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2011年3月27日 (日)

地震火山16、貞観津波の1月半後、大和国の地震

 貞観11年、陸奥国の貞観津波と同じ年は、全国、他の国々でも地震があった。その最大のものは、約二ヶ月弱後に発生した肥後国の地震で、これについては、この連載の(6)ですでに記事を紹介した(ただ、その記事には、肥後国地震発生の日時について間違いがあり、すぐに書き直す予定。.追記、3月28日のエントリーで書き直した)。
 しかし、そのほかの国でも重大な災害には至らなかったものの、地震は多かったようである。そのうち、詳細が分かるのは大和国での活断層の活動で、これは陸奥国貞観地震の約一月半後である。
 大和国・肥後国の地震が、貞観地震に引き続いたからといって、今回の東北東海岸地震において同様の経過をたどるということはいえない。しかし、『三代実録』には、この年、陸奥国・肥後国以外にも「自余の国々」(ほかの国々)において地震があったということが明記されており、そのうちの一つが偶然に大和国にあったということが分かる。大和国の地震も後に述べることからして、おそらくマグニチュード6は越えて、7に近かったであろう。どの程度かは別として地震が活発化していることは事実であるから、各地で注意が必要なことはいえるだろうと思う。

 もちろん、九世紀の地震と現在の地震の特徴や経過が本当にどこまで類似するものかは、地震科学の成果に期待するほかない問題で、その意味でも、おととい、地震学の方々の御話を直接にうかがう機会をもてたのはありがたかった。若い方々をふくむ、掛け値なしに世界でトップの地震学者たちである。本当に健闘を期待したいと思うが、それに対応する歴史学の役割や現状についてもいろいろなことを考えさせる。

 さて、『三代実録』に「自余の国々」の地震という言葉がでてくるのは、この多事であった年の年末、12月14日に、朝廷が伊勢神宮に対して発した告文によって知ることができる。長文なので、該当部分のみを下記に、原文、書き下し、解釈を掲げる。

史料C原文
又肥後国に地震風水の有て、舍宅悉仆顛り。人民多流亡たり。如此之災ひ古來未聞と、故老等も申と言上たり。然間に、陸奧国又異常なる地震の災言上たり。自余国々も、又頗有件災と言上たり(『三代実録』巻十六貞観十一年(八六九)十二月十四日丁酉)。
史料C書下
 また肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛(たおれくつがえれ)り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古來、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり。しかる間に、陸奧国、また常と異なる地震の災ひ言上したり。自余の国々も、又すこぶる件の災ひありと言上したり。
史料C現代語訳
 また肥後国に地震・風水害があって、舍宅がことごとく倒壊し、人民が多く流亡したという。このような災害は、古くから聞いたことがないと故老たちがいっているとも言上があった。その間に、陸奧国も、また常と異なる地震災害について報告をしてきた。そして、その他の国々からも地震災害の報告があった。 

 
 この「自余国々」のうち、陸奥国、肥後国以外で確実と思われるのが、右にふれたように、大和国の地震である。つまり、『三代実録』によれば、7月7日に京都で有感地震があったが、翌日、奈良で「大和国十市郡椋橋山河岸崩裂。高二丈(6㍍)、深一丈二尺。其中有鏡一、広一尺七寸、採而献之」(『三代実録』)ということが起きている。大和国の椋橋山の麓を通る川の川岸で地割れ(「崩裂」)が発生した。その断層の高さは二丈、というから約6メートルの断層ということになり、相当の活動である。高さ二丈の地割れというだけならば土砂崩れとも考えられるが、深さ一丈二尺の陥没がともなうことからして断層であることは確実である。それ故に、『大日地震史料』にも採録されている。
 こうして、『三代実録』には載っていないものの、大和国で地震があったことは確実である。実際には、この地震は7月7日に発生したもので、それにともなう地割れが翌日に発見されたということであろう。
 なお、『<新編>日本の活断層』(東京大学出版会、1991年、項目77和歌山)によれは、ちょうど、この地帯を、「活断層の疑いのあるリニアメント」(Lineament、直線的な模様にみえる地形)が東北東から西南西に通っており、その線上で山を西に一つ越えた高松塚の西、壺坂山周辺では1952年7月18日にマグニチュード6,8の地震が起きている。この「活断層の疑いのあるリニアメント」は『<新編>日本の活断層』の地図でみる限り、東北東において、伊賀の名張断層から連続しているようであり、またそれが榛原町の辺りで西にむかうリニアメントと、西南西にむかう問題のリニアメントと、さらに直接に南にむかう一本の「活断層の疑いのあるリニアメント」の三本に分岐しているようにみえることは、この地域が生駒・金剛山地などの奈良盆地西部ほどではないとしても断層地形に富んでいることを示しているように思える(ただし、同じシリーズの『近畿の活断層』2000、東京大学出版会は、この活断層「断層を挟む地形面の指標にとぼしく、弱いリニアメントにすぎないとしている)。また椋橋の地が、奈良盆地東縁を南北に走る奈良盆地東縁断層帯のちょうど延長線上にあたることも注目される点である。

