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2011年2月17日 (木)

下地の語義とオントロジー、眼精疲労

 人間文化研究機構での歴史知識学とデータベースについての報告の原稿を書き上げて、3時ころ、付図と一緒に送った。その後に、あわてて日曜日の東北学の座談会の準備である。本当にあわてた。ともかく終えて、今、総武線の中。座れてよかった。
 歴史情報学についての文章は、全部で400字詰め60枚と付図が8つ。内容は、付図をふくめて函館での講演を拡大・縮小したものなので、半分はできていた。とはいえ、60枚を、電車の中と自宅もふくめて、実質、二日で書き上げるというのは疲労の極。頭は疲れないが、目が駄目である。
 この原稿のうち、具体的なデータベースの話しではなく、自分の研究や私見のところを、最後の方に、掲げた。報告集の発行は3月半ば。

 昨日は、静岡県の磐田市の一の谷墳墓遺跡の保存運動で一緒であった某氏と、本当に久しぶりに話しをし、ゆっくり飲んだ。たまにはこういう時間がないと干上がってしまうが、この10年ほど、実に少なかったことを実感する。職場や大学や専攻まで違うが、まったく無償の運動を一緒に担った友人との関係はかけがえがない。
 彼の大学での授業の話が面白い。複数の用件であったが、最近、興味をもっている神話論について意見を聞く。採点は、40点というところか。はっきりいうのが彼のよいところ。仮説としての意味を否定はできないということで、その点はほっとしたが、彼を説得できなければ議論はあやういということを実感する。
 議論になったことは多いが、個人的に印象深かったのは、弥生・古墳の考古学の現状に対する彼のきびしい評価。私は、昨年からの入門勉強で、寺沢薫、北条芳隆、松木武彦の諸氏などの仕事の迫力にふれて、20年前の考古学へのイメージが変わったという感想。文献の側よりある意味ではっきりとものをいうように感じる。
 20年前、歴史時代の遺跡保存問題で毎週のようにあって相談していた頃は、「古代」の考古学への批判が共通して強かったように思う。彼は、依然としてきびしいが、私は少し勉強したら変わったということか、これは不勉強の証拠かもしれない。しかし、森浩一氏や近藤義郎氏らの薫陶をうけた考古学の同年代の人々に親近感がでてきたのは、自分ながら勉強をしたという感じである。
 一の谷の保存運動を現地で担った遠考研のメンバーが森さんを信頼していたこと、森さんの邪馬台国論が説得的であること(某氏は九州論者であった!?)などに話しが展開したので、私からは、先日、やむをえざる経過で恩師の森浩一さんにウィスキーを引っかけて、その後、頭が真っ白になって何も記憶がないという教え子に会った話しを提供(某某さん、失礼)。森先生は本当にいい先生らしい。その話しで盛り上がる。
 森さんと網野さんの対談集を読んだのが、そして岸俊男さん、網野さん、森さんの編集した『日本の古代』を読んだのが、急な考古勉強のきっかけだった。もっと早く、詳しく読むのであった。

 以下、人間文化研究機構のシンポジウムでの報告の一部。
第一には語義分析論について
 史料編纂所のフルテキストデータベースは、『平安遺文』の全文システム以降、検索対象語を中央にそろえて、その前後10字の「文脈」コンテキストの中で表示するシステムになっています。これはヨーロッパ歴史学の中で、非常に早い時期からコンピュータの利用を行ったベルギーの歴史家、レオポール・ジェニコが『歴史学の伝統と革新』(森本芳樹訳、九州大学出版会)で述べたシステムにならったもので、コンコーダンスシステムと呼んでいました。これによって、ある歴史用語を前後一〇字という限定したレヴェルですが、コンテキストの中で示すということが可能になります。そして、実際には、現在のレヴェルでの一般的研究を進めるためならば、それで相当すんでしまうという側面がある訳です。
 図⑥に掲げましたのは、『平安遺文』システムで「下地」という語に検索を懸けた様子です。「下地」というのは「下地中分」という言葉をご存じと思いますが、鎌倉時代、荘園の土地を本所と地頭の間で分割するときに、その土地のことを「下地」といっています。ところが、その最初の意味は、『和名抄』という10世紀の辞書による限りでは、壁の下地という意味です。右の検索結果画面の10番の史料にも、その意味で登場していることがわかると思います。ほかにも漆器の塗りの下地などと使う訳で、これはどうも手工業からでた言葉であるかに思われます。そしてそういう意味から、「素質・基礎・準備」という意味に展開します。醤油のことを「したぢ」というのも味付けの基礎という意味です。
