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2011年1月21日 (金)

時代区分論の現在ー世界史上の中世と諸社会構成

時代区分論の現在ーー世界史上の中世と諸社会構成

    『史海』52号、2005年6月
 歴史学の社会的機能は、まずは社会の記憶装置を事実にもとづいたという意味で健全なレヴェルに維持することにある。それ故に、職業的な歴史家にとって、そのもっとも明示的な労働は、広い意味でのアーカイブズ、つまり社会的な記憶装置に奉仕し、様々な史料の記録・解読などに従事することとしてあらわれる。そこには史料の保存とそれをめざした組織的活動、たとえば遺跡や史料保存運動などの多様な職能的な義務がふくまれることもいうまでもない。
 ところが、史料(とくに文献史料)というものは、一般に、その社会における特定の立場、とくに権力者や富者の立場が濃厚に浸透した形式・内容をもっている。他方、現代の歴史家は、社会的費用によってその生業にしたがうことを許されている「全体の奉仕者」であるという性格をもっており、そのような存在としての中立性・公平性が要請される。そして、それを誠実に学問の職業倫理として受けとめようとするならば、そこからは過去の人間をも出来る限り公平・平等にあつかおうという職業的態度が徐々に生まれてくる。こうして、普通の歴史家は、史料の分析・総合の彼方に、そのままの形では史料に登場しないような権力者や富者以外の人々、多数者の構成する社会を描き出すことにこだわることになる。この多数者はつきつめていけば、庶民そのものになっていくことはいうまでもない。当然のことであるが、このような心の動きは歴史家の学問的方法の如何をとわないことも注意しておきたい。
 歴史家にとって、人間の平等とは、現在の人間の個々人がかけがえのない平等な価値と尊厳をもつということのみではない。歴史家にとっての平等の理念とは、過去の時間に生きた人間のすべてが民族・性別・身分・年齢などをとわず、個々に尊重されるべき個性をもっていることをも意味している。歴史家は権力者や富者の史料とつきあうことが多いが、それだけ逆に徹底的な平等主義的個人主義者になりがちであるということもできる。そのような歴史への心情が社会的に一般化することが困難であることを歴史家はよく知っているが、しかし史料の背後にある利害の偏りを摘出するという営為はそもそも歴史家が自己自身の感情と人間性のすべてを動員することを必要としており、そこにわれわれの誇りがある以上、私たちはこの問題を忘れることはできないのである。
 この「国際化」の時代、このような歴史家の姿勢は、もっとも大枠では、「日本」という集団の枠組みそれ自身に対する意識的な取り扱いに発展せざるをえない。もちろん、「民族」が一種の共同体としての側面をもつことは事実である。「日本」の国土に居住し、そこに関わるものは、のぞむとのぞまざるにかかわらず同じ運命をうけざるをえない場合があるのである。しかし、そうであるからといって、民族という共同体の中にはつねに大きな利害の対立がある。そして、現代の社会で人々の利害が異なっているのと同じように過去の社会においても人々の利害は異なっている。現在にせよ、過去にせよ、特定の共同性、共同体が事実として存在するとしても、その内部が均一な利害をもっていると前提することはできない。歴史家が国際的・世界的な立場にたつことに意識的であるとすれば、いよいよ「日本」という国家を相対化することが必然になることはいうまでもない。
 こうして歴史家は、徐々にアーカイヴズと社会の記憶装置それ自体とは相対的に離れた役割を引き受ける結果を引き受ける道に入りこんでいかざるをえなくなる。そして、その仕事の内容は、徐々に、記憶の背後に存在する「過去」それ自身を研究し、過去それ自身に向き合うという側面が強くなっていく。石母田正は、「(歴史家は)正しく目的地にむかって歩くためには磁石と地図のほかに肉体的・精神的な多くの能力を必要とする。歴史家たちがそのすべての人間的能力をあげてその研究対象と取り組むとき、過去の人間の歴史、幾百万の人々が地べたをはいつくばうようにして生きかつ刻みつけてきた歴史なるものを少しずつ解読することができるのである」(「『国民のための歴史学』おぼえがき」)と述べている。たしかに歴史家はこうして人間社会における時間そのものと向き合うのである。
(1)「古代・中世・近世」という「時代区分」について
 いわゆる「時代区分」の問題というのは、歴史家にとってなかなか悩ましいものである。人間の歴史は、徹頭徹尾グローバルな規模での空間的連関をもっており、また人類史的な長期的レンジでの時間的関連をもっている。しかし、一人の歴史家がその全体を視野に収めることはできない。少なくとも現状では、歴史学の作業はきわめて手工業的なものである。歴史学者は史料自身が語り出すことを記憶し、それを素材として研究を進める。こうして、歴史家は、特定の地域や時代などの研究分野に固定された記憶と分析能力をもつこと自身によって、そこに縛り付けられることになる。日本は、「島国」で東アジアの大規模な「民族間」戦争の局外にいたためであろうか、古くからの「文書主義」のためであろうか、大量の文書史料が残っている国である。こうして自己の能力と大量の史料にしばりつけられた歴史家が自信をもって解説できる歴史上の諸時期はきわめて短い時期に限られてしまうのである。
 しかも、歴史家にとっての「時代区分」の問題性は、歴史家自身が一つの社会的分業の内部で、一つの職能集団をなしていること自身にひそんでいる。歴史家は相互に協力しなければ広域的で長期的な規模をもつ歴史というものを読み解いていくことはできない。しかし、社会的分業の組織がどのような場合でもそうなりがちであるように、歴史家相互の関係は「棲み分けと相互無関心」に堕しがちである。率直にいって、そこでは「時代区分」というのは実際には相互無関心の免罪符にしかすぎないというような関係があるのである。
 やや戯画化していえば、日本では、律令が読めて木簡などの文字史料にも目を配る歴史家が担当するのが「古代」、故実的な経験と実感的な知識によって武家文書を読み、幕府制度を専門的に語ることのできる人々が担当するのが「中世」、お家流でかかれた大量の文書の集団的蒐集と分析に手慣れた手腕をもつ人々が担当するのが「近世」というようになっているのではないだろうか。もちろん、ここ二〇年ほどの新しい歴史学の諸潮流は、このような「時代区分」と突きくずすような内実をもっていたが、しかし、歴史家の職業的知識がどのようなものであるか(また極端な場合はその経歴や交友関係)に左右されて時代区分が成り立っているという関係自身は実態として強く残っている。それは学界の外からは何か意味ありげにみえるかもしれない。しかし、こう考えてくると、私は、「古代・中世・近世」という時代区分は、ほとんど歴史家の棲み分けに依存した職業的暗号かジャルゴンのようなものに過ぎないと嘲笑しておいた方がよいとさえ思うのである。
