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2011年2月

2011年2月27日 (日)

私の好きな本。中井正一『美と集団の論理』

 高校から大学時代の最初にかけての愛読書の一つ、中井正一『美と集団の論理』は、背表紙は白、そして表紙全体は黄色。装丁が好きであった本というと、この本、そして従姉妹から長く借りていたカンディンスキーの前衛芸術論であったと思う。
 『美と集団の論理』の方は、ある人に貸したまま、結局、あげてしまった。いくつかの論文については、親しい記憶があり、それでも不便を感じていなかったのだが、昨年、『中国史』の勉強をした時期があって、その中で、小島毅氏の中央公論社版の『中国の歴史』の宋代をあつかったに感心し、それとの関係で、中井の世界史的な情報過程論を再確認したくなって、ネットワークで注文した。1500円しなかったように思う。記憶通りの綺麗な本を入手して喜んだ。下記は、その時に書いたメモを組み直したもの(カンディンスキーの方は、今度、従姉妹にあったら、また貸してもらおう。返したはずだと思うが、まだ返していないということだったらどうしよう。もう40年も前の話だ)。

 中井が『土曜日』に書いたエッセイのうち、もっとも著名なものを下に引用。
 人は営みの轟音のなかで、すき間を洩れる風のような不思議な想いにめぐりあうことがある。
 何故こんなに多くの人が歩いているのか。何故こんなに多くの人々が苦しんでいるのか、何故苦しみがあるのか。何故こんなに忙しいのか。何故人は笑っているのか。何故泣いているのか。
 小さな子供が母親にいくらでも問いかける問いのような、何か大きな問が、次から次へと追いかけるように、止まることなく湧いて来ることがある。
 それは想いというよりは、一つの感じである。自分にも判らない一つの心の動きである。そよそよと吹く風が、大気の全体を音もなく動かしているような、あらゆるものを親しく撫で、触って行く微かな感じである。
 そしてそこに漲るものは、大きな虚しさである。この凡ての営みが全体をあげて、寥々たる無の中に沈んでいくのではないかという感じである。
 それは実に太古の民をもが、大きな自然や、激しい人生に臨んで、懐いた感じであり、その時代その時代に於いて、その色合いが変わりその現わし方が違って来た想いである。そして、その想いの中に立止って、それを「道」にまで変えてきたことが度々である。

 中井正一は、第二次大戦前の京都大学の哲学教室で美学を専攻し、京都大学の講師をつとめた哲学者である。しかし、彼は戦争へ戦争へと流れる時代の動きのなかで、その自由主義的な言論を咎められ、特別高等警察によって検挙された。そして、そのために京都大学を追われ、郷里の瀬戸内海・尾道に戻って雌伏の生活を余儀なくされた。
 敗戦後、中井は、大学に戻ることなく、ふるさとを拠点として在野の立場から活発な文化的・社会的活動を展開した。現在からみると、彼にとっても、そして私たちの学術と文化の豊かさのためにも、彼がそれをじっくりと続けた上で、ゆっくりと大学に戻り、学問の世界にもどった方がよかったのではないか。現在では中井の名前を知る人は少ないかもしれないが、それが中井の仕事を知る、多くの人々の感想ではないかと思う。
 しかし、第二次大戦直後の状況の中で、その履歴や能力、また闊達な人柄がよく知られていたこともあって、中井は国立国会図書館の創立にあたって、副館長を委嘱された。中井の副館長職は、本来、あるいは実質上は館長職であったといわれているが、その仕事の環境は強靱をもって知られた中井の健康と精力を消耗させ、中井は、一九五二年、まだ五三歳という年齢で、胃癌に倒れた。国会図書館のカウンターの壁の上に刻まれている「真理は我らを自由にする」という銘文は(「国会図書館法」前文にも記載されている)、中井が残したものとしてよく知られている。
 大学時代、はじめて国会図書館に行ったとき、その銘文をみて、「ああこれか」と思ったのを覚えている。しかし、もう中井の死去の年よりも十年長生きをした上での、私の感想は、上に述べたように、結果論ではあるが、この就任が日本の学術と文化にとって本当によかったものとは思えないということである。程度の低いサードデグリーの政治家がほとんどを占める、たかが日本の国会のためにあたら貴重な人間を失って、何ということかということである。


 冒頭にかかげた「人は営みの轟音のなかで、すき間を洩れる風のような不思議な想いにめぐりあうことがある」という文章は、中井が、京都で仲間たちと発行していた自由主義的な週刊誌、『土曜日』の一九三六年八月十五日号に執筆した巻頭言の前半部分である。 私は高校時代から中井正一をよく読んだが、中井というと次の歌が思い浮かぶ。
 滔々と
 とよもし来たる敷き波の
 限りなければおもいあえなし
 『美と集団の論理』の「投げ込み」で、中井の次女の徳村杜紀子さんは、「東京にでてきた翌年の夏、台風のちかい大磯の海岸で、おしよせる一丈あまりの波にむかってぬき手をきって泳いでいった父の姿は、いまもはっきりと目にうかぶ」として、この歌を紹介している。
 この時代の京都大学の哲学は、三木清・戸坂潤・中井正一などの俊秀を擁していた。カント・ヘーゲル・マルクス・ウェーバーを読み抜き、フッサール・ハイデガー・サルトルらと共通する議論に挑んでいた彼らの仕事は、あきらかに当時の世界水準を越えている。しかし、三木も、戸坂も獄中で死去し、中井も、第二次大戦からの日本の国家と社会の復興の激務のなかでほとんど討死のようにして死んでいった。
 
 歴史というものは、「滔々ととよもし来たる敷き波」のようなものであり、「この凡ての営みが全体をあげて、寥々たる無の中に沈んでいくのではないかという感じ」であり、「大きな虚しさ」であり、そして「すき間を洩れる風のような不思議な想い」であるというのが、歴史の「営みの轟音」を体験した人、体験せざるをえなかった人々の実感であるのだと思う。
 もちろん、このような感情、感慨をそのまま受け入れてよいのかどうかは一つの問題である。「大きな虚しさ」「不思議な想い」のレヴェルではすまないような経験というものを、私も聞いているし、知っている。しかし、中井のいうことが「歴史とは何か」ということを考える入り口であることはたしかだと思う。
 私は、中井が国会図書館副館長として上京してきた年、一九四八年に生まれた、いわゆる「戦後世代」である。戦争の記憶と経験を、どう考えるかは、私までの世代では大きな問題であったと思う。
 もちろん、「生まれた時が悪いのか、それとも俺が悪いのか」、個々人の人間としてのつらさというものは、どういう時代でも変わらず、とくに近年では、一人一人の内的な生活としては救いのない局面こそが増えているのではないかとも思う。
 とはいえ、私などの人生は、「平和」の中で経過し、耳をすませば、どこかに歴史の「営みの轟音」が聞こえるような気もするが、「隙間風」のなかで右往左往しているという程度のものである。第二次世界大戦後、日本では「平和」が続いている。世界各地では、多くの人間が、戦争・革命・災害の轟音のなかで裏返され、押しつぶされるという境遇の中におかれているのに対して、日本は奇妙に静かな社会である。第二次大戦をアジア太平洋地域に引き起こした張本人の国でありながら、こういう状態が許されている根拠は、どこにあるのか、それをどう考えるかは、歴史家としては必須の自問である。
 もちろん、「平和」は、どのような平和であっても価値がある。とくに東アジアの平和の意味は深い。しかし、だからといって、我々が「歴史の轟音」を聞く能力を失ってはいけないのではないか。歴史の轟音を聞いたのは、我々の父母の世代であり、あるいは我々の師や先輩にあたる世代であり、私たちにとって、そんなに遠い人々ではない。それが聞こえなくなっているとしたら、それは、現実の日本社会のどこか深くに、何らかの病巣が巣くい始めていることを示すのではないか。あるいは日本社会は、そのような不安を感じることさえなくなっているのだろうか。
 私は歴史と社会が轟音をもって変化することがよいという訳ではない。歴史と社会の変化は、可能であるのならば、漸進的である方がよいのは当然であろう。本質的な変化は着実に人知れずに進められる。一般に世上に取り上げられる変化、マスコミが取り上げる変化は浮動的な変化であることがしばしばである。より基礎的で、身近な組織や集団、会社・役所や(私の場合は大学)などをとってみても、できる限り慎重な過程と周到な合意、未来展望の下に変化の道に進むことがのぞましいのはいうまでもなかろう。
 それは個々人や個々の組織にとっては、実際はきわめて難しいことであるが、しかし、社会の基礎単位での議論と合意について、丁寧で柔らかい態度がとれないようでは、社会全体が軋みだすだろう。そして各所で矛盾がたまり、社会全体が不快な軋みの音になれていけば、それは、いつかは、人々を押しつぶす轟音に転調するだろう。どこでも軋みが聞こえ出すとしたら、それは、その社会のシステムに構造的な問題があったことを意味するから、そうなればとどろき渡る轟音に抗して、暴発し狂い回る社会組織を統御する荒業を覚悟しなければならない。しかし、できることならば、軋み音の段階で、どうにかして不快なシステムを手直しし、調律されたエンジンの回転音を取り戻すことことが望ましいのは明かである。
 いま考えると、私は、高校時代、堀田善衛をよく読み、その中で戦争を経験した人々の姿に引かれ、それが戸坂潤・三木清・中井正一への興味に向かった。そして、そこからいわゆる「戦後歴史学」に親しいものを感じ、その中に踏み入っていった。そうであるだけに、彼らの仕事と比較して、歴史学が何ができるかということをずっと考えてきた。
 それにしても、中井の著作は多様であり、彼の美学関係の著作集の方は、そんなに読んでいない。ほとんど買ったはずだが、最近、見ていない。どこに置いたのだろうか。とくに「日本美」についての中井の分析もよくわからないまま過ぎた。『美と集団の論理』を、読み直した上で、小さな版の美学関係の著作集の方も、そのうちに読んでみたいものだと思う。

2011年2月26日 (土)

朝日新聞インタビュー「書籍の電子化を危ぶむ装丁家」について

 今(2月25日)、帰宅途中の総武線の中。
 今日の朝日新聞朝刊に出版の電子化に賛成できないという桂川潤さんのインタヴュー「書籍の電子化を危ぶむ装丁家」がのっていた。高校時代のY先生の奥さまが修復家で、装丁もやられているので、「装丁家」という人には特別の興味がある。
 iPadで小説を読むと疲れるというのが、どういうものか、私には実際はわからない。私は電子ブックはつかっておらず、当面、その必要も時間的余裕もない。ただ、インタヴユーで面白かったのは、「電子ブックは、どこを読んでいるかわからない。册子ではなく巻物。目がすごく疲れます」という発言。
 人間文化研究機構での講演の一部を最近のブログに載せたが、そこで中井正一の「委員会の論理」を引いて、次のように述べたばかりである。

 中井の見解で興味深いのは、非常に包括的な世界史的な情報過程論が提出されていることです(中井「委員会の論理」)。中井の図式は、「古代」を「言われる論理=弁論の論理」、「中世」を「書かれる論理=瞑想の論理」、「近世」を「印刷される論理=経験の論理」と考えるというものです。中井の死去という不運もあって、これは本当のデッサンにおわっているのですが、神話的思考からの自立が音声と弁論を中心とすること、瞑想と内観を本質とする世界宗教が「羊皮紙(経典・SCROLL)に書くこと」「経典」の共有によって可能になったこと、近代科学につらなる「外部記憶の道具」としての「BOOK」形態が中国宋代に発明され、経験と技術の基礎となったことなど、私流にいいますと、社会的分業の世界史的な展開を知的・精神的生産の側から鳥瞰したものとしていまでも説得的なものと思います。

 本の形態が、中国の宋代に行われた発見であることは有名である。最近では小島毅氏が中央公論社の『中国の歴史』の宋代をあつかった巻で、その世界史的意味を見事に展開している。それまでの巻物に変わって木版本が発明されたことが中国に読書人の階層をもたらし、理学・朱子学をもたらしたという。この中国での発見がヨーロッパに伝わり、本の形態が創造されたという。
 桂川潤さんの言い方では、こうやってせっかく巻物から本に進化したのに、「電子ブック」は「巻物」(SCROLL)の不便さに逆戻りということになる。私も、それ自身としてみれば、電子ブックが、後退の側面をもつことは否定できないと思う。だから、今後とも、本の形態が失われることはありえない。

