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2011年3月

2011年3月30日 (水)

地震火山18。貞観陸奥国大地震前年の神戸西宮地震

 このブログの「地震火山」シリーズは、11日の東北東海岸地震の理解や研究のために、あるいはその背景の説明のために、少しでも役に立つようにということで始めた。それがどう役に立つかは別として、多くの人々の人命をうばった地震・津波災害の自然的・歴史的背景についての客観的な史料を速やかに提供するのは、この時代の歴史を研究し、「史料」を読んでいるものの「給料分」の仕事であろうと考えたのである。
 しかし、始めてみると、地震学の研究者が九世紀の地震史料を読むために参考にしてくれており、さらに昨年の『かぐや姫と王権神話』の執筆以来とり組んできた「火山史」とも深く関係する問題なので、さらに深入りすることになった。
 現在の状況で、地震学の研究のために、少しでも参考になるかもしれないデータを提供することは歴史学の側の役割であろうと考えている。そのため、地震学や地震の理解に少しでも役にたつかもしれない史料の読みと解説を中心に記録している。そのうちでももっとも重要なものが、この時期、連続した地震や火山の客観的な事情(発生時の日時・位置・被害・震度の程度など)の解明であることはいうまでもない。これについては、現在のところ、このエントリーで終わりであると考えている(詳細な点検によって新たな情報が確認できる可能性はない訳ではないだろうが)。貞観陸奥国地震の直前、直後の関係の地域として、文献資料で確認できるのは、播磨国、摂津国(このエントリー)、大和国、肥後国ということになる。従来よりも摂津国・大和国を追加し、肥後国の再検討の必要を提示できたと考えている。
 さてブログ記事で書くというのは、学術研究の発表の方法としては、あまり例のないやり方であるが、事態が事態であり、地震学の研究者に情報をとどけるもっとも早い手段であるので、かまわないと判断している。ようするに、このシリーズについては、静岡大学防災センターから公開されている「古代・中世地震噴火データベース」の解説に近いものと御考え頂ければと思う。
 いま、総武線の帰宅途中。本題に戻る。
 貞観陸奥国大地震の評価の上では、前年の貞観10年(868)の地震を点検することが必要であるが、この年は、京都での有感地震がきわめて多かった。総計20回。次ぎに、その日と史料を列挙する。

4月13日「地震」、4月28日「地震」、5月19日「地震」、7月8日には「地震、動内外墻屋、往々頽破」、7月9日「地震」、7月12日「地震」、7月13日「地震」、7月16日「地震」、7月20日「地震」、7月21日「地震」、8月10日「地震」、8月12日「地震」、8月14日「地震」、8月16日「地震」、8月29日「地震」、9月7日「地震」、10月27日「是夜、地震」、11月27日「地震」、12月1日「地震」、12月10日「地震」、12月16日「地震」。(和暦で掲げているので、西暦だと約一ヶ月後にずらす)

 このうち、7月8日には「地震、動内外墻屋、往々頽破」とあって、やや詳しい。これは京都で、「地震が内外の垣根や家屋を揺り動かし、往々にして崩れた」ということで、他の記事よりも震度が高かったのであろう。注目されるのは、その七日後、貞観10年7月15日の『三代実録』の記事に、「播磨國言う。今月八日に、地大いに震動す。諸郡の官舍、諸定額寺の堂塔、みなことごとく頽倒す」とあることである。これは八日、京都で体感された地震の震源地が、播磨国に近かったことを明示している。播磨国では、郡役所などの役所や寺院の建物がほとんどみな倒れたとあるから、相当の激震であったものと思われる。
 そして、この地震が播磨の東隣りの摂津でも相当の震度があったのではないかと想定させるのが、次の史料である。

史料(1)
 十日己亥。使を摂津国広田・生田神社に使はし、奉幤す。告文にいわく、天皇が詔旨と、広田大神の広前に申賜へと申く。大神を弥高弥廣に供奉むと所念行す。而間に摂津国解すらく、地震の後に小震止まず。よりて卜求しむれは、大神のふしごり賜て、致し賜ふところなりと申り。また先日に祷り申し賜ふ事も有けり。よりて、今、從一位の御冠に上奉り崇奉る状を、主殿権助従五位下大中臣朝臣国雄を使にさして御位記を捧げ持たしめて奉出す。大神神なからも聞食て、大神、神ながらも聞食て。今も徃前も天下平安に天皇朝庭を宝位動ぎなく、常石堅石に夜守日守に護幸へ奉賜へと申賜はくと申す(『三代実録』巻十五貞観十年(八六八)閏十二月十日己亥)。

 こういう文体は、宣命体といって、いわゆるノリトである。通常、これを聞くのは結婚式ぐらいになっているから読みにくいかも知れない。要約すれば、ようするに、貞観10年(868)に、天皇が摂津国の広田社と生田社に使者を派遣して、祈った。その趣旨は、「摂津国が、地震の後に余震が止まず、それを占ったところ、広田神社の神(そして生田神社の神)が、「ふしごり」(怒り)、地震を起こしたのだという報告をしてきた。また先日に天皇よりお祈りしたこともあるので、従来、神の位を従一位に一挙に上げることになったので、今後とも加護をよろしく御願いしたい」ということになる。
 この神への贈位が決定されたのは、前月の半ばであったが、それを天皇の告文によって直接に広田社・生田社で読み上げさせたというのが、この記事になる。次が、やはり『三代実録』に載っている、一月ほど前の、贈位の決定自身を伝える記事である。

史料(2)
 十六日乙亥。地震。摂津国正三位勳八等広田の神の階を進め、特に從一位を加ふ。從四位下勳八等生田神は從三位(『三代実録』、貞観10年12月16日条)。

 この史料(1)(2)は、『大日本地震史料』(そしてそれをデータ化した上記データベース)で見逃されてきた史料である。おそらく宣命体の部分なので省略してしまったのであろう。しかし、重要なのは、上に要約したように、史料(1)に「摂津国が、地震の後に余震が止まず、それを占ったところ、広田神社の神(そして生田神社の神)が、怒って地震を起こしたのだという報告をしてきた」とあることである。ここで地震の後に余震がやまないといわれている地震は、上述の貞観10年7月15日に発生した播磨国地震を意味する。つまり、7月15日の地震は摂津国でも大きな地震であったが、その後も摂津国では余震がひどく、そのため、摂津国の国司が占いをしたところ、広田・生田両神社の祟りであるということが判明したという訳である。
 上述のように、『三代実録』には、この年の京都で感じられた地震が20回に上ったことが記されているが、7月15日の播磨国地震の後だけでも、7月16日「地震」、7月20日「地震」、7月21日「地震」、8月10日「地震」、8月12日「地震」、8月16日「地震」、8月29日「地震」、9月7日「地震」、10月27日「是夜、地震」、11月27日「地震」、12月1日「地震」、12月10日「地震」、12月16日「地震」、以上13回に上る。摂津国は播磨国の西隣であるから、「地震の後に小震が止まず」といわれる小規模な余震は、もっと回数が多かったのであろう。そこで不安になった摂津国の国司が、たとえばおそらく10月頃、占いをしてみたら、広田・生田の神の怒りの表現であるという占いが出たのである。
 これを聞いた朝廷は、すぐに広田社・生田社の神への贈位を決定した訳ではないが、京都でも感じられる地震が、そののちも連続したので、不安になり、12月に入っても地震が続くので、12月の三度目の地震で、贈位を決定したということになる。こういう経過で、16日の京都での有感地震の直後に、贈位が決定されたに相違ない。
 このように史料を読んでくると、いくつかの重要な問題が明かとなる。その第一はいうまでもなく、7月15日の地震が摂津国でも一定の被害をもたらすような大きな地震であったということである。そもそも7月15日の播磨国地震は、藤田和夫「貞観十年の播磨の地震」(『古地震』1982年)が明らかにしているように、山崎断層の活動であるとされている。山崎断層とは、高速道路の工事の中で発見された(高速と重なる)大断層であって、現在の加古川・姫路・相生の北を通っている(『新編日本の活断層』)。
 7月15日に摂津国でも強い地震があったということは、この日の地震では、山崎断層のみでなく、神戸の六甲山地東南縁断層帯が動いたことを意味しているのではないだろうか。これも最終的には地震学的な証拠が必要となることであるが、文献史料からいうと、その可能性はきわめて高い。山崎断層は、西北西から、東南東に傾いて、神戸の西、三木市のあたりで、途切れており、六甲山地東南縁断層帯とは相当の距離がある。しかし、その延長線上から、六甲山地東南縁断層帯が、今度は西南西から東北東にむけて何本もの断層線の束となって延びている。そして、そのラインにのって、神戸の生田神社、西宮の広田神社が存在するのである。
 広田社も生田社も、著名な神社であり、かつ複雑な神格をもっている。一般には瀬戸内海の航海神であったとみられるが、六甲山地東南縁断層帯の中央に位置することからいっても、「地震神」としての性格をもっていたことは確実であろう(なお、生田社については当初は海上から指標となる孤丘の砂山(丸山)に祀られていたが、大洪水で砂山の麓が崩壊したため刀根七太夫が神体を背負い現在地に移したという、『摂津名所図会』の記事がやや後の史料で確認される摂津国の津波との関係で注目されるところである)。
 「地震神」の問題についてはさらに議論が必要であるが、以上、貞観10年7月15日の播磨国地震が摂津国における強い地震をともなっていた可能性について述べた。
 以上、翌日の昼休みに書き終える。昨日夜、娘のもってきた「アリス」を一緒にみて、ジョニー・デップのマッドハンターの姿をみて疲れたせいもあって、朝の総武線では筆が進まず。映画は面白かったが、しかし、最後、アリスの自立が、中国貿易への進出、キャリアウーマンになるという形で表現されているのに疲れた。何を考えているのだろう。

2011年3月28日 (月)

地震火山17貞観の肥後地震(書き直し再掲)

 以下は、3月14日掲載の肥後国地震についての記事(地震火山6)を書き直したもの(3月14日の記事も残したままにしてあるが、こちらを参照されたい)。
 ただし、陸奥国貞観地震の約二月後に起きた肥後国の災害については、宇佐美龍夫『被害地震総覧』は、地震災害であるかどうかについて疑問を提示し、被害地震番号からのぞいている。それ故に、貞観の肥後国の災害が地震あるいは地殻変動に起因する津波によるものであったかどうかは、最終的には、地震学の側での結論が下るのを待つべきである。

 しかし、文献史料による限り、以下に述べるように、地震津波による災害であった可能性が高いように思われる。
 貞観11年(869)、年末12月14日に朝廷は、伊勢神宮への告文を発している。それによると、この年は、陸奥国のほかに、肥後国で大地震があり、さらに「自余の国々」(他の国々)でも地震があったということである。
 その伊勢神宮への告文の主要部分を次ぎに掲げる。

史料C
「(1)新羅賊舟、二艘、筑前国那珂郡の荒津に到来して豊前国の貢調船の絹綿を掠奪して逃げ退きたり(中略)と申せり。(2)また肥後国に地震・風水の災ありて、舎宅ことごとく仆(たお)れ顛(くつがえ)り、人民多く流れ亡びたり、かくのごとくの災ひ古来いまだ聞かずと、故老なども申すと言上したり。(3)しかる間に、陸奥国また常に異なる地震の災を言上したり。自余の国々もまたすこぶる件の災ありと言上したり」(『三代実録』貞観十一年十二月一四日条)

史料C書下(2・3の部分のみ)
 また肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古來、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり。しかる間に、陸奧国、また常と異なる地震の災ひ言上したり。自余の国々も、又すこぶる件の災ひありと言上したり。

史料C現代語訳(2・3の部分のみ)
 また肥後国に地震・風水害があって、舍宅がことごとく倒壊し、人民が多く流亡したという。このような災害は、古くから聞いたことがないと故老たちがいっているとも言上があった。その間に、陸奧国も、また常と異なる地震災害について報告をしてきた。そして、その他の国々からも地震災害の報
告があった。

 この年は、新羅商人(「賊舟」といっている)と豊前国の貢納船の間での紛議が暴力沙汰に及んだ年で、この詔は、こういう状況の中での神による守護を願うことに主眼があった。ただし、この詔が「国家の大禍」といっているように、この年は、たいへん多事な年であった。この詔は、新羅商人との衝突事件のみでなく、上のように、地震の災害などもまとめて述べて、神の守護を願ったものである。
 (1)の部分が新羅商人(「賊舟」といっている)と豊後国の貢納船の間の紛議に関わるもので、この事件の発生は5月22日。そして、(2)の部分が肥後国の地震についてふれた部分、(3)の部分が陸奥国大地震についてふれた部分。これは5月26日である。
 ただし、(1)(2)(3)が事件の発生順序をおって書かれたものではなく、この告文の中心となる(1)の事件が、詔の冒頭に書かれた関係で、同じ九州での事件、肥後国地震が、その次ぎに書かれたものである。肥後国地震は次の二つの史料が示すように、陸奥国貞観津波の約2ヶ月弱後、7月14日に発生した。

史料D
十四日庚午。風雨。是日。肥後国大風雨。飛瓦拔樹。官舍民居顛倒者多。人畜壓死不可勝計。潮水漲溢。漂沒六郡。水退之後。搜摭官物。十失五六焉。自海至山。其間田園數百里。陷而爲海(『三代實録』卷十六貞觀十一年(八六九)七月十四日庚午)。

史料D書き下し
 この日、肥後国、大風雨。瓦を飛ばし、樹を抜く。官舍民居、顛倒するもの多し。人畜の圧死すること、勝げて計ふべからず。潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す。水退ぞくの後、官物を捜り摭ふに、十に五六を失ふ。海より山に至る。其間の田園、數百里、陷ちて海となる。

史料D現代語訳
 この日、肥後国では台風が瓦を飛ばし、樹木を抜き折る猛威をふるった。官舎も民屋も倒れたものが多い。それによって人や家畜が圧死することは数え切れないほどであった。海や川が漲り溢れてきて、六つの郡が洪水の下になった。水が引いた後に、官庫の稲を検査したところ、半分以上が失われていた。海から山まで、その間の田園、数百の条里の里(6町四方方格)が沈んで海となった。

史料E
廿三日丁未。延六十僧於紫震殿。轉讀大般若經。限三日訖。是日。勅曰。妖不自作。其來有由。靈譴不虚。必應粃政。如聞。肥後国迅雨成暴。坎徳爲災。田園以之淹傷。里落由其蕩盡。夫一物失所。思切納隍。千里分憂。寄歸牧宰。疑是皇猷猶鬱。吏化乖宜。方失心。致此變異歟。昔周郊偃苗。感罪己而弭患。漢朝壞室。據修徳以攘。前事不忘。取鑒在此。宜施以徳政。救彼凋殘。令大宰府。其被害尤甚者。以遠年稻穀四千斛周給之。勉加存恤。勿令失。又壞垣毀屋之下。所有殘屍亂骸。早加收埋。不令露(『三代實録』卷十六貞觀十一年(八六九)十月廿三日丁未)。

