9世紀火山地震(7)ー貞観東北地震の前年、播磨の地震
今、朝の総武線。昨日は、「計画停電」のため、終日、電車が動かず自宅。
貞観陸奥国大地震は貞観11年。その前年、貞観10年(868)の地震の状況を『三代実録』から紹介する。
貞観10年(868)に京都で体感された地震は、総計20回。貞観地震という場合は、貞観年間のこれらの地震全体を考える必要があることになる。
この20回のほとんどはただ「地震」とあるだけであるが、7月8日の記事はやや詳しく「地震、動内外墻屋、往々頽破」とある。これは「(京都で体感された)地震が内外の垣根や家屋を揺り動かし、往々にして崩れた」ということで、この地震は、相当の震度をもった地震であったのだろう。震度5くらいはあったのであろうか。他の記事よりも震度が高かったことは確実である。
注目されるのは、その七日後、貞観10年7月15日の『三代実録』の記事に、「播磨國言う。今月八日に、地大いに震動す。諸郡の官舍、諸定額寺の堂塔、みなことごとく頽倒す」とあることである。同じ7月8日のことであるから、これは八日、京都で体感された地震の震源地が、播磨国に近かったことを明示している。
「播磨国では、郡役所などの役所や寺院の堂や塔がほとんどみな倒れた」という訳である。播磨国では相当の激震であったものと思われる。当時の建物は木造であるから、山崩れなどがあれば別だが、地震だけでは死傷事故は起きなかったのであろう。人々の死傷の記録はない。しかし、これは相当の激震であったことは明らかである。
京都で体感された地震と震源地の情報を組み合わせることができるという意味では、この7月8日播磨国地震は、貴重な史料ということになる。京都で体感された20回の地震のうち、ほかの19回の地震の震源地がどこであったかはわからないが、その震源地の一部では、播磨国ほどではないとしても、ある程度は揺れたと想定してよいと思う。
以下、貞観10年の地震記事をすべて書き抜いておく。
4月13日「地震」、4月28日「地震」、5月19日「地震」、7月8日には「地震、動内外墻屋、往々頽破」、7月9日「地震」、7月12日「地震」、7月13日「地震」、7月16日「地震」、7月20日「地震」、7月21日「地震」、8月10日「地震」、8月12日「地震」、8月14日「地震」、8月16日「地震」、8月29日「地震」、9月7日「地震」、10月27日「是夜、地震」、11月27日「地震」、12月1日「地震」、12月10日「地震」、12月16日「地震」
ほとんど「地震」と書いてあるだけだが、これは陰陽寮が記録をとっていたものと思われるので、相当に正確な記録であろう(和暦で掲げているので、西暦だと約一ヶ月後にずらす)。
地震科学の方で、どう処理しているかは分からないが、これらは播磨国地震をふくめて、翌年、貞観11年陸奥国大地震と間接的には若干の関係があるものが含まれているのだと思う。貞観陸奥国地震の規模の大きさは、こういう点からもわかるのであろう。
精査した訳ではないが、『三代実録』は地震の記事が詳しいように思う。これは『三代実録』の編纂の中心であった菅原道真の意向があるのだろうか。
彼が若い時にうけたペーパーテスト、方略試の設問の一つが、「地震を弁ぜよ」であった。注目されるのは、その方略試が貞観12年、つまり貞観地震の翌年であることである。
この年に、こういう問題が出されたというのは、当時の朝廷や知識人が、その段階では、前年の地震を重要な問題として認識していたことを示している。
もう少し調査してあらためて報告するが、道真は、この時、26歳 。成績は中の上であったという。方略試の対策(答案)は、内容はもとより、文章表現や論理展開などについて非常にきびしく審査されるので、これは好成績にぞくするとのことである(藤原克己『菅原道真』ウェッジ選書)。
これは道真が「大地動乱の時代」をどう考えたか、感じたかを分析する上で精査を必要としている。あるいは、道真には一種のボーデンロース、地盤喪失感覚があるのであろうか。
いま、錦糸町。これを書いていて思うのだが、陸奥国の地震、播磨国の地震、また昨日ふれた肥後国の地震などの漢文史料は、各地の小学校で教えればよいと思う。陸奥国の小学生は陸奥国の地震史料を読み、播磨国の小学生は播磨国の地震史料を読む。
御寺の方々とよく話すのは、小学校で漢文と書道の教育を重視してほしいということ。そういう形で、小学校のころから、日本の国土と自然の歴史を記憶の中に入れておくおくことは、長期的にみて大きな意味があると思う。歴史は「暗記物」だというのは、普通、悪い意味でいわれるが、大事な記憶を選んで身に刻むというのは、人間の基本だと思う。
これらの地震記事を読んでいると、9世紀、播磨国・肥後国・陸奥国の国の人々が同じ「大地動乱」の中で、同じ自然的運命の下にいたのだという事情がわかる。道真は、それを認識していたのであろう。
現代は、そのような感じ方を、地域をこえた列島レヴェルでの連携と協同の感覚としてとらえ直すことができるはずの時代である。そして、そのさい過去を認識しているかどうかは大きい。
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