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2011年3月 8日 (火)

アメリカ国務省日本部長ケビン、メア氏の発言

 今、京都にむかう新幹線の中。古文書読みのための出張である。新幹線の中でものを考えるのは楽しいが、しかし、HDの中に、アメリカ国務省日本部長ケヴィン・メアが昨年末にワシントンのアメリカン大学の学生相手に行ったという講演の学生による記録の全原文をもってきた。
 これを読んでいると、とても楽しいというようなものではない。新聞は、この全文を翻訳して掲載するべきである。ひごろアメリカとの関係を重視することが「現実主義」であり、「大人」の証拠であるかのようにいい、さらに英語、英語とさけぶ人々の立場を尊重するとすれば、原文も掲載してほしいものだ。なにしろ国務省の日本部長の発言である。センター入試の英語の問題を麗々しく新聞に発表するよりは、ずっと勉強になるに違いない。
 「沖縄の基地はもと水田のまん中にあった。基地を取り囲むように、都市化と人口増大を許したのは沖縄の側の問題だ。海兵隊を移せるところはどこにもない。だから日本政府は沖縄県知事に、金がほしければ、これにサインしろというほかない」
 さらにケビン氏いわく、「軍隊なしの方が世界は平和であると考えている人々が三分の一をしめるような人々と話すのは不可能である」。世界中の人口をとっても、三分の一の人々が、軍隊がなければ、この世は平和であると考えているだろう。アメリカではそうではないのだろう。その理由は、アメリカ人が全体として知性を失うようになった理由とイコールである。
 彼の講演を読んでいると、こういう怒りの反応の方が最初にでてきてしまう。私は、どういう意味においても所属している集団が侮辱されることを甘受するような神経をもってはいない。不愉快きわまるというところである。
 私は、歴史の研究者であってもアメリカ人をみると心穏やかではいられないタイプの人間である。別に怒ることを望んでいる訳ではないが、私は日本国家に所属している。国家というものは、どういう場合でも「共同体」という性格をもつものである。内部に客観的な利害の対立が存在するとはいっても、地理的・歴史的共通性は人々に運命として強制される。もちろん、国家に所属するとはいっても、そこに自己同一化をしている訳ではないが、所属しているということは事実である。
 アメリカの人も、その意味で向こうの「共同体」に属しており、学者であるとはいっても、そういう国家と国家に属する人間として双方が存在しているのはやむをえないことだ。研究者のつき合いにとって、ともかくも国家のガワをとることが不可欠の前提であることはいうまでもない。私は、どのアメリカ人をみても、あなたは、どう考えているのですかということを確認しておかないとものを話す気持ちになれない。
 
 これは何故かといえば、こういう形で繰り返されるアメリカの事務官の発言に対して、普通の政府ならばするはずのコメントを、日本政府がしないからである。今回の場合、とくにひどいのは、「自由民主党の方が、現政権の民主党よりも、沖縄の人々とのコミュニケーションをよくしていたし、沖縄の心労を理解していた」という一節である。これは明白な内政干渉である。
 枝野官房長官は、「事実かどうかコメントする立場にない」とコメントしたそうであるが、これはようするに、事実を認めたくないということである。考えてみると、「内政干渉」という言葉をアメリカに対して使わないというのが、日本の政治家の文化であるという状態を、物心ついてから、50年近くみてきた。民主党は「官僚が悪い」などというが、こういう心情こそがもっとも悪い意味での「官僚主義」の本質であることぐらいはわかりそうなものである。
 しかし、これはそろそろ限度に来ている。あたり前のことをいえない、いわないという状態は、遅かれ早かれ限度に来るものだ。「共同体」は、「共同体」が「あたりまえ」と思っていることについて、それが「あたり前ではない」という発言を聞かされることが続くと、そういう発言をする「共同体外」の存在に対して一致して不快感を表明するようになる。沖縄の政治家は、政治家という職業を続けるために、誰もが不快感を表明さざるをえなくなっている。
 それがどのようにして日本国内に広がっていくかはわからないが、それは意外と早いかも知れない。「政治」とはどのような場合も「共同体」の代表である。日本の政治家が、常識的な抗議をしない姿勢を見せ続けていると、それが「みっともない」ことであるということが常識になっていくと、「あれで代表か、我々と同じ素人ではないか。何だあれは」ということになっていくだろう。この「何だあれは」という論理が、集団代表関係の矛盾が、この5・6年ほどの政治を動かしているように、私は思う。ケビン氏の発言は、この論理が国際関係に適用されるきっかけになるかもしれない。
 さて、それにしても、新聞はもう少しどうにかならないものだろうか。英文を読んでみて思うのは、朝日新聞の「引いた姿勢」である。これは情報を売るというジャーナリズムの職能義務に関わっていると思う。
 講演の要約のうち、上のような内政干渉部分は紹介しない。その上、基本的な問題としてアメリカ軍の基地の占領がそもそも国際法違反であったということはいわない。沖縄では常識になっている普天間基地撤去という要求もいわないだろう。

 ケビン氏が、これだけのことをいいながら、「日本政府が支払っている高いコストはアメリカにとってきわめて有利である」と講演の最後でいっていることも正しくは紹介しないに違いない。アメリカ国務省自身が認めるいういたれりつくせりのお世話をした上で、こういう発言をされているのだということを正確に伝えない。必要な主張をしないジャーナリズムは偽物である。

 さらに以下に引用するような発言も紹介しない。一体、どういうことかというところである。
「沖縄はもっとも離婚率と出生率が高く、アルコール度の高い酒をのむ習慣によって酒酔い運転の率も一番高い」
 沖縄の人々の強い意思表明をうけて新聞がどのような「社説」なるものを書くかが楽しみである。
 まだ、静岡を過ぎたところ。仕事に戻ろうと思う。
 しかし、これを書いていて、そして、これはどういうことかと考えているうちに、徐々に怒りはおさまってきた。考えてみれば、こういう直接的な怒りを、活字をもって社会的に述べ立てたことは、これまでなかったと思う。小さな人間の小さな怒りであるが、怒りの感情が直接にPCの中に入って、そして、京都のホテルについてネットワークに接続すれば、それが外側になまの形で伝わっていくというのは、自分の履歴の中でははじめてのことである。考えてみれば、これは本当に面白いことだ。
 馬鹿なことに、怒ってお腹がすいた。しかし、上の「離婚率云々」を翻訳してまた怒る。そんなことはアメリカ国務省にいわれたくない。

  ホテルについて、テレビをみたところ枝野氏は「発言が事実とすれば云々」と述べたと、「事実を確認する立場にない」から「発言が事実とすれば」というのは絵に描いたような官僚主義。

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