 歴史家は、その職責からいって、一般にきわめて真面目な人種であるから、こういう決めつけには、もちろん、強い反発があるだろう。たしかに、古代社会的と原始共同社会・奴隷制・封建制・資本制という時代区分がある形で説得性をもち、社会構成体論争が実質上も展開されていた時期には、「古代・中世・近世・近代」という用語は、そういうともかくも概念的な思考を内在させた用語として流通していた。その影響は今でも続いている。また歴史家は、その仕事自身によって古代史家・中世史家という自称になじんでおり、そして、そこには単に「棲み分け」というような関係ではなく、分析対象となった社会の特徴に対する実質的な知識が存在しており、それが特定の学問的主張をはらんでいることも事実であろう。
 しかし、論争というものも絶えて久しいことになっている現在では、われわれ歴史家のいう「古代」「中世」というのは、よくいって一種の暗黙知にすぎないというのが実情である。そして、私が何よりも問題だと思うのは、このような「古代・中世・近世」などという時代区分が、実際には、しばしば日本なり日本史という特定の観点を前提としてみた見方、あるいはより正確にいえば「日本」を主語としてみた歴史の見方を内在させていることである。そこには、実際には、日常意識としての「日本」を過去にのばしていくという惰性がそのまま入りこんでいるのではないだろうか。
 そもそも問題は、時代を区切る、あるいはより一般的にいえば「歴史的な」時間を区切るという発想、「時代区分」をしようという発想それ自身が、しばしばある種の日常意識の反映でしかないことである。つまり、諸個人の個人的時間は、それが拡大した場合も、自己の直接的経験であり、あるいは自己をとりまく人々、配偶者・子ども・親族・同一職業者・友人などの経験の想像でしかない。それは、社会全体が経験していく歴史的な時間の一部をなしてはいるが、しかし、日常意識は、そのような広大な歴史的時間から目をそらそうとするのが普通である。われわれの日常意識は、社会が人間の感情と知識の範囲をこえて客観的構造をもってそびえ立ち、われわれの生活を拘束していることを認めようとしない。そして、それと同様に、われわれの日常を越えて、そのすべてを押し流しながら、どこへ結果するともしれずに客観的に連続していく時間というものが存在することを認めようとしない。過去を意識しているということは、人間に現在を相対化する強さを要求するのであって、われわれの日常意識はその不安に耐えられない。
 そういう不安の中で、われわれの日常意識は、「社会」や「時間」に曖昧な「意味」をみとめ、それらの全体を都合よく解釈したり区切ったりしようとする。安心できる有意味性のための主観的分節化という訳である。そして、実は、その場合の曖昧な歴史意識の代表こそが、「古代・中世・近代」のような歴史の三区分法なのではないだろうか。それは時間を「はるか昔」と今に区分し、その間にいくつかの中間の時期を入れ込むという単純な発想からなっている。たとえばギリシャの「金・銀・銅」の時代という歴史区分法や、日本では平安時代に発展した「上代・中つ代」などという区分法は、その典型であろう。それははじめに完全なものがあって、それが徐々に弛緩・解体してくるといういわゆる下降史観であるが、そこでは「完全」なものは主観的・恣意的に設定される。それは歴史に曖昧な意味をあたえるための型式であって、これによって、歴史は区分されながら、同時に意味的な連続性を確保し、日常意識は、その背後に歴史性をあたえられたかのように自己満足するのである。このような型式がもたらす曖昧な意味性は、最初に措定される「完全」なものの内容が何であるのか、神話的ユートピアと神権政治であるか、あるいは「原始共産制」であるのかなどという問題とは関わりなく存在する。歴史家も、自分自身が、このような日常意識と歴史意識の間の陥穽から自由であるということを最初から前提してはならない。歴史学者は、自分の使う「古代・中世云々」という時代区分法が、上記のような日常意識とどれだけの差異性を確保しているかを疑うところから、その「時代区分論」を出発させるべきなのである。
 何よりも問題なのは、安易な歴史区分法が、実際にはさまざまな社会的な虚偽イデオロギーと連接していくことである。たとえば、『新しい歴史教科書』なる教科書は、驚くべきことに、天皇の代数を神武天皇第一代と数えて注記し、「大和朝廷がいつ、どこで始まったかを記す同時代の記録は、日本にも中国にもない。しかし『古事記』や『日本書紀』には、次のような伝承が残っている」として「神武東征伝説」を説明し、その結論として、「(神武が)初代天皇の位に即いた」としている。これは神話と実在を意図的に混同し、王権の起源をそこにもとめる「万世一系」の主張に等しい。しかもそれが東アジア諸国に対する優越性の主張をともなっているのも見逃しがたい。「日本は、古代においては朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較し、独立した立場を貫いた」(39頁)「わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属しないーこれが、その後もずっと変わらない古代日本の基本姿勢となった」(45頁)「(日本人が)外国の文化から学ぶことにいかに熱心で、謙虚な民族であるか」「それでも自分の国の歴史に自信を失うということがずっとおこらない国だった」(318頁)という訳である。このような「万世一系」と「東アジアの強国」という観念連合のあり方は、戦前の皇国史観と基本的に同一の枠組みのものである。
 これは極端な例であって、極端な例をもって一般的な議論を展開することはできないことはいうまでもない。しかし、日本の普通の国民の歴史意識の中には濃厚な「古代中心性」というべき現象が存在することも事実ではないだろうか。よく知られているように考古学の田中琢氏は考古学的発掘が異様といえるほど広い関心を集める国としてイスラエルとならんで日本をあげている(「考古学とナショナリズム」『岩波講座日本考古学7』、1986)。ここに、日本の歴史の文化的価値を、「古代」を起源とするものにもとめようという雰囲気が反映していることは明らかである。そして、その背景に「旧王」ではあっても、天皇制が日本の歴史におけるさまざまな条件の中で保存されてきたという事実があることも否定しがたい。「古代・中世・近世・近代」という図式を暗黙知のレヴェルのままに繰り返していれば、それは歴史の起点が特殊な「古代」から始まるという社会意識の存在と共鳴する効果を及ぼすことになるのは見やすい道理である。
 この問題は、どの時代を専攻するにせよ、やはり「日本」の歴史家にとって根源的な問題であるといわねばならない。よく知られているように、網野善彦氏は、そもそも「日本」というものを歴史的に捉えようとする観点をもってなかったと戦後歴史学を痛撃する(『日本とは何か』中央公論社、2000)。その戦後歴史学批判のあり方には賛同できない点を残すとはいえ、しかし、その問題提起自身は正確に受けつがれなければならない。私は、田中氏や網野氏などの問題提起は、「古代・中世・近代」という時代区分の問題性と決して無縁ではなく、むしろ本質的に関係していることの確認が必要だと思う。
