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2011年3月13日 (日)

九世紀火山地震(6)ー貞観陸奥国地震と肥後国地震

 この記事は3月28日に「地震火山17」として書き直しをしていますので、地震史料の解説については、そちらをみてください。肥後国地震の発生日時は、7月14日であることがわかりましたので、その点を修正してあります。以下が本文です。<貞観11年(869年)の陸奥国(東北地方)東海岸地震についての追加的な史料紹介>。地震学の研究成果によって、この貞観地震は、3月11日の日本東海岸地震と同じ太平洋プレートの動き方によって起きたものであることがわかっている。
 ただ、この貞観地震については歴史学の側での論文はないようである。少なくとも、現在のところ確認できない。また出勤不能となっていて、調査のための道具が自宅では不足している。それゆえに、以下は、問題が大きい割には、あくまでも暫定的なものにすぎないことを御断りしておく。
 この年の、年末12月14日に朝廷は、伊勢神宮への告文を発している。それによると、この年は、陸奥国のほかに、肥後国で大地震があり、さらに「自余の国々」(他の国々)でも地震があったということである。
 第一の問題は、この肥後国の地震が、陸奥国の大地震と相前後して起きた可能性が高いことである。
 下に、それを推定させる史料を引用する。

(1)新羅賊舟、二艘、筑前国那珂郡の荒津に到来して豊前国の貢調船の絹綿を掠奪して逃げ退きたり(中略)と申せり。(2)また肥後国に地震・風水の災ありて、舎宅ことごとく仆(たお)れ顛(くつがえ)り、人民多く流れ亡びたり、かくのごとくの災ひ古来いまだ聞かずと、故老なども申すと言上したり。(3)しかる間に、陸奥国また常に異なる地震の災を言上したり。自余の国々もまたすこぶる件の災ありと言上したり」(『三代実録』貞観十一年十二月一四日条)

