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2011年2月 2日 (水)

ウナギと歴史学と自然科学

 ウナギの卵の発見が確定したというのが、今日の新聞報道。
 東京大学大気海洋研究所(旧海洋研)の塚本勝巳先生の快挙である。
 御同慶の至りである。いま仮名漢字変換をかけたら「憧憬の至り」と変換されたが、本当に御同慶・御憧憬の至りである。東太平洋の生態系の現実をとらえる上では決定的な貢献であろうと思う。そしてこれを中心にウナギ養殖による経済的発展と環境保存の両立が可能になれば、社会的な意味はきわめて大きい。
 以前、塚本先生から頼まれて書いた日本史のウナギ史料についての論文「宇治橋とウナギウケ」をWEBPAGEにあげる。しかし、これを書いた時は、私には、マリアナ海溝の「スルガ海山」といっても歴史学にとって現実的な問題などとは考えていなかった。当時は、太平洋プレートの運動が東北アジアの火山地帯に直接の影響があり、それが東アジアと日本の歴史文化、火山神話に共通の影響があるなどということは考えもしなかった。こちらも少しは進歩したということであろう。
 自然系の人とつきあっていると、歴史学は、まずは自然系の学問にデータを提供するという仕事をもっていることを実感する。この論文は、海洋研の研究集会に招かれて、講演をしたものが元になっている。中野の旧海洋研の古い建物を思い出す。あれはいかにもとっちらかった研究の現場という雰囲気の建物で、よかった。現在は柏に移転して、もっと現代的な雰囲気になっているのだろう。
 掲載の論文は、その時の講演を聞かれた塚本先生から連絡があって、執筆を依頼された。先生の指導する大学院生で、川でのウナギの生態を研究しているマスターの院生がいるので、そのうち教えてあげて欲しいともいわれたが、そのままになっている。こちらも、ここに書いた以上のことはなかなか史料がないというのが実際のところ。
 ウナギの史料の分析は、はるか昔にはじめたもので、一部分を『』に書き、一部分をここで書いたが、論文はなかなかいい「落ち」がつかないままほってある。ついついデータを提供してしまえば、それで終わるように思ってしまう。さいきんは、琵琶湖博物館の橋本道範氏など、漁業史と自然の関係の研究が進んでいるので、近く研究の面目が変わっていくだろう。
 以下に論文トップの部分を引用しておく。

 ウナギが日本の歴史史料にはじめて登場するのは、次の『万葉集』(巻一六)の和歌である。
 石麻呂に吾物申す、夏痩せに良しといふ物ぞ、ムナギ漁り食せ
 痩す痩すも生けらばあらむを、はたやはた、鰻を漁ると河に流るな
 これは大伴家持が、やせっぽちの石麻呂という男をからかった戯れ歌で、「夏痩せに良いというぞ、鰻をとって食べたらどうだ。もっとも、命あってのものだねだから、鰻とりのために川流れになっては仕方ないが」という意味であろう。すでに奈良時代から、ウナギが夏痩によいといわれていたこと、またウナギ漁が「川に立ち込む」漁であることが知られていたことなどが興味深い。
 しかし、これ以降、ウナギの史料は江戸時代までほとんどない。明治時代に作成された百科事典、『古事類苑』の「動物部」の「鰻」の項目には右の『万葉集』の歌のほかに『新撰字鏡』『和名抄』などの平安時代初頭の辞書類が挙げられているが、その後は江戸期の料理書などにとんでしまう。そして、明治時代以降、歴史の研究は飛躍的に進んだが、現在でも、平安時代から室町時代の史料はほとんどあげることができないのである。そのためこれまで、この時代のウナギについての研究はまったくといってよいほど存在しなかった。そこで、本稿では、琵琶湖水系のウナギについて気づいたことを紹介してみたいと思う。
Ⅰ宇治のウナギ漁とヒウオ漁
 琵琶湖水系には、大量の鰻が生息しており、大きく成長した彼らは、産卵のために夏から秋にかけて海に下る途次、勢多、田上渓谷そして宇治橋近辺などで、一網打尽に捕獲された。『明治前漁業技術史』(六三三頁)に引かれた『滋賀県漁業沿革誌』によれば、瀬田橋下流の田上に近世初期より置かれた膳所藩の鰻梁の例では、その収穫量は、一年五万尾、大雨の夜などは一晩三千尾に上ったという。
 ここで紹介したいのは、宇治橋の近辺で活動していた「宇治鱣請」という漁民集団の史料である(なお、この「鱣」という字でウナギを表記することの意味については最後に少しふれてみたい)。彼らの姿を語る史料として、『永昌記』という貴族の日記の紙背文書に、建久八年(一一九七)十一月に京都の鴨御祖社(下賀茂社)の社司の訴状(『鎌倉遺文』九四七号)と、それに反論した鱣請たちの陳状(九四八号)が残っている。