 こういう「準備・したぢ」としての土地という用語としては、一一世紀までは、敷地という用語が使われていました。『字訓』(白川静)によれば、「『敷く』とは草や布などを下に敷きつらねること、そのように敷き広めて広い地域を治め『領く』ことをいう。『占む』『領る』も同源の語」ということで、そういう意味で敷地という言葉が通用していた訳です。『字訓』によっても敷地と下地が「基礎」という意味で共通することがわかるかと思います。
 用例を調べてみると、この敷地という言葉に交代するようにして「下地」というの言葉が一般的になっていくようです。右の検索結果画面にもどりますと、「削除」としたところは、こういう下地の語義からして、下地の検索結果としては削除すべきものです。まず上から二番目のデータは、(このコンコーダンス画面ではみえませんが)「夫用途弐百弐拾伍文」などという、この時代では使用されない用語をふくんでいますから、偽文書であることがわかります。三番目は「下知」を「下地」と誤記したもので、排除する必要があります。さらに六番目の「簗下地」というのは「簗下の地」と読むのだと思いますし、八番目も同じように地名です。
 それですから、土地としての下地の用例としては、四番と七番しか残らない訳で、この時代が、敷地という言葉の用例が減少していく、ちょうど一一世紀になるのです。ようするに、土地としての下地というのは、都市手工業に根をもつ用語で、占有・利用可能な有用性をもった土地、下ごしらえの済んだ土地という意味で、そのころ以降に一般的に使用されるようになったということになります。
 これは「土地範疇と地頭領主権」という論文で述べたことです。すでに昨年、校正を終えたところですので、詳しくはそれをみていただくほかないのですが、これは平安時代・鎌倉時代の土地制度の理解の全体に波及することになります。たとえば、下地というのは、利用可能な土地、開発された土地のことなのですから、「下地中分」とは、荘園の物理的な面積の中分ではない。開発が進めば、下地の総量が変わっていくのは当然であることが自然に理解できることになります。
 私は、この問題をおそらく二〇年ほど考えていましたから、かならずしもデータベースのお陰をこうむってきた訳ではありませんが、しかし、論文にする時のスピードや周辺調査の便宜のためには、データベースが大きな威力を発揮することを実感しました。とくにありがたかったのは、結局論文にはしなかった部分ですが、普通は研究対象にならないような細かな土地制度用度、条里制用語を調べることをA先生と話していたところ、A先生が、フルテキストデータベースの検索結果画面をエクセルデータに展開するための簡単なマクロを作成してくれたことです。
 私はマクロは組めませんのでだめですが、これによって個人個人の研究者に大きな便宜があたえられると思います。これは梅棹忠夫氏が提案したカード方式に変わるような研究ツールとなるのではないかと実感しました。このような方向は、将来的には、データベースの展開や知識ベースの展開方向に大きな影響をあたえるものと考えています。
 そして、いうまでもないことですが、こういう語義分析は、情報学の通則としての言葉の共起性の分析、そしてそれにもとづく言語体系とその変化の分析につながっていきます。正直いって、まだ問題はそこまでは進んでいませんが、オフラインでの語義分析の結果をデータベースに返戻するということになれば、たとえば上記の検索結果画面で「削除」としたものはキーワードとしての「下地」のリストから排除されることになります。誤記などのゴミも排除されることになります。そして、編纂の観点からいいますと、「下地」の早い例となる文書は偽文書であるということを申し上げましたが、これによって偽文書推定も可能になるかもしれません。偽文書確定の問題は日本ではそんなに大きくないように思いますが、ジョニコのシステムは、その点を大きな目標としていたことも想起されます。
 なお、人文情報学との関係で申し上げておきたいのは、これはいわゆるターミノロジーの問題に関係してくることです。私は、学術の役割がパラダイムを作るのではなく、最終的には知の体系の中に文化を豊かにするものとしてのターミノロジーを作り出していくことであると考えていますが、そういう意味で人文情報学の最後の言葉としてのターミノロジーに、この問題は結びついてくると思うのです。