 人間の知識と経験は、まず言語の中に移される。人と人との関係が言語という体系を間において営まれるようになる。感情と言語の関係が鍛えられる。そして、その経験と知識は、さらに道具の中に移される。道具の中には、人間の行動の経験と目的意識が、「物」として対象化されている。そして、「文字」によって、その知識と経験が外部化されると、精神労働は労働対象をもちはじめる。独自化した精神労働を含むレヴェルで労働の社会化が進むなかで、文字は叙述となり、文書と物語と経典と「巻物」が形成される。
 「本」は、それらの先に生まれたものであって、人間の知識が「本」という外部に蓄積されるようになった時、知識は誰にとっても体系性をもちはじめる。そして、「本」という外部記憶の組織がなければ、「道具」が「機械」になるということはなかったはずである。近代社会は、その先にあった。
 「本」というスタイルは、人間の「頭」にくっついている「目」と「手」のすぐ先にある記憶装置である。それは記憶装置であるが、身体それ自身によって脳に直接に接続している。ページを繰ることによって、必要な知識にたどり着くという身体性がその特徴である。どのように時代がかわっても、そういう身近で身体的な記憶装置がまったくなくなるとは思えない。それは「言語」「道具」「文字」「本」「機械」などの多様な脳外装置が、使用され続けているのと同じことである。

 人間の頭脳には容量の限界がある以上、どのような場合も、外部記憶装置は必要であり、これから進んでいくのは、外部記憶装置のさらなる多様化と社会化という事態である。その中で、もっとも直接的で身体的な記憶装置は、個々人の人間にとってもっとも大事な記憶と知識を「物」として保持するツールとして、いよいよ個人化していくだろう。そのように大事な「本」を、現在、人々は、世界中で平均して何冊もっているといえるだろうか。平均してしまえば、おそらく10冊に行かないだろう。
 これが平均して50冊になり、100冊になるというのが、次の世紀、22世紀にむけて進むとよいと思う。すべての人々が、平均100冊の本を身近における社会は、平和な社会である。そして、その中でも大事な本、一生の本がいたんだり破けたりしたら、自分で修補して、装丁するというのは平和な社会である。もちろん、一冊の自分で破れを繕った本をポケットに入れて、放浪の生活を送るというのも平和な社会である。

 とはいえ、文字と画像の情報が、それ自身として全面的にデジタル化することはさけられない。そして、それは「電子ブック」も「本」も必要だという常識を繰り返していればすむという問題ではない。そもそも「本」も「コンピュータ」も、人間にとっては、脳の外への知識集積場所である。「電脳」という言葉はコンピュータの本質の一部を示している。それゆえに、いま進んでいる事態は、「電子」と「本」が新たなレヴェルでの外部知識・脳外知識の集積ツールの発展の中でおのおのの位置をもつということであるはずである。
 情報の電子化によって、すべての情報が共有され、アクセスと検索が自由になる。そしてそれのみでなく、いわゆる知識データベースが発展する。これは必然的ななりゆきである。それは電子情報が俯瞰がきくようになり、「知の構造化」が進み、理解と内容のレヴェルでいえば読みやすくなることを意味している。
 ばらばらな情報ではなく、脈絡と意味を十分につけ加えられた情報が、極限まで可視化されるだろう。それが文化と文化情報の全体の中に組み込まれれば、知識が文化をもち、力をもち、人間個々人を支えるという機能をもちうるかもしれない。
 何よりも、知識データベースの多様な可視化は、同時に知識の蓄積を自分自身で行うということを可能にし、さらに知識レヴェルでの交流を可能にするだろう。このような知識にそった社会関係の形成とは、ようするに知識の専門性にそくした新たなアソシエーションの形成である。これはコミュニケーション様式の根本的な変革であり、それが知識世界と現実社会そのものにもたらす影響は決定的である。ネットワーク情報がばらばらで断片的な情報であるという状況は、それによって突破され、ネットワーク情報も構造と文化的な力をもつ情報に展開していくだろう。
 なによりも期待されるのは、その中で欠陥情報、宣伝情報もっぱら利潤のために大量に流布される「性」「暴力」などの嗜癖情報がネットワーク世界の中の隅の方に追いやられることである。
 「暗黒と嗜癖と悪意」の世界史というものを描くことが可能であるとすれば、「暗黒」の画像と文字が、これだけ公開され、人々の心の隅々まで、子供の世界にまで直接に染みわたるようになったのは、ここ20年ほどの世界史の決定的変化である。このことは本当に真剣に考えられるべきことであって、この「暗黒」を処理しうるかどうかは、人類の未来の展望に関わると思う。私は民話の研究を重視しているが、民話の最大の敵がこれである。

 もちろん、バタイユを引くまでもなく、「暗黒と嗜癖と悪意」が人間の心の中に存在するのは必然であって、それを根切りに追放することは不可能である。それが個々人と個々人の間の心と身体の相互関係である限りは、それは、人間にとっての自然でさえありうる。
 しかし、心の闇が、ネットワークに乗り、機械網に乗り、多くの人々の間で、これだけ組織化され、耕された時代は、世界史上、はじめてのことである。今、「闇の穴」はネットワーク世界の中に空いており、つまりPCのあるところ、携帯電話のあるところ、どこにでも開口している。
 これは「光がふえれば闇も増大する」ということではあろうが、「暗黒と戦争と暴力」を食い物にする資本主義だけはやめてほしいと思う。こういう情報資本主義は親のカタキ、人類の敵である。これこそ資本主義の「腐朽性」の最たるものであって、これはすぐにでも破壊してしまいたい、アボリッシュしてしまいたい。
 しかし、現代では、それは結局のところ、多くの個々人が情報社会の中にはいっていくということでしか実現できないだろう。心の闇はだれのPCの中にも空いている。その中で個々人が耐性をみにつけ、そして個々人が自分自身で情報を発信していくということなしには、情報資本主義のアボリッシュはありえないだろう。

 ブログを書きだしてから思うのは、このことである。もちろん、ブログでも、人々は、そして私も、実際には、仮面をかぶって登場しているが、それでもブログというのは、人間の個性と仕事を直接に社会にオープンしてしまう。多くの人々が、社会にむけてそれをやりだせば、それはいわば人間関係を社会の中にむき出しにしてしまう。フェースブックは、そのようなむき出しにされた社会関係=ネットワーク関係が、どのような力を持ちうるかを明らかにした。
 フェースブックとブログのネットワークにすべての人々が参加するとは思えないが、しかし、それが広まることは、アノニマス(無記名)の社会を可視化してしまう。そして、社会関係がむき出しになれば、その根っこから「暗黒」の情報資本主義を駆逐することが可能になるだろう。情報資本主義は、破廉恥な無記名性を、その利潤の地盤にしているからである。
 私は、知識ベースの蓄積が進み、可視化が進み、知識の文化性の力がネットワークの中で強い力をもつようになったとしても、それ自身によって「暗黒と嗜癖と悪意」がネットワークから追放できるとは考えない。また、さまざまな知識に対応する専門性の職能的なネットワークが、ネットワーク社会の中で満面開花して強い光を発揮する時代がきたとしても、それによって「暗黒と嗜癖と悪意」が追放できるとは考えない。結局のところ、知識自身は、そんな力はもたないのである。
 無記名性に根を置く「暗黒と嗜癖と悪意」は、個々人が、ネットワーク社会の中にむき出しの社会を透視するということがなければ、つまりネットワークを利潤の源泉とするという関係それ自身が不可能にならなければ、それは廃棄できない、アボリッシュできないと思う。これはひそかに人々の心の奥底で進む「革命」である。

 しかし、もし、それが廃棄できたとしたら、それにともなって破片情報を精選し、知識の共有と精選が進んだとすると、ここにはじめて「良書が悪書を追放する」ということが起こるかもしれないと思う。それを目ざして、意識的に誇りをもって「良書」を創ろう。「装丁」の価値のある良書を創ろう。それは以前のような古典的・普遍的な「良書」ではないかも知れないが、個々人にとってかけがえのない「良書」であるはずだ。

 以上、昨日の帰宅総武線から、今日の、早朝よりの特別勤務のための6時30分の電車で書き継いで、さらにあたえられた余裕時間で。なお、人間文化研究機構での講演は校正を返したので、WEBPAGEにあげた。3月半ばには册子になるとのこと。

2011年2月24日 (木)

歴史学のミクロ化、筆跡学と考古遺物の顕微鏡分析

 昨日、皆川完一先生がいらっしゃたので、『尊卑分脈』の入力の仕事をしている院生が御挨拶するのに同行する。平安時代・鎌倉時代・南北朝時代を専攻する歴史学者の常用の道具であるが、その編纂は皆川先生のほぼ独力で実現された。昔の史料編纂所の所員の中には、史料編纂所の出版物のみでなく、『尊卑分脈』の入っている『国史大系』など、さまざまな出版事業をになわれる方々がいらした。
 史料編纂所の閲覧室で御挨拶。若手が仕事を継いでいることを喜んでおられる。官職が一覧できれば便利になるでしょうとおっしゃる。
 こんなに偉い学者でも、最近のデジタル化の趨勢もあって、ディスプレイにむかって史料を点検。「馴れました」とおっしゃる。『尊卑分脈』の入力の御願いにご自宅にうかがった時、整理された広い書斎で、悠然と研究をされている御様子をうらやましく思った。それと雰囲気とは違うが、御意欲はかわらず。
 林譲氏の「諏訪大進房円忠とその筆跡」によると、円忠の筆跡論について、すでに皆川さんがデータをためていて、林氏に提供されたという。それは知っていたが、先日、東北学の座談会の関係で必要があって、再読していると、いろいろなことに気づくが、皆川さんの最終講義は、奉行人安富行長の筆跡論であったという。
 古文書の筆跡論は、現在の「中世史研究」の最先端で、この論文はすばらしいものだが、この分野の最先達が皆川さんであったことを再確認する。古文書の編纂を業としながら、こういう最先端の研究ができていないことに忸怩たるものがある。昨日のブログで書いた「最後は体力と感覚」というレヴェルでの自己満足がいかんのだろう。編纂という基礎研究に密着した先端研究のスタイルを考えないと基礎研究の体力がつかないのかもしれない。
 筆跡論は本当に重要だ。歴史学のミクロ化ということを考える場合に、最初にでてくるのが筆跡論である。私は、ひょんなことで、和紙の物理分析を始めたが、これは筆跡論があって、はじめて本格的な意味をもってくるものだと考えている。

 昨日は、夜8時に、千葉市立図書館によって黒崎直『トイレ考古学入門』(吉川弘文館)をかりてくる。昼間、ネットワークから予約しておけば、夜に入り口のカウンターですぐに借りることができるというサービス。しかも夜9時までやっているというありがたいサービスである。図書館さまさまである。
 先日の『東北学』での入間田宣夫・赤坂憲雄、両氏との対談のゲラの関係で話したことについて、この本の情報によったのではないかという記憶があって、あわてて確認のためである。
 該当の記憶は、やはりこの本であったということを確認してほっとして、メモを編集者に送る。
 そのメモは、
「巫女など女性が忌籠りする小屋、「廬」「齋館」については、岡田精司さんの指摘がありますが(岡田「宮廷巫女の実態」『日本女性史』原始古代)、私は黒崎直さんが、考古学者が普通、「水の祭祀」の施設だという木槽樋をトイレだとされ、同時に、「産屋」「神婚儀礼の齋屋」とされるのに賛成です(『水洗トイレは古代にもあった』吉川弘文館)。あるいは「月経小屋」の意味もあったかもしれません」
 というもの。これが座談の場でスラスラでてくるようならばたいしたものであるが、実際には、座談会の場では曖昧な記憶にもとづいて発言。たしかそうだったという記憶が、今回は正しかったことになる。
 これで『東北学』と座談会関係の仕事は終わり。『東北学』の座談会のテーマは「いくつもの日本の神話」というもの。五月には発行。

 黒崎さんの本が面白く、夜、就寝前、そして何となく朝、目覚めてしまって読む。私のトイレ論も各所で利用されていて(後に『中世の女の一生』におさめたもの)、その関係では、「小便壺」を特定するために科学分析をされているのに驚く。この部分、『中世の女の一生』の新版で修正した部分と関係しており、そのうち詳しく再チェックをしなければならないかもしれない。
 静岡の一の谷遺跡や平泉の柳御所の保存運動に関わったころ、平泉の糞ベラの話がでてきていた。考古学の保存運動に関わっていたころのことなので、この本を読んでいても、どうしても、その時、考古の中枢部の人たちが何をしていたかという目でみてしまう。考古学が一種のミクロ化の道を歩んでいたのだということがわかる。遺物の顕微鏡分析によって、寄生虫の卵を発見して、それによってトイレ遺構を確定するという手法は、考えてみれば、和紙の顕微鏡分析ということを考えるのと同じ発想である。遺物の壺が小便壺かどうかを確定するのに、「フーリエ変換赤外分光分析」を使用するというのは、和紙分析の手法と一緒なので、笑ってしまう。
 一の谷の保存運動の最後の段階で、山村宏さんが、遺跡の一画だけでも残したい、顕微鏡分析をすればなにがでてくるか分からない、そのためにだった妥協的なことでも何でもするといっていた痛切な記憶がよみがえる。一の谷遺跡は、石でできた遺跡なので、分析がむずかしいと苦闘していた彼が、将来の科学の発展に期待したいと切歯扼腕していた。
 東北学の座談会の関係で、久しぶりに藤森栄一氏の本を読んで、諏訪と天竜川流域のことを論じた。その部分も下記に引用しておくが、しかし、下記にでる「さなぎ池」のそばに「蜆塚貝塚」があったのだと思う。歴史学の道に進もうと考えて、歴史学研究会古代史部会に出始めたとき、伊庭遺跡の保存問題があって、私も荒木敏夫氏につれられて見学にでかけた。その時、対応をしてくれたのが、山村宏さんだった。そして、彼はその時、「蜆塚貝塚」
の発掘を担当していたという記憶がある。考古学と遺跡の保存のために奮闘してきつい目にあった彼の遺志を無にしないためにも頑張らねばならないというのが、年来の意思であるが、何の研究をしていても、考古学との関係で活動した時期の経験に自分の学問が戻っていくという気持ちがする。
 歴史学のような面倒くさい学問を業としている学者にとって戻っていく場所があるというのはありがたいことである。
 

