朝日新聞インタビュー「書籍の電子化を危ぶむ装丁家」について
今(2月25日)、帰宅途中の総武線の中。
今日の朝日新聞朝刊に出版の電子化に賛成できないという桂川潤さんのインタヴュー「書籍の電子化を危ぶむ装丁家」がのっていた。高校時代のY先生の奥さまが修復家で、装丁もやられているので、「装丁家」という人には特別の興味がある。
iPadで小説を読むと疲れるというのが、どういうものか、私には実際はわからない。私は電子ブックはつかっておらず、当面、その必要も時間的余裕もない。ただ、インタヴユーで面白かったのは、「電子ブックは、どこを読んでいるかわからない。册子ではなく巻物。目がすごく疲れます」という発言。
人間文化研究機構での講演の一部を最近のブログに載せたが、そこで中井正一の「委員会の論理」を引いて、次のように述べたばかりである。
中井の見解で興味深いのは、非常に包括的な世界史的な情報過程論が提出されていることです(中井「委員会の論理」)。中井の図式は、「古代」を「言われる論理=弁論の論理」、「中世」を「書かれる論理=瞑想の論理」、「近世」を「印刷される論理=経験の論理」と考えるというものです。中井の死去という不運もあって、これは本当のデッサンにおわっているのですが、神話的思考からの自立が音声と弁論を中心とすること、瞑想と内観を本質とする世界宗教が「羊皮紙(経典・SCROLL)に書くこと」「経典」の共有によって可能になったこと、近代科学につらなる「外部記憶の道具」としての「BOOK」形態が中国宋代に発明され、経験と技術の基礎となったことなど、私流にいいますと、社会的分業の世界史的な展開を知的・精神的生産の側から鳥瞰したものとしていまでも説得的なものと思います。
本の形態が、中国の宋代に行われた発見であることは有名である。最近では小島毅氏が中央公論社の『中国の歴史』の宋代をあつかった巻で、その世界史的意味を見事に展開している。それまでの巻物に変わって木版本が発明されたことが中国に読書人の階層をもたらし、理学・朱子学をもたらしたという。この中国での発見がヨーロッパに伝わり、本の形態が創造されたという。 人間の知識と経験は、まず言語の中に移される。人と人との関係が言語という体系を間において営まれるようになる。感情と言語の関係が鍛えられる。そして、その経験と知識は、さらに道具の中に移される。道具の中には、人間の行動の経験と目的意識が、「物」として対象化されている。そして、「文字」によって、その知識と経験が外部化されると、精神労働は労働対象をもちはじめる。独自化した精神労働を含むレヴェルで労働の社会化が進むなかで、文字は叙述となり、文書と物語と経典と「巻物」が形成される。 人間の頭脳には容量の限界がある以上、どのような場合も、外部記憶装置は必要であり、これから進んでいくのは、外部記憶装置のさらなる多様化と社会化という事態である。その中で、もっとも直接的で身体的な記憶装置は、個々人の人間にとってもっとも大事な記憶と知識を「物」として保持するツールとして、いよいよ個人化していくだろう。そのように大事な「本」を、現在、人々は、世界中で平均して何冊もっているといえるだろうか。平均してしまえば、おそらく10冊に行かないだろう。 とはいえ、文字と画像の情報が、それ自身として全面的にデジタル化することはさけられない。そして、それは「電子ブック」も「本」も必要だという常識を繰り返していればすむという問題ではない。そもそも「本」も「コンピュータ」も、人間にとっては、脳の外への知識集積場所である。「電脳」という言葉はコンピュータの本質の一部を示している。それゆえに、いま進んでいる事態は、「電子」と「本」が新たなレヴェルでの外部知識・脳外知識の集積ツールの発展の中でおのおのの位置をもつということであるはずである。 もちろん、バタイユを引くまでもなく、「暗黒と嗜癖と悪意」が人間の心の中に存在するのは必然であって、それを根切りに追放することは不可能である。それが個々人と個々人の間の心と身体の相互関係である限りは、それは、人間にとっての自然でさえありうる。 ブログを書きだしてから思うのは、このことである。もちろん、ブログでも、人々は、そして私も、実際には、仮面をかぶって登場しているが、それでもブログというのは、人間の個性と仕事を直接に社会にオープンしてしまう。多くの人々が、社会にむけてそれをやりだせば、それはいわば人間関係を社会の中にむき出しにしてしまう。フェースブックは、そのようなむき出しにされた社会関係=ネットワーク関係が、どのような力を持ちうるかを明らかにした。 しかし、もし、それが廃棄できたとしたら、それにともなって破片情報を精選し、知識の共有と精選が進んだとすると、ここにはじめて「良書が悪書を追放する」ということが起こるかもしれないと思う。それを目ざして、意識的に誇りをもって「良書」を創ろう。「装丁」の価値のある良書を創ろう。それは以前のような古典的・普遍的な「良書」ではないかも知れないが、個々人にとってかけがえのない「良書」であるはずだ。 以上、昨日の帰宅総武線から、今日の、早朝よりの特別勤務のための6時30分の電車で書き継いで、さらにあたえられた余裕時間で。なお、人間文化研究機構での講演は校正を返したので、WEBPAGEにあげた。3月半ばには册子になるとのこと。
桂川潤さんの言い方では、こうやってせっかく巻物から本に進化したのに、「電子ブック」は「巻物」(SCROLL)の不便さに逆戻りということになる。私も、それ自身としてみれば、電子ブックが、後退の側面をもつことは否定できないと思う。だから、今後とも、本の形態が失われることはありえない。