(2)世界史的な範疇としての「古代・中世・近世」ーー杉山正明氏の見解にふれて
 端的にいうと、私の提案は、こういう一国史的な範疇としての「古代・中世・近世」という用語を何か意味のある学術用語であるかのように使用することはもうやめてしまおうというものである。逆にいうと(後にのべるような限定はあるが)「古代・中世・近世」という用語を使用する場合は、基本的に世界史的範疇としてのみ使用しようという提案である。私がこのような考え方をいだくようになったのは、二〇〇〇年の歴史学研究会大会総合部会で「現代歴史学と『国民文化』」という報告をし、宮地正人氏から誤解にもとづく反論をうけ、それに応答する中でのことであった。その研究上の結論は、ほぼ『黄金国家』(青木書店、二〇〇四)に書いた通りであるが、東アジアの中での日本という観点を貫いていくと、結局、東アジアの歴史段階を確定することを優先させざるをえないというのはある意味で当然のことである。『黄金国家』ではほぼ四世紀以降の日本の国家形態を東アジア史の観点からは「民族複合国家」と規定せざるをえないということになったが、それだけ東アジアの規定性を重く見ることになれば、その時代を日本独自の「古代」などと規定するのはほとんど無意味となる。
 ここで前提とした東アジア世界史の範疇としての「古代・中世・近世・近代」という把握は、基本的な発想を宮崎市定の仕事、そして内藤湖南以来の日本の東洋史学の有力な学統の作り出した独特な「世界史の時期区分」の仮説によったものである。その学説はユーラシア大陸全体の「中世」はヨーロッパでローマ帝国、東アジアで漢帝国が崩壊する二・三世紀に始まるという見解を中心軸としている。それに従えば、世界史の時代範疇としての「中世」はユーラシアの東西をとわず、遅くともだいたい二・三世紀には始まるということになる。この内藤の問題提起は、実際上は、おおざっぱな仮説にとどまっていたといわざるをえないところがあるのであるが、その学統をうけた宮崎は、東アジア社会においては「世界史上の中世」は唐宋変革期に終焉をむかえ、だいたい一一世紀から商品経済と社会的分業の発展を不可欠の要素とする「世界史的な近世」の時代に入るという構想をより具体的に提示するのに成功している。
 この内藤・宮崎らの見解は、それでもユーラシアの東西の「帝国」を中心に世界史を構想するという限界をもっていたが、これに対して、最近ではむしろ「中世」においても、「近世」においても、世界史の起点はむしろほとんどつねにユーラシア中央地域にあった、とくに世界史の「近世」を開始したのは、イスラムの諸勢力あるいはそれをうけて展開したモンゴル帝国であるという視角が強く打ち出されている。たとえば、昨年の歴史学研究会総合部会での杉山正明氏の報告は、ローマと漢という東西の帝国を中心に世界史を構想し、結局、オリエント、ギリシャ、ヘレニズム、ローマ帝国というような鋳型に世界史を流し込んでいく見方をヨーロッパ中心史観として痛烈に批判することに成功している。私は、この批判の説得性はきわめて高いと思う。一昨年、ロシアで幾つかの博物館を見学したとき、紀元前の諸時代にシベリアからヨーロッパの原野にいたる各所に豪華な遺跡・遺物が分布している様相がよくわかった。それをみていると、いわゆる四大文明史観というものが、ユーラシアの歴史の一部をしか代表していないものであることが実感される。四大河文明の段階から世界は連携しあっており、それを媒介する文明とルートがユーラシアに張り巡らされていたことは明らかである。大きくみれば、国家と文明の形成それ自身に、そのような文明間交流やそれに関係する帝国的な様相を考慮にいれた新しい歴史理論が必要になっているのであろう。杉山の報告は、このような知識体系の組み直しともいうべき事態が進展していることを示しているのであって、私たち日本史研究者も、やはりそれを確認するところから出発せざるをえないのではないだろうか。ともかくも杉山氏の報告を聞いて、私は、日本の東洋史、そしてとくにモンゴル史研究を基礎としてヨーロッパ中心史観を批判する論調の確信と誇り高さをたいへんにうらやましく思った。
 とはいえ、日本史の研究は、まずはこの日本という国民国家に対する責任、「国民国家」それ自身を問い直すということをふくめての責任をおうものである。そしてその観点から日本史研究がまず、日本の社会構成・社会構造を論じるという構えをもっていたこと自身は何といっても正当であったと思う。各地域や民族をおおって横波のように広がっていく世界史の長期的な波動の一時期を表現する概念としての世界史の時代範疇と特定の地域における社会の構造・運動を表現する概念である社会構成の概念は、それ自身として区別されるものである。そして最終的には、歴史学は、後者の全面的再検討を前提として、前者の世界史の時代範疇も総体として豊富化し、切り替えていくというルートを歩むべきなのではないだろうか。
 これは杉山も否定しないに違いないが、しかし、その構想において帝国に組み込まれる各地域の社会構成はどのように位置づけられるのだろうか。杉山報告の切り口は、「人類史上のおける「帝国」現象の総合的把握」にあった。たしかに前近代の「帝国」は「多様な中の統合、もしくは多重・多元世界のうえに乗る薄い被膜」という性格をもっているのはその通りであろう。しかし、帝国の概念の前提には、そのような広域的な複合体のなかで、それを構成し、それに包含され、特定の運命を与えられ、さらにある場合は変型され、支配・抑圧される民族というものが存在するのではないだろうか。もちろん、前近代において近代的な意味での「民族」を措定することができないことはいうまでもないが、少なくとも、特定の地域に在するということではないとしても、特定の社会構成を措定すべきことは明らかだと思う。マルクスは後にふれる社会構成体の概念を「生産関係そのものから発生する経済的共同体の全姿容、それと同時に、この共同体の独自の政治的姿態」とも説明している(『資本論』Ⅲ七九九頁)。つまり、国家とそれに総括された社会は、ともかくも一つの共同体としての局面をもたざるをえない。それ故に、民族それ自身も「虚偽的」な側面が強く、異なる内部利害をはらみ、また超歴史的なものではないとはいえ、一種の大規模な共同体としての側面をもたざるをえない。そして、少なくとも、帝国的な歴史過程の中で、一時的かつ可動的なものであるとはいえ民族的な行動をとらざるをえない状況はたしかに存在したのではないだろうか。このような民族と地域に視座をすえて帝国を捉え直すために、やはり何らかの社会構成の概念が必要なのは明らかであろう。そして、そのような立場からみると、内藤・宮崎の議論が社会構造論としてはきわめて貧困なものであるといわざるをえないことは指摘せざるをえないことなのである。「日本史」と「アジア史」の生産的な関係のためには、両者のもった歪みの両方を正面からみとめなければならないのではないだろうか。