以下東北学座談会事前メモ
 「桓武との関係では、最近、『諏訪大明神絵詞』に開成皇子の話がでるのに気づてびっくりしました。この皇子は桓武の息子で摂津の勝尾寺で出家するのですが、その前にしばしば諏訪明神が示現したというのです。実在の人物とは思えないのですが、勝尾寺文書にもでてきますので、早くからの伝承されていたようです。この例も、東国に広がった桓武神話の一つなのかもしれません。
 実は、石井進さんや網野善彦さんを担いで保存運動があった静岡県磐田市の一の谷墳墓遺跡の南西の天竜川沿いに、この皇子の塚と称するものがあるのです。東国に流された皇子が、この塚の上に立って、京都を懐かしんだといいます。
 遠江国は、西国と東国のちょうど境界に位置しますので、保存運動の最中は、この塚も一の谷墳墓も、東国と西国の境界を象徴すると立論したのですが、むしろ諏訪神社との関係で残った伝承なのかもしれないとと考え直しました。
 諏訪と遠江の関係についての神話には、後三条天皇の時に、諏訪湖の神渡をみようとして、諏訪湖の氷りの上で待ちかまえていた修行者が、ちょっと寝た間に、「この汚きものをどけろ」という声を聞いたと思ったら、遠江まではね飛ばされた。浜名の辺のさなぎ池まではね飛ばされたというのです。
 こういう伝説は多いのだろうと思います。それは王権との関係で出てくるのですが、面白いのは藤森栄一さんによると諏訪社周辺の銅鐸は三遠式銅鐸というもので、浜名湖の側の「さなぎ池」「さなぎ神社」との関係がきわめて深いということです。諏訪信仰が天竜川沿いに広がって、遠江まで広がっている様子を示すように思います。王権神話というべきものをはぎ取っていくと、神社信仰の広域的な実態が確認できるのではないか。
 私は、ここにはおそらく領主制あるいは領国制を基礎にもった諸関係があって、神話的な関係が維持されているというような関係をみるべきであろうと思います。ともかく諏訪円忠の身分からいっても室町時代の国制に対応している側面があることは当然だと思います。歴史学としては、続いているということのみでなく、基礎となる実態の変化をおさえたいところですが、すべて今後の課題として残っているというとこです。

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2011年2月22日 (火)

『歴史評論』三月号、編纂の時間と研究の時間

 『歴史評論』の新刊、3月号がついた。考えさせられることが多い。
 昨日は同僚の手伝い。今日は週一日の研究日。
 私は編纂がおもな仕事だが、その中を流れる時間は、出版予算と出版年度というものがあるので、年度で区切られる。もちろん、編纂というのは基礎研究なので、かならずしも年度で区切る合理性がある訳ではない。
 一定のノルマを定期的に果たしていれば、実験や研究事業の終了時の変更は十分にありうるというのが、自然系の常識であり、相互信頼の形であるが、それと同じように、当然のこととして編纂の期限には柔軟性が必要である。
編纂事業というものは、集団事業であり、かつ東アジアの修史の文化伝統の中では、そもそも御役所仕事という気分が残ってしまうが、それでも、自然系と同様な意味で、研究時間を自己設定する自由というものは、研究者の基本的な自由の一つである。

 研究である以上、意外な成り行きというものはつねにあり、十分な研究を背景にするためには、もう少し時間の余裕がほしいというのが、この仕事について以来の考え方であった。とくに私は、そもそも歴史家の勉強の基礎をなす大学時代・大学院時代にいわゆる正統的な歴史学の授業をほとんど受けていないので、編纂という仕事に必要な基礎を欠いているところがある。その自覚がコンプレクスであるだけに、その気持ちが強かった。
 また私の編纂対象は古文書集で、その関係で、文書の内容は政治史・制度史・宗教史から、経済史・村落史・社会史などの全面にわたり、かつ時代も平安時代から江戸時代初頭に及ぶ。こうなると本当の意味で十分な研究にもとづいて編纂を処理するのは、なかなか困難が多い。そして、そもそも、編纂という仕事は、手仕事なので、仕事を詰めて詰めて、校正をやりながら、徐々に問題点が明瞭になってくる。出版年の半ばを過ぎても、20箇所ほどの難読箇所や疑問箇所は残っている。その頃からは恥も外聞もなくなって、上司・同僚に聞いてまわるということになる。いわゆる「編纂の恥はかきすて」である。実力のないものは仕方がない。
 しかし、それを一つづつつぶしていっても、モグラたたきのように、疑問が飛び出てくる。それをどうにか叩いているうちに、ギリギリのところで、重大なミスを回避できたことが何度あったかという記憶である。十分な時間があれば、関係するすべての情報を集めて、無駄な探索もした上で、史料の翻刻と解釈という狭い現象レヴェルの理解に集中するということになる。それを努力するのではあるが、実際上の時間の制約は、それを許さないことも多い。そうなると、そこで動き出すのは、結局、感覚の問題ということにもなる。

 つまり、編纂の最後は、しばしば、注意力をふくめた感性のレヴェルがものをいうということになる。だいたい、はるか昔の文字を読むというのは、それを執筆した人の気持ちになりきるというような感覚移動が必要である。これはけっして歴史の再体験ということではないが、理性のみではなく、感覚の集中のようなものが必要になるということです。年齢の高くなった人が編纂をやるのは厳しいのではないかなどといわれるのは、そういう理由もあると思う。(他人事ではない)。
 それだけに、ともかくも無事に一冊を編纂できたという時の開放感は何ともいえない。編纂・出版事業が、集団事業として行われている以上、一定のノルマは必要で、その意味で、出版年度というのは、一面では自己規律である。しかし、それは逆にいえば、そういうものがないと開放感というものがなくなるということでもあって、開放感のために年度というものはあるというのが、私などの感じ方であった。私が現在の職場に就職したことは、それでも実際の出版が四月・五月になってしまうということはしばしばあった。そうでない場合でも四月は、まだまだ編纂仕事の整理やメモ残しで落ち着かない。
 五月の半ばを過ぎれば本当の意味で解放され、気候もよく、私の場合はお世話になった歴史学研究会の大会が近づく。それらすべてを含めて五月はよい季節であったという記憶が強い。
 現在は、私の職場でもコンピュータの利用と世話がたいへんになり、さらに業務の種類もふえ、研究状況も変わり、大学と歴史学をめぐる状況はきびしくなるばかりであるから、事態は大きく変わっているのかもしれない。

 それでも、編纂を流れる時間と研究を流れる時間という大きな相違は変わっていないのではないかと思う。

 研究を流れる時間。つまり学史を流れる時間というのは、ゆったりと長期的なもので、それは、通常、意識していないだけに、研究者にとっては特別な時間感覚である。これは歴史学者の脚もとに存在していて、もっとも親しい「歴史的時間」の類型であるといってよいのかもしれない。歴史学は究極のところでは、「歴史的時間」の永遠性、一回性、客観性の時間意識を作り出すための学問なのであるが、歴史学者にとっても、この「歴史的時間」の感覚を作っていくのは、訓練がいることである。数学の小平邦彦先生は、数学者には「数覚」というべき感性が必要であるということをいわれるが、歴史学者にとっても「歴史的時間」の感覚というのは同じような位置がある。
 現在の若手では、おそらく大きく異なっているのであろうが、私の場合、歴史的時間の意識のもっとも身近なスタイルが、「学史を流れる時間」のようなものであった。

 今月号の『歴史評論』は、それを感じさせる。まずは黒羽清隆氏の本についての書評が掲載されていて、懐かしく読む。黒羽さんとは教科書訴訟を支援する歴史学関係者の会で、黒羽さんがニュースの編集長、私が事務局。あの時にさんざんお世話になった「仕事場」という印刷デザイン工房はどうなっているのだろう。彼女は江田さんといったと思う。
 そして林基氏についての追悼記が掲載されている。林さんの追悼記の書き手のお一人が長く会っていない斉藤純氏であることも、私にとって、「学史を流れる時間」を鮮明に感じさせる内容である。私たちの世代の研究者にとっては、林さんの仕事は専攻の時代を越えて衝撃力があった。そういう時代を越えた衝撃力というのは、現在の歴史学からは消えているのかもしれない。無条件に尊敬される方であったらしい。稲垣泰彦さんの奥さまたちがもっていた林さんを囲む勉強会の話、また網野さんの林さんへの挨拶の話も思い出す。
 今月号の『歴史評論』は読むところが多く、河内祥輔氏の著作についての近藤成一氏の書評も、私にとっては、同じようなことを感じさせる内容である。近藤成一氏の書評は道理をふまえつつも、疑問を提示したもので、了解できる点が多い。私も河内氏の仕事を近藤さんと同じような形で位置づけてきた。私にとっては、近藤さん以上に、河内氏の仕事は、ここ二〇年ほど大きな意味を持ち続けていただけに、そろそろ自身の研究の時間に画期をつける積もりで面と向き合うべきなのだろうと思う。

 河内氏は、以前、私の職場にいた先輩。彼が、編纂を終えた冊について、しばらく後になって、よりよい史料の存在を知り、切歯扼腕していたことを思い出す。これは編纂者としての私にとっては原風景の一つである。
 研究者の時間、編纂者の時間という、二重の時間感覚をもちえただけでも幸せであったと考えることにする。

2011年2月19日 (土)

魂をはこぶ白鳥の骨

  2011年2月18日の朝日新聞夕刊に白鳥の翼の骨が8世紀後半の男性の骨の入った蔵骨器の中に入っていたという記事。「魂をはこぶ白鳥の骨」という見出しである。白鳥の翼の指にあたる部分であるという。蔵骨器は土師器製で蓋がついており、白鳥の骨は、男性と一緒に火葬・埋葬された。
 佐倉市の高岡新山遺跡から出土したもので、歴史民俗博物館の西本豊弘氏の鑑定である。奈良文化財研究所松井章氏が「非常に珍しい。ヤマトタケルが死んで白鳥になって飛び去ったなど、現世と冥界をつなぐ存在としての白鳥の観念を示すか」というコメントをしている。

 一昨年だったか、「藤原教通と武家源氏ーー『古事談』の説話から」(浅見編『古事談を読み解く』笠間書房)という論文で『古事談』(一巻五一話)の白鳥の話しにふれたことがある。後朱雀天皇の霊が白鳥になったと考えられるという話で、それは下記のような短い話である。

寛徳二年二月の比、白鳥有り。<羽長四尺計り、身長三尺>、侍従池<西七条と云々>に来たり住む。件の鳥の鳴く詞に、「有飯、無菜」と云々。
                  (『古事談』一巻五一話)

