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2011年2月24日 (木)

歴史学のミクロ化、筆跡学と考古遺物の顕微鏡分析

 昨日、皆川完一先生がいらっしゃたので、『尊卑分脈』の入力の仕事をしている院生が御挨拶するのに同行する。平安時代・鎌倉時代・南北朝時代を専攻する歴史学者の常用の道具であるが、その編纂は皆川先生のほぼ独力で実現された。昔の史料編纂所の所員の中には、史料編纂所の出版物のみでなく、『尊卑分脈』の入っている『国史大系』など、さまざまな出版事業をになわれる方々がいらした。
 史料編纂所の閲覧室で御挨拶。若手が仕事を継いでいることを喜んでおられる。官職が一覧できれば便利になるでしょうとおっしゃる。
 こんなに偉い学者でも、最近のデジタル化の趨勢もあって、ディスプレイにむかって史料を点検。「馴れました」とおっしゃる。『尊卑分脈』の入力の御願いにご自宅にうかがった時、整理された広い書斎で、悠然と研究をされている御様子をうらやましく思った。それと雰囲気とは違うが、御意欲はかわらず。
 林譲氏の「諏訪大進房円忠とその筆跡」によると、円忠の筆跡論について、すでに皆川さんがデータをためていて、林氏に提供されたという。それは知っていたが、先日、東北学の座談会の関係で必要があって、再読していると、いろいろなことに気づくが、皆川さんの最終講義は、奉行人安富行長の筆跡論であったという。
 古文書の筆跡論は、現在の「中世史研究」の最先端で、この論文はすばらしいものだが、この分野の最先達が皆川さんであったことを再確認する。古文書の編纂を業としながら、こういう最先端の研究ができていないことに忸怩たるものがある。昨日のブログで書いた「最後は体力と感覚」というレヴェルでの自己満足がいかんのだろう。編纂という基礎研究に密着した先端研究のスタイルを考えないと基礎研究の体力がつかないのかもしれない。
 筆跡論は本当に重要だ。歴史学のミクロ化ということを考える場合に、最初にでてくるのが筆跡論である。私は、ひょんなことで、和紙の物理分析を始めたが、これは筆跡論があって、はじめて本格的な意味をもってくるものだと考えている。

 昨日は、夜8時に、千葉市立図書館によって黒崎直『トイレ考古学入門』(吉川弘文館)をかりてくる。昼間、ネットワークから予約しておけば、夜に入り口のカウンターですぐに借りることができるというサービス。しかも夜9時までやっているというありがたいサービスである。図書館さまさまである。
 先日の『東北学』での入間田宣夫・赤坂憲雄、両氏との対談のゲラの関係で話したことについて、この本の情報によったのではないかという記憶があって、あわてて確認のためである。
 該当の記憶は、やはりこの本であったということを確認してほっとして、メモを編集者に送る。
 そのメモは、
「巫女など女性が忌籠りする小屋、「廬」「齋館」については、岡田精司さんの指摘がありますが(岡田「宮廷巫女の実態」『日本女性史』原始古代)、私は黒崎直さんが、考古学者が普通、「水の祭祀」の施設だという木槽樋をトイレだとされ、同時に、「産屋」「神婚儀礼の齋屋」とされるのに賛成です(『水洗トイレは古代にもあった』吉川弘文館)。あるいは「月経小屋」の意味もあったかもしれません」
 というもの。これが座談の場でスラスラでてくるようならばたいしたものであるが、実際には、座談会の場では曖昧な記憶にもとづいて発言。たしかそうだったという記憶が、今回は正しかったことになる。
 これで『東北学』と座談会関係の仕事は終わり。『東北学』の座談会のテーマは「いくつもの日本の神話」というもの。五月には発行。