第二には、オントロジーという言葉について
 私たちの世代の人文社会系研究者ですと、この言葉はただちに三木清のオントロジー(存在論)ー→アントロポロジー(人間学)ー→イデオロギーという人間的意識の三段階論を想起させます。三木のオントロジーの議論はハイデカーの議論をうけたものですが、情報学が多用するオントロジーという用語もハイデカーをうけたものであることはいうまでもありません。
 はるか昔に考えたことに戻れば、ハイデカーの存在論というのは、存在が意識に現象する局面を追求するという意味では存在現象意識学というべきもので、私などからすると、相当の問題があるようにみえます。しかし、編纂というのは「現象学」である、そのようなものとして禁欲的な性格をもった学問の手続き方法論であるという、前述のような意見からしますと、その限りでは、ハイデカーの議論の意味もわかる側面があります。その議論が、二〇世紀の諸学問分野で受け入れられた理由もわかるような気もします。
 しかし、現在の段階では、学術情報のみでなく、情報というものが、単なる現象ではなく、その物質的な形態がコンピュータとネットワークという一つの独自の姿を取っています。それ故に、非常に一般的な言い方となりますが、物資的な情報過程それ自身と本来的な意味でのオントロジー、つまり存在論の問題として考えなければならないということだと思います。それ故に、歴史学の立場としては、知識生産と情報化が世界史的な諸変化の中で、どのような位置があるのかという歴史学的な分析が必要になっているように思います。
 これについての私見は、以前書きました「情報と記憶」という論文で考えてみたことがありますので、それを御参照いただければと思います。ただ、さきほど三木清の名前を出しましたので、やはり私たちの世代にとっては記憶に残る哲学者である中井正一の情報論について注意を喚起しておきたいと思います。中井正一は戦後、国会図書館の副館長として国会図書館の基礎を作ったという意味でも、今日の報告の最後にふれておくことが適当のように思うからです。
 中井の見解で興味深いのは、非常に包括的な世界史的な情報過程論が提出されていることです(中井「委員会の論理」)。人文情報学の方はよくご存じのことと思いますが、中井の図式は、「古代」を「言われる論理=弁論の論理」、「中世」を「書かれる論理=瞑想の論理」、「近世」を「印刷される論理=経験の論理」と考えるというものです。中井の死去という不運もあって、これは本当のデッサンにおわっているのですが、神話的思考からの自立が音声と弁論を中心とすること、瞑想と内観を本質とする世界宗教が「羊皮紙(経典・SCROLL)に書くこと」「経典」の共有によって可能になったこと、近代科学につらなる「外部記憶の道具」としての「BOOK」形態が中国宋代に発明され、経験と技術の基礎となったことなど、私流にいいますと、社会的分業の世界史的な展開を知的・精神的生産の側から鳥瞰したものとしていまでも説得的なものと思います。
 これに対応していえば、「Computerの論理」は「データベースとnetwork」を前提とした「外部脳の論理」であるということになると思います。これは社会関係と人間関係の機械化、あるいはその最悪の形態としての商品化ということではありません。むしろ逆に、外部脳をもつことによって、心の内側を熟視することが可能になるという内面性の時代、中井の言い方でいえば新しい瞑想の時代が期待されているということでしょう。
 これは同時に、現代資本主義社会が、無政府的・無意識的に作ってきたネットワークを、情報ツールによって可視化し、それを意識的な活動の前提とするという意味では、「連携」の時代への期待ということでもあると思います。今日の報告の最後に述べましたアカデミーとライブラリーの協同ということにそくしていえば、それはコミュニティ(地縁・血縁)アソシエーション(職能性と専門性)という二つのスタイルでの連携ということになるでしょうか。今日の報告では歴史学を中心に述べてきた訳ですが、このような意味で、歴史学に限らず、アカデミーの全体が、専門的な社会的職能の一環として、「Computerの論理」について、おのおのの学問の性格にそくして考えていく必要があると思います。
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