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2011年1月24日 (月)

纏向遺跡の桃の種

 纏向遺跡の発掘は現場の雰囲気を知りたくて、昨日のNHKをみる。

 纏向遺跡の建造物の脇の土壙から、魚類を中心とし、猪なども含む供物の堆積が出土したという話である。猪の奥歯。木製の祭剣。竹籠が出土。竹籠はなかなか出土しにくいときいたことがあり、出土したなまの画像は興味深い。話は重要な問題で、発掘担当者のご苦労もよくわかった。番組の「3世紀の王国、邪馬台国」というキャプションも面白かった。
 ものの種は2765コ。野性の桃で直系約4センチのものである。辰巳さんが山で野性の桃を見つけるところは、私も野性の桃はみたことがなく、面白かった。考古学の方で、「桃」の出土状況の集成をいつかしていただけないかと思う。考古学は(特に歴史考古学)は、本当にたいへんな状況にあるように見えるから無理は御願いできないが。

 というのは、相当前、『物語の中世』に桃太郎論を書いた時に、「ところで、このような「桃」の呪力に関係して興味深いのは、中世の遺跡、特に水溝遺構から相当数の桃の核が出土するという事実である」と書いたことがあるからである。これははるか昔に考古学の方にきいた話で、考古の方はよく知っていることだと思う。この論文では、話を聞いた方に確認をとる余裕がなく、ただきいた話としてしまって失礼をしたが、これは民話論にとっては重要な話だと思う。