 黒崎さんの本が面白く、夜、就寝前、そして何となく朝、目覚めてしまって読む。私のトイレ論も各所で利用されていて(後に『中世の女の一生』におさめたもの)、その関係では、「小便壺」を特定するために科学分析をされているのに驚く。この部分、『中世の女の一生』の新版で修正した部分と関係しており、そのうち詳しく再チェックをしなければならないかもしれない。
 静岡の一の谷遺跡や平泉の柳御所の保存運動に関わったころ、平泉の糞ベラの話がでてきていた。考古学の保存運動に関わっていたころのことなので、この本を読んでいても、どうしても、その時、考古の中枢部の人たちが何をしていたかという目でみてしまう。考古学が一種のミクロ化の道を歩んでいたのだということがわかる。遺物の顕微鏡分析によって、寄生虫の卵を発見して、それによってトイレ遺構を確定するという手法は、考えてみれば、和紙の顕微鏡分析ということを考えるのと同じ発想である。遺物の壺が小便壺かどうかを確定するのに、「フーリエ変換赤外分光分析」を使用するというのは、和紙分析の手法と一緒なので、笑ってしまう。
 一の谷の保存運動の最後の段階で、山村宏さんが、遺跡の一画だけでも残したい、顕微鏡分析をすればなにがでてくるか分からない、そのためにだった妥協的なことでも何でもするといっていた痛切な記憶がよみがえる。一の谷遺跡は、石でできた遺跡なので、分析がむずかしいと苦闘していた彼が、将来の科学の発展に期待したいと切歯扼腕していた。
 東北学の座談会の関係で、久しぶりに藤森栄一氏の本を読んで、諏訪と天竜川流域のことを論じた。その部分も下記に引用しておくが、しかし、下記にでる「さなぎ池」のそばに「蜆塚貝塚」があったのだと思う。歴史学の道に進もうと考えて、歴史学研究会古代史部会に出始めたとき、伊庭遺跡の保存問題があって、私も荒木敏夫氏につれられて見学にでかけた。その時、対応をしてくれたのが、山村宏さんだった。そして、彼はその時、「蜆塚貝塚」
の発掘を担当していたという記憶がある。考古学と遺跡の保存のために奮闘してきつい目にあった彼の遺志を無にしないためにも頑張らねばならないというのが、年来の意思であるが、何の研究をしていても、考古学との関係で活動した時期の経験に自分の学問が戻っていくという気持ちがする。
 歴史学のような面倒くさい学問を業としている学者にとって戻っていく場所があるというのはありがたいことである。
 

以下東北学座談会事前メモ
 「桓武との関係では、最近、『諏訪大明神絵詞』に開成皇子の話がでるのに気づてびっくりしました。この皇子は桓武の息子で摂津の勝尾寺で出家するのですが、その前にしばしば諏訪明神が示現したというのです。実在の人物とは思えないのですが、勝尾寺文書にもでてきますので、早くからの伝承されていたようです。この例も、東国に広がった桓武神話の一つなのかもしれません。
 実は、石井進さんや網野善彦さんを担いで保存運動があった静岡県磐田市の一の谷墳墓遺跡の南西の天竜川沿いに、この皇子の塚と称するものがあるのです。東国に流された皇子が、この塚の上に立って、京都を懐かしんだといいます。
 遠江国は、西国と東国のちょうど境界に位置しますので、保存運動の最中は、この塚も一の谷墳墓も、東国と西国の境界を象徴すると立論したのですが、むしろ諏訪神社との関係で残った伝承なのかもしれないとと考え直しました。
 諏訪と遠江の関係についての神話には、後三条天皇の時に、諏訪湖の神渡をみようとして、諏訪湖の氷りの上で待ちかまえていた修行者が、ちょっと寝た間に、「この汚きものをどけろ」という声を聞いたと思ったら、遠江まではね飛ばされた。浜名の辺のさなぎ池まではね飛ばされたというのです。
 こういう伝説は多いのだろうと思います。それは王権との関係で出てくるのですが、面白いのは藤森栄一さんによると諏訪社周辺の銅鐸は三遠式銅鐸というもので、浜名湖の側の「さなぎ池」「さなぎ神社」との関係がきわめて深いということです。諏訪信仰が天竜川沿いに広がって、遠江まで広がっている様子を示すように思います。王権神話というべきものをはぎ取っていくと、神社信仰の広域的な実態が確認できるのではないか。
 私は、ここにはおそらく領主制あるいは領国制を基礎にもった諸関係があって、神話的な関係が維持されているというような関係をみるべきであろうと思います。ともかく諏訪円忠の身分からいっても室町時代の国制に対応している側面があることは当然だと思います。歴史学としては、続いているということのみでなく、基礎となる実態の変化をおさえたいところですが、すべて今後の課題として残っているというとこです。

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