史料E書き下し(一部のみ)。
 聞くならく、肥後国、迅雨、暴をなし。坎徳、災をなす。田園これをもって淹傷し、里落、それにより蕩盡す。

史料E現代語訳 
 聞いているところでは、肥後国において、台風が暴れ、水の神が災いをな
した。田園はこれによって大きく傷つき、村落はつぶれたものも多い。

 この史料D・Eは『大日本地震史料』に不掲載であり、『大日本地震史料』は、肥後国地震を史料Cによって12月に発生したとしている。宇佐美龍夫『被害地震総覧』もそれを引き継いでいるが、それは錯誤であると考えられる。先稿では、もっぱらそれによったため、肥後国地震が7月14日に発生したことを見逃した。
 貞観11年肥後国地震は、台風と同時に発生した津波地震であると考えられる。史料Dで「潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す」とあるのは、水害が台風被害のみでなく、津波と認識されていたことを示している。史料Eのいう「坎徳爲災」は水神の悪行という意味で、津波の災害が意識されているかもしれない。また「壊垣、毀屋の下にあるところの残屍、乱骸」などとあるから、被害の激甚は認識されていたらしい。しかしこれらでは、災害に地震あるいは津波が含まれていたことは明記されていない。
 地震災害であったことが明記されるのが、冒頭にかかげた史料Cの12月段階である。そこでは文脈上、陸奥と同様な地震の災害と判断されていることは明瞭。台風と同時に発生した洪水災害に津波が含まれていたことが、後の報告によって明瞭になったのは12月の頃であったということなのかもしれない。いずれにせよ、12月段階で、日本の西と東でほぼ同時期に地震が発生したということを朝廷は明瞭に意識して対処方策を議論しはじめたということになる。やはり、貞観11年は、相当大規模な地震活動が全国で活性化した年であったことがわかる。

 このように史料が「地震の災い」を明記しているにもかかわらず、この肥後国の水害が地震もしくは地震に起因する津波のせいであることが断言できないのは、江戸時代、「島原大変、肥後迷惑」といわれた1792年(寛政四)4月1日の島原雲仙岳の噴火と、眉山の山体崩壊にともなう地震との関係で、貞観肥後国災害が津波であったかどうかを確定しがたいためである。
 寛政四年の肥後国津波は、眉山の山体崩壊にともなって大量の土砂が有明海になだれ込み、それによって発生した津波が対岸の肥後を直撃したというもの。素人の考え方だと、あるいは、寛政四年地震においても、眉山の崩壊と同時に、有明海海底の地殻変動が存在し、それも津波の一因となったのであろうかと考えるが、これは証拠はない。
 貞観肥後国災害の時、雲仙岳の噴火の記録はないから、もし肥後国に津波があったとすると、その発現機構は、雲仙岳の噴火とは別のところに求めなければならない。これがむずかしいということだと思う。
 なお、この問題は奈良時代半ば、744年(天平16)に発生した、同じような肥後国の災害の評価にも関わってくる。その史料を下記に掲げる。

 五月庚戌五月庚戌。肥後國雷雨地震。八代。天草。葦北三郡官舍。并田二百九十餘町。民家四百七十餘區。人千五百廿餘口被水漂沒。山崩二百八十餘所。有圧死人四十餘人。並加賑恤(『続日本紀』巻十五天平十六年(七四四)。
 

 つまり、肥後国で雷雨と地震があり、三郡の役所が崩壊し、田地290町、民家470区がつぶれ、1500人ほどの人が流され、また山崩れが各所で発生し、それによる死者も40人以上に登ったということである。この記事は事実を反映していると考えられるから、ここでも津波が発生したことが想定される。この津波の発現機構も最終的には地震学の側での議論が必要となると考えられる。
 以上、肥後国の貞観11年の災害が本当に地震災害であったかは、地震学の調査によって最終的に決定されるほかないが、文献史料を読んでいる限りでは、その可能性は高いと思われるのである。

2011年3月27日 (日)

千葉の裏道、自転車と変電所

 図書館で『活断層』を借りるため、昼前に自転車で出る。少し気が変わって、反対方向の丘の方へ登る。私の住んでいる千葉市の北東を国道16号とそれにそった高速道路が横切っている。そのさらに北東、裏手に入り込んで、裏道を探し、丹後井堰の方角を目ざす。丹後井堰は、江戸時代の灌漑用水遺構。その奧に千葉市が計画した親水公園が、部分的にできあがっている。そこに行くできるかぎり静かな道を、これまでなんども探ったが、うまく行かなかった。しかし、今回はうまい裏道を発見する。
 自転車に乗っていてよいのは、都市のスプロール化、無秩序な繁殖というものが、いかに破壊的なものかがわかること。緑の少し豊かな道を探して進むが、すぐにあれた感じの道になる。いわゆる乱開発のあと。巨大な道路、そのそばの荒れたゴミのちらばる空き地。それをつなぐように少し緑の多い道。昨年、自転車に乗りはじめてから、週末ごとにそれを痛感していた。
  Uramiti_5  自宅から、国道を横切り、スーパーマーケットの裏から高速のガードを潜ると、そこは谷戸の水田の保存区域、そこから南に丘に登り、高速の裏側で、できるかぎり緑の多い道をたどっていく。高速が地面に潜るところで、いつもは右に行くが、今日は左をとって、遠くなっても高速の裏側に固執する。そうして出た谷戸から高速道路の覆い屋根がみえる(写真)が、そこでも高速のそばに寄らず、奧に曲がる。谷戸はむかしは水田であったはずだが、水田の耕作はされておらず、荒れた藪沼の土地になっている。

ここは、おそらくおそくも鎌倉時代には、最上等な水田の一つであったろう。もったいないと思いながら、谷戸の中途から、藪道を登る(写真)。この藪道は、そこだけ取ると、普通の山道である。ゆっくり歩いて登る。
 Yamamiti こういう自然はうれしい。これらの自然を破壊し、無用化して、都市はスプロール化した。どれだけの自然をこわして都市ができているのか本当に、実感する。

 丘の上は、墓場。そして、そこを曲がると、巨大な配電所である。大地におりたった針金機械製の化け物のようにみえる。送電線が集中している。だから、まわりは自然と荒れた空き地があつまっている。千葉市中枢にきわめて近い場所に「自然」が残されている理由を、これで了解。配電所建設の関係で残っていた「自然」であるに相違ない。しかし、そこから下る道は快適。高速の脇道から、丹後井堰の手前にくだる。
 Hendensho 配電所の風景はなかなかのもの。これが都市の中枢神経系統であり、動力系統。これは自宅まで続いているはずである。この巨大な配電所が千葉の配電を管理しているに相違ない。このシステムを使って、東京電力が「計画停電」しており、さらにここには福島原発からの電力もきていたかもしれないと思うと、何ともいえない感じである。何もしらずに、この地域で生活していたことを実感する。万が一、千葉を襲う何らかの大災害が発生した時、人は、この配電所のことを知ることになるのだろう。

 もちろん、配電所が重要であることはいうをまたない。しかし、だからこそ、このような巨大施設は地中におき、そして内部を見学できるようにしてほしい。そして、歴史家としては、その時、本当に徹底的な考古学的調査を要望したい、そして、配電所の上は、小博物館としてほしいものだと思う。それこそが破壊する自然に対する礼儀というものではないかと思う。それはたんに企業の問題ではなく、都市に住むものが、自分たちの環境諸条件をつねに認識しながら生きていくために必要なのだと思う。
 こういう都市の裏の土地、いわば「無縁」の土地。都市の裏手の土地は、意外と日常の目には触れないのかもしれない。いわば「かさぶた」のように自然のうえに覆い被さっている様子が、境界的地帯、裏側、裏道からみるとよくみえる。境界地帯こそが「コモンズ」たるべき自然なのであろうが、実際は、トラップにはめられた自然という感じである。

 これは車に乗っている人の目にはふれないのではないかと思う。しかし、こういう風景こそ、都市生活者の常識となるべきことであろう。そのためにも、この道を自転車専用道路にしてほしいと思う。それはきれい事ではなく、無秩序に破壊された自然を実感するための道路である。

 それにしても無秩序に破壊された自然は、どこかで、その中に棲んでいる人間の精神の健康を破壊するのではないだろうか。それがどういう経路で進むのかはわからないが、あたかも檻の中の動物が鬱屈するように、対内的自然、主体的自然としての肉体と精神の荒廃がもたらされるのではないだろうか。
 丹後井堰のそばでは田圃の荒起こしがすんでいる。

Araokosi

地震火山16、貞観津波の1月半後、大和国の地震

 貞観11年、陸奥国の貞観津波と同じ年は、全国、他の国々でも地震があった。その最大のものは、約二ヶ月弱後に発生した肥後国の地震で、これについては、この連載の(6)ですでに記事を紹介した(ただ、その記事には、肥後国地震発生の日時について間違いがあり、すぐに書き直す予定。.追記、3月28日のエントリーで書き直した)。
 しかし、そのほかの国でも重大な災害には至らなかったものの、地震は多かったようである。そのうち、詳細が分かるのは大和国での活断層の活動で、これは陸奥国貞観地震の約一月半後である。
 大和国・肥後国の地震が、貞観地震に引き続いたからといって、今回の東北東海岸地震において同様の経過をたどるということはいえない。しかし、『三代実録』には、この年、陸奥国・肥後国以外にも「自余の国々」(ほかの国々)において地震があったということが明記されており、そのうちの一つが偶然に大和国にあったということが分かる。大和国の地震も後に述べることからして、おそらくマグニチュード6は越えて、7に近かったであろう。どの程度かは別として地震が活発化していることは事実であるから、各地で注意が必要なことはいえるだろうと思う。

 もちろん、九世紀の地震と現在の地震の特徴や経過が本当にどこまで類似するものかは、地震科学の成果に期待するほかない問題で、その意味でも、おととい、地震学の方々の御話を直接にうかがう機会をもてたのはありがたかった。若い方々をふくむ、掛け値なしに世界でトップの地震学者たちである。本当に健闘を期待したいと思うが、それに対応する歴史学の役割や現状についてもいろいろなことを考えさせる。

 さて、『三代実録』に「自余の国々」の地震という言葉がでてくるのは、この多事であった年の年末、12月14日に、朝廷が伊勢神宮に対して発した告文によって知ることができる。長文なので、該当部分のみを下記に、原文、書き下し、解釈を掲げる。

史料C原文
又肥後国に地震風水の有て、舍宅悉仆顛り。人民多流亡たり。如此之災ひ古來未聞と、故老等も申と言上たり。然間に、陸奧国又異常なる地震の災言上たり。自余国々も、又頗有件災と言上たり(『三代実録』巻十六貞観十一年(八六九)十二月十四日丁酉)。
史料C書下
 また肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛(たおれくつがえれ)り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古來、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり。しかる間に、陸奧国、また常と異なる地震の災ひ言上したり。自余の国々も、又すこぶる件の災ひありと言上したり。
史料C現代語訳
 また肥後国に地震・風水害があって、舍宅がことごとく倒壊し、人民が多く流亡したという。このような災害は、古くから聞いたことがないと故老たちがいっているとも言上があった。その間に、陸奧国も、また常と異なる地震災害について報告をしてきた。そして、その他の国々からも地震災害の報告があった。 

 
 この「自余国々」のうち、陸奥国、肥後国以外で確実と思われるのが、右にふれたように、大和国の地震である。つまり、『三代実録』によれば、7月7日に京都で有感地震があったが、翌日、奈良で「大和国十市郡椋橋山河岸崩裂。高二丈(6㍍)、深一丈二尺。其中有鏡一、広一尺七寸、採而献之」(『三代実録』)ということが起きている。大和国の椋橋山の麓を通る川の川岸で地割れ(「崩裂」)が発生した。その断層の高さは二丈、というから約6メートルの断層ということになり、相当の活動である。高さ二丈の地割れというだけならば土砂崩れとも考えられるが、深さ一丈二尺の陥没がともなうことからして断層であることは確実である。それ故に、『大日地震史料』にも採録されている。
 こうして、『三代実録』には載っていないものの、大和国で地震があったことは確実である。実際には、この地震は7月7日に発生したもので、それにともなう地割れが翌日に発見されたということであろう。
 なお、『<新編>日本の活断層』(東京大学出版会、1991年、項目77和歌山)によれは、ちょうど、この地帯を、「活断層の疑いのあるリニアメント」(Lineament、直線的な模様にみえる地形)が東北東から西南西に通っており、その線上で山を西に一つ越えた高松塚の西、壺坂山周辺では1952年7月18日にマグニチュード6,8の地震が起きている。この「活断層の疑いのあるリニアメント」は『<新編>日本の活断層』の地図でみる限り、東北東において、伊賀の名張断層から連続しているようであり、またそれが榛原町の辺りで西にむかうリニアメントと、西南西にむかう問題のリニアメントと、さらに直接に南にむかう一本の「活断層の疑いのあるリニアメント」の三本に分岐しているようにみえることは、この地域が生駒・金剛山地などの奈良盆地西部ほどではないとしても断層地形に富んでいることを示しているように思える(ただし、同じシリーズの『近畿の活断層』2000、東京大学出版会は、この活断層「断層を挟む地形面の指標にとぼしく、弱いリニアメントにすぎないとしている)。また椋橋の地が、奈良盆地東縁を南北に走る奈良盆地東縁断層帯のちょうど延長線上にあたることも注目される点である。

 リニアメント(英語: lineament)とは、リモートセンシングによる空中写真で地表に認められる、直線的な地形の特長(線状模様)のことを言う。崖、尾根の傾斜急変部、谷や尾根の屈曲による直線的な地形、土壌や植生の境目などが直線的に現れる部分がこれにあたる。リニアメントの成因としては、侵食、堆積などのほか断層や節理など地下の地質構造が反映されたものがあり、この解析は地震・地すべりなどの災害予測や石油、金属、地熱の資源探査に用いられている(以上、ウィキペディアより。このようなリニアメントを読む能力は、昔の人ももっていたのではないかと思う)。

 なお、この椋橋山麓の河岸の断層の中から50センチもの直径をもつ「鏡」が発見されたというのも興味深い。私は、断層のあるあたりは地層の境界で、地霊が籠もるところと考えられていた可能性があり、地霊への奉献物としての埋鏡であった可能性があると考えている。
 また歴史家にとっては、この地域が談山神社のある「御破裂山」の北麓にあたり、さらにその南には多武峯があることが注目される点である。多武峯は、藤原鎌足の山陵。平安時代、しばしば「鳴動」(地震・動揺)し、占いの対象となったことが知られているからである。もし、多武峯鳴動にこの活断層によるものが含まれていたとすると、検討するべきことは多くなるが、この「活断層の疑いのあるリニアメント」のみで史料の多い、多武峯の鳴動のすべてを解釈することには若干の無理があるだろう。なお、中央構造線が、多武峯の南を走っており、ちょうど近鉄吉野線が紀ノ川流域にでる辺りで、右の「活断層の疑いのあるリニアメント」と接続していることも注意される。
 ただ、中央構造線はこの部分では約50万年前に活動を停止しているとされており、文献歴史学の側からはさらに具体的なことをいうことはできない。この「活断層の疑いのあるリニアメント」は、多武峯の鳴動の実態をどう考えるかは、まずは歴史学の側に残されている問題とするべきかもしれない。いずれにせよ、活断層あるいは「活断層の疑いのあるリニアメント」についての調査の詳細な結果を知りたいところである。
 なお、地名辞書(平凡社)によれば、倉橋付近の寺川を倉橋川ともいい、「万葉集」巻七に次の歌がある。

