魂をはこぶ白鳥の骨
2011年2月18日の朝日新聞夕刊に白鳥の翼の骨が8世紀後半の男性の骨の入った蔵骨器の中に入っていたという記事。「魂をはこぶ白鳥の骨」という見出しである。白鳥の翼の指にあたる部分であるという。蔵骨器は土師器製で蓋がついており、白鳥の骨は、男性と一緒に火葬・埋葬された。
佐倉市の高岡新山遺跡から出土したもので、歴史民俗博物館の西本豊弘氏の鑑定である。奈良文化財研究所松井章氏が「非常に珍しい。ヤマトタケルが死んで白鳥になって飛び去ったなど、現世と冥界をつなぐ存在としての白鳥の観念を示すか」というコメントをしている。
一昨年だったか、「藤原教通と武家源氏ーー『古事談』の説話から」(浅見編『古事談を読み解く』笠間書房)という論文で『古事談』(一巻五一話)の白鳥の話しにふれたことがある。後朱雀天皇の霊が白鳥になったと考えられるという話で、それは下記のような短い話である。
寛徳二年二月の比、白鳥有り。<羽長四尺計り、身長三尺>、侍従池<西七条と云々>に来たり住む。件の鳥の鳴く詞に、「有飯、無菜」と云々。 これについての謎解きは次の通り。 寛徳二年二月、つまり一〇四五年の二月は、後朱雀院の死去の翌月にあたる。危篤状態に入った後朱雀は一月一六日に皇太子親仁親王(後冷泉)に譲位し、その翌々日、一八日に死去し、二一日に火葬にふされている。この時間経過からして、この白鳥の恠異が、後朱雀の死に関わる噂話をあらわしていることは疑いない。 この論文の本来の趣旨は、平安時代の源氏が藤原教通と深い関係をもっていたことを示し、源氏と王家・摂関家の関係を考えるという点にあった。その意味をとるために、白鳥を論ずるのが必要となったという経過である。 しかし、白鳥論にとってより根本的な問題、研究者にとっては解析が困難であるという意味でより高級な問題は、経済史と民衆史に関わる白鳥=穀霊問題である。この穀霊としての白鳥という問題は、大林太良氏が体系的に論じた問題(大林太良「穂落神」『稲作の神話』)である。この穀霊としての白鳥は、コメントで松井氏が『常陸国風土記』の鹿島郡白鳥里の白鳥童女にふれているように、白鳥天女という形式をとることが多い。かぐや姫伝説の中心になった『丹後風土記』の白鳥天女もこれに関わることはいうまでもない。 また考えるのは、このところ新聞にでる記事のうちで、歴史家からも議論を提供すべき問題が連続していること。深刻な問題と文化に関わる問題の双方。これまでは新聞を切り抜いて保存するだけだったが、その意味でも、ともかく日記ブログに書いておくというのは研究者にとってはよい習慣。
(『古事談』一巻五一話)
まず重要なのは、白鳥であろう。白鳥とは一般に白い鳥を示すが、「羽長四尺計り、身長三尺」というから、これは大白鳥である。鶴ではないし、コウノトリはなかない。白鳥はヤマトタケルのことを想起するまでもなく、高貴なる身分のものの聖霊を示す。それ故に、この白鳥は後朱雀の化身であったということになり、この白鳥の鳴き声が後朱雀の言葉であると考えられたといってよいだろう。白鳥の鳴き声は大きく騒がしいが、聞きようによって「ウーハン、ムーサイ」などと聞こえたのであろうか。
問題は、この「有飯、無菜」という鳴き声の意味であるが、これは天皇の死去・譲位に関わる慣例あるいは儀礼の調査によって、意外と簡単に知ることができる。『皇室制度史料』(太上天皇一)の第二章「太上天皇の待遇」には「太上天皇の勅旨田」という項目が立項されており、そこには、次のような記事が蒐集・掲載されている。
「上皇脱屣之後、(中略)別納供御飯<勅旨田地子>、御菜<御封物>」
(『西宮記』巻八院宮事)