 以下、『物語の中世』の関係部分を引用しておく。

 さて、桃太郎民話の第三の要素は、「桃」である。桃太郎は「桃」から生まれたという民話の形式もあり、老婆が「桃」を食べたことによって若返ったという民話の形式もあるが、いずれにせよ、「桃」は桃太郎民話と一体的な関係にある。
 「桃」に特殊な意味をもとめる幻想的な観念の淵源が、さかのぼれば中国の民俗的な思想に由来することはよく知られている。これはいわばヨーロッパのリンゴにあたる聖果・聖樹の観念ということができるであろうが、中国の道教には、桃は不老長寿や多産をもたらし、魔物を退ける力をもった仙果であるという観念が存在したのである。特に昆崙山にすむという西王母が漢の武帝に与えたという巨大な世界樹の桃、蟠桃の伝説は有名で、たとえば日本でも、平安時代初期、仁明天皇の大嘗会の標には「王母の仙桃を偸む童子」の像が飾られていたという(『続日本後紀』天長一〇年一一月一六日条)。また平安時代中期、藤原師通が金峯山に捧げた願文にも「王母の桃、子を結ぶ」という一節が残されており(『平安遺文』⑪補遺二八〇。藤原師通願文)、大江匡房の漢詩序にも「昆崙万歳三宝之桃」という一節があるように(『本朝続文粋』八、『古今著聞集』(第五ー一三)、これは広く普及した観念であった。もちろん、「桃」の幻想の根拠のすべてを「西王母」伝説と中国的な道教思想に帰すべきかどうかについては疑問もあり、たとえば、記紀神話の黄泉比良坂に生えているという桃の木の伝説は、日本古代社会の中で独自に形成されてきた側面も認めなければならないだろう。『日本書紀』(神代上、第五段)には「時に、道の辺に大きなる桃の樹有り、故、イザナギ尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて、雷に投げしかば、雷等、皆退走きぬ、此れ、桃を用て鬼を避く縁なり、時にイザナギ尊、乃ち其の杖を投てて曰はく、「此より以還、雷敢来じ」とあり、『古事記』には「黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃ちたまへば」とある。要するに桃の実は鬼=雷神にぶつけ、桃の木の枝は雷神に対する結界をはるための「杖」となったというのであるが、ここで呪力をもった「桃」の観念が、雷神信仰との関係で語られていることは注目すべきであろう。あるいはここには、「桃」の幻想的観念の古層をみとめるべきなのかもしれない。
 このような「桃幻想」は中世社会の中にも広く存在していた。たとえば、『今昔物語集』(巻二七ー二三)には、ある占い師=陰陽師が「此の家に鬼来たらむとす。ゆめゆめ慎み給ふべし」と予言し、「門に物忌の札を立て、桃の木を切り塞ぎて□法をしたり」という記事がみえる。また鎌倉時代の『沙石集』には、ある坊主が、貧乏神を家から追い払うために、「十二月晦日の夜、桃木の枝を我も持ちて、弟子にも小法師にも持たせて、呪を誦し」たという説話がみえる(『沙石集』巻七ー二二)。また『三国相伝陰陽■轄■■内伝金烏玉兔集』には、午頭天王の、守り札として「桃木札」がみえ*1、最近、しばしば中世遺跡から出土する「蘇民将来子孫也」という疫病除けの護符も、桃木で作成されていた可能性が高いと思われる*2。そして、さらに決定的なのは、図(23)の『病草紙』の「小法師の幻覚に悩む男」の場面に描かれた桃である。
 絵巻に痛みもあって、図が若干見にくいかもしれないが、女が病臥する男の方をむいて手に捧げている果物が、桃である。その証拠は、この果実の尻がとがっており、また女の膝の前においてある同じ果物をみると、枝についた葉も長いことである(拡大図(24)参照)。もちろん、葉の長さのみに注目すると、枇杷という考え方もなりたち、そういう解釈もあるが*3、しかし、枇杷ならば、逆に果実の尻は引っ込んでいる筈である。それに対してこの果実の尻はとがっている。中世には「桃尻」という言葉があるが、それは桃の果実の尻がとがってすわりの悪いことから、乗馬が下手で鞍に落ち着かないこと、いわゆる尻軽のことをいうのである。なお、今の桃をイメージすると、この絵の果物は小さすぎるようであるが、もちろん、この場合、今の水蜜桃を想像してはならない。現在、我々が食べる桃は、普通のもので重さ二五〇グラムにもなるが,江戸時代以前の日本原産の桃はきわめて小粒で、重さは20ー70グラムほどであったといわれるのである*4。
 そして、この女が桃を差し出している理由は、単に、それを病人に食べさせようというのではない。病臥する男は詞書きに「やまひおこらむとては、たけ五寸ばかりある法師のかみぎぬきたる、あまたつれだちて、まくらにありとみえけり」とあるように、小法師が登場する幻覚神経症に悩んでいる。女が桃を差し出しているのは、その魔を払うためであった。