 これについての謎解きは次の通り。

 寛徳二年二月、つまり一〇四五年の二月は、後朱雀院の死去の翌月にあたる。危篤状態に入った後朱雀は一月一六日に皇太子親仁親王(後冷泉)に譲位し、その翌々日、一八日に死去し、二一日に火葬にふされている。この時間経過からして、この白鳥の恠異が、後朱雀の死に関わる噂話をあらわしていることは疑いない。
 まず重要なのは、白鳥であろう。白鳥とは一般に白い鳥を示すが、「羽長四尺計り、身長三尺」というから、これは大白鳥である。鶴ではないし、コウノトリはなかない。白鳥はヤマトタケルのことを想起するまでもなく、高貴なる身分のものの聖霊を示す。それ故に、この白鳥は後朱雀の化身であったということになり、この白鳥の鳴き声が後朱雀の言葉であると考えられたといってよいだろう。白鳥の鳴き声は大きく騒がしいが、聞きようによって「ウーハン、ムーサイ」などと聞こえたのであろうか。
 問題は、この「有飯、無菜」という鳴き声の意味であるが、これは天皇の死去・譲位に関わる慣例あるいは儀礼の調査によって、意外と簡単に知ることができる。『皇室制度史料』(太上天皇一)の第二章「太上天皇の待遇」には「太上天皇の勅旨田」という項目が立項されており、そこには、次のような記事が蒐集・掲載されている。
「上皇脱屣之後、(中略)別納供御飯<勅旨田地子>、御菜<御封物>」
             (『西宮記』巻八院宮事)
 つまり、天皇が譲位して太上天皇の尊号をうるとともに、上皇の封戸と勅旨田が設定される。『皇室制度史料』の解説によれば、ほぼ一〇世紀には、このような封戸と勅旨田の設定が慣例となっているという。これによって白鳥の鳴き声は、「飯(勅旨田)はあるが、菜(封物)をもっていない」という後朱雀の嘆きを表現するものであったことがわかる。
もちろん、これは『古事談』の伝える伝承であって、それが歴史的な事実であるかどうかはわからない。そもそも後朱雀は、譲位と同時に太上天皇の尊号をうけたとはいえ、その直後に死去しており、実際に勅旨田の設定が行われたかどうかは明証がなく、「後朱雀院勅旨田」の存在を示す史料も知られていない(中略)。
 本稿ではむしろ、『新日本古典文学大系』の解説が述べるように、白鳥が来住した「侍従池」が、この時、内大臣藤原教通の所領であったことを論じたい。この池は、右京七条にあったが、『朝野群載』(巻廿一)に載る一〇四四年(長久五)六月十一日の「権中納言藤原信家家牒」(侍従池領地紛失状)によれば、侍従池の地は「八条大将家」(藤原保忠)ー「三条太政大臣家」(藤原頼忠)ー「入道大納言家」(藤原公任)ー「内大臣家」(藤原教通)ー「権中納言家」(藤原信家)と伝領されたものである。藤原保忠(時平子)ー藤原頼忠(母が時平娘)ー藤原公任(頼忠子)という伝領の経過は、時平流や実頼流など、一時隆盛しながらも摂関家の傍流となっていった家系の所領が、教通の許に流れ込んでいったことを示す点で興味深い。教通の実力を考える上では無視できない問題である。
 後朱雀と教通の関係は深かった。つまり一〇一七年(寛仁元)八月九日、後朱雀が皇太子となった時に、教通はその東宮大夫となっている(治安元年七月廿五日、任大臣により退任。『東宮坊官補任』)。両者の関係は、たとえば後朱雀が、その晩年、頼通の愁悶を無視して教通の娘の生子を女御にむかえたことにも現れている(『藤原資房日記』長暦三年十二月)。後朱雀と教通の関係についてはさらに考証すべきことも多いが、ともかくも、以上を勘案すると、後朱雀の霊を象徴する白鳥が侍従池に降り立ったというのは、教通が後朱雀の没後、その関係者を支持する立場にあったことを示唆しているといってよい。もちろん、勅旨田などは後朱雀の子孫に分譲されるのであるが、その経営などにも教通が必要な援助をしたと考えてよいであろう。
 

 この論文の本来の趣旨は、平安時代の源氏が藤原教通と深い関係をもっていたことを示し、源氏と王家・摂関家の関係を考えるという点にあった。その意味をとるために、白鳥を論ずるのが必要となったという経過である。
 それ故に白鳥自身について論ずることが目的であった訳ではないが、この史料は、貴人の死と葬送の関係で平安時代になっても、白鳥伝説が生きていたことを示す、管見の限りでは唯一の史料である。
 神話が『古事談』という物語の中に再生していくにあたって依然として王権中枢の物語創造力の位置が大きかったことを示すといってよいのかもしれない。もちろん、神話が物語となっていくプロセスは、三宅和郎氏の『時間の古代史』によっても、きわめて普遍的で、王権中枢のみがその場となったということではないだろう。『かぐや姫と王権神話』で論じたことからしても、神話から物語という系譜はより広く正確に引いてみる必要があると思う。
 しかし、ともかく、少なくともヤマトタケルから後朱雀という王権中枢における観念の系譜の線が引けることは確実である。その意味では、この『古事談』の説話の謎解きは重要だと思っている。

 しかし、白鳥論にとってより根本的な問題、研究者にとっては解析が困難であるという意味でより高級な問題は、経済史と民衆史に関わる白鳥=穀霊問題である。この穀霊としての白鳥という問題は、大林太良氏が体系的に論じた問題(大林太良「穂落神」『稲作の神話』)である。この穀霊としての白鳥は、コメントで松井氏が『常陸国風土記』の鹿島郡白鳥里の白鳥童女にふれているように、白鳥天女という形式をとることが多い。かぐや姫伝説の中心になった『丹後風土記』の白鳥天女もこれに関わることはいうまでもない。
 柳田国男が論じているように、長者が自身の富みにおごり高ぶり、戯れに餅を矢で射ると、餅が白鳥になって飛び去り、長者は没落するという長者伝説がある。これは白鳥が餅=穀霊であることを別の側面から示す伝説であるが、この長者伝説を彷彿させつ史料がないかというのを昔から捜してきた。しかし、結局、探し当てたのは、上の『古事談』だけで、それは天皇に関わることで役に立たなかったという経過である。
 それにしても朝日の記事は興味深い。これをきっかけにまた別の迂回路をさがすことができればと思う。

 また考えるのは、このところ新聞にでる記事のうちで、歴史家からも議論を提供すべき問題が連続していること。深刻な問題と文化に関わる問題の双方。これまでは新聞を切り抜いて保存するだけだったが、その意味でも、ともかく日記ブログに書いておくというのは研究者にとってはよい習慣。

私たちの世代の本。太田秀通『史学概論』

 今日(金曜日)は来週の公務の振り替え休日。朝早く目が覚めてベッドサイドメモ。その後は寝られず、頭が重い。起きて、メモをPCに入れていたが、ベッドの中での構想の生き生きしていたようには、文章は走らない。食事の後、やむをえずしばらく再寝=再審。その後に、作業開始。
 メモを起点に、例によってあっちこっちする。ある論文を読んで、その関係史料を読み出し、そこから別の論文に飛んで、そこに引用されているまた別の論文、やっともとの論文にもどって、遍歴過程をPCのいくつもの論題に分けて入れていると、時間は自動的に経っていく。こういう、いわばのんびりした仕事のやり方は楽しい。歴史学が何といっても手仕事であり、手触りのある仕事であるのは、ここに原点がある。私も、こういう時にはデータベースはまったくさわらない。
 こういう少しでものんびりした時間が、一定の年齢だから許されると思うと、申し訳ないような気持ちにもなる。しかし、こういう仕事の仕方を長くしてきたし、そこから何が出てくるかは不明なので、御許しを願う。
 どうなるかわからない知識を記憶するというのが、歴史家の仕事の一部なのだと思う。別の言い方をすれば、太田秀通先生の『史学概論』に、精神的生産は結果を予測できないとある。歴史学の場合は、とくにそうであるということだと思う。今、『史学概論』を取り出してきて、該当の部分をさがしてみた。自分の記憶している文章とも違い、かつ、この本は僕の本ではなく、相方の本の可能性もあって、線が引いてない。しかし、似たところを引用する。おそらくここを覚えていたのだろうと思う。

 
 この生産(精神的生産としての歴史学の研究)においては、あらかじめ生産物の形態が予想されてそれに近いものが生産されるのではなく、生産物としての認識内容は、原則的には、まったく知られないままに生産活動に入らなければならない。研究にはもちろん問題設定が先立ち、その問題に対する一定の予測があってはじめて具体的な研究が始まるのではあるが、その予測は研究過程でどのように裏切られるか分からないし、さらにその予測自体が、途中で変えられるという予測を含んだ、この意味で何ら具体的な姿をとらないものである。この点で歴史学の研究は、工業生産のごときものよりも、むしろ鉱山業に似ているといえよう。歴史研究という作業も、存在としての歴史をいろいろな側面から探し出していく過程である。それはまた歴史を切り開いて中身を見せるという点で解剖学に似ている(63頁)。

 
 記憶の中の言葉とは違うが、この趣旨を大事に頭の中にしまっていたことは事実である。これは職能人としての記憶である。
 久しぶりに取り出してきたので、『史学概論』の最後の文章を読む。この部分は、かってと同じ輝きをもって響いてくる。この部分は、私たちの世代の歴史の研究者の相当多くの人々が読んで知っていたはずである。この文章は記憶通りであった。少し長くなるが、引用してみる。

 人間と生まれてだれしも悔いのないうちこめる生き方をしたいと思う。ひたむきに生命をうちこめる生き方をしたいと思う。誠実に恋を成就し、愛情と仕事とを二つながら完成したいと思う。美を愛し真理を尚び、できれば静かで平凡な幸福の中でひとすじ道を進めたいと思う。苦難にあっても自ら運命を切り開いて進もうと思う。豊かな心をもって醜いままのこの人間を愛し、人間性を最後まで信じようと思う。人生に光を求めて苦悩した人々を理解し、現実ときびしく対決して人類の教師となった人々を尊敬し、虚偽と戦い、ヒューマニズムに生きようと思う。絶望の中で生きる力をあたえる智恵と愛情がほしいと思う。学問以前の問題は、ぼくは(あるいはわたしは)いかに生くべきか、という具体的で切実な問題に集中してくる。これに対して、学問は、歴史学は、あるいは哲学は、どんな助言をすることができるであろうか。現実に対してどういう姿勢をとるか、ということと深くつながっている生き方の問題は、もとより学問の内容と関連してくる。だが、生き方の選択は、めいめいの自由意志に基づく決断によるほかない。学問以前の問題は歴史学と深くつながっているとはいえ、歴史学は、学問以前の問題に対しては、無力ではないまでも、決定的な力をもっていはいない。
 生にとっては、歴史学が明らかにした歴史認識の総体が、かえって邪魔になることさえあろう。歴史を知らぬ人の幸福な生き方は、万巻の史書を恥じしめるであろう。歴史学は人の知らぬうちにその意識を規定している必然性を示すかもしれない。だがその必然性を知らないことほど、愛にも憎しみにも純度を高める作用をするものはあるまい。無知はある意味で生の美徳でさえあるではないか。分別くさい歴史知識は、自由な生の造形を抑圧し、窒息させるだけではないか。去れ、去れ、歴史学のぼろ切れめ! 地球をわがものにしたからとて、この魂を、この生を失ってはどうにもなるまい。すべての歴史を知ったとて、それで魂が高められ、それで生が高められたなどといえるほどの精神なら、何も生き方について悩んだり、光ほしさに泣いたりするにも及ぶまい。歴史知識の一切を放下して、はじめて現実に動かされぬ自己の立場を明確にすることができる。現実に対し常に異邦人としてさらりと関係しうるのには、歴史から超越した一者との秘密の関係に立って、これをのみ怖れと戦きをもって愛さなければならないのではないか、という考えもあるであろう。この思想を歴史学的に批判し、その社会的根源を示すことは困難ではない。しかし生にとって、そのような批判の何と空しいことか。
 人間は社会的存在であり、未来への扉はみんなで開けて入らなければならないことは当然である。しかし人間は、社会的生産が個人の労働から出発することが示すように、何よりもまず個体である。個体であるとは、それが一つの全体であり、小宇宙であるということである。そのようなものとして、同じような汝と区別されるところに、個体であることの意味がある。人は最愛の恋人の手の傷の痛みを、どれだけ愛していたからといって、わが身に感じることができない。それは愛情にとって我慢のならぬことである。だがそれが個体としてのさだめであり、それだからこそまた愛情は人間を高める不滅の星となることができる。
 この個体である人間の、悔いを知らない、報いられなくとも満足できる、そのようなひたむきな生き方、そのような生き方を可能にするところの生命の燃焼、それを何のためにということが、個体としての人間の小宇宙を賭した生き方の問題の核心である。しかしこの何は、どのように高貴な何であっても、たとえば人間にとって最高の存在である人間の歴史の発展にそった解放ということであっても、外から示されただけでは、個体の生命を燃やす何とはならない。ここで問題なのは、何の質ではなくて、その何が何であれ、そのために力をつくし思いをつくし、そのために生命をすて、そのために生涯をささげて悔いないということではないか。騒がしい饒舌の知識は去れ。小宇宙の静かな星雲がひとりで形をとるのを待て。人は自らの苦悩を自ら征服しなければならないのだ。
 これが人間としての生き方の問題である。人間の科学を自負する歴史学は、この問題にも何がしかの助言をあたえることができかもしれない。しかし小宇宙のことはその内部で解決しなければならない。個体としての人間の尊厳を包蔵するこの問いの前に立ち尽くす若い人々に対して、不惑の歴史学は、自己の無力を悟りつつ、しかし人間の科学にふさわしい愛情をこめて、次のようにいうほかない。
 ――ひとりで開けて入れ。

 この文章は本当になつかしい。太田先生には、よく本郷の通りでお会いした。先生の長身が遠くからみえるとうれしくなって寄っていったという記憶がある。亡くなられてからもう何年だろう。追悼の会のことを思い出す。
 