 そのような感想をもったものとして、杉山の報告に対する若干の留保をのべれば、杉山が「帝国」概念と「文明」概念を自然的な生態系や地域性をこえた展開を意味するものとして二重的存在として捉えるかのようにみえることが気になったところである。そんぉよういな図式が、結果として帝国の発展と文明史的発展を等置するという結果に陥る危険はないのだろうか。杉山の議論が世界史を帝国の興亡によって描き出そうというようなものではないのは明らかであるが、歴史学研究会大会でのコメントで栗田伸子がいうように、杉山の図式は上原専緑の「文明圏」の議論と交叉する側面をもっているだけに、この「帝国」と「文明」という問題については今後の議論に期待したいところである。私は、文明とは、現実には個別の帝国ではなく、「帝国」をもこえた長期的なレヴェル、さらには「帝国」の下層に重層する個別の文化や生態系をもつ諸地域の相互関係を軸として捉えるべきものであると思う。たとえばギリシャの自然哲学、ユークリッドの幾何学などとヨーロッパ近代の諸科学を直結するヨーロッパ中心史観は破綻していることは明らかであるが、それを中央アジアをふくむ「帝国=文明」の興亡に直結することもできない。とくに哲学や自然学の発展にとっては、ギリシャーインドーイスラムの関係をみるまでもなく、国際的な知識の長期的な交流と凝縮が決定的な意味をもっていた。そのような達成をユーラシア全体の民族間・文明間交流の結果として相対化する観点は、決定的に重要だろう。文明と科学の発展の主要な条件は、むしろ帝国的圏域と圏域の相互交渉の中で展開する。帝国の内部においても、それを構成する民族と民族の間の相互交渉の関係から生まれるものではないだろうか。科学と技術と生産諸力の継受という問題こそが人類史のキーであるというとらえ方は、戦後歴史学においてきわめて一般的であったものであるが、それは結局のところ、帝国を相対化する視点をどこにおくかという問題であろう。それは帝国の矛盾と動態をその多元的な下層諸社会、諸民族社会から捉え直すという問題とどこかでからんでくるのではないだろうか。
 杉山の仕事は、たとえば石母田正の「古代における帝国主義」という問題提起の意味をほとんど消失させたといってもよい。石母田の「古代帝国主義」という図式には、私もしたがうことができない理由を述べた。しかし、それを認めても、ともかくも石母田の仮説は、東アジア社会論、国際関係論から社会構成におよぶ全体像と理論の筋を確保していたことは事実である。批判は、石母田とはまったく異なる意味においてであるにしても、やはりそのようなレヴェルを作り出すことを意識して行われなければならないだろう。「古代」などという曖昧な概念を清算し、東アジアの中での日本という観点を貫徹することによってこそ社会構成論も前進しうるという道筋はいつみえてくるのであろうか。
 繰り返すことになるが、最終的には、世界史の諸段階は、各地域社会の歴史との相互関係の連鎖全体の運動を明解に描き出すことによって、より厳密な方法の下に確定されることになるであろう。世界史の多様性を構成する民族的社会構成の運動にも自己運動性がある以上、世界史はさらに多様な、それらの相互影響体であるが、世界史のレヴェルにも独自な自己運動性があることは明らかである。それ故に、世界史が「段階性」をもつということを否定することはできないはずである。それはエンゲルスのいう、自然の運動法則、運動形態の階層性と同じ問題であるが(『自然の弁証法』)、そのような意味での世界史の時代区分は、本質的には、これから議論されるべき問題であるというほかないだろう。そして、私は、そのような議論の進展は、おそらく世界史についても「原始・古代・中世・近世・近代」などの単純な区分を清算することになるのではないかと考える。もちろん、当面、世界史の時期区分から「原始・古代・中世・近世・近代」という時期区分を追放しようと主張するのではない。しかし、そのような時代区分法は世界史の時期区分としてもやはりあくまでも便宜的な用語であるはずであろう。たしかに自然史でも「始生代、原生代、古生代、中生代、新生代」などの類似の用語は残っているが、しかし、実際には、それらをさらに区分した三畳紀、ジュラ紀右、白亜紀、第三紀、第四紀などの用語が優先的な意味をもっている。歴史的時間の諸段階が、「始・原・古・中・近」などのただの曖昧な形容詞で表現できないのは明らかであるのに、人間の歴史についてのみ、それがいまだに生き残っているのは奇妙なことである。
(3)社会構成体論と歴史経済学の方法
 社会構成を論じる場合に、現在でも歴史学者はマルクスの議論を前提とせざるをえない。なぜこのような事態が結果したのは、それ自身ある意味で奇妙なことではあるが、よい意味でも、悪い意味でも歴史学がいまだにマルクスの呪縛の下にあるのは客観的な事実であると考える。

 すでに論じたように、私は、マルクスの「古典古代的社会構成」「封建的社会構成」などの範疇もギリシャ・ヨーロッパにおける個別社会を対象とした具体的な社会概念であると考える。日本の「近世史」学界の一部ではながくマルクスが江戸時代の日本を「封建制」と考えていたという理解が一般的であったが、それはマルクスの誤読であった(「『資本論』は江戸時代を「封建制」と捉えたか」『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年)。また、日本の歴史学界では、「古典古代的社会構成」「封建的社会構成」が、そこに特徴的に存在する労働奴隷や私的農奴制などの人身的な隷属形態のみによって特徴づけられ、具体的な社会構成が「奴隷制社会」「農奴制社会」なる社会に還元されて議論されることもしばしばであった。しかし、すでに早くから指摘されているように、それも奇妙な誤解であったというほかはない(太田秀通『世界史認識の思想と方法』青木書店、一九七八年)。そもそも社会構成の概念は、生産諸力の段階的な特徴、それ故に人間と自然の諸関係、科学・技術の諸段階などに照応する構造をもつ生産をめぐる諸関係が、社会の実在的な土台であって、そこを基礎に法律的・政治的・イデオロギー的な上部構造が形成されているというものであって、これ自身は、現在ではある意味で常識的な考え方である。問題は、人類社会の諸時代・諸地域にあらわれた個別社会の構造をさらに具体的で統一した方法によって、どのように分析するかということにある。