梯立の倉椅川の石(いは)の橋はも壮子時(をざかり)にわが渡りてし石の橋は

梯立の倉椅川の川のしづ菅わが刈りて笠にも編まぬ川のしづ菅

 「自余の国々」の地震のうちに、陸奥国大地震と同時に発生した被害報告が含まれていたかどうかはわからないが、貞観11年の全体としてみれば、これが当時の地震活動の状況を示すものとしてきわめて重要であることはいうをまたない。
 これら「自余の国々」の地震災害は相対的に軽微な災害であったために『三代実録』に載せられなかったものと考えられる。地方の地震災害は、人的・資産的な重大被害が発生していない場合は報告があっても、『正史』に載せないという判断がされていたということができる。
 今回の地震では茨城県・千葉県で家屋倒壊被害、津波被害がでている。「自余の国々」の被災報告の中に、陸奥国貞観地震と同時に発生した関東諸国の被害報告が含まれていた可能性はあるが、その被害が甚大でなかったために、『三代実録』には掲載されなかったということになる。また、関東諸国で単なる有感地震にととまり、被害がでなければ、報告はなかったはずである。それ故に、文献史料からは、貞観地震の正確な震災範囲については論及できないことになる。

以上、昼前にアップしたが、『日本の活断層』を図書館で調べてきて、追補をした。福島原発が依然として大変な様子である。食事をしながら、我々の世代からみると、三池炭坑を初めとする全国の炭坑を潰し、石油さらに原発に乗り換えてきた、1960年代からの政策の結果がいま出ていると話す。子供たちからは、そんな前からのことを、私たちにツケをまわさないでよといわれる。これは歴史家の常識であるといいたくなったが、しかし、親としては、「その通り、申し訳ない」としかいえないし、いうべきでないのかもしれない。
 歴史というのは、そういう力をもって後に結果をもたらすものなのだということは、歴史家としてよく知っているはずだが、目前でそういうことを実感したのは、たしかに始めてかもしれない。

2011年3月25日 (金)

地震火山15,陸奥国貞観地震の史料原文、現代語訳

 陸奥国貞観地震の史料の原文と現代語訳を下記に掲げる。このシリーズの(1)で記したが、これは原文・読み下し・現代語訳のすべて。今日は地震の研究者との小研究集会。そのために用意しているものの一部。また後に記すがいろいろな人に教示をいただいた。

 「貞観地震」といわれているものは、下記の『日本三代実録』(『国史大系』)の貞観十一年五月廿六日条に記録がある。
(イ)原文と現代語訳(史料A・B)
史料A(原文)
廿六日癸未。陸奥国地大震動、流光如昼隠映、頃之、人民叫呼、伏不能起、或屋仆圧死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城郭倉庫、門櫓墻壁、頽落顛覆、不知其数、海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝洄漲長、忽至城下、去海數十百里、浩々不弁其涯涘、原野道路、惣為滄溟、乘船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉、
史料読み下し。
 陸奥国の地、大いに震動す。流光、昼の如く隠映す。しばらくして人民叫呼して、伏して起きることあたわず。あるいは屋仆て圧死し、あるいは地裂けて埋殪(埋死)す。馬牛は駭奔し、あるいは互いに昇踏す。城郭・倉庫、門櫓・墻壁など頽落して顛覆すること、その数を知らず。海口は哮吼し、その聲、雷霆に似る。驚濤と涌潮と、泝洄し、漲長して、たちまちに城下にいたる。海を去ること数十百里、浩々としてその涯を弁ぜす。原野道路、すべて滄溟となる。船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし。溺死するもの千ばかり、資産・苗稼、ほとんどひとつとして遺ることなし。

 次ぎに、解釈を現代語訳をもって示す。

 陸奥国の大地が大いに震動した。(夜)、流光が昼のように空を覆い照らした。その直後、人民は叫び呼び、地面に伏して起きあがることもできない。あるいは家屋がたおれて、その下で圧死する場合もあり、あるいは地面が裂けて、その土砂に埋まって死んでしまうという状況である。馬牛は、驚き走って、互いに踏みつけあう有様である。城郭や倉庫、また門櫓、垣壁などが崩れ落ち、ひっくり返ることが数知れない。海口がほえたて、その声は雷電のようであった。そして、激しい波と高潮がやってきて、川をさかのぼり、また漲り進んで、たちまち多賀城の直下まで到来した。海を離れること数十百里(数十里と百里の間)の距離まで洪水になった様子は、広々としてその果てを区別することができない。原野や道路はすべて青海原のようになってしまった。船に乗る余裕もなく、山に登る時間もなく、その中で、溺死するものが千余人にも及んだ。資産や田畠の作物は、ひとつとして遺ることなく全滅してしまった。

 以上、杉山巌(東京大学大学院)、江静(浙江工商大学)、小島浩之(東京大学経済学部)、高橋昌明(日本史研究会)の諸氏の教示をえているが、文責は保立にある。

2011年3月22日 (火)

地震火山(14)貞観津波に最初に注目した人ー今村明恒

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 貞観地震についてはじめて注目した研究者は今村明恒(1870-1948写真はウィキペディアより)。今村は、日本の地震学の最初の確立者であり、関東大震災の危険を予知した研究者として著名である。今村は、自然科学者であるが、歴史史料を扱う能力も高く、歴史地震学の分野でも、実質上、最初の開拓者である。

 彼が貞観地震についてふれた論文は、下記の二つの論文。

(イ)「日本に於ける過去の地震活動について(未定稿)」(『地震』8巻,121-134頁)、
(ロ)「日本に於ける過去の地震活動について(増訂)」(『地震』8巻,600ー606頁)であろう。
 
 そのうち、貞観地震にふれた部分は下記の通り。

(イ)「三陸沖に於ける地下大活動は過去1500年間において次の3回を数える。Ⅰ貞観11年5月26日(西紀869Ⅶ13)、Ⅱ慶長16年10月28日(西紀1611ろ12ⅩⅡ)、Ⅲ明治29年6月15日(西紀1896)および昭和8年3月3日(西紀1933)」(上記「未定稿」134頁)。

(ロ)「三陸太平洋沿岸に於ける大津波中特に規模の雄大であったのは、貞観11年(西紀869年)、慶長16(1611年)のものであって、明治29年(1896年)のもの之に次ぎ、昭和8年(1933年)のもの、又之に次ぐであろう」(上記「増訂」601頁)。

 今村は津波が海底地盤の隆起によって起こるということをはじめて論じた学者とされるが、「これらが(これらの津波がーー筆者注)いずれも上記地震活動の旺盛期のみに起こったのは特筆すべき事実といわねばならぬ」とする。
 問題は、ここで日本列島における「地震活動の旺盛期」を試論的に提示していることで、それは、(1)7世紀末期から9世紀末、(2)16世紀末から18世紀初頭、(3)19世紀半ば以降の三期であるという。
 
 ここでは(1)(2)期が問題であるが、これについて、今村は「活動旺盛期、とくに第1期、第2期はその期間あまり長からざるにかかわらず、地震活動が、この間に本邦における地震帯の全系統を少なくも一巡しているようにみえる。これはまったく偶然の結果かもしれないが、しかし各期における活動の原因が広く日本に対して働きつつあった一勢力にありとみる時、斯様な現象の起こるのもむしろ自然のように思われる」としている(なお、この(1)(2)期がどちらも富士山の大噴火をともなっていることが注目されよう)。

 今村が列島の自然史の中で、地震活動の集中期を設定したことが、今の歴史地震学のレヴェルで正しいのかどうかはわからない。地震噴火が文献史料だと、とくに九世紀に集中するようにみえるのは、史料上の偶然にもよるという批判もある(早川由起夫『歴史地震』15号論文)。しかし、「広く日本に対して働きつつあった一勢力」というものが存在し、一定の周期で、列島全体の『動乱の時代』がやってくるという想定は、それ自身として興味深い。
 
 以上から、今村が、貞観津波(869年)を日本列島における歴史的な地震活動の最初の活発期、「7世紀末期から9世紀末」の最後にあたる重要な地震として位置づけていることがわかる。
 この論文の発表は1936年。『地震』第8巻3号と12号に掲載されたもの。未定稿と増訂で内容は重なっており、しかも未完のものだが、今村の仕事にとっても、歴史地震学にとっても重要な意義をもつ論文のようである(『地震』は「地震学会」の機関誌。地震学会は東京帝国大学理学部地震学教室内におかれていた)。

 今村は、このような体系的な理解にもとずき、(3)期は進行中であり、しかも(1)(2)期で発生した大規模な東南海地震が未発生であることに注目し、東南海地震の発生を警告し、私費を投じて地震測候所を各地に設置した。警告通り、1944年に東南海地震が発生し、戦争状態の下で大きな被害をまねいたことが知られている。いわゆる「東海大地震」問題の学説史的な根っこは、どうもここにあるらしい。
 歴史学でいうと、中田薫のような人なのだろうと思う。歴史学でも、石母田正・佐藤進一・永原慶二・網野善彦・石井進・笠松宏至などの著名な戦後派歴史学者は、みな中田との格闘の中で自己の学説を形成した。そして中田学説の乗り越えは、まだ我々の世代の課題として残っている。いわゆる「明治の学者は偉かった」ということであるが、それにしても、地震学の場合は、国土の運命に具体的に関わるだけに影響が大きい。歴史学もこの列島社会の運命に関わる学問ではあるが、今村の貞観津波論についての言及を知ると複雑な感慨をもたされる。

地震火山(13)宮城資料ネット・ニュースの転載

宮城資料ネット・ニュース95号・東北関東大震災関連第2報(2011年3月17日)

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東北関東大震災より一週間経過
現在の活動報告
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宮城資料ネットの平川新です。
東北関東大震災から1週間が過ぎました。想像を絶する被害に言葉を失うほどです。私の知人にも安否を確認できない方々がたくさんいます。

■文化庁の歴史資料担当の方と連絡をとりました。
文化庁は現在、阪神大震災のときと同様に、全史料協や諸団体・諸大学等と連携しながら、東北関東大地震へ対応する方策を検討しているとのことです。文化庁からお声がけがありましたさいには、ぜひ皆様のご協力をお願い申し上げる次第です。

■東北地方の大地震・大津波としては、『日本三代実録』に出てくる貞観地震(869年)や江戸時代初頭の慶長地震(1611年)が知られています。宮城資料ネットの事務局スタッフは、東北大学防災科学研究拠点グループにも参加しておりますので、これら過去の大地震・大津波の研究を文理連携で実施する準備を進めているところでした。記録や地質調査でみる限り、太平洋沿岸部の宮城県域では大津波が内陸3~4kmまで押し寄せていることが判明しております。さらに調査を進めて津波地図の精度をあげ、来たるべき大地震と大津波に備えた防災地図を作成する予定にしておりましたが、それよりも早く実際の大津波に見舞われてしまいました。
 津波研究者は過去と同様の津波が発生する可能性を指摘しておりましたが、現在では沿岸部まで住宅地が広がり、被害を拡大する結果になってしまいました。開発との兼ね合いは非常にむずかしいところがありますが、結果からいえば過去の大津波の教訓がいかされていなかったということになります。四、五百年に1度の大地震・大津波に備えた社会を、私たちはこれからつくることができるのでしょうか。

■ガソリンが手に入りませんので移動が制約され、被災状況調査が実施できません。そのため現在は、仙台市内の近場の施設や旧家の被災状況の把握と、今後の広域的な被災状況調査のための準備、宮城県・仙台市の文化財部局や博物館、文化庁等との連携体制作りをおこなっております。

■資料ネット事務局のあった東北アジア研究センターの建物が大破して立ち入り禁止になりましたので、学生支援部のご協力を得て、現在下記に臨時オフィスを開いております。宮城資料ネットの事務局員もここに詰めています。

 名称:東北大学防災科学研究拠点臨時オフィス
 場所:東北大学 川内北キャンパス 講義棟A棟2階 資料室
         *臨時オフィスに固定電話はありません。
     *平川および佐藤の研究室の固定電話はつながりません。
        平川携帯 090-4316-2734
         同携帯メール ahi-392-2734@docomo.ne.jp
             佐藤大介携帯 090-2997-4264
         同携帯メール   dsato117-theprospector@ezweb.ne.jp

※メールニュース号数について
 前回のメールニュースは「94号」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。非常時の折、どうぞ御容赦ください。

■宮城資料ネット・ニュース94号(2011年3月15日)
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3月11日 東北・関東大震災
各地で未曾有の被害
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みなさま

         宮城資料ネット理事長 平川新

 3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とする大地震が発生しました。この東北・関東大震災では、御承知のように未曾有の被害が出ております。被災地にいらっしゃる方々は、ご家族の皆様も含めご無事でしょうか。心より御見舞い申し上げます。

 宮城資料ネットでは、当日も事務局のある東北大学東北アジア研究センターにて古文書資料の撮影作業を行っておりました。激しく、長い揺れが続きました。事務局の部屋では重い中性紙封筒やコピー用紙の箱、プリンタが飛んでくるという危険な状況になりました。事務局スタッフと、当日作業に参加していた5名、センター教員・職員はすぐに屋外に避難しました。全員無事でしたが、エレベータ棟が激しく損壊し、5階建ての建物のうち、4階・5階も破損しました。事務局そのものが被災して室内は散乱し、使えなくなってしまっております。事務局からの
連絡が遅れましたのは、インターネット環境が破壊されてしまったからです。

 建物そのものは3月15日現在も立ち入り禁止ですが、3月12日より1日20分程度の時間限定で、少しずつ最低限の器材・データ等の搬出を行っています。いまも大きな余震が続いていますので危険な作業となっております。

 事務局スタッフ4名(平川、蝦名、天野、佐藤)も被災者となりましたが、目下のところ東北アジア研究センターの外で事務局体制の構築に努めているところです。関係者のご協力をいただき、3月15日時点で事務局スペースと、情報収集・発信のためのインターネット環境にようやくめどが立ちつつある状況です。

 この間、3月14日には宮城県の文化財保護課と保全活動の打ち合わせをおこない、協同で対応するという方針で合意しました。一方、今回甚大な被害を受けた沿岸部には当分近づかない方がいい、という助言をいただきました。また震度7を記録した栗原市など内陸部へも交通が寸断されています。さらにはガソリンが枯渇する状況で、車輌での移動が制限されており、十分な活動が展開できないる状況にあります。