 歴史家も毎日の生活をしながら、毎日のニュースを聞きながら研究をしていく。その中で歴史学のあり方について考えることは多い。
 地球上で起きる事件と報道のうち、もっとも明瞭なものは自然の運動であり、自然科学上の発見であると思う。歴史学には、それにたいする人々の営為、社会の関わりを文化の面から支えるという仕事がある。
 私はほとんどテレビをみないが、毎日毎日のジャーナリズムの報道は、多様かつ具体的なイメージと情報を提供している。そのうち、自然史についての話題は、歴史学の側からも全体としてはキャッチアップできる体制がほしいと思う。
 それは歴史学の説得性を拡大する上でも大事なことで、歴史学にとって自然科学との関係で、そのような説得性拡大のルートを確保できるかどうかは、長期的にみれば、その生命線であろう。ヨーロッパ歴史学がその生命線を確保していることはよく知られている。ヨーロッパの社会史研究の動向と、日本の社会史研究の動向で、差がついたのはそこである。
 歴史学の情報化、史料のデータベース化、知識化は、もちろん、歴史学内部の必要性に発しているものだが、学術世界の全体をみれば、むしろ自然系の学術との「学融合」の基礎条件と考えるのが、学術世界に生活しているもの常識であろう。
 もちろん、現実の歴史学の仕事は、その常識のレヴェルとは異なる領域内在的なディシプリンにそって進めるほかない。「常識はあなたの常識であって、みんなの常識ではない」「みんあの常識、社会の非常識」という事態は、どの学問も同じことだろう。
 そもそも「文理融合」といわれる自然科学との学融合は、情報学の全面支援が必要であり、かつ相当の体制と予算と人員を必要とする。歴史学全体の組織的な取り組みと合意なしには不可能なものだ。社会的な常識を特定の領域、職業の常識にすることに大きなエネルギーが必要であるというのが、つねになかば麻痺しているように存在する「固定的・伝統的分業」というものの本質である。
 歴史学を外側からみた場合に、今、必要なものは、第一には、世界史的な視野であろう。毎日毎日のジャーナリズムが提供するグローバルな情報は、大量の歴史情報を含んでおり、一世代前までの歴史学、30年前までの歴史学とくらべれば圧倒的な説得力をもっている。たしかにそれは「表面的」「現象的」な事象の紹介に過ぎないということはできる。しかし、歴史学が、それに変わる本質的な動きをイメージとして、歴史像として提供することができるかといえば、それは現状では無理というのが正直なところである。歴史学が「世界史的なもの」でなければならないというのは、以前は理想として述べられたが、今は、必須の条件、要請、圧迫的な要請としてとして登場している。

 歴史学者としては、もちろん、現在のエジプトのような動きの過去・現在・未来を眺望できるのは歴史学であるという気持ちは失っていない。ともあれ圧迫感がなければ幸せというもの。
 そして、第二に必要なものが、上記のような自然科学との学癒合である。そのためには史料情報、歴史知識情報のデータベース構築が必要であることはいうまでもない。巨大科学としての自然科学と対等に議論をするためには歴史学も巨大科学になる必要があるということである。
 歴史学にとって怖いのは、第一と第二の問題が実際上は重なって提出されていることで、グローバルな世界史と自然史の動きということになると、実際上、歴史学からの発言はお手上げ状態である。

 こういう状態の中で、職能的な役割としての研究のほかに、個人としてできるのは、歴史学にとって第三に必要なこと、つまり、その社会科学としての理論の再検討あるいは再建しかないのかもしれない。基礎の基礎からの再出発である。

 朝の電車で書き出して、今、弁当を食べながら、終わり。
 これからアップして、午後は、昨日きていただいた王子製紙の研究所の方々との相談の結果をまとめ、さらに来週の出張準備である。
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