(上記の入力は娘にやってもらう。ありがとう)。

 『史学概論』は、我々の世代だと必読文献だった。今ではほとんど会うことのない人々も特別の本として読んでいたことを覚えている。しばらく前までは、今でも相当の人がよんでいるのであろうと思っていたが、しかし、絶版のようである。私などは、太田さんの本に教えられることがなければ、歴史学の仕事を続けることはなかったのではないかとさえ思えるのだが、学問の世界における世代の変化を考え、どのようにしてか、語り継がねばと思う。

2011年2月17日 (木)

下地の語義とオントロジー、眼精疲労

 人間文化研究機構での歴史知識学とデータベースについての報告の原稿を書き上げて、3時ころ、付図と一緒に送った。その後に、あわてて日曜日の東北学の座談会の準備である。本当にあわてた。ともかく終えて、今、総武線の中。座れてよかった。
 歴史情報学についての文章は、全部で400字詰め60枚と付図が8つ。内容は、付図をふくめて函館での講演を拡大・縮小したものなので、半分はできていた。とはいえ、60枚を、電車の中と自宅もふくめて、実質、二日で書き上げるというのは疲労の極。頭は疲れないが、目が駄目である。
 この原稿のうち、具体的なデータベースの話しではなく、自分の研究や私見のところを、最後の方に、掲げた。報告集の発行は3月半ば。

 昨日は、静岡県の磐田市の一の谷墳墓遺跡の保存運動で一緒であった某氏と、本当に久しぶりに話しをし、ゆっくり飲んだ。たまにはこういう時間がないと干上がってしまうが、この10年ほど、実に少なかったことを実感する。職場や大学や専攻まで違うが、まったく無償の運動を一緒に担った友人との関係はかけがえがない。
 彼の大学での授業の話が面白い。複数の用件であったが、最近、興味をもっている神話論について意見を聞く。採点は、40点というところか。はっきりいうのが彼のよいところ。仮説としての意味を否定はできないということで、その点はほっとしたが、彼を説得できなければ議論はあやういということを実感する。
 議論になったことは多いが、個人的に印象深かったのは、弥生・古墳の考古学の現状に対する彼のきびしい評価。私は、昨年からの入門勉強で、寺沢薫、北条芳隆、松木武彦の諸氏などの仕事の迫力にふれて、20年前の考古学へのイメージが変わったという感想。文献の側よりある意味ではっきりとものをいうように感じる。
 20年前、歴史時代の遺跡保存問題で毎週のようにあって相談していた頃は、「古代」の考古学への批判が共通して強かったように思う。彼は、依然としてきびしいが、私は少し勉強したら変わったということか、これは不勉強の証拠かもしれない。しかし、森浩一氏や近藤義郎氏らの薫陶をうけた考古学の同年代の人々に親近感がでてきたのは、自分ながら勉強をしたという感じである。
 一の谷の保存運動を現地で担った遠考研のメンバーが森さんを信頼していたこと、森さんの邪馬台国論が説得的であること(某氏は九州論者であった!?)などに話しが展開したので、私からは、先日、やむをえざる経過で恩師の森浩一さんにウィスキーを引っかけて、その後、頭が真っ白になって何も記憶がないという教え子に会った話しを提供(某某さん、失礼)。森先生は本当にいい先生らしい。その話しで盛り上がる。
 森さんと網野さんの対談集を読んだのが、そして岸俊男さん、網野さん、森さんの編集した『日本の古代』を読んだのが、急な考古勉強のきっかけだった。もっと早く、詳しく読むのであった。

 以下、人間文化研究機構のシンポジウムでの報告の一部。
第一には語義分析論について
 史料編纂所のフルテキストデータベースは、『平安遺文』の全文システム以降、検索対象語を中央にそろえて、その前後10字の「文脈」コンテキストの中で表示するシステムになっています。これはヨーロッパ歴史学の中で、非常に早い時期からコンピュータの利用を行ったベルギーの歴史家、レオポール・ジェニコが『歴史学の伝統と革新』(森本芳樹訳、九州大学出版会)で述べたシステムにならったもので、コンコーダンスシステムと呼んでいました。これによって、ある歴史用語を前後一〇字という限定したレヴェルですが、コンテキストの中で示すということが可能になります。そして、実際には、現在のレヴェルでの一般的研究を進めるためならば、それで相当すんでしまうという側面がある訳です。
 図⑥に掲げましたのは、『平安遺文』システムで「下地」という語に検索を懸けた様子です。「下地」というのは「下地中分」という言葉をご存じと思いますが、鎌倉時代、荘園の土地を本所と地頭の間で分割するときに、その土地のことを「下地」といっています。ところが、その最初の意味は、『和名抄』という10世紀の辞書による限りでは、壁の下地という意味です。右の検索結果画面の10番の史料にも、その意味で登場していることがわかると思います。ほかにも漆器の塗りの下地などと使う訳で、これはどうも手工業からでた言葉であるかに思われます。そしてそういう意味から、「素質・基礎・準備」という意味に展開します。醤油のことを「したぢ」というのも味付けの基礎という意味です。
 こういう「準備・したぢ」としての土地という用語としては、一一世紀までは、敷地という用語が使われていました。『字訓』(白川静)によれば、「『敷く』とは草や布などを下に敷きつらねること、そのように敷き広めて広い地域を治め『領く』ことをいう。『占む』『領る』も同源の語」ということで、そういう意味で敷地という言葉が通用していた訳です。『字訓』によっても敷地と下地が「基礎」という意味で共通することがわかるかと思います。
 用例を調べてみると、この敷地という言葉に交代するようにして「下地」というの言葉が一般的になっていくようです。右の検索結果画面にもどりますと、「削除」としたところは、こういう下地の語義からして、下地の検索結果としては削除すべきものです。まず上から二番目のデータは、(このコンコーダンス画面ではみえませんが)「夫用途弐百弐拾伍文」などという、この時代では使用されない用語をふくんでいますから、偽文書であることがわかります。三番目は「下知」を「下地」と誤記したもので、排除する必要があります。さらに六番目の「簗下地」というのは「簗下の地」と読むのだと思いますし、八番目も同じように地名です。
 それですから、土地としての下地の用例としては、四番と七番しか残らない訳で、この時代が、敷地という言葉の用例が減少していく、ちょうど一一世紀になるのです。ようするに、土地としての下地というのは、都市手工業に根をもつ用語で、占有・利用可能な有用性をもった土地、下ごしらえの済んだ土地という意味で、そのころ以降に一般的に使用されるようになったということになります。
 これは「土地範疇と地頭領主権」という論文で述べたことです。すでに昨年、校正を終えたところですので、詳しくはそれをみていただくほかないのですが、これは平安時代・鎌倉時代の土地制度の理解の全体に波及することになります。たとえば、下地というのは、利用可能な土地、開発された土地のことなのですから、「下地中分」とは、荘園の物理的な面積の中分ではない。開発が進めば、下地の総量が変わっていくのは当然であることが自然に理解できることになります。
 私は、この問題をおそらく二〇年ほど考えていましたから、かならずしもデータベースのお陰をこうむってきた訳ではありませんが、しかし、論文にする時のスピードや周辺調査の便宜のためには、データベースが大きな威力を発揮することを実感しました。とくにありがたかったのは、結局論文にはしなかった部分ですが、普通は研究対象にならないような細かな土地制度用度、条里制用語を調べることをA先生と話していたところ、A先生が、フルテキストデータベースの検索結果画面をエクセルデータに展開するための簡単なマクロを作成してくれたことです。
 私はマクロは組めませんのでだめですが、これによって個人個人の研究者に大きな便宜があたえられると思います。これは梅棹忠夫氏が提案したカード方式に変わるような研究ツールとなるのではないかと実感しました。このような方向は、将来的には、データベースの展開や知識ベースの展開方向に大きな影響をあたえるものと考えています。
 そして、いうまでもないことですが、こういう語義分析は、情報学の通則としての言葉の共起性の分析、そしてそれにもとづく言語体系とその変化の分析につながっていきます。正直いって、まだ問題はそこまでは進んでいませんが、オフラインでの語義分析の結果をデータベースに返戻するということになれば、たとえば上記の検索結果画面で「削除」としたものはキーワードとしての「下地」のリストから排除されることになります。誤記などのゴミも排除されることになります。そして、編纂の観点からいいますと、「下地」の早い例となる文書は偽文書であるということを申し上げましたが、これによって偽文書推定も可能になるかもしれません。偽文書確定の問題は日本ではそんなに大きくないように思いますが、ジョニコのシステムは、その点を大きな目標としていたことも想起されます。
 なお、人文情報学との関係で申し上げておきたいのは、これはいわゆるターミノロジーの問題に関係してくることです。私は、学術の役割がパラダイムを作るのではなく、最終的には知の体系の中に文化を豊かにするものとしてのターミノロジーを作り出していくことであると考えていますが、そういう意味で人文情報学の最後の言葉としてのターミノロジーに、この問題は結びついてくると思うのです。
第二には、オントロジーという言葉について
 私たちの世代の人文社会系研究者ですと、この言葉はただちに三木清のオントロジー(存在論)ー→アントロポロジー(人間学)ー→イデオロギーという人間的意識の三段階論を想起させます。三木のオントロジーの議論はハイデカーの議論をうけたものですが、情報学が多用するオントロジーという用語もハイデカーをうけたものであることはいうまでもありません。
 はるか昔に考えたことに戻れば、ハイデカーの存在論というのは、存在が意識に現象する局面を追求するという意味では存在現象意識学というべきもので、私などからすると、相当の問題があるようにみえます。しかし、編纂というのは「現象学」である、そのようなものとして禁欲的な性格をもった学問の手続き方法論であるという、前述のような意見からしますと、その限りでは、ハイデカーの議論の意味もわかる側面があります。その議論が、二〇世紀の諸学問分野で受け入れられた理由もわかるような気もします。
 しかし、現在の段階では、学術情報のみでなく、情報というものが、単なる現象ではなく、その物質的な形態がコンピュータとネットワークという一つの独自の姿を取っています。それ故に、非常に一般的な言い方となりますが、物資的な情報過程それ自身と本来的な意味でのオントロジー、つまり存在論の問題として考えなければならないということだと思います。それ故に、歴史学の立場としては、知識生産と情報化が世界史的な諸変化の中で、どのような位置があるのかという歴史学的な分析が必要になっているように思います。
 これについての私見は、以前書きました「情報と記憶」という論文で考えてみたことがありますので、それを御参照いただければと思います。ただ、さきほど三木清の名前を出しましたので、やはり私たちの世代にとっては記憶に残る哲学者である中井正一の情報論について注意を喚起しておきたいと思います。中井正一は戦後、国会図書館の副館長として国会図書館の基礎を作ったという意味でも、今日の報告の最後にふれておくことが適当のように思うからです。
 中井の見解で興味深いのは、非常に包括的な世界史的な情報過程論が提出されていることです(中井「委員会の論理」)。人文情報学の方はよくご存じのことと思いますが、中井の図式は、「古代」を「言われる論理=弁論の論理」、「中世」を「書かれる論理=瞑想の論理」、「近世」を「印刷される論理=経験の論理」と考えるというものです。中井の死去という不運もあって、これは本当のデッサンにおわっているのですが、神話的思考からの自立が音声と弁論を中心とすること、瞑想と内観を本質とする世界宗教が「羊皮紙(経典・SCROLL)に書くこと」「経典」の共有によって可能になったこと、近代科学につらなる「外部記憶の道具」としての「BOOK」形態が中国宋代に発明され、経験と技術の基礎となったことなど、私流にいいますと、社会的分業の世界史的な展開を知的・精神的生産の側から鳥瞰したものとしていまでも説得的なものと思います。
 これに対応していえば、「Computerの論理」は「データベースとnetwork」を前提とした「外部脳の論理」であるということになると思います。これは社会関係と人間関係の機械化、あるいはその最悪の形態としての商品化ということではありません。むしろ逆に、外部脳をもつことによって、心の内側を熟視することが可能になるという内面性の時代、中井の言い方でいえば新しい瞑想の時代が期待されているということでしょう。
 これは同時に、現代資本主義社会が、無政府的・無意識的に作ってきたネットワークを、情報ツールによって可視化し、それを意識的な活動の前提とするという意味では、「連携」の時代への期待ということでもあると思います。今日の報告の最後に述べましたアカデミーとライブラリーの協同ということにそくしていえば、それはコミュニティ(地縁・血縁)アソシエーション(職能性と専門性)という二つのスタイルでの連携ということになるでしょうか。今日の報告では歴史学を中心に述べてきた訳ですが、このような意味で、歴史学に限らず、アカデミーの全体が、専門的な社会的職能の一環として、「Computerの論理」について、おのおのの学問の性格にそくして考えていく必要があると思います。
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2011年2月14日 (月)