 ところで、このような「桃」の呪力に関係して興味深いのは、中世の遺跡、特に水溝遺構から相当数の桃の核が出土するという事実である。これは「桃」によって水を浄化しようとする呪術を意味していたのではないかというが、中世において「桃」と「水」の連想関係が現実に存在したことを明示しているのである。柳田国男は論文「桃太郎の誕生」において、桃太郎民話論を追求する上で、「無闇に子供のように桃というただ一つの特徴を把えて、桃の話ばかり捜してみよう」としてはならないと述べている*1。これは、当時の好事家的な興味関心に対する批判として傾聴するべき面があるが、しかし、桃太郎民話を実際の史料にそくして考えるという立場からすると、この考古学的事実は、川上から「桃」が流れてきたという民話の語り口の背景をなすものとして無視することはできない。柳田国男自身が、同じ論文で、次のように述べていることは、やはり重要である。
      元は恐らくは桃の中から,又は瓜の中から出るほどの小さな姫もしくは男の子,即ち人間の腹からは生まれなかったといふことと,それが急速に成長して人になったといふこと,私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居るのみならず,諸社根元記の載録する倭姫古伝の破片にも,姫が玉虫の形をして筥の中に姿を現じたまふといふことがあるのである。それから今一つは水上に浮かんで来て,岸に臨む老女の手に達したといふこと,是が又大切なる点ではなかったかと思ふ.海から次第に遠ざかって,山々の間に入って住んだ日本人は,天から直接に高い嶺の上へ,それから更に麓に降りたまふ神々を迎へ祭る習はしになって居た.だから又谷水の流れに沿うて、人界に近よろうとする精霊を信じたのであった.
 つまり、柳田は桃太郎民話の直接の背景には「天から直接に高い嶺の上へ、それから更に麓へ降りたまう神々」が、さらに「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」となって訪れるという観念があるというのである。中世遺跡における「桃と水」の関係という事実を前提として、この柳田の見解をうけとめようとすると、最大の問題は、人々が「桃」とかかわって、「谷水の流れに沿うて,人界に近よらうとする精霊」の姿を何時、どのような場で身近なものとして感じたかにあるだろう。
 和歌森太郎が「三月三日の行事全体が水の精霊祭」であると述べているように*2、おそらくそれは季節的には、三月三日の桃の節句の時期であったのではないだろうか。貴族の年中行事でこの節句が「上巳の祓」と「曲水宴」、つまり、川面に出ての祓えや川遊びの宴を内容としていたのは、この節句の水祭としての性格を示している。それは伊勢神宮の『皇太神宮儀式帳』や『皇太神宮年中行事』などによれば、古くから桃の花びらを浮かべた酒を飲み、草餅を食べるという風雅な節句であった。そして史料は少ないものの、庶民の間でも、その草餅をつくるための草摘みの野遊びも古くから行われていた(『文徳天皇実録』嘉祥三年五月五日条)。この春の野遊びは貴族の「曲水宴」に対応するような川遊びや潮干狩りを含んでいただろう。史料に頻出する三月三日の節料は、上記の草餅などの他、この海川の初穂を含んでいたに違いない。特に海は、この日ちょうど一年で最大の大潮の時であり、『延喜式』(内膳職)などに知ることのできる漁民の三月の節料は、引潮で現れた広大な砂洲・磯をあさった貝や海藻などからなっていた筈である。
 そして、三月は、水ぬるむ季節になるにしたがって、潅漑用水路の整備・修復が本格的に開始される季節である。この節句は潅漑労働の事始めの農休みだったのである。戸田芳実氏が解明したように、先だって二月には「二月田の神祭」が行われているが、その実態は「あらをだのなはしろみづのみなかみを かえるがえるもいのるけふかな」という和歌などが示すように、やはり山から降る流水を祭る「苗代祭り」「水口祭り」であったという*1。そして、この田の神は「右兵衛督忠公月令屏風」に、「仲春たかへする所あり、柳のもとに人々あまたいてみる、たのかみまつる」とあるように、柳の下に勧請されたものであったらしく、また、田の神の依代としての「石」が丸石から道祖神の石像や夷・大黒の像などにいたる多様な形を取り、それが民俗社会における「石」の呪力の基底に存在していたことはよくよく知られているから、おそらくそれは『信貴山縁起』に描かれた、図(25)のような「丸石」を神体とするものであったのであろう。『信貴山縁起』の石の上に立つ木が明らかに柳であることも、この想定に適合的である*2。
 そしてこの『信貴山縁起』の場面で興味深いのは、近くの人家の垣根にピンクの桃の花が咲いていることである。田の神を祭って本格的な農作業の季節に入った人々は、桃の花の開花をみながら、本格的に灌漑労働にとりかかっていったのではないだろうか。そして、人々は、桃の実の成る旧暦六月頃まで、自己自身の労働によって「水」と深く関わり合うのである。近世の神祇書によれば、「桃の守り」とは、厄病よけのために桃の若実を五月五日にとって乾燥させたものというが*3、「桃」は、そのような水の季節を連想させる果花樹であったのである。
 
 最後に一言。しかし、NHKの番組の組み立て方は、面白いテーマを聞きやすいように「作る」という感じは残る。具体的データを具体的に紹介してほしい。もう少し素直な感じにならないものか。

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