 また3月15日には、仙台市博物館・市史編さん室と、仙台市教育委員会文化財保護課に、今後協同して保全活動を実施したい旨をお願い、合意いたしました。具体的な対応に移るにはまだ時間がかかりそうですが、活動のための枠組み作りを着実に進めております。
 
 これまでの活動でお世話になった所蔵者の方・地域の方・行政の方も被災の安否確認は出来ておらず、非常に憂慮されます。

 関連して、皆様にお願いいたします。

■ネットニュース配信者の皆様
 各地の被災状況など、ご存じの情報があれば、どんな小さなことでも結構ですので、事務局まで御連絡いただければ幸いです。

■NPO会員の皆様
 このメールをご覧になることが出来た方は、折り返し安否の御連絡をよろしくお願い申し上げます。また、今後の連絡のため、差し支えのない方は携帯電話の番号およびメールアドレスを御連絡いただければ幸いです。目下の所、携帯電話のメール・ショートメール(同一電話会社間のみ)が、比較的つながりやすいようです。なお、事務局メンバーの携帯電話番号・メールアドレスは下記の通りです。事務局メールあるいは下記メール宛にご連絡ください。

 平川 090-4316-2734(ドコモ) ahi-392-2734@docomo.ne.jp
 佐藤 090-2997-4264(au) dsato117-theprospector@ezweb.ne.jp
 蝦名 080-3320-4584(ソフトバンク) evinu01@h.vodafone.ne.jp
 天野 090-2886-8527(au) hmd2764-cj215@ezweb.ne.jp

 皆様におかれましても、ご自身の安全確保が最優先です。一方、状況が落ち着いた段階で、本格的な歴史資料保全活動に移行できるよう、事務局で全力を尽くして準備を進めております。被害地域の広さ、被害対象の多さから考えても、今後あらゆる面で皆様のお力添えが不可欠です。ご支援と御協力の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 昨年、平川新氏の著書『伝説の中の神』(吉川弘文館)を読んだばかりである。重責を担われていることに粛然とする。

地震火山(12)歴史資料ネットワークから史料保全への支援募金

 下記、転載します。

東北地方太平洋沖地震(東北・関東大震災)による被災歴史資料保全活動への支援募金のお願い

                                        歴史資料ネットワーク

 去る3 月11 日の東北地方太平洋沖地震(東北・関東大震災)とそれにともなう津波により、岩手・宮
城・福島・茨城など多くの地域で甚大な被害が発生しました。不自由な生活を余儀なくされている被災
者の皆様にお見舞い申し上げますとともに、犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対し、深くお悔やみ
を申し上げます。
 歴史資料ネットワークでは現在、各方面と連絡をとりつつ、被災地の状況の情報収集に努めておりま
す。しかしながら、今回の地震の被災の規模は甚大かつ広範囲にわたるものであり、今後、長期にわた
る活動が必要とされることが予想されます。
 さらに今後、被災地に存在する宮城歴史資料保全ネットワーク、ふくしま歴史資料保存ネットワーク、
山形文化財保存ネットワーク、新潟歴史資料救済ネットワーク、千葉県文化財救済ネットワークなどを
中心とした歴史資料・文化財の救済・保全活動が開始された際、多くの時間と資金が必要となることも
考えられます。
 これまでも大規模な災害が起きるとそれを契機に家や蔵、公民館や集会所などに古くから保管されて
いた歴史資料が盗難にあったり、被災地の混乱の中で売られたり、捨てられたりすることが多く、それ
により、家族や地域の大切な記憶が失われてしまうということが起こっています。地域における歴史資
料の流出・滅失を防ぐために、各方面と連携をとりつつ、すぐにでも歴史資料救出・保全活動を開始す
る必要があります。また、被災地の史料(資料)ネットの活動再開に備えて、その活動をバックアップ
する体制を整えておく必要があります。
 皆様には被災した地域の歴史資料の救出・保全活動の必要性について是非ともご理解を賜り、現地の
歴史資料保全救済活動を支えるための募金をおよせいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

東北地方太平洋沖地震(東北・関東大震災)による被災歴史資料保全活動支援募金
* (郵便振替)口座番号:00930-1-53945
* 加入者名:歴史資料ネットワーク

*WEB上からのお振り込みは、下記をご参照ください。
銀行名:ゆうちょ銀行(コード9900)、店番:099
預金種目:当座、店名:〇九九店(ゼロキュウキュウテン)
口座番号:0053945

よろしくお願い申し上げます。

◇◆本件に関する連絡先◆◇
〒657-8501 神戸市灘区六甲台町1-1 神戸大学文学部内歴史資料ネットワーク
電話&FAX:078-803-5565(平日の13 時から17 時まで)
URL:http://blogs.yahoo.co.jp/siryo_net
e-mail: s-net@lit.kobe-u.ac.jp

2011年3月21日 (月)

地震火山(11)寒川旭『地震考古学』と地盤液状化

110319_144537_3    一昨日、本当に久しぶりに自転車で花見川ルートへ。梅の花が咲いている。そして今年はじめてのモンシロチョウをみた。小学生のころ、春、蝶が飛び始めるのを心待ちにしていたが、そのころの東京では、最初のモンシロチョウは3月12日・13日頃だったと思う。昨日は3月19日だから、そんなに遅れている訳ではない。


 公園の道路にひびが入っている。そして谷戸に入って国道に上がってくる坂道にもヒビが入っている。崖を被覆するコンクリの破片が落ちているから、これは地震にともなうヒビであることは確実。
Ekijouk10316_095415  わが家は、その谷戸から東南へ、いくつか丘を越えた、別の水系の谷戸にあるが、谷戸の入り口あたりでは、3月11日には液状化が起きた。三軒並びの住宅がかしぎ、その真ん中のラーメン屋さんは閉店の掲示がでている。写真はその横の道の液状化のあと。黄砂の部分。地震後、しばらく経ってからだから明瞭ではないが、直後は相当のものであった。

 地震にともなう液状化は、地盤の深部にある砂礫層の構造が崩れると同時に、内部の水の圧力が一挙に増大することによって、上の土地を突き破って液状になった砂が噴出する現象である。

 この液状化の痕跡が各地の遺跡で確認されたのは、1986年、滋賀県高島町今津の北仰西海道遺跡が始めて。寒川旭『地震考古学』によれば、寒川氏が町史編纂室で、遺跡の発掘を担当している葛原秀雄氏を紹介され、「遺跡で地震の跡がでるとしたら、どんな形になりますか」と質問され、しばらく前の日本海中部地震の水田の風景を思い出して「砂のつまった割れ目がたくさん見つかるはずです」と答えたところ、「それらしいものが、今掘っている現場にある」といわれて見に行ったとのこと。これが「地震考古学」という分野の実質上の出発点になったという。

 これは日本の考古学の新しい社会的役割が発見されたということでもあるように思う。それまでも、考古学は地面と地盤を調査するという意味では地質学と深く関係するものではあったが、これによって地震の痕跡を調査し記録するという新しい役割が生まれた。これを系統的に蓄積して、地域の人々にも見やすい形にしていくというのは、地震学の研究のために、そして地域の安全のために必要なことである。

 国家や各自治体は、それを十分に認識してほしい。遺跡調査がなぜ必要かということを自治体や市民に説明することはおうおうにして困難をともなうが、これは絶対的な必要であるように思う。考古学の位置づけを考え直さないとならないし、調査体制の強化が実際上の必要であることが強調されてよいと思う。

 千葉では幕張と美浜町で液状化が起きているが、自宅近くをみても各地で液状化が起きているに相違ない。現代の通常の生活では、地盤というものを意識することがないように思うが、これは地域で共有しなければならないものなのかもしれないと思う。表面の利用・占有は私的に行われるものだが、地盤それ自身は共通するものだから、何らかの意味での共有を考えざるをえない。いわゆるコモンズ(社会的共通財)であるということの意味を正確に考える必要があるのだと思う。コモンズとしての土地・大地というと、ことあたらしいが、従来からの歴史学では、大塚久雄先生の「共同態」、あるいは網野善彦さんが強調した「無縁」の問題が、これにあたる。

 地盤に対する意識というものが、平安時代から鎌倉時代にどのようなものであったかというのが、最近の研究テーマの一つであった。どうも下地という言葉が土地の占有される表層部、地本というのが地盤自体を示すらしい。こういう迂遠にみえる問題も、実際には、きわめて現実的・現代的な問題であることを、液状化の跡をみながら、考えている。

 寒川旭『地震考古学』(中公新書、1992年)は、その意味でも重要な本である。御一読を。

 わが家は生協の生活クラブに入っているが、「さつまあげ」などの練り物は、石巻市の高橋徳治商店からきている。高橋商店の練り物はおいしいと地震前に食卓の話題になったばかり。
 連れ合いが、生協のHPで掲示をみつけた。


 ◆宮城県石巻市の高橋徳治商店の状況
(1)社員のHさんからの情報(16日20時):「社長は牧山社務所に避難中、従業員は7割ぐらいが安否確認できているが、先に帰宅した従業員との安否確認ができていない。工場は第一工場は残っているが瓦礫の山で近づけない。第二工場は流失。」
(2)高橋さんは生きている(3月18日00:42)
生きていたよ。昨日までいろいろ探したけどわからず、ヤキモキしてたけど、現地に行けば開ける。比較的に元気だった。そして(避難村の)村長の役割をきちんと果たしている。明日、重茂に行けば、また開ける。米の支援10トンを水沢に入れる。東京から支援の2人が明日来る。明日の積み込みは満載だ。今日とは大違い。積みきれない。 。


 高橋徳治さんの顔写真が載っていて、はじめて(写真で)お目にかかる。お元気で御活躍を!

2011年3月19日 (土)

地震火山(10)ーー東大地震研談話会

 昨日の地震研の月例談話会、最初に東北東海岸の大地震の犠牲者に黙祷からはじまった。内容は、基本的に報告そのままで公開する予定であるということであった。公開性を何よりも重視するという司会の方の説明は説得的。
 13時30分から19時過ぎまで。自然科学の学会あるいは研究集会を聞いたのはおそらく始めて。残念ながら聞いている内容の四分の三はわからないが、地震科学の到達点と状況がどうなっているかは何となく分かる。ここまで進んでいるのかという感じがした。それだけにあと一歩で、もっと有効なところへ進み出られるのではないか、出られたかも知れないという気持ちがみえるような気がする。歴史学などとは違う、大事で緊張感のある仕事であることを実感。


 報告の中に「西暦869年の貞観地震・津波について」(佐竹健治、宍倉正展、澤井祐紀、岡村行信、行谷佑一)があり、勉強になった。そのだいたいの内容は「石巻・仙台平野における869年貞観津波の数値シミュレーション」(『活断層・古地震研究報告№8、佐竹等執筆)で読んでいたが、コンピュータシミレーションの実際の画面をみることができた。
 そのシミュレーションで、十和田のテフラの下層にある津波の痕跡によって、貞観津波の状況を復元し、今回の津波と同様のプレート間地震と考えられることが明瞭にわかる。興味深かったのは、867年のものと考えられるものの下層に、だいたい2000年前、3000年前の津波層が確認できるということ。もし紀元前後にもう一つの大地動乱の時代があったということになると歴史学への影響は大きい。地震・津波は世界観に関わる。

 他の報告全体を聞いていると、これだけ研究が進んでいれば、さらに本格的なドライブをかければ、地震・津波の予知あるいは、情報の周知もけっして夢ではないという感じになる。地震国・日本ではさらに本格的な研究の蓄積と人員・体制・予算が必須なことがよく了解できる。
 
 それにしても、福島原発は心配である。
 専門家を結集し、政治・行政・企業からは独立した機関によって、安全確保と規制を行うのはヨーロッパ・アメリカの常識である。アメリカの「原子力規制委員会」(NRC)は、独立機関として全権を掌握している。今回、福島原発の80キロ圏内からのアメリカ人の退避を勧告したのも、この機関。それを知っていれば、オバマはそれを繰り返しただけであることがすぐわかる。これをマスコミは十分に伝えていないのではないか。これは独立機関の判断であって、アメリカの政治的な判断ではない。
 NRCの職員数は3961人。予算は年853億円ほど。日本の原子力安全委員会は11年度予算では7億余。10分の一どころか、100分の一である。それも10年度予算より1億円以上削減されている。
 日本社会は、専門家を尊重しない社会であるということはよくいわれる。これが、原子力発電の問題でもあらわれているというのは怖い話である。今からでも専門家を動員し、十分な権限をあたえた方がよいようなところがあるのではないかと思う。

 地震研究、地震予知、耐震都市計画などについても専門家に十分な権限をあたえれば、相当のことができるだろうというのは、昨日の談話会を聞いていての感想。

 歴史家が日本社会で尊重されないのは、日本が真の意味での「保守性」に欠ける社会であることを示しているというのは、私の持論。日本社会が過去を大事にせず、戦争責任をふくめた過去の失敗や教訓を大事にしないことが歴史文化の無視、悪い意味での「あたらしもの好き」と表裏一体の関係である。それにしても、歴史学の専門性が無視されるのは、まだ取り返しが聞くが、原子力利用の分野で専門性無視というのは怖い話である。

 地震対策ではそうでないことを望む。掛け値なしに「世界トップ」の地震学は無視できないはずである。
 日本列島上の「民族」は共同体である。そして、共同体は、専門家のネットワークを内部的な神経系統として尊重しないと自己統御できない。自己統御の訓練を企業・官僚とは別のルートで行うこと。民族規模の共同体の自己自身への内部観照として、専門性を受けとめる訓練。逆にいえばそういう専門家集団の構えが必要なはず。専門家は、自分の分野でならば、保守的・確実であるとともに果断でありえる。。
いま東京消防庁の隊員の記者会見。通常の仕事でない分野への動員は本当にたいへんそうだ。感動。リーダーいわく「我々は志気高いが家族には本当に申し訳ない」と。人柄がわかる。職への責任感の強さは、我々の美徳。

2011年3月18日 (金)

地震火山(9)ー理科年表の貞観年間地震記事

 いま、東京大学地震研究所での月例談話会に参加して、帰宅途中。総武線の中。ひさしぶりで総武線にすわれた。
 『かぐや姫と王権神話』で火山のことを書いた時、教示をうけた地震研の知人から月例談話会で「貞観地震」のテーマがでているという連絡をうけて参加。彼は新燃岳の方で、二正面作戦でたいへんとのこと。
 この談話会のことは、明日、報告する。地震研の研究者が必死でやっている様子がよくわかった。
 理科年表の貞観年間の地震3件についての記述は以下の通り。問題の陸奥大地震は地震番号20,マグニチュード8.3とされている。このマグニチュードは、もちろん、推定。