雷神・竜神と落雷の先駆放電、ステップトリーダ

 今、京都の地下鉄の中。御寺にむかう途中。今日の泊まりのホテルはもと「宿房」のようなものなので、ネットワークの設備があるかどうかが気になるが、昨日の夜から頭についてはなれないことを書いておく。
 昨日夜(2011年2月5日)、お茶を取りにいったら、リヴィングで、相方と娘がNHKのワンダー・ワンダーという番組をみていた。雷のことと知って少しみていると、これが重要な話。
 落雷の直前に、ステップトリーダ(stepped leader)という先駆放電が枝分かれしながら、空から下ってくる。その枝分かれのうち、もっとも早く地上に接したルートに、一瞬、すべての放電が集中して、地面から空へ大放電が起こるというのが、落雷の構造であるという。大阪大学の河崎善一郎教授が落雷の多い町、オーストラリアのダーウィンでNHK取材班の0,001秒単位?(であったか、もう一つ0が多いかは聞き逃した)の撮影が可能な高性能ビデオで、この事前放電が、逐次、枝分かれしていく様子の撮影に成功した。線香花火の枝分かれのように広がっていく画像はすばらしいもので、世界でもはじめて撮影に成功したという。

(以上、2月6日、日曜執筆。結局、宿坊ホテルにはネットワーク設備がなく、その間、ブログを書き損なった。とても忙しくてできなかったというのもある。今、2月14日、翌週月曜日の帰りの総武線の中。先週出張につき、一日、メール処理などであけくれる。出張処理も名刺を整理し、調査のエクセルファイルなどをメインPCに移しただけ。それより、先々週?の人間文化研究機構での報告が締め切りが過ぎているという悲鳴のようなメールが来ているのに驚愕。たしかめてみると、たしかに、本来は、報告前に原稿をだせという要請があった。しかし、事前に原稿を提出して報告せよということは通常はないことで、夢にもしらず、驚愕。いちいちメールの添付ファイルの開催要項を確認して報告を準備するという人格ではないので、やむをえないのである。しかし、機構の事務の人には平謝りである)。
 電車の中で、書いている日記なので、脇道失礼。

 しかし、河崎先生の仕事は、大げさにいえば、フランクリンが雷の本質を明らかにして以来の成果かもしれない。放送直後にみた先生のブログも、大学問題、センター入試問題、教育問題などをふくめて共感。また自然系の学者の方が素質がいいという感想をもつ。

 ステップトリーダの画像をみていると、雷神が龍神と観念される理由がよくわかる気持ちがする。もちろん、稲妻が龍を表象させるというのは昔からいわれていたことだが、雷の構造がわかると。その感はさらに深い。

 以下に、私の雷神論を引用(『物語の中世』より。注記は相当省略)。

 「キビダンゴ」「武勇と太刀」「桃」という桃太郎民話の諸要素を個別に検討してきたが、それらを総合して中世における桃太郎民話の深層と原型を探るためには、柳田国男が「小さ子物語」と名付けたものの分析を欠くことができない。柳田は右にも引用した論文「桃太郎の誕生」の一節で、次ぎのように述べている。

私たちの名付けて「小さ子」物語と言はうとするものが,この昔話(「桃太郎譚」)の骨子であったかと思ふ.後世の所謂一寸法師,古くは竹取の翁の伝へにもそれは既に見えて居る。

 この柳田の「小さ子」という用語は、『日本霊異記』(上の三)にみえる,雷とともに天から「小子」が落ちてきて女を妊娠させ,頭に蛇をまとった赤ん坊が生まれて,異様に強力な男に成長したという説話などから来ていると思われる。つまり「小さ子」=雷神の精霊という図式が柳田が構想したものなのである。そして雷神が水神であることはいうまでもない。雷神は一般に「龍神」「蛇神」として表現されるが、別稿でみたように(保立「中世における山野河海の領有と支配」『日本の社会史』②、岩波書店、一九八七年)、中世の史料には梅雨や台風の出水にともなって多数の蛇が山から下流に下っていく様子が報告されており、人々は「蛇」、そしてその「祖」としての「龍」をもって水神と考えていたのである。私は先にみた田の神の神体としての「丸石」は、本来は、この龍のもつという「珠」「玉」を意味したのではないかと考えている。
 しかし、この「小さ子」という言葉は、それ自体としては「侏儒」=小人という意味であった(『書言字考節用集』四)。ようするに、「小さ子」物語とは、それ自体としては世界各地に分布する小人伝説の一つなのであって、そういう観点から割り切っていえば、桃太郎民話の中にひそむ「仙果と小人」という話型自体は、たとえば白雪姫伝説における「リンゴ」と「七人の小人」と変わらないことになるだろう。さすがにそこまではいっていないものの、そのような普遍論的な見方は、柳田の仕事を引き継いだ石田英一郎の見解では、特に強調されている。その点で、ややもすれば神秘化して受け取られる余地のある柳田の言説と対比して、石田の研究はきわめて重要な意味をもっているのであるが、石田によれば、日本の小人伝説の特徴は、王権の始祖を「龍蛇の裔」に求める東アジアから沿太平洋にひろがる古代信仰の一部であることにあった。たとえば、『南越志』には、端渓の人、温氏の媼が水中にえた不思議な卵が、守宮に変異し、さらに龍にかわって、媼のために働いたという龍母伝説が載せられており、そのような事例はきわめて多いという(石田『桃太郎の母』二〇五頁)。そのもっとも著名なものが、たとえば漢王朝の始祖・劉邦は母が雷電に感じて受胎したという感精伝説であろう。そして、問題は、このような観念が日本王権の内部にも存在したことであって、たとえば,雄略天皇が后と「婚合」している最中,その場に小子部栖軽というお付きの従者が誤って踏み入ると同時に雷がなり,ことを妨げられた天皇が激怒したという話が知られている。そして、咎められた栖軽は天皇の「汝、鳴雷を請け奉らむや」という命令によって、雷雲を追跡し、「天の鳴雷神、天皇請け呼び奉る」と叫んで、落ちてきた雷神を捕まえ、それを「■(挙の下に車)籠」に入れて宮廷に連行したというのである(保立前掲「塗籠と女の領域」。なお、現在の段階では正確なことはいえないが、「守宮神」という名前にも一定の意味があった可能性がある。というのは、「守宮神」の「守宮」とは、「ヤモリ」、つまり、しばしば人間の住居に住み着く爬虫類のヤモリを意味する。このヤモリが、平安時代初期の日本語辞書=『和名抄』では「常に屋壁に在る故に守宮と名づく也」という説明が付され、「龍子」・「蜥蜴」と同義とされているのである。もし、これを採用することができれば、ヤモリは邸宅にすむ龍の子であるということになる。石田の紹介によれば、本文でふれたように『南越志』には「守宮」=ヤモリが登場しており、このような観念は中国で成立したものである可能性が高いから、それによって直接に日本中世の童子神にかかわる意識形態を説明しうるものかどうかは問題が残るが、一応述べておきたい。
 この説話には、一方で、雷鳴の時の性交、そしてその性交によって生まれた子どもは特別な意味をもっていること、他方で、小子部=侏儒は、雷神を統御しうる異能をもつ存在であり、その意味で雷神に通ずる存在であることなどの感精伝説にかかわる王権神話を示している(注、これがきわめて古くからの観念だったことは,辰巳和弘『高殿の考古学』(白水社、一九九〇年)を参照。辰巳は豪族居館の考古学的な分析を前提として、奈良の佐味田古墳から出土した家屋文鏡の図像を解析し、雷が今にも落下しようとしている高殿の中には,キヌガサがさしかけられていること,戸がしまっていることなどから首長がこもっており、彼は妃と同衾して神の来臨をまっているとした。また仁徳天皇が,ある朝,高殿の上で国中をみまわし,「民のかまどはにぎわいにけり」という歌を詠んだという話は有名だが、これも仁徳と妃の同衾の場における国見であるという)。
 古代と比べて中世の王権は、より文明化されており、雄略天皇の場合のように明瞭な逸話は残っていないが、しかし、このような観念は中世にまで伝えられていたと考えられる。それを示唆する史料の第一は、孔雀は「雷の声を聞いて孕む」という言説との関係で、知足院関白藤原忠実が「雷するにおそれなき物」として、「人界には転輪聖王」と述べたと伝えられることである(『中外抄』上)。これは王の身体と性についての中世の仏教的言説の一部であるといってよいだろう。第二は、王の性の場所を象徴する清涼殿の塗籠・「夜の御殿」に棲み、内侍所の神鏡を守護する天皇の守護霊、「守宮神」といわれた霊威の性格であって、別稿でみたように、一方で、それは「夜ノ御殿ノ傍、塗籠ノウチヒラヒラトヒラメキ光りケレバ」という雷光、稲光を発散する天神としての性格をもち、他方で「七八歳バカリナル小童」の姿をとる小人神でもあったのである(『続古事談』五、諸道)。中世の王の性の周囲に雷鳴と小人の観念が残っていたことは確実であろう。第三は、鎌倉時代、ある貴族の日記に残されていた噂話であって、それによれば、京都二条堀河の武士の宿所に落ちた雷が「小法師」となって、大勢の見物人がみている前を内裏の方向に走っていったという(『平戸記』寛元三年正月一二日条)。後にふれるように、ここで雷神が「小法師」といわれていることは興味深い問題を示唆するが、彼が内裏の方向に走り去ったということからすると、これも王権と雷神小童の関係を示す神話の一部として理解できよう。
 このような神話・伝説は、江戸時代になっても,金太郎は山姥が雷鳴によって受胎してうまれた子どもであるという俗説になって残っているのであり、桃太郎民話の中に、このような伝説が流れ込んでいることは十分に了解できるのである。

 

 以上の前稿では、稲妻=龍という議論にも、雷の実態にも十分には踏みこんでいなかったことがわかる。
 番組によると、人は、このステップトリーダの事前放電を感覚することがあるという、これが王権とセックス、雷がなっている時のセックスという神話の背後にある「自然」なのかもしれない。
 鳴弦と呼ばれる、お付きの武士が弓をならす行為は、このステップトリーダによって起こる皮膚感覚にたいして、どのように影響するのだろうか。河崎教授にそれを確かめてもらいたいと思う。
 いうまでもなく、前近代、塔への落雷、人間への落雷は神の意志を表現するものとされていた。それは洋の東西をとわない。それらをふくめて人文学的な雷論が可能になり、史料の読み直しが可能にならないか、などと思う。

2011年2月 4日 (金)

歴史教育の時代区分はどうするか--平安時代・江戸時代でいい。

 来週は京都出張。さまざまなところから京都は寒いという情報。
 御寺のはなれでの作業は寒いので注意。公務日程より一日早く、(私のみ)日曜からうかがうことになったので、今日は代休。連週の出張先が2月の京都で5日となると、若干、鋭気をやしなわないともたない。
 歴史教育の関係で、時代区分はどうするのかという議論について相談をうける。


下記がお答えのだいたいの趣旨。

 「私は、当面のところ、縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・安土桃山・江戸でよいという意見です。いわゆる首都を基準にした時代区分ですが、日本は一方で集中型の国家である事情があり、それは時代区分としてもそれなりの意味があると考えています。とくにここに政治都市の東西への移動が反映するのは、網野さんのいう「東西の地帯構造」、国家の独自性の問題もあるので有効な面があると思います。
 時代区分は東アジアと世界史の全体をみて議論しないと無意味な時代になっていると思います。それがうまくいっていない現状では、「古代・中世・近代」というただの「言葉」で、わかったようで、無内容なことをいうよりも、まだこの方が社会的通用性と知識としての価値があります。少しでも余計な知識を強制するのはさけたいというのが、私などの考え方です。ただしいうまでもないことですが、明治時代という言葉なとは不適当です。近代社会でよいと思います。そして中村政則氏がいうように、戦後は現代とするのが、よいでしょうか」。

 先日、「治承寿永の内乱」など、元号を事件名に使うのはやめようということを、ここに書いたところいろいろな反応があったが、上記もあまり常識的ではないかもしれない。ただ、私は、指導教官であった戸田芳実氏が、大きな歴史講座の編集に関わったとき、「平安時代を古代にとられた。もう古代・中世という分け方はやめた方がよい。奈良時代・平安時代でいくほかないのが現状」とつぶやいたのを聞いたことがあって、それ以来、そう考えるようになった。
 そもそも、「古代・中世・近世」といっても、歴史学の中で概念的に明瞭な訳ではない。さらに最近では、真剣に議論しようという人もいない。そういうところで、「古代・中世・近世」などという図式を続けるのは、ただの大勢順応の無責任にすぎない。写真家・岡村昭彦の『南ベトナム戦争従軍記』には「腐った野菜は売らないというのが八百屋さんの職業倫理であるとすれば、写真家の職業倫理は何か」という名言があったが、信じていない言葉は使わないというのが学者の職業倫理であろう。
 以前、パラダイムという言葉がはやったことがあるが、これはいわばターミノロジーの問題で、学術は、最低、ターミノロジーに責任をとらないとならないと思う。