 前近代史を担当する歴史家にとっては、この問題は、結局のところ、歴史家自身が、前近代史にふさわしい経済学、歴史経済学の様々な基礎的諸範疇を鍛え直すという仕事に挑まなければならないということを意味している。そのような作業なしに社会構成論についてあれこれいうのは、所詮、空虚にして無益である。そして、私はその際、問題の基軸はやはり労働論・価値論のレヴェルに設定することが必須であると考えてきた(参照、「歴史経済学の方法と自然」『経済』二〇〇三)。マルクスはヘーゲルをうけて、労働の二重性論、つまり、労働には仕事=WORKの側面、目的意識的な有用労働の側面と、労苦=lABOURの側面、抽象的生理的労働の側面の二重性があり、これに対応して、経済的対象物には効用価値、(交換)価値という価値の二重性が付着するという議論を展開している。問題は、かって内田義彦が「マルクスは、目的定立をし、自分の目的に従って労働の過程を指揮する営みを精神労働、それに従って神経や筋肉を動かす仕事を肉体労働と名づけています」(『資本論の世界』)と述べたように、この労働の二重性が、具体的労働の目的意識性が精神労働として自立し、そのような目的意識性を自然によってあるいは交換過程において捨象・収奪された労働が肉体労働に特化してしまうという形で分裂していくことである。『ドイツイデオロギー』は同じことを「分業とともに、精神的活動と物質的活動、享楽と労働、生産と消費とが別々の個人のものになる可能性が、それどころか現実性があたえられている」(全集③28)と述べている。そして、この有用労働と抽象労働の二重性が分裂して精神労働と肉体労働の二重性として発展し、それが都市と農村の分業や国家を生み出すという観点がマルクスとエンゲルスの社会的分業論の基礎にすわっているのである。
なお、普通、「マルクス経済学」では、「Gebrauchswert」「Use-value」は、使用価値と翻訳されるが、いわゆる「近代経済学」の使用する「効用」という言葉を使うことに何の問題もない。むしろ使用価値という言葉は、目的意識性というよりも「物」の物的使用のみを印象させてしまい、自然環境それ自体や、知識労働、サービス労働などの労働諸形態をふくむ多様な対象の、多様な有用性・効用や労働の目的意識性を含意させる上では適当でない。少なくとも、この「効用」の諸現象を具体的に扱う枠組みなくしては、現代資本主義経済を捉えきることはできないことは明らかである。それと価値実体をとう考えるかという根本的な原則問題は異なるレヴェルの問題である。
 とくに前近代社会では、このような精神労働と肉体労働の分業に自然規定性が大きな影響をあたえる。マルクスは「単純協業では、活動するのはただ人間力の集団だけである。二つの眼等々をもった一人に代わって、多くの眼、多くの腕、等々をもった怪物があらわれる」(『資本論草稿集』④414)と述べるが、その頭脳、精神労働の位置には特定の個人がつくことになる。そして、この労働者群が発揮する「動物精気」(『資本論』Ⅰ三四五頁)は人間の「群」が生得的にもつ生理的抽象労働の相乗効果として、この怪物の肢体に吸い取られる。そこでは、彼らの労働の具体性と精神労働が特定の個人に吸収されるのに対応して、彼らの労働の抽象性と肉体労働が集団的規制によって固定される。しかも、このような社会関係の中で、人々は、同時に、自然によって直接に様々な受苦を強制されている。自然はいざとなれば人間に対してまったく無縁・無用なものとしてあらわれ、労働対象からその有用性と効用価値を捨象し、労働の目的意識性を無に帰してしまう。これは商品交換関係においては貨幣が商品の効用価値を捨象するシステムとして機能し、貨幣が自己自身の効用価値を抽象化すると同時に他の物の有用性を剥奪することによって商品相互を関係させるのと対応する事態であるといえよう。こうして、たとえば洪水によって破壊された用水路に投下された労働の有用性は無縁・無用な自然によって捨象されており、そこに残っているものは、用水路のために一定の人間労働が投下されたという事実のみになってしまう。このような破壊によって人々はくり返し、自然に労働を投下することを強制され、それを通じて自然=大地に緊縛されるのである。このような集団労働の中での人間労働の抽象的労働への還元と、自然の無用性による人間労働の有用性の破壊こそが、前近代においては、人間の隷属の経済的条件となるのであって、それ故に自然=人間所有の根拠となるのである。
 ヘーゲルが『精神現象学』で展開した有名な「主」と「僕」の弁証法の言い方でいえば、隷属とは、「僕」が主人の非有機的な身体として「物一般と結合されていることを本質とするような意識」であるのに対して、「主」が、「物と自分との間に僕を押しこみ、そのことによって物の非自立性と結びつくだけで、物をひたすら享楽するが、物の自立性の面は物にはたらきかける僕にまかせてしまう」( ヘーゲル『精神現象学』「自己意識、主と僕」)ことである。ここでいう「物の非自立性」とは「物=自然」の主観性=有用性のことであり、「物の自立性」とは、自然の客体性、つまり人間の目的意識や主観をはなれた自然の客観的な性格、別の言葉でいえば自然の無縁性・無用性を意味する。ようするに、ここでいわれているのは、「僕」は自然の無用性をあてがわれ、本来自己のものである労働の目的意識性を収奪された抽象的労働、「夫役」的単純労働においこまれ、具体的な有用性=使用価値の「享楽」が主人のものとしてあらわれるということなのである。
 私見では、これまでの社会構成体論では、以上のような社会的分業論の主要な内容をなす精神労働と肉体労働の問題が十分に位置づけられていないと思う。とくに重要なのは、それが社会構成の中軸をなす所有体系の私的側面と集団側面の両方に関係していることである。たとえばエンゲルスは階級支配は、共同体的・公共的な「社会的職務活動」の自立と、給養にもとづく人身の奴隷的支配という二つの形態、公共的形態と私的形態の二重の道を通じて形成されると述べている。そして、前者は共同体成員を「社会的職務活動」から疎外することによって、社会的活動を担う精神労働とそれ以外の肉体労働の対立を形成し、後者については「この分業(つまり精神労働と肉体労働の分業)の最も簡単な、最も自然生的な形態がほかならぬ奴隷制であった」という。つまりエンゲルスの考え方では、階級の形成とは分業論的には、精神労働と肉体労働の分業・分裂と同義なのであり、それが集団所有と私的所有の絡み合いの中で形成されるということになる。
 ここで以上のような歴史経済学の基礎範疇についてさらに詳しく展開する用意はないが、そもそも現在の学界において、いわゆるマルクス主義経済学をふくめ、歴史経済学というべき経済学分野とその方法論が存在しなくなっているのは深刻な問題である。戦後歴史学において基礎理論の一定部分を提供していた川島武宜、大塚久雄のような法学・経済学の研究者がいなくなり、社会科学の中心をなすべき法学と経済学の研究者の間からは、ほとんど歴史的視野が消えていっているようにみえる。こういう状況では、歴史家もその多忙を理由にして理論的責任をとらないという訳にはいかなくなっているというべきだろう。もちろん、このような事態を解決するのは一朝一夕にして可能なことではないが、当面、価値論・労働論にかかわる私見の詳細は、前掲の別稿「歴史経済学の方法と自然」を参照ねがいたいと思う。そして、ここでは、以上のような議論を前提として、マルクスが『資本論』の労働地代の項において、「人身的隷属関係、程度はどのようなものであれ人身的不自由、および土地の付属物としての、土地への緊縛、本来の意味での隷属」(『資本論』Ⅲ七九九頁)が土地所有には随伴していると述べたと考えられることは確認しておきたいと思う。