18 863 7 10 (貞観5 6 17)
越中・越後:山崩れ、谷埋まり、水湧き、民家倒壊し、圧死多数。直江津付近にあった数個の小島が潰滅したという。
19 868 8  3 (貞観10 7 8) 34.8°N 134.8°E M≧7.0
播磨・山城:播磨諸郡の官舎・諸定額寺の堂塔ことごとく頽れ倒れた。京都では垣屋に崩れたものがあった。山崎断層の活動によるものか?
20 869 7 13(貞観11 5 26) M8.3
三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数。津波が多賀城下を襲い、溺死約1千。流光昼のごとく隠映すという。三陸沖の巨大地震とみられる。

 これは基本的に宇佐美龍夫東京大学地震研究所名誉教授の『新編日本被害地震総覧』によったもの。宇佐美先生の同書の貞観地震の記載についても、週末に入力し、掲載する予定。ちょうど、娘が大学の休みでいるので、バイトで入力を御願いしている。どうもありがとう。

 この理科年表は、昨日(3月17日)、帰宅途中、東京駅の丸善で一冊買ってきたもの。経済産業省から夕方以降の暖房のための電気利用量が増加した場合に、突然停電があるかもしれない、帰宅を急いで欲しいという声明で急ぎ帰宅する途中に寄った。
 理科年表をみていると、実に便利にできていておもしろい。私がもっていた『理科年表』はたしか黄緑色のもの。先日から探しているが、本棚がたおれたこともあってでてこない。そこで、仕方なく新しいものを購入することにしたが、地震関係の記事は、研究の進展があって相当書き換えられているので、購入しても損はない。
 『理科年表』を作るという発想が、どのようにでてきたのかは知らないが、いわゆる「自然史」レヴェルでの常識を、こういうコンパクトな形でまとめるというのは、科学常識を社会に提供するという意味で重要なものと思う。
 歴史学の側でも、こういう「年表」ができないものかと思う。『理科年表』の厚さがあれば、そうとうの情報が載せられるはずである。細かなことを載せることを考えればきりがないが、しかし、常識として必要なことは、『理科年表』の厚さがあれば、相当入るかもしれない。
 とはいえ、歴史学が常識として必要なことは何か、どういう点がたりないかを十分に意識し、研究を集中し、研究を計画しているかといえば、まったく違うので、これはしばらくは夢物語である。

 昨日、理科年表を買った後にホームに行った東京駅の混雑はすさまじかった。早く帰宅をするように放送した官庁・企業も多かったようで、丸善によったためもあって、私は、ちょうど最大のピークにぶつかり、長く電車に乗れなかった。東京駅ホームは極度に混雑、ホーム白線の内側を歩いていて、身体が揺れた、ちょうどその時、線路よりのところを急いで通り抜けようとした私より年の男性と接触して、その男性がふらっとして、線路に落ちるのではないかとびっくりした。帰宅は20時ほどだったか。
 少し、仕事の活動力を落として、ゆっくりし、被災地のことを考えた省エネルギーの生活をするようにしてはどうかと思う。若い人は、条件が整った段階で、救援と労働に行き、老人は、できる家庭は被災地の人々をうけいれる準備をするというような処置がすみやかに取れればよいと思う。
 今日、みたテレビの枝野官房長官の会見で、彼が復興支援についてどう考えるかと聞かれた時に、現在は復興支援を考えるのではなく、まず、被災者支援を考える段階だと明瞭に言い返したのに感心。
 当然のことではあるが、阪神大震災の時の政治家の発言が「復興」一辺倒に近かったのとは大きな違い。そういう筋を正確に通した発言は、これまでの政治家から聞くことはあまりないから、感じがよかった。原発事故の時の最初の会見は、見ていて心配な感じがあった。なにしろ15時30分の爆発を3時間以上、発表しないという時であった。「どういうことだ」と思ったが、民主党の政治家も成長するのかもしれないと考える。成長して欲しいものだ。
 民主党の原発政策はとても了解できるものではない。マイナスからの成長だから、記者会見が変になるのは当然である。それは自民党と変わりない。それは原発一般の問題である前に、専門家のいうことを聞かず、「軽水炉」「プルサーマル」という20年以上前から専門家が批判しており、世界中で「危険・旧式」とされた軽水炉政策を維持するという異様な政策がよいかどうかという問題である。とくにプルサーマルは、世界では基本的に採用されておらず、独特な危険性をもっているとされている。それを維持しようという政策一つをとっても、普通の研究者として支持できるものではない。その他、根本的な問題をもっている政党であり、全体として支持しがたい。
 しかし、こういう時に、政治家個々人が成長し、頑張って欲しいと思うのは当然のことである。娘によると、ツイッターの世界では「枝野が眠れるように、首相は頑張れ」というのが、一時、もっぱらだったとか。首相も頑張って欲しい。人命優先、被災地支援優先である。
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2011年3月16日 (水)

9世紀火山地震(8)ー関東の地震、878年

 15日、帰宅途中。電車の中で書いていたが、快速が津田沼止まりとなってしまい、各駅停車に乗り換えのため、いまは津田沼駅ホームで書きついでいる。
 元慶二年、つまり西暦878年の「関東諸国大地震」についてふれておきたい。

 まず、『三代実録』の元慶2年9月29日条を読み下しておく。

 夜、地震す、この日、關東諸國の地、大いに震裂す。相模・武藏は特にもっともはなはだしとなす。その後、五六日も、震動いまだ止まず、公私の屋舍は一つとして全ったきものなし。あるいは地の窪陷して、往還不通ぜず、百姓の圧死すること勝げて(あげて)記すべからず。

 

  簡単に大意をとっておくと「関東諸国で大地が、震え、地割れや地滑りが起きた。相模・武蔵などの南関東での地震がひどかった。そして5日も6日も強い余震が続いたという。公私の建物が、ほとんどすべて被害をうけた。また土地が陥没して、道路がつぶれ、交通不能になった。こういう中で、多くの人々が数えられないほど死んだ」ということになる。

 冒頭に「夜、地震す」とあるのは、京都で地震が体感されたということを意味する。そして、後に関東諸国から報告があり、その日に関東で大地震があったことが分かったのである。これも京都で体感された地震の震源地が史料からわかる例であることになる。
 関東諸国からは、詳しい報告が中央に提出されたに違いないが、残念ながら、それは残っていない。これが残っていれば相当のことがわかるはずである。菅原道真はそれを読んでいたであろうか。なお、少なくともこの史料による限り大きな津波は起こっていないようである。

 いま、もってきた石橋克彦氏の『大地動乱の時代ー地震学者は警告する』(岩波新書1994年、129頁)によれば、この地震は相模トラフ(相模湾の奥から東南へ日本海溝に向かって続く海底の大規模窪地)から沈み込んだ、フィリピン海プレートに存在する震源断層面を震源とするものであるということである。

 これは富士の宝永の噴火を誘発した元禄大地震(1703年)、そして大正の関東大地震(1923年)と同様の構造の地震であるということで、様々な証拠から、200年から300年ごとに繰り返されてきたものと考えられるという。その意味では、関東大震災と同様の構造の地震はまだ先ということになる。

 『大地動乱の時代』の発行は、1994年。石橋先生は東海地震、つまり紀伊半島方面の南海トラフにつづく駿河トラフ(駿河湾のトラフ)に淵源する地震の形態があることを明らかにされた方だが、これを読んでいると、地震が、おのおの独自な条件と構造をもち、各地の地殻の構造にもとづいて発生するものであるということがよくわかる。

 江戸時代の地震史料についての詳細な分析があるのを読むと、歴史学者としては、日本の自然の重大な特徴として、もっと研究にエネルギーをさくべきであったことを反省させられる。長期的な視野をもって、事態を乗り切るためにも、多くの方々に、この本を読まれることをお奨めしたい。


 しかし、これを読みながら、九世紀の「大地動乱の時代」を考えると、九世紀が実に不運な時代であったことを思い知る。『かぐや姫と王権神話』で火山の噴火を論じた時も、そう思ったが、しかし、火山噴火は地殻変動の現象であって、地震は大地の奥深い変化それ自身に根ざしている。

 そして、九世紀は、太平洋プレートの三陸沖への沈み込みに淵源する陸奥国の貞観地震(869年)、そして、この関東大地震(878年)、さらに駿河・南海トラフで発生した仁和地震(887年)などが連続して起きている。これに火山噴火がともなっていた訳だから、その印象はすさまじかったであろう。これは各地の大規模地震の発現周期とマグマの活動が、九世紀に同期した、シンクロしたということなのだと思う。

 現在はたしかに「大地動乱の時代」に入りつつある。しかし、そうはいっても、我々、21世紀、つまり我々の子・孫の世紀は、九世紀ほどの不運な世紀ではないと思う(ただ、いうまでもなく、人為的な災害の拡大は、自然の責任ではない。その意味で原発の有り様は歴史的には決定的な問題である)。
 しかし、ともかく、九世紀の地震史料を読みながら危機意識を増幅させるというのではなく、むしろ、そのような長期的な視野をもちたいものだと思う。

 先日から、このブログで、九世紀地震史料を読んでいるが、そのなかで、歴史学は、そのような長期的視野を、どのように提供できるかということを考えている。そのためにはまずは地震学と地球科学から学ばねばならない。

2011年3月15日 (火)

9世紀火山地震(7)ー貞観東北地震の前年、播磨の地震

 今、朝の総武線。昨日は、「計画停電」のため、終日、電車が動かず自宅。
 貞観陸奥国大地震は貞観11年。その前年、貞観10年(868)の地震の状況を『三代実録』から紹介する。
 貞観10年(868)に京都で体感された地震は、総計20回。貞観地震という場合は、貞観年間のこれらの地震全体を考える必要があることになる。
 この20回のほとんどはただ「地震」とあるだけであるが、7月8日の記事はやや詳しく「地震、動内外墻屋、往々頽破」とある。これは「(京都で体感された)地震が内外の垣根や家屋を揺り動かし、往々にして崩れた」ということで、この地震は、相当の震度をもった地震であったのだろう。震度5くらいはあったのであろうか。他の記事よりも震度が高かったことは確実である。

 注目されるのは、その七日後、貞観10年7月15日の『三代実録』の記事に、「播磨國言う。今月八日に、地大いに震動す。諸郡の官舍、諸定額寺の堂塔、みなことごとく頽倒す」とあることである。同じ7月8日のことであるから、これは八日、京都で体感された地震の震源地が、播磨国に近かったことを明示している。

 「播磨国では、郡役所などの役所や寺院の堂や塔がほとんどみな倒れた」という訳である。播磨国では相当の激震であったものと思われる。当時の建物は木造であるから、山崩れなどがあれば別だが、地震だけでは死傷事故は起きなかったのであろう。人々の死傷の記録はない。しかし、これは相当の激震であったことは明らかである。
 京都で体感された地震と震源地の情報を組み合わせることができるという意味では、この7月8日播磨国地震は、貴重な史料ということになる。京都で体感された20回の地震のうち、ほかの19回の地震の震源地がどこであったかはわからないが、その震源地の一部では、播磨国ほどではないとしても、ある程度は揺れたと想定してよいと思う。
 以下、貞観10年の地震記事をすべて書き抜いておく。

 

4月13日「地震」、4月28日「地震」、5月19日「地震」、7月8日には「地震、動内外墻屋、往々頽破」、7月9日「地震」、7月12日「地震」、7月13日「地震」、7月16日「地震」、7月20日「地震」、7月21日「地震」、8月10日「地震」、8月12日「地震」、8月14日「地震」、8月16日「地震」、8月29日「地震」、9月7日「地震」、10月27日「是夜、地震」、11月27日「地震」、12月1日「地震」、12月10日「地震」、12月16日「地震」

 ほとんど「地震」と書いてあるだけだが、これは陰陽寮が記録をとっていたものと思われるので、相当に正確な記録であろう(和暦で掲げているので、西暦だと約一ヶ月後にずらす)。
 地震科学の方で、どう処理しているかは分からないが、これらは播磨国地震をふくめて、翌年、貞観11年陸奥国大地震と間接的には若干の関係があるものが含まれているのだと思う。貞観陸奥国地震の規模の大きさは、こういう点からもわかるのであろう。

 精査した訳ではないが、『三代実録』は地震の記事が詳しいように思う。これは『三代実録』の編纂の中心であった菅原道真の意向があるのだろうか。
 彼が若い時にうけたペーパーテスト、方略試の設問の一つが、「地震を弁ぜよ」であった。注目されるのは、その方略試が貞観12年、つまり貞観地震の翌年であることである。
 この年に、こういう問題が出されたというのは、当時の朝廷や知識人が、その段階では、前年の地震を重要な問題として認識していたことを示している。
 もう少し調査してあらためて報告するが、道真は、この時、26歳 。成績は中の上であったという。方略試の対策(答案)は、内容はもとより、文章表現や論理展開などについて非常にきびしく審査されるので、これは好成績にぞくするとのことである(藤原克己『菅原道真』ウェッジ選書)。
 これは道真が「大地動乱の時代」をどう考えたか、感じたかを分析する上で精査を必要としている。あるいは、道真には一種のボーデンロース、地盤喪失感覚があるのであろうか。

 いま、錦糸町。これを書いていて思うのだが、陸奥国の地震、播磨国の地震、また昨日ふれた肥後国の地震などの漢文史料は、各地の小学校で教えればよいと思う。陸奥国の小学生は陸奥国の地震史料を読み、播磨国の小学生は播磨国の地震史料を読む。
 御寺の方々とよく話すのは、小学校で漢文と書道の教育を重視してほしいということ。そういう形で、小学校のころから、日本の国土と自然の歴史を記憶の中に入れておくおくことは、長期的にみて大きな意味があると思う。歴史は「暗記物」だというのは、普通、悪い意味でいわれるが、大事な記憶を選んで身に刻むというのは、人間の基本だと思う。
 これらの地震記事を読んでいると、9世紀、播磨国・肥後国・陸奥国の国の人々が同じ「大地動乱」の中で、同じ自然的運命の下にいたのだという事情がわかる。道真は、それを認識していたのであろう。
 現代は、そのような感じ方を、地域をこえた列島レヴェルでの連携と協同の感覚としてとらえ直すことができるはずの時代である。そして、そのさい過去を認識しているかどうかは大きい。

2011年3月13日 (日)

九世紀火山地震(6)ー貞観陸奥国地震と肥後国地震

 この記事は3月28日に「地震火山17」として書き直しをしていますので、地震史料の解説については、そちらをみてください。肥後国地震の発生日時は、7月14日であることがわかりましたので、その点を修正してあります。以下が本文です。<貞観11年(869年)の陸奥国(東北地方)東海岸地震についての追加的な史料紹介>。地震学の研究成果によって、この貞観地震は、3月11日の日本東海岸地震と同じ太平洋プレートの動き方によって起きたものであることがわかっている。
 ただ、この貞観地震については歴史学の側での論文はないようである。少なくとも、現在のところ確認できない。また出勤不能となっていて、調査のための道具が自宅では不足している。それゆえに、以下は、問題が大きい割には、あくまでも暫定的なものにすぎないことを御断りしておく。
 この年の、年末12月14日に朝廷は、伊勢神宮への告文を発している。それによると、この年は、陸奥国のほかに、肥後国で大地震があり、さらに「自余の国々」(他の国々)でも地震があったということである。
 第一の問題は、この肥後国の地震が、陸奥国の大地震と相前後して起きた可能性が高いことである。
 下に、それを推定させる史料を引用する。