 しかし、難しいのは、「時代区分」、「通史」というのは、歴史学にとっても歴史教育にとっても欠かせないことで、「時代区分」をhのターミノロジーがどうであっても、それらの時代が相互にどのように特徴づけられるのか、あるいは「通史」的な発展と変化はどういうものなのか、ということは無視できないことである。
 これについては、25年前の原稿、「中世史研究と歴史教育」をWEBPAGEにあげた。下記に冒頭の一部を引用。

 ベルギーの歴史家レオポール・ジェニコの著書『歴史学の伝統と革新』を読んで、本当にうらやましく思ったのは、歴史学が社会から大切にされている雰囲気が、その文章の端々に見てとれることであった。日本の歴史学の「伝統と革新」を問題としたら、とてもそうは行くまいと思う。

 私は、別に歴史学という学問に誇りを持っている訳ではない。むしろ、歴史学は相対的には「ひま」な学問であり、あるいは「縁の下の力持ち」の役割であると思っているほうである。けれども、だからといって歴史学が馬鹿にされてよいとは考えない。歴史学がその実力以下のマイナーな地位に置かれているのは、現代日本の文化が、貧困で反動的であり、しかも言葉の最もよい意味での「保守性」さえももたず、無責任に伝統破壊的なことと関連している。

 この論文は家永訴訟に関係する学会の事務局を、しばらくつとめた時の経験によったもの。こういう積もりでいわゆる社会史研究にとり組んでいた。いちいちはふれないが、現在からみると不十分なところも多いと思う。ただし、注(2)の梅原氏批判は、あまりに狭い言い方であったと思う。

2011年2月 3日 (木)

和紙の研究と歴史学のミクロ化

 和紙の研究をしていて、面白いのは、これがまったくの集団研究であることである。製紙科学の先生と私たち、そして技官の方々と大学院生というペアの組み方は自然科学の研究体制とまったく同じである。
 そして、和紙という「もの」を共通の対象として、研究が徐々に進んでいく。ああでもないこうでもないという雑談と急な発見が研究の進展を決め、さらに個々人の興味や仕事、そして思考のスタイルの相違さえも研究を進める動因とする。そこでは狭い意味のプライオリティなどは問題にならない。
 人文社会系の学問では、個人研究が中心である以上、やむをえない側面があるのではあるが、しばしば、どうでもいいことがプライオリティの問題となり、その分、研究の進展に余計な手続きや手間がいるのと比べると、実にすっきりしている。
100dic  掲げた写真は、王子製紙の研究所からの提供。いわゆる美濃紙(柔細胞紙)の高精細顕微鏡写真である。昨日、メール添付で御提供いただき、その綺麗さに、暫時、見とれる。本当にありがとうございました。

          

  我々が顕微鏡でみた場合、とくに目がなれていない場合や、照明の具合などもあって、最初は、とても、ここまで綺麗には「膜」はみえない。2・3年、「膜」があるのではないかと言い続けてきて、照明の方式が確定して、私にはつねにみえるようになったのであるが、それを前提とすると、たしかにこうみえるのである。和紙科研のHPには下手なスケッチを載せたが、これでまったく明瞭になった。これで目を作って、少しなれれば、誰でも100倍の携帯顕微鏡で「膜」をみることができるようになると思う。

 これは我々の和紙分類では第三番目の「柔細胞紙」となづけたもの。美濃紙という言葉は室町時代の後期にしか確認できないが、こういう紙質をもった紙、つまり、この写真でよくみえるような薄い膜が優越する紙質の紙は、1300年代には確認できるというのが、昨年の研究の最大の成果であった。

 この膜は、楮繊維の内部に存在する柔細胞が、鞘などに入っている状態から出て、つぶれて重なって膜状になったものである。この膜を作るために、丸く、広く、平べったい面のある木槌で、楮の繊維をよく叩解する。こまかな過程は、実際に顕微鏡観察をしながら和紙の作成をしてもらうほかないが、この膜がキーであり、その基本組成もだいたいわかったので、研究の方向はほぼ明瞭になったというところである。

 なお、我々の和紙の物理分類では、このほかに、(1)純粋繊維紙(上記の柔細胞などの不純物をすべてとって、純粋な繊維のみで漉いた紙。最上級紙)、(2)澱粉紙(米粉を添加した紙。表面処理がよくなり、増量にもなる)、(3)強紙があり、計四種類となる。なお、現在の問題の焦点は、最後の「強紙」である。これも柔細胞などの非繊維物質の製紙過程での特定の処理の仕方によって作られるものと考えている。

 和紙は、本来、奈良時代以前、朝鮮の渡来系の人々によって技術が伝えられたもので、そのため、和紙のうちでもっともよい紙は伝統的に「檀紙」と呼ばれてきた。「檀」は「檀君」の「檀」。つまり「まゆみ」の木の繊維を利用した輝度の高い高級紙である。朝鮮の神話的な建国者、「檀君」が、檀の木の下で受胎したというのは有名な話であるが、それが「檀紙」という最高級和紙の名称となって残っているのは興味深い話である。近年、正倉院の和紙の中で、たしかに檀の繊維で作成された真弓紙が確認されたのは、その時代の研究者ならばよくしっていることである。
 和紙は、こうして出発したのだが、豊かで清らかな水と純良な楮に味方されて、平安時代、いわゆる流漉の技法が発展し、その中で楮の中の柔細胞を、むしろ生かして製紙をする技術、あるいは米粉を添加する技術が発達し、東アジアの中でも独特な美しさをもつ和紙が生みだされたというのが、私の仮説。

 私も最初から、こういう和紙に興味をもっている訳ではなかった。そして、今でも興味は深くなったものの、厳密にはあくまでも職場の仕事の一部であって、本来、私がしなければならない仕事、つまり、先輩や研究史の関係で、私がすべきこと、ベリーフとしての仕事であるという訳ではない。しかし、上のような意味で、通常の歴史研究者ではしないような種類の仕事に参加できたことは貴重なことであった。

 こういうことになったのは、研究所の編纂=考証という仕事の性格によるのだと思うが、業務上の必要から和紙を顕微鏡でのぞいた経験が大きい。ある文書群の保存の政策と具体的処置にかかわったことがあって、その文書群を研究する科学研究費をいただいた。その中で、当時、活発に行われ出した和紙研究を研究テーマの一つとしたので、自分でも顕微鏡をのぞいて和紙繊維をみるようになったという経過である。
 これは必要だと思ったのは、今でもよく覚えているが、内容からではすぐに文書名がつけられない文書について、その料紙の観察から、近江の戦国大名、佐々木六角氏の文書であることを特定した経験であった。ようするに佐々木六角氏は、こういう紙を使っている。役人=奉行人は、その執務場所にこういう紙を準備しているということがわかれば、その紙を使っているから、この文書は佐々木六角氏が出したものだと特定できるということになる。
 「藁をもつかむ」という言葉があるが、そもそも編纂が難しい文書というものはあり、どうしようもない時は「藁をもつかむ」という感じになる。もちろん、編纂にはもっと安定した知識と体系性や徹底性が必要なことはよく知っているが、そのようなものに若干欠けている私にとっては、大事な「藁」である。

 こういう経験をする中で、しばらく前から歴史学のミクロ化が必然的になるのではないかと考えるようになった。先日のブログで歴史科学の巨大科学化の必要ということをいったが、巨大科学が同時に学問のミクロ化をともなっているというのは、宇宙科学と似たような話である。おそらく、ここ十年は、このような意味でのミクロ化の動向が本格的になっていく時期になるだろう。その場合の基礎に歴史情報学があることはいうまでもないが、内容としては、上記の和紙分析だとか、あるいは筆跡による個人データの分析などが脚光を浴びるに違いない。
 その間は、このような種類の基礎研究も、一つの先端研究の位置を占めることになる。それ故に基礎研究が先端研究であるうちに、必要なパラダイムと体制をつくることが必要になることになる。
 先日、東京大学情報学環の10周年の記念講演会で、大坂大学の鷲田小弥太氏が、基礎研究所は一般に15年の命と考えてよいという怖いことをいっていた。それは、こういう基礎研究が先端研究として生産的な時期がだいたい15年ということであろう。もちろん、私のいる研究所のような人文社会系の研究所は、一般に複合的な使命と多様性、長期蓄積性をもつので、そういうことにはならないと思う。
 だが、人文社会系の諸学問でも、基礎研究、先端研究、そして応用研究の関係に意識的である必要は、自然科学と同様だろう。そして、歴史学の現代的意義という真っ正面からの問題設定をしないとしても、最近の状況をみていると、人文社会系にとってもっとも必要なのは広い意味での応用科学なのかもしれないとさえ思うようになった。こういう学術の論理と感じ方の共通性が、文理をこえて了解されることは、いわゆる危機にある大学にとって大切なことかもしれない。

 総武線で書き出して、いま馬喰町。
 そして、今から昼休み。和紙研究については、このブログ左下にはってある和紙科研HPもごらんください。
 以上は、だいたい和紙科研のHPにのっていますが、若干の新私見をふくみます。そういうことは、「手続き」上、基本的にはブログには書かないことにしていますが、これはむしろ自然科学研究なので、問題はないと考えています。

2011年2月 2日 (水)

ウナギと歴史学と自然科学

 ウナギの卵の発見が確定したというのが、今日の新聞報道。
 東京大学大気海洋研究所(旧海洋研)の塚本勝巳先生の快挙である。
 御同慶の至りである。いま仮名漢字変換をかけたら「憧憬の至り」と変換されたが、本当に御同慶・御憧憬の至りである。東太平洋の生態系の現実をとらえる上では決定的な貢献であろうと思う。そしてこれを中心にウナギ養殖による経済的発展と環境保存の両立が可能になれば、社会的な意味はきわめて大きい。
 以前、塚本先生から頼まれて書いた日本史のウナギ史料についての論文「宇治橋とウナギウケ」をWEBPAGEにあげる。しかし、これを書いた時は、私には、マリアナ海溝の「スルガ海山」といっても歴史学にとって現実的な問題などとは考えていなかった。当時は、太平洋プレートの運動が東北アジアの火山地帯に直接の影響があり、それが東アジアと日本の歴史文化、火山神話に共通の影響があるなどということは考えもしなかった。こちらも少しは進歩したということであろう。
 自然系の人とつきあっていると、歴史学は、まずは自然系の学問にデータを提供するという仕事をもっていることを実感する。この論文は、海洋研の研究集会に招かれて、講演をしたものが元になっている。中野の旧海洋研の古い建物を思い出す。あれはいかにもとっちらかった研究の現場という雰囲気の建物で、よかった。現在は柏に移転して、もっと現代的な雰囲気になっているのだろう。
 掲載の論文は、その時の講演を聞かれた塚本先生から連絡があって、執筆を依頼された。先生の指導する大学院生で、川でのウナギの生態を研究しているマスターの院生がいるので、そのうち教えてあげて欲しいともいわれたが、そのままになっている。こちらも、ここに書いた以上のことはなかなか史料がないというのが実際のところ。
 ウナギの史料の分析は、はるか昔にはじめたもので、一部分を『』に書き、一部分をここで書いたが、論文はなかなかいい「落ち」がつかないままほってある。ついついデータを提供してしまえば、それで終わるように思ってしまう。さいきんは、琵琶湖博物館の橋本道範氏など、漁業史と自然の関係の研究が進んでいるので、近く研究の面目が変わっていくだろう。
 以下に論文トップの部分を引用しておく。

 ウナギが日本の歴史史料にはじめて登場するのは、次の『万葉集』(巻一六)の和歌である。
 石麻呂に吾物申す、夏痩せに良しといふ物ぞ、ムナギ漁り食せ
 痩す痩すも生けらばあらむを、はたやはた、鰻を漁ると河に流るな
 これは大伴家持が、やせっぽちの石麻呂という男をからかった戯れ歌で、「夏痩せに良いというぞ、鰻をとって食べたらどうだ。もっとも、命あってのものだねだから、鰻とりのために川流れになっては仕方ないが」という意味であろう。すでに奈良時代から、ウナギが夏痩によいといわれていたこと、またウナギ漁が「川に立ち込む」漁であることが知られていたことなどが興味深い。
 しかし、これ以降、ウナギの史料は江戸時代までほとんどない。明治時代に作成された百科事典、『古事類苑』の「動物部」の「鰻」の項目には右の『万葉集』の歌のほかに『新撰字鏡』『和名抄』などの平安時代初頭の辞書類が挙げられているが、その後は江戸期の料理書などにとんでしまう。そして、明治時代以降、歴史の研究は飛躍的に進んだが、現在でも、平安時代から室町時代の史料はほとんどあげることができないのである。そのためこれまで、この時代のウナギについての研究はまったくといってよいほど存在しなかった。そこで、本稿では、琵琶湖水系のウナギについて気づいたことを紹介してみたいと思う。
Ⅰ宇治のウナギ漁とヒウオ漁
 琵琶湖水系には、大量の鰻が生息しており、大きく成長した彼らは、産卵のために夏から秋にかけて海に下る途次、勢多、田上渓谷そして宇治橋近辺などで、一網打尽に捕獲された。『明治前漁業技術史』(六三三頁)に引かれた『滋賀県漁業沿革誌』によれば、瀬田橋下流の田上に近世初期より置かれた膳所藩の鰻梁の例では、その収穫量は、一年五万尾、大雨の夜などは一晩三千尾に上ったという。
 ここで紹介したいのは、宇治橋の近辺で活動していた「宇治鱣請」という漁民集団の史料である(なお、この「鱣」という字でウナギを表記することの意味については最後に少しふれてみたい)。彼らの姿を語る史料として、『永昌記』という貴族の日記の紙背文書に、建久八年(一一九七)十一月に京都の鴨御祖社(下賀茂社)の社司の訴状(『鎌倉遺文』九四七号)と、それに反論した鱣請たちの陳状(九四八号)が残っている。