 ようするに所有体系と精神労働・肉体労働の対立は盾の両面なのであって、所有者は隷属者の身体を自己の非有機的身体とし、その労働から目的意識性を収奪することによって、労働を抽象化し、そのようにして物件化された労働を媒介にして客体的世界=自然を所有するのである。こうして、人身的隷属関係とは、精神労働と肉体労働の分離の特定の形態なのであって、奴隷・農奴範疇は、その特殊的事例である。それ故に、当然のことながら、社会構成を議論するためには、精神労働と肉体労働の分離と人間の物件化の総体的な関係、それ故にその社会を貫く所有関係の総体(藤田勇氏のいう現実的な関係としての所有関係、『法と経済の一般理論』日本評論社)を起点にすえなければならないのである。そしてさらに社会構成というものが、経済関係と政治的・法的・イデオロギー的な諸関係の全体を意味することはいうまでもない。それ故に、奴隷・農奴というような特定の隷属形態を指摘することをもって、社会構成の全体を規定しようなどというのは、(奴隷や農奴の摘出の作業自身が重要な意味をもつことはいうまでもないとしても)、所詮、無理なことなのである。
(4)列島社会の社会構成と「中世」
 このように考えてくると、実際上、世界史上に登場した社会構成はきわめて多様、無数であったというほかない。そもそも先に述べたように、マルクスが述べた「古典古代的社会構成」や「封建的社会構成」がギリシャ・ヨーロッパ世界に独自な具体的な社会構成であるとすれば、社会構成の類型が、マルクスが「経済学批判序言」で述べた四つ・五つの範疇に解消できるものではなかったことは明らかであろう。今の時代に立ち戻って考えてみても、現代の日本・韓国・イスラエル・インド・アメリカ・ヨーロッパなどの諸国は、たしかに同じ資本主義社会ではあるものの、相互に決定的といってよいほど相違する実態をもっている。資本のグローバル化の中で、商品交換関係の所有=社会関係そのものへの貫徹という共通する構造を作り出されながらも、これだけ具体的な社会構成が異なるのであるとすれば、自然と世界史そのものによって大きな差異性をあたえられている前近代世界において各地域に継起した社会構成がさらに巨大な相違をもっているのは当然であろう。
 しかし、それらを同じ人間が住んでいる社会として統一的で一貫した学問的方法によって解明することができるというのが歴史学者の確信であるはずである。そもそも歴史学者の役割は空間のみでなく時間の離れた別の社会をも文字どおり、同じ「人間の社会」として捉えきり、それによってヒューマニズムを過去から支えることにある。その意味で、「古代・中世・近世」などという用語の使用をやめようとか、日本は封建制ではなかったなどという私見は、けっして社会構成論からの撤退を意味するものではないことは誤解のないように申し述べておきたい。
 さて、以上のように述べてくると、ここで簡単にでも日本の「中世」、おもに四世紀から奈良時代・八世紀にかけての列島社会の社会構成についての私見を述べざるをえないこととなる。とはいっても、それは単なるおおざっぱな試論に過ぎないが、実は、昨年、奈良女子大学史学会で報告の機会をあたえられ、私がこれまで専門としてきた平安時代社会については社会構成論的な試論を展開してみたので(保立「都市王権と貴族範疇ーー平安時代の国家と領主諸権力」『日本史の方法』創刊号、二〇〇五年三月)、それを考えるにあたっての前提を、おもに石母田正の首長制論をどう考えているかという点にしぼって述べておくこととしたい。
 出発点は、三・四世紀以降、本格的な文明化過程に列島社会が突入し、七世紀後半における国家成立にいたる時期が東アジアの「中世」であったととらえ返すことにある。早く石母田正は、四世紀をどう評価するかが国家史を考える上でのすべての基礎であるということ、そしてこの時期の社会構成は未開の要素を強くもった「首長制」ととらえるべきことなどの先見的な見通しを示した(石母田「日本国家の成立」著作集④、発表一九六四)。この見通しは、たとえば鈴木靖民編『倭国と東アジア』(二〇〇二)が示すように、最近の「古代史」学界において確実な実りをみせている。もちろん、この時期の国家は未開の性格を残しており、それを「初期国家」(都出比呂志「国家形成の諸段階」『歴史評論』五五一号)ととらえるにせよ、「首長制の成層社会」(鈴木靖民「日本古代の首長制社会と対外関係」『同』)ととらえるにせよ、段階論の上でも、理論の問題としても疑問は残されている。この問題を確定するためには、本質的には、世界史上、紀元前数千年代社会から一般的に存在する「アジア的生産様式」=「自然発生的共産主義」=(エンゲルスがいう未開に一般的なものとしての)氏族制=首長制支配と併存する国家、貢納制国家をどう捉えるかについての解明が必要であろう。世界史的には、この種の貢納制国家は、本質的にはそれ自身が首長制の内部から生まれたものであると同時に、後背地域におけるより原始的な首長制の存在を条件としている。それらは貢納制国家境域の内部において階級支配を展開するとはいえ、一般には、それはつねに後背地域への逸出を可能とする、疎漏な階級支配であって、特権的精神労働と暴力の自立、つまり精神労働→搾取管理労働→行政労働などを前提とし、租税・領域支配・公的暴力などをともなう固有の意味での国家性(エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』)を完成していない。
 貢納制国家の階級的な国家への展開は、世界史的には、紀元前社会においては、貢納制国家が「帝国」的な広域支配に展開し、その条件の下で、貢納制国家の領域内の首長層が融解して一つの貴族層を形成し、原始的な広域(「民族間」)商品経済の発生とともに「富のための富」という文明的な欲求の形態(エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』)が成立した場合を典型としている。しかし、すでに世界史が紀元前後以降、「中世」に突入した段階においては、貢納制国家はこの段階の文明と技術を前提にして、「帝国」的な条件なしにも、日本における八世紀律令制王国のように、明瞭な階級国家に移行しえたことに注目しなければならない。「中華帝国」の縁辺部に存在した「倭」が、貢納制国家=「初期国家」=「首長制の成層社会」の段階に到達したのを五世紀と捉えるにせよ、六世紀ととらえるにせよ、石母田正の問題提起以降研究の焦点は、それが八世紀の律令制王国における確立した階級国家にどのような諸段階をへて到達したかという問題であった(ただし、右のようにこの過程を規定した国際的諸条件を捉えるならば、この時代の列島社会に認められる民族複合性も、首長制・チーフダムの段階に特有な性格を受けたものだということになる。そういう条件の中で、渡来系の人々は、広く列島社会に自己の共同体と生活様式を維持していたのであろう。それをふくめ、列島社会における「民族複合国家」の性格を石母田のように「古代帝国主義」にひきつけて理解することには無理があるということは『黄金国家』で述べた通りである)。
