地震火山18。貞観陸奥国大地震前年の神戸西宮地震
このブログの「地震火山」シリーズは、11日の東北東海岸地震の理解や研究のために、あるいはその背景の説明のために、少しでも役に立つようにということで始めた。それがどう役に立つかは別として、多くの人々の人命をうばった地震・津波災害の自然的・歴史的背景についての客観的な史料を速やかに提供するのは、この時代の歴史を研究し、「史料」を読んでいるものの「給料分」の仕事であろうと考えたのである。
しかし、始めてみると、地震学の研究者が九世紀の地震史料を読むために参考にしてくれており、さらに昨年の『かぐや姫と王権神話』の執筆以来とり組んできた「火山史」とも深く関係する問題なので、さらに深入りすることになった。
現在の状況で、地震学の研究のために、少しでも参考になるかもしれないデータを提供することは歴史学の側の役割であろうと考えている。そのため、地震学や地震の理解に少しでも役にたつかもしれない史料の読みと解説を中心に記録している。そのうちでももっとも重要なものが、この時期、連続した地震や火山の客観的な事情(発生時の日時・位置・被害・震度の程度など)の解明であることはいうまでもない。これについては、現在のところ、このエントリーで終わりであると考えている(詳細な点検によって新たな情報が確認できる可能性はない訳ではないだろうが)。貞観陸奥国地震の直前、直後の関係の地域として、文献資料で確認できるのは、播磨国、摂津国(このエントリー)、大和国、肥後国ということになる。従来よりも摂津国・大和国を追加し、肥後国の再検討の必要を提示できたと考えている。
さてブログ記事で書くというのは、学術研究の発表の方法としては、あまり例のないやり方であるが、事態が事態であり、地震学の研究者に情報をとどけるもっとも早い手段であるので、かまわないと判断している。ようするに、このシリーズについては、静岡大学防災センターから公開されている「古代・中世地震噴火データベース」の解説に近いものと御考え頂ければと思う。
いま、総武線の帰宅途中。本題に戻る。
貞観陸奥国大地震の評価の上では、前年の貞観10年(868)の地震を点検することが必要であるが、この年は、京都での有感地震がきわめて多かった。総計20回。次ぎに、その日と史料を列挙する。
4月13日「地震」、4月28日「地震」、5月19日「地震」、7月8日には「地震、動内外墻屋、往々頽破」、7月9日「地震」、7月12日「地震」、7月13日「地震」、7月16日「地震」、7月20日「地震」、7月21日「地震」、8月10日「地震」、8月12日「地震」、8月14日「地震」、8月16日「地震」、8月29日「地震」、9月7日「地震」、10月27日「是夜、地震」、11月27日「地震」、12月1日「地震」、12月10日「地震」、12月16日「地震」。(和暦で掲げているので、西暦だと約一ヶ月後にずらす)
このうち、7月8日には「地震、動内外墻屋、往々頽破」とあって、やや詳しい。これは京都で、「地震が内外の垣根や家屋を揺り動かし、往々にして崩れた」ということで、他の記事よりも震度が高かったのであろう。注目されるのは、その七日後、貞観10年7月15日の『三代実録』の記事に、「播磨國言う。今月八日に、地大いに震動す。諸郡の官舍、諸定額寺の堂塔、みなことごとく頽倒す」とあることである。これは八日、京都で体感された地震の震源地が、播磨国に近かったことを明示している。播磨国では、郡役所などの役所や寺院の建物がほとんどみな倒れたとあるから、相当の激震であったものと思われる。
そして、この地震が播磨の東隣りの摂津でも相当の震度があったのではないかと想定させるのが、次の史料である。
史料(1)
十日己亥。使を摂津国広田・生田神社に使はし、奉幤す。告文にいわく、天皇が詔旨と、広田大神の広前に申賜へと申く。大神を弥高弥廣に供奉むと所念行す。而間に摂津国解すらく、地震の後に小震止まず。よりて卜求しむれは、大神のふしごり賜て、致し賜ふところなりと申り。また先日に祷り申し賜ふ事も有けり。よりて、今、從一位の御冠に上奉り崇奉る状を、主殿権助従五位下大中臣朝臣国雄を使にさして御位記を捧げ持たしめて奉出す。大神神なからも聞食て、大神、神ながらも聞食て。今も徃前も天下平安に天皇朝庭を宝位動ぎなく、常石堅石に夜守日守に護幸へ奉賜へと申賜はくと申す(『三代実録』巻十五貞観十年(八六八)閏十二月十日己亥)。
こういう文体は、宣命体といって、いわゆるノリトである。通常、これを聞くのは結婚式ぐらいになっているから読みにくいかも知れない。要約すれば、ようするに、貞観10年(868)に、天皇が摂津国の広田社と生田社に使者を派遣して、祈った。その趣旨は、「摂津国が、地震の後に余震が止まず、それを占ったところ、広田神社の神(そして生田神社の神)が、「ふしごり」(怒り)、地震を起こしたのだという報告をしてきた。また先日に天皇よりお祈りしたこともあるので、従来、神の位を従一位に一挙に上げることになったので、今後とも加護をよろしく御願いしたい」ということになる。