 リニアメント(英語: lineament)とは、リモートセンシングによる空中写真で地表に認められる、直線的な地形の特長(線状模様)のことを言う。崖、尾根の傾斜急変部、谷や尾根の屈曲による直線的な地形、土壌や植生の境目などが直線的に現れる部分がこれにあたる。リニアメントの成因としては、侵食、堆積などのほか断層や節理など地下の地質構造が反映されたものがあり、この解析は地震・地すべりなどの災害予測や石油、金属、地熱の資源探査に用いられている(以上、ウィキペディアより。このようなリニアメントを読む能力は、昔の人ももっていたのではないかと思う)。

 なお、この椋橋山麓の河岸の断層の中から50センチもの直径をもつ「鏡」が発見されたというのも興味深い。私は、断層のあるあたりは地層の境界で、地霊が籠もるところと考えられていた可能性があり、地霊への奉献物としての埋鏡であった可能性があると考えている。
 また歴史家にとっては、この地域が談山神社のある「御破裂山」の北麓にあたり、さらにその南には多武峯があることが注目される点である。多武峯は、藤原鎌足の山陵。平安時代、しばしば「鳴動」(地震・動揺)し、占いの対象となったことが知られているからである。もし、多武峯鳴動にこの活断層によるものが含まれていたとすると、検討するべきことは多くなるが、この「活断層の疑いのあるリニアメント」のみで史料の多い、多武峯の鳴動のすべてを解釈することには若干の無理があるだろう。なお、中央構造線が、多武峯の南を走っており、ちょうど近鉄吉野線が紀ノ川流域にでる辺りで、右の「活断層の疑いのあるリニアメント」と接続していることも注意される。
 ただ、中央構造線はこの部分では約50万年前に活動を停止しているとされており、文献歴史学の側からはさらに具体的なことをいうことはできない。この「活断層の疑いのあるリニアメント」は、多武峯の鳴動の実態をどう考えるかは、まずは歴史学の側に残されている問題とするべきかもしれない。いずれにせよ、活断層あるいは「活断層の疑いのあるリニアメント」についての調査の詳細な結果を知りたいところである。
 なお、地名辞書(平凡社)によれば、倉橋付近の寺川を倉橋川ともいい、「万葉集」巻七に次の歌がある。

梯立の倉椅川の石(いは)の橋はも壮子時(をざかり)にわが渡りてし石の橋は

梯立の倉椅川の川のしづ菅わが刈りて笠にも編まぬ川のしづ菅

 「自余の国々」の地震のうちに、陸奥国大地震と同時に発生した被害報告が含まれていたかどうかはわからないが、貞観11年の全体としてみれば、これが当時の地震活動の状況を示すものとしてきわめて重要であることはいうをまたない。
 これら「自余の国々」の地震災害は相対的に軽微な災害であったために『三代実録』に載せられなかったものと考えられる。地方の地震災害は、人的・資産的な重大被害が発生していない場合は報告があっても、『正史』に載せないという判断がされていたということができる。
 今回の地震では茨城県・千葉県で家屋倒壊被害、津波被害がでている。「自余の国々」の被災報告の中に、陸奥国貞観地震と同時に発生した関東諸国の被害報告が含まれていた可能性はあるが、その被害が甚大でなかったために、『三代実録』には掲載されなかったということになる。また、関東諸国で単なる有感地震にととまり、被害がでなければ、報告はなかったはずである。それ故に、文献史料からは、貞観地震の正確な震災範囲については論及できないことになる。

以上、昼前にアップしたが、『日本の活断層』を図書館で調べてきて、追補をした。福島原発が依然として大変な様子である。食事をしながら、我々の世代からみると、三池炭坑を初めとする全国の炭坑を潰し、石油さらに原発に乗り換えてきた、1960年代からの政策の結果がいま出ていると話す。子供たちからは、そんな前からのことを、私たちにツケをまわさないでよといわれる。これは歴史家の常識であるといいたくなったが、しかし、親としては、「その通り、申し訳ない」としかいえないし、いうべきでないのかもしれない。
 歴史というのは、そういう力をもって後に結果をもたらすものなのだということは、歴史家としてよく知っているはずだが、目前でそういうことを実感したのは、たしかに始めてかもしれない。

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