 いずれにせよ、四世紀から八世紀への歴史過程は、首長制社会の内部に本質的に存在した矛盾、つまり上位共同体内部の矛盾と上位共同体による下位共同体諸群の支配の矛盾が重層し、さらにそれに連接して対外的侵略と外交の契機もはたらき、その中で先進的な文化と技術が輸入されて日本社会が本格的に文明段階に突入するというダイナミックな過程であったということになる。そして、「成層社会」「初期国家」も、八世紀の律令制王国の社会構成も、かって戸田芳実が提起したように(戸田芳実「アジア史研究の課題」(同『日本中世の民衆と領主』一九九四年、校倉書房)、上位共同体による他の共同体に対する支配、集団所有の諸契機を第一の本質としていたはずである。八世紀の律令制王国の形成は、対外的契機をはらむ緊張に支えられて、畿内ー都城制を枠組みとして膨大な軍事官僚機構が創出されるという過程であったが、それは他方で上位共同体がその共同体的性格を残したまま自己を機構として再編成し、そのようにして支配共同体に導入された軍事・官僚機構が共同体間の世界に流入・合体したとでもいうべき性格をもっていたというべきであろう。そして、こういう限定の下でならば、石母田が述べた律令制王国には氏族的あるいは「首長制的」な組織によって支えられる側面が本質的に残っていたという指摘は依然として正しいのである。
 これに対して、九・一〇世紀の過程を通じて、そのようなシステムが編成替えされ、社会的分業と交通形態の内部により多様な都市農村の分業と精神労働と肉体労働の対立が埋め込まれ、より文明的・経済的な支配の諸条件が生まれた。律令制王国は確立した階級国家であるとはいえ、いわば開発独裁というにふさわしい性格を残していたが、平安時代国家、いわゆる王朝国家は、「東アジアの中世」の世界史的な諸条件の中で、中国・朝鮮にはじめてキャッチアップした国家と評価すべきである。そして、その中心は、谷川道雄が述べるような中国中世における貴族制が日本においても一応の実現をみたと評価できる点にあるといってよいだろう(谷川道雄『世界帝国の形成』、一九七七、講談社新書)。そしてこの国家の王権は中央都市・京都を拠点とする都市王権というべきものであって、それは都市権門貴族と地方留住貴族の緩やかな連合を代表する王権であったというのが、前述の講演でのべた私見である(参照、保立前掲「都市王権と貴族範疇ーー平安時代の国家と領主諸権力」)。
 しかし、この「開発独裁」=「東アジアの中世の時代における文明化」が最終的に東アジア社会にキャッチアップしたのは、最近村井章介が述べたように、江戸時代にむかう一〇〇年ほどの間であり、それまでは日本と中国・朝鮮の距離は、中朝間の距離よりも遙かに大きかったのである(「『東アジア』と近世日本『日本史講座』東京大学出版会、二〇〇四年)。遅れて文明を出発させた日本が八世紀に東アジア世界の文明に仲間入りし、それ以降の長い期間をかけて追いついたということになる。これこそが時代区分上の常識にならねばならず、そしてそれによって日本の歴史常識としての「古代中心性」を脱構築し、「日本史」なるものを相対化しようというのが、「古代・中世・近代」なる時代区分法に対置して、私の主張したいことである。
  おわりにーー時間と進歩
 さて、以上に述べた時代区分論の理論的中心は、「封建制概念の放棄」にある。そして、その立場からみて、私は、次の網野善彦氏の発言は、(封建制論批判をもっぱら非農業的分業の評価から行う点には賛成できず、戦後歴史学の評価についても賛成できないところを残すとはいえ)、基本的には正鵠をいているものと考えている。
これまでの農業・農民・農村を基礎として経済外強制による地代の収取を基本的関係とするといわれてきた封建社会の理論は、そのままでは通用しなくなりますね。同じように、奴隷制、さらにアジア的専制国家などの農業共同体のみを前提とした従来の理論も成り立たなくなります。農民層分解から出発してきた資本主義の理論についても同様のことがいえますし、これは社会主義そのものの根本的な再検討につながります。近代史学のパラダイム、公式的なマルクス主義の定式が崩れた現在、歴史学にしても民俗学にしても、やるべきこと、考えるべきことは非常に多い。逆にいえば、研究者にとって、自分の力を思う存分に発揮し、大胆に理論的な問題を提起できるたいへんおもしろい時代がきたといえます(石井進氏との対談「新しい歴史像への挑戦」『歴史家の夢』歴博ブックレット)。
 網野氏の見解については様々な批判があり、その一定部分は私も正しいと考えるが、しかし、この呼びかけは人を鼓舞する力をもっていると思う。たしかに、歴史学は未来社会に対する呼びかけを捨ててはならないだろう。ただし、この未来の問題を議論する時にまず確認しなければならないのは、冒頭の話題にもどるようであるが、歴史学の問題にする「歴史的な時間」というものそれ自体である。
 さて、常識的にいって、歴史的な時間意識とは、歴史的な経験の蓄積と重層をまとめ、総括する作業の中から生まれる感情や知識の体系を意味するといってよいだろう。もちろん、その前提には歴史社会の運動が諸個人の主観からははなれた客観的な存在として諸個人を規制するという前提がある。人々の主観性の集合が一つの客体的な力として自分たち自身の頭上に落ちかかってくる。そして、それは単に大量現象として客観的であるというのみでなく、最終的には自然と人間の関係の仕方の水準に規定されて客観的な性格をもっている。そして、自然と人間の関係の仕方は生産諸力によって表現されるのであるが、重要なのはこの生産諸力が複数形であることである。つまり生産諸力とは社会的分業の内容をなすものであって、それに対応して、生産諸力はきわめて多様な内容をもっている。そして、より根本的にいえば、それは生産諸力の発展が、一種のランダムな発展という性格、偶然性を本質的な要素としてもつからであって、それは進化生物学において進化が基本的にランダムな試行錯誤を通じて行われると考えられているのと同じことである。いつどのようにして科学や技術が発明され、社会的に採用されるか、そしていつどのようにして自然物のもつ様々な効用価値が発見され、社会的に採用されるか、これはきわめて偶然的な契機にもとづいていた。このことは歴史論にとっても時間論にとっても本質的な意味をもっている。偶然というのは、人間の自由意思によらないという意味で自然性・客観性に左右されているということであり、無限の試行錯誤を通じて、結局、ある方向に進まざるをえない、破産しようとするのでなければ、ある方向に進まざるをえないという意味での自然的な必然を意味する。
 「進化・発展の必然性」というのは、マルクスにとってもダーウィンにとっても、決しておうおうにして理解されるような、一方向的で予定調和的な発展を意味している訳ではない(なお網野氏の理解にもこの点で誤解があると思う。前掲『歴史学をみつめ直す』参照)。むしろ人類は、すべての可能的な社会構成のスタイルを一つ一つ追求し、ある場合はきわめて異様な社会構成をもすべて自己の精神と肉体によって確かめることなしには新しい世界史の段階に進んでいかない。歴史の必然性とはそういうことであるといった方が正しいだろう。社会構成の種類がほとんど無限であったというのはそういう趣旨もふくんでいる。そして、マルクスの主張は、現代資本主義社会から次の社会への変化とは、そのような社会の自然成長性・偶然性の内部に新たな自由を宿らせようというものであったことはいうまでもないのである。
