火山地震(3)ー9世紀、伊豆神津島の噴火史料
いま、朝の電車の中。
新燃岳の噴火被害が拡大している。災害の時、どこにいるか、どこに住んでいるかというのは、人間個々人にとってはどうしようもない自然・偶然である。
阪神大震災の時に、地震に対する社会的・国家的保障が問題となったことは記憶に新しい。
私も、あのしばらく後、神戸で震災からの立ち直りと歴史史料の保存についての講演会で講演をした。その時、地震災害に対する社会的保障の方向に日本社会が進化するのは、日本の自然条件からして必然ですと述べた記憶がある。
そういう方向に進むのにはまだまだジグザグがありそうな社会の状況である。しかし、人間の平等というものを追求していくと、最後は、自然災害については公共的保障が当然のこととなっていくのではないだろうか。これは社会制度あるいは社会構成の問題としては意外と本質的なことなのかもしれない。社会というのは自然との関係に基礎を置くものであるから。
そういうことを考える上でも、日本の自然災害史というものは正確に研究されなければならないし、歴史学はその過程で社会的常識の形成に深いところで関わらねばならないと思う。
以下、九世紀の伊豆国神津島の噴火史料を翻刻して、読み下してみた。神津島では、承和五年と承和七年に噴火が起きたようである。九世紀が日本列島においてもっとも火山活動が激しい時期であったことは、前のブログに書いた。
(1)は降灰の史料、(2)は火山爆発の音、京都まで聞こえたようである。いわゆる「空震」を含むか。(3)も降灰の史料。(4)は、神津島の火山活動の全体像がわかる希有の史料。私は、おもにここから前方後円墳=火山祭祀論をみちびいた。
降灰の史料の(3)は、神津島噴火が近畿地方にまでをふくむ16ヶ国に火山灰を降らせたことを示す。興味深いのは、この火山灰がきわめて細かなものであったためか、農業には大きな損害を与えずにすんだということで、ぎゃくに、この年の気候はよく、そのため人々が、この火山灰を尊んで「米花(コメバナ)」と名付けたとある。神話からみても、火山活動に大地の豊かさを感じる人々の心性がわかるような気がするが、ここには、火山を豊稔のもととする考え方が現れているのかもしれない。
もっとも長い(4)は、細かく読むと興味深いものである。すでに村山修一氏の著書『変貌する神と仏たち』(人文書院)に解説があり、私の『かぐや姫と王権神話』でも基本部分は解説した。九世紀の人々が火山噴火をどのように観察し、解釈したかが分かる希有の史料である。このうち、「壟」は、コニーデ型の山景をいい、この漢字の原義が「墓」であることは前回のブログで述べた。解釈が微妙なのは、「周垣」で、これはあるいは溶岩流をいうのかもしれない。本当は現地調査をしなければならないが、地図と対照させて地形を復元しながらよむだけでも、たいへんに興味深い。
なお、村山は文中の「十二童子」について不動の眷属であろうとしている。神津島には、今でも不動院があるが、すでに九世紀に不動信仰の波及があったのかもしれない。
(1)〔続日本後紀〕○新訂増補国史大系、承和五年七月十八日
物ありて如粉のごとし、天より散零す。雨にあうも鎖ず、あるひは降り、あるひは止む、
(2)〔続日本後紀〕○新訂増補国史大系、承和五年七月二十日。
東方に聲あり、太鼓を伐つがごとし、
(3)〔続日本後紀〕○新訂増補国史大系、承和五年九月二十九日
七月より今月にいたり、河内・参河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・武藏・上總・美濃・飛彈・信濃・越前・加賀・越中・播磨・紀伊等の十六國、(中略)、相續で言ふ、物ありて灰のごとし。天より雨ふりて、日をかさねて止まず、但し恠異に似るといえども、有損害あるなし。いまこれ畿内七道、ともにこれ豊稔にして、五穀の價は賤し、老農は此物を名付けて米花と云ふと、