 これはこの年の年末、12月14日に清和天皇が伊勢神宮に出した告文の詔である。この年は、新羅商人(「賊舟」といっている)と豊前国の貢納船の間での紛議が暴力沙汰に及んだ年で、この詔は、こういう状況の中での神による守護を願うことに主眼があった。ただし、この詔が「国家の大禍」といっているように、この年は、たいへん多事な年であった。この詔は、新羅商人との衝突事件のみでなく、上のように、地震の災害などもまとめて述べて、神の守護を願ったものである。
 (1)の部分が新羅商人(「賊舟」といっている)と豊後国の貢納船の間の紛議に関わるもので、この事件の発生は5月22日。そして、(2)の部分が肥後国の地震についてふれた部分、(3)の部分が陸奥国大地震についてふれた部分。これは5月26日である。
 それ故に、もし、この(1)(2)(3)が事件の発生順序をおって書かれているとすると、陸奥国大地震と肥後国の地震は、ほとんど時間をおかずに列島を襲ったということになる。
 もちろん、(1)(2)(3)が事件の発生順序をおって書かれたかどうかは明証がなく、むしろそれとは関わりなく、この告文の中心となる(1)の事件が、詔の冒頭に書かれた可能性も高い。それ故に、厳密には、陸奥国大地震と肥後国地震が、どの程度、接近していたかは分からないというべきであろう。
 ただ、あまり間をおいていないのではないかと思われる理由は、5月26日の陸奥国地震については、10月14日に清和天皇の詔がでて、被害者に免税処置を取れという命ぜられているが(昨日のブログで紹介)、ついで10月23日に肥後国の被害について勅がでて、救援物資の給付が命令されていることである。
 この時間関係からすると、陸奥国大地震と肥後国地震を朝廷が重大問題として認識したのは、ほぼ同時であったということになる。これは、二つの地震が、少なくとも、ある程度は近接していたことの証拠であろう。しかも、肥後国に関する10月23日の勅は、肥後国の災害をおもに台風による洪水災害と認識している。そこには「壊垣、毀屋の下にあるところの残屍、乱骸」などとあるから、被害の激甚は認識されていたらしいが、地震が含まれていたことは明記されていない。この洪水災害に、地震が含まれていたと明記されるのは、右に引用した12月の史料になる。地震学のデータによると、肥後国は1792年(寛政4)の有明海津波で相当の被害記録がある(都司嘉宣「島原大変の津波による熊本県側の被害」『古地震を探る』)。ただし、そうしばしばあるものとも考えられないとすれば、それゆえに、洪水災害に津波あるいは地盤の液状化にともなう噴砂、噴水それ故に地震が含まれていたことが、後の報告によって明瞭になり、12月の文書には記録されたということなのかもしれない。ただいずれにせよ、肥後国地震は実在したものであろう。台風による洪水災害と地震水害が同時におきたために十分な実態認識が遅れたということであろうか。台風は、龍が起こすものという観念は確実にこのことにもあったろうが、地震も龍が起こすものという観念もあったとすれば、想像手原因は同じであったということにもなるかもしれない。
 いずれにせよ、10月以降になって日本の西と東でほぼ同時期に地震が発生したということを朝廷は明瞭に意識して対処方策を議論しはじめたということになる。
 これが陸奥国大地震と肥後国地震が、おそらく長くて1・2ヶ月ほどの間をおいて発生したものではないかと推定したくなる理由である。
 さらに問題となるのは、右に引用した『三代実録』貞観十一年十二月一四日条の(3)の部分に、「(陸奥国のほか)自余の国々もまたすこぶる件の災ありと言上したり」とあることで、陸奥国・肥後国のほかにも多くの国から地震「災」害の報告があったということである。「災」の程度はそれほどではなかったとしても、やはり、この貞観11年地震は、相当広域にわたる大規模なもので、全国的なものであったということが明かであろう。
 なお、この年の京都で体感された地震についても、『三代実録』は詳細に数え上げている。
 この年、貞観11年には、2月に2回、7月に1回、9月に1回、12月に1回と、陸奥国・肥後国の地震以外に、京都で体感された地震が5回もあったことのである(2月4日「是夜、地震」、2月29日「地震」、7月7日「地震」、9月25日「地震」)。また翌年の1月から5月にかけて三回の地震が記録されていることも注記しておこう。

 「大地動乱の時代」ということが実感されるような気がする。
 なお、『三代実録』の編纂の実質上の中心は菅原道真であったといわれる。そして道真が編纂した『類聚国史』には『国史大系』本で18頁に登る火山関係の資料書き抜きが残っている。現在、『類聚国史』災異部は四・五・七しか残っていないが、あるいは六は「火山」であったかもしれないと思う。そうだとすると、道真は、地震や火山に相当の興味や知識をもっていたのではないだろうか。私は、『かぐや姫と王権神話』で、『竹取物語』が9世紀の「大地動乱の時代」を強く意識していたのではないかと述べ、さらに『竹取物語』の筆者について、「道真周辺の学者世界から旧文化への訣別を告げた物語であったのかもしれない」(197頁)と述べたが、ここら辺も、『竹取物語』に道真周辺の雰囲気を感じる点である。

 この文章を書くにあたって、「古代中世地震・噴火史料データベース」(静岡大学防災総合センター)を利用させていただいていますが、若干の史料追加を行っています。また、このような論文ともいえる内容を直接にブログに発表することは、基本的にはしない方針でいますが、事態が現在の状況に密接に関わりますので例外と判断しています。

 本棚をやっと復旧した。

 茨城県土浦の伯父の家の瓦が落ちたと聞き、電話をするも通ぜず。伯父たちは別状ないというのが従姉妹の連絡。歴史学に進むにあたって大きな影響をうけ、御世話になりっぱなしなので、急に気になりはじめた。

 原発が心配である。軽水炉型が危険であることは以前からわかっていたことである。3基とも統御不能になっているとのこと。

 作業員の方、現地の方が無事であることを祈る。

 大槌・釜石には行って、見学をし、お世話になったことがある。津波のあとに愕然。どうぞ、ご無事で。

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