「本」は、それらの先に生まれたものであって、人間の知識が「本」という外部に蓄積されるようになった時、知識は誰にとっても体系性をもちはじめる。そして、「本」という外部記憶の組織がなければ、「道具」が「機械」になるということはなかったはずである。近代社会は、その先にあった。
「本」というスタイルは、人間の「頭」にくっついている「目」と「手」のすぐ先にある記憶装置である。それは記憶装置であるが、身体それ自身によって脳に直接に接続している。ページを繰ることによって、必要な知識にたどり着くという身体性がその特徴である。どのように時代がかわっても、そういう身近で身体的な記憶装置がまったくなくなるとは思えない。それは「言語」「道具」「文字」「本」「機械」などの多様な脳外装置が、使用され続けているのと同じことである。
これが平均して50冊になり、100冊になるというのが、次の世紀、22世紀にむけて進むとよいと思う。すべての人々が、平均100冊の本を身近における社会は、平和な社会である。そして、その中でも大事な本、一生の本がいたんだり破けたりしたら、自分で修補して、装丁するというのは平和な社会である。もちろん、一冊の自分で破れを繕った本をポケットに入れて、放浪の生活を送るというのも平和な社会である。
情報の電子化によって、すべての情報が共有され、アクセスと検索が自由になる。そしてそれのみでなく、いわゆる知識データベースが発展する。これは必然的ななりゆきである。それは電子情報が俯瞰がきくようになり、「知の構造化」が進み、理解と内容のレヴェルでいえば読みやすくなることを意味している。
ばらばらな情報ではなく、脈絡と意味を十分につけ加えられた情報が、極限まで可視化されるだろう。それが文化と文化情報の全体の中に組み込まれれば、知識が文化をもち、力をもち、人間個々人を支えるという機能をもちうるかもしれない。
何よりも、知識データベースの多様な可視化は、同時に知識の蓄積を自分自身で行うということを可能にし、さらに知識レヴェルでの交流を可能にするだろう。このような知識にそった社会関係の形成とは、ようするに知識の専門性にそくした新たなアソシエーションの形成である。これはコミュニケーション様式の根本的な変革であり、それが知識世界と現実社会そのものにもたらす影響は決定的である。ネットワーク情報がばらばらで断片的な情報であるという状況は、それによって突破され、ネットワーク情報も構造と文化的な力をもつ情報に展開していくだろう。
なによりも期待されるのは、その中で欠陥情報、宣伝情報もっぱら利潤のために大量に流布される「性」「暴力」などの嗜癖情報がネットワーク世界の中の隅の方に追いやられることである。
「暗黒と嗜癖と悪意」の世界史というものを描くことが可能であるとすれば、「暗黒」の画像と文字が、これだけ公開され、人々の心の隅々まで、子供の世界にまで直接に染みわたるようになったのは、ここ20年ほどの世界史の決定的変化である。このことは本当に真剣に考えられるべきことであって、この「暗黒」を処理しうるかどうかは、人類の未来の展望に関わると思う。私は民話の研究を重視しているが、民話の最大の敵がこれである。
しかし、心の闇が、ネットワークに乗り、機械網に乗り、多くの人々の間で、これだけ組織化され、耕された時代は、世界史上、はじめてのことである。今、「闇の穴」はネットワーク世界の中に空いており、つまりPCのあるところ、携帯電話のあるところ、どこにでも開口している。
これは「光がふえれば闇も増大する」ということではあろうが、「暗黒と戦争と暴力」を食い物にする資本主義だけはやめてほしいと思う。こういう情報資本主義は親のカタキ、人類の敵である。これこそ資本主義の「腐朽性」の最たるものであって、これはすぐにでも破壊してしまいたい、アボリッシュしてしまいたい。
しかし、現代では、それは結局のところ、多くの個々人が情報社会の中にはいっていくということでしか実現できないだろう。心の闇はだれのPCの中にも空いている。その中で個々人が耐性をみにつけ、そして個々人が自分自身で情報を発信していくということなしには、情報資本主義のアボリッシュはありえないだろう。
フェースブックとブログのネットワークにすべての人々が参加するとは思えないが、しかし、それが広まることは、アノニマス(無記名)の社会を可視化してしまう。そして、社会関係がむき出しになれば、その根っこから「暗黒」の情報資本主義を駆逐することが可能になるだろう。情報資本主義は、破廉恥な無記名性を、その利潤の地盤にしているからである。
私は、知識ベースの蓄積が進み、可視化が進み、知識の文化性の力がネットワークの中で強い力をもつようになったとしても、それ自身によって「暗黒と嗜癖と悪意」がネットワークから追放できるとは考えない。また、さまざまな知識に対応する専門性の職能的なネットワークが、ネットワーク社会の中で満面開花して強い光を発揮する時代がきたとしても、それによって「暗黒と嗜癖と悪意」が追放できるとは考えない。結局のところ、知識自身は、そんな力はもたないのである。
無記名性に根を置く「暗黒と嗜癖と悪意」は、個々人が、ネットワーク社会の中にむき出しの社会を透視するということがなければ、つまりネットワークを利潤の源泉とするという関係それ自身が不可能にならなければ、それは廃棄できない、アボリッシュできないと思う。これはひそかに人々の心の奥底で進む「革命」である。