 歴史家も毎日の生活をしながら、毎日のニュースを聞きながら研究をしていく。その中で歴史学のあり方について考えることは多い。
 地球上で起きる事件と報道のうち、もっとも明瞭なものは自然の運動であり、自然科学上の発見であると思う。歴史学には、それにたいする人々の営為、社会の関わりを文化の面から支えるという仕事がある。
 私はほとんどテレビをみないが、毎日毎日のジャーナリズムの報道は、多様かつ具体的なイメージと情報を提供している。そのうち、自然史についての話題は、歴史学の側からも全体としてはキャッチアップできる体制がほしいと思う。
 それは歴史学の説得性を拡大する上でも大事なことで、歴史学にとって自然科学との関係で、そのような説得性拡大のルートを確保できるかどうかは、長期的にみれば、その生命線であろう。ヨーロッパ歴史学がその生命線を確保していることはよく知られている。ヨーロッパの社会史研究の動向と、日本の社会史研究の動向で、差がついたのはそこである。
 歴史学の情報化、史料のデータベース化、知識化は、もちろん、歴史学内部の必要性に発しているものだが、学術世界の全体をみれば、むしろ自然系の学術との「学融合」の基礎条件と考えるのが、学術世界に生活しているもの常識であろう。
 もちろん、現実の歴史学の仕事は、その常識のレヴェルとは異なる領域内在的なディシプリンにそって進めるほかない。「常識はあなたの常識であって、みんなの常識ではない」「みんあの常識、社会の非常識」という事態は、どの学問も同じことだろう。
 そもそも「文理融合」といわれる自然科学との学融合は、情報学の全面支援が必要であり、かつ相当の体制と予算と人員を必要とする。歴史学全体の組織的な取り組みと合意なしには不可能なものだ。社会的な常識を特定の領域、職業の常識にすることに大きなエネルギーが必要であるというのが、つねになかば麻痺しているように存在する「固定的・伝統的分業」というものの本質である。
 歴史学を外側からみた場合に、今、必要なものは、第一には、世界史的な視野であろう。毎日毎日のジャーナリズムが提供するグローバルな情報は、大量の歴史情報を含んでおり、一世代前までの歴史学、30年前までの歴史学とくらべれば圧倒的な説得力をもっている。たしかにそれは「表面的」「現象的」な事象の紹介に過ぎないということはできる。しかし、歴史学が、それに変わる本質的な動きをイメージとして、歴史像として提供することができるかといえば、それは現状では無理というのが正直なところである。歴史学が「世界史的なもの」でなければならないというのは、以前は理想として述べられたが、今は、必須の条件、要請、圧迫的な要請としてとして登場している。

 歴史学者としては、もちろん、現在のエジプトのような動きの過去・現在・未来を眺望できるのは歴史学であるという気持ちは失っていない。ともあれ圧迫感がなければ幸せというもの。
 そして、第二に必要なものが、上記のような自然科学との学癒合である。そのためには史料情報、歴史知識情報のデータベース構築が必要であることはいうまでもない。巨大科学としての自然科学と対等に議論をするためには歴史学も巨大科学になる必要があるということである。
 歴史学にとって怖いのは、第一と第二の問題が実際上は重なって提出されていることで、グローバルな世界史と自然史の動きということになると、実際上、歴史学からの発言はお手上げ状態である。

 こういう状態の中で、職能的な役割としての研究のほかに、個人としてできるのは、歴史学にとって第三に必要なこと、つまり、その社会科学としての理論の再検討あるいは再建しかないのかもしれない。基礎の基礎からの再出発である。

 朝の電車で書き出して、今、弁当を食べながら、終わり。
 これからアップして、午後は、昨日きていただいた王子製紙の研究所の方々との相談の結果をまとめ、さらに来週の出張準備である。
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2011年2月 1日 (火)

火山地震(3)ー9世紀、伊豆神津島の噴火史料

いま、朝の電車の中。
 新燃岳の噴火被害が拡大している。災害の時、どこにいるか、どこに住んでいるかというのは、人間個々人にとってはどうしようもない自然・偶然である。
 阪神大震災の時に、地震に対する社会的・国家的保障が問題となったことは記憶に新しい。
 私も、あのしばらく後、神戸で震災からの立ち直りと歴史史料の保存についての講演会で講演をした。その時、地震災害に対する社会的保障の方向に日本社会が進化するのは、日本の自然条件からして必然ですと述べた記憶がある。
 そういう方向に進むのにはまだまだジグザグがありそうな社会の状況である。しかし、人間の平等というものを追求していくと、最後は、自然災害については公共的保障が当然のこととなっていくのではないだろうか。これは社会制度あるいは社会構成の問題としては意外と本質的なことなのかもしれない。社会というのは自然との関係に基礎を置くものであるから。
 そういうことを考える上でも、日本の自然災害史というものは正確に研究されなければならないし、歴史学はその過程で社会的常識の形成に深いところで関わらねばならないと思う。

 以下、九世紀の伊豆国神津島の噴火史料を翻刻して、読み下してみた。神津島では、承和五年と承和七年に噴火が起きたようである。九世紀が日本列島においてもっとも火山活動が激しい時期であったことは、前のブログに書いた。

 (1)は降灰の史料、(2)は火山爆発の音、京都まで聞こえたようである。いわゆる「空震」を含むか。(3)も降灰の史料。(4)は、神津島の火山活動の全体像がわかる希有の史料。私は、おもにここから前方後円墳=火山祭祀論をみちびいた。

 降灰の史料の(3)は、神津島噴火が近畿地方にまでをふくむ16ヶ国に火山灰を降らせたことを示す。興味深いのは、この火山灰がきわめて細かなものであったためか、農業には大きな損害を与えずにすんだということで、ぎゃくに、この年の気候はよく、そのため人々が、この火山灰を尊んで「米花(コメバナ)」と名付けたとある。神話からみても、火山活動に大地の豊かさを感じる人々の心性がわかるような気がするが、ここには、火山を豊稔のもととする考え方が現れているのかもしれない。

 もっとも長い(4)は、細かく読むと興味深いものである。すでに村山修一氏の著書『変貌する神と仏たち』(人文書院)に解説があり、私の『かぐや姫と王権神話』でも基本部分は解説した。九世紀の人々が火山噴火をどのように観察し、解釈したかが分かる希有の史料である。このうち、「壟」は、コニーデ型の山景をいい、この漢字の原義が「墓」であることは前回のブログで述べた。解釈が微妙なのは、「周垣」で、これはあるいは溶岩流をいうのかもしれない。本当は現地調査をしなければならないが、地図と対照させて地形を復元しながらよむだけでも、たいへんに興味深い。
 なお、村山は文中の「十二童子」について不動の眷属であろうとしている。神津島には、今でも不動院があるが、すでに九世紀に不動信仰の波及があったのかもしれない。

(1)〔続日本後紀〕○新訂増補国史大系、承和五年七月十八日
 物ありて如粉のごとし、天より散零す。雨にあうも鎖ず、あるひは降り、あるひは止む、
(2)〔続日本後紀〕○新訂増補国史大系、承和五年七月二十日。
 東方に聲あり、太鼓を伐つがごとし、
(3)〔続日本後紀〕○新訂増補国史大系、承和五年九月二十九日
 七月より今月にいたり、河内・参河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・武藏・上總・美濃・飛彈・信濃・越前・加賀・越中・播磨・紀伊等の十六國、(中略)、相續で言ふ、物ありて灰のごとし。天より雨ふりて、日をかさねて止まず、但し恠異に似るといえども、有損害あるなし。いまこれ畿内七道、ともにこれ豊稔にして、五穀の價は賤し、老農は此物を名付けて米花と云ふと、

(4)〔続日本後紀〕○新訂増補国史大系、承和七年九月二十三日
 伊豆國言ふ、賀茂郡に造作の嶋あり、本の名は上津嶋。此嶋にいます阿波神は、これ三嶋大社の本后なり、又います物忌奈乃命は、すなわち前の社の御子神なり。新作の神宮四院、石室二間、屋二間、閣室十三基あり。上津嶋の本體は草木繁茂し、東南北方巌峻〓〓、人船は到らず。わずかに西面に泊宿之濱あり。今ことごとく焼け崩れ、海とともに陸地ならびに沙濱二千許町となる。
 其嶋の東北角に、新造の神院あり。其中に壟あり。高さ五百許丈、其周は八百許丈。其形は伏鉢のごとし。東方の片岸に階四重あり。青・黄・赤・白色の砂、次第に敷き、その上に一閣室あり。高さ四丈ばかり。次いで南の海辺に二石室あり。おのおの長さ十許丈、広さ四許丈、高さ三許丈。その裏に五色の稜石の屏風を立つ。巌壁波を伐り、山川雲を飛ばす。その形微妙にして名づけがたし。その前に夾纈の軟障を懸け、すなわち美麗の浜あり。五色の砂をもって成し修む。次いで南傍に一磯あり。屏風を立てるがごとし。その色の三分の二は悉く金色。眩曜の状、あえて記すべからず。
 また東南の角に新造の院あり。周垣は二重にして堊(しっくい)をもって築き固む。おのおの高さ二許丈、広さ一許丈。南面に二門あり。その中央に一壟あり。周六百許丈、高さ五百許丈。その南の片岸に十二の閣室あり。八基は南面、四基は西面。周おのおの廿許丈、高さ十二許丈。その上階の東に屋一基あり。瓷玉の瓦形に葺く。長さ十許丈、広さ四許丈、高さ六許丈。その壁、白石をもって立て固む。則ち南面に一戸あり。その西方に一屋あり。黒瓦をもって葺き造り、その壁赤土を塗る。東面に一戸あり。院裏の礫砂、みな悉く金色なり。
 また西北の角に新作院あり。周垣いまだ究め作らず。その中に二壟あり。その周おのおの八百許丈、高さ六百許丈。その体は瓮を伏せるがごとし。南の片岸に階二重にあり。白砂をもって敷く。その頂は平麗なり。北角より未申角に至り、長さ十二許里、広さ五許里。みな悉く砂浜となる。戊亥の角より丑寅の角に至る。八許里、広さ五許里。同じく砂浜となる。この二院、もとこれ大海なり。
 また山岑に一院一門あり。その頂に人の坐する形の如き石あり。高さ十許丈、右手に剣を把み、左手に桙をもつ。その後ろに侍者あり。跪き貴主を瞻る(見る)。その辺、嵯峨にして通達すべからず。
 自餘雜物、燎焔いまだ止まず、具に注するあたわず。
 去る承知五年七月五日夜に火を出し、上津嶋の左右海中に、焼炎、野火のごとし。十二童子、相接して炬を取り、海に下って火を附く。諸童子潮を履くこと地のごとく、地に入ること、如水のごとし。大石を震ひ上げ、火をもって焼き摧き、炎煬は天に達す。其状は朦朧として、所々〓飛、其間に旬を経て、雨灰は部に満つ。よって諸祝刀祢等を召集し、その祟を卜い求む。阿波神というは、三嶋大社の本后にして、五子を相生む。しかるに後后に冠位を授け賜ひ、我本后はいまだその色に預からず、これにより我、殊に恠異を示し、將に冠位に預からんとす。もし祢宜・祝等、この祟を申さざれば、麁火を出しまさに祢宜等を滅ぼさんとす。國郡司勞せずば、將に國郡司を滅ぼすべし。もし我欲するところをなさば、天下の國郡は平安にして、産業をして豊登せしめん。
 今年七月十二日、はるかに彼嶋を望むに、雲烟の四而を覆ひて、すべて状をみず、漸やくこの比、近に戻り、雲霧霽朗たり、神作院岳等の頬、露わに其貌を見る、これすなわち神明の感ずるところ也、

 文中に「恠異に似るといえども、損害あるなし」とありますが、今回の噴火も「恠異に似るといえども、損害あるなし」というレヴェルで済めばよいのですが。
 いま、昼休み。いまから外で食事。

 

このブログでは、史料を提示して論ずることは基本的にはしない方針ですが、この史料についてはすでに論じたものですので、例外とします。

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