中田薫の議論のすべてをひっくり返さないとならないというのが「日本中世史」の研究の根っこにある問題で、石母田正ー永原慶二ー石井進は、中田が最大の格闘相手であった。亡くなる前の網野善彦さんが、急に中田薫の検討を急ピッチで展開されて、大論を展開されたのも驚いた。

 私は、研究史というのは、本来は、一種の知識ベースでなければならないものだと思う。歴史学は研究作業が細かく、手順をふまねばならず、めんどくさいところがあるという点で、自然科学、実験科学に似ているが、研究史の中から進んでいかなければならないというところは自然科学と少し違うのだろうと思う。けれども、現在の国地頭論争のような状況になると、研究史が知識ベースの役割をせずに、研究の阻害要因、「つっかえ」となっている。この「栓」は抜いておかねばならぬもので、この「栓」を抜くために、同世代で協力したいものだと思う。今年は、あまり抱負をもつ気分ではないが、これが新年の抱負か。

 

« 教科書叙述についての相談をうけてーー山民と下人 | トップページ | 大袋と袋持ーー佐藤先生の教示 »

研究史(歴史学)」カテゴリの記事