つまり、天皇が譲位して太上天皇の尊号をうるとともに、上皇の封戸と勅旨田が設定される。『皇室制度史料』の解説によれば、ほぼ一〇世紀には、このような封戸と勅旨田の設定が慣例となっているという。これによって白鳥の鳴き声は、「飯(勅旨田)はあるが、菜(封物)をもっていない」という後朱雀の嘆きを表現するものであったことがわかる。
もちろん、これは『古事談』の伝える伝承であって、それが歴史的な事実であるかどうかはわからない。そもそも後朱雀は、譲位と同時に太上天皇の尊号をうけたとはいえ、その直後に死去しており、実際に勅旨田の設定が行われたかどうかは明証がなく、「後朱雀院勅旨田」の存在を示す史料も知られていない(中略)。
本稿ではむしろ、『新日本古典文学大系』の解説が述べるように、白鳥が来住した「侍従池」が、この時、内大臣藤原教通の所領であったことを論じたい。この池は、右京七条にあったが、『朝野群載』(巻廿一)に載る一〇四四年(長久五)六月十一日の「権中納言藤原信家家牒」(侍従池領地紛失状)によれば、侍従池の地は「八条大将家」(藤原保忠)ー「三条太政大臣家」(藤原頼忠)ー「入道大納言家」(藤原公任)ー「内大臣家」(藤原教通)ー「権中納言家」(藤原信家)と伝領されたものである。藤原保忠(時平子)ー藤原頼忠(母が時平娘)ー藤原公任(頼忠子)という伝領の経過は、時平流や実頼流など、一時隆盛しながらも摂関家の傍流となっていった家系の所領が、教通の許に流れ込んでいったことを示す点で興味深い。教通の実力を考える上では無視できない問題である。
後朱雀と教通の関係は深かった。つまり一〇一七年(寛仁元)八月九日、後朱雀が皇太子となった時に、教通はその東宮大夫となっている(治安元年七月廿五日、任大臣により退任。『東宮坊官補任』)。両者の関係は、たとえば後朱雀が、その晩年、頼通の愁悶を無視して教通の娘の生子を女御にむかえたことにも現れている(『藤原資房日記』長暦三年十二月)。後朱雀と教通の関係についてはさらに考証すべきことも多いが、ともかくも、以上を勘案すると、後朱雀の霊を象徴する白鳥が侍従池に降り立ったというのは、教通が後朱雀の没後、その関係者を支持する立場にあったことを示唆しているといってよい。もちろん、勅旨田などは後朱雀の子孫に分譲されるのであるが、その経営などにも教通が必要な援助をしたと考えてよいであろう。
それ故に白鳥自身について論ずることが目的であった訳ではないが、この史料は、貴人の死と葬送の関係で平安時代になっても、白鳥伝説が生きていたことを示す、管見の限りでは唯一の史料である。
神話が『古事談』という物語の中に再生していくにあたって依然として王権中枢の物語創造力の位置が大きかったことを示すといってよいのかもしれない。もちろん、神話が物語となっていくプロセスは、三宅和郎氏の『時間の古代史』によっても、きわめて普遍的で、王権中枢のみがその場となったということではないだろう。『かぐや姫と王権神話』で論じたことからしても、神話から物語という系譜はより広く正確に引いてみる必要があると思う。
しかし、ともかく、少なくともヤマトタケルから後朱雀という王権中枢における観念の系譜の線が引けることは確実である。その意味では、この『古事談』の説話の謎解きは重要だと思っている。
柳田国男が論じているように、長者が自身の富みにおごり高ぶり、戯れに餅を矢で射ると、餅が白鳥になって飛び去り、長者は没落するという長者伝説がある。これは白鳥が餅=穀霊であることを別の側面から示す伝説であるが、この長者伝説を彷彿させつ史料がないかというのを昔から捜してきた。しかし、結局、探し当てたのは、上の『古事談』だけで、それは天皇に関わることで役に立たなかったという経過である。
それにしても朝日の記事は興味深い。これをきっかけにまた別の迂回路をさがすことができればと思う。
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