(4)〔続日本後紀〕○新訂増補国史大系、承和七年九月二十三日
伊豆國言ふ、賀茂郡に造作の嶋あり、本の名は上津嶋。此嶋にいます阿波神は、これ三嶋大社の本后なり、又います物忌奈乃命は、すなわち前の社の御子神なり。新作の神宮四院、石室二間、屋二間、閣室十三基あり。上津嶋の本體は草木繁茂し、東南北方巌峻〓〓、人船は到らず。わずかに西面に泊宿之濱あり。今ことごとく焼け崩れ、海とともに陸地ならびに沙濱二千許町となる。
其嶋の東北角に、新造の神院あり。其中に壟あり。高さ五百許丈、其周は八百許丈。其形は伏鉢のごとし。東方の片岸に階四重あり。青・黄・赤・白色の砂、次第に敷き、その上に一閣室あり。高さ四丈ばかり。次いで南の海辺に二石室あり。おのおの長さ十許丈、広さ四許丈、高さ三許丈。その裏に五色の稜石の屏風を立つ。巌壁波を伐り、山川雲を飛ばす。その形微妙にして名づけがたし。その前に夾纈の軟障を懸け、すなわち美麗の浜あり。五色の砂をもって成し修む。次いで南傍に一磯あり。屏風を立てるがごとし。その色の三分の二は悉く金色。眩曜の状、あえて記すべからず。
また東南の角に新造の院あり。周垣は二重にして堊(しっくい)をもって築き固む。おのおの高さ二許丈、広さ一許丈。南面に二門あり。その中央に一壟あり。周六百許丈、高さ五百許丈。その南の片岸に十二の閣室あり。八基は南面、四基は西面。周おのおの廿許丈、高さ十二許丈。その上階の東に屋一基あり。瓷玉の瓦形に葺く。長さ十許丈、広さ四許丈、高さ六許丈。その壁、白石をもって立て固む。則ち南面に一戸あり。その西方に一屋あり。黒瓦をもって葺き造り、その壁赤土を塗る。東面に一戸あり。院裏の礫砂、みな悉く金色なり。
また西北の角に新作院あり。周垣いまだ究め作らず。その中に二壟あり。その周おのおの八百許丈、高さ六百許丈。その体は瓮を伏せるがごとし。南の片岸に階二重にあり。白砂をもって敷く。その頂は平麗なり。北角より未申角に至り、長さ十二許里、広さ五許里。みな悉く砂浜となる。戊亥の角より丑寅の角に至る。八許里、広さ五許里。同じく砂浜となる。この二院、もとこれ大海なり。
また山岑に一院一門あり。その頂に人の坐する形の如き石あり。高さ十許丈、右手に剣を把み、左手に桙をもつ。その後ろに侍者あり。跪き貴主を瞻る(見る)。その辺、嵯峨にして通達すべからず。
自餘雜物、燎焔いまだ止まず、具に注するあたわず。
去る承知五年七月五日夜に火を出し、上津嶋の左右海中に、焼炎、野火のごとし。十二童子、相接して炬を取り、海に下って火を附く。諸童子潮を履くこと地のごとく、地に入ること、如水のごとし。大石を震ひ上げ、火をもって焼き摧き、炎煬は天に達す。其状は朦朧として、所々〓飛、其間に旬を経て、雨灰は部に満つ。よって諸祝刀祢等を召集し、その祟を卜い求む。阿波神というは、三嶋大社の本后にして、五子を相生む。しかるに後后に冠位を授け賜ひ、我本后はいまだその色に預からず、これにより我、殊に恠異を示し、將に冠位に預からんとす。もし祢宜・祝等、この祟を申さざれば、麁火を出しまさに祢宜等を滅ぼさんとす。國郡司勞せずば、將に國郡司を滅ぼすべし。もし我欲するところをなさば、天下の國郡は平安にして、産業をして豊登せしめん。
今年七月十二日、はるかに彼嶋を望むに、雲烟の四而を覆ひて、すべて状をみず、漸やくこの比、近に戻り、雲霧霽朗たり、神作院岳等の頬、露わに其貌を見る、これすなわち神明の感ずるところ也、
文中に「恠異に似るといえども、損害あるなし」とありますが、今回の噴火も「恠異に似るといえども、損害あるなし」というレヴェルで済めばよいのですが。
いま、昼休み。いまから外で食事。
このブログでは、史料を提示して論ずることは基本的にはしない方針ですが、この史料についてはすでに論じたものですので、例外とします。
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