 歴史において人々を圧倒する疎遠な力は、実際にきわめて多様な問題、様々な社会的・自然的事件として存在している。それはまさに偶然性にとんだ、すべての辛苦と受苦の可能性を人間にあたえるような偶然性としてあらわれる。人々の主観性の集合が一つの客体的な力として自分たち自身の頭上に落ちかかってくるという場合、それは最終的には、貧窮や災害や暴力として、飢え・消耗・病・死などの怖れとして、諸個人の生活過程にたいして圧倒的な力をふるう。とくに前近代社会では、人々は自然によって直接に様々な受苦を強制される。自然はいざとなれば人間に対してまったく無縁・無用なものとしてあらわれる。自然がその有用性を捨象し、自然自身に還元されるのに対応して、人間的自然も、その具体的な意思性、目的定立性を捨象されて、自然自身として登場する。こうして、対立が自然一般と人間一般に還元されれば、人間は自己の環境として作り出した二次的な自然の保護を剥奪され、人間の本来的な受苦性の中におい込められ、自己が共通する運命の中に投げ込まれた「類」的集団であることを思い知らされる。それは形態は異なれ、現代も同じことであろう。人間はすべての偶然性にもてあそばれる存在である。
 そして、その実感を社会のもっている客観性・自然成長性に対する洞察に発展させようというのが学問の営為であるということになるが、その場合の起点、歴史を動かす主体も、それを総括する主体も、諸個人以外の何物でもない。時間を意識する主体は諸個人の意識それ自身である。社会的意識の実態は、すべて諸個人の意識という要素に解消されるのであって、それ以外に何らかの意識というものがあるのではない。それは社会的意識の重要な内容をなす時間意識においても同様であろう。
 それでは諸個人にとっては時間あるいは歴史的時間というものはつきつめたところではどのようなものとして存在しているのか。個人にとって、時間とはまずは心臓の鼓動であり、睡眠のサイクルその他の自然的な身体生理・身体運動である。これはわれわれにとって、まったくの所与として身体的な自然性としてあらわれる。私の好きな堀田善衛のエッセイを引用すると、「夜半、また白日の下で、ぢいっと心の澄むのを待ってみると、私に時間とは、凡そ心臓の鼓動に尽きるようだ。そして空間とは、これは限定もなにも出来ぬやうなものであることがわかる。むしろ、そのあまりの茫漠さ、無辺際さ、これは虚無に近いーーに何かが耐えきれないので、物なるものが存在するのではないかと思われる。物とは、それは樹木でも机でも地球でもいいのだ。何かがなければ、何もないことになる。だから常に何かがあることになるのかもしれない。時間も同断である。時計とは機械に過ぎぬ」という訳である(「未来について」『乱世の文学者』)。これが人間にとっての自然的時間・肉体的時間であって、時間意識の基底部分は、その主観的な反映として構成されている。
 しかし、他方、時間意識は諸個人の社会的存在、社会的生活にも根ざしている。そして、そのような社会的時間と身体的時間の結節点をなし、同時に両者のもっとも主要な内容をなすのは、一般には労働の時間である。この労働の時間は一方で、右の自然的存在としての人間の生理にもとづいている。しかし、人間労働は一つの目的意識的な行為であって、労働は具体的な労働としては予期・予測・計画・科学などの時間の緊張と流動性の感覚を内部に含みこんでいる。人々は目的意識的な行動によって、時間の外側にでて、流動する時間を対象的に認識する。そして、実は、人々は、それによって同時に、自分の内部を流れる自然的な時間自身も対象化し、そのような場所や自己認識自身も永遠の時間の流れの中に存在するということを知るのである。マルクスはスピノザについてふれた手紙で「万物を永遠の相で眺めれば心は休まる」と述べているが、たしかに人間にとっての哲学的意識とは、具体的生活からの離脱による「永遠の相」の直感であって(全集二九巻、四三八頁)、それは目的意識的労働が時間の外にでて流動する時間を認識するの意識の静止形であるのかもしれない。
 具体的な労働は協業的な労働や社会的な分業の諸関係、そして労働の生産性を蓄積してきた歴史過程によって本質的に規定されているから、自己の労働の蓄積と豊富化は、そのような規定性と歴史性の自己意識の深化をともなっており、それによって自己の労働の歴史性を認識していくことが歴史的な時間意識に展開していく。現代の情報革命の中で、そのような労働の自己意識はすでに世界大に拡大している。しかし、他方で、労働する人々は社会的労働の特定の部門に自然成長的に縛りつけられている。そこでは、社会的諸関係の動きは圧倒的な強さをもって諸個人を規制し、それによって社会的な労働は物件化される。そこでは労働の社会的結合は、私たち自身の結合された力としてはあらわれず、疎遠な私たちの外に立つ力としてあらわれる。そして、その力は社会的労働の剰余部分を剥奪する諸権力として登場し、生産諸力の発展にもかかわらず、労働の再生産をその社会に許されるギリギリの水準にまで引き下げる方向で働いてきた。たとえば現代社会における労働力の商品化は、生存費用としての生活手段の一定量と再生産費用としての家族的・自然的生活費用という労働力の価値規定をもたらしている。人間の身体は、生活と労働の手段として多様な有用的性格をもっているが、それ自身、他面で、諸個人を外側から制約する無用で受苦的な自然性として現れる。(人間は)「一方では自然的諸力、生の諸力をそなえた一つの活動的な自然存在であって、これらの力は彼のなかに諸々の素質や堪能性として、衝動として現存している。他方では彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として、動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件づけられた、制限された存在である」((40)500)。
 こうして、非常に一般的な言い方をすれば、労働の内容に対する自己意識の発達は、同時に、労働生活の社会的な制約の自覚をかならずともなっている。そして、どのような場合も、このような葛藤こそが生活過程の基本をなしているというのは単純明瞭な人生論的事実である。諸個人にとっての時間の中核をなすものは、ようするにこの葛藤の歴史であって、この平明な事実を基礎において歴史社会の総体を視野に入れることによって、歴史は、はじめてそのダイナミクスをあらわし、それを通じて社会的意識は平明化し、それと同時に歴史性を確保するのであろう。
 歴史学者は、そのような社会的意識の傍らにいて、個人を絶対的に相対化してしまう歴史的時間の表象を供給する役割をもっている。それは一面において歴史家に一種の諦観をあたえるのであるが、それと同時に歴史家は、右に引用した網野氏が代表するような未来という時間の到来を前提とした心情ももたねばならない。歴史的時間というものを日常の向こうに透視するということは、そういう二面的な心情であるはずなのである。

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