(1)新羅賊舟、二艘、筑前国那珂郡の荒津に到来して豊前国の貢調船の絹綿を掠奪して逃げ退きたり(中略)と申せり。(2)また肥後国に地震・風水の災ありて、舎宅ことごとく仆(たお)れ顛(くつがえ)り、人民多く流れ亡びたり、かくのごとくの災ひ古来いまだ聞かずと、故老なども申すと言上したり。(3)しかる間に、陸奥国また常に異なる地震の災を言上したり。自余の国々もまたすこぶる件の災ありと言上したり」(『三代実録』貞観十一年十二月一四日条)

 これはこの年の年末、12月14日に清和天皇が伊勢神宮に出した告文の詔である。この年は、新羅商人(「賊舟」といっている)と豊前国の貢納船の間での紛議が暴力沙汰に及んだ年で、この詔は、こういう状況の中での神による守護を願うことに主眼があった。ただし、この詔が「国家の大禍」といっているように、この年は、たいへん多事な年であった。この詔は、新羅商人との衝突事件のみでなく、上のように、地震の災害などもまとめて述べて、神の守護を願ったものである。
 (1)の部分が新羅商人(「賊舟」といっている)と豊後国の貢納船の間の紛議に関わるもので、この事件の発生は5月22日。そして、(2)の部分が肥後国の地震についてふれた部分、(3)の部分が陸奥国大地震についてふれた部分。これは5月26日である。
 それ故に、もし、この(1)(2)(3)が事件の発生順序をおって書かれているとすると、陸奥国大地震と肥後国の地震は、ほとんど時間をおかずに列島を襲ったということになる。
 もちろん、(1)(2)(3)が事件の発生順序をおって書かれたかどうかは明証がなく、むしろそれとは関わりなく、この告文の中心となる(1)の事件が、詔の冒頭に書かれた可能性も高い。それ故に、厳密には、陸奥国大地震と肥後国地震が、どの程度、接近していたかは分からないというべきであろう。
 ただ、あまり間をおいていないのではないかと思われる理由は、5月26日の陸奥国地震については、10月14日に清和天皇の詔がでて、被害者に免税処置を取れという命ぜられているが(昨日のブログで紹介)、ついで10月23日に肥後国の被害について勅がでて、救援物資の給付が命令されていることである。
 この時間関係からすると、陸奥国大地震と肥後国地震を朝廷が重大問題として認識したのは、ほぼ同時であったということになる。これは、二つの地震が、少なくとも、ある程度は近接していたことの証拠であろう。しかも、肥後国に関する10月23日の勅は、肥後国の災害をおもに台風による洪水災害と認識している。そこには「壊垣、毀屋の下にあるところの残屍、乱骸」などとあるから、被害の激甚は認識されていたらしいが、地震が含まれていたことは明記されていない。この洪水災害に、地震が含まれていたと明記されるのは、右に引用した12月の史料になる。地震学のデータによると、肥後国は1792年(寛政4)の有明海津波で相当の被害記録がある(都司嘉宣「島原大変の津波による熊本県側の被害」『古地震を探る』)。ただし、そうしばしばあるものとも考えられないとすれば、それゆえに、洪水災害に津波あるいは地盤の液状化にともなう噴砂、噴水それ故に地震が含まれていたことが、後の報告によって明瞭になり、12月の文書には記録されたということなのかもしれない。ただいずれにせよ、肥後国地震は実在したものであろう。台風による洪水災害と地震水害が同時におきたために十分な実態認識が遅れたということであろうか。台風は、龍が起こすものという観念は確実にこのことにもあったろうが、地震も龍が起こすものという観念もあったとすれば、想像手原因は同じであったということにもなるかもしれない。
 いずれにせよ、10月以降になって日本の西と東でほぼ同時期に地震が発生したということを朝廷は明瞭に意識して対処方策を議論しはじめたということになる。
 これが陸奥国大地震と肥後国地震が、おそらく長くて1・2ヶ月ほどの間をおいて発生したものではないかと推定したくなる理由である。
 さらに問題となるのは、右に引用した『三代実録』貞観十一年十二月一四日条の(3)の部分に、「(陸奥国のほか)自余の国々もまたすこぶる件の災ありと言上したり」とあることで、陸奥国・肥後国のほかにも多くの国から地震「災」害の報告があったということである。「災」の程度はそれほどではなかったとしても、やはり、この貞観11年地震は、相当広域にわたる大規模なもので、全国的なものであったということが明かであろう。
 なお、この年の京都で体感された地震についても、『三代実録』は詳細に数え上げている。
 この年、貞観11年には、2月に2回、7月に1回、9月に1回、12月に1回と、陸奥国・肥後国の地震以外に、京都で体感された地震が5回もあったことのである(2月4日「是夜、地震」、2月29日「地震」、7月7日「地震」、9月25日「地震」)。また翌年の1月から5月にかけて三回の地震が記録されていることも注記しておこう。

 「大地動乱の時代」ということが実感されるような気がする。
 なお、『三代実録』の編纂の実質上の中心は菅原道真であったといわれる。そして道真が編纂した『類聚国史』には『国史大系』本で18頁に登る火山関係の資料書き抜きが残っている。現在、『類聚国史』災異部は四・五・七しか残っていないが、あるいは六は「火山」であったかもしれないと思う。そうだとすると、道真は、地震や火山に相当の興味や知識をもっていたのではないだろうか。私は、『かぐや姫と王権神話』で、『竹取物語』が9世紀の「大地動乱の時代」を強く意識していたのではないかと述べ、さらに『竹取物語』の筆者について、「道真周辺の学者世界から旧文化への訣別を告げた物語であったのかもしれない」(197頁)と述べたが、ここら辺も、『竹取物語』に道真周辺の雰囲気を感じる点である。

 この文章を書くにあたって、「古代中世地震・噴火史料データベース」(静岡大学防災総合センター)を利用させていただいていますが、若干の史料追加を行っています。また、このような論文ともいえる内容を直接にブログに発表することは、基本的にはしない方針でいますが、事態が現在の状況に密接に関わりますので例外と判断しています。

 本棚をやっと復旧した。

 茨城県土浦の伯父の家の瓦が落ちたと聞き、電話をするも通ぜず。伯父たちは別状ないというのが従姉妹の連絡。歴史学に進むにあたって大きな影響をうけ、御世話になりっぱなしなので、急に気になりはじめた。

 原発が心配である。軽水炉型が危険であることは以前からわかっていたことである。3基とも統御不能になっているとのこと。

 作業員の方、現地の方が無事であることを祈る。

 大槌・釜石には行って、見学をし、お世話になったことがある。津波のあとに愕然。どうぞ、ご無事で。

9世紀火山地震(5)ーー貞観地震

 先ほどのテレビで「貞観地震」という言葉を聞いた。貞観地震の史料を紹介する。貞観年間は九世紀、859年から877年。問題の東北の貞観地震は貞観十一年、西暦でいうと869年にあたる。
 九世紀が「大地動乱の時代」であることは、『かぐや姫と王権神話』で論じたが、そこでは火山が中心であった。火山活動が活発であるということは、九世紀が地震の激発期であったことも意味している。
 三月一一日の列島東海岸大地震の状況を知ると、若干でも歴史データを記しておきたいと思う。そこで、九世紀の地震と貞観地震のデータについて、しばらく読みの作業を報告することにする。
 まず、「貞観地震」といわれているものは、下記の『日本三代実録』(『国史大系』)の貞観十一年五月廿六日条に記録がある。これはユリウス暦でいうと869年年7月9日にあたる。

 陸奥国の地、大いに震動す。流光、昼の如く隠映す。このころ、人民叫呼して、伏して起きることあたわず。あるいは屋たおれて、圧死し、あるいは地裂けて埋死す。馬牛は駭奔(驚き走る)し、あるいは互いに昇踏す。城郭・倉庫、門櫓・墻壁など頽落して顛覆すること、その数を知らず、海口は哮吼し、その聲、雷霆に似る。驚濤は涌潮し、泝洄(さかのぼる)し、漲長す。たちまちに城下にいたり、海を去ること数十百里、浩々としてその涯を弁ぜす。原野道路、すべて滄溟となり、船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし、溺死するもの千ばかり、資産苗稼、ほとんどひとつとして遺ることなし。

 「船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし、溺死するもの千ばかり」というのは歴史史料に登場する津波の恐ろしさを語る文言として記憶の価値があると思う。
 津波の描写は「海口は哮吼し、その聲、雷霆に似る。驚濤は涌潮し、泝洄(さかのぼる)し、漲長す。たちまちに城下にいたり、海を去ること数十百里」という部分になる。湾口で大きな音がしたが、それは雷のようであった。そして、高波がわき起こり、陸地に上ってきてふくれあがる。たちまちに城下にまで到来したという訳である。城下の「城」とは多賀城のことで、陸奥国府がおかれていた。
 「海を去ること、数十百里」という表現が厳密にどういう距離かはわかりにくい。残念ながら、『三代実録』を含むいわゆる六国史は(学界の怠慢ではあるが)、フルテキストデータベース化されていないので、いますぐに調査はできない。東京大学史料編纂所の歴史史料データベースで引いてみても、平安時代の古文書・古記録には、この「数十百」という表現はない。ただ、幕末の『井伊家史料』には、「常備付之大小船の数、既に数十百艘に相及び」という表現がヒットした。これもわかりにくいが、あるいは「百数十」というのをこう表現することがあるのかもしれない。そうだとしても過大である(なお、これについては、確定案をえたので、末尾に記載してある、3月28日追記)。

 なお、この陸奥国の地震は、同じ史料『三代実録』の同じ年、十月十三日条にも記載がある。これは陸奥国復旧の困難な状況が都に伝わり、天皇の詔がだされた中にあるもの。「聞くならく、陸奥国の境、地震もっともはなはだし、あるいは海水暴溢して患をなし、あるいは城宇頽壓して、殃の至りなり」などとある。この陸奥国の境とは、陸奥の国の境の内という意味で、陸奥国内が広く災害にあったという意味であろう。それ故に、今回の地震・津波と同じく、福島から三陸海岸全体に被害が及んだということを示している。なお地震科学の調査によれば茨城県北部でも貞観津波の堆積層が確認されているという(「さかい」という言葉は、現在ではほとんど境界という意味だが、昔の使い方では「境内」という意味であると思われる。陸奥国の国境地帯という訳ではない)。この史料で興味深いのは、被害の救援は「民・夷ともに」支援せよという命令がみえることで、被害が「夷」(後のアイヌ民族)にも及んだということが分かることである。
 地震データについては、「古代中世地震史料研究会」(代表石橋克彦、地震学・史料地震学)の作成した「古代・中世地震・噴火史料データベース」が、「静岡大学防災総合センター 」からオープンされている。これをみれば、この年の前後に、ほとんど毎年、京都で体感される地震があったことがわかる。
  これらの史料は
今後の余震をふくむ地震の予測、さらに火山活動との関連にいたるまで、正確な分析を必要としている。
 私は、歴史家として、「民族」あるいは「国民」は、理論的にいっても、共同体としての側面をもっていると考えている。その共同性の中身は自然の共同性、運命性を重要な中身としている。同じ自然の中で生活する同じ動物というのが、この共同性ということの意味である。自然に規定された共同性ということである。

 一昨日、夜、東京でも、歩いて帰るという選択をした人々が道にいっぱいに歩いていた。こういう経験は、我々が同じ動物であることを実感させる。
 九世紀の地震史料をみていても、そのような相互意識を文化的で科学的な歴史意識の裏打ちをもったものにするために、歴史学のなすべきことが多いことを痛感する。
 東北の人々、そして一昨日、地震直前に電話で話したI先生など、東北の歴史学の仲間たちの無事を祈る。

追記 大漢和(「数十百歩」の項)によると、(1)数十・数百をいう場合と、(2)数十から百の間、つまり八九十をいう場合がある。(3)現代中国語では数十×百里を意味する場合もある。たとえば『漢書』巻三一「陳勝項籍伝」の「下驚擾、籍所撃殺數十百人」という本文への唐代最大の注釈家・顔師古の注に「 數十百人者、八九十乃至百也」とあり、ここでは(2)の意味が適当であろう。「数」とは一以上の数を表現する不定数であるから、文脈上、五六十くらいもふくむであろう。
 九十里とすると、約50キロほど、最低を見て六十里としても30キロほど。これは修辞であるかもしれず、実際の数値であるかどうかは不明である。ただ、実際の洪水域(冠水域)は、津波の激流の直接遡上域(「砂」痕跡が確認されている境域、約3キロ)ではすまなかった可能性がある。季節は水田に灌漑水が補給されている時期であり、遡上した水の堤外への溢出や、灌漑井堰の破壊によって、洪水が拡大した可能性はある。「数十百」=三〇キロとすると、多賀城から西南に広がる水面をみて称したという可能性もあり、いずれにせよ、この表現をまったく誇大な美文とのみ考える必要はない。

2011年3月 9日 (水)

カレル・チャペックの『オランダ絵図』

110309_173209  いま、京都出張でホテルの部屋に帰ってきたところ。夕食前の時間。
 カレル・チャペックの『オランダ絵図』(『ちくま文庫』カレル・チャペック旅行記コレクション、飯島周訳)をもってきた。チャペックとケストナーが好きというのも、われわれの世代の特徴かもしれない。この本は、オランダという国、そしてベルギーという国が好きなので読んでいる。チャペックのオランダの絵がいい。この自転車の絵は傑作だと思う。小さい頃に読んだ『長い長い郵便やさんの御話』の挿絵も、彼自身の挿絵だったのだろうか。
 チャペックいわく。「アムステルダムの町の中ほど、数多くの自転車を見たことはなかった。それはもはや動物の大群のようなもの、いわば自転車の群体で、バクテリアの集落とかアメーバの群れとか羽虫の大群に似たようなものになっている。人が街路を渡ることができるように、景観が瞬間的に自転車の流れを止め、それからふたたび大らかに道を開いてやる時、その光景はこの上なく美しい」

110309_172941 「私は自転車にのっている尼僧、自転車にのって牝牛を引っぱっていく農夫をみた。人々は自転車に乗って、ティータイムを楽しみ、子供と犬を運び、恋人たちはペダルを踏みながらたがいに手を握りあって、楽しい未来を夢見る」
110309_173110  オランダは自転車大国だが、チャペックが、この旅行記を書いた1931年からそうだとは知らなかった。チャペックの観察が面白い。「自転車に乗ることが、こんあにまで国民の慣習になっているなら、そのことが国民性にどんな影響をあたえるだろうか」と自問自答しての答えのいくつかを紹介すると、