この神への贈位が決定されたのは、前月の半ばであったが、それを天皇の告文によって直接に広田社・生田社で読み上げさせたというのが、この記事になる。次が、やはり『三代実録』に載っている、一月ほど前の、贈位の決定自身を伝える記事である。
史料(2) この史料(1)(2)は、『大日本地震史料』(そしてそれをデータ化した上記データベース)で見逃されてきた史料である。おそらく宣命体の部分なので省略してしまったのであろう。しかし、重要なのは、上に要約したように、史料(1)に「摂津国が、地震の後に余震が止まず、それを占ったところ、広田神社の神(そして生田神社の神)が、怒って地震を起こしたのだという報告をしてきた」とあることである。ここで地震の後に余震がやまないといわれている地震は、上述の貞観10年7月15日に発生した播磨国地震を意味する。つまり、7月15日の地震は摂津国でも大きな地震であったが、その後も摂津国では余震がひどく、そのため、摂津国の国司が占いをしたところ、広田・生田両神社の祟りであるということが判明したという訳である。
十六日乙亥。地震。摂津国正三位勳八等広田の神の階を進め、特に從一位を加ふ。從四位下勳八等生田神は從三位(『三代実録』、貞観10年12月16日条)。
上述のように、『三代実録』には、この年の京都で感じられた地震が20回に上ったことが記されているが、7月15日の播磨国地震の後だけでも、7月16日「地震」、7月20日「地震」、7月21日「地震」、8月10日「地震」、8月12日「地震」、8月16日「地震」、8月29日「地震」、9月7日「地震」、10月27日「是夜、地震」、11月27日「地震」、12月1日「地震」、12月10日「地震」、12月16日「地震」、以上13回に上る。摂津国は播磨国の西隣であるから、「地震の後に小震が止まず」といわれる小規模な余震は、もっと回数が多かったのであろう。そこで不安になった摂津国の国司が、たとえばおそらく10月頃、占いをしてみたら、広田・生田の神の怒りの表現であるという占いが出たのである。
これを聞いた朝廷は、すぐに広田社・生田社の神への贈位を決定した訳ではないが、京都でも感じられる地震が、そののちも連続したので、不安になり、12月に入っても地震が続くので、12月の三度目の地震で、贈位を決定したということになる。こういう経過で、16日の京都での有感地震の直後に、贈位が決定されたに相違ない。
このように史料を読んでくると、いくつかの重要な問題が明かとなる。その第一はいうまでもなく、7月15日の地震が摂津国でも一定の被害をもたらすような大きな地震であったということである。そもそも7月15日の播磨国地震は、藤田和夫「貞観十年の播磨の地震」(『古地震』1982年)が明らかにしているように、山崎断層の活動であるとされている。山崎断層とは、高速道路の工事の中で発見された(高速と重なる)大断層であって、現在の加古川・姫路・相生の北を通っている(『新編日本の活断層』)。
7月15日に摂津国でも強い地震があったということは、この日の地震では、山崎断層のみでなく、神戸の六甲山地東南縁断層帯が動いたことを意味しているのではないだろうか。これも最終的には地震学的な証拠が必要となることであるが、文献史料からいうと、その可能性はきわめて高い。山崎断層は、西北西から、東南東に傾いて、神戸の西、三木市のあたりで、途切れており、六甲山地東南縁断層帯とは相当の距離がある。しかし、その延長線上から、六甲山地東南縁断層帯が、今度は西南西から東北東にむけて何本もの断層線の束となって延びている。そして、そのラインにのって、神戸の生田神社、西宮の広田神社が存在するのである。
広田社も生田社も、著名な神社であり、かつ複雑な神格をもっている。一般には瀬戸内海の航海神であったとみられるが、六甲山地東南縁断層帯の中央に位置することからいっても、「地震神」としての性格をもっていたことは確実であろう(なお、生田社については当初は海上から指標となる孤丘の砂山(丸山)に祀られていたが、大洪水で砂山の麓が崩壊したため刀根七太夫が神体を背負い現在地に移したという、『摂津名所図会』の記事がやや後の史料で確認される摂津国の津波との関係で注目されるところである)。
「地震神」の問題についてはさらに議論が必要であるが、以上、貞観10年7月15日の播磨国地震が摂津国における強い地震をともなっていた可能性について述べた。
以上、翌日の昼休みに書き終える。昨日夜、娘のもってきた「アリス」を一緒にみて、ジョニー・デップのマッドハンターの姿をみて疲れたせいもあって、朝の総武線では筆が進まず。映画は面白かったが、しかし、最後、アリスの自立が、中国貿易への進出、キャリアウーマンになるという形で表現されているのに疲れた。何を考えているのだろう。