「あまり苦労せずともよいように、またあまり騒ぎを起こさぬように、滑らかに前進していく」
「誰かと組みになって、または群集となってすすんでいく時でさえ、自転車にのっている人は歩行者よりももっと孤独で閉鎖的である」
「自転車は人々の中に一種の平等性と同質性を組織する」
「自転車は、人々に、慣性または惰性に頼ることを教える」
「そして、人々の中に、布団にくるまっているかのような静けさを求めたいというセンスを育成する」

 
 自転車乗りの人々には、この本の、この部分をお読みになることをお奨めする。読んで苦笑するところと納得するところがあるに違いない。
 自転車がオランダで誰もの交通手段になっているのは、オランダが平らな国だからである。以前、オランダから交換学生できていたフランクがオランダのことを「フラットカントリー」といっていたが、ああいう場所で小さいころから自転車に乗っていれば、たしかに国民性に影響するのではないかと思う。自転車は平等性と同質性と孤独を組織する。
 フランクの自転車の乗り方はうまかった。身体の一部になっているような乗り方をする。山国チェコのチャペックは、「人間が座ったまま進んでいくのをみていると、どこか不自然だと思う」などと負け惜しみをいっているが、こういうのはたしかに「国民性」に影響するのではないか。そして自転車の影響は、よい影響ではないかと思う。

 私はしばらくの間ベルギーにいたことがあり、仕事や観光のためにオランダに何度かいっただけなので、よく知っている訳ではない。アムステルダムとライデンにいっただけ。ただ、チャペックの文章が伝えようとしているオランダの雰囲気はよくわかる。
 アムステルダムの運河の雰囲気は、アンネ・フランクの家の周辺の様子として記憶に残っているが、チャペックが1931年にオランダにいったのは国際ペン大会のチェコ代表として行ったものである。そのころからチャペックはナチスへの文化的抵抗に進み出ている。
 チャペックは、病気で1938年に死去してしまったが、それはナチスのチェコ侵入の三ヶ月前のことであった。妹が大学時代によんでショックを受けた本が、ナチスへのチェコの抵抗運動の日記、フーチクの『絞首台からのレポート』であったことを思い出す。そして、第二次大戦末期のスターリンによる東欧に対する民族的政治家、さらに社会主義政治家に対する殺害を含んだ内政干渉についての歴史も思い出す。我々の世代は、私のような庶民家庭の出身でも、東欧の悲劇を考える条件を、『世界少年少女文学全集』(講談社)の、チャペックの『長い長い郵便やさんの御話』を読んだときからあたえられていた訳だ。

 『オランダ紀行』を読んでいると、チャペックの闊達な気分と若さが印象的である。「ヒトラードイツに対する、高雅なしかし厳しい否認」(140頁)を宣言し、「(118頁)我々と、すべての人に大きな解放と創造の活気の道を開く仕事は、政治にかかっている」ということをチャペックのような人が述べているのを読むのは気持ちを厳粛にさせる。我々の世代の文化の受けとめ方は、個々人によって違っていても、そのルートを最後までたどっていくと、しばしば歴史と政治に結びついていった。現在の日本のからは、そういう文化の重層性と歴史性が失われているように思う。
 『オランダ紀行』を読んでいると、ヨーロッパ文化の伝統的な豊かさと強さは、ヨーロッパがその内部で国際的な経験を提供し、人々に「国民性」を考え、国際的な友愛を考える多くの機会をあたえるという点にあるのではないかという感じをもたせる。東アジアの「平和」は、まだそういう豊かさをもっていないように思う。このシリーズ、『ちくま文庫』の「カレル・チャペック旅行記コレクション」には、イギリス、北欧、スペインがあるということなので、そのうちゆっくり読んでみたい。東アジアとヨーロッパにおける「国際」ということの意味と感覚の違いを考えてみたいと思う。

 昨日は、怒りの感情に左右されて疲れた。怒りは必要であると、私は考える。一人で怒っていても何も変わる訳ではないのだから、馬鹿のような話ではあるが、怒らなければその先は始まらない。しかし、その先が、どれだけ豊かであるかによって、事柄はきまっていくのだろう。

 さて、寒さと仕事、なによりも気分の関係で、ここのところしばらく自転車にのっていないが、出張から帰ったら、今週の週末は乗る積もり。
 日本史研究会のNさんと食事をして、ホテルに帰ってきたところ。明日は今日の続きで府立総合資料館へ、そして昼には御寺へも。今から風呂。

2011年3月 8日 (火)

アメリカ国務省日本部長ケビン、メア氏の発言

 今、京都にむかう新幹線の中。古文書読みのための出張である。新幹線の中でものを考えるのは楽しいが、しかし、HDの中に、アメリカ国務省日本部長ケヴィン・メアが昨年末にワシントンのアメリカン大学の学生相手に行ったという講演の学生による記録の全原文をもってきた。
 これを読んでいると、とても楽しいというようなものではない。新聞は、この全文を翻訳して掲載するべきである。ひごろアメリカとの関係を重視することが「現実主義」であり、「大人」の証拠であるかのようにいい、さらに英語、英語とさけぶ人々の立場を尊重するとすれば、原文も掲載してほしいものだ。なにしろ国務省の日本部長の発言である。センター入試の英語の問題を麗々しく新聞に発表するよりは、ずっと勉強になるに違いない。
 「沖縄の基地はもと水田のまん中にあった。基地を取り囲むように、都市化と人口増大を許したのは沖縄の側の問題だ。海兵隊を移せるところはどこにもない。だから日本政府は沖縄県知事に、金がほしければ、これにサインしろというほかない」
 さらにケビン氏いわく、「軍隊なしの方が世界は平和であると考えている人々が三分の一をしめるような人々と話すのは不可能である」。世界中の人口をとっても、三分の一の人々が、軍隊がなければ、この世は平和であると考えているだろう。アメリカではそうではないのだろう。その理由は、アメリカ人が全体として知性を失うようになった理由とイコールである。
 彼の講演を読んでいると、こういう怒りの反応の方が最初にでてきてしまう。私は、どういう意味においても所属している集団が侮辱されることを甘受するような神経をもってはいない。不愉快きわまるというところである。
 私は、歴史の研究者であってもアメリカ人をみると心穏やかではいられないタイプの人間である。別に怒ることを望んでいる訳ではないが、私は日本国家に所属している。国家というものは、どういう場合でも「共同体」という性格をもつものである。内部に客観的な利害の対立が存在するとはいっても、地理的・歴史的共通性は人々に運命として強制される。もちろん、国家に所属するとはいっても、そこに自己同一化をしている訳ではないが、所属しているということは事実である。
 アメリカの人も、その意味で向こうの「共同体」に属しており、学者であるとはいっても、そういう国家と国家に属する人間として双方が存在しているのはやむをえないことだ。研究者のつき合いにとって、ともかくも国家のガワをとることが不可欠の前提であることはいうまでもない。私は、どのアメリカ人をみても、あなたは、どう考えているのですかということを確認しておかないとものを話す気持ちになれない。
 
 これは何故かといえば、こういう形で繰り返されるアメリカの事務官の発言に対して、普通の政府ならばするはずのコメントを、日本政府がしないからである。今回の場合、とくにひどいのは、「自由民主党の方が、現政権の民主党よりも、沖縄の人々とのコミュニケーションをよくしていたし、沖縄の心労を理解していた」という一節である。これは明白な内政干渉である。
 枝野官房長官は、「事実かどうかコメントする立場にない」とコメントしたそうであるが、これはようするに、事実を認めたくないということである。考えてみると、「内政干渉」という言葉をアメリカに対して使わないというのが、日本の政治家の文化であるという状態を、物心ついてから、50年近くみてきた。民主党は「官僚が悪い」などというが、こういう心情こそがもっとも悪い意味での「官僚主義」の本質であることぐらいはわかりそうなものである。
 しかし、これはそろそろ限度に来ている。あたり前のことをいえない、いわないという状態は、遅かれ早かれ限度に来るものだ。「共同体」は、「共同体」が「あたりまえ」と思っていることについて、それが「あたり前ではない」という発言を聞かされることが続くと、そういう発言をする「共同体外」の存在に対して一致して不快感を表明するようになる。沖縄の政治家は、政治家という職業を続けるために、誰もが不快感を表明さざるをえなくなっている。
 それがどのようにして日本国内に広がっていくかはわからないが、それは意外と早いかも知れない。「政治」とはどのような場合も「共同体」の代表である。日本の政治家が、常識的な抗議をしない姿勢を見せ続けていると、それが「みっともない」ことであるということが常識になっていくと、「あれで代表か、我々と同じ素人ではないか。何だあれは」ということになっていくだろう。この「何だあれは」という論理が、集団代表関係の矛盾が、この5・6年ほどの政治を動かしているように、私は思う。ケビン氏の発言は、この論理が国際関係に適用されるきっかけになるかもしれない。
 さて、それにしても、新聞はもう少しどうにかならないものだろうか。英文を読んでみて思うのは、朝日新聞の「引いた姿勢」である。これは情報を売るというジャーナリズムの職能義務に関わっていると思う。
 講演の要約のうち、上のような内政干渉部分は紹介しない。その上、基本的な問題としてアメリカ軍の基地の占領がそもそも国際法違反であったということはいわない。沖縄では常識になっている普天間基地撤去という要求もいわないだろう。

 ケビン氏が、これだけのことをいいながら、「日本政府が支払っている高いコストはアメリカにとってきわめて有利である」と講演の最後でいっていることも正しくは紹介しないに違いない。アメリカ国務省自身が認めるいういたれりつくせりのお世話をした上で、こういう発言をされているのだということを正確に伝えない。必要な主張をしないジャーナリズムは偽物である。

 さらに以下に引用するような発言も紹介しない。一体、どういうことかというところである。
「沖縄はもっとも離婚率と出生率が高く、アルコール度の高い酒をのむ習慣によって酒酔い運転の率も一番高い」
 沖縄の人々の強い意思表明をうけて新聞がどのような「社説」なるものを書くかが楽しみである。
 まだ、静岡を過ぎたところ。仕事に戻ろうと思う。
 しかし、これを書いていて、そして、これはどういうことかと考えているうちに、徐々に怒りはおさまってきた。考えてみれば、こういう直接的な怒りを、活字をもって社会的に述べ立てたことは、これまでなかったと思う。小さな人間の小さな怒りであるが、怒りの感情が直接にPCの中に入って、そして、京都のホテルについてネットワークに接続すれば、それが外側になまの形で伝わっていくというのは、自分の履歴の中でははじめてのことである。考えてみれば、これは本当に面白いことだ。
 馬鹿なことに、怒ってお腹がすいた。しかし、上の「離婚率云々」を翻訳してまた怒る。そんなことはアメリカ国務省にいわれたくない。

  ホテルについて、テレビをみたところ枝野氏は「発言が事実とすれば云々」と述べたと、「事実を確認する立場にない」から「発言が事実とすれば」というのは絵に描いたような官僚主義。

2011年3月 3日 (木)

『ゲド戦記』の翻訳(2)

 アーシュラ・K・ル・グィンの”Earthsea”シリーズ、『ゲド戦記』全5巻の最終巻「The Other Wind」を、このごろベッドでよく読む。
 『ゲド戦記』は子供たちが好きであったので、私も読んだ。もう15年ほど前になるのだろうか、『ゲド戦記・最後の書』とされた『テハヌー』がでて、それで終わりと、私も思っていた。
 ところが、その後、7・8年で、『Dragonfly』という新しい中編がでて、11年目に『The Other Wind』(日本語訳『アースシーの風』)という本当の結論編がでて、この”Earthsea”の世界のすべてが安着したという感じになった。たしかに、これで”Earthsea”の世界は、その全体の構造と歴史が明らかになったのである。こうして、話は、さらに読みやすくなったので、私のように繰り返して読むということになった人も多いに違いない。
 しばらく前も翻訳の間違いに気づいて、このブログに書いたが、以下も、同じ。翻訳の間違いをいうのは、(私の指摘が正しいかどうかの問題がまずあるし)、勝手に読んでいればいいということでもあるので、あまり感じのよいことではないと思うが、このシリーズは読んでいる人も多く、一種の共有財産でもあるので、趣味として指摘することはかまわないのではないかと思う。御許しいただきたい。

 さて、この物語は、龍と人間はもと同一の存在であって、龍は自由と空、人間は世俗と地上を選んだというファンタジーにもとづいている。この分離にともなって、世界は龍の領分と、人間の領分に分けられたが、よこしまに永生を望んだ魔法使いが、龍の領土をかすめ取り、そこを魔法の石壁で囲い込んだという。そこで永遠に人間は生きることができるはずであったが、その壁の中は光もささず、物が動くことはない、影の世界にしかすぎないことがわかった。そして、この詐取以降、死んだ人間は大気と大地の中に解放されるのではなく、ただの幽霊、スピリットとして固定されて、そこに居続けるということになっているというのが、物語の設定である。
 そのうち、必然的に死者たちが生者たちに呼びかける時がきて、この石壁を壊して欲しいという。最愛の妻を産褥でうしなったアルダーという男が、妻に呼びかけられ、石壁を越えて妻を抱擁し、やけどをおい、心身の危機をかかえる。
 他方、龍と人間の二重性をもった存在として、この世で生きたまま焼かれた経験をもつ少女、龍に転生した女性が登場し、彼女らが、分断された世界を修復する上で大きな役割をになうという物語のもう一つの動きが展開する。

 以上、こうまとめてみると、まったくの作り物語りのようで、荒唐無稽の感もあるが、こういう「世界分割」の謎という設定は、実は、この第五巻で明らかにされたものである。その前の四巻の物語は物語としての説得性があり、その上での五巻なので、物語を読んでいる中では荒唐無稽という感じはしない。しかも、上記の設定は、第五巻で、その背景としてはじめて説明されるものなので、一種の謎解きでもあり、フィクションとしての完成度はきわめて高いということができる。
 「焼かれた少女」の名前はテハヌーというが、私は、ベトナム戦争の時、背中に炎をしょって、アメリカ軍の爆撃から走って逃げてくる少女(当時はよく知られた写真であった)のことを思い出す。ル・グィンも彼女のイメージが焼き付いているのではないかと思うのが、同世代の感じ方。なお、この『ゲド戦記』の最終巻は、ル・グィンの近年の作品、『ギフト』などで完成されるフェミニズム・ファンタジーへの傾斜がきわめて高いもので、その点でも成功している。

 さて、翻訳の問題だが、この最終巻は清水真砂子氏の翻訳で岩波書店から『アースシーの風』という題で発行されている。これ以前の巻については、とくに変だなと感じることはなかったのだが、この巻の翻訳は、英語の方を先に読んでいたこともあってか、気になることが多い。

 下記に掲げたのは、物語の大団円に近いところ。世界を分割する石壁を越えた死者の声が人々に聞こえるようになった状況。そういう状況の中で、アルダー(ハンノキ殿)アルダーを囲んで魔法使いたちがいるという場面である。
 まず娘に入力してもらった英語の原文、ついで、娘の翻訳に私も手を加えさせてもらったもの、最後に清水さんの翻訳。

"I could reach my hand out to the wall," Gamble said in a very low voice, and Seppel said, "They are near, they are very near."
"How are we to know what we should do?" Onyx said.
Azver spoke into the silence that followed the question. "Once when my lord the Archmage was here with me in the Grove, he said to me he had spent his life learning how to choose to do what he had no choice but to do."
“I wish he were here now,” said Onyx.
“He’s done with doing,” the Doorkeeper murmured, smiling.
“But we’re not. We sit here talking on the edge of the precipice――we all know it.” Onyx looked round at their starlit faces. “What do the dead want of us?”
“What do the dragons want of us?” said Gamble. “These women who are dragons, dragons who are women――why are they here? Can we trust them?”
“Have we a choice?” said the Doorkeeper.
“I think not,” said the Patterner. A edge of hardness, a sword’s edge, had come into his voice. “We can only follow”
“Follow the dragons?” Gamble asked.
Azver shook his head. “Adler”
“But he’s no guide, Patterner!” said Gamble. “A village mender?”
Onyx said, “Adler has wisdom, but in his hands, not in his head. He follows his heart. Certainly he doesn’t seek to lead us.”
“Yet he was chosen from among us all.”「
“Who chose him?” Seppel asked softly.
The Patterner answered him: “The dead.”
They sat silent. The crickets’ trill had ceased. Two tall figures came towards them though the grass lit grey by starlight. “May Brand and I sit with you a while?” Lebannen said. “There is no sleep tonight.”

私たちの試訳
 「手を伸ばせば、石垣に触れるくらいでしたよ」。ガンブルが、ぐっと低い声でそういった。「近づいてきている。とても近くに」とセペルが応えた。
 「どうしたらよいでしょう」。オニキスが言った。
 押しだまった魔法使たちにむかって、アズバーは「大賢人(ゲド)がこの森にいらした時に、おっしゃったのは、なすべきことをどう選ぶか、それを学ぶ事に生涯をついやしてきた、と」
 「あの方が今ここにいたらどんなに良いか」。そうオニキスが言った。
 「あの方はもう、なずべき事を成就されましたから」。守りの長が、微笑みながら、そう呟いた。
 「私たちは、いま行動すべきなのにーー。ただ話している。危機はわかっているのに」オニキスはぐるりと周りを見渡し、星明かりに照らされた彼らの顔を見やった。「死者たちは、我々に何を望んでいるのでしょう?」
 「竜たちは、我々に何を望んでいるのでしょう?」。ガンブルがいった。「彼女たちは竜で、竜が女に姿を変えて――なぜ、ここにいるのです? 信用しても良いのでしょうか」
 「我々に選択の余地があるとでも?」守りの長が言った。
 「ない」と、様式の長が言う。その声には、硬い刃の切っ先のような鋭さがあった。「私たちにできるのは、ただついて行くだけだ」
 「竜に?」ガンブルが聞いた。
 アズバーが首を振った「ハンノキ殿に」
 「しかし、様式の長殿、村のまじない師に案内は無理です」とガンブルはいった。
 それに対してオニックスは「ハンノキ殿はかしこい方です。たんに知識のことではなく、手の知恵をお持ちです。とはいっても、彼は彼の心にしたがっているので、私たちをリードしようとはしないでしょうが」といった。
 「しかし、彼こそが選ばれた」
 「誰によってとおおしゃるのですか」とセペルがそっとたずねた。
 様式の長が、それに答えた。「死者たちに」。
 そのまま彼らは黙って座り込み、いつしかコオロギの声も途絶えていた。二つの大きな人影が、月明かりに銀鼠に輝く草をかき分け、こちらへと近づいてきた。「ブランドと私も、しばらくご一緒してよろしいでしょうか」。レバンネンが言った。「どうも今夜は、眠れそうにないようです」

清水真砂子氏の翻訳
 「手をのばしたら、石垣にさわりましたよ。」ガンブルがごくごく低い声で言った。
 「そうです、すぐそばまで来ているのです。」セペルが答えた。
 「どうすればいいのでしょう?」オニキスが言った。
 誰も答えなかった。と、アズバーが口を開いた。「昔、大賢人がこの森に来られたとき、大賢人はわたしにおっしゃいました。どうしてもしなければならないことをどうやって見分けるか、それを学ぶのに全生涯をかけてきた、と。」
 「あの方がここにいてくださったら。」オニキスが言った。
 「あの方はなすべきことをすでになしおえられました。」守りの長がつぶやいた。その顔には笑みが浮かんでいた。
 「それなのに、わたしたちはとりかかってもいない。危機に瀕しているというのに、こんなところにすわってしゃべっている。……そのことにはみんな気づいているはずなのに。」オニキスは星あかりに浮かぶ魔法使いたちの顔を見まわした。「死者たちはいったいわたしたちに何を求めているのです?」
 「竜たちは何を?」ガンブルが言った。「あの女たちは竜なんでしょう? 竜が女に姿を変えているんでしょう? なぜ、あの者たちはここにいるのです? だいたいあの者たちを信用していいんですか?」
 「この期におよんで、信用するかしないかが選べますかな?」守りの長がきいた。
 「それはできますまい。」様式の長が答えた。その言い方には固い剣の刃を思わせる鋭さがあった。「できるのはついていくことだけです。」
 「ついていくって、竜にですか?」ガンブルが聞いた。
 アズバーが首を横に振って、言った。「ハンノキ殿に。」
 「まさか、様式の長殿、ハンノキ殿に道案内は無理です。」ガンブルは言った。「あの人は田舎の修繕屋にすぎないじゃありませんか?」
 するとオニキスが言った。「ハンノキ殿には智恵があります。頭ではなく、その手に。ただ、ハンノキ殿はその心のおもむくところにしたがっておられる方だ。わたしたちの先に立つことは嫌なのでは?」
 「でも、みんなから選ばれたとおっしゃるんですね。」
 「誰が選んだのです?」セペルがそっときいた。
 「死者たちです。」様式の長が彼に答えて言った。
 一同は三たび沈黙した。コオロギの鳴き声もいつか聞こえなくなっていた。背の高いふたつの人影が星あかりに銀白色に輝く草をかきわけて、魔法使いたちのほうに近づいてきた。「しばらく同席させていただいてもよろしいですか、ブランドとわたしと。」レバンネンが言った。「今夜は眠れそうにないもので。」

 問題は、上記の清水真砂子氏の翻訳の後ろから9行目ほどのところ。清水訳では「でも、みんなから選ばれたとおっしゃるのですね」となっている部分。この部分がおかしいように思う。清水訳は、この発語者をガンブルという若い魔法使いの発言と理解しているようである。「選ばれたとおっしゃるのですね」とある以上、直前の発語者のオニクスへの質問であることになる。そして、ここで「おっしゃる」という敬語を使うのは、若いガンブルであるとしか考えられない。
 しかし、この発語者は「様式の長アズハー」(パターナー)である。そして、「しかし、彼こそが選ばれた」と訳すべきであろう。この断言に対して、「誰にですか」とセペルがたずね、それに答えたのがパターナーである以上、このの発語者がパターナーであることは明かである。
 これらは、オニクス、様式の長アズハー(パターナー)、ガンブル、セペルという主要な登場人物の発語の書き分けに関わるもので、清水訳は、その書き分けが曖昧で、意見が違う。英文と対象していただければと思う。

 翻訳というものは、私の仕事の編纂と似ているという感じ。異言語と歴史史料の違いはあれ、対象の中に感覚的に没入していくという過程が先行する。それはとくに古文書などの編纂などの場合に強く感じられるのかもしれないが、知性の仕事であるとともに、感性の仕事であると感じる。いわば自分を無にすることだが、逆に自分をその古文書の筆者と同一化する努力の中で、それをするということである。いままでこんな風に考えたことはなかったが、そう文章にしてみると、たしかに似ていると思う。
 さて、昼休み終わり。仕事、仕事。

2011年3月 1日 (火)

火山地震(4)ー日向の前方後円墳の軸線?

 今、帰りの総武線。
 考古学のブログ、「私的な考古学」をみていたら、前方後円墳が火山をもした「山」ではなかったかという私説への言及を発見。しかも、このブログは「前方後円墳=山」論の論者として、『かぐや姫と王権神話』でも参照した北条芳隆氏のブログであった。
 考古学のブログは、「私的な考古学」というブログと「北の考古学」というブログの二つを最近みるようになった。「私的な考古学」が北条さんのブログであることは、今回、プロフィールをみてはじめて知った。どちらも内容がある。そして仕事の現場紹介という意味では、このブログと似ている。
 北条氏の「前方後円墳=火山説」へのコメントはたいへんにありがたい。エイヤっと言い切ったことへの始めての学問的反応である。それは次のようなもの。

 併せて保立道久氏の『かぐや姫と王権神話』(洋泉社)と『黄金国家』(青木書店)を読み始めています。保立氏の前著は竹取物語の成立の背景を古代の王権論との関わりのなかに探るという魅力的な著作ですが、そのなかに、前方後円墳が火山を模した「山」ではなかったか、という仮説が提示されていたのには驚きました。仮説として有効かどうかについて即断はできませんが、沼津市界隈の前方後円(方)墳の軸線が富士山の山頂に向けられている事実や、埼玉稲荷山古墳の中軸線も富士山に向かう事実を想起させるものでした。こうした事実を文献史学の専門家である保立氏がご存じかどうかは不明ですが、古墳と火山との関係について明確な解釈を与えた目下唯一の作業ということになるかもしれません。また後者の本は表題から受ける印象とは異なって理論的な展開の書。読み応えがあります。

 これはまったく知らなかった。実は、『かぐや姫と王権神話』を執筆したとき、「前方後円墳=火山」という「仮説」がすでに存在するかどうかは重大な問題なので、人を介し、あるいは紹介をしてもらって考古の方にも意見をうかがった。しかし、そういう仮説は聞いたことがないということであった。
 もしこういうことがあるのだとすると、日本中の前方後円墳の方位と、その地域における火山の位置の関係を調査してみれば、「前方後円墳=火山」という仮説の当否の一定部分が判明することになる。
 霧島火山帯の側の日向の古墳はどうなのだろうか。これはすぐにも調べてみたい問題だ。

  調べてみると、日向の古墳の軸線は北をむいていて、霧島連峰の方を向いている古墳はほとんどない。北条さんが奈良女のシンポジウムで展開している古墳方位論、都出比呂志氏の「北枕」論をふくめて、慎重に検討したい(追記、翌日)。


 もし一致する部分があれば、それは歴史時代における火山の爆発の記憶の痕跡を示すことになるから、あるいは自然科学的な火山学にとっても意味があることかも知れない。古墳時代の火山爆発などは記録がない訳だから、もし前方後円墳の軸線線上に火山があれば、それは古墳時代の記憶を示すことになる。はるか昔の人々の自然についての記憶が発掘できるというのは歴史学にとっても決定的な問題である。
 
 富士山といえば、昨日、職場の友人と銭湯の富士山のペンキ絵の話をしていた。彼女によると、この風習は、それなりの伝統があるかもしれないということであった。あとで考えたが、オオナムチ(大国主命)が火山の神と温泉の神を兼ねていたように、「火山」と「お湯」はセットなのではないかと思う。火山をみながら温泉に入るという美意識があるのではないだろうか。
 先日、伊藤克己氏から、彼が代表をしている日本温泉文化研究会編集の『温泉をよむ』(講談社現代新書)をいただいた。これは本当に面白い本で、温泉に表現される日本の伝統文化の破壊というものをどう考えるかはきわめて大きな問題である。この本が、それを論じる姿勢に共感する。そして、考えてみれば、温泉論は火山論に直結する。

武人のハニワ像ーー奈良茅原大墓古墳

 110301_092005 朝、総武線の中。2月25日の朝日新聞朝刊によると、四世紀の埴輪像で、武人を形容したものが出土したという。奈良県桜井市の茅原大墓古墳(全長86メートル)。古墳の東側のくびれ部で数百の埴輪片が見つかったのを組み合わせたところ、高さ67センチ、幅50センチの武人と判明。いわゆる「盾持人埴輪」である。顔の部分は縦17センチ、横16センチ。目やほおの周りに赤い顔料が残っていた(これは酒を呑んだというしるしだろうか)。一緒に置かれていた円筒埴輪から、古墳時代中期初め(4世紀末)の製作と推定されるという。これまで、このような埴輪の事例は5世紀初めから前半の拝塚古墳(福岡市)や墓山古墳(大坂羽曳野)。関東地方を中心に50箇所近くから100体以上が出土しているが、これはこれまででもっとも古い武人像の埴輪であるという。
 武士の埴輪についての研究がどうなっているのかはまったく知らないが、やはり気になるのは、伊豆国神津島の噴火関係史料に次のようにみえることである。

 また山岑に一院一門あり。その頂に人の坐する形の如き石あり。高さ十許丈、右手に剣を把み、左手に桙をもつ。その後ろに侍者あり。跪き貴主を瞻る(見る)。その辺、嵯峨にして通達すべからず。

 

 ようするに火山山頂部分に「院」、つまり建物の区間らしきものがあり、門がある。そしてその中でもひときわ高いところに、人が座っているようにみえる石がある。その石の高さは30メートル以上、武人は右手に剣をつかみ、左手には鉾をもっている。そしてその後ろに従者がいて、跪いて主人の武人を見守っているようにみえる、ということである。
 火山幻想の中に、武人の像が登場することは、前方後円墳の埴輪に武人像があることと対応しているのではないだろうか。普通に考えれば、埴輪で武人の像を造るというのは、古墳の被葬者に現世でつかえていた武士の姿を模造したもので、それは現世の延長ということになる。たしかに、人間の幻想が作り出したものという意味では、神話世界は現世の延長である。しかし、この幻想には特定の根拠があるはずであって、神話は、現世の姿と生活をそのまま映し出すという訳ではなく、幻想を通じて変形し、かつ転倒された姿をもつことはいうまでもないだろう。
 そこには、神話世界をあたかも現実であるかのように考えたり、感じたりする現実があったに違いない。その場合、火山の噴火の中で造られた磐の形が幻想の種となるというのは、十分にありうることだと思う。
 私見によれば、列島社会の山の神話は、磐座の神話という性格をもっているが、さらにその先には、火山神話がある。磐座にはさまざまな形をしたものがあるから、磐座の信仰のレヴェルで、怪異な姿をした磐を武人と観念したということはあってもよい。しかし、火山の噴火によって、そのような姿ものが作り出されたという神秘感ほど説得的なものはないだろう。人は、その生成の現場をみることなしに、幻想を固定することはないのではないか。そして、そういう記憶は個人の中のみではなく、集団の内部に蓄積され、一つの幻想の体系となっていくのではないだろうか。
 先日の座談会で赤坂憲雄氏に野本寛一氏の磐座についての分析が参考になるのではないか。民俗学で火山論に関係する仕事をしているのは野本さんであろうと教えられる。さっそく野本さんの『石の民俗』を見てみるつもりが、諸事にまぎれてまだになっている。山と磐座の幻想が火山幻想に展開する諸